2014年の2014を目指して(10)

10月31日(金)曇り

 今年も残すところあと2か月となって、「2014年の2014を目指して」の現状を分析して、作戦を練り直す必要があるのだが、風邪がまだ完治しないので、10月の取り組みをまとめるのに精いっぱいである。果たしてどういう結果になるか?

 10月はずっと横浜で過ごしたが、1回だけ京都に日帰りで往復した。これは今年になってからでは初めてのことで、都道府県で京都府、市区町村で京都市に足跡を記したことになる。JR東海とその東海道新幹線、京都市交通局と市営地下鉄の烏丸線、東西線を利用し、京都駅と京都市役所前駅で乗り降りした。東西線と京都市役所前駅を利用したのは生まれて初めてのことである。

 ブログはこの原稿を入れて31通を投稿、読書が17件、日記と映画が5件ずつ、詩が2件、外国語と推理小説が1件ずつという内訳である。これまでのところで325の拍手をいただいている。コメントが4件、拍手コメントも2件寄せられた。トラックバックはなかった。

 買った本は15冊で、1月からの通算は133冊、11冊の本を読み、1月からの通算では101冊である。読んだ本の著者と表題を列挙すると:①今野真二『辞書からみた日本語の歴史』、②パット・マガー『七人のおば』、③須賀敦子『塩一トンの読書』、④山口瞳 開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』、⑤今津孝次郎『学校と暴力 いじめ・体罰問題の本質』、⑥ジョー・ウォルトン『図書室の魔法 上』、⑦ジョ-・ウォルトン『図書室の魔法 下』、⑧椎名誠『あやしい探検隊 北海道乱入』、⑨五味文彦『鎌倉と京 武家政権と庶民世界』、⑩梅棹忠夫『日本探検』、⑪行方昭夫『英会話不要論』ということになる。1月から数えると、椎名誠さんの本を7冊、今野真二さんの本を5冊、東海林さだおさんの本を3冊読んでいる。

 観た映画は映画は6本で、1月からの通算は56本、日本映画の新作が2本、旧作が4本という内訳である。6本の表題を列挙すると:①『ここに泉あり』、②『夜明け前』、③『ぶどうのなみだ』、④『自由学校』(松竹版)、⑤『春を待つ人々』、⑥『まほろ駅前狂騒曲』。今年は日本映画の旧作をよく見ていて、1月から数えると中村登監督作品を4本、吉村公三郎3本、川島雄三、野村芳太郎、渋谷実が各2本ということで、松竹大船に籍を置いたことのある監督の作品をよく見ている。

 10月19日に横浜FC対栃木SCの対戦を観戦した。1月からの通算では4試合を観戦していることになる。オータム・ジャンボは50枚買ったが、6等(末等)が5枚当たっただけであった。1月からの通算では27枚を当てている。

 NHKラジオまいにちドイツ語の入門編を10回、応用編を8回、フランス語の初級編を10回、応用編を8回、イタリア語の初級編を10回、応用編を8回聴いた。また入門ビジネス英語を6回、実践ビジネス英語を12回、攻略!英語リスニングを8回聴いている。11月からはラジオ英会話も聴くつもりである。

 同じくNHkラジオのカルチャーラジオ『ヘボンさんと日本の開化』を3回、『蕪村の四季』を5回聴いている。ヘボンの業績のほうが私の関心領域に近いし、活躍の主な舞台である横浜に住んでいるのだが、なぜか1回分を聴き逃した。生き方という点からいうと、詩と酒を愛し、市井の人としてその生涯を送った蕪村の方が身近に感じられるということかもしれない。

 A4のノート1冊、万年筆(ウォーターマン)のインク・カートリッジ8本、黄色い蛍光マーカー2本を使い切った。

 月末に風邪をひいたこともあって、酒を飲まない日が9日と微増した。それでも以前に比べると少ないので、この点では努力が必要である。 
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今津孝次郎『学校と暴力 いじめ・体罰問題の本質』(2)

10月30日(木)晴れ

 この書物の最初の部分はいじめ問題について概観し、いじめの仕組みを明らかにするとともに、その克服の方策を探っている。本来ならば、その全部を紹介・論評すべきであるが、まだ風邪が治らず、体力が十分ではないので、著者がいじめ問題に特に関心を持った経緯について述べた部分をまず取り上げることにする。

 「1 子どものいじめがなぜ深刻な『社会問題』になるのか」の中で、日本では1970年代の末から学校でのいじめ問題が少しずつ注目され始めてきたが、それが本格的に議論されるようになったのはだいぶ後のことであると述べられている。そして著者自身が子どものころにいじめられたり、いじめたりした経験がある(ということは、1970年代以前にもいじめは存在したということである)こと、1990年代に愛知県内で開かれたいじめ問題についての各種会合に出席したこと、さらに在外研究でイギリスに出張した際にイギリスでもいじめ問題が大きくなり、研究も学校での取り組みも活発化していることを知ったことがいじめに強い関心をもつようになった理由であるという。

 イギリスでの生活の日常的な見聞や学校訪問の際の会話から、著者はイギリスでもいじめが日常的な問題になっていることを知る。大学の図書館にも、大学内の書店にもいじめ関係の文献がそろっている。著者は単なる知識としてではなく、問題をどのように受け止め、かかわっていくかということで多くのことを学び取ったという。「個人主義であり、入試競争が日本ほど激しくないイギリスでもいじめは深刻な問題である。ただし、問題の問い方は単にいじめをなくすといった表面的規制に止まるのではなく、人間性を奥深くまで理解しようとする態度に満ちていることを知った」(30-31ページ)ことで、著者は自分のいじめ問題への向き合い方の方向を定めることができたという。

 著者はイギリスで得た知見を5点にまとめている。
①「いじめ」ということば
 日本語表現は、いじめる側といじめられる側の双方を天秤にかけて傍観者的に眺めているような言い方であるが、英語ではbullyとvictimをはっきり区別しており、日本語でも「いじめ加害者」「いじめ被害者」という明瞭な表現を使うべきだと考えるようになった。

②世界でのいじめ問題の発生
 著者がイギリスで見つけたノルウェーの心理学者D.オルヴェウスの『いじめ こうすれば防げる――ノルウェーにおける成功例』には3つの重要な知見が含まれている。
 ⅰ 世界で最初にいじめを「社会問題」として人々が受け止めたのは1970年代のスカンジナビア諸国であった。
 ⅱ いじめによる自死→メディア報道→「社会問題化」→教育政策の実施というプロセスは日本も同様である。
 ⅲ いじめは青少年の「攻撃的行動」の一環である。(33ページ)
 さらに日本でも森田洋司総監修『世界のいじめ――各国の現状と取り組み』や森田洋司監修『いじめの国際比較研究』が刊行され、いじめが日本独特どころか世界共通の社会の問題だということが明らかになってきた。「文化や社会の仕組み、教育制度が異なるのに、どうして世界各国で共通して問題になるのか。その原因を探ってみると、青少年が成長発達する過程で現れる『攻撃性』という普遍的な要因に行きつく」(34ページ)と著者は説く。

③いじめ加害者の攻撃性
 著者がイギリスで見つけたオーストラリアの研究者ケン・リグビーの『学校でのいじめ――そして何をなすべきか』には注目すべき内容が多く含まれていたが、特にいじめ加害者が自分の家族について感じたことの調査結果が注目される。彼らの多くが家族の自分に対する無関心や冷遇にいら立っており、その結果として強まった攻撃性が周囲の人間にお及ぶことが推測される。「表面的に観察できるいじめだけでなく、背後にある過程の事情から来る攻撃性にも目を向ける必要がある。いじめ加害者のほうも、実は家族の中で被害を受けている場合がある」(36ページ)と著者は論じている。

④いじめ防止基本方針の文書化
 イギリスの教育省は学校がいじめについてしっかりとした基本姿勢をもつべきだとして、各学校が文書の形で明確に方針を示すことがいじめに打ち勝つ方法だと述べている。日本でもいじめ防止の方針を教員の合意の上で文書化してくことが必要なのではないか。

⑤人間性を洞察する必要性
 著者が訪れた初等学校の校長は「人間が集団生活をすると、いじめはつきものです。そのつど問題にして、具体的な対応を罪が得るほかはありません」(38ページ)と述べ、子どもたちだけでなく若者や大人の人間関係にもいじめがあること、人間がもつそうした「悪」的な部分から目を背けずにその克服を常に心がけることを目指しているように見えたという。また中等学校の副校長は青少年の発達過程に特徴的な問題行動についてオープンに語っていた。これらのことから著者は「いじめを論じるには、『人間に関する深い洞察』が求められるのではないか」(39ページ)と感じる。「問題にすべきは表面的な対策ではなくて、『善』も『悪』も持ち合わせる人間そのものを見つめる深いまなざしを、まず私たち大人が培うことなのではないか」(同上)と考えるに至るのである。それは学校の対面や評判だけを機にしていてはいけないということでもある。

 ここまでの著者の議論、とくに人間性を洞察する必要や、青少年の発達段階で生じる攻撃性を正しく理解していくことなどについての主張には異論はない。しかし、実は私も著者と同じ時期にイギリスに出かけた経験があり、その際に向こうの学者と話したことの一つが、日本もイギリスもいじめが深刻な問題になっているが、ドイツではあまりいじめがないと言われるのはどういうことかということであった。これは単に情報がないというだけのことかもしれないので、どなたか詳しい事情をご存知の方は教えてください。このほかにも、いじめがあまりないという国はありそうであり、そこでは、どういう事情があるのかということは検討してみてよいことではないかと考えている。

 もう1つは歴史的なことで、イギリスでは有名な『トム・ブラウンの学校時代』の中にいじめの話が出てきて、いじめにはかなり古い歴史がある。この小説に描かれたトマス・アーノルド校長によるラグビー校改革の重要な取り組みの1つがいじめをなくすことであったはずで、この角度から改めて改革を検討しなおすこともされてよいのではないか。さらに言うと、もっと古くジョン・ロックが寄宿制学校について批判的な言辞を連ねていることも改めて思い出されてよいのである。まあ、これらは著者よりも、私自身が勉強すべきことであるかもしれない。

コーヒーをもう一杯?

10月29日(水)晴れ

 少し良くなったとはいえ、依然として風邪が治らないので、毎週楽しみに見ている「マツコ&有吉の怒り新党」を見るのをやめて、早めに寝る。

 コーヒーをもう一杯?

古本屋と
新刊書店が並ぶ
町の喫茶店で
ここはコーヒーのお替りができるんですよ、と
言って、さらに2人分のコーヒーを
彼女は注文した

大学の話
映画の話
郷里の話
コーヒーを飲みながら
いろいろな話をした

そのころよりも
もっともっと昔
金子光晴と
山之口獏
二人の詩人が
詩を語りながら
とうとう言葉も
笑顔も黄色くなって
それでも最後の一杯を
また注文したというのは
その店のことだったのだろうか

その日は何杯コーヒーを飲んだだろうか
それから、2人で映画を見て
またコーヒーを飲んだ・・・?

日記抄(10月22日~28日)

10月28日(晴れ)

 どうも風邪をひいてしまい、鼻づまりと咳とでよく眠れなかった。昨日外出した時に、汗をかいたのをそのままにしていたのが主な原因らしい。それにこの1週間は遠出を含めて外出が多く、疲れがたまっていることも確かである。そういう1週間のうちに考えたこと、経験したことなど:

10月22日
 昨日の『入門ビジネス英語』の時間で、講師の関谷英里子さんは「英語には『話す』という意味の単語がたくさんあります。今回使ったspeakのほかにもtalk,say, tellなどがそうです。また、この講座を以前からお聞きいただいている方にはおなじみのshareもよく使われます。これらは文法をおさえれば置き換えが可能な場合が多いので、細かいところはそこまで気にする必要はありませんが…」と話していたが、『実践ビジネス英語』では”Sharing Too Much?"というビニェットを取り上げている。最近アメリカ人がよく使う”Thank you for sharing"(シェアしてくれてありがとう)というのは実にうっとうしい決まり文句だという話題が語られている。詳しい打ち明け話を好むのが果たしてアメリカ人の最近の傾向というだけなのかは疑問であるが、shareという場合、単に「話す」ということでなく、それによってある情報を共有することに主眼があるようである。

10月23日
 NHKカルチャーラジオ『蕪村の四季』の第4回は「はしだての秋――先駆者百川」として、蕪村が先達と仰いだ彭城(さかき)百川への思いを彼の画業と俳諧の両方から探る内容であった。蕉門十哲の1人各務支考の門人であった百川は名古屋で薬種商を営み、各地を旅行しながら書画と俳諧を嗜み、一介の市井人として画を売って、酒や詩を愛して生きようとした。蕪村は同じ十哲の1人で支考とは対立関係にあった其角の弟子である早野巴人の弟子ではあったが、そうした系譜を超えて、百川には共感をもっていた。彼もまた町絵師として腕を磨き、画を売って生きた。また興に乗じて詩歌や風流を楽しみ、酒を愛し、俳諧に遊び、京都の町の片隅で暮らした。彼が百川を先達としていたことはこのことからもわかるという。たしかに魅力的な生き方ではあるが、画も詩も生活を支えるほどのものではない人間には無理な相談である。

10月24日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「インタビューで学ぼう!イタリア語」の10月放送分は、翻訳家であり、作家としても活動し、大学で教える一方で、インタビューアーとして通常なら見過ごされているような地域に住んでいる、強くて優秀な女性たちの法文記事を書いているアレッサンドロ・ジェレヴィーニさんのインタビューから構成されているが、最後にジェレヴィーニさんがla verità è che io sono io. ...Io sono un'unica entità e quindi tutto quello che faccio è sempre un'unità unica.(実際のところ、「自分は自分」なんです。…私は一つであって、私がやっていることもすべて一つなんです」と語っていたのが印象に残った。

10月25日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」の時間ではハロウィーンの前後に『マクベス』をめぐる話題が取り上げられた。マクベス(?-1057)は実在したスコットランド王で、エディンバラを訪問したときにスコットランドの歴代の国王の名前が書かれた掲示があって、その中に確かにマクベスという名前があった。シェイクスピアの戯曲があまりにも有名になってしまったのでますます歴史的な事実が見えにくくなっていて、どこからどこまでが本当のことかはわからない。日本で言うと前九年の役のころの話である。そうやって考えてみると、別の見方ができるかもしれない。

10月26日
 亡父の誕生日であるが、取り立てて何もしない。世の中にはいろいろな記念日があるが、少しずつ新しい記念日に置き換わっていく。それが自然なのだろうと思う。
 
10月27日
 109シネマズMM横浜で『まほろ駅前狂騒曲』を見る。物語の展開がやや乱暴なのではないかと思った。新興宗教が出てくるという点では『水の声を聞く』と共通するのだが、『水の声』のほうが作り方が真面目だという印象がある。奈良岡朋子が出演していて、先日観た『ここに泉あり』に端役で姿を見せていたのを思い出して、時間の推移を感じていた。

10月28日
 五味文彦『鎌倉と京 武家政権と庶民世界』(講談社学術文庫)を読み終える。「中世日本」の歴史を多角的に概観している。鎌倉も京都も比較的よく知っている町であるが、そのほかの場所でも都市的な生活が芽生えていたことなどが語られている。この本が面白くて、昨夜遅くまで起きていたことも手伝って風邪は最悪の状態である。できるだけゆっくり寝て、栄養を補給することにしよう。しばらくは好物だけを薬食い
 

『太平記』(15)

 10月27日(月)曇り後晴れ

 後醍醐天皇が笠置山に御座を定められ、心を寄せる武士たちが集まっているという情報が京都に伝わり、一度は勢いを失った比叡山の大衆がまた力を取り戻して六波羅を攻めてくることもあろうかと、佐々木時信らを大津に派遣する。また六波羅の検断(探題のもとで警察・裁判を司る役職)である糟谷三郎宗秋と隅田次郎左衛門尉が500余騎を引き連れて宇治の平等院に向かうと、最速もしないのに軍勢が集まってきて10万余騎に達した。

 翌日の午前10時ごろに「矢合はせ」といって、双方が鏑矢を射交わす儀式を行ってから合戦に及ぼう説いていたのだが、六波羅方の高橋太郎という武士が抜け駆けの功名を狙ってわずか300余騎で笠置の麓に押し寄せた。笠置さんに立てこもる天皇方の兵はそれほど多くはなかったが、士気盛んで、3,000騎あまりの兵力で高橋の軍勢を包囲し、圧倒したので、高橋は最初の勢いはどこへやら、逃げようとするが木津川の流れに押し流されて命を落とすものが多数出た。「わづかに命ばかり助かるものも、馬、物具を捨てて赤裸になり、白昼に京へ逃げ上りければ、見苦しかりし有様なり。これを悪し(にくし=みっともない)と思ふものやしたりけん、平等院の橋爪に一首の歌を書いてぞ立てたりける。
  木津川の瀬々の岩浪速ければ懸けて程なく落つる高橋<(木津川の流れが速いために架けてもすぐ落ちる橋のように、あっさり逃げた高橋であるよ。橋を架けと馬が駆ける、橋が落つと高橋が逃げ落つとを掛けている。142-143ページ)
 
 これは油断できないと慎重になった糟谷と隅田は軍勢を分けて笠置山を包囲する。「大手、搦手、都合7万5千余騎、笠置の山四方2,3里が間尺地も残さず充満したり 」(144ページ)。とはいうものの「かの笠置の城と申すは、山高くして、一片の白雲峰を埋み、谷深くして、万刃の青厳路を遮れり。攀(つづら)折たる路、廻り上ること18町、岩を切って堀とし、石を畳みて塀(かべ)とせり。されば、たとひ防がずともたやすく上る事を得難し」(144ページ)という天然の要害である。守っているのは3,000余騎に過ぎないが、「その勢ひ決然として、あへて攻むべき様ぞなかりける」(145ページ)ということで、寄せての方は攻めあぐねてしまう。

 天皇方の武士である足助次郎重範は三河の国の出身で、同じ東海地方の尾張の武士である荒尾九郎を弓矢で倒す。さらにその弟である弥五郎も足助の強弓に命を落とす。これをはじめとして両軍が入り乱れた戦うが、奈良の般若寺からやってきていた本性房という僧侶が豪傑で「尋常(よのつね)の人の百人しても動かし難き大磐石のありけるを、軽々と脇に挟み、鞠の勢に引つ欠け引つ欠け(鞠の大きさに砕いて)、2,30が程続け打ちにぞ抛つたりける」(148ページ)という大活躍を見せて、寄せ手に損害を与え、その攻撃を食い止める。それにしても、落語の「うそつき弥次郎」ではないが、大岩をちぎっては投げ、ちぎっては投げということが可能なのだろうか。さらに大岩を脇に挟むというのも眉唾物ではある。

 こうしてなかなか勝機を見いだせないまま、寄せ手は笠置山を遠巻きにして様子をうかがうだけになった。

 同じころ、楠正成が赤坂城で挙兵し、桜山四郎入道が備後で挙兵した。「前には、笠置の城強く(こわく)して、国々の大勢日夜攻むれども、未だ落ちず。後ろには、楠、桜山の逆徒大きに起こって、使者日々に急を告ぐ」(150ページ)。六波羅では東国からさらに兵力を動員しようと考える。

 今回の笠置山の攻防の描写には『太平記』の特色がよく出ているのではないか。よかれあしかれ、『平家物語』に比べると殺伐としているのだが、その一方で、勇猛さが見かけ倒しに終わっている武士を描いたりする批判精神とユーモアが感じられるところがある。だから私は『太平記』が好きなのである。

椎名誠『あやしい探検隊 北海道乱入』

10月26日(日)曇り

 椎名誠『あやしい探検隊 北海道乱入』(角川文庫)を読む。2011年に角川書店から刊行された『あやしい探検隊 北海道物乞い旅』を改題し、加筆修正の上文庫本化したものである。椎名さんの書下ろしで、『北海道物乞い旅』が出版されたのは2011年であるが、その題材となった旅行は2010年に行われ、この年に開かれたサッカーのW杯のことが書物の中でもいろいろに取り上げられている。この本の中でも旅の最終目的地として出てくるが、椎名さんは北海道(余市)に別荘をもっていて、日本全国を旅行している中でも、この土地にはより以上の愛着があるように見受けられる。

 このシリーズは当初、椎名さんが『哀愁の町に霧が降るのだ』で描いた下宿仲間や職場の同僚たちと結成した「東日本何でもけとばす会=東ケト会」の離れ島でのキャンプ行を辿るものであったのが、その後、椎名さんが知り合ったアウトドアの一芸に秀でた人々を結集した「いやはや隊」の冒険物語に変わり、さらに「第三次」は「雑魚釣り隊」ということであちこちで怪しげな釣りをしてその釣果を見せびらかすエッセーが続いた。それまでの「あやしい探検隊」の行状をつづった書物は、ほぼ角川文庫に収められていたのだが、「第三次」については新潮文庫に入っており、なんとなく角川に済まない気分があった。加えて、他の出版社は椎名さんの担当が男性の記者であるのに対し、角川は女性が続いてきたこともあって、昔のことをいろいろと思いだし、かつてのバカ旅の再現も面白いのではないかと考えて、この旅行と書物が企画された次第だという。

 「・・・最低予算でとにかく8人ぐらいで北海道に渡る。1週間から10日間で一回りするけれど、毎日のめしは自給自足。海と川の魚釣り班と山の山菜さがし。残ったものはそこらの道端にすわって、『物乞い』をする」(21ページ)というのがもともとのプランである。予定通りに8人の隊員を集め、2台の車に分乗して大洗からフェリーで北海道に向かうのだが、濃霧が北海道への乱入を阻む。ようやく上陸した北海道では…椎名さんはじめ隊員がこれまでに築いてきた人間関係がものを言って、「物乞い」の成果に目覚ましいものがある。このくらい豪華な「物乞い」ならば、やってみたいと思う読者もいるだろうが、すでに書いたように、これはあくまでも積年の努力の結果であって、一朝一夕に可能になるものではない。さらに言えば、椎名さんは「書き下ろし」のためだけでなく、他の連載原稿のための取材もこなしながら、北海道の各地に車を走らせている。

 「物乞い」の成果が上がりすぎて、なかなか[自給自足]とはいかないのだが、尾岱沼漁港で釣り糸を垂れるとギスカジカとクロガシラカレイが連れてまずは豊漁である。ところが、隊員の1人がドジを踏んでカラスに魚を食い荒らされてしまう。このあたり、これまでもあった話だが、それが繰り返されるところ、まだまだ経験が足りないというところであろうか。さらに挑戦したウトロ港から知床半島沿いに舟を進めての漁では高級魚アオゾイを大量に釣り上げる。余った魚はメンバーの1人が東京で経営する店に送り、「椎名誠が知床で釣りました」と黒板に書いたところ、あっという間に売り切れたという。どこまで本当のことかは、知る人だけが知っていることであろう(知床だからね)。

 ということで、比較的波乱のない北海道道中記であるが、椎名さんの外の『あやしい探検隊』ものや、その他のエッセーを思い出しながら読むと面白さが倍増するだけでなく、波乱がないだけにすらすらと読めるので、椎名ワールドへの入門書としても適当かもしれない。道中で撮影された写真が多数掲載されているのも毎度のことであるが、椎名さんが一段と年をとったという印象がしてしまうのが気になるところである(椎名さんとは1歳違いなので、ひょっとして他人の目には私も相当に老け込んで見えているのではないかと、そういうことまで考えてしまうのである)。 

今津孝次郎『学校と暴力 いじめ・体罰問題の本質』

10月25日(金)晴れ

 10月20日、今津孝次郎『学校と暴力 いじめ・体罰問題の本質』(平凡社新書)を読み終える。読み終えてから、このブログで取り上げるまでに多少の時間がかかったのは、この書物が取り扱っている主題が重大だからである。主題の重大さを反映して、この書物は「はじめに」と題される趣旨説明の部分がかなり長い。ということは、この部分を丁寧に読むこととで著者の言いたいことのかなりの部分はわかるということだと考えられるので、今回はこの作業に専念することにしたい。とはいうものの、書物の全体を見ておくことも必要なので、目次を紹介しておく。

はじめにーーなぜ「学校と暴力」なのか
 いじめと体罰はセットで語られる
 いじめ・体罰問題への「まなざし」/信頼関係を築くために
Ⅰ いじめ問題を見直す
1 子どものいじめがなぜ深刻な「社会問題」になるのか
 いじめ問題への関心/イギリスでいじめ問題を考える
2 日本でのいじめ「社会問題」化
 いじめ「社会問題」化の始まり
 いじめ件数調査の諸特徴
 いじめ「社会問題」の<四つの波>
 <第一の波 1980年代半ば>ー―いじめの本格的な社会問題化
 <第二の波 1990年代半ば>――いじめの刑事犯罪化
 <第三の波 2000年代半ば>――学校と教育委員会の隠蔽体質への批判
 <第四の波 2010年代初頭>――「いじめ防止対策推進法」の制定
 「事件対処型」発想を変えよう!
3 いじめの仕組みはどうなっているか
 青年前期の基本的特徴/現代の青年前期の特徴/いじめが暴力化する環境変化
4 いじめ問題のとらえ方と克服法
 いじめ問題混乱の原因/いじめの定義/学校の危機管理といじめ裁判
 いじめ問題の克服と学級・学校づくり

Ⅱ 体罰問題を見直す
1 体罰がなぜ深刻な「社会問題」になるのか
 世界の「学校と体罰」から見る日本の特徴
 許される「懲戒」と許されない「体罰」の違いとは/体罰の否定論と、根強い肯定論
2 体罰問題のとらえ方は変化しているか
 「評価の時代」の体罰の意味
 「愛の鞭」を再考する
 体罰と懲戒を区別する
3 体罰の仕組みはどうなっているか
 「権力」関係と「権威」関係/大人の「支配欲」が子どもに向けられる
 大人の「自己愛」/人間の本性に潜む攻撃性
4 体罰問題をどう克服するか
 「体罰」に代えて「懲戒」を使おう
 懲戒のガイドラインをオープンに決める/冷静に叱り、感情的に誉める
 「追い詰める叱責」と「育てる叱責」
 「叱責」ということば

Ⅲ 「学校と暴力」を考える
1 安全なはずの学校でなぜ暴力が生じるか
 校内暴力問題に向き合う
 人間の攻撃性/「良性」「悪性」の攻撃性と青年前期
 攻撃性の「良性」から「悪性」への転化が暴力につながる
2 暴力を誘発する学校・誘発しない学校
 学校文化に潜む暴力性
 学校組織文化・教員ストレス・協働性/学校組織文化と暴力の抑制
3 いじめ・体罰問題を克服して暴力を抑止するには
 「安全・安心」の仕組み
 「学校安全」を目指す学校危機管理/エンパワーメントと学校づくり
おわりに

 「1980年代から大きな社会問題となってきた学校でのいじめと体罰を改めて取り上げて、『学校組織の奥深くに潜む暴力』という新たな視点から総合的に検討しなおし、その問題解決の筋道を探ること」(10ページ)がこの書物の主題であると著者はいう。学校は暴力とは無縁の場所であるはずであるが、現実には学校における暴力事件のニュースは後を絶たない。学校についての理想論に固執して、暴力事件を例外的な事件であると切り捨て続けてよいのか。そうこうしているうちにもいじめと体罰がエスカレートして刑事犯罪にいたることがある。このような事例がたび重なるのは「学校組織の奥底に潜む暴力の根に学校関係者が無頓着なせいなのではないか」(11ページ)と著者は問う。

 いじめと体罰は基本的に異なる問題である。いじめは子ども同士の間で起き、体罰は教師と生徒の関係で起きる問題だからである。しかし、実際に起きた事件を詳しく検討していくと、それぞれの行為の内容やその結果、あるいは事件に対する人々や学校教育機関が示す態度などをめぐって、いくつかの共通性がみられると著者はいう。事件の経緯をたどっていくと、いじめと体罰のどちらも加害行為の奥底に相手を自分の思うままに操作したいという「勢力行使欲求」つまり「支配欲」という深層心理が働いているのではないかと思われる。だとすれば、この欲求にどのように向き合うかが学校にとっての課題となるはずである。

 いじめ・体罰問題が長く論議されながら、なかなか克服されない一因は議論が混乱し、空回りするような「言葉の使い方」や「問題の立て方」の乱雑さにもある。議論を整理しなおすとともに、学校と子ども・保護者の信頼関係を取り戻すような努力を進めていくことが必要である。

 教育には児童生徒として、教師として、保護者として、教育行政家として、納税者としてなど多くのかかわり方がある。一つの立場から一方的に考えるのではなく、全体を見通して調整を図るような考え方が必要とされるのだが、著者は教育学者として、かつては児童生徒であった経験、大学での教職を通じての経験、保護者としての経験などを統合して学校臨床社会学という新しい領域を開拓し、いじめと体罰の問題に取り組もうとしているようである。それが具体的にどのようなものかについて、次回以降検討を加えていきたいと思う。

『ポリー・マグ-お前は誰だ?』をめぐって

10月24日(金)晴れ

 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「ファッションをひもとき、時を読む」の10月の放送では、1966年のフランス映画『ポリー・マグ-お前は誰だ?』(Qui êtes-vous, Polly Maggoo?)を取り上げて、映画の音声の一部を聴き、映画の中で描かれた1960年代のファッションとファッション業界の内幕について考えた。この映画、日本でもATG系列の映画館で公開され、大阪にあった北野シネマで観たのは、もう45年ほども昔の話である。

 この映画の監督は写真家としても知られるウィリアム・クラインWilliam Klein (1928-)で、有名ファッション誌で写真を手掛けてきた経験を活かして、ファッションの世界を生き生きと描きだしているが、その名前でわかるようにアメリカ人である。タイトル・ロールのポリー・マグ-は架空の人物で、アメリカ生まれでパリで活躍するトップ・モデルという設定である。ところが(この点については番組で触れられていなかったが)彼女を演じているドロシー・マッゴワンがやはりアメリカ生まれでパリで活躍するモデルであったから、話は込み入ってくる。フランスとアメリカのファッションと映画の相互的な影響関係がこの映画の中にいろいろな形で表れているように思われる。

 ディレクターのグレゴワールは、ファッション界の頂点にいるモデルであるポリー・マグ-を追ったテレビのドキュメンタリー番組を製作中である。この映画が作られた1960年代のファッションは成熟した女性のシルエットを強調していた1950年代のそれとは対照的に幼児服にインスピレーションを受けたストンとしたシルエットであった。映画ではそういたファッションの特徴とファッション・モデルの役割が批判的に語られている。
[...] l'industrie de la mode se sert 'un instrument, d'une pagie puisante [...]: le mannequin.
(ファッション産業は、一つの道具、一つの強力な魔法を使う。それが、モデルだ。)

 映画はその一方で、雑誌の写真でポリーを見初めるが、実際にいはポリーに出会うことはない、遠い国の「王子」(サミー・フレー)を登場っさせている。この王子を通じて、クライン監督は「美しく装うことによって、条件のよい相手に見初められる」というシンデレラ神話が風刺されていると芳野さんは論じている。

 さて、映画はポリーが
[...] elle n'a pas tellement l'air d'une fusée.
(彼女はそれほどロケットっぽくない。) 人間が月に行こうかという時代に、シンデレラは時代遅れだとして、他のモデルに取って代わられそうになる・・・というところで終わる。

 クライン監督はこの後、クリス・マルケルやジャン=リュック・ゴダールらとともに『ベトナムから遠く離れて』(1967)を撮り、1969年にはアメリカを風刺した『ミスター・フリーダム』(Mr. Freedom)を監督する。前者は日本でも公開されたが、後者は公開されなかった。1969年にフランスに出かけて帰って来た学生が『ミスター・フリーダム』が面白かったと言って盛んに吹聴していたのを聴いた記憶があるが、それがアメリカ人監督の作品であるということに気付いたのは、その後、外国の映画雑誌を手にしたときのことであった。

 ベトナム戦争をめぐり、アメリカの対外政策に世界中で批判が高まっている時代であったが、その一方でアメリカ文化の影響は他の諸外国に浸透を続けており、フランスもその例外ではなかった。以前にも触れたが、この映画の最後の方に出演しているカナダ出身の女優ジョアンナ・シムカスはこの翌年、ロベール・アンリコ監督の名作『冒険者たち』でアラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラと共演して一躍注目されるが、その後、ジョセフ・ロージーの『夕なぎ』(Boom, 1968)を経て、ハリウッドにわたり、『失われた男』(The Lost Man)に出演、共演したシドニー・ポワチエと結婚して、映画界を去っていった。彼女の例を見るまでもなく、フランスとアメリカの文化的な距離はますます縮まっていたのである。

 『アンコールまいにちフランス語』の応用編で放送されている『映画の話をしよう!――フランソワ・トリュフォ-――』でトリュフォーが語っているように、フランス映画はアメリカ映画の中で捉えられたパリの風景から様々なことを学び、逆にアメリカ映画はフランスのヌーヴェル・ヴァーグから示唆を得て自分たちの映画を革新していったのであった。『ポリー・マグ-お前は誰だ?』についての放送を聴きながら、いろいろなことを思い出し、改めて考えさせられたのである。

ジョー・ウォルトン『図書室の魔法』

10月23日(木)雨

 10月22日にジョー・ウォルトン『図書室の魔法 上』(創元SF文庫)を、23日に『図書室の魔法 下』(創元SF文庫)を読み終えた。SF小説はあまり読まないのだが、なんとなく題名に惹かれて手に取ってみた。読み始めてから次第に読み進むペースが速くなり、とうとう最後まで読んでしまった。

 1979年から1980年にかけて、当時15歳だった少女モリが鏡文字で書いた日記という形をとっている。南ウェールズに住んでいた彼女は、魔女である母親の邪悪な計画を阻止しようと、双子の妹であるモルと2人の知っている魔法を使って対抗するが、モルは死に、彼女自身も足に重傷を負って障害者になっていまう。母のもとを逃げ出した彼女は、幼いころに母と別れたイングランドに住む実父に引き取られる。地元の図書館のSFやファンタジーを読みつくすほど本好きの彼女は、父親のダニエルが大のSFファンだと知って親近感を抱くが、彼の姉である3人の伯母たちの意向で彼女たちの母校であるアーリングファーストという寄宿制の女子校に転入させられる。

 「解説」で堺三保はこの本の原題Among othersは「見知らぬ他人の中に放り込まれたモリの孤独を表していると考えるべきだろう」(270ページ)と記している。足が不自由なのでスポーツができず、ウェールズ訛りが抜けない彼女は他の生徒たちからのけ者にされる。わずかに友達として期待できそうな存在がユダヤ人のシャロンと、アイルランド人のディアドリの2人だけである。成績優秀で空気を読むことに長けている彼女はそれでも何とか学校生活を続けていく。あまり生徒が利用しない学校図書館を利用するだけでなく、近隣の町オズウェストリの図書館も利用し、さらに図書館相互貸借制度まで利用して本を読みふけり(父親の本も読むし、自分で本屋で本を買ったりもする)、その一方で母から身を守るために魔法の力を借りたり、フェアリーを捜したりして生きていく。

 学校図書館の司書であるミス・キャロルが彼女をかばってくれ、さらに町の図書館の司書であるグレッグからSFの読書会への参加を誘われて、彼女の世界は学校の外へ次第に広がっていく。彼女はそこでやっと、共通の話題をもつ仲間と出会う。特に少し年長の素敵な青年であるウィムに惹かれ、ウィムも彼女に魅力を感じているようである。しかし、執拗に付きまとって離れない母親の悪いが彼女を悩ませ、苦しめる…。

 物語は彼女の周辺で起きる幻想的な出来事と、彼女が読んだ小説や哲学書の感想を織り込んで展開するのだが、学校での仲間外れや口頭でのいじめ、最近日本でつかわれている言葉を使えば「学校内カースト」の問題なども描きこまれている。モリは授業料の高い私立の寄宿生学校に在学しているのだが、彼女が読書会で知り合う同世代の仲間は公営の総合制学校に通っている。地方と地域、社会階級によって使う言葉が違う英国の現実がこの作品の中にも影を落としている。英語の方言の問題だけでなく、英語とウェールズ語の問題も作品の中で取り上げられているし、モリの父方の祖父であるサムはユダヤ人であるという設定になっている。

