2014年の2014を目指して(9)

9月30日(火)晴れ

 9月はずっと横浜で過ごした。1月からの通算では東京で過ごしたのが176日、横浜で過ごしたのが97日ということである。新たに、鎌倉市に出かけ、横須賀線に乗り、鎌倉駅、品川駅、市ヶ谷駅、黄金町駅を利用した。

 この記事を含めて32編の記事を当ブログに投稿している。内訳は読書が21、日記が6、映画が3、推理小説と外国語がそれぞれ1ということで、今月は詩を掲載できなかった。書いてはいるのだが、人様にお見せする水準に達しなかったというのが悔しい限りである。記事に対していただいたコメントは6件、また自分で3件のコメントを書いている。トラックバックは1つであった。これまでのところ283の拍手をいただき、その中に5件のコメントが添えられていた。

 14冊の本を買い、10冊の本を読んだ。1月からの累計では118冊の本を買って、90冊を読んだことになる。一応、1月10冊のペースは守っている。読んだ本の題名を列挙すると:金子拓『織田信長<天下人>の実像』、田丸公美子『シモネッタのアマルコルド』、近藤史恵『タルト・タタンの夢』、今野真二『「言海」を読む ことばの海と明治の日本語』、桜井哲夫『一遍と時衆の謎 時宗史を読み解く』、網野善彦『中世的世界とは何だろうか』、須賀敦子『雲のむこうに住みたい』、椎名誠『本日7時居酒屋集合! ナマコのからえばり』、堀啓子『日本ミステリー小説史』、志村五郎『数学をいかに教えるか』である。

 9月に観た映画は5本で、『わが闘争』、『つむじ風』、『バナナ』、『水の声を聞く』、『祖谷物語 おくのひと』と全部日本映画である。1月からの観た映画の合計は50本、今月新たに出かけた映画館というのはない。

 鎌倉の神奈川県立近代美術館別館で「ベン・シャーンとジョルジュ・ルオー」、横浜のFEI ART MUSEUMで第3回版画公募展の入選作品展を見ている。ルーテル市ヶ谷ホールで別府葉子シャンソンコンサート2014を聞き、ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の横浜FC対大分トリニータ戦を観戦している。これで観戦したサッカーの試合は3試合となった(例年に比べるとかなり少ない)。

 NHKラジオまいにちドイツ語、フランス語、イタリア語の時間をそれぞれ22回聴く。9月26日に2014年度前半の番組が終わり、29日から新しい番組に入っている。この機会に入門ビジネス英会話の時間を聴きはじめ、2回を聴いている。10月からは実践ビジネス英会話の時間も聴くつもりである。

 カルチャーラジオ『聖地エルサレムの歴史』を4回、『生誕450年 シェークスピアと名優たち』を4回聴いている。前者は1回分を聞き逃している。

 ノート2冊を使い切り、万年筆のインク・カセットはウォーターマンを7本、パイロットを1本使い切っている。そのほかにスティックのり1本を使い切った。

 酒を飲まなかった日が8日ある。このところ、飲酒量は減らしているが、酒を飲む日が増えてきているのが問題である。

 10月は動き回ることで数字を動かしていきたいと思うが、さて、どうなるか。
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日記抄(9月24日~30日)

9月30日(火)晴れ

 9月24日から本日にかけて経験したこと、考えたことから:
9月24日
 テレビ朝日の「マツコ&有吉の怒り新党」で、最近の新しい歌が覚えられなくなったという投書が取り上げられていた。新しい流行にだんだんと興味がなくなっていくのは、老化現象の1種であり、まあ仕方がないことではある。番組の中で、有吉だったか、どちらかの出演者が、ちあきなおみさんの決定版CDなんて言うのが出ると、買ってしまうと発言していて、私も買ったことを思い出した。いずれ高い値がつくのではないかなどとあさましいことを考えていたのだが、そうはならなかった。何度も何度も同じようなCDが発売されたことも影響しているようである。江利チエミさんのCDの方が高く売れたし、それ以上にエノケンのCDが高く売れたのにびっくりした。逆にキャンディーズはただ同然であった。インドネシアのクロンチョン音楽にひところ凝って、ヘティ・クース・エンダンのCDを相当数買ってまだ持っているのだが、こういうのは人によって評価がかなり違ってくるのだろうと思う。

9月25日
 NHKカルチャーラジオ『文学の世界』『生誕450年 シェークスピアと名優たち』の放送が終わる。シェークスピアの作品が非常に雑多なものを含み込んでいて、演じられる時代や場所の条件を考えた様々な解釈が可能だということがその人気の理由の一つだというのはよく分かる。では、同じ時代のスペインの黄金時代の演劇と比較して、どうだったのかということもちょっと言及してほしかったというのは、欲張りすぎだろうか。

9月26日
 この日、NHKまいにちドイツ語、フランス語、イタリア語のそれぞれの応用編の番組の区切りがつく。特に保阪良子先生の『言うが花のドイツ語 Wer spricht, gewinnt』が大いに勉強になった。先生(といっても、こちらより年少だろうが)の写真で見る容姿が、大学院に入ったころにフランス語を習ったO先生を思い出させ、語学の先生には共通するタイプなのかなぁなどと、関係のないことばかりを考えているのである。

9月27日
 木曽の御嶽山の噴火で多数の登山者が被害に遭われているというニュースが飛び込んできた。私が京都で下宿していたころ、近くに御嶽教の建物があったことを思い出す。御嶽山は信仰の山でもあるのである。神意は測りがたいものであるとはいうものの、噴火に遭遇された方々の無事と一刻も早い救出を祈るものである。
 報道によると、英語教育の改善策について検討している文部科学省の有識者会議が小学5年生から英語を正式な教科として教えることを盛り込んだ報告書をまとめたということである。私は小学校4年生の時から英語を勉強しているが、英語を自由に操ることはできない。そのためかどうかは知らないが、私が小学校から英語を勉強してきているという話を信じる人はあまりいない。
 今回の報告書は「アジアトップクラスの英語力の育成」を目指すなど、日本人の英語力と英語教育の現状を踏まえた提言が目立つ(つまり、現状においては、日本人の英語は「アジアトップクラス」ではないということである。そのトップクラスではない英語力でアジア規模の国際会議に出ていた私としては大いに内心忸怩たるものがある)。それだけに今後の英語教育をめぐる施策の展開が注目されるし、できる限りで協力を惜しまないつもりではある。
 とはいうものの、小学校で英語を勉強し始めるということについて、あまりその効果を期待しすぎない方がよい。子どもが将来、どの程度英語を必要とするかはそれぞれの子どもの進路によって違ってくる。子どもたちがすべて国連の同時通訳にあるわけはないのである。初等教育、特に日本の小学校教育は、子どもたちに平等に均質の知識を与え、技能を育て、理解を培うことを心掛けてきた。そういう意味では、英語は小学校教育に必ずしもふさわしい教科ではない。小学校5年から英語を始めるよりも、小学校を1年か縮めて、中学校の教育を早める方が適切であるかもしれない。

9月28日
 御嶽山の噴火は依然として続き、救出活動は難航しているようである。遭難された方々の無事を祈る。

 土井たか子元衆院議長の訃報が届いた。どのくらい前のことだろうか、私が暮らしていた地方で県知事選挙があり、応援演説にやってきたのを見物に出かけたことがある。まだ60代であったはずで、年よりも若く見えるという印象があった。阪神ファンとして有名で、初当選したときに、甲子園球場に特別に入場させてもらって、この球場をいっぱいにするだけの人たちが私に投票してくれたんだと感慨にふけったというエピソードがある。政治は抽象的な理念だけではダメで、具体的な、人の顔が見えるものでなくてはいけない、ということが分かっていた人だったと思う。そういう意味で、亡くなられたのは残念である。

9月29日
 NHKラジオまいにちドイツ語、フランス語、イタリア語の新しい番組が始まる。朝、起きるのが遅くて、7:45からのイタリア語の番組だけやっときくことができた(これは昨年の10月から今年の3月まで放送された「初級編」の再放送である)。午後になってフランス語とドイツ語の時間を聴いたが、睡魔を振り払うのに必死であった。語学と付き合っている限り、不眠に悩まされることはなさそうである。
 今季から入門ビジネス英語、実践ビジネス英語も聴くことにした。ラジオ英会話の時間も時々耳にしているのだが、私が英会話の時間を聴いて自分に比べて、内容が高度になっているのではないか、その分、日本人一般の英語力が向上しているのではないかと思ったりする。そのような英語力の向上が国内および国際社会に対してどのような影響力をもってくるのかも興味あるところである。

9月30日
 志村五郎『数学をいかに教えるか』(ちくま学芸文庫)を読み終える。プリンストン大学をはじめ、日米の大学で数学教育に携わってきた著者が数学、それに英語の教育はどうあるべきかについて考えていることを記している。著者はゆとり教育に反対で、その主唱者である作家で文化庁の長官でもあったM氏についてぼろくそに論評しているところが興味深い。特にM氏がザルツブルクでモーツァルトの『魔笛』を見て一知半解の感想を述べたエピソードを取り上げて、彼の似非文化人ぶりを余すところなく暴露している個所が痛快である。
 志村さんが旧制姫路中学⇒一高の先輩である和辻哲郎や、一高時代のドイツ語の先生である竹山道雄に対して、特に2人の外国語もしくは外国文化に対する姿勢について、どこか批判的な姿勢を示しているところも、深く考えてみる必要があるのではないかと思っている。 

『太平記』(12)

9月29日(月)晴れ

 後醍醐天皇による倒幕の計画が露見し、謀議に加わった僧侶・公卿たちが処罰・処刑されただけでなく、鎌倉幕府による追及の手はついに天皇とその皇子たちに向かってきた。

 嘉暦2年(1327年)に奈良の興福寺で内紛が起き、関係する建物だけでなく、寺の主な建物のほとんどが焼失してしまった。また元弘元年(1331年、史実では2年だそうである)に比叡山で火災が起きて、東塔と西塔の少なからぬ建物が灰燼に帰した。何か良くないことが起きる前兆ではないかと人々が心配している中で、同じ年にはさらに大地震が起きた。朝廷につかえて占いを行う人々が占ってみると「国王位を易(か)へ、大臣災ひに遭ふ〕という結果が出る。近いうちに想像もつかないことが出来するかと人々は恐れおののいていたが、そうこうするうちに鎌倉からの2人の使者が3,000余騎の弊を率いて上洛するという情報が入り、事情は不明なまま、都の近くの武士たちも集まってきて、都は不穏な空気に包まれた。

 2人の使者が京都に到着して、まだ幕府の意向をはっきり伝えようとする前に、どのようにして情報が漏れたのかわからないが、このたびの鎌倉幕府からの使者の上洛は、天皇を遠国に移し、大塔宮を死罪にするためであるという情報が比叡山延暦寺に知らされてしまった。それで8月24日の夜に、比叡山の大塔宮からひそかに後醍醐天皇のもとに使いが送られ、天皇に次のように進言した。鎌倉の使いの趣は、内々に聞くところでは、天皇を遠くに流刑し、大塔宮を死罪にしようとするものである。今晩、すぐにならの方に潜行されるべきである。その間の時間稼ぎとして、幕府の使いの目を欺くために、側仕えの1人に天子の称号を許して、比叡山に登らせ、天皇は比叡山に行かれたと発表すれば、敵軍は比叡山に向かって合戦を行うことになるだろう。比叡山の僧兵たちは自分たちの山を大切に思うゆえに、必死で防戦するだろう。幕府側が攻めあぐねて、数日間がたつうちに、伊賀、伊勢、大和、河内の朝廷に心を寄せる武士たちが京都に攻め寄せるだろうから、幕府側も引き返さざるを得なくなるだろう。幕府軍を亡ぼすのにそれほどの時間がかかるとは思えない。今はこの作戦を取るしかないと申し送られた。これを聞かれた後醍醐天皇は「ただあきれさせ給へる(途方に暮れる)ばかりにて、何の御沙汰にも及ばせ給はず」(116ページ)。

 そうこうするうちに、尹大納言師賢、万里小路中納言藤房、その弟の季房など数人のものが宿直のため近くにいたのを呼び寄せて、相談を持ち掛けると、藤房卿が「逆臣、君を犯し奉らんとする時、暫くその難を避けて、還つて国を保つは、前蹤皆佳例にて候ふ」(116ページ)と中国の故事を引いて、進言に従うことを勧める。本当にこういったのかどうかはわからないが、藤房が賢明で決断力のある人物として描かれていることは注目しておいてよい。そして、夜ももう遅いのでと、天皇が乗られる牛車を女車のように偽装し、御所を出ていく。警備の武士たちが問いただすと、中宮が実家である西園寺家に夜ひそかにお帰りになるのだと言いつくろって無事脱出する。こういうこともあろうかと心の準備ができていたのであろうか、源中納言具行、按察使大納言公敏、六条少将忠顕が三条河原で追いつく。
 ここで怪しげな張輿に乗り換えられることになったのだが、輿を舁くものがいないので、随行していた中で身分の低いものが舁くことになる。付き従う公卿たちは皆、衣冠を解いて、折烏帽子に直垂を着て、奈良の七大寺詣でをする青侍たちが女性を護衛しているという風に偽装して進んでいく。木津の石地蔵、現在の京都府木津川市山城町の泉橋寺を過ぎたあたりで夜が明けた。ここで朝食をとり、奈良の東南院という寺に到着した。

 東南院の聖尋僧正は天皇に忠義の心をもつ僧であったので、このことをすぐに表ざたにせず、奈良の僧侶たちの様子をうかがってみたところ、東大寺の十二院家の1つである西室の顕宝僧正が北条氏の一族で権勢をふるっていたので、他の僧侶たちが天皇に味方する様子もなく、奈良に皇居を設けるのは危険であるという判断をする。そこで京都府相楽郡和束にある鷲峰山金胎寺(こんたいじ)に行幸されるが、あまりに山深いところにあるので、同じ相楽郡の笠置山に移られた。

 一方、尹大納言師賢は三条河原まで後醍醐天皇に同行したが、大塔宮の献策により天皇の身代わりを立てるということになって、九条河原東にあった法性寺で天皇のお召し物を着用し、玉飾りのある天皇のための輿に乗って比叡山へと向かった。『太平記』にいくつかの異本がある中で、流布本では法性寺ではなく、岡崎にあった法勝寺となっているそうである。常識的に考えれば、九条まで歩いてまた北に引き返し、比叡山に上るのは大変で、法勝寺で北に向かうほうが楽である。しかし、師賢には後醍醐天皇とできるだけ長く一緒にいたいという気持ちがあったのかもしれないし、都の中を長く歩く方が敵の目を欺くのに都合がいいという計算も働いたのかもしれない。四条中納言隆資、二条中将為明、中院左中将貞平らがこちらは衣冠を正しく着用して、天皇の供奉にふさわしい様子に見せている。

 比叡山の西塔の釈迦堂を皇居として、天皇が比叡山に臨幸されたと発表したので、延暦寺、鎮守の日吉社だけでなく、大津をはじめ、周辺の地域から大勢のものが集まってくる。比叡山の中にも幕府に心を寄せるものがいて、六波羅に情報が伝わり、六波羅の2人の探題もこれを聞いて驚き、御所に出かけるともぬけの殻である。そこで比叡山を攻めようと山の西側に5千余騎、東側に7千余騎の軍勢を派遣する。比叡山の側では大塔宮を中心に約6千人が守りを固める。相違を脱ぎ捨てて鎧兜に身を固める。「垂迹和光の砌(みぎり)、忽ちに変じて、勇士守禦の場となりぬれば、神慮もいかがあらんと、測り難くぞ覚えたる」(122ページ、仏が威徳を和らげ隠し、神として現れて衆生を済度する場所であるはずの日吉社が勇士たちが防備を固める場となったので、神慮はどのように及んでくるのか予測しがたいものと思われた)と、作者は多少の不安を交えて合戦前の状況を記している。

 この段階で、幕府の政治に不満をもつ人々は多いが、その勢力を恐れて行動に立ち上がろうとしていないものが大半であることが見て取れる。大塔宮の戦術は、味方となるべき人々の数を過大に評価しているところがあり、後醍醐天皇が奈良に皇居を構えることができなかったことからもそれは明らかであるが、その一方で彼だけが現実的な作戦を立てたということも否定できない。次回は、比叡山をめぐる攻防についての『太平記』の語りを見ていくことにしたい。

須賀敦子『霧のむこうに住みたい』(2)

9月28日(日)

 『神曲 地獄篇』第10歌を読みなおしていて、ダンテがウェルギリウスに話しかけるトスカーナ方言に、ダンテと同じくフィレンツェの人で、今は地獄の住人になってしまったファリナータが反応する個所がある。北イタリアの出身でローマの黄金時代の詩人であるウェルギリウスにダンテのトスカーナ方言が通じるかどうかのほうが問題なのだが、そんなことを気にしていたら叙事詩は書けないということであろう。

 須賀さんの『霧のむこうに住みたい』に収められているエッセーの一つ、「フィレンツェ、急がないで、歩く、街」にはフィレンツェの方言の特徴が捉えられている。「ひょいと入った裏通りにならんだ、家具の修理工房。職人さんが、白くなった安全靴をはいて、仕事をしている。若い見習いが、カの発音ができなくて、ハと言ってしまうフィレンツェ弁で、親分にどなり飛ばされている。あたりはニスやら絵具やらの匂いでいっぱい。」(77ページ)
 へえ、そうなのか、ダンテの時代のフィレンツェの方言と、現代のそれとが全く同じというわけではないだろうが、どこか似ているところはあるのだろうと思う。
 またエッセーの終わりの方ではフィレンツェには「持って帰りたい」ものがいくつもあると列挙して、「何世紀ものいじわるな知恵がいっぱいつまった、早口のフィレンツェ言葉」(81ページ)を含めている。ダンテはその「いじわるな知恵」を身につけはじめた最初のほうの人物ということになるのだろうが、地獄で早口でしゃべっていたのだろうか。

 「ミラノの季節」という文章では、11月ごろから立ち込めることになるミラノの霧について書かれている:
「が、この頃ともなると、霧の多いミラノは、空港が閉ざされる日が多くなる。ミラノの南を流れるポー川にむかって網目のように掘られた灌漑用の水路が縦横に走る低地帯(バッサ)から、霧は匍うように上がってくる。霧の深い日は、朝、目がさめたとき、窓の外の自動車の音が、いつもより鈍くなっているので、床の中から、もうそれとわかる。ふしぎなことに、ミラノに長く住んでいると、この霧が親しい友人のように、なつかしく思えてくる。霧がたちこめるようになると、ミラノでもっともはなやかで充実した季節がやってくるせいかもしれない」(105-6ページ)。

 須賀さんは児童文学にも造詣の深い人であり、その意味からも「ピノッキオたち」という文は興味深いものである。ピノッキオというのは、もともとジュゼッペ(英語ならジョウゼフ)の愛称で、それもフィレンツェ周辺のトスカーナ地方に特有な呼び方であり、「フィレンツェというと、日本では芸術の都みたいにいわれるけれど、その町の住人たちはイタリアでは毒舌で知られる」(156ページ)という、そういう人たちが特別な場合に使う愛称なのだそうである。
 「アンデルセンや宮澤賢治ふうの幻想的な童話にくらべると、ピノッキオの話は、勧善懲悪というのか、「いい子にならなければだめだ」という思想があまり見え見えで、すっと素直に好きにはなれない。それなのに、やっぱり忘れられないのは、あの奇妙な木彫りの人形が、遠い夢物語ではなくて、これを読む世界中の子供のひとりひとりに、徳にイタリアの子たちに、ほんとうによく似たことをしたり、考えたりするからではないか」(同上)という感想は、物語の理解に大いに役立ちそうである。原文が難しいことも書いてくれていて、今後のイタリア語の勉強の役にも立つ。イタリア人のピノッキオへの愛着、そして子どもたちのかわいさがイタリア語への愛着のきっかけになっていることなどが語られていて、印象に残る。

 学生時代、野上素一先生のイタリア文学史の授業を傍聴したことがあり、大学に務めるようになってからはイタリアへの留学経験のある同僚が複数いたというように、イタリアとの縁は浅くない方なのであるが、イタリアに強い興味を持つようになったのはやはり須賀さんの文章を読むようになってからだと思う。須賀さんが比較的早く亡くなられたのを惜しむとともに、心からご冥福をお祈りしたい(遅すぎるか…)。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(10)

9月28日(日)朝のうちは雲が残っていたが、その後晴れ渡る

 ダンテはウェルギリウスに導かれて、地獄の第6圏の異端者が封じられている石棺を見ながら進み、異端エピクロス派の人々がこの中に入っていることを聞かされる。彼らの話声を聞いた死者が声をかけてくる。

「トスカーナの人よ、かくのごとく気高く話しつつ、
確かな足取りで生きながらにして火の都を進む君よ、
この場所に留まりたまえ。

君の言葉は、君がかの高貴なる祖国の
生まれであることを明らかにしている。
その祖国に対し、我はおそらくは禍々(まがまが)しい敵であった」。
(154ページ) 話しかけてきたのはファリナータと呼ばれたマネンテ・デッリ・ウベルティ(?-1264)であった。ダンテより1世代前のフィレンツェの皇帝党の領袖である。フィレンツェは言うまでもなくトスカーナ地方の中心都市で、ダンテはこの叙事詩をトスカーナ方言で書いている。宗教的な信念とは別に、自分たちの言葉への愛を感じていい部分かもしれない。
 彼らの時代、西欧全体の支配をめぐって教皇庁と神聖ローマ帝国の二大政治(宗教)権力(権威)が争い、北・中部イタリアでは両派の間で都市国家が群立し、争っていた。フィレンツェでも皇帝党と教皇党の対立が続き、皇帝党の影響力が一掃された後は、教皇党の中でダンテの属していた白派と黒派の対立が続いた。 もともとエピクロス派の哲学はヘレニズム時代からローマ時代にかけて影響力をもった考え方で、キリスト教の内部の異端というわけではない。ここでダンテは中世的な理解に従ってアヴェロエスの解釈したアリストテレス哲学を信奉する人々をエピクロス派と呼んだのである。「その思想は個としての魂の永続を否定し、死後、魂は個的特徴を失い神のもとに帰り、人間は地上で己の力により至福を手に入れられると考え」(540ページの翻訳者=原基晶さんによる解説)るものであった。シチリア王でもあった神聖ローマ帝国皇帝フェデリコ(フリードリヒ)Ⅱ世(1194-1250)は当時西欧よりも進んだ文明をもっていたイスラーム圏における哲学を学んでこのように考え、ファリナータもその哲学の信奉者であったが、敵対する教皇庁は彼らの考えを異端として、厳しく弾圧したのである。エピクロス主義を異端とするのはこのためである。

 ダンテは、中世的に解釈されたエピクロス主義に反対する一方で、敵対する人々を異端として暴力をもって弾圧するやり方にも反対している。そして、同じ地獄に教皇党の領袖であったカヴァルカンテ・カヴァルカンティを置く。フィレンツェの教皇党白派に属して政治的に、また清新体の詩人として文学的にダンテの友であったグイド・カヴァルカンティ(1255-1300)の父親である。彼はダンテの隣に自分の息子がいないことを知り、さらに息子の死を知って嘆く。一方、ファリナータは自分がフィレンツェ市を破壊から守ったことを口にして、自分の子孫たちがやがて故郷の都市に戻る日が来ることを願う。そして市とダンテの運命について、やがて予言が与えられることを示唆する。地獄に落ちても、ファリナータの態度は堂々としたものとして、描かれている。

 さらにダンテは神聖ローマ帝国フェデリコⅡ世と、枢機卿オッタ-ヴィオ・デッリ・ウバルディがここにいると告げられる。宗教的な権威が政治的な権力を求め、政治的な権力が宗教的な権威を求めて血みどろの戦闘に至った事態を断罪し、その首謀者たちを地獄に送り込んでいるのであるが、今日の歴史家たちの多くがフェデリコ(フリードリヒ)Ⅱ世をイスラームとの共存を図った開明的な君主として肯定的に評価していることを考えると、ダンテの評価に多少の疑問も投げかけられるのである。フェデリコはラテン語ではなく、俗語で詩をつくる運動を始めている。ダンテがトスカーナ方言で詩を書いたのもその間接的な影響を受けているわけで、文学史的に見ても疑問に思われることは多いのである。

 ファリナータの言葉に自分の将来への不安を抱き、足取りが重くなってはいたが、ダンテはウェルギリウスに導かれて、地獄のさらに深い谷間へと下ってゆく。

須賀敦子『霧のむこうに住みたい』

9月27日(土)曇り

 9月26日、須賀敦子『霧のむこうに住みたい』(河出文庫)を読み終える。須賀敦子(1929-1998)の死後に、まだ本にまとめられていなかったエッセーを集めて出版された本の文庫版である。題名は、この書物の中に収められているエッセーに基づいたもので、そこではウンブリア州の山の中で出会った霧と、その山の中で暮らしている羊飼いたちが小屋の中でワインを飲んでいる姿が描きだされている。「途中、立ち寄っただけの、霧の流れる峠は忘れられない。心に残る有れた風景の中に、時々帰って住んでみるのも、わるくない」(139ページ)。著者には『ミラノ 霧の風景』という著書があるだけでなく、ミラノのほかにも多くの場所で出会った霧について書き記している。何か霧に心惹かれるものがあったようである。(なお、ウンブリア州は20あるイタリアの州の中で、唯一、外国とも、海とも接触せずに内陸部におさまっている州である。)

 誰だったか、須賀の文章を紗をかけたようなところがあると評した人がいたが、むしろ霧に覆われているというほうが適切かもしれない。とはいうものの、その霧が社会や人生の醜い部分を覆い隠すものとして使われているとは受け取りがたいところがある。著者は大学院を中退してフランスに留学し、その間イタリアに旅行してその魅力に取りつかれ、その後さらにイタリアに留学して、イタリア人と結婚し、夫と死別後に帰国、日本とイタリアを往復するようになったという経歴がある(簡単にまとめすぎているかもしれない)。「屋根裏部屋と地下の部屋で」はイタリア留学中の夏休みに過ごしたロンドンの住宅の地下に住んでいる上品な老婦人の姿が描かれているが、彼女との出会いは須賀さんがごみの捨て場が分からなくてまごまごしていたことによるものであり、「なんともちぐはぐな贈り物」では帰国後の日本で付き合っていたイタリアの商社員の男性の「豪邸」で起きた下水に大量の蛆虫が発生して水が湧き出るという珍事件が描かれている。さらに「ヤマモトさんの送別会」ではこれも日本帰国後にボランティアとして支援を行っていた廃品回収業者たちの姿が描きだされている。その他のエッセーを見ても、社会への観察眼や、社会参加への意思を明らかに読み取ることができる。

 そういう著者の文学への取り組み方を詳しく説明しているように思われるのが、この本の中で最も長く、内容的にも重みをもつ「私のなかのナタリア・ギンズブルグ」である。現代イタリアを代表する作家の1人であるギンズブルグの半自伝的な小説『ある家族の会話』について、著者は「読みだしたとたんに止められなくなり、夢うつつのような気持で一気に読み上げた日々が、つい昨日のように思える」(8ページ)と記す。その後、次々に彼女の書いたものを読み続けた著者は、特にその文体に魅了される。「この作家の言語がなにか私自身のなかにある地下の水脈につながっているという印象がつよくて、読んだ瞬間から私のなかで、すでに翻訳が出来上がっているようなのであった。実際に訳したのは、出会いから16年もたってからで、技術的な困難もさることながら、初めから終りまで、ほとんど愉楽にちかい作業であった。そして、とうとう作者に会う機会を与えられたのは、その時分のことである」(61ページ)という。

 著者はそれまで翻訳にあたって原作者には会わないようにしていたと書く。自分なりの作品解釈を傷つけられたくないからであるが、その反面でやはり原作者に会いたいという気持ちもあり、たまたま知人がギンズブルグといとこということでディナーに招待してくれてあうことになったのであるという。その知人が文学者の家系に生まれていたことを初めて知り、「外国人というものが、どれほどその国のこまかい人脈や、ひだのような部分にうといかの見本のような話」(63ページ)と自嘲気味に注記しながらも、外国研究に携わるものへの貴重な示唆を与えてくれている。食卓に顔を見せた1人は文豪ピランデッロの孫の1人であった。(ピランデッロは1867年生まれであるから漱石、逍遥、露伴と同年で、そういうことを言えば、かくいう私も漱石の孫の1人と同じ中学の同じ学年に在籍していた。)

 会見を前にして著者が抱いていた不安は杞憂に過ぎず、「私はナタリアが谷崎潤一郎の作品や源氏物語の翻訳を通して、日本文学についてかなり的確な意見をもっていることを発見し、…それはそれで楽しいサロンの雰囲気を満喫できたのである」(64ページ)。

 著者が2度目にギンズブルグとあったのは、ローマのパンテオンの裏手にあるギンズブルグの住まいにおいてであった。この時の印象のかなりの部分を、著者はギンズブルグの容貌についての記述に当てているが、ギンズブルグがパゾリーニの映画『奇跡の丘』に端役で出演していることなど、興味深く読んだ(この映画を見たのはもう50年近く昔のことである)。この訪問の際に一番印象に残ったのは、しかし、ソファに寝そべっている巨大な猫であり、この猫は同じくイタリアの女流作家であったエルサ・モランテの没後貰い受けてきたエルサの飼い猫で、その名をココロといい、エルサが読んで感銘を受けた夏目漱石の『こころ』にちなんで命名されたのだという。

 3度目にあった時、ギンズブルグは社会問題に強い関心を寄せ、社会参加の本を書き、この会見の中で政治問題についても語った(彼女は上院議員でもあった)。しかし著者は何となく違和感を感じていたようである。ギンズブルグの家を辞去して、「パンテオンのほうに向って歩きながら、かつてのプルーストの翻訳者が、社会参加の本を書いてしまったことについて、私は考えをまとめかねていた。ずっと以前、友人の修道士が、宗教家にとってこわい誘惑のひとつは、社会にとってすぐに有益な人間になりたいとする欲望だと言っていたのを、私は思い出した。文学にとっても似たことが言えるのではないか。やはり、翻訳者は著者に近づきすぎてはいけないのかもしれない。彼女には彼女の生き方があるのだし、私が訳していることとは、関係があるような、ないような、だ」(73ページ)。

 社会的な主張が込められているからといって優れた文学作品が生まれるわけではない。著者自身が社会参加に意を用いた経験があるだけに、文学と社会参加をめぐる問いかけには真剣なものがある。答えが見出しがたい問題の中で考え込む著者の心の中を描きだしているように思われるのが霧であったのかもしれない。

 須賀さんはギンズブルグの作品の中に自分の中にある「地下の水脈」とつながるものを感じたというが、私は須賀さんのエッセーの中に、自分の経験や考えとつながるものをいくつか感じて、愛読してきた。ただ、カトリックの学校でまなんだというだけでなく、カトリックの信者として社会運動に参加した須賀さんと、信者ではないままの私との距離も感じているのである。そういったことも含めて、ここで語りつくせなかったことは、また別の機会に書いていくことにしたい。

語学放浪記(42)

9月26日(金)朝のうち雨が残るが、その後晴れたり曇ったり

 読んだけれども紹介できない本や、続きを書かなければならない文章がいくつかあるが、形にまとめることがなかなかできず、掲載に至らない。この間までは、書くことがなくて困っていたのがうそのようであるが、書くことに苦労していることでは変わりがない。

 ラジオのまいにちドイツ語、フランス語、イタリア語の入門編、応用編のそれぞれの番組が終わった。それぞれ7時台の放送を聴き(時々、寝過ごして、聞き逃した)、午後の再放送を聴きなおした(こちらも眠ってしまってしっかり聞いていなかったことが少なくなかった)。放送を聴くという以上の取り組みをしなかったことが反省すべき点として残っている。

 ドイツ語の入門編Kompassは基本的な事項をしっかり勉強するという方針であるのか、例文や練習問題が少なく、説明が多いという印象があった。そのため、比較的楽に聴くことができたが、まなんだことがどの程度定着したかにはわからない。パートナーのズザンネ・シュテフェンさんが最後に語学の勉強は直線的なものではないといっていたのが全くその通りだなと思った。ただ私のドイツ語の学習の場合は、途中で途切れることが多いのが問題である。
 応用編の『言うが花のドイツ語 Wer spricht, gewinnt』は2012年の4月~9月に放送されたものの再放送だそうであるが、初めて聞いた。こちらは初級文法の学習をちょうど終えたあたりの聴取者を対象としたものだということで、実際の場面での会話を想定した練習問題が多い内容ではあったが、何とか最後まで聞き続けた。またパートナーのドイツ人によるドイツの社会や文化についてのおしゃべりも有益であった。ドイツ語の単語、文法、ドイツの文化と社会のどれをとっても、知らないことが多いことを改めて実感させられた。そのことだけでも有意義であった。

 フランス語の入門編は「話せるフランス語~文法より実戦練習」ということでこちらは練習問題が多い内容であったが、何とか最後までたどり着いた。練習には比較的容易についていくことができたが、こちらも、まなんだことがどこまで定着しているかは疑問なところがある。9月に入ってこれまでの復習をしたので、余計にその感じが強くなった。応用編の「Bon voyage, Manon!~大阪・京都・奈良~』は再放送であり、前回に放送されたときも聞いていたので、あまり熱心に取り組まなかったところがある。京都や奈良に外国人を引率して旅行した経験はあるが、その際は英語で話をした。フランス語で日本文化の説明をするのは無理だとハナからあきらめているところがある。本来、フランス語の勉強に最も力を入れるべきなのであるが、どうも中だるみ状態が続いている。何か新しい工夫をすべきなのかもしれない。

 イタリア語の入門編「イタリア語のシャワーを浴びよう!」は内容が多彩で、聞きごたえがあった。聞き取りがかなり上達したと自分では思っているのだが、どうだろうか。それでもテキストの後ろの方の作文教室の問題など、まだまだわからないところがあり、さらに確実な知識を増す必要を感じている。応用編の「キモチで再発見! イタリア語文法」はスキットやミニ会話を楽しみに、聞き流したところがある。再放送されることがあれば、今度はしっかり予習・復習をして確実な文法知識を増やそうと思っている(こういう決心が一番あやしい)。

 9月29日からまた、新しい番組が始まるので、すでにテキストを買いこんで、準備怠りないといいたいところだが、7時台に3つの番組を聴くことの負担は小さいものではないし、ビジネス英会話の時間を聴くことも考えているので、そうなると時間配分にますます工夫する必要ができ、どこまで続くかはやってみなければわからないところがある。とはいうものの古典ギリシャ語、ペルシャ語、アイルランド語などまだ勉強したい言語はいくつかあるので、ここをしっかり切り抜けようと思っているところである(思うだけなら簡単である)。

諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(8)

9月25日(木)雨、一時晴れ間が広がったが、その後また降り出す

 この本の第4章は「なぜ、不勉強な学生を卒業させるのか」と題されている。もちろん、卒業させるべきではないというのが結論である。

 この章の初めで諸星さんは日本の大学では「学生の成績評価が客観的に行われていない」という。これはむかしから言われてきたことで、扇風機で答案を飛ばして8畳の部屋に飛んだから80点、4畳半だと45点などという採点をしていた教師がいるなどと噂された。しかし最近ではGPA(グレード・ポイント・アベレージ)を導入する大学が増えてきた。とはいうもののその運用実態には問題があるという。GPAは学生の成績を一定の計算式で評価するもので、それによって学生の勉学への取り組みを見極め、改善するために役立てようとするものである。GPAが低い学生には履修単位を制限したりするので、学生としては勉学に必死で取り組まなければならなくなるという。「学生は勉強するのが当たり前です。大学は勉強するところですし、教員はそうした学生の学習意欲に十分にこたえられるだけの力量を保持する。すべて当たり前のことなのです」(諸星、160ページ)。

 しかし大学によってはGPAを導入するといいながら、実際には不可になった科目の単位を計算に入れないというような「上げ底」の評価を行っている例が少なくないようである。学生はもとより教員のほうも「履修責任」をきちんと考えていないのではないかという。シラバスは教員と学生の間の履修についての合意であるから、教師には指導の、学生には参加の責任がある。学生は授業料を払っているわけであるから、その元を取れないような授業には抗議してもよいのである。

 学生も教師ももっと熱心に授業に取り組め、学生は勉強しろ、不勉強な学生は卒業させるなというのがこの章の趣旨であり、それはもっともなことではあるが、これまでお二人が論じてきたこととの整合性を考えると、少し疑問に思われるところがある。それは「中堅労働者」になるために、どんな勉強が必要なのかということについての問いが欠けているということである。高校生は大学に進学するために勉強する。しかし、大学生は就職するために勉強するわけではなく、就職活動に走り回っているのが現実である。最近では就職後のことも考えて授業の内容を変えようとする動きもあるというふうに聞いてはいるが、大学で勉強したことがどれだけ就職後役立つかについての問いも必要であろう。もっとも、すぐに役立つ知識や技能は、すぐに役に立たなくなるという言われ方もしているので、その点ではカリキュラムの開発にあたっての説明責任が重大なものになるだろう。お二人は、双方型とか、対話型というような授業の在り方を強調しているが、実技や実習、活動を多く取り入れる授業のほうが、「中堅労働者」になるべき学生にはふさわしいのではないかと思う。アカデミックな、大学の先生になるとか、専門職を目指すとかいう学生向けの授業とは違う授業の開発が進められるべきである。

