2014年の2014を目指して(8)

8月31日(日)曇り

 雨が降るという予報だったので、サッカーの試合の前売り券を買わず、試合自体も見に出かけなかった。これでよかったのかどうか。

 8月はずっと横浜で過ごし、時々東京に出かけたが、行動範囲が広がったとは言えず、今年になって初めて利用したのは、九段下と日ノ出町駅だけである。鉄道のほかに、東京都営バスを利用している。

 31件のブログを投稿する。18件が読書、5件が日記、詩、映画、外国語、推理小説が各2件ということである。295の拍手、2件の拍手コメント、3件のコメントを頂き、トラックバックは1つであった。

 14冊の本を買った。1月から買った本の通算は104冊である。新たに文教堂渋谷店で本を買った。今年になってから本を買ったことのある書店の合計は8軒となった。読んだ本は10冊で、アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズ全集② 四つのサイン』、田中康二『本居宣長』、アレクサンダー・キャンピオン『パリのグルメ捜査官③ 美食家たちが消えていく』、井上荒野『キャベツ炒めに捧ぐ』、三浦しをん『仏果を得ず』、金田一秀穂『金田一家 日本語百年のひみつ』、山田雄司『怨霊とは何か』、椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ 下』、諏訪哲二『「プロ教師」の流儀 キレイゴトぬきの教育論』、諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学、消える大学』である。『四つんサイン』は別の翻訳で、『哀愁の町に霧が降るのだ』は別の版ですでに何度か読んだことがある。1月からの読んだ本の通算は80冊となった。1月に10冊のペースを維持しているが、なかなかそれ以上にならない。

 見た映画は5本で『独立愚連隊西へ』、『2つ目の窓』、『陽気な巴里っ子』、『アフリカ珍道中』、『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』である。1月からの観た映画の通算は45本である。新たに横浜シネマ・ベティに出かけ、1月からの出かけたことのある映画館の通算は18館となった。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対カマタマーレ讃岐の試合を観戦し、今年になってから見たサッカーの試合は2試合となった。天皇杯が1試合、J2が1試合ということである。

 ドイツ語、フランス語、イタリア語の時間をそれぞれ16回ずつ聴いた(再放送は含めない)。1月からの通算ではフランス語とイタリア語がそれぞれ159回、ドイツ語が100回ということである。8月はフランス語に重点を置くということで、ヴェルヌの『八十日間世界一周』を易しく書き改めて対訳にしたものを読んできたが、月末までに読み終えることはできなかった。9月は重点をラテン語に移すつもりである。

 ノートを1冊、万年筆(ウォーターマン)のカートリッジを3本、パイロットのカートリッジを1本、セーラーのカートリッジを2本使い切った。新たにセーラーが加わったのは、<ふででまんねん>を購入したためである。1月からの通算でノートは28冊、万年筆のカートリッジはそれぞれ36本、14本、2本を使い切っている。

 アルコールを口にしなかったのは9日にとどまった。1月からの通算では114日ということである。暑さのために意志が弱くなったといえるかもしれない。

 サマー・ジャンボは7等が5枚当たっただけであった。1月からの通算であたったのは22枚にとどまっている。確率論から言えばこんなものだといえるのかもしれないが、そこをもう少し何とかならないか…と虫のいいことを思い続けている。

 8月は暑い日々が続き、月末に入ってさすがに和らいできたとはいうものの、体調も精神状態も万全とは言えず、引っ越し後の身辺の整理もあまり進まないままである。今年も残すところ4か月、少しずつでも調子を上げて、2014年の2014を達成しタイのだが、さてどうなるか、前途多難である。
 
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椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ 下』

8月30日(土)曇り

 椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ 下』(小学館文庫)を読み終える。1981年から82年にかけて情報センター出版局から上・中・下の3巻に分けて刊行され、1991年に上下2巻本として新潮文庫に収められ、1994年には三五館から1巻本として出版されるなど、長く読まれてきた著者の自伝的な長編小説であるが、新潮文庫版が絶版になったことをきっかけとして小学館文庫から刊行されることになった。実は小学館文庫から再刊されたことを全く知らずに、渋谷駅東口の文教堂の店頭で下巻を見かけてこのことに気付き、上巻もないかと探したのだが、売り切れたらしく見つからなかったので、下巻だけという異例の取り上げ方になってしまった。もっともこれまで3度出版されたものはすべて読んでいる。とはいうものの、今回あらためて読み直して、新たに気づいた点も少なくない。これまでは物語の筋を追いかけてそれだけのことで喜んでいたのだが、今回は作者が意識的・無意識的に仕掛けている文学的な技法を発見しながら読むことができたのが収穫である。

 語り手である「ぼく」=椎名誠は、友人の沢野ひとし、木村晋介、イサオの3人と江戸川区小岩の克美荘というおんぼろアパートで共同生活を続けていた。沢野と木村は学生、椎名も写真大学に籍を置き、シナリオの学校に通い、アルバイトにいそしんでいたが、イサオはサラリーマンとして働いていた。実際のところ4人の中では比較的影の薄いイサオのしっかりとした定期収入が共同生活の維持に大きな役割を演じていた。それぞれに恋や喧嘩の入り混じる波乱に満ちた日々を過ごしていたが、木村が「とうちゃん」としてしっかりと生活を支えていたので、共同生活は何とか続いていた。しかし、弁護士を目指す木村の司法試験の受験勉強が本格化するなど、それぞれが自分の生活を優先させ始めると、4人がそろうことは少なくなっていく。その一方で、デンキのサイトーや不思議の小林など、新たにアパートの住人となる者もいた。

 「木村と沢野が去っていった克美荘はたちまち計画的経済と食生活という物が危機に直面し、食事はその場しのぎの発作的な夜食程度のものを作るだけで、あとはそれぞれがある程度の個人的な金を持っていないと生活していけないようになってしまったのだ」(286ページ)。それで、椎名は自分も働いてまとまった金を稼ぐ必要があると思い始める。「そしてアルバイトよりも正社員としてその仕事についたほうがはるかに給料やその他の条件がよろしいのだということに気がついたのである」(287ページ)。そうしていろいろと仕事を探して走り回るうちに、ちょっと面白そうな会社から面接の通知がある。デパート業界の新聞社である。そして二次の面接まで進んで、社長から専務が強く推薦しているので君を採用するといわれる。

 会社は編集部と営業部とに分かれており、編集部はさらに業界向けの新聞と、デパートの消費者向けの新聞を編集している2つのセクションに分かれていたが、椎名が配属されたのは業界向けの新聞を編集するほうであった。新たな仲間たちによる歓迎の飲み会に参加しながら、彼は「(ああ、これがサラリーマンの酒)というやつなのだな、といささか感動していた。…やっぱり青少年たちの酒とは違うんだ、アルバイトのあがりで飲むヤケクソ酒とも違うんだ、とぼくはその店の隅にすわって徐々に本格的に感動していった」(327ページ)。はじめは金を作るために、腰掛的に入社したつもりであったのが、会社の仕事と雰囲気に次第に魅力を感じ始める。そして、その結果、克美荘を去って実家から会社に通うことになる。同じころに小林もアパートを出ていったので、残るのはイサオとデンキのサイトーの2人だけになってしまった。その過程で椎名は久しぶりに顔を見る仲間たちがいつの間にか大人びた顔つきになっているのに気付く。木村は司法試験に合格し、椎名が務めている会社にそれを知らせに来た沢野は彼らの今後について大人びた意見を述べる。

 著者の実体験に基づいた自伝的な小説であり、著者とその親友である木村晋介、沢野ひとしは実名で登場しているが、その言動のすべてが実際にあったとおりであるわけではなく、虚実が入り混じって構成されていると考えられる。しかも既にそれぞれの道を歩んで地位を築いている、成人した登場人物たちが改めて当時を振り返る場面も設定されており、一見雑然とした構成をとりながら、実は物語の枠組みはかなり複雑である。前半に三島由紀夫、後半に吉本隆明(「ある高名な評論家」として268ページに吉本によるこの作品の論評が紹介されている)が登場しているのが時代の気分を巧みに要約している。登場人物たちは自由奔放な青年期から社会人としての生活への境界を生きており、彼らが東京都と千葉県の境界近くで共同生活を送っていることにもそのような境界性の反映を見ることができる。半ば自立しかかっているが、完全に自立しているわけではないのである。そして一人一人が自分の職業や、伴侶を見つけていくにつれて、彼らの共同生活は解体していく。

 椎名さんは私より少し年長であるが、ほぼ同世代であり、京都で下宿を拠点とする学生生活を送った私にも共感できる時代の雰囲気のようなものが描きだされている。と、同時に東京と京都、アパートと下宿の違いというようなことも考えさせられた。下宿屋で学習会を組織して、学生運動の足場を築くというようなこともあったのだが、この小説の世界はそのような動きとは無関係である。また、恋愛の話が出てくるとはいっても、この物語はほぼ青年男子の物語に終始しているのだが、女子にもこれと並行する時代の物語があったはずで、そういう物語がないか、捜してみるのも一興かもしれないと考えている。

 椎名さんの自伝的な小説はこの後、『新橋烏森口青春篇』、『銀座のカラス』と続く。これらの作品が職場を中心とした日常的な場面を中心に描かれている一方で、『あやしい探検隊』から『雑魚釣り隊』に至る系譜の作品は日常生活からはみ出した冒険を描いている。その両方が特に初期において実名・仮名の登場人物を共有していることにも注目しておこう。私生活のすべてをさらけ出しているようで、実は見事に隠されていることもある。さらにまた書かれていることのすべてが事実だと思う必要はない。書かれていることからどれだけの人生の真実をくみ取れるかが問題なのである。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(7)

8月29日(金)雨が降ったりやんだり

 このところ暑さに心を乱され、酒に親しむ日々が重なり、これではいけないと、酒を飲まずに睡眠薬を飲んで寝たところ、薬が効いて今朝は寝坊したために、予定がすっかり狂ってしまった。朝のドイツ語の放送の時間を聴き逃し、フランス語は途中から聞くことになった。それで昼から映画を見に行く予定を変更して、語学番組の再放送を聴くことにした。他にもいくつかの予定が影響を受けた。とはいうものの、何から何まで予定通りに進行させていくのがよいとも思わない。

 さて、『神曲 地獄篇』であるが、第7回は第7歌を取り上げる。今後もずっと、1回について1歌を取り上げていくつもりである。第6歌の終わりで、ダンテはウェルギリウスに導かれて地獄の第4圏に達していた。この圏を支配する悪魔であるプルートスの姿もまた第6歌の終わりに描かれていたが、2人の姿を認めた彼は魔王への祈りの言葉を唱える。しかし、神の意を受けて地獄を旅する2人の行程を彼ははばむことができない。プルートスはギリシャ神話の善人と悪人とを問わず、気まぐれに富を与え、また奪う神であった。その神がここでは悪魔として描かれていることに、注目しておく必要がある。

ここにこれまでよりも多数の者どもを私は見た、
こちら側に来る者どももあちら側に行く者どもも、大声で叫び、
錘りを胸で押しながら転がしていく。

正面衝突を繰り返し続け、ぶつかったその場で
全員が回転してもと来た方へ取って返しながら、錘りを転がしつつ
叫ぶのだった、「貯めこむな」と、また「散財するな」と。
(112ページ) 第4圏にいるのは貪欲の罪を犯した人々で、浪費家が吝嗇家に「貯めこむな」と叫び、吝嗇家は浪費家に「散財するな」と叫んでいるのである。

 戦い続ける罪人たちの姿を見たダンテは、「吝嗇者」たちがもしかして「聖職者」であったのかとウェルギリウスに問う。ウェルギリウスは
これらはかつて聖職者であり、・・・
…しかも教皇や枢機卿であった者さえ混じるが、
そのような職において貪欲はその際限のなさを発揮する」。
(114ページ)と答える。しかし、あまりにもひどい穢れのために誰が誰であったか顔の区別がつかなくなっている。教皇庁の腐敗、特に新興の大商人たちとの結びつきを批判する個所であるが、作者の関心はむしろこの世に正義が行われないことの原因としての運命をめぐる議論に向かう。

 運命はギリシャ・ローマ神話では<偶然の象徴>であり、神々といえども動かすことのできないものとされ、その一方で「運命の女神」などと擬人化されて神々との関係を構築されてもいるが、ダンテが登場させたウェルギリウスは運命もまた神の配慮に従う存在であるとキリスト教的に再解釈している。それゆえ運命が与える人生の転変は人間が神に向き合う契機となるというのである。これは異界を遍歴した後のダンテがたどるはずの運命に対処するための助言とも受け取られるものである。この種の予言はこの後、さまざまな形で告げられることになる。

 運命の女神と神慮について語ったウェルギリウスは、ダンテを地獄のさらに深い部分へと導く:
さあ、いよいよ激しくなる苦しみに向かってこれから降りていこう。
・・・
いつまでも立ち止まっていることは禁じられているのだ」。
(119ページ) 

 そして2人は悲しみの小川が流れ込むステュクスという名の泥沼にたどりつく。ここでは怠惰と怒りの罪を犯した魂たちが罰せられている。彼らは泥まみれになりながら、身近な魂を、また自らを傷つけ、傷つけられていた。語り手であるダンテ自身がそれまでの彼がたどった運命に対し怒りの感情をもつ場合もあったはずであるが、ここではそれが抑制されていると翻訳者である原さんは注記している。怒りが自分自身のものであっても、他人のものであっても、あるいは人々の記憶の中に共有されるような象徴的な性格をもつものであっても、それをどのように抑え、客観的に叙述するかということは、叙事詩の課題の1つであった。

泥を飲み込んでいる者どもに目を奪われながら、
乾いた崖と汚れた井戸の
湿地帯との間にある弧をこうしてめぐり終えた。

ついに私たちは、とある塔の真下にたどり着いた。
(122ページ)

 2人は地獄の何やら巨大な建築物にたどり着く。そこで彼らは何に出会うのであろうか。

プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』(7)

8月28日(木)雨が降ったりやんだり

 神々と結びつけて動物を崇拝する傾向について、プルタルコスは一方ではその動物が有用であるから、また他方では神々の力を連想させる性質をもっていることのために大事にされているのだと説明する。例えばワニは舌をもっていないが(訳注によるとヘロドトスも同じようなことを書いているそうだが、これはもちろん誤りである)、神の言葉は声を必要としないと考えられることから、ワニも神聖な動物と考えられるようになったという。「鰐は60個の卵を産み、それだけの日数(60日)でかえします。そして一番長生きするものはそれだけの年数(60年間)行きます。この60という数は、天界のことに関わっている人々にとっては最も重要な尺度です」(131ページ)という。古代の学者たちは確かにこれらのことを述べているが、これまた訳注に記されているように、これらのことがどれだけ観察に基づいているかは怪しげである。(60という数字が強調されるあまり、連続量と分離量が混同されているのも気になるところである。)

 さらにプルタルコスは神の象徴としての数と図形について語っている。「テトラクテュスと呼ばれるものがあって、これは36のことですが、よく言われておりますように、これは最も重い誓いを表し、『世界』とも呼ばれました。最初の4個の偶数(2・4・6・8)と最初の4個の奇数(1・3・5・7)の和なのです」(133-4ページ)。なぜ4個であって、5個ではないのか、36であって、55でないのかは説明されていない。

 このように彼は人々が信じているものについて、その根拠を明らかにすべきであると説き、盲信を戒めている。また生きているもの、感覚のある物は、自分自身について、また他者について知ることができるから、そうでないものに勝っていて、尊重されるべきであると論じている。それゆえに動物崇拝については理性的に対処すべきであるというのが彼の考えであろう。

 またイシスは多様性を、オシリスは単一性を表していると述べ、オシリスは哲学の究極の真理を体現しているとも論じているが、このあたりはどこか怪しげである(怪しげなのは私の理解のほうかもしれないが・・・・)。プルタルコスはさらにオシリスが冥界の王であるというエジプトの神官たちの説には承服しがたいと論じ、また儀式で焚く香について考察しているところでこの書物は終わっている。

 以上7回にわたってプルタルコスの『モラリア(倫理論集)』の一部であるこの書物を紹介・考察してきたが、古代エジプトとギリシャの信仰・精神生活と風習について多くの情報を盛り込んでおり、その知識量の豊富さには感嘆させられるのだが、それらの知識を分析・整理していく思考の水準は必ずしも高いものではないと思った。プルタルコスは1世紀から2世紀にかけて生きていた人物であり、プラトンやアリストテレスの著作には親しんでいたはずであるが、彼ら、あるいは他の哲学者の見解を十分に理解し、咀嚼しているとはいいがたいのである。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけて、学校教育が次第に普及し、帝国内の全般的な知的水準は向上したが、その最先端の部分における水準はむしろ停滞していたというのはどういうことであろうか。大いに考えさせられるところである。