 なお、訳題は『図書室の魔法』であるが、作品に登場するのは図書館であって、図書室ではない(モリの父親のダニエルは書斎libraryをもっているが、この場所は物語の主要な舞台ではない)。<図書室の魔法>というと大邸宅の図書室で何やら怪しげな術を使って・・・というような場面を想像するのだが、この物語は屋外の場面も多く、モリは魔法を使うことを再三ためらっているのであって、物語の内容に即して適切なものであるかということには疑問がある。魔法ということになると、バーネットの『秘密の園』が連想される。この物語では多くの書物への言及があるが、この作品への言及がないのが気になるところである。もう1つ、こちらは作品中に登場するシェイクスピアの『テンペスト』も念頭に置いておく方がよいかもしれない。とにかく多くのSF作品への言及があって目がくらむのだが、興味がない読者でも何とかついていけるような書き方がされている。

 作者であるジョー・ウォルトンは現在カナダに住んでいるそうだが、ウェールズ生まれの女性で、モリの物語は作者自身の体験をある程度反映したものであるのかもしれない。SFに興味がなくても、読書好き、あるいは英国の地方の暮らしに興味がある人であれば楽しく読めるはずである。堺三保による解説は、この物語をどのようにして読むかの可能性をいくつか示して、その選択を読者に示しているが、読書が人生に及ぼす影響を肯定的に描くという物語の骨格に対する懐疑的あるいは否定的な選択肢は示していないはずである。書物と読書の素晴らしさを語りあげる素晴らしい場面が最後の方に出てくるが、これは読んでのお楽しみということにしておこう。 

自由学校

10月22日(水)雨

 シネマヴェーラ渋谷で「日本のオジサマⅡ 佐分利信の世界」の特集上映から『自由学校』(1951 松竹 渋谷実監督)と『春を待つ人々』(1959 松竹 中村登監督)を見た。当初の予定では、『春を待つ人々』ではなく『吹雪と共に消えゆきぬ』(1959 歌舞伎座 木村恵吾監督)監督が上映されることになっていたが、差し替えられていた。おそらく『吹雪と共に消えゆきぬ』のプリントの状態が悪く、上映に耐えないという理由からであろう(確認しなかった)。『吹雪と共に消えゆきぬ』はジュリアン・デュヴィヴィエの『舞踏会の手帖』を下敷きにして劇作家の田中澄江が脚本を書いた作品なので、ちょっと興味はあって、見ることができなかったのは残念である。『春を待つ人々』はオリジナル脚本による正月映画で、追放解除になったので政界に復帰しようとして参議院選挙に立候補する政治家と、その子どもたちのそれぞれの家庭・結婚問題を描いている。佐分利信が老政治家に扮し、その長女の娘婿を佐田啓二、三女を有馬稲子、その元恋人を高橋貞二、長男を川津祐介、その恋人を岡田茉利子、政治家が別の女性(水戸光子)との間に儲けた娘を高千穂ひづる、息子を山本豊三、その恋人を桑野みゆき、政治家の世話を焼きながら妻の座を狙う料亭の女将を沢村貞子・・・という豪華配役陣が魅力で、ストーリーは雑だが、うるさいことを言わずにこの豪華な顔ぶれを見ていればよいという作品である。それで、最近、興味をっもっている監督である渋谷実の『自由学校』について主に書くことにする。

 『自由学校』は当時の人気作家獅子文六の小説の映画化で、松竹と大映が競作し、それぞれの作品が同じ日に封切られるという異例の事態の中で公開された。松竹版の脚本は斎藤良輔、大映版は新藤兼人が担当、大映版の監督は吉村公三郎、松竹版が佐分利信、高峰三枝子、淡島千景、佐田啓二を主な出演者とするのに対し、大映版は小野文春、木暮実千代、京マチ子、大泉滉という配役であった。今回観たのは松竹版だが、大映版もいつかは観てみたい。

 サラリーマンの南村五百助(佐分利信)は「自由がほしい」と会社を辞め、家でごろごろしていようと思ったが、才色兼備、働き者の妻の駒子(高峰三枝子)にその怠け者ぶりを叱責され、売り言葉に買い言葉で家出するが、公園のベンチで寝ているときに財布を盗まれ、無一文になってしまい、モク拾いの男と知り合ったことからルンペンの仲間に身を投じ、橋の下の小屋で暮らすことになる。一方、駒子は叔父夫婦(三津田健・田村秋子)のところに相談に出かけた帰りになよなよした大学生の堀隆文(佐田啓二)と、その許嫁で風俗の先端を行く生活ぶりの藤村ユリ(淡島千景)と知り合う。隆文は自分は年上の女性にあこがれると駒子を追いかけはじめ、それをユリがけしかける一方で、他にも駒子に言い寄る男たちが現われて騒々しいことになる。

 渋谷実監督は一方で同時代の様々な風俗を描きながら、他方で男と女のそれぞれの愚かしさをとらえ、時々スラップスティック風の場面を取り入れてこの喜劇を盛り上げている。駒子が泥棒猫を捕まえるように五百助の首根っこをもって持ち上げる場面(そのくせ、本物の猫についてはそういうことをしない)、ユリが隆文を馬跳びする場面、その後、暴漢に襲われた隆文が今度は暴漢を馬跳びして逃げる場面など、思わず笑ってしまう場面である。その一方で、法律学者である(これが後になって意味をもってくる)駒子の叔父が、滝川事件や天皇機関説事件による言論弾圧の中で仲間たちと馬鹿囃子を始めて、それが続いているという話などは世相の底流にあるものへの作者(それが獅子文六のものか、渋谷実のものかは別にして)の警戒心を語っていると受け取ることもできる。

 ただ、気になったのははじめの方で駒子が1日の小遣いとして300円を渡すところで、この時期ラーメンが25円とか30円で食べられたはずだから、300円の小遣いというのはかなりの高額である。そういう夫婦が郊外の農家の離れを借りて住んでいるというのも何か奇妙な感じがある。ラーメンと書いて思い出したのだが、湘南海岸でユリと隆文が横浜の中華街でワンタンをたべるという話をしている(結局、駒子にごちそうしてもらう)のが、まだまだ日本が貧しかった時代の様相を描きだしていて面白かった。

 とはいうものの、とりあえずは五百助の規格外のグータラぶりの行方を追っていくのが正しい、また楽しい観方であろう。古いなぁと思う側面と、時代を突き抜けたものを感じさせる側面とを併せもった、何度も見直してみたい魅力を感じさせる作品である。 

日記抄(10月15日~21日)

10月21日(火)雨が降ったりやんだり



 夕食後、眠くなって横になったらそのまま眠ってしまい、気がついたら日付が変わっていた。本日(10月22日)は午後出かける予定なので、22日分は書けそうもない。しばらくは1日遅れの状態が続きそうだ。
 10月15日~21日にかけたの1週間の間に、経験したこと、考えたことなど:

10月15日
 中学・高校時代の恩師の1人の訃報を聞く。もう1日早く知っていれば、葬儀に参列できたのだが、見送らざるを得ないのが残念。学校を出て50年になるので、在学当時はまだ若かった先生方が亡くなられてゆくのは仕方がないことであるが、やはり寂しい。

10月16日
 NHKカルチャーラジオ「文学の世界」『蕪村の四季』の第2回:「『うれし』の蕪村」。先週聞き逃したので、再放送を聴く。蕪村が詠んだ句の中の感情表現を見ていくと、「うれし」という表現が多い。芭蕉は喜怒哀楽の哀にかかわる表現が多く、一茶は喜怒哀のそれぞれを表現している。蕪村は今を生きることを「うれし」と肯定的に受け止めて、前向きに生きた俳人だったと言えると論じている。ローマの詩人だとホラーティウスに近いのかな、と思う。
 第3回:「野路の人と散る牡丹――蕪村の夏」。蕪村の夏を詠んだ句の色彩の豊かさと句の秘めた物語性についての議論が展開された。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーから:
It is wrong always, everywhere, and for everyone, to believe anything upon insufficient evidence. --William James (U.S. philosopher and psychologist, 1842-1910)
何事も、不十分な証拠に基づいて信じるのは、いつでも、どこでも、だれにとっても間違いである。
とはいうものの、どこまでいけば十分といえるのかが問題である。

 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「インタビューで学ぼう! イタリア語」で、インタビューを受けているアレッサンドロ・ジェレヴィーニさんが、日本人は相手に悪いことが起こらないようにと心配する言葉で別れを告げることで相手への気遣いを表現するが、イタリア人の場合は常に相手に楽しいことやポジティブなことがあるようにと願う表現で別れを告げると言っている。先日取り上げた須賀敦子『塩一トンの読書』の中のゲーテの『イタリア紀行』について取り上げた文章(124-5ページ)の中にイタリア語の挨拶について触れた個所があって、それと比べると面白い。

10月17日
 山口瞳 開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)を読み終える。サントリーの社員であった直木賞作家・山口瞳の「青雲の志について――小説・鳥井信治郎――」と芥川賞作家・開高健の「やってみなはれ――サントリーの七十年・戦後篇――」から構成され、さらに「サントリー窓際OL」を自称する斎藤由香さん(北杜夫の令嬢)が、この2人が活躍した後のサントリーの様子、2人の作家の思い出を書いた文章が収められている。「青雲の志について」は以前読んだ記憶があるので、初めて読むのは(斎藤さんの文章は別にして)開高の「やってみなはれ」だけである。山口のわかりやすい文章と、開高の凝りに凝った文章はそれぞれの人間性をある程度まで反映するものであろう。若いころはそうでもなかったが、年をとってくると、山口よりになってきたように自分では思っている。
 文藝春秋に勤めていた友人が一時期開高の担当者であったらしく、開高の食べ歩きエッセーに名前が出てくるので、本人にそのことを言ったら、「いやなことを思い出させるな」と渋い顔をされた。作家を直接知っている人にしかわからない側面というのもあるということらしい。

10月18日
 野球の話は書かないことにしているのだが、セ・リーグのチャンピオン・シリーズでタイガースがジャイアンツを破って日本シリーズに進出したことで一言。ジャイアンツの原監督は年間のスケジュール作りが不得手なのではないか。チーム内から故障者をよく出すのもその表れであろう。ジャイアンツのように選手層の厚いチームの場合、かえってどういうレヴェルの選手を中心にメニューを作っていくのかが難しいということもあるかもしれない。また何が何でも勝ちに行こうという気持ちはわからないでもないが、負けてもいい試合を作っていかないと最後までチーム力を保持できないということも考えてよかろう。原監督は高校野球の名監督であった父親の影響を強く受けたのだろうが、トーナメント方式で負けたらおしまいという高校野球と勝率を稼ぎながら短期決戦にも備えていくプロ野球のスケジュール作りの違いもしっかり認識する必要があるだろう。
 大学にいたころに、卒業論文の執筆計画をつくらせると、休みの日を設けずにびっしり計画を立てる学生がいる。こちらが休みをつくれと口を酸っぱくしていってもいうことを聴かない。そういう学生は大体、失敗した。失敗してから、先生がしっかり指導してくれなかったからだなどと不満を漏らしたりするが、いうことを聴かないからこちらもやる気をなくすのである。悪循環の好例。

10月19日
 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対栃木SCの対戦を観戦する。黒津選手の2ゴールの活躍で横浜が3-0で快勝。黒津選手ならばこのくらいの活躍をしてくれて当然、とはいうもののやっぱり嬉しいね。

10月20日
 大学の同期会で京都にとんぼ返りをする。会の始まる前に(場所が近くだったので)三月書房を覗く。以前とだいぶ様子が違っていたが、同人雑誌類が並んでいる中に高安国世先生が主宰されていた短歌誌の『塔』があった。先生のドイツ語の授業を受けたことについては、昨年のこのブログで触れた。会の中で、別のテーブルで話していた連中が高安先生にドイツ語の発音を直されたと思い出を語っていたので、やはり<印象に残る先生の1人であったのだろう。

10月21日
 NHKカルチャーラジオ「歴史再発見」『ヘボンさんと日本の開化』の第3回:「クララとの結婚、そして東洋伝道へ」を聴く。ヘボンは中国への布教を目指してシンガポール、厦門、マカオで活動するが、あまりうまくいかずに帰国、ニューヨークで医師として開業し、1859年に今度は日本に向けて出発する。宣教師として海外で活動することに、なぜか両親は反対していたということである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(12)

10月20日(月)曇り、京都に出かける。京都では小雨が降っていた。


 ウェルギリウスに導かれて、ダンテは地獄の第7圏を目指す。ここでは暴力の罪を犯した人々の例がその罰を受けている。第7圏に至るには崖を下っていかなければならない。

崖を降りるべく私達がやって来た
その場所は険しく、また、そこにいた者のために
誰もが目をそむけたであろう光景を呈していた。
(178ページ)

その光景とはがけ崩れである。それはアルプスの東側の山岳地帯で、ダンテがかつて見たがけ崩れの様子を思い出させるものであった。しかも、かろうじて通じている細い道を古代ギリシア神話に登場するクレタ島の怪獣ミノタウロスが阻んでいた。しかしこの怪獣は、ウェルギリウスの一喝によって道を開ける。

 このがけ崩れがなぜ起きたのか、ダンテは考えずにはいられない。すると、ウェルギリウスが次のように説明する。キリストは受難後、地獄の最上層のリンボから、キリスト以前の聖者たちを魔王から奪いだし他のだが、その際に地獄のがけが崩れたのだという。

だが谷底へと目をしっかり向けよ。というのも
暴力によって他人を害した者どもが
煮られている血の川が近づいてきたからだ
(182ページ)と、ウェルギリウスは、ダンテの注意を別のことに向けさせようとする。地獄の第7圏の第1小圏では暴君、殺人者、強盗の霊がその罰を受けている。

おお、盲目なる貪欲と狂乱せる怒りよ
人の短き命の中でわれらをかくも激しく拍車で追い立て、
続く永遠の中でわれらをかくも残酷な水責めに処するとは。
(同上) ダンテの目には罪人たちの霊が苦しむさまが見えてくる。そして、罪人たちを見張っているのは、これも古代ギリシア神話に登場する半人半馬のケンタウロスたちである。「ミノタウロスが<狂える獣性>を示し、第7圏全体の守護者であるのに対し、ケンタウロスは他人に暴力を振るったものである僭主や殺戮者を収める小圏の守護者。なぜなら、ケンタウロス達は戦闘と略奪を愛していたため。〔彼らは〕特に君主たちの使っていた傭兵を表している」(183ページ)と翻訳者である原さんは注記している。

 2人が崖を下って来るのに気付いたケンタウロスの中の1頭が2人が何者であるかを問う。これに対してウェルギリウスはギリシア神話の英雄アキレウスの師として、戦闘と医学と音楽を教えたケイローンが2人が何者であるかを判断できるであろうと答える。ケイローンはダンテが生きた人間であることを察知し、ウェルギリウスはさらにダンテの道行の意義を説明し、援助を求める。そこでケイローンはケンタウロスの中からナッソスを選んで、2人を導いていくように命じる。

今や私達は信頼のおける護衛に連れられ
鮮紅色の沸騰が洗う岸辺に沿って進んだ。
そこでは煮られている者どもが高い悲鳴をあげていた。
(187) 苦しんでいるのは暴君たちであった。歴史に名を残してきた国王や領主、僭主たちの姿をダンテは目撃する。さらに別の場所では盗賊たちが罰を受けていた。
 
 血の川が浅くなったところで、ナッソスは2人に川を渡らせ、
言い終わると来たほうに身を翻し、再び浅瀬を越えていった。
(191ページ)

 「平和を希求するダンテは、当時の世界を血なまぐさいものにした暴君や盗賊への怒りを、最終部で彼らの名前だけを淡々と並べる冷淡な描写により軽蔑とともに表現している。これは次の歌での劇的な出会いを準備する働きも担っている」(549ページ)と翻訳者は解説している。異教古代の存在であるケンタウロスたちと会話を交わすのが、ウェルギリウスだけであることに翻訳者が注意を喚起している点も見逃せない。異教の世界よりも、キリスト教の世界を優位に置くのがダンテの思想であり、古代の文芸に敬意を払いながらも、その復興を望んでいないところに、「中世最後の人」と呼ばれる所以があるのである。

『太平記』(14)

10月19日(日)晴れ

 明日(10月20日)は、大学時代の友人たちと集まるために、京都まで日帰りで出かける予定で、明日の分のブログは明後日に書くつもりである。もっとも、この原稿を書いているうちに、20日になってしまいそうではある。

 今回から『太平記』の第3巻に入る。全部で40巻(ただし22巻が欠けているので、実は39巻)あるので読み終えるのはだいぶ先のことになりそうである。岩波文庫版では6冊に分けて刊行される予定で、こちらがまだ第1分冊の半分までいかないうちに、第2分冊が発行された。こちらはこちらで焦らずに読み進めることにしよう。

 元弘元年(1331年)8月27日に、後醍醐天皇は笠置に臨幸され、笠置寺の本堂を皇居とされた。最初のうちは、鎌倉幕府の威勢を恐れて天皇のもとに参集する人もいなかったが、比叡山東坂本の戦いで六波羅の軍勢が敗走したという知らせが伝わってくると、笠置寺の僧侶たちをはじめとして、近隣の武士たちがあちこちから少しずつ集まってきた。とはいうものの、名の知れた武士、百人、二百人という部下を従えた武士は一人も見当たらない。

