2014年の2014を目指して(11)

11月30日(日)晴れ

 今年もいよいよあと1か月を残すだけになった。

 11月はずっと横浜で過ごした。今年1年についてみると東京で176日、横浜で158日過ごしていることになる。新たに巣鴨、西巣鴨、元町・中華街、関内の4駅を利用した。これまでに3都府県、13市区、9鉄道会社、20路線、36駅を利用、あるいは足跡を刻んでいる。

 31件のブログを投稿、読書が14、日記が5、映画が4、詩が3、外国語と未分類がそれぞれ2、推理小説が1という内訳である。コメントを2件いただき、トラックバックが1つあった。1月からの通算では370件のブログを書いていることになる。

 買った本は12冊で1月からの通算は145冊(本を買った書店は10店)、読んだ本は今のところ9冊で、1月からの通算は110冊である。読んだ本の内訳は:ロバート・F・ヤング『宰相の二番目の娘』、ヘレン・マクロイ『逃げる幻』、アーサー・コナン・ドイル『バスカヴィル家の犬』、椎名誠『ぼくは眠れない』、綿抜豊昭『戦国武将と連歌師 乱世のインテリジェンス』、杉山伸也『グローバル経済史入門』、アゴタ・クリストフ『悪童日記』、五味文彦『増補『徒然草』の歴史学』、高木卓『露伴の俳話』ということである。

 5本の映画を見て、1月からの通算は61本となった(足を運んだ映画館は18館)。見たのは『ローマの教室で~我らの佳き日々~』、『夜の歌謡シリーズ 伊勢佐木町ブルース』、『上を向いて歩こう』、『虹をわたって』、『悪童日記』である。

 フランス語の時間を20回(1月からの通算で219回)、イタリア語の時間も20回(1月からの通算で219回)、ドイツ語を19回(通算で159回)、入門ビジネス英語を8回(通算で16回)、実践ビジネス英語を12回(通算で24回)、攻略!英語リスニングを8回(通算で16回)、ラジオ英会話とワンポイント・ニュースで英会話をそれぞれ20回ずつ聴いている。ドイツ語の時間を1回聞き逃したほか、かなりいい加減に聞いていたのが何度かある。

 カルチャーラジオ『ヘボンさんと日本の開化』を4回、『蕪村の四季』も4回聴いている。10月に始まった番組で、通算ではヘボンさんを7回、蕪村を9回聴いている。カルチャーラジオではこの他に『思想史の中のマルクス』(4~6月13回)、『聖地エルサレムの歴史』(7~9月12回)、『シェークスピエアと名優たち』(7~9月13回)を聞いている。またTVの「100分de名著」の『遠野物語』と『ファーブル昆虫記』をそれぞれ4回ずつ見ている。

 神田すずらん通りの檜画廊で須藤不冶漢さんの個展を見て、さらに神奈川県立近代文学館で常設展示と「須賀敦子の世界展」を見た。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対ギラヴァンツ北九州の試合を観戦した。今年になってから見たサッカーの試合はこれで5試合である。昨年に比べてJリーグの試合の観戦数が減っているうえに、毎年見てきた全国高校サッカー選手権の神奈川県大会の準決勝・決勝を見ていないことも問題である。

 ノートを2冊、万年筆(ウォーターマン)のカートリッジを4本、万年筆(パイロット)のカートリッジを2本使い切った。ノートは今年に入ってから33冊、カートリッジはそれぞれ60本、17本、またセーラーのカートリッジを2本使い切っている。

 アルコールを口にしなかったのは8日で、1月からの累計は139日である。今年は後半になってから酒類を飲む日が増えているのが問題である。

 このほか、宝くじに当たった回数なども加えて計算しているが、今のところいろいろ足しても1700に届いていない。ということは2014年の2014の達成はかなり困難ということで、日記や手帳を見直して、新たに何か付け加えられないかを考えているところである。
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五味文彦『増補『徒然草』の歴史学』

11月29日(土)雨のち曇り

 五味文彦『増補 『徒然草』の歴史学』(角川ソフィア文庫)を読み終える。1997年に朝日選書の1冊『『徒然草の歴史学』(朝日新聞社)として刊行されたものを増補、文庫化したものである。

 『徒然草』はさまざまに読まれてきた。特に私の目につくのは人生論・処世術の書としてこの書を読むものであるが、そこには現代人である読み手の主観が加わって、必ずしも書き手である兼好が本当に考えていたことが捕えられていないのではないか・・・というのが最近の多くの研究の傾向であると五味さんは言う。

 『徒然草』はこれまでのところ、多くは文学研究者によってなされてきたために、「主に兼好個人の人生観や物の見方、さらには批判精神や懐古趣味などが探られてきた」(13ページ)、それはそれで意義のある研究であったが、「兼好の口当たりの佳い文章にのって、ついつい現代的な解釈に陥ってきたようにも思う」(同上)と著者は言う。歴史学者である五味さんは、歴史学研究者が『徒然草』の研究に消極的であったことの反省を踏まえて、『徒然草』を歴史資料として徹底的に探ってみようとしている。この書物に記されている様々なエピソードをつないでいくと、兼好がその中で自分の教養を形成してきた今日の文化、新たに成長しつつある鎌倉の文化、そしてその2つに流入してくる大陸の文化という3つの文化のせめぎあいが認められ、そのような状況の中で鎌倉末期の社会における時代の転換をもっとも鋭く表現したのが兼好であったと五味さんは考えている。

 このような出発点から、兼好が過去の時代、とくに平安時代の摂関政治全盛時代から彼の生まれたころまでの時代をどのように受け止めていたか、彼が若いころに宮廷や上級貴族の屋敷で経験したことをどのように記憶していたか、鎌倉での経験の記憶と彼の遁世をめぐる事情、生活をめぐる意見などについて考察を展開する。そして『徒然草』の成立を考えるにあたり、彼の『家集』との関係が重要であること、彼の歌道の師である二条為世の孫である為定がおそらくは『徒然草』の想定している読者であろうと論じている。そして『徒然草』は元弘の乱が起きた元弘元年(1331年)8月以前におそらくは完成していたものと考えている。

 「『徒然草』の執筆後、兼好の歩む道は激変した。関東から上洛してきた幕府の軍勢によって後醍醐は配され、さらに隠岐に流されることになり、やがてその後醍醐の反攻によって六波羅探題は滅ぼされてしまう。こうしたことを『徒然草』執筆段階で果たして想像できたであろうか。おそらく無理であろうが、しかしこれまで見てきたところによれば、『徒然草』はその予兆をはっきりと記しているのであった」(309ページ)。

 この後に五味さんも触れているが、兼好は『太平記』の登場人物の1人でもある。あまりぱっとしない登場の仕方で、それが『徒然草』の現代における人気と釣り合わないと考えたのか、吉川英治の『私本太平記』での兼好の活躍には目覚ましいものがある。しかし、おそらくは同時代の人間にとって兼好はそれほど重要な存在ではなかったのであり、だからこそというか、ちょっと引っ込んだところにいたからこそ時代の重要な観察者となりえたし、彼の時代を超えた人生の観察者としての高い評価を受けることになったのではないかと思う。紹介・論評としてはきわめて粗略なものになってしまったが、『徒然草』の多様な内容を、その多様さに付き合いながら、兼好が彼の生きた時代の中でどのように行動し、思索したかについて詳しく論究している。興趣の尽きない書物である。

悪童日記

11月28日(金)曇り

 横浜シネマジャックで『悪童日記』を見る。アゴタ・クリストフの原作小説(ハヤカワepi文庫)を途中まで読んでいたのだが、映画を見た後、こちらも読み終えた。原作を読みかけのまま、映画を見て、その後に原作を読み終えるというような接し方をしたのは、これが初めてのことである。

 第二次世界大戦末期、双子の少年が、「大きな町」から「小さな町」へと母親に連れられてやってくる。戦局の激化で都会での暮らしが難しくなってきたので、自分の子どもだけでも「小さな町」の外れに一人で住んでいる母親のところに預かってもらおうというのである。ところがこの母親=双子たちから見れば祖母というのが周囲から孤立して暮らす頑固者で、周囲の人々からは「魔女」と呼ばれている。自分の娘とも20年ほど連絡がなかったらしいのである。

 祖母は双子に対して、仕事をしなければ何も食べさせないといい、まき割りや水汲みから始めて、家畜の世話や行商の手伝いなどとこき使う。そういう生活の中でも、双子は、「大きな町」を出るときに父親から渡されたノートに自分たちのしていることを記録し、読み書きや数学の勉強を続け、どんな困難にあっても生き抜けるようにと身体の鍛錬を忘れない。彼らの住まいのすぐ近くを流れている小川のむこうは、外国である。戦争は彼らの生活を様々な形で脅かし続けている。

 祖母の家の隣に住む、目と耳の不自由な女性と少し頭が弱いらしいその娘、娘のいうところでは彼女にみだらなことをした司祭、司祭館の女中、町の親切な靴屋、酒場で芸をしたり、司祭を脅したりして、双子の世界は良くも悪くも、少しずつ広がっていく。空襲に襲われ、ユダヤ人たちが収容所に送られるのを目撃する。森の中であった脱走兵が飢え死にしているのを見つけて、彼の持っていた武器を自分のものにする。さらに、祖母のところには占領軍の将校が週末になると利用するために部屋を借りにやってくるが、なぜかこの将校に双子は気にいられているらしい。祖母が「魔女」と呼ばれているのは、彼女にその夫(双子の祖父)を殺したという疑惑がかけられているかららしい。彼女はいろいろなものをため込んでいて、それなりに豊かな生活をしているのだが、自分ではそうは思っていないようである。奇妙な生活の中で双子と祖母の距離は次第に縮まっていく。

 第二次世界大戦後にハンガリーからフランス、スイスへと亡命・移住したクリストフがフランス語で書いた原作小説は「大きな町」、「小さな町」、「外国」というように双子の少年たちの環境を漠然と、抽象的に描き、そのことで戦争の中で育つ少年たちの問題をより普遍的なものとして描きだそうとしているようである。ところが、映画はハンガリー語で作られているので、われわれはそれをハンガリーのかなり特殊な問題として理解してしまうのではないか。実際、ナチス・ドイツの支配、それが終わると今度はソ連の支配によって、自由を奪われた状態が続いた国というのは他にも少なくないし、物語はそのどこの国で起きても不思議ではない物語なのである。
 映画は、原作の登場人物や挿話を相当削っている。死体の描写など気味が悪いので、削ってくれた方が有難いというのが正直なところである。その一方で雪の場面など、寒さを強調している画面が双子の置かれている環境をよく説明していたと思う。さらに映画である以上、(原作には風景の描写がほとんどないのだが)物語の背景である風景が映し出され、その美しさが物語の異常さを引き立たせることにもなっている。おそらくそうした風景が多くの場所で第二次世界大戦前から手つかずで残っているのではないかなどと余計なことも考えていた。もっとも、映画の映していないところで破壊された環境や景観があるのかもしれない。

 原作の翻訳者である堀茂樹さんによると、クリストフはこの作品が子ども時代というものを描いていると述べているそうである(原作は抽象度が高い作品であると私が書いたことを裏付けるような発言である)。一方で過酷で、残酷なエピソードに満ちているようであるが、他方で生きぬいていくことの喜びも秘められている。原作に比べて、映画はいろいろな点で具体性が強くなっている分、わかりやすく、戦争と子どもという問題をめぐり、いろいろと考えさせてくれるのである。 

エディンバラ小景

強調文11月27日(木)晴れ

 エディンバラ小景

七つの丘の斜面に
石で建てた家が並び
石畳の坂道が続く
エディンバラはそんな町です

冬の海を逃れて飛んできた
カモメたちが十字路でハトを追い散らしているのに気付き
上って来た坂道を振り向くと
遠くでもないのに海が霞んで見えます

坂道を登りつめると
お城が見えます
美しい女王が住んでいたはずなのに
大砲が並ぶ無骨で愛想のない城です

うっすらとした青空を
もっとはっきりした青に染め直そうとしてか
聖アンドルーの旗が強い風にはためいて
古いスコットランドの歌を歌いまくっているようです

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(15)

11月26日(水)雨

 人間の罪という観点から見た歴史の流れを寓意する地獄の川の岸に沿って並ぶ石の上をダンテとウェルギリウスは歩み、第14歌に歌われた火の降る砂漠から離れてゆく。

今や堅い縁の一本が私達をそこから運ぶ。
小川から沸き立つ煙は川面を覆う陰を作り、
流れと堤を火から護っている。
(222ページ)

 道を歩む2人は堤防沿いに進んでくる一群の魂たちに出会う。彼らは暗闇の中で2人に向かって目を凝らしていたが、
一人の男が私を認め、私の服の裾を
つかんで叫んだ。「何という驚き」。
(224ページ) ダンテも醜く変わり果てた男が、かつて自分の師であったブルネット・ラティーニ(1220頃‐1293)であることに気付く。

 ブルネットはダンテとともに歩みながら、ダンテがどのような理由で地獄を遍歴しているのかを訪ねる。ダンテは谷の中で迷ったときに、ウェルギリウスが導き手となって遍歴へと旅立つことになったと語り、自分が神のもとへと歩んでいると告げる。これに対して、ブルネットはダンテが詩において傑作を残すことを占星術に基づいて予言し、自分が早くこの世を去ってダンテの仕事を応援できなかったことを悔しがる。そしてダンテがこの後に生まれ故郷の都市であるフィレンツェから追放され、苦難の道をたどることになるが、にもかかわらずその業績は不滅のものとなるだろうと予言する。

 ダンテはブルネットからその生前に受けた人生についての教え、また地獄で出会って受けた予言について忘れずにそれを書き残すことを誓う。優れた哲学者であったブルネットが地獄で罰を受けているのは、彼が同性愛の罪を犯したからである。ダンテは、師とともに地獄で罰を受けているものの名を訊ねる。

すると先生は私に、「何人か知っておけばよい。
他のものについては黙っておくのがほめられる行いであろう。
そこまで話すには時間が足りないだろうから。

まとめれば、全員が聖職者か
名高い大学者であったということを知っておけ。
現世で同じ一つの罪に汚れていた。・・・」
(232ページ)といい、群れの中の数人の名を明かす。そして、自分の著作の中で『宝典(トレゾール)』はダンテに託したいという。
「その中に私はまだ生きている。この上は何も望まぬ」。
(233ページ)といって、去ってゆく。

 自分の先生を地獄、それもかなり奥の方におくというのはなかなかできることではないと思うが、『神曲』執筆時にすでにブルネットはこの世を去っていて、その功罪が明らかになっていたということであろう。ただし、現代の価値観からすればダンテの、また彼の時代における倫理観には疑問が投げかけられよう。翻訳者である原さんの解説には、ブルネットの思想や政治的な業績について詳しく述べられているが、ここでは省く。ただ、ブルネットの百科全書的な文学作品『宝典』が、世界全体についてのまとまった見通しをもっていないのに対し、ダンテのこの作品はキリスト教的な倫理観によって秩序付けられた体系をなしているという点に留意しておけばよいと思う。

日記抄(11月19日~25日)

11月25日(火)雨が降ったりやんだり

 11月19日から本日までの間に経験したり、考えたりしたことから:
11月19日
 ラジオ「まいにちフランス語」にでてきたやりとり。
C'est à quel étage?
Au septième. On monte par l'ascenseur ou à pied?
(何階ですか?)
(8階です。エレベーターで上がる、それとも歩いて?)
フランス語では1階をRez-de-chaussée(道路と同じ高さを意味する単語)といい「階」とは考えない。そのため、le premiere étageが「2階」、le deuxiéme étageが「3階」となる。イギリス英語でも1階はground floorで、2階がfirst floorという言い方をする。わかっていても、エレベーターに乗っていて、Gと押すべきところを1を押してしまったりしたことがあった。

11月20日
 「ラジオ英会話」の中で、You're top dog. (あなたがボス)という表現が出てきた。top dogというのは闘犬、猟犬などの最優秀犬から生まれたというのが信頼できる語源説で、イヌではなくボス、実力者、勝者など人間について使うことばである。そういえば昔、『ドラネコ大将』というハンナ・バーベラ製の連続アニメがあったが、原題は"Top Cat"であった。top dogは一般の辞書に出ているが、top catは出てこないねぇと思って、『リーダーズ・プラス』を見てみたら、「≪黒人俗≫落ちぶれた連中の親玉、‘お山の大将‘」として出ていた。アニメの原作者がこの意味を意識していたかどうかは定かではないが、『ドラネコ大将』の世界は確かにそういう雰囲気を備えていた。

11月21日
 綿抜豊昭『戦国武将と連歌師』を読んでいて、連歌に取って代わった「俳諧」とはどんなものであったのかについて知りたくなり、蔵書を整理していたら出てきた鈴木棠三『俳諧の系譜』(中公新書)を読み進む。あいにく、連歌から俳諧への移り行きを概観するような書物ではないのだが、笑いの文学についての鋭い考察がところどころに見えて、読み応えがある。
 「思うに、笑いの文芸は、ほかの文学のように人生の観照を深めることによって、文芸性をさらに深化するというものではないようである。
 笑いの文芸においては、早い者勝ちのような趣がある。新鮮なしゃれやギャグも、二番煎じ三番煎じになって鮮度が落ちれば、しらけて人は顧みなくなる。」(107ページ)
 一世を風靡したお笑い芸人が、急速に没落することが少なくないのは、こうしたことにも原因があるのだろう。

11月22日
 「須賀敦子の世界展」の会場におかれていた「須賀敦子先生のテスト・ファイルから」 出題された問題からわかるように、須賀さんは上智大学ではイタリア語イタリア文学ではなく、日本と海外の文学について広く基礎的なことを教えていたようである。

正しい方に○をつけなさい
1. 樋口一葉は作品『たけくらべ』で、東京の庶民的な地域で成長する子どもたちの生活を生き生きと描いた。
                                      はい・いいえ
2. 「高野聖」は泉鏡花によって書かれた小説である。
 作者は、山の中の謎めいた小屋で、妖しく美しい女に出会った僧の話を物語る。
                                      はい・いいえ
3. 夏目漱石のいわゆる三部作とは「三四郎」「門」「心」である。
                                      はい・いいえ
4. 夏目漱石の最後の作品「明暗」は未完のままで残された。未完ということで、この作品は重要でないと考えられている。                                    はい・いいえ
 これらの問題を易しいと思うか、難しいと思うか。それとも「はい・いいえ」でこたえるべき問題ではないと思うか? という問題もできるかもしれない。    

11月23日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJリーグディビジョン2第42節横浜FC対ギラヴァンツ北九州の対戦を観戦した。今季最終戦であるとともに、3年間横浜の監督を務めてきた山口素弘さんが契約期間満了のためチームを去ることになり、その最終戦でもある。2006年に横浜がJ2で優勝してJ1昇格を決めたときに、主力選手だった山口さんとともにプレーをしたDFの中島崇典、MFの内田智也選手が先発出場、その中島選手のコーナーキックからMF佐藤謙介選手がゴールを決めた1点が決勝点となり、横浜が最終戦に勝利した。今年もまた昨年と同じく11位に終わった。22チーム中のこの順位をどう評価すべきか。ともあれ山口さんの3年間の尽力に感謝するとともに、財政的に恵まれず、補強も思うに任せないチームではあるが、山口さんの後を引き継ぐ監督が、さらに強力なチームを造り上げることを期待したい。

11月24日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」初級編に出てきた表現:
Ha vinto l'Inter o il Milan? (インテルとミランのどちらが勝ちましたか?)
注目すべきは、チーム名の前に定冠詞が置かれていることである。他の言語、ほかのスポーツの場合はどうか、一度調べてみようと思う。

11月25日
 「まいにちイタリア語」初級編に出てきた例文。
Le lasagne al pesto mki sono piaciute tanto.
(ジェノヴァソースのラザニアを私はとても気に入りました。)
日本ではラザニアというが、イタリア語ではle lasagneと複数形にしている。イタリア語の辞典でpastaの種類が図示されているページを見るとspaghetti(男性・複数)とか、maccheroni(男性・複数)とか、penne(女性・複数)とか、gnocchi(男性・複数)とか、みんな複数形で出てくるが、pastaは単数である。どういうことだろうか。pestoは複数の食材をすりつぶし合わせたもの、ペーストを言う。pesto alla genoveseはバジルや松の実でつくるジェノヴァ風ペーストだそうである。

語学放浪記(45)

11月24日(月)晴れたり曇ったり

 先週(11月17日~24日)ラジオの語学番組をどのくらいの時間聴いたかを点検してみた。「2014年の2014」を数えるという場合には、番組の回数を数え、再放送は勘定に入れないのだが、ここでは再放送を含めて実際に放送を聞いた時間(分)を図ってみようというのである。途中から聞いたような場合は、切り捨てる代わりに、最初のほうの1~2分を聞きのがしたという場合には全部を聞いたことにして計算している。

 ドイツ語 75分
 フランス語 135分
 イタリア語 120分
 英語 500分

 ドイツ語、フランス語、イタリア語は月曜日から金曜日までの5日間、毎日2回、15分ずつ放送される「毎日ドイツ語」、「毎日フランス語」、「毎日イタリア語」を聞いた結果である。朝の放送と、午後の再放送の両方をきちんと聞いていれば150分になるはずだが、寝坊したり、用事があって出かけたりで、聞かないことがあることが数字に表れている。ただし、毎日の放送を最低1回は聞いていることも注記しておきたい。

 英語は週5回、1日に15分ずつ4回放送される「ラジオ英会話」、同じく週5日、1日に5分ずつ3回放送される「ワンポイント・ニュースで英会話」、月曜日と火曜日に15分ずつ3回放送される「入門ビジネス英語」、水曜日から金曜日まで15分ずつ3回放送される「実践ビジネス英語」、土曜日と日曜日に1回15分間放送される「攻略!英語リスニング」を聞いている。それぞれの番組が、ここに挙げた以外にも再放送の時間帯をもっているので、数字が大きくなるのである。

 こうやって時間数を点検してみると、英語以外の言語については番組を録音したり、CDを購入したりして、学習時間を増やす必要があるのではないかと思う一方で、多いように見える英語でも同じことをやらないと十分な学習効果は望めないのではないかという気がしている。とにかく時間をかけて学習することが大事である。「アンコールまいにちフランス語」、「アンコールまいにちドイツ語」、「アンコールまいにちイタリア語」という番組が別にあるのを聞くという手もあるが、それをやっていると自由時間がほとんどなくなってしまいそうである。

 それともう一つ、これらの言語にかかわる番組を聞いていると、現在の日本の語学学習システムの中で、英語がいかに優勢であるかということが改めて分かる。ここに挙げたのは私が聞いている番組だけで、このほかに「基礎英語1~3」、「英会話タイムトライアル」「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」「英語で読む村上春樹」の各番組が放送されている。提供されている番組数や、放送時間で英語が他の言語を圧倒しているのである。アジアの言語=中国語とハングルの場合もう少し放送時間は多いが、それでも英語には遠く及ばない。

 私の場合、英語の勉強をやり直し始めたのは、10月に入ってからのことなのだが、その結果として早くもほかの言語の学習が周辺に追いやられ始めている。これでは英語とその他の言語の能力が縮まるどころか、ますます開きそうな様相である。ということで、英語以外の言語の学習をどのように考えて、工夫していくか、対応を迫られているところである。

『太平記』(18)

11月23日(日)晴れ

 笠置山に皇居を置いて、あくまでも鎌倉幕府と戦う姿勢を示された後醍醐天皇であったが、元弘元年の8月29日未明、六波羅方の陶山義孝と小見山次郎が決死の覚悟で夜討ちをかけたことで、笠置は落城し、脱出して楠正成の立てこもる金剛山を目指された天皇は途中でとらえられ、六波羅に幽閉された。三種の神器を渡された皇太子量仁親王が即位され(光厳天皇)、10月13日に内裏に入られた。

 近畿地方における宮方の抵抗の執拗さに手を焼いて、鎌倉幕府は大軍を派遣していたが、その大軍が近江の国に入る前に、笠置城が落城してしまう。こうなった以上は、まだまだ抵抗を続けている楠正成を征討しようと、大軍は1人も京都には入らず、直接彼が立てこもっている赤坂城に向かう。近くまで軍を進めて、城の様子を見れば、にわか作りらしく、それほど堅い守りを凝らしているようには見えない。これならばすぐに攻略できそうだと、30万人の軍勢が勇んでわれ先に攻めかかる。

 「正成は、元来(もとより)策(はかりごと)を帷幕の内に運(めぐら)して、勝つことを千里の外に決せんこと、おそらくは陳平、張良が肺肝の間より流出せるごときの者なりければ」(167ページ、正成はもとより策を陣内でめぐらし、勝利を千里も離れた戦場で決すること、漢の高祖の臣で軍略に秀でていた陳平、張良の胸の奥から生まれ出たような武士であったので)、城中に優れた弓の射手を200人余り揃えて待機させ、弟の七郎と一族の和田五郎とに300余騎の軍勢を分けて、他の山に配置していた。寄せ手の軍勢はそのような作戦を全く知らずに、ひたすら力攻めにして城を攻略しようと、ただそのことだけを考えて攻め寄せるが、待ち構えていた射手たちの矢の雨に1,000人を超える戦死者、負傷者を出してしまう。

 思わぬ苦戦にいったん後退した幕府軍は、こうなった以上遠巻きに包囲して長期戦に持ち込む以外の策はないとそれぞれの陣を設けてその中に引きこもろうとするが、そこへ楠七郎と和田五郎の軍勢が攻め寄せる。30万人の軍勢が土地の様子を知り尽くした300人の奇襲に翻弄される。さらに城の中から矢の雨が降り注ぐ。幕府軍は慌てて後退する。「その道五十町が間に、馬、物具を捨てたる事、足の踏み所もなければ、東条一郡(大阪府富田林市内の地)の者ども、俄かに徳付いてぞ(財産を得る)見えたりける」(169ページ)。ユーモアを交えながら、正成の智略が小勢で大軍を翻弄する様子を描きだす。

 後退を余儀なくされた東国勢は初戦に敗北したためにすぐに次の戦いに取り掛かろうとはせずに、地理をよく知っている畿内のものを先導にして、背後を襲われないように民家を焼き払ってから攻略しようなどと議論をしていたが、被害の大きかった東国の兵の中には血気にはやるものがいて、再度城に攻め寄せようとする。

 赤坂城はそれほどの要害の地ではないし、防御を厳しく固めている様子もなく、また城中から何の反応もないので大軍は勢いづいて攻め寄せるが、城の四方の塀に兵士たちが取りつき、上り始めると、時を見計らってもともと二重に造られている兵の外側の方のつり縄が切って落とされ、兵に取り付いていた兵士たちが下敷きになってみ動きができなくなったところを、大木や大石が投げかけられ、またもや惨敗を喫するのであった。

 二度の攻撃がともに失敗に終わって、東国勢はしばらくの間遠巻きに城を包囲しているだけだったが、大軍が小さな城を攻めあぐねているのも恰好が悪い、何とかしようと、今度は小型の楯を用意して矢を防ぐようにして、城の塀のところまで近づき、すぐには昇ろうとせずに熊手で兵を引き倒そうとしているところに、上から大きな柄杓で熱湯がかけられる。寄せ手は楯も、熊手も捨てて逃げ出す。こうして、3度目の攻撃も失敗に終わり、あとは包囲して兵糧攻めにする以外に策はないということになる。そうなってしまうと、城内の兵士たちの気力が衰え始めるのであった。

 相手が動けば、正成の智略はそれ以上の動きを考え出す。それでは相手が動くなくなった時にどのように局面を打開するか、そこではまた別の智略が発揮されるはずである。笠置山の攻防でも明らかになったことであるが、もともと山のふもとの方から山上に攻め寄せていくのは難しいし、土地の様子にどこまで精通しているかも戦い方に影響してくる。関東勢は兵力に勝るが、これらの点では劣っているので、兵力の差があっても慎重に攻めるべきだったのである。しかも正成は地方の武士ではあるが、魚鱗懸かりなどという戦術を用いたりして、兵法に通じていることもわかる。その一方で、自分の頭で考えた戦術も使うので、攻め寄せる側としても対応が難しい。さて、戦局はどのように推移していくのか、それはまた次回。

須賀敦子の世界展

11月22日(土)晴れ

 県立神奈川近代文学館で開かれている「須賀敦子の世界展」を見に出かけた。間もなく最終日という時期になってやっと出かけた。須賀さんの書いたもののかなり多くを読んでいるのだが、なかなか出かけようとしなかったのは原稿や手紙を中心とした展示で何がわかるのだろうかという気持ちがあったからである。それでも実際に、小さな字でこまごまと書かれた手紙を見てその人となりを具体的に想像したり、須賀さんが早い時期から原稿をデジタル入力していたという事実を知ったりしたので、この展示を見ただけのことはあったと思っている。

 以前にも書いたが、須賀さんの書いたものを一生懸命に読んでいた時期もあるし、意識的であったか無意識にであったかは自分でもわからないが、遠ざかっていた時期もある。須賀さんはイタリアを中心としたヨーロッパの文学・文学を専門に研究し、イタリアの文学作品を翻訳され、イタリアの風物についての心に残る多くのエッセーを残した。その一方で社会事業に関心をもっていたり、児童文学の習作を書いたりしていたようで、晩年には小説の構想も温めていたらしく、その人間的な多面性はこちらの想像を上回るところがある。
 ヨーロッパという多面的な世界をどのように理解するかは、さまざまな可能性をはらんだ試みであるが、結局のところ、ヨーロッパを構成するさまざまな民族と文化的な伝統のどのような配合を自分のものとして受け入れていくか、それを自らの文化的な背景に即してどのように理解していくかという問題ではないかと思う。そういう意味で、須賀さんのイタリアを中心としたヨーロッパ理解と、私の英国を中心としたヨーロッパ理解とが重なる部分もあるし、重ならない部分もあるのは当然のことである。イタリアは多様性をもつ国であり、英国も同様である。そしてヨーロッパはそのような多様性を内包した国の集合である。それで、その中のどのような要素を重視するかによって、須賀さんの世界に近づいたり、そこから遠ざかったりしたのだろうと思う。まあ、おそらく共通する要素というのはキリスト教=カトリック信仰と、ラテン語=ロマンス諸語への愛着、イタリア文学への興味であろう。しかし、カトリック信仰にも、イタリア文学にもさらに様々な傾向がある。宗教的な信仰ということについていえば、カトリックの学校で教育を受けたという点での共通性はあっても、信者になったり、社会事業に積極的に参加したりした須賀さんと、公教要理を途中でやめた私とでは大きな開きがある。とはいえ須賀さんがカトリック信仰一本やりだったのに対し、私は仏教や神道についても興味を持ってきたので、宗教的な関心の在り方という点での違いは質的なものも含んでいる。イタリア語・イタリア文学についての実力差はさておいても、須賀さんは厭世的・悲観的な傾向をもつ文学を遠ざけていたようで、その点の好みの違いがある。

 須賀さんがカトリック左派の社会運動に参加して、ミラノにあったコルシア書店を拠点として活動していたことは多くの人の知るところでもあり、この展示でも大いに強調されている。だとするとイタリアの映画作家で政治的な傾向として最も近そうなのは、ロベルト・ロッセリーニであると思うのだが、須賀さんの書かれた文章に出てくる映画作家というとルキノ・ヴィスコンティであったり、フェデリコ・フェリーニであったり、ピエル=パオロ・パゾリーニであったりするのはどういうことか。須賀さんの教え子の一人であり、映画に造詣の深い岡本太郎さんあたりに意見をうかがってみたい問題である。

 いろいろなことを書き散らしてきたが要するに、ヨーロッパ文化とはどういうものか、それがわれわれ日本人にとって、あるいは世界一般にとって、どのような歴史的意義をもっているのかという問題につて、考える重要な手掛かりを与えてくれた物書きの一人が須賀さんであったのだが、その多面性をどのように理解するかということで、近づいたり、離れたりを繰り返してきたということである。

 今回の展示を見て知ったことというと文壇関係の情報が多く、須賀さんが学生時代にカトリック信者としての活動を通じて有吉佐和子と交流があり、その後も断続的に続いていたこと、庄野潤三や丸谷才一との交流についてである。さらに須賀さんがイタリア文学の専門家の教育に大きく貢献されたこと(特にダンテの『神曲』の研究会を主宰されていたこと)、またもっと一般的に日本とヨーロッパの文学の教育者として多くの学生たちに文学への興味を喚起されていたことを知ることができた。現役だったころに須賀さんの教育者としての側面について多くのことを知っていれば、もう少し自分自身がましな人間として生きることができたのではないかと、その点をめぐっては残念な気分になっている。

虹をわたって

11月21日(金)晴れ

 神保町シアターで「映画は歌うよ どこまでも♪」特集上映の中から『虹をわたって』(松竹、1972年作品、前田陽一監督)を見た。この映画、なぜか封切られたときに見逃していて、その後、見る機会がなく、40年以上がたってやっと見ることができた。

 横浜港の近くの運河に浮かぶ水上ホテル「れんげ荘」にある日、マリ(天地真理)という名の若い娘がやってくる。主人のおきん(武智豊子)はいったんは断るが、彼女が家出娘で金をあまりもっていないと知って、とめることにする。そして同じく運河に浮かぶ食堂船「末広」で働けるように世話をする。ホテルの他の宿泊人、マフィア(なべおさみ)たちはやくざの大津(財津一郎)に言われて、マリを誘拐して地方の芸者に売り飛ばすようにいわれるが、なんとなく気が咎めて競艇で大穴を当てて金を返そうとする。ところが怖いもの知らずのマリが競艇場についてきて、彼女だけが大穴を当てて80万円を儲ける。しかしその金は大津に巻き上げられてしまうが、彼女が笑って許したので、すっかり心服してしまう。宿泊人の1人で占いの名手?であるハッケはマリと他の宿泊人たちが白雪姫と小人たちの関係に見えるという。とすると、白馬に乗った王子様が現われるのであろうか。