 現在放送中のNHKカルチャーラジオ『生誕450年 シェークスピアと名優たち』によると、シェークスピアの歴史劇にはプルタルコスの『対比列伝(英雄伝)』を素材とするものがあるという。プルタルコスは創造的な解釈を進めていくことのできるものにとって情報の宝庫であるかもしれないが、それだけに取扱いに注意を要する古典であるかもしれないと思った。柳沼重剛によるこの書物の翻訳は、訳注が丁寧で本文とともに読み進めると理解が進むだけでなく、自分なりに考えをまとめていくのにも役立つ。とはいうものの、この本を読むくらいならば、プラトンやアリストテレスに取り組む方が有益なのではないかという感想も捨てきれない。

山田雄司『怨霊とは何か』

8月27日(水)曇り後雨が降ったりやんだり

 8月26日、山田雄司『怨霊とは何か』(中公新書)を読み終える。

 「怨霊とは死後に落ち着くところのない霊魂であり、それが憑依することにより個人的に祟ることから始まって、疫病・災害などの社会全体にまで被害を及ぼす存在と考えらえていた。本書では、日本産大音量といわれる菅原道真(845-903)、平将門(916-40)、崇徳院(1119-64)がどのように怨霊となって人々を恐怖に陥れ、さらにはいかなる鎮魂がなされたのか、そして、近世を経てどのように受け継がれて現代に至っているのか、具体的に明らかにしていく」(ⅰページ)とこの書物は書きだされている。「まえがき」よりも本文の冒頭に書かれた方がいいと思うのだが、この書物の狙いはこのようなものである。

 第1章では怨霊と一般的霊魂とはどこが違うのか、霊と神との関係はどのように考えられてきたのかについて考察されている。
 第2章ではなぜ怨霊が発生するのかについて、時代的な背景を考え、「怨霊」という言葉が初めて用いられた早良(さわら)親王に着目して、それ以前と以後における鎮魂の方策の変化を述べている。そして仏教が鎮魂の主役をはたしていたことを明らかにする。外の習俗や宗教における祈祷に比べて仏教のそれがすぐれているわけではないのだが、「仏教は死後の世界の体系をもっており、さまざまな経典によって諸霊に対応することができた」(50ページ)から他の宗教よりも信頼されたということらしい。ただし、それは国家レヴェルの儀礼に関してであって、民衆レヴェルにまで浸透するものではなかったという。

 第3章では「善神へ転化した菅原道真」として菅原道真の生涯と、死後における神格化、変容の過程が記されている。ここで重要な役割を果たす資料である『北野天神縁起絵巻』(もちろん同時代的なものではなく、後世の目で伝説を描いたものである)にはいくつかの異本があるが、その少なからぬ部分が宮内庁の三ノ丸尚蔵館に収められていて、私も何点かを見たことがある。この書物の理解のためにも、実際にご覧になることをお勧めしたい。

 第4章では「関東で猛威をふるう平将門」として平将門をめぐる歴史的な事実と、その後の伝説化・神格化の過程を描いている。当ブログの『太平記』についての連載の中でもいずれ出てくるはずであるが、将門についての説話が取り上げられている。平将門は藤原(俵藤太)秀郷によって首をとられるが、その首はいつまでたっても死なず、頭と胴体をつなげてまた一度戦をしようと夜な夜なしゃべるので聞く人は皆恐れた。すると、ある人が
将門ハ米カミヨリゾ斬ラレケル俵藤太ガ謀ニテ
(107ページ)と詠んだので、なぜか首は笑ってその屍はついえてしまったという。この話、小学校の時に社会科の授業で聞いた記憶があるのだが、どうも前後の脈絡がはっきりせず、長年にわたり疑問が残っていて、やっと全体の話がすっきりと分かった。将門同様、秀郷も中央の貴族が残した歴史よりも、東国の民衆の残した伝承の中で英雄視されているところがある。将門について特に関東の民衆からの支持を受けたのは「体制に反抗して反旗を翻したものの、最終的には追討されてしまったという悲劇的側面に人々が共感をおぼえたからではないだろうか」(123ページ)と著者は論じている。

 第5章では「日本史上最大の怨霊・崇徳院」として崇徳天皇・上皇についての歴史的な事実、その怨霊をめぐる歴史的な事実と伝説、そして江戸時代における崇徳院の怨霊への民衆の意識と政治的な対処とが記されている。崇徳院については百人一首に載っている歌で有名だが、怨霊としての側面はあまり知られていないのではないかと著者は言う。保元の乱で敗北・讃岐に配流された崇徳上皇は比較的穏やかな生活を送られたようで、世の中を恨んで亡くなられたというのは後世の伝説であると著者は論じている。しかし、保元の乱以後の「武者の世」の荒れ狂った姿は、上皇についての別の伝説をつくりあげることになったという。
 そういえば、落語の『崇徳院』で「瀬をはやみ…」という百人一首の歌について触れるときに、「崇徳院さんのお歌」という言い方がされるが、百人一首の歌で、「・・・さん」の歌という言い方をされる歌は他にあるのだろうか。怨霊に対する恐れが微妙に残っているようにも思う。
 崇徳院は和歌を好まれ、その弟である後白河院は今様を好まれた。時代の変化という点では後白河院の方が新しい動きを察知されていたわけであるが、時代を超えて共感を呼ぶ文学作品を残されたという点では甲乙つけがたいと思う。
 第3章から第5章にかけて、江戸時代における読本や歌舞伎などの影響がこれらの怨霊の存在に大きくかかわっていることが指摘されているのがこの書物の特徴である。他方、江戸時代になると朝廷・幕府で新たな怨霊についての議論がされることはなくなっていく。しかし、民衆の間では現在に至るまで怨霊の存在は恐れられている。

 第6章では「怨霊から霊魂文化へ」として、中世以後の怨霊と鎮魂の歴史、さらに近代に入ってからの霊魂をめぐる議論が紹介される。現在もなお、非業の死を遂げた人々に対する慰霊をめぐる議論は絶えない。南京大虐殺の責任を問われて処刑された松井石根(1878-1948)が日中両軍戦没者の供養のため、興亜観音を建立したことが記されているが、「これは、怨親平等思想によって死者の供養をするばかりか、さらに生者を戦争に向かわすことにもなった」(194ページ)、「多大な被害をこうむった側からすれば、怨親平等思想を受忍するのには抵抗感があるのは当然のことである」(196ページ)と否定的な評価を行っている点も注目される。ただ、近・現代における怨霊をめぐる問題については別の書物で議論した方がいいと思われるだけの問題点が内包されていると思う。

 世の中を恨むというのは、それなりの利害関係をこの世に対して持っているから生じることであって、恨むほどの利害関係をもたずに(あるいは持てずに)この世を去っていった多くの人々の魂の行方について考えることも必要であろう。
 

日記抄(8月20日~26日)

8月26日(火)曇り、夕方になって雨が降りだす

 暑さで生活が乱れてしまい、少し涼しくなってきたところで、その疲れが表に出てきたようである。8月20日~26日にかけて経験したこと、考えたことなど。8月20日~22日までは残暑が続いたが、23日に雨が降って暑さが和らぎ、本日に至っている。

8月20日
 若葉町のシネマ・ベティで『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』を見た。途中で何度か眠ってしまい、映画の脈絡がつかめないままである。こういうこともある。

 テレビ朝日の『マツコ&有吉の怒り新党』冒頭に柳沢慎吾が登場し、高校野球の横浜高校対大阪桐蔭の対戦の逆を演じたが、今回の神奈川県の代表は東海大相模高校で、横浜は県大会で敗退している。それから横浜高校は男子校なので、チア・リーダーを取り上げるのもおかしい(他校からの友情応援を自校の応援よりも強調して取り上げるべきではない)。
 取り上げられた怒りの声の中で、河原でバーベキューをやるのに買い出し担当者がセンスがなくてつまらないというのがあり、バーベキューは仲間内のコミュニケーションを密にするために行われるのに、その準備の過程でコミュニケーションが取れていないのは困ったことだという議論になった。マツコがこういう催しに全く誘われないというのは、どういうことであろうか。 ベッドに入っても全然眠れないが、何を考えればよいかという質問が出た。これは番組内の議論とは別に、外国語の勉強をすればよく眠れると答えたいなと思った。11:20~35にかけてNHKラジオでビジネス英会話の時間を放送するが、これなどは催眠番組としては絶好ではないかと思う。10月から試してみるつもりである。もっともこの番組が「難しい」という程度に英語が分からないと、眠れないかもしれない。

8月21日
 NHKラジオまいにちフランス語の時間で
Pourquoi est-ce que les Japonais se déchaussent tout le temps?
(どうして、日本の人はいつでも靴を脱ぐんですか?)
というフランス人からの質問が取り上げられていた。これに対して清潔さを保つためだと答えられていたが、そもそも日本には特別な場合を除き、靴を履く習慣がなかった、下駄や草履を履いていたということもあるのではなかろうか。

 NHKカルチャーラジオ『生誕450年 シェークスピアと名優たち』の第8回は『ヴェニスの商人』について取り上げ、「悪役転じてヒーローになる」として、様々な舞台でいろいろなシャイロックを演じた俳優たちの演技を紹介した。ロンドンの中心部にはロンバルディア地方にちなむロンバードLombard 街という通りがあるほどで、英国とイタリアの交流は古い歴史をもつ。ロンバルディア地方の中心はミラーノであるが、シェークスピアの作品では『テンペスト』の主人公プロスぺロがもともとはミラーノの大公であったという設定であった。

8月22日
 NHKまいにちドイツ語応用編の終わりの方のドイツ人出演者2人の話で、ドイツの学校には制服がないので、日本に来てとても奇異に思ったということであった。その一方、ドイツを含むヨーロッパでは服装がその人の地位や思想・信条と結びついていて、外見だけでどういう人かわかることが多いという話も出て、興味深かった。英国でも、大学の先生というとツイードのジャケットを着てひげを生やした人というイメージがある。日本ではそこまでのイメージの統一性はない。

8月23日
 伯母の四十九日の法要に出かける。

8月25日
 金田一秀穂『金田一家、日本語百年のひみつ』の紹介の中で取り上げようかどうしようかと迷ったのだが、200ページ辺りに「フリーター」をめぐる考察がされている。著者がフリーターの端くれだったという話は紹介の第3回でも取り上げたが、「フリーアルバイター、略してフリーター」という奇妙さについて正しく指摘しながら、さらに深く考察していないのが残念である。簡単に言えば、フリー・アルバイターという言葉の前半は英語、後半はドイツ語からの外来語であるというちぐはぐな組み合わせ、アルバイターは、アルバイトをしている人という意味で使われているようであるが、本来のドイツ語ではアルバイター(というよりも、アァバイターだろう)は労働者という意味で、本来の意味からかなり微妙な距離をもって隔たってしまった外来語とになっているのである。

8月26日
 まいにちフランス語と、イタリア語の両方の時間でツインの部屋という言い方が出てきた:
 フランス語 une chambre à un lit
 イタリア語 una camera doppia
よく似ていると思うか、違うと思うか、意見は分かれるところだろうが、私は違うというほうの意見である。

金田一秀穂『金田一家、日本語百年のひみつ』(3)

8月25日(月)曇り

 この書物の第2部「日本語三代」では、初代の京助、二代目の春彦、そして三代目である著者の日本語との付き合いが、私生活についての思い出も含めて語られている。

 京助は志高く、我が道を歩んだ明治人であった。外から見ると立派に見えるが、晩年になってその業績が認められ生活にゆとりができたとはいうものの、家族、特に妻には迷惑をかけ続けていて、あまり尊敬されない夫であったらしい。
 「私たちは、無責任に、自分たちとは現実的なつながりのない人として、明治の人たちを見ている。その上澄みのような、きれいなところだけを見る。そして自分たちに足らない美しさを発見して、忘れていた善きものを思いだして、感嘆する。尊敬してしまう」(104ページ)。
 京助は講演の名手であり、その講演を聴いて国語教師を目指したなどという人も少なくなかったようである。熱狂的なファンがいた。息子の春彦も講演の名手だったが、そういう熱狂的なファンはできなかった。「京助の持っていた感情の力強さはなかった」(106ページ)ゆえであろうと著者は推測している。

 京助は『アイヌ神謡集』の翻訳を残して若くして亡くなった知里幸恵を東京に呼び寄せていたが、彼女の残した日記には、金田一一家の様子が細かく記されているという。9歳の春彦が井戸に落ちた話などを通じて、一家の暮らしぶりや、家族の性格がうかがわれる。京助の妻である「静江という人は、とても贅沢な都会っ子であり…昔風の奥様の贅沢な暮らしを、最後まで貫けた人だった」(122-3ページ)。貧乏学者の妻であることが不満であったらしい。京助がアイヌの人々を家に連れてきたりすることにもあまりいい気持ちを持っておらず、それが春彦にも伝わっていたのではないかというのは家族の人間でないとできない観察である。

 春彦は日華学院で教えていたので中国人留学生を始終自宅に連れてきていた。「我が家で主に料理をするのは母方の祖母だったが、彼女は彼ら[=留学生たち]から中華料理の作り方を習い、『中華料理は何でも油とニンニクを入れればいいんだ』と納得し、そんなに単純なことではないだろうと私たちは思っていた」(144ページ)という。著者のもう1人の祖母は人間が大まかにできていて、なかなかの女傑であったようにも思われる(うまくバランスが取れている)。
 春彦はあまり母親の愛情に恵まれず、父親の厳しい教育を(いやいやながら)受けて育ったが、結局は父親の用意した道を歩んでいった。「若い時期に、牧野富太郎博士のフィールドワークや中西悟堂氏の探鳥会に参加し、本居長世氏の音楽会に出席した。kそれらすべては、京助の紹介によるものだった。ため息が得るような環境である。京助はそのように春彦を誘導していった」(129ページ)。
 「父が、若い頃、その父である京助に、自分は国語学者になりたいといった時、京助は大変喜んだのだが、春彦に、それにつけても決して研究してはいけない分野を3つ教えたそうだ。1つは日本語の起源、1つは詩的言語、そしてもう1つが語源。
 語源に関しては、当時、柳田國男という巨人がいた。恐ろしいほどの博覧強記であり、日本全国の暮らしやことばを知っていた。しかし、柳田の強みはそれだけでなく、その知識を現代の様々な事象に結び付けることのできる天才的なひらめきがあった。そういう人であれば語源を調べても、説得力がある。京助は柳田に私淑していて、すぐそばでその凄さを見せ付けられていたのだろう。博覧強記だけなら勉強すれば何とかなるかもしれないが、知識を結び付けるひらめきを、春彦は持っていない。京助はそのように思ったのであろう」(207-8ページ)。著者は一般的な意味で書いているのではないが、研究における努力の役割について考える際に示唆的な洞察である。

 著者は大学を出てから3年間、何もせずにぶらぶらしていたのだそうである。そして春彦はその間、ずっと待っていてくれた。そのことに著者は感謝の気持ちを述べている。金田一家の日本語三代の取り組みを支えているのは、そういう気の長さであるようである。
 (余計な話を書くと、昔大映に金田一敦子という女優さんがいた。京助の姪だという話を聞いたことがある。残念ながら、出演作を見たことがないが、そのうち神保町シアターあたりでお目にかかることができるかもしれないと思う。)

金田一秀穂『金田一家、日本語百年のひみつ』(2)

8月24日(日)晴れ後曇り

 この書物は、第1部「今の日本語はどんな姿か」、第2部「日本語三代」の2部構成で、前回は第1部の途中で内容の紹介をやめてしまった。金田一家は辞書編纂に100年以上取り組んできた家系である。「辞書はどうあるべきか」について、3代目なりの意見があってしかるべきである。電子辞書が紙の辞書を駆逐し始めているご時世にあって、そのような意見は特に重要に思われる。

 電子辞書の問題点として、この種の辞書に親しんでいると、50音順が頭の中に入らなくなってくるという。問題ではないといえばそれまでだが、紙でできた辞書を眺めているほうが、言葉をめぐる遊び心は動きやすいのではないかという(デジタルの辞書でも、言葉遊びを展開することは可能ではないかと思う)。