 このようなことで皇居を守りきることができるのかと、天皇は思い悩まれているうちに、うとうととされ、不思議な夢をご覧になった。内裏の正殿である紫宸殿の庭と思しき場所に、大きな常盤木=常緑樹が立っている。この木は橘であると注記されている。紫宸殿の前には右近の橘、左近の桜が植えられていたというし、橘は常緑樹であるが、さくらは落葉樹であるから橘とも考えられるが、橘はあまり巨木にはならない。一考を要する点である。「緑の陰茂りて、南へ指したる枝、殊に栄えはびこり、その下に、三公、百官位によって列座す」(137ページ、「三公」は太政・左右大臣、「百官」はすべての官人)。南に向かって天皇の座るはずの座席が設けられているが、空席になっている。天皇が、夢の中で誰のために設けられた座席なのであろうかと怪しんでいらっしゃると、突然、2人の童子が現われて、次のように告げて、天に戻っていく:
「一天下の間に、暫くも御身を隠さるべき所なし。但し、かの木の陰に、南へ向かへる座席あり。これ、御ために設けたる玉扆にて候へば、暫くここにおはしまし候へ」(138ページ、「玉扆」は天子の御座。「扆」は御座の後ろに立てるついたてのことだそうである)。
 夢から覚めて、天皇は木に南と書くと楠という字になる、南に向かって坐るというのは天子は臣下に対して南面して座を占めるのであるから、帝位を保つことができると思い至られた。そこで笠置寺の僧にこのあたりに楠という武士がいないかと尋ねると、僧は、このあたりにはいないが、河内国金剛山の麓に楠多聞兵衛正成という武名の高い武士がいると答える。先祖は橘氏であり、彼の母が若いころに、信貴山の毘沙門天に参詣して、夢のお告げを得て産んだ子どもであり、幼名を多聞といったと彼の噂を語る。天皇は彼こそ夢に見た人物に違いないと考えられて、中納言万里小路藤房卿を正成のもとに遣わされる。藤房は既に登場しているが、天皇が最も信頼されている、また信頼されるべき近臣である。

 天皇の仰せを承った正成は、武士としてこれ以上の名誉はないとすぐに天皇のもとに参上する。天皇はこれを喜ばれて、藤房を通じて、どのようにして幕府を倒し、また平和な世の中をきずくことができるか、考えを述べよと言われた。これに対して正成は、幕府が朝廷にそむくのは天の道に反することであり、これと闘って罰するのは当然のことである、天下草創のためには武略と智謀が必要である。今のところ、鎌倉方の武力が圧倒的に優勢であり、武力の点から言えば全国の兵を集めても武蔵・相模の精鋭を集めた幕府軍に勝てるとは思えないが、 幕府軍は武力だけに頼り、智略に欠けているので、そこに勝機を見出すことができる。「合戦の習ひにて候へば、一旦の勝負は必ずしも御覧ぜらるべからず。正成未だ生きてありと聞し召し候はば、聖運はつひに開かるべしと思し召し候へ」(140-141ページ、勝敗は時の運ですから、一時の勝ち負けにこだわるべきではありません。正成がまだ生きているとお聞きになれば、最後には陛下のご運は開くものだとお思いになってください)とまことに頼もしげに述べて、河内の国へと戻っていったのであった。

 楠正成と楠氏の出自についてはいろいろ説がある。これから余裕があるときに紹介していきたい。源平藤橘というが、橘氏を名乗る一族はあまりないのではないか。後醍醐天皇が夢に見た常緑樹を岩波文庫版の兵藤裕己さんの注では橘としているが、楠と考えてもよいのではないか。大木ということを考えると楠の方が似つかわしい。

 信貴山は大阪府と奈良県の境にある山の1つで、大阪側からも、奈良側からもケーブルカーが設けられている。それだけ険峻な山である。朝護孫子寺に伝わる『信貴山縁起絵巻』は有名で、昔、あることでこの絵巻の一部を撮影したプリントを拝借しに、お寺に出かけたことがある。毘沙門天は多聞天ともいい、持国天、増長天、広目天とともに四天王として仏法を守護する神である。そういえば、七福神の中にも数えられている。楠正成が多聞天の申し子だということもあってか、昔は男子に多聞という名前をつけることがあった。私の中学・高校時代にも1人、多聞という名の同期生がいた。 

 この後で触れることになるが、正成は天皇に合流せずに、自分の地元で挙兵することになる。幕府方の勢力を分断・かく乱するためにも、自分が勝手を知った場所で戦うほうがいいという考えからであろう。正成が登場することによって、物語としての『太平記』はさらに大きく動き始める。事態はこの後、どのように推移していくのであろうか。

須賀敦子『塩一トンの読書』

10月18日(土)晴れ

 10月17日、須賀敦子『塩一トンの読書』(河出文庫)を読み終える。著者の死後に読書に関するエッセーや書評を集めて編集され、2003年に単行本として出版されたものを文庫本にしたものである。単行本も買ってはいたのだが、その時は読む気分になれなかった。須賀さんの本には独特の雰囲気があって、その雰囲気に引き付けられて読みまくっているかと思うと、なぜか敬遠したい気分になることもあった。今は、わりに落ち着いた気持ちで読めそうな気分である。

 巻頭に収められている「塩一トンの読書」というエッセーの中で、須賀さんは「塩一トン」という表現の由来を語っている。ミラノで結婚して間もないころ、夫の母親がこんなことを言ったという:
「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも、一トンの塩を一緒に舐めなければだめなのよ」(11ページ)。
 その人間と一緒に苦労を重ねないと本当には理解できないということだが、彼女はこのたとえをよく使い、そのニュアンスは時によって異なったという。
「文学で古典といわれる作品を読んでいて、ふと、いまでもこの塩の話を思い出すことがある。・・・すみからすみまでりかいしつくすことの難しさにおいてなら、本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ているかもしれない。読むたびに、それまで気がつかなかった、あたらしい面がそういった本にはかくされていて、ああこんなことが書いてあったのか、と新鮮なおどろきに出会いつづける」(12-13ページ)と菅さんは書く。さらにカルヴィーノのこんな言葉を引用している:
「古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、すっかり知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上まわる、かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんな書物のことだ」(13ページ)。
 本は自分で読んでみなければ理解できない。当たり前のことではあるが、読まないでわかっているような気分になっていることが少なくない。古典を読むべしという主張は、読書論として特に新しいものではない。読書指導の言葉で良書主義という言い方がされるが、その場合良書とは、古くから伝統的、あるいは習慣的に良書とされてきた古典的な書物である。しかし、そういって推薦している人が本当にその書物を読んでいるかどうか怪しい場合がある。須賀さんの場合は自分の読書経験を通して、古典を語り、古典を読むことを勧めているので説得力がある。
 読書経験といえば例えば、こんな個所がある。「学生のころ、古典だからという理由だけのために、まるで薬でも飲むようにして翻訳で読み、感動もなにもなかったウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』を、ほとんど一語一語、辞書を引きながらではあってもラテン語で読めるようになって、たとえば、この詩人しか使わないと言われる形容詞や副詞や修辞法が、一行をすっくと立ちあがらせているのを理解したときの感動は、ぜったいに忘れられない」(15-16ページ)。
 まず、ご本人は謙遜した書き方をしているが、ラテン語で『アエネイス』を読むということがすごい。「ほとんど一語一語、辞書を引きながら」と書いているが、その辞書というのはおそらく「羅伊」か、「羅仏」か、「羅英」であって、そういう辞書を使って読んでいくというのは簡単な作業ではないことを理解する必要がある。それから「この詩人しか使わないと言われる」という知識をもつには、ウェルギリウスについての研究書を何冊か読んだり、あるいは大学で講義を聞いたりしていなければならないはずである。「一行をすっくと立ち上がらせている」という表現には、叙事詩を実際に読んでいるという実感があふれている。

 そういう須賀さんの読書の日常の姿を垣間見せているのが「読書日記」。須賀さんが早くからポルトガルの詩人ペソアの文学的営為を評価していたことに、いまさら気づくのは間の抜けた話ではあるが、やや畑違いに思われるジュール・ベルヌやフェリーニや、丸谷才一に目を通している。そして、ガートルード・スタインの女ともだちであったアリス・B・トクラスの料理書を東横線の中で読んでいたら、「となりにすわった若いアメリカ人が、ぼくもその本、だいすきです、といって、名刺などくれてしまった」(60ページ)というなんとなく楽しいエピソードも記されている。

 「作品の中の『ものがたり』と『小説』――谷崎潤一郎『細雪』」は須賀さんの文学者としての読みの深さ、鋭さをいかんなく発揮している作品鑑賞であるとともに、関西で生まれ育った須賀さんの思い出も語られていて、読み応えのある文章である。作品の中に登場する蒔岡家の三女である雪子の伝統的な生き方が「ものがたり」、四女である妙子の奔放な生き方が「小説」として描かれているという。この文章を読んで、本当にそうなのか、自分で『細雪』を読んで確かめてやろうと思い至るほどに魅力のある作品論である。この作品、映画化もされていて、そういう場合、映画を見てから原作を見るというのが私の主義なのだが、先日観た藤村の『夜明け前』のような古典は別であり、『細雪』もやはり古典と考えることにしようと思う。

 ジェラール・フィリップについて、あるいはトーマス・クックについて、須賀さんは思うままに語っている。収められているエッセーのひとつひとつが、須賀さんの読書遍歴と生活経験の両方から味付けさせられて、塩一トンどころか、他の調味料も一トンずつ積み重ねられいたのではないかと思ってしまったのである。 

ぶどうのなみだ

10月17日(金)晴れ

 109シネマズMM横浜で『ぶどうのなみだ』を見る。三島有紀子監督が『しあわせのパン』に続いて脚本を書き、演出した作品で、前作同様、大泉洋が主演している。北海道を舞台にしていることも前作との共通点と考えてもよいのかもしれないが、今回の舞台は空知地方であり、北海道といっても広いので、果たしてその点での共通性をどこまで強調してよいのかはわからない。それでも、隣に住む人たちとの距離の遠さ、それゆえにかえって強くなる人間関係の絆といったものが前面に出ている点が三島監督作品の特色と言えそうである。

 今は亡き父親が、炭鉱の閉山後に始めたらしい農場を引き継いで、兄のアオはブドウ畑を育ててワインづくりを続け、弟のロクは父親の切り開いた小麦畑を引き続き耕している。丘の上に、父親が植えたたった1本のブドウの木があって、兄弟の仕事ぶりを見守っているようである。

 兄のアオは父親のもとを飛び出して、音楽に志した時期があり、一時は心身の指揮者として脚光を浴びたのだが、突発性の難聴に見舞われ、音楽をあきらめて父親が新で弟が1人で暮らしていた農場に戻ってきたのである。一回りも年が違う弟のロクは兄の家出を必死で止めようとした。アオは「黒いダイヤ」といわれるブドウの品種ピノ・ノワールによるワインづくりに情熱を傾けているが、なかなか思うようなワインを作ることができない。ロクは、青と表面上波風を立てずに暮らしているが、食事の際にワインを飲まず、牛乳を飲んでいる。

 ある日、突然、キャンピング・カーに乗った女性エリカが現れ、兄弟の耕す土地の隣で穴を掘り始める。人を引き付ける不思議な魅力を持った彼女は土地の人々と仲よくなり、はじめは警戒していた兄弟とも仲良くなっていく。彼女は穴を掘ってアンモナイトの化石を探しているのである。その彼女にも英国人の母と生き別れになった過去がある。

 「ぶどうのなみだ」は冬の間雪の中に埋もれて、その分水分をいっぱいに吸収したブドウの木が春になって滴らせる水分のことだそうである。アオもロクもエリカも自然の冬よりも長い人生の冬を過ごしてきたのかもしれず、その中でため込んだ涙は普通以上の量であるかもしれない。そしてその涙が、何か別の形になって豊かな実りをもたらすかもしれない。

 心温まるエピソードをつなぐ形で構成されていた『しあわせのパン』に比べると、この映画は登場人物の現在と過去をつないでストーリーを作り上げている。北海道の風土がそうさせているのかもしれないが、兄弟の食事はパン食であり、エリカがブドウを育てるために組織する楽隊の姿など、ベルイマンかフェリーニを思い出させるほどにバタ臭い。「人はパンだけで生きるものではない」というセリフが出てくるだけでなく、パンと葡萄酒の人生における意義が強調されているにもかかわらず、キリスト教的なメッセージは全く出てこない。そのことがかえってこの作品の世界を人工的なものにしている。

 北海道を舞台にした映画を、佐藤泰志作品の映画化である『海炭市叙景』、『そこのみにて光輝く』のように地方の特色を描き出しているものの、日本の他の土地にもみられるような問題を追及する作品と、北海道を仮想の外国に見立てた無国籍的な映画とに分けるのは乱暴な分類ではあろうが、この作品には『しあわせのパン』に比べて無国籍的な傾向が強く感じられる。北海道がいろいろな映画の舞台となりうる可能性を持つ広い土地だということが言えるのだろうが、その特殊性を強調しすぎないほうがわかりやすい映画になるのではないだろうか。三島監督の次回作がどのような土地のどのような物語を映像化するのかを注目することにしよう。

今野真二『辞書からみた日本語の歴史』(3)

10月16日(木)晴れ

 この書物の第4章は「西洋との接触が辞書にもたらしたこと――明治期の辞書」と題されている。日本の辞書は伝統的に漢語と中国語の辞書として作られてきたが、幕末に入ってオランダ語、さらに英語などの西洋の言語との接触が始まり、それがまた新しい辞書作りにつながっていく。江戸時代にはすでに蘭学者たちの手でオランダ語と日本語の対訳辞書が作成されていたが、それは一方で既に存在した中国語と日本語の対訳辞書の枠組みを継承しており、そのことが蘭仏辞典を参考にして蘭和辞典を作り、さらにそこから英和辞典をつくるというように時代の要請に機敏に対応する素地を作っていたと今野さんは考えている。

 英語を母語としない日本語話者が英語を理解するためには、英和辞典が必要となるが、その一方で日本語を母語といない英語話者が日本語を理解するためには和英辞典が必要となる。その和英辞書を初めて作ったのがアメリカ長老教会派の宣教医ヘボン(1813-1911)であった。1859年に来日した彼はその夫人や他の宣教師たちと協力してキリスト教の普及に努めただけでなく、医療活動、教育活動を行い、その教育活動は現在のフェリス女学院、明治学院に結実し、また和英辞書である『和英語林集成』の第3版で採用したローマ字による日本語の表記は「ヘボン式」として今日でも広く用いられている。(現在、毎週火曜日にNHKカルチャーラジオの「歴史再発見」の時間で明治学院大学の大西晴樹教授が「ヘボンさんと日本の開化」という連続講義を行っているので、興味のある方はお聞きください。) 今野さんはヘボンがどのような意図で、誰を対象にこの辞書を編纂したかについて詳しく述べず、そのローマ字表記の特徴と、その後の『言海』と対照して、見出し語として選ばれた語彙の性格について考察しているだけで終わっている。おそらく、今後さらに深い研究が進められるのだろうと思う。ただし、この辞書が欧米人によって編纂されているため、それまで日本でつかわれていた辞書とは違って、見出し語について必ず語釈をつけていることがその後の国語辞書に大きな影響を及ぼしたことを強調している。

 ヘボンの協力者でもあった高橋五郎(1856-1935)によって1888(明治21)年に『[漢英対照]いろは辞典』が刊行されている。西洋の辞書がアルファベット順に見出し語を配列していることから、日本語でもいろは順、あるいは五十音順に見出し語を配列するという発想が出てくることは自然の成り行きであるが、明治20年ごろまではいろは、五十音のどちらの可能性もあった。この辞書は、いろは順に見出し語を並べ、「見出し項目+品詞分類+漢字列+語義説明+英語」という構成をとっている。また当時としては珍しく横書きである。この辞書についても今野さんは深く検討していないようであるが、話し言葉の語彙の比重が比較的多いことを指摘して、それが『和英語林集成』と共通する性格ではないかと論じているところが注目される。

 最後を飾るのが日本における近代的な国語辞書の嚆矢とされる『言海』である。この辞書は1889(明治22)年から1891(明治24)年にかけて4分冊に分けて刊行された。編集者は大槻文彦(1847-1928)で当時活躍した多くの人々と同様に、漢学を身につけ、さらに洋学を学んだ人物である。『言海』をめぐっては、今野さんの『「言海」を読む ――ことばの海と明治の日本語』(角川選書)などの他の著作に詳しく論じられていて、この部分はそれらの要約という感じがある。『言海』は出版当時の「普通語」を集めて編纂された辞書であるというが、その普通の意味を詳しくみていく必要がある。『言海』では現在の辞書に比べて「書きことば」の比重が大きく、それはこの時代の読者の「文学生活」を投影しているためではないかと論じている。また、この辞書が見出し項目となっている語の発音を示している点に、新しさと欧米の辞書の影響を認めている。
 「日本は西洋と接触することによって、西洋の辞書を知った。西洋の辞書は明治期になって、日本の辞書のはっきりとした模範となったと言えよう。明治20年ごろになって、それは具体的な辞書として結実してくる。明治24年に完結した『言海』はそうした辞書の代表格でもあり、後の時代に影響を与えた辞書のチャンピオンでもあった」(184ページ)と本文は締めくくられている。

 「おわりに――辞書が教えてくれたこと」の中で、今野さんは伝統的には、日本語の辞書は何かを調べるためのものではなくて、「個人の読書世界を体現するもの」(185ページ)であった時期があったという考えを述べている。辞書そのものだけでなく、その作り手の考えも、読む人々の境遇や辞書に対する要求も、辞書の利用の仕方も時代によって異なり、逆にいえば辞書の歴史をたどることによって、いろいろなことが分かってくると今野さんは言う。辞書の内容や体裁にこだわっての詳しい分析は読むのが面倒ではあったのだが、実際に、この本を読んで多くのことを知ることができたし、それ以上に日本語をめぐっていろいろな興味を抱くことができた。日本語に興味を持つ人に取って読む価値のある書物だと思う。

今野真二『辞書からみた日本語の歴史』(2)

10月15日(水)雨が降ったりやんだり

 今回は、室町時代の辞書を取り上げた第2章と江戸時代の辞書を取り上げた第3章について論評するつもりである。

 日本語の歴史を考える際に、平安時代までの古代語と、江戸時代からの近代語とに分けて考えることがある。その場合、鎌倉時代と室町時代はこのような言語の変化の過渡期とされる。「その時代に生きて、日本語を使っていた人々はどのくらいそのことを意識できたろうか。はっきりと意識できなかったとしても、自分たちが今つかっている日本語と古代語とは少し違うというようなことには気づき始めていたのではないだろうか」(54ページ)と今野さんは言う。