 映画中劇でマリが白雪姫、マフィアたちが小人、ハッケが王子に扮して『白雪姫』を上演する。王子はマフィアたちが手に入れたがっている家をプレゼントするというが、果たしてその約束は果たされるのだろうか。そうこうするうちに「れんげ荘」の近くに白いヨットに乗った青年昭夫(沢田研二)が現われる。彼は太平洋横断をくわだてているという。ハッケはこの青年がアメリカにいるおばの莫大な遺産を相続し、マリと結婚して、ホテルの宿泊人たちに家をプレゼントするという卦を立てる。そんなにうまい話が実現するか、さすがに他の面々は信じる気にならないのだが…。マリは実は横浜の山手に住む金持の令嬢であり、ずっと父親と二人で生活してきたのが、父親(有島一郎)が恵子(日色ともゑ)という若い水商売の女と再婚するというのでショックを受けて家出をしたのである。偶然彼女を見つけたボーイフレンドの次郎(萩原健一)は親が心配しているから早く帰るようにというが、彼女は帰る気を起こさない。

 前田監督は横浜、とくに港の周辺が好きであったようであるが、そのような好みがよく出ていて、マリが食堂船で働く様子など生き生きと描いている。海は実際のところそれほどきれいではないのだが、それでも気分を引き立たせるところがある(かくいう私も、以前は横浜駅の東口から山下公園までのシーバスによく乗船したものである)。水上ホテルと食堂船での経験でマリは自分の世界を広げることになる。広がった世界が彼女を変えていくというところで、物語は『白雪姫』をなぞっているようで、決定的に違うのである。そういう物語の構成上の工夫の一方で、マリの父親が何をして豊かな暮らしをしているのか、マリ自身が何をしているのか(学生なのか)というようなことについて触れていないのは気になる点である。「水上生活者」たちの生活がかなり詳しく描かれている一方で、山手の住人達については描き方が粗いのである。

 そうはいっても、前田監督らしい喜劇性がふんだんに盛り込まれていて、楽しんでみることができた。ただしこれは私だけのことらしく、今回の客席からはあまり笑い声が聞こえなかった。例によって年配の客が多かったのだが、今回の特集上映の題名とも関連して、喜劇というよりも歌謡映画という受け取り方が一般的なのだろう。その点が私にとってはどうも残念である。主演の天地真理の周辺に前田作品の常連俳優たちが配されていて、それぞれの役どころで物語と主演者を支えている。前田作品では悪役に回ることが多い財津一郎がその役を楽しんでいるように見えるところが面白く、日色ともゑが鬘をかぶったりしていつもとは違う役どころに挑戦している点も見ものである。そしてなべおさみと岸部四郎がそれぞれの個性をよく出している。

綿抜豊昭『戦国武将と連歌師 乱世のインテリジェンス』

11月20日(木)曇り後雨

 綿抜豊昭『戦国武将と連歌師 乱世のインテリジェンス』(平凡社新書)を読み終える。

 「かつて『連歌師』という『職人』がいた。和歌・連歌を詠み、時にそれが記される紀行文を著すこともある。また自らが実作をするだけではなく、他者を指導し、連歌会をしきるとともに、和歌・連歌について論じ、関連して『源氏物語』などの物語についても語り、論書などを著したものもいる」(7ページ)とこの書物は書きだされている。連歌師は職人であり、芸能人であり、見たところ僧形ではあるが、世俗のさまざまな事柄にかかわる、得体のしれない、怪しげな存在であった。彼らが最も活躍したのが戦国時代であるというから、ますます怪しげである。

 「しかし、彼らはその『あやしさ』ゆえに実に魅力的である。『連歌師』についての知識があると戦国時代の歴史がより面白くなる」(同上)と著者は言う。連歌師には「表稼業」としての文学的活動のほかに、「裏稼業」と称すべき仕事があった。連歌には武士の間の意思の疎通を図り団結を固める効用があり、連歌師たちは諸国間をめぐり、武将間の交流や情報の伝達、意見のとりまとめにおいて役割を演じ、その一方で困窮する公家のサイドビジネスの口利きをするなどして、戦国の世に欠かせない存在となっていたのである。この書物は、そのような連歌師の戦国時代(安土桃山時代と、江戸時代の初期を含む)における活躍の諸相を取り上げている。著者は大衆向けの歴史小説についての深い造詣を生かしながら、面白おかしく、その様相を語っている。学術的な価値についてはやや疑問があるが、とにかく面白いことは確かである。以下、とくに面白いと思った個所について簡単に紹介する。

 文藝の道に秀でていることで戦乱の世を生き延びた武将であるといってもよい細川幽斎は連歌についても上手であったが、息子である忠興の妻の父・明智光秀について「連歌でルール違反があると軽々しく直す」(184ページ)と批判したという。「光秀は、ルールにのっとってきちんとしているのが好きであり、またゆとりのない人であったのかもしれない。現代でも自分の中の圧倒的な<正義>をもって他者の<愚行>を裁き続ける人がいる」(同上)というのは、著者の世相に対する批判とも受け取れるが、その光秀が天生10年(1582年)5月に毛利征伐のための「戦勝祈願」として山城国愛宕山威徳院で行ったいわゆる「愛宕百韻」で自らが詠んだ発句
ときは今雨が下(した)しる五月かな
この句が「本能寺の変」の直前に読まれたものであることから、神意はその戦勝祈願にあったとする解釈が江戸時代になされる。たとえば石川丈山の『丈山紀談』では「明智の本姓は土岐氏なので、『時』と『土岐』と読みを通わして、天下を取るの意味を含めた」(185ページ)と解釈しているという。この席には、有名な連歌師の里村紹巴が加わっていて、豊臣秀吉から「天が下知るというときは天下を奪うという心が現われている。それがわからなかったのか」(186ページ)と詰問されたという話も伝えられている。著者はこの発句をめぐる様々な解釈を紹介して「連歌はいろいろなことを詠む。したがって解釈の仕方によっては、自然や人事のことの多くと結びつけることができる句が見つかる。その多様性のある解釈が、連歌を『読む』面白みの一つであろう」(196ページ)とだけ論じている。それはともかく、歴史小説を書こうとする人にとっては必読の箇所であろう。幽斎にしても、紹巴にしても(スケールの違いはあるが)戦国の世をしたたかに生き延びている。その延命術と連歌のかかわりに興味がわく。

 その他の有名人・無名人たちの和歌・連歌にかかわる逸話を拾うと、『和歌奇妙談』などに記される、安倍貞任の弟宗任が前九年の役でとらえられ、みやこに連行された際に公家たちからその無教養ぶりを笑ってやろうと梅の花を示されたところ、
あづまには梅花といふも梅の花大宮人はいかにいふらん
(118ページ)と詠じたので、公家たちが白けて帰ってしまったという逸話に続けて、安倍晋三氏はこの安倍宗任の子孫だと言われる(119ページ)と記しているが、何か裏付けになる史料があるのだろうか。

 もう少し新しいところでは家の伝統を重んじて正月の七草の行事として連歌を催した伊達政宗や、連歌を詠むことが嫌いではあったが、読んで勉強していた(政務に役立てていた)徳川家康、さらに連歌を趣味と実益の両面でこのんだ黒田如水らの戦国武将(伊達家、武田家、今川家などのもっと古い話も満載である)についての興味深い逸話が記されている。その一方で宗祇が旅の連歌師と言う評価を得た経緯について述べるなど、文芸としての連歌についても一通りの知識を与えてくれる。この書物だけですべてを知ることはできないが、面白く読めるし、連歌の全容を窺うために必要な見通しをつけてくれる書物だと言えよう。

今津孝次郎『学校と暴力 いじめ・体罰問題の本質』(4)

11月19日(水)晴れ

 またもや間隔が空いてしまったが、今津孝次郎『学校と暴力 いじめ・体罰問題の本質』の紹介と論評を続ける。今回は「いじめ『社会問題』の<四つの波>」について論じた部分を取り上げる。既に述べたように、この4つの波は学校現場におけるいじめの動向を直接反映しているというよりも、いじめをめぐる「まなざし」の変化に対応して取り出されたものである。今津さんは、いじめ問題の「社会問題化の<波>が押し寄せた各時期と、その時期の特徴を一言でまとめたうえで、象徴的な事案と具体的な防止対策を整理しながら、いじめ問題への『まなざし』がどう変化し、どう変化していないかを指摘したい」(46ページ)と述べている。

 「第一の波」となるのは1980年代の半ばで、「いじめの本格的な社会問題化」が始まった時期である。1985年に称ch喰う学生10人以上が自死するという傷ましい事件が相次ぎ、文部省(当時)は「児童生徒の問題行動に関する検討会議」を設置していじめ実態調査を始めるとともに、6月には問題の解決に向けてのアピールを出した。その4か月後には臨教審が会長談話を通じて、いじめ問題を審議対象にしたことを公にしている。しかしこの時期における政策文書を読むと、問題を指弾しているが、その表現は表面的で論評的なものに終わっている。国を挙げての対策が動きはじめた矢先の1986年2月、中野富士見中事件が起きた。この事件では被害者の少年の「葬式ごっこ」の寄せ書きに署名していた担任教師など6人が懲戒処分となり、いじめで教員が懲戒処分を受けた最初の事案となった。このことは、1980年代初頭から広がった「教師バッシング(叩き)」に勢いを与えることにもなった。また、この時期から「いじめる」という動詞と並び、「いじめ」という名詞が多用されるようになったことも注目される事柄である。

 「第二の波」となるのは1990年代の半ばで、「いじめの刑事犯罪化」、すなわち単なるのいじめにとどまらず、刑事事件として立件されるような「恐喝」犯罪にエスカレートする事案が現われてきた。その代表的なものが1994年に愛知県の中学校で起きたいじめ事件であり加害4少年が書類送検された。この事件を受けて発表された文部省の「緊急アピール」では単に問題を指弾し、表面的で論評的な表現にとどまるのではなく、被害の立場から加害を強く糾弾しているのが特徴的である。ところが、刑事犯罪化をめぐってはメディアも世論もあまり関心を向けず、いじめ問題という認識が大きく変化したようには思われない。「いじめはエスカレートすれば刑事犯罪になることもあるという認識を、学校教育関係者でさえ知識としてまだ根付かせるには至っていなかったのである」(52ページ)と著者は言う。

 「第三の波」となるの2000年代半ばで、遺書を残したいじめ自死事件が突然のように全国で相次ぎ、再びメディアの報道が活発化した。この時期に大きく浮かび上がってきた論点が4つあると著者は指摘する。
 ①いじめ件数データ。いじめの実態を知るために、正確なデータは不可欠である。しかし、いじめを「減らす」ことが目的になると、学校が隠微な「報告件数隠し」に走る恐れがある。件数と問題の解決はあくまで別の問題である。
 ②いじめ件数の調査基準。いじめの基準として、加害者のいじめ糸の有無にかかわらず、被害者の立場を考慮する姿勢を明確にした点が注目される。この変化をめぐって、1人の教師が「いじめ」を発見するのには困難があり、学年全体または学校全体であらゆる角度から子どもの状況を把握する必要がある。
 ③学校の隠蔽体質。いじめ自死事件に共通するのは学校や教育委員会がいじめ問題に正面から向き合わずに隠そうとする体質がある点である。最近になって広がっている「危機管理」の考え方では、隠すよりも事実を公開するほうが早期の信頼回復を得ることできるのだが、この考え方が学校組織にはまだ浸透していない。意図的あるいは無意図的な隠ぺい体質がこのまま続いていくと、学校組織の奥深くに存在する暴力の根がそのまま温存される危険性があると著者は論じている。隠さないことがいじめの暴力へのエスカレートを防ぐはずだというのである。
 ④懲戒措置。いじめの加害者への厳罰化を求める議論があるが、いじめをめぐっては加害者と被害者が入れ替わる事例も多く、まだ対人関係能力(ソーシャルスキル)が未成熟な児童青少年が直面している問題であると考えることが必要である。懲戒措置は簡単なものではないと著者は論じている。

 「第四の波」は2010年代の初頭で、いじめの解決を求める世論の盛り上がりを受けて「いじめ防止対策推進法」が制定された。大津市中学校事件では、いじめの多くの兆候があったにもかかわらず、学校側がそれを見過ごし、事件発生後は真相究明に消極的な態度をとり続けた。このことがいじめ問題をめぐる最初の法律の制定の端緒となったのは極めて遺憾な事態である。

 いじめは本来学校による教育的な努力によって解決されるはずの事案である。問題はいじめ行為そのものよりも、人々のいじめ問題への「まなざし」に「落とし穴」があるのではないかというのが著者の抱いている疑問である。いじめが起きてからどう対処するかということではなくて、いじめを誘発する青年前期の問題に対して教育的に向き合うための努力とそれを支える体制が必要なのではないかと著者は論じている。

 以上みてきたところからわかるように、「四つの波」は著者のいう「まなざし」の波、いじめをめぐる教育世論・言説の波、あるいは施策の波であって、実態を映すものではない。学校に正確な件数を報告させようというのはきわめてお役所的な硬直した発想であって、むしろいじめている児童生徒や、いじめられている児童生徒の生の声を聞くような努力のほうが有益なのではないかと思うが、考えてみると、渦中にある児童生徒は(著者が指摘しているように)その立場を一変させる可能性もあり)、いじめ問題をめぐる正確な実態の把握は困難であることをまず認識しておく必要がある。しかしながら、いじめをめぐる様々な研究はいじめの様相と、それが青年期、とくに青年前期の発達とどのように関連して起きているのかについて、かなり明らかにしてきた。それでは、青年前期の発達上の問題と、いじめはどう結び付き、それがどう克服されるべきなのであろうか。これらのことについては、次回以降に述べることにしたい。 

日記抄(11月12日~18日)

11月18日(火)晴れたり曇ったり

 11月12日から本日までの間に経験したり、考えたりしたことから:
11月12日
 「ラジオ英会話」の”U R the ☆ (You are the star)"のコーナーで練習した会話。
You have a very pretty cat. (とても可愛い猫をお持ちですね。)
Thanks. He was an orphaned kitten. (どうも。彼は親のない子猫だったんです。)
Really? What's his name? (そうですか、名前は?)
Oliver Twist. (オリヴァー・トゥイストです。)
孤児の運命を描いたディケンズの名作が英語世界でいかに親しまれてきたかを改めて感じさせられた。『オリヴァー・トゥイスト』は、デヴィッド・リーンと、キャロル・リードという戦後の英国の映画界を代表する2大監督がそれぞれ映画化し、その後、ロマン・ポランスキーが映画化している。ポランスキーによる映画化は実は見ていないのだが、いつだったか、電車の中で若い男女が話をしていて、近ごろ見た映画の中では『オリヴァー・トゥイスト』が面白かったと言っていたので、よく分かっているねぇと感心して聞いていた記憶がある。19世紀に書かれた作品ではあるが、子どもたちをめぐる貧困と過酷な状況は今なおグローバルな問題として我々につきつけられているのである。

11月13日
 「ラジオ英会話」でlitter box(猫用トイレ)ということばが出てきた。litterといえば、初めて英国に出かけたとき、ロンドンの地下鉄の駅にlitterという文字が記されているポストを小型にしたようなものが駅におかれていて、なにかと思ったという記憶がある。英語の手紙の書き方を書いた本の中で、その本の著者がlitterとletterを取り違えて、せっせと手紙を投函していたという思い出を書いていた。英国でも郵便ポストは赤い色をしている(おそらく日本が英国のまねをした)ので、間違えるはずはないのだが、誰からも教えられないままに間違えつづけていたということである。私は、英国ではもちろんのこと、日本でも手紙は郵便局から出すというほうだから、そういう間違いはしないで済んでいる。

11月14日
 「まいにちドイツ語」応用編「黒猫イクラと不思議の森」では、昨日に引き続きオスマン帝国による1683年のウイーン包囲について取り上げた。このころ既に衰勢にあったオスマン・トルコはウィーンの攻略によって国力を挽回しようとしたのである。オスマン帝国はどうしても攻略したい都市を「黄金のリンゴ(Der goldene Apfel)と呼んでいたという。コンスタンティノープル(イスタンブール)を攻略して自分たちの首都とした彼らにとって、次の「黄金のリンゴ」はウィーンであった。
 リンゴといえば、ニューヨーク市のことをThe Big Appleと呼ぶのは御承知のことと思う。他にりんごに関連する愛称をもつ都市がないかどうか、探してみたいと思っている。
 「黄金のリンゴ」というと、ミルトンの『失楽園』を思い出すか、森の中での美女との出会いを描いたイェイツの詩「さまようインガスのうた」を思い出すか、レイ・ブラッドベリの短編小説を思い出すか、私の思い出すのはこの程度だが、他の文学作品を思い出す方もいらっしゃるだろう。

 神保町シアターでは新たに『神保町シアターに行こう』という出版物を創刊した。「釣りバカ日誌」の原作者で、映画『あさひるばん』を監督したやまざき十三さんへのインタビュー、「映写室のひみつ」、映画館の向かい側にある天鴻餃子房神保町会館店を取り上げた「突撃!! ご近所さん」など盛りだくさんな内容がB5表裏1枚の中に詰まっている。さらに「支配人の独り言」として、今年8月末に惜しくも閉館した新橋文化劇場の副支配人・遠藤さんとの交流からこの出版を思い立った経緯が記されている。なお、この映画館と餃子店をめぐっては平松洋子さんのエッセーがあるので、探して読んでほしいと思う。

