日記抄(8月27日~9月2日)

9月2日(火)晴れ

 やっと晴れ間が広がって一安心したが、夕方にはまた雲が出てきた。さて、明日はどうなるか。

 8月27日から本日にかけて経験したこと、考えたことから:
8月27日
 テレビ朝日「マツコ&有吉の怒り新党」で、「『○○関係者』名乗って勝手なこと言わないで!」という怒りの声が寄せられていた。番組中のコメントにあったように、このあたりは「聞く側の責任」もある。投書者は「勝手なこと」と怒っているのだから、情報や分析の信頼性についてそれなりに自分の頭で判断する能力があると考えられる。だとすると、実は、問題は情報筋にあるのではなく、そういう情報筋を使っている放送局の方にあるのだが、それは番組で論じるわけにはいかないのであろう。

8月28日
 NHKカルチャーラジオ『生誕450年シェークスピアと名優たち』では1601年ごろに書かれたシェークスピアの最後のロマンチック・コメディーである『十二夜』を取り上げた。番組冒頭で触れられたが、「十二夜」というのはクリスマスから数えて12番目の夜という意味である。クリスマス後の一連のお祝いの最後の夜がこの十二夜で、エリザベス(Ⅰ世)女王の宮廷でも、毎年劇団を呼び芝居を演じさせ、華やかな祝宴を催していたという。1601年にイタリアからドン・ヴィルジリオ・オーシーノ公爵を招いて開かれた祝宴で演じられた喜劇がこの作品ではなかったかという考える研究者もいるそうである。

 シェークスピアの時代には女優は存在せず、俳優の弟子の少年俳優が女性の役柄を演じていた。このことも関連してシェークスピアの特に恋愛喜劇では女性が男装したり、男性が女装したりする話が少なくない。『十二夜』もこうした事情が絡まって、片思いの追いかけっこが展開されるのだそうである。

 ところで、この日のNHKラジオまいにちフランス語応用編では「南座と歌舞伎」が話題となり、こんな会話が出てきた:
C'est au kabuki qu'il n'y a que des hommes, non? (歌舞伎には、男の人しかいないんですよね?)
C'est ça mais ce n'était pas le cas au tout début. D'ailleurs, la première représentation de kabuki a été donnée vers 1603 par une femme. Elle s'appelait Okuni.(そうですけど、はじめはそうじゃなかったんです。そもそも、最初の歌舞伎は、1603年ごろに一人の女性によって上演されました。彼女はお国という名前でした。)

 女性のお国が男装して踊り、その恋人である名古屋山左が女装して踊るというような演目もあったようで、偶然のこととは言えシェークスピアとの共通性が多少は見いだされる。そういえば、17世紀の初めには英国人のウィリアム・アダムズが日本に漂着・滞在していたので、彼はひょっとしてシェークスピアとお国歌舞伎の両方を見たかもしれない??

8月29日
 フランス語の勉強のためにジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』をリライトした仏文とその訳文の対訳本である『フランス語で読む八十日間世界一周』(IBCパブリッシング)を読んでいる。巻頭の「作品解説」によるとこの作品は1872年11月6日から12月22日まで『ル・タン』紙に掲載されたものである。英国の富豪フィリアス・フォッグ氏は<大インド半島鉄道>のロタールとアラハバードの間が開通したので、80日間で世界一周が可能になったという新聞記事を読んで、彼が属する改革クラブの他のメンバーたちと、80日間で世界を一周できるかをめぐる賭けをする。そして、新たに雇った従僕のジャン・パスパルトゥーとともに世界一周の旅に出かける。

 そして実際にインドのボンベイに予定より2日早く到着して、カルカッタまでの鉄道に乗車しようとする。乗車するまでの間にパスパルトゥーがヒンズー教寺院で事件を起こしたりして予定が狂いかかるのだが、どうやら乗車して、旅を続けると、ロタールまであとわずかというところで汽車が止まってしまう。実はここからアラハバードまでの区間の鉄道はまだ敷設されていなかったのである。新聞は、まだ完成してない鉄道が完成しているかのように報道し、その記事を信じてフォッグ氏は旅に出てしまったのである。ただ、そのようなことでひるむような彼ではない。フォッグ氏はアラハバードまでの区間を象を買い入れて踏破しようとするが、その間に大冒険をすることになる…。船よりも汽車の方が速度が速いということがフォッグ氏の旅程に影響を及ぼしている。飛行機の時代のわれわれにとっては考えにくいことである。

8月30日
 『八十日間世界一周』の続き。フォッグ氏たちはこの地方の藩王が死んで、その若い夫人がサティ‐と呼ばれる風習で焚殺されようとしている場面に出合い、彼女を助けようとする。アウダという名前のこの女性はフォッグ氏の一行のガイド役を務めている青年と同じくParsieであるという。Parsieは「ペルシァ人」という意味で、ゾロアスター教徒を指す。イランのイスラム化に伴って、もともとササン朝ペルシァの国教であったゾロアスター教は迫害され、信者たちの多くがインドに逃れた。ただ、ゾロアスター教徒の女性がヒンズー教徒の男性と結婚するかどうか、疑問に思われないでもない。

8月31日
 雨が降るだろうという予報を信じて、横浜FC対アビスパ福岡の試合の前売り券を買わなかったのだが、雨は降らず。観戦に出かけなかったものの試合には2-0で勝利した。勝ったことでよしとするか。