 「辞書のキモは語の用法」と著者は言う。この言葉は日本人の日常的な会話、あるいは文書のやり取りの中で、一般的にどのような使われ方をしているか、それを知ることが大事だというのである。
 「日本語の辞書は、長い間、その意味だけを記せばよくて、用法は付け足し的に考えられてきた。しかし、重要なのは、実は、用法なのだ」(69ページ)という。特に外国人が日本語を勉強する場合にこのことは特に重要である。「その語をどのように使ったらいいのか、どのような文脈で使うのがいいのか、文法的な正しさはもちろん必要であるのだが、そこから先の妥当性、適切性も書かれていなければならない。/私たちは論理の世界に住んでいるわけではない。言葉の世界は論理の世界ではない。だから、言葉について考えるのは楽しいのだと私は思う」(同上)。このことから、さらにIT時代における辞書の役割をめぐる著者の複雑な心情が語られている。

 言語の習得の過程で大きな役割を演じるのは「暗黙知」である。だから逆にいえば、日本語を「外国語」として客観視することは意味がある。「外から見る視点というのは、国語学のような、どちらかといえば内向きの学問領域にとって、非常に新鮮であり重要なヒントを与えてくれるものであった」(83ページ)。その一方で外国人に日本語を教える教師たちの待遇があまりよくないことについての意見も述べられている。

 さらにブラジルにおける日本語教育の事情と、その事情に触れた感想が記されているのだが、私もブラジルに出かけて、著者とは別の経験をしているので、このあたり、より視野を広げた観察と考察とを期待したい(簡単に言うと、ブラジルにおける日本語学習は、マンガやアニメの影響で日本文化に興味を持つようになった、あるいは日本の経済的な先進性にあこがれを抱く、非日系のブラジル人たちの間で盛んである――という事実も、見逃すべきではないということである)。
 
 それから日本語を取り巻く「言葉にしない文化」についての父親=春彦の意見を紹介し、さらに、祖父である京助も「ことばにしない文化」への愛着をもっていたと述べる。ただし、京助の場合は、アイヌの「言葉にしない文化」へのこだわりである。そして、「イランカラプテ」というアイヌの言葉が、京助とアイヌの人々の間をどのようにつないだか、あるいは「帰国子女」である著者の子息が「ねえねえ」という言葉によって、どのように周囲とつながる機会を確保したかについて述べている。

 以上、述べられていることは体系的な考察というよりも、折に触れての感想の集成という感じがあるのだが、金田一家3代にわたる言語へのかかわりを背景とする洞察には鋭いものが感じられ、われわれの日常の言葉について改めて考え直すきっかけを与えてくれるのである。この書物には、既に述べたように金田一家の日本語との取り組みを辿る第2部があって、それはまた機会を改めて紹介をするつもりである。

金田一秀穂『金田一家、日本語百年のひみつ』

8月23日(土)曇り、一時雨

 金田一秀穂『金田一家、日本語百年のひみつ』(朝日新書)を読む。

 著者の姿はテレビの画像などでときどき見かけているが、金田一春彦の次男、そして祖父は金田一京助という国語学者の一家の三代目である。

 著者自身も認めているように、「金田一の家は『辞書』で有名である」(55ページ)。京助の本業はあくまでもアイヌ語研究で辞書編纂は生活の資を得るための手段であった。「…有名になって、ますます筆頭編集者や監修者として名前を出すことが多かったが、ほとんど名義貸しのようなものだった」(同上)。その一方で「息子の春彦は本当に辞書の仕事に精を出した。…有名な三省堂の一連のものも、京助の名前で出ているが、実際は春彦とその優秀な同僚たち、編集者たちとの努力によってつくられている」(55-56ページ)。

 ちょっと脱線するが、岩波の『広辞苑』についても同じような事情があり、新村出が編纂したことになっているが、実際の作業は息子の新村猛が中心になって行っている。問題は、金田一の場合と違って新村出は国語学者であったが、息子の方は国語学者ではないということである。『広辞苑』は国語辞典というよりも小型の百科事典を目指して編纂されたと説明されている。

 様々な言語の辞書とその編纂者をめぐっては田澤耕さんの『<辞書屋>列伝』(平凡社新書)のような書物が書かれており、これは今年の1月25日付の当ブログで紹介している。(さらに古くは、加島祥造『英語の辞書の話』(講談社学術文庫)が、英語に限定されているが、多様な辞書編纂にその生涯を費やした多様な人々の群像を生き生きと描いている)。金田一さんは「近代国家として必要な国語の整備、という問題について、西欧各国は、さまざまな大辞典を作っていた。英語の『ウェブスター』、フランス語の『ラルース』など。それらを持つことは近代国家としての資格であった」(56ページ)と書いているが、この認識は甘すぎる。その一方で大槻文彦が文部省の命令で辞書を編纂したが、完成した辞書を自費で刊行したことについて触れて、「ひどい話である」(57ページ)と書いているが、そう思うのであれば、もっと勉強してほしい。大規模な辞書編纂事業には国家主導型(フランス)と、サミュエル・ジョンソンが徒手空拳で辞書を編纂した英語のような民間篤志型とがあり、そのような国際的な視野の中で大槻の(そして金田一や、新村の)努力を評価すべきだと思うのである。さらに言えば、良くも悪くも編纂者の個性が反映されている国語辞書は大槻の『言海』、『大言海』だけであるのに、漢和辞典や英和辞典になると個性的な辞書が少なくないということについても一考あるべきであろう。ただ、辞書編纂の過程で中心となる人物の個性と協力者たちの個性とがぶつかり合うことも十分に考えられる。個人と集団の力学が辞書編纂にどのように働くかについても考える必要があるだろう。

 三代目の秀穂さんも「幼いころから『ヒデホちゃんもいつか辞書作るんだよねー』などと周囲の大人たちに言われながら、育ってきた」(56ページ)のだそうである。辞書作りについての認識が甘いなどと書いてすぐに、こういうことを書くと一貫性がないといわれそうであるが、この書物の最初の部分で展開されている「今の日本語はどんな姿か」についての著者の考察はなかなか鋭いものである。「おかしなおかしな『コンビニ敬語』」、「『ヨロシカッタデショウカ』の謎」、「『ありえな~い』は『分からない』」などの考察は読み応えがあって、この調子で辞書を編纂したら、個性的なものができるのではないかと期待がもてる。もっとも個性的であればいい辞書であるといえないことも断わっておく必要はある。

 実際問題として、秀穂さんが書きたかったのは、辞書の話ではなく、金田一家の中でどのように国語/日本語との取り組みがなされてきたかという話であろう。祖父京助はアイヌ語の研究家であり、父春彦は日華学院などで中国人留学生に日本語を教えることで日本語の特性を考えることになった。さらに秀穂さんも外国人に日本語を教える仕事に従事されている。三代にわたる日本語研究は異言語との対峙の中でその形を整えてきたことも見落とすべきではないだろう。この書物を読んで考えたことは、少なくないので、もう少し続けて内容を紹介・論評していきたいと思う。よろしくお付き合いください。

語学放浪記(41)

8月22日(金)晴れ

 「英語とドイツ語ができれば、ヨーロッパの言語はほとんど全部わかるでしょう?」といわれたことがある。この発言には2つの誤解がある。まず、私の能力についてであるが、英語もドイツ語もできない。できないといってもいろいろなレヴェルがあり、英語はできないといっても、国際会議で自分の考えることを自由にしゃべったり、外国の学術雑誌に論文を投稿したりする程度にできないという「できない」であり、ドイツ語のほうは、初級文法を終えた程度で、ドイツに出かけたこともないし、ドイツ語の本も読んだことがない(今年になって生まれて初めてアンデルセンの『絵のない絵本』の対訳本を読んだ)という程度の「できない」である。

 ヨーロッパの言語はインド=ヨーロッパ語族に属しているから、それぞれ近縁関係があり、ある言語を習得すれば他の言語の習得も容易になる――と考えるのならば、これまた大変な誤解である。まず、ヨーロッパで話されている言語の中で、ハンガリー語、フィンランド語、エストニア語、それにサーミ(ラップ)語、またバスク語はインド=ヨーロッパ語族には属していない。トルコをヨーロッパに入れるかどうかは議論の分かれるところかもしれないが、トルコ語もインド=ヨーロッパ語族には属していない。

 インド=ヨーロッパ語族といっても、ロマンス語派、ゲルマン語派、スラヴ語派などに分かれていて、それぞれの中での共通性があるとはいっても、独立した言語と考えられているということは、やはり相当な違いがあるということである。たとえば、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語など冠詞があるが、ラテン語には冠詞がないし、現代の言語でもロシア語には冠詞がない。ドイツ語の冠詞には格変化があるが、フランス語、イタリア語、スペイン語では冠詞の格変化はない。とにかく文法についても、語彙についても、それぞれ一から勉強して積み重ねていく必要がある。

 高等教育における語学は(中学や高校で英語以外の言語を履修させる場合も含めて)、できるだけ多くの情報を与えて選択させるというやり方が好ましい。恐れをなしてやめるということがあっても、それはいいのではないかと思う。学校でだらだら語学を勉強するよりも、必要になった時に短期集中型で特訓をする方が効果的な場合もありうる。それでも、私はダラダラといろいろな言語を勉強している(その結果としてどれもこれも物になっていない)が、これは半分以上趣味として好きでやっているからである。

 大学院時代の指導教官からドイツ語の教師ならば就職口があるからドイツ語を勉強しろと勧められた話は既に書いた。40年くらい昔、地方の大学や短大・高専では第2外国語というと、ドイツ語と決まっていて、選択の自由がない場合が多かった。多くの場合学力も低く、動機づけが全く弱い学生を相手に教えるということになると、授業が極めて困難で先生がいつかない。そういうところを狙って就職させようというのだから、ひどい話である。学生たちが学力が低く、動機づけも弱いのだから基礎的なことだけを教えればよいという理屈であるが、実は基礎的なことを教えるというのはかなり難しいことである。ぼんやりと語学を勉強しているだけでは、何が基礎的なことか全くわからない。ドイツ語学専攻ではないし、文法書もしっかりとは読んでいないし、ドイツ語を教えた経験もない。ないない尽くしである。

 ないない尽くしといえば、その当時はまだドイツ語の能力検定制度はなかった。あれば、指導教官の先生もドイツ語を教えろなどと無理は言わなかっただろうと残念に思う。大体、私の実力は4級程度、努力すれば3級も夢ではないというところである。これでは教師は務まらない。とにかく、日本におけるドイツ語履修者の数はきわめて多かったから、その中にはかなり優秀な人が少なくなく、国際的にみると日本はドイツ語がよくできる人が多いという評価を受けているようである。全体のレヴェルの高さと、下手の横好きでいろいろな言語をかじり散らかしていた私の個人的なレヴェルの低さの両方が見えていなかったということである。

 さて、ドイツ語、ロシア語、フランス語、イタリア語、ラテン語を勉強し、オランダ語と古典ギリシャ語を少し齧ったということは前回にも書いたが、『みじかくも美しく燃え』などのスウェーデン映画に感激して、スウェーデン語を勉強しかけたり、ポーランド語に興味を持ったり、ルーマニア語の入門書を買ったりしたこともある。しかし語学の学習には努力を持続させることが重要で、そのためには持続的に刺激が与えられることが望ましい。学校の授業や、テレビ・ラジオの講座などはそういう刺激を持続的に与えてくれるが、自分で本やCDを買って勉強するということになると、努力が持続しにくい。努力は万能でもなく、即効性もないので、余計に難しい。

 荷物を整理していたら、NHKラジオのポルトガル語講座のテキストが出てきたことがあり、全く記憶がなくなっているのだが、ポルトガル語を勉強したいと思ったこともあったらしい。ブラジルに出かけたことはあるし、その際、ブラジリアの大学の図書館を見せていただいて、ポルトガル語の世界の奥行きを実感した。しかし、ポルトガル語を勉強する余裕がないのが残念である。特に最近は、ポルトガルの詩人であるペソアの作品に魅力を感じているので、言語についての興味だけは募らせているというのが現状である。

 豊かな文学世界をもっているということになると、アイルランド語なども相当な奥行きがある。ダブリンの本屋をうろうろしながら、英語だけでなく、ラテン語やアイルランド語の本が並んでいる書架を見て、わからないなりに興奮を覚えていたことを思い出す。こんな調子だから、生涯一書生ということで、語学を教える側には回らない方がよい。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(6)

8月21日(木)晴れ。大雨による被害を受けた方々に心よりお見舞い申し上げる。その一方で、こちらでは酷暑が続いている。自然現象を神の意思の反映などと単純に解釈できないし、そうすべきではないことが痛感される。

義理の姉弟だった二人の悲嘆を前に
苦悩のあまりに私は昏倒して
意識を失っていたが、我に返ると

奇怪な責め苦が、奇怪な魂が
自分のまわりに見える、どこに行っても、
どこを向いても、どこを見ても。

私は第三の圏にいる。永遠の
雨が、呪われて、冷え切って重い。
降り方も降る物も決して変わらない。

巨大な雹が、黒い水と雪が
闇に満ちた大気の中に注がれ、
これを受ける大地には異臭が漂う。
(98-99ページ) フランチェスカとパオロの恋物語に衝撃を受けた詩人が2度目の気絶から目覚めると、ダンテは理性で食欲を抑えられなかった者たちが飽食の罪のために罰せられている地獄の第3圏に達していた。
 現在の日本が飽食の社会であり、多くの食べ物を無駄にしていること、さらに最近の異常気象や、首都圏の一部に降った雹を思い出すと、これは作り話とは思えない迫真性をもった個所であるが、ダンテが言う飽食の罪はもっと別のものを含んでいる。

 彼らを迎える悪魔はケルベロスである。ここでもギリシャ神話の存在がキリスト教的な悪魔とされているのだが、社会的な悪としての飽食を象徴する存在として描かれている。ケルベロスの前を無事に通過したダンテとウェルギリウスは:
私達は、重い雨に押しつぶされている
影どもの上を通り過ぎながら、肉体のように見える虚像を
足で踏みつぶしていった。
(101ページ) 現実的ではない場面であるが、ダンテは彼の経験と想像力を駆使してこの場面に現実性をもたせている。

 そしてその踏みつけられていた影の1つが、ダンテが同郷の同時代人であることに気付いて口を開く。死者は過去と未来を知る。チャッコというこの人物が、ダンテの故郷であるフィレンツェの政争の原因について、ダンテの問いに答えて語る。この箇所では、友愛で結ばれるべき共同体である都市の市民が、己の欲という衝動を抑えられずに獣のように暴力的に争う姿(そしてその結果)が描かれている。都市の分裂と内乱という問題はこの後も大きなテーマとなる(イタリア半島はっこの後も半島内の小国の対立と外国からの鑑賞の歴史が続き、統一イタリア王国が成立するのは19世紀の半ばになってからのことである)。そしてダンテはフィレンツェの歴史にかかわり、一部からはその業績を高く評価されている人物たちの死後の運命について問うが、
・・・「さらに黒々とした魂どもの中にいる。
様々な罪がその者どもを奈落の底で押し潰している。
それに見合うだけ深く降りていったところで、君はそのものどもに会えるだろう。」
(106ページ)という答えを得る。そしてチャッコは
…君があのさわやかな世界に戻った時には、
人々の記憶の中に私のことを呼び起こしてくれるよう頼む。」
(同上)とダンテに言づける。地獄の魂は人々の記憶の中に残ることを渇望しているのだそうである。

 そしてダンテはウェルギリウスに導かれて地獄のさらなる深みに向かっていった。

 ダンテの地獄の描写におけるリアリズムに圧倒されるというのが正直な感想である。飽食の罪というのは文字どおりに考えても、思い当たることが少なくないのに、ダンテはさらにその波及効果を考えているようである。ダンテはこの後、どのような罪と地獄に直面することになるのであろうか。

プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』(6)

8月20日(水)晴れ、暑くてかなわない。

 プルタルコスは自然現象を神々と感嘆に結び付けて考える傾向を俗信であるという。「季節ごとの環境の変化とか、収穫や種蒔きや耕作のような季節ごとの仕事の循環とか」(115ページ)を神々と結びつけて、「穀物の種を蒔いて土をかけると、オシリス様のお弔いをしたといい、芽をふいて穀物がまた顔を出すと、オシリス様がよみがえってお出ましだと言う」(同上)のは一部の人々が好むものではあるが、神々に対する正しい態度だとは言えないと考えている。(当時の人々が、たとえ一部の人々であるにせよ、このような習俗をもっていたとすれば、それはそれで興味深いことである。)

 「エジプト人が神々をギリシア人にもエジプト人にも共通のものだとして、エジプト人固有の神とせず、つまり、ナイル河、およびナイル河がうるおしている場所だけをこれらの神々の名のもとに限定し、あるいは沼地や蓮(ロトス)だけが神のみわざだと言うなどして、ナイル河もなくブトやメンピスのような都市もない国の人々をこれらの大いなる神々の崇拝から締め出す、というようなことをしていない、だからといってそれを驚くには及ばないのです」(115-6ページ)。
 翻訳者の柳沼重剛さんは訳注で「ヘレニズム時代以来、プルタルコスがこの作品を書いた時代まで、思想界全体を支配していた折衷主義、あるいは(とくにストア派の哲学者たちの)普遍主義的な考え方の表れだが、結果的に、エジプトの神々の礼賛、エジプトの宗教がギリシア人に及ぼした影響の大きさを語っていることになる」(193ページ)と論じている。もともと多くの民族、都市国家がそれぞれの神々をもっていたのであるが、民族間、都市国家間の交流が進むことにより、より普遍的な神という考えが生まれるのは、ユダヤ教の場合についても言えることである。
 そして神々を簡単に自然現象と結びつけることは、かえって髪を軽んじる結果となると警告する。

 さらに人々は「民族が違えば神々も違うとは考えなくなり、異邦人の神もギリシア人の神も区別なく、南の人の神も北の人の神もみな同じだということに」(117ページ)なったが、太陽や月、海などがすべての人間に共通ではあってもその呼び名が民族ごとに違っているように、神々の呼び方も異なっているのであるという。

 それゆえ哲学が提供する推論的思考を宗教やその儀礼に参加するための案内者として利用することが賢明であるという。様々な祭礼の決まり事も、理性的な思考によってその意味を知ることができる。ここでプルタルコスはいくつかの理性的な解釈の実例を示しているが、むしろどのような祭礼がおこなわれていたか(たとえばヘルメスの祭りには、「心理は甘きもの」と唱えながら蜂蜜といちじくをたべる)という記述の方が興味深いのは皮肉である。
 さらに「人間が生まれながらに授かっているものの中で最も神聖なものは理性、特に神々について理性的に思考する能力であり、また、これほど大きな、幸福への原動力もありません」(119-20ページ)と述べ、「神託を求めて・・・デルポイを訪れる人に、神を敬う心を厚くおもちなさい、謹んでめでたい言葉をお言いなさい」(120ページ)という忠告はこのような背景からなされるのであるが、多くの人がなかなか聞き入れることがないと嘆いている。
 特定の宗教を信じていなくても、寺社に参詣する場合には、態度と言葉遣いに気をつけるべきではないかと改めて考えさせられる。そういう意味ではプルタルコスは宗教全般を通じての普遍的なものに気付いていたともいえる。

 その一方で神々の死を嘆く陰鬱な儀式も存在するのはなぜかとプルタルコスは考察する。ここでも、挙げられている例が民俗誌的な興味を引くのであるが、プルタルコスは神々の死は季節の変化を反映するもので、実際に神々が死ぬことはありえないのだという議論を展開している。さらに神と神像、神と結びつけられている動物について、それらを混同して進行することの愚かさを指摘している。「ことばを正しく理解することを学ばないものは、その言葉が指しているものの扱い方をも誤る」(123ページ)というのは確かにその通りである。

 プルタルコスが問題にしているギリシャやエジプトの宗教は、日本人にとってなじみは薄いが、多神教である日本の伝統的な宗教との共通性があるので、それなりに分かりやすいのではないかと思う。そして異質の信仰の出会いについて、色々と考える手がかりを与えてくれるところもある。彼の思考のかなりの部分に納得がいかないのであるが、その誠実さは認めてよいのではないか。

日記抄(8月13日~19日)

8月19日(火)晴れ

 8月13日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど;
8月13日
 ザ・ダイヤモンドを始め、横浜駅西口の主な商店街は休み。東京に映画を見に出かけるつもりだったが、上映日程を間違えて記憶していたことが分かり、ずっと横浜にいることにした。西口有隣堂が明日より新しい店舗に移って営業するらしい。有隣堂はポイントを発行していないので、あまり本を買わないのだが、立ち読みに立ち寄るのが便利になればそれに越したことはない。

8月14日
 シネマヴェーラ渋谷で『陽気な巴里っ子』と『アフリカ珍道中』の2本立てを見る。前者はエルンスト・ルビッチのコメディであるが、無声映画だったので驚いた。道路を隔てて向かい合って住む2組の夫婦がそれぞれ浮気をしあうが、元の鞘に収まる?という作品である。照明の関係で画面に余計なものが映っておらず、ある意味でわかりやすい映画である。これが何でも写せる機械を備えた現代の映画だと、登場人物よりも背後の風景の方に興味が移ってしまうようなことが起きる。映画が終わって、「さすがにルビッチの作品だねぇ」という会話を交わしている老映画ファンがいたのには恐れ入った。後者はびんぐ・クロスビー、ボブ・ホープ、それにドロシー・ラムーアの『珍道中』シリーズの作品。アフリカの場面がいかにもセットで撮影された感じなのが減点材料。それでもアフリカで怪しげな興行を続けるクロスビーとホープの2人組の芸人根性はなかなかのものに思われる。映画の原題はThe Road to Zanzibarなのだが、ザンジバルまでは到達しなかったようである。

8月15日
 横浜駅西口ヨドバシカメラの地下2階のステーキレストラン「ベリー・グッドマン」のサラダ・バーで野菜を大量に食べる。肉料理のほうも、以前この店で食事したときに比べて質がよくなっているように思った。
 
8月17日
 ニッパツ三ツ沢球技場へJ2の横浜FC対カマタマーレ讃岐の試合を見に出かける。前半2点を先行した横浜が4-2で勝利する。勝ったのはうれしいが、2点も失点したのは余計だなと思う。

8月18日
 NHKラジオまいにちドイツ語の本日の会話より:
M: Wann beginnt der Unterricht?
T: Um fünf vor acht.
M: Dann müssen wir schon um 6 Uhr frühstucken.
T: Der Schulbus kommt um sieben.
母:授業は何時に始まるの?
ティム:8時5分前だよ。
母:じゃ、6時には(朝ごはんを)食べないとね。
ティム:スクールバスは7時に来るよ。
いやに早いと思うのだが、ドイツの学校は午前中で終わると聞いたことがある。その結果、早く始まるということであろうか。学校は勉強をするところであり、それ以外は家庭と地域社会に委ねられている。別のところで、ドイツの学校では夏休みの宿題などというものはない、休みは休みで、自分のしたいことをするという話が出てきた。それに比べると日本の学校はダラダラしていると、夏休みというのに学校に出てきている生徒たちの姿を見かけながら思う。実は私もだらだらした性質なので、自己嫌悪の気持ちが混ざっている。

 まいにちフランス語の放送はされなかったが、テキストに記されていたことで、「フランスでは、普段の生活で誰かに国籍をたずねたり、逆にたずねられたりすることがよくあるのでしょうか」というジャン=フランソワ・グラヅィアニさんへの質問で、そういう問いをされると嫌がる人もいるということも念頭に置くべきだなと思った。(日本人は「国籍」ではなく、「エスニシティ」の方を問題にしがちなのではなかろうか。) グラヅィアニさん自身、そのせいがイタリア、それともコルシカ由来ですかと時々尋ねられるという。この種の質問は人によっては無礼だと思われることがあるので気を付けてくださいということである。

 医院で隣に座っていた老人(私よりも年長に見えた)が外国語の入門書だか、文法書だかわからないが、何か語学の本を一生懸命に読んでいる。Es warという文字が見えたので、ドイツ語だと分かった。向学心には学ぶべきものがあるが、本が古びた感じだったのが気になった。言語は変化するから、ゲーテを読みたいというような目的がある場合は別だが、できるだけ新しい本を探す方がよいのではないかと思う。

 そのと立ち寄った薬局の美人の事務員は私には不愛想で(ほかの客にはそうでもない)、十人並みの薬剤師が愛想よくしてくれた。いつものことながら、気になることである。

8月19日
 まいにちドイツ語のWieder was gelernt!のコーナーでショッピングの折に、店に入って品物などをチェックしたいときに、「ちょっといてもいいですか?」という場合、
Darf ich mich umschauen?
というといいそうである。ちょっと、言いにくいが一言断らないと怪しまれるとのことである。これはドイツだけのことではなく、ヨーロッパではだいたいそうだと考えた方がよいようである。(ということは、それぞれの言語で、ちょっと見てもいいですか?という言い方を覚えないといけないということである。)

三浦しをん『仏果を得ず』

8月18日(月)晴れ後曇り

 三浦しをん『仏果を得ず』(双葉文庫)を読む。書店で平積みにされていたので新刊かと思ったら、2007年に単行本として発行された本を2011年に文庫にしたものの第8刷であった。気づかないこと、知らないことはまだまだ多い。そして、遅ればせながら、なかなか面白く読むことができた。

 文楽(人形浄瑠璃)の若い大夫である健は師匠の銀大夫から実力は誰もが認めるが変わりものの三味線(弾き)である兎一郎とコンビを組むように言われる。「兎一郎はほとんど公演ごとに、組む大夫が違う。中堅以上の大夫には、『兎一は勘所がええ』と重宝されていたが、若手には恐れられている・・・間のとり方の悪いところを、三味線の音で有無を言わさず正していくからだ。/この『芸道の鬼』って感じの、神経質で頑固そうな人と、じっくり芸に取り組むのは無理なんじゃないかなあ」(17ページ)と健は思う。健だけではない、両者ともに納得に行かない指示であったが、長老の言いつけにそむくことはできない。

 文楽の技芸員は、大夫、三味線、人形遣い、合わせて90人弱で、同じ顔触れで何十年も一緒に公演の日々を過ごす。基本的には、1月ごとに東京と大阪の劇場を往来し、合間には地方公演のための旅もする。「先輩と後輩。師匠と弟子。芸の道を行く同志でありながら、矜持のぶつかりあう好敵手。複雑で濃密な人間模様が繰り広げられているのが、文楽の舞台裏だ」(11ページ)。兎一郎は健となかなか稽古に入ろうとしない。目先の公演のことよりもはるか先のことを考えているようでもある。銀大夫師匠の語る『忠臣蔵』の山科閑居の段の魅力にひかれ、自分もいつかはやってみたいという健に対して、兎一郎は「長生きすればできる」(37ページ)という。健がこの言葉の意味を理解するのは、物語の終わり近くになってのことである。

 この物語の主要な登場人物、健、兎一郎、銀大夫はそれぞれに簡単ではない私生活を抱えている。物語の進行とともに次第に明らかになっていくそれぞれの履歴と私生活の様相が、彼らが取り組む文楽の演目と絡み合いながら描きだされる。文楽は男性だけの世界なので、その分、裏面での女性たちとの交渉が問題になるのかもしれない。長生きをして芸道を極めていくことは、仏果を得るということと正反対のことかもしれない。文楽の登場人物たちの性格や生き方が、いつの間にか技芸員たちの性格や生き方に反映しているようにも思われる。演目の解釈がいかに演じるかだけでなく、実際の人生の指針ともなっていく。物語は芸と虚実皮膜の関係にある技芸員たちの人生模様、特に健の成長ぶりを描いていく。

 三浦さんの小説を読むのは『風が強く吹いている』に続いて2作目。『風が』は映画を見た感動の余韻が覚めないままに小説も読んだのである。『神去りなあなあ日常』は映画だけ見て、原作は読んでいない。辞書の編纂作業を描く『舟を編む』は映画を見逃しただけでなく、原作も読んでいない。それにしても様々な世界を舞台にして物語を組み立てている三浦さんの取材力と構想力には目を見張るものがある。長距離競争には多少の知識があるので、箱根駅伝を描いた『風が』の物語の展開における無理を指摘することはできる。無理に気づいても感動させるのが文学の力である。その点、『仏果を得ず』の描く文楽の世界には全く無知なので、そんなものかなぁと思いながら読むだけである。ただ、他の芸能と比べながら、芸の道に共通する精進の「厳しさ」(と滑稽さ)を噛みしめていた。

 健に向かって兎一郎は言う:
大した病気も怪我もせず、存分に長生きしたとしても、あと60年といったところだぞ。たった60年だ。それだけの時間で、義太夫の真髄にたどりつく自信があるのか。300年以上にわたって先人たちが蓄積してきた芸を踏まえ、日々舞台を務め、更新たちに伝承し、自分自身の芸を磨き切る自信と覚悟が、本当にあるのか」(189ページ)。
 そういうカッコよさをもっている一方で、兎一郎はプリンに目がなく、家庭では夫婦喧嘩を繰り返している(彼の妻が誰か?という意外性も物語の要素の1つである)。芸と実生活における落差もまた見逃せないものとなっているのである。物語の構成に無理があるということが指摘できるほどに文楽の世界に詳しくないことが読者として幸福なことなのか、不幸なことなのかを考えながら、この書物を閉じた。しかし、文楽を見に行こうとは思わない。

『太平記』(8)

8月17日(日)曇りのち晴れ

 元徳2(1330)年春、後醍醐天皇は南都北嶺に行幸された。その目的は寺院勢力を倒幕の企てに参加させることである。天皇の皇子で時の天台座主であった尊雲法親王は天皇の企てに応じて武芸の修練に励んでいた。このうわさが鎌倉に聞こえ、鎌倉からの使者が上洛し、元徳3年(元弘元年、1331年)に天皇の側近の僧侶である円観、文観、忠円が捕えられて流罪に処された。(以上前回まで)

 僧たちの自白によって、陰謀の中心にいたのが日野俊基であることが明らかになった。俊基は正中元年(1324年)にも逮捕され、鎌倉まで連行されたのだが、申し開きが通じて赦免され、京都に戻されていたが、元弘元年(1331年)7月11日(宣明暦)に六波羅によってふたたび逮捕された。「再犯赦さざるは、則ち法令の定むる所なれば」(85ページ)、今回はどう弁明しても許される見通しはない、鎌倉に向かう途中で処刑されるか、鎌倉で斬られるか、どちらかに違いないと不吉な予想をしながら旅をすることになる。

 歴史学の側から書かれた森茂暁さんの『太平記の群像』では、俊基の処刑についての『太平記』の記述は「冷徹である」(森、54ページ)と評価されているが、その一方で俊基が京都を離れ鎌倉に向かう道中の様子が『太平記』の通常の文体とは違う、やや感傷的な美辞麗句を連ねて描かれていることも否定できないだろう。「落花の雪に道紛ふ、片野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮・・・」(86ページ)。この時代に使われていた宣明暦は太陰太陽暦の一種で、季節の変化を辿るのにはきわめて不向きな暦であったが、7月といえば、暦の上では秋、現在の感覚で晩夏か初秋くらいの時期ではなかったか。それに桜の花が雪のように降って道を覆っているとか、秋の紅葉とか、俊基卿の連行という事件とは関係のなさそうな美辞麗句を並べているのである。

 俊基の鎌倉までの旅路が、東海道の歌枕や、『平家物語』、承久の変の際の故事などが織り込まれながら、延々と語られる。例えば:
 元暦元年の比(ころ)とかよ、重衡中将の東夷のために囚はれて、この宿に着き給ひしに、
 東路(あずまじ)やはにふの小屋のいぶせさに故郷(ふるさと)いかに恋しかるらん
と長者が女(むすめ)が詠みたりし、その古(いにし)へのあはれまでも、思ひ残さぬ愁涙に、旅館の燈幽かなり。
(87ページ/元暦元年(1184年)のころであったか、重衡中将が鎌倉方に囚われてこの宿(池田=静岡県磐田市内)に到着した際に、
 東国への旅路で泊まる陋屋のむさくるしさに、どれほど故郷のことが恋しいでしょう。
と遊女の長の娘が詠んだ、その昔の情趣も押し流してしまうような悲しみの涙で宿の燈もぼんやりと見えるのであった。)
重衡を泊めた宿の娘は囚人とは言え都の貴公子である客に対して気を遣い、また自分自身の都へのあこがれを込めて歌を詠んでいる。俊基はそんな昔の話を思い出すどころではない。いつ、斬られるか気が気ではないのである。

 さらに菊川(静岡県掛川市内)という宿に到着すると、承久の変の際に首謀者の一人として捕えられた藤原光親がここで処刑されたときに、
 昔は南陽県の菊水
 下流を汲んで齢を延ぶ
 今は東海道の菊川
 西岸に宿して命を終る
(88ページ/昔南陽県(中国河南省)の民は、菊水の水を飲んで長寿を得た。今私は東海道の菊川の西岸に泊まって、命を終ろうとしている。)
都の辞世を残した(注によると、この辞世を残したのは光親ではなく藤原宗行だそうである)と書きつけたことが、今は自分の身の上になりそうである。そこで俊基は一種の歌を詠んだ:
 古(いにし)へもかかるためしを菊川の同じ流れに身をや沈めん
(同上/古えもそのような人がいると聞くが、同じ菊川で私も命を終るのだろう。「聞く」と「菊」が掛詞になっている。) 一方は漢詩、他方は和歌。文学作品としての出来栄えよりも、自分の教養の高さや死を目前にしての精神的な余裕を見せることに主眼があるように思われる。私のような臆病者の凡人にはまねできないことであるが、まねするような局面に立ち至りたくないものである。なお、菊水というと、この後登場する楠正成の旗印であるが、それは俊基の知りえないことであった。

 道中で斬られることもなく、7月26日の暮に俊基は鎌倉に到着し、諏訪左衛門のもとに身柄を預けられる。狭い部屋に幽閉され、地獄の閻魔の庁での取り調べもこのように行われるのではないかと思われるほどであった。

 俊基は『太平記』によれば「才学優長」(47ページ)の人であり、後醍醐天皇を中心とする宋学学習サークルの中心になるほど漢学の素養があっただけでなく、森茂暁さんによると有職故実にも通じていた。そのために日野氏の傍流というあまり高くない家柄であるにもかかわらず、後醍醐天皇の抜擢によってもう少しで公卿に列するというところまで出世してきたのである。この点では日野氏の本流に生まれた資朝(彼の運命についてはこれから触れる)が順調に出世していたのとは違う。さらに言えば、『太平記』の作者はどちらかというと資朝の方に同情的なのではないかと思われる。

 森さんは花園天皇の日記を引用しながら、資朝や俊基による宋学の学習について、平惟継のように批判的な人物もいたことを指摘している。この平惟継という人物は『徒然草』に好意的に描かれている人物の1人であって、その一方で『徒然草』が資朝についても好意的に描いていることもよく知られていることではあるが、人間関係の複雑さということを物語る一例かもしれないと考えさせられる。

 俊基の命は風前の灯火であるが、陰謀密議の中心人物が俊基であったにせよ、さらにその背景にいたのが後醍醐天皇であったことは疑いない。では、後醍醐天皇に対し、鎌倉幕府はどのように臨もうとするのか。
 

井上荒野『キャベツ炒めに捧ぐ』

8月16日(土)晴れ後曇り後雨が降ったりやんだり

 8月15日、井上荒野『キャベツ炒めに捧ぐ』(ハルキ文庫)を読む。

 「東京の私鉄沿線の、各駅停車しか停まらない小さな町の、ささやかな商店街の中に」(9ページ)ある「ここ家」という惣菜屋が舞台である。「小さな町だが渋谷まで電車で10分足らずという地の利もあって、商店街の中には会社の事務所とか倉庫とかもちらほら混じっている。…年寄りと同じくらい若い人の姿がある。惣菜屋にとって悪くない環境」(10ページ)で店はそこそこ繁盛している。

 店のオーナーは江子(こうこ)という女性で、店名は彼女の愛称「ここ」に由来するということからもわかるとおり、彼女が別の女性と出資し合って始めた店であるが、その女性は何らかの理由で店の経営から抜け、開店当時からの従業員だった麻津子(まつこ)と2人で切り盛りしていた。開店してから11年目に、夫と死別した郁子(いくこ)が、従業員募集の張り紙を見て応募してくる。働いた経験なしの彼女であるが、江子はなぜか彼女の採用を決める。

 タウン誌の取材に江子は答える:「あたしは江子。こっちが麻津子。で彼女が郁子。・・・来る、待つ、行く。・・・まあ江子を来る子にするのがちょっと無理があるんだけどさ、それにしても見事に揃ったでしょ。運命の出会いだと思わない? きゃはははは」(11ページ)。一番若い麻津子が今や60歳、江子は61歳、郁子はそれよりも年長だが60代。麻津子はずっと独身、江子は離婚歴があるらしい。そこに付き合いのある米屋の新しい店員である進(すすむ)が出入りするようになる。「これってロイヤルストレートフラッシュみたいなものじゃない?」(21ページ)と江子がはしゃぐ。「江子の過剰な上機嫌に麻津子の根拠のない不機嫌が応酬する」(19ページ)という店内の様子が店の外ではまた別の姿を見せる。

 物語は食べ物を主題にする11編の連作短編の形をとって展開する。麻津子には別の女性と結婚して離婚した昔なじみの男性がいる。江子はわかれた夫と何かと連絡を取りたがる。郁子は死んだ夫との間に、息子がいたが、幼いうちに命を落とした。それぞれの生活史の中の秘密が物語の展開の中で明らかになっていく。進にも彼女がいるらしい。平凡に見える登場人物たちであるが、物語の進行は平凡ならざるものとなっていく。

 登場人物たちはちょっとした言葉の行き違いで不機嫌になったり、これまたちょっとした出来事で気分をよくしたりする。そうした日常生活の中で繰り返されている出来事が、作品の舞台に設定されている商店街の実在感に支えられて身近に感じられる。作者はまだ60歳になっていないはずだが、よく年長者の生活と心理を描きこんだと感心させられる。初老(作者は「中年」としているが、こちらの方が適切だろう)の女性たちの元気の良さに対して、老若の男性たちはおされ気味で、このあたりも実感できるところではある。ただ、進くんの描き方は多少類型的に思える。

 そして、主題になっている食べ物のひとつひとつが、わりに身近で季節感もあって、物語の展開によく似あっている。「新米」、「あさりフライ」、「豆ごはん」、「ふきのとう」、「キャベツ炒め」、「トウモロコシ」、「穴子と鰻」などなど。「料理ってすごいわよね。江子は思う。高級食材じゃなくても凝ったことをしなくても、おいしく作りさえすればちゃんとおいしくなるんだもの」(153ページ)という料理哲学は、料理だけでなく物語全体の雰囲気にも浸透しているようである。

公園の方から

8月15日(金)晴れ

 公園の方から

通り過ぎようとした
公園の方から
ネコの鳴き声が聞こえてきた
飼い主を捜しているのなら
あいにくお断りだ
うちには
タマという先客がいて
お前さんの居場所はない
別の飼い主を
見つけるんだね
健闘を祈る

ネコには親がいて
その親にはまた親がいて
野良ネコの親は
野良ネコとは限らないけれども
何代目か前の親も
このあたりで暮らしていたのかもしれない
ひょっとすると
戦争中も
このネコの先祖は
このあたりをうろうろしていたのかもしれない

ネコは記憶を伝えない
公園の百日紅の木も
楠も
記憶を伝えない


公園は戦争中は
別の建物の敷地だった
記憶を伝えないまま
代替わりが進み
風景が変わってゆく

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(5)

8月14日(木)雨が降ったりやんだり

かくて私は第一の圏から
第二の圏へと降りた。囲みは狭まり、
劫罰は激化し、苦痛に悲鳴が上がっている。
(84ページ)
ダンテは地獄の第2圏に下る。第4歌に歌われたリンボは、罪人たちの魂が置かれる場所ではないので、ここからが本格的な地獄ということになる。ここには七つの大罪のうちの<淫乱>=理性を恋愛に屈した人々の魂が置かれている。

 ダンテとウェルギリウスの前に現れたのは冥府の裁判官であるミノスである。彼はギリシャ神話の中の人物で、ゼウス(ユピテル)とフェニキアの王女であったエウローペの子で、クレータ島の王となり、ヘロドトスによれば最初の法律を制定した人物でもある。(ヘロドトスはペルシャ戦争の原因を探ろうとして彼の『探求(歴史)』を書きはじめたが、ゼウスによるエウローペの略奪が戦争の背景をなす東西の対立の遠因であると書いた。ダンテが、ヘロドトスを読んでいたとは思えないが、彼はここでミノスを最初の法律の制定者として、冥府の裁判官役の悪魔としての地位を与えている。

 ミノスの前を通り抜けた二人は、地獄の暴風の中を進むことになる。
地獄の暴風はけっして止まず、
亡霊どもを奪い去って引きまわし、
巻き込んで撃ち、噛み砕く
・・・
このような苦しみに
封じられているのは肉欲の罪人であると悟った。
欲望に理性を委ねたのだ。
(87ページ)

 地獄のこの部分にはアッシリアの女帝であったセミーラミス、ウェルギリウスの叙事詩の中で重要な役割を演じたカルタゴの女王ディドー、エジプトの女王クレオパトラ、トロイア戦争の原因となった美女ヘレネー、戦争の中で活躍しながら恋のために罠にはめられて死んだ英雄アキレウス、そしてヘレネーの恋人のパリス、イゾルデとの恋で有名なトリスタンなどの姿がみられる。
我が博学の師が古代の高貴な女性や騎士の
名をあげるのを聞き終わると
私はすぐにあわれみにとらわれ、危うく気を失いかけた。
(90ページ)

 しかしダンテは激しい風の中でも一つになって飛んでいる二人の魂に気付き、その魂に話しかけたいとウェルギリウスに話しかける。ウェルギリウスの指示に従って、その魂が近づいた時に、ダンテは彼らの言葉をきくことができた。二人はラヴェンナの貴族の娘でリミニの貴族に嫁いだフランチェスカと、彼女の夫の弟のパオロであった。彼らは道ならぬ恋の現場をフランチェスカの夫に見いだされ、殺害されたのである。

 二人は彼らの恋の一部始終を語る:
片方の霊が話している間、
もう一人の霊は泣いていた。そのため私は憐れみに
気を失った、あたかも死んだように。

そして倒れた、死んだ肉体が倒れるように。
(97ページ)
このフランチェスカとパオロの恋愛はダンテの詩によって長く語り継がれ、絵画や彫刻の題材ともなってきたが、ダンテが2人の恋愛をどのように評価しているかについては、議論が分かれているようである。原さんの訳注を読めばわかることであるが、ここでは恋愛詩に代表される文学をどのように評価するかという文学的な論争がこの第5歌の背景には潜んでいると思われる。ダンテ自身が加わっていた「清新体」と呼ばれる文学運動における恋愛観がここでは否定されようとしている。情念や衝動による恋愛は神に至る道ではないというのである。
 私がダンテに興味を持ったのは『神曲』よりも、初期の作品である『新生』の初々しさに惹かれてのことであったので、その中での多少の生々しさを帯びた恋愛観、文学観をダンテが否定的にとらえていることがなんとなく納得できない気分である。「二人の魂は天国で結ばれたのでした」という物語の結末がよくあるが、「地獄で結ばれたのでした」では聞き手の気持ちが宙づりにされてしまう。ではどのような恋愛を、また人生と世界観をダンテはよしとするのか。
 ダンテがここで気を失ったのは、一種の自己否定であり、さらに過酷な地獄を見ることによって彼の世界観はさらに深く広いものとなっていくのである。 

語学放浪記(40)

8月13日(水)曇り

 今年になってこのブログの記事に対していただいた拍手が昨日で2014を超えた。ご厚意・ご支援に感謝するとともに、今後ともよろしくお願いします。

 さて、「語学放浪記」という連載(といっても、それぞれの回にほとんど繋がりはないが)40回に達し、そろそろ書くこともなくなってきた…とはいうものの、依然として語学放浪は続けているので、少し間隔はあくかもしれないが、まだしばらくは書き続けるつもりである。

 小学校から英語を勉強し、大学で第二外国語としてドイツ語を履修し、さらに中国語の初級・中級、ロシア語の初級の単位をとった。フランス語については学外の教室に通ったり、NHKの語学講座を聞いたりして勉強し、スペイン語、イタリア語についてはNHKの語学講座で勉強した。ラテン語については文法書を何冊か読み終えた。ということで、これらの8つの言語については一応勉強した・しているということになるのだろう。勉強した・しているというのと、できるというのは全く別である。言にロシア語などはほとんど忘れてしまった。

 このほかに、中途半端に勉強した、あるいは勉強するつもりになったけれども、しなかった言語というのも少なくない。まさに放浪である。30代半ばのころに、Teach Yourself Dutchという本を買ってきて半分くらいまで読んだ。英語のgiveはドイツ語のgebenに相当するが、オランダ語ではgevenであるとか、英語のdayはドイツ語のTagで、オランダ語ではdagであるというような例を見つけて喜んでいたが、途中で興味をなくしてしまった。もう少しドイツ語ができれば、ドイツ語への興味に支えられて学習が進んだのではないかと残念ではある。それでも江戸時代の蘭学についての本を読んだりすると、これはこういうことかと思う程度に役には立っている。

 古典ギリシャ語は仕事をやめた直後に入門書を読み始め、結構なところまで読み進んだのだが、中断したままになっている。いずれまた学習を再開したいと思う。今のところ、新約聖書のギリシャ語が多少わかる程度まで到達できればいいなと考えている。ギリシャ語といえば、若いころ、横浜の書店の片隅に、現代ギリシャ語やノルウェー語の本が置いてあったのを思い出す。横浜は港町なので、ギリシャや北欧の船員たちがそれらの本を読んだのであろう。現代ギリシャ語にはそれほどの興味はないのだが、ロンドンにいたときにギリシャ人の留学生や商店主と結構話をする機会が多かったことを思い出す(もちろん、英語で話をしたのである)。

 入門書を買ってきて初めのほうだけ読んだという言語は多いが、アジアの言語ではまず韓国語。尾崎雄二郎先生に韓国語の勉強を始めたという話をしたら、韓国語の中の漢語の発音は中国語の発音と、日本語の中の漢語の発音の中間だから面白いですよというようなことを言われた。いかにも音韻学者らしい意見であったが、こちらの努力が続かなかったので、先生のご期待には添えなかった。インドネシア語も少しかじって、いくつか単語を覚えた。ろくな単語を知らないので、インドネシア人に笑われたりする。

 タイに出かけたことはあるが、タイ語は知らない。逆にベトナムに出かけたことはないが、ベトナム語の入門書はもっていて、国際会議などであったベトナム人にこれはどう発音するのだなどと聞いて勉強したのだが、あまり身についていない。ベトナム語はローマ字化されているので、勉強しやすいといえば言えるが、その一方でアクセントが中国語以上に複雑である。インド亜大陸の言語は文字を見るだけでげんなりしてなかなか勉強する気になれない。それでもサンスクリットは一度勉強してみたいという気持ちがある。

 アラビア語はラジオの講座を聴きだしたことが何度かあるが、これまた文字を見るだけでげんなりするところがある。しかしアラビア文字を征服すれば、ペルシャ語やウルドゥー語を勉強する助けにもなるはずだと、興味は失わないようにしている。アラビア語、ペルシャ語など優れた文学的伝統をもつ言語であるので、ごく一部でもいいからその本物の味わいに接していたいと思うのである。

 ある言語を勉強して、片言だけでも知っていることが愛嬌になって交流を促進することもあるし、必死になって勉強したけれどもまだ努力が足りずに意思の疎通ができないという場合もある。運不運が付きまとうことも承知しておく必要がある。ヨーロッパ、アフリカの言語との付き合いについては、また次の機会に述べたい。

日記抄(8月6日~12日)

8月12日(火)曇り

 8月6日から本日までの間に経験したこと、考えたことのいくつか;
8月6日
 昨年の8月6日付の当ブログで書いた内容をなぞることになるのだが、1988年の新藤兼人監督の映画『さくら隊散る』で描かれた戦前の舞台俳優丸山定夫を中心とする移動劇団さくら隊と、この劇団に加わっていた女優園井恵子のことをやはり書いておきたい。広島と、1945年8月6日の原爆投下にかかわってはほかにも多くの書くべきこと、書きたいことがあるが、今のところはこの2人のことが一番気になっているということである。

 戦前の「新劇」運動に大きな役割を果たした築地小劇場の有力な俳優であった丸山は劇団分裂後、新築地劇団を経て、苦楽座を結成、戦争中は各地を巡回して活動していた。1943年に製作・公開された映画『無法松の一生』(稲垣博監督)で吉岡夫人の役を演じた宝塚出身の女優・園井恵子もこの劇団に加わっていた。たまたま広島巡業中に一座は被爆・全滅してしまったのである。

 広島出身の映画作家新藤兼人は1950年の松竹映画『長崎の鐘』の脚本を書いたが、これは原爆を取り上げた(占領下だったので、正面から取り上げることはできなかった)最初の日本映画となった。その後、新藤は広島の原爆と取り組む『原爆の子』(1852)を監督する。この作品の制作にあたって日教組と協力するはずだったのが、話が合わず、日教組側は関川英雄監督による『ひろしま』(1953)を製作、こちらは山田五十鈴、岡田英次、月丘夢路らが出演した。この映画の思い出を語る月丘さんのインタビューをYou Tubeで観たところである。月丘さんは当時松竹の専属であったが、ひろしまの出身であり五社協定の例外を認めさせようと会社の幹部と何度も掛け合ってやっと出演したという。映画が原爆投下以前の広島の市街を忠実に再現していたことに映画製作の力を感じたと語っているのが印象的である。