 それから大学での学生生活を授業だけでなく、クラブ活動や自治会活動も含めて、より広い視野でとらえることも必要なのではないか。企業の側でも運動部での活動歴などを採用の際に重視しているというのはなぜか、考える必要がある。その意味では、企業の側が大学に何を臨むのか、その他の利害関係者の意見とともに聞いていく必要があるだろう。もちろん、大学の勉学は就職のためにのみなされるわけではなくて、教養の形成や市民性の涵養といったことも求められてくる。そういうことを考えると、授業以外の要素はますます必要ではなかろうか。

 この章の最後で話題はデジタルの世界の大学が出現していることに向けられている。大学の在り方が変わろうとしているが、文部科学省は依然としてアナログの世界の大学だけに関心を払っている。これでよいのだろうかと疑問を投げかけている。ただ、オンラインによる教育でどこまでのことができるかはまだまだ疑問であり、この点で文部科学省が慎重なのは悪いことではないと私は思う。諸星さんは、スポーツのグランドは借地でもいいというような規制緩和傾向が出てきたことを歓迎する口ぶりではあるが、大学の中に川が流れていたり、池があったりすることも学生の精神衛生にとっていいことだと思っているから、にわかには賛同しがたい。 

桜井哲夫『一遍と時衆の謎 時宗史を読み解く』

9月24日(水)曇り、夕方から雨

 9月23日、桜井哲夫『一遍と時宗の謎 時宗史を読み解く』(平凡社新書)を読み終える。著者である桜井さんは「社会史家としては主にフランスを中心にした西欧近・現代の社会史、思想史を研究し、また社会学者としては現代日本の社会・文化を論じてきた。一方で、…鎌倉時代から続く時宗寺院44代目の住職であり、…宗門に身をおく者として、いつかはきちんと宗祖一遍上人と時宗の歴史について語る責任があると考えてきた」(237-38ページ)という。

 日本の仏教の諸宗派の中で時宗はあまりその存在が顕著ではないし、一遍上人についても同じ浄土教系の宗派の祖である法然上人や親鸞上人に比べてその知名度は低いのではないかと思う。以前、浄土宗の僧侶でもある同僚と話をしていて、私は仏教のたいていの宗派の寺には出かけたことがあるが、時宗と融通念仏宗の寺についてはないといったところ、融通念仏宗なんて知らないぞといわれた。同じ浄土教系の浄土宗の坊さんに言われるのだから、融通念仏宗の影が薄いことがわかるが、それほどでもないにせよ、時宗も影が薄い。神奈川県に住んでいるのだから、藤沢の遊行寺(清浄光寺)に出かけるのはそれほど難しいことではないのだが、なぜか足を運んだことがない。

 しかしその一方で、鎌倉時代から江戸時代にかけて時宗の影響力は決して小さなものではなく、特に文化・芸能の面において見過ごすことのできない存在であったことも確かである。観阿弥・世阿弥というような「阿弥」号は時宗と結びつくものであり、中・近世における阿弥衆の活動の痕跡は見つけることができる。逆にいえば、一時期はきわめて盛んであったこの宗派が近世以後に衰退したのはなぜかということも問題になる。

 この書物は第Ⅰ部「遊行・一遍上人と時衆――いかなる人々なのか…」において、先行研究や大衆的な文学作品の中の一遍上人と時衆についての記述・評価を辿りながら、その実像を探ろうとする。時宗とかかわりのある、あるいはあるらしい歴史上の人物として、豊臣秀吉(彼の「父親」は竹(築)阿弥といった)、観阿弥・世阿弥父子、出雲阿国(時宗の沙弥尼ではなかったかという説がある)、千利休などの名があげられている。このほか、「高野聖」、「毛坊主」などの考察を通じて時衆の社会的な広がりとその痕跡、衰退の理由などについても考察されている。

 さらに第2部「『一遍聖絵」の世界――遊行・一遍上人の生涯」では、国宝『一遍聖絵』をもとに、一遍上人の生涯が語られる。そして「信不信を選ばず」「往生は心品(しんぽん)によらず、名号によりて往生するなり」(157ページ)として、仏を信じる心がなくても、ただ阿弥陀仏の名号を唱え、多くの人々と声を合わせて躍動することで、確信が生まれるのだという一遍の独特の教えへの到達と、教団の活動が辿られている。

 最後に「結びにかえて」では、著者である桜井さん自身の時宗史への関心の歩みが回想されているのだが、その中でも徳川家の出自と時宗との関係、網野善彦の『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』の中の「正慶2年(1333)、楠木正成の楯籠もる千早城を攻めた幕府軍には、二百余人に及ぶ時衆がつきしたがっていたのっであり、戦死した新田義貞の遺骸を輿にのせて舁いだのも『時衆8人』だったのである」(235ページ)という指摘の引用など興味深い言及が少なくない。

 この書物は一遍と時宗についての概説書というよりも、問題提起の書であり、多くの興味ある事実を掘り起こし、その掘り下げと評価を期待する書物である。ここで紹介したのはこの書物の問題提起のごく一端にすぎないし、またこの書物で取り上げられていないけれども、一遍上人と時宗、遊行寺をめぐっては「小栗判官」伝説のような物語も伝えられていて、その広がりはこれからの探求を待っているといってよいのである。ということで、大きな刺激を受け取った書物であった。とりあえず、時宗のお寺をたずねてみようと思っている次第である。

日記抄(9月17日~23日)

9月23日(火)晴れ後曇り

 9月17日から本日にかけて経験したこと、考えたことなどから:
9月17日
 NHKラジオまいにちイタリア語入門編の今日のフレーズで
Hai già visto "La Primavera" di Botticelli?
(あなたはもう、ボッティチェッリの≪春≫を見ましたか?)
というのが出てきた。
No, non ancora.
(いいえ、まだです。)
というのが私の答えであるが、ボッティチェッリのような欠点もあるが強い魅力のある画家は好きである。

9月18日
 NHKラジオまいにちイタリア語応用編では
Come sarebbe a dire?
(いったいそれはどういうことですか?)
というようななぜそうなるのか納得できない時に、相手に詰め寄るための会話表現をとりあげた。イタリアの地方行政や郵便局、銀行、大学の事務局などの窓口は手続きにやたら時間がかかって、しかも何も解決されないということが多いので、詰め寄るための会話表現を覚えておく必要があるという話であった。イタリア語に限らず、議論の際に相手の主張に反論する表現を学ぶことは必要なのだが、日本人にはそれが難しいといわれる。その意味ではいい勉強の機会になった。

9月19日
 NHKラジオまいにちドイツ語の時間に出てきた文:
Habe ich auch nur wenig Zeit, ich lese Bücher.
(どんなに時間がなくても、本は読むんだ。)
なかなかそういうわけにはいかない。

 10月から新しい講座が始まるラジオのドイツ語、フランス語、イタリア語の講座のテキストを購入する。フランス語の応用編「ファッションをひもとき、時を読む」ではウィリアム・クラインの映画『ポリー・マグ―おまえは誰だ?』(1966)を取り上げるという。50年近く昔の映画を取り上げることが、果たして「時を読む」ことになるのかは疑問ではあるが、この映画を見たことがあるので、映画が紹介されるのを楽しみにしている。テキストでは触れられていないが、デルフィーヌ・セイリグが特別出演、最後の方でジョアンナ・シムカスが顔を見せていたことを思い出す。

9月21日
 昨日、語学テキストとともに、梅棹忠夫『日本探検』(講談社学術文庫)を購入した。梅棹さんが京大の人文研にいらしたころ、用事があって訪問したことがある。前後の関係を考えると、その当時藤本ますみさんが秘書であったようである。その藤本さんが梅棹研究室での経験を書いた『知的生産者たちの現場』という本の中に、東京の高校生が修学旅行の際に梅棹研究室を訪問しようと考えて見学にやってきたというエピソードが書かれている。その高校生たちに比べると、私には好奇心が不足していたなと、いまさらながら思う。

9月22日
 墓参りに出かける。いつもは短時間で済ませるのだが、なぜか時間がかかってしまい、その後渋谷に出て映画を見るつもりにしていたのが、開映時刻に間に合わず、横浜に戻ることになった。
 まだ横浜でうろうろしていた11時ごろ、若い男女がこういう天気のいい日は大山にでも登ろうかという話をしていたのをこれからでは時間が遅いのではないかと思いながら聞いていたのだが、他人のことは言えないと改めて思った次第である。

9月23日
 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対大分トリニータ戦を観戦する。後半、横浜が1点を先制するが、終盤で大分の猛攻をかわしきれず1対1の引き分けに終わる。2点目を得点できる機会を逸したことが惜しまれる試合であった。

今野真二『「言海」を読む ことばの海と明治の日本語』

9月22日(月)おおむね晴れ、暑し

 今野真二『「言海」を読む ことばの海と明治の日本語』(角川選書)を読み終える。今年に入ってから、『かなづかいの歴史』、『日本語の近代――はずされた漢語』、『日本語の考古学』と今野さんの本を3冊読んでいて、これで4冊目である。これらの書物の中で、著者は日本の社会が近代化する中で、日本語がどのように変わってきたかを様々な角度から取り上げてきたが、今回は大槻文彦(1847-1928)が1891(明治24)年に完成した「最初の近代的国語辞典」(23ページ)である『言海』を取り上げて、それが明治時代の言語相をどのようにとらえ、映し出したものかを検討している。「『言海』は丁寧に編輯された辞書で、明治期の日本語を理解するための「情報」が蓄積されている」(16-17ページ)というのが著者の出発点である。

 これまでも大槻文彦と『言海』については少なからぬ研究がなされ、文学作品の題材としても取り上げられてきた。しかし、それが明治時代の日本語とどのように取り組んだ辞書であるのかを具体的に明らかにした研究はなかったと著者は言う。そうはいっても、「和漢洋を具微せる学者」(29ページ)であった大槻が辞書の編纂に取り組むまでの経緯を記さないわけにはいかず、第1章「大槻文彦と『言海』」は大槻の辞書との取り組みの概略を述べている。

 第2章「『言海』の特徴」ではこの辞書の特徴が記されている。まず、それまでの辞書がいろは順であったのを五十音順に改めたこと。これはその後の国語辞書の先駆けとなった。大槻は、この辞書の冒頭に「本書編纂の大意」として編纂にあたっての方針を述べているが、その最初に「此書ハ、日本普通語ノ辞書ナリ」(41ページ)と書いている。彼が何をもって「日本普通語」と考えていたかは、この書物全体を通じて検討していきたいと今野さんは述べている。

 次に「辞書ニ挙ゲタル言語ニハ、左ノ五種ノ解アラムコトヲ要ス」(同上)と述べ、「発音(pronunciation)」「語別[品詞の別](parts of speech)」「語原(derivation)」「語釈(definition)」「出典(reference)」の5種を挙げている。今野さんは、第2章でこのうちの「発音」「語別」「語原」の3つについて検討し、「語釈」については第3章で取り上げるとしている。また「出典」はこの章の終わりに書かれているように、印刷出版に至る過程で書物が大部になりすぎることを恐れて削除されるという経緯を辿った。

 「発音」と「語別」を辞書に記載することについては、大槻が幕末の洋書調所において編纂にかかわった英和辞書の構成に学んだものと推測される。取り上げた語の発音をめぐって大槻は「四分の一角程度のハイフン」を使って促音・拗音などを表記するなどの工夫を凝らしているが、これは現在の印刷技術でも難しく、また多くの人々から見落とされてしまっているのは残念なことである。

 日本語は「語原」について考えにくい言語であるが、『言海』ではあえて取り組もうとしている。このことは、後に続く国語辞書に大きな影響を及ぼすことになった。また、明治時代の言語意識を反映して、和語と漢語の差別化を図り、活字を使い分けている。

 『言海』が見出し語として選んでいる語は、話し言葉を重視しながらも、書き言葉も含んで、広く一般的に使われている語である。このことから「日本普通語」というのは、日本人が「今、自分が使っている語」だと考えるような言語を指していると考えられる。

 現在、宮城県図書館に、印刷出版された『言海』の、印刷のための浄書本と考えられる稿本が収められている。この稿本と印刷本とを対比してみると、漢語が大幅に削られていることが分かる。この結果として辞書に収められている漢語の比率が低くなり当時の日本語の現実を反映するものにならなかったかもしれないのは残念なことである。その一方で大槻は最後まで辞書の編纂に心を砕き、また「さまざまな符号類を駆使して「付加情報」を辞書に反映させようとしていた」(66ページ)が、それが出版にあたっての作業を複雑化させ、遅らせることになったことも否定できない。

 第3章では漱石の『吾輩は猫である』などの同時代の文章でつかわれている語と『言海』の語釈とを対照しながら、また第4章では鴎外や白秋の作品における語の使い方、読み方を『言海』の見出し語と比べながら検討している。第5章では山田美妙が編纂した『日本大辞書』と『言海』を比べてそれぞれの意図や特徴を明らかにしている。そして終章で『言海』という辞書について著者が明らかにすることができた特徴を概観しているが、これらについては、また稿を改めて紹介・論評することにしたい。

『太平記』(11)

9月21日(日)晴れたり曇ったり

 後醍醐天皇は倒幕の企てのために寺院勢力の協力を得ようと南都北嶺に行幸されたが、天皇の企ては鎌倉幕府の知るところとなり、天皇の側近の僧侶たちの逮捕と処分に続いて、日野資朝、俊基の処刑が決まった。正中の変以来佐渡に流されていた日野資朝が斬られたが、彼の子どもである阿新(くまわか)は父を斬った本間三郎を刺殺して仇を討った。

 倒幕計画のもう1人の中心人物である日野俊基は鎌倉に護送されていたが、地方に流刑にすることなく、そのまま処刑されることとなった。彼は法華経を600部自分で読誦するという念願をもっていたが、すでに400部を読誦していて、残りの200回を読誦するまでの命を許された。とはいうものの、読誦し終えれば刑が執行されることになる。

 俊基の郎従に後藤左衛門尉(さえもんのじょう)助光というものがいた。郎従というが、左衛門尉といえばかなり身分の高い武士である(西行が出家する前は左衛門尉であったと記憶する。時代が違うし、単なる称号かもしれないが、それでもある程度の身分であったことは確かである)ので、郎従と書かれているが、家司に近い役柄を果たしていたのではないか。俊基が捕えられてからは、北の方の身辺を守り、嵯峨の方に隠れ住んでいたが、北の方の心配を見るにつけてこのままではいけないと思い、彼女から手紙を預かって鎌倉に向かう。処刑の日が迫っていることが頭から離れないので、会う人ごとに俊基の噂を聞きながら鎌倉に到着した。

 俊基が預けられている邸の近くに宿を借りて、どのような便宜でもあればよい、事情を申し入れようと様子を見ていたのだが、実現できないまま時間がたつうちに、京都からの囚人が本日処刑されるという噂が流れてきたので、あわてて出かけて様子を探ると、俊基は既に張輿と呼ばれる畳表で周囲を張った粗末な輿に乗せられ、化粧坂へと運ばれてゆく。ここで工藤次郎左衛門尉が受け取って、葛原岡に大幕を引いて、敷皮の上に敏元は座らされた。その様子を眺めて助光は言葉も出ない。

 目もくらみ、足の力もなえて、気を失いそうになったけれども助光は勇気を奮い起こして工藤の前に進み出て、自分は俊基のお側仕えのものであるが、最後のご様子を見届けに参ったので、対面を許してほしいと申し入れると、工藤も哀れに思って差し支えないと対面を許す。

 助光は、幕の内に入って俊基の前に跪き、俊基は彼の姿を見て涙にむせびうち伏す。助光が北の方の手紙を渡し、俊基は涙をぬぐいながら手紙を読むと、言葉は少ないが、夫を思う深い気持ちが記される文面が連ねられていた。俊基はなかなか読み終えることができず、周囲の人々の同情を集めた。彼は硯を求めて、その中の小刀で鬢を少し切って手紙に巻き添え、折り返し一筆書いて、助光の手に渡したので、助光はそれを懐に入れて泣き沈んだ様子はいかにも哀れに見えた。

 工藤が幕のうちに入り、このままではあまりにも遅くなると処刑を告げる。俊基は畳紙(たとうがみ)という折りたたんで懐中に入れる紙を取り出し、首の周りを押し拭い、その紙を押し開いて、辞世の頌を書いた:
 古来一句
 死もなく生も無し
 万里雲尽きて
 長江水清し
(111ページ。古来からの(経典の)一句に、死生は存在しないと説く。はるか万里の雲の尽きるところまで、長江(揚子江)の水は清く流れている。わたしの心境もそれと同じである)
 筆をおいて、鬢の髪がほつれていたのを撫で上げる時間があるかないかのうちに、太刀影が後ろに光って首は前に落ち、首を抱くような形で体が前に倒れる。助光は悲しみにくれながら、葬儀を終え、遺骨を首にかけ、手紙も身につけて京都へと上る。

 北の方は助光を待ちきれず、俊基の消息を聞こうと人目もはばからず御簾より外に出て、俊基はいつごろ帰郷するのかと問いかけてきたので、助光ははらはらと涙をこぼしてこれまでの経緯を告げ、肩身の手紙と遺骨を差し出す。北の方は驚いて、御簾のうちにも戻らず、縁に倒れ伏し、気絶しそうになる。夫を思う気持ちの強さが悲しみの様子に現れていた。北の方は葬儀を済ませて後、尼となり、助光もまた発心して高野山に籠って主人の菩提を弔った。「夫婦の契り、君臣の道、亡き跡までも忘れずして、弔ひけるこそあはれなり」(113ページ)とこの段は結ばれている。

 資朝の妻子、家来が現実的な感覚をもっていたのに比べると、俊基の妻はおっとりしているという感じがある。結婚して10年余りというから、まだ30歳に年齢は届いていないはずである。夫が倒幕の活動をしている様子をどのような気持ちで見守っていたのだろうか。また、それがどのような意味を持っているのかを考えなかったのか。ひたすらに夫の無事を祈り続けている。当時の貴族の女性の在り方の1例とみるべきであろうか。彼女の姿もまた前段の阿新とは別の意味で物語に余韻を残している。

 さて、後醍醐天皇と大塔宮、その身辺の公卿たちの運命はどうなるか。それはまた次回。

諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(7)

9月20日(土)曇り、一時雨

 前回に引き続き、第3章「「こんな大学、来ちゃダメだよ」といわれないために」の内容を検討していく。これまで読んできたところから読み取れることは、この書物は日本の大学全体についてその近未来を予測して、それに備える改革を提言しているような題名になっているが、実際は、弱肉強食の事態が起きたときに、強い大学の餌食になりそうな弱い大学の方に議論の重点を置いているということである。より具体的に言うと、医学部や工学部をもたない、規模のそれほど大きくない、私立大学や公立大学、地方の国立大学に対しての改革の提言が主な内容であるように思える。

 これまで推奨されてきた改革の方向性は、大学が社会に対して、また学生に対して何を実現していくのかというミッションをはっきりさせること、それに基づいて相互に関連付けられた意味のある科目から構成されるカリキュラムを組んで学生をしっかり教育していく必要があること、先生方は自分たちが教育者であるという自覚をもって授業に取り組むべきであるということであろう。

 さて、大学人の意識を変え、大学を刷新するために、諸星さんと鈴木さんは「教授会に風穴を開ける」ということを提言している。大学における人事をはじめとする重要事項が学部の壁と教授会自治の中で決められているのは問題であるという。「今までずっと、長い間の習慣で、学部主導で学生たちの入学審査をし、卒業判定をやってきた。大学の入口と出口の権限を学部が握っているというのは、教授会が権力機構化していることの象徴的事象でしょう」(諸星、134ページ)という。ここでは、学部学生の入学・卒業を問題にしているが、大学の本質に即して考えようとするのであれば、学位授与権と人事の問題を取り上げるべきである。(学位授与権と人事権が教授会にあるというのは大学の本質とかかわっており、それを否定したいのであれば、高等教育の二元化というようなより高所からの改革を考えるべきである。)

 お二人は大学の教授会の守旧性を改革の障害として目の敵にしているが、それは大学の個性の問題ではなかろうか。東京の都心部に本拠のあった大学の多くが郊外に移転していく中で、明治大学は教授会の議論がいつまでたってもまとまらず、移転しなかったために、かえってほかの大学よりも人気を集めることになったという半分笑い話のような話があるが、学長が強い指導性をもって改革した大学がいいか、教授会が強い力を持っている旧態依然とした大学がいいかは、結局のところ、市場原理で決まっていくことで、それも個々の大学の様々な条件が左右するだろうから、一般化しがたい問題ではなかろうか。

 次に大学の学部間の壁の問題が取り上げられているが、これも相対的なもののように思われる。私が大学に入ったのはもう50年も前のことであるが、同じサークルの農学部の先輩が農学部のたぶん農芸化学だと思うが、薬学部と共通の授業が多く、薬学部は当時でも女子学生が多かったので、授業に出るだけで楽しいという話をしていたのを記憶する。他にも学部間で共通の授業というのは行われていたのではなかろうか。たしかに単位の互換制度など、現在ほど整備はされていなかったとはいうものの、全く大学間、学部間の交流がないわけではなかった。

 学部の壁ということで、お二人が問題にしていることの1つは、日本の多くの大学で入学時に専門が決まってしまうということである。「普通の高校生が、「経済学志望」と言ったとしても、経済学とは何かわかっているわけではないでしょう。経済学部に進んで「こういう学説の勉強がしたい」と思っているのでしょうか」(諸星、138ページ)というのは確かにその通りである。1980年代ごろに経済学部の人気がかなりあって、たぶん、経済学部だったら就職に有利だというのがその主な理由であったという時期があった(まだ、経済学部の中でマルクス経済学が有力で、経済学部では卒業式の日に、「大学で勉強したことはみんな忘れてくれ」といっているという噂もあった。真偽のほどは定かではない)。

 諸星さんはさらにアメリカのリベラル・アーツ・カレッジの例を引き合いに出して、「専門学部に進む時点で統計を取ると、非常に面白い数字が出ます。たとえば、1年の入学時のアンケートでは心理学をやりたいとか、経済学をやりたいと書いていた学生の実に7割以上がその方向には進んでいない」(139ページ)という。これは教養課程でしっかり学生を教育しているための現象で、日本の大学で必ずしもそうなるとは限らない。もちろん、入学時に専門を決めさせておいて、その後、しっかりした教養教育をせずにほったらかしにしておくのがよいなどと主張するつもりはない。

 それから「専門バカになるな」という議論になるが、どのような分野にも共通して必要とされるような基礎的な知識・能力を見につける必要があるという話で終わっていて、副専攻制の導入というようなより積極的な話題は出てこない。鈴木さんは、コース・ナンバリングの必要性ということを言っていて、これは授業が初級・中級・上級というような段階性をもって構想されているやり方である。諸星さんも日本の大学の欠点の1つは授業がバイキング式に並べられていることだという意見から賛同しているが、もう少し視野を広げて、高校での履修科目や大学受験の際の選択科目の問題も考え、日本史について十分な知識をもっていると思われる学生についてはさらに通史を履修させるというのではなく、教養科目として日本史ⅡとかⅢを履修してもよいようにする。通史ではなく、特定の時代史や方法論、あるいは本地垂迹説とか心学というような特殊なテーマについての授業でも教養科目として開講したり、専門の授業を振り替えたりということを考えていった方が学ぶ方も面白いのではなかろうか。

 最後に、オープン・キャンパスなどに参加するのもよいが、大学の普段の姿を見る、学生食堂で現役学生の話を聞いたり、授業風景を覗いたりすると、その大学の実態が分かるのではないかと勧めている。もっとも大学の中には入構を厳しく制限しているところもあるから、そのあたりのことも含めて入学希望者としては対策を考えた方がよいかもしれない。

 ということで、依然としてお二人の意見には賛同できる部分と、できない部分とがあるけれども、何度も書いているように念頭に置いている大学のイメージの違いということが大きいのではないかと思う。 

『祖谷物語 おくのひと』と『水の声を聞く』

9月19日(金)曇り

 9月17日にオーディトリウム渋谷で山本政志監督の『水の声を聞く』を、9月19日にシネマ・ジャックで蔦哲一朗監督の『祖谷物語 おくのひと』を見る。この2つの作品はそれぞれ単独で批評するだけの内容をもっているとは思うが、ここでまとめて取り上げるのは、共通する部分が少なくないし、その部分が重要だと思うからである。

 『祖谷物語』の舞台は四国の山奥の、平家の落人の伝説のある集落であり、多くの人たちが山から下りて生活をしている(さらに都会に出て生活をしている、しようとしている)中で、山の中に留まって猟をしたり、木を伐ったり、畑を耕したりして生活している老人と、母親が山中の事故で死んだために引き取って面倒を見ている女子高生に焦点が当てられている。東京から自給自足の生活を夢みてやってきた青年と、老人の昔からのなじみの老婆が物語に絡む。特に老婆がさみしさを紛らわすために作っているぬいぐるみの人形たちが物語の進行の中で思いがけない役割を果たすことになる。

 『水の声を聞け』の主な舞台は東京・新宿のコリアンタウンで、祖母が済州島からやってきた在日三世のミンジョンは友人の美奈の誘いに乗って占いを始めるがこれが大当たりして、今度は巫女を始める。彼女の祖母は済州島で巫女をしていたので、霊能者の血筋が彼女には流れているらしいのである。借金取りに追われる父親、彼を追いかける人々、ミンジョンを新興宗教の教祖に祭り上げて一儲けを企む広告代理店の男、救済を求める人々、彼女のもとに多くの人々が集まってくる。彼女は簡単に巫女をやめられない状況に陥り、その中で自分の中の霊能の根源を求めて苦しむ。

 一方は山奥、他方が都会が主な舞台ではあるが、その両者が簡単に交流できる時代の姿、そしてその中での自然の持っている治癒力とが取り上げられている点は共通している。『祖谷物語』では水と生活の結びつき、汚染と浄化の問題が取り上げられ、『水の声を聞け』では水が新興宗教のシンボルのような役割を与えられていることが注目される。また『祖谷物語』では生活の向上の名のもとに自然を破壊する開発事業と、それに反対する人々(外国人が主体である)の姿も描かれている。外国人の声だからといって、国土の開発の中で無視していいという時代ではなくなってきている。都会も、山奥もいつの間にかグローバライゼーションの中で変貌しようとしているのである。

 宗教は人間の経験を超えたところから生き方の規範を示そうとするが、人間の生き方は飽くまでも経験できる世界の知恵に基づくべきだとする考え方もある。ミンジョンが霊能者としての道を究めようと宗教的な実存の錬磨に努力する一方で、彼女の身近な人々の生活は彼女の視界からは置き去りにされてゆくようにも思われる。『祖谷物語』の老人は、木や岩のように生きていて、何も言わず、語らない。それが何かの言葉や考えを伝えているようにも思えるが、伝えられないものもあるようである。その彼が毎朝お参りしている山のお堂には、どのような霊が宿っているのか、あるいはいないのか。謎も大きい。どうや祠は都会のビルの屋上にもつくられていることがあるが、それは山の中のお堂と同じ霊性を人々に与えるのであろうか。

 両作品とも登場人物の日常生活を客観的に描いていくのだが、いつの間にか幻想が紛れ込む。この傾向は、より客観的に生活を描いているような作り方をしている『祖谷物語』の方に顕著にみられるというのが奇妙である。実際に現代の日本の環境問題の抱えている深刻さは、ファンタジーをまぶさないと考えられないほどであるということであろうか。写実と幻想とが十分に整理されずに映像として出てくることは、両作品がともに、あまりにも多くの素材を未消化・未整理のままに映像化していることと無関係ではなさそうである。それぞれ、現実の問題に取り組む努力の新鮮さは評価できるのだけれども、それをもう少し整理してほしかったという印象が残ってしまう。

諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(6)

9月18日(木)晴れたり曇ったり

 今回は第3章「『こんな大学、来ちゃダメだよ』と言われないために」について論評する。この表題にも違和感がある。誰が、誰に対して、こういうことを言うと想定しているのであろうか。

 8月23日~25日まで3日間にわたり当ブログで取り上げた金田一秀穂さんの『金田一家、日本語百年のひみつ』の中に、こんな個所がある。金田一さんが勤務している大学の広報担当者をしていたとき、オープンキャンパスの責任者を務めた。いろいろな出し物があるうち、「在学生の部屋」というのがあって、実際に学部に通っている学生たちに、入学を考えている高校生が質問するというコーナーである:
「入ってからの勉強が大変ではなかろうか」
 という純真な質問に対して、ゼミの学生は、
「試験なんか超簡単なんだから。楽勝、楽勝」
 それが果たしていい学校であることなのかどうか、大変疑問である。しかも、試験のたびに青息吐息になっている彼らを見ている私としては、どんな顔をしてそんなことが言えるのか、呆れてしまう。
(金田一、49-50ページ)

 学生は他人に対して、自分の大学についてなかなか本当のことを言わないものである。このことは学生としての、また教師としての私の経験からも言える。本当のことではないが、虚勢を張っているところもあるし、願望も入っていて、嘘だとは言いきれない。「大変だけれどもやりがいがある」とか、「難しいけれども面白い」というのが模範解答だろうけれども、そういえないし、言わないのは、(教師の努力が足りないこともあって)実態を反映するものではないからかもしれないし、それ以上に自分の努力の先が見えないからではなかろうか。諸星さん、鈴木さんが言うように、現在の大学の入学者の大部分が<不本意入学>であることは確かだが、それは「こんな大学、来ちゃダメだよ」という表現にならないのではないか。私が昔務めていた大学で、入試の合格者の発表の時に、ある在学生がこんなことを言っていた。「誰が合格したのか、落第したのか、表情を見ても全くわからない。」 合格しても喜ばないし、落第しても悔しがらない。<不本意入学>が見せる表情はそんなものである。(現在では違ってきているかもしれないが…)

 日本の大半の大学は教育に力を注ぐべきであるといい、そのために「教育力のある教員」(諸星、116ページ)が必要であるという。(教員というと、学長は含まれないことになるのではないかと思うが、この本の議論では学長も含まれており、ご両人の教員という語の理解には問題がないわけではない。) さらに諸星さんは「語弊があるかもしれませんが、あくまでイメージとして捉えるならば、入学してきた学生は、いわば原材料。これを4年間の組み立て工程(アセンブリー・ライン)の中できちんとした製品にして社会に出していくのが大学の役割だとすれば、教員はそのラインに張り付いている、いわば職工です」(118ページ)という。

 2つの議論が欠落している。1つは、従来型の大卒者採用システムでは大卒者は原材料でよく、それを製品に仕上げるのは入社してからの社内教育であった。その点が変化しているから、大学教育を変えなければならないという議論ならば理解できるが、変化しているということが実証的に示されていない。もう1つ、大学の先生が熟練工であれというのであれば、熟練工に仕立て上げる大学の先生の養成課程をどうするのかという問題が提言される必要がある。この点については131-2ページにTA制度の活用という提案があるが、それだけでは十分とは言えない。資格審査を厳しくするという考えもあるし、大学についても教育実習を課すという考えもある。資格審査が研究業績中心であるのを再考することも視野に入れるべきかもしれない。

 大学の先生に問われるのは「学生を育てる力」であることを強調し、学生による教員評価を普及させようとする。ただ、すでに書いたが、学生には必ずしも未来が見えているわけではない(そこがいいのだということも言える)し、授業を受けた時点ではあまりピンとこなった事柄が、卒業後、あるいはさらに年をとってから身にしみて分かるということもある。長い目での評価も必要である。それから、師弟関係というのは多様であって、優秀な学生だから指導者に対して従順であるというわけではないし、優秀かつ従順な学生が指導者に好まれるというわけでもない場合がある。教員評価は重要な手掛かりになるが、すべてにはなりえないことも認識すべきである。

 大学の先生は授業を軽視する傾向があるが、ベテランこそ初級編や入門編をと主張している。既にご両人が指摘されてきたように、その入門編や初級編が、その後どのような中級編、上級編、応用編に繋がっていくかの確実な見通しをつけておく必要もあるだろう。そうでないと、大家の授業を受けたことがあると卒業後の自慢話になるだけで終わる可能性もある。もちろん、大家でしかできない良質の教育は貴重である。手元に本がないのでうろ覚えで書くが、経済学者の都留重人がアメリカ留学中にサンタヤナ(1863-1952)の哲学の授業を受け、レポートを提出したところ、彼は(高齢であったにもかかわらず)全員のレポートに対してコメントをつけて返却したという話である。これこそが本物の大学教育だと思ったのだが、大学の先生の側に相当な時間の自由がないとできない話である。日本でも昔、和辻哲郎は1時間の授業をするために15時間の準備をしたという話があるが、このような努力をより一般的なものにすることを求めるのであれば、先生方に対して少なくとも時間的な自由くらいは保証しなければならないはずである。諸星さん、鈴木さんが視野に入れているのは、ここで触れたハーヴァード大学や東京大学よりも卑近なところにある大学であろうが、だとすればどのくらいの努力を求めるのか、もう少し具体的に書く必要があるだろう。

 日本の大学教育について批判すべき点は多くあるし、批判することは自由であるが、問題点についての認識がどの程度の実証に基づいているのか、また自分たちの提言が大学人の心理を読み取ってなされているかを検討する必要がある。いくら正しいことを言っても、相手を怒らせるのは下手な議論である。今回で第3章を終えるつもりだったが、まだ少しの部分を残してしまった。急いで残りの部分と取り組んでいくことにしよう。 

近藤史恵『タルト・タタンの夢』

9月17日(水)曇り

 午前中、クリニックで診察を受け、午後、渋谷で映画を見ることにしたが、予定していた作品の開映時刻に間に合わず、別の作品を見ることになった。どんな映画だったかについては、いずれまた。

 9月16日、近藤史恵『タルト・タタンの夢』(創元推理文庫)を読み終える。2007年に創元クライム・クラブの1冊として刊行され、今年の4月30日に文庫本の初版が出て、私が買ったのが7月25日発行と奥付にある6版(初版第6刷とするのが正しいのではないか)であるから、かなり売れている⇒読まれている本のようである。また、続編も書き継がれたり、コミック化もされたりしているようである。それはそれとして、この作家の作品を読むのは私にとってはこれが初めてであるが、これからも読みつづけてみようと思った。

 下町の商店街の片隅にある小さなフレンチ・レストラン、ビストロ・パ・マル。カウンター7席、テーブル5つ。従業員は4人。シェルである三舟は、フランスの田舎のオーベルジュやレストランを転々として修業してきた変人。この店のただ1人のギャルソンで、物語の語り手であるぼくこと高築智行に言わせれば、「なにより『変わった人』である。なんたって、自分の店に<パ・マル=悪くない>なんて、名前をつけてしまうような人」(14ページ)である。長めの髪を後ろで結び、無精ひげなど生やしているが、これはフランスで修業中にMifuneという名前から三船敏郎の親戚なのか(フランス人には三舟と三船の区別がつかないのが幸いした)などと聞かれ、本物のサムライだなどと話題になったことからこのスタイルが定着したのだという。三舟さんのもとでスーシェル(副料理長)を務めるのは志村さん。以前は高級ホテルのメインダイニング働いていたそうである。なぜか三舟さんに心酔している。第3話「ガレット・デ・ロワの秘密」でわかることになるが、志村さんの奥さんの麻美さんは華やかな美人のシャンソン歌手で、志村さんがフランスで修業中に知り合った仲である。もう1人、紅一点のソムリエ、金子さんはワイン好きが高じてOLをやめ、この店に勤め始めたという女性で、20代後半、潔いほど短く刈り上げた神が印象的であるが、俳句好きで商店街の俳句同好会に加わっており、そのことで商店街の老人たちと店の関係を何とか持たせているという効果もあるらしい。この小さな店に出入りする客たちがっ出会った事件の1つ1つを取り上げた短編小説集の形をとる。

 フランス料理といっても、バスク地方のピペラードとか、アルザス地方のタルト・フランベとか、各地を遍歴した三舟さんらしいメニューが登場し、それらの料理が客たちの気持ちをとらえ、和ませるだけでなく、彼らが出会った不思議な出来事の謎を解くきっかけにもなる。読みながら、作者の料理についての知識の深さに圧倒されるが、実際の料理の腕前はどんなものだろうかなどと妙な好奇心も起こる。表題作「タルト・タタンの夢」では金子さんが実際にタルト・タタンを作ってみた経験が語られている。あるいは、作者自身の経験が反映しているのだろうか。なおタルト・タタンtarte Tatinは辞書によると、切ったリンゴを型に並べ込みパイ生地で蓋をしてオーブンで焼くタルトだそうである。

 全体として一応、推理小説の形をとっているが、人間が日常的に経験する心理的な不安や行き違いを、料理を通して身につけたシェフ=三舟さんの人生への洞察が解決していくという展開を取る。重大かつ深刻な事件ではなく、身近でどこででも起きそうな事件が人生相談のような形で解決されてゆく。その過程で、登場人物歌地に提供されている料理のレシピが克明に記され足り、ちょっとしたひと工夫だけが書き添えられていたりする。奥さんの機関銃のような早口のおしゃべりの中に、重要な気持ちが込められていたのを夫がいつものことだと聞き流してしまったために起こる「オッソ・イラティをめぐる不和」や、愛し合っている男女を引き裂いた性急な誤解を描く「ぬけがらのカスレ」など心理小説として読み応えがある。昨年、母を亡くしたばかりなので、「割り切れないチョコレート」に登場する兄妹の母親への思いも身につまされながら読んだ。(さりげなくネタバレになっている個所があり、まだ読んでいない方には申し訳ありませんでしたが、そういうタイプの小説です。)

 実際問題として、私自身についてみてもフランス料理を食べる機会はあまりない。この小説は舞台を下町に設定しているが、登場人物はそれほど下町風の雰囲気をまき散らしているわけではない。唯一の例外が同じ商店街の菓子屋の主人が高校時代の仲間を連れて登場する「理不尽な酔っぱらい」であろうか(どうも、居心地の悪い題名であるが、フランス語でUn mystérieux ivrogneという副題が付けられているので、フランス語のできる方は、そこから内容を推測してみてください)。わたしにしても、近所に1軒だけあるフランス料理の店の前の黒板を見ては、いつか入ってやろうと思うばかりで、そのいつかが何度も延期されている。「日々の憂さを晴らすための、楽しみとしての料理。だが、それは決して日常ではない。毎日続けば飽きてしまうし、体だって壊す。楽しみとしての食事が、日々の糧に取って代わることはできない」(82ページ)。非日常を演出しているスタッフにも日常はあるはずである。日常と非日常の微妙な交錯。ミステリーが生まれ、そして解決される。

 各編ごとに違う料理が出てくるが、それぞれに共通してヴァン・ショー(ホット・ワイン)が登場するのが興味深い。あるいは作者の好みなのであろうか。「赤ワインをお湯で割り、そこにオレンジの輪切りとクローブ、シナモンを加えて出来上がり」(33ページ)。そういえば、冬に訪れたロンドンのカムデン・タウンで屋台で売っていたホット・ワインを飲んだことがある。そして、この短編集全体になんとなく温かい雰囲気が流れていることも、ホット・ワインの味を思い出させる。

日記抄(9月10日~16日)

9月16日(火)晴れたり曇ったり

 9月10日から本日にかけて経験したこと、考えたことなど:

9月10日
 テレビ朝日の『マツコ&有吉の怒り新党』で「納得できる絵柄の星座がない」という怒りが寄せられていた。もともと星座は古代オリエント起源であり、その時代と現在とでは星の見え方が違うし、人々の想像力も違うので、これは致し方のないことであろう。むしろ我々の想像力の貧弱さを怒るべきではなかろうか。それ以前の問題として、私の住んでいるあたりでは、私の目がよくないこともあるだろうが、2等星がやっと見える程度で、そのためほとんどの星座がその姿を確認できない。まことに夢のないことである。

9月11日
 NHKラジオまいにちドイツ語応用編「言うが花のドイツ語」(Wer spricht, gewinnt.)の練習問題で
「今日のうちに飛行機の予約をする方がいいよ」
Es ist besser, du buchst heute noch einen Flug.
という文が出てきた。このheute noch(今日のうちに)というのをnoch heuteといってもいいが、noch heuteの方が切迫感があるという話であった。

 この言葉で思い出すのは八田元夫(1903-76)の書いた『まだ今日のほうが!』という戯曲で、1960年代の前半に上演されている。ナチスが勢力を増し、社会情勢が厳しくなっていく中でドイツの青年たちがNoch heute!とあいさつを交わしたという話が題名のもとになっている。本当にドイツの青年たちがそのように挨拶していたかについての真偽は知らない。

9月12日
 昨日に引き続き、ドイツ語の話題。日本語で「ざっくばらんに言えば」というところ、ドイツ語では
um es auf gut Deutsch zu sagen
というそうである。

9月13日
 神奈川県立近代美術館鎌倉別館に「ベン・シャーンとジョルジュ・ルオー」という展覧会を見に行く。ルオー(1871-1958)の版画集『ミセレーレ』全58点と、ベン・シャーン(1898-1969)の版画集『一行の詩のためには…:リルケ『マルテの手記』より』全24点を中心として、2人のその他の作品も含む展示である。フランスで活躍したルオーの太い線と、アメリカで活躍したベン・シャーンの細い線には共通点はないのだが、それぞれに興味深い展示ではあった。特に1930年代のアメリカの社会問題をとらえたベン・シャーンの『砂あらし』はスタインベックの小説やジョン・フォードの映画を思わせる時代の雰囲気を表現していて強い印象を残す。ベン・シャーンという画家について知ったのは、粟津潔さんの話を通してのことであったが、話を聞いたのはもう40年以上昔の話のことになってしまった。

 展覧会を見てから、小町通りを鎌倉駅の方に戻っていったら、20歳代の青年が、この通りはぼくが子どものころはこんなに観光地化していなかったなどと話していたので、何となくいやになった。駅の近くのクリスタル・ワールドという店でサービス品として150円で売られていたムーンストーン(月長石)を購入する。月長石といってもいろいろな石があるようである。

9月14日
 何日か前に届いていた小学校の同窓会の会報を読んでみたら、最近の物故者の中に同級生の名前を発見してびっくりした。櫛の歯が欠けていくような感じで、同級生の数が減ってきているが、私の髪の毛も薄くなって、櫛が要らなくなり始めている・・・。年をとるということは幾分滑稽でもあり、もの悲しくもあるということを改めて感じた。

9月15日
 NHKラジオ第二放送の文化講演会「軍師官兵衛の虚像と実像」を聴く。静岡大学の元学長で戦国時代の歴史研究で知られる小和田哲男さんの講演。知っている話が多かったのだが、黒田官兵衛が最初仕えていた小寺氏のもとで、毛利につくか織田につくかという評定が行われた際に、いち早く長篠の合戦の結果を踏まえて織田につくことを進言したという話について、彼が薬の行商人のネットワークを使って情報をいち早く入手していたことが役だったのではないかと推測していたのが興味深かった。さらに秀吉の小田原城攻囲戦の際に、最終的に北条方を説得して降伏させたのが黒田官兵衛であるが、それまで上杉や武田に攻囲されても小田原城が持ちこたえていたのは攻める側の兵農分離が進んでいなかったために農繁期になると軍勢が撤退していたためであり、秀吉の軍勢はそういうことがないのだと納得させたのだというのもなるほどと思った。単に情報を集めるだけでなく、分析し判断する能力に長けていたことが彼の軍師としての働きに大きく貢献していたようである。最後に、大きな組織になると、軍師・参謀の役割が重要になるといわれていたが、おそらくは静岡大学という大きな組織の中での学長という職務にあった経験に基づく意見であろう。

9月16日
 NHKカルチャーラジオ『聖地エルサレムの歴史』では、先週の第10回と、今週の第11回の2回にわたり十字軍について取り上げた。講師である笈川博一さんの話は、十字軍が全体として失敗であったというところに強調点が置かれていたが、十字軍遠征を通じて、西欧のキリスト教(カトリック)社会が東欧・中近東のイスラム教とキリスト教(東方教会)の文明と経済を吸収していったという側面も見逃せない。笈川さんも言われていたが、十字軍の始まる時点では東方の社会の方が文明も経済も発展していたのである。十字軍がキリスト教にとっての聖地回復という目的を果たせなかったにもかかわらず、その後の欧米の社会の中で肯定的な評価を受けてきたことは、歴史の教訓から学ぶということがいかに難しいかを示す一例であろう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(9)

9月15日(月)曇り

 ウェルギリウスに導かれて異界を遍歴するダンテは怒りと怠惰の罪を犯した人々の霊が捕えられている地獄の第5圏の中に建つ内城ディース城の入り口で前進を遮られる。先の見えない事態を恐れる気持ちでダンテの顔色は蒼くなり、怒りによってウェルギリウスの顔色は赤くなった。ウェルギリウスは、彼らの旅路がさえぎられるはずはないといいながら、道を切り開くと約束されていた存在の到着が遅いことをいぶかる。彼の言葉をききながら、ダンテは恐怖におびえる。彼の旅の初めに約束されていたことが真実であったのかさえも疑わしく思い始める。

 ウェルギリウスはダンテを励ます言葉をかけるが、城壁の上にはギリシャ・ローマ神話に登場する復讐の女神エリーニュス、見たものを石に変じる妖怪メドゥーサが出現して、ダンテの地上への帰還を阻もうとする。ウェルギリウスによって守られながらも、彼の遍歴をめぐる神意を疑い始めていたダンテは、
おお、健全なる知性をお持ちの諸君、
奇怪な詩句の覆いの下に隠されている
深い教えを探りたまえ。
(144ページ)と謎のような声を洩らす。

だが、すでに、濁った波の上を轟きわたったのは、
破壊の一撃の音。恐怖に満ち、
その衝撃に両岸が震え、

まるで敵対する熱の衝突から生じる凄まじい
暴風が引き起こした音さながらだった。
森を引き裂き、抵抗もなく

木を折り、引き倒し、運び去り、
先頭に砂塵を巻き上げながらすべてを制圧して進み、
獣どもや牧人たちを追い払うような。
(144ページ)姿で現れたのは神の使いであった(それがどのような存在であったかについては、ダンテは記さず、学者の中で意見は分かれている。) 城を通る道は開かれ、「他のことが気にかかって離れない」(148ページ)様子で、使いは帰っていった。

・・・
私達は都市に向かって歩を進めた。
あの聖なる言葉の後では何の心配もいらなかった。

私達は戦うことなく内部へと入った。
(148ページ)
 城の内部には墓地が広がり、蓋が完全には締め切られていない石棺が並んでいた。これらの石棺には生前に火刑に処せられるはずであった異端者たちの魂が収められており、
・・・石棺それぞれに炎が燃え広がり、
鍛冶の技でも鉄を焼くのにこれ以上はないほど、
どれもみな、ひどくも丸ごと焼かれていたからだ、
(149ページ)

 ウェルギリウスはダンテに告げる:
・・・「ここには異端の教祖どもが
追随者とともにいる。あらゆる分派を含み、あまりに数多く、
墓はお前が信じられぬほどの人数を収めている。

ここでは同門の者同士が同じ墓に埋められ、
墓石の持つ熱には強弱がある」。
(150ページ) 彼らがみたのは信じられないほどの人数の異端者たちであるが、それは教会の腐敗のために信仰を離れ、正統教義を信じなくなった多数の民衆や市民の存在への認識があると原さんは注記している。教会権力との戦いに敗れて異端として処断された多くの民衆や市民を地獄の魂として描かずに、もっと別の描き方をするやり方もあったのであろうという疑問をもつ方も少なくないのではなかろうか。正統と異端の問題はヨーロッパ中世の多くの人々にとって重大な問題ではあったが、果たして、それが彼らの信じる神の偉大さにとってどれほどの重要性をもつ問題であったのかを、ゆっくり考え直す必要もあったのではないか。自分の思想の正統性を強調するだけでなく、より多様な信仰の在り方、正義についての見方を許容する姿勢があってもよかったのではなかろうかと思うのである。

諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(5)

9月14日(日)晴れ

 この本の著者である諸星さん、鈴木さんはこれまでしきりに大学がミッションをもつべきであることを強調されてきた。そのこと自体に異論はないのだが、そのミッションのとらえ方に違和感を感じる。お2人は私立の文科系の大学で教職歴を重ねられてきたが、グローバルな視野でみて日本の大学を判断する際に重要なのは国立の理科系、医療系の学部と工学系の学部における研究・教育である。

 私が15年ほど前に英国に行った際に、向こうの大学では大学人が政府の高等教育政策に反対して盛んに抗議行動をしていた。その際に強調されていたのは、大学は医療関係者、エンジニア、教師、ソーシャル・ワーカーなどの養成を通じて社会に貢献してきたではないか、それを切り捨てるというのはどういうことだということである。つまり大学というのは公共性をもつ専門職の養成という使命があったはずだが、そのあたりの議論がこれまでのところでは抜け落ちていたように思われる。それから、ある人々は主張するだろうが、このような専門職養成の大学という考え方は少し古くなってきている。情報化社会、知識社会においてはもっと新しい使命が考えられてよいはずである。このあたりの議論も十分とは言えない。以上、私がこの本の紹介でわだかまりがあると書いたことが少し具体的に表現できるようになってきたので、そのことを知るして、また本文の検討に戻りたい。

 諸星さんはミッションがあってこそ、しっかりとしたカリキュラムの構成が可能になるという。「その大学としてのきちんとしたカリキュラムがないから、学生にマッチした授業ができていないということになります。社会の中堅労働力を育成するような大学で旧帝国大学系のようなカリキュラム編成をして、その中で相変わらず自分は研究者、学者だと思い込んでいる先生が、自分の授業など学生が聞いていようがいまいが関係ないというような、十年一日のごとき授業をやっていて、一体どうなるんですか」(90-91ページ)。ここで「中堅労働力」というところが気になるところで、そういう大学もあるだろうが、こちらはもう少し上の「専門職養成」の大学を念頭に置いているということである。

 これを受けて鈴木さんは「カリキュラムと授業の進め方の具体的な方策として『シラバス』導入の勧めも文科省から要請されるようになりました。アメリカの大学では当たり前のシステムでしたが、7,8年前の日本ではシラバスという言葉自体がまだあまりなじみがなかったかもしれません。あるいは、言葉としては知っていても、実際にやってみようかという大学教員がどれほどいたのでしょうか」(91ページ)という。「7,8年前」というが、医療系の大学・短大などではもっと早い時期からやっていたというのが、この種の学校の非常勤講師をしてきた経験から言える。ただし、授業の内容は明示しても、なぜそのようなことを教えるのか、またそれが将来の職業生活等の中でどのように生かされていくのかというようなところまでは示されないところがあったとは思う。私自身も授業についてはかなり計画的に実施していたつもりで、評価の方針なども明らかにしていたが、それが全体的な意思統一のないままに一人で勝手にやっていたというのは問題であったかもしれない。いずれにしても、こういう風な授業をして、こういう方向に学生の経験を積み重ねて、こういう人材の育成を目指しますよ、そのためにこういう勉強をしてください、こういう風に評価しますよという一連のはっきりした流れを作ることが求められるというのである。

 ただし、2つほど例外を留保しておく必要があるだろう。1つはウィットゲンシュタインがケンブリッジで行った講義のように天才的な学者が創造的な学説を展開するような授業の場合で、彼はぶっつけ本番でしゃべっていたらしいが、そういう可能性も残しておいた方がいい。実際に授業をやってみると、新しい問題が出てきて、なかなか講義が進まないこともありうる。特に学問研究の最前線にあるような場合はなおさらのことである。以前に当ブログでも書いたことがあるかもしれないが、京大の理学部で量子論の授業を聴きに行ったら、前年度の講義が終わらずにまだ続いていたというようなことはむかし話だとは言えないのではないか。まあ、こういうのは大学院レヴェルの話で、学部で心配することではないかもしれない。もう1つは、大学の授業がすべて自動車学校式に、1段階で習得する知識やスキルが決められていて、それを積み重ねていくというやり方でいいのかということである。中には話を聞くだけでいい授業、学生にとって何か心に残るものがあればそれでいい授業というのもいくつか用意されていていいのではないか。この点も考えるべきだろう。

 諸星さんは、「ミッションは一度決めたら不変のものではありません。時代に合わせて柔軟に変えていくべきである」(95ページ)とも説明している。大学のカリキュラムもミッションに合わせてどんどん変えていくべきである。特にこの問題が地方国立大学に即して語られているが、都道府県の境界を超えた大学間の連携などの提言はあるとはいうものの、現状についての具体的な分析がしっかりと展開されているわけではないので、説得力を欠く。地域医療や経済の問題に対して、大学がどのように対応できているのか、いないのかが示されないと、抽象論になってしまう。著者たちの経歴を考えても、まあそういうことを言うのはわかっていると、国立大学の先生方からあしらわれる恐れがある。最初の方で述べたが、グローバル化だけでなく、情報社会とか、知識社会に向けての大学のミッションということでの理論武装が必要ではなかろうか。

 第2章で手こずってしまったが、次回から第3章を取り上げることにしたい。

『太平記』(10)

9月13日(土)晴れたり曇ったり

 久しぶりに鎌倉に出かける。東京や横浜に比べて緑の濃い町であるという印象を新たにする。京都育ちで、横浜市大の先生をされていた歴史学者の今谷明さんが、鎌倉の緑は京都の緑に比べて劣るという感想を語られていたが、京都の方が鎌倉よりも都市の規模が大きいことと関連しているかもしれないと思う。京都と鎌倉を主要な舞台とする『太平記』を読む際に、考慮すべき事柄の一つであろう。

 さて、今回はこの書物の中でも有名な阿新丸(くまわかまる)の物語を取り上げることになる。正中の変の首謀者の1人である日野中納言資朝の子息で、後に邦光と名乗ってやはり中納言となった。

 鎌倉での評定の結果、後醍醐天皇による倒幕計画の首謀者として北畠具行、日野俊基、日野資朝の3人が処刑されることになる。この知らせが京都に届いたので、阿新はまだ13歳であり、父親が捕えられたことから仁和寺の近くに隠れ住んでいたが、父親が生きているうちに一目でいいから会って、一緒に斬られるなり、あるいは父の最後を見届けるなりしたいと思い詰め、その由を母親に告げる。母親はいったんは止めるが、阿新の決心は固く、家に代々つかえている中間のものを連れて父親が流刑にされている佐渡に旅立とうとする。それで母親もやむなく、息子を送り出すことになる。

 まだ年少であり、旅慣れないこともあって、気持ちはせいてもなかなか旅は進まず、10日ほどかかって越前の敦賀に到着する(ちょっとかかりすぎではないかと思う。途中で道に迷ったのではないか?)。そこから商人の船に乗って佐渡に到着する。そして父親を預かっている本間山城の入道の館にたどり着く。本間は佐渡の守護である大仏貞直の家臣で守護代を務めていた。現在でも、佐渡には本間という姓の人が少なくない。

 阿新は館の前にやってきて、取次ぎを頼む人もいないので、中から出てきた僧侶に事情を告げて、父親に会わせてくれと頼む。同情した僧侶は承知して、本間にこのことを告げ、本間も阿新を受け入れることを承知して、館の中の持仏堂に受け入れた。しかし、父子を対面させようとはしないまま、時間が過ぎていく。本間としてみれば、幕府へのおもんばかりもあって、そう簡単には父子を会わせるわけにもいかないのである。