11月15日
 アーサー・コナン・ドイル『バスカヴィル家の犬』を河出文庫版で読み終える。いずれ、このブログで取り上げてみるつもりである。

11月17日
 椎名誠『ぼくは眠れない』を読み終える。椎名さんが長年不眠に苦しんできた経緯が語られている。あまり明るい話題ではないし、私自身も不眠に苦しんだ時期があったので、かなり複雑な気分で読んでいたというのが正直なところである。

11月18日
 カルチャーラジオ「ヘボンさんと日本の開化」で、上海でヘボンから和英辞書の題名を考えるように言われた協力者の岸田吟香がはじめ『和英詞林集成』と考えていたのを、『語林』にして、一厘値上げしたと洒落を日記に記しているという話が面白かった。何事によらず、ユーモアは大事である。

 高倉健さんが亡くなった。以前にも書いたが、私はあまり東映映画は見ないので、ビッグ・ネームであるにもかかわらず見たことのある出演作はきわめて少ない。ただ、今年の夏だったか、「網走番外地」シリーズをNHKのBSプレミアムでずっと放映していたのを見ていて、監督がいろいろと工夫をして作っているのを見て感心したことを思い出す。もう1つの人気シリーズであった「昭和残侠伝」シリーズもなにやかやというほどには見ていない。テレビのニュースで全共闘の学生たちに人気があったというようなことを言っていたが、実際のところ、もう少し人生経験を積んでみないとわからない面白さのあった映画ではなかったかという気がする。全く関係がない話になるが、大学時代の友人で、高校時代の先生が高倉健さんを教えたことを自慢していたという話をしていたのと、私が大学で教えていたころの同僚で、高倉健さんの高校(福岡県立東筑高校)の後輩だと言っていた人がいたことを思い出す。かと思うと、東筑高校の出身者であっても、仰木監督も高倉健さんも知らないという人もいた。世はさまざまである。多分、これから出演作の特集上映があちこちであると思うので、少しずつでも見ていこうと思う。最後に、ご冥福をお祈りする。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(14)

11月17日(月)曇り

 ウェルギリウスとともに第13歌で自殺者、家産浪費者たちの霊が置かれている地獄の第7圏第2小圏を訪問したダンテは、そこで故郷であるフィレンツェの出身者に出会う。第14歌はこの出会いからの別れを歌うことから始まる。

生まれ故郷への愛が
私を締めつけたために、散らばった枝葉を一つに戻して
返したが、そのものは既に沈黙していた。

その後に私達がたどりついた境界では
二番目の小圏が三番目から分かれ、そこからは
正義の下す恐怖の御業を見ることができる。

その奇怪な事物を明らかにするために、
言っておこう、地面からあらゆる草木を退けている
ある荒野に私達は到着したのだ。

苦悩に満ちる森が花輪となってそれを
囲んでいる、悲しみの堀が森をそうしているように。
この場所の端の端で私達は歩を止めた。
(208-209ページ) このような奇怪な風景が広がる地獄の第7圏第3小圏は神を罵った者たちが罰を受けている場所である。神に対する暴力は、生命を与えてくれた創造主を否定することになり、その行為の根源的な不毛性を表すため、罪人たちは生命のない日の砂漠で罰を受けているのであると翻訳者である原さんは解説している。

みじめな手は一切の休みなく
激しく踊り、まだ新しい火を
今はこちら、今はあちらと体から払い落としていた。
(212ページ)という描写に見られるように、地獄のこの部分はきわめて視覚的に表現されている。そして2人はギリシャ神話のテーバイを攻めた7人の将軍(王)たちの1人であるカパネウスに出会う。テーバイの王オイディプスは父を殺し母と結婚していたことが分かり、王位を終れる。その後の王位を彼の息子であるエテオクレースとポリュネイケースが争い、テーバイを追われたポリュネイケースが7人の将軍たちとともに市を包囲する(テーバイの市を取り囲む城壁には7つの門があったとされる)。カパネウスはテーバイの城壁をよじ登り、ゼウス(ユピテル)を罵ったために神の怒りに触れて雷に打たれて死んだのである。(ギリシャ神話の神とキリスト教の神がここでは同一視されていることに注意しておこう。) 

 カパネウスを見たダンテは、ディース内城で自分たちを迎え撃った高慢な悪魔たちを思い出す。カパネウスの罪は高慢に由来し、地獄での彼の態度は悪魔たちを連想させるものであったためであるがそもそも悪は魔王ルシフェルが高慢ゆえに神に逆らったことから生じたものである。ダンテの問いに答えるように、ウェルギリウスは、人類の罪の歴史を語る。

「大海の真ん中にユピテル大神の島クレータが横たわり」(アエネーイス3.104)とウェルギリウスは歌ったが、ローマ神話ではユピテルの前に王であったサトゥルヌスのもとで、この世は純真無垢の黄金時代を過ごしていた。この山にはイーダー山という山がそびえ(現在はプシロリティ山という)、その山でユピテルが育てられたのである。というのは、サトゥルヌスは息子に王位を奪われるという予言があり、彼は妻レアーが子どもを産むとすぐに飲み込んでしまった。しかし、ユピテルが生まれたときにレアーはイーダー山中の洞窟に赤子を隠し、家来たちに言いつけて泣き声が漏れないように叫ばせたという。

その山の内部には威容を保つ大きな老人がまっすぐに立っている。
東方のダンミアータに対し背を向け
そしてローマを己の鏡であるかのように見つめている。

その頭は純金で造られ、
そして腕と胸が純銀で、
さらに脚のつけ根までが銅、

そこから下はすべて純鉄であり、
ただ右の足首より下は素焼きのテラコッタだった。
そしてこちらの上に、もう片方の足よりも、体をのせて立っている。

黄金を除いてどの部分も一切りに割られ、
裂け目から涙が滴り落ちている。
その涙が集まって、山の岩盤を穿つ。
(218ページ) その涙の流れが地獄を流れる4つの川:アケローン、ステュクス、プレゲトーン、こきゅーとすとなっているという。「ダンミアータ」はナイル川の河口で、エジプト、メソポタミアなどオリエントの地を代表するものとしてその名が出てくる。この巨像がオリエントに背を向け、ローマ(西欧)の方を向いているというところに、ダンテの思想の性格が現われている。オリエントは過去、クレタ島が現在、ローマが未来という人間の歴史が表現されており、像自体も人間の歴史を表すものと考えられる。その2本の足の左がローマ帝国、右が教会を表現し、とくにその堕落がテラコッタとなって表現されている。傷は原罪を表し、そのため、黄金時代=エデンの時代を表す黄金の頭部に傷はないのである。地獄の川は罪という観点から見た人類の歴史の流れという意味を与えられている。ダンテは地獄の4つの川のうち一部しか見なかったことについて疑問を抱くが、ウェルギリウスは2人が見たのは地獄の一部にすぎないと答える。

 なおこの巨人像は旧約聖書の「ダニエル書」2.31-33のバビロンの王ネブカドネツァルの見た夢の中の像がもとになっていると翻訳者の原さんは書いているが、「ダニエル書」ではこの像がネブカドネツァルの王国の運命を表すものとして解釈されているのに対し、『神曲』に登場する像は人類全体の運命を表現するものになっていることが大きな違いである。そして『神曲』がキリスト教的な主題を歌いながら、その世界像にはローマの詩人であるウェルギリウスやオウィディウスが描いた神話世界が紛れ込んでいることにも注目する必要があるのではなかろうか。 

国木田独歩「富岡先生」

11月16日(日)晴れたり曇ったり

 蔵書を整理していたら、国木田独歩(1871-1908)の『牛肉と馬鈴薯 他三篇』(岩波文庫)を見つけた。「他三篇」というのは、「正直者」、「女難」、「富岡先生」であるが、ここでは「富岡先生」(1902)を取り上げてみたい。近代日本の文学者の中で、だれが一番好きかと質問されて1人を選ぶことはきわめて難しいが、国木田独歩がその候補者の1人であることは間違いない。この文庫本の解説の中で、片岡懋が書いているように、理想を目指す社会変革の志と現実的な立身出世の夢が自分の中にあることの矛盾を感じ、それを自分の文学の中に正直に反映させた文学者であった。

 「富岡先生」は吉田松陰の門人であり、明治維新の際にも尽力したが、その後不遇の人生を送った富永有隣(1821-1900)をモデルにしていることはよく知られている。独歩は1891年に有隣を訪ねているとのことである。
 維新の際に功績を立てて新華族に叙せられた人物を輩出したある県の話。「同じく維新の風雲に会しながらも妙なはずみから雲梯をすべり落ちて、ついには男爵どころか県知事の椅子一つにも有りつき得ず、むなしく故郷に引っこんで老い朽ちんとする人物も少なくはない。こういう人物に限って変物である。頑固である、片意地である、尊大である、富岡先生もその一人たるを失わない」(94ページ)。富岡先生は彼の住む地方だけでなく、東京でもその名を聞いて眉をひそめるものがずいぶんあるらしいというくらいの知名人である。

 彼は親族が世話をしようというのも拒んで郷里で私塾を開き、漢学を教えていた。同居しているのは末娘と家事を引き受けている老僕だけである。末娘の梅子は近所でも評判の美人であるが、富岡先生の塾の出身者で東京の大学に進学し、彼女に思いを寄せているものが3人いる。そのうちの2人である大津定二郎が法学士となって帰省した。大津は先生のところにあいさつに出かけたが、先生は例によって尊大な態度を取り、今は政府の顕職についている昔の仲間たちを罵倒する。気分を悪くして辞去した大津は程なくして地元の地主の娘と婚約する。

 婚礼の日に、祝儀の礼に招待されていた富岡先生は、出席せずに門弟で秀才ではあったが、家が貧しかったために師範学校に進学し、小学校の校長となっている(20代で校長というのは、今から考えると凄い話である)細川を連れて釣りに出かけている。2人が釣糸を垂れている向こう岸を大津が同行者と先生の悪口を言いながら通り過ぎていくのを、先生は怒鳴りつける。そして、道具を家に届けるように言って、先に帰宅してしまう。

 その夜、細川が先生の家を訪ねると、先生は娘を連れて東京に出発したという。何かあると相談に出かけている村長を訪問すると、彼は先生から手紙をもらい、留守中のことを託された、先生は門人で大学を卒業したばかりの高山と梅子をめあわせるための工作に出かけたのであろうという。ひそかに梅子に思いを寄せていた細川は気が気ではない。

 しかし先生は上京してから1週間ほどで梅子を伴って帰ってきてしまった。政府の顕職についている井下(井上馨が念頭にあるらしい)や江藤(伊藤博文が念頭にあるらしい)が自分を粗略に扱って偉そうにふるまうのはまだ我慢ができるが、門人であった高山や長谷川の態度には失望した。「小官吏(こやくにん)になればああも増長されるものかとおれも愛想が尽きてしもうた。業が煮えてたまらんから俺はすぐ帰国(かえ)ろうとしているとちょうど高山がやってきて驚いた顔をしてこう言うのだ。せっかく連れてきたのだから娘だけは井下伯にでも預けたらどうだろう、井下伯もせめて娘だけでも世話をしてやらんと富岡がかわいそうだと言って、大変俺を気の毒がっていたとこういうじゃアないか…なんだ貴様までおれをかわいそうだとかなんとか思っているのか、そんなつもりで娘をあずけるというのか、大ばか者!とどなりつけてくれた。」(105ページ) 先生の気焔はますます上がり、昔話やら、出世した仲間の悪口やら長く続いた。話を聞いていた村長は折を見て逃げ出したが、細川は辛抱強く先生の相手をしていた。

 その翌々日、東京の高山法学士から村長に手紙が届き、自分としては梅子と結婚したいので、何とか富岡先生を説得してほしいと記されていた。「老先生の心底には常に二個(ふたり)の人が相戦っておる、その一人は本来自然の富岡氏、その1人はその経歴が作った富岡先生、そして富岡先生は常に猛烈に富岡氏を圧服するに慣れている」(107-108ページ)ので、富岡先生が富岡氏を圧倒していない時を見計らってこの問題を持ち掛けてほしいという。

 しかし、3日ばかり経って村長が先生を訪問してみると、先生は細川を相手に気焔を挙げている。これでは話にならないとそのまま帰った。さらに5日ばかり経って訪問してみると、先生は娘をしかりつけている。例にないことであると老僕と校長は心配する。

 その一方で細川は先生を足しげく訪問していた。しかし、秋になって風邪をひいたため、暫く訪問しないでいたが、病気も治ったので出かけてみると、梅子が泣いている。心配して事情を聴こうとすると先生に呼びつけられ、お前は娘と結婚したいのだろうと問い詰められ、その通りだと答えると、帰れ、自分が呼びにやるまでもう来るなと言われる。

 そういう悩み事を抱えても、仕事に支障をきたすような細川ではなかったが、心中では煩悶を続けている。聞くところでは先生の老衰はますますひどくなり、梅子もふさぎ込んでいるという。それでもなかなか先生の見舞いに出かけられずにいると、梅子から先生の代筆をした手紙が届く。急いで駆け付けると、いよいよ自分も死期が迫っていることを自覚しているので、折り入って頼みたいことがあると言われる。
 村長は東京の高山に対して、梅子は細川に嫁すことになり、自分がその婚礼の媒酌を頼まれた、これは両者にとって良縁であり、高山もよく考えれば納得することだと思うという手紙を送る。

 婚礼も済み、梅子は細川のもとで暮らすようになった。富岡先生は11月に死去して、「何国は名物男一人を失った。東京の大新聞二三種に黒枠二十行ばかりの大きな広告が出て門人高山文輔、親戚細川繁、友人野上子爵らの名がずらり並んだ。/同国のものはこの広告を見て「先生とうとう死んだか」とすぐうなずいたが新聞を見る多数は、何人なればかくも大きな広告を出すのかと怪しむものもあり、全く気のつかぬものもあり。/しかしこの広告が富岡先生のこの世に放った最後の一喝で不平満腹の先生がせめてもの遺悶(こころやり)を知人によって漏らされたのである。心ある同国人の二三はこれを見て泣いた」(120-121ページ)。

 文学者であるとともに、ジャーナリストでもあった独歩の個性がよく出た結び方であると思う。「心ある同国人」とはどのような人々であったか、というのが読者に対する問いかけであるとともに、明治維新以後の日本の歩みをどのように評価するかと問いにもなっている。

 独歩を高く評価した文学者の1人である芥川龍之介は「独歩は鋭い頭脳を持っていた。同時にまた柔らかい心臓を持っていた。しかもそれらは独歩の中に不幸にも調和を失っていた。したがって彼は悲劇的だった」(「文芸的な、あまりに文芸的な」と指摘したという。自己の矛盾に苦しんでいる独歩は、同じような矛盾に苦しむ人々の同乗者、共感者でもあったと解説者は述べている。富岡先生はいろいろと考えた末に、自分と同じ悲しみを味わいながら、しかも黙々と誠実に生きる細川に自分と同じ人間を見て、娘を託すことにしたのである。

 富岡先生は欠点も多いが魅力的な人物である。彼のモデルになった富永有隣についてはあまり多くのことを知らないのであるが、その師である吉田松陰に比べると思考の柔軟性のない人物であるという印象がある一方で、自由民権運動に共感するなど、新しい時代の動きにも決して鈍感ではなかったように見える(自分より50歳も若い国木田独歩と交流があったというのもその一例であろう)。解説者は富岡先生の士族意識や頑固さを欠点として挙げているが、欠点が転じて長所として評価されることもある(その逆もありうる)。

 独歩はどれをとってもそれほど長くないが、驚くほどに多様な作品を残した作家であり、そのような作品を通じて「人間の教師」であろうとした。その作品のひとつひとつが多くの可能性を残しており、文学が人生にどのような意味をもちうるのかを改めて考えさせるのである。 

『太平記』(17)

11月15日(土)晴れ

 元弘元(1331)年、笠置山に立てこもって勤王の兵を募った後醍醐天皇であったが、武家方の奇襲に敗れ、楠正成の立て籠もる赤坂に向かう途中、南山城で幕府方の兵にとらえられる。10月1日、六波羅の北探題が3,000余騎の兵力を動員して天皇を宇治の平等院へと移す。この日、鎌倉から派遣された2人の大将、北条一門の大仏貞直と金沢貞冬は天皇への拝謁を求め、三種の神器を渡していただいて、持明院統の皇位継承者として新たに即位すべき天皇(量仁親王=光厳天皇)のもとに移すようにと伺いを立てる。

 天皇が万里小路藤房を通じて仰せられたのは、「三種の神器はむかしから位を継ぐ帝が即位のときに前帝が自ら授けるものである。昔から天皇をないがしろにして天下の政治を動かすものはいても、三種の神器の受け渡しについて介入し、前帝から奪い取って新帝に渡すことをしたものはいない。しかも神鏡を置いていた内侍所は臨時に笠置の本堂に設けてあったので、夜討ちの際の火災で焼けてしまったのではないかと思う。神璽は山中を迷い歩いているときに木の枝にかけたまま置き忘れてしまった。宝剣はもし武士たちが天の罰など考えずに天皇に近づくことがあれば、天皇みずからがその刃の上に付す御覚悟であるため身近に置かれているのだと」の答えが返ってくる。とぼけたり、居直ったり、相手の要求を巧みにかわしているのは、藤房の知恵であろう。とにかくこの答えを聴いて、六波羅探題も、鎌倉から派遣された大将もいったんは引き下がる。

