志村五郎『数学をいかに教えるか』

10月1日(水)小雨が降ったりやんだり

 9月30日、志村五郎『数学をいかに教えるか』(ちくま学芸文庫)を読み終える。昨日の「日記抄」でも取り上げたが、書き落としたことが多いので、改めて取り上げることにする。著者はプリンストン大学で数学を教えていたほどの数学者であり、数学教育についての著作なので、専門的な内容にわたる部分もあり、そういうところは全く歯が立たなかった。その一方で、教育一般や日本の伝統文化についての鋭い洞察を示している部分があって、感心させられた。ここではもちろん、専門的でない部分を紹介しながら、若干の感想を書き添えることにする。

 私が最初に就職した学校で懇意にしていた数学の先生が大学院時代の数学の授業について、こんな思い出話をしていた。先生が黒板に数式をどんどん書いていくのをノートに書き写していたら、そのうち誰かが、先生、そこの計算が間違っていますと指摘した。すると、先生があっ、そうだといってまたどんどん書きなおしていく、それで時間がつぶれてしまったという。どうも大学の数学の授業はすごいものらしいと思った。というのは私自身は高校時代に数学ができなかったから文科系に進学したという経緯があって、大学で数学というものを一切勉強しなかったからである。せいぜい、何かの折に、森毅先生のところに出かけて、学生の自発的な文化活動についての先生のご意見をうかがおうとしたのだが、先生が学生運動の話ばかりされているので、変な先生だねぇと思った記憶があるくらいのものである(先生は訪問者に対してサーヴィスをしているつもりだったのであろうが、こちらはその親ごころに気付かなかったということらしい)。
 その後、ある地方大学の教育学部に就職してびっくりしたのは、教室の前面だけでなく、壁という壁に黒板が取り付けてあったことである。これは学生が教職についた時に備えて、板書の練習をするためであるという説明であったが、数学の授業などの場合は、やはり教師がどんどん数式を書いていくので、黒板がいくつあっても足りなくなるという話も聞いた。板書というのは時間がかかるので(時間稼ぎにはいいのだが)、私は板書をできるだけ省き、その分、プリントを準備するやり方をとっていた。
 志村さんは授業中にまずいところがあることに気付いたり、わからなくなったりして立ち往生したときに備えて、講義を2回分準備しているという。「そして教室でまずいところに気がついたら、ここはこの次やるといってその先をやればよい」(31ページ)という。授業中にまずいところがあることに気付いたり、わからなくなったりするのは、その授業の内容に新しい内容を開拓する、創造的な部分が含まれているからである。その創造性について、「創造性を養成することができるなどと思わない方がよい。創造性などというものはほとんど人の生れつきのものであって、教育の仕方などではどうにもならないものである。もっとも創造性を重視する環境をつくるぐらいのことはできるだろう。『学問的好奇心』も似たような性格がある」(37ページ)という。
 高校時代に古文で阿弥号についての知識を得て、仲間内で結構「~阿弥」などというあだ名をつけ合って喜んでいたのだが、その後、時宗が日本文化に与えた影響についての知識が増してきて、それが1人の研究者が一生をかけて追求していくだけの価値のある主題であることに気付いた。桜井哲夫さんの本を読んで(9月24日付の当ブログに紹介している)そんなことを感じたのだが、未解決の問題や、今後重要性をもつであろう問題を示して、生徒たちの好奇心を刺激するような教師の働きかけも必要であろう。これはどの学問領域でも同じことではないかと思う。

 志村さんは童謡の中で、「昔丹波の大江山、鬼共多くこもりいて、都に出ては人を喰い、金や宝を盗み行く、源氏の大将頼光は、時の帝のみことのり、お受け申して鬼退治」(137ページ)というのが好きだそうである。歌詞よりも、行進曲風のリズム感が気に入っているのだそうだが、この歌には私も思い出がある。大学時代に人文地理を教えられていた藤岡謙二郎先生が講義中にこの歌をしばしば口に出される。どういう文脈であったのかはわからないが、歌の初めのところだけは覚えている。学習などというのはそういうもので、先生が本当に伝えたいことはなかなか伝わらず、末梢的なところだけを覚えている。そういう学習者がまた教師になって、自分の経験を忘れて、講義をして、そのまた学習者が末梢的なところだけを記憶する。一体、文化はどのようにして伝達・継承されてゆくのであろうか…。
 さて、この歌に「時の帝」とあるのは、どなたのことかというと、一条天皇である。源氏物語を読まれて、この作者は日本紀に通じているのであろうと言われたので、紫式部が一時「日本紀の局」と呼ばれるようになったと『紫式部日記』に記されているのは有名である。この場合の「日本紀」というのは、特定の書目をさすのではなくて、宮廷の故実とか行事という意味で言っているのだと思うのだが、確かなことは知らない。しかし、この天皇の時代のわが国は文運大いに栄え、後世の人々から聖帝とたたえられてきた。(だからこそ、その御代に鬼が出てくるというところに、酒呑童子の物語を生み出した中世人たちの奥深い歴史認識がうかがわれるのである。しかし、経済でも軍事でもなく文学の花が開いた時代を理想の時代とする考えは、ぜひ後世に伝えたいものである。) 

 書物の内容を紹介・論評するというよりも、本をきっかけに思いだしたことを書き連ねる文章になってしまった。昨日の「日記抄」に書いたように、著者がいろいろな人の思い出や、印象を語った部分に見るべきものがあるので、それにつられた形になったということで大目に見ていただきたい。なお、昨日の記事で、志村さんが旧制姫路中学(現在の姫路西高校の前身)⇒一高の出身で、和辻哲郎と同じコースを歩んだと書いたのは間違いで、志村さんは旧制東京府立第四中学(現在の戸山高校の前身)の卒業生であった。私の伯父の1人が入学したものの、そのスパルタ教育についていけずに脱落した学校である…というようなことを書いていくと、キリがないので、この辺でやめておくことにしよう。
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