 このような変化の中で、この時代は人々が漢字や漢語を理解して使うということを重んじながらも、少しずつ和語に、また特に自分たちが今つかっている日本語に関心をもち向き始めていた時代でもあった。平安時代の辞書と違って、和語が見出し項目を構成するようになっているところにこのような関心が現われている。さらにこの時代は識字層が拡大した時代でもあった。そうなると辞書の「使い手」も増えてくることになる。そこで、誰かが所持している辞書を写すということが盛んにおこなわれるようになる。これもまたこの時代の特色であった。

 今野さんは室町時代を代表する辞書として『下学集』『節用集』『和玉篇(わごくへん)』の3つを挙げて、この書物では『下学集』と『節用集』だけを取り上げるという(『和玉篇』が省かれている理由は記されていない)。特に重要なのは『節用集』であるが、この辞書は『下学集』を下敷きにして作られたと考えられるので、まず『下学集』について取り上げるという。

 『下学集』は、論語の「下学して上達す(初歩的なことから学んで、だんだんと高度な道理にたどりつく)から採られており、初学者用の辞書として編纂されている。作り手はおそらく京都の建仁寺とか東福寺とかの僧侶ではないかと推測される。やはり意義分類をした辞典で天地門・時節門・人名門・草木門などの18の門に見出し項目を分類して収めている。見出し項目は漢字で書かれた語句である。中には見出しだけで、注が付けられていない語句もあるが、これはもともとこの書物が読書の際の抜書きに起源をもっているからであると今野さんは考えている。その一方で、管と菅のように間違いやすい文字を2字ずつ組み合わせて、その違いを説明した「点画少異字」という付録がついているものもあるようである。

 『節用集』も漢字で書かれた語句を見出し項目としている。今野さんは、語句が頭文字をもとにいろは配列され、その後で、意義分類により整理されているというこの辞書の特徴について書いていない。(70-71ページに紹介されている写本の写真を見るとこの辞書の見出し項目の配列のやり方がよく分かる。) 漢字で書かれた語句を見出し項目にしているとはいっても、和語も見出し項目に選ばれている。「これは漢語や漢字を理解することが最重要課題といってもよいような時代から、言語の観察が日本語全体に及び始めていることを窺わせる点で、注目しておきたい事柄である」(69ページ)と今野さんは指摘している。『節用集』は『下学集』よりもさらに、注が付けられていない語句が多くなっているが、これは読んだ本の中にその語句が出てきたことを確認するために辞書が作られていることを意味するという。そして、『節用集』はそれをもっている読者が自分の読書に基づいて「増補」していくような、いわば開かれた辞書であった。実際に現在残っている写本には所持者による書入れがみられるのである。また、例えば不審という語句について、この漢字を使いながら、「いぶかし」という和語と、「フシン」という漢語とを共に見出しとして立てるというようなやり方をしている。このことによって、辞書が作られた時代の言語状況を推測することができる。

 このようにして書き写されていく辞書は、手作りの、持ち主1人1人の読書経験と個性が出た辞書となる。このような事態が変化するのは江戸時代になって、印刷が盛んになり、辞書もまた印刷した大量に刊行されるようになってからのことである。

 江戸時代になると古代語から近代語への移行はほぼ終わる。そのことによって「今、ここで」使っている日本語とは異なる日本語=古代語が意識されるようになる。それは日本語ではない言語との接触によって、日本語という言語の意識が鮮明になるのと同じようなものであると今野さんは言う。

 ただし、古代の話しことばは後世に伝わらず、残されているのは書きことばだけである。過去の書きことばと対比することで、現在の自分たちが使っている話しことばがそこから離れている距離が実感されるようになった。そこで一方では、現在の自分たちが使っている話しことばの辞典をつくろうとする試みが生まれた。

 太田全斎(1759-1829)によって編集された『俚言集覧』という辞書は江戸時代には写本として流通していたが、明治になってから『増補俚言集覧』として出版され、その複製版もさらに出版されている。また全斎の自筆稿本が国立国会図書館に所蔵されており、それに基づいた影印本も現在では出版されているという。成立の過程で多くの人々がかかわったことが今日推測されている。編集者たちが「俚言」として辞書に収めている語句はかなり雑多なものであるが、それだけに編集された当時の話し言葉の様相を知るための貴重な資料源となっている。

 『雅言集覧』は狂歌師として知られる石川雅望(1753-1830、狂号宿屋飯盛)が編集したものである。雅望は狂歌をよくする傍ら、古典中国語だけでなく明代の通俗小説の中でつかわれる「白話」にも通じ、他方国学の造詣も深かった。この辞書は古語の用例集という趣をもち、平安時代の仮名文学を中心に上代や中世の文献からも語彙を集め、17,000あまりの見出し項目をいろは順に配列して平仮名書きで示し、出典名と用例を示している。その一方で語釈を施されている見出し項目は少ないという。今野さんはこの辞書を一つの到達として評価すべきであるとしながら、古代にも書きことばと話しことばがあったことを踏まえて、辞書の全体をなす雅俗の考え方をさらに掘り下げていくべきであると示唆している。

 『和訓栞』は谷川士清(ことすが、1709-1776)の編纂した辞書で、見出し項目をすべて平仮名で表記している。この辞書において初めて、漢字・漢語から独立した日本語の辞書ができたと言える。とはいうものの、漢字について無関心であるわけではなく、語釈において漢字・漢語とのかかわりが触れられている例が少なくない。また見出し項目の第2音節まで五十音による配列をしており、その意味でも現代の国語辞典の先駆けをなす著作といえよう。さらにこの辞書について重点的に述べた付録である「大綱」に盛り込まれた谷川の言語間には注目すべき内容が含まれていて、見過ごすことができない。

 江戸時代は、「今、ここ」でつかわれている日本語と、昔の日本語との違いにはっきり気づくようになった時代であり、そのことが日本語をめぐる多くの研究・著作を生み出し、その一端が辞書に現れているだけでなく、そのような読み書きと言語への関心が印刷の普及によってこれまでになく広い範囲に広がった時代でもあったとして第3章は結ばれている。

 国語(日本語)研究を進めていくうえで、江戸時代の学者の研究を掘り起こしてみることはかなり重要な作業ではないかと思っているので、著者の意見には賛同する点が多い。話を前に戻すが、『節用集』について、江戸=明治期の学者である森立之(枳園と号す、1807-85)がもっていたことから「枳園本」と呼ばれる写本の話が出てきて、枳園が森鴎外の史伝で知られる伊沢蘭軒の弟子であるというような記述があり、さらにこの写本がある縁によって大槻文彦の手にわたった(現在は天理大学図書館像)というような話も出てきて、本題を離れたところでもなかなか読み応えがあるのである。

 その大槻文彦を主要な登場人物とする明治期の辞書の話をまとめた第4章が残ってしまったが、できるだけ早くまとめていくつもりである。そういえば、今野さんの『言海』をめぐる著作についての論評も完成させなければならない。こちらも鋭意取り組んでいきたい。それではまた。 

日記抄(10月8日~14日)

10月14日(火)台風一過、晴天が広がったが、午後になってまた雲が増えてきた。

 10月8日から本日までの1週間の間に経験したこと、考えたことから:
10月8日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」では公共広告をめぐるvignetteが使われている。その中でschool absenteeismを減らすキャンペーンの話が出てきて、Then there was a voice-over urging parents to make sure their children attend school regularly so they don't get left behind.(次にナレーションが入って、子どもたちが取り残されないように、必ず毎日学校に通わせることを、親たちに訴えかけていましたね。)という発言がある。日本の不登校は心理的な原因で起きるものが多いようであるが、アメリカの場合は社会的、経済的な背景により生じる問題ととらえられている。get left behindをここでは「取り残される」と訳しているが、日本の一部の教育関係者は「落ちこぼされる」と訳している。しかし、日本の「落ちこぼれ」は教室の中での教育の在り方にかかわって言われるのに対して、アメリカでleft behindという場合には、学校外の環境や子どもをめぐる社会的、経済的な背景が重視されているようである。

 同じ番組の中で取り上げられた本日のQuote ... Unquote:
No wise man ever wished to be younger.
――Jonathan Swift(Anglo-Irish astirist and churchman, 1667-1745)
未だかつて、若返りたいと願った賢人はいない。
どうせ私は馬鹿ですよ! (スウィフトについての詩を載せたばかりだけれども、言いたいことは言わせてもらいます。)

10月9日
 NHKカルチャーラジオ『蕪村の四季』第1回の再放送で、老齢に達してからの蕪村の手紙が紹介され、その中に「びんぼう神の利生いちじるしく有がたく奉存候」という個所があって、おかしかった。なかなか絵が描けない言い訳として、自分に貧乏神が取りついてくれたおかげだからと屁理屈を並べている。そういう身勝手だが憎めないところがこの人物の特徴なのだという話であった。今後のこの放送の展開が楽しみである。

10月10日
 50年前のこの日、東京オリンピックが開会した。そういえば先日、国立競技場の前を通ったのだが、取り壊し作業はまだほとんど進んでいない様子であった。まだ時間的な余裕はあるとはいうものの、なんとなく先が思いやられる。

10月11日
 NHKラジオの「攻略! 英語リスニング」では20世紀のジャズを代表するミュージシャンであったLouis Armstrongを取り上げた。彼のあだ名SatchmoはSatchel Mouth[鞄のような大口をしたやつ]というのが縮められたものだそうである。satchelというのは、昔(といってもごく最近まで)中学生が使っていた肩掛け鞄のような鞄をいう。私も中学時代には、肩掛け鞄を使っていたが、あれはいつごろから使われなくなったのであろうか。

10月12日
 これまで使っていたラジオの寿命が来たらしいので、新しいのを買う。今回は非常用に懐中電灯や充電器としてもつかわれるものを購入した。

10月13日
 台風が接近してきたため、午前中を除いて外出せず。

10月14日
 NHKカルチャーラジオ『ヘボンさんと日本の開化』の第2回の再放送を聴く。ヘップバーン一族はスコットランドに起源をもち、スコットランドの女王メアリ・スチュアートの3番目の夫であった第4代ボスウェル伯爵ジェームズ・ヘップバーンを出していること、確実に系譜を辿れるところでは彼の曾祖父のサミュエルがグラスゴーから北アイルランドを経て、ペンシルバニア州にわたった人物であったこと、その子孫が州内で法律家や医師、実業家として成功を収めたことにより、ヘボンの家系が「富裕なスコッチアイリッシュ」であったということ、さらにヘボン=ジェームズ・カーティス・ヘップバーンがプリンストン大学とペンシルバニア大学の医学校で学んで医師になったことが紹介された。スコッチ・アイリッシュという言い方のほかに、アルスター・スコッツという言い方もされるのではないか(多少、ニュアンスの違いがあるかもしれない)。
 講師の大西晴樹さんは「余談になりますが、銀幕の大女優である2人のヘップバーンのうち、キャサリン・ヘップバーンは、コネティカット州出身ですので、おそらくヘボン同様スコッチ・アイリッシュの子孫だと思います。ベルギー出身のオードリの方はあまり関係ないのでないでしょうか」と語っているが、オードリー・ヘップバーンの父親はスコットランド人なので、スコッチ・アイリッシュではないにせよ、ヘボンと関係がないとは断言できないのではないかと思う。
 

パット・マガー『七人のおば』

10月13日(月)曇り後雨、台風19号が接近中

 パット・マガー『七人のおば』(創元推理文庫)を読み終える。1947年に発表されたThe Seven Deadly Sistersの翻訳。1949年の延原謙による新樹社ぶらっく選書版では『怖るべき娘達』と訳されていたそうである。その後長く「幻の名作」になっていたが、1986年に大村美根子により標記の題名により創元推理文庫から刊行され、現在まで版を重ねている。ちなみに、私の手もとにあるのは奥付に22版とあるが、初版22刷とする方が正しいのではなかろうか。どちらにしても、よく読まれていることは確かである。

 英国人と結婚して大西洋を渡り、親族と離れて暮らしているサリーはニューヨークの友人からの手紙で、伯母が夫を毒殺し、自殺したと知らされた。手紙には具体的な人名が記されておらず、彼女には7人のおばがいるのである。「あたしの家族は変なのよ。・・・おばたちについて、一緒に住んでる間に見聞きした事柄について、あれこれと思い出してみたわ。どう考えてみても、彼女たちは一人残らず殺人を犯す素質を備えてる。身内の誰かが人殺しだったなんて。…しかも、自分が人殺しの家系に属してるとなると」(16ページ)とサリーは思い悩む。夫のピーターは、おばたちといきさつを詳しく話してくれれば、犯人と被害者の見当はつくだろうと請け合う。サリーは、カリフォルニア暮らしていた自分が両親が交通事故で死んだために、ニューヨークに住むおばのところに引き取られることになってからの経緯を語り始める。

 サリーを引き取ったクララおばの夫のフランクはウォール街の大物で、妻の父母が死んだあと妻の6人の妹を引き取り、大学まで進学させてきた(いかにアメリカとは言え、1930年代の設定だから、これがどんなにすごいことかはわかるだろう。サリーの父親は、クララの弟で、兄弟姉妹の中でのただ1人の男性であった)。サリーがクララに引き取られたとき、6人のうち2人は既に結婚していたが、幸福な家庭を築いているとはいいがたい状態であった。とはいうものの、結婚が女性の唯一の人生目標だと信じ、世間体を重んじるクララは残った妹たちを結婚させようとあれこれ画策しつづける。その結果がどんな混乱を巻き起こそうと、さらに策を講じて、それが裏目に出ても動じない。サリーが言うように、それぞれのおばたちにそれぞれの悲劇の種がまかれていくことになる。

 パット(パトリシア)・マガー(1917-1985)はアメリカの女流作家で、従来の推理小説の手法とは大きく異なる斬新な作品を書き続けたことで知られる。この作品は彼女の第2作で、第1作の『被害者を捜せ!』では犯人あてという推理小説の常套をひねって、被害者探しという機軸を打ち出したのに続き、探偵役が犯人と被害者の両方を探し出すという物語を展開させている。米国で起きた事件が、英国にいるサリーの回想を通して語られていくという(北村薫の「解説」の言葉を借りれば)「額縁つきの絵」の手法を用いていることも特色であろう。

 こうした斬新さのためか、1951年に「当時の若手新鋭推理作家のほとんどを網羅した、画期的な専門雑誌」((344ページ)であった<鬼>誌のベスト・テンで7位に選ばれている。
1位 フィルポッツ『赤毛のレッドメーンズ』 2位 アイリッシュ『幻の女』 3位 ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』 4位 ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』 5位 ドイル『バスカヴィル家の犬』 6位 クイーン『Yの悲劇』 7位 マガー『怖るべき娘達』 8位 クリスティー『アクロイド殺害事件』 9位 クロフツ『樽』 ルルー『黄色い部屋の謎』 フィルポッツ『闇からの声』 10位 ルブラン『813』 シムノン『男の首』 
これも北村の言葉を借りると「まさに同時代の作品が、古典的名作に伍して選ばれたのである」(同上)。

 このような一部における高い評価にもかかわらず、マガーの作品は商業的には成功を収めず、そのことが『怖るべき娘達』⇒『七人のおば』をはじめとする彼女の作品の日本での刊行にも反映してきたと思われる。そして、商業的な不人気の原因は、この作品の場合、アメリカの伝統的な社会が大事にしてきた家族の価値を批判するとも受け取られる(問題はクララの妹たちの性格や願望を考えずに強引に結婚を迫るやり方にあるのだが、結果として結婚や家族に作者が懐疑的になっていると受け取られても仕方がない)物語の展開にあるのではなかろうか。一般に英米のミステリーは犯罪の原因を先天的なもの(犯罪者の血統)に求める傾向が強いが、この作品はそれを否定している点もこのことと関連して注目される点である。

 7人の姉妹の1人1人の個性と行動が詳しく描きこまれ、それぞれが自分の欠点には目をつむりながら、他の姉妹については結構的確な評価を下しているのが面白い。正しい意見を述べても、意見を述べた人間の平素の行動によってそれが正しく伝わらなくなっている環境というのは、確かに恐るべきものである。丁寧に読み返すことによって、さらに魅力が増していく種類の作品ではないかと思う。

スウィフトに

10月12日(日)曇り

 忙しく動き回っているわけではないのに、なかなか考えがまとまらず、文章が書けない。空白を作ると、あとが苦しくなるので、以前、ダブリンの聖パトリック大聖堂をたずねたときの印象から書いた詩を載せておく。

 スウィフトに

暗い大聖堂を出ると
明るい 緑の風景が 広がる
暗がりの 中で
ステンドグラスの 鮮やかな色に
見とれていた 目が
戸惑いながら
この 新しい 眺めに
目を 瞠る

ガリヴァ―は
小人国から帰った時も
大人国から帰った時も
物差しの違いに
戸惑い続けた

かつて
この大聖堂で
ジョナサン・・スウィフトが 説教していた
彼は この大聖堂の
首席司祭である以上に
パンフレットの匿名の筆者、詩人、
毒舌家、風刺家、
権力の
気まぐれだがしつこい

民衆の 友
(逆の存在だったこともあるのだが…)
ことばの威力を 誰よりもよく知り、誰よりもよく使いこなした
イングランドとアイルランドを 往復し
ガリヴァ―を 飛島から 荒廃した地上へと 旅させた
そして 荒廃の原因が
飛島の 政治にあることを語らせた

自分の説教を聞きながら
眠りに誘われている信者たちに
説教中に眠った 人々の魂の
行方について語った

眠っていた人々は
うとうとしながら、
フゥイヌムの 良心の声を
良心の声と 受け止められずに
うなされていたかもしれない
そして 暗がりの中で
スウィフトは どんな顔をして しゃべっていたのだろうか

暗い 大聖堂の中の
スウィフトの墓を訪れる人は 絶えない
ガイドが 彼のロマンスを語り
観光客たちを 笑わせているが
スウィフトの 肉声を 聞いたら
どんな気分になるだろうか

彼も 時々は
大聖堂を出て
緑の風景を眺め
風に吹かれたことが あったに違いない

強い風が 木の葉を舞い散らす
スウィフトの魂は いま
どこを向いて 何をしゃべっているのだろうか

今野真二『辞書からみた日本語の歴史』

10月11日(晴れ)

 10月10日、今野真二『辞書から見た日本語の歴史』(ちくまプリマーブックス)を読み終える。今野さんの本を読んだのは今年、これで実に5冊目である。主として近代における日本語の変化についての議論を展開してきた著者であるが、今回は平安時代から明治時代に至る日本語の様々な辞書を取り上げて、そこからそれぞれの時代の日本語の姿を探ろうとしている。「はじめに」で今野さんは次のように書いている:
辞書は時代を映す鏡といわれることがある。辞書が、その辞書の編集目的に従って集めた日本語は、その辞書が編まれた時期の日本語や日本文化について、さまざまなことを語ってくれる。辞書をよくよく「よむ」ことによって、その辞書が編まれた時期の日本語や日本文化を探り、「作り手」や「使い手」がどのような人であったかを描きだすこと、それが本書の目的だ。(11ページ) 「プリマーブックス」の1冊として刊行されるということは、初学者向けの平易な本として書かれるということであるはずだが、実際にはかなり読み応えがある。

 次にこの本の目次を紹介してみよう。
第1章 辞書の「作り手」と「使い手」――平安~鎌倉時代の辞書
 1 百科事典的な『和名類聚抄』
 2 漢文訓読がうんだ『類聚名義抄』
第2章 辞書を写す――文学にも日常生活にも対応する室町時代の辞書
 1 成長する辞書『下学集』
 2 文学とも関わりが深い『節用集』
第3章 日本語の時間軸を意識する――江戸時代の三大辞書
 1 「今、ここ」のことばを集めた『俚言集覧』
 2 古典を読むための『雅言集覧』
 3 現代の国語辞書の先駆者『和訓栞』
第4章 西洋との接触が辞書にもたらしたこと――明治期の辞書
 1 ヘボン式ローマ字綴りのもととなった『和英語林集成』
 2 いろは順の横組み辞書『[漢英対照]いろは辞典』
 3 五十音配列の辞書『言海』

 今回はとりあえず第1章を紹介していくことにしたい(第2章まで紹介するつもりだったが、時間がなくなったのである)。
 第1章では、まず『和名類聚抄』に先立って、どのような辞書(あるいはそれに近いもの)が存在したかについてのおおよその推測が展開されている。中国文化の影響が圧倒的な中で、それは漢字、漢語を理解し、使うための辞書であったと考えられるという。
 『和名類聚抄』は歌人で、三十六歌仙の中に数えられる源順(911-985)が醍醐天皇の皇女である勤子内親王の命によって934/5(承平4/5)年頃に撰進した辞書で、内親王が漢詩文の典籍を読まれる際に手引きとなるように作られている。順が親しんでいた中国の類書を参考にしてまとめられている。ここで「類書」とは漢詩文作成のための言葉をいろいろな書物から集めて編集したもので、百科事典的な側面ももっている。このため『和名類聚抄』も類書に近い、百科事典的な性質の辞書となっている。この辞書はその後長く、利用され、江戸時代になっても刊行されたほどである。
 『和名類聚抄』は見出し項目を言葉の意味に従って分類配列する「意義分類」のやり方をとっている。このやり方は江戸時代までつづくことになった。
 「意義分類」とは人間が外界をどのように認識し把握しているかということでもある。『和名類聚抄』は中国語=漢語を見出し項目としているので、当然のことながらその「意義分類」も中国語圏における分類に影響を受けている。
 ところでこの辞書の序では漢詩や漢文をつくる興趣である「風月之興」とともに、実際の言葉に関しての疑問「世俗之疑』もまた編纂の際の視野に入っていることが謳われている。このため、この辞書には「和名」=和語も取り込まれている。『和名類聚抄』がその後大きな影響力を保ったのは、こうして漢語と和語のバランスをとっていることにも起因しているのではないかと今野さんは指摘している。

 日本の辞書にはもう1つの流れがある。それは特定のテキストに基づいた注釈書およびそれをもとにして編集された辞書の系譜である。たとえば『法華経』のような仏教の経典をきちんと理解しようとすると、そこでつかわれている漢字の発音・字義を正確につかむ必要がある。そうした注釈が「音義書」という形で蓄積されていった。このような音義書が、特定のテキストを離れて、一般性のある辞書へと移行してできたのが『類聚名義抄』であったと考えられる。
 現在、いくつかの系統の写本が残されている『類聚名義抄』はもともとの『類聚名義抄』を改編してできたものと考えられ、改編本系と呼ばれることもあるが、12世紀ごろに法相宗、真言宗、天台宗関係の僧侶の手で編集され、また利用されていたものと考えられる。編集に当たっては、それまでに蓄積されてきた中国と日本の様々な情報が記されており、編集された時代の情報が記されているとは限らないことに注意する必要がある。

 日本語の辞書の出発点である『和名類聚抄』は漢語を、『類聚名義抄』は漢字をそれぞれ見出し項目としており、この点では共通している。つまり日本語の辞書ははじめ、中国語や漢字を理解するために作られたのである。作る人も使う人も中国語=漢語を使って言語生活を送っている当時のエリート(に近い人)たちであった。そして辞書をめぐるこのような状況はその後も長く続いたのである。

 実はここで紹介しなかった細かい考察がいろいろな興味を呼び覚ます。たとえば、「象」という動物を表す漢語には、「きさ」という和語が対応していたというのだが、現在の漢和辞典には「きさ」という訓は記されていないようである。しかし、今野さんは気付いていないのか、わざと話題から外したのか知らないが、芭蕉の句で有名な象潟という地名では「象」を「きさ」と呼んでいる。これが孤立した用例なのか、他に類例があるのか、またこのような読み方がどのような起源をもつのかなど、興味は尽きないのである。

夜明け前

10月10日(金)曇り

 神保町シアターで「生誕100年記念 宇野重吉と民藝の名優たち」の特集上映の中の『夜明け前』を見た。島崎藤村が1929(昭和4)年から1935年にかけて『中央公論』に断続的に連載し、後に新潮社から第1部(1932)、、第2部(1935)の2部にまとめられて出版された長編小説の映画化である。この映画に主演している滝沢修と解説(語り手)と謙吉役を演じている宇野重吉が中心となって運営されていた劇団民芸と、映画の脚本を書いた新藤兼人、監督をしている吉村公三郎、主人公の娘お粂を演じている乙羽信子、そして製作に加わっている絲屋久雄が結成した近代映画協会の協力によって1953年の芸術祭参加作品として作られた作品である。原作の前半は1934年に村山知義によって脚色され、久保栄演出で新協劇団によって舞台劇として上演されている。この時の演出を継承して戦後民芸が上演した舞台を1964年に見ている。その後、原作を読み、今、映画化された作品を観た。原作は多様な要素を含む複雑な作品であるが、映画はその長大で複雑な作品を簡潔にまとめ、日本の近代化の内包していた矛盾について問いかける内容となっている。

 中山道(木曽街道)の宿場町であった馬籠宿の本陣・庄屋・問屋を兼ねる青山家の跡取りとして生まれた半蔵は、学問好きで平田派の国学を学ぶ一方、山村の厳しい環境の中で農民たちが苦しい生活を送るだけでなく、領主である尾張藩から収奪と抑圧を受けていることに心を痛め、幕府を倒して新しい政府ができれば、農民たちの暮らしが楽になると考えている。彼は別の本陣の娘であるお民と結婚し、子どもたちが生まれ、やがて家督を継ぐが、その周辺で世の中はめまぐるしく変わっていく。御一新の世になっても、農民たちの生活が改善しないことを知った半蔵の失望は大きい。世の中の変化の中で、彼が信奉する平田派の国学は文明開化の流れに圧倒されていく。

 島崎藤村が彼の父親をモデルにして描きだした原作は日本の近代化の問題点を、家族史、地域史という視点から掘り下げていると言える(ほかにもこの作品の特徴はあるのだが、この映画化ではこの側面が強調されている)。半蔵と同じような上層農民の青年の事例を引き合いに出して、彼の経験の狭さ、それゆえの視野の狭さが悲劇をもたらしたのだと論じることは簡単である。尊王攘夷の思想をもっていた若き日の渋沢栄一は、ふとした出会いから徳川慶喜の家来に取り立てられ、人生が一変する。なんらかの経験を通して攘夷から開国へと考えを変えた同時代人は少なくない。その中で半蔵が平田国学に固執したのはなぜか。

 国学史家によると、国学には主として武士によって学ばれた津和野国学と、草莽の人々によって学ばれた平田国学があったという。半蔵は若いころから平田国学を学んだだけでなく、山間の人々の貧しく苦しい暮らしを見続け、さらに武士による民衆への抑圧を目の当たりにしていたことから、余計に平田国学にのめり込んでいったのであろう。映画は木曽に暮らす人々の暮らしの厳しさ、尾張藩による支配の過酷さを繰り返し強調して描く。

 とはいうものの、半蔵が国学以外の思想に触れる機会があってもよかったのではないか。彼が自分の学問の祖と仰ぐ本居宣長にしても医者であり、漢学も学んでいて、それなりの視野の広さと、思想的な柔軟性・現実性は備えていた。平田篤胤にしても、その知的好奇心は同時代の水準をはるかに超えて、例えば道教の教義に詳しかったと言われる。半蔵は江戸・東京を訪れたり、同学の人々と交流したことが、必ずしも視野を広げることにならなかったのが彼の不幸だとは言える。

 原作は舞台を木曽に限定せず、江戸や横須賀における半蔵の行動を記しているのだが、映画は木曽に舞台を限定することによって半蔵の思想的な限界を示そうとしているように思われる。その一方で、半蔵が妻のお民や娘のお粂に対して、女は家のことだけにかかわっていればよいと言って、自分の職務や学問上の考えを伝えようとしないのは、明らかに否定面として描かれている。この点が脚本と演出の特徴的な点ではないかと思う。お民もお粂も半蔵への愛情をもつ一方で、自分なりの積極性を発揮して半蔵を助けようとしているのだが、それを半蔵は理解しようとしない。母であるおまんの人生経験に基づく常識も半蔵は無視しようとする。学問が空回りしているのが悲劇的である。

 原作で半蔵は江戸に赴いた折に、自分の遠い親戚がいるということで横須賀の公郷に赴くという場面がある。私が中学・高校生のころに京浜急行を利用して通学していたのだが、公郷という駅があった。今は県立大学前とか何とかいう名前に変わっているようである。

 大学に入った年に、京都労演の例会で民芸の『夜明け前』を見た。お民を演じている吉行和子さんが婚礼の場面で舞台に背を向けて座っていて、酒に酔った客の一人が踊りを踊るのにつれて視線を動かし、やがて観客席の方に顔を見せるという演出は、久保栄のプランをそのまま継承したものだという話であった。これは舞台だからこその演出で、映画でやってみたらつまらない。とはいうものの、この映画化では(繰り返しになるが)舞台を木曽に限定するなどの演劇的な作り方をして、長大な物語を巧みにまとめているが、原作の持っている内容はかなり雑多なもので、もっと別のまとめ方もできるかもしれないと考えている。しかし、伝統的な景観の多くが失われている今日、『夜明け前』の再映画化はますます困難になっていると言わざるを得ない。

 ラジオのまいにちフランス語の時間でかつて放送された(現在でも時々再放送される)『映画の話をしよう』の中で、今は亡き梅本洋一さんが、プログラム・ピクチャーをとりながら、その中で独特の個性を発揮している監督の話を始めたところ、ゲストのフランス人女性が吉村公三郎の名を挙げたのは、明らかに無知による誤解であった。吉村は確かに本ブログで取り上げた『夜の蝶』のようなプログラム・ピクチャーをとってはいるが、すでに述べたように新藤兼人とともに近代映協をえた独立プロの担い手の1人であった。メジャーな映画会社の傘下でプログラム・ピクチャーをとりながらも映画の可能性を探るのと、独立プロで自分の主張を貫こうとするのと、どちらが映画作家として正しい方向性だなどという議論をするつもりはない。どのような製作の過程を辿ったにせよ、できた作品が優れたものであれば、いいのである。とはいうものの作家の努力の方向については、正しく理解していただきたい。吉村監督については、知らないことがまだまだ多いのだが、季節の花を使って時間の推移を表現する手法は得意とするところではないかと思われ、この作品がカラーでなかったことを惜しんでいる。(劇場側では、上映のために使用するプリントが痛んでいることについての理解を求めていたが、それほど見苦しいものではなかったことを書き添えておく。)

『太平記』(13)

10月9日(木)晴れたり曇ったり

 元徳3(1331)年、後醍醐天皇を中心とする倒幕計画が露見し、関係者に対する鎌倉幕府側の厳しい追及が続いていた。この年8月、天皇は元号を元弘と改めることとされ、その旨の証書を鎌倉幕府にも下されたが、幕府は認めようとせず、天皇とその側近による倒幕計画を追求するために使者を上洛させようとした(改元については、『太平記』で触れられていない)。使者たちは天皇を流刑に、倒幕の急先鋒であった大塔宮尊雲法親王を死刑にすることを求めようとしたが、その内容が事前に漏れ、比叡山の尊雲法親王の献策により、天皇は奈良に逃れ、奈良には幕府に近い勢力が存在するために、さらに場所を変えて笠置山に臨幸される。また幕府側の目を欺くための天皇の身代わりとして大納言の花山院師賢が比叡山に登って、尊雲、尊澄の2人の法親王が率いる比叡山の僧兵たちが守りを固めることになった。

 六波羅から派遣された幕府方の兵士たちが、琵琶湖の南岸から北上して近づいてきたという知らせを受けて、比叡山の血気盛んな僧兵たちは唐崎の浜に出て待ち構える。しかし、その数は300人足らずであった。これを見た幕府方の武将の1人である海東将監が敵は今のところ小勢であり、援軍が来る前に打ち負かそうと飛び出して3人の敵を斬り伏せたが、比叡山側の快実という僧侶が出てきて海東に一騎打ちを挑み、その首を奪う。その様を眺めていた海東の子どもが父の敵と挑みかかるが、返り討ちにあって見るものの涙を誘った。さらに海東の従者たちも快実に挑みかかるが、蹴散らされる。
 
 幕府方の有力な武将である佐々木三郎判官時信が配下の武士たちに「御方討たすな。続けや」と命じたので、さすがの快実も危なくなるが、比叡山方も新しい兵力を動員して応援する。唐崎の浜は東の方には琵琶湖が広がり、西の方には深い泥田があって、その間に平らな砂浜がずっと続いているという地形である。このため、兵力を後退させて戦うということができず、前線で戦っている兵はいつまでも戦い続けることになる。その間に、比叡山方は幕府方の退路を遮ろうと琵琶湖に舟を浮かべて大津の方向に向かわせる。

 六波羅勢はこれを見て、劣勢になったことを知り退却しようとするが、土地の地理に疎く、逆に比叡山側は地元なのでよく知っており、幕府軍は壊滅的な被害を与えられる。大将格の佐々木時信もあわや戦士という場面があったが、配下の武士たちが必死で守ったために命長らえて京都に戻ることができた。大軍とは言え、統制がとれない幕府軍が地の利をもつ比叡山の大衆に惨敗するという予想外の結果となった。

 これまで比較的平和で安定した状態が続いていたのに、突然に合戦という思いがけない事態が生じたので、人々は不安におののいた。そんな中で、倒幕に心を寄せる者たちが持明院統の上皇以下を奪うこともあるかもしれないと、27日の午前中に後伏見上皇、東宮の量仁親王(後の光厳院)が持明院統の上皇御所である六条殿から六波羅の北探題の庁舎に遷られた。付き添った公卿たちは、今出川前左大臣兼季、三条大納言通顕、西園寺大納言公宗、日野前中納言資名、坊城宰相経顕、日野宰相資明であり、皆、衣冠をつけただけの略装であった。また警固の武士たちは全く服装がそろっておらず、人々は突然の事態の変化に非常な驚きを覚えた。
 「前」という官職が少なくないのは、これらの人々が持明院統の花園天皇、あるいは後伏見天皇のもとで重用され、大覚寺統の後醍醐天皇のもとでは政権から遠ざけられていることを示すものであろう。なお、持明院統の皇族には他に、花園上皇、また量仁親王の弟宮たちがいらしたはずであるが、その動きについては触れられていない。それから大覚寺統の嫡系である康仁親王も動静不明である。

 山門の大衆は唐崎での合戦で勝利を収めたことに気をよくしていた。そこで、西塔を皇居としていることは本院にとって面目の立つことではない。先例を見ても本院の房舎にお遷りあるべきであると申し入れ、西塔側もやむなくこれを了承、天皇にその旨申し上げようと参上すると、折節、深山颪が吹きつけて御簾を吹き上げてしまい、中にいるのが師賢であることが露見する。このため多くのものが失望・落胆して去っていく。師賢、四条中納言隆資、二条中将為明はひそかに比叡山から脱け出て、笠置の後醍醐天皇のもとに向かう。
 替え玉だということに気付かれたのは不運であるが、天皇のお顔がどのようなものであるかを知る者はそんなにはいないはずで、逆に師賢の方は多くの人に顔を知られていたということであろうか。

 比叡山の上林坊の阿闍梨豪誉は武家方に心を寄せていたので、大塔宮の執事である安居院中納言法印澄俊を生け捕って六波羅に届ける(歴史的な事実としては、澄俊は妙法院宮尊澄法親王の執事であったとのことである)。かくして、比叡山に立てこもっていた大衆は次々に六波羅に降参していった。