 翌日、天皇の乗り物を用意して、都へ帰還されることになるが、都といっても行く先は北条氏の根拠地である六波羅である。ここでも天皇とその側近(おそらくは藤房)が前例に従うべきだと最後の抵抗を試みて、時間稼ぎをする。しかし、ついに天皇とそのお側にいた公卿たちは六波羅に送られることになる。「日頃の行幸に事替はつて、鳳輦は数万の武士に打ち囲まれ、月卿雲客は怪しげなる籠輿、伝馬にのせられて、七条を東へ、河原を上りに、六波羅へと急がせ給へば、みる人涙を流し、聞く人心を傷ましむ。
 悲しいかなや、昨日は、紫宸北極の高きにましまして、百司礼儀の粧(よそお)ひを刷(かいつくろひ)しに、今日は、白屋東夷の卑しきに下され給ひて、万卒守禦の厳しきに御心を悩まさる」(163-164ページ)。
 天皇ご自身のご意志であったのか、藤房がうまく立ち回ったのか、天皇は面目をそれほど失わずに六波羅に向かうことになったが、公卿たちはみすぼらしい籠や輿にのせられて、七条通を東へ、鴨川の河原を上って六波羅へと急いでいく。 皇居で玉座にすわられていた天皇が、今や粗末な白い茅葺きの東夷の住処へと移され、厳重な警護に囲まれている。天皇は六波羅からそれほど遠くない皇居のことを思い出されることが多くなり、時雨の音を聞いて、
 住みなれぬ板屋の軒の村時雨音を聞くにも袖は濡れけり
(164ページ、住みなれぬ板葺の家の軒を降りすぎてゆく時雨の音を聞くにつけても、涙で袖が濡れる)と詠まれる。
 4,5日あって、中宮(西園寺禧子)から琵琶が送られ、それに添えて返歌がある。
 思ひやれ塵のみつもる四つの絃(いと)に払ひもあへずかかる涙を
(同上、引く人がなく塵ばかりつもり琵琶にかかる私のなみだを思いやってください。塵を払うに、絃を払う(鳴らす)、涙を払うをかけている。)
 これに対して天皇はすぐに返歌をされる。
 涙ゆゑ半ばの月は曇るともともに見し夜の影は忘れじ
(同上、空にかかる半月が涙で曇って見えなくても、以前ともに見た月の光(月影)とあなたの面影は忘れない。半月に琵琶の半月(半月形の穴)を掛けている。) 天皇と中宮の愛情を感じるか、両者の間の微妙な距離を感じるか、二通りに解釈できそうなやり取りである。『太平記』の作者は禧子に同情的で、彼女をかなり美化して描いている。天皇が阿野廉子を寵愛せずに、中宮を大事にされれば、その政治はもっとうまくいったと言いたげである。そういうことも考えて読むべきであろう。

 この月の8日、高橋と糟谷の2人の検断が六波羅にやって来て、捕えられた皇族・公卿を1人ずつ大名に引き取り預からせる。その中で万里小路藤房と千種忠顕は天皇の身近で仕えているべきであるとして、六波羅にとどめ置かれた。
 同じ月の9日、三種の神器を持明院の新帝(光厳天皇)に渡す。10月1日のやり取りはそれではなんであったのかという感じがしないでもない。堀川大納言(源具親)と日野中納言(日野資名、資朝の兄)がこれを受け取り、持明院統の根拠地の一つであった長講堂にこれを送る。13日、新帝が即位されることになり、長講堂から内裏へと移られる。「供奉の諸卿、花を折って行粧を引き刷ひ、随兵の武士、甲冑を帯して非常を戒めむ」(165ページ)。華やかな外見の反面で、警戒は厳重である。

 後醍醐天皇にお仕えしていた公卿たちは、この先、どういう目に遭うかと気が気ではない。一方新たに即位された光厳帝にお仕えする人々はわが世の春と浮かれている。「窮達時を替へ、栄辱道を分かつ。今に始めぬ浮世なれども、ことさら夢と幻(うつつ)とを分かちかねたりしは、この時なり」(166ページ困窮と栄達は時とともに変わり、栄誉と恥辱は所を変える。無常の世は今始まったことではないが、ことさらに夢と現実とが分けがたかったのはこの時のことである)と作者は時勢について評している。皇統をめぐる争いが、その周辺の貴族たちの去就にも影響を及ぼしているのである。新しい帝が即位されて、それで一件落着というわけにはいかない。いくはずがない。おそらくこの後の事態の展開が既に作者の頭の中にあったのだと思われる。政治の風向きの変化に連れて一喜一憂する人々が少なくないのは、この時代も現代も同じではないかと思われる。
 
 今回は、前回に比べると、後醍醐天皇が六波羅勢に囚われ、帝位を奪われる次第が描かれ、笠置山の攻防と天皇一行の逃亡を描く前回に比べて動きも波乱も乏しく、その一方で、(おそらくは)藤房の智謀や、天皇と中宮の歌のやり取りなど多少とも王朝風のエピソードが、あまり十分とは言えないながら、興味深く描きだされている。「平家なり 太平記には月も見ず」(其角)というが、『太平記』は決して、無味乾燥で風流と無縁の文学作品ではないのである。もっとも、新しい時代の新しい表現ということを考えるならば、「月も見ず」を徹頭徹尾貫いてみてもよかったのではないかという気もしないではない。さて、赤坂の楠正成は依然として幕府への抵抗を続けており、物語はその動きに目を向ける。正成がわずかな軍勢をもって敵の大軍と戦う様子については、また次回に紹介していくことにする。 

『伊勢佐木町ブルース』と『上を向いて歩こう』

11月14日(金)晴れ

 神保町シアターで『映画は歌うよどこまでも♪」特集上映から『夜の歌謡シリーズ 伊勢佐木町ブルース』(1968、東映、村山新治監督)と『上を向いて歩こう』(1962、日活、舛田利雄監督)を見た。本当は、『上を向いて歩こう』だけを見るつもりだったのだが、上映時間を間違えて出かけてしまい、『伊勢佐木町ブルース』も見ておくことにしたのである。

 『伊勢佐木町ブルース』は青江三奈の同名のヒット曲をもとに横浜・伊勢佐木町の夜の歓楽街に生きる男と女の人間模様を描いた作品で、東映で連作された「夜の歌謡シリーズ」の第4作にあたる。実は、今年になって初めて見る東映映画である(というほど東映映画とは縁がない)。伊勢佐木町通りには長く(青江三奈の死後も)この歌の看板が立っていた。私などは横浜シネマジャック&ベティに出かけるときの目印に使っていたが、今ではほかの歌の看板に変わっている。

 土地成金の大倉(伴淳三郎)から新しいバーを開設する資金を提供するから、そこのママを自分の愛人に世話してほしいという話を持ち掛けられたオープン屋の宮田(梅宮辰夫)は、愛人の話をうやむやにしたまま、仲の良いホステスのれい子(宮園純子)をママにして新しい店を開業させる。れい子は裏の事情をうすうす気づいているが、とにかく利用できるものは利用して、夜の世界の華やかな生活を楽しみたいというのが本音らしい。宮田にはその一方で房子(清水まゆみ)というホステスが熱を上げており、れい子の元の情夫であった暴力団員の竹村(吉田輝雄)が刑務所から出所してきて、話は複雑になる。

 物語は陳腐であるし、当時としても新しい趣向があったわけではないが、横浜に住む人間としての目から見れば、昔の横浜の姿、もう少し活気があったころの伊勢佐木町や横浜のその他の風景を見ることができて、その点が魅力になっている。青江三奈がフロアで歌う場面もあるし、山口洋子が特別出演的に顔を見せている。さらに言えば、助監督がこの後間もなく監督に昇格する伊藤俊也であるのも注目しておいてよい点かもしれない。

 『上を向いて歩こう』は坂本九の名曲の映画化。鑑別所を脱走した九(坂本九)と良二(浜田光夫)は運送屋をしながら非行少年の更生事業に取り組んでいる永井(芦田伸介)に出会い、九は彼のもとでまじめに働くことになるのだが、良二はドラマーのジェシー牧(梅野泰靖)を慕って彼のもとでバンドボーイをしながらノミヤに出入りをしている。そのノミヤのボスである松本健(高橋英樹)はむかし永井のもとにいたことがあるらしい。

 永井の娘で大学生の紀子(吉永小百合)が九の面倒をいろいろとみているのだが、その妹でポリオのために車いすの生活をしている光子(渡辺トモコ)に出会ったことで、九は彼女のリハビリを助けようとし、ますます一生懸命に働くようになっていく。紀子には同じ大学に通うボーイフレンドがいるのだが、健がその異母弟であることを知る。健は家族からのけ者にされて、チンピラの仲間に身を投じる一方で、受験勉強をして異母兄と同じ大学に入学しようとする。紀子は健が家族とよりを戻すことを望む。技量の衰えに苦しんでいる牧は麻薬に手を出し、そのことで生活があれていく。良二は彼のために何とかしようとするのだが、必要な金額が多すぎる。そのことで九とも仲たがいしてしまう。

 いろいろな境遇にある若者たちが出会い、その生き方が交錯する。その中で「上を向いて歩こう」、つらいことがあっても、向上心をもって頑張ろうというメッセージを発しつづけるのは永井であり、その娘の紀子である。実際、映画全体を通じて、紀子は常に正しいことを言い続けている。しかし、興味深いのは九が本当に立ち直っていくのは、そういうメッセージによってではなくて、自分よりも弱い、自分の助けを必要としている存在の光子に出会ったことを通じてである。このことが、同じ時期にアメリカで作られたジョン・フランケンハイマーやフランク・ペリーの映画と共通するものを感じさせて興味深かった。

 ラスト・シーンで健、紀子、九、良二、光子(自力で歩けるようになっている)を先頭に登場人物たちが『上を向いて歩こう』を歌いながら歩いていく。歩いているのは国立競技場のように見えるのだが、あるいは違うのかもしれない。なかなか感動的なラスト・シーンなのだが、歩いている場所がどうも気になってしまった。 

晩秋から初冬にかけての蕪村の句

11月13日(木)晴れ

 NHKカルチャーラジオ「文学の時間」『蕪村の四季 交響する魂』の第6回「訪(おとな)ふこころ」の再放送を午前中に、第7回「老(おい)が恋」の放送を夜に聴く。印象に残った個所や句を思いつくままに抜き書きして、感想を付け加えてみた。

 「訪ふこころ」は、
猿どのゝ夜さむ訪行(といゆく)兎かな (『古今短冊集』)
という句の解釈の可能性を語る内容であった。
 この句は、ふつう、「兎が猿の夜寒の山居をたずねた」と解釈されている。しかし、「猿どのの」の「の」を主体を表す「が」とみて、「秋も深まって、肌をさすような寒さを感じる夜、猿どのが兎さんを訪ねて行ったよ」と解することもできると、講師の玉城さんは論じる。京都博物館で現在展示中の様子である『鳥獣戯画』を思わせるような情景である。(そういえば、先日京都に行ったのだが、このことを知らずにすぐに帰って来て損をした気分である。)
 江戸時代の民謡には、猿が「ささら」を鳴らして伴奏、タヌキが鼓を打ち、兎が踊って田植えの景気をつけているというのがあるそうで、猿と兎の相談も、来年の田植えの手はずを整えるためのものかもしれないと環さんは論じている。

 また、芭蕉の『野ざらし紀行』のなかの
猿を聞人捨子に秋の風いかに
を連想して、和漢の古典の中で、猿の声は悲しみの象徴として受け取る伝統があったことについて触れて、捨てられた猿が孤独に耐えかねて兎を訪問したと受け取ることもできるとも論じている。

 さらに「猿どの」の句を収載する『古今短冊集』を編んだ大夢庵毛越との交友について触れ、上洛してまず大夢を訪問したときに江戸で「さあ共にこの世を軽んじて髪を落とし、衣を墨染めに代えて、都(京都)の月に向かって詩を吟じよう」と約束した通り、頭を丸めて浮世の夢を見つくそうとしているのは頼もしいことだと語り合っていると、知人がマルメロをもってきてくれたので、
まるめろはあたまにかねて江戸言葉
と詠んだ。お互いに頭を丸めた二人。つるつるになった頭をなでながら、旧交を温め合っているという句である。玉城さんは「頭を丸めろ」という表現は江戸でしか使わなかったのだろうと推測しているが、そうではなくて、命令に「-ろ」という助詞を使うのが江戸言葉の特徴だったのである(当時の普通のいい方では「まるめよ」というように、「-よ」を使っていたのではないか)。猿どのは、俳諧の宗匠としてちょっとばかりうぬぼれのぼせていた蕪村自身のこと、兎は毛越のことという解釈もできるという。そして猿と兎は、俳諧のあるべき姿について寒さの中で熱く語り合っていたのかもしれないと想像をめぐらしている。

 蕪村に訪う句が多いのは、彼の人恋しい気分の表れであろうが、四季折々の風物に寄せて、その思いが絵画的に表現されているところに特徴が見出される。
木屋町の旅人訪(とは)ん雪の朝
貧乏な儒者訪来ぬる冬至哉

 「老が恋」では、蕪村が老齢になってからの恋心を堂々と読んだ、江戸時代ではまれな俳人であったという。
老が恋わすれんとすればしぐれかな
実際の体験から生まれた句であるかどうかはわからないが、いろいろと想像を掻き立てる作品ではある。江戸時代には老いの恋は恥ずべきもので、表立って人に語るべきものとは考えられなかった。それを蕪村はあえて作品の中で表現しているのである。さらに他の句、例えば
鍋下げて淀の小橋を雪の人
という絵画的な句に描かれた女性の姿を老いの恋に重ねてみるのも一つの文学的な可能性ではあろう。

 蕪村というと、高校時代に萩原朔太郎の『郷愁の詩人 与謝蕪村』と読もうかどうか迷って、結局読まずじまいになっていることを思い出す。朔太郎が教えていたころに、明治大学の学生であった田村隆一が自分はモダニストを気取っていたので、前時代の遺物みたいな萩原の授業には1度しか出なかったと書いていたのを思い出す。そうはいっても、やっぱり授業に出ておいた方がよかったかなという反省の気持ちも籠っていたかもしれない。玉城さんのテキストでも参考文献に挙げられている安東次男の研究が発表されている時期でもあり、こちらの方も読まずじまいになってしまっている。改めて探して読み直してみようかなと考えているところではある。

語学放浪記(44)

11月12日(水)曇り後晴れ

「2014年の2014」を達成するためには、回数の計算が楽な語学番組を聴くのが一番だと、4月からドイツ語をはじめ、10月からはさらに英語を追加した。動機そのものはかなり外的なものなのだが、新たに英語の番組を聴きはじめると、これが結構面白くて、フランス語、ドイツ語、イタリア語の影が薄くなってきているところがある。それぞれの番組の特徴については、前回にも触れたので繰り返さないが、1か月と少しの間番組を聴き、また11月からは『ラジオ英会話』と『ワンポイント・ニュースで英会話』を聴きはじめたことで、感じたことがいくつかあって、それを書いてみようと思う。

 『まいにちドイツ語』の入門編は、これまでの放送が構文など文法の基本的な枠組みの理解とそのための練習に重点を置いていたのに対し、ドイツの風物の紹介や日常的な会話の基礎などを中心に文化の理解に重点を置いているように思う。どちらのやり方をよしとするかは好みの問題であるが、私はドイツ語については基本的なことを理解するための訓練のほうが有難いと思う。応用編の方はドイツとオーストリアの歴史を取り上げているので、内容的には勉強になるのだが、ドイツ語は少し難しいかなと思っている。
 『まいにちフランス語』の初級編(実際には入門編)は文法の基本的な理解が中心であり、これまで勉強してきたことがどの程度身についているかを点検するのには好都合である。応用編の方は「ファッションをひもとき、時を読む」というあまり私には縁がないテーマではあるが、10月は映画『ポリー・マグーおまえは誰だ?』、11月は小説『失われた時を求めて』と、取り上げる題材が興味深いので、これまた少し難しいとはいえ、何とか頑張ってついていこうと考えている。
 『まいにちイタリア語』は初級編、応用編ともに再放送で、初級編の方は入門編ではない本物の初級編で、その分難しく、応用編はイタリア語のインタビューを聴くという内容なのでこれまたドイツ語、フランス語に比べても難しい内容になっている。そうはいっても、イタリア語の場合は、どちらかというと趣味で聴いているので、多少難しくても聴き流せばいいやと気楽に構えている。