 かくするうちに5月29日の夕暮れ時、資朝卿を牢から出して、久しく入浴されていないので、行水をされたらいかがですかという。資朝卿はさてこそ、死期が訪れたかと察知して、息子に会えぬままであることを悲しみながらも何も言わず、用意された輿に乗り、刑場である河原に向かう。そして敷皮の上に座って辞世の頌を書き記す:
 五蘊仮に成ることを得
 四大今空に帰す
 首(こうべ)を将(も)って白刃に当つ
 截断す一陣の風を
(99-100ページ、五蘊が仮に形をなして人となることができたが、四大は今本来の空に帰ってゆく。首を差し出せば、ただ白刃はつかの間の風を断つのみである。) 宋学を学んだ資朝ではあったが、最後に行き着いたのは仏教的な死生観であったのだろうか。

 資朝がこのように書き終えすろすぐに、本間三郎が後ろに回って太刀を構え、彼の首を切り落とした。しかし首は落ちても死骸は座ったままであった。この間、資朝の側にいた僧侶が葬礼を行い、遺骨を阿新に渡す。阿新はいうこともなく涙に搔き暮れるが、中間に父の遺骨をもたせて高野山に収めるように言い聞かせて都に帰らせる。そして自分は気分が悪いと仮病を使って館に居続ける。

 阿新は本間父子のどちらか一方でも討ち取って仇をとろうと、機会をうかがううちに4,5日が立って雨風が激しい夜があり、本間三郎が寝ているところを見かけることができた。阿新は武器は身につけていなかったが本間の枕元には太刀も刀もあり、燈が消えたときを見計らって本間を殺そうとしていると、蛾が飛んでくる。そこで障子を唾で濡らして穴をあけ、蛾を部屋の中に入れると燈が消えたので、本間の枕元の刀をとって腰にさし、太刀をとって鞘を外し、三郎の胸を突き通し、返す太刀で喉笛を切って、そのまま後ろの竹原に隠れた。

 本間の家の人々が気づいて騒ぎ立てるが、阿新は隠れ遂せ、幅約2丈(6メートル)ほどの堀をその上に覆いかぶさっていた竹を利用してわたり、追っ手を交わして港のほうへと急ぐ。途中であった山伏の助けを借り、彼が法力で呼び戻した舟に乗って越後の(国)府(直江津)に到着することができた。こうして彼は父親の仇を討って京都に戻ったのである。

 首謀者の1人である資朝については以上のような物語があったのだが、他の関係者についてはどのような物語があるのだろうか。それはまた次回。

田丸公美子『シモネッタのアマルコルド』

9月12日(金)晴れ後曇り

 田丸公美子『シモネッタのアマルコルド』(文春文庫)を読み終える。40年以上にわたりイタリア語通訳・翻訳の仕事に携わって活躍してきた著者の様々な思い出を集めたエッセー集。シモネッタというのは今は亡きロシア語通訳の米原万里が著者につけたあだ名で、スペイン語通訳の横田佐知子さんのガセネッタというのと対をなす。シモネッタ⇔下ネタ、ガセネッタ⇔がせねたというわけである。ガセネッタというスペイン女性の名前があるかどうかは知らないが、シモネッタという名前のイタリア人女性としてはシモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチ(1453-1476)という絶世というか、歴史を突き抜けたような美人が知られている。ボッティチェッリの『ウェーヌスの誕生』のモデルと長く言われてきた女性である。丸紅コレクションの展示会で、ボッティチェッリの書いた彼女の肖像画を見て感激したことを思い出す。芸術家の霊感を刺激することによって薄命ながらその美しさを長く伝えることになった美女の一人である。

 「アマルコルド」は「フェデリコ・フェリーニの有名な映画のタイトルで、『私は覚えている』という意味のロマーニャ地方の方言だ(標準語でMi ricordo ミ・リコルド)。フェリーニの生地リミニの心象風景を幼少時の記憶を辿って描いた叙情的な作品だ」(207ページ)とあとがきに記されている(作品の背景について解説したこの後のパラグラフが面白い)。田丸さんはフェッリーニがお好きなようで、「通訳が私情で行動するのはタブー。サインは頼めない。唯一例外をつくったのが…フェデリコ・フェリーニ監督とジュリエッタ・マシーナのカップルだ。尊敬する2人に頂いたサインは、私の大切な宝物だ。ただ、残念なことに、どちらのサインなのか見分けがつかない。有名人のサインは、すぐに名前を書いておかないと、後で見直しても読めないことが多い」(129ページ)のだそうだ。

 そういうわけでこの書物は田丸さんがその通訳・ガイド人生の中で経験した様々な出来事、出会った人々の思い出をNHKのラジオ・テレビの語学番組のテキストや、その他のメディアに書いたエッセーを収録したものであるが、イタリア語を勉強している人間にはもちろんのこと、日本とヨーロッパ、さらには異文化との交流や衝突について関心をもつ人々にとって様々な示唆を与える書物となっている。

 著者が初めてイタリア人の団体のガイドをすることになった時に、先輩から言われたことは、絶対に「知らない」というな、言うとお客たちからなめられて、統率がとれなくなるというものであった。それやこれやでイタリア人から質問されるたびに頭をひねってもっともらしい答えを編み出してきたことで、「自分の国を異邦人の目で改めて見直し、自国に対する理解を深める」(21ページ)ことができるようになったという。

 社会や文化についてだけではない、言語についても同じことが言える。相手の言語だけでなく自分の言語についても豊かな語彙を準備できていなければ、話者の意図を満足に伝えることはできない。このあたりの事情がよく語られているのが「今までで最も緊張した仕事」(96ページ)だという2999年の幕開けを祝う1999年のクリスマスミサについて書かれた文章である。番組が始まってみると、アメリカ向けのバージョンが送られてきて、英語通訳が1人で奮闘することになる。そしてヨハネ・パウロⅡ世が口を開かれた。
”Hodie natus est nobis salvator mundi."
「仰天‼ ラテン語ではないか! 自慢ではないが、私が大学で不可をとった教科だ。幸い、大学院も出た研究者である同僚が難なく訳してくれる」(97ページ)。訳は書いていないが、「本日は、世界の救世主の誕生日であります」というようなことであろう(間違っていたらごめんなさい)。それからイタリア語で話し始める:
”La Chiesa Ti saluta e insieme con Te vuole entrare nel terzo millennnio." (教会は、御身にあいさつし、御身とともに、第3千年紀へと入ろうとしています)
 なんと、ここでtuと呼びかけている相手は神様なのだ。(田丸さんは「君」と訳しているが、私は「御身」と訳しておいた。イタリア語の2人称はtuであるが、ここではTuと大文字で表記されていることにも注意を払うべきであろう。) その後も教皇の話はつづき、それぞれに注意すべき点が列挙されている。この後、このメッセージを通訳の教室でテキストとして使ったところ、「神の嬰児(みどりご)」という訳語を聞いて、「赤子を緑にすると”超きもい”」といった生徒の話が紹介される。

 日本とイタリア、日本語とイタリア語が違っているだけではない、それぞれがそれぞれの変化を遂げている。これまで経験したことのないような新しいイタリア語とイタリア人に出会うけれども、日本語と日本人についても同様である。そのあたりのことを著者は少し苦々しげな口調を交えながらも、できるだけ客観的に記そうとしている。

 この書物の中にも登場する岡本太郎さんが、NHKラジオのまいにちイタリア語の時間で取り上げたし、それに刺激を受けて私も見に出かけたイタリア映画『人生、ここにあり! (Si può fare=やればできるさ)』は精神病院を閉鎖し、患者を地域で見守るという試みを描いた作品であるが、イタリア社会の特色がよく出た作品でもある(もちろん、この試みを理解しない、あるいは反対する人々も多数いる)。「友人のイタリア人は当たり前のように言っている。『イタリアで天才が生まれるのは、みんなどこかいかれているからさ。まあ、言ってみれば、国が巨大な精神病院みたいなものなんだ。隔離する必要はない』」(176ページ)。心を病む人々を個性として受け入れること、そして自分たちの中にもある病にも気づくことがおそらく大事なのであろう。しかし、社会は変化し続けている。さらにまた、イタリアを見る目、経験したものの精神もまた多様である。

 この書物の最後に収められているエッセー、「人生は笑いの中に」では、ある意味で対照的な2人の女性:田丸さんの母親と、田丸さんが尊敬するイタリア文学者である須賀敦子の思い出が出てくる。母親はがんの手術を受けたにもかかわらずまだまだ元気である。「原爆を生き残った人のパワー恐るべしだ」(204ページ)。ナポリの喧騒と無秩序とを忌み嫌った須賀さんは本当にイタリアが好きだったのだろうかとも問うている(確かに須賀さんのエッセーは北イタリアを舞台にしたものばかりである)。そうはいっても、須賀さんはカトリック信者でイタリア人男性と結婚して、カトリック左派の社会活動に従事していたのだから、イタリアに対してはいろいろなかかわり方があるし、それはそれとして認めるべきではないかなぁと思う。イタリア人の先祖のローマ人だってエピクロス派の哲学だけでなく、ストア派の哲学の信奉者もいたのである。

 イタリアとイタリア人、イタリア語についていろいろなことを教えてくれる書物であるとともに、日本とイタリア、日本事tのイタリア人のかかわり方、そして日本の文化と社会の特色などいろいろなことに気付き、考えさせてくれる書物である。

諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(4)

9月11日(木)曇り、雨が降りそうで降らない。大雨で被害が出ている地方もあるという。大事に至らなければよいのだが…

 この書物は、長年大学教育に携わってきた2人の対談者の経験を踏まえて、大学改革を論じる内容であるが、2人の経験は日本とアメリカ・カナダにおけるものであって、基本的な論旨は日本の大学もアメリカ・カナダに倣う方向で改革を進めるべきだということである。
 これまでの議論で中心的に論じられてきたのは、大学がミッションをもち、それを対外的に明らかにすべきだということである。ミッションとは大学が社会に対して果たすべき役割であり、大学の存在意義である。ここで問題になるのは、大規模な総合大学の場合、統一的なミッションを掲げることが可能になるかということである。日本人の一般的な大学観として、大規模な大学がいい大学であるという認識があるだけに、この問題は避けて通るわけにはいくまい。
 それから、これは後で問題にするつもりであるが、日本の大学がアメリカ・カナダに倣う方向で改革を進めるべきかということについても慎重な検討が必要である。各種の国際的な大学ランキングを見ると、日本以外のアジア諸国の大学の躍進が著しいし、そのほかではオランダやスイスの大学の評価が高い。このあたりがどういう事情によるのか、検討してみる価値はある。

 さて、鈴木さんはアメリカの大学での入学者の選考をめぐるアドミッション・オフィスの役割について次のように述べる:
アメリカの場合、各大学にアドミッション・オフィスがあり、入学者選択についての全権を与えられた担当者がいて、アメリカ全土のめぼしい高校を巡りますね。
これに対して、諸星さんが:
・・・ アドミッション・オフィサーと呼ばれる入学についての専門家、プロフェッショナルです。
(86-87ページ)と答え、アドミッション・オフィサーの仕事ぶりについて説明している。高校を回って高校生と面談して、どういうことに興味があるのか、どういうことをやりたいのかといったやり取りをして、それに基づいて大学と本人の間でやり取りを重ね、大学を実際に見に出かけたり、奨学金についての確認をしたりして、両者の合意の上で入学を決定していく。
諸星 自分の大学のミッションをきちんと理解した専門家が、そのミッションに照らして、自分の大学と学生とのマッチング、ベストマッチを検討するということですね。
鈴木 私などは、かねてから、実に羨ましいシステムだと見ていました。
(87ページ)という議論の流れになる。しかし、「各大学」、「めぼしい高校」など気になる表現がみられる。アメリカの大学の数は多いので、アドミッション・オフィスの仕事ぶりもかなり多様なのではないか。全国の高校をめぐって高校生と面談するという大学ばかりではないのではなかろうか。それから、めぼしくない、大学のアドミッション・オフィスから相手にされない高校もあるということなのであろうか。
 そういうことを考えると、アメリカのアドミッション・オフィスの制度にも問題点があるのではないか、その点も含めて制度の全体をより実証的に検証してみる必要があるのではないかと思えてくる。実際に、アメリカの大学にも問題がないわけではない、大学に入学したのはいいけれども、ドロップ・アウトしたり、教室内で銃を乱射したりという学生が出ているのは、どういうことであろうか。日本の大学でも中退者は少なくないが、このあたりも数字を挙げて両者を比較検討していく必要がありそうである。
 お二人の職歴から判断して、アメリカの中堅どころのかなりいい大学での経験が判断の根拠になっているようであるが、もっと下の方の問題を抱えた大学についても視野を広げてみていく必要もあるのではないか。それから自分の受けた教育も、教えてきた内容も、文科系に偏っている傾向がみられる。理工系や医療系の学校で教えてきた経験を持っていると、もう少し見方が違ってくるのではないかという気がする。

 そうはいっても、ミッションに基づいて入学者を選考すべきであるという主張には筋が通っている。鈴木さんは、御自分が学長を務められている国際教養大学では「求める学生像」を明らかにして、入学者の選抜をそれと結びつけるように努力しているという。諸星さんは「その『求める学生像』と『選抜方法』が不可分だという考え方こそ、ミッションと学生のマッチング、アドミッション・ポリシーによる本来の学生の選抜法ですね。」(88ページ)とまとめている。たしかに望ましい方向ではあるが、日本の大学の実情に照らして実際にどこまで可能かの検討も必要ではなかろうか。

 鈴木さんはさらに、最近では在学中も卒業後も学生をサポートしていくという「エンロールメント・マネジメント」という言葉が盛んに使われていることに注意を向ける。どのようにサポートしていくかということも大学のミッションと関係するが、と同時に大学側の構想からずれていく学生たちにどのように向き合っていくか、学生の伸びしろを考えながら教育の在り方を調整していくことが求められるという。大学の定員が決められ、入学にあたっての判断の基準が「偏差値」に依存している日本の現状では難しいことも多いと論じられている。

 ここまで議論は日本とアメリカ・カナダの大学の比較をもとに進められてきたが、両者ともに大学といってもピンからキリまであるわけで、そのあたりを具体的に評価しながら慎重に比較していくこと、さらに第3の在り方をしている制度の実例も取り上げて議論を膨らませていくことも必要なのではないかと思われる。

 今回で第2章の検討を終らせるつもりだったが、達成できなかった。読めば読むほどいろいろなことを考えさせる本であり、何とか最後まで検討を続けていきたいと思っている。

 このブログを始めて以来、読者の方々からいただいた拍手の合計が本日で3,000に達した。ご愛読に改めて感謝申し上げる次第である。

バナナ

9月10日(水)曇り後雨

 ラピュタ阿佐ヶ谷で渋谷実監督の1960年作品『バナナ』を見た。獅子文六(岩田豊雄)の同名の新聞連載小説の映画化。渋谷はそれまで獅子文六の『てんやわんや』、『自由学校』の映画化を手掛けている。残念ながら両作品ともに見ていないが、渋谷の愛弟子で、その作風をよく継承したといわれる川島雄三が獅子文六作品を映画化した『特急にっぽん』、『箱根山』を見ている。戦後の世相の変化によって生じる悲喜劇をいち早く見つけて描きだす速報性が獅子文六の作風の特徴であるが、同時代の社会相の描き方が表面的で、そのため来るべき変化を予見できないという問題点も見られる。だから川島作品に即して言えば、人間模様を表面的に描いた『特急にっぽん』はそのままで楽しめるが、箱根の観光利権をめぐる2大私鉄の戦いを描いた前半と、加山雄三と星由里子の恋愛模様を描く後半部分にはっきり分かれてしまった『箱根山』は失敗作といわざるを得ないのである(前半の描写が快調であるだけに、後半の変調が惜しまれる)。そのような特徴が『バナナ』にもみられるのではないかと思った。

 戦後不動産の売買で財産をきずいた呉天童は華僑世界の大物として、今はほとんど仕事をせずに食道楽を中心とした優雅な生活を送っている。その日本人の妻紀伊子はシャンソン愛好のマロニエ会の熱心な会員であり、息子の大学生竜馬は自動車に熱中している。それぞれが世の中の動きとは距離を置いて優雅な生活をしている。
 竜馬は一生懸命貯金した20万円にさらに20万円を足せば、ほしい車に手が出るので、父親に残りをねだるのだが、天童の方は車はだめだと理解を示さない。竜馬と大学の同級で仲のよい女子学生サキ子は突然シャンソン歌手になると言い出し、竜馬に後援会のまとめ役を依頼する。竜馬はこのことから用事を抱え込むことになる。サキ子の父親の貞造は竜馬の父親が華僑世界の大物で、叔父が貿易商であることを知って、バナナの輸入枠を分けてもらうことを頼んでくる。彼は戦前はひとかどのバナナ商人であったのが、戦後は輸入が制限されているために青果の取引一般に仕事を変えているのである。神戸に赴いた竜馬に叔父の天源はお前にも商人の血が流れているはずだといって、バナナの輸入の権利を譲る。竜馬はバナナの輸入の仕事をはじめ、その事業は順調に滑り出したかに見えたが、彼のもとに魔の手が伸びる。

 グローバルな経済の中でバナナが果たしている役割については、鶴見良行をはじめ多くの研究者が注目してきたが、そうなるのはもっと後の話である。2つの中国の対立と、それが日本に住んでいる華人の間に生み出した対立は、この物語の進行に少なからぬ影響を及ぼしているが、このあと1970年代以後にさらに大きく変化することになる。さらにこの作品では在日華人の家庭における世代間の対立ということも視野に入っているが、これはそれほど大きな問題としては描かれていない。それよりも、大学で空手をやっているという竜馬が後半でその腕前を示す場面があって、これが結構面白かった。惜しむらくはこの作品はブルース・リーの映画が日本で盛んに上映されるようになる10年以上も前の話で、総じて、この作品は作られたのが早すぎるのではないかという印象をもってしまう。何か、これからまだ波乱が起きそうなところで物語が終わってしまうのもこうしたことと関係があるはずである。

 天童を尾上松緑、紀伊子を杉村春子と文化勲章受章者(ただし杉村は辞退)が演じているほか、宮口精二、小沢栄太郎、小池朝雄、神山繁、仲谷昇と舞台俳優が多く脇を固めていて、それぞれの個性で物語の進行を盛り上げている。渋谷監督の映画作りは明暗を強調したり、各場面で俳優に思いがけない動作をさせたりして、巧みに喜劇性を醸し出している。サキ子を演じる岡田茉利子の多少型にはまってはいるが生き生きとした演技に加え、コンサートの場面で歌を披露するというサーヴィスもある。彼女の父親以外の年長者に対する言葉遣いが丁寧なこと、津川雅彦や小池朝雄の詰襟の学生服姿にも当時の学生風俗の一端がうかがわれる。天童のグルメぶりの描写の中でいろいろな中華料理が画面に出てくるほか、日本料理も登場し、ちょっとした料理映画の趣もある。それにこの時代の渋谷周辺や東急沿線の情景の描写が懐かしく感じられる。

 喜劇には観客が感情移入できる身近な存在の身近な出来事を描くものと、突き放してみてしまう異色の人物たちの異例の人間模様を描くものとがあるという風に分類すれば、これは後者に当てはまる。渋谷監督の映画作りはきわめて古典的なものに思われるが、それだけに手堅く、傑作とは言えないかもしれないが、安心してみることのできる作品に仕上がっている。

日記抄(9月3日~9月9日)

9月9日(火)曇り後晴れ

 9月3日から本日にかけて経験したこと、考えたことから:
9月3日
 シネマヴェーラ渋谷で『わが闘争』と『つむじ風』の二本立てを見る。シネマヴェーラでの中村登作品回顧上映と並行する形で、ラピュタ阿佐ヶ谷で「松竹大船撮影所」で作られた映画の特集上映が行われていることを知る。特に渋谷実作品が多く含まれているところが魅力的である。小生は、喜劇映画には一家言あるなどと自称しているが、日本を代表する喜劇映画監督の1人である渋谷実の作品はまるで見ていない。そういう意味では貴重な特集上映であると思うが、既に予定の半分以上を消化している。気がつくのが遅かった!!

9月4日
 カルチャーラジオ「生誕450年 シェークスピアと名優たち」の第10回「当代の看板役者::『ハムレット』」を聴く。主人公の独白部分が全体の中で占める比重が大きいこと、知的な作品であるという評価が定着していることなどから、それぞれの時代時代でその時代を象徴するような『ハムレット』の上演が行われてきたことが概観された。1965年のピーター・ホール演出による上演(ハムレットを演じたのはデイヴィッド・ウォーナー)、2000年のマイケル・アルメイダ監督、イーサン・ホーク主演の映画などが紹介されていて、講師である前沢浩子さん(独協大学教授)の関心が新しいハムレット解釈に向けられていることが分かる。日本人としての視角からは、志賀直哉が「クローディアスの日記」という小説を書いていることについて、言及がされてもよかったかなと思う。

9月5日
 ルーテル市ヶ谷ホールで「別府葉子 シャンソンコンサート in 東京」を聴く。別府さんは大阪と四国を中心に活動している歌手であるが、東京でもコンサートを開いていて、これが6回目だそうである。私はというとシャンソンのコンサートを聴きに出かけたのは、1966年に京都労音の主催による岸洋子のコンサートを聴きに出かけて以来48年ぶりのことである。別府さんには何度も当ブログをご訪問いただいているので、せっかくの機会を逃すわけにはいかないと出かけた次第。洋子⇒葉子というつながりもある。
 第Ⅰ部は別府さん自作の「月虹(げっこう)」など、シャンソンのカテゴリーに必ずしも入らない歌が多く歌われたが、それゆえに多様な歌の世界を覗いていく楽しさも感じられた。第2部でLe monde est fou(世界は狂ってる)を歌う前に、シャンソンは社会問題を取り上げたものが多いという前ふりをしていたが、これは歌うほうと聞く方の意識の反映であろう。1980年代の林田遼右さんが担当されていたフランス語の入門番組でいろいろなシャンソンの放送を聴いたことを思い出す。
 さて、コンサートであるが、第2部の後半かなり盛り上がったが、もう少し盛り上がってもよかったかなと思う。来年は誰かを誘って出かけてみようかと思う。その方が別府さんも喜ぶはずである。

9月6日
 NHKラジオまいにちドイツ語のテキストに掲載されているケストナーの『飛ぶ教室』について、英国のペンギン・ブックスから出版されているパッフィン・ブックスに収められている英訳を見つけたので、ドイツ語、英語、日本語で一部を紹介してみることにする。
 ドイツのある地方都市にある寄宿生のギムナジウムの5年生の生徒たちが、クリスマスに『飛ぶ教室』という題名の未来の学校を描く劇を上演しようとする。上演に向けての準備の最中に同級生が、同じ町にある実業学校(レアールシューレ)の生徒たちの襲撃を受けて、自分の父親が担当する授業の書き取りのノートを奪われるという事件が起きる。どうしたらよいか、彼らは払い下げの鉄道車両に住む禁煙さんの所へ相談しに行った。禁煙さんというのはあだ名で、払い下げの鉄道車両が禁煙車であったことによるものであり、彼自身は喫煙者なのである。
Sebastian sagte:≫Es wird das Gescheisteste sein, wenn Fridolin gleich abschwirrt und bei Kreuzkamms unauffällig festistellt, ob der Rudi inzwischen heimgekommen ist und ob er die Diktathefte mitgebracht hat.≪
’The thing to do,' said Sebastian, 'is for Fridolin to go off at once and inquire discreetly at Kreuzkamm's wheter Rudi has got home and whether he's brought the exercise-books with him.'
セバスティアーンが言った。「フリードリーンが今すぐ走っていって、クロイツカムさんちで、ルーディがもう帰ってきてるか、書き取りノートをもってきてるか、こっそりと確かめれば、一番いいんじゃないかな」

 物語の舞台になっているギムナジウムは寄宿制(自宅からの通学生もいる)という設定であるが、ドイツのギムナジウムは大体において通学制のほうが多いようである。ケストナーは自分のできる限りで少年たちにとって理想的な環境を想定しているように思われる。

9月7日
 ちょっと日付は違うのだが、白上謙一『ほんの話』(教養文庫)の一節を引用しておきたい。
・・・父が警視庁の役人であったためかもしれないが、関東大震災は子供だった私の目を、家庭から離れて初めて社会というものに向けさせる契機となった事件であった。社会とか日本人とかを問題にするとき、私の心には何時も真黒に汚れた数寄屋橋の仮橋を通る馬車の音が戻ってくるのである。
 私のいう関東大震災というのが9月1日の正午近く、グラグラと来た地震のみを指しているのではないことを強調したい。対象という年号はその後2,3年はつづくのであるが、震災とともに吾々を生み、育てた大正時代の文化がガラガラと崩れていくのである。
(90-91ページ)

9月8日
 NHKラジオまいにちイタリア語入門編で出てきたミニ会話の一部:
Madre: Dove sei stata ieri sera?
Figlia: Sono stata alla festa di Laura. È tornata da Berlino.
母: 昨日の夜はどこに行ってたの?
娘: ラウラのパーティーに行ったの。ベルリンから帰ってきたのよ。

 イタリア語では「近過去」という時制になるが、英語だと「過去」になるはずである。自分の知っている言語で、ここはどういうか…を考えていくと、それぞれの言語の特徴がより深く理解できるのではなかろうか。

9月9日
 NHKカルチャーラジオ『聖地エルサレムの歴史』第10回の再放送で十字軍についての講義を聴いた。十字軍が現在に至るキリスト教とイスラム教の抗争の主要な動因になっているということなのだが、この問題について異文化に属する誰かと議論するつもりはないし、それだけの語学力もない。インドの学者を相手に仏教とヒンズー教の異同について議論したことがあったが、それが自分のできる限界ではないかと思っている(語学力よりも、宗教理解の問題である)。
  

諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学消える大学』(3)

9月8日(月)雨が降ったりやんだり

 今回は、この書物の第2章「『日本の大学の致命的欠陥』は今、どうなっているのか」の後半部分について取り上げていくつもりであったが、章の終わりまで到達できなかった。それだけ日本の大学の抱えている問題点は深刻であるということであるが、この書物で示されているそれらの問題点についての取り組みの方向にも問題が少なくないということである。

 2人の対談者の展開する意見の多くに、賛同できる部分があるのだが、それでも全面的に支持する気持ちにはなれない。前回取り上げたこの章の最初の部分で諸星さんは日本の大学の致命的欠陥として9つほどの問題を指摘されていたが、その中には必ずしも「致命的欠陥」とは言えないものもあるのではなかろうか。たとえば、2番目に挙げられている「一発試験」であるが、この制度について海外の大学関係者に説明すると「素晴らしい」と評価される例が少なくないという話もある。すべての大学が「一発試験」によって合否を判定していくのは問題が大きいが、公正ささえ確保されれば「一発試験」の利点は大きいのである。(社会的な弱者が競争において勝利する可能性が大きいのは短期決戦であるということも考えるべきであるということである。)

 それから本日2018年になると18歳の年齢人口が激減するために大学は危機を迎える、従来は地方の私立文系大学が危ないといわれていたが、危機はさらに拡大すると予見されるというニュースが報じられた。この書物は、少子化によって従来であれば大学に入学してこなかったような低学力層が入学してくるという問題を踏まえて書かれているのであるが、少子化のさらなる進行は、入学者自体が確保できない事態さえも予測させるものになっていきそうである。

 そういう事態も含めて、著者たちは「弱肉強食」といいたいのであろうが、この書物の内容とこのうたい文句はどこか食い違うところがある。著者たちの本音は大学間の競争による質の改善⇒大学改革ということよりもまず、大学と社会の中で蔓延し、その中での無気力化の原因となっているミスマッチをなくしていくということにあるのではないかと思われるからである。私自身が大学で教えているときに、学生たちがいろいろな機会に「自分がこの大学でこんなことをしていてよいのかと疑問に思う」という感想を述べているのに出会ったことが少なくない。そういう悩みは自分なりに解決してから大学に入ってくれた方がいいのだが、なかなかそうはいかない。生涯学習の時代に、自分の生涯についてあれこれ悩み、道を求める時期があってよいのは当然のことであるが、それをどの時期に設定するかということはあまり考えられていない。学生の個人差もあるだろうから、余計難しい問題である。

 ある一流大学の文学部の教授をしている友人が言っていたが、文学部に入ってくる学生の大部分が、文学(哲学、歴史学といった文学部で先行される学問)をやりたいというのではなくて、自分の偏差値ではこの学部に入るのが適当であると判断して(あるいは誰かに判断してもらって)入学してきたというのである。しかし、そういう判断そのものが文学部で学ばれる学問領域を究めていくのにはふさわしくないものである。(しかし、そういうことを考えていくと、大学の文学部の定員が果たして社会の需要にこたえるものなのか、さらに言えば、そもそも大学の文学部の定員を決めるということにどれほどの意味があるのかという問題にもなってくる。)

 もう一つ、私が経験した例を挙げてみる。あるところで食事をしていたら、大学受験生を子どもにもつ母親らしい人が知人に相談していているのが聞こえてきた。神奈川大学と鶴見大学と横浜商科大学の3校のうちのどちらかに子どもを入学させたいのだが、どうすればいいだろうか。もう少し遠くの大学に入学させてもよいと思うのだが、自宅近くの大学に入学させたいと思っているらしかった。よほど口を出そうかと思ったが、やめた。この3校ならば、それぞれの大学の教育内容や卒業生の進路はかなり違っているので、それを説明することは難しくないし、それぞれの大学に関係者に知人もいるし、それぞれのいい噂、悪い噂も聞いている。だが、一番大事なのは、受験生本人の希望ではないのか。それを確かめずに、客観的にどの大学がいいのかという情報だけ得ようとするのは問題が大きい。

 さて、諸星さんは日本の大学の致命的欠陥の2番目として入試をめぐる問題を挙げている。「具体的には、受験生の選抜、選択の仕方(アドミッション・ポリシー)です。どんな生徒を自分の大学の学生として受け入れるのか――その判断がいい加減ではないのか、という問題提起です」(83ページ)という。大学には本来、社会に対してどのような卒業生を送り出すのかというミッションがあるはずであるが、それがはっきりしていない。だから結局のところ「知識だけを競って入試で1点を争う、学力だけの一発試験に頼ってきた」(鈴木、84ページ)。すでに書いたように、私は学力だけの一発試験が悪いとは思わない。すべての大学が一発試験というのはよくないと思うが、それぞれの大学が入学者選抜のやり方を明示するならば、その中での一部の学校が一発試験のみというのは悪くない。逆に出身校から寄せられた情報を重視して選抜を行う学校もあっていいし、こちらもその旨明示すべきだということである。諸星さんは「一発試験という選抜方法は、ミッションによって入学者を選択するわけではありませんから、結果、『偏差値偏重』という傾向を助長してしまっていたのですね」(84ページ)と述べているが、大学のレベルの問題もあって、一概には言えないのではないかと思う。

 それはさておき諸星さんは、「日本ではアドミッション・オフィスのことを『入試事務室』と呼ぶことが多いようですが、本来は『入学事務室』を指す言葉です。この入試と入学という微妙な用語の違いが『AO入試』などというわけのわからない語句になって、余計に理解に混乱を招いたきらいがあります」(85ページ)という。アドミッション・オフィスの仕事は「ある生徒が、うちの大学に入りたいという希望をもっているが、その子は本校に向いているだろうか。それがその子のためになるだろうか。そして、わが校はその子の要求にこたえることができるのだろうか。うちの教育の仕方はその子の成長に資することができるのだろうか」(85ページ)ということから始まるという。こうして大学と学生のベスト・マッチングを求める作業が展開されるのだというが、実際のところ、受験産業のほうでも「AO入試予備校」といったものを立ち上げていて、事態は簡単ではない。学生の方も自分に何が適している、何がやりたいということ以上に、どの大学に入りたいという一種の「ブランド志向」のようなものが強くあるはずである。そのあたりをどう考えるのか。第2章で取り上げられている問題はそれほど簡単に解決されるように思われない(ということで、さらに考察を継続することにする)。

諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(2)

9月7日(日)雨、夕方になって小やみになる。

 今回は、この本の第2章「『日本の大学の致命的欠陥』は今どうなっているのか」を取り上げる。第1章では「グローバル時代と大学」というテーマに即して議論を展開したのだが、ここではもっと視野を広げて日本の大学の持っている問題点全般について論じようというのである。日本の大学の問題点については従来からいろいろと指摘されてきたが、「大学全入時代到来」といわれるようになった2007,08年ごろから危機意識が強くなってきた。

 諸星さんはアメリカでの大学の経験をベースにして、日本の大学の致命的欠陥と考えることを9点挙げている。
①それぞれの大学が明確なミッション(果たすべき役割、使命)を持っていない。
②ミッションに照らして学生を選択するためのシステムがほとんど機能していない。また一発試験が浸透していて、アドミッション・オフィス(AO)の機能が正しく理解されていない。
③ミッションがないから、適切なカリキュラムが作られず、それに即した授業がなされていない。
④大学教員の本来の役割である「教育者」としての側面がないがしろにされている。
⑤「学部の壁」が学生の自由な学習を阻害している。
⑥客観的な成績評価、成績管理という点で、世界標準から取り残されている。
⑦授業料が単位制で考えられていない(そもそも単位という考え方が理解されていない)。
⑧大学運営のプロフェッショナルが大学を経営していないために、経営意識が低い。
⑨大学という存在が、社会や地域の財産になっていない。
(65-66ページ)

 まず「ミッション」について、「大学が社会に対して果たすべき役割であり、使命」「大学の存在価値」(68ページ)であると諸星さんは説明する。これを受けて鈴木さんが、「地域の介護を担う人材を育成する」とか、もう少し幅をもたせて「我が校を卒業すれば、少なくとも社会の中堅クラスの生活ができるようになる」(68-69ページ)といったことであるという。大学が自主的に掲げる具体的な目標であり、抽象的な理念や「建学の精神」とは異なるものである。

 続いて諸星さんはアメリカでは大学認定協会が大学を評価する際に、その大学が掲げているミッションがどの程度達成されているかを基準に評価を行うという。これに対して日本では文科省の認可があればそれでよいという空気があるという。諸星さんが「『お上がよしといえば、それに疑いもなく従う』という日本の国民性がここにも表れているような気がします」(72ページ)というのに対し、鈴木さんが「アメリカの場合は、そういった『お上の威光』といったようなものは一切関係ありません。それよりも、業界団体としての自主規制、自己点検、そして仲間としての相互評価の結果が最も重要なのです」(同上)と答えているが、アメリカの制度を礼賛するよりも、日本としてどうすべきかを論じるべきであろう。日本でも大学が自主的に組織する団体によって大学の評価や認定を行うべきだというのか、それとも文部科学省がミッションに基づいた大学評価・認定を行うべきであるというのか、そこをはっきり提案すべきではないのか。

 さらに議論は、大学がミッションを明示することによって受験生の選択が容易になるという方向に進む。現在の日本では選択の基準が学力の全般的な指標である偏差値になってしまっているが、どのような人材の育成を目指して、どのような教育を行っているのかという情報の方が受験生にとっては有益なはずであるという。

 ところで、それではミッションをどのように決めるのか、それは大学だけの問題ではなくて、経済界や地域社会の動きや意向も考えなければならないはずであるが、その点についてはこれまでのところ言及がない。さらに言えば、これまでの日本の大学がミッションをはっきりと掲げてこなかったのは、大学卒業生を採用する側の経済界が、大学で何を勉強したか、どんな力を見につけたかをあまり重視せずに、卒業生の潜在的な能力を重視するという考えが強かったからではないか。だから、ミッションに基づいてしっかりした教育を行っても、それが実際には企業の側からあまり評価されてこなかったという現実もあったのではないか。それが変わってきた…という実証が議論を進めるうえで必要なのではないかと思う。

 さらに議論は生々しくなってきて、諸星さんは「日本中の大学のちょうど真ん中あたり、偏差値で言えば47,8くらいの大学というのは、入学してくる学生の、学力的に一番下のあたりでは、ひょっとしたら2ケタの割り算ができない恐れもある。これが現実です。/すると、大学側がミッションを打ち出すより先に、学生のレベルによって『現実的なミッション』が決まってくることがあります。つまり、入ってくる学生を、どうやって教育するのかということです。本来の『ミッション以前』の問題ですが、教育機関である大学に入学させた限りは、当然やらなければならないことです」(77ページ)という。この現実を真摯に受け止めるならば、そういったレベルの大学はきれいごとを並べずに、「社会の大半を占める労働力と、善良なる市民をきちんと育成する」(77ページ)ということをミッションにすればいいと続けている。そして夢を追うことなく、また学生に過大な期待を抱かせることもなく、現実を見つめて、現実と取り組んでいくべきであるという。大学生に改めて基礎基本となる事柄を教えなおすという取り組みはアメリカではかなり一般的であり、日本でも広がり始めているが、だとすると大学とは一体何をするところなのかという疑問も改めて生じてくるのではなかろうか。

 このような現実に即して大学教育を考え直そうとする動きの中で、大学評価・学位授与機構が管理するウェブサイト上に日本の大学の現実の状態についての情報を多く含むポートレートが掲載されるようになる(2014年の秋というから間もなくである)と鈴木さんが述べている。「各大学のミッションについてもここに上げていくことになるでしょう」(83ページ)。

 日本とは大学の設置・経営をめぐる様相がかなり違うアメリカを基準に日本の大学改革を論じることには疑問もあり、いろいろと意見を述べたかったし、実際に意見を述べたこともあって、今回は第2章の前半部分しか紹介できなかった。自分でもいろいろと調べながら、これからの議論に付き合っていきたいと考えている。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(8)

9月6日(土)曇り、時々晴れ

 第7歌の終わりで、ウェルギリウスに導かれたダンテはとある塔の真下に到着する。彼らは依然として怒りと怠惰の大罪を犯した罪人たちの魂が送られる地獄の第5圏にいる。塔から遠くの方に向けて合図が送られる。そしてその合図に応えて、彼らのいるところに船がやってくる。船頭である悪魔は新しい魂を迎えたことを喜ぶが、ウェルギリウスはそれが空しい喜びであるという。(ダンテは神の意思を受けて、生きながら地獄を旅することを許されているのである。)

わが導き手は船に乗り込み、
それから近くに乗るよう私に促した。
船は私が乗ったその時にだけ重みで揺れた。

導き手と私が木船に乗ったとたん、
他の者どもを乗せる常より深く水面を切りつつ
波を切って古代の舳は進む。
(126ページ)

 ダンテは生きている人間なので、死者たちの霊とは違って、その体重で船を沈ませる。そう考えると、船が木で造られていること、重さに反応することも奇妙ではある。彼らが死の運河を進んでいると、泥まみれの霊がダンテの前に現れて、その名をたずねる。その人物は、ダンテの政敵であったフィリッポ・アルジェンティであった。彼はフィレンツェの名門に生まれ、「戦って奪う」という行動原理のもと、都市の法に従わず党派を組んで争い、市政を混乱に陥れた封建貴族の一員であった。彼はここでダンテによって罵倒され、ウェルギリウスによって追い払われ、他の罪人たちから八つ裂きにされる。怒りにはより高いところからの怒りの結果が及ぶのである。

激高したフィレンツェの霊は
己の体を己の歯で食いちぎっていた。

ここで私達はあの者を見放した、もはや語ることもない。
そうしているうちにも悲鳴の塊が私の耳を撃った。
そのために目を見開いて前方を凝視する。
(130ページ)
 二人は地獄の城であるディース城に到着する。これまで彼らが遭遇してきた悪魔はギリシャ・ローマ神話の中に登場してきた存在であり、ローマの詩人で、この作品では人間の中に本来備わっている<理性>を体現する存在であるウェルギリウスによって退けられてきた。しかし、ここで古典古代の世界には属さない(キリスト教的な)悪魔たちが登場する。彼らは言う
・・・「おまえだけがこい、そいつは放り出せ。
無謀にもこの王国に侵入しやがって。

定めを超えた道は一人で帰らせろ。
やらせてみろよ、できるかどうか。この暗黒の領土を案内してきた
おまえは、ここに残ることになるんだからよ」。
(132ページ)
悪魔たちによって2人の入城は拒まれる。原さんの解説によると「文体的には、対話ではなく、ダンテとウェルギリウスと罪人の三者による会話が初めてなされることとリアリスティックな台詞が特徴となっている。それは、ラテン語によって書かれた格調高い叙事詩の詩人ウェルギリウスの世界から、ダンテが離れていくことを示している」(537ページ)とのことである。このあたりの雰囲気は訳文によっても確かに感じられる。この翻訳の優れていることの証左でもあろう。

 前途を阻まれた彼らではあるが、道を切り開く力がやがて到着すると、ウェルギリウスは告げる。

諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』

9月5日(金)晴れたり曇ったり

 8月31日、諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』(朝日新書)を読み終える。グローバル化と少子化の中で大学の生き残りは困難になってきている。その中で大学の教育の内容と方法とを改革することが生き残りの道であるという2人の著者の主張には基本的に賛成である。しかし、書物の題名をはじめとしていくつかわだかまりを感じる部分もある。昨日、垂水雄二さんの著書の書評を久し振りに掲載したのもこのことと多少は関連している。

「はじめに」と題された冒頭の部分で、諸星さんは海外の大学での教職経験を踏まえて、日本の大学のガラパゴス化に警鐘を鳴らす。世界の大学が今、どういうことになっているのかについて、全く関心が払われていない。全く知らないし、知ろうとしない。現代の大衆化された大学においては、何よりも「教育」が大事である。学生に対して、大学が社会にどのように貢献しようとしているか、そのためにどのような人材を育てようとしているかを明らかにするミッションを示し、その実現に向けて何をどのように教えていくかのプロセスを細かく決めて、実行していく必要があるという。このようなことから秋田の国際教養大学の学長である鈴木典比古さんと対談をして、現在の日本の大学の問題点と、改善の方向性を探っていこうというのである。

 対談は次のような構成をとっている:
 第1章 グローバル時代と日本の大学の生きる道
 第2章 「日本の大学の致命的欠陥」は今、どうなっているのか
 第3章 「こんな大学、来ちゃだめだよ」といわれないために
 第4章 なぜ、不勉強な学生を卒業させるのか
 第5章 キーワードは「多様性」と「リベラル・アーツ」

 第1章では日本の多くの大学の学長が入学予定者に対して発信しているメッセージの中で最大のテーマになっているのが「グローバル」ということであるとが指摘される。単に大学だけでなく、経済界・産業界からもグローバル時代にふさわしい人材の育成ということが要請されているのだが、どうも両者の主張には食い違いがあるようである。鈴木さんは、グローバルというと日本から海外に出ていって活躍するということがイメージされがちであるが、実は「イン・アンド・アウト」海外から人々が流入し、その一方で日本からも出ていくというのがグローバル化であるという。

 この点と関連して諸星さんは、日本は移民が作ったカナダのような国とは違うと体験を踏まえて指摘し、それに対して鈴木さんは、だからグローバル化は遠い先のことになるだろうと予見する。「日本にとってつらく厳しいプロセスがこれからもしばらくは続くだろうとみています」(34ページ)とさらなる見通しを述べる。今、直面しようとしているのは明治維新、太平洋戦争後に続いて第3度目の大転換期であり、流血の事態にはならないかもしれないが、「弱肉強食」の世界になることは疑いないというのである。注意してよいことは、グローバル化の過程はグローバルに進行しており、中国や韓国も同じ課題に直面している、あるいはこれらの国々の方が先に適応して、日本が後から追いかけるということもありうるとも述べていることである。そうなってもやる気を出せば追いつける、「日本人はそういう後追い型のやり方は得意パターン」(鈴木、37ページ)と最終的には楽観的な見通しが語られている。

 日本の人口の減少に伴って労働力、生産力は減退する。その分を埋めるために海外から労働者が入ってくるし、それは既に起きていることである。「そうすると、必然的に外国人と一緒に仕事ができる日本人がいなくてはいけない。そういう人材がほしい。これが、現在の日本が直面しているグローバルです。それほど勇ましい話ではありません。落ち着いて、着実に対応するべきでしょう」(鈴木、39ページ)。

 このように「日本の社会が向かい合っているグローバル問題は、実は現実先行で始まってしまったインバウンド傾向に対して、まず、どうするかです」(諸星、40ページ)。この見地からすると、学長が最も現実的なアピールを発信している大学は明治学院大学である。そこでは「国内外の多様な文化や価値観に触れる教育でグローバル社会を生きていく人間力を育成」(40ページ)と述べて、外国から入ってくるいろいろな価値観を持った人たちと一緒にやっていける人間を育てるという目標を示す。ここには日本の現実に即したリアリティが感じられるという。グローバル化に対応する教育として、とにかく海外から来た人々と自分たちの違いを知る、理解するということから始めていけばよいのだという。

 この点と関連して諸星は、彼がICUで受けた授業で先生が最後に「私の授業のいろいろなことは忘れてもいいけれど、これだけは覚えておいてほしい。教育の究極の目的は偏見をなくすことである」(44ページ)と述べたことを引き合いに出す。偏見は無知から、無知は知ろうとしないことからうまれるという。

 グローバル対応は重要なことではあるが、すべての大学がそれをミッションに掲げる必要はないという。それぞれの大学が自分の得意な領域でミッションを掲げていけばよいのである。「4年制大学のうちのほとんどは、現実の日本社会の中核で働く大半の労働者の育成を要請されているわけです。そういう大学が、グローバル、グローバルというお題目を唱えて、なんとなく先端的な教育をやっているかのような雰囲気を醸し出すのはいかがなものか」(諸星、47ページ)。かつて<一億総中流化>ということが言われたが、大多数の大学は社会を健全に支える中間層の育成にあるはずである。「この層の育成に対応している大学は、無理にグローバル、グローバルという必要はない」(50ページ)。ただし、入ってきた異質の価値を理解できるという意味でのグローバル教育はやはり必要である。そうはいっても、終身雇用制が崩れ、就業構造が大きく変化している中で、生活が第一という価値観に基づいて中間層を育成していくことが困難になってきていることはお二人ともに認めてはいる(このあたりがわだかまりをもつところである)。

 これからは何が何でも日本がナンバーワンだという価値観ではやっていけなくなる。「イン・アンド・アウト」のグローバル化の中で、海外で就職する学生も増えてくるだろうし、「偏見をもたない」「それぞれの出自の文化や価値観を認め合う」「お互いにお互いを必要とする」というスタンスがますます必要になってくるだろう。そして、従来の「人工植林型」の大学教育から、「雑木林型」の教育への転換が必要になるのではないか、既存の類型を超えた新しい人材観をもつことが必要だと論じられているが、このあたりイメージだけでなく、具体的な実例も示しながら論じてほしいところである。

 今回は第1章の紹介だけで終わってしまったが、内容の紹介とともに読みながら疑問に感じたこと、私の意見などを含めて、次回以降さらに詳しく検討をしていきたい。

垂水雄二『科学はなぜ誤解されるのか わかりにくさの理由を探る」(5)

9月4日(木)曇り

 前回(8月3日)から1か月以上が過ぎてしまった。ダーウィンが『種の起原』その他の著作で展開した進化論は慎重で複雑な理論だったが、時代の雰囲気がそれを大雑把で乱暴な理論に置き換えてしまった。では、その時代の雰囲気とはどういうものであったのか。「…この時代の英国では、進歩一般を自明とする空気があり、それに科学的なお墨付きを与える進化論の登場は喝采をもって迎えられたのである」(140ページ)と著者は言う。

 「進化論が社会学にも使えることをいち早く理解したのが、ハーバート・スペンサーであった」(同上)と著者は続けて書いているが、「社会学」という言い方は粗雑で、「社会理論」とすべきであろう。 彼は生物界の現象である進化を人間の社会や文化にも適用できるものと考えて、社会進化論を提唱した。この時彼が使った2つの造語が進化論の普及に大きく貢献する一方で、そこからも言葉のイメージによる誤解と歪曲が生じていった。

 「進化」を表す造語としてのevolutionは、あらかじめ定められた目的に向かっての展開であるかのような錯覚を抱かせる。またスペンサーが自然淘汰をsurvival of the fittestと言い換えたのも、進化が殺し合いによる生き残り競争であるかのようなイメージを与えた。ダーウィンは進化をめぐって様々な可能性を考えているのであるが、スペンサーの普及活動は、「進化」という現象だけを取り出し、それが弱肉強食によって実現されるという誤った進化論評価を定着させることになってしまった。ダーウィンの名前を看板に掲げる進化論が科学界の主流になったとはいうものの、進化論者の多くがメカニズムとしてラマルク流の内的傾向や用不用説を未だに想定していたというのである。

 「環境により適応したものがより多くの子孫を残すという自然淘汰の穏やかな作用は、血まみれの弱肉強食の戦いへと姿を変えてしまった」(142ページ)。これは進化のメカニズムの理解の枠を超えて、強いものが弱いものを打ち負かしてよいという社会的強者の論理へと転換していくのである。その過程で人類の進化も下等なものから高等なものへの直線的な進化というようにきわめて単純化して考えられるようになった。進化を梯子を昇っていくようにとらえ、さらにそれを人間の社会にも当てはめていくと、上位にあるものが下位にあるものを征服し、支配し、収奪するのは当然であるという議論になっていく。それは19世紀後半以後の欧米列強による帝国主義的な支配を「科学的に」正当化する議論となった。

 さらにここから才能ある人が多くの子孫を残し、能力の劣る人の繁殖を抑制することが、国民の劣化を抑える道であると考える優生学が発想されることになる。

 しかしこのような考えはダーウィンの本来の考えとは異質のものである。ダーウィンは自然淘汰による形質の分岐、種分化という多様性に向かう変化を考えており、下等なものから高等なものへという直線的な変化は彼の考えにはない。さらに自然淘汰という進化のメカニズムは外在的なものであって、生物に内在する進化への傾向のようなものはダーウィンの説では考えられていない。さらに進化は、ある方向に向かっての進歩とは同一視できないのであるという。

 つまり19世紀の特に英国における社会思潮に乗って進化論は優勢になったが、その過程においてダーウィンの学説は必ずしも正確に理解されなかった、むしろ誤解され、悪用さえされる場合があったと垂水さんは論じている。スペンサー流の社会進化論を社会ダーウィン主義というのは不適当で、むしろ社会ラマルク主義というべきであるともいう。このあたりのことをめぐってはまだ不確かに思えるところがあり、科学史の方はともかくとして、社会思想史の方はもう少し私なりにも掘り下げてみようと思う。

 今回もあまり進まなかったが、何とか終わりまでこぎつけようと思っているので、多少とも長い目で見守っていただければ幸いである。

つむじ風

9月3日(水)晴れたり曇ったり

 シネマヴェーラ渋谷で「甦る中村登」特集上映の中から、『わが闘争』(1968)、『つむじ風』(1963)の2本立てを見た。中村登というと女性映画の名匠という定評があるが、その作品群の中では異色といってよい2作品である。『わが闘争』は祖父の犯した過ちからドロドロとした遺伝と貧困とを引きずっている家庭に生まれた女性の苦闘の半生を描く同名の当時のベストセラーを映画化した作品。女優王国の松竹作品であるにもかかわらず、東映から佐久間良子の来演を得て映画化されているところに原作の映画化のむずかしさがうかがわれる。主人公を演じている佐久間良子の熱演もさることながら、その妹を演じている加賀まりこの持ち味がよく出ていて、彼女の代表作ではないかと思った。

 『つむじ風』は渥美清が演じる陣内陣太郎という怪人物が巻き起こす騒動を描く喜劇。渥美がどちらかというと悪役寄りの役柄を演じており、その相手役をまだまだ初々しかった富士真奈美が演じているというのも面白い。梅崎春生の原作で、彼のユーモア小説の映画化としては、5月12日付の当ブログで取り上げた『人も歩けば』(1961、川島雄三)が知られる。原作の発表年代からすると、『つむじ風』のほうが古いのだが、映画化されたのは『人も歩けば』のほうが古い。登場人物が行く先々で奇妙な運命に出会うという『人も歩けば』のほうが、より悪漢小説(ピカレスク)的な要素の強い『つむじ風』よりも映画化しやすく、また俗受けしやすいということであろうか。

 失業中で妻から下宿人扱いされている浅利圭介はある夜、ひき逃げ事件に遭遇する。引かれかかったのは陣内陣太郎という蝶ネクタイ姿の青年。Jの文字の入ったリュックサック1つが持ち物であるが、誰かに追われていると不安げな様子を見せるので、圭介は自分の家(だったが、今や下宿人にされて住んでいる)の屋根裏に陣太郎を連れていく。陣太郎は自分は徳川15代将軍の曽孫で、本名は松平陣太郎、世が世ならば20代将軍であるが、そういう身分を嫌って家を出ている、その一方で遺産相続をめぐる争いのために自分を消そうとしている人々がいるのだという。

 圭介の調べで陣太郎を轢いた車は、流行作家の加納明治の車か、銭湯の経営者である猿沢三吉のものかどちらかであることが分かる。2人は手分けして、どちらがひき逃げをしたのかを調べるが、2人にはそれぞれの弱みがあることが分かってくる。また陣太郎は、三吉の娘の一子と商売敵の泉の息子の竜之軌が「ロミオとジュリエット」的な恋人同士であること、三吉が西尾真知子という女子学生をアルバイトの二号として囲っていることなどを突き止めていく。一方加納は美人秘書の塙女史の知的な管理のもとで自由を奪われ、いらだちを隠せない状態が続いている。

 もともと仲がよかった三吉と泉とが喧嘩をするに至ったのは将棋の勝ち負けをめぐってのことであったが、それが商売の上の競争に拡大し、両者が激しい値下げ合戦をして客を奪い合うようになる。このためバスに乗って入浴に来る客がいるほどの盛況を見せるが、経営は悪化、両家ともに家計は火の車で、片方がめざしと梅干の食事、もう片方は芋ばかりをたべるという我慢比べになる。陣太郎は両者の対立をあおり、若い恋人たちを煽り、真知子に近づき、事態はどんどん進んでゆく…。

 使用人からたたき上げて婿養子になり、事業を拡大して財を成した三吉や、流行作家の加納は人から羨ましがられる存在ではあるが、多少性格に問題があったとしても、特に悪事を働いているというわけではない。交通事故についても一時の過失である。それに対してどうも陣太郎の方は根っからのうそつきの詐欺師であるというところにこの物語のユーモラスな展開の根っこに横たわるどす黒い要素が要約されている。善とかあくとかいうものは相対的なものであるが、どこまでも相対的なものだとすると、結果的に悪が栄え、善が苦しむことになるのではないか…。

 戦後派を代表する作家の1人とされる梅崎であるが、ユーモア小説ばかり書き続けていた時期があった。彼の友人の1人である霜多正次が酒の席で、やい、梅崎、お前はろくな小説を書いていないじゃないかと罵倒したという話があり、実は私はある席で、別の参加者が霜多にこの話の真偽を問いただした場に居合わせたことがある。酒の席だから、そのくらいのことは言いますよ、私は梅崎の作品はすぐれたものだと思いますというようなことを霜多は答えていたが、ろくな小説を書いていないというのも一面の真実であり、そのろくでもない小説に世の中や人生についての思いがけない洞察が込められているというのももう一面の真実ではないのか。作品の評価は、一面的なものであってはならないのである。

 さて、同じ梅崎作品の映画化である川島の『人も歩けば』に出演していた沢村貞子、桂小金治、若水ヤエ子の3人がこの作品にも出演しているのだが、川島作品に比べるとそれぞれの個性がかなり消されていて、陣内=渥美のウソにふりまわされ続けているという印象が強くなる。そのあたり、川島と中村の演出の違いといえばそれまでだが、個性乱立の傾向がある川島演出の方が私は好きである。

 いろいろと悪口を言ったが、映画が制作された当時の世の中の様子がうかがわれるという意味でも貴重な作品である。繰り返すようだが、加賀まりこや富士真奈美の可愛さは、さすがに中村監督の演出といいたくなるものである。映画館でのアナウンスによると、この映画のプリントは今回上映されたもの1本しか残っていないということであった。それも色が抜け、ところどころこまが落ちているというものである。改めて、古い映画作品を発掘・評価・保存することの大事さを考えさせられた。
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