日記抄(11月26日~12月2日)

12月2日(火)晴れ

 11月26日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
11月26日
 NHKラジオの語学番組のテキスト12月号を買い込む。『ラジオ英会話』、『まいにちドイツ語』、『まいにちフランス語』、『まいにちイタリア語』、『入門ビジネス英語』、『実践ビジネス英語』、『攻略!英語リスニング』の7冊である。来年の3月まではこのまま続けていこうと考えている。

11月27日
 『実践ビジネス英語』でHe's a mensch.という表現に出会った。menschは「立派な人」という意味で、もともとはイディッシュから出たことばだそうである。アメリカ合衆国、とくにニューヨーク市にはユダヤ系の市民が多いので、イディッシュから英語に入り込んだ言葉も少なくないのだろう。イディッシュとドイツ語はよく似ているというが、確かにそうだと改めて思った。

11月28日
 伊勢佐木町通りを通ってシネマジャック&ベティに出かける。先日、青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」の看板について書いたが、現在はゆずの「夜霧の伊勢佐木町」の看板に代わっている。しかし、伊勢佐木町を歩いていて、夜霧に出会ったことはない。むかしトリュフォーの『夜霧の恋人たち』という映画を見たときに、「ちっとも夜霧が出てこなかったじゃないの」という感想を述べていた女性客がいたのを思い出す。実際のところ、夜霧よりも朝霧の方が経験したことが多いような気がするのだが、どんなものだろうか。

11月29日
 『攻略!英語リスニング』でHundred Years War (百年戦争)について取り上げていた。「百年戦争」といっても、100年間戦闘に明け暮れたわけではなく、戦闘が起きたり休止したりの状態が続いたのだが、この結果としてイングランドとフランスがはっきり2つの国に分かれることになった。
 それで思い出すのが英語にはフランス語とよく似た単語が多いことで、これはNorman Conquest以来とくに濃密であった英仏の歴史的な関係のためである。英語の語彙の半分はラテン語起源であり、さらにその大部分は12世紀以降にフランス語を通じて英語に入り込んだ言葉であるという。しかし、中にはそれ以前にラテン語から直接英語に取り入れられた語もあるそうである。そういえばイングランドもフランス同様にローマ帝国の一部であった。英国滞在中にローマ時代の遺跡に何度かであったことを思い出す。

11月30日
 蔵書の整理をしていて、高木市之助の『国文学五十年』を見つけた。旧制三高に学んだときに、厨川白村に習ったという話が出てくる。のちに厨川は京大の英文の教授となった。その学生の1人であった菊池寛が『半自叙伝』の中で上田敏は芸術家肌、厨川は学者であったというような感想を述べている。高木はその後東大に進学して図書館で勉強していたら、厨川に出会って、先生が自分のことを覚えていてくれたので感激したと書いているが、類は友を呼ぶというか、英文学と国文学の違いはあっても学者は学者同士ということらしい。

12月1日
 東映を中心に映画俳優として活躍した菅原文太さんの訃報が伝えられた。高倉健さんが亡くなった時にも書いたように、東映映画はあまり見ていないのだが、こういうニュースを続けさまに聞くとやはり寂しい。

12月2日
 大学に勤めていたころの同僚のご家族から10月に亡くなられたという便りが届いた。講習会の講師を共同で務めたことなどがあって、縁の深い同僚であり、仕事以外でも大学のあった地方都市での食べ歩き、飲み歩きをめぐり、いろいろと教えてもらったことを思い出す。その土地から離れてしまうと、そういう知識はあまり役に立たないが、思い出は残る。冥福を祈るだけではどうも気分が収まらず、何か別の追悼の方法がないかと考えている。
 

高木卓『露伴の俳話』

12月1日(月)雨

 11月30日に高木卓『露伴の俳話』(講談社学術文庫)を読み終える。蔵書の整理中に出てきた本で、奥付を見ると1990年に初版が刊行されており、私の手元にあるのは同じ年に刊行されたその第2刷である。どんな経緯で入手したかは全く記憶にないが、このところカルチャーラジオ「蕪村の四季」に刺激されて俳諧・俳句に興味を寄せているので読んでみたのである。

 幸田露伴(1867-1947)というと明治の文豪というイメージが強いが、同じ世代の文学者たち、森鴎外、坪内逍遥、尾崎紅葉、夏目漱石に比べて思想的にも文学的にも日本の伝統的な文学との結びつきが強く、かなり後の時代まで文語体で執筆活動を続けていた一方で、長寿に恵まれ、紅葉が明治、漱石、鴎外が大正、逍遥が昭和戦前に没したのに対して、戦後まで生きながらえた。そのためというわけではないだろうが、1937(昭和12)年には第1回の文化勲章を受章している。長寿に恵まれた一方で、文壇における地位には浮き沈みがあり、家庭的には(娘である幸田文の『おとうと』に記されているように)長男に先立たれるなど不幸が続いた。そういう中で彼の孤独を慰めようと親戚のものが日を定めて露伴の家に集まり、彼を囲んでいろいろと物を教わることが習慣化したという。最初は周易の講義、次は書道とその稽古であったが、1940(昭和15)年12月から俳諧の講義が始まり、断続的ながらも1942(昭和17)年11月まで続いたという。この俳諧の講義の様子を参加者の1人であった高木が筆記したものを中心にまとめた「露伴の俳話」、そのほかに「露伴の思い出」「露伴の片鱗」の2編の関連する随筆が収められている。

 筆録者である高木卓(1907-1974)は本名・安藤熙(ひろし)、ということで分かる人には分かるはずであるが、露伴の末妹でバイオリニスト、東京音楽学校で教えた安藤幸の子息であり、ドイツ文学者、旧制一高、東大の教授であった。傍ら小説家としても活動し、1940(昭和15)年には「歌と門の盾」で芥川賞に選ばれたが、まだ習作の域を出ない作品であるとして辞退した。文学には並々ならない造詣をもった人物であったはずであるが、俳諧には何となく違和感を感じており、ただ偉大な文学者である伯父に対する尊敬の念からできるだけ丁寧にノートをとって伯父の言葉を書き残そうとしたという。

 なり行きとして露伴が宗匠ということになり、一種の点取り俳諧のような形で座が進んでいるが、これは参加者が初心者ばかりであったことによるものであろう。露伴の最大の業績の1つは芭蕉の『俳諧七部集』の評釈であるから、当然、彼が最も敬意を寄せている先人は芭蕉であるが、それ以前の宗因や季吟についての言及もある。和歌、連歌、俳諧連歌と俳諧の流れを辿り、「いったい俳諧連歌は連作ゆえにすべてが揃ってみな立派ということはありえない。そこで独りで立派によんでたのしんで而も同時にやはり人にも見せようというようなところから発句だけをつくることがおこなわれだした」(8ページ)、「俳諧の、発句を一つよんでたのしむという慣わしは、歴史的に見れば本道から離れたものともいえようが、詩の本質からいえば一句だけの方が却って願わしいわけだ。それに俳諧連歌は例の規則もあり、よほど手だれのものでなければよめないようになってきたのに、発句ひとつの俳諧はそこへいくと先達も規則もいらないからますます盛んになった」(9ページ)という説明は文学史的な常識ではあるが、実作者としての経験が裏付けしているので説得力がある。

 私自身は俳句をたしなまないので、参加者が詠んだ句を露伴がどう評価したか(実作者にとっては一番気になる部分だろうと思うが)についての記述は省いて、文学指摘に興味が持てる部分、芭蕉とその門人たち、蕪村や一茶の作風について、あるいは作句全般についての露伴の言葉で気になったものを抜き出してみた。
「支考は芭蕉が死んでからはまずくなった」(49ページ)。
「なおすことはたいせつで七部集など芭蕉はなんど直したかわからない。だから芭蕉が死んでから弟子の句が見劣りがするようになった」(85ページ)。
「一茶は信濃の男だが、そばの句にはいいのはねえようだな」(94ページ、露伴はそばが好きだったのだろうか。また「信濃では月と仏とおらがそば」は高く評価されなかったようだ)。
「ともかく人情の句や、ことに歴史の句はよみにくいもので、今のことへ昔の影がうつるようにしなきゃァだめだ」(120ページ、露伴がどの程度意識していたかはわからないが、蕪村は歴史の句を多くよんでいる)。
「芭蕉は一生杜甫の詩をしょっていたが、蕪村は、芭蕉が杜甫や西行をつかったから、自分はほかのものにくいついた」(138ページ)。
「芭蕉は、劔術がちゃんとつかえるようになった者だけを相手にし、未熟なものにァ連句でないのを教えた。嵐雪と越人の連句を半歌仙で切りすてたこともあるくらいだし、しかも版行の時ァ弟子の句も苦心惨憺してなおした。それが証拠にァ芭蕉が死んでからガタ落ちの句が多くなったのァ『続猿蓑』をみりゃァすぐわかる」(139ページ)。

 江戸っ子らしい露伴の口調もさることながら、評言の1つ1つの切れ味が鋭く、実際的である。解説で山下一海は「露伴が指摘するのは、単に用語の問題ではなく、語に対する感受性の問題であり、その根底にある自然や人事一般に関する知識や観察力の問題でもある」(177ページ)と論じている。私の知っている画家はバラを描くために温室を作ってバラを育てたといっていた。ただ眺めるだけで写生はできないのである。露伴は多芸な人であったが、そういうさまざまな領域への関心と才能が俳諧に生かされていたのであろう。ただ、その半面で言説に体系性、理論性がないという印象も受ける。彼が京都帝国大学で江戸文学を講じたときに、授業のやり方に苦しんだという話があるが(それでも青木正児のように彼から多くを学んだ学生はいた)、それはこのこととも関連しているようである。さらに、俳諧の伝統を伝えようとするだけで、新しい創作に向かおうとする意欲は乏しかったように思われる。いや、俳句というのはそういうものだといわれればそれまでであるが…。
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