 さて、英語であるが、時間帯で言うと12:25~12:40に『ラジオ英会話』の最初の再放送があり、その後12:40~12:55に『入門ビジネス英語』(月・火)、『実践ビジネス英語』(水・木・金)のこれも最初の再放送があるので、これを通して聴き、その後のそれぞれの再放送もできるだけ聴くことにしている。土曜日と日曜日にこれらの番組の再放送があるのを聴いて、また12:40~12:55に『攻略!英語リスニング』を聴くことにいている。この番組もできるだけ再放送を聴くようにしている。B1レベルの『入門ビジネス英語』と『ラジオ英会話』はこれまでに身につけてきた英語の復習・点検という意味、B2レベルの『攻略!英語リスニング』は自分の苦手な部分を克服するための練習という意味、C1レベルの『実践ビジネス英語』については大まかな理解を目指して聴いている。それぞれの番組を何度も繰り返し聞き、練習することで理解が深まるということはあるのだが、番組を聴く以外の英語(英語以外の言語についても)の学習ができていないのが問題ではないかと思う。講師の先生方のなかでは、『攻略!』の柴原智幸さんの温厚で誠実そうな話し方が好きで、イングランド南西部のバース大学に留学されたというが、イングランドの田舎町の話題などにその片鱗が出てきて楽しく聞いている(楽しんでばかりいてはいけない)。その他の先生もそれぞれの個性を発揮されながら、興味深い番組作りをされているので、飽きが来ない。
 その柴原先生が11月号のテキストでこんなことを書かれている:
「先日読んだ、明治大学の齋藤孝先生の本(『成熟力』)に、太極拳の宗家の先生と対談したことが書いてありました。その武術の大家が、『日本人は教室に来て練習することを練習だと思っているけれども、本来教室は練習の成果をチェックしてもらう場。そこで先生に与えられた課題を次回までに自分でやってくるのが練習だ』ということをおっしゃったそうです。
 私も大学の通訳の授業で『教室で「勉強」しちゃいけないよ。教室は「パフォーマンス」と「軌道修正」の場。「勉強」は家でじっくりやって、その成果を見せてください』と言っているのですが、自分の考えがそうは的外れではなかったと知ってホッとしました。
 同じことがこの講座にも言えるのではないでしょうか。英語を聴いて「聴けた」「聴けなかった」と一喜一憂するのではなくk、そこから課題を見出して自分なりに努力を重ねるのが、この講座の目指す「勉強」ということになろうかと思います。」

 柴原先生が言われているような意味での勉強ができていないというのはどうも困ったことで、まさにそのあたりから「軌道修正」を図っていく必要がありそうである。 

日記抄(11月5日~11日)

11月11日(水)曇り時々小雨

 11月5日から本日にかけて経験したこと、考えたことなど:
11月5日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』は今日からLesson 15: A Word to the Wise (助言を一言)というビニェットに入る。登場人物の1人の息子は、海外でのインターン経験を経て帰国、現在はジャーナリズム学部の最終学年にいるが、彼の進路をめぐって意見が交わされるという内容である。
 齋藤秀三郎の『英和中辞典』には、A word to the wise (is sufficient)という語句について、「賢者には一言にて足れり(一を聞いて十を知る)」、『リーダーズ英和辞典』には、A word is enough (sufficient) to the wise. = A word to the wise 「《諺》賢者には一言にして足る」と記されている。これはもともとラテン語の諺ではないかと思うのは、17世紀英国の経済思想家であるウィリアム・ペティ(Sir William Petty, 1623-1687)が1665年にVerbum Sapienti (賢者には一言にして足る)という論文を書いているからである。
 ビニェットの中にIs it true that journalism students are required to write their own obituaries? (ジャーナリズム専攻の学生は、自分自身の死亡記事を書かされるというのは本当ですか?)という問いかけが出てきて、obituaryをめぐる議論が展開されている。死亡記事はきわめて短く要約された伝記なので、読む側にとっては貴重な情報となり、書く側としては慎重にならざるを得ない記事となる。

 11月3日に、桂小金治さんが肺炎のため、川崎市麻生区内の病院で死去されていたことが報じられた。もともと落語家で、その後映画に出演し、ワイドショーの司会者として、またバラエティー番組の出演者として活躍された。わたしにとっては川島雄三監督の作品の常連の1人という印象がつよく、ここ数年にわたり、古い日本映画を上映する映画館でその演技に接しつづけてきた。謹んでご冥福を祈る。

11月6日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」応用編「黒猫イクラと不思議の森」では、ドイツ・オーストリアの歴史上の人物と人間の言葉(それもドイツ語と日本語)が分かる黒猫イクラが不思議の森で出会うという設定で、今回は1679年にウィーンでペストが大流行した際に、酔っ払って道に倒れていたのをペストで死んだと間違えられて死体を埋める濠に投げ込まれ、必死になってバグパイプを吹き鳴らして助け出されたという、居酒屋のバグパイプ(ドイツ語ではDudelsäckeという)奏者のマルクス・アウグスティン(1643-1685)が登場した。彼の作と伝えられる”O, du lieber Augustin! (愛しのアウグスティン)”は、なじみやすいメロディーと愉快な歌詞で、今も歌い継がれているという。そういえば、聞いたことがあるような、ないような。

 『ロビンソン・クルーソー』の作者ダニエル・デフォー(1660-1731)に『ペスト(疫病年代記)』(A Journal of the Plague Year, 1722)という作品があり、これはデフォーがおそらく子どものころに体験したらしい1665年のロンドンにおけるペストの大流行のことを書いている。17世紀はあちこちでペストが大流行した大変な時代であったようである。

11月7日
 『実践ビジネス英語』のQuote...Unquoteで紹介された言葉:
Great discoveries and improvements invariably involve the cooperation of many minds. I may be given credit for having blazed the trail, but when I look at the subsequent developments I feel the credit is due to others rather than to myself.
----Alexander Graham Bell (U.S. inventor, 1847-1922)
偉大な発見と進歩には、常に多くの人間の協力が必要である。わたしは、道を切り開いたとして評価されるかもしれないが、その後の発展に目を向けると、その功績は私自身よりもほかの人たちにあると思う。
 大発見にしろ、大発明にしろ、一人ではできないというのはその通りだと思う。

11月8日
 全国高校サッカー選手権大会の神奈川県大会の決勝戦が行われたのだが、天気が悪かったので、出かけなかった。毎年、観ているので見逃したのは残念である。今年は日大藤沢高校が全国大会に出場することになった。

 NHKラジオの「攻略! 英語リスニング」では、Nazca Lines (ナスカの地上絵)を取り上げている。キャロリン・ミラーさんの読む英語では「ナスカ」の「ス」がthに聞こえるのだが、講師の芝原智幸さんはsと発音している。ナスカはペルーにあり、中南米風のスペイン語ではzはsと発音するはずなのだが、スペイン本国と同じようにthと発音するのには何か理由があるのだろうか。それとも単に私の聞き違いなのだろうか。

11月9日
 今日も天気が悪く、ニッパツ三ツ沢で行われた横浜FC対ファジアーノ岡山の対戦を見に行かなかった。そのためではないだろうが0-2で敗戦。

11月10日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」入門編では日本人主婦の美穂が青空市場をたずねようとしてホテルに地図を忘れてきたため、路上で出会った人に道を訊くという話が展開している。テキストの25ページに市場で売られている果物や野菜が写真入りで紹介されており、ドイツ語ではかぼちゃのことをKürbisというのかなどと楽しみながら眺めていた。

 ぼちぼちと蔵書の整理をしているのだが、吉川英治の『私本太平記』(講談社:吉川英治歴史時代文庫)の3巻が出てきた。『太平記』の現在私がブログに書いている個所と時間的に重なっているので、時々参照してみようと思う。とはいうものの吉川が独自に設定している人物や出来事が多いので、どこまで参考になるかは疑問ではあるが…。吉川が自由な創作を加えることで、面白くなっている部分もあるが、『太平記』固有の面白さが失われているという部分もある。これは彼の『三国志』でも同様なのではないかなどと考えた。

11月11日
 NHKラジオ英会話の11月のテーマはAnimal Lovers (動物愛好家たち)で、30代前半らしいアメリカ人のカップルがペットを飼うことを思いつき、子犬を飼い始めて大騒ぎをしているという話が展開されている。本日は、I was taking a catnap. (私は仮眠していました)という表現と、You must be dog-tired. (あなた、へとへとでしょう)という表現が出てきた。話題にぴったりの表現だねと感心させられた。

今津孝次郎『学校と暴力 いじめ・体罰問題の本質』(3)

11月10日(月)晴れ後曇り

 第2回(10月30日)から間隔が空いてしまったが、今津孝次郎『学校と暴力 いじめ・体罰問題の本質』の紹介と論評を続ける。これまでの箇所で著者は、自分自身の子ども時代の体験からこの問題についての関心を抱き続けてきたこと、イギリスでの在外研究体験を通じて、いじめが世界各国で共通にみられる事象であり、青年の発達と関係をもち、問題の解決のためには人間性への洞察が必要であると考えるに至ったことなどが述べられてきた。

 続いて著者は「日本でのいじめ『社会問題化』」について、いじめをめぐる社会の「まなざし」の変化を辿る。日本でいじめ問題が少しずつ表面化して、殺傷事件にまで至るケースが報じられるようになったのは1970年代の後半のことであるという。ただ、この時代は高度経済成長と軌を一にする進学競争が激化している中で、「いじめられっ子」のひ弱さに目が向けられる傾向があった。そのような意識を変えて、いじめが社会問題化する端緒となったのが1979年に埼玉県の中学校で起きたいじめ事件であったという。

 この事件から現在まで、「いじめ自死事件が報道されるたびに社会問題として大きく注目され、しかし時間がたつと忘れられ、次の自死事件でまた注目されるということを何度お繰り返してきた。ここで留意すべきは、いじめ問題への人々の注目度の変化は、いじめ総件数の増減と完全に一致しているわけではないということである」(42ページ)と著者は言う。1980年代の中ごろから文部(科学)省はいじめ発生件数の調査を続けているが、そのような調査が実態をどこまで正確にとらえ得てきたかは判断が難しい。文部(科学)省自体が調査の基準を変更したりしているので、この調査は大まかな傾向を示すものと考えるのが妥当である。そして、それ以上にデータは「教師がいじめ問題にどのように関心を抱き、一定基準に沿っていかに注意を払っているのかという学校側の『まなざし』を物語る関数としてみた方がよい」(43ページ)とも論じている。

 とはいうものの、これらの調査を通じて浮かび上がってくるある傾向があるという。それは学年による変化で、小学校高学年から件数が増加し、中学校でピークに達し、高校になると減少していく傾向である。これは子どもたちが思春期を通過していく時期と重なっているという(「思春期」という言葉を使うよりも、「青年前期」という言葉を使うほうがよいと思う。ただし、青年前期というと、青年期を16歳くらいで「前期」と「後期」の2つに分ける場合の「前期」と、12歳から15歳くらいまでの「前期」、15歳から18歳くらいまでの「中期」、18歳から20代の初めまでの「後期」の3つにわける場合の「前期」の2つのケースが考えられる。「思春期」というのは二分する際の前期を言う言い方で、イギリスを含むヨーロッパではこのように二分して考えるとらえ方が一般的だと聞いた。このような青年期の区分は学校教育の段階的な組織にも影響していて、日本の学校編成は戦前はヨーロッパ流の二分法に基づいていたのが、戦後はアメリカ流の三分法に基づく編成になった)。また文科省は2006年度から「発生件数」という言い方をやめて、「認知件数」という言葉を使うようにした。いじめの実態も、その認知もさまざまな程度にわたり、それらを一括して「いじめ」と論じることにも問題がある。

 「いじめ自死事件が大きく報道されると学校現場では安易な処理はできないとの意識がはたらくのか、その後のいじめ報告件数が増加するという奇妙な現象がいつも繰り返されてきた。社会問題化されると水面下のいじめを表面化して報告することになるのだろう。この奇妙な現象は、一定の行為をいじめとして件数に上げるかどうかは、いじめ問題を眺める『まなざし』に大きく左右されることを物語っている」(44ページ)とも指摘されている。

 文科省jは2011(平成23)年度からいじめ「解決率」を発表するようになった。ところが、これはそれほど大きな話題にはならず、メディアの報道はこれまで通りいじめ件数の多さにこだわり続けている。「社会問題化というのは常に『問題を指弾する』という姿勢を取るからだろう」と著者は推測する。「問題の指弾には、それに相応しい言葉や発想法を伴いがちである。その典型が『いじめの根絶』という焦りに似た感情を込めたことばである」(45ページ)。しかし、いじめ問題の認識法や問題解決に向けた発想法として、それが適切なものであるかは考える必要があると著者は言う。

 では、いじめをめぐる世論の動きと、それにこたえる文部(科学)省の対策とにはどのような変化があり、いじめをめぐる「まなざし」がどのように変化したか、あるいは変化しなかったかについての議論は、また回を改めて取り上げることにしたい。どうも、紹介がもたついているが、これは内容の重さのためというほかの理由はない。

 著者は最初のところで、高度経済成長と受験競争という社会の背景について触れているが、その後のバブル経済やその崩壊後の経済・社会の閉塞、一方で少子化が進み、上級学校への進学をめぐる競争にも変化が生まれているというような変化が、いじめの問題とどのようにかかわっているのかについても視野を広げてみていく必要があるのではないか。また、口先での方針と実際に現場で推進している施策との異同についても見ていく必要がありそうで、その点にも気を付けて、今後読み進めていきたいと思う。

ヘレン・マクロイ『逃げる幻』

11月9日(日)曇り、時々雨(一時晴れ間が見えたが、また雲が広がった)

 11月8日、ヘレン・マクロイ『逃げる幻』(創元推理文庫)を読み終える。原題はThe One That Got Awayで、このThe Oneというのをどう解釈すべきなのか、『逃げた一人』と訳してよいのか、思案中である。どなたか、適切な解釈を示していただければありがたい。

 第二次世界大戦が、少なくともヨーロッパでは終わったものの、あちこちでその余燼がくすぶっている1945年のこと、予備役の米海軍大尉である語り手のピーター・ダンバーはウイーンから飛行機を乗り継いでスコットランドのハイランドに到着する。休暇という名目であるが、何か使命を帯びた滞在であるらしい。

 飛行機の中で彼はネスおよびインヴァ―伯爵であるアラン・トークヒル(ネス卿)と出会う。ネス卿はダンバーがもともと精神科医であることを知り、非行青少年の心理についてのダンバーの著作を読んだことを思い出して、自分の身近にいる少年が家出を繰り返していることについて意見を求める。家庭環境についてみれば申し分がないはずの正常な普通の少年が1か月のうちに3度も家出を繰り返しているのはどんな理由によるものなのか。

 ダンバーが宿泊するアルドライ羊牧場まで、ネス卿の車に同乗することになるが、目的地に近づくにつれて、次第に事の真相が詳しく分かってくる。家出を繰り返しているのは、羊牧場の近くに住んでいる(本来はネス卿の住まいだったのを借りている)米国人の小説家エリック・ストックトンの息子であるジョニー・ストックトンであり、今回また家出をして近くの住民が総出で捜索中であるという。アルドライ羊牧場に着いたダンバーはジョニーを偶然発見し、ストックトンのもとに送り届ける。気になるのはジョニーの目に恐怖が浮かんでいることである。ストックトンの家で出会ったジョニーの従姉のアリスにダンバーは魅力を感じるが、アリスはジョニーの家庭教師であるフランス人のシャルパンティエと親密であるらしい。
 やがてエリックはダンバーに、ジョニーが彼の実子ではなく、甥であり、実の両親は日本軍の捕虜となってすでに他界していること、さらに戦争中に疎開して施設に入っているときに、その施設がドイツ軍の爆撃に見舞われ、一緒に暮らしていた子どもたちは全員死亡して一人だけ生き残ったことなどを語る。彼のそのような境遇から一家の人々は、ジョニーに対して厳しく接することができないのである。特にエリックの妻であるフランシスはジョニーを溺愛しており、そのせいかジョニーをめぐって奇妙な言動がある。あるいはジョニーについて、他の誰もが知っていない何事かを知っているのかもしれない。

 そして2日後、新たな事件が発生する。
 少年が家出を繰り返すのはなぜか。ダンバーの周辺には謎の人物が出現し、事態はより複雑なものになったように思われる。そしてダンバーがハイランドにやって来ている本当の理由は何か? 