9月1日
 多くの学校で2学期が始まる日であるが、あいにくの雨で気勢をそがれた児童・生徒諸君も少なくなさそうだ。なぜか、傘をささずに、頭の上にハンカチをかざして歩いている女子高生がいた。家を出たときは雨が降っていなかったのだろうか。だとしても雨が降りだした時の用意はしておくべきであろう。

9月2日
 NHKラジオまいにちイタリア語の時間で直説法近過去(avere+過去分詞)の形を練習している。たとえば
Cosa hai fatto ieri? (きのう、君は何をしたの?)
というのがその一例であるが、英語だとここは過去形になる。言語によって時制の使い方は違うので、気をつけないといけない。 

『太平記』(9)

9月1日(月)雨

 後醍醐天皇を中心とする倒幕の陰謀が明らかになり、天皇の側近の僧侶たちが捕えられて流刑にされただけでなく、近臣たちも捕えられ、処断されようとしていた。

 当時、皇位の継承をめぐって後深草天皇から始まる持明院統と亀山天皇から始まる大覚寺統の争いがあったが、大覚寺統の後醍醐天皇による倒幕計画の露見の結果として、皇位は皇太子である持明院統の量仁(かずひと)親王に移るであろうと、関係者は喜んでいたのだが、一向に譲位の気配はない。

 「さる程に、申し勧むる人のありけるによって、持明院殿より内々関東へ御使ひを下され、『当今御謀叛の企て、近日事すでに急なり。武家速やかに糾明の沙汰なくんば、天下の乱れ近きにあるべし』と仰せられたりければ、相模入道、げにもと驚いて、宗徒(むねと)の一門、幷びに頭人(とうにん)、評定衆等を集めて、『この事いかがあるべき』と、各々の所存を問はる」(91ページ、そうこうするうちに、申し勧める人がいて、持明院殿(量仁親王)より内々に鎌倉幕府に使者を遣わされ、「今上の御謀叛の企てが最近露見して事態は急を告げている。幕府がすぐに事態に取り組んで対処しなければ、世の中は間もなく乱れるだろう」と仰せられたので、相模入道(北条高時)は、まことにその通りであると驚いて、北条一門の主だった人々、頭人(引付衆の首席)、評定衆らを集めて「このことについてどうすればよいのか」とそれぞれの意見を問いただした)。

 後醍醐天皇の側の意思がはっきりしているのに対し、持明院側も幕府もどうも意思統一ができていない。量仁親王はこの後、光厳天皇(→上皇)として物語で重要な役割を担われる方の一人であるが、後醍醐天皇ほどに権力への強い意志をお持ちであったかどうかは疑問である(そのことでかえって物語中の役割が強調されることになる)。親王に幕府への使者の派遣を勧めたのが誰であったのか、『太平記』の著者は明らかにしていないし、歴史的な事実かどうかもわからない。これまでの後醍醐天皇とその周辺の動きにもかかわらず、はっきりした対処ができないままであった北条高時はここでも、一門や幕府の重臣たちを集めてその意見を聞いて決断しようとしている。

 集まった人々も同様である。できるだけ自分の意見は述べずに、他人の意見を聞いて判断しようとしたり、とにかく保身に努めたりしている人たちが多い中で、積極的に発言したのが北条得宗家の執事(家老)である長崎入道(高綱)の子息の高資であった。彼は得宗家の内管領として幕府の実権を握っていたと注記されている(本来、得宗家の役職である内管領が、幕府の実権を握っているところに、幕府自体の体制の乱れが反映しているのである)。彼は、これまでの幕府の対応の手ぬるさを批判し、世の中の乱れを正すことは武士の務めであると主張して、天皇を流刑に、大塔宮を終身の流刑に処し、俊基、資朝らを処刑することを提案する。

 これに対して反論したのが、二階堂道蘊である。彼は既に、後醍醐天皇が正中の変の際に幕府にあてて書き送られた詫び状をめぐっても、開いて読むべきではないと常識論を展開していた。今回も、彼は幕府があまりにその権力を乱用するのはよくないと穏便な対応を主張する。「神怒り、人背かば、武運の危ふきこと近かるべし」(92ページ)。幕府の力が京大であれば、天皇が倒幕の意思を持っていらっしゃろうと、その安定を揺るがせることはできないという。これに対して長崎高資は激しく怒りの色をあらわにし、「文武揆(おもむき)一つなりと云へども、用捨時に異なるべし」(93ページ、文武の方向は一つだとは言え、時によってどちらを用いどちらを捨てるかは異なるはずである)と、さらに詳しい議論を展開する。「静かなる世には、文を以て治め、乱れたる時には、武を以て静む」(93ページ)。これは「正論」ではあるが、世の中の乱れのもとになっているのが、後醍醐天皇とその側近の「陰謀」ではなくて、北条高時と鎌倉幕府の失政であるという現実を無視した空論でもある。とにかく、高資が居丈高になって自説を主張するので、席にいた他の者たちはその勢いに押され、発言するものはなく、道蘊もさらに発言を続けることもなく退出して、後醍醐天皇、大塔宮の流刑と日野資朝、俊基の処刑が決まった。

 こうして幕府は後醍醐天皇とその側近の討幕計画に対して強硬策をもって臨むことになったが、幕府の政治に対する不満がくすぶっているために、その効果は限られたものとなることが予想される。さて、これらの対策は実際にどのような結果を生み出したのか…。続きは次回。
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