 妙法院宮と大塔宮はその夜はまだ比叡山に留まっていらしたが、ひとまず落ち延びて、天皇の消息も確かめてみようと考えられて、29日の夜にまだ大勢が立てこもっているように見せかけるため、かがり火を多くの場所で焚かせたまま、琵琶湖に舟を浮かべ、まず石山に落ち延びられた。お二人が一緒にいられるのは計略としては浅はかであり、妙法院(尊澄法親王)は高貴な身の上で歩行もはかばかしくできないので、ここで別れることに決められる。妙法院は笠置に、大塔宮は十津川の奥を目指されることになる。
 森茂暁さんは『太平記の群像』の中で「尊澄が根っからの文人タイプなのに比べて、尊雲はまことに武人タイプである。兄弟でこれほど性格の異なるケースは、他にあまり多くない」(群像、40ページ)と父母を同じくする2人の親王の性格を対照的に評価されているが、性格が対照的であったからこそかえって仲がよかったのかもしれない。『太平記』の作者は兄弟の別れを、「竹園連枝の再会も、今はいつをか期すべきと、御心細く思し召されければ、互ひに隔たる御影の隠るるまでに顧みて、泣く泣く東西へ別れさせ給ふ、御心の内こそ悲しけれ」(131-2ページ)と哀切に描き出している。なお、竹園連枝というのは皇族の兄弟のことだそうである。

 作者は尊雲法親王の勧めに従って後醍醐天皇と師賢らの側近が実行した計略が失敗したとはいうものの、これが漢の高祖が楚の項羽と戦って滎陽に包囲された際に、忠臣の紀信が身代わりになって主君を助けた故事を前例とするものであるとして、「和漢時異なれども、君臣体を合はせたる謀、誠に千載一遇の忠貞、頃刻(きょうこく)変化の智謀なり」(134ページ、日本と中国とで時代は異なるが、君主と進化とが一心同体になった謀であり、まことに千年に1度のまれな忠節と、時機に応じて変化する巧みな謀である)と称賛の言葉を述べて2巻を締めくくっている。

 失政により幕府への不満が高まっているとはいうものの、圧倒的な軍事力をもつ鎌倉・六波羅方に対して、都を離れた後醍醐天皇や比叡山から去った大塔宮はどのような戦いを展開していくのか。今後の物語の展開については、また次回以後に記すことにする。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(11)

10月8日(水)晴れ後曇り

深く切り立った崖の突端から
砕けた大岩塊が縁上に崩落していくその縁、
つまり、私たちはさらに酷い呵責がひしめく場所の上に来た。

そしてここで、限度を超えた凄まじい
悪臭が深淵の奈落から放たれているために、
私たちがあとずさって身を寄せたのは、ある大きな墓の

蓋の陰だった。そこで私が見た書きつけは
こう言っていた。「我、教皇アナスタシウスを収監す。・・・」
(166ページ)

 ウェルギリウスに導かれてダンテが訪れた地獄の第6圏は異端者たちが蓋の空いた棺の中に入れられ、悪臭を放っていたが、第10歌の終わりで、世俗の指導者である神聖ローマ帝国の皇帝と、教会の教皇に次ぐ高位聖職者である枢機卿がその中にいると述べていた。この第11歌では、今度は教会の指導者である教皇の1人が地獄に落ちているという場面を設けている。地獄に落ちているとされる教皇アナスタシウスⅡ世は東方教会との争いの中で、異端のアカイア派に対して妥協的な政策をとった5世紀末の人物であるが、ダンテはこのことによって彼の時代の教会が政敵を陥れるために異端の宣伝を行っていたことを批判しているのである。彼は教会の中にすくう俗悪な聖職者たちを批判するが、教会自体を批判しようとしているわけではない。

 ダンテに向かってウェルギリウスはこれから2人が旅する地獄の区分、それに対応する罪と罰とを説明する。地獄の第7圏は、3つの小圏に分かれており、暴力の罪を犯したものが収容されている。

神に対し、己自身に対し、他人に対し
詳細に言うと、直接であれ、その所有物に対してであれ、
これからおまえが明快な哲学的議論で聞くように、暴力の行使が可能である。

暴力によるし、あるいは苦しみに満ちた負傷が
他人にもたらされる。またその所有物に対しては
破壊、焼失、破滅的な略奪がもたらされる。

それゆえ、殺戮者や刃傷沙汰を起こした輩、
略奪者や泥棒、それら全員を
それぞれの集団ごとに第1番目の小圏は苦しめる。
(169ページ) ここでダンテは暴君や都市を略奪する小領主、殺人者、強盗などをその対象として描きだしている。

さらに
人は暴力の手を己自身に対して上げることも、
また己の所有物に対して上げることもできる。それゆえ第二の
小圏でただ虚しく罰を受けねばならぬのは、

誰であれ、お前たちの世界から己自身を奪った輩、
己の財産を博打ですり減らしてしまい,
喜ぶべきであった富を失い、地上で嘆き悲しむ輩全員である。
(170ページ)として、自殺者や自らの富を浪費・蕩尽したものをこの第2小圏においている。

暴力は、心のうちで否定し罵ることで、
また自然やその恵を侮蔑することで、
神に対しても行使することが可能である。

それゆえに最小の小圏は
ソドムの輩、カオールの輩、
心のうちで神を嘲りそれを口にする輩にその烙印を押す。
(同上) 3つの小圏のうちでもっとも地獄の深いところにある(深くなればなるほど面積は小さくなる)第3小圏は「ソドムの輩」=男色者、「カオールの輩」=高利貸が置かれている。彼らが神をののしり、自然に反する行為をしたことで暴力者とみなされるというのは少し無理があるようにも思われる。

続いてウェルギリウスは第8圏について
欺きとは、あらゆる良心を侵蝕するものだが、
人は自分を信じてくれている相手に対しても、
信頼が宿る特別な間柄ではない相手に対してもそれを行使できる。

この後者の欺き方が打ち砕いているのは、
人類特有の性質がなす愛の通路だけなのは明らかである。
それゆえここより2番目の圏に巣食うのは、

偽善、媚びへつらい、魔法魔術をこととする輩、
贋金作り、盗み、聖職売買、
女衒、汚職、他にもそれに劣らず汚れた輩である。
(170-171ページ)として、他人を欺いた人々がここにおかれると説明している。

 そして地獄の最も奥にある第9圏では、人間特有の愛と信頼、特に肉親、同朋、客人たちなどとの絆を裏切った人々が置かれるという。

 神によりくわえられる罰の違いにまだ納得のいかないダンテにウェルギリウスはアリストテレスにより書かれ、トマス・アクィナスによって注解された『二コマコス倫理学』の中で、「無抑制」、「悪意」、「狂った獣性」について論じられている部分を思い出せという。このあたりについての解釈はわかれていて、ダンテの真意はわからないらしいが、罪の背後にある心意の在り方によって罰が違ってくるというふうに受け取っておこう。

 さらにウェルギリウスは言う:
「哲学は…それを解する者に、
・・・
神の知性とその大いなる御業から

どのような道筋を自然がたどるのか。」
(175ページ) こうして彼は自然と労働が大切であることを強調した後、

けれども今は私に続け、もはや進もう。
魚座は水平線の上を跳ね、
大熊座は全身を北西の風カウルスの吹く場所に横たえている。

そして崖はもっと離れた場所で降りねばならぬのだ」。
(176ページ)と道を急ぐ。星座の位置から、時刻=4月9日午前4時が示され、改めて地上の自然が思い出されているが、ダンテにはまだ多くの、旅の中で観るべきものが残されている。 

 今回の箇所は、道徳や法律にかかわる議論が多く含まれ、読み応えがあるだけでなく、ダンテの思想をうかがううえでも重要な部分ではないかと思う。彼が中世的に解釈されたアリストテレス哲学に依拠しながら議論を進めていく一方で、イスラーム文化と思想の影響も見られると研究者によって指摘されていることも書き添えておく必要があるだろう。

日記抄(10月1日~7日)

10月7日(火)晴れ

 10月1日から本日にかけて経験したこと、考えたことなど:
10月1日
 住まいの近くにある私立小学校に入学を希望しているらしい親子連れが見かけられる。実は私も、何十年か前にこの学校を卒業したので、「使用前」「使用後」だなと思いながら、彼らとすれ違っている。親子連れはいずれもきちんとした格好で、母親など、何年か前に使ったリクルート・スーツみたいな服装をしているのだが、私はごくラフな格好で歩いている。子どもが50年後、60年後にどうなるかは本人も、親も全く予測できない。それでも私立学校を選ぶということの意味はどこにあるのだろうか。

 テレビ朝日の「マツコ&有吉の怒り新党」で、有吉がアンケートというものを信用しない、ああいうものは質問の仕方ひとつでどんな結果でも引き出せると言っていたのに同感。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Nothing is more fairly distributed than common sense: no one thinks he needs more of it than he already has.
――René Descartes (French philosopher, 1596-1650)
常識ほど平等に分け与えられているものはない。すでに持っている以上の常識が必要だと思う人はいないからだ。
そうかなあ?

10月2日
 NHKラジオまいにちフランス語応用編「ファッションをひもとき、時を読む」は講師の1人であるピエール・ジル・ドゥロルムさんが書き下ろした文章を読んだ。
 Ne suffit-il pas d'ajouter une lettre au çœur de ce mot pour qu'il devienne un Monde?
この言葉の真ん中にひとつの文字を加えさえすれば、Monde「世界」という言葉になるのではありませんか?
modeのoとdの間にnを入れれば、mondeになるという。言われてみればその通りである。番組では触れなかったが、mondeには「世界」という意味のほかにも、いろいろな意味があるようである。
 番組中で紹介されたジャン・コクトーの言葉:
La mode, c'est ce qui se démode.
ファッション(流行)、それは流行遅れになるもの。
そういう考え方もできる。

10月3日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote ...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Truth is tough. It will not break. like a bubble, at a touch; nay, you may kick it about all day like a football, and it will be round and full at evening.
----Oliver Wendell Holmes Sr. (US physician and author, 1809-94)
真実は頑丈である。泡のように、触れると壊れるということはない。それどころか、サッカ-ボールのように一日中蹴り回したところで、夜には丸く完全なままだ。
丸いもののたとえとしてフットボールを持ち出しているのが気になるところである。アメリカン・フットボールのボールは楕円だから、ここはサッカーボールと考える方が適切なのであろうか。

10月4日
 NHKラジオ「攻略! 英語リスニング」で引用されていたフランスの作家アルベール・カミュの言葉:
Autumn is a second spring when every leaf is a flower.
秋は、すべての葉が花となる、第二の春である。
英語のナレーションでは、カミュのことをアルバート・カムゥというように発音していた。手元の辞書(リーダーズ英和)ではカミュ(ュは日本語のyuではなく、フランス語の発音を残したy)となっているのだが、ロンドンで知り合いになった書店主もカムゥと発音していた。

 横浜FCは西が丘でのホーム・ゲームで松本山雅に0-2で敗戦。観戦に出かけなかったことをどう考えるべきか?

10月5日
 台風接近。家の中で様子を見ている。

10月6日
 昨日の当ブログでも書いたが、病院に出かけ、横浜に戻る電車が不通の状態だという情報があったので、神保町に出てランチョンで昼食、神保町シアターで映画を見た。神保町の書店は午前中、本が濡れないように閉店していて、午後から店を開けたところが少なくないようである。ランチョンは吉田健一が愛してやまなかったビヤホールの名店。東海林さだおさんのエッセーでもLと頭文字だけで紹介されている。料理とビールもさることながら、2階からの眺めがいい、外をぼんやり眺めながら時間を過ごすのもこの店で食事をする際の楽しみである。

10月7日
 NHKカルチャーラジオ「歴史再発見」の『ヘボンさんと日本の開化』の第1回の再放送を聴く。ヘボンの主な活動の場であった横浜に住んでいるので、これから番組を聴きながらゆかりの地を訪問してみるのも悪くないかもしれない。

ここに泉あり

10月6日(月)台風18号の通過で午前中は激しい雨、午後になって台風一過の晴れ間が広がる

 2か月に1回、病院に出かける日なのだが、選りにも選ってその日に台風が上陸してきた。それでも大雨のなか、病院で診察を受け、会計を待つ間、テレビを見ていたら、強風のため東急目黒線・東横線は運転を取りやめているという。横浜に帰れないではないか!本日は神保町シアターで今井正監督の1955年作品『ここに泉あり』を見る予定であったのだが、いよいよその決心を固めて、神保町に向かう。都営地下鉄三田線は目黒折り返し運転をしているので、目黒で時間をつぶすということも考えられるが、神保町に出た方が選択が多様になるだろうと考えたのである。神保町の駅で降りたころには雨はやんでいて、日が差し始めていた。ランチョンで昼食、その後神保町シアターで入場券を買う。まだ開映までかなり時間があったのだが、朝の大雨の中を歩いた疲れのために、映画館のロビーでぼんやりして時間を過ごす。折角、書店街に出かけてきたのにもったいないが、ぼんやりと時間を過ごすという贅沢もたまにはいいだろう。(映画館の中でラジオの「入門ビジネス英語」の時間を聴いた。)

 『ここに泉あり』は神保町シアターの『生誕100年記念 宇野重吉と民藝の名優たち』の特集上映の一部で、戦後間もない時期に高崎市で結成された市民オーケストラの苦闘を実話をもとに描いた作品である。地方に音楽文化を根付かせようとアマチュアからプロへの転進を目指し、オーケストラのメンバーを集める井田亀夫(小林桂樹)の口車に乗せられて、東京からヴァイオリン演奏者の速水明(岡田英次)がやってくる。楽団員の水準の低さにあきれ返る速水であったが、楽団と行動を共にしているピアニストの佐川かの子(岸恵子)の才能(と美しさ)に引き寄せられて、次第にオーケストラの活動に情熱を傾け始める。(当ブログでは基本的に映画の結末までは書かないことにしているけれども、この映画は古い作品であり、最後の方まで物語を辿らないと論評できない部分があるので、かなり終りの方まで物語を追っていることをご了承願いたい。)

 地方で活動していては、刺激も少ないし、練習の条件も厳しい。自分の才能は伸ばせない。そういう悩みを抱えながらも、彼らは何とかオーケストラを発展させていこうとする。学校や施設をめぐって演奏会を開き、音楽の普及に努めるが経営は苦しい。中央の音楽家を招いて合同演奏会を開くが、かえって団員の自信を失わせる結果になってしまう。

 ストーリーは全く違うのだが、音楽活動における中央と地方の対立の問題を描いているという点で、旧ソ連の音楽映画『シベリア物語』を思い出してしまった。それぞれの地方に根差した音楽創造の可能性があるはずだと主張する点で、両作品は同じことを言おうとしているようであるが、『シベリア物語』が個人的なレヴェルで問題を描いているのに対し、こちらの方がオーケストラという集団のレヴェルで問題を解決しようとしているのは、注目してよい点ではないか。ロシアの豊かな音楽の伝統は我々にとって羨んでも手に入らないものであるが、戦後70年足らずの間に、日本の音楽界が演奏についても音楽の理解についてもロシアとの差を急速に縮めていることも実感してよいのである。

 相次ぐ困難に団員の気持ちがすっかり滅入ってしまい、楽団がいったん解散を決めて、最後の演奏に出かけた山奥の小学校での子どもたちの交流を通して、再起の決意を固め・・・というストーリーにそれほど劇的な展開はないし、本来的に言えば、そこからの再起の過程こそが映画の中で詳しく描かれるべきであると思われるのだけれども、そこが省略されてしまっている点に不満が残る。とはいうものの群馬県の各地を走り回り、炭焼きや樵の人々と交流する中で、次第に演目が変化していく(八木節や草津よいとこを演奏したり、「赤とんぼ」を演奏して子どもたちに歌わせたりするようになる)だけでなく、本当に1から音楽について説明し、理解を求めていくという姿勢が生まれていく過程が描きだされているので、その変化を読み取ることでより深い感動が生まれる。(ただ、この映画に描かれていたような山村の暮らしが今や姿を消してしまっていることも考えてよいことであろうと思う。)

 東京のオーケストラのマネージャーをしている河辺(十朱久雄)が、地方での活動を見下していて、井田に会っても相手にしない態度をとっていたのが、最後の方でオーケストラの実力を認めて自分の方から協力を申し出る。それに対して、井田がもう一つ自信が持てない様子であるというのが現実感がある。このやり取りでまだ若かった小林桂樹と十朱久雄の持ち味が出ていて、見ごたえがあった。また、音楽界から山田耕筰と室井摩耶子が本人の役で特別出演しているのが興味深い。

 最初のほうの場面では高崎線がまだ電化されておらず、蒸気機関車がひっぱる列車に鈴なりの乗客という情景が描かれ、その数年後になると電化されて、当時の特別2等車の車内風景が映し出されるという風に時代の変化を的確にとらえた描写がみられ、懐かしい気分にさせられる。実はこの映画が公開された前後、群馬県には何度か出かけているし、1956年に高崎駅を利用しているはずなのであるが、その時の駅の様子がどうであったのか、記憶がないのが情けないところである。

諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(11)

10月5日(日)雨、台風が接近している。大事に至らなければいいのだが…。

 第5章「キーワードは『多様性』と『リベラルアーツ』」では、著者の1人である鈴木さんが学長兼理事長である秋田県の国際教養大学の教育の特色と、それがこれまで上げてきた成果が誇示されている。鈴木さんは言う:「AIUは開学以来10年ほどですが、これほど早くこういう実績を上げられたのは、インターナショナル・リベラルアーツと、この「勉強をせざるを得ない」環境の成果だと考えています」(206ページ)。これを受けて、諸星さんは「こうした小さなリベラルアーツの大学が日本でもっともっと多くなってほしい・・・日本の大学の中で、実は7割以上の大学が1000人ほどか、それ以下の規模なんです。そういうところが、AIUのような小ささを生かした丁寧な教育をおやりになればいいのになあと思っているんです」(同上)という。要はやる気の問題だと言わんばかりであるが、問題はそれだけではない。

 鈴木さんは、アメリカのリベラルアーツ・カレッジの例を引き合いに出して、そういう大学がもっと増えればいいという。これは確かにそのとおりであるが、日本でなぜそうなっていないのかについてはやる気以前にもっと重要な問題があるのではないか。国際教養大学は、設置形態としては公立、教育内容としてはリベラルアーツ・カレッジとアメリカの一部の大学のいいとこどりをしているのだが、日本の小規模大学のかなりの部分が私立であって、丁寧な教育を実践していくための財政的な手立てがないというのが実情ではないか。このあたり、国際教養大学の大学財政についての実情をはっきり示して、他の大学の参考にするくらいでないと、ほかの大学が追随するということは起きないのではないかと思う。

 とにかく、鈴木さんの頭の中にはある種の固定観念があって、それ以外のイメージを寄せ付けないところがある。「全寮制で、24時間、生活自体がリベラルアーツなんです」((207ページ)。確かに、それは多くの可能性を秘めた高等教育の在り方ではあるが、それ以外のあり方を排除してしまっては困るのである。

 さらに、多様な人材を大学に集めるために、入学者の選考方法を変えていくことが提言されている。従来型の一発入試のために見落とされてしまう才能があるのではないかという議論は説得力があるが、できるだけ多様な人材を採用するというやり方が、新たな不公平を生みださないとは言えない。私が昔勤務していた学校で、ある先生が提起した問題であるが、旧制の東京物理学校(現在の東京理科大学の前身)は入試は易しいが卒業するのは難しいという学校であり、横浜高等工業(現在の横浜国大の工学部の前身)は入試は難しいが、入った以上それなりの実力があると認めて、試験を行わず全員を卒業させたという。現実に両方の卒業生を知っているのであるが、自分に合ったやり方の学校を選ぶことが大切で、結果としてみるとどちらの卒業生も有為な人材が多かったといえるのである。(どっちも理科系の学校であるというところが気になるのだけれども…) 

 入学者の選考を人物本位で行うという主張には賛成なのだが、人間だれでも欠点はあるので、そのあたりをどのように配慮するかが難しい。それに現実問題として、どこをとってもあまり取り柄がないような学生でも入学させなければ経営が成り立たない大学も少なくないのである。そのことは2人の著者も承知の上で、「中堅労働者の育成」というようなことを言っていたのに、この章になって急に調子が変わるのは読者に不信感を抱かせるだけである。最後に、企業の側にも採用のやり方の見直しを求めているが、インターンシップの活用など大学教育と企業での活動の溝を埋めていく努力を拡大していかないと単なる精神論だけで終わってしまう恐れがある。

 日本の中小(あるいは弱小)大学はリベラルアーツに主眼を置く、教育重視の大学として再生を図るべきであるというのがこの書物全体を通じて言われていることではないかと思うが、そうするためには財政的な裏付けが必要で、その点については何も触れられていないのが気になるところである。この書物では、アメリカの大学から学ぶべき点について力説されているが、すでに述べたようにアメリカ以外で優れた高等教育を展開させているオランダやスイスの事例からも学ぶべきものがあるかもしれず、さらに最近のアジア諸国の大学の躍進の原因、それと対照的な日本の大学の停滞の原因についても考えていく必要があるだろう。これらの点については、またこの書物についての論評を離れて、別の機会に論じるべきであるのかもしれない。1人1人の読者が大学についての様々な情報(特に数字)を集めて、それをもとにこの書物の議論を検討してくことは、かなり有益な作業になるのではないかと思う。その結果は必ずしも、2人の著者の結論に同意することになるとは限らないだろう。 

語学放浪記(43)

10月4日(土)曇り

 9月29日からNHKラジオの新しい語学放送番組が始まり、最初の1週間が終わろうとしている。その中で、「まいにちドイツ語」(入門編・応用編)、「まいにちフランス語」(初級編・応用編)、「まいにちイタリア語」(初級編・応用編」、「入門ビジネス英語」、「実践ビジネス英語」、「攻略!英語リスニング」の6番組を聴いていく予定である。今回から英語の番組を増やしたのは、2014年にいろいろなことを2014積み重ねていくという趣旨の一環として語学番組を聴いているが、これまでのところでは達成がおぼつかないので、数を増すために始めてみるというのが真相である。

 さて、前期の番組ではドイツ語、フランス語、イタリア語ともにCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)のA1(日常生活での基本的な表現を理解し、ごく簡単なやり取りができる)のレヴェルを参考にして作成しているという触れ込みであったが、後期になると(再放送が多いこともあってか)この断り書きがなくなっている。ドイツ語については、入門編が2012年4月~9月の再放送で「きっと新しい私に出会える”おとなな女”のひとり旅」、応用編が新作「黒猫イクラと不思議の森」で、前者は前期と同じレヴェル、後者は木曜日にドイツとオーストリアの歴史上の人物と黒猫イクラの対話、金曜日にその歴史上の人物についての関連する文献を読むという内容である。木曜日の対話はそれほど難しいとは思わないが、金曜日の文献を読む方は歯が立たない感じである。

 フランス語の月曜日~水曜日の番組は2013年4月~9月に放送された「Pas à pas~転ばぬ先のフランス語入門」の再放送で、すでに聞いたことがある。「初級編」となっているが、だいたいフランス語の番組は「入門編」ではなく「初級編」と銘打っていることが多いので、前期の「入門編」よりも格段に難しくなったという感じはない。「応用編」は新作で「ファッションをひもとき、時を読む」は、12月までの放送の予定だそうで、ファッションには興味はないが、すでに述べたように映画の話が出てきたりして、聞きごたえがある。10月3日の放送ではジャック・ベッケル監督の『偽れる装い』(1945年)に言及されていて、講師の芳野さんが端倪すべからざる映画愛好家であることの一端を見せられたような気がした。私はジャック・ベッケルが好きなのだが、この作品は見ていないのである。

 イタリア語の初級編「サンタとグイードの物語」は2013年10月~2014年3月に放送された番組の再放送で、こちらはその名の通りの初級編で、入門編を聞いていないとついていけない内容である。ごく最近に聞いていた番組なので、かなりの部分を理解できるが、そう思って油断しているとろくなことはないので、気を引き締めて勉強していこうと思っている。応用編の「インタビューで学ぼう! イタリア語」も2014年1月~3月に放送された番組の再放送で、こちらはかなり苦労させられた記憶があるが、何とか頑張ってついていこうと思っている。

 以上3言語について、応用編は例によってかなり難易度にばらつきがあり、CEFRで言うとA2(日常生活での身近な事柄について、簡単なやり取りができる)からさらにもっと上までいろいろ提供されてきて、正直まごまごすることがあるのだが、これまで通りその中ではフランス語に力を入れて取り組んでいこうと思っている。

 英語については、上記3言語と違って市販されているテキストにその番組のCFERのレヴェルがはっきり記されていて、「入門ビジネス英語」はB1(社会生活での身近な話題について理解し、自分の意思とその理由を簡単に説明できる)、「攻略!英語リスニング」がB2(社会生活での幅広い話題について自然に会話ができ、明確かつ詳細に自分の意見を表現できる)、「実践ビジネス英語」がC1(広範で複雑な話題を理解して、目的に合った適切な言葉を使い、論理的な主張や議論を組み立てることができる)ということである。こうやって3つの番組を聴いていると、だいたい自分の実力が分かるから恐ろしくもあるのだが、そんなことを言わずに努力を重ねるべきであろうと思っているところである。

 私の場合、4言語それぞれ学習歴があるから、復習という意味で番組を聴いているのだが、新しく始めようという方は、どれか1つ、あるいは英語ともう1つの言語というふうに、対象を絞っていく必要があるだろう。過去の経験から、最初の1週間は聞かなくても何とかなるから、これからでも間に合うと思う。英語をさらに勉強しようという方は、御自分のレヴェルを見極めて適切な番組を選ぶことが重要だが、連続する2つか3つのレヴェルの番組を聴いてもいいのではないかと思う。特に聞き取りについていうと、何度か聞いているうちになんとなくわかってくることがあるから、1度聞いただけの印象であきらめないことも大事である。

諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(10)

10月3日(金)晴れ
 
 第5章「キーワードは『多様性』と『リベラルアーツ』」の続きの部分をみていく。鈴木さんは「20世紀の産業社会では、大量生産に適する同質の人材を輩出する必要がありました。それには、今の一般の大学のような専門学部を持つシステムが合っていたのでしょう。私はそういう『専門学部による均一性のある専門知識の育成』をすでに説明したように『人工植林型』教育と呼んでいるのです。…社会科学系の学部卒ならば銀行とかサービス業、自然科学系の学部卒ならばメーカーというふうに最初からコースを決められて育成され、そして終身雇用制の中で単線型の人生を歩む人が多かった」(194ページ)。これを受けて諸星さんが「しかし、時代は価値観が多様化し、グローバル化が進むという様相を呈するようになってきました」(同上)という。さらに鈴木さんが引き取って「そういった多様化が進むとともに、通信・情報技術の驚異的な発達によって『自分のいる場所が世界の中心になる』という現実があります」(同上)と変化の性格を要約する。現代の大学を取り巻く環境の変化をこのようにまとめてよいのかということに疑問を持つ方もいらっしゃるだろうと思う。

 すでに何度か指摘してきたように、この本は学生を送り出す大学人の側から書かれており、大学を受け入れる側の企業の意見がほとんど反映されていない。学生の就職をめぐる統計的な事実の具体的な分析もされておらず、すべての議論が対談者の普通よりは広いかもしれないが、個人的な経験と印象とから導き出されている。例えば、価値観が多様化したということが強調されているが、昨今の日本社会の「右傾化」の傾向をどのようにみるのか、それに対抗する言説が何か抑圧されているような印象がある中で、「価値観の多様化」ということができるのであろうか。

 とにかく、「個人vs世界」という構図の中に自分がいることを学生たちに認識させて、強い個人を作り上げることがこれからの大学の使命だと論じる。そのためには、従来の「人工植林型」ではない、「雑木林型」の教育が必要であり、リベラルアーツ重視の教育こそがそのような要請にこたえるものだと論じている。その際に特に「異文化理解の世界を踏まえた外国語のコミュニケーション能力が不可欠」(鈴木、197ページ)であるという。「異文化理解の世界を踏まえた外国語のコミュニケーション能力」というのは日本語としてこなれていない表現であるが、異文化への理解を促進するような世界に開かれたコミュニケーション能力ということであろうか。そのために「明日の日本を担うリーダーには母語、英語、それに加えてもう1つの外国語を学ぶ『3言語主義』が求められる…。そして、こうした21世紀の知的基盤社会にふさわしい学識と道義、発信力を、私たちは国際教養、インターナショナル・リベラルアーツと呼んでいる」(鈴木、197-8ページ)ともいう。これまで、一般の大学について、あるいは「中堅労働者の育成」について論じてきて、第5章に入って風向きが変わって、「明日の日本を担うリーダー」の話になってしまっているのもご都合主義である。それから、3言語主義というが、それぞれの言語についての目標が明示されないと、結局現在の日本の大学の第2外国語までを必修とする教育と同じことになってしまう。(これまでも書いてきたが、私は第2外国語必修には反対である。できるもの、やる気のある者だけが、第2外国語以下を学ぶべきで、しかもそれは、勉強したいと思った時にいつでも勉強できるというシステムにすべきである。)

 諸星さんは「グローバル化の中での科学や技術革新、イノベーションの進化や変化は、私たちの予測をはるかに超えるスピードで進んでい」(199ページ)るという。(どうでもいいが、もともとイノベーションの訳語として「技術革新」という言葉ができたのではなかったか? イノベーションは技術に限定されないものであるから、この言い方でも問題はないかもしれないが、技術や社会システムのイノベーションくらいの表現のほうがより適切だと思う。) そこで、従来型の教育を受けた人間ではついていくことができず、高度な教養教育で鍛えられた人材が必要になるのだというのである。

 ここから話は具体的になり、秋田の国際教養大学では「1年間の海外留学」を学生全員に義務付けていること、アメリカの大学とカリキュラム評価の相互協定を結んで教育内容の水準確保を図っていることなどが紹介される。特にこの大学の人里離れたところで集団寄宿生活を行うという「学内擬似留学」が効果的であるという。それはそれとして結構なことであるが、その一方で、すべての大学がこのような教育を行うように切り替えることはできないだろうし、またそうすべきではないだろうということも言える。その点について顧慮していないこと、また自分の大学のもっと具体的な教育の中身については紹介していないことなどにこの対談の限界を感じるのである。

 限界といえば、リベラルアーツを学び、その精神を身に着けたということになると、自分とは違う意見を受け入れ、そのことによって新しい意見を作り出していくことができるようになるはずであるが、諸星さんと鈴木さんは同じ方向を向いて同じようなことを話しており、お互いに対立する点がない。むしろ別の意見を持っている人と話し合って、自分の意見をもっと奥行きのある、現実に即したものに作り替えていく努力も必要であったのではないかという気がする。前回の終わりに、あと1回で終わらせたいというようなことを書いたが、まだ終わりまでたどり着かないので、さらに連載を続けることにすることをお許しいただきたい。
 

諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(9)

10月2日(木)曇り

 この書物の第5章は「キーワードは『多様性』と『リベラルアーツ』」と題されている。大学が困難に直面する中で生き延びるための鍵がこの2つの言葉に込められているというのである。

 初めに、諸星さんが鈴木さんが理事長兼学長を務めている国際教養大学について、「これからのグローバル化に対応する人材育成には、『雑木林型』教育が必要だとのご指摘ですが、その方針のもとでますますグローバル人材育成の成果を上げようとしているのが国際教養大学です」(188ページ)として、その教育の方針と、これまでの成果について質問している。これに対して、鈴木さんはまず「大学名にもなっている『国際教養――インターナショナル・リベラルアーツ』こそ、この大学のミッションであり理念であるわけです」(189ページ)と答えて、大学の教育についてさらに具体的に述べている。「キャンパスが秋田市とはいえ、人里離れた森の中にありますし、そこに寮もありますから、勉強と日常生活が完全にリンクしています。大学は勉強が基本であり勉強がすべて。ここでは環境的に遊びには向きませんから、学生たちはよく勉強します。学生の本分を尽くしていると言えるでしょう。教員だけでなく、職員も英語で留学生に対応している。そういう国際的な雰囲気が印象的でした」(192ページ)。気になるのは、最後の一言、「雰囲気が印象的でした」と、他人事のように述べているところで、「雰囲気があります」となぜ自分のこととしていっていないのか、ということである。この大学のモデルとしてアメリカのリベラルアーツ・カレッジが念頭に置かれていたようで、「東京や大阪のような大都会の中、あるいは都会の近くにキャンパスがあったら、こういうユニークな教育をしても効果は薄かったかもしれません。アメリカのリベラルアーツの大学は、都会を離れたところで寮生活をしながら少人数教育を行っていますが、それに近いのでhないかと自負しています」(1192ページ)とも述べている。ただ、寮生活がどのようなもので、昔の旧制高校のような寮生の自治が認められているのか、寮生活に不適応を起こすような学生が出た場合の準備もできているのだろうかというような点についても触れておく必要があるのではないかという気がする。

 鈴木さんはさらに、「リベラルアーツ」(自由学芸)ということについて、「古代ギリシャの教育原理である『自由な人間になるための全人的な技芸の習得』に由来しているのですが、自分自身を自由にする『リベラル』と、その上で新しい自分を作っていくための技芸『アーツ』を合わせて「リベラルアーツ」と呼んでいるわけです」(193ページ)と説明する。この説明は多分、誰かの受け売りだと思うので、その出典を突き止めるまで論評するのを避けておきたいが、リベラルアーツというのが自由人のための教養であったというのはその通りである。ただ、ギリシャの場合、自由人というのは奴隷と区別されて生れつきのもので、自由人はもともと自由人なのであり、ある程度の財産とか教養を身につければもともとは奴隷であっても自由な市民になれるというのはローマの制度であったのではないかと思う。ただ、これは議論の展開とはあまり関係がない話であるかもしれない。

 諸星さんは「日本の大学教育は特にそうでしたけれど、長い間、高度な教養をベースした『大きな人間』を作る教育よりも、専門学部で専門知識を蓄えた『すぐに役に立つ人間』をつくることに傾注していました。そして、それが正しいと思い込んでいました」(193ページ)という。これはもう少し実証的な限定をつけなければ成立しない話で、日本の大学、特に国立の古い大学は工学部を中心に殖産興業を意図した人材育成のための定員を多く設けてきたが、これはアメリカの州立大学の多くの部分と共通することであって、近代化の過程では当たり前のことである。また日本では旧制高校が教養主義的な教育を行ってきた伝統があり、それがその後の日本の歴史においてプラスに働いたかマイナスに働いたかについての論争が展開されてきたことも見逃せない。リベラルアーツというが、ヨーロッパの伝統的な自由学芸を批判的に継承してアメリカの大学のリベラルアーツが出来上がってきたわけで、日本においてもその中身についてきちんと議論をしていかないと、シェークスピアを原文で読めるけれども、源氏物語は読めないなどという人間が出来上がる恐れがある。

 鈴木さんは「世界がなぜ、古代ギリシャ以来2500年を経て、再び『教養教育』『全人教育』に向かっているのか、ということです。それは21世紀のグローバル社会が、知力、体力、倫理観など豊かな精神性なども兼ね備えている、いわば『全人力』を身に付けた人材を求めているからです」(194ページ)といっているが、なんとなく空々しい。現実にグローバルな規模で活躍している人々がどこまでそういった「全人力」を身につけているかを考えれば、わかることではないかと思う。

 以前、大学問題の専門家である先生と話をしていて、私が大学というのはある程度文明が発展してくればどのような社会においても見られるものではないかといったところ、そうではなくて、ヨーロッパの中世に源をもち、大学としての自治と学問の自由を守っている機関だけが大学の名に値するのだと言われて、大いに恐れ入った記憶がある。グローバルとか、ギリシャとか、目をくらますような言葉や概念を使って、大学が守り育ててきた根本的な理念を掘り崩すような議論を展開するのであっては困るのである。リベラルアーツの理念は大事なことであるが、その担い手の自治や自由についての考察も必要であろう。諸星さん、鈴木さんの議論とは逆に、大学とは別のもっと専門的な教育を行う高等教育機関を充実させることが必要であるという議論を展開する論者もいるので、仲間内での談笑も結構であるが、専門教育を推進すべきだという議論を展開している人たちとの真剣な対論も行っていく必要があるのではなかろうか。

 今回で、この本の紹介を終わらせるつもりだったが、終りまでたどり着くことができなかった。次回は、さらに残りの部分を論評し、この書物に対する私なりの意見もまとめていくつもりである。 
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