 ネス卿はダンバーの著書を読んでおり、ダンバーはエリック・ストックトンの作品を読んでいる。書物をめぐる繋がりはそれだけにとどまらないが、それは読んでのお楽しみということにしていただきたい。しかし、そんなにうまい話があるのだろうかという気がしないでもない。とにかく、現実の世界と書物の世界、あるいは幻想や伝説の世界が巧みに混ぜ合わされている。ドイルやクリスティの推理小説でも怪奇色が織り込まれたものがあるが、多くの作品がロンドン周辺を中心とするイングランド南部を舞台としているので、効果が限られている(もともとエディンバラの出身であるドイルは怪奇小説を書くときには、スコットランドに舞台を設定することがあった)。この作品はスコットランドのそれも北のほうのハイランドに舞台を設定しているので、怪奇色が鮮やかになっている。しかもその怪奇色が作品の舞台としてのスコットランドの魅力を強めているように思われる。マクロイはアメリカの女流作家であるが、スコットランドの雰囲気をよくつかんでいると思った。もっともスコットランドに詳しい人が読めば、また違う印象があるかもしれない。とにかく、この小説を読んだ結果として、スコットランドに出かけたくなって旅行ガイドの立ち読みに出かけたくらいである。
 それから、あまり余計なことを書くとネタバレになってしまうから、簡単に書いておくが、戦時下、戦後の社会不安の中で展開する事件を描くという点でクリスティの『動く指』や『満潮に乗って』と共通点があるような気がして、読んでいた。そうそう、学童疎開といえば、クリスティが戯曲化した『ねずみとり』は、学童疎開の忌まわしい思い出が背景になっている。そういうことも念頭に置いて読んでいただきたいと思う。 

都会のドングリ

11月9日(日)朝のうちは雨が降っていたらしいが、次第に晴れ間が広がる。

 都会のドングリ

崖の上のミズナラの木から
落ちてきたドングリが
アスファルトの
舗道の上に転がっている

これでは根を下すことも
芽を出すことも
できやしない

転がっているドングリを
全部拾って
どこか土の上に
蒔いてやりたいけれども
ドングリの数は多く
土の地面は限られている

それでも
拾えるだけは拾って
土が出ている場所を見つけては
まき散らす

ドングリへの
親切心なんかではない
だいたいが灰色の
無機的な建物の並ぶ
都会の中で
もう少し緑が増えると
いいなあと
思っているだけだ

『太平記』(16)

11月8日(土)曇り、雨が降りそうで降らなかった。あるいは家の中にいる間に降っていたのかもしれない。

 笠置山に皇居を移し、勤王の兵を集められた後醍醐天皇のもとに集まった武士の数は多くはなかったのだが、要害の地であり、立てこもっている兵の士気が高かったので、幕府方は攻めあぐねていた。この状況を心配した六波羅探題は鎌倉に早馬を送って援軍を要請する。得宗の相模入道北条高時は驚いて、すぐに軍勢の派遣を決断し、北条一門とその他の63人の大将に出動を命じる。大将軍に任じられたのは北条貞直、貞冬、阿曽治時、足利高氏(後の尊氏)であった。以下、軍記物語ではおなじみであるが、大将となる武士の名が列挙される。総勢20万人を超えるという大軍である。「九月二十日、鎌倉を立って、同じき晦日(つごもり)、前陣はすでに美濃、尾張に着けば、後陣は未だ[三河の]高志、二村の峠にぞ支へたる(滞っていた)。

 笠置山を包囲している軍勢の中に備中の国の武士である陶山藤三義高、小見山次郎がいたが、関東から大軍が派遣されるという情報を得て思うところがあり、一族郎党を集めて檄を飛ばす。これまでの攻囲戦で命を落としたものは少なくないが、大した手柄も無しに死んでしまったのは情けない。どうせ死ぬのであれば、大きな手柄を立てて後世に名を残そうではないか。これまでの合戦で功名を立てた武士の話を聞いても、それぞれ案内人がいたり、いい馬に乗っていたり、大軍があとからやってくるのを知っていたりしたためで、ご本人の勇武のほどはたかが知れている。今、ここで笠置山の要害を突破すれば、われわれの武勇は後世に語り継がれるだろう。ということで、当夜の風雨を利用した夜討ちの奇襲を思い立つ。

 そこで50人余りの武士が決死の覚悟で急な斜面を登っていく。しかし屏風を立てたような崖に行き着いてどうしようかと思っていると、陶山の中間で平五郎というものがいて、岩の上をすいすいと上っていき、上から縄を下す。兵士たちはこの縄を伝って崖を上り、守備が手薄であった笠置山の北の方からの侵入に成功する。防御の兵たちに怪しまれても、うまく言いのがれて皇居に近づき、あちこちで放火する。攻め込んだのはわずか50人ほどであったのだが、官軍は混乱して逃げ惑うばかりである。

 火の手が広がって後醍醐天皇がいらっしゃるところまで近づいてきたので、皇族方、公卿の面々が天皇をお守りしてとりあえず安全なところに逃げようとするのだが、敵の様子が分からないまま混乱してしまい、散り散りになって、天皇の御側にいるのは万里小路藤房、季房の兄弟だけになってしまう。「忝くも十善の天子の、玉体を田夫野人の形に替へさせ給ひて、そことも知らず(行く先も知らず)、迷い出でさせ給ひける御有様こそあさましけれ」(158-159ページ)。

 とにかく夜のうちに楠正成が立てこもっている金剛山の方にたどりつこうとするのだが、天皇はこれまで歩くという習慣がなかったために、一歩、一歩と歩まれることすら大変なことで、なかなか道のりが進まない。ようやく、現在の地名で京都府綴喜郡井手町の多可にある有王山の麓までたどり着いた。飲み食いもしないままに山の中をさまよっていたので、一行はフラフラになってしまう。この様子を天皇がご覧になって
 さして行く笠置の山を出しより雨が下には陰(かく)れ家もなし
(160ページ、笠をさすという名の笠置山を出てからは、天下に身を隠すところもない。笠をさすと目指す、笠と笠置、雨と天(あめ)を掛ける。さす、笠、雨は縁語と注記されている)という和歌を詠まれる。進退窮まったはずであるが、遊び心がこもった歌を詠まれるのは一種の余裕の表現と解すべきであろうか。
 これに対し藤房が涙をおさえて
 いかにせん憑(たの)む影とて立ち寄ればなほ袖ぬらす松の下露
(同上、たよりになる木陰と思って立ち寄ると、涙に濡れた袖を一層松の下露が濡らす、どうしたらよいだろう)と返歌をする。心情をそのまま詠んだ歌である。

 そうこうするうちにこのあたりの六波羅方の武士である三栖入道と松井蔵人が地元の地理に詳しいために一行の行方を突き止め、都に連れ戻すことになる。「殷湯夏台に囚はれ、越王会稽に降りし昔の夢に異ならず」(161ページ、殷の湯王が夏の桀王のために夏台という獄に囚われ、越王勾践が会稽山の戦いで敗れて囚われた昔の夢と異なることはない)。こうして天皇と側近の人々が都に連れ戻され、その様子を見てゆかりのある人々は涙をおさえることができないのであった。

 後醍醐天皇の鎌倉幕府に対する挑戦は敗北したかに見える。しかし、笠置山という要害の地に立てこもる戦術、あるいはその要害の地を奇襲によって攻略しようとする陶山・小見山の戦術、新しい時代の新しい戦いの様相が見える。城塞が突破されても、歩いてでも逃げようとする後醍醐天皇の意思にも新しさがある。『太平記』が転換期の文学と評される所以である。その一方で、中国の古典への言及・引用が多くなってきていることも注目されてよい。新しい時代に見合った表現として、漢文に近い文体が選ばれているのである。もっとも、どの時代にあっても、新しいことがいいことだと単純に評価してしまってはいけないことも認識しておくべきであろう。

ローマの教室で~我らの佳き日々~

11月7日(金)晴れ後曇り

 横浜シネマ・ベティで『ローマの教室で~我らの佳き日々~』を見た。見ごたえのある映画であったが、場内はガラガラであった。多分、口コミでの評判があまりよくないのであろう。評判がよくないかもしれないという理由はよく理解できる。しかし、それでは困るのである。

 ローマの公立高校が舞台で、女性校長、新任の補助教員、情熱を失った老教師の3人と、それぞれがかかわりをもつ生徒・卒業生との交流が描かれている。予算が少なく、設備も整わない学校であるが、校長や老教師の住まいはかなり立派で、そのあたりがどうなっているのか知りたくなる。ルーマニアからの移民の子どもである生徒が自宅でパソコンを操作しているのだが、学校にはそんな環境はまったくない。プロジェクターさえ壊れて動かないという状況である。

 女性校長は忙しくて、夕食の料理もほとんど夫任せになっている。それなのに母親が蒸発してしまい身寄りがなくなった男子生徒が呼吸器の病気を抱えているのを病院に連れていって、入院させ、パジャマを買ってやり、何かと面倒を見ることになる(こういうことが校長の仕事になるというのが日本では考えられないのではないか)。新任の補助教員は生徒にイタリア語や文学の面白さを理解させようとするが、欠席がちの女子生徒にふりまわされたり、成績不振の生徒の父親と口論をしたり、なかなか実績を上げることができない。校長からは、教師は学校の中のことだけに関心をもっていればよい、生徒の私生活に関心を寄せる必要はないと注意をされる。これはヨーロッパで一般的な教育観であろうが、日本では通用しない議論である。とはいうもののこの若い教師もルーマニアからの移民の子どもが、ガールフレンドとの関係で危ない状況にあるのに気がつかなかったり、見落としが多いのである。若い情熱に満ちた教師が学校を変えるという物語が好きな日本の観客はどうも面食らうかもしれない。しかし、教室の一部の状況に気をとられて、他の部分に目がいかないというのは新任の教師にはありがちのことである(というよりも、一生その状態が続いてしまう教師もいないわけではなさそうだ)。老教師は、教師仲間からも全く孤立し、孤独な日々を送っているが、元教え子から告白を受けて戸惑う。

 生徒たちは勉強に身を入れない。そうはいっても、校内暴力が起きるわけではないし、常習的な欠席も一部にとどまっている。学校が嫌いでも、一応はやってくるというのが大部分である。映画の初めから、終りまで、生徒はあまり変わらない。若い教師が経験を積んで、少し賢く、たくましくなったかもしれないことが映画の最後の方で示されている。教師にとって情熱も経験もどちらも必要ではあるが、この作品ではどちらかというと経験の方に重きを置いているようで、それが教師の情熱によって学校と生徒が変わるというドラマを好む日本の観客にはあまり受け入れられない理由ではないかと思う。コンピューターやその他の機器が学校で使われていないことに見られるように、学校教育の内容や方法が時代遅れになっている。学校の技術革新が遅れているから、若い教師がその能力を発揮することも余計に難しくなっている。そういう意味でも学校を扱った映画としての見栄えがしない。

 すでに述べたことからも明らかなように、イタリアの学校文化は日本の学校文化とかなり違っているところがあるようである。だが、その違いから安易に優劣の判断を導き出すことは避けた方がいいし、日本の教育はイタリアから学ぶべきものはまったくないなどと即断すべきではない。日本の教師の方が生徒の生活に関心を寄せ、指導に心を砕いているはずであるが、それが仕事をさらに困難にしていることも否定できない。それでも学校が周囲の社会に比べて変化が遅いという点ではイタリアも日本も共通しているところがあり、その点をより慎重に見極めていく必要があるのではないかと思う。スローガンを振りかざして教育改革を論じることは簡単だが、実際に学校と教師、生徒を変えていくのは手間のかかる作業である。社会や青年の現実と学校教育のずれ、にもかかわらず学校がそれほど変化しないのはなぜかということを考える上で、この映画は貴重な問いかけをしているのではないかと思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(13)

11月6日(木)雨

 第12歌の末尾で、ダンテとウェルギリウスは半人半馬のネッソスに導かれて、地獄の第7圏第1小圏を流れている、煮えたぎる血の川を渡る。第13歌では、第2小圏の様子が描かれる。

いまだネッソスは向こう岸にたどりついていなかった。
その時に私達は小径の気配さえまったくない
ある森に足を踏み入れた。
(192ページ)
 改めて思い出してみよう。叙事詩の冒頭でダンテは、深い森の中に迷い込んでいた。「我らの人生を半ばまで歩んだ時/目が覚めると暗い森の中をさまよっている自分に気づいた。/まっすぐに続く道はどこにも見えなくなっていた」(26ページ)。
 「暗い森」は神の光が失われた世俗的、物質的世界の象徴。「森の中では道が人間性の象徴となる」(550ページ)と翻訳者の原さんは注記しているが、その道らしいものはまったく見当たらない。しかも、その森というのがきわめて異様である。

緑に茂る葉でなく、反対に、暗鬱な色をしていた。
しなやかに伸びる枝ではなく、反対に、瘤だらけでからみ捩れていた。
果実はなく、反対に、毒のある棘が尖っていた。

これほどに凄まじい、これほどに鬱蒼とした藪には
チェチナからコルネート一帯の原生林に散らばる耕地を
憎む、あの野生の獣でさえ生きていない。
(192ページ)
 「チェチナからコルネート一帯」というのは、当時トスカーナで最も密な原生林があったマレンマ地方であり、『野生の獣』はイノシシのことであるという。神話に出てくる怪鳥が枝に巣をつくり、いたるところから人間の苦悶の叫び声が聞こえてきたが、声を挙げているはずの人々の姿は見えなかった。ダンテの心の内を見透かして、ウェルギリウスはこれらの木々の枝を1本折ってみるように勧める。

そこで私は腕をわずかに前へと伸ばして
大きな茨の一枝を手折った。
するとその幹が叫んだ。「なぜ俺を引き裂く」。

そして血でどす黒く染まった後、
再び話しはじめた。「なぜ俺を折る
おまえには憐憫の情の欠片(かけら)もないのか。

我らは人間であった。そして今は茂みに変じられている。
・・・」
(194-195ページ)
 奇怪な樹木の姿に変えられているのは自殺者たちの霊であった。ウェルギリウスはダンテがその枝を手折った樹木が神聖ローマ帝国の皇帝フェデリコⅡ世の秘書官で、シチリア王国の宰相兼首席裁判官として権勢をふるったが、敵側への情報漏えいの嫌疑で逮捕され、目潰しの刑に処せられ、不当な嫌疑を晴らすため自殺したピエロ・デッラ・ヴィーニャの変わり果てた姿であることを知る。詳しくは原さんの解説を読んでいただきたいが、ダンテは文学者であり、政治家でもあったこの人物と自分との共通性を見出し、言葉を失う。「憐れみがあまりに心を苦しめるために」(200ページ)。(第1歌の森の描写と、この第13歌の森の描写が類似しているのもこのことと関連する。)
 最後の審判の後、自殺者の肉体は首つりをした姿のように、魂が変じた木に吊るされるとヴィーニャは言う。「それぞれが、その敵である影が化した茨から」(202ページ)。市民階層出身であるのに宮廷政治に深入りしすぎてしまったヴィーニャの悲劇を辿りながら、ダンテは市民階層の中の浪費傾向にも目を向ける。

 この小圏にはまた自らの家産を浪費して破滅した人々の霊も閉じ込められていた。その中にフィレンツェの出身者の姿を見つけて、ダンテはいたたまれない気持ちになる。

 講談社学術文庫版ではダンテの時代のイタリアとヨーロッパの政治状況の中でこの作品がどのように解釈されうるかという詳しい解説が施されていて、それはそれで価値のあるものではあるが、もう少し視野を広げて、より普遍的な視野から作品を観ていきたいと思う。とはいっても、まず作者の真意をできるだけ正確に理解していくことも必要であり、そうなると執筆の背景をなす当時のイタリアの政治・文化の状況を知る必要があるのである。

黒雲の言い分

11月5日(水)曇り

 みよ@こたつむりさんのブログ「心のうた|みよ@こたつむりが詠む詩集」には、みよ@こたつむりさんの毎日の心の動きがある時には軽妙に、別の時には重厚に、その時、その時の心の動きに応じて率直に描き出されており、時としてそれがシュールレアリスティックな表現をとって展開され、その発想にアッといわされるときがあって、つねづね愛読している。時々、失礼ではあるが、書かれた詩に、「返し」の詩を書いて、その都度、丁寧なコメントを頂いてきた。

 「黒雲」と題された今日の詩を読んで、雲の気持ちになって詩を書いてみたらどうだろうかと思って、書いてみたのだが、詩の分量が少し長くなり、こたつむりさんのブログのコメントとして投稿するよりも、自分のブログに掲載するほうがよさそうだと思って掲載する次第である。

 黒雲の言い分
いかにも おれたちは
青空が舞台の
この芝居では
悪役で
風という
演出家の
言うがままの
三文役者だ
大根役者と
ののしられても
早く消えてしまえと
やじられても
それはそういう役柄だから
しょうがない

地上を歩く人々は
空を見上げて
日の光がさえぎられ
あたりが暗くなって
雨の気配がするのを
いやがる
あわただしく街を行き交う
彼らの足取りが
妨げられることを
嫌う

だがね
おれたちには雨を降らせ
地上に水を行き渡らせるという
仕事もある
もし、水が多すぎて
洪水になったとしても
それは演出家の責任
おれたちの演技が下手だったせいではない

おれたちは空に浮かび
通り過ぎ
そして消えてゆく
誰が
おれたちの
消えていく姿を
記憶してくれるかを
気にかけながら・・・

日記抄(10月29日~11月4日)

11月4日(火)晴れ

 10月29日から本日までに経験したこと、考えたことなど:
10月29日
 『実践ビジネス英語』の時間は今週は再放送なので、テキストの後ろの方に掲載されている記事を読んでいたら、Lisa Vogt, "Our Magical World"という連載の中に、
I wear many hats, one of them is a photographer.
という文が出ていた。wear many hatsは「いくつもの仕事をしている、さまざまな役割を演じる」という意味だそうである。wear two hats(2つの仕事[役]をこなす、2足のわらじを履く)も、よく使われるそうである。英語では帽子、日本語ではわらじというところが面白い。もっとも、いまどきわらじを履くことはないと思う。なお、斎藤秀三郎『熟語本位 英和中辞典〕で調べたところ、この表現は出ていなかったので、この言い方は比較的新しいものなのであろう。

10月30日
 NHKカルチャーラジオ『蕪村の四季』の第5回は「秋の夜の寝ものがたり」と題して、妻に気遣いながらも俳人たちと遊興し、空想の中で妻に甘える自分や相撲取りを詠んだ秋の句を取り上げた。蕪村は相撲が好きだったようだが、「角力の句は、とかくしほからく相成候て、できがたきものにて候」と、相撲を句に詠むことの難しさを語っているという。蕪村の死後、その門人の安井大江丸は寛政11(1799)年から12(1800)年にかけて関東地方に旅行したが、12年の江戸での本場所の初日、天下無双を謳われた強豪大関の雷電が鯱(しゃちほこ)という下位力士(現在の十両にあたる、番付二段目)に敗れるという大番狂わせを見物するという幸運?にめぐりあった。「負けてこそ 人にこそあれ 相撲取り」というのがこの時のことを詠んだ大江丸の句である。この箇所、放送テキストにはなく、講師の玉城さんが余った時間に紹介したエピソードである。ちょっと得した気分になる。雷電は生涯を通じて10回しか負けておらず、2回負けた力士は1人もいなかったというから凄い。

10月31日
 夕食の際にビールを飲んでみるが、まだ旨いとは感じられない。風邪は完治していないようである。

11月1日
 『攻略! 英語リスニング』ではハロウィーンの前後にふさわしい企画として『マクベス』を上演しようという演劇関係者の談話を聴くという設定で、
By the pricking of my thumbs, something wicked this way comes.
「親指のうずきによれば、何か邪悪のものがこちらにやって来ておる」
という劇中のせりふが紹介された。このせりふの前半はアガサ・クリスティの『親指のうずき』、後半はレイ・ブラッドベリの『何かが道をやってくる』という長編小説の題名になっている。シェイクスピアが英語世界に及ぼしている影響力の大きさを改めて感じる。

11月2日
 ロバート・F・ヤング『宰相の二番目の娘』を読了。巻末の「作者ノート」で「エドワード・ウィリアム・レインが英語に翻訳した《千夜一夜物語》(1839-41年刊行)の中の二つの物語をベースにしている」(239ページ)と書いている。詳しいことは西尾哲夫『アラビアンナイト――文明のはざまに生まれた物語』(岩波新書)を読めばよいのだが、もともとアラビア語の写本の形で伝わった書物が英語またはフランス語に翻訳されたものをさらに日本語に翻訳するという形でこの物語は読まれてきた。フランス語による翻訳としてはガラン版とマルドリュス版が、英語による翻訳としてはバートン版がよく読まれており、同じ英語への翻訳でもレイン版はあまり知られていない。西尾さんによると、レインは「文学としてのアラビアンナイトに魅了されたというよりは、アラブ世界の風俗習慣を紹介する媒体としてこの物語集の翻訳を思い立った」(76ページ)と考えられるらしい。ヤングがなぜこの翻訳に目をつけたかはわからないが、あるいはアラブ世界の風俗習慣への関心のためであったかもしれない。

11月3日
 11月から『ラジオ英会話』も聴くことにした。今月のテーマは”Animal Lovers"でペットに関する語彙・表現を学ぶことが目的だそうである。cat personというのが日本語の「猫派」に対応するらしい。最近、思うのだが、猫派の中にも特定の品種の「いいネコ」を好む人と、そこらの駄ネコを好む人の2派があるのではないか。私は後者なのだが、家人は前者で、この点をめぐってはあまり表面には出ないが対立が続いてきた。犬派についてもこのような対立が内在しているのではないかと思う。
 
11月4日
 NHKカルチャーラジオ『ヘボンさんと日本の開化』の第5回(再放送)「『生きた教師』と辞典の編集」は神奈川の成仏寺に落ち着いたヘボンがどのように日本語を勉強し、また辞書の編纂に取り組んだかを語る内容であったが、ヘボンが『和英語林集成』の編纂に際して、『日葡辞書』(おそらくそのフランス語版を参照したのだろうと推測している)のほかに、ウォルター・メドハーストの『語彙集』を利用したと記しているという。メドハーストは来日したことはなかったが、わずかな日本書籍を手掛かりにこの『語彙集』をまとめた。その書籍の中に中津藩主奥平昌高(1781-1855)の『蘭語訳撰』が含まれているという。。昌高はいわゆる蘭癖大名の1人で、オランダの物品の収集に飽き足らずに言語の学習を始め、カピタンたちとオランダ語で会話していたという。彼は中津藩主奥平昌男の養子であるが、その昌男の父というのが前野良沢を保護してその蘭学研究を援助した奥平昌鹿(1744-1780)である。中津藩出身の福沢諭吉は『福翁自伝』の中で、中津藩の旧弊な体質を批判しているが、その殿様が代々オランダ好きであったことも見落とすべきではない。もっとも上の方はオランダ好きでも、下のほうの藩士には統制が厳しかったということもありうる。

ロバート・F・ヤング『宰相の二番目の娘』

11月3日(月)晴れ後曇り

 11月2日、ロバート・F・ヤング『宰相の二番目の娘』(創元SF文庫)を読み終える。

 自動マネキン社の新入社員マーク・ビリングズは9世紀に飛んで本物のシェヘラザードを連れ帰るという任務を与えられる。過去にタイムトラベルして歴史上の重要人物を拉致し、現代へ連れ帰って、そっくりのロボットを製作した後、本物は過去に返す、そして歴史を再現しているロボットを展示、さらにはテレビ中継するというのがこの会社の事業内容である。(『アラビアン・ナイト』の語り手であるシェヘラザードは架空の人物であり、それが歴史的に実在した人物に想定されているということで、物語は既に虚構の世界に入り込んでいる。)

 首尾よくスルタンの後宮に忍び込み、シェヘラザードを確保したつもりが…連れ出したのはその15歳の妹(=宰相の二番目の娘)ドニヤザードのほうだった。妃に裏切られたスルタンは、世の中の女性に恨みを抱き、国中の未婚の女性を次々に召し出しては一夜を過ごした後処刑していた。宰相の娘シェヘラザードは妹のドニヤザードを連れて後宮に入り、夜伽の場でドニヤザードがシェヘラザードに物語をせがむ。そこでシェヘラザードが物語をすると、それが面白いので、スルタンは処刑を延期する。そうして一千一夜を過ごしたところで、シェヘラザードはスルタンの子どもを3人も儲けていることを告白し、スルタンは彼女への愛に目覚めて、前非を悔いる。そして同じように妃に裏切られて1人で暮らしていた弟に、ドニヤザードを嫁がせる。という枠物語としてのアラビアン・ナイトの枠は読者が承知しているという前提で、省かれている。自由とロマンスを求めている若いドニヤザードは、誘拐されたことをむしろ楽しむ様子である。

 ところが、時間を移動するためのタイムスレッドを作動させようとしたとき、ハーレムでの騒動で足首をねん挫していたビリングズは操作を誤り、2人は全く未知の世界にたどりついてしまった。そこではルフ(ロック)鳥が飛び回り、魔神(ジン)、食屍鬼(グール)たちが跳梁し、「真鍮の都」の塔が見える。2人が逃げ込んだ洞窟は盗賊たちの隠れ家であり、彼らにさらわれたアリ・ババという名の少年に出会う。アラビアン・ナイトの世界そのものである。事態がなかなかの見込めないなりに、科学技術を駆使して事態を突破しようとする21世紀人のビリングズと、見るもの聞くものすべてをあるがままに受け入れ、何が起ころうとむやみにおびえたりはせずに、時には魔法の力に頼ろうとするドニヤザード。2人は様々な難局に直面するが、ドニヤザードが解決する問題のほうが多いようにも思われる。彼女の言動にハラハラしながらも、次第にその魅力に気づき、惹かれはじめるビリングズであるが、彼女は自分と同じくらいの年齢のアリ・ババに気があるようにも思われる。ビリングズは21世紀に帰りつけるのか、ドニヤザードは姉の物語の完成を再び手伝えるのか、そしてアリ・ババは…。

 数多くあるアラビアン・ナイトの翻訳のうち、あまりよく知られていないレイン版を使っているというヤングの物語への傾倒はなまなかなものではない。それゆえ、この物語を読みながら、言及されているアラビアン・ナイトの中の説話の内容を思い出しているだけでも楽しい。アラビアン・ナイトの世界に浸りきっているかと思うと、SFとしての仕掛けが凝らされていたりして、小説としての技巧もなかなかのものである。大人のためのおとぎ話としてはよくできていると評価すべきであろう。

 解説の中の「真鍮の都」についての説明を借りると、昔々、シリアのダマスクのカリフが、ダーウードの子スレイマーン(ダヴィデの子ソロモン)が魔神を封じ込めたツボを見たいと言い出した。その名を受けた太守が、遠くエジプトまで旅をして、首尾よくこの壺を見つけ出したうえに、今は存在すら忘れられている伝説の都の話を聞き及び、それを探し出して帰国するという話である。シェヘラザードを9世紀の存在とすると、ダヴィデやソロモンは紀元前10世紀ごろの人物と考えられるから、その間の時間の隔たりは相当に大きい。時空を自由に飛び回る物語の想像力について改めて考えさせられる。

 レバノンの国民的な歌手であるファイルーズがデビューにあたって、ファイルーズ(琥珀)と名乗るか、シェヘラザードと名乗るか迷ったという話を聞いたことがある。クリスチャンである彼女が、基本的にイスラームの物語であるアラビアン・ナイトの語り手の名を芸名に選ぼうと考えたところに、物語の宗教的な枠組みを超えた魅力を認めてよいのであろう。その妹の存在に目をつけて、魅力的なヒロインとしてドニヤザードを描きだした作者の遊び心を大いに評価すべきである。
 

梅棹忠夫『日本探検』

11月2日(日)晴れ後曇り

 10月30日付の当ブログにおける今津孝次郎さんの『学校と暴力 いじめ・体罰問題の本質』の書評の中で、ドイツのいじめについて筆を滑らせたところ、後藤貞郎さんから丁寧なコメントを頂き、ドイツでもいじめが深刻な問題であることを認識いたしました。ご教示に感謝いたします。
 昨日の当ブログで行方昭夫さんの『英会話不要論』について取り上げた際に、旺文社の『オーレックス和英辞典』がきわめて示唆に富む内容で「一部の識者から珍重されて」(122ページ)いると紹介されていることについて触れたが、本日さっそく本屋で立ち読みしてみて、なるほどよくできていると思ったところである。ただ、この年になると英文を書く機会というのがかなり限定されるわけで、買うかどうかはもう少し考えてみようと思う。
 依然として風邪が完治せず、そのため、当ブログの内容にも影響が出ております。特にダンテの『地獄篇』第13歌などは取り上げる気分にならず、掲載が遅れておりますが、管理者の健康状態のためであると、ご理解をお願いします。

 10月29日、梅棹忠夫『日本探検』(講談社学術文庫)を読み終える。
 梅棹の秘書であった藤本ますみさんの梅棹研究室での経験をつづった『知的生産者たちの現場』という本の中に、梅棹の『知的生産の技術』を読んだ東京の高校生たちが修学旅行の自由時間に研究室に押しかけてくる場面がある。梅棹は留守で、対応にあたった藤本さんは最初ちょっと迷惑がるが、やがて、彼ら高校生にとってこの研究室がフィールドなのだと得心したという次第が記されていた。この『日本探検』の中で梅棹はさほど特別な場所に出かけているわけではない。むしろどんな場所でも見るべき目をもって観察し、しかるべき方法を踏んで踏査すれば探検になるのだということを言おうとしているように思われる。その意味で、梅棹研究室を訪問した高校生は梅棹の思想と方法論をきちんと理解していたことになる。

 この『日本探検』は1960年から1961年にかけて雑誌『中央公論』に連載され、その後単行本にまとめられたもので(詳しい書誌的なことは巻末に収録された梅棹自身の「『日本探検』始末記」と原武史さんによる「解説」をご覧ください)、「福山誠之館」、「大本教」、「北海道独立論」、「高崎山」、「名神高速道路」、「出雲大社」、「空からの日本探検」の各章からなる。一見して、それぞれが無関係であることが分かる。これらの題材をもとに、梅棹は日本の知的な伝統とその継承について、世界平和・世界連邦の思想について、中央と地方の関係における同質・異質、分離・統合をめぐって、伝統的・土着的な学問としての「サル」研究についてなどなど、縦横に論じている。「縦横に」と書いたが、縦の線としては伝統の連続性を重視するところ、横の線としては民族的・土着的なものを重視するところが梅棹の思想の特徴ではないだろうか。逆にいうとこのような主張が独自性をもつものとして受容されてきた日本の思想界の特徴というのも考えてよいだろうと思う。

 特に興味深かったのは、「福山誠之館」の章である。広島県の東部、旧備後の国の中心都市である福山市は1853年にペリーが浦賀に来航したときの江戸幕府の首席老中であった阿部正弘を藩主として戴いていた城下町であり、往時の藩校が旧制中学校を経て県立高校になり、設置形態は変わっても校名はそのままに存続している。藩校の目的は江戸時代の後期になってくると、極めて実際的なものとなり藩運隆盛のために有為な人材を養成することであった。誠之館で開設されていたのは漢学・和学・洋学および武技の各科目であり、洋学の中には蘭学、医学が含まれ、武技の中には剣術、弓術、槍術、柔術、水練などのほかに、銃術、砲術があったという。このように文だけでなく武も重視する学校として、梅棹は近世ドイツにおけるリッターアカデミーが対応するのではないかと考える。

 「藩校は、階級的身分制の小国家における貴族の教育機関である。おなじように、リッターアカデミーもまた、小領邦国家における貴族の学校である。リッターすなわち中世騎士の伝統をひくドイツ貴族たちは、ここで領邦国家における完全な宮廷人としての訓練を受けた。おなじように、中世武士の伝統をひく日本のさむらいたちは、藩主の城下において、完全なる藩士としての訓練を受けたのである」(41-42ページ)。フランスの歴史学者ジャック・ル・ゴフは西欧の中世は歴史的に他に類例のないものであると論じていて、これは梅棹の議論に待ったをかけるものであるだろう。
 リッターアカデミーは19世紀に入ると、社会の変化とともに解体し、あるものは大学に、他のものは実科学校に改編されてゆく。「この場合、ドイツには中世以来の『大学』というものが存在したことが重要である。自由なる研究機関、教授と放浪する学生の共同体としての大学の観念があった。歴史的にさまざまな変遷をへているとはいえ、とにかくそこには地域と階級を超えた『世界』があった。それに反して、リッターアカデミーには、一領邦国家の貴族の教育という、地域的な閉鎖性と階級的な限定があった。
 地域的閉鎖性と階級的限定は、まさに日本の藩校の特質でもあった。だから、明治になって日本が統一され、身分制のわくがはずれたとき、藩校もまた廃止になるほかなかったのだ。そして日本には『大学』の伝統がなかった」(43-44ページ)。「日本には『大学』の伝統がなかった」と言い切ってよいかどうかは疑問。確かにヨーロッパ中世に起源をもつ「大学」はなかった(以前にこの問題については少し触れた)。しかし、そういうのであれば、ヨーロッパ流の中世も日本にはなかったと言うほうがわかりやすいのではないか。

 さて、梅棹は福山誠之館高校が備後の最高学府でありつつ、さらに上級の学校へと進学するものが多い伝統について述べ、東京における旧福山藩士の子弟のための育英寄宿施設である誠之舎、旧藩邸敷地内にある阿部幼稚園(当時の当主が園長をされていた)、阿部家の邸宅を福山出身者の交流の場にした葦陽倶楽部、阿部家の学校であったものを寄付したという来歴のある文京区立誠之小学校、福山出身の大学生の寄宿施設と各種学校(夜間制)を兼ねた誠之英学院などを訪問・紹介している。それぞれが現在はどうなっているのか、暫く文京区で生活していたので、その時にこの本を読んでいれば実際に足を運んでみたかもしれないと思ったりする。

 伝統と近代化の問題をめぐり、伝統の連続的な側面を強調するのが梅棹の特徴である。「制度というものは、時代とともにいずれかわるものだ。革命だからといって、いちいちご破算にしなくてもよかったのだ」(57ページ)。「いまはもう明治のはじめのように、幕藩体制を否定するために、伝統からの断絶を強調する必要はなくなっている。…意味のない亜流者意識を克服するために、古い伝統との意識的な接続をくわだてた方がよい時代になっているようだ」(58ページ)。「亜流者意識」というのは、日本の近代化は欧米のそれの亜流であるという意識であり、梅棹がその生涯にわたって克服しようとしてきた精神である。そうした梅棹の姿勢には大いに魅力を感じる一方で、彼の議論が強引になっている部分、歴史的な考察が厳密さを欠いている部分については批判的に見ていく必要を改めて感じる。梅棹とは世代も、経歴も、専攻も、研究スタイルも違い、共通しているのは好奇心旺盛なことくらいの思想史学者の原武史さんが「解説」を書いていて、私が触れなかった部分を含めて、この書物と梅棹の取り組みの特徴を彼なりにまとめているのが、多くの読者にとって参考になるだろうと思う。
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