2014年の2014を目指して(4)

4月30日(水)雨

 4月はずっと東京で過ごした。1月からの通算では東京で108日、横浜で12日を過ごしている。今年になって初めて足を運んだ市区町村、利用した鉄道や乗り降りした駅はない。

 4月に投稿したブログは30件で、読書が7(39)、日記が6(22)、映画が5(17)、外国語が4(10)、未分類が4(7)、推理小説が2(10)、詩が1(12)、歴史・地理も1(1)ということである。いただいた拍手は265で1月からの通算は1009ということになった。トラックバックが2件、拍手に添えたコメントを1件いただいた。4月はパソコンの環境をめぐりいろいろな出入りがあり、気が散ってしまったというのが正直なところである。

 買った本が13冊で、1月からの通算が54冊、読んだ本が9冊で1月からの通算は39冊である。読んだ本の内訳は:伊藤遊他『マンガミュージアムへ行こう』、飯沼賢司『八幡神とはなにか』、斎藤環『ヤンキー化する日本』、黒田龍之助『もっとにぎやかな外国語の世界』、東海林さだお『いかめしの丸かじり』、古市憲寿『だから日本はズレている』、今野真二『日本語の考古学』、河添房江『唐物の文化史――舶来品から見た日本』、東海林さだお『花がないのに花見かな』である。本日中にさらに1冊読むつもりだが、計画通りにいくかどうかはわからない。

 見た映画は7本で、1月からの通算は23本である。4月に観た映画は『ダブリンの時計職人』、『シネマ パラダイス ピョンヤン』、『ドン ジョン』、『自由への戦い』、『ロベレ将軍』、『姿なき軍隊』、『最後の億万長者』でシネマヴェーラで古い映画4本を見たのが目立っている。4月は新たにアップ・リンクとシネマ・ライズという渋谷の映画館2館に出かけた。1月から出かけた映画館の合計は10館である。

 NHKラジオのまいにちドイツ語、フランス語、イタリア語の時間をそれぞれ19回ずつ聞いている(再放送を聴いた分は数に入れていない)。1月からの通算ではドイツ語が20回、フランス語、イタリア語が各79回ということである。4月は特にフランス語に力を入れるつもりだったが、それほどの成果を上げられなかったので、5月も放送を聴く以外の努力を継続するつもりである。

 語学のほかに歴史(思想史)の勉強ということでカルチャーラジオの『思想史の中のマルクス』を5回聴いている。7月までの放送予定である。

 ノートは3冊使い切り、1月からの通算は17冊、万年筆(ウォーターマン)のカートリッジは5本を使い切った(1月からの通算は24本)、同じくパイロットのカートリッジ1本を使い切りこちらは5本である。

 アルコール分をとらなかったのが16日あり、1月からの通算では62日である。

 昨年のようにブログに対していただいた拍手を加えると合計が2014を超えてしまいそうで、どのように数字を組み合わせていくかが思案のしどころである。3月にも書いたが、こまめに展覧会を覗くとか、乗り降りする駅を増やすとかいう工夫をしないと2014年の2014の目標達成は難しそうである。さて、5月はどういうことになるか。 
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日記抄(4月23日~29日)

4月29日(火)曇り、一時小雨

 春の大型連休に入ったが、こちらは退職者ゆえ、いつも連休である。今年の春は寒暖の変化が激しく、体調が一定しないこともあり、遠出を控えて過ごしている。そういう中での4月23日から本日に至る毎日の経験や考えたことを抜き出してみると:

4月23日(水)
 インターネットの接続を修復してもらう。『フランス語初級卒業講座』のこれまで解いた部分を採点してみるが、不注意の間違いが意外に多いことに気付いた。

4月24日(木)
 ラジオのドイツ語の時間を聴いていると、自分の発音があまりよくないことに気付かされる。昔、よくお前の発音はよくないと直接間接に言われたものだが、日本人にはそういわれても、ドイツ人にそういわれることはなかった。そうでしょう。批判したって、された方が改善する意欲をもつわけではない。発音が悪いというよりも、ここはこう直した方がいいというほうが親切である。

4月25日(金)
 岩波文庫から兵藤裕己さんの校注による『太平記』が刊行されることになったのに気付き、第1分冊を購入する。どうやら、全巻を読み通すことができそうだ。

4月26日(土)
 フジテレビの「にじいろ」でマルセイユを取り上げていた。時間的・金銭的な余裕があれば一度は行ってみたい都市のひとつである。昔は、ヨーロッパに出かけるというと船の旅で、インド洋からスエズ運河を通って、マルセイユに寄港してという道筋があったのだが、いまではヨーロッパ旅行の途中で立ち寄るということはなくなっているのは残念である。

4月27日(日)
 群馬県の富岡製糸場を中心とする絹産業遺跡群がユネスコにより世界遺産に登録されることが確実になった。2006年だったと思うが、ザスパ草津(当時)と横浜FCの試合を見に前橋に出かけた翌日、上州一ノ宮である貫前神社に参拝したことがある。その際、富岡製糸場にもよろうかと思ったのだが、やめたことが悔やまれる。この製糸場で伝習工女として働き、その後郷里である長野県の松代に帰って技術の普及に努めた和田英(1857-1929)の『富岡日記』は35年以上前にラジオの朗読の時間でその一部を聴いて、中公文庫から出ていた版を買って読んだことがある。日記といっても、働いていた当時の記録ではなくて、後年になって思い出してまとめたものである。

4月29日(火)
 間もなく4月が終わろうとしているのに、今月はまだ9冊しか本を読んでいない。面白い本はないかと紀伊国屋本店に出かけたのだが、なぜかフランス語の本ばかり目について、プレヴェールの詩集と社会言語学の本を買ってしまった(明日までに読めるわけがないだろう‼) もう1冊、アラン・ブラッドリーの『春にはすべての謎が解ける』という推理小説を購入、これを明日中には読み終えるつもりである。

銀座の恋の物語

4月28日(月)曇り

 NHKBSプレミアムで1962年の日活作品『銀座の恋の物語』を見る。BSプレミアムではこのところ月曜日に日活の旧作を放映しており、普段はクレジット・タイトルだけ見て、あとは見ないことが多いのだが、なぜかこの作品はずっと見続けてしまった。傑作とはいいがたいが、面白いことは面白い。

 1961年1月に封切られた石原裕次郎主演の映画『街から街へつむじ風』の挿入歌として使われたデュエット曲『銀座の恋の物語』はテイチクレコードから発売されて大ヒットとなり、改めてこの歌を題名とする映画が作られることになった。裕次郎のデュエットの相手である歌手の牧村旬子も映画に出演しているが、2人がデュエットで歌う場面はない。裕次郎のこの作品での相手役は浅丘ルリ子であり、その妹分の役どころで泉雅子が出演、映画の展開に絡む新米女性警官という役で江利チエミが特別出演的に顔を見せているのが今になってみると懐かしい。

 若い画家の伴次郎は作曲家志望の宮本修二と同居しながら作品を手掛けている。彼にはデザイナーとしての才能も有り、企業からの勧誘も受けている。2人が暮らすビルの向かいのビルのはブティックの縫製作業場があり、そこで働くお針子の秋田久子と次郎は恋仲である。次郎は久子の肖像画を描いている。二人がいよいよ結婚しようとして信州にいる次郎の母親のもとに向かおうと、新宿駅で待ち合わせるのだが、急な仕事で出発が遅れてしまった久子は交通事故にあう…

 この作品はレオ・マッケリー監督のアメリカ映画『めぐり逢い』(An Affair to Remember, 1957)に似ているという指摘があるが、似ているのは主人公が画家志望であることと、ヒロインが交通事故にあうことくらいである。映画の脚本執筆者の1人である熊井啓が手掛けた『霧笛が俺を呼んでいる』がキャロル・リード監督の『第三の男』に似ているに比べれば、その程度は軽い。映画を見てその設定をこうつくりかえた方が面白い、いやこうすべきだと話すのは映画界の住民ならば誰でもすることであろう。

 この映画が『めぐり逢い』と比べて大きく違うことは、主人公たちの世界である。『めぐりあい』の男女は豪華客船の旅の中で出会い、それぞれが金に不自由しない暮らしをしているのに対し、『銀座の恋の物語』の登場人物たちは貧乏であり、夜通し仕事をし(当時の労働基準法はどういう規定になっていたのであろう)、ささやかなプレゼントに胸を躍らせる。2本の映画の製作年代は4~5年しか違わないのだが、このような設定と、その前提をなしている映画の観客たちが映画に求めるものは日米で大きく違っているのである。簡単に言えば、アメリカ映画の方はセレブの世界の夢物語として作られているのに対し、日本の方は観客に身近な、共感を呼ぶ世界の出来事して描かれている。

 本家の『めぐり逢い』はマッケリー監督が1939年に作った『邂逅(Love Affair)』のリメイクであり、1994年にも3たび映画化されているほかに、1993年に製作されたノーラ・エフロン監督の『めぐり逢えたら』にも影響を及ぼしている。1957年版に主演したデボラ・カーは美貌に加えて演技の幅の広い女優であったが、数々の名作にもまして、この『めぐり逢い』が今日もっとも多くの観客から支持されているようである。

 『銀座の恋の物語』についてみると、そういう映画があったという記憶は残るだろうが、映画よりも歌のほうが今日では人気があるのではないか。その意味では裕次郎と牧村旬子がデュエットで歌う場面、あるいは難しかったのかもしれないが、裕次郎とチエミがデュエットで歌う場面があればもっと良かったのではないかとおもう。チエミの親友であった美空ひばりと小林旭が結婚していた時期があるというようなゴシップを念頭に置いてみると、チエミが出演していること自体にも興味が持てるのだが、出演している以上、もうちょっと出番が多く、歌も途中で終わらせずに全部歌わせてほしいと思ったりした。この作品での浅丘ルリ子は美しいがまだ幼さが残っていて、それが魅力的である。彼女の美しさが研ぎ澄まされてくるのは、1960年代の後半になってからのことだったのではないかと思う。

 久子が待ち合わせに遅れまいと新宿駅にタクシーを走らせる場面で「省線」ということばが出てくる。戦後、鉄道省がなくなったので、小学校の先生から省線ではなく、国電といいなさいとよく注意されたことを思い出す。まだこの時期は「省線」ということばが生きていたのである。国鉄の民営化に伴って国電に代わりE電ということばが作り出されたが、一向に普及せず、普通にはJRが使われている。考えてみれば、JRも私鉄も電車ばかりなので、ことさらに電車ということはないのである。

 電車といえば、映画の中ではまだ銀座の街を都電が走っている。東京湾の埋め立てがまだ進まず、海岸線が近かったこともわかる。一方で華やかな目抜き通りから裏通りに入ると、大きく眺めが変わる銀座の表裏、光と影が強調されているのも当時の日活のスタッフの社会的な意識の表れとして評価しておいてよかろう。蔵原惟繕監督の才気はそうした景観の描写よりも、時として奔放なカメラワークの方に示されているように思う。いろいろな可能性が込められた映画であったのである。

懐疑主義から抜け出せない

4月27日(日)晴れ

 以前、ある研究会の席でキルケゴールの『死に至る病』が話題になったことがあり、この本について発言するようなこともないまま、隣り合わせた先生に「和辻哲郎が若いころに、キルケゴールの思想について紹介していますね〕と話しかけたところ、「和辻さんのような頭のいい人は、哲学には向かない」という答えが返ってきたことを覚えている。私などは、頭が悪いから哲学には向かないと思っているのだが、頭のいい人も向かないということになると、誰が哲学をやるのだろうか。

 私が自分自身について頭がよくないと思うのは、抽象的・理論的な思考が苦手だということであり、和辻哲郎の頭の良さを問題にした先生は、物事をわかりすぎてあまり疑問をもたないような人は哲学には向かないという意味で言ったのであろう。それぞれの頭の中にある「頭の良さ」は意味が違うのである。頭がいいとか悪いとかいうことを我々は日常よく口にするが、その意味はそれぞれの発言者によって微妙に違っているようである。

 そうはいっても、頭がいい人は哲学に向かないということばは未だに強く記憶に残っている。優秀な学生が集まっている大学では、学生がいろいろなことをわかりすぎてしまって疑問をもたないことが問題であるかもしれない(もっともそういう例はあまりないようである)、それほど優秀ではない学生の集まっている大学で、わかっていないことをわかったふりをしてごまかす学生が多いことはもっと問題であるかもしれない。

 わかっていないということが分かっていれば、わかっているふりをして切り抜けた後で、自分で調べなおすということもあるとはいうものの、実際に優秀な学生がより多く集まっているという定評のある大学で教えたときのほうが、学生から「わからない」「説明してくれ」という要望が多かったような記憶がある。自分がどこまでわかっているのかが、あまりよく分かっていない学生に質問を強いて、無理に取り繕った質問をされるのも気持ちが悪い。

 疑問をもつことはいいことである。しかし何でもかんでも疑ってかかるのも考え物である。適度に疑問をもてというのも胡散臭い。他人に判断を預けるのは無責任である。自分の頭で考えることはいいことである。しかしそのためにはある程度の予備知識と、思考を共有できる友人の存在が欠かせない。何事も極端に走るのはよくないが、中庸がいいのだなどと説教するのも虫唾が走る。懐疑は本来方法的・手段的なもののはずだが、なかなかそこから抜け出すことができない。

東海林さだお『花がないのに花見かな』

4月26日(土)晴れ

 東海林さだお『花がないのに花見かな』(文春文庫)を読み終える。『オール読物』に2009年から2011年にかけて断続的に掲載された「男の分別学」を改題して、2011年4月に文藝春秋から単行本として刊行されたものの文庫化で、解説を今柊二さんが書いている。4月20日付の当ブログで東海林さんの『いかめしの丸かじり』を取り上げており、1週間のうちに同じ著者の本を2冊扱ったことになる。退職してからは、できるだけ単行本は買わずに文庫本になってから買うようにしているが、それでも私の本棚は東海林さんの本で埋まってしまっている。なじみの古本屋さんでも引き取ってくれそうもないほど読み散らかし、汚した本が少なくない。

 もともと東海林さんはマンガ家であり、マンガも好きである。こちらは本になったものを買って読むほどではないが、新聞に連載されているマンガはよく模写をしたものである(当ブログで披露するほどの出来ではないのが残念ではある)。東海林さんの漫画の主人公の多くは男性サラリーマンでそのまた多くがひどくミミッチイ性格の持ち主である。毎日新聞に連載されている『アサッテくん』に至っては、主人公だけでなく、その妻、息子、娘の一家全体がミミッチイ性格に描かれている。そういうミミッチイ性格に愛着を覚える。

 長く山梨大学の生物学の教授として異色の存在であった白上謙一(1913-1974)は、その専門とはあまり関係のない『ほんの話』という隠れた名著の著者としても知られるが(知る人ぞ知るというところか)、その中でこんなことを書いている。「非常にミミッチイ事物に一生をうちこみ、信じられぬほどの精妙さに達すること、これは日本人における『優秀性』の一つの理想像ではないか」(社会思想社:教養文庫版、80ページ)。

 白上はこのようなミミッチイ事物へのこだわりを自らの中にも認めたうえで、その克服の必要性について述べているのだが、東海林さんの著書の人気の一端が日本文化の中の小事(=東海林)にこだわる傾向と結びついていることは否定できそうもない。

 むろん、東海林さんの作品について批判する人がいないわけではないので、今は亡き開高健は谷沢永一、向井敏との鼎談集『書斎のポ・ト・フ』の中で下手な漫画家の代表として東海林さんの名を挙げている。実際に模写を繰り返していると、東海林さんの絵は決して下手ではないし、東海林さんが大量の似顔絵やスケッチを書き溜めているという事実もあるが、その努力が見えにくいほどに東海林さんが自らを卑下韜晦するポーズをとり続けているということも事実かもしれない。

 書評にならずに、作家論になってしまっているが、この書物においても東海林さんの好奇心と行動力は衰えず、表題のごとく花がないのに花見に出かけ、ホルモン料理をつつき、万座温泉にある旅館に「自炊旅行」に出かけたり、銭湯を梯子したりしている。興味のある問題については、たとえ自分より年少であっても先達と言えそうな人物の教えを乞い、知識を吸収する貪欲さもこの著者独特のものである。特に「女探偵の極意」という対談が面白い。

 そういうことでやっぱり、いくらごまかそうとしても東海林さんは、その努力を見えにくくする努力も含めて努力の人なのである。だからこそ、「草食男子、許すまじ」という巻末のエッセーと竹内久美子さんとの対談が効果を発揮するように思われる。単に社会観察としてだけでなく、社会批評(批判)として読めるところに凄みがあるといっておきたい。

リミニ

4月25日(金)晴れ

 昨日(4月24日)放送された「イタリア:24の物語」ではエミリア=ロマーニャ(Emilia-Romagna)州の都市リミニ(Rimini)を取り上げた。この都市と関連する物語として紹介されたのは、ダンテの『神曲』地獄篇、第5歌に取り上げられたパオロとフランチェスカの悲恋である。

 13世紀にリミニを支配していたマラテスタ家の当主ジョヴァンニ(通称ジャンチョット)はラヴェンナとの同盟関係を強化するために、同市の領主であったポレンタ家からフランチェスカを妻に迎える。ところが、フランチェスカがジャンチョットの弟であるパオロと恋に落ちてしまう。嫉妬に狂ったジャンチョットは2人を殺してしまったが、彼らの同時代人であったダンテがこの物語を(おそらくは脚色を加えて)『神曲』の中に描きこんだために、その後長く語り継がれるものとなった。

 ″Amor condusse noi ad una morte" .(...) Mentre che l'uno spirto questo disse,/ l'altro piangea... (Dante Alighieri, La Divina Commedia, Inverno, Canto Ⅴ, 106, 139-140)
「愛こそが私たちを死へと導いたのです」――一方の魂がそう語る間も、もう一方の魂は涙にくれる・・・・・(ダンテ・アリギエーリ、『神曲』地獄篇、第5歌、106,139-140行)(放送テキスト106ページより、これは古いイタリア語で、現代語に直すとこうなるという形もテキストに記されている。)

 さて、番組内でも言及されていたが、リミニは映画監督のフェデリコ・フェッリーニの生まれ故郷であり、彼の子ども時代の思い出は『フェリーニのアマルコルド』という映画にまとめられていた。Amarcordoというのは、方言で標準語に直すと、Mi ricordo.(私は思い出す)ということだそうである。

 本日(25日)から、「イタリア:24の物語」はトスカーナ州に入り、今回はアレッツォと、この地で生まれた画家であり、また『芸術家列伝』の著者として知られるジョルジョ・ヴァザーリの業績が取り上げられた。ヴァザーリのこの著作はイタリア語の教材としてもよく用いられるものである。イタリア語の標準語のもとになっているのは、ダンテ、ペトラルカ、ボッカーチョの言葉であるトスカーナ方言だそうであるが、これからどんな展開になるか。まだろくにできないうちからイタリア語の古い形だの、方言だのが飛び出してきて、大丈夫かなと先が思いやられるのだが、何とか頑張って続けていこうと思っているところである。

『徒然草』と源範頼

4月24日(木)
 4月23日に河添房江『唐物の文化史――舶来品から見た日本』(岩波新書)を読み終える。唐物(=舶来品)が古代から近世までの日本文化史の中で、どのように扱われ、評価されてきたのかをたどった書物であるが、この中に『徒然草』の中で兼好が彼の時代の唐物ブームについて批判的であったという記事がある。北条氏の一族であり、金沢文庫を設けた金沢貞顕と交流のあった兼好は少なくとも2度金沢(横浜市金沢区)の地を訪問・滞在しており、この地の上行寺に庵を結んで暮らしながら、金沢文庫にも通っていたらしい(このことから、現在の金沢文庫では兼好に関連する図書を収集している)。上行寺のある六浦は中世において鎌倉の外港として重要な役割を持っていたが、『徒然草』120段における唐物愛好への批判は、六浦の港に大量に陸揚げされる唐物を見て書かれたという説さえあるという(河添、120~23ページを参照のこと)。なお、上行寺の山号は六浦山である。(この寺はもともと金勝寺という真言宗の寺であったのが、日荷上人によって日蓮宗の寺とされたという。これがいつの時代のことであったのか、調べてみる必要がありそうである。)

 ところで、4月20日に読み終え、4月21日付の当ブログでも紹介した今野真二『日本語の考古学』(岩波新書)にも『平家物語』の成立に関連して『徒然草』の226段が引用されている。「信濃の前司行長」という人物が『平家』の成立に大きくかかわったという有名な段であるが、その中に「九郎判官のことは詳しく知りて、書き載せたり。蒲冠者の方はよく知らざりけるにや、多くのことども記し洩せり」という個所がある。義経のことはよく知っていたので詳しく書いたが、蒲冠者(範頼)のことはよく知らなかったためか、多くのことを書き漏らしているというのである(今野、120~2ページを参照のこと)。

 中学・高校の6年間、京浜急行に乗って学校に通っていた。その途中、金沢八景のあたりに源範頼の墓があるという標識のある寺を見かけていたと記憶する。それで検索をかけて調べてみたところ、太寧寺という寺に範頼の墓があるほかに、もともと彼の別荘があった地に建てられた薬王寺にも彼の位牌があるそうである。つまり、金沢は範頼ゆかりの地であって、曽我兄弟の仇討の際の言動を兄の頼朝から疑われて修禅寺に幽閉され、殺害されたという範頼が実はそこから脱出して金沢まで逃れた(その際に上陸したのが追浜であった)という伝説もあるようである。

 墓と書いたが、実際には供養塔であろうが、範頼の墓は修禅寺(地名は修善寺、寺名は修禅寺)と、今書いた太寧寺以外にも存在する。弟の義経が平泉で死なずに北海道に渡ったとか、大陸へと渡ってジンギスカンになったとかいう話ほど華々しくないが、範頼も埼玉県、福井県、愛媛県に逃げたという伝承があるらしい。福井県(越前の国)で儲けた子どもの子孫からは、陸軍中将になった人が出たという話もあり、大将ではなく中将というところが範頼の子孫らしいと思う。

 源平合戦の時代から、兼好の時代までは150年弱の時間が流れているが、この時代は一般のリテラシーが現在ほど高くはなかったから、様々な出来事が口承で大量に伝えられていたはずである。さらに、兼好の時代は源平の争乱の結果として成立した鎌倉幕府の滅亡、南北朝の動乱の時代であったので、『平家』についての関心はかなり生々しいものであったはずである。とにかく、兼好は金沢で過ごした時間があったために、範頼について普通の人よりも多くのことを知っており、そのために『平家』には不満があったのかもしれない。だとすれば、『徒然草』の中で彼の知っている範頼の事績をいくつか書いておいてくれれば話は違ってきたのではないかという気もするのである。

語学放浪記(29)

4月23日(水)
 朝、寝床の中でラジオの外国語講座の放送を聴く。時々、寝過ごすことがあって、そういう時は再放送を聴く。大体は1日に2度聴くことにしている。一度聴くだけではどうも学習が定着しない。いや、2度聴いたからと言って定着するものでもない。録音して聴いたり、テキストを何度も読み返したりする努力が必要なのかもしれないが、そこまではしていない。

 ドイツ語、フランス語、イタリア語と3つの言語の放送を聴くのはかなり大変である。それでも放送を聴くことによって生活にリズムが生まれている。逆にいうと、放送のない土曜日と日曜日は締まりのない1日を過ごすことになってしまう。

 それぞれの言語について、月曜日から水曜日までの入門編は易しすぎ、木曜日・金曜日の応用編は難しすぎるという気がしないでもない。いつまでたっても初級のレヴェルから上に行かない。ドイツ語についてみると、応用編は会話に役立つ表現の練習なのだが、なかなか声に出して練習できない。とにかく語形変化をしっかり覚えていないということが身にしみて分かった。だから大学時代の成績が悪かったのだが、辞書を引いて読めるという程度で満足するならば、これはこれでいいのだと居直ることにしている。

 フランス語についてみると、今回の応用編「作家とともにパリ散歩」は再放送で、前回の放送も聴いていたので内容の理解が多少は深まっているとはいえるのだが、どうも難しい。そこで放送を聴くことに加えて、清岡智比古 レナ・ジュンタ『フランス語初級卒業講座』の問題と取り組んでいる。これがなかなか毎日取り組むというわけにはいかないのが問題である。

 一方、イタリア語については応用編で取り上げられる文章が比較的易しい傾向があるように感じている。現在放送中の「イタリア:24の物語」もフランス語の場合と同じく再放送であるが、今回はそれぞれの課の本文を改めて自分で訳しなおしている。まだ、番組の進行に追いつかないのだが、そのうち、追い越して予習にするつもりである。

 フランス語、イタリア語も辞書を引いて読めるようにするというのが目標なのだが、フランス映画、イタリア映画を見ていて、ところどころわかる個所があって、それなりに学習の効果を確認できることがあるのはうれしい。それでも、別に会話を楽しめるようになりたいとはあまり思わない。もし、現地に旅行で出かけることがあれば、それはその時に特訓すればいいと思っている。

 会話ということになると、やはり英語の力を向上させることが求められるのだが、今年度はラジオ(テレビ)で英会話番組を聴く(見る)という選択はしなかった。身辺の事情が変わってくれば、10月からドイツ語をやめて英会話の時間を聴くということになるかもしれない。それはその時のことである。それに会話というのは、内容となる話題がなければ意味のないものである。最近、英語のニュースや解説記事を読む機会が減っていて、そのことのほうが問題ではないかと思い始めている。

日記抄(4月16日~22日)

4月22日(火)晴れたり曇ったり、一時小雨

 4月16日から22日にかけてであった事柄、考えたことなどを書き出してみた:

4月16日
 新年度からNHKラジオの語学番組の中からドイツ語を新たに聞き始めたことはすでに書いた。大学で第二外国語として履修したものの、一向に上達しなかった経緯についてもすでに書いた。今回、放送を聴いていて感じたことは、進み方が他の言語に比べて遅いということである。この日のフランス語の放送では11から20までの数字を何というかを復習した。イタリア語の時間は100までの数字を覚えさせられた。ドイツ語はまだ数字については触れていない。また番組に盛り込まれている内容も少ないのではないか。たとえば日常会話でよく使う表現について、フランス語やイタリア語のほうが多く紹介しているようである。少ない内容をゆっくり教えるのは、基礎を徹底させるという趣旨だと思われる。進み方の早い遅いが学習効果とどのように関連してくるかは、放送の区切りがついてから判断すべきだと思う。ただ、ゆっくり進んでいるからと言って油断は禁物である――ということを肝に銘じておこうと思う。

4月17日
 「まいにちイタリア語」応用編「イタリア:24の物語」ではラヴェンナを取り上げた。街のいたるところでモザイクによる豪華な壁画を見ることができるという。これはこの市が防御しやすいために、西ローマ帝国の皇帝がローマから都を移したことによるものである。今回は皇帝の妹として生まれたことで数奇な運命をたどることになったガッラ・プラキディアという女性の生涯の話の前半が取り上げられた。ラヴェンナはその後、故郷の都市フィレンツェの政争に巻き込まれて追放処分を受けたダンテが晩年を過ごし、彼の墓のある町でもある。

4月18日
 「まいにちフランス語」応用編「作家とともにパリ散歩」では、ドーデの自伝的作品『プチ・ショーズ(Le Petit Chose』(1868)から主人公が鉄道に乗ってパリのリヨン駅に到着する場面を取り上げていた。現在パリには6つの主要駅者があり、ほとんどが19世紀後半にできたものだそうである。パリの鉄道駅を利用したことはないが、ロンドンの主要鉄道駅はほとんど全部を利用したことがある。などと、勝手にロンドンの思い出にふけっていた。

4月20日
 テレビ朝日の「報道ステーション サンデー」で岡山理科大学の研究者による海水魚を陸上で養殖する試みが紹介されていた。40年以上昔、務めていた会社でアーサー・C・クラークの『海底牧場』を要約・紹介する仕事をさせられたことを思い出した。この研究は、ある意味でクラークのSFの想像力を超えた試みであるが、考えていたのは別のことである。『海底牧場』は海底でクジラの放牧(?)が営まれるという未来の世界の物語であるが、物語の中の未来では殺生を忌む仏教が世界を支配する宗教になっていて、クジラを殺さずに乳製品だけを利用するという解決が図られることになる。クラークは仏教に傾倒してスリランカに移住していたが、そのスリランカで激しい民族対立・紛争が起きていた事態をどのように考えていたのだろうか。

4月21日
 番組名は忘れてしまったが、朝のテレビ番組で、20日に行われた「ゆるキャラ最速選手権」について紹介していた。夢の島競技場の400メートルのトラックを1周して順位を競うものだったそうだが、いつだったかこの競技場まで横浜FC対コンサドーレ札幌の試合を見に出かけたことを思い出した。行くまでの記憶は比較的はっきりしているのだが、試合が終わってから何をしたか、覚えていないのが問題である。

4月22日
 オバマ米大統領の来日に合わせて都内の主要駅のロッカーが使用できなくなっているそうである。これで不便を感じている人が多いようなので、駅の近くの施設や、企業が荷物を預かる臨時のサービスを始めてはどうかと思ったりした。

今野真二『日本語の考古学』

4月21日(月)曇り、時々雨

 4月20日、今野真二『日本語の考古学』(岩波新書)を読み終える。今年になってから『かなづかいの歴史』(中公新書)、『日本語の近代――はずされた漢語』(ちくま新書)と今野さんの著書を2冊読んでいて、これで3冊目である。今年になってからその著書を3冊読んだのは椎名誠さんと今野さんだけで、自分の経験をエッセーにしている椎名さんとは違って今野さんの場合は学術的な著作なのだから、このペースで本を書き続けているというのは(これまでの研究成果が一気にまとまってきたということだとしても)すごいことである(それを読んでいるほうもすごいと自慢したい気分も少しはある)。

 表題になっている『日本語の考古学』とは、今野さんによると「かつて誰かが手で書き写した、あるいは活字を用いて印刷した、具体的なものとしての書物」(ⅰページ)を手掛かりとして昔の日本語を分析しようという試みである。これらの昔から伝えられてきた書物には、同じ書物のはずでも細かい異同があったり、メモが書き加えられていたり、「ひとつひとつの情報はささいなものだったとしても、そこには、過ぎた「時間」を復元するためのなんらかのヒントがあるのではないだろうか」(ⅱページ)という。

 このような関心から、この書物では次の10の問題が取り上げられている。
1 「書かれた日本語」の誕生――最初の『万葉集』を想像する
2 『源氏物語』の「作者」は誰か――古典文学作品の「書き手」とは
3 オタマジャクシに見えた平仮名――藤原定家の『土左日記』
4 「行」はいつ頃できたのか――写本の「行末」を観察する
5 和歌は何行で書かれたか――「書き方」から考える日本文学と和歌
6 「語り」から「文学」へ――流動体としての『平家物語』
7 「木」に読み解く語構成意識――「ツバキ」と「ヒイラギ」と
8 なぜ「書き間違えた」のか――誤写が伝える過去の息吹
9 「正しい日本語」とは何か――キリシタン版の「正誤表」から
10 テキストの「完成」とは――版本の「書き入れ」

 それぞれ興味の寄せられる問題ではあるが、ここでは特に印象に強く残った問題を選んで紹介してみたい。まず最初の「最初の『万葉集』を想像する」では、『万葉集』に収められた歌の中には「音声による歌」と「文字による歌」があり、『万葉集』がその転換点を含みながら編纂されていることを指摘し、さらに現在残されている写本が「漢字書きされた歌に、片仮名で『訓』を施す『片仮名付訓方式』」(12ページ)か、「漢字のみで書かれた歌の隣に、平仮名のみで書かれた歌が並べられている・・・『平仮名別提方式』」(15ページ)のどちらかで書かれているが、もともとの『万葉集』は漢字のみで書かれたいたことは明らかだとする。さらにこれらの写本の漢字が楷書で書かれているのに対し、『万葉集』がまとめられた時代には草隷と楷書の間のような書体が使われていたと推測する。これらのことから「私たちが手にしている最古の写本と、『原万葉集』との間には、失われた時間が横たわっている・・・現代の私たちには想像もつかないような大きな『質的変化』がそこには秘められているかもしれない」(19ページ)と読者の好奇心を揺さぶっている。

 2では紫式部が『源氏物語』を書いたという常識が挑戦を受ける。ゴーストライターがいたという話ではなくて、誰が「書いた」かという具体的な話である。そういえば、私の大学院生時代になってもまだ論文の清書を他の誰かに頼むということが行われていた。「複数の書写者が書き写すというだけではなく、紫式部自身も、手元にあるテキストに加筆をしないとも限らない」(28ページ)。問題は複雑なのである。3ではその時代までは存在した紀貫之自筆本の『土左日記』を藤原定家が書写するときに判読できない文字があったという話が出てくる。さらに6で「『平家物語』とは、「語り」との双方向的な関係性において、特殊な形で成立したテキストである」(146ページ)と論じているのも貴重な指摘である。10で冨士谷成章の『あゆひ抄』に息子の御杖が書入れをしたと推測される書物について紹介しているのも興味深い。
 
 「『失われた部分』への意識を常に持ち続けること。今目の前にある日本語がすべてだと思わないこと。そうしたことが、言語の長い歴史を復元していくときに必要な態度ではないかと思う」(19-20ページ)と今野さんは述べている。これは他の領域を学ぶ者にとっても有益な示唆であろう。語学と文学の両方にまたがって多くの知見を与えてくれる書物である。

東海林さだお『いかめしの丸かじり』

4月20日(日)曇り

 4月19日、東海林さだお『いかめしの丸かじり』(文春文庫)を読み終える。『週刊朝日』2009年8月7日号~2010年4月30日号に連載された「あれも食いたいこれも食いたい」をまとめ、2010年6月に朝日新聞社から単行本として出版されたエッセー集の文庫化である。連載も単行本も、文庫もそれぞれ長年にわたり多くの愛読者(私もその1人)を集めてきたので、いまさら書くことはあまりないようにも思われるが、今回の文庫はその解説を小泉武夫さんが書いており、それだけでもかなりの価値があるのではないかと思う。

 東海林さんの食べ物をめぐるエッセーの特徴の1つは、時々の流行を反映しながらも、一般庶民の手の届くところで探訪を繰り返しているところではないかと思う。もちろん、高級な料理を食べることもあるが、その時は腰が引けた姿勢を見せているし、ゲテモノを食べる時にはおっかなびっくりの気持ちを告白する。身近な経験に基づいているとはいえ、そこから引き出される見解はかなり独創的なものがあるし、東海林さんの筆にかかると物事が別の意味を持つのではないかと思われるところがある。

 長年、エッセーを書き続けていると、同じ題材を取り上げることもあるのだが、うまい具合に題材のほうが変化していることが多いようである。冒頭の「じいさんビアガーデンに行く」はそんな一編。ビール党の東海林さんがビアガーデンに行かないわけがないのだが、自分が盛んに出かけたころと、10年ぶりぐらいに出かけることになった現在との変化を中心にまとめている。提灯がなくなり、メニューが変わり、注文のシステムが違っている。「これからどうなるんじゃろう」「不安じゃのう」(14ページ)。

 そういえば、昔国会議事堂内の食堂に出かけた体験記を読んだことがあったが、今回の「新国会丼」はどんな変化を描いているのかと思うと、国立国会図書館内の食堂に出かけた一部始終が書かれていて、肩透かしを食った形である。それでもすれ違う女性が皆化粧をしていないことに「感動」するあたり、東海林さんでないと書かないような着眼がみられる。食堂のメニューである「国会丼」「新国会丼」の命名の由来は読んでのお楽しみにしておくが、「感心していいのか」(110ページ)と半信半疑の感想が語られているのも注目してよいところである。

 その一方で、「どうもオレ、何でもかんでもビールにもっていこうとする傾向があるな」(「おいしいよ、アメリカンドッグ」、183ページ)とか、「ぼくとわがレバーの信頼関係は、永久に不滅です」(「わが愛するレバーよ」、213ページ)というような絶えず繰り返される言葉も散見される。最後を飾る「懐かしの海苔だけ海苔弁」では自分でのり弁を作るだけでなく、中高生の時の通学の思い出を踏まえて、仕事場に置いてある弁当箱をゆすったりする。この工夫と熱意とが東海林さんのエッセーを支えていることも忘れてはなるまい。

 小泉さんの解説であるが、東海林さんが座談の名手であること、野球の選手としても一流であること(もちろん、草野球のレヴェルでの話ではあろうが)などなど、身近で接している人ならではの指摘に加えて、東海林さだおシンポジウムの企画提言がなされている。シンポジウムを傍聴に出かけるかどうかはわからないが、展覧会ならば足を運んでもいいなと思っている。早稲田の漫研時代に東海林さんが展示制作に大活躍したという思い出を読んでいるから余計にそう思うのである。 

最後の億万長者

4月19日(土)晴れたり曇ったり、時々小雨

 シネマヴェーラ渋谷で「ナチスと映画Ⅱ』の特集上映の一部として上映された、デンマーク映画『姿なき軍隊』(1945)とフランス映画『最後の億万長者』(1834)を見る。ルネ・クレールが第二次世界大戦前のフランスで最後に作った作品である後者を取り上げる。

 どこにあるのか画面に登場する地図を見ていてもわからないが、とにかく遠くのほうにカジナリオという小さな国がある。都となる年が1つあるだけの小国である。この国では国営のカジノに観光客たちが落とす収益で国民全体が豊かに暮らしているが、カジノの拡張計画がうまくいかず、財政難に陥り、同国の出身者で大銀行家として成功したバンコ氏に助けを求める。バンコ氏は同国を訪問すると、さっさと行政長官に就任したと言明、それだけでなく、カジナリオの女王の孫である美しいイザベル姫との結婚を望む。ところが姫には王室付きのオーケストラの指揮者である恋人がいて結婚を望まない。

 バンコ氏が行政長官に就任したことで、それまでこの国の政治を動かしていた元老たちが不満を持ち、彼の暗殺を企てる。暗殺は失敗するが、頭を打ったバンコ氏の言動が異常なものとなる。椅子で殴られたために四脚の椅子の使用を禁止し、成年男子の半ズボンの着用、バンコ氏の許可を得ない発言の禁止…、国中に異常事態が広がる。というよりも、カジナリオ国とバンコ氏の動静を伝えるニュースがほとんど海外に流れなくなる・・・。

 グローバル化が進んだ今日の目から見ると、なんとも大時代的なおとぎ話にしか思えないような物語が展開する。「ナチスと映画」というテーマの下での上映であり、確かに1934年という映画製作の時点を考えるとナチスへの批判が作者の脳裏にはあったと思われるのだが、風刺としては生温いという印象が残る。独裁者の異常な言動を面白おかしく描くというだけでなく、それを受け入れてしまう国民の側の問題を描かない限り、風刺として完結しないのではないか。

 さらに言えば、バンコ氏の王女への年齢をわきまえない横恋慕というのも、若者同士の恋に、老人が年甲斐もなく介入するというギリシア・ローマ以来の喜劇の常套の域を出ていない。ことが一国の王女様の恋愛にかかわるのであるから、王女様も自分のエゴだけでなく、もう少し責任感と広い視野を持っていただきたい。若いカップルには問題へのもっと別の対応策があったのではないかと思われる。

 ということでこの作品にはあまり感心しなかったのだが、それでもこの作品を最後としてクレールがフランスを去り、英国を経てアメリカで映画製作を続けることになったという時代の動きに改めて目を向ける必要を感じる。過去の出来事とその中での人間の表現や行動について理解するのは容易なことではない。映画を歴史的な文脈で理解することのむずかしさを考えさせられた作品でもある。

 なお、戦前に日本で公開された映画なので、タイトルは「萬」と旧字体で表記されていた。
(4月19日にインターネットのトラブルが起きて、しばらく投稿ができませんでした。少しずつ遅れを取り戻していこうと考えておりますので、よろしく。)

ウィルキー・コリンズ『月長石』(30)

4月18日(金)曇り、時々小雨

 1848年6月にイングランドのヨークシャーのヴェリンダ―邸から<月長石>と呼ばれるダイヤモンドが紛失した。この宝石はヴェリンダー卿夫人の兄であるハーンカスル大佐がその遺言で姪であるレイチェル・ヴェリンダーに贈ったものであるが、彼がそれを手に入れた経緯については悪い噂があった。宝石はもともとインドのヒンズー教の寺院の神聖な宝であり、それがイスラム教徒から英国人の手にわたっても、それを取り戻そうとする3人のバラモン階層に属するインド人たちの姿が付きまとってきたのである。

 レイチェルの従兄で求婚者の1人であり、宝石を彼女のもとに運んだフランクリン・ブレークは宝石紛失の謎を解こうとロンドンから腕利きのカッフ部長刑事を呼び寄せる。彼は邸の使用人で前科のあるロザンナに不審を抱く。レイチェルの証言が得られないために捜査は進展せず、カッフは捜査を打ち切らざるを得なくなる。そしてフランクリンの努力にもかかわらず、レイチェルの彼に対する態度はよそよそしくなり、そのまま彼女は邸を去り、その後、ロンドンに赴く。失意のフランクリンも大陸へと旅立つ。

 1年後、父親の死をきっかけにイングランドに戻ってきたフランクリンは事件を改めて調べなおし、レイチェルの愛を取り戻そうとする。しかし、ヨークシャーに向かったフランクリンが事件ののち姿を消した(自殺した)ロザンナが残した証言と証拠を見つけたところ、それらはレイチェルの部屋から<月長石>を持ち出したのがフランクリンであることを示していた。ロンドンに戻ったフランクリンは策を講じて彼との面会を拒否していたレイチェルに会うが、彼女は自分の部屋からフランクリンが宝石を持ち出すのを見たという。フランクリンはその夜のことは覚えていないし、彼の手元には宝石はないのである。一体、何が起きたのか。彼は再びヨークシャーに向かう。

 フランクリンは宝石がなくなる前に開かれていたレイチェルの誕生祝に出席していた人々を訪ねて改めて証言を得ようとする。ヴェリンダー家のかかりつけの医師であるキャンディはその夜、雨の中を馬車に乗らずに帰宅したため体調を崩し、病気が長引いただけでなく記憶力が衰えてしまったために、その仕事を助手のエズラ・ジェニングズに任せたきりになっているという。フランクリンの顔を見たキャンディはいうべき何か大事なことがある様子なのだが、それが思い出せない。ジェニングズによると、例の夜に帰宅して以来、事件の手掛かりになるようなことは話していないという。ただ、ジェニングズはキャンディーにずっと付き添っていