語学放浪記(36)

7月3日(木)曇り、夜には雨になると予報されている

 NHKラジオ「まいにちフランス語」7月号に取り上げられた読者の方の便りを紹介したところ、MGBさんからコメントをいただいた。「半年後にはペラペラになる」ような勉強法があれば教えていただきたいという。どうも私の紹介の仕方が不適切だったのではないかと思う。この投書者は今回の大木充さんを講師とする番組がこれまで以上に実際的な会話を重視していることを歓迎したうえで半年後の希望を述べているのだが、その本音は、「仏検2級も何のその…。夢ですね」と投書を結んでいることに現れているようである。それでも現在、仏検準2級というのだから、私などよりは数等上の学習者であることに間違いはない。

 実際問題として3つの外国語の学習番組を聴いていて(一つには2014年の2014を達成するために、数を稼ごうという意図もあるのだが)、学習の歩みののろさを呪うだけでなく、かなり深刻な倦怠期に入り込んでいるのではないかとおもっている。ドイツ語の時間の応用編「いうが花のドイツ語」はますます難しくなり、フランス語の応用編は4~6月の「作家とともにパリ散歩」の再放送が終わって、今度は今年の1~3月に放送された「Bon voyage, Manon!~大阪・京都・奈良~」が再放送される。またもや勝手がわかる番組なのは好都合だが、だからと言ってフランス語が上達するかどうかはこちらの努力次第であることに変わりはない。イタリア語の応用編も「イタリア:24の物語」の再放送が終わって、7月からは「気持ちで再発見! イタリア語文法」という新しい番組が始まる。初級文法では省略されるかもしれない部分を丁寧に見ていこうというわけであるが、各回で取り上げられるスキットはそれほど長くないので、何とかついていけるのではないかと思っている。

 私の場合、フランス語は話せなくてもいいから、ある程度難しい文章が読みこなせるという目標を掲げていて、それはなかなか達成できないままである。ラジオやテレビの講座に頼るよりも、まず自分で本を読んで勉強していくことが必要だと思ってはいるのだが、なかなか自発的に学習に取り組むことができない。それに比べるとドイツ語は気分転換だし、イタリア語は趣味の延長ということで、気楽に取り組んでいるところがある。気楽なだけで、まじめに考えるとどうも嘆かわしい学習状況であることは否定できない。たとえば、本日(7月3日)のドイツ語の時間では自動詞の受動態の練習をしたが、ドイツ語の初級の時間を受けたのが50年前ということもあり、ドイツ語では自動詞の受動態があるということを習った記憶がよみがえらない。

 地球上では5000とも6000ともいわれる言語が話されていて、その大部分はおそらく一生目にすることも耳にすることもないし、悪いことにそのまま地球上から消え去る運命にあるという。その一方で、ドイツ語やフランス語、イタリア語の方言の中には、独立の言語と考えてもいいのではないかと思うほどに「標準語」から離れているものもあるという。どの言語が難しいとか、易しいとかいうのは相対的なものであるが、勉強するための便宜がそろっている言語とそうでない言語というのは存在する。NHKラジオの放送時間を見ても、言語ごとに放送時間の長短の推移がみられる。むかしに比べると取り上げられる言語の数が増えた代わりに、個々の言語の時間は減っているし、ヨーロッパの言語の割合が減って、中国語とハングルの比重が増大している。

 フランス語についてはとにかく読めればよいと書いたが、これはドイツ語、イタリア語でも同じことである。話すということになると、とりあえず英語に集中しようと思っている。昔、インドのジャワハーラル・ネルー首相が来日したときに、世界で指折りの英語の名手だと当時のラジオの子どもニュースで言っていたのを聴いたことがあるが、その後わかったのは、ネルー首相の場合、内容が豊かな英語を話しているということであった。長くラジオの中国語講座の講師を務めていた黎波(1919-2010)先生の日本語がいかにも中国人の日本語ではあったけれども、内容豊かで大いに教えられたことを思い出す。わたしも、英米人から見れば外国人なので、多少発音は怪しくても内容豊かな英語を話したいものだと念じ続けているのである。

 ネルーといえば、大学院時代に彼の『インドの発見』(これはアジアの発見でもある)、『父が子に語る世界の歴史』の日本語訳を大学の図書館で借りて読みふけったことを思い出す。これらの著書の中でネルーは玄奘がインドのナーランダ寺院で学んだことや、中国宋代の王安石の改革について触れている。おそらく翻訳でこれらの知識を得たのだろうが、伝わるものは伝わるのだと改めて思う。
 これは以前にも書いたことがあると思うが、ロンドン滞在中にインドのジャワハーラル・ネルー大学の先生が、私の通っていた研究施設のセミナーで講演をされたことがある。とにかく、最初から最後まで英語が一言も聞き取れず(周りの人たちはわかるらしくて、笑ったりしているので、余計に劣等感を感じ)、世界の壁は厚いと実感したことを今でも時々思い出す。ロンドンにはインド出身の人が多いからかもしれないが、ネルー・ジャケットというのを洋服店で見かけて、かっこいいなあ、着てみたいなあと思ったりした(私の体格を無視して夢想にふけっていたのである)。

100分で名著『遠野物語』(5)

7月2日(水)晴れたり曇ったり

 NHKEテレの「100分de名著『遠野物語』」は先週、6月25日の放映で4回の全部を終了し、本日、再放送を視聴した。放送された第4回は「自然との共生」と題されていた。番組中でも話題になっていたが、「共生」は一種の流行語であるが、言葉だけが独り歩きしている感じがしないでもない。ここでは、遠野の人々と彼らを取り巻く自然との「共生」が決して生易しい、平和な関係ではなかったことが強調されている。「動物も人間も生きなければならない過酷な条件の中で、時には食うか食われるかといった状況に及ぶ」(86ページ)ことさえある。そのような「共生」の中で人間は特権的な存在ではなかったというのである。

 『遠野物語』の背景をなすのは、伝統的な村の生活が、近代化の中で変容し、その中で人々の生活習慣だけでなく心の内奥までもが変容し、時に動揺しているという状況である(これは村に限ったことではなく、町でも同じことがみられたはずである)。番組では、このような時代の変化とともに姿を消していった狼にかかわる説話を取り上げている。狼は恨みや怒り、愛情というような人間的ともいえる感情をもった動物と認識されていた。42話では村人たちが狼の巣にたどり着いて3匹の子狼を見つけ、2匹を殺して1匹を連れ帰った。するとその村を狼が襲うようになったと語られる。村人たちが狼狩りをしようと山に入ると、雄の狼と雌の狼がいて、母親としての愛情からか雌狼のほうが村人たちに襲い掛かってくる。村人の中でも力自慢の鉄という男が自分の羽織を脱いで腕に巻きそれを狼の口に突っ込むと狼は苦しがって鉄の腕の骨をかみ砕くが、力尽きて死んでしまう。鉄も人々に担がれて村に戻るが死んでしまう。鉄砲ではなくて、素手で戦うというところに、武器を使うことは卑怯だという狩猟民たちの精神があらわされている。子どもたちを連れ去ったということで人間の方に一種の負い目がある。そのこともこの一騎打ちに反映されているはずである。山の動物には動物の世界があり、その秩序を乱すのはやむを得ない事情があるときに限られているというのが狩猟民たちの考えである。

 『遠野物語』の周辺には狼だけでなく、狩猟民と熊との戦いの説話もみいだされる。『遠野物語』が記された時代は、山中を歩き回り、様々な不思議に遭遇していた狩猟民たちが時代の流れに押されて次第に姿を消そうとしていた時代である。ここで想起されるのが宮沢賢治の「なめとこ山の熊」という作品である。むかし熊の天国であったなめとこ山に、今では熊はいない。熊捕の名人である淵沢小十郎が片っ端から熊を撃ったからだと賢治は記している(そこのところは番組ではぼかされていた)。番組ではもっぱら小十郎があるとき大きな熊と出会い、その熊がまだ今はやり残していることがあるからあと2年待ってくれ、あと2年したら命をやるからといって、2年後に本当に小十郎の家の前で死んでいたという個所を強調して紹介していた。「熊のほうにも崇高な精神がある」(92ページ)とテキストは記し、「熊のほうが悟っている」と司会の伊集院さんは述べていた。

 番組では小十郎が街に出ると商人に軽くあしらわれる個所を通じて、「いまでは失われてしまった狩猟身たちと動物たちの崇高な精神的関係を」(92ページ)賢治は描きたかったのだろうといっているが、ここは賢治の怒りをくみ取っておいてよいところであろう。さらに、遠野に隣接する花巻の人である賢治が『遠野物語』を読んでいたかどうかは定かではないが、関連するような童話を書き残していること、晩年に、同じく晩年を迎えていた佐々木喜善と親交があったことなどが紹介されていた。しかし、このような逸話を取り上げるだけでは、柳田と賢治という日本の近代思想史において注目すべき2人の人物が、かなり近いところに足掛かりを求めながら、日本の伝統思想と新しい社会の姿についてどのように施策を凝らし、それがどのように影響しあっていたのか、あるいはまったくのすれ違いに終わっていたのか…というような問いに答えることにはならない(まあ、答える努力を促す効果はもっているかもしれないが…)。

 番組でもそこまでは触れられていたが、柳田も賢治も伝統的な農村社会の生活と価値観とが近代化によって変容している同じ時代の空気を吸っていた。問題は、そこから先に何を見たかではないかと思うのである。柳田は政策の側から日本の農業の近代化に取り組み、賢治は技術者・農業教育者として農業の近代化に取り組んだ。文科系と理科系というよりも、社会科学系と技術系の違いはあるが、目指す方向に共通性がなかったわけではない。ただし文学や宗教について関心をもつというところでは共通するのだが、その後が違っているというのが今後の研究課題になりそうである。柳田と賢治の思想をつなげて考えようとする場合に手がかりになるのが「なめとこ山の熊」であるという意見に異論はない。

 『遠野物語』39話には佐々木喜善の幼いころの話として、祖父と山から下りて村の近くまでやって来た時に大きなシカの死体を見つけた体験が語られている。祖父は「これは狼が食いたるなり」(93ページ)といい、今、姿は見えないけれども、どこかで狼は見張っているはずだからとってはいけないと孫である喜善に言い聞かせる。狼のものは狼に、という山のルールを守らなければならないというのである。

 一方で、村の人々と自然との関係をめぐってはある男が狐に騙されて持ちをとられたというユーモラスな話も語られている。「人々は悲しみに沈むことがあっても、一方で笑い話を楽しみながら生きてきた」(95ページ)のである。それも自然との共生の一側面であった。

 村の人々は鳥の鳴き声を聴くことで、自然界の異変の予兆を聴き分けようとした、佐々木喜善は幼いときに祖母からオット鳥(コノハズク)が村の近くへきてなくと、その年は凶作になると聞かされたと彼の著書『聴耳草紙』の中で記している。若い世代になると、もう、そのような古老の伝えを素直には信じなくなっていたのである。さらに言うと、喜善が祖父から山(狩猟民)のルールを、祖母から基金(農耕民)の恐怖を伝え聞いたという点も注目される。

 『遠野物語』は日本の近代化の中で姿を消してしまった山村の伝統的な生活とその中での人々の精神をかきとめた書物として読まれるべきではなく、実はもっと普遍的な意味を持ち、われわれの中の眠っている記憶を呼び起こし、人間と自然の共生について考え直させるような書物として読まれるべきであるというのが番組の結論であった。

 普遍性ということで、気になっているのは、狼と1対1で対決した鉄という男の話が、三浦佑之 赤坂憲雄『遠野物語へようこそ』の第5章(77~88ページ)でも取り上げられていて、その不自然さがいくつか指摘されていることである。実は狼の口に手を突っ込み、その手を食いちぎられるというのは北欧神話のテュール神とフェンリール狼の話そのものであって、あるいはユーラシア大陸の特に北のほうには類話が多いのではないかという気がするのである。もし、この話が実話ではなく、一種の伝説であればまた別の意味が出てくることになり、この一例をもっても『遠野物語』が奥の深い書物としてさらに多くの読者を引き寄せる可能性を示しているのではないかと思うのである。

日記抄(6月25日~7月1日)

7月1日(火)晴れたり曇ったり

 6月25日から本日にかけて経験したこと、考えたことなど:
サッカーのワールド・カップで日本代表は残念ながら1勝もできずにグループ・リーグで敗退。日本を含むアジアの代表チーム全体でも1勝もできなかった。素人考えで判断できない問題ではあるが、黙って見過ごすこともできない気分である。
 ザッケローニ監督退任。イタリア語でのインタビューがどの程度聞き取れるのか、楽しみにしていたので、その点では残念である。後任人事によって、日本サッカーが何を目指すのかが明らかになることをとりあえず期待しておく。

6月25日
 テレビ朝日の「マツコ&有吉の怒り新党」で、合コンの席などで女性側から好きな芸能人は誰かと聞かれ、適当に人気女優の名前などを挙げると、理想が高い! 女芸人だったらいいのになどと、勝手に自分の性格を判断されてしまうのに腹が立つというのがあった。芸能人で誰が好きかというのは趣味・遊戯の世界の問題であって、まじめに取り合わないほうがいいのではないかとおもう(有吉が、相手によって答えが変わるといっていたのはその通りである)。そういえば、ある研究会の後の二次会で、好きなキャスター、女子アナウンサーは誰かという話題で盛り上がったことがあった。話題としてはこっちの方が面白いと思うのだが、どうだろうか。

6月26日
 NHKBSプレミアムで1959年の東映映画『風雲児織田信長』を見る。山岡荘八の原作で河野寿一の監督。『徳川家康』で知られる山岡であるが、信長、秀吉を主人公とする小説も書いている。信長を中村(のちに萬屋)錦之助、濃姫を香川京子、平手政秀を月形龍之介、斎藤道三を進藤英太郎、木下藤吉郎を中村賀津雄(のちに嘉葎雄)が演じている。信長役の実の弟が秀吉を演じているのが面白く、今川勢の侵攻を目前にして藤吉郎の仲介で信長が蜂須賀小六と手を結ぶ場面、桶狭間の戦いの勝利を清洲城下の人々が祝う場面など、山岡なりの歴史観が反映されているように思われた。

 昔、ある映画団体の事務局にいた女性が子どものころは錦之助のファンで、もう少し大人になったら裕次郎のファンになったと話していたのを思い出す。そういう人は少なくないはずである。東映俳優労組を立ち上げ、『真田風雲録』や『祇園祭』を製作・主演した錦之助と、石原プロモーション、『黒部の太陽』、『栄光への5000キロ』の裕次郎とでは世の中に対するスタンスがかなり違う。そういえば、大学の労働法の時間に片岡曻先生が錦之助と東映俳優労組の話をされていたのを今でも覚えている。法学部の講義は大部分理解不能であったが、片岡先生の話だけは面白かった。

6月27日
 越智敏之『魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ』を読み終える。漁業が航海と産業の発展にどのようにかかわったかを取り上げ、ニシンがハンザ同盟とオランダの繁栄を築き、塩ダラが大航海時代の幕を開けたと論じる。世界史を考え直す材料として興味深い話題に満ちた書物である。
 ハンザ同盟の中心都市の1つであったリューベックはトーマス・マンの『ブッデンブローク』の舞台であるが、ニシンの話は出てきたかどうか、記憶にない。英語のcodは日本のマダラやスケトウダラとは種が違うという。「今からは想像できないことだが、昔はウナギがいたるところにいたようだ」(215ページ)というのはヨーロッパの話であるが、亡父の話では昭和10年代の後半、山口県の防府市にいたころ、バケツ一杯のウナギをとったことがあったそうである。

6月28日
 三浦佑之 赤坂憲雄『遠野物語へようこそ』を読み終える。大学で教えていたころ、学生に対する課題図書の中に柳田の本を加えたことがあったが、『遠野物語』を読んだというだけでなく、実際に遠野に出かけたことがあるという女子学生がいたことを思い出す。本を読んだだけで、現地に出かけたことがない教師の私よりも、学生の彼女のほうが貴重な経験をしていたのであった。今、彼女の中でその経験がどのような意味を持っているのだろうか。

6月29日
 佐藤留美『資格を取ると貧乏になります』を読む。頑張っている人が報われる社会を作りますと政治家は言う。しかし、この書物はそれとは全く逆になりかねない社会の動きを描いている。
 学生時代に、ある科目の試験を受けていたら、受け持ちの先生が受験者で、学芸員や図書館司書の資格を取るためにこの科目を履修しているものは、答案にその旨記載するようにと指示された。わたしは、関係がなかったので、とにかく答案に形をつけようと悪戦苦闘していた。ところで、その先生は既に提出されていた答案を手に取られて、「ぼくは考古学専攻の学生です。学芸員の資格を取るためにこの科目の単位が必要です。ぜひ、単位をお願いします…そういうことのために指示したわけではない」といわれたので、場内に笑いがこぼれた。そういわれたことに本人は多分、気付かないままだろう。案外、うるさいことを言っておいて、先生はこの答案を書いた学生をぎりぎりの所で合格させたのかもしれない・・・と思う。なお、私はABCのBで合格していた。

6月30日
 地下鉄に乗っていたら、『週刊現代』の中吊り広告の見出し「ああ、かわいそうな中国」というのが目についた。歴史上、「かわいそうな」という形容をされ続けてきた国は、三十年戦争で国土が荒廃し、分断されたドイツである。その場合とこの場合とでは「かわいそうな」といっても意味が違うようである。もっとも、我々日本人も、他人の心配をしている場合ではないと思うのだが…。

7月1日
 NHKまいにちドイツ語で、最近では気軽な挨拶としてHallo!がよくつかわれるという話題が出た。年長者である講師のクナウプさんは、やたらとHallo!を使うことに抵抗があるといい、パートナーである若いシュテフェンさんは抵抗がないといっていた。鴎外の短編「木魂」は少年が「ハルロー」というと、木魂が返ってくるという話であるから、昔からこの言い方はあったのだろうか。なお、英語ではHello!である。

 まいにちフランス語で、テキストに書かれているが、放送されなかった個所であるが、フランス語の数には10進法と20進法が混じっている、これはフランス語の歴史と関係があるという話が紹介されている。フランス語は、ケルト人(ガリア人)のケルト語、ローマ人のラテン語、ゲルマン民族のゲルマン語の3つの言語が混じって誕生した言語である。フランス語にquattro-vingts(4×20=80)というように20進法が混じっているのは、ケルト語の影響であるという。20を一つの単位とする考え方はいろいろな面に見られ、例えばフランスでは試験の満点は100点ではなく20点であるとのことである。
 ということになると、英語にも20進法が混じっていてもよいと思うのだが、そうなっていない。なぜ、そうなっていないのかの説明を探していこうと思う。 
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