日記抄(12月24日~31日)

12月31日(水)晴れ

 12月24日から本日までの間に経験したり、考えたりした事柄:
12月24日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の時間でlottery scam(宝くじ詐欺)の話題が取り上げられていた。講師の杉田敏さんはアメリカ在住中に、宝くじに当たりましたという電話を時々受けたという話であるが、私は日本で、この種のメールを何度も受け取った記憶がある。英語がよく分からないのでそのままにして置いたのであるが、英語ができなくてよかったと思うこともあるのである。

12月25日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「インタビューで学ぼう!イタリア語」ではヴェローナ生まれで現在パリで活躍中の衣装家アリーチェ・アンセルミさんのインタビューを放送した。彼女が師事した衣装家のヴェーラ・マルゾットさんは、衣装家の仕事にはun grande senso dell'umorismo(大いなるユーモアのセンス)が必要だといっていたそうである。フェリーニの映画『81/2』をミュージカル化した『ナイン』では衣装家の女性が主人公の監督にとって重要な助言者の役割を演じていたが、いかにもありそうなことである。『81/2』ではどうだったのか、記憶がなくなってしまっているのが残念なところで、映画は1度ならず何度も見直さないといけないという教訓を与えてくれる。

12月26日
 昨日と同じく、「インタビューで学ぼう!イタリア語」で、アンセルミさんがイタリアでもフランスでもみんながデザイナー(stilista)になりたがって、縫いて(sarto)になりたがらないのが問題であるといっていたのが印象に残る。おなじような問題は日本にも、他の業界にもありそうである。

12月27日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では「ダイヤモンド」が話題として取り上げられていた。放送中には触れられなかったが、テキストの中のpolish[~を研磨する]という動詞に関連して、「太宰治の『富嶽百景』の中に『金剛石も磨かずば』という唱歌が出て」くるという話題が取り上げられている。この歌は、田辺聖子さんの自伝的な小説『私の大阪八景』の中のエピソードの一つで印象的に使われているので、探してみてください。

12月28日
 12月22日の当ブログで『春香伝』について触れ、読むつもりであると書いたので、有言実行のみと読み始めた。文章が凝っているので、なかなか読み進むことができない。訳文が凝っているということは、原文もおそらくはそうなのだろう。ただ、文章に凝るよりも描写をもっと精緻にした方がよいのではないのかという個所がないわけではない。
 
12月29日
 12月22日の当ブログで『春香伝』を日本の文学と比較するのであれば、馬琴あたりが適切なのではないかと書いたが、問題はもう少し複雑かつ繊細であるかもしれない。文学作品としてまとまった体裁にならず、語り物や浄瑠璃の台本という形でしかないけれども、『朝顔日記』と比較してみるのがいいのではないかと思い始めた。

12月30日
 109シネマズMM横浜で『ゴーンガール』を見る。結婚記念日に妻が謎の失踪を遂げ、夫婦仲がよいとは言えなかった夫が嫌疑を受ける。観客には事件の真相がわかっているが、登場人物にはわからないという設定で、ドラマが展開する。凝った筋立てであるが、それが必ずしも成功しているようには思われない。作中ところどころに、アメリカにおける社会階級と文化の違いの問題が出てくるのが興味深かった。

12月31日
 ニッパツ三ツ沢球技場で第93回全国高校サッカー選手権の1回戦、日大藤沢高校(神奈川)対徳島市立高校、東京都市大学付属塩尻高校(長野)対高川学園高校(山口)の対戦を観戦する。それぞれ接戦であったが、とくに第1試合はPK戦となり、6人目で決着がつくという展開で見応えがあった。

 大晦日に関連して、いくつか俳句を詠んでみたが、西鶴の「大晦日 定め無き世の 定めかな」を超えるものは、やはりできない。
閑居して不善重ねて大晦日
大晦日テールランプの赤い色
春遠し落第書生の大晦日
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日付が変わる瞬間

12月30日(火)晴れ、温暖

 こたつむりさんの「心のうた|みよ@こたつむりが詠む詩集」に「今日が暮れてゆく」という詩が出ていた。コメント欄に返歌のつもりで詩を書こうかと思ったが、自分のブログの方に掲載することにした。こたつむりさんは朝、日の出とともに1日が始まり、日暮れとともに1日が終わるそういう時間を見つめているが、私のほうは時計ばかり気にしている。

日付が変わる瞬間

今日が昨日になり
明日が今日になる
その瞬間
時計の針を見つめているのは特別の場合だけ

もう寝ている人もいるだろうし
床の中で眠れない夜を過ごし始めている人もいるだろう
夜の仕事を慎重に進めている人もいるし
まだまだ勉強しなければと机に向かっていたり
酔いに任せて通りを歩き回ったり
行き場のないままにさまよいつづけたり
深夜とはいっても過ごし方は千差万別

毎日毎日
同じことを繰り返す人生もあれば
日々新しい挑戦を続けていく
人生もある

みじかいと思ったり
長いと思ったり
速いと思ったり
遅いと思ったり
自分の都合で勝手に
気持ちを弄り回している人間たちの間を

時間は無言で流れてゆく

東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく』

12月29日(月)雨のち曇り、寒い

 東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく』を読む。

 東大史料編纂所は1869(明治2)年に明治政府によって修史事業を行うために開設された史料編纂国史校正局が、1888(明治21)年に帝国大学(現在の東京大学)の研究機関となり、その後何度かの改編を経て、1950(昭和25)年に現在の形になった伝統ある機関で、1901(明治34)年以来刊行され続けている『大日本史料』『大日本古文書』に代表される、日本史の専門研究者たちの研究の土台となるような資料集を刊行することが主な仕事である。

 一口に史料の編纂というが、史料を見つけ出すこと、解読すること、その年代や歴史的文脈を考察し、位置付けることは高度な能力を要する研究活動である。史料編纂所には50人を超える専門の研究者たちが在籍し、史料編纂に携わるとともに、それぞれが個性豊かな研究活動を展開している。この書物は、史料編纂所の所員たちの資料集自体からはなかなか窺うことのできない、多様な研究テーマの様相を紹介することである。と同時に、そうした研究に触れることで、研究者に対する示唆を与え、さらに多くの人々に日本史研究の持つ魅力を知らせようというものである。

 この書物は、おおよそのテーマから、史料、対外関係、宮廷、幕府・武家、民衆の5章に分けられ、それぞれの章の中では、ほぼ時代順に配列された42編の論考から構成されている。それぞれについて表題をまず紹介しておくと:
 Ⅰ 文書を読む、ということ
「正倉院文書は宝の山」、「俊寛自筆書状をめぐって」、「『婆裟羅』から考える」、「史料は正しく伝えられるか」、「不完全な文書の魅力」、「明智光秀の接待」、「秀吉は「唐入り」を言明したか」、「手紙が返される話」、「歴史資料と言説」、「自分の花押を作ってみよう」
 Ⅱ 海を越えて
「鳥羽宝蔵の『波斯国剣』」、「杭州へのあこがれ、虚構の詩作」、「中世の航海図を読む」、「一休と遣明船」、「大航海時代、海を渡った日本人」、「オランダ人は名誉革命を幕府にどう伝えたか」、「出島と異国人女性」、「ロシアに持ち去られたフランキ砲の謎」
 Ⅲ 雲の上にも諸事ありき
「聖武天皇の葬列と純金観音像」、「『大内裏図考証』――京都御所をつくった故実研究」、「未婚の皇后がいた時代」、「中世一貴族の慨嘆」、「貴族の日記と朝廷儀礼」、「求む、お姫さま」、「財政から考える江戸幕府と天皇」
 Ⅳ 武芸ばかりが道にはあらず
「『東国の巌窟王』源頼朝」、「土地裁判から見た鎌倉時代」、「武士の文書作成――鎌倉時代の場合」、「南禅寺・西禅寺・北禅寺」、「室町幕府徳政令のかたち」、「天正十年の改暦問題」、「原城攻めに参陣した牢人たち」、「旗本野一色家の御家騒動」、「江戸五品廻送令を再考する」
 Ⅴ 村の声、町の声を聞く
「村祭りの光景」、「百姓は主張する」、「中世の赤米栽培と杜甫の漢詩」、「中世の薬師寺と地域社会」、「江戸城と江戸」、「『篠を引く』『篠引』の意味の変容」、「数珠がつないだ商人たち」、「戊辰戦争期のはやり唄≪トコトンヤレ節≫」

 正直なところ、興味のもてる話題とそうでないものがあり、これは私だけのことではなく、それぞれの読者が自分の興味で読めばよい論集だと思うので、各章から面白いと思った論考を抜き出して紹介することにする。

「『婆裟羅』から考える」(遠藤基郎)
 これは『太平記』を読んでいくうえで重要な言葉の解釈にかかわるので無視できない。通説によると、「婆裟羅」はダイヤモンドを意味するインドの言葉「伐折羅」に由来し、形式・常識から逸脱して、奔放で人目を引くようにふるまうのをさす語であるが、論者はこれが間違いで、「舞う人の衣服の袖が美しくひるがえるさま」である「婆裟」に接尾語がついたものと考えるべきであるという。興味ある論考であるが、『太平記』を「後醍醐方びいき」(18ページ)と簡単に言い切っている点は問題ではないかと思う。

「杭州へのあこがれ 虚構の詩作」(須田牧子)
 15世紀から16世紀の中葉まで明の土地を踏むことは、朝貢使節団として北京に朝貢儀礼に赴く使節たちのみが享受した稀有な体験であった。その中で使節として2度入明した禅僧策彦周良(1501-79)の日記と詩集を取り上げ、彼の中国体験の意義について考えている。彼の場合、単に外交儀礼として詩を詠むだけでなく、「明を旅したその証として、しかるべき所でしかるべき詩を詠むということが重視されていたようである」(61ページ)という。そして、李白・白居易・蘇軾らの詩に取り上げられた杭州はそのしかるべき場所の最たるものであった。さらに中秋の風物詩として現在も有名な銭塘江の大海嘯(河口から数キロにわたって海水が勢いよく逆流する現象)を日記による限り見ていないのに、詩集の中ではみてきたことにして作品を作っている。「彼の中国体験は、当該期日本社会で価値あるものとされていたものを着実に『追体験』売ることに重きの置かれたものであったといえよう」(64ページ)と論じ、同じ時代に日本を訪問した朝鮮官僚宋希璟の経験したものをありのままに詩に詠んだ態度と対比しているのは興味深い考察である。

「貴族の日記と朝廷儀礼」(本郷恵子)
 宮廷貴族にとって日記はきわめて重要な意義をもつものであった。宮中やその他の場所での儀式の手順や作法の基準となるのは、「先例」と呼ばれる過去の事例である。そこで「自分の体験を詳細に記録するとともに、できるだけ多くの先例を収集して、子孫に伝えることが求められた。すぐれた日記は家の財産であり、所蔵者の価値までを高めてくれる意義をもったのである」(116ページ)。
 朝廷と室町幕府の間を仲介する武家伝奏という地位にあった中山定親(1401-59)の日記『薩戒記』は重要な史料と考えられている。しかし彼は武家伝奏の地位に着くまでは政治的に不遇で、朝廷儀礼の研究に没頭していた。しかし、彼が先祖である中山忠親(1131-95)が残した日記『山槐記』を深く研究し、家説に基づくとして決然とふるまっているうちに、次第に儀礼の専門家であるという評価が高まり、ついには重要な役職を得ることになったのである。
 中世の貴族にとっての日記の意義を改めて確認させる論考である。

「『東国の巌窟王』源頼朝」(高橋慎一朗)
 源頼朝は岩窟(洞窟)とのかかわりが深い。石橋山の合戦で敗れたのちに洞窟に身をひそめたというが、彼が幕府を開いた鎌倉には洞窟を中心とする信仰の場がある。洞窟は、現世と来世とが繋がる聖なる場所だという考えは中世の日本、とくに東国で広く信じられていた。洞窟を中心に発展した信仰の場である江の島に弁財天を勧請するなど頼朝は洞窟信仰の発展を推進する役割も果たしたのであった。「さらに頼朝は、鎌倉郊外にある『岩殿観音堂』(逗子市久木の岩殿寺)を深く信仰して、度々参詣していたことが『吾妻鏡」に見えている。『岩殿』もまた、洞窟を意味し、岩殿観音堂は洞窟に安置された観音菩薩を中心とする寺だったのだ」(136ページ)。論者は触れていないが、この岩殿寺は坂東三十三か所観音霊場の第2番で(第1番は杉本寺)私も参拝したことがある。泉鏡花ゆかりの寺でもあるので、関心のある方は是非お参りしてください。少し脱線してしまったが、坂東三十三か所の寺院のかなりの部分が洞窟信仰と結びついているような気がする。私にとっては身近だし、改めて身近なところでの信仰の在り方について考えさせられる論考でもあった。

「中世の赤米栽培と杜甫の漢詩」(川本慎自)
 中世以前に実際に赤米がどこで栽培されていたかを明らかにすることは困難であった。ところが中世の禅宗寺院で行われた漢文の講義の場で、赤米の分布状況の話がされていた。中国の詩人の詩について論じながら、講師である禅僧は聴衆の中に含まれる朝廷や幕府の実務を担う吏僚たちの日常的な関心にも目を向け、日本中世の農業にかかわる話も織り交ぜている。「それは漢詩の解釈の講義としては脱線した『雑談』であるが、聴衆の禅僧や吏僚たちにとっては、生きた貴重な知識だったに違いない。/室町時代、漢詩を学ぶ禅僧たちの眼差しは、遠く異国の詩人に向けられているようでいて、実は脚下の農業生産の現場にも注がれていたのである」(192ページ)。

 こうやって自分なりに興味を持っているところを抜き出してみると、こちらが本を読んでいるのではなくて、本に読まれている、自分の興味のありかを見透かされているような気分になるから奇妙であるが、それも読書の妙味と考えるべきであろう。歴史、とくに日本史に興味のある方にはぜひ読んでいただきたい書物である。


 

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(18)

12月28日(日)晴れ後曇り、寒い

 ダンテとウェルギリウスは怪獣の姿をした悪魔ゲリュオーンの背にのって地獄の第8圏へと降りたつ。第17歌の最後に記されているように、彼らを下すとゲリュオーンはすぐに姿を消す。

その場所は地獄の中にあり、人呼んでマレボルジェ、
取り巻く囲いと同じく、
すべてが鋼の岩からなる。

その邪悪な平野のまさに中心に、
たっぷりと広く深い井戸が口を開けている。
その仕組みについてはその場所で話すことにしよう。
(262ページ) 注によると「マレボルジェ」とは直訳では<悪の詰まった袋>、つまり悪の巣窟を意味するという。全部で10のボルジャ(巣窟)に分かれていることがやがてわかる。

右手に奇怪な苦しみが、
奇怪な責めが、奇怪な鞭打つ族が見えた。
第1巣窟はそれらであふれかえっていた。
(264ページ) ここには金銭や権力の獲得のために女性を使った女衒・ポン引きと、女性の愛情を利用し仇で返したヒモという2種類の罪人が封じられている。

こちらでも、あちらでも、暗色の岩の上に
大きな鞭を手にした角のある悪魔どもが見え、
後ろから罪人どもを残忍に打ちすえていた。
(265ページ) そしてその鞭を浴びている罪人たちの中にダンテは自分の見知った顔を見出す。ボローニャの教皇党の有力者であったヴェネディコである。彼は自分の強欲のために自分の妹を利用し、その罪でここにいるのである。

 ボローニャ方言を話すものが地獄のこの場所に増えて、ボローニャにいる人々よりも多くなったなどと語る、どこか滑稽に見えるヴェネディコのもとを離れ、ダンテはウェルギリウスに導かれて先に進む。すると、悪魔に追い立てられて歩む亡者たちの列の中に、ギリシャ神話の英雄イアソーンが地獄に堕ちても王者の風格を保った姿でいるのを見かける。彼もまた自分の目的の達成のために女性たちを裏切った罪でここにいるのである。

 そして2人は第2の巣窟に達する。
両崖には黴に似たものがびっしりとこびりついていた。
というのも下方からの息がそこに粘りつくためで、
それが私の目や鼻と激しく戦っていた。
(272ページ)  地獄の底から吹き上げる風に悩まされながら、ダンテは糞尿の中にまみれている死者たちの中に旧知であるルッカのアレッショ・インテルミネーイの姿を認める。彼は生前にさまざまな甘言を弄して人々を欺いた罪でここに封じられているのである。

すると自分のかぼちゃを殴りつけながら、この時その者は、
「べんちゃらがおれをこの下界に沈めちまった。
どんだけ言ってもこの舌は疲れなかったからな」。
(274ページ)とユーモアさえかじられるような返事をする。かぼちゃは卑俗な表現で「頭」を意味していたそうである。

 さらにこの第2巣窟には、生前に娼婦であったものも閉じ込められている。ウェルギリウスはその中の1人をさしてターイスであるという。原さんはターイスがローマの喜劇作家であるテレンティウスの作品に登場するが、そこでの記述と一致が見られないと注記している。アナトール・フランスの小説に登場するタイスはまた別人なのであろうか。2人はさらに第3巣窟へと歩を進める。

 34歌まである『地獄篇』の第18歌まで来たところで、新しい年を迎えることになる。今のところ、ダンテは地獄の奥底に向かって下降を続けているが、その後は、上昇の旅に転じることになる。私もその足跡を追って、来年は地獄を脱出して『煉獄篇』に進み、うまくいけばそこも通り抜けられるかもしれない。前途の平安を祈るのみである。

神永正博 小飼弾『未来予測を嗤え!』

12月27日(土)晴れ

 12月24日、神永正博 小飼弾『未来予測を嗤え!』(角川Oneテーマ21)を読み終える。 
 私達にはどのような未来が待ち構えているのか。それに対してどのように備えるべきであるのか。プログラマー・投資家であり、書評家としても知られる小飼さんと、数学者で統計学関係の著作も多い神永さんの対談から構成されるこの書物は、そもそも未来予測など可能なのか、個人や社会が健やかに存在するためには何が必要なのか、科学からコンピュータ、経済、教育まで広範囲にわたる先端の知見から、議論が展開されている。「理系」の人間から見た現代の日本社会と学問に対する批判であり、改革の方向性についての提言でもある。
 
 全体としてお二人の発言は歯に衣着せぬものである。「人間はどうしても拠り所がほしいから、断言する人がいると、その人についていってしまいたくなる。学問の世界でも、全部わかっているかのように話す人がいますが、別にその人だって何もかもわかっているわけではなくて、わかったふりをしているにすぎません」(神永、30ページ)。
 朝、出かけるときに、天気予報を気にしない人はいないだろうが、天気予報で今日は晴れだといわれても、空を見上げると黒い雲が立ち込めている場合、折り畳み傘くらいは持って出かけるのではなかろうか。統計データを集めて予測された未来が、必ず実現するとは限らない乱暴な言い方をすれば、統計学とは一を聞いて十を知ったつもりになる技術です。・・・やがり十を知るためには十を聞くのが一番です」(70ページ)というような身もふたもない議論がこの本には溢れている。 

 特に印象に残っているのは教育、それも高等教育について触れた部分であり、このブログでも何度か述べてきた私の意見と一致する部分もあるので、以下、そのあたりのことを中心に紹介してみる。
 高校卒業生の数は減っているのに、大学の定員は増え続けている。それでこれまで大学に入れなかった人たちまでどんどん大学に入学するようになった。その結果、大学生全体で見れば、学力は低下したと神永さんは言う。これに対して小飼さんが「今までは高等教育を受けられなかった人たちも、大学に行けるようになったのだから、学力低下は喜ぶべきことだと言い切ってもいいんじゃないでしょうか」(39ページ)と返すと、神永さんは「そうは言っても、みんな自分が信じているストーリーでしかモノを見ませんけどね」(39-40ページ)と付け足す。神永さんが『学力低下は錯覚である』という書物を出した時に、「お前は文科省の犬だ!」というメールを受け取ったと言う。ここで指摘されている「学力低下」をめぐる人口学的な事実に目をつぶり、高校までの教育が悪いからだというような頭の悪い大学の先生があまりにも多いことについては、この対談では触れられていないが、おそらくは武士の情けであろう。

 また学歴をめぐって「人事データをまとめてみると確かに高学歴ほど優秀という傾向がありました」(52ページ)と小飼さんがIT産業における経験から述べていることも注目しておいてよい。とはいっても「飛びぬけて天才的なプログラマーは学歴と無関係です」(同上)ということも指摘されている。その一方で、「大量に募集をかけて学歴でフィルタリングするやり方では企業の幹部を集められない・・・ 幹部になりうる人はこちらから探し出し、その人のところへ出向いていって迎え入れる必要があります」(52-53ページ)というのも重要であろう。

 さらに大学の意義をめぐり、大学で何を教え、まなぶかについての共通性や標準化が必要であるという議論も踏まえつつも、「どの大学でも重要なのは教育内容ではないのかもしれません。数学にしても、プロの数学者になるような人は、講義に出て人に習っているだけではありませんよ。自分で勝手に学んで、勝手に理解していくんです」(56ページ)と神永さんが述べるのを受けて、編集者が最近ではインターネット上で無料で講義を公開するMOOC(Massive Open Online Course)が広がっていることを指摘し、リアルな学校の意義は「場」であることと、学生たちがつまずいた時の支援になってきているのではないかというと、神永さんはさらに、友人を得ること、同世代教育の意義を強調している。このあたりのやり取りを読んでいると、ロシアの作家ゴーリキーの『私の大学』を思い出すところがある。ゴーリキーはたまたま知り合った大学生の勧めでロシアの地方大学であるカザン大学に入学しようとしてこの大学町に赴き、大学生たちの学習会に参加したり、大学の近くで働いたりするが、結局大学には入れない。しかし、大学町での生活(場と交友関係)を通じて、大学で学ぶ以上のものを身につけることになる。ゴーリキーがカザンとその周辺でうろうろしていたのは、もう100年以上も昔の話なのだが、そこから何が変わったのか、変わっていないのかを見極めることが求められている。学校は友達と交流するという以外の意義は失われているとの極論も展開され、さらに学費の高騰が学校、とくに大学の将来を暗いものにしていると論じられている。

 読めば読むほど、いろいろな示唆を受け取ることができる本だと思うのだが、とりあえず、小飼さんの「世の中をもっと先に進めるうえで、これから必要なのは、『自分がバカかもしれない』ことをきちんと認めることですよ」(182ページ)という発言、さらにもっと外に向けた好奇心が必要だという発言を胸に畳んで、今後の指針とすべきではないかと思ったことを付け加えて、一応の紹介としたいと思う。

小倉美惠子『オオカミの護符』(3)

12月26日(金)晴れ

 著者である小倉さんは自分の生家である川崎市の農家の土蔵に貼られたお札に興味を持ち、そのお札にかかわる神事の記録作業に取り組み、さらに、お札を発行している御嶽神社に通ってお札に描かれたけだものがニホンオオカミであることを突き止める。そしてオオカミを神として祀る信仰は日本各地にみられるが、オオカミの護符を発行し、講社が組まれる信仰形態は関東と天竜川流域に限られていることを知る。特に秩父地方がオオカミ信仰の密集地であることを知って、秩父地方へと足を運ぶことになる。

 「柞(ははそ)の国」ともよばれるこの地方の山々は落葉広葉樹に覆われ、柔らかな姿を見せている。「柞」は落葉樹のことである。昭和50年代にまだこの地方に残っていた民俗を映像に収めた『秩父の通過儀礼』シリーズの制作者であった栃原嗣雄さん、カメラマンであった伊藤碩男さんの協力を得て、小倉さんはオオカミ信仰の神社である宝登山神社の取材に取り組むことになる。

 宝登山でも講が組織されているが、御嶽講の場合とは違って、御師も宿坊も存在せず、「宝登山谷ッ平講」の神事は、箱状のお犬様の貸し借りをするというもので、「お犬替え」と呼ばれている。それぞれの家で神様として大切にお守りされてきた箱が神社に返され、新しい箱が渡される。行事に立ち会ったことから、小倉さんは「山」が信仰の場として、文化の発信源の役割も演じてきたのではないかと思い至る。

 宝登山神社では毎月7日の早朝に山に棲むお犬様のために山の麓にある里宮の社殿で白飯を炊き、山頂の奥宮に供える「お炊き上げ」という神事を行っていることを知って、小倉さんはその撮影に取り組む。「宝登山神社のみならず関東の山々に点在する『オオカミ神社』の多くが『お炊き上げ』の神事を行っているという。ところにより捧げる供物が白飯であったり、糯米の赤飯であったり、粳米に小豆を混ぜた「赤めし」であったりと変わるが、穀物を炊いて山に供えることは共通している」(154ページ)。さらに村人たちが自ら山に登ってお炊き上げの祭りをする小さな神社があることを知る。「しかも近くの山頂で村人たち全員がオオカミの遠吠えのような『雄叫び』を発するという」(同上)。次に取材の対象となるのは、その行事が行われるという猪狩神社である。

 猪狩神社は氏子がたった12軒という極めて小規模な集落の人々によって守り通されてきた神社である。ここでは「オオカミの護符」をいまだに版木を使って手刷りで作成している。このような手作りのお札の有難さを講中の人々は強く感じているが、それだけでなく、神社の(オオカミ型の)狛犬についても、1933(昭和8)年にこの像が運ばれている最中に山からオオカミが下りてきたという出来事があったという(ニホンオオカミが生きた姿で最後に確認されたのは公式には1905=明治38年のことである)。

 猪狩神社の奥宮祭には集落の各家々で赤飯を炊いて、それを重箱に詰めて山の奥宮に登る男たちに持たせる。山頂に登るのは男たちだけと決まっているのである。山の頂に到着すると、山頂の祠の周囲の草刈りと清掃が始められる。「草刈りや清掃が一段落すると、そこに並ぶ小さな二つの祠に家から持ち寄った供物が捧げられる。・・・/お供えを上げるときに、とある所作をする。まず山に生える檜の葉を敷き、その上に重箱から箸で赤飯を取り分け、盛り付けるのだ。…そしてお供えに欠かせぬというサンマも供えられた」(167-8ページ)。なぜサンマが供えられるのかはわからない。

 男衆が奥宮に上って祭りを行っている間、女衆は重箱に赤飯を詰め、集落のそこここに祭られている小さな祠の神々にお供えを上げて回る。

 「奥宮祭は最後に、山に登った全員で『鬨の声』と呼ばれる雄叫びをあげる。集落の方向を見下ろし、まず長老が『ウオーッ』とトウ(頭)をとると、みなが威勢よく『ウオーッ』と叫ぶ」(180ページ)。山から下りると集落の集会所で(山頂での直会に続いて)直会が行われる。そしてそのあとまた、鬨の声が全員によってあげられるのである。鬨の声はオオカミの遠吠えを模したものだという説もあるが、集落の人からはそのような意見は聞かれなかったという。

 穀物を炊いて、山の頂にお供えする「お炊き上げ」神事が、オオカミ信仰の神社で行われていることの背景に何があるのかを小倉さんはさらに探ろうとする。信仰や神事だけでなく、山の中で山と共に暮らしている集落の人々の暮らしに目を向けながら、小倉さんは探究を進めていく。遠くかすんだ山を眺めて暮らしている人間にはかすかな経験もできそうにない探究であるということを正直に認めておこう。もっとも、私の住んでいる一帯の近くにもタヌキは棲息しているらしく、まったく野生の存在がないわけではない。そうはいっても、昔からの集落の記憶が共有も継承もされにくい環境の中にいることは間違いない。

『太平記』(21)

12月25日(木)晴れ後曇り、その後雨が降ったりやんだり

 鎌倉幕府の追及を逃れて都を脱出し、笠置山に籠城した後醍醐天皇であったが、元弘元年(1331年)9月の末に落城し、楠正成の千早城を目指して逃走を続けたものの幕府方にとらえられた。翌年、幕府からの使者が上洛して、捕えられた天皇とその側近たちの処分が決まった。一宮尊良親王は土佐へ、妙法院宮は讃岐へ、四宮静尊法親王は但馬へ流された。九宮は幼いため中御門宣明に預けられたが、宮が父の後醍醐天皇を慕って詠んだ歌は、京中の口ずさみとなった。

 尹大納言花山院師賢は後醍醐天皇の身代わりとして比叡山に登った人物であるが(第2巻)、下総の豪族千葉貞胤に預けられることになった。この人は若いころから和漢の学問に親しみ、世間的な栄達や恥辱に関心を寄せていなかったので、流刑となっても心を動かすことはなかった。その様子は中国の詩人の杜甫や本朝の小野篁が不運に見舞われても心を動かさなかったことにたとえられるものであった。流刑地でも心静かに暮らしていたが、もともと出家の志があったので、北条高時の了承も得て32歳という若さで剃髪して僧侶になったが、その後まもなくして亡くなってしまった。

 後醍醐天皇に最後まで身近で仕えていた中納言万里小路藤房は常陸の国に流され、同地の豪族小田民部大輔(みんぶのたいふ)高知に預けられた。「左遷遠流の悲しみは、いづれも劣らぬ涙なれども、殊にこの人の心の中は、推量するもなほあはれなり」(187ページ)と作者は記す。というのは、彼は都に想い人がいたからである。

 後醍醐天皇の中宮禧子に仕えている輔(すけ)の御局(みつぼね)という美しい女房がいた。後醍醐天皇が即位されてからしばらくした元亨年代のある秋のこと、中宮の実家である北山殿(西園寺実兼の邸)に天皇が行幸された際に、舞楽が演じられた。そのときに輔の御局が琵琶を演奏していた音色に聞きほれた藤房は何とかこの女性と情を通じようと思っていたが、なかなか思い通りにいかなかった。ところがふとしたことから二人は出会い、結ばれたのである。

 ところがそのあくる朝に(このあたり、どうも作り話めいているのだが)、天皇が笠置をさして落ち延びていくことになり、藤房は何とか彼女にあって別れを告げようとするのだが、出かけてみると中宮のご用で、彼女は不在である。そこで藤房は鬢の髪を少し切って、歌を書き添えて置手紙をした。
 黒髪の乱れむ世まで長らへばこれをいまはの形身とも見よ
(189ページ、黒髪のように乱れる世をあなたが生きながらえることができたなら、この髪を私の最期の形見とみてください。) 

 戻ってきた輔の御局がこの歌を見て、読んでは泣き、泣いては読み、何度も読み返したが、心が慰められない。いとしい人を追っていきたいと思ったが、行方もわからず、いつまた再会できるかはわからないというので、思い余って、
 書き置きし君が玉章(たまずさ)身に添へて後の世までの形身とや見む
(190ページ、あなたが書き置いた手紙を携えて、来世まで形見として見よう。)
と藤房の歌に書き添えて、形見の髪を袖に入れ、大井川に投身自殺してしまったのは哀れきわまることであった。中国の詩人白居易が「君が一日の恩のために、妾が百年の身を過つ」(同上、男の一時の愛情のために、女がその一生を台無しにする)とったのはこのようなことであった。作者はやや冷めた目で、この悲恋について評する。
 愛する男の行動に何をしていいのかわからなくなった女性の気持ちには同情できなくはないが、危急の事態に対する備えをしないまま、天皇の謀議に参画していた藤房はうかつであったといわざるを得ない。このあたり、他の例も合わせ見ていくと、公卿と武士の違い、あるいは、個々の人物の個性の違いが明らかになってくるのではないかと思う。ただ、物語の記述する年代を辿っていくと、藤房が御局を見初めたのが元亨年間であり、藤房の流刑まで10年ほどの時間がたっており、わずか数年の間の恋と受け取られるような記述には大いに作為性が感じられる。それに第2巻を見る限り、藤房は後醍醐天皇の側にいて、そのまま奈良を目指して随行しており、恋人に会いに出かけている暇はなかったように読み取れる。あるいはこの挿話は実際はまったく違ったものであったのかもしれない。

 なお、西園寺家の邸のあった北山殿はその後、数奇な運命の転変を経て足利義満の北山山荘となり、さらにその後、通称金閣寺、本当の名前は鹿苑寺となって今日に至っている。

京都の地図

12月24日(水)晴れ

京都の地図

なぜ ぼくが
東から西へ
歩いていたかは
思い出せないし
あのひとが
西から東へ
歩いていたのかは
わからない

クリスマス・イブの夜に
ぼくとあの人が
であったのは
今出川通のことであった
お互いを認め合って
挨拶して通り過ぎただけだったが
今でもそのときの
挨拶の意味を考えている

京都の町を
碁盤のように
縦横に通りが
走っていると
学校の授業で習ったが
その
ひとつひとつの
通りに
さまざまな人間の
暮らしと思い出が
刻み込まれている

それからも
何人かの人と
であい
わかれて
京都の町を
縦横に走る
通りについての
自分だけの
歴史ができた
記憶することと
忘れてしまうことを
重ね合わせて
地図が
別の意味をもつようになった

日記抄(12月17日~23日)

12月23日(火)晴れ

 12月17日から本日の間に経験あるいは見聞したこと、考えたことなど:
12月17日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介されたスウィフトの言葉
Every man desires to live long, but no man wishes to be old.
        ――Jonathan Swift (Anglo-Irish satirist and churchman, 1667-1745)
 誰もが長生きしたいと願うが、年をとりたいと望むものは一人もいない。
 ガリヴァ―が第3の航海で訪れたLuggnagg について思い出させる言葉である。14日と15日に「攻略!英語リスニング」で取り上げたガリヴァ―を紹介する文章ではLuggnaggについてthere are people who are immortal but without eternal youth. (永遠の命はもっていても、永遠の若さはもっていない人たちがいる)と説明していた。

12月18日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」応用編「黒猫イクラと不思議の森」はウィーンで1848年3月に起きた革命の結果ロンドンに亡命しようと逃走中のオーストリアの前宰相クレメンス=フォン・メッテルニヒが登場した。現在のドイツ語ではメッターニヒと発音しているようである。
 この番組の前々回ではナポレオンの2人目の妃マリー・ルイーゼが登場したが、本日の「まいにちイタリア語」応用編「インタビューで学ぼう! イタリア語」でインタビューを受けているアリーチェ・アンセルミさんがパリで初めて取り組んだ仕事で、歴史上の有名人物の着衣を手にすることになり、un abito da ballo di Joséphine Bonaparte (ジョゼフィーヌ・ボナパルトの舞踏会用ドレス)の状態確認を行ったという話が出てきた。ナポレオンの最初の妻であったジョゼフィーヌの方がマリー・ルイーゼよりも有名だし、人気もあるようである。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote..."に出てきた言葉。
Science is organized knowledge. Wisdom is organized life.
                    ――Immanuel Kant (German philoosopher,1724-1804)
科学は、体系化された知識である。知恵は、体系化された人生である。
 ドイツ語で科学と知識は同じWissenschaftという言葉だと記憶しているので、今回紹介された文のもとのドイツ語が、どういう表現になっているのかを知りたいものである。

12月19日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「ファッションをひもとき、時を読む」では半世紀近くにわたって日本に進出するフランス企業のコンサルタントとして活躍してきたピエール・ボードリさんのインタビューを紹介している。ボードリさんによると、
le Japon a toujours été interéssé à la mode. (日本人は昔からファッションに興味があったのです。)とのことである。その例として源氏物語や、江戸時代の風俗が取り上げられ、日本文化にはfrivoles(ちゃらちゃらした)一面があると指摘していたのが興味深かった。

12月20日
 109シネマズMM横浜で石井裕也監督の『バンクーバーの朝日』を見る。1914年から1941年までカナダ西部のヴァンクーヴァ―市の日系二世の人々によって結成され、独自の戦法で活躍、次第にカナダ社会全体に認められるようになっていったが、日米開戦のために解散を余儀なくされたバンクーバー朝日軍という実在の野球チームの活動をもとに作られた映画。チームの活躍の一方で、日本が中国大陸に侵略を拡大していくことにも影響されて日系人に対する抑圧が厳しくなっていくという展開なので、全体として明るい気分で見ているわけにはいかない。日系1世と2世の間に世代差があり、出稼ぎ気分が抜けない1世に比べて、2世になるとカナダ社会に溶け込み、同化しようという動きもある。同化が異文化への最も適切な適応であるかどうかは、今日の目から見ると問題ではあるのだが、カナダ社会の側にも日系人をもう少し長い目で見ていく政策がとれなかったのかなという気がしないでもない。

 109シネマズMM横浜が来年1月25日をもって閉館することを知る。ずっと利用してきたものとして寂しい限りである。

12月21日
 昨日と本日のNHKラジオ「攻略!英語リスニング」ではピアノを話題に取り上げた。「ピアノ」というのはイタリア語で「音が小さい」という意味の「ピアノ」と、「音が大きい」という意味の「フォルテ」という言葉を組み合わせて名づけられた「ピアノフォルテ」の省略形で、その名のように音の強弱が付けられるところにその特徴があるという。
Older keyboards couldn't manage different dynamics, whereas the sound on a pianoforte can be soft or loud, depending on how hard you hit the key.(もっと古い時代の鍵盤楽器は、音の強弱がつけられなかったんだけど、ピアノフォルテは強弱が付けられたの。鍵盤をたたく強さでね。) この楽器を発明したのが、イタリアのバルトロメオ・クリストフォリという人物で、18世紀の初めのことであったと語られていた。
 ピアノ以前の鍵盤楽器というとチェンバロが有名であるが、一度エディンバラのナショナル・ポートレート・ギャラリーで有名なメアリ女王が使っていたというスピネットを見たことがある。4オクターヴくらいしか鍵盤がなかったのではないかと記憶する。

 明日の月曜日に休みをとって4連休にする人が少なくないという話を聞いた。年末は何かと私用が多くなるからかもしれない。

12月22日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」に出てきたことわざ。
Le temps, c'est l'argent. (時は金なり。)
 英語のTime is money.に比べると、なんとなく恰好をつけた言い方をしているように思われる。イタリア語ではIl tempo è denaro. である。
 argentは「お金、金銭」という意味のほかに、「銀」という意味がある。言語によって、「お金」を表す語が「金」に対応したり、「銀」に対応したりする。銅や貝が基本的な貨幣になっている社会の例もあるので、ほかの言い方があるかもしれず、整理してみると面白いかもしれない。

12月23日
 NHKカルチャーラジオ『ヘボンさんと日本の開化』で、講師の大西晴樹さんはヘボンの信仰をヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に即してとらえなおし、ヘボンが典型的な禁欲的プロテスタントであったと結論している。その一方で、彼には家父長的な側面もあったという。この議論の中で、大西さんはヴェーバーの著書には2つの命題があり、その一方はカルヴァン主義の二重予定説=「神はあらかじめ人間を選びと滅びに定めたもうた」という教理が禁欲的な職業労働に導くという考えであるという(もう1つは人間の平等に関する考え方)。
 今、神永正博 小飼弾『未来予測を嗤う』(角川Oneテーマ21)という本を読んでいるのだが、そのいきなり最初のほうに「決まっているけどわからないという現象は、たくさんあるんですよ」(12ページ)ということばが出てくる。あまり受け入れたくないことではあるが、そういうものかもしれない。 

王敏『禹王と日本人 「治水神」がつなぐ東アジア」

12月22日(月)晴れ

 王敏『禹王と日本人 「治水神」が繋ぐ東アジア』(NHKブックス)を読む。

 中国古代の伝説的な帝王禹は人々を洪水から救った存在として、長く崇敬の対象となってきた。著者は日本で暮らすうちに、日本の各地に禹王に関連する遺跡が残されていることを知り、調査を始める。その調査の結果であるこの書物は5章からなり、第1章は中国の夏王朝の始祖であるとされる禹王の伝承がなぜ日本で受け入れられたのか、災害に悩まされることが多い日本の風土に即して考察し、また儒教が普及した江戸期以降に禹王信仰が深まった背景についての考察を行っている。第2章では京都御所の襖絵に禹王の故事が描かれている理由を探っている。第3章では中国における禹王の伝説に九尾の狐が関係していることから日本の玉藻の前伝説について取り上げ、第4章では日本語の中の禹王に関連する語句を取り出し、さらに空海と禹王の関係についてもほのめかしている。終章では日本と中国の関係、また朝鮮半島での事例を加えて、改めて東アジアということについて考え直そうとしている。

 この構成から見て言えることは、日本各地に残る禹王に関連する文物の調査をまとめているのは第1章だけで、その他の章は文献調査が主体の雑学の集成ではないかということである。著者は日本全国に禹王に関連する史跡や文献は100件以上あるという。この書物の巻末210-214ページに「日本国内禹王遺跡一覧」として101の遺跡が列挙されているが、その中にはどのように禹王と関連するのか、結びつきが曖昧なままに記載されているものが見られる。たとえば、80の「幸田露伴文学碑」などは、露伴の文学者としての名声との関連で説明が必要であると思うが、本文では全く触れられていない。露伴の代表作『運命』の書きだしは「世おのづから数といふもの有りや。有りといへば有るがごとく、無しと為せば無きにも似たり。洪水天に滔(はびこ)るも、禹の功これを治め、大旱(たいかん)地を焦せども、湯(とう)の徳これを済(すく)へば、数有るが如くにして、而(しか)も数なきが如し」(岩波文庫『運命 他一編』5ページ)というものであり、確かに禹の治水事業について触れているが、これだけのことっではなさそうである。

 つまり私のいいたいことは、第1章を中心にもっと時間をかけて調査をした結果をまとめてほしかった、第2章以下は、別の本にまとめればいいということである。まだまだ調査すべきこと、読むべき文献は残っているのではないか。第1章で酒匂川の流域の福澤神社境内に立つ「文命東堤碑」とその対岸の山北町の堤の「文命西堤碑」(文命は禹王の別名だそうである)について触れ、『新編相模国風土記稿』における言及も引用している。治水事業の中心人物であった田中丘隅(1663-1729)が工事の後に、禹王を祀る文命神社(現在は福澤神社)を建立したというのだが、田中丘隅の主著である『民間省要』は活字本になっているのだから、目を通しておいてもよかったのではないか。参考文献に丘隅の著書が挙げられていないので、そう思った次第である。

 さらに言えば、取り上げられている事柄の背景について著者の議論の進め方がさまざまな可能性を十分に視野に入れていないのではないかと思われる部分がある。著者は禹王をめぐる伝承が儒教を通じて日本に伝わったと考えているが、日本に入ってきた中国の思想は儒教にとどまらず、老荘思想や実学、さらに仏教についても考えていく必要がある。また日本における儒教の大衆化に役割を果たした教育機関として寺子屋を挙げているが、心学者の活動や、私塾・郷学等の寺子屋よりも高度な教育機関の役割に目を向けるべきではないか。

 また著者は韓国文学の名作『春香伝』の中に禹王についての記述が5回あることを指摘し(私も『春香伝』は持っているので確認してみようと思う)、「これは日本の古典文学では考えにくい、高い頻度であろう。儒学の教えを生活の隅々まで浸透させることにおいて、韓国は日本よりはるかに徹底していた」(196ページ)というのは客観的な事実としてその通りだと思う(道徳的な価値に照らしていいか悪いかは別問題である)が、「そして、『春香伝』は、日本における例えば『源氏物語』よりもずっと、実際に愛読されているという事実がある」(同上)と論じているのは、たとえそれが事実に基づくものとしても、不適切な比較というべきであろう。両者の執筆年代、それぞれが書かれている言葉の現代の言葉との距離、さらに物語の長さなどを考えれば、『春香伝』の方が読みやすいことは明らかであって、現実に私がこれから『春香伝』を読んでやろうかと思っていることでもそれは証明されるはずである(『源氏物語』を読もうという気にはなかなかならない)。『春香伝』と比較するのであれば、江戸時代の馬琴などの作品を持ってくるべきであって、そうしなければ適切な比較とはならないはずである。『春香伝』も馬琴も中国の章回小説の影響を受けているので、比較のための適切性は十分だと思う。

 著者が列挙している日本における禹王関連の文物が比較的新しいものであるということの方にこそ、実は追求すべき問題が潜んでいるのではないか。治水事業というのは実学的な素養がないと展開できない性格のものであり、そのことと禹王信仰とがどのように結びついているのかということを考えてみる必要があると思うのである。

今野真二『辞書をよむ』

12月21日(日)曇り後晴れ

 今野真二『辞書をよむ』(平凡社新書)を読む。今年になってから、この著者の本を『かなづかいの歴史』、『日本語の近代――外された漢語』、『日本語の考古学』、『「言海」を読む ことばの海と明治の日本語』、『辞書からみた日本語の歴史』と5冊読んでいる。書く方もすごいが、それにいちいち付き合っているこちらの努力も認めてもらいたいものである。

 この本は今と昔の国語辞書を読み比べて、その特徴を概観するものである。同じ著者の『辞書からみた日本語の歴史』と重なる内容が少なくないが、<日本語>ではなく<辞書>が問題にされているという違いがある。実際に、取り上げられている辞書にも違いがあって、読み比べてみるといろいろなことに気付くはずである。

 また書物の構成についてみても、『辞書からみた日本語の歴史』が年代順にさまざまな辞書を通して知られる日本語の変化を辿っているのに対し、こちらはまず、現代日本でつかわれている辞書について概観したのちに、明治時代の辞書について『言海』を中心として論じ、その後古辞書について取り上げるという構成になっている。古辞書についてみると、その最初に位置し、影響力も大きい平安時代の『和名類聚抄』に1章が割かれ、その後平安時代から室町時代に編まれた辞書が取り上げられ、さらに江戸時代の辞書が概観されている。

 現代では辞書は、使うものになっているが、もともとの辞書はよむ性格が強く、なかには誰かが自分のために読んだ文書の中から自分で作った抜き書きが編纂されて成立したものがあるという。辞書が「使われる」ものとなり、印刷されて出版されるようになったのは江戸時代以降のことであるとも論じられている。歴史的な概観から浮かび上がってくるもう1つの特徴は「中国的な辞書から日本的な辞書へ」という流れである。もともと漢字や漢語を理解するために編纂された辞書が主流であったのが、江戸時代になると見出し項目として取り上げられる語に和語が増加し、仮名で書かれた辞書もあらわれるようになって、「日本的な辞書の時代」が到来するという。

 ことばについて、単にその意味を探るだけでなく、辞書を通じて多くのことを知ることができる、辞書はただ単に実用的な用途だけではなく、もっと教養的な用途に役立ちうるのであるというところに著者の主張があるようである。その点と関連して、『日本国語大辞典』について1章を割いて、そのより効果的な使用法について探っているのが注目される点である。この辞書をめぐる山田忠雄の批判と、それに対する松井栄一の論争について詳しくは触れず、「大学で日本語について何かを調べる場合には、最終的には必ずこの『日本国語大辞典』に当たるように学生に伝えている。それだけ信頼のおける辞書である」(60ページ)という評価を与えている。言葉が変化していくのと同じように辞書も変化していく。その変化が成長であり、発達であるためには、辞書に信頼感を持って接していく必要があるということであろうか。今野さんは既に「言海」をよむことの楽しみについて触れてきているので、その点はあまり強調されていないが、現在使用されているその他の個々の辞書についての特徴、とくにその長所をさらに見出していく必要はあるだろう。

 実は私は漢和辞典を使って漢字をどのように書くのかを確かめるくらいで、国語辞典はほとんど使わないで過ごしている。日常的に使っているのは英和辞典と英英辞典だけである。今野さんは国語辞書を読み比べたり、そこから言葉の意味を掘り下げていくことの楽しみをいろいろな例を挙げて強調しようとしているのだが、私は英和辞典の方にそういう楽しみを見出しているということである。さらに言えば、和英辞典にいいものが少ないのは、国語辞典にいいものがないことの影響を受けているのだという説をうのみにしているところがある。もう少し国語と英語を結び付けて考えてもいいのではないかと反省しているところである。

夜行列車の窓から(想い出)

12月20日(土)雨が降り続く

夜行列車の窓から(想い出)

冬の雨に閉じ込められて
ベッドの上で
あれこれの
思いにふける

寝心地はよくなかったが
前途への期待で
心が弾んでいた
夜行列車の旅を
思い出す

寝台車のカーテンを
少し 開けて
窓の 外を
覗いてみると

列車が停車している
駅の
まだ明るいプラットホームに
まばらな影を 落としながら
歩いている人たちが
見える

時計の針が 重なり合って
お休み――という
ほんの少し 前の時間の


どのあたりまで目が覚めていたのか
どこで目を覚ましたのか
その後のことは覚えていない
その駅がどこだったかも
覚えていないが
駅が不思議に明るかったことは
覚えている

なかなか寝付けないまま
ベッドの上で
雨音を聴きながら
寝台車から眺めた
駅の情景を思い出している

小倉美惠子『オオカミの護符』(2)

12月19日(金)晴れ

 著者はかつて代々農業を営んでいた実家の土蔵の護符についてその来歴を調べるうちに、それが奥多摩の御岳山と武蔵御嶽神社をめぐる信仰に由来することを知り、御岳山に何度も通うことになる。

 ある時、御嶽神社の宿坊の一つである山中荘の拝殿で「太占」と書いてある風変わりな「お札」を見かけた。横長のお札で、ずらりと農作物の名が並べられ、その下に数字が書かれている。太占とは、農作物の作柄予想が書きこまれた作況表だという。それだけでなく今でも毎年1月3日の朝に行う「太占祭」という神事で、鹿の肩甲骨を灼いて農作物の出来を占うという。この神事はあきる野市の阿伎留神社から伝えられたもののようであるが、今なおこの神事を伝えているのは群馬県富岡市の貫前(ぬきさき)神社(上野国一ノ宮)と武蔵御嶽神社だけであるという。

 この神事は門外不出の秘儀であるといわれたが、太占祭り当日の神が降りるとされる儀式の撮影を除き、記録する許可を宮司から得ることができた。神事の様子を撮影し、出来上がった太占表を目にした著者は、「この結果を読み解いて、天候を一番よく当てるのは農家の人たちですよ」(98ページ)という宮司の言葉をきいて、天候を読み当てるという農家の人を探して関東一円を歩き回ることになる。

 すると友人から「黒い獣の護符を畑に掲げている農家がある」と聞き、その農家を訪ねる。市街地でたった一軒となっても専業農家を続ける80歳の老人は太占表をすらすらと読み解いた。老人の畑を見守る「オイヌさま」は、「何故かひときわ逞しく精悍に見える」(105ページ)と著者は感じる。さらにその頭上に記されている「大口眞神」という文字が気になってくる。

 再び御岳山に向かった著者は、御嶽神社境内に「大口真神社」という社があることに気付く。「お札と同じ名を持つこのお社は御岳山の最も高い、しかも本殿を真後ろから見下ろす位置に置かれている」(107ページ)。著者は大口真神社は「オオクチマガミ社」といい、正月、五月、九月の年3回、「大口真神祭』が行われていることを知り、取材を申し込む。細字の中で、扉の奥から出てきた木像のご神体は、オオカミを直感させるものであった。そこで宮司に尋ねると、「大口真神はニホンオオカミである」(108ページ)というはっきりとした返事を得た。宮司自身が幼いころ、おじいさんから「この山にはオオカミが棲む」と聞かされ、オオカミと思しき遠吠えを聴いたということである。実際、関東の山々にはニホンオオカミが多く棲息し、イノシシやシカなど獣害を起こす動物たちを捕食し、農作物を守ってくれていたのだという。そのことからお百姓はオオカミを神と崇めるようになったのではないかという。

 著者はさらに御岳山のふもとにあるオオカミの頭骨を祀る家を訪問し、関東の山地には畿内に至るまでニホンオオカミが数多く棲息していたことをさらに確かめる。山梨県立博物館で「ニホンオオカミ絶滅から100年」というタイミングで行われた『オオカミがいた山』という特集展示をみて、自分が知っている以外のさまざまな種類の「オオカミの護符」の存在を知る。「なんと『オオカミの護符』を発行する神社は武蔵御嶽神社のみならず、関東甲信から中部地方にかけての山地に多く重なる。オオカミの頭骨を所蔵する家も多い」(118ページ)。

 「オオカミの護符」を発行するオオカミ神社は、奥多摩、埼玉、山梨が圧倒的に多いが、長野県と静岡県にまたがる天竜川沿いにもオオカミ信仰が盛んな地域がある。オオカミについての伝承と信仰は他の地域にもみられるが、「オオカミの護符」を発行し、講社が組まれる信仰形態は、関東と天竜川流域に限られているようである。

 さらにまたオオカミ信仰の神社は、護符を発行するだけでなく、境内の狛犬に特徴があることもわかってきたという。「普通の狛犬は『獅子型』という阿吽の獅子に似せた像だが、オオカミ神社の狛犬は「ヤマイヌ型」といわれ、オオカミをかたどっている」(121ページ)。著者はこのような知識を得て、ますますオオカミ信仰への関心を深め、今度はオオカミ信仰の神社が密集する秩父に向かうことになる。

 武蔵御嶽神社とともに太占の神事を伝えていると記されている貫前神社には、お参りして御朱印を頂いた(一宮巡歴を続けているのである)ことがあり、今、思い出してみると2006年のことあったので、著者が御岳山に通っていた時期ではないかと思う。その際に、川村二郎さんの一宮巡歴記などに走るされていないカエルの置物を備える慣わしがあることなどを見聞したのだが、太占についてはまったく聞き及ばなかった。神社に1度だけ詣でるのと、何度も詣でて、関係者から話を聞いていくのとでは、得られる情報の量や質に大きな違いが出るものだということを改めて感じさせられる。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(17)

12月18日(木)晴れ、昨日に比べて寒さが和らいだ感じである。

「尖った尾の凶獣がここにいる。
山々を越え、城と軍を滅ぼす。
世界を腐臭に満たす獣がここにいる」。
(248ページ)

 ダンテとウェルギリウスは暴力者たちの霊が罰を受けている地獄の第7圏の第3小圏にいるが、ウェルギリウスはこう言って、獣に向かって手招きをする。すると、さらに奥深くにある第8圏から奇怪な姿をした悪魔ゲリュオーンが浮上してくるのが見えた。「この悪魔は詐欺の化身であり、善人の顔、蛇の胴、獅子の腕を持つ三つの生物の異種混交体である。善良な見せかけで狡猾に人間を欺き、力で押さえ込み、二面性を露にした瞬間、二股の毒針を持つその尾でとどめを刺すとされる。神の完全性を表現する三は魔王ルシフェルの三頭と同様、ここでは悪の深さを示している」(原基晶さんによる解説、561-2ページ)。

 ウェルギリウスは、崖の下にある次の第8圏に自分たちを下すよう悪魔と交渉し、ダンテにはその間に、暴力者の圏に住む最後の罪人、高利貸、つまり大銀行家、現代の言葉では金融資本家を見てくるよう告げる。

こうして私はその第七圏の
縁の際をたった一人で
さらに進んだ。そこには悲惨な者どもが座っていた。

その者どもの苦しみは目を通って外に激しくあふれ出ており、
ここ、そこと手をせわしなく動かして
ある時は火の蒸気を、ある時は灼熱の地表を避けようとしていた。
(252ページ)

その幾人かの顔に視線を向けてみたが
苦痛の火が今も降りかかっているあの者どもの
誰一人として見分けられなかった。だが私は気づいた、

それぞれの首には
決まった色と決まった意匠の財布がぶら下がっていたが、
それをその者どもの目は、貪り喜んでいるようである。
(252-3ページ) ダンテには、個々の特徴を失ってしまった罪人たちを見分けることができない。この場所の罪人には貴族が多く、胸にぶら下げた家紋入りの財布はその罪人の出た家を示している。そこで彼は紋章により彼らの家を知ろうとする。そしてフィレンツェや、その他のイタリアの都市の銀行家たちを見出す。ここでその紋章を取り上げられたパドヴァの銀行家スクロヴェーニ家は、贖罪のため画家ジョットにパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画の制作を依頼した。これは今日も見ることができるジョットの傑作の1つであり、たしかNHKラジオのまいにちイタリア語の『イタリア:24の物語』にも登場したという記憶がある。なお、ジョットの名は『煉獄篇』で言及されることになる。

 ダンテはさらにとどまり続けることが、ウェルギリウスの怒りを招くことになるかもしれないと思い、引き返す。すると、ウェルギリウスは既にゲリュオーンの背にまたがっており、ダンテも乗るように促す。彼がその席を確保すると、ウェルギリウスはゲリュオーンに第8圏へと下降しながら飛んでいくように命じる。

獣はゆっくりゆっくりと泳ぎながら進む。
旋回して降りていくが、ただ
下から顔に風が吹きつけていることしかわからない。

既に私には、滝壺が右手のほうで
私達の下に恐ろしい轟音をあげているのが聞こえ、
そのため視線を下に向けながら顔を覗かせてみる。
(259ページ)

 ダンテが恐る恐る覗いた下の世界ではさらに過酷な罰が与えられていることが見て取れた。ゲリュオーンは2人を奈落の底の、切り立つ岩盤の立ち上がり際に置き、2人が下りたことを確認すると、すぐに姿を消していった。2人はいよいよ地獄の第8圏に達したのである。

 当時の通念では高利貸はキリスト教の教えに背く、異端の罪を犯していると考えられていたが、ダンテは彼らの利益の追求が都市間の戦争の原因になっていると考え、高利貸を暴力者の群れの中においたのだという。彼が当時の社会の問題を深く追及する目をもった詩人であったことを改めて考えさせてくれる個所である。

語学放浪記(46)

12月17日(水)晴れ、風が強く、寒い。

 今日は研究会(とその後の忘年会)のため、夕方から外出するので、早めに更新することにした。

 このところ、夜、寝るのが遅くなり、その分、朝、起きるのも遅くなって、7時台の語学番組を聞き逃すことが多くなってきた。今日もかろうじてイタリア語の時間を聴いただけであった。

 10月から英語の番組を聞くようになって、他の言語に比べれば英語の方がよく分かることもあって、ドイツ語、フランス語、イタリア語に注ぐ情熱がやや薄れてきたような気がしないでもない。その英語であるが、受動的に理解することはできるが、能動的・積極的に英語とかかわること、それによって自分の考えを表現していくということについてはまだまだ努力しなければならないようである。それでも他の外国語に比べて到達水準が高いのは、これまで勉強してきた時間が圧倒的に多いことによると思われる。

 とにかく、時間をかけて努力することは大事である。11月1日のこのブログで取り上げた行方昭夫『英会話不要論』の議論と重なる(あるいは、この書物から影響を受けた)点が多い議論になるが、英会話――に限らず語学学習における会話――重視論には2つの問題点があるように思われる。まず、日本語と英語とは発音体系が違うのだし、流ちょうに会話をしていくためには、いろいろな表現を口に出して練習し、また単語を覚えたり、文法的な知識を増やしたりする必要がある。そういう努力抜きでは会話力は上達しないということが、しばしば見落とされている。英会話は英米人と楽しくおしゃべりしていれば、自然と上達するなどというものではないのである。このことを理解するために、とりあえず、NHKラジオの「ラジオ英会話」を聞いてみたらどうだろうか。Words & Expressionsという単語や表現を覚えるためのコーナーもあるし、Apply It!という応用練習のコーナー、Say It!という反復練習のコーナーもある。さらにリスニング問題も出されていて、会話の上達のためには練習が必要あということが分かるはずである。この番組のレヴェルはB1なので、そこまで到達していないと思う人は、まず到達するよう努力すべきである。

 英語があまりよくできない日本人が多いのは、努力の不足による点が大きい。学校教育だけを当てにせずに、自分でもいろいろと機会を捜して努力すべきなのである。そういえば英米人も外国語が苦手だといわれるが、これは英語が世界中で通じるという意識から、努力を怠りがちであることが原因のようである。もっとも努力が空回りすることもあるから、自分の努力の質について検討することも必要なのであろう。

 第2に、ただ単に会話だけできてもダメで、話し手の職業的な能力や趣味・教養その他もろもろの人格的な要素も重要だということである。私の中学・高校の同期生で英語の発音をいつもほめられていて、そのことで自信を持って東京六大学のある私立大学に進学し、そこのESSで活躍したのがいるが、英語を使って活躍する銀行員を目指して銀行に入行したもののうまくいかず、結局、別の業界に進んでそこで大成功した。彼は英語の能力はあったが、銀行員としての能力はなかったものと見える。そして、会話力よりも、おそらくは英語を通して得た先見力で成功したのである。だから英語だけ勉強しても仕方がないことも、肝に銘じる必要がある。

日記抄(12月10日~16日)

12月16日(火)曇り後雨、寒し。

 12月10日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
12月10日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」でfaire(作る、する…)という動詞を使った次のような文が出てきた。
Elle fait bien la cuisine. (彼女は料理がうまいんだよ。)
 一方、「まいにちイタリア語」の時間では、fare(する、作る…)という動詞を使った次のような文ができた。
 Ho fatto un sogno strano. (私は不思議な夢を見ました。)
フランス語のほうは現在形であるが、イタリア語のほうが近過去で、少し難しい用法を練習していることが分かると思う。

 神田神保町のすずらん通りの檜画廊で、秋山とも子、 石川えりこ タカタカヲリ 「三人三様」展を見た。タカタカヲリさん製作のカレンダーを購入する。

12月11日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」応用編「黒猫イクラと不思議の森」の本日の放送では、オーストリア皇帝フランツ1世の長女で、ナポレオンの2番目の妃となったマリー・ルイーゼが登場した。結婚当時ナポレオンは40歳、マリー・ルイーゼは18歳、その一方で、彼女は身長が167センチしかなかったナポレオンよりも背が高かったという。2人の間に生まれた皇子フランスワ(→フランツ)は利発で美男だったというが、ナポレオン失脚後はウィーンで幽閉状態となり、21歳の若さでこの世を去った。マリー・ルイーゼは1847年に死ぬまでパルマ公国を統治していた。

 同じく「まいにちイタリア語」応用編では衣装家、アート・ディレクターのアリーチェ・アンセルミさんのインタビューを聴いているが、大学卒業後ヴェネツィアの攻防で働いていたところ、ヴェーラ・マルゴットVera Margotという衣装家に出会った、この人物は多くの有名人と交流があり、とくにイタリアのネオレアリスモの映画監督たちと一緒に仕事をした人物であったと語っていた。そこで、ヴェーラ・マルゴットについて調べてみたところ、『ロベレ将軍』(ロッセリーニ)、『山猫』(ヴィスコンティ)、『明日に生きる』(モニチェッリ)、『地獄に堕ちた勇者ども』(ヴィスコンティ)などでスタッフとして働いていることが分かった。ただし、補佐とか助手とかいう地位での仕事なので、よほど注意してクレジット・タイトルを見ていないと気付かない存在であったようだ。

12月12日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」のGraffiti Cornerに出てきた文章:
 Today is the tomorrow you worried about yesterday, but in two days tomorrow will be yesterday.
(今日は、昨日あなたが心配した明日。でも、2日たてば明日は昨日に。)

12月13日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」ではJonathan Swift(1667-1745)のGulliver's Travels (ガリヴァ―旅行記)をトピックとして取り上げた。この番組では物語の概略を語っているだけだが、来年の1月から3月まで「カルチャーラジオ」の「文学の世界」でこの作品について詳しく論じる「風刺文学の白眉『ガリヴァ―旅行記』とその時代」が放送されるはずである。どんな番組になるか楽しみだ。スウィフトについて10月8日の「実践ビジネス英語」ではAnglo-Irish satirist and churchmanと紹介していたが、彼の業績を巧みにまとめていると思う。

12月14日
 「攻略!英語リスニング」でshadowing用に抄出された一節のそのまた一部:
In his third voyage, he makes it to the flying island of Laputa. He aloso goes to Luggnagg, where there are people who are immortal but without eternal youth.
((3回目の航海では、空飛ぶ島ラピュタにまでたどりついてね。それからラグナグにもいくんだけど、この国の人々は永遠の命は持っていても、永遠の若さはもっていないのよ。)
 ラピュタは英語ではラピュータというふうに、第2音節のpuのところにアクセントを置いて発音するということである。Luggnaggの人が不死ではあっても、不老ではないというのは紹介としては不正確で、住民全員がそうだというのではなくて、ごくまれに、そういう人が生まれることがあるということである。我が国の仮名草子「和荘兵衛」には不老不死の国の話が出てくるが、それに比べてスウィフトの方が話が複雑になっていることは確かである。

12月15日
 総選挙の投票率が低かったことについて、投票するほうの有権者の自覚を促す意見が少なくないが、される方の政治家の責任というのも考えてよかろう。政治を魅力的なものにするためにはどうしたらよいか、考えてほしいものである。

 東直己『探偵ホウカン事件日誌』(光文社文庫)を読み終える。北関東に設定された薪谷市という架空の都会を舞台として、探偵法間(のりま)謙一が活躍する異色の作品。何が変わっているといって、相手をほめまくって警戒心を解いていくという捜査の進め方が変わっているのである。東さんの『探偵はバーにいる』シリーズの映画化は見ているが、原作を読んだことはない。これからほかの作品も読んでみようかと思っているところである。

12月16日
 「まいにちフランス語」初級編の「教えてMadame」のコーナーで、「フランス人とチーズは切っても切れない関係ですよね」という講師の久松健一さんの問いかけに対して、パートナーのフロランス・メルメ・オガワさんは
Oui, c'est comme les "tsukemono" pour vous. (はい、あなた方=日本人)にとっての「漬け物」みたいなものです。) と答えていた。とはいうもののCependant, il y a des Français qui n'aiment pas le fromage.(しかし、チーズを好まないフランス人もいます。)とも言っていた。「漬け物」についても同じことが言えるかもしれない。私は、チーズも漬け物も好きである。 

『太平記』(20)

12月15日(月)晴れ

 今回から第4巻に入る。

 元弘元年(1331年)9月29日に、笠置の城が攻め落とされ、後醍醐天皇が囚われの身となったという知らせが伝わると、人々の心も変わって、あちこちに身を隠しておいでになった後醍醐天皇の子息である宮様方が探し出されて六波羅に連行された。

 天皇と行動を共にしていた万里小路藤房、季房兄弟も笠置で捕えられた。その父親である大納言宣房卿までもが武士によって召喚され、囚人扱いをされた。すでに70歳を超える高齢であり、後醍醐天皇は遠方に移され、息子2人はことによると死罪になるかもしれないと聞き、長生きをしてきたためにこのような目に合うのかと悲痛な思いで歌を詠んだのであった。
 長かれと何思ひけん世の中の憂きを見するは命なりけり
(182ページ、命長きことをなぜ祈ったのか。この世で憂き目を見るのは命長らえたからのことよ。)

 後醍醐天皇のもとに仕えていた公卿殿上人は幕府に対して罪があろうとなかろうと、出仕をとどめられたり、官職を解かれたりして、隠棲したり、不満を抱きながら自宅で過ごしたりしていた。「運の通塞、時の否泰、夢とやせん幻(うつつ)とやせん。時移り事去つて、哀楽互ひに相替はる。憂きを習ひの世の中に、楽しみても何かせん、嘆きてもまた由なかるべし」(同上、運が開けることと塞がること、時を失うことと得ること、夢といおうか現といおうか。時が移り事が去って、悲しみと楽しみがお互いに入れ替わる、憂きことが習いの世の中で、楽しんでみてもどのような意味があろうか、嘆いてもし方のないことである。) 名文ではあるが、現とすべきところが幻になっていたりして、書き手自身が文章に酔っているところがあるような気がする。

 あくる元弘2年の正月に、鎌倉からの使者として問注所の執事である信濃入道道大(太田時連)が上洛、前年笠置城が陥落した際にとらえられた人々の流刑地を定めた。
 一宮である中務卿親王(尊良=たかよし親王)を土佐の畑(高知県幡多郡)に、第二宮妙法院(尊澄法親王、後に還俗して宗良=むねよし親王)を讃岐(香川県)に配流した。父の天皇を思う気持ちからであろうか、それとも衆生済度の志からであろうか、到着されるとともに三時の護摩という密教の修法を始め、続けられた。第四宮(静尊=じょうそん法親王)は但馬(兵庫県北部)に配流された。

 第九宮(恒良=つねよし親王、後に皇太子)はまだ幼いという理由で中御門中納言宣明卿に預けられ、この方だけは都にとどまることとなった。しかし、世の人よりも大人びた心根の方だったので、自分だけが都にとどまることを心苦しく思われ、せめてまだ白河に押し込められていると聞く父親に会いたいといわれた。ここで白河というのは今日の鴨川よりも東、東山との間の地域、現在の岡崎のあたりを言うのだが、後醍醐天皇が押し込められていたのは、もう少し南の六波羅であった。宣明は涙をおさえて、白河は遠方でございますよといいくるめようとするが、宮はお前のいうのは陸奥(現在の福島県)の白河であり、京の東の白河とは違うといって、二度と父親に会うことをせがもうとはされなかった。物悲しいご様子で中門のところに立っていられると、遠くの寺の鐘の音が聞こえてきたので、
 つくづくと思ひ暮らして入相の声を聞くにも君ぞ恋しき
(186ページ、物思いに沈んで一日を過ごし、夕暮れ時の鐘の音を聞くにつけても父君が恋しい。つくづくと鐘を撞く、思ひと日暮らしとを掛けている。) 幼少の宮様が作られた歌にしては大人びているのが却って人々のあわれを誘い、都中に広まったのであった。

 鎌倉幕府による処分は手続きとしてかなり乱暴に思われる。朝廷の構成員に対する処罰は形式的にでも朝廷の手続きを踏むべきだと思うのだが、直接幕府の、本来武家の問題を処理すべき機関の役員が登場して処分を進めている。そのあたりに幕府の混乱、余裕のなさを見るべきであるのかもしれない。もっとも承久の変の前例に倣ったのかもしれないが、何にしても手続きは尊重すべきである。ここで物語に登場しない第三宮(大塔宮尊雲法親王、還俗して護良=もりよし親王)は大和に潜伏中で、第5巻になって登場する。この後、後醍醐天皇の側近の公卿たちの処分が語られるが、それは次回に述べることにする。

ストックホルムでワルツを

12月14日(日)晴れ

 12月13日、横浜シネマ・ベティでスウェーデン映画『ストックホルムでワルツを』(2013、ペール・フライ監督)を見る。

 1960年代にスウェーデン語でジャズを歌い、1964年にビル・エヴァンズと共演して世界的な名声を得た歌手モニカ・ゼッタールンド(1937-2005)の半生を描く作品。

 スウェーデンのHagforsという田舎町で電話交換手として働くシングル・マザーのモニカは、その一方でジャズ歌手として各地を巡業して歩いている。ある時、その美貌と歌唱力とを買われて、ニューヨークのクラブで歌うことになるが、まだ人種差別が厳しかったアメリカで、黒人と白人が共演することは大衆的な支持を受けず、契約を解除され、さらに酒場で出会った憧れの歌手エラ・フィッツジェラルドからは、他人のまねではなくて、自分の心から出た歌を歌いなさいと言われる。

 スウェーデンに戻った彼女は夏の巡業中に出会った音楽仲間から、英語ではなくスウェーデン語の歌詞でジャズを歌ってみることを示唆され、新しい境地を開いて名声を確立していく。とは言うものの、彼女の音楽上の試みに対する風当たりも強く、その道は平たんとは言えない。加えて彼女の音楽活動を認めようとしない父親との確執、(『私は好奇心の強い女』で知られるヴィルゴット・シェーマン監督を含む)何人かの男たちとの出会いと別れ、祖父母と母の間でいったりきたりを繰り返すことになる娘との関係など、人間的な苦悩も加わる。過度の飲酒と喫煙とが彼女の体をむしばんでいったことも推測できる(歌手という仕事を考えると、かなりの不摂生である)。

 音楽家、特に歌い手の半生を描く作品は少なくないが、この映画では英語という多くの人々に受け入れられる言語で歌うか、自分の母語であり、慣れ親しんでいるスウェーデン語で歌うかという問題が強調されているところが注目される。モニカは英語で歌って、アメリカ進出に失敗し、スウェーデン語で歌うことで名声を得る。しかしおそらくはそのためにアメリカへの再進出の機会が遠のく。

 実をいうとジャズには不案内なうえに、外国の話なので、物語がいつ頃の話なのか、最初は見当がつかず、多少まごつきながら見ていた。電話の交換手という仕事が成立していたのだから、昔の話だというように頭が廻らなかったのは、音楽のほうに気を取られていたからかもしれない。この映画の年代がわかりにくかったのは、登場人物のファッションや住まいのインテリアなどきわめて洗練されていて、現代の話としてもおかしくはないほどであったことにもよるのであろう。同世代とは言えないが、モニカは私と同時代の人間であり、そう考えてみると、1960年代はまだ国による文化の違いが大きかったことを改めて考えさせられる(さらに言えば、アメリカという一つの国の中でも、人種や地方によって文化が違い、相互の交流があまりなかったのである)。その文化を超えて、彼女の歌は人気を得ていったのである。ニューオリンズで生まれ、もともと多国籍的な性格を持つ音楽であるジャズが、さらにその多国籍性を増していく過程を描いていると受け止めるべきであろうか。

 映画では描かれていないが、モニカ・ゼッタールンドは女優としても活躍したものの、後半生は病気であまり幸福とは言えなかったとのことである。スウェーデンの観客ならば誰でも知っていることなので省いたということかもしれないが、悲劇性を削ったことで娯楽作品として楽しめる出来上がりになっている。彼女の役を演じているエッダ・マグナソンはもともと歌手だそうで、歌唱力に加えて容貌の点でも(写真で見る限り)モニカの姿をよく再現しているように思われる。最近は北欧の蒸留酒とは縁のない生活をしているのだが、この映画を見て、また飲みたくなったというのは余計な感想であるかもしれない。

本当のことを言っても

12月13日(土)晴れ

 「心のうた|みよ@こたつむりが詠む詩集」に「嘘」という詩が掲載されていた。たえがたいような寂しさを感じさせる詩で、文学作品としては成功だろうが、作者の心の中が心配で(といっても、私も心寂しい人間の一人であることに変わりはないのだが)、自分なりに答えの詩を書いてみた:

 本当のことを言っても

本当のことを 言っても
嘘をついても
実らない恋は
実らない

それを 認めるのは
つらいことだけれども
これが
恋というものの 本性

好きは 好き
嫌いは 嫌い

それが 神の領域なのか
あるいは
獣の領域なのか
まったく
わからないが

どうも
そういうことに
決まっているらしい

嫌われたからといって
自分を否定することはないし
うまくいったと
有頂天にならずに
慎重 かつ 慎重
というのが 人生の成り行きだ

実らない恋もあれば
実る恋もあって
世の中は
動いている

恋だけで
世界が成り立っているわけではないが
それも欠かせない
一部分

そのなかで
どんな役を演じることになるか
それは
運次第

群ようこ『おやじネコは縞模様』

12月12日(金)曇り、時々晴れ間が覗いていた。

 12月11日、群ようこ「おやじネコは縞模様」(文春文庫)を読み終える。

 著者が飼っているメスネコのしいちゃんを追いかけて、マンションの最上階までやって来て、居心地がいいものだから時々顔を出すようになった外ネコ(というよりも野良ネコといった方がピッタリの風貌の)オスネコのしまちゃん。不器量で愛想が悪く、大食漢であるが、なぜか憎めないこのネコに、近所の猫好きたちはそれぞれ勝手な名前をつけて餌をやり、そのおかげで太っているのだが、そのくせ喧嘩は弱く、ほかのオスネコにやられて満身創痍でしょぼんとしていることがある。

 動物好きで知られる著者は、このしまちゃんを始め、自分の飼いネコであるしいちゃん、友人たちの飼いネコなど、ネコをはじめとして、イヌ、サル、げっ歯類などの動物について自分の体験をもとに様々な感想を書き散らしている。ネコの話題が多いのは、ネコを飼った経験が多いからであり、とくにネコが好きというよりも、行きがかり上そうなったのだと著者は語っている。ネコに比べてイヌの方が品種が多いので、飼い主はそれなりの愛着があって飼うことを選ぶのではないかともいう。
「ネコの場合は、里親捜しで出会ったり、もちろんペットショップで購入する人もいるが、偶然の出会いがあって、やむにやまれず飼う人も多い。わたしも実家にいるときネコはいたが、そのときもネコを飼いたいと思っていたわけでもなく、ずるずるとそうなった。私の飼いネコ「しい」との出会いもそうだった。」(164ページ) それにしてもしまちゃんにやるキャットフードの量が多くて、インターネット通販のゴールド会員になったという話など大いに笑わせられる。「ネコ好きにはどこかおおざっぱというか、アバウトなところがあるのだ」(同上)というのにはまったく同感である。そうかと思うと、夏が過ぎてもまだ元気で、どこからともなく著者を襲ってくる蚊との壮絶な戦いの次第も記されている。

 人間もペットも高齢化が進み、それだけに両者の関係は複雑化している。著者はおそらくは自分の老いも念頭に置きながら、動物たちの老いを語る。外ネコのしまちゃんが病気になり、姿を消すところの描写は淡々としているが、気にかけている著者とその友人の気持ちはよく伝わってくる。しまちゃんだけでなく、いつもその食べ散らかした餌をたべにやって来たムクドリのつがい、さらにその食べ残しをたべにやって来たスズメのつがいについても著者の目が向けられている。いなくなったしまちゃんのたましいが戻ってきたのではないかと思われるときには、なぜかムクドリ夫婦、スズメ夫婦の姿が見えるという。「秋のお彼岸の時には、しまちゃんとともに、また二組の夫婦が遊びに来てくれないかと、ささやかに願っているのである」(196ページ)という結びにはしんみりさせられる。

 実は今日、郵便局で犬を抱っこして順番を待っている女性をみかけた。それでチェーホフの短編小説と違って、飼い主の方にはまったく関心はなく、イヌと視線を合わせながら、群さんがイヌを見ていると飼い主との関係についていろいろと想像できると書いていたことを思いだしていた。飼い主の膝の上でおとなしくしている犬は、まずまず関係良好なのであろう。ネコの方は見ていても、飼い主との関係はわからないと群さんは言うのだが、ネコの場合でも関係を物語るような何かはやはりあるのではないかという気がしている。もちろん、群さんも書いているように、ネコの(ほかの動物も)性格は一匹一匹違ってそれぞれの個性がある。他と比べてどうかということはないはずである。とはいうものの、自分の家にネコがいるとどうしても自分の個性がどんなふうにネコに反映しているのか、そんなことを考えたくなるのである。

小倉美惠子『オオカミの護符』

12月11日(木)雨のち曇り

 12月10日に、小倉美惠子『オオカミの護符』(新潮文庫)を読み終える。最近、読んだ本の中では群を抜いて面白い本であった(面白そうな本しか読まないことにしているのだが、その中でも面白かったということである)。

 小倉さんの出身地である川崎市宮前区土橋は、渋谷から電車でわずか30分という東急田園都市線沿線の住宅街であるが、かつては橘樹郡宮前村大字土橋という戸数50戸ほどの農村であった。先祖代々この地域で農業を営んできた過程に生まれ育った小倉さんは、開発による変化を身をもって体験し、その中で自分の生まれ育った環境に背を向けた時期もあったというが、長じてより広い世界を知るようになって、変化の中で失われた、あるいは失われようとしているものを再評価するようになった。

 そこで土橋の行事や芸能をビデオで記録保存することをくわだて、撮りためていったのだが、その中で幼いころから実家の古い土蔵の扉に貼られた「護符」のことが気になった。
 「護符」は幅10センチ、長さ30センチほどの細長い紙で、そこには鋭い牙をもつ「黒い獣」が描かれ、獣の頭上には「武蔵國 大口眞神 御嶽山」という文字が三列に並んで配されている。(22ページ)
 この札は「おイヌさま」と呼ばれ、「御嶽講」の講中の家に毎年配られているという。農村であった時代には、さまざまな「講」が集落の人々を結び付けていた。
 数ある「講」の一つ「御嶽講」は、「宿」と呼ばれる村の家に集い、御岳山にある武蔵御嶽神社(東京都青梅市)にお参りに行く代表者を決める行事だという。種まきや田植えの始まる前に、作業の無事と豊作を願うことから、毎年春先に行うのだそうだ。(45-6ページ)

 「御嶽講」のほかにも「念仏講」や「榛名講」、「地神講」などが人々を結び付けていたという。小倉さんは、「御嶽講」の様子を撮影することに成功し、そこからさらに青梅の御岳山の武蔵御嶽神社への参拝にも同行することになる。御岳山のある奥多摩と川崎を結び付けるものといえば、まず多摩川である。多摩川は沿岸、とくに川崎の農業に損害と恩恵の両方を与えてきた。
 いくたびも氾濫を繰り返し大きな被害をもたらしながらも、余りある恩恵を与えてくれた多摩川への感謝をこめて、大師河原村の人々は講を組んで上流の御岳山へ参拝を続けてきたそうだ。
 今でも川崎に「御嶽講中」が多いのは、こうした背景によるものだろう。(60-61ページ)
 土橋御岳講中の参拝の撮影からプロの映画人である由井英さんが協力することになって、映像記録は本格的なものとなる。その一方で、御岳に向かいながら小倉さんは、関東の山をめぐる様々な信仰、大山と雨、榛名山と表や嵐の害の結びつきについて思い出す。では、御岳山には何を願ってお参りするのか。「黒い獣の護符」はそれとどのような関係があるのか。

 講中の人々は直接山頂の神社に参拝はせず、まず山道の両側に建ち並ぶ宿坊の1軒に立ち寄り、そこでお祓いをし、身を清めてから、宿坊の主人である「御師(おし)」に導かれて山頂を目指すことになる。御師は、講中が山を訪れて参拝するときに世話をするだけでなく、毎年、年が明けると御岳山から下りて土橋の講中の家を一軒一軒訪ね、神棚に祝詞をあげて「おイヌさまのお札」を配り歩くという。この参拝の経験から小倉さんは御嶽講の魅力に取りつかれ、由井さんとともに何度も御岳山に通うことになる。
 御嶽神社のみならず、富士、大山、榛名、出羽三山、戸隠などでも「御師」(「おんし」、「先導師」と呼ぶところもある)の存在が知られているが、いずれも宿坊としては存続していても、毎年里に下りてお札配りやご祈祷を続けているのは「御嶽御師」の他にはなくなってしまったと聞いた。今日でも里に下りて講社を廻る御嶽の御師は、行いも集落の佇まいも、いにしえの形態をもっともよく伝えていると言えるだろう。(86ページ)

 小倉さんと由井さんによる探求と映像記録の作業はさらに進み、さまざまな発見をもたらすのだが、それはまた次の機会に紹介することにしたい。小倉さんは自分が生まれ育った地方の橘樹郡という旧郡名にこだわりを持っているようだが、実は私が住んでいるのも旧橘樹郡の久良岐郡に近い端の方で、その意味でこの書物には親近感を持っている。それに川崎市の府中街道周辺も以前は歩き回っていたことがあるのである。小倉さんは、橘樹郡という名称は、倭建命と弟橘媛の神話に由来するという説を紹介しながら、「村々に生える『みかん』の木を見て育った私は、柑橘系の実がよく生ることからついた名ではないかと思っている」(31ページ)という意見を書き添えている。私の住まいの近くでも柑橘系の木が身を実らせている情景をよく見かけるので、この意見には大いに聞くべきものがあると思う。ついでに言うと、久良岐郡というのは海にクラゲが多いことからこの名がついたという説があり、横浜の沖の海にクラゲが多いことも経験によって確認している。身近な地域の伝統と文化を見直し、掘り起こすことの意義を改めて考えているところである。

大根と人参

12月10日(水)晴れ

 神保町シアターで、「伝説の女優 桑野通子と桑野みゆき」特集上映から、1965年の松竹映画で渋谷実が監督、桑野みゆきが出演している『大根と人参』と、1941年の松竹映画で小津安二郎が監督、桑野通子が出演している『戸田家の兄妹』の2本を見た。母の通子は31歳の若さで世を去り、娘のみゆきは20代の半ばで結婚のために引退し、ともに活躍期間は短かったが、映画の観客に強い印象を残した母子である。といっても、桑野みゆきの映画は多少は見ているが、通子の映画の方は全く縁がなかった。本日見た2本の作品は、共にこの母子の主演作ではなく、脇役で顔を見せているという程度の作品なのだが、一方は小津安二郎の原案に基づいて、彼を追悼する意味で作られた映画、他方は小津が戦前に監督した映画ということで、小津安二郎の足跡を辿るという見方もできる2本立てであった。このブログでは主として『大根と人参』について取り上げる。

 大会社の総務部長である山樹東吉(笠智衆)には妻の信代(乙羽信子)との間に4人の娘がいるが、3人は既に結婚し、末の恵子(加賀まりこ)だけが未婚で同居している。その恵子は東吉の友人の鈴鹿(山形勲)の息子の三郎(三上真一郎)と恋仲で、彼を婿養子にするという話が進んでいる。ところが、中学校の同期会(いかにも小津映画らしい場面の設定)で、一番の秀才だった秋山(信欣三)が癌で余命いくばくもないという話題をめぐり、隠しておこうという鈴鹿と、告知すべきだという東吉とが対立して話がおかしくなる。東吉には康介という弟がいて、彼の引きで同じ会社の係長をしているが、女性関係のもつれからか、会社の金を使い込んでいると打ち明けられる。身内の問題は身内で解決しようと100万円のうち70万円を工面し、残りの30万円を渡すという手はずになっていたのだが、突然、東吉が失踪する。

 東吉の娘の京子(岡田茉利子)とその夫の小滝(池部良)、夏子(有馬稲子)、晴子(司葉子)たちは手分けして東吉の行方を探る。彼らのもとに河野美枝(岩下志麻)という謎の女性が登場し、東吉が隠していた秘密が明らかになり始める。そして、東吉は…。

 原作が野田東梧と小津、脚本が白坂依志夫と渋谷ということで、どこまでが小津の原案で、どこからが渋谷の脚色なのか、想像する楽しみがあるといえばそれまでだが、作風の違う作家の個性が接木されているので、見ていて当惑するところがある。とくに姿をくらました東吉の行方を描く場面を中心として、ところどころにちりばめられたドタバタ場面やブラック・ユーモアは渋谷のものだろうが、小津も若いころはいろいろな冒険をしていたので、一概に小津の原案を渋谷が勝手にいじったとはいいがたいところがある。小津の演出の特徴は熟知していたであろう渋谷が、映画の監督に当たってもかなり自分の個性をおさえようとしたことは容易に想像できるのだが、遠慮しないで自分の個性を出した方が小津も喜んだのではないかと勝手に推測してしまう。

 豪華な配役の中で、まだまだ若かった乙羽信子の演技が光る。そういえば、岡田茉利子の第1回プロデュース作品の『熱愛者』では、乙羽は岡田の姉の役であった。と、書いてきて、桑野みゆきはどこに出ているのだという話になるが、それは見てのお楽しみということにしておこう。この映画、12日まで上映しているから、そのつもりになれば見ることができるはずである。

 『戸田家の兄妹』は財界の大物であった戸田家の当主が急死し、邸宅を手放すことになって、未亡人と三女(高峰三枝子)が行き場を失い、長男や長女の家に寄寓することになるが、うまくいかず・・・という展開の物語で、父親の生前はだらしなかったが、死んでから心がけを改めて天津で仕事に打ち込むようになった次男(佐分利信)と三女の兄妹愛が物語の芯になっている。佐分利信にしても、高峰三枝子にしても、年をとってからの演技には結構接してきたのだが、こうして若い時の姿を見ると、別の感動を覚えるから不思議なものである。昭和10年代の裕福な人たちの暮らしぶりがどのようなものであったか、今となっては想像がしにくいものであるだけに、その姿を描いているという点でも興味深い作品であった。桑野通子は高峰の友人役で登場するだけなのだが、結構重要な役割を演じているので、そのあたりを注意してみるとよいのではないかと思う。

日記抄(12月3日~9日)

12月9日(火)晴れ

 12月3日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
12月3日
 NHK「まいにちドイツ語入門編」は中年の日本人女性の旅を追う形でストーリーが展開しているが、12月に入って、舞台がベルリンからドレスデンに移った。テキストのKaffeepause(コーヒーブレーク)の項で触れられており、放送中にも言及されたが、ドレスデン市は第二次世界大戦終結直前の1945年の2月に連合軍によって最大級の爆撃を受けたという歴史がある。もっとも、誰が選んだのかは知らないが、日本の広島市、英国のコヴェントリー市とともに第二次世界大戦の爆撃によって破壊された3つの都市の1つとされていることには、番組中では触れられなかった。広島には何度か出かけており、コヴェントリーにも滞在したことがあるが、ドレスデンに出かけたことはない。第二次世界大戦で破壊されたコヴェントリーの大聖堂は1996年に訪問したときにはまだ工事中だったが、今は完成しているはずである。

12月4日
 NHKカルチャーラジオ『蕪村の四季』の第10回では蕪村の<俳詩>「北寿老仙を悼む」を取り上げた。この詩については高校の国語の時間に習った記憶があり、タンポポにこと寄せて幼いころの思い出を蕪村は語っていると論じた安東次男さんの評論の朗読をラジオで聞いたこともあるのだが、若いころはこの詩にそれほど感心しなかった。それでも、「君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に」という冒頭の箇所だけは、ずっと記憶してきた。そして、年をとって来ると、この詩の世界が身近に感じられてくるのは、どういうことであろうか。この詩の凄いところは、自由詩の形をとりながら、講師である玉城司さんが指摘されたように内在的なリズムによって詩情が支えられているところである。一度朗読してみてください。

12月5日
 蔵書の整理をしていて、1956年に角川文庫から刊行された久保栄の『林檎園日記 他一編』を見つけた。この本は確か、私が大学に入学した年に、芦屋の書店で買ったのだと記憶するから、かなり長い間書棚に並んでいたようである。近頃はそういう経験はほとんどなくなったようだが、かなり以前に発行された本がそのまま並んでいるのを見つけるということが昔はよくあった。ある人の話では、藤村の『若菜集』を新刊書店で見つけたことがあったそうである。『林檎園日記』の奥付には久保栄という認印が検印として押してあり、定価70円という安価な文庫本であっても長く愛蔵したくなる魅力が備わっていると思う。

12月6日
 NHKラジオ『攻略! 英語リスニング』の話題としてTea Plantationが取り上げられたことは、すでに書いたが、「語句解説」の中で、講師の柴原さんは「私がplantationという言葉を初めて知ったのは、”Mame"というミュージカル映画のサウンドトラックでした。アメリカ南部の綿花をつくっている地域、そこにある綿花を栽培する「プランテーション」が、歌詞の中に出てくるのです」と書いている。この”Mame"という映画、MGMのミュージカルの歴史を総覧した『ザッツ・エンタテインメント』という映画の最後を締めくくっていた。『ザッツ・エンタテインメント』を試写室で見ていたときに、私の後ろにすわっていた2人組の女性が、あの女優誰かしら…と話していたので、「ルシル・ボールですよ」と教えたのを記憶している。それで気をよくしたのか、”Mame"の方は劇場で見たのである。なお、私がplantationという言葉に出会ったのは、フォスターの歌の中のことである。

12月7日
 横浜駅周辺はクリスマス商戦で混雑していた。こちらはボーナスが出たというわけではないので、うろうろするだけである。

12月8日
 NHKラジオまいにちイタリア語の時間を聴いて、そのままラジオを消さずにハングル講座を聞くともなしに聞いていたら、韓国で一番暑いのは大邱であるという話題が出た。祖父が朝鮮総督府の役人だったので、昨年死んだ母は大邱で生まれている。大学で教えていたころに、授業に出ていた韓国からの留学生が大邱の出身だったので、いろいろ話を聞けばよかったのだが、体調を崩して帰国してしまったのは残念であった。

12月9日
 NHKラジオ英会話では”Weather and Traffic News"についての対話を取り上げているが、最後のTry It in a New Situation!のコーナーで、2日間続けてゴジラの話題が出た。東京ではなく、アメリカの地方都市にゴジラが出るのはなぜだ!?
 

エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』

12月8日(月)晴れ

 エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』(新潮文庫)を読む。ケストナー(1899-1974)は詩人・小説家で、とくに児童文学作品によって知られる。子ども向きに書きなおされたもの、また英訳を読んだことはあるが、しっかりした翻訳(池内紀さんによる)で読むのはこれが初めてである。なお、当ブログですでにふれたが、NHKまいにちドイツ語のテキストにこの作品の主要部分が独和対訳で連載されている。

 ドイツのキルヒベルクという地方都市にある寄宿制ギムナジウムの5年に在学するジョニー(ヨーナタン)・トロッツ、マルティン・ターラー、マティアス・ゼルプマン、ウーリ・フォン・ジンメルン、ゼバスティアン・フランクの5人は、学校のクリスマス祝いにジョニーが書いた『飛ぶ教室』という劇を上演しようと準備している。未来の学校では地理の時間は現地で行うことが決まりになり、生徒たちは教師とともに飛行機で現地に赴くことになるというのである。
 作者であるジョニーは父親に棄てられて、親切な船長に引き取られて成長してきたが、本を読んだり文章を書いたりするのが好きで、作家を目指している。その親友のマルティンは学年きっての秀才で絵がうまく、この劇の美術を担当している。いつも腹を空かせているマティアスは喧嘩が強く、ボクサーになるつもり。彼と仲良しのウーリはチビで自分が臆病なことを気にいている。劇の中では教師の役を演じるゼバスティアンは頭が鋭いことでほかの連中から一目置かれ、科学が好きで科学者になることを夢みている。

 劇の準備が進む一方で、少年たちの間、あるいは周りでは様々な出来事が起きる。同じ町にある実科学校の生徒たちによって、同級生が襲われ、採点のために教師の自宅に届けることになっていた書き取りのノートが奪われる。ギムナジウムの生徒と実科学校の生徒はことあるたびに小競り合いを続けているのである。どうすれば人質とノートを奪回できるか。幸い、学校の近くに隠者のようにして暮らしている禁煙さんという相談相手がいる。禁煙さんというのは鉄道の禁煙車両を払い下げてもらい改造して住まいにしているからで、本人はタバコ好きなのである。彼は何か不幸な目に遭ったらしいが、少年たちには頼りになる存在である。

 5人を中心とするギムナジウムの生徒たちは、禁煙さんの助言もあって人質の奪回には成功するが、ノートは燃やされてしまう。寄宿舎を無断で抜け出すことは規則で禁止されているのだが、事情を聴いた舎監のヨーハン・ベック先生は、生徒たちから道理さんと敬称されるだけあり、寛大な措置をとってくれる。先生はこのギムナジウムで学んだときに、母親の見舞いのために無断で寄宿舎を抜け出した過去があり、その時に自分の身代わりになってくれた親友がいたが行方不明になっているという。

 生徒たちの学校生活とその中でのそれぞれの個性が生き生きと描きだされている。マルティンは奨学金を受けて学校に通っているが、父親が失業中で家計は苦しく、そのことが彼の心に影を落とす。ウーリは自分が臆病であることを気にしている。そういえば、ウーリが同級生からいたずらされたときに、それに気付いたクロイツベルク先生(生徒たちが奪われたのはこの先生の授業のノートである)は言う:「すべて乱暴狼藉は、はたらいた者だけでなく、とめなかった者にも責任がある」(125ページ)。翻訳者の池内さんもこの言葉を解説で書き留めているが、作者はこの先生をたえて笑ったことがない変わり者だと記しながら、見識ある人物としての一面も描きだしているのである。
 劇の上演は成功するか、少年たちはどんなクリスマス休暇を過ごすことになるのか、そしてベック先生は親友に出会うことができるのか…

 当時のドイツの学校制度ではギムナジウムは学問的な教育を中心とする9年制の学校で、実科学校が商工業に重点を置く教育をしていたのと対照的な教育をしていた。単に教育的な違いのほかに、社会階級の違いも生徒間の反目を促していたと思われる。9年制ということは小学校を卒業したばかりの10歳の子どもから大学入学直前の青年までが同じ後者の中で学んでいた。登場人物たちは5年生なので、ちょうど中間の段階にある。今の日本で言えば中学3年生か高校1年生というところ。この時代のドイツの学校は(日本でもそうだが)男女別学であった。ウーリが鬘をかぶって女装する役になるのもこのような事情からである。現代の日本の学校や少年たちと、当時のドイツの学校や少年たちには共通するもの、しないもの、両方があるが、それぞれに考えをめぐらせてみるのも一興であろう。

 この作品が発表されたのは1933年、ヒトラーが政権が誕生し、ナチスが全権を掌握していった年である。少年たちのあいだの、そして周りの小さな出来事を描きながら、作者はこんな感想をすべり込ませている。「知恵のない勇気は暴れ者にすぎないし、勇気のない知恵はたわごとにとどまる! 世界の歴史には愚かな連中が恐いもの知らずで、知恵あるものたちが臆病である時代がくり返しめぐってきた。それはゆがんだ状態なのだ」(25ページ)。

 池内さんはケストナーが時代の証言者の役割を果たし続けようとしたことを解説で語っている。マルティンやウーリの問題も個人的なものであるとともに、時代の病の反映でもある。そして、マルティンとジョニー、ウーリとマティアスは親友であるといっても、それぞれに秘密の悩みをもち、ゼバスティアンは孤独である。物語は一応めでたしめでたしと相成るが、それほどめでたくはない背景も暗示しているように思われる。先に引用した個所の、少し前でケストナーは書いている:「ただ自分を騙さず、人に騙されずにいてほしい。不運はしっかり見据えることを学んでほしい。うまくいかないことがあっても、たじろがず、運が悪くても、しょげないことだ。元気を出せ! 打たれ強くあることを覚えてほしい」(24ページ)。

東海林さだお『ショージ君の「料理大好き!」』

12月7日(日)晴れ

 当ブログの発足以来2年と少し経ちましたが、この間に読者の皆さんからいただいた拍手が4,000を超えました。今後ともさらに努力と工夫を重ねて紙面を充実させていくつもりなので、お引き立てのほどよろしくお願いします。

 東海林さだお『ショージ君の「料理大好き!」』(文春文庫)を読み終える。文庫本の帯に「名著復刊」と記されている。1981年に平凡社から単行本として刊行され、1984年に新潮文庫に収められたものが、30年経って今度は文春文庫から再刊されることになった。近頃、こういう例がほかにもあるようで、なぜ、同じ版元から継続して発行されないのか、気にはなるが深く詮索はしないことにしよう。

 この本は題名通り、東海林さんが編集者たちをとともに、時にはプロの料理人の指導を仰ぎながら、さまざまな料理に挑戦した次第が語られている。成功もあるし、失敗もあって、それがこの人特有の語り口で面白おかしく記録されている。料理の多様性には、東海林さんのあくなき好奇心や探求心が反映されているとみるべきであろう。さらに注目すべきであるのは料理の過程の多くが東海林さんの漫画でわかりやすく描きだされていることである。つまり、単なるエッセーではなくて、料理の手引き本としても役立つ(はずなの)である。

 全部で24の経験が語られている。経験と書いたのは、1つの材料から多くの料理を作ったり、3分クッキングに挑戦したり、料理教室に参加したり、行楽弁当を作ってみたりと、1回1回が1料理で済んでいないからである。豆腐を作ってみたり、穴子を釣りに出かけたり、老舗料亭で「見習い修業」をしたりと、周辺的な経験もなかなか豊富である。

 成功例も失敗例もあると書いておいたが、やはり成功(だと東海林さんが書いている)例の方が面白い。たとえば「かき揚げ丼の巻」は次のように結ばれている。
 なんでも大きければいいというものではないが、丼にのっかった巨大かき揚げをしみじみ眺めると…しみじみと満ち足りた気持ちになる。
 味もけっこうおいっしかった。
 それよりも今回ほど、冒険とスリルとサスペンスに満ちた料理は今までなかったように思う。
 巨大かき揚げを丼の上にのせ終わったときは、
(何事かをなしとげた)
 という感激に胸がうちふるえたほどであった。
 ぜひ一度おためしになることをおすすめする。
(210-211ページ)

 こんなふうに、読者へのおすすめで終わっているのは「にぎり鮨の巻」(読者の方々も是非一度ためしてみてください。162ページ)、「豆腐の巻」(ああ、これが本当の豆腐だったんだナ、としみじみ思いました。ぜひ一度作ってみてください。258-259ページ)というところである。意外に少ない。こういうふうに分析的に読んでいくと、料理のむずかしさが実感できる書物であるかもしれない。

 東海林さんが雑誌にこの本のもとになるエッセーを連載していたころは、私も自炊生活を送っていたのだが、すっかり料理をするということからは離れてしまった。この本を読んでいても感じられることであるが、料理にはいろいろな情報や経験が付きまとうのである。そういうところから自分の世界を広げていくチャンスを、手放してしまったことを改めて感じるのであるが、その分、別のところで頑張ろうと思っているわけである。最後に付け加えておきたいが、解説がついていないのがやや物足りない。

 

black tea

12月6日(土)晴れ

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」で久しぶりにblack teaということばに出会った。

Just how long you leave them to oxidize will determine whether the tea is oolong or black or any other color. Black tea is the one that's most heavily oxidized,....
(どのぐらい長く発酵させるかで、烏龍茶色になるか紅茶色になど、茶葉の色が決まります。紅茶はいちばんしっかりと発酵させたものです…。)

 英国に出かけると、何を飲むか、tea or coffee?と聞かれることが多い。teaといえば、紅茶のことだと思っていたが、時々teaの種類について聞かれることがあり、また時々black teaということばが使われることがあって、何のことかと戸惑ったものであるが、そのうち、紅茶のことだと気付いた。講師の柴原さんはテキストの「語句解説」で「中国には『黒茶』というものもあるようで、調べてみたところ『プーアル茶』などがこれにあたるということです。ただ、この英文では『紅茶』を指しています。紅茶をミルクティー用に濃く淹れたときの抽出液がほとんど真っ黒だからかなあ、などと思っていたのですが、そうではなくて、茶葉の色が黒いので、black teaと呼ぶのだそうです」と書いている。なるほど。

 同じテキストで柴原さんはバース大学の大学院在学中に深夜、勉強の合間に飲んだblack teaの思い出を書いていている。わたしは柴原さんと違って大学の寮で生活したことはないのだが、思い当たることが少なくない。英国のB&Bでは部屋にポットと紅茶のティーバッグが置いてあることが普通で、日本だと緑茶やお茶菓子が備え付けられているのと同じようなものである。紅茶はTetleyが多かった。Tetleyは紅茶だけでなく、ビールも作っている会社らしく、パブの前にTetleyと看板が出ているのをよく見かけたものである(日本だとキリンとか、アサヒとかいうのと同じだが、英国の場合はるかに多様性がある)。Tetleyのビールを飲んだ記憶がないのが今となっては悔やまれる。

 悔やまれるといえば、柴原さんは同じ寮で暮らすスリランカからの留学生に分けてもらったお茶のおいしさが忘れられないとも書いている。そういえば私にもスリランカからの学生にであったり、スリランカからの留学生がお土産に持ってきたお茶を飲んだりという経験はある。ただ、ある特別なお茶についてその味が忘れられないというほど紅茶を飲んできたわけではないし、英国に長く暮らしたわけでもない。南アジアの人たちとの相性は比較的いいと自認しているのだが、スリランカ人を含めて、特に親しくなったという例はなく、表面的な付き合いだけで終わってしまっている。それやこれやで紅茶の味について何か話すことができないのが、どうも残念である。

エドワード・D・ホック『怪盗ニック全仕事1』

12月5日(金)晴れ

 エドワード・D・ホック『怪盗ニック全仕事1』(創元推理文庫)を読み終える。

 1960年代のアメリカ、ニック(ニコラス)・ヴェルヴェットは東部のロング・アイランド・サウンドに面した小さな町でガールフレンドのグロリアと毎日を過ごしている。家の1ブロック向こうにはエレクトロニクス工場があって、その従業員たちが家路を急ぐ姿を眺めるのが好きだった。では、彼は何をしているのか? グロリアには新しく建設する工場の敷地候補を世界中で探し回る起業コンサルタントだといっているが、本当のところは泥棒なのである。

 泥棒。それも飛び切り風変わりな泥棒である。どこからともなく彼のうわさを聞きつけてやってくる顧客の依頼に答えて、彼は価値のないもの、あるいは誰も盗もうとは思わないであろうものだけを盗む。しかも、その報酬は1件につき2万ドル以上である。(1960年代、1ドルはまだ360円であったが、この10年代が終わりに近づくと、実際のところは100円ではないかということを言う人が現われはじめていた。) そういう依頼にこたえて、ニックが働いた盗みの数々がこの短編集を構成している。表題からさらに続編があることが推測できる。

 盗んでくれと依頼されるものは:
動物園の虎、プールの水、おもちゃのねずみ、ビルディングの外壁に記されている真鍮の文字、すでに終演したはずのミュージカルの切符、教会のパイプオルガン(厳密に言えばその音色)、大リーグの球団1チーム、ニューイングランド地方にあるシルヴァー湖に最近出没するというネッシーに似た怪物、ネットワークを広げている男性専用クラブのシンボルのライオン像、連邦刑務所に服役中の囚人の部屋に貼られているカレンダー、小都市の遊園地のメリーゴーランドの木馬、博物館に収蔵されている恐竜の化石の尻尾の部分、ある裁判の12人の陪審員と補欠の全員、テキサスの大富豪の葬儀でつかわれた特製の革張り柩、某国の大統領が英国の女王に献上する7羽の大鴉(ravenであってcrowではない)。

 ちっとやそっとでは盗み出せそうもないものを、ニックは策を凝らして盗み出す。それにしても、一見、無価値なこれらをなぜ盗み出す必要があるのだろうか。以来の背景にある真相にニックは、当然のことながら読者も、興味を抱かざるを得ない。

 盗みには予備知識が必要である。そしてニックはそういう予備知識とその前提となる雑学をたっぷりと身につけている。ということは雑学的な教養には自信のあるミステリーの読者に対して彼が毎回、挑戦状をこっそりと送り付けているということでもある。あるいは、そんなことを言ってはしゃいでいるこちらの浅学ぶりが見透かされているのかもしれない。木村仁良さんの「解説」にも記されているように、エピソードの1つ「邪悪な劇場切符を盗め」でニックが盗むように言われるミュージカルの切符は『ウィキッド』でグレゴリー・マグワイアの『オズの魔女記』の舞台版と題名が重なっている。かくいう私、『オズの魔法使い』シリーズには一家言あって、最近の映画化や舞台劇化がL・フランク・ボームの原作から離れている傾向を憂慮していることを付け加えておこう。同じエピソードでニューヨーク市のワシントン・スクエアという地名が出てくるが、これはオリヴィア・デ・ハヴィランドがアカデミー主演女優賞を取った『女相続人』の原題でもある。ヘンリー・ジェイムズによる原作を、大学時代に貴志哲雄先生の英語の授業で読んだことがある。

 原題はThe complete stories of Nick Velvetで「怪盗」ということばはなく、ニックの私生活もアルセーヌ・ルパンなどに比べればごく平凡な市民生活に溶け込んでいるところが特徴といえようか。とはいうものの、ニックはかなりの艶福家である。彼にはグローリアというガール・フレンドがいることは既に書いたが、彼が依頼を受けて現場を探るたびに、美女に出会うという幸運の持ち主であることも書き添えておこう。
ロング・アイランドの最東端の海岸沖「このあたりは富と享楽の地域で、ヨットは大きく、女性の水着は小さい」(107ページ)。「突然、すらりとした若い人魚が舷側から乗り込んできて、ニックを驚かせた。・・・ニックは彼女のきらめくビキニ姿を満足げに見つめた」(213ページ)。もちろん、登場するすべての女性たちが水着姿というわけではない(それはそれでこちらは一向に構わないが)。「彼女は金髪で、日に焼けていて、白いショーツをはき、袖なしのプルオーヴァーを着ていた。『私は彼の秘書ですわ』彼女が答えた」(193ページ)。 「びっくりして振り向くと、ほっそりとした金髪女性が立っていた。目は青く、鼻は高く、脚はすらりとしている。ニックが今までロンドンで見たものの中で、一番美しい光景だ」(401ページ)。一方で作者による女性美のステロタイプ化も感じられるとともに、現在では水着はもっと小さくなっているのではないかと思う(このあたり当ブログの管理人の心境もなかなか複雑である)。

 TVの連続ドラマとしてふさわしい内容の短編小説群であると思うのだが、木村さんによると「アメリカ本国では、ニックが窃盗を働いたことに対して罰せられないという倫理的な理由で、なかなかTVドラマ化されないという」(425ページ)そうである。これは倫理性というよりも、偽善そのものであって、私がアメリカという国家をあまり好きではない理由もこのあたりにある。そういえば、この作品集が描いている時代に、私は大学生で、ヴェトナム戦争に従軍している兵士たちが休暇で日本にやって来ているのに出会ったものである。京都の寺を見ると心が休まるというようなことを言っている兵士がいたと記憶するが、ヴェトナムの森の緑が彼の目にどのように映じていたのであろうか。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(16)

12月4日(木)雨

 第15歌で地獄の第7圏第3小圏において同性愛者の霊が受ける罰に苦しんでいる、かつての自分の師ブルネット・ラティーに出遭ったダンテは、劫罰として最後の審判の日まで走り続けるために去ってゆく師の姿を見送った後、自分が既に第8圏に近づいていることに気付かされる。

既に私は、次の円圏に落ちていく水のたてる、
まるで蜜蜂の巣がたてるあのブンと唸る音に似た、
轟きが聞こえる場所にいた。
(234ページ)

その時、またもや劫罰の雨の中を進んできた一群の霊の中から、3つの影が離れて近づいてきた。彼らはダンテの服装から、彼がフィレンツェの人間であることを察して近づいてきたのである。

哀れな。。何と凄まじい傷跡をその者達の体一面に見たことか。
真新しいものから古いものまであり、炎で焼かれていた。
それを思い出すだけで私は悲しみに沈む。
(234-235ページ)

ダンテを導いてきたウェルギリウスは、この無残な姿の霊たちが、フィレンツェの勃興期に活躍した3人の霊たちであることを告げる。

「この場所の在り方ゆえに射かけられている
この火がなければ、私は言うであろう、
あの者達よりもおまえの方が急いで出迎えるにふさわしいと」。
(235ページ)

 彼らの名を聞いてダンテは驚き、霊に話しかける。自分の出身地であるフィレンツェの歴史に名を残し、幼いころからその名になじんできた人々に地獄で出会るのは驚くべきこと、悲しいことである。それでも自分には地獄の中心まで見届ける使命があり、その旅路を急がなければならない。3人の霊は、ダンテがその使命を遂げた後、自分太刀の思い出を地上の人々に伝えることを望んで、去ってゆく。

 そしてダンテとウェルギリウスは切り立つ崖の上にたどりつく。その深い底には赤黒い水が轟いている。しかし、2人はその底へと降りていかなければならないのである。ダンテは身につけていた縄帯を解いて、ウェルギリウスに渡し、彼はその縄を断崖の深い底をめがけて投げいれる。何者かが呼びかけに応じて姿を現すとウェルギリウスは言う。

 ところで、フィレンツェの繁栄の基礎をつくった3人の政治家たちの霊はなぜ地獄で罰を受けているのだろうか。ダンテとウェルギリウスはまだ地獄の第7圏にいて、そこは生前の暴力を振るったものの霊が罰を受けている場所である。そしてフィレンツェの政治家たちは彼らが銀行家としてその利潤の追求のために他の地方の人々と暴力をもって争ったことの罰を受けているのであると翻訳者である原さんは解釈している。利潤の追求が悪なのではなくて、そのための手段として暴力を使ったことが問題とされているというのである。戦争の時代には戦闘の勇気が求められるが、商業的な繁栄のためには平和こそが望ましいとダンテは歌い、それはその当時にあって画期的な新しい思想であったのだと、原さんは解説している。

 ダンテとウェルギリウスの旅はさらに続き、さらに厳しいものとなっていく。

『太平記』(19)

12月3日(水)晴れ、風が強い

 関東から派遣された大軍を相手に、智略を縦横に振るって赤坂城を守り抜いてきた楠正成ではあったが、いかんせん城は短期間で急造したものであり、兵糧なども十分に用意していなかったので、合戦が始まってから20日ほどたつと、城中の兵糧がなくなってきて、あと3,4日分しか残っていないという状態になった。

 そこで正成は兵士たちに向かって次のように言う。これまで何度かの合戦に勝って数えきれないほどの敵をうち滅ぼしてきたが、敵は大勢なので、この程度のことでひるんだりはしないだろう。すでに城中の食料はなくなりかけ、援軍も来る見込みがない。「元来(もとより)天下の士卒に(先)立って、草創の功を志す上は、節に当たり、義に臨んで、命を惜しむべきにあらず。しかりと雖も、事に臨んで恐れ、謀を好んでなすは、勇士のする所なり」(174ページ、もとより天下の武士たちに先立って、天下をあらため創る功績を挙げようと志している以上は、節義を守るべき時に当たり、また正義を貫くために、命を惜しむべきではない。とはいうものの、事態に慎重に対処し、策をめぐらすことは、勇士の道である。「事に臨んで懼れ、謀を好んで成す者なり」というのは『論語・述而』辺に見られる言葉だという。正成が『論語』を読んでいたとは考えにくいので、これは『太平記』の著者が正成の意図を汲んで、引用・作文したのであろう)。それで、しばらくこの城を落ちて、正成は自害したように見せて敵を欺こうと思う。正成が自害したと思えば、東国の軍勢は、喜んで撤退していくだろう。そこで、また正成が軍を率いて山に立てこもり、東国勢を悩ますことになれば、それが4回か5回重なるとと「敵などか退屈せざらん(=きっとうんざりするだろう)」(同上)と計画を述べる。正成に従っている士卒は皆同意したので、城の中に大きな穴を2丈(6メートル)ばかり掘り、これまでの合戦の戦死者の死体を穴の中に入れて、その上に炭、薪を積みおいて、雨風の降り続く夜を待つことにした。
 
 もし雨が降らないと、正成の計画は失敗に終わるのだが、運のよいことに、天候が急変して風雨が強くなり、陣営はひっそりと幕を垂れてその中に籠ってしまった。この時を待っていた正成は城中に1人だけを残し、われわれが城を脱出して4,5町ほど先までいったと思しきときに、火をつけろといいおいて、みな鎧兜を脱ぎ、寄せ手の中に紛れ込んで、数人ずつ別々になって、敵の軍勢の間を静かに通り抜けていった。

 正成が北条得宗家の内管領である長崎高資の弟、高貞の厩の前を通った時に、権勢を誇る重要人物の前を無断で通り抜けるとは何事かと咎められるが、何とか言い逃れをして足早に遠ざかろうとする。追及した人物は「さればこそ、怪しき者なれ。いかさま(=きっと)馬盗人かと覚ゆるぞ。ただ射殺せ」(175ページ)と近距離から弓を射かけた。夜だから、近くから狙わないと当たらないのである。矢は正成のひじにしっかりと当ったように見えたが、彼の体に突き刺さらずにそのまま飛び返った。これは正成が日ごろから信じて読誦していた観音経をお守りとして持っていたおかげであったと作者は記す。なお、高貞の兄、長崎高資はは当時の幕府の実権を握っていた人物で、第2巻では慎重派の二階堂道蘊をおさえて、後醍醐天皇を流刑に、大塔宮を死罪にすべきであると強硬論をはいている。

 正成は危ういところで難を逃れて、20町以上も城から遠ざかって後ろを振り向くと、指図どおりに城は火の海となっている。寄せ手は城は落ちたと叫んで、勝どきを挙げ、落ち武者たちを討ち取れと騒ぎ立てる。火がやんで、城の中を見ると、大きな穴の中に焼け焦げた死体が多く転がっている。幕府の兵士たちは「あなあはれや、正成早や自害をけり。敵ながら、弓矢取って尋常に(=立派に)死にたるものかな」(176ページ)と口々にほめたたえたのであった(死んだと思っているから、安心してほめているのである)。

 また、備後で挙兵した桜山四郎入道は、備後の一ノ宮である吉備津神社(広島県福山市新市町)に火をかけて自害した。入道は荒れ果てた神社の社殿を再建したいと思っていて、尊王の兵を起こしたのもこの大願を果たすためであったのだが、かなわないので、社殿に火をかけた。焼けてしまえば、だれかが再建してくれるだろう、そうなれば思い残すことはないと、深く考えをめぐらしてのことからであった。

 これで『太平記』の第3巻が終わる。後醍醐天皇は隠岐に流され、正成は大軍を相手に大活躍をしたものの最後には赤坂の城を捨てる。とはいうものの、彼の不屈の戦いはまだ続くはずである。幕府の軍事的な優勢はつづいているが、幕政の失政への不満と新しい政治への期待は静まらず、依然として新たな波乱が起きそうな予感がある。

去年の雪

12月3日(水)晴れ

 去年の雪

去年の雪はどこへ行った
雪の便りがしきりに聞かれるようになると
なぜか昔のフランスの
泥棒詩人の詩を思い出す

寒さに震えながら
さらに過酷な冬の嵐を予感していたのか
わずかな火の暖かさに
心和む思い出に浸っていたのか

泥棒詩人は去年の雪を
もっと昔の雪と、美女たちに
重ね合わせた

雪国の職場で一緒だった
仲間の訃報を聞いて
なぜかヴィヨンの詩の一行を思い出した。

毎年 毎年
雪が降って消えてゆく
人は 生き そして死んでゆく
一行にまとめるのは
難しく
何度も繰り返される
一行にまとめるのは
もっと難しい

去年の雪はどこへ行ったのだろうか
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Author:tangmianlaoren
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