 前置きが長くなってしまったが、月丘さんにとって園井恵子は宝塚における先輩であり、しかも月丘さんの敬愛していた小夜福子の親友でもあったので、何か思い出がないのかと気になるのだが、その点については全く触れられていなかった。ただ、調べてみると、1942年に宝塚映画社で製作した『南十字星』という映画で月丘さんと園井恵子が共演しているようである。

 一方、新藤監督はその後も1959年に『第五福竜丸』、1978年に『ドキュメント8.6』と原水爆の問題を追求する映画を作り続けた。

 どうも内容が拡散してしまったが、戦前、熱心に築地小劇場などの舞台を見ていた人たちが戦後は舞台を見ることから遠ざかり、そのようにして一生懸命に働いたことが日本の経済成長の役に立ったのかもしれないが、もう少し時間的余裕を作って芸術的な活動に時間を割くことがあれば、日本はもう少しましな国になっていたのではないかと痛切に思っているということである。かくいう私も、詩を書かなかったり、映画を見なかったりした期間が結構長くあって、そのことを一生の不幸と考えているのである。

8月7日
 NHKカルチャーラジオ『生誕450年 シェークスピアと名優たち』の第5回「シェークスピアは女にいじわる?:アントニーとクレオパトラ」の再放送と、第6回「恋の技法と詩の技法:『ソネット集』」を聴く。ソネットが「愛に苦しむ詩人」が語るという形をとって書かれているが、それがシェークスピアの実人生そのままではないという指摘に注目すべきである。放送ではジョン・ギールグッドによるソネットの朗読が紹介されていたが、ロンドン滞在中に彼の母校であるRADA(王立演劇アカデミー)の前をよく通ったことを思い出す(なんか杉浦茂の漫画のせりふみたいになってきた!? RADAのもう一人の有名な卒業生がヴィヴィアン・リーである)。

8月8日
 NHKラジオまいにちフランス語応用編は「回転ずし」の話題を取り上げていた。
Ce restaurant de sushis est un kaitenzushi, litteralement ca veut dire sushi tournant.
(このおすし屋さんは回転ずしなんです。文字どおりには、回っているおすしというイミです。)

8月9日
 長崎への原爆投下の記念日。昨年の8月15日付の当ブログに日向寺太郎監督の映画『爆心 長崎の空』のことを取り上げている。長崎でその信仰を伝え続けている隠れキリシタンの末裔と被爆の問題を通して命の繋がりを描こうとしているが、十分な深さをもって伝えきれているかどうかは疑問だというようなことを書いた(つもりである)。わたしはカトリック信者ではないのだが、信者の人に聞くと、長崎県から首都圏へと移住してきた方が多いらしい。

 『独立愚連隊西へ』の記事について、スギノイチさんからコメントを頂く。自分よりも岡本喜八作品をよく見ている方の批評として、今後の映画鑑賞の参考としていきたいと思う。

8月10日
 台風接近。風雨の中籠城して酒を飲み続けるのもいいかもしれない。しかし、台風の程度によるね。

8月11日
 NHKラジオの語学番組は今週は前の週の放送分の再放送となる。復習という意味ではいいけれども、カルチャーラジオは再放送をしない。どういうことであろうか?

8月12日
 NHKカルチャーラジオ『聖地エルサレムの歴史』はアレクサンドロス大王からヘロデ大王までの時代におけるエルサレムとユダヤ人たちの文化・生活の変容について取り上げた。 講師の及川博一さんが長く現地で暮らされていて、土地勘をもって話をされているので、その点が面白かった。ヘロデが毀誉褒貶の激しい人物であるというのは中立的な評価をしようとする努力の表れであろう。(キリスト教の側からは大変な悪人扱いをされるのが通例である。)

プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』(5)

8月11日(月)晴れ、風が強く、台風の影響が完全になくなったわけではなさそうである。

 プルタルコスは、女神イシスが「自然における女性的なものそのもの」であり、「あらゆる種類の生殖の営みの受け手」(98ページ)であるという。そしてプラトンを引き合いに出すのだが、注によるとプラトンは別にイシスについては語っておらず、プルタルコスが勝手にプラトンにかこつけてイシスについて説明しているということのようである。イシスは「理性の力によってあらゆるものに変わり、どんな姿形でも受け入れる」(同上)。「生まれながらに、第一のもの、至高のものへの愛を授かって」いて、「この至高のものとはすなわち善なるものと同一であって、イシスはそれにあこがれ、それを追求している」(同上)とされる。イシスの女性的というよりも、母性的な性格が強調され、それが一方で理性、他方で善と結びつけられている。

 「たしかにイシスは善・悪いずれに対しても場所となり素材となりますが、常に自ら善の方に傾いていて、その善なるものを産むためにわが身を提供し、その流出と似姿を自分の中に身ごもり、それを身ごもって母となることに嬉しさと喜びを感じるのです。生殖とは、物質的な側面においては本質の似姿であり、生まれ出るものは存在の模倣だからです」(99ページ)。このことからプルタルコスは、オシリスの肉体をテュポンが何度も切り刻んだが、それをイシスが一体に集めなおした、その一方でオシリスの魂は永遠で不死であるというのは荒唐無稽な話ではないと論じる。「神にあるもの、真に思惟されるもの、そして善である者は、死滅や変化より強い、つまり死にもしなければ変わりもしないから」(同上)であるというのである。これに対して単なる似姿は滅びてしまうという。

 それからオシリス、イシス、ホロスの関係の「哲学的解釈」として、オシリスが原因、イシスが受容者、そしてホロスが成就されたものとする。そしてそれを垂辺が3、底辺が4、斜辺が5という割合をもつ直角三角形になぞらえる。またこの関係をヘシオドスの『神統記』の中のカオスと大地(ガイア)とタルタロスとエロスの関係と対比し、ガイアをイシスに、エロスをオシリスに、タルタロスをテュポンに置き換えてあてはめればよいとしている(カオスはこの際、措いておくということらしい)。またプラトンの『饗宴』の中のエロスの誕生の物語を引き合いに出して、ホロスをエロスと同一視している。

 このように神話を解釈しながら、プルタルコスは「物語を、全面的に事実を述べたものとはとってはならず、むしろ個々の点について、本当らしさに照らして、ふさわしい話を取り入れるようにすべきです」(100ページ)と述べて自分の意見を正当化しようとする。また、多少怪しく見える語源論をもとに、神の名前は全民族に共通したものであるとも論じている。そしてエジプトにおけるイシス信仰のいくつかの側面を記述しているが、その関連で、エジプトでは猫が「その千変万化ぶりと夜行性と多産のために、月になぞらえられている」(113ページ)と記しているのが興味深い。猫が合計で28匹の子どもを産むとか、「猫の目の瞳は満月の夜に大きく円くなり、月がかけてくると縮んで小さくなるように思え」る(同上)などとにわかには信じがたいことも書かれ、「猫が人間の顔をしているのは、月の変化の中にある知的理性的要素を表している」(同上)ということになると、ネコ好きの人間にしか通用しない議論ではないかと思われる。
 猫はエジプトの隣のリビアに生息するリビアヤマネコが人間に飼いならされて生まれた動物だといわれ、特にエジプトにおいてその進化の重要な過程が起きたと考えられている。エジプト人が猫を神聖な動物だと考えたことが、このこととかかわっているのだが、その一端がこんなところに記されているのである。

 以上をまとめて、プルタルコスは限度もなく秩序もなく、過度にあるかと思えば不足しているというような…在り方をしている」(114ページ)ものをテュポンに帰し、「秩序をもち、善であり有益であるものはイシスのわざであり」(同上)、「それはまたオシリスの理性の似像であり模倣である」(同上)と考えればよとも論じる。「男の神様が最初の種子をお与えになり、女神様がそれを受け取られ、そして分配なさる、というようにして、自然の中にある一切の善美なるものは皆、これらの神々のおかげで存在することになった」(同上)と神話の意味を解説している。

 プルタルコスはギリシャの哲学の成果を踏まえて(十分な理解であるかどうかは疑問ではあるが)、エジプトの多神教的な世界の根底にある物の見方を解説して見せた。イシスの母性的なものの強調がキリスト教におけるマリア信仰に、これとはだいぶ趣を異にするが、ネコを大事にするところはイスラム教の生活習慣に影響を及ぼしているように思われる。また、今日もなお月が暦を決定する存在として大きな役割を演じている世界があることにも注意を払う必要があるだろう。

 文庫本で訳注と解説を含めてやっと200ページを超える程度の小さな書物なので、すぐに読み終えることができると思っていたが、意外に手間取り、また私なりに書いているこの要約と解説の方はもっと手間取っている。あと少しで最後までたどり着けると思うので、今しばらく我慢してお付き合いください。

アレクサンダー・キャンピオン『パリのグルメ捜査官③ 美食家たちが消えていく』

8月10日(日)台風のため風が強く、雨が降ったりやんだり

 アレクサンダー・キャンピオン『パリのグルメ捜査官③ 美食家たちが消えていく』(原書房:コージーブックス)を読み終える。シリーズ第3作であるが、作者の調子が出てきたのか、読者である私のほうが馴れてきたのか、これまでの作品以上に面白く読み通すことができた。

 パリ警視庁の警視であるカプシーヌ・ル・テリエはブルジョアの家庭の出身でエリート教育を受けてきたが、自分の育った環境に反抗して警察官の道を選んだ。その夫のアレクサンドルは著名なレストラン評論家である。
 そのアレクサンドルの友人であるレストラン評論家が、これまたアレクサンドルの友人であるベアトリス・メナジェがオーナー・シェフを務めるレストランの取材中に急死した。何か毒物を体内に注入され、体の自由が利かなくなって、スープ皿に顔を突っ込みソースで溺死したのである。現場に居合わせたのは従業員と客を合わせて93人、そのうちの1人はカプシーヌの幼馴染で経営コンサルタント会社の重役であるセシル・ド・ルージュモンであった。セシルの話では正体不明の毒物は事件の少し前にあった南米関係のパーティーで一部の参加者が悪ふざけに使った先住民の毒矢からとられたのではないかという。

 フランスの司法制度では重大事件の捜査に当たっては予審判事が大きな力を持っている。この事件の担当になったのは無能なくせに極めて野心的なマルティニエールである。彼は警察の捜査の範囲を大幅に制限し、容疑者の事情聴取はすべて自分が行うと決める。法律上、警察はこの決定を覆すことはできない。

 事件の現場に居合わせた93人のうち、南米関係のパーティーにも参加したのはセシルを含めて5人、後の4人は既に名前の出てきたベアトリス・メナジェ、その品行が何かと人々を騒がせているハイティーン女優のシビル・シャルボニエ、そのパトロンで一流ワインメーカーの会長であるギ-・ヴォアザン、さらにフランスで最も権威ある文学賞とされるゴンクール賞を受賞したばかりの作家のガエル・タンギーである。

 カプシーヌはマルティニエールによるシビル・シャルボニエの事情聴取に同席するが、シビルは女優ぶりをいかんなく発揮してマルティニエールを手玉に取り、マルティニエールは何も聞き出すことができない。そうこうするうちに、パリ市内の別のレストランでまたもや取材中の評論家が死亡し、しかもその場にもシビルとギ-・ヴォアザンが居合わせた。それでも事件解決の糸口はつかめないままである。

 当初はすぐに解決されるかと思われた事件の解決が長引き、さらに第3、第4の殺人事件が起きる。カプシーヌにとってみると、同じくレストラン評論家である自分の夫アレクサンドルがいつ標的になるかわからないので気が気ではない。事件は全国に拡大するのではないかと妄想して大騒ぎを起こしたマルティニエールが上層部から注意を受けておとなしくなったとはいうものの、犯人はなかなか馬脚を現さない。

 犯人捜しのミステリーとして凝った仕掛けが施されているだけでなく、グルメとファッションをめぐる情報もいろいろと詰め込まれていて読み応えがある。ベアトリスがカプシーヌに説明する分子調理法は映画『シェフ 三ツ星レストランの舞台裏にようこそ』でも取り上げられていた。さらになぜか、日本関係の言及が少なくないのが目につくので、紹介してみよう。物語の中ほどでカプシーヌとセシルが回転寿司に出かける。「日本で回転寿司というと、寿司店のなかでは決して高い地位にはないのだが、パリではなぜか大成功して最高にシックなレストランの仲間入りをしている」(227ページ、本当かね!?)
 さらにまた第4の殺人事件が起きるレストランのシェフは「才能ある若い日本人」(305ページ)である。しかもここで起きた殺人事件では「日本のフグ」という魚が被害者の口に押し込まれていた(フグの毒についても言及されている)。日本人の読者にとってはうれしいような、ちょっと複雑な気分になる個所である。その一方で物語の後半、カプシーヌの相談役として重要な役割を演じる元諜報員の精神分析家、セーヌ河畔に暮らすホームレスのヴァヴァスールの日本恐怖症は作品中で解決されない謎とされている。

 複数の意味での意外性をもつ犯人探しに加えて、激務の中でもその魅力を失わないカプシーヌと、その時々の彼女の気分と体調に合わせて料理を工夫するアレクサンドルの<内助>ぶりも細かく描かれていて楽しいが、それ以上にやる気満々で実は捜査の邪魔をしまくっているマルティニエールの存在が面白い。あるいは彼を主人公にしたシリーズが企画されてもよさそうである。

『太平記』(7)

8月9日(土)曇り、時々雨。暑さは和らいだが、台風接近が気になる。

 7月6日に第6回を書いてから、だいぶ間が空いてしまった。第6回で第1巻の内容を辿り終えているので、今回からは第2巻に進むことにする。

 元徳2(1330年)の2月に後醍醐天皇は、信頼する側近の公卿で中納言と検非違使別当を兼ねている万里小路藤房に向かって3月の初めに奈良の2つの大寺院、東大寺と興福寺に行幸されるという意向を示された。長年にわたって行われなかった行幸であるが、両寺院の僧侶たちの歓迎を受け、また興福寺を氏寺とする藤原氏一族も大いにこれを喜んだ。さらに3月の終わりに天皇は比叡山にも行幸された。これも盛大な行事であった。天皇がこのように南都北嶺に行幸されたのは、これらの寺院勢力を倒幕の企てに参加させることが目的であった。「蛮夷の輩は、武命に順(したが)ふものなれば、召せども勅諚に応ずべからず。ただ、山門、南都の大衆を語らひて、東夷を征罰せられんための御謀とぞ聞こえし」(75ページ/東国の武士たちは、幕府の命令に従う存在であるから、天皇の呼びかけに応じるとは思えない。そこで比叡山と南都の衆徒たちを説得して、幕府を制圧し処罰しようという計画であると推測できた)。

 天皇はあらかじめ自らの皇子たちを比叡山に送り込まれていた。すなわち尊雲法親王(護良親王)、尊澄法親王(宗良親王)をそれぞれ出家させ、尊雲、続いて尊澄が天台座主となった。尊雲は座主という地位にもかかわらず、修行も学問も顧みず、「明け暮れは、ただ武勇の御嗜みの外は他事なし」(同上)。もともと武人的な体質の持ち主だったためであろうか、身のこなしは敏捷で、7尺の屏風を飛び越え、剣の道にも秀で、さらに兵法にも詳しく通じていた。「天台座主始まって、義真和尚より以来一百余代、未だかかる不思議の門主はおはしまさず」(76ページ)。後から考えてみると、これも倒幕の準備であったと思われると記されている。7尺というのは2メートル10センチ強であり、現代の走高跳の選手でもかなわない。走高跳の選手は軽装で競技するのだが、尊雲法親王はそんなはしたない恰好ではなかったと思われるからますます凄い。しかし、倒幕の準備とは言え、僧侶たるものが武芸一筋でよいのか。そういう筆致も感じられる。

 「善事は囲みを越えず、悪事は千里を走る」(76ページ)と言い習わされるとおり、尊雲法親王の振る舞いは、朝廷がひそかに倒幕の修法を行っていることと合わせて、鎌倉の知るところとなり、北条高時は天皇を流刑に、尊雲を死罪にしようと調査のために幕府の重臣2名を上洛させる。まず、州法を行ったとされる僧2人、円観上人と文観僧正、それに密教の僧侶ではないから修法を行ったわけではないけれども後醍醐天皇の側近中の側近ということで忠円僧正の3人が捕えられ、六波羅に連行された。

 また歌人として知られる二条為明は、歌合せなどの会にいつも呼び出され、宴席には常に参加していたので天皇の考えを知らないはずはないと召し出され、拷問にかけられることになる。(ずいぶん無茶な話である。) 普通ならばうろたえてしまうところ、為明は落ち着いた様子で硯を求め、周囲のものが白状するつもりかと思って硯を渡すと、一首の歌をしたためた:
  思ひきやわが敷島の道ならで浮世の事を問はるべしとは
  (79ページ/思っても見なかった。私の従う和歌の道のことではなく、俗世のことで詰問されようとは)

 取り調べの席に連なっていた北条範貞は歌をよくしたので、この歌に感動し、鎌倉からの使者もさすがに感動して、為明を放免することになった。誠に歌の徳というべきことである。紀貫之が古今集の序に「猛きもののふの心をも慰むる」(同上)と書いたのももっともだと人々は感じたのであった。『太平記』の作者はこのように記しているが、為明の歌はそれほど巧みだとは思われない。よほど態度が落ち着いていて、無実だということが明らかであったか、あるいは北条範貞が歌人である為明に敬意を払って裏から手を回したか、そのあたりが真相であろう。ただ、歌の徳という考えは中世によく見られるもので、『太平記』だけのものではないことは注意すべきであろう。歌に危難を乗り越えるだけの力があるかどうかは疑問であるが、そう信じることは悪いことではないと思う。

 この年の6月、使者たちは忠円、文観、円観の3人の僧を連れて関東に戻った。彼らの祈祷した本尊の形や護摩壇の様子などを描いた図面を密教の僧侶に見せたところ、間違いなく調伏の道具であるという証言を得たので、僧侶たちを拷問にかけることになる。文観ははじめのうちは頑張っていたが、そのうちに白状し、忠円はもともと臆病な人で拷問される前から白状してしまった。それで円観も拷問にかけようとしていたところ、北条高時が不思議な夢を見、さらに円観を預かっていた武士も不思議な体験をしたため、拷問は取りやめになった。7月に文観は硫黄島(喜界ヶ島)、忠円は越後に流罪となり、円観は奥州の結城宗弘のもとに預けられることとなった。高徳の僧侶でも俗世における難を逃れられないということがこれにより知られるのである。

 歴史的な事件を辿りながら(必ずしも歴史そのままというわけではないが)、不思議な話が多いことが特徴である。尊雲(護良)のスーパーマン的な能力を示しながら、彼の行いをすべて肯定しているような書きぶりではないことも、今後の展開を考えていくうえで重要になるのではないか。

2つ目の窓

8月8日(金)晴れ後曇り、台風接近

 109シネマズMM横浜で『2つ目の窓』を見る。これまでカンヌ国際映画祭で受賞を繰り返してきた河瀨直美監督による、同映画祭への出品作だということであるが、実は私はこの作家の作品を観るのは初めてである。

 奄美大島を舞台に、島の精神生活の中心であるユタ神様のイサを母にもつ女子高校生杏子と、彼女の同級生で離婚した母と二人暮らしの界人を中心に親から子、子から孫への命の繋がりを取り上げた作品である。祭の夜に界人は杏子と会う約束をしていたのだが、海中に漂う刺青の男の死体を見つけ、そのことが心の中のわだかまりになって、自分をうまく表現できない。彼は離婚した父親に会いに飛行機で東京に出かけ、刺青の彫師のマネージャーのようなことをしているらしい父親と時間を過ごす。その一方で、どういう病気かは知らされないが、杏子の母のイサは重病で死にかけていて、退院して自宅で庭のガジュマルの木を見ながら、娘の手を握り、集落の人々に見守られながら死を迎える。

 杏子の「キョウ」と界人の「カイ」を合わせると「キョウカイ=境界」となる。彼らの年齢は子どもと大人の境界にあり、奄美大島は沖縄と鹿児島県の境界にある。そして映画では生と死の境界も描かれている。遊泳禁止になっている海に着衣のまま飛び込んで泳ぐ杏子と、海は生き物だから怖いといって海に入ろうとしない界人とでは、男女の境界がぼやけているようにも思われる。イサは杏子に自分の命はつながっているといい、集落の人々はイサを明るい様子であの世に送ろうとする。生と死の境界も曖昧にしようというのであろうか。
 
 河瀨監督は物語の展開よりも映像によってメッセージを伝えようとしている。刺青の男の死は結局事故なのか、事件なのかわからないままである。かなり違う育ち方をしてきた杏子と界人がなぜ惹かれあうのかについて十分な説明がされているとは言えない。奄美大島の自然の豊かさ、海の波の激しさなどを描く一方で、樹木が伐採される様子も描く。命の繋がりを描くといいながら、子ヤギが殺される場面も登場する。映像は美しい一方ではない。かといって、リアリスティックに島の生活を描きだそうとしているようにも見えない。いろいろな要素が混在している。ドキュメンタリー風の場面は少なくないが、その扱い方は恣意的に思われる。命が繋がっていくまさにその接点のところを描こうというのがこの作品の狙いかもしれないが、夾雑物が気にかかるというのが正直なところである。

 それでも、ここ1年とちょっとの間に身内から2人がこの世を去ったので、生と死の問題について改めて考えさせられた。作中、神様が死ぬのかという問いが何度か発せられているが、『古事記』を見れば、神もまたこの世から姿を隠すことはあることが分かるはずである。それに対して、河瀬監督は、生と死を乗り越える人間の命の繋がりを重視し、またその境界をあいまいにしていく文化の役割を強調しているように思われるが、死ぬのではない、どこかほかのところに行くだけだという古代人の回答についての解釈とも受け取れる。

 とはいうもののやはり死は避けがたい現実でもあり、映画で描かれている死生観は楽観的に過ぎるのではないかな、と自分の体験を通じて思っている。そうはいっても、今村昌平の『神々の深き欲望』の嘘くささを超える島の生活の現実的な描写がこの作品を貴重なものとしていることまでも否定するものではない。 

田中康二『本居宣長』

8月7日(木)晴れ、夕方になって雲が多くなってきた。

 8月6日、田中康二『本居宣長』(中公新書)を読んだ。江戸時代の国学者である本居宣長(1730-1801)の生涯を辿りながら、その業績を文学と思想の両面からとらえて、彼の全体像を描こうとした書物である。学校の歴史の時間などで、多くの先人の名前や著書について紹介されるが、その業績に具体的に取り組むことはあまりない。この書物でも言及されている宣長と賀茂真淵(1697-1769)との出会いを描いた「松坂の一夜』を現代風に書きなおしたものを小学校で勉強しているし、大学院時代の指導教官が三重県の出身だったこともあって、宣長の記念館に出かけたこともあるが、彼の著書を読んだことはない。したがって、宣長の全体像をわかりやすくまとめたこの書物を読んで大いに得るところがあった。

 この書物による限り、宣長の業績はむかしむかしの(中国などの外国からの思想に影響されない)日本人の精神の在り方を探求しようとした古道学と、歌学(実際に歌を詠むことと、研究することの両方が含まれる)とが中心になっているようである。前者について、彼は賀茂真淵の意思を継承して、『古事記』の研究などにおいて優れた成果を上げた。ところが、後者についてみると、真淵の万葉集重視に対して、宣長は「三代集」(古今集、後撰集、拾遺集)を重視して、古風と後世風という2種類の歌の詠みわけを行った。このことをめぐり真淵との間には時として厳しい対立が生じたという。

 私自身が詩を書いている経験から言えることは、ある理論で自分を縛るよりも、複数の詩法を身につけているほうが作品を書きやすい(すぐれた作品が書けるかどうかは別の問題である)。宣長が詠みわけを試み、また門人たちにもそのような努力を勧めたのは教育的な配慮としてはすぐれたものであると思う。しかし、古代風の住居に住んでいたというほど古代研究に没頭していた賀茂真淵の理想主義も魅力的に思われることは否定できない。

 宣長が外国からの影響を受ける以前の日本人の精神を探求しようとして、文献の実証的な研究を進めたことは称賛に値するのだが、そのことを通じて普遍的な人間性の探求に至ろうとせずに、日本人の独自性、あるいはさらに優越性を強調するに至ったのはどういうことであろうか。この書物の中にも出てくる上田秋成との論争において秋成のとった常識的な相対主義にも一分の理が認められよう。(論争を通じてより深い問題の理解に達するのか、論争の勝ち負けだけを問題にするのかという問題はありそうであるが…)

 宣長は思想だけでなく、文章の上でも中国やその他の外国語の影響を排除しようとした。『うひ山ぶみ』の冒頭は、
「世に物まなびのすぢ、しなじな有て、一ㇳやうならず」(4ページに引用:世に学問の筋はいろいろあって一つのさまではない」と和語だけで書かれている。しかし、このように外来語を使わずに自分たちの言葉だけで様々な概念を表現していこうという発想は海外にもあって、例えばドイツ語で辞書をWörterbuch(言葉の本)というのはその例である。つまり、自分たちの固有の言葉を使い、固有の考えに戻ろうとする動きは必ずしも日本だけのものではないし、そこに普遍的なものとつながるきっかけの一つがあるのかもしれないのである。

 我々が宣長と彼の国学から何を学び取り、何を捨てていくかは重大な思想的課題の一つである。そのことを改めて考えさせる書物であった。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(4)

8月6日(水)晴れて、暑い日々が続いている。

雷鳴の重い一撃が
頭の中で深い眠りを打ち破り、力ずくで起こされた者のように
私は突如として目覚めた。
(68ページ)

 語り手であるダンテは意識を失っているうちに地獄の川であるアケローンを渡っていた。ウェルギリウスに導かれて彼がやってきたのはリンボ(辺獄)と呼ばれる地獄の端の場所である。ここには原罪以外の罪は侵さなかった魂が置かれている。当時のキリスト教会の考えでは、ここには洗礼を受けられないまま罪なくして死んだ幼子だけがいるとされていたが、ダンテはキリスト教信者ではなかった正しい魂もここにいると考えていた。それでキリスト教以前に生きていた優れた人々の魂も「神をあるべきように敬わなかった」(71ページ)ためにここにおかれている。ウェルギリウスもその中にいるのである。

それを聞いたときに大きな悲しみが私の心をとらえた。
なぜなら素晴らしく偉大な人々が
あのリンボで宙吊りにされていることが分かったからだ。
(72ページ)

 キリストが復活した際に、地獄から旧約聖書にその事績を記された義人たちを天国に連れていったとウェルギリウスは語る。そのように話しながら、ウェルギリウスは魂が森のように密集しているその中をダンテとともに歩む。その中で光が見える。後世から賞賛を受ける優れた業績を残した人々の魂は天上からの情けによりこのような光を与えられているのである。

その間にも声が私に届いてきた。
「至高の詩人に栄誉を与えよ。
我らのもとを離れていたが、彼の影が帰ってきた」。
(75ページ) ウェルギリウスを迎える声である。そして4人の詩人たちの影が2人の方に向かってきた。その先頭を王者のように歩いているのがホメーロス、続いてホラティウス、オウィディウス、ルーカーヌスが歩んできた。

詩人たちはしばらく話してから、
振り向いて私に向かって親しげな挨拶の仕草を見せた。
そして我が師もこれを喜び微笑んだ。 

さらにはこれを超える栄誉をも私に与えてくれた。
詩人たちはその列に私を迎えることさえしてくれたのだ。
そして私は第6の知恵ある詩人となった。
(77ページ) 自分が古代の優れた詩人たちに劣らないというダンテの自負がうかがわれる個所であるが、実際にその通りなのだから文句の言いようがない。ただ、注によるとダンテは5人の詩人の作品に十分に馴染んではいなかった(彼の時代には名前だけが伝わっていて、作品が読まれていなかった詩人さえいる)とのことである。

 6人は「高貴なる城」(78ページ)にたどり着く。その中にはキリスト教以前の多くの優れた人々の影が見かけられた。さらにイスラームを代表して十字軍と戦った存在ではあったが、騎士的な徳の体現者と考えられていたサラディーンの姿もあった。ソクラテス、プラトン、アリストテレスをはじめとする古代の哲学者たち、その他の学者たちの中に、アラブ人の学者であるアヴェロエスも含まれていた。

けれども私は全員を描いてはいられない。
なぜなら長く続く題材が私を駆り立てるので、
事実を述べる言葉が何度も至らなくなってしまうからだ。

6人の一団は2人に減って、
賢い導き手は私を別の道へと誘った。
静寂を抜け出て、震える大気の中に。

そして明かりのまったくない場所に来た。
(82ページ)

 原基晶さんによる『神曲』の新しい翻訳の紹介を再開する。今回紹介した個所は、ギリシア・ローマの優れた人々を「地獄」の一部においているということで、批判する意見もあるところであるが、キリスト教的な世界観から、これらの人々の業績をしかるべき場所におこうという意図の表れと解釈しておきたい。この作品の全体を通じて、キリスト教とともに、ギリシアからローマへと継承された文化や、ローマ帝国の政治的な遺産がダンテの思想の正統性を裏付けるものと認識されていると受け取りたいからである。

日記抄(7月30日~8月5日)

8月5日(水)晴れ、依然として暑し

暑さの中で
自分さえも
見失いがちになるが

家の中の
片付けが
少し進んだので
飲みに出かけようと
外に出たが、
なぜか
足取りは
軽くない。

暑さのためか、
疲れているのか、
年をとったことの表れか、
何が理由であろうと、
愉快な話ではない。

それでも
何かを
ごまかし ごまかし
自分自身を
だまし だまし
人生かくのごときか
と、陶淵明を引用しながら
酒を飲んでいる。

7月30日
 都内で研究会があるので、ついでに用事を片付けようと思っていたのだが、出かけるのが遅くなり、結局後回しにしてしまった。

7月31日
 NHKまいにちフランス語<応用編>で節分と豆まきの話題に関連して(あまり関係はなかったかもしれないが)、フランス語における指示形容詞(adjectif démonstratif)の話題が取り上げられた。ラテン語には日本語と同様に、「こ・そ・あ」(近称・中称・遠称)という3点の区別があり、中世の古フランス語では(現代英語のthisとthatと同様の)2点の区別があったのだが、現代フランス語では1点体系になってしまっているという話が出てきた。日本人が外国語を勉強するときに間違いやすいことの1つが、どの言語にも3点体系があると思うことなのである。ついでに言えば、東南アジアの言語には4点体系とか、5点体系とかいう言語もあるとのことである。

 NHKカルチャーラジオの『生誕450年 シェイクスピアとまい名優たち』の第4回の再放送を午前中に、第5回を夜に聞く。第5回の『アントニーとクレオパトラ』を取り上げた話が面白かった。エリザベス・テイラーが主演した『クレオパトラ』は製作費がかかった割には興行収入が上がらなかったといわれるが、その理由もわかったような気がする。

8月1日
 NHKまいにちフランス語応用編は「祇園祭と御霊信仰」という話題を取り上げていた。
 私が京都大学に入学したときの教養部長が柴田実先生で、日本史の授業を担当されていた。その授業を聴講したのだが、どうも面白くなかった。その後、専門の学部に進学して、江戸時代の民衆道徳思想である心学についての講義を聴講した際に、柴田先生がこの領域における優れた研究者であるという話を聞いた。さらに後になって、雄山閣から出版されている『民衆宗教史叢書』の中の『御霊信仰』という先生の著書を見つけて購入することとなった。
 大学の先生は大学で決めた大枠の中で授業を担当しているので、必ずしも自分の得意とする領域だけを講義しているわけではない。得意でなくても面白い話ができる才能に恵まれた方もいらっしゃるかもしれないが、なかなかそうはいかないものである。それに授業というものは、面白ければいいというものでもないのである。もっと柴田先生から学ぶべきことはあったかもしれないなと今になって後悔している。

 さて、話題になっている京都の八坂神社の宮司を1993年から2002年まで務められていたのが神道学者の真弓常忠さんである。著書の中で、日本の古代神話に出てくる神々の中でスサノオノミコトが一番魅力的だとか、スサノオノミコトへの信仰には韓半島(とくに新羅)の信仰の影響があるとかいうことを書かれていたと記憶する。

 御霊神社といっても、鎌倉の長谷寺の近くの御霊神社は鎌倉権五郎を祀った神社で、御霊信仰と関係はないらしい。ひ
とつひとつの神社の由来について、丁寧に調べていく必要がある。

8月2日
 横浜開港祭で花火が打ち上げられたのだが、そのことに気付いた頃には打ち上げは終わっていた。

8月4日
 病院で診察を受けるために東京に出かける。7月30日に済ませるはずだった用事を片付け、さらに神保町シアターで映画を見た。

8月5日
 NHKカルチャーラジオ『聖地エルサレムの歴史』の第5回の再放送を聴く。バビロン捕囚がユダヤ教に及ぼした影響について。面白かったが、パレスチナ情勢と重ね合わせると、気楽に聞いていられる話ではない。

独立愚連隊西へ

8月4日(月)晴れ後曇り

 神保町シアターで「祝・喜寿! 加山雄三映画祭」の一環として上映されている『独立愚連隊西へ』を見る。1960年度の東宝映画。メガフォンをとっている岡本喜八監督の『独立愚連隊』の続編のような題名であるが、監督が同じで、日中戦争下の中国北方を舞台として、佐藤允が出演しているくらいしか共通点はない。舞台が中国であるから、「西へ」ということは「奥地へ」、「より危険な方角へ」ということを意味することになる。

 戦局が悪化し、日本軍は次第に点と線との支配から点だけの支配へと戦線を後退させているころ、ある隊が「玉砕」し、軍旗が行方不明となる。そこで軍の名誉をかけて捜索隊が派遣されることになる。しかし、その前途はきわめて危うい。軍に出入りしている怪人物の早川(中谷一郎)は、軍旗を見つけて持ち帰るためにはおそらく独立愚連隊の出番がくるだろうという。

 その独立愚連隊=左文字小隊は、手違いで戦死したことになっているが実は生きているという兵士たちの集まりで、左文字少尉(加山雄三)が戸山軍曹(佐藤允)の補佐を得て指揮している。小隊にはそろばん占いを得意とすると自称するが、仲間からは全く信頼されていない神谷一等兵など癖のありすぎる人物がそろっていて、上層部にとっては早く片付けたいお荷物なのだが、悪運強く生き延びている。新しい派遣先に向かう途中、川を渡ろうとして衣服を流されてしまった彼らは味方のトラックを襲って衣服を強奪して任地に到着するが、その悪事がばれて営倉に入れられる。任務と責任のなすりあいを続ける軍の指導部には軍旗を見つけ出し、取り戻す能力はないと見た早川は一計を案じて左文字小隊を救いだし、軍旗の捜索の任務に出発させる。

 左文字たちは軍の上層部とはそりが合わない一方で、敵であるはずの八路軍とはなぜか馬が合う。特に隊長の梁(フランキー堺)とは戸山軍曹の通訳のよろしきも手伝って、できるだけ全面対決を避けようとしあっている。小隊の中に敵に内通するものがいるかもしれず、さらに八路軍にいったん寝返った将校と従軍看護婦を一行に加える。物語はいよいよややこしくなる。

 ある特定の使命を達成するために少数精鋭が活躍するという戦争映画の筋書きに即してつくられているようで、アメリカ映画に見られるような周到な作戦計画はなく、出たとこ勝負の展開が続く。そのこととおそらくは関係して、敵は自分たちの内部にいるかもしれないという疑心暗鬼の展開がこの作品の特色である。というよりも、疲れ切ってしまった将兵には戦争の大義などなく、敵とか味方とかは一時的な関係にすぎなくなっているのかもしれない。

 暗くなりそうな話であるが、物語の展開はコミカルで、特に佐藤の個性的な表情が映画の雰囲気をなぜか明るくしている。戦闘・殺戮の場面を少なくしていることも手伝っているかもしれない。とはいうものの、物語の展開にかかわるから詳しくは述べないが、小隊から死者が出ることも避けられない成り行きである。とりあえず娯楽映画として楽しんでみることのできる作品ではあるが、その底には作者による別のメッセージを読み取ることができるかもしれない。

 平日の昼間の上映であったためであろうか、観客の大部分は高齢の男性であった。何か関心をもって映画を見に来るというよりも、時間を持て余してやってきているという雰囲気が感じられたのが残念である。この特集上映全体を通じて、どんな観客がどんな感想を持っていくのか、予測がつかないところがある。

 なお、登場するある中尉が旧制三高→京都大学を卒業したという話が出てきて、京都大学の東門近くの本屋という話題が飛び出すが、京大の東側は吉田山と吉田神社で、小規模な出入り口はあるが門というほど御大層なものは設けられていない。おそらく、戦前も同様だったと思われる。ある時代の京大関係者にとってなじみ深いナカニシヤ書店は旧制第三高等学校の東側(京都帝国大学から見れば東南)にあったとは言えるが、東門の近くという言い方はできない。どちらにしても正門の東側というべきである。

垂水雄二『科学はなぜ誤解されるのか わかりにくさの原因を探る』(4)

8月3日(日)晴れ

 垂水さんのこの書物の主題は、科学者の学説が社会一般に正しく受け入れられない傾向があるのはどういうことかということである。第4章では、ダーウィンの進化論に即してこの問題が詳しく論じられている。その第3の部分である「進化論vs社会進化論」では生物学上の学説である進化論が、当時の社会の風潮の中でどのような期待をもたれ、どのように誤って理解されたかが論じられる。しかし、どうも読んでいて気になる部分がところどころにある。まず、この部分の書き出し:
 1859年11月24日に発売された『種の起原』初版1250部は即日完売し、ウォルタールー駅では通勤客が先を争ってこの本を買っていたという報告がダ-ウインのもとに届いた。翌1860年1月には第2版3000部が刊行された。つづいて、第3版2000部(1861年4月)、第4版(1866年)、第5版(1869年)、そして最終の第6版が1872年1月に出る。これは当時としては大ベストセラーだった。その反応は賛否両論だったが、大勢としてはダーウィンの「種は変わる」という主張は受け入れられた。しかし、この時期の進化論受容の大きな問題は、進化のメカニズム、すなわち自然淘汰のことはほとんど無視されたということである。(139ページ)

 ダーウィンの著書On the Origin of Speciesは岩波文庫版では『種の起原』、光文社の古典新訳文庫版では『種の起源』と訳されており、垂水さんは前者に従っている。この書物は一部の書店では1859年11月22日に発売されたというが、今日の日本でも同じようなことはあるし、論述の大筋に関係のないことであるから無視してかまわない。初版1250部とあるが、これも今の日本でも行われているように、関係各方面に献本されたりして、市販されたのは1170部ほどであったといわれている。即日完売したというのは多くのところでそう記されているので間違いはない。ウォルタールーというのは明らかな誤記。ロンドンにそんな名前の駅はない。ロンドンのターミナル駅の1つにウォータールーWaterlooがあるので、多分この駅のことであろう。問題はロンドンには多くのターミナル駅があって、ウォータールーはその1つにしか過ぎないということ。おそらく、ダーウィンの知人が自分の観た様子を著者に書き送ったのだろうが、ここでわざわざ取り上げるような事柄であったかどうかは疑問である。

 というのは、この書物では見落とされているが、1170部のうち500部を買い付けた大口の顧客がいたのである。それはロンドンを中心に私立図書館を経営していたチャールズ・エドワード・ムーディーCharles Edward Mudie(1818-1890)という人物で、彼の図書館のためにこの部数の書物を買い入れたのであった。この間の経緯については既に研究があるはずで、ダーウィンの著書を関心を持って読んだのがどういう社会層に属する人々であるかについてより正確な情報を得る手がかりになりそうである。この時代の鉄道の駅ではすでにWHSmithが店を構えていた。WHSmithの本格的な店舗があったのはロンドンのターミナル駅の1つであるユーストンの駅だったようで、だとするとここでそのユーストンではなくてウォータールー(たぶんそうだろう)が取り上げられているのは別の意味で興味がある。

 続いて垂水さんは「1860年代はヴィクトリア朝時代の全盛期であり、まさに進歩の時代だった」(同上)と『種の起原』が世に問われた時代の雰囲気を概観する。19世紀の前半に特徴的なことと、後半に特徴的なことがごっちゃに並列されているような印象があって、厳密な検討を要する。特にフランスにおける自然科学について「自然もまた進歩しているという見方は、それぞれ考え方は違うが、ダーウィンに先行するビュフォン、ラマルク、キュヴィエなどにも見られるものだった」(140ページ)とするのはいささか乱暴な議論であろう。進化論を唱えたラマルクが、進化を否定するキュヴィエ一派によって不遇な立場におかれたというのは科学史の中では有名なエピソードであるからである。(ラマルクにはフロギストン仮説に固執するなど新しい科学の発展に後れを取る部分があり、比較解剖学という実証的な方法を用いるキュヴィエに十分に対抗できなかったという側面もあるらしい。)

 垂水さんはさらに
 社会思想的には個人主義、自由主義的な思考の流れで、オーギュスト・コントやジョン・スチュアート・ミルなどが、ラマルクの影響を受けて社会の歴史を発展論的に捉えるという動きがあった。したがってこの時代の英国では、進歩一般を自明とする空気があり、それに科学的なお墨付きを与える進化論の登場は喝采をもって迎えられたのである。
(140ページ)と続けている。これも乱暴に過ぎる割り切り方ではないか。社会がある方向に向かって進歩しているというのはいわゆるホイッグ史観の特徴とされ、フランスの啓蒙思想の影響を受けた歴史観であるということはできる。それを「ラマルクの影響」と言い切ってしまうのはどうかと思う。また、J・S・ミルは英国における功利主義的な思想の代表者であるという一方で、そこからさらに新しい社会理論を求めて動き出そうとした思想家であるという側面を持っている。それから垂水さんが既に論じてきたことと関連して、このような個人主義、自由主義の社会理論の中では個人と社会(個体と集団)の関係がうまく説明できない。それがこの議論の欠点になっていることを説明しておくべきではないか。

 さらに言うと19世紀前半の英国ではロマン主義の流れがあり、それは失われた牧歌的な田園生活への郷愁をうたう反面で、資本主義の興隆への反抗という側面ももっていた。保守とか革新とか、進歩とか反動とかいうが、この時代の英国における思想の動きはそれぞれの考えが自らの中に様々な可能性を秘めながら展開されていったので、安易な決めつけをするのは危険である。

 今回は、わずか2ページ分についての紹介と意見とで終わることになった。次回はもう少し頑張っておわりに近づけるつもりである。

アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズ全集② 四つのサイン』

8月2日(土)晴れ

 8月1日、アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズ全集② 四つのサイン』(河出文庫)を読み終える。子どものころに読んだはずのホームズを大人になって何度も読み返しているのはどういうことかと友人から質問されたことがある。本を読み返せばそれだけ理解が深まるし、外国語で書かれた書物だと、別の人間の翻訳を読むことによって、新しい視角からの読み方ができる、元の言語(この場合英語)で読み直せば、その言語の勉強にもなるし、自分なりの解釈の根拠を見つけることもできる、こういったところがホームズを何度も読み返している一般的な理由である。

 退屈を持て余していたホームズのもとに、若い女性の依頼人が訪れてくる。メアリ・モースタンという名の家庭教師(ガヴァネス)で、インドの連隊で士官をしていた父親が1878年に帰国してその直後に消息を絶ち、4年たった1882年に彼女の消息を尋ねる広告が出たので回答を送ったところ、大粒の真珠が送られてきた。その後毎年、真珠が送られてきたが、この日の朝、差出人不明の呼び出しの手紙が来たというのである。

 呼び出しに応じて3人が馬車でたどりついた先で待っていたのは、モースタンの父親の同僚であったショルトー少佐の息子であるサディアスで、ショルトー少佐がインドから持ち帰った財宝を独り占めしようとしているのを知ったモースタン大尉が議論の途中で心臓発作を起こして死亡したこと、少佐が隠していた財宝が彼の双子の兄バーソロミューによって発見されたことなどを告げる。そして3人とともにサリー州のノーウッドにあるポンディチェリー荘に出かけて、バーソロミューに対して彼女の取り分を要求しようと提案し、彼らは邸にたどり着く。しかし、彼らを待っているはずのバーソロミューは奇怪な死を遂げていた。

 このブログを読んでいる多くの方は子ども時代に、あるいは成人してからでもこの小説を読まれていると思うし、推理小説のあらすじを書きすぎてしまうと、実際に自分で読む楽しみがなくなってしまうので、物語の紹介はこのあたりで辞めておこう。ドイルのホームズ物が大衆的な人気を博すようになるのはこの後、ホームズを主人公とする短編が『ストランド・マガジン』に連載されるようになった後のことではあるが、翻訳者が記しているように、『四つのサイン』には読み直してみると、「なかなかよくできている」(305ページ)と思わせるところがある。そして、そう思わなくても、英国の社会と推理小説の歴史を考えていくうえで、この作品には重要な要素が含まれていると思うので、その点について書いてみたいと思う。

 ドイルがシャーロック・ホームズを主人公として描いた長編小説第2作目にあたるこの作品は、『四つの署名』と訳されることが多かったが、今回の小林司・東山あかね訳は『四つのサイン』としている。「テキストを読まれればわかるとおり、スモールの仲間は文字を書くことができない現地人3人であり、彼らは自分の署名の代わりに、それぞれが×の形の記号を記したのであった。原題”The Sign of the Four"のSign(サイン)には「署名」という意味に、「記号」という意味をだぶらせてある。それを受けて、私どもは『四つのサイン』と訳すことにしたのである」(317ページ)とあとがきに記されている。ところで、たいていの翻訳にはアグラの砦で運び手から奪った財宝を埋めてそのありかを記し、また4人のサインが記された地図が載せられているのだが、この翻訳ではそれが省かれている。この点をめぐる説明がされていないのは気にかかるところではある。

 さらにまた、現地人3人が「文字を書くことができな」かったかどうかはテキストを読んでもわからない。とすると、彼らがシーク教徒で、パンジャーブ語を話していたとすれば、彼らがこの言語を書くときに使用するのはグルムキー文字であり、この文字は現代の多文化化した英国では結構見かけるものであるが、読み書きができる人は現在でもごく限られている。そして、もし彼らがグルムキー文字で読み書きができたとすれば、読み書きができないのは英国人のショルトーのほうであり、自分たちが英語の読み書きができないから×を書いたとも、パンジャーブ語+グルムキー文字の読み書きができないショルトーのために×を書いたとも受け取ることができるのではないか。

 さらにまた、「シーク教徒」について、「インドのパンジャブ地方で15世紀に興ったヒンドゥー教の一派。19世紀半ばに2回にわたり英国支配に反抗し、シーク戦争をおこした」(248ページ)という注を付けているが、ヒンドゥー教の一派とするよりも、独立の宗教と考えた方が適切で、彼らが進取の気性に富み、インド亜大陸の住民の中では積極的に海外に出かけたために、インド人というと、シーク教徒のイメージ(ターバンを巻いたシンさん)でとらえられがちになったという歴史を記した方がよかったのではないかと思う。

 これらは翻訳・出版上の問題であって、原作の問題ではない。登場するシーク教徒たちの名前の付け方が実際にはあり得ないようなものであるということはさておいて、インド伝来の秘宝をめぐるミステリーという共通点をもつコリンズの『月長石』と比較すると、インドの社会やその変化についての描写がより具体的になっている(セポイの叛乱の様子など)ことは確かであるし、その理由については巻末のクリストファー・ローデンによる『解説』を読めば明らかになるが、全体としての出来栄えにおいて『月長石』に及ばないとはいうものの、探偵としてのホームズの造形という点で上回っていることも否定できない。これはドイルの功績であるとともに、英国の社会の変化によるものである。

 『月長石』でカッフが事件を解決できないまま時間が経過してしまったのは、宝石紛失事件の起きた邸の令嬢レイチェルが証言を拒否したからであり、当時の英国社会の慣行としてジェントルマンでないカッフが地主(上流階級)の令嬢を訊問できないという階級的な壁のためであった。ところがホームズはあまり豊かではないが、大地主の末裔であり、また『月長石』に描かれた事件の起きた1848年からさらに時間が経過して、社会の民主化・平準化が進んだ時代に生きているのでより容易に事件に取り組むことができたといえよう。紳士探偵ホームズの活躍は、アマチュアリズム全盛時代の風潮とも合致していたが、その一方で彼が医学や化学についての専門的な知識や実験の能力を見につけていたことも確かである。科学的な捜査能力を持った素人探偵というのは19世紀末であったからこそ存在しえた、内部に矛盾を抱えた存在であった。

 それから、『月長石』ではレイチェルをめぐるフランクリンとゴドフリーという2人の紳士、1人は大地主、もう1人は地方銀行家の子息の恋の争いも物語の大きな要素となるが、『四つのサイン』では、ガヴァネスのモースタンと医師のワトソンの恋愛が同じような役割を果たしている。19世紀の英国の小説の中でガヴァネスがどのような扱いを受ける存在であったかは川本静子さんの有名な研究があるので参照していただきたいが、ガヴァネスも医師も19世紀の前半にはレディー&ジェントルマンの最下位の方に位置する職業とされていたことを思い出してほしい。ジェーン・エアやベッキー・シャープが野心に満ちた女性であるのに比べてメアリ・モースタンは大きな財産を受け取る可能性を持ちながらも、どちらかというと平凡な生活に憧れている女性に描かれていることも注意してよい点ではないかと思う。
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