2014年の2014を目指して(6)

6月30日(月)曇り、時々晴れ

 6月もずっと東京で過ごした。新たに品川区に足跡を記し、目黒駅、JR東日本、山手線を利用している。7月からは横浜に戻る予定であるが、さて、どうなるか。

 当ブログは30項を投稿、映画が6件、読書が9件、日記が5件、詩が2件、歴史・地理が1件、未分類が4件、外国語が3件ということである。370の拍手、2件のコメント、2件の拍手コメントをいただき、1件のトラックバックがあった。

 買った本は10冊で、1月からの累計は77冊である。ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』、石井好子『バタをひとさじ、玉子を3コ』、石井好子『いつも異国の空の下』、H.C.アンデルセン『絵のない絵本』、越智敏之『魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ』、工藤啓 西田亮介『無業社会 働くことができない若者たちの未来』、三浦佑之 赤坂憲雄『遠野物語へようこそ』、佐藤留美『資格を取ると貧乏になります』、揖斐高『江戸幕府と儒学者』の9冊を読んだ。読んだ本の1月からの累計は60冊である。月の後半になって慌てて読んだ本の数をそろえたところがあり、内容の理解は十分でないかもしれない。

 NHKラジオまいにちドイツ語、フランス語、イタリア語の時間をそれぞれ21回ずつ聴いた。1月からの累計はそれぞれ61回、120回、120回である。

 またカルチャーラジオ『思想史の中のマルクス』を4回聴いた。4月から6月にかけて13回分を聴いた。さらにTVの『100分de名著『遠野物語』」を4回すべて視聴した。

 見た映画は5本で、『黄色いさくらんぼ』、『モダン道中 その恋待ったなし』、『ブルージャスミン』、『ぼくたちの家族』、『オー! ファーザー』で1月からの合計は37本となった。新たにヒューマントラストシネマ渋谷で映画を見たので、出かけた映画館の累計は16館となった。このほかTVで『赤い夕陽の渡り鳥』、『シンシナティ・キッド』、『渡り鳥いつまた帰る』、『ケイン号の叛乱』、『大海原を行く渡り鳥』、『ヴぇラクルス』、『風雲児織田信長』、『秘剣ウルミ バスコ・ダ・ガマに挑んだ男』を見ている。天候不順と体調不良で映画館に足を運ぶ機会が少なくなったが、その分、TVでいろいろな映画を見たといえるかもしれない。

 ノートを4冊使い切った。1月からの累計は29冊である。万年筆(ウォーターマン)のカートリッジを6本使い切り、こちらは合計42本、パイロットの方は3本で、累計は12本である。また修正液を1本使い切った。こちらは3本目ということである。

 ドリーム・ジャンボは6等が1枚、7等が5枚、合計6枚当たっている。1月からの合計では17枚が当たった。

 アルコールを口にしなかったのが16日あり、1月からの累計は92日である。

 ブログに対する拍手の合計は8月中に2014を超えそうな勢いで増えているが、その他の数字を合わせて2014にするとなるとかなり難しく、なお一層の工夫と努力が必要になりそうである。
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太平記(5)

6月29日(日)雨が激しく降ったり、やんだり、時々雷鳴

 鎌倉幕府を倒し、朝廷に政権を奪い返そうとする後醍醐天皇のご意向を受けて、日野資朝、日野俊基らの公卿が奔走し、公卿、僧侶、そして武士の間に同調者を拡大し始めていた。彼らは幕府の目を欺くために無礼講と称して、遊興の席を設ける一方で、倒幕のための密議を凝らしていたが、陰謀は思いがけないところから発覚することになる。

 密議に加わっていた武士の中に土岐左近蔵人頼員(よりかず)という武士がいて、幕府の重要な役職についている齋藤太郎左衛門尉利行という武士の娘を妻にしていた。彼は妻を愛するのあまり、もし自分が死んでも再婚しないでほしいし、二人とも生まれ変わることができればまた夫婦になろうと言い出す。不審に思った妻が何でそんなことを言うのかと問いただすと、実は自分は天皇の意を受けた倒幕の企てに参加していると口にしてしまう。

 頼員は妻に対して人には言うなと念を押したのだが、妻のほうが頭もいいし、度胸も据わっていて、もし企てが成功すればよいが、失敗すれば大変なことになる、それよりも、これを幕府に密告した方が安全だと考えて、自分の父親である利行に一部始終を知らせる。利行は驚いて、頼員を呼び寄せて聞きただすと、頼員は慌てふためいてとにかく自分に害が及ばないように取り計らってほしいと懇願する。

 そこでまだ夜が明けないうちに斎藤は幕府の出先機関である六波羅に向かって、事の仔細を報告し、これを聴いた六波羅探題は京都中の武士たちを六波羅に召集することを決める。そのころ、摂津の国(今の大阪府の一部)葛葉というところで紛議が起きていたので、その鎮圧に事寄せて武士たちを招集したのである。倒幕の密議に加わっていた武士たちもまさか自分たちが追討の対象となるとは知らず、葛葉に向かう準備をして自宅にとどまっていた。

 元亨4年9月19日の早朝、多数の武士が六波羅に集まった中で、小串三郎左衛門範行、山本九郎時綱が指揮を命じられ、3,000名余の軍勢を率いて六条河原にやってきたが、そこで軍勢を二手に分けて、多治見四郎国長の宿所である錦小路高倉と、土岐十郎の宿所である三条堀川を攻めることにする。

 時綱はもし大勢で押しかければ相手に察知されて、討ち洩らすものも出てくるだろうと、軍勢を河原にとどめたままただ1騎、中間2人に長刀をもたせて静かに土岐十郎の宿所に向かう。宿所の様子を確かめ、逃げ場がないことが分かったので、打ち取ろうとするが、土岐十郎も目を覚まして応戦する、時綱は相手を生け捕りにして陰謀について白状させようと思ってわざと後ろに下がって切り結んでいたのだが、河原に残してきた軍勢が加勢に駆けつけ、今はこれまでと思った土岐十郎は切腹し、残りのものも討ち死にしたので、首をとって時綱たちは六波羅に戻った。

 多治見の宿所には小串の率いる2,000余騎の軍勢が押し掛ける。多治見は夜遅くまで酒を飲んで、泥酔して眠り込んでいたが、物音に驚いて、何事かとあわて騒ぐ。そばで寝ていた遊女がこういう事態になれている女で、すぐに武具を見につけさせ、部下の者たちも大声を立てずに起こしていく(土岐頼員の妻といい、いざという時の度胸は女性のほうが座っている場合が多いことを作者はごくあっけらかんと記していく)。

 多治見の家来の小笠原孫六は遊女に起こされて、大刀だけをもって中門まで走り出して、表の様子を見ると六波羅からの軍勢が押し寄せていることが分かったので、陰謀が露見したと悟り、宿所の中の武士たちにその旨を知らせると、弓矢をもって門の上の櫓にのぼり、25本の矢の1本を残して24本のすべてで押し寄せてきた兵たちを射落とし、残る1本は冥途の旅の用心にするといって櫓からたちを咥えて飛び降りて自害した。

 小笠原孫六が時間を稼いでいた間に支度を整えた多治見の軍勢は決死の覚悟で戦ってきたので小串の軍勢は手こずっていたが、多数を頼み、また大手だけでなく絡めてからも攻撃を加えて挟み撃ちにしてようやく全滅させることができた。

 倒幕の企てを漏えいした土岐頼員は別として、企てに加わっていた武士たちの勇猛な戦いぶりは『太平記』全体における武士たちの気風の一端を示すものである(その一方で、頼員のように臆病な武士もいるわけである)。乱世の中で人間は時として勇猛になり、時として臆病にもなる。しかし生き延びていくためにはその他の性質も必要とされるかもしれないし、それ以上に運がものをいうようにも思われる。

 こうして密議に加わった武士たちは六波羅の軍勢に滅ぼされたが、それ以外の人々はどのような運命をたどることになるのか。続きはまた次回。 

H.C.アンデルセン『絵のない絵本』

6月28日(土)雨

 6月24日にH.C.アンデルセン(永野藤生訳注)『絵のない絵本』(大学書林語学文庫)を読み終える。アンデルセンのBilledbog uden Billederのドイツ語訳Bilderbuch ohne Bilderをドイツ語学習者用に対訳本として編集したものである
。独和対訳本で読んだのは、ドイツ語の勉強に主眼があったからであるが、実際問題として日本語の部分を読まないと意味が取れないことが多かったというのが正直なところである。

 地方から都会に出てきた貧しい画家が語り手である。彼は建物の最上階(おそらくは4階か5階)に部屋を借りている。これも想像だが天井が建物の中央から外側に向かって下がっているような部屋ではないかと思う。そのために光には事欠いていない。また、そのために故郷の村にいたときからの友人である「月」と晴れた夜だけの、つかの間の時間のことではあるが、対話をかわすことができる。
 月が画家に向かって言う:
Male nun, was ich erzähle,… dann wird es ein hübsches Bildeerbuch werden. (私が話すことを絵にかきたまえ。・・・そうすれば、それはきれいな絵本になりますよ。8-11ページ)

 この言葉に従って画家は月が地球上のいたるところで見た物語をかきとめていく。アンデルセンはこの本を書いた1839年までにドイツ、フランス、イタリア、スウェーデンに旅行しているが、これらの国々の物語のほかに、グリーンランド、アフリカ、インド、中国にもその想像の羽を伸ばしている。それぞれの出来事を月が目撃していた時間は短かったという理由で、33編(この対訳本に収められているのは23編)の個々の物語は短いが、作者の鋭く的確な観察眼を示している。

 私が小学生のころに、ラジオの連続番組の中に月が語る話というような題名でこの作品を朗読するものがあった。6年生になって進学塾に通っていたところ、国語の教材にラジオで聞いたことがある話が出てきたので、月が語る物語だねと身近にいた塾生の1人に囁いたところ、「アンデルセンの絵のない絵本だよ」と言われてびっくりしたことを記憶している。

 子ども時代を通してアンデルセンの童話はいろいろな翻訳で何度か読んだのだが、『絵のない絵本』を読んだのはだいぶ後になってからのことである。岩波文庫に入っている大畑末吉による翻訳でこの本を読んだのは大学院に入ってからのことで、したがってもっと若い時にこの作品を読んだ人と比べると、印象に残る作品の種類が違うのではないかと思ったりもするのだが、第14夜の幼い兄弟が自分たちの新しい兄弟の誕生を待っている話、第33夜の主の祈りの際にパンにもっとバターをつけてくださいと付け加える幼い女の子の話など、小さな子どもの出てくる話、第5夜のフランス国王の玉座の上で死んだ少年の話、第25夜のロスチャイルド家の老母の話などが強い記憶に残っている。大富豪が登場する一方で、市井の貧しい庶民も登場するのは、アンデルセンの履歴と対応するのだが、共感と愛情は庶民の方に向けられている(大富豪であるロスチャイルドの話にしても、老母が自分が貧しかった時代のことを忘れようとしていないところを強調している)ところに彼の真意を読み取るべきであろう。 

 アンデルセンは童話と自伝、それにこの『絵のない絵本』のほかに多くの長編小説も残したが、それらの作品は今日ほとんど読まれていない(日本で『即興詩人』が読まれているのは、例外だそうである)。それはアンデルセンの現実を観察する能力が長編向きではなかったからではないかと思う。

 『復興期の精神』の中で花田清輝がトルストイの談話を援用して、アンデルセンは孤独な人間で旅ばかりしていたと批判的なことを述べていたと記憶する。現実に対する鋭く的確な描写は、対象を長期にわたって批判的に観察するか、あるいは綿密な調査・取材を重ねたときに可能になるが、そういう経験はアンデルセンにはなかったということであろうか。その代わりにアンデルセンは多くの場所を旅行して、人生のいろいろな様相を表面的・断片的ではあるかもしれないが、学び取ることができた。『絵のない絵本』はそのようなアンデルセンの人生と文学への取り組みが集約されている書物であるとも解釈することができる。

 トルストイはアンデルセンの文学に潜んでいるエゴイズムを批判したのだが、彼がアンデルセンよりも孤独でなかったとは言い切れない。大学院時代に児童文学に興味をもちはじめ、それは今でも続いているのだが、トルストイとアンデルセンのどちらをより高く評価するかという問題についてはどうも結論が出せないままである。実際問題としてこの2人を対立させて考えるよりも、弱者への愛情とか、正義を求める精神というように両者の共通点を取り上げていく方が生産的ではないかとも思う。 

秘剣ウルミ バスコ・ダ・ガマに挑んだ男

6月27日(金)曇り

 NHKBSプレミアムでインド映画(秘剣ウルミ バスコ・ダ・ガマに挑んだ男』(Urumi: The Warriors who Wanted to Kill Vasco da Gama, 2011、サントーシュ・シヴァン監督)を見た。2011年の第12回NHKアジア・フィルム・フェスティバルで上映され、その後BSでは放送されたが、劇場では公開されていない。16世紀のインド南部を舞台として、西側から海を渡ってきてインドを武力で支配しようとするポルトガルと、それに対するインドの人々の抵抗を描いた作品である。欧米の歴史書の中には日本は1451年にポルトガル人によって発見されたなどと書いてあるものがあり、そこまで極端な見方は取り入れなかったものの、我が国における「世界史」にはどうも欧米からの視角に傾く傾向がある。インド人によってつくられ、インド人の抵抗を描いているということがこの作品の特色であり、色々と考えさせるところがあった。

 映画は現代のインドの都市に住む青年が、先祖から受け継いだ土地を売れば大金が入ると持ち掛けられるところから始まる。故郷の村の学校の敷地は、彼の先祖が貸したもので、貸借期限が切れれば自分のものになる、鉱山として開発する価値のある資源の眠る土地だという。ところが村の学校を訪問してみると、鉱山の開発は環境破壊につながるので考え直せといわれ、さらに土地の人々から彼の先祖がもっていた秘剣ウルミを渡されて、先祖の物語を聞かされる。

 喜望峰からインド洋を渡って南インドに到着したポルトガルの冒険家ヴァスコ・ダ・ガマはこの土地で胡椒をはじめとするヨーロッパで高価に売れる香辛料が産出されていることに目をつけ、自分たちの支配を広げようとする。ポルトガル人に父母を殺された青年ケールは復讐を誓ってウルミという剣を造り、各地を放浪して武芸の腕を磨き、兵法を学ぶ。ポルトガル人体は海岸に砦をきずき、現地の藩王たちを脅し、村々に絞首台を設置して民衆からの収奪を繰り返している。ケールは同志を募り、ポルトガル人に対する戦いを企てる…。

 インド映画らしく、物語の進行の合間合間で歌と踊りが入る一方で、人間関係が複雑でよくわからないところが出てくる(もともとの作品から40分に相当するフィルムがカットされているとの話である)が、インドの剣が他の文化の中での剣と造りも使い方も全く違うことを知っただけでも見るだけの価値があった(この作品の舞台は南インドであり、亜大陸の他の部分ではまた別の剣が使われていたのかもしれない)。映画の終わり近く、ガマは記憶され、それに抵抗したケールは忘れられたというセリフが印象に残る。それでも、植民地支配について改めて考え直すきっかけになるだけの内容をもつ映画である。

 シヴァン監督が撮影も担当しているということで、かなり凝った画面構成がみられ、原野や泥沼も踊りの舞台にしてしまう生命力と映像の美しさには感心してしまった。インド映画に詳しい人が見ると感想は別なのだろうが、ショタジット・ライの作品を覗くとほとんどインド映画を見ていないので、ただただ圧倒されたというのが正直なところである。歴史物語を聞いた主人公が現代の問題にどのような決断を下すかは、観てのお楽しみで、もっと大きなスクリーンで見ていたいと思っているところである。

語学放浪記(35)

6月26日(木)晴れたり曇ったり

 何度か書いてきたように現在のところ、NHKラジオの「まいにちドイツ語」、「まいにちフランス語」、「まいにちイタリア語」の3つの番組を聴くことにしている。朝、7時からドイツ語、7:30からフランス語、7:45からイタリア語というのは楽ではないし、もう少し学ぶ言語を絞ったほうが効果が大きくなるのではないかとも考えたりもするが、複数の言語を同時に勉強するほうが性に合っている。実際問題として、午後に再放送されているのを聴いて、やっとわかったということが少なくないことも白状しておこう。

 それぞれのテキストの7月号を買ってきたのだが、巻末に掲載されている聴取者からのお便りに心を奮い立たされる。まずドイツ語では大学時代に使った1953年発行の教科書が出てきたという東京の聴取者は、もう80歳近い年齢ではないだろうか。「今の英語教育に端的に表れているコミュニケーション万能の時代に、この年代物の教科書を見ると、実用、文学、文法の三位一体の構成は結構よくできているのではないかと思える。もちろん千差万別の学習者を相手に、きわめて限られた時間で教授しなければならない放送とは一緒にできないが、実用と文学的香気の高いものとの並行学習はもっと考えてもいいのではないかと思う」(7月号、118ページ)という意見には傾聴すべきものがある。会話といってもいろいろなレヴェルがあり、文学といってもいろいろな種類があることも否定できないのであるが…。

 もう1人、応用編の中で子どもの声で合いの手が入るのが「ほほえましく勉強の励みにな」(7月号、119ページ)ると書いている福岡県の80歳の方にも頭が下がる。私などはこの声を聴き流してしまっているのだが、この方は„Einfach, oder!"などとそれぞれの声をしっかり聴き分けているようである。それでも聞き取れない音声があると質問している闘志は見習うべきであると思った。

 フランス語の「万年初級者」だという兵庫県の聴取者の方は「仏検準2級合格がやっとです」(7月号、147ページ)と書いているが、そこまで行けば立派なものではないかと思う。「目標は、半年後にはペラペラになること」とも書いているが、「ペラペラ」というのもいろいろな種類があって、薄っぺらな「ペラペラ」ではあまり意味がないということも念頭に置いてほしいと思ったりもした(自分の怠慢を完全に棚に上げている)。

 イタリア語では「英語以外に何か外国語を話せたらいいなと思って、イタリア料理が好きなのでイタリア語を始めてみました」(7月号、135ページ)という中学生からの便りがある一方で、「後期高齢者のnonnaですが、孫たちに自慢できることがあって、とてもfeliceです」(同上)という老女からの便りがあるという年齢の幅の広さが印象に残る。後者は実用イタリア語検定4級に合格されているそうである。言語によって検定試験の基準と難易度が違うのは、大学における外国語の授業と似たところがあるが、それほど極端なものではないだろうと思う。

 自分以外の外国語学習者の皆さんのいろいろな物語を聞きながら、自分なりに学習への闘志を燃やしているわけであるが、大学の授業として開設されているか、ラジオ・テレビの番組で教えられている以外の言語になると、なかなか学習意欲がわかず、始めても努力が持続しないという問題もある。とりあえずは現在学習中の言語の能力を高めていることに集中しようと思っている。

100分de名著『遠野物語』(4)

6月25日(水)雨が降ったりやんだり、特に午後から雷が鳴って強く降る。

 NHKEテレ「100分de名著」ではこの6月に柳田国男『遠野物語』を取り上げているが、本日その第3回の再放送を見る。夜に第4回の放送がある予定である。第3回は「生と死 魂の行方」と題され、老いと死の問題、魂の行方と人のつながりについて遠野の人たちがどのように語り伝え、また考えていたかを考察した。

 『遠野物語』はインフォーマントである佐々木喜善の自分の家の話や隣近所の話が核になっていて、それらの話の内容をなす出来事が起きた場所の3分の1くらいは喜善の家のある土渕村の山口集落とその近隣である。その山口集落を挟んだ両側にデンデラ野とダンノハナと呼ばれる場所がある。以前は山口以外の集落にもこれらの地名はあったのだが、今は山口にしか残っていないそうである。デンデラ野は60歳を超えた老人を「棄てる」場所であり、ダンノハナは共同墓地として使われていた。老人をデンデラ野に棄てることが本当にあったことかどうかは定かではないが、そのように言い伝えられてきた。現在のわれわれが直面している高齢化社会の問題に、遠野の人々がずっと向き合っていたということがうかがわれる点が重要である。

 講師である石井正己さんが好きな話として紹介しているのは熱病で死にかけた人物が菩提寺に急いで赴くという体験をしたというものである(97話)。「足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛上り、凡そ人の頭ほどの所を次第に前下りに行き、又少し力を入るれば昇ること始の如し。何とも言われず快し」(72ページ)。寺に到着すると多くの人々が集まっている。門を入ると芥子の花が咲いていていよいよ気分がよくなる。花の間に死んだ父親が立っていてお前も来たのかという。なおも先に進むと、自分に先立って死んだ男の子がいて「トッチャお前も来たか」という。お前はここにいたのかと近づこうとすると、今来てはいけないといわれ、門のほうでは大声で自分を呼ぶ者がいるので、いやいやながら引き返したところで、はっと目が覚めて、回復した。親戚のものが水をかけて呼び生かしたのだという。
 ここには魂の感覚というものがとてもよく描かれていると石井さんは言う。「ふだん生活しているごく身近な場所に死の空間があるのですが、それは単に物理的に近いというだけでなく、精神的にも近いのでしょう。ときには生と死の境界そのものが曖昧になることもあります」(74ページ)という。

 『遠野物語』には、いわゆる「神隠し」の話がいくつもある。神隠しに遭いやすいのは女性や子どもで、夕方が危険な時間帯だとされる。第8話では松崎村の寒戸(さむと)というところで若い娘が梨の木の下に草履を脱いでおいたまま行方不明になったことが語られる。30年余り過ぎて、ある日親類や知人が娘の家に集まっていると、ひどく老いさらばえたその女が戻ってきた。どうして帰ってきたのかと問うと、みんなにあいたくなったから帰ってきたといって、また行くぞといって外へ出てそのまま消息を絶ってしまった。その日は風が激しく吹く日だったので、遠野郷の人は、今でも風が騒がしい日には「今日はサムトの婆が帰ってきそうな日」(75ページ)だというという。
 草履を脱ぎ置くというのは、異界に行くときのメッセージである。人々が集まっているところにやってきた老婆は生きているのか死んでいるのかよく分からない。人間なのか、それとも妖怪や幽霊なのか、『遠野物語』の世界はあいまいで、一義的にこうだと決めつけられない在り方を許容しているという。
 娘が姿を消したのは20歳前のことであったと思われる。そうすると、30年たてば40代で、現代であれば「極めて老いさらばいて」などいないのである。彼女の姿は、おそらくは山の中にある異界の過酷な生活(?)を想像させるのだが、同時にその時代の山村の暮らしの厳しさも示していると考えるべきではなかろうか。
 石井さんは風と魂が結びつけられていることにも注目している。魂をめぐる伝承には日本人の宗教的な精神の基層があると柳田が考えるようになったのではないかとも推論している。

 99話で紹介されるのが、1896(明治29)年に起きた明治三陸大津波の話である。これは遠野郷の話ではないが、遠野で実話として語られていたものである。
 遠野から海岸部の山田町の田之浜に婿に行った男性が大津波で妻と子を失い、生き残った2人の子どもとともに元の邸の土地に小屋を建てて1年ばかり暮らしていた。夏の初めの月夜に目を覚まして、用を足しに行こうと海岸を歩いていると霧の中から男女2人の姿が見え、そのうちの女は津波で死んだ自分の妻である。懐かしくなって追いかけていくと、男は自分の妻が結婚前に愛し合っていた相手である。今はこの男と夫婦になっているというので、子どもがかわいくはないのかというと、女の顔色が変わる。死者が口をきくのかと悲しく情けなくなってきて足元を見ているうちに、男女はまた歩き出して姿が見えなくなってしまう。さらに追いかけようとしたが、相手は死者ではないかと思って引き返したという。
 妻を失っただけでなく、妻があの世で自分以外の男と結婚しているというのは残酷すぎる話であるが、そういう事実(?)に直面することで彼は新しい生活に目を向けることができるようになったのではないか、「心の復興の物語として読んでこそ意味があるのではないか」(81ページ)と石井さんは論じられていた。

 東日本大震災を経験して、改めて我々は悲劇を抱えながら現実を生きてゆくしかないことを思い知らされているが、「心の復興」の過程で「魂の行方」が改めて重要な問題になっているのではないか、『遠野物語』はそのようなわれわれにとって重要な示唆を与えうるのではないかと石井さんは論じる。
 物質的な復興だけでなく、「心の復興」も重要であるというのはその通りに違いない。今回語られた説話の中には幽明の境界が定かでないものが多かったが、そのような物の観方を受け入れながらも、現実は現実として取り組んでいくことも必要であろう。昔話には鬼や巨人が一夜のうちに大きな仕事をするというものがあるが、我々がいくら願っても、そういう鬼や巨人は我々の目の前には出てきてくれないのである。 

日記抄(6月18日~24日)

6月24日(火)雨、午後になって一時雷鳴

 6月18日から本日にかけてであった事柄、考えたことなど:
6月18日
 6月15日にSF小説『アルジャーノンに花束を』(Flowers for Algernon)で知られるアメリカの作家ダニエル・キースDaniel Keyesさんが亡くなったことが伝えられた。この作品は読んでいないが、1968年にラルフ・ネルソン監督によって映画化され、日本では『まごころを君に』という題名で公開された作品は見ている。主人公を演じたクリフ・ロバートソンがアカデミー主演男優賞を受賞したことで知られる。DVD版は『アルジャーノンに花束を』という題名で販売されているようである。その後カナダとフランスで映画化され、2002年には日本でもTVドラマ化された。

 NHKBSプレミアムでエドワード・ドミトリク監督の『ケイン号の叛乱』(The Caine Mutiny)を見る。第二次世界大戦の終わりごろ、新しい艦長を迎えた掃海艇ケイン号は太平洋での作戦に従事するが、艦長が神経を病んでおり、失敗はすべて部下の責任にしてていないが不穏な空気に包まれている。台風の接近により船の危機はさらに大きくなる・・・。戦争と軍隊を否定しているわけではないのだが、それらのもつ否定面が浮かび上がってくる。息苦しいが、見ごたえのある映画である。

6月19日
 NHKラジオまいにちフランス語応用編「作家とともにパリ散歩」ではゾラの小説『ボヌール・デ・ダム百貨店(Au Bonheur des Dames)』(1883)が取り上げられた。フランスでデパートが登場するのは第二帝政期のことだというから日本で言えば江戸時代の末のことである。デパートの支配人オクターヴ・ムーレと売り子のドゥニーズ・ボーデュの恋を中心に展開される小説は、ゾラの克明な取材活動をもとに当時のデパートの様子をち密に描いているという。この作品はルーゴン・マッカール叢書の第11巻であるが、オクターブは第10巻の『ごった煮(Pot-Bouille)』にもすでに登場しているそうである。ゾラは『人間喜劇』におけるバルザックに倣って、ルーゴン・マッカール叢書で人物再登場法を用いたが、このやり方はジュール・ヴェルヌによっても踏襲されている。

6月20日
 サッカーのW杯のグループ・リーグで日本代表はギリシャと引き分けた。まだ決勝トーナメント進出の可能性がなくなったわけではないので、粘り強く応援することにしよう。

 NHKラジオまいにちイタリア語応用編「イタリア:24の物語」ではメッシーナを取り上げ、この港から1571年の秋に多くのガレー船が出港したことを語る。オスマントルコに対してスペイン、教皇庁、ヴェネツィア共和国の連合軍が戦ったレパントの海戦は、10月7日の1日のうちにヨーロッパ側の勝利をもって終わった。連合軍の中で中心的な役割を果たしたのはヴェネツィア共和国の海軍で、彼らの勇猛果敢な戦いぶりはこの海戦における提督・船長クラスの戦死者のほとんどがヴェネツィア海軍に属していたことでわかるという。メッシーナのサンティッシマ・アヌンツィアータ・デイ・カタラーニ教会広場には連合軍側の総司令官であったドン・ファン・デ・アウストリア(1547-78)の像が立っている。スペイン国王の弟であった彼はこの時まだ24歳、有能な軍人であったが、若くして病死してしまった。放送では触れられなかったが、『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスはこの海戦に従事して砲撃を受け、左手を失っている。今日では総司令官よりも、1兵士のほうが大きな名声に包まれている。

6月21日
 日本テレビ『メレンゲの気持ち』の中で、チーズと梅干を一緒に食べるとおいしいという話題が出てきた。イタリアで長く暮らした人から、同じことを聞いたことがある。チーズも梅干しもいろいろ種類があるので、もう少し具体的な組み合わせについて知りたいものである。

6月22日
 TBSの『アッコにおまかせ』の中で豊橋のカレーうどんの話題が取り上げられていた。一度食べに出かけてみようと思う。

6月23日
 NHKラジオまいにちイタリア語の時間では色を表す形容詞が取り上げられたが、性数変化するもの、性変化しないもの、性数変化しないものがあり、viola(紫色の)やrosa(ピンクの)は性数変化しないとのことであった。文字通り訳せば、violaは「すみれ色」、rosaは「バラ色」になるが、特に区別はしないのだろうと思いながら聞いていた。

 NHKBSプレミアムで『大海原を行く渡り鳥』を見る。今回は宍戸錠に代わって藤村有弘の扮する中国人手品師が旭と張り合う役どころを演じている。なかなか達者な演技を見せていたのだが、錠が出てこないのは寂しい。『いつまた帰る』でもそうだったが、旭が馬に乗って登場し、船に乗って去っていくという組み合わせが奇妙に思われる。

6月24日
 NHKラジオまいにちドイツ語の時間でvの発音が取り上げられた。普通は[f]と発音するのだが、外来語、特にラテン語期限の科学用語などの場合[v]と発音することが多いという。大学Universitätなどというのはその例であろうが、ラテン語には[v]という発音はないのだから奇妙である。(たとえばVenusはウェーヌスと発音する。)

 NHKBSプレミアムで『ヴェラクルス』を見た。南北戦争後に起きたメキシコの内戦を舞台にした作品。ゲーリー・クーパー、バート・ランカスターの共演が話題を呼んだ。ところで、スペイン語の発音には[v]という音はないので、「ベラクルス」と表記するほうがよかったのではないかと思う。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(2)

6月23日(月)雨が降ったりやんだり

 『神曲 地獄篇』第2歌は4月8日の夕暮れ、古代ローマの詩人ウェルギリウス(の霊)によって危機を救われた主人公である語り手のダンテが、なぜ彼と自分とが彼岸の世界を巡歴しなければならないかをたずね、その回答をえるというやり取りから構成されている。

日が落ちていき、黄昏の暗い大気は
地上にいる生きとし生けるものを
その営みから解放していった。ただ一人、私だけは

苦難の道とそこに待ち受ける苦悩を相手に
戦う準備をしていた。
これからそれを紛うことなき記憶が語っていく。

詩の女神たちよ、わが高き知性よ、さあ、私を助けたまえ。
私が見たものを記した記憶よ、
ここにお前の真価を見せよ。
(第2歌1~9行、40ページ)

 第1歌が『神曲』全体の序歌であり、第2歌はその中の『地獄篇』の序歌という位置づけになっていると原さんは解説している。古代の叙事詩は詩の女神たちに対する呼びかけによって始まることを考えると、その呼びかけが第2歌におかれていること、さらに詩の女神だけでなく作者自身の知性と記憶にも詩想の源が求められていることなどがこの作品の思想的な新しさと考えられる。またキリスト教的な詩でありながら、異教の詩の女神も念頭に置かれていることも注目されてよいのではないか。

 ダンテはウェルギリウスに向かって、なぜ自分が彼岸の世界を巡歴しなければならないのか、またなぜウェルギリウスがその導き手となるのかを質問する。ウェルギリウスは英雄アエネーアースがトロイアの滅亡後イタリア半島まで放浪の旅を重ね、ローマの建国の祖となる過程を描いた叙事詩『アエネーイス』の作者であり、その中でアエネーアースは彼岸の世界に旅をして、自分たちと自分たちが築くことになる都市の未来についての予言を聞いている。ダンテはどのような使命を帯びて、彼岸の世界を旅しなければならないのだろうか。

 これに対してウェルギリウスは詳しく答えず、聖母マリアの意を受けた聖女ルチーアに促されて<神の恵み>ベアトリーチェが彼にダンテを助けるよう命じたとだけ述べる。ベアトリーチェはダンテが以前に発表した作品『新生』のヒロインであり、フィレンツェの名家の娘であるベアトリーチェ・ポルティナーリ(1266-90)と同一視されてきたが、現在の研究では純粋に詩的な存在と考えられているそうである。そして、ウェルギリウスは
あれほどの聖なる貴婦人が3人も
空の宮廷でお前のことを思っていてくれるのに、
そして私の言葉もお前に素晴らしい善を約束しているのに
(第2歌124-126行、52ページ)なぜためらうのだとダンテに旅立ちを促す。

可憐な花が夜の冷気に
しおれて下を向いていたのが、太陽にあたって白く輝き、
すっくと起き上がって大きく花を開かせるように、

打ちひしがれていた私は気力を取り戻した。
(第2歌127-130行、同上) そして

果てしなく険しい歩みへと私は進んだ。
(第2歌142行、53ページ)

 原さんによると、国家間・都市間の抗争と都市の内部での紛争が続く中で、平和を希求していたダンテはその実現者としての復活されたローマ帝国に希望を託し、そのローマの建国の叙事詩の作者であるウェルギリウスを自らの導き手として登場させたというのである。聖なるものと俗なるものを分離して、教会が世俗的な世界に介入することに反対する考えがダンテにはあったと原さんは論じている。政教の分離は現代の社会においても大きな問題であるが、ダンテは中世の文脈の中でその可能性について論じていたことになる。

 第3歌からダンテはウェルギリウスに導かれて本格的な地獄の旅をすることになる。

石井好子『バタをひとさじ、玉子を3コ』

6月22日(日)雨が降ったりやんだり

 昨夜、石井好子『バタをひとさじ、玉子を3コ』(:河出文庫)を読み終えた。石井好子(1922-2010)は戦後アメリカ経由でフランスにわたって音楽の修業を積み、パリでシャンソン歌手としてデビュー、帰国後は歌手として活躍しただけでなく、石井音楽事務所を主宰して、岸洋子、芦野宏、加藤登紀子、田代美代子らの歌手を発掘・育成し、また海外から多くの音楽家を招へいし、世界の様々な音楽の普及に努めた。一方、『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』をはじめとする、世界の料理と食生活、文化についての多くのエッセーを書いた。

 『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』が有名になってしまい、石井さんというとオムレツが連想されるほどになったが、オムレツが好きなのはむしろ著者ではなくて日本人全般ではないかという。石井さんが『巴里の空の下』で書いたのは、パリで歌っていたころの下宿のマダムがたくさんバタを使ったオムレツを使ってくれたのがおいしかったということだけだという。オムレツの「玉子は1人前2個で、立派な、大きいのを作りたいときは3個使うとよい」(12ページ)。「オムレツとかつお節」と題する冒頭のエッセーでは、ここからパリ仕込みのオムレツの作り方が紹介されている。

 「デパートの中をぶらぶらしていたらすれ違った女子学生が腕をつつきあってあの人、ほらテレビや雑誌に出てるじゃないといいあっている。長いこと歌手生活をしているからそのようなことには馴れているのだが『そうそう料理の先生よね』という次の言葉をきいたときはふき出してしまった。電子レンジのコマーシャルに出ているのでそれを見た人達なのだろう。
『料理の先生か』とおかしかったのだが心の奥では『別の料理の大家でもないのにそんなこと思われていやだな』という気持ち。28年歌ってきたのに歌手だと思われなかったちょっとした残念さ。そんな気持ちが混じっていたと思う」(27ページ)と記す。自分は音楽家であって料理は素人であるという自覚に貫かれており、それが「料理というものに決まりはないのだから、いろいろ工夫して、自分の口にあう」(13ページ)料理を作ればよいという考えにつながっているようである。それに加えて、「戦争中、戦後に娘時代を送った私は、パリで暮らすようになるまで料理らしい料理をしたこともなかったし、食べ物に興味を持てるような生活を送ったこともなかった」(238ページ)という経験も忘れがたいものとなっていたのであろう。

 石井さんが生前各種の新聞や雑誌に書いていたエッセーを手元に残しておいたものを、死後に編集者がまとめたものであり、世界各国の料理について、またそれを食べて生活する人々について興味深い話が綴られている。パリでの自炊生活の思い出、パリのキャフェのこと、秋になると野鳥料理を楽しむヨーロッパの人々、女4人でひたすら食べまくったイタリア旅行、ポルトガルの家庭料理、ニューオーリンズのカーニバル、海外のことだけでなく、父親の郷里である久留米をはじめとする九州、そして日本各地の料理についても様々な思い出が綴られている。パリのキャバレーで石井さんが歌っていたころに同じ店で働いていた女性たちの群像を描く「パリで一番のお尻」には食べる喜びではなく、レストランでの会話を通じて人生のいくつかの断面がアンデルセンの『絵のない絵本』風に語られている。これはこれで十分に面白いが、全体としてのまとまりに欠け、また主題がもう少し掘り下げられていればもっと面白かったのにと思われる内容のものも少なくない。条件さえ整っていれば、もっと面白い本が出来上がったのではないかと少し残念な気持ちもする。

 1973年に亡くなった元横綱の東富士関のこととか、1981年に亡くなった父親の光次郎氏とのことも出てくるので、かなり古い時代の話も少なくないようであるが、「日本人は、お魚の食べ方は、世界一といってよいほど上手だが、牛肉の食べ方は下手である。その反対に、フランス人は、牛肉の食べ方が上手で、魚の食べ方は下手だ」((237ページ)という比較が今も正しいかどうか、観察してみる価値はあると思う。さらに「私たちも国際的に世界の人々を相手どって仕事をしていかなくてはならぬ現在、食生活も大いにフランス人をみならって偏見をなくしてバリバリと今までたべなかったものをたべなくてはいけないと思う」(241ページ)というのも傾聴すべき意見ではないかと思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』

6月21日(土)晴れたり曇ったり

 ダンテ・アリギエリ(原基晶訳)『神曲 地獄篇』(講談社学術文庫)を読み終える。

 『神曲』は西暦1300年の復活祭に、フィレンツェ出身の詩人ダンテ・アリギエリが地獄、煉獄、天国という彼岸の世界を旅して神に出会うまでを描く叙事詩である。はっきりした記憶はないが、これまで2度か3度、地獄篇は読んだことがあり、煉獄篇も1度か2度読み通したが、天国になると根気が続かなくなって、全部を読み通したことはない。今回の原さんによる翻訳の企ては、これから煉獄篇、天国編と続くのであろうが、全部を読み通すことができるか、気になるところである。

 ダンテのこの書物は「キリスト教的世界観によって全宇宙を1冊の書物に封じこめ、壮大な宇宙を微細な部分まで精緻に描き上げた」(618ページ)と評価されてきた。むかし、遠山啓の『数学入門』(岩波新書)を読んだときに、ダンテはその当時としてはすぐれた数学者でもあったという記述がされていて、興味を喚起された。『神曲』の中でダンテはプトレマイオスの天動説に従って宇宙を説明し、地獄は地球の中に、煉獄は普通の人間では到達できない南半球にあり、天国は地球を取り巻く惑星や恒星の世界にあるとしている。その程度のものかと思ってはいけない。当時にあってはプトレマイオスの天体学説が最高水準の天文学であったこと、ダンテが少なくとも地球が丸いということを信じていたことを付け加えておく必要がある。さらに地獄篇34歌、煉獄篇33歌、天国篇33歌、合計100かという『神曲』の構成にも彼の数字へのこだわりが感じられる。

 全体の序にあたる第1歌で、詩人は
我らの人生を半ばまで歩んだ時
目が覚めると暗い森の中をさまよっている自分に気づいた。
まっすぐに続く道はどこにも見えなくなっていた。
(第1歌1-3行、26ページ)と歌い始める。1300年の4月7日の夜、翌日は復活祭の聖金曜日という時に、彼はどのようにして迷い込んだのかわからないまま、暗い森の中をさまよい、ある丘の麓にたどり着くと、朝日が昇るのに出会う。

疲れた体を少し休ませた後、
荒れ果てた人気のない丘の麓を再び登りはじめ、
低い方の足を常に体の支えにしていた。
(第1歌28-30行、28ページ) その彼の目の前に雌豹、続いて獅子、さらに雌狼が現われて彼に恐怖を与える。窮地に陥っていた彼の目の前に不意に「長い沈黙ゆえにかすれて見える」(32ページ)姿が現われる。彼は古代ローマの詩人ウェルギリウスであった。ダンテは「詩の大河が流れ出す/…源」(33ページ)である詩人との出会いを喜ぶ。ウェルギリウスはダンテが、元に戻るのではなく、彼岸の世界へと旅をしてすべての罪を知り、人類に新しい贖罪をもたらすため神の言葉を伝えるように告げる。帝政ローマを象徴するローマ帝国第一の詩人ウェルギリウスは理性のアレゴリーとして、地獄と煉獄の旅の案内人となる。

そこで彼は歩きはじめ、そして私は後ろについていった。
(第1歌136行、38ページ)

 ダンテが『神曲』を執筆したのは1307年以後のことであるというので、わが国で言えば鎌倉時代の末期に書かれた書物ということになる。『徒然草』とほぼ同時代か、それよりも少し前、これから『太平記』の描く時代が始まろうかというころのことである。『神曲』が「俗語」であるトスカナ方言によって書かれ、『太平記』が漢文崩しの文体で書かれているというような点も興味深い比較の対象となるが、それ以上に両者がともに政治のあり方を問題にしているという点が注目されてよいのではないかと思う。もちろん、片方は空想の翼をはばたかせ、抽象的な思索を凝らして書かれ、もう一方は歴史的な事実に即して物語を展開しているという違いはある。しかし『太平記』にも幻想的な場面は登場するし、『神曲』にはダンテの同時代の歴史的な事件が投影されていることも見逃せないのである。

 『神曲』の日本語への翻訳として代表的なものとしては、山川丙三郎、壽岳文章、平川祐弘の業績が知られている。これらの翻訳の特徴と問題点については、原さんによる「新訳刊行にあたって」(618-633ページ所収)に詳しく論じられている。その他、解説も行き届いていて、わかりやすい翻訳であり、叙事詩としての性格にも配慮がされているので、さらに今後の『煉獄篇』『天国篇』の刊行にも期待がもたれる。実際問題として『地獄篇』が一番面白いことも否定できないのではあるが…

オー! ファーザー

6月20日(金)晴れ

 昨日、観た映画2本のうちのもう1本。上映時間が限定されていてこの順序になったのだが、これでよかったのではないかと思う。

 先に見た映画、『ぼくたちの家族』は我々の経験の範囲の中でありそうな物語が展開する。子どもたちが成長して親元から離れていくこと、年老いた夫婦のどちらかが病気で倒れること、そういう時に誰を頼るべきかということなど、身近な問題である。誰もがサラ金から借金をしているとは言えないが、住宅ローンの返済はより身近な経験である。それに比べるとこの映画、『オー! ファーザー』は変わっている。主人公の高校生には4人の父親がいる。賭博師、元ホスト(現在は専業主夫ということらしい)、体育の教師、大学の先生で、主人公の母親がこの4人と同時に付き合っているときに妊娠し、誰が父親かわからないまま共同生活を続けているというおよそありえない設定から物語は始まる。しかも、物語を通じて母親は間接的にしか登場せず、姿を現すことはない。

 母親が働いており、他にも稼ぎ手がいるし、住人も多いので、主人公たちは比較的大きな家に住んでいる。とはいうもののあまりにも変わっているので、友人を家に連れてくるということはほとんどなかった。ところがそういう主人公に興味をもつ同じクラスの女子生徒がいて、一方的に自分は彼女であると言い出し、物語が動き始める。クラスには1人、不登校の生徒がいて、その生徒の暮らすマンションに2人で様子を見に出かける。

 彼らの住む地方都市にはボスがいて、新たにゲームセンターを始める。その開場に賭博師の父親たちと出かけた際に、主人公は別の来客のものである鞄のすり替え、持ち去りの現場を目撃し、犯人を追跡する。途中で他の事件に巻き込まれて追跡しきれないのだが、この事件が進行中の知事選挙と関連しているのではないかという疑いが生まれる。主人公たちの暮らす家に空き巣が入って荒らされたり、何かと怪しげな事件が連続する。

 いろいろな事件が起きて、それらがだんだん奇怪な事件との関連を明らかにしていく。事件の展開が奇怪である一方で、一見唐突に出てくるエピソードが後で起きる事件の伏線となっていることがあるので、油断大敵である。主人公は4人の父親たちの助けを借りて、事件の核心に迫っていく。女子高生と、幼馴染の友人とが事件の進行にいろいろな形で絡む。

 4人の父親というのが男性と父親の必ずしも好ましいとは言えない属性を体現していることは容易に推測できる。我々の日常的な経験の範囲を超えた事件の展開であるが、登場人物の性格は誇張されているとはいえ、むしろ身近なものではないか。賭博師の勝負度胸、ホストの女性に対するやさしさ、体育教師の喧嘩の強さ、大学教師の知識、それぞれがそれだけでは必ずしも好ましいとは言えないが、その4つが組み合わさるととんでもない力を発揮する。現実にはあり得ない物語であるが、あってもいいだろう、その方が楽しいだろうと思われる作品に仕上がっている。ラスト・シーン近くにちょっと考えさせる場面があるので、その個所も見落とさないようにしてほしい。

ぼくたちの家族

6月19日(木)晴れたり曇ったり

 ヒューマントラストシネマ渋谷で、『ぼくたちの家族』、続いて『オー! ファーザー』を見る。スクリーンの位置や大きさに問題はあるが、座席を指定する際にチケット売り場でそれらの点について触れた説明をしてくれたのが有難かった。本日は最初に見た『ぼくたちの家族』について取り上げる。

 吉祥寺駅の近くであろうか、主婦の玲子が友人たちとおしゃべりをしている。友人の一人がしてきたばかりのハワイ旅行の話題で盛り上がっていたのだが、突然、関係のない話題を持ち出す。今、何を話していたんだっけ? 他人から教えられて初めて気づく。どうも最近、物忘れがひどくなってきている。

 かなり長い道のりの電車に乗って帰宅する。自宅は都心からかなり離れたところにある。帰ってすぐに座り込んでしまい、何もしないまま時間がたっているのに気付かない。小さな会社を経営している夫の克明が帰宅する。駅まで迎えに来てくれと頼んでおいたのに忘れてしまっていること、夕食の準備が出てきたいないことに機嫌を損ねる。それでも少しずつ夕食をこしらえているときに電話がある。長男の浩介から妻が妊娠したという知らせが入る。克明も喜んで、長男の嫁の一家との食事会を開こうと言い出す。

 夫婦にはもう一人、まだ大学でうろうろしている次男坊の俊平がいる。玲子はなぜか俊平のほうが心を許せるようである。3万円ばかり都合してほしいという彼の電話に、あれこれ思案した末に3万円をもって飯田橋駅の近くまで出かける。近頃物忘れがひどくなっているのだけれども、どうしたものだろうという彼女の相談に、俊平は齢のせいだよと軽く受け流す。

 浩介の妻の両親との食事会の席で、玲子は長男の嫁の名前を間違えるだけでなく、家族がバラバラになっているとその席にふさわしくない発言を繰り返す。心配した京三が、浩介とともに地域の病院に連れていき、検査の結果、脳腫瘍であと1週間が生死の山場だと告げられる。どこか内臓から転移したのではないかと検査が繰り返されるが、内臓に異変は認められない。なかなか連絡がつかなかった俊平がやってきておっとりと構えているので、京三や浩介と摩擦が起きる。

 父親の京三は事業の不振と家のローンを抱え、家にあまり金を入れなかったために、玲子はサラ金から300万円ほどの借金をしていた。母親の治療費の大部分を浩介が負担しなければならないが、浩介の妻は生まれてくる子どものために自分たちがこれまで積み上げてきた預金は取り崩せないと主張する。京三は浩介を保証人に1200万円を借りているために、自己破産することもできないという。家族のそれぞれの利害関係がぶつかり合う。病院の側では、回復の見込みのない病人はできれば自分の一番安らぐことのできる自宅で最期を迎えてほしいと言いたいらしい。

 脳の障害のために本音しか語らなくなった母親に引きずられるように、家族の一人一人が自分の本心を語り始める。浩介は母親を治療する手立てはないものかと、俊平と手分けしてセカンド・オピニオンを探し回る。探索の中で少しずつ家族が結びつきを取り戻し始める…。俊平は大学をやめて父親の会社で働くことも考え始める・・・

 家族といったが、京三と玲子の夫婦、それぞれが2人の息子の浩介と俊平との間に持つ親子、浩介と俊平の兄弟、玲子が浩介の嫁との間に持つ嫁姑など単純には整理できない様々な関係が入り乱れている。映画ではほとんど描かれていないが、嫁の実家との関係まで考えるとさらに複雑になる。浩介は引きこもりだったという過去をもっている。玲子は郊外に家をもつことが不満だったらしい。さらに、自分の周囲の家族に比べると自分たちの家族が変だという意識は、俊平にもあったようである。

 登場人物の主張は部分的にはそれぞれもっともである。問題はそれぞれの主張からどのように家族を再建するかである。登場人物たちの努力が家族の再建を軌道に乗せるか、あるいは崩壊をもたらすかという結末は、映画を実際に見てほしいが、おそらくエンド・マークが出た後からも新しい問題が生まれるだろうし、そうやって家族の歴史が刻まれていくのであろうと思った。家族を維持していくためにはなりふり構わない努力が必要だということを実感させられる。玲子が大事にしているサボテンなど、小道具が今一つ生かしきれないままであったのが残念であるが、これはむしろなりふりへのこだわりの一例として理解すべきなのかもしれない。

100分de名著『遠野物語』(3)

6月18日(水)晴れ後曇り

 NHKEテレの『100分de名著『遠野物語』』は第2回まで放送が終わり、今夜第3回の放送を聴くつもりであるが、その前に第2回の内容をまだ紹介していないので、大急ぎで取り上げておこうと思う。

 第2回は「神とつながる者たち」と題されている。昔の日本ではいたるところに神様がいると思われていた、「神様はどこか遠くではなく、生活のごく身近なところに存在していた」(40ページ)というところから話が始まる。日本の固有の進行について、あるいは柳田の固有信仰観を考えるときに、これは少し独断的な決めつけではないかと思う。確かに、神はいたるところにいた。あらゆるものが生命をもち、成長すると考えられた。しかし、その一方で遠くにいる神や、遠くからやってくる神が信じられていたことも否定できないのではないか。

 柳田が佐々木の語る昔話を「遠野物語」にまとめた時代は、社会の価値観の転換期であったが、伝統的な神々が生活習慣の中にまだ生き残っている姿を伝えていると番組は述べている。まず、遠野三山(早池峰、六角牛、石上)をめぐる神話的な伝説が語られる。山の神が女神であるから長く女人禁制が守られ、その一方で(柳田は触れていないが)男性にとって山に登ることは成人儀礼としての意味をもっていたという。神々が生活と結びついて存在していたのである。

 遠野三山の神々は女神であるが、一般の山の神は男性の姿で現れることが多く、異様な姿をしていると信じられていた。彼らは一方で恐ろしい存在であり、他方で豊かさに結びつくような両義的な存在と考えられていた。出産を司る場合もあり、下手をするとたたられて命をとられるかもしれない存在でもあった。

 『遠野物語』によって広く知られるようになったザシキワラシは家の繁栄と没落を支配する「神」として信仰されていた。『遠野物語』第18話には、山口の孫左衛門という旧家二は2人の童女の神がいると言い伝えられていたが、ある年、同じ村の男が路で2人の娘にである。どこからから来たかと問うと、山口の孫左衛門のところから来たといい、これから別の村の○○のところに行くと答える。間もなく孫左衛門の家ではキノコ中毒で、7歳の女の子1人を除く全員が死亡してしまった。童女が行き先として答えた○○は今でも立派に暮らしている豪農である。

 物語は第19話でキノコ中毒による事件が起きた経緯、第20話で事件の前兆となる使用人たちによる蛇殺しの説話(蛇は先祖の生まれ変わりであり、さらに殺された蛇は毒キノコになるという俗信がある)、第21話では孫左衛門が村の伝統信仰を捨てて、京都の伏見稲荷を信仰していたことが語られる。一方で主人のいうことを使用人が聞かなくなっている家の中の様子から、この家が内部から崩壊し始めていたことが語られ、その一方で中央の偉い神様よりも地元のざしきわらしの方が大切なのだということも示されている。

 このような生活をする人々の中で特に神秘的な力を見につけたり、その恩恵に浴したりする人々がいた。そのような人々は多くは現在であれば、精神的な病を抱えていると考えられるような人々であったが、不思議な力を山の神から授かったと考えられていた。また、山の中にはマヨイガという不思議な異界があると信じられ、そこにたどり着くことができる人物は幸運を手に入れることができると考えられていた。第63話は「少しく魯鈍」だと思われていた女がマヨイガにたどり着き、そこから何も持ち去らなかったが、彼女が洗濯をしていると椀が上流から流れてきて、その椀が富をもたらしたという話である。彼女は魯鈍であるために迷って異界のマヨイガにたどり着くことができ、しかも無欲であったので幸運をつかんだのである。「遠野は、こうしたいわゆる『魯鈍』な人、『馬鹿』と呼ばれた人、あるいは心の病をもつ人の神秘的な力を信じて、共生してきた社会だった」(60ページ)と番組では指摘されている。そして「神や先祖への畏敬の気持ちや、生活の中で不思議なものを感じ取る力を尊重し、心を病んだ人たちとの共生を実現してきた『遠野物語』にある世界は、私たちの現代社会が失っていったものを見つめるための、鏡にもなるのではないでしょうか」(同上)と結んでいる。

 番組中でも個人情報の問題などが議論されていたが、心を病んだ人々との共生をめぐっては、遠野が外部に対して閉ざされた地域ではないにせよ、村の人々がお互いを知り尽くしているだけでなく、欠点や問題を含めても仲間として団結するだけの相互理解をもっていたことが指摘されてよいだろう。番組が『遠野物語』からさらにどのような意味を読み取るか、今後の展開に注目することにしよう。

日記抄(6月11日~17日)

6月17日(火)晴れたり曇ったり

 「日記抄(5月28日~6月3日)」の5月28日の項で触れた近所の寺に「人知れず微笑まん」という言葉が掲げられている。1960年6月15日にこの日最高潮に達した日米安保条約改定反対闘争の抗議行動中に落命した樺美智子さんの遺稿集の題名である。

6月11日
 1963年のこの日、芝の日活アパートで肺性心のため川島雄三監督が急死。筋萎縮性側索硬化症のため歩行困難な中で監督活動を続け、最後の作品となった『イチかバチか』の公開5日前のことであった。
 川島の「『赤坂の姉妹』より夜の肌』で、川口知子の演じる三人姉妹の三女が信州から上京してきたその足で、国会議事堂前に向かい樺さんに献花しようとして警官に場所が違うよといわれる場面が記憶に残っている。当時、赤坂は料亭政治の中心地であった。映画の中で料亭の女主人に登りつめる長女の淡島千景が妹たちに向かって姉妹で力を合わせてといえば言うほど、3人の生き方はだんだん遠ざかっていく。この作品や中平康の『あいつと私』のような、ごく通俗的な映画にも安保闘争が影を投げかけていることが注目される。

 NHKBBSプレミアムでノーマン・ジュイソン監督(1926-)の『シンシナティ・キッド(The Cincinnati Kid)を見る。ニューオリンズを舞台に若く野心に燃える賭博師が第一人者に対しポーカーの勝負を挑む。若いギャンブラーにスティーヴ・マックィーン、老ギャンブラーにエドワード・G・ロビンソン。リチャード・ジェサップの原作をリング・ラードナー・ジュニア(1915-2000)とテリー・サザーン(1926-85)が脚色。もともとはサム・ペッキンパーが監督する予定だったが、ジュイソンに変更、原作の舞台はセントルイスであったのが、映画ではニューオリンズになっているそうである。ハリウッド・テンの1人として長くアメリカでは公式の仕事の機会を奪われていたラードナー・ジュニアが本格的に復帰した最初の作品であり、『博士の異常な愛情』、後には『イージーライダー』などの脚本を書いたサザーンとの仕事はいわば新旧の協力作業である。若いギャンブラーが野心に満ちて落ち着きがないのに対し、老ギャンブラーは胡散臭いところはあるが礼儀正しく、周囲の人間への配慮を怠らない。「人間力」ともいうべきものの違いが勝敗にかかわってくる。ロビンソンの老ギャンブラーの演技に加えて、両者の対決の際にカードを配る役のレディ・フィンガーとあだ名される女性を演じているジョーン・ブランデルの演技が高く評価されているらしい。作品の編集を手掛けているのが後に監督として活躍するハル・アシュビー。作品の出来栄えはもう一つというところなのだが、ところどころに新しいアメリカ映画の胎動が感じられ、ニューオリンズの描写も興味深く(行ったことがないので、どの程度町の雰囲気をとらえているかはわからないのである)私にとっては愛着の残る作k品である。ジュイソンの本領発揮はこの後の『アメリカ上陸作戦』からということになるだろうか。リング・ラードナー・ジュニアと同じ年の私の亡父が、ニューオリンズに一度行ってみたいといっていたのを思い出す。ジャズの愛好家だったのである。

 NHKラジオ「まいにちイタリア語」の再放送の時間の前に放送されている『まいにちロシア語』の終わりの方での雑談で、日本の小学校の多くの教科書で教材として採用されている「おおきなかぶ」の話題が取り上げられていた。アレクサンドル・アファナーシエフ(1826-1871)の民話集の中に収められている話であるが、ロシアでももちろん親しまれている話だという。

 テレビ朝日の「マツコ&有吉の怒り新党」の中で『東京出身』といってもいろいろな場合があるという話題が語られていた。これは東京以外の都市についても言えることである。特に町村合併の結果、多くの都市が複数のアイデンティティを抱えているようになっているので、ひとくくりにして考えるのはますます不適切になっていると思う。

6月12日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「作家とともにパリ散歩」ではバルザックの『ランジェ公爵夫人La Duchesse de Langeais(1834)」から「失われたパリの貴族街、フォーブール・サン=ジェルマン」について取り上げた。16世紀にはフォーブール・サン=ジェルマンはまだパリの中には入っておらず、パリの城壁の外という意味の「フォーブール」が地名に入っているのだそうである。17世紀になるとこの地区の開発が進み、広い館と庭が確保できることもあって多くの貴族が移住してきたのだそうである。現在、この一帯は官庁街になっているが、国民議会の建物はむかしのブルボン公の邸宅であり、首相官邸も貴族の館だった建物がそのまま使われているのだそうである。

6月13日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「作家とともにパリ散歩」ではネルヴァルの『散歩と回想(Promenades et souvenirs)」から「拡大するパリとモンマルトルの丘」という話題を取り上げた。モンマルトルがパリ市に組み込まれたのは1860年のことであり、それまではパリから独立したモンマルトル村であったという。同じようなことが東京やロンドンでも起きてきたのである。

 日本テレビの「PON!」にゲストとして登場した向井理さんが最近バーベキューにはまっているという話題が出てきたので、6月2日~4日のNHKラジオ「まいにちドイツ語」で登場したMein Hobby ist Grillen. (私の趣味はバーベキューです。)という表現を思い出していた。外来語を使わずに、自前の表現を心掛ける傾向がドイツ語の特色の一つではないかと思う。

6月14日
 NHKの「生活笑百科」で司会の笑福亭仁鶴師匠が「日本一のコメディアン、辻本英雄さん」と紹介しておいて、「日本一」というのは「日本橋一丁目に住んでいる」という意味だという種明かしをした。東京の橋は「にほんばし」、大阪の橋は「にっぽんばし」である(これは以前にも触れたという記憶がある)。

6月15日
 NHKEテレ「日本の話芸」で桂福団治師匠の落語「ねずみ穴」を視聴する。父親が死んだときに身代を半分ずつ分けた兄と弟の、兄は大坂で商人として成功し、弟は財産を使い果たす。援助を求めてたずねてきた弟に兄は商売のもとでとして3問の銭を渡す。いったんは腹を立てた弟であったが、これを元手にして次第に財産を築き、古着屋の店を構えるようになる。そして再び兄のもとを訪れると、兄は弟に自分の本心を打ち明けて、ねんごろにもてなすのだが… 上方と東京とで話の展開に大きな変化はない。福団治師匠の口演では、兄の家の番頭がよく気がつき、人情味のある性格に、弟の家の番頭がうるさく言ってもなかなか仕事をしない小ずるい怠け者に描かれているところがなかなか面白いと思った。

6月16日
 NHKBSプレミアムで小林旭主演の『渡り鳥 いつまた帰る』を見る。今回は佐渡が舞台で、こまどり姉妹が2回顔を見せている。旭を追いかけている女性役の中原早苗の演技がなかなか良かった。

 NHKラジオ「まいにちイタリア語講座」の再放送の直前のロシア語の時間の雑談でロシアの民話に出てくるバーバ・ヤガーと日本の山姥の比較論が話題になっていた。バーバ・ヤガーについてはプロップの『魔法昔話の起源』の中で詳しく考察されている。

6月17日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」の入門編で
Wo ist denn mein Kuli? (僕のボールペン、知らない?)
Wo ist mein Wörterbuch? (私の辞書はどこ?)
という文が出てきた。KuliはKugelschreiberの短縮形でKugelはボール、schreiberは書くものである。またWörterbuchは言葉の本ということで、ここでもドイツ語が安易に外来語に頼らずに自前の造語をしていくという例がみられる。

 会話というのは単に言い回しを覚えればよいというものではなく、相手の気持ちや考えを読むことが含まれてくる、言葉を学ぶことは人間を学ぶことでもあるという発言が印象に残った。

 「まいにちイタリア語」の直前のロシア語の時間でまたバーバ・ヤガーの話題が出た。ヤガーの子分とされるのがカエルとクロネコと蛇だそうである。この3者はロシアでは不吉なものとして気味悪がられているらしい。

太平記(4)

6月16日(月)晴れ

 後醍醐天皇の意を受けて、鎌倉幕府打倒の謀議を進める日野資朝はこれは頼りにできそうだと思う公家、僧侶、それに武士を集めて「無礼講」という当時のしきたりを破った宴会を開き、その中で倒幕のための相談を進めていた。しかし、ただ宴会に集まるだけでは怪しまれることになると、その当時学識において並ぶ者がないといわれていた玄恵僧都を招いて『昌黎文集』という書物の講義をしてもらうことになる。

 『昌黎文集』は中唐の詩人であり文章家であった韓愈(768-824)の文集である。韓愈はその字を退之といったが、河北州昌黎出身のため昌黎とも号した(本当は昌黎の出身ではないともいうが、細かいことにはこだわらないことにする)。玄恵僧都はただひたすらに学問の人であったので、謀反の企てなどとは夢にも知らず、会合の席に出かけては深遠な道理を説いていた。ただ単に道理を説くだけならば、何も韓愈を取り上げなくてもいいはずで、このあたりの前後の脈絡がはっきりしない。

 この文集の「昌黎潮州に赴く」という長編がある。ここまで来て、聴講者たちは「これは不吉の事なり。呉子、孫子、六韜、三略なんどこそ、しかるべき当用の文なれ」(50ページ、これは不吉なことである。呉子、孫子、六韜、三略などこそが差し当たって有用な文章である)といって、講義をやめさせてしまう。「呉子、孫子、六韜、三略」はそれぞれ兵法書である。そういう書物の内容こそが、今、知りたいものであるという聴講者たちの気持ちはわからないでもないが、すぐに役に立つ知識は、すぐに役立たなくなるということもあって、性急で浅薄な学問観と人間性がここに現れているとも考えられる。作者もそう考えたのであろうか、わざわざ韓昌黎の説話を長々と紹介する。

 韓愈の兄弟の子に韓湘というものがいた。彼は文学をも嗜まず、詩を作ることもなく、ただ道士の術を学んでいた。ある時、韓愈は韓湘に向かってもう少し勉強して、ましな生き方をしろと教え諭したが、韓湘は大笑いをして、自分は儒教の説く仁義などよりももっと大きな世界の中に生き、自然の営みを超えようとしているのだと答える。韓愈は、お前のいうことはよく分からない、今すぐ自然の営みを超えて見せることができるかと重ねて問う。すると、韓湘は自分の目の前にあった瑠璃の盃を伏せて、やがてまた引き上げると、その下から美しい花が咲いているのが見えた。韓愈が驚いてその花を見ると、花びらに金字で一連の句が記されていた:
 雲秦嶺に横たはつて家何(いずく)にか在る
 雪藍関を擁して馬前(すす)まず
情趣の尽きない句であると思ったが、その意味がどうもよく分からない、近くに引き寄せてよく考えてみようと思ったが、突然花は消えてしまった。

 その後、韓愈は時の(憲宗)皇帝が仏教を重んじていることに対して異議を申し立て、皇帝の怒りに触れて潮州の知事に左遷されることになる。その途中、日が暮れて、馬が行き悩んで進まず、行き先は遠く思われる。はるかに故郷の方角を見れば、秦嶺に雲が横たわって、自分がこれまでやってきた方角もわからない。悲しんで非常に高い山に登ると、藍関(長安の東南にある関)に雪が降り積もって、行くべき道もわからないほどである。進退窮まっているところに突然韓湘が姿を現した。

 韓愈は馬から降りて、先年、お前が咲かせた花の中に見えた一連の句は、自分が左遷される運命にあることを攀じするものであったことが今分かったといい、二度と長安に戻ることはないだろうと思う悲しみの心を込めて、先の一連に六句を続けて詩を作り、韓湘に与えた。
 一封朝に奏す九重の天
 夕に潮陽に貶せられる路八千
 本より聖明の為に弊事を除かんとす
 豈に衰朽を将(も)つて残念を惜しまんや
 雲秦嶺に横たはつて家何にか在る
 雪藍関を擁して馬前まず
 知りぬ汝が遠く来ること須らく意有るべし
 好し吾が骨を瘴江の辺(ほと)りに収めよ
(53ページ、以下の口語訳は54ページの脚注による:一つの封事(天子への意見書)を朝に奏上し、夕べには潮陽(潮州県)に左遷され、八千里の道をたどる。天子のため弊害を除こうとしたのだから、どうして老年の身で余命を惜しもうか。雲は秦嶺にたなびき、来し方のわが家は見えない。行く手の藍関は雪に閉ざされて馬も進まない。お前がやってきたのは、私を思うからだろう。この上はお前の手で私の骨を瘴江(毒気のある入江)の傍らに埋めてほしい。)

 韓湘はこの詩を袖に収めて、二人は泣きながら東西に別れていった。
 天子に諫言をしたために左遷された官吏の説話は不吉だといって講義をやめさせたのであれば、どうも短慮というよりいうほかはない。兵法の講義は実用的であるかもしれないが、疑いを招く恐れも大きいのではないか。

 それよりも問題であるのは、『太平記』は朱子学の大義名分論に即して政道のあり方を説こうとした書物だといわれているが、ここで登場した韓愈が中国における儒学の伝統を守り、宋代における朱子学の交流への道筋を開いた人物であることに注目しておく必要がある。『太平記』の作者は韓愈が憲宗の崇仏に反対して左遷されたという歴史的な事実を知っており、それを書きとどめる一方で、儒教ではなく老荘思想を信じ、実践する韓湘という身近な人物の言動を描くことで、その韓愈の儒教思想を相対化している。韓湘は韓湘子と尊称され、八仙の一人に数えられ、民間信仰の対象となっている。

 後醍醐天皇の討幕のための働きかけの経緯の中に、韓愈と韓湘の説話は唐突に挿入されている感じがするが、この説話が紹介されることによって倒幕の動きを含め、すべての人間の営為が相対化される。『太平記』全体を通してこの認識が徹底しているとは思われないが、物語の性格を考える上で無視できないものであると考えるべきである。

語学放浪記(34)

6月15日(日)晴れ
 
 サッカーのワールド・カップの一次リーグの初戦で日本代表はコートジボワール代表に1-2で逆転負けをした。後で両チームの監督インタビューを聴いていて思ったのは、日本のザッケローニ監督はイタリア語で話しているが、日本選手の大部分はイタリア語が分からず、通訳kを通しているということが不利に働かなかったかということである。コートジボワールの方はラムシ監督も選手(のおそらくは大部分)もフランス語を話す。コートジボワールにはドログバ選手という絶対的なエースがいて、後半から彼が出場したことが試合の雰囲気を一変させたことも確かだが、言葉の問題というのもあったのではないかという気がする。とはいうものの勝敗は時の運ということも言えるので、気持ちを切り替えて、第2戦、第3戦を勝ち抜いてほしい。

 英語をなぜ、何のために勉強するのかというのは教育行政関係者や教師の説明を受動的に受け止めるだけでなく、一人一人の学習者が自分なりの説明を見つける努力をすべき問題であるが、さらに第二外国語ということになると単純な努力だけでは回答が求めにくいというのが本当のところではあるまいか。私が大学に入学し、大学院を経由して就職することになるまでを過ごした1960年代~1970年代は日本の大学教育全体にとって極めて重要な意味を持つ変化が進行した時代であり、大学における外国語教育を考える上でも無視できない出来事が起きていた。問題はそのような変化に対して適切な政策がとられたかということであって、現在から振り返ってみると必ずしも肯定的な回答は求めにくいのである。

 大学教育が直面した問題の一つは大学教育の拡大、大学の大衆化ということである。大学教育を経験した人口が拡大することは、世間一般の知的水準が幾分かは高まる結果を生み出すという側面と、大学生の質的な水準の低下や大学教育の劣化という側面の両方が予期できるわけで、大学教育の改善のための真剣な取り組みが求められるはずであった。1960年代後半の大学における学生の抗議行動の激化はこのような事態を反映するという側面もあったのだが、どうも関心は大学の経営の方に向けられて、教育活動には十分な注意が向けられなかったようである(自主ゼミというような試みはあったが、教育方法の根本的な改革の取り組みとはいいがたいものであった)。

 外国語教育についてみると、大学の大衆化は第二外国語どころか、英語も怪しい大学生が増えてきたという風に理解してよい。ところが、これについて適切な対策が取られたとは考えにくい。英語ができないことについては大学で厳しく教えてもよいし、学外の英語教育機関と連携して教育を強化してもよいが、そういう試みが広がるのはもっと後になってからのことではなかったか。もう一つ注意してよいことは、1970年代に入るとコンピューターが普及して、そのことによってさまざまな言語の中での英語の重要性が増したということである。これらの変化にもかかわらず、大学生には第二外国語の履修が求められ続けた。英語以外の外国語を使いこなせることは理想としては望ましいが、現実的な困難は増していたのである。

 大学院時代の後輩の1人が私立の高等学校で教えていて、その中に学校の成績は悪いがスポーツでは全国レベルの名選手というのがいて、東京6大学の1つに入学できた。それで後輩に向かって「先生、ドイツ語の辞書は何を使えばいいんですか」と聞いてきたというのである。辞書というのはそれを専門に使うことになるとすぐにボロボロになってしまうもので、私の場合、英和辞書を何冊ボロボロにしたかわからないほどである。しかし、しっかりと製本されている辞書が多いし、使わないということになると全く使わないので、長持ちがするものもある。何が言いたいのかというと、大学で1~2年第二外国語を勉強して、後は使わなくなる辞書を買うというのはあまり合理的ではないということである。教師の側では最初の1年くらいは辞書を使わずに勉強できるようなシステムを考え、学生の側では先輩が後輩に辞書を譲るというようなシステムを作っておけば良いのではないかという気がする。逆にやる気のある学生は最初学習辞典を買って勉強し、それから本格的な辞典を買いそろえていけばよい。その間に辞書がボロボロになるほど使い込む可能性も考えれば、これまた不要になった辞書を先輩や友人から譲ってもらうことも考えた方がよいのかもしれない。

 辞書だけでなく、教材についても考えるべきことは少なくない。英語についても、英語以外の外国語についても言えることではあるが、様々な専門領域に対応した教材を使って教えるというような工夫がなされてよかった。日本の大学生のかなりの部分、特に文科系の場合は自分の専攻領域が何であろうとあまり関係のない就職をするし、企業の方も専門的な能力よりも一般的な能力の高さを求める傾向があったので、大学の外国語教育の教材の選択についての配慮があまりなされず、文学教材中心の傾向が続いたことも問題ではあった。

ブルージャスミン

6月14日(土)晴れ

 渋谷BUNKAMURAル・シネマ2でウディ・アレン監督の『ブルージャスミン』を見る。

 ニューヨークで何不自由もない豊かな生活を送っていたジャスミンは突然すべてを失い、サンフランシスコに住む妹のジンジャーのもとに身を寄せることになる。無一文になったはずなのにファースト・クラスの航空席に乗り、隣に座り合わせた老女に身の上をぺらぺらと語る。老女の方は全く物語を聞くつもりはなかったというのである。

 映画はその後のジャスミンの身の上の成り行きと、彼女がそれまでのセレブ生活をなぜ失ったかという過去の物語とを並行して語ってゆく。ジャスミンは本名ではなく、もともとはジャネットという名であったこと、ジンジャーとの血縁関係はなくて、2人とも里子であったのだが、遺伝子が優秀であるジャスミンの方が里親にかわいがられていたために、早くジンジャーが家出していたこと、ジャスミンが大学を中退して結婚し、そのためしっかりした学歴も職歴もないままであること、夫というのが株式と不動産の投資で怪しげな稼ぎを繰り返しており、ジンジャーと前の夫が宝くじであてた20万ドルを元手に起業しようと相談を持ち掛けたときに、怪しい投資を勧めてその金を失わせていたこと、ジャスミンに隠れて夫が浮気を繰り返していたことなどが過去の物語として語られる。

 ジャスミンは妹の新しい恋人が持ってきた歯科医師の受付の仕事をしながら、コンピューターの講座に通い、そこで知り合った女性の勧めでパーティーに出かけて野心的な外交官と知り合い、再起のチャンスをつかむ。同じパーティーでジンジャーも新しい相手に出会ったかに見える。

 ジャスミンはブランド品で身を飾る一方で精神安定剤を切らしたことがなく、その一方でアルコールも常用している(かなり危険な状態である)。独り言を言う癖があり、何かあると震えが止まらなくなる。ジンジャーの新しい恋人の友達からも、勤務先の歯科医師からも言い寄られるのだが、相手にしない。適当にじらしながら、気持ちをつなぐということができない(そういうことができる相手からは言い寄られないということなのかもしれない…)。ジンジャーの方はスーパーで働いて2人の子どもを育て、血のつながらない姉のことを何かとかばうだけの逞しさを備えている。セレブだったジャスミンの夫の浮気についてみぬいて忠告をするし、再起についてもいろいろと援助をする。

 考えてみるとウディ・アレン監督の作品を40年以上の期間にわたって同時代的に見続けている。何を置いても彼の作品を見るというような熱心な観客ではないが、その才気には敬意を払ってきたつもりである。初期の作品に比べて発想の奇抜さのようなものがなくなったかわりに、現実を観察する目が鋭くなってきているように思われる。この作品ではニューヨーク(過去=東海岸)とサンフランシスコ(現在=西海岸)とが対比して描かれている。観客の側ではサンフランシスコには独特の魅力があるという印象をもつ一方で、ヒロインは西海岸を恋しがっている様子である。テネシー・ウィリアムズの舞台劇を映画化した『欲望という名の電車』によく似た物語の展開なのだが、アメリカの社会に消費者原理が浸透する中で、人々の精神の荒廃が進行していることが物語に新しい雰囲気を与えている。あまり同情できないような性格と個人史をもっているヒロインであるが、自分の見たくないものを見ないというだけでなく、なかなか気づきにくくなっているところにちょっとしたかわいさも覗かせているというのは同情的過ぎる観方であろうか。疑獄事件にかかわった政治家の夫人がそのことを理由として離婚する例はないが、夫の不倫については騒ぎ立てるのはなぜかという疑問を佐藤愛子さんが取り上げていたが、ジャスミンの場合も同じようなものであるのはどういうことであろうか。目に見えて浮き沈みの激しい(というより物語の中でどんどん沈んでいく)ジャスミンを演じているケイト・ブランシェットがこの作品でアカデミー主演女優賞を得たというのも肯けるところではある。

100分de名著『遠野物語』(2)

6月13日(金)晴れたり曇ったり、一時雷が聞こえた

 大学に入学して間もないころ、柳田の『遠野物語』の角川文庫版を買ってきて読んだことを思い出す。小学校時代、戦後教育の展開の中であたらしく設けられた教科である社会科に期待を寄せた柳田が中心となって編纂した教科書を使っていたか、身近でこの教科書が使われている環境にいたか、詳しいことは記憶にないが、とにかく、柳田が尊敬すべき学者であるという意識を身につけていた青年として当然の読書であった。

 詳しい内容は記憶にない一方で、ひどく感動したという印象が残ったのは、結局柳田の文章に引きずられたのであろうと思う。石井正己教授を中心とする今回の番組でも柳田の文章の力について強調している。
 此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。…鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり」(16ページ)と『遠野物語』序文に記されている。方言の抜けない語り口の佐々木の語る物語をそのままに記したのではなく、「強い感受性をもって、精魂込めた文章による作品を主体的にまとめた」(18ページ)のである。

 柳田が選んだのは、雅文調の文語体であり、これは既に流行遅れになりかかっている文体ではあったが、この文体は物語の対象とする出来事を記すのにふさわしいものであったことも否定できない。(この当時の報道文の類が「漢文脈」で書かれていたことについては齋藤希史さんの研究があるのは、既に取り上げたとおりである。日記や覚書の類はこの時代にあっても文語体で書かれるのが普通であったのではないか。) 過去の出来事を記す際に、自分で見たのか、それとも伝聞なのか、それらのことを精妙に書き分けることができるのが文語文の特徴である。

 物語には、柳田が遠野を訪問した時のことも記されている。彼は実際に遠野へ行くことで、佐々木に聞いた話の基盤を眼前の光景から探ろうとしたのであろう。「しかし、神々はもちろん、妖怪や幽霊も登場しません。佐々木の語った話の世界はきわめて精神的なものであり、旅人がみた現実の遠野の風景の間には大きな落差があったのです」(23ページ)。

 にもかかわらず、柳田は自分が目で見た光景よりも佐々木から聞いた物語の世界こそが事実だという。『遠野物語』の世界では嘘か本当かという二分法は成立しない。生と死との境界すらも曖昧である。死者と交流したり、死の世界との境界を超えて往来したりできる、そうした事柄についての語りを否定せずに受け止める精神的な世界が現実のものとして示されるのである。

 「ここにはおそらく自然主義に代表される、同時代の文芸に対する批判がこめられています」(25ページ)と石井さんは論じる。都市の住人である作家たちの描く日常の卑近な題材よりも、農村のごく普通の人々が語り継いできた世界の方がはるかに現実的であり、普遍性をもつのではないか――という批判だという。藤村の『夜明け前』を読んでみれば明らかなように、自然主義の作家たちが直面した現実というのは固有の過去の集積を背負ったものであり、石井さんが論じるほどに軽佻なものではないと反論できることを指摘しておこう。

 それでは、『遠野物語』で語られる「目前の出来事」「現在の事実」とはどのようなものか。番組ではまず旧家で祀られているオクナイサマという神様が田植えの際に小僧の姿で手伝ったという話(15話)を取り上げている。神様が小僧の姿で田植えを手伝うというのは合理的な精神からすればありえないことであるが、神像の腰から下が泥にまみれていたという「事実」がこの話が本当にあったことの証拠となっている。しかも、この神像は現存しているのである。

 『遠野物語』には一方で58話で紹介されているような「河童駒引」(番組とテキストでは言及されていないが、この問題をめぐっては石田英一郎の名著がある)の説話が、他方で旧家の女性が河童の子どもを産んでしまい、それを殺して埋めた(55話)、捨てた(56話)という説話が収録されている。後者ではいったん捨てた子どもを売って見世物にしようかと思いなおすという貨幣経済の時代の新しい心性が現われている。石井さんはこれらの物語が「子殺し」「間引き」の記憶を背景にして成立しているという。前回、『遠野物語』についての泉鏡花の論評について触れたが、若い女性が恋人に化けた狸の子どもを産んだという落語があって、河童と狸の違いはあるが、この種の説話が農村に固有のものではないことも考えられてよかろうと思う。

 柳田が子どものころに子どもを間引いた母親が奉納した絵馬を見てなぜに農民は貧なるやという問いを発し、それが生涯の問いになったという話はよく知られている。現代にあっても、少子化が問題にされる一方で、若者の生活、特に子育ての上での困難が政策の課題として十分に取り組まれているとはいいがたいし、家族が抱えている深い闇の部分というのは依然として残っているようである。『遠野物語』はある農村で起き、語り継がれてきた出来事を(必要な部分については固有名詞を伏せてはいるものの)そのまま語っている。柳田が村をめぐる否定的な出来事までも詳しく書いてしまったことを配慮する発言をしている一方で、佐々木はこの書物によって遠野が有名になったことを喜ぶ趣旨の手紙を書いている。石井さんはそれぞれの立場がこの書物の性格と深くかかわっていると指摘している。つまり、この書物を理解しようとする際に、一方をとり、他方を捨てることはできないのである。

 大学入学直後に『遠野物語』を読んで「感激」したにもかかわらず、私の大学生活は柳田とはあまり関係のない方向に展開した。わずかに、このテキストで触れられている(実際の放送では省略された)1958年に遠野にフィールド調査に出かけた2人の研究者、加藤秀俊先生と米山俊直先生の両方の授業に出たくらいのところである。とはいうものの、両先生とも、授業の中で遠野での調査については語られたことがなかった(先生というのは自分の知識や経験のすべてを語るものではないから、教わる側でもそれなりに勉強して、うまく話を聞きだす努力をすべきなのである)。

100分de名著『遠野物語』

6月12日(木)晴れたり曇ったり、時々雨

 NHKのEテレの番組『100分de名著』では6月に柳田国男の『遠野物語』を取り上げるということを6月になってから知り、テキストを買い求めて6月11日の昼(12:25~12:50)の再放送で第1回「民話の里・遠野」を、夜(23:00~23:25)に第2回「神とつながる者たち」の放送を見た。タレントの伊集院光さんと、武内陶子アナウンサーの2人の司会者が東京学芸大学の石井正己教授を迎えて話を聞くというスタイルの番組で、テキストを手元に置かなくても十分に内容が伝わるが、テキストに書かれていて放送では省略されてしまった部分もあるので、やはり買っておいてよかったと思った。

 書物の舞台となる遠野郷は陸中(岩手県)の山に囲まれた小盆地で、江戸時代には遠野南部家1万石の城下町であった。それで「盆地底には人と物、情報が集散する城下町があり、周囲の平坦地には水田が広がり山裾の丘陵地では畑や果樹園が営まれ、背後の山に入れば狩猟採集が行われています。地形と対応して、外側から中心へと、狩猟採集の縄文時代稲作の弥生時代、商工業の発達した江戸時代の文化がそれぞれ息づいているのです。…つまり、小盆地という空間に、縄文から近現代までの時間が凝縮されて堆積しているのです」(12ページ)と、この土地の伝承の性格が、地域の性格と結びついてきて形成されてきたことが指摘されている。

 明治41(1908)年の11月4日に、当時33歳だった柳田のもとに、知人である新人作家水野葉舟(1883-1947)が「珍しい男がいますよ」と、柳谷妖怪の話を聞かせようと佐々木喜善(1886-1933)という青年を連れてくる。佐々木は遠野の出身で鏡石と号し(この号は泉鏡花にあやかったものである)、最初哲学館(現在の東洋大学)に学び、その後早稲田に転じた文学青年であり、柳田は農商務省に務めてエリート官僚の道を歩みながら、全国各地を旅行して民俗学研究のもととなる調査活動を積み重ねていた。

 その日の佐々木の日記には、「水野が来て、共(ともども)柳田さんの処へ行った。お化話をして帰って」とある(14ページ)。小説家を志していた佐々木は自分の語った話を当時流行の怪談の一種と認識していたようである。これに対して柳田の手帳には「水野は舟、佐々木喜善二人来て話、佐々木は岩手県遠野の人、その山ざとはよほど趣味ある所なり。其話をそのままかきとめて「遠野物語」をつくる」(同上)と記されていた。そしてすぐに物語の草稿の執筆に取り掛かっている。

 石井さんは、話し手と聞き手との間に少なからぬ認識のずれがあったことを指摘し、そのずれを重視している。そのずれによってこそこの物語が「既成の枠組みに収まらず、時代の文脈からも切り離された、それ以前にもその跡にも類例のない、ある意味では孤高のテキストになっていったのだろうと思います」(15ページ)と論じている。『既成の枠組みに収まら』ないかどうかを判断するだけの学識は私にはない。また『遠野物語』を「時代の文脈」に結び付けて解釈する見方にも接してきたことも付け加えておこう。

 柳田は佐々木からの聞き書きに加えて自身も遠野を訪問し、明治44(1911)年6月に『遠野物語』を自費出版する。350部という限定された部数のうち、親類や知人の作家や研究者に贈った残りが販売された。柳田の文学仲間であった島崎藤村や田山花袋らが否定的な評価をする一方で、わずかに2人だけが高い評価を与えた。その2人(この部分は放送では省略されていた)とは芥川龍之介で、もう一人は泉鏡花であった。鏡花は「柳田の筆力を大層ほめながらも、一方では、女性の叫び声などは山中ばかりでなく、都会でも聞こえると批判しました」((16ページ)。この鏡花の批判には注目すべきものがあり、柳田の農山村へのこだわりを批判する際に思い出されてよいものではないかと思う。(ただ、この当時の都会というのがまだまだ自然との距離の近いものであったことにも留意すべきである。)

 柳田はこの物語は佐々木から聞いた通りのことを記したのだと序文に記している。佐々木が上京して哲学館に入学したのはこの学校の創立者である井上円了(1858-1919)が妖怪学という学問を講義しているからであったが、井上は近代合理主義の枠組みの中で妖怪を科学的に説明しようとする立場であったので、不可思議な現象に興味のあった佐々木は幻滅してしまう。ところが、柳田は不可思議なことをそのまま認めてくれるところがあり、そこで2人の間には共感できる関係が築かれたのではないかと推測される。

 以下、『遠野物語』の文体の特徴とその内容との関係について詳しく論じられているが、それは次回に残しておくことにしたい。放送の中で、武内アナウンサーが「やなぎた」、石井教授が「やなぎだ」と発音していたのが面白かった。「やなぎた」の方が正しいということだが、それは末梢的なことではないかと思う(しかし、私は漢字になってしまえば同じことだと思いながらも、<やなぎた>と入力している)。 (続く)

垂水雄二『科学はなぜ誤解されるのか わかりにくさの理由を探る』(2)

6月11日(水)曇りのち雨、時々激しく降る

 5月26日の当ブログで2部5章からなるこの書物の第Ⅰ部の内容を紹介したが、ダ―ウインの進化論が受けてきた誤解について論じた第4章と、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」が受けている誤解について論じた第5章は(とくに後者に)なかなか歯が立たず、そのままになっていた。この書物の第1章に「日本でも最近、降圧剤バルサルタンの臨床試験に関して京都府立医大ほかでなされたノバルティスファーマ社がらみの捏造論文が話題になった」((17ページ)と記されている事件をめぐり、新しい動きがあったというニュースがテレビで報道されたのを見たこともあり、いつまでも放置しておくわけにはいかないだろうと思って、自分の能力の許す限りで、わかったこと、考えたことを書いておこうと思う。

 ダーウィンの『種の起源』が出版されたのは1859年であったが、2009年にギャラップ社が行った世論調査によると、アメリカで進化論を信じる人は40%しかいなかったそうである。神が生物の種を創造したという考え方こそ、ダーウィンが打倒しようとした大きな目標であったのだから、アメリカについてみるとこの書物の目的は達成されていないことになると垂水さんは書いている。

 『種の起源』は当時支配的であった「すべての種をひとつひとつ神が別々に創造された」という個別創造説に異議を申し立てようとする書物であった。「個別創造説は当時の支配的な自然観であった自然神学の根幹をなすものである。それは…物理現象を含めた自然の秩序、生物の精巧な体のつくりや驚くような本能といったことのすべてに、カミの設計(デザイン)が現われているという主張(argument from desigen=目的論的証明、デザイン論とも訳される)である。啓示や奇跡が神の存在の証だとする啓示神学と異なるのは、理性によって神の存在を証明できると考える点である」(116ページ)。『19世紀前半の英国で、…ほとんどの科学者は、この自然神学を信奉し、自然の法則を明らかにすれば神の存在を明らかにできるという宗教的信念に衝き動かされて研究していた」(117ページ)。

 そこで世界のすべての動植物を記載して一定の秩序のもとに配列することが神から与えられた生物学者の使命だという考えから、幾人もの若く優秀な生物学者が辺境への探検旅行へと派遣されることになる。ダーウィンもその1人であったが、彼はビーグル号による世界周航から帰国したころ、種の普遍性に疑いを抱きはじめる。「ガラパゴス諸島から持ち帰った鳥類の同定を依頼していたジョン・グールドから、フィンチやマネシツグミが島ごとに異なる別種な意思変種だという報告を受けたのが契機となったらしい。1つの島ごとに種がそれもきわめて近縁な種が個別に創造されるなどということは理屈に合わない。ダーウィンはひそかに転成(トランスフォーメーション)説(種が変わるという広い意味の進化論)への転向を決意する」(119ページ)。

 ダーウィンの時代には遺伝学も生態学も発生学も学問としての形を成していなかったと垂水さんは指摘する。そうした中で種が変わることを誰にでも信じられるように立証していくことはきわめて困難な作業となった。「しかし彼は、現在読んでも色あせない緻密で種が変わることを論証していく。家畜栽培の実践、形態学、個体発生、分類、化石、地理的分布について知られていることはすべて、種は変わるという視点から考えれば、ことごとく説明がつき、腑に落ちることを縷々語っていく」(120ページ)。

 ダーウィンは多くの著作を残したが、『ビーグル号航海記』と『種の起源』は広く読まれている。垂水さんは『種の起源』はあまり読まれていないと書いているが、かなりの版を重ねているし、私も内容はあまりよく憶えていないが、読んだことはある(垂水さんが問題にしているのは、こういうこと=一応目を通したけれども、内容を正確に理解しえた人は少ないということではないかと思う)。それでも、イヌに比べると、ネコは品種の違いが目立たないのはなぜかというような身近な疑問に対する回答が準備されている個所があったことは覚えている。

 一方『ビーグル号』は博物誌的な関心から多くの読者を獲得した。博物誌的な要素はロビンソン物語において読者の興味をつなぐうえで重要な役割を果たすが、ジュール・ヴェルヌの少なからぬロビンソン物語のひとつである『神秘島の冒険』の中にこの書物からの引用がみられるのは、特に注目に値する例である。

 これからしばらく時間をかけて、この書物の内容についてさらに取り上げていきたいので、よろしくお付き合いください。 

日記抄(6月4日~10日)

6月10日(火)曇り

 6月4日から今日までの間に経験したり、考えたりしたことから:
6月4日
 用事があって本郷郵便局に出かけ、その帰りに東京大学の前を歩きながら、杉浦茂の漫画の中に登場したギャグを思い出していた。<たんめん老人>という名乗りの由来が杉浦茂の漫画に登場する<焼きそば老人>にヒントを得ているという程度に、私は杉浦が好きなのである。
 正義のヒーローの手で、悪いことをするために作っていた発明品を壊されてしょげかえる悪役の科学者に向かってその子分の1人が言う:
 また、新しい機械を作ればいいじゃないですか。ボクが手伝います。
 もう1人の子分がお前に手伝えるのか?と聞くと
 こう見えても、ボクは東大の…
 えっ、東大を卒業したの?
 前を通ったことがあるんだぞ。
 変なの‼

 杉浦は田河水泡に弟子入りする前には洋画家を志しており、1930年に「夏の帝大」(帝大=現在の東大)という作品で第11回の帝国美術院展覧会(現在の日本美術展覧会)の洋画部門で入選しているそうである。「前を通る」どころか「中に入って絵を描いた」ことがあるのだが、子ども向けには「前を通った」というほうがわかりやすいだろう。

6月5日
 NHKラジオまいにちイタリア語応用編「イタリア:24の物語」ではナポリを取り上げた。そのすばらしさから「ナポリを見て詩ね!」(Vedi Napoli e poi muori!)といわれている一方で、この都市の無秩序さのゆえに「ナポリを見ると死ぬ」(Se vedi Napoli, muori!)という冗談も囁かれてきたという。

6月6日
 70年前のこの日(1944年6月6日)に連合国軍がノルマンディー上陸作戦を成功させた。NHKBSプレミアムではこの一部始終をドキュメンタリー風に再現した『史上最大の作戦』(The Longest Day, 1962)を放映した。多数の出演者を豪華に並べているが、それぞれの個性があまり引き立っていない。その意味ではルネ・クレマンの『パリは燃えているか』の方がまだ出来がよかったと思った。作戦の成功を描く映画であるにもかかわらず、観ていて「戦争は嫌だ」という気分が強くなる。
 この映画を意識して、イタリアでは『地上最笑の作戦』(Il Giorno Piu Corto, 1962)という映画が作られた。「最も長い日」に対抗して、こちらは「最も短い日」と題され、第一次世界大戦を舞台にした喜劇映画である。テレビで部分的に見ただけだが、こちらの方が面白かったという記憶がある。出演者の1人であるヴィルナ・リージが一番きれいなころの映画だという意味でも、もう一度見てみたいと思っている。

6月7日
 サッカーのW杯に向けての日本代表とザンビアとの対戦を途中からTVで見ていた。点の取り合いになったが、最後に大久保選手がゴールを決めて4-3で勝利。

6月8日
 シネマヴェーラ渋谷で野村芳太郎監督の作品を見るついでにチラシを集める。6月24日~9月7日まで東京国立近代美術館フィルムセンターで増村保造監督の作品の特集上映が行われる。上映作品のうち『陸軍中野学校』「『好色一代男』『華岡清洲の妻』は角川シネマ新宿で開催される(市川)雷蔵祭でも上映される。

 岩波文庫の丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読み始める。「(政治学の)祖先であるプラトンやアリストテレスの政治学の背景にはギリシャ民主政の絢爛たる展開があり」、「イタリーにルネッサンスの華が咲きこぼれたとき、そのさきがけをなしたフィレンツェ自由都市のあのはつらつとした雰囲気の中で、マキアヴェリの『君主論』や『ディスコルシ』が現われて近代的政治学の礎をきずいた」(16ページ)というように、政治的自由と民主主義が政治学の発展の土台となっていると論じる文章は美しいが、性急に丸呑みするわけにはいかない。プラトンやアリストテレス、マキアヴェリが直面した現実をもう少し詳しく掘り下げてみる必要があるのではないかと思った。

6月9日
 林隆三さんが亡くなられていたことが分かった。代表作の1つ『竹山ひとり旅』(1975)はその年のベスト・ワンに選んだ、印象に強く残る作品である。個人的には林さんよりも乙羽信子の演じている母親の方の記憶が強いのだが、いずれにしてもご冥福をお祈りしたい。

 NHKBSプレミアムで小林旭主演の『赤い夕陽の渡り鳥』(斎藤武市監督)を見る。『渡り鳥』シリーズ第4作、第2作である『ギターを持った渡り鳥』を5月26日に同じ時間帯の放映で見ている。『ギター』の舞台が函館であったのに対して、こちらは福島が舞台である。西部劇風のストーリー、小林旭、浅丘ルリ子、宍戸錠というトリオは不動。悪役が経営するクラブ?のままを演じているのが『ギター』では渡辺美佐子、『赤い夕陽』では楠侑子で、この2人は同じ劇団(新人会)に属していた時期がある。18世紀ドイツの劇作家レッシングの代表作『ミンナ・フォン・バルンヘルム』を日本で初めて上演した際に、ヒロインの恋する貴族令嬢ミンナを演じたのが楠、その侍女のフランツィスカを演じたのが渡辺であった。なお、ミンナの恋の相手である士官のテルハイムの従僕ユストを演じていたのが小沢昭一であったと記憶する(舞台を見たわけではなく、岩波文庫の『ミンナ・フォン・バルンヘルム』の解説に初演の際の出演者が記されていたのである)。

6月10日
 日本テレビの朝の番組『PON!』で澤穂希選手がスペイン語を勉強中だということが紹介されていた。ちょっとしゃべってみてくださいといわれても遠慮していたので、まだまだ始めたばかりということではないかと思う。

大プリニウスと『博物誌』

強調文6月9日(月)曇り

 6月6日(少し時間がたってしまったが)のNHKラジオまいにちイタリア語応用編「イタリア24の物語」はポンペイを取り上げ、紀元79年8月24日に起きたヴェスヴィオ火山の噴火の際に
Si imbarca per andare salvare amici e per osservare l'eruzione.(友人たちを救いに行き、噴火を観察すべく船に乗り込む
)という英雄的な行為の結果、命を落としたローマの海軍提督であった大プリニウスの最期について取り上げた。その最期の様子は甥である小プリニウスが友人であり、大歴史家のタキトゥスにあてて書いた書簡によって推測できる。同朋への愛と自然現象への好奇心のために命を落とした大プリニウスはその後、多くの人々から英雄視されることになる。

 ストア派の哲学を信奉していた彼は自然法則に従って生きることが最も徳の高い生活であると信じていた。彼が暇を見つけては読書と著述に励み、自然現象をめぐる記述を抜き書きして、その成果である大著『博物誌(Naturalis Historia)』を遺した。自然界の法則と人間世界の道徳律を結び付けようという企ては長い哲学の歴史の中の相当部分を占めるが、そうそう簡単に両者が結びつくわけのものでもないのである。

 大プリニウスの『博物誌』はヨーロッパの古代・中世を通じて百科全書的な役割を演じた。しかしその内容の信憑性については怪しいという意見が少なくない。以前、当ブログでもその一端を紹介した白上謙一の『ほんの話』の中に、この書物が小栗虫太郎(1901-46)の『黒死館殺人事件』(1934)の中で果たしている役割を述べた個所がある:
 「奇怪な連続殺人事件の起こる降矢木家の建物は中世魔術や古代医学史の宝庫である。名探偵法水麟太郎はその書庫をおとずれ、1676年ストラスブルグ版プリニウスの『万有史』30巻にはじまり中世医書、古代密教、魔術書、錬金術書、犯罪心理学等、3頁にわたる書目にうっとりと眺め入り、おそらくはこの家の内に住む犯人の底知れぬ学識に対して、しずかな闘志を燃やすのである…プリニウスの『自然誌』は1469年ベネチアで初版が出ており1601年にはすでに48版を重ねているという。原典は37巻であるが印刷では8冊くらいにまとまっているらしく、『1676年版の30巻本』などとというのは恐らくあるまいし、あっても特に珍しいものとは云えないかもしれないのである。しかし古代百科事典の完本として法水が嘆声をあげたというような記事のたのしさは少しも減らないのである」(白上『ほんの話』、社会思想社:現代教養文庫版、115-6ページ) それにしても『万有史』、『自然誌』、『博物誌』と様々な訳し方がされているが、それぞれに著作への解釈が透けて見えるところがあり、それぞれの訳し方についての説明が求められるところである。

 私などは「ストラスブルグ」というところにこだわってしまう。フランス語流で読めば≪ストラスブール≫、ドイツ語流では≪シュトラスブルク≫となるはずである。白上は小栗の小説によって新しい世界に導かれた思い出について懐かしそうに語る。彼の小説が『新青年』に掲載されたのに、同時代的に付き合うことができた白上の読書環境のすごさからも目を離さないようにすべきである。

 ポンペイについては、現在新たに『ポンペイ』という映画が公開上映中である。19世紀前半の英国の社会改革的な活動家であり、作家でもあったバルワー=リットン卿の小説『ポンペイ最後の日』は6回映画化されたそうで、1960年に製作され、クリスティーネ・カウフマンが主演した作品はTVで見ている。噴火によって生じたパニックだけでなく、キリスト教徒への迫害などいろいろな問題を盛り込んでいたと記憶する。今回の映画化はこの小説を原作とはせずに、全く別の設定になっているようであるが、噴火とロマンスを結び付けるという趣向は変わっていない。キリスト教の影響の後退も注目すべき特徴かもしれない。

 バルワー=リットンだけでなく、19世紀を通じてローマ時代におけるキリスト教迫害の歴史を描いた小説や歌劇が多く作られたが、それはナショナリズムや社会改革の訴えを、歴史的・宗教的な仮装にまぶして間接的に表現するものであったかもしれない――ということで、もう少し実例に即して考えてみようと思っているところである。

『黄色いさくらんぼ』『モダン道中 その恋待ったなし』

6月8日(日)雨

 シネマヴェーラ渋谷で「野村芳太郎監督特集」の中から『黄色いさくらんぼ』(1960)、『モダン道中 その恋待ったなし』(1958)の二本立てを見る。松竹のエース格の監督として様々な作品を遺した野村の特集であり、見たい作品は少なくなかったのだが、なかなか都合がつかず、これだけは見に出かけようと何とか出かけてみた次第。ともに野村とともにその愛弟子の山田洋次が脚本を書いている喜劇であり、この師弟コンビのその後の作品との関連で興味がもたれる作品ではないかと思ったのである。野村はサスペンス映画の傑作も残しているが、私としては喜劇の方に興味がある。

 『黄色いさくらんぼ』は当時流行した浜口庫之助の歌をもとに作られた作品。なぎさ、笛子(ピーコ)、サヨリは同じ女子大学に通う仲良し3人組、なぎさには建築士の恋人がいて、結婚資金をためるために夜のアルバイトをしている。特に熱心に通っている客というのがどうも笛子の父親らしい。その笛子は通学途中の電車で乗り合わせた学生を痴漢と間違えてそのズボンを着るが、間違いが分かって仲直りをする。ところがその学生が父親の部下の息子であることが分かる。なぎさの恋人は熱海の建築現場で働いているのだが、笛子の父から熱海行きを誘われる。そこで笛子を誘って熱海に出かけようとするが、サヨリもついてくるという。一方、恋人というのが現場の作業員や地元の人たちとすっかりなじんでいて、特に人気のストリッパーから慕われている。彼がどの女性を選ぶかをめぐり、作業員の間でけんかが起きたりする…

 歌、お色気、笑という映画の3要素を、なぎさ=芳村真理、笛子=九条映子、サヨリ=国景子という3人の女優がうまく分担して表現できればよかったのだが、成功しているとは言えない。篠田正浩の『乾いた湖』でも女子学生役を演じていた九条映子の演技に見るべきものがあるだけというのは厳しい評価であろうか。

 『モダン道中 その恋待ったなし』は、銀行員の松夫が懸賞に当たって東北・北海道旅行に出かけるが、記者の中で出会った自動車修理工の竹彦と意気投合し、一緒に旅行を続けることになる。旅の途中であわよくば人生の伴侶を見つけようというつもりで、松夫はロマンチックな恋を夢み、竹彦はより現実的な恋を求める・・・という設定がそもそもあまり現実的ではない。飯坂温泉で2人は泥棒の常習犯とそれを追いかけている刑事に遭遇、この2人組に旅の最後まで付き合うことになる。松島で令嬢風の美人とその妹に出会い、最初の印象はよくなかったものの2度、3度と会ううちに松夫の方が彼女と惹かれあう。十和田湖に向かう途中で松夫は彼女に再会するが、若い男の連れがいるので気おくれしてしまう。いったん別行動をとった松夫と竹彦は弘前の街で再会、乗り合わせた円太郎馬車の御者をしている若い娘に竹彦は心惹かれる。

 松夫が佐田啓二、竹彦が高橋貞二、令嬢風の女性が岡田茉利子、御者の娘が桑野みゆきということで配役だけで結末が見えそうな感じであるが、東北・北海道の名所の風景を織り込み、泥棒と刑事の追跡劇、恋敵の介在、岡田茉利子(映画のナレーションもしている)の本当の姿など、波乱含みで最後まで物語を引っ張っている。円太郎馬車はこの時代でもすたれかけているという描き方がされているが、その当時は普通に利用されていた蒸気機関車、青函連絡船も今や姿を消してしまった。寝台列車も次第に廃止されてきている。映画が捉えている同時代の風物に懐かしさを感じさせられる一方で、映画が作りものであって現実そのものではないという作者の側のこだわりも感じられる。飯坂温泉の場面で「ここまでがロケーションでここからがセットです」というナレーションが入るが、これは山田洋次監督(当時は助監督)が言わせていたのではないかなどと考えていた。

 旅行中、松夫と竹彦は深酒をしてはそのたびに二日酔いに苦しむ。これは当時の映画人の日常そのものだったのかもしれず、2人を演じている佐田啓二と高橋貞二も例外ではなかったようである。横山隆一が小津安二郎の思い出を語る中で、小津さんは一流好みの人だったので、酒を飲もうと誘う時の使者に佐田啓二を寄越すんですよ、といっていたのを思い出す。野村のこの作品を支配している遊び心もそのような流れにつながるものとして評価すべきであろう。

『太平記』(3)

6月7日(土)雨

 昨夜ゆっくり休んだことで大分体調が回復した。大雨になったので、終日閑居。

 『太平記』の続き:
 北条高時の失政によって鎌倉幕府の勢威に翳りが見えたころ、文保2年(1318)年に31歳で即位された後醍醐天皇は、記録所を再興するなど意欲的に政務に取り組まれ、すぐれた皇子にも恵まれて朝廷の政治が回復する兆しが見え始めた。

 天皇は中宮の嬉子に皇子が生まれないことから元享2(1322)年ごろから各寺院の有力な僧侶たちを呼び寄せて、中宮懐妊の法を行わせられた。その中でも特に天皇から信頼を受けていた僧侶は法勝寺(天台宗)の円観上人と、山科の小野の隋心院(真言宗)の文観僧正であった。法を行う様子を見ているとどんな困難も克服できそうに思われたが、中宮のご出産の様子はない。後でわかったことであるが、ご懐妊を祈るというのは口実で実は討幕の秘法を行っていたのである。当事者も、『太平記』の著者たちも僧侶たちの法には効果があると信じていたように思われるが、これからの物語の展開を見ていくと、必ずしも効果があったと思われない場面も出てくる。そのあたり、中世の人々が本当のところどのように考えていたのか興味が持たれるところである。

 倒幕という重大事を決心されていた天皇であるが、それだけに本心を打ち明ける相手を慎重に選ばれていた。ひそかにその志を伝えられたのは日野中納言資朝、(日野)蔵人右少弁俊基、四条中納言隆資、(花山院)尹大納言師賢、平宰相成輔だけがその相手であった。尹というのは弾正台の長のことをこう呼び、宰相は参議の漢名である。家柄や身分ではなく、実務に有能な貴族たちを選んでいるという感じである。このほかに、軍事力の確保のために武士や延暦寺・興福寺の僧侶たちとも連絡を取った。

 物語はまず俊基について説明する。「かの俊基は、累葉の儒業を継いで、才学優長なりしかば、顕職に召し仕はれて、官蘭台に至り、職職事を司れり」(47ページ、俊基という人物は家代々の儒学の業を受け継ぎ、学才に秀でていたので、顕職に起用されて、官は弁官(太政官の書記官)となり、実際の職務は蔵人となった)。朝廷での仕事が忙しく、倒幕のはかりごとをめぐらす暇がないので、しばらくの間引きこもって策をめぐらす機会を作ろうと考えていたところ、比叡山から訴えを伝える文書が届いた。その文書を読み上げる担当が俊基であったが、楞厳院(りょうごんいん)をわざと慢厳院(まんごんいん)と読み間違えて、居並ぶ人々に嘲笑され、面目を失ったので引き下がって籠居すると人々に伝え、半年ばかり仕事を休み、山伏姿に変装して大和、河内に出かけて、城になりそうな場所を見定め、東国、西国に下って、国の風俗や財力・軍事力の程度などを偵察した。

 さて、美濃の国(現在の岐阜県の一部)に土岐十郎頼時、多治見四郎次郎国長という武士がいた。ともに清和源氏の系譜に連なり、武勇に秀でているとうわさされていたので、日野資朝は自分たちの味方に引き入れようと近づいたが、その本心を確認するために無礼講という宴会を発案した。集まったのは貴族ではすでに名が出てきた尹大納言師賢、四条中納言隆資、蔵人右少弁俊基の他に洞院左衛門督実世、他に僧侶や頼時、国長を含む数人の武士たちである。

 「その交会遊飲の体、見聞耳目を驚かせり」(49ページ)。献杯の次第に上下のうるさいことを言わず、男は烏帽子を脱いで髷が見えるままの姿をし、僧侶はその官に応じた上着を着用せずに下着の白い衣のままであった。それだけでなく17/8歳くらいの顔かたちがよく、肌のきれいな女性を20人ほど集めて、褊(すずし)の単(ひとえ)(=練らない絹で負った、裏のない薄い肌着)だけを着せて酌をさせた。謀議のカムフラージュとしては大胆すぎる豪遊ぶりである。何度かこのような宴会を開き、その間を縫って倒幕の密議を凝らしていたのだが、世間の目をさらに欺くために文学・文章の講義を聴くことにする。その席に呼ばれたのが当時「才学無双」の評判をとっていた玄恵法師である。

 俊基が比叡山の奏状をわざと読み間違えたり、「無礼講」のような人々を驚かす宴会が開かれたりと、物語はだいぶ小説的な展開を見せ始めてきた。「無礼講」についてはフィクションではないかという説もあったが、同時代の史料で確認できるようである。倒幕の修法に加わった円観上人と、「無礼講」の席に呼ばれて講義をした玄恵法師については、『太平記』の成立に重要なかかわりをもったとする説があって、その描き方に注目する必要がありそうである。

玄関ネコ

6月6日(金)雨

 体調が悪く、映画を見に出かける予定を取りやめる。

 玄関ネコ

我が家の雄ネコ
2ニャン組
近ごろ
朝も 昼も
夜中もずっと
玄関で過ごしている

脱走を図るとか
殊勝にも
番ネコを
務めるとか
招きネコをして
我が家に福を呼び込もうとか
そんなつもりはなさそうで

ただひたすら
家の中で一番
過ごしやすいのが
玄関だと
決め込んだらしい

ネコたちにも困ったものだが
玄関が
家の中で一番
過ごしやすいというのも
困ったものだ

語学放浪記(33)

6月5日(木)曇りのち雨、時々強く降る。関東地方が梅雨入りしたと気象庁が発表した。

 6月3日のNHKラジオまいにちドイツ語入門編のWieder was gelernt!(また勉強になった)のコーナーで、Auf Englisch bitte! (英語でお願いします)という表現が出てきた。ドイツ(オーストリア)では、自国にやってくる人は多少のドイツ語ができるはずだと思っているので、相手が明らかに東洋系であってもドイツ語で話しかけてくる。そういう時に(もし、多少英語ができれば)こういうと役立つだろうというのである。これに対して、日本では白人の姿を見ると、どうしても英語で話そうとしてしまう。その外国人が日本語で話しかけてきたりしても、警戒心の方が先に立ってコミュニケーションが進まないことがあるという。

 日本人が外国語の会話を苦手とするのは、心理的なバリアがあるからではないかと考える人もいる。個人的な経験から言えば、自分が英語での会話が苦手なのは練習量の不足だと思っている。大学に務めていたころ、外国人の先生とは仲良くしていたが、ほとんど日本語で話していた。相手側の日本語の学習に協力したのだからいいじゃないかと心を慰める――わけにはいかない。

 外国語の学習を進めるのには、模範となるいい先生に出会うことが必要である。ここで先生というのには、その外国語を教えてくれる先生も含まれるが、それ以上に、外国語との接し方において自分の模範になるような人物である。たとえば柳田国男は19歳で旧制の一高に入学するが、その前に森鴎外のところに出入りして、当時はまだ30代前半であった鴎外から多くの影響を受けた。日本民俗学の父とされる柳田であるが、漢文と古文の素養に加えて、英語、フランス語、ドイツ語で書かれたフォークロアについての文献を読破し、ジュネーヴの国際連盟で仕事をし(本人の語るところでは、あまり会議で発言はしなかったらしい)、エスペランティストでもあった(国際連盟での経験が影響したのである)。このような外国語への取り組みにおいても柳田がドイツ語に加えてフランス語にも通じていた鴎外の影響を受けたと考えるのは自然なことである。柳田は鴎外が仕事盛りの30代の前半の時代に彼と接しているのも無視しがたい。

 鴎外は本業の軍医の仕事の傍ら、東京美術学校や慶応大学でも教えていたはずだが、そこで教えを受けた人の回想というのに出会ったことがない。教育というのは微妙なもので、賀茂真淵と本居宣長ではないが、一度だけの出会いが決定的な意味をもつこともあるし、長年の付き合いの中からほとんど学ぶところはない、あるいは反面教師として役立つだけであったというような師弟の例もないわけではない。ある人間にとってはいい先生であるが、他の人間にとっては太した先生ではなかったという例は身近にもよくあることである。それに教育というのは一方的な関係ではない。先日、同期会の折に恩師の一人が、生徒諸君に教えられ、鍛えられた部分が多かったことを感謝したいと語られていたのは、謙遜もあるだろうが、真実も含まれている(逆にいえば、教えることだけを考えていて、生徒から学ぼうとしない教師はだめだということである)。

 さて、外国語の教師について考えてみると、とりあえず現実的な目標を明確に示し、そしてその目標達成に向けて学習者を引っ張っていく力をもつことが求められる。現在のラジオのドイツ語、フランス語、イタリア語の各講座の入門編ではそれぞれCEFR(ヨーロッパ共通参照枠)のA1レベル程度に到達することが目標として示されていて、これはかなり現実的でもあり、具体的でもある目標といえる。

 すべての学習者が同時通訳ができるほどの水準の外国語のスキルを身につけるようにする――というのはどう考えても不可能である。特に英語以外の外国語を勉強するというのは、かなり強い理由がないと意味が見出しがたい。私が研究者を志していた時代には、アカデミズムの世界での暗黙の基準があった。大学院のころ、指導教官の1人であった先生に英語は不自由なく読み・書き・話すことができるようになるまで、ドイツ語・フランス語は辞書を引いて専門書が読めるようになるまで努力せよといわれた。これはその時代としては常識的かつ適切な指示であったと思う。(不幸にして私は英語、フランス語、ドイツ語のどれも先生が指示された域には達しておらず、だから、今もって学習を続けているというのが正直なところである)。

 ところが、もう1人の指導教官の先生は専門領域の教師の仕事は限られているが、需給関係からドイツ語の教師の職は結構見つけやすい、ドイツ語を勉強しろといわれていた。当時、ドイツ語検定というのはなかったけれども、現在の検定の目安に照らして4級か5級の力しかない私にとってこれは無理な要求であった。それに能力の低い教師に教わる学習者の迷惑も考えるべきなのである。あるいは、自分の指導する学生をドイツ研究に向かわせたかったという本心があったのかもしれないが、もしそうならば、そうだとはっきり言うべきである。(もし、学生からしたくない、できないと答えられたら、どうするかという覚悟ができていなかったから、就職の心配を絡めた遠回しのいい方になったかもしれないが…) いずれにせよ教師の間で学生の能力がしっかりと把握できていなかったり、要求水準が違ったり、意志の乱れがあることは望ましい事態ではない。そして、学生に対して非現実的な高い要求をするのも望ましいことではないと思う。ところが困ったことに、もう1人の先生の方もすっかり洗脳されてしまって、高校の社会科の教師をしていた私の後輩がドイツ語がよくできるから、その分も加味してどこかの短大に就職を世話できないかなどといっていたのは悪影響というべきである。外国語がよくできても、よい外国語教師になれるとは限らない。外国語教育法についての一定の訓練を受ける必要がある。もちろん、中にはそういう訓練の必要がない人もいるかもしれないが、念には念を入れということもある。

 それもこれも昔の話である。なかなか実力は向上しないが、自分の楽しみとして勉強を続けているのはありがたいことである。

カツカレー

6月4日(水)晴れたり曇ったり

 カツカレー

いつ頃からだろうか
カツカレーを食べなくなった
食べたという記憶がない
思い出せない

少し遅れて
大学の食堂に入り
匂いに誘われて
カツカレーを頼んで食べていたのは
ずいぶん昔のことだ

こちらが一生けんめいに
語りかけていたはずの
学生たちが少し減って
空席の増えた食堂の
端の方に席を見つけて
授業について考えたり
他のことを考えたりしながら
カツカレーを食べる
そして水を飲む

食堂に出かける時間もないほど
忙しくなったり、
食堂では議論ばかりするような
日々を過ごして
定年を迎え
大学とも
食堂とも縁が切れた

カレー専門店の前を通って
メニューを覗き
カツカレーを見つけて
なぜか安心してそのまま
通り過ぎる

疲労感と興奮との
入り混じった中で食べた
カツカレーの味を
本当には思い出せないことが
わかっているから
安心感だけ胸にしまって
店の前を通り過ぎる。

日記抄(5月28日~6月3日)

6月3日(火)晴れ後曇り

 5月28日から本日(6月3日)にかけてであった事柄、考えたことの中から:
5月28日
 近くのお寺の前を通ったら、福田行誡(1809-1888)上人の言葉が門前に張り出されていた。明治時代に仏教の復興のために尽力した浄土宗の僧侶である。この人物の名を目にすると思い出すことがある。
 大正12(1923)年から昭和18(1943)年まで『尋常国語読本』巻11に「鉄眼の一切経」という教材が掲載されていた。江戸時代の黄檗宗の僧・鉄眼が仏教の普及のために、その経典を集めた一切経の刊行を思い立ち、費用を集めるが洪水で人々が苦しむのを見て、救済事業のために散じてしまう。また費用を集めるが、今度は飢饉が起きたので、また資金を散じる。3度目にようやく一切経を刊行することができたという。物語は「福田行誡かつて鉄眼の事業を感嘆していはく、『鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり。』と」と締めくくられていて、突然、福田行誡という人物が出てくるのだが、教える側も教わる側もこの人物についての十分な知識を持っていたかどうか疑わしい。福田行誡自身も新しく大蔵経(=一切経)を刊行する意図をもっていたそうで、だからこそこのような評価を口にしたのだが、もし現在の子どもたちにこの話をするのであれば、彼の名前を出さずに、「鉄眼は一生に三度一切経を刊行したのだと、言った人がいますが、皆さんはどう思いますか」というような結び方をした方がよいように思う。

5月29日
 NHKラジオまいにちフランス語応用編「作家とともにパリ散歩」では普仏戦争下のパリ市民の苦しみをうたったヴィクトル・ユゴーの詩を取り上げた。その冒頭を引用すると
Nous manquon de charbon, mais notre pain est noir.
(われわれには石炭がない。それなのに、われわれのパンは真っ黒だ。)
物資の不足の中で、人々はパンを作るために使えそうな材料は手あたり次第用いたので、パンは「真っ黒」になったのだという。ユゴーはロマン主義を代表する文学者とされるが、ここでの描写はきわめて写実的である。どんな思想を表現する場合にも、写実を忘れてはならないと改めて考えさせられた。

5月30日
 NHKラジオまいにちフランス語応用編「作家とともにパリ散歩」では1871年5月28日に労働者政権を支持する人々によって焼き払われたパリ市庁舎を訪ねたエドモン・ゴンクールの日記の一部を取り上げた。労働者政権が弾圧され、市庁舎が焼き払われた中で、建物の大理石のプレートに刻まれた「自由、平等、博愛」という金文字がそのまま残っていることを彼はIronie du hasard!(偶然の皮肉だ!)と表現している。パリ・コミューンを支持しているわけでもなかったゴンクールがパリ市内にとどまっていたのは、この出来事を見届けたいという作家としての関心のためであったのだろうか。

5月31日
 映画を見に神保町シアターに出かけたが、すずらん通りには露店が多く店開きしていてにぎやかだった。

6月1日
 テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』は4月15日放送分の再放送であったが、横井小楠の書が登場した。小楠は京都の寺町通丸太町下ル東側で暗殺されたという。この話は大学時代の授業でも聞いたし、寺町通は何度も歩いているのだが、小楠のことを思い出したことは一度もない。歴史的な興味というのはなかなか育たないものである。

6月2日
 病院に出かける。診察だけでなく、検査を受けることになり、暑さも手伝って余計につかれる。時間的な余裕があれば映画を見ようと思ったのだが、それどころではなかった。それでも渋谷に出て紀伊国屋と東急ハンズを覗く。どちらもかなりすいていた。暑さで外出する人が少なかったのだろうと思う。

6月3日
 NHKラジオまいにちイタリア語入門編では自分の趣味や好みをどのように表現するかに取り組んでいて
Mi piacciono i romanzi gialli.(私は推理小説が好きです。)
という表現が出てきた。giallo (gialliは男性複数の形)は「黄色い」という意味で、推理小説は黄色い表紙の本が多かったのでこのように呼ばれるということらしい。

椎名誠『そらをみてますないてます』

6月2日(月)晴れ、暑し

 5月30日、椎名誠『そらをみてますないてます』を読み終える。本の題名だけを見ていると、身辺の出来事か、旅行の経験をつづったエッセー集のようであるが、著者が過去に遭遇した様々な経験をまとめなおした長編小説である。著者は「あとがき」で「私小説」という表現を用い、編集部は「自伝的小説」と謳っているが、どちらもあまりピンと来ない。解説を担当している児島ゆかりさんは「時間行」という表現を使っているが、この表現がふさわしい実験的な性格がこの小説にはある。

 語り手の「おれ」は六本木のイタリア・レストランで皿洗いのアルバイトをしている。客の中に力道山がいたという話を聞く。夜明け近くまでの仕事を終えて、客の残して行ったピザをかじりながら、仲間たちと歩く。「おれのかじっているピザは力道山が残したもの出るのかもしれない。…だからどうだということはないけれど、それを誰かに言いたかった。まだあたりは暗かったが、歩いていく道路の先の空は確実にしらんできていた。いつもと同じありふれた夜明けだ。少し違うとしたら、いつもと少し違うピザパイをかじっている、ということだった。そしてもうすぐ夜明けの時間だった。それを誰かに言いたかった。
 もし、自分のこれまでの人生でクライマックスと呼べるような「一瞬」あるいは「時」があるとしたらそれはいつのことでした?というような質問を本気でされて、それに本気でこたえなければならない場合があったとしたら、おれはなんとこたえるだろう。
 そういうことを真剣に考えたことがある。
 わりあいはやく「その時」が見つかった。
 そうだ、たぶんあのときが人生のクライマックスだったのだろう」(14-5ページ)。

 物語の中では、このイタリア・レストランでの経験、1988年のタクラマカン砂漠遠征、イスズミという不思議な名前の水商売の女との交渉、起重機を使った荷物の陸揚げ作業、1984年のシベリア旅行、軽金属問屋の倉庫の作業、そこで働いていた女性との出会い、1984年のアリューシャン列島旅行、業界雑誌の会社を辞めてパタゴニアへの旅行を計画・実行することなど、2つの系列の経験が一方は時間の流れを追って、他方は時間の流れをさかのぼって展開される。それぞれの経験は、これまでの椎名さんの小説や旅行記で語られたものが大半で、それが多少の修正、あるいは粉飾を加えられて語りなおされている。女性経験が少し詳しく、また濃密に語られているのが特色であろうか。

 それにしても、「わりあいはやく『その時』が見つかった」というのは幸福な人生というべきであろう。椎名さんの精力的な作家活動の根底にあるのはこの意識なのだろうな、と思う。「今こそ、その時だ」などと後を押されては、時の流れの中を泳ぐどころかおぼれかけていた自分自身のことを考えると、同じ世代の人間でもいろいろあるのだと考えさせられるのである。

Let's 豪徳寺!

6月1日(日)晴れ

 5月31日、神保町シアターで「麗しき美少女伝説」の特集上映の中から『Let's 豪徳寺!』(1987、松竹、前田陽一監督)を見た。女ばかりで暮らす大富豪の邸宅でお手伝いのアルバイトをする女子大生が経験する恋愛騒動を描く喜劇である。豪徳寺といっても世田谷にある招き猫で有名な寺の名前でも、その付近の地名でもない。物語の中心になる大富豪一族の姓である。もっとも一族は世田谷区に住んでいるらしい。庄司陽子の同名漫画の映画化だそうであるが、原作は読んでいない。監督の前田陽一の作品を1970年代に多く観たことを思い出すのだが、それらに比べるとからっとした出来上がりで、純粋な喜劇性を感じることができる。現実ばなれのした要素を多く含むこの作品が監督の個性に合っているということであろうか。

 狛江百合、豪徳寺咲姫、大蔵利通は幼馴染で同じ大学に通っている。咲姫は大蔵に熱を挙げているが、大蔵は百合の方が好きで、百合はというと考古学の海老名助教授にあこがれている。咲姫は百合の行動を監視するために、彼女が自分の家のお手伝いとして働くことを提案する。彼女の家=豪徳寺家は祖母の香、母親の雅、長姉の美姫、次姉の舞姫、それに咲姫の5人が、お手伝いさんたちと暮らしており、商社のキャリア・ウーマンとして働いている美姫の夫がお手伝いさんの1人と不倫の末に離婚することになり、百合は出ていったお手伝いさんの後釜ということになるらしい。それでも大学に通い、都合によっては休み、立派な個室を与えられということで、かなり優雅なアルバイトである。

 「大奥様」と呼ばれる祖母の香はジグソー・パズルに熱中しており、これを仕上げたらこの世に未練はないと公言している。「奥様」と呼ばれる雅は園芸にいそしむ一方で、仲間を集めてオートバイで暴走している。舞姫は夜な夜な男を求めて遊び歩いているが、その職業は幼稚園の先生で、同僚の風祭という男性から思いがけず告白を受ける。一家がそろって同じテーブルで食事をするが、そのメニューは一人一人違う。それぞれの個性が突出しているが、いざという時には結構団結するのである。お手伝いの仕事に慣れてきた百合は何かと海老名助教授の世話を焼くが、離婚したばかりの彼には別れた妻以外に忘れられない女性がいるらしい。彼は大学をやめてカイロに旅立つと学生たちに宣言する。咲姫は大蔵とホテルに出かけるが、事態は思ったようには進まない。

 原作漫画のほんの一部だけを適当に切り取って映画化したもののようであるが、思い切って現実ばなれのした個性を際立たされている登場人物が、現実ばなれのした自由奔放な行動を繰り広げる。その一方で豪徳寺家の邸宅、3人が通う大学、舞姫と風祭の務める幼稚園など、セットではなく現実の場所にロケーションを行って撮影されている。そうした場面の現実感が物語を支えていることも否定できない。

 考古学というと思いだすのは、大学時代に空き地でソフトボールをやっていて大きなフライを打ち上げ、考古学の小林行雄先生の研究室の埴輪を壊したことである。埴輪といっても大したものではなかったらしく、研究室にいた女性に謝っただけで、古墳時代の研究家として有名な先生のご尊顔に接したことはなかったが、かなり広大なスペースが利用されていたことを覚えている。海老名助教授はエジプト考古学の研究家ということであるが、それらしい出土品や写真、コピー文書が並んでいなかったのは手抜きといわれても仕方のないところである。それに考古学をネタにした笑いがもっと工夫されてもよかったように思われる。

 本来であれば続編が作られてもよいはずの作品であるが、なぜかそれは実現しなかった。6月6日まで神保町シアターでの上映は続いているので、上映時間を調べて見に出かけてほしいと思う。他の作品についても同じことが言えるだろうとは思うが、この作品を見ることで改めて、映画の作られた時代を振り返ることができるし、それは無益な経験にはならないと思うからである。私の知る限りで、この映画の関係者のうち、前田監督、祖母役の南美江、、母親役の岸田今日子、古参のお手伝いさんを演じている初井言栄はこの世を去っている。この映画の喜劇性を深めている老練な演技者たちの冥福を改めて祈りたいと思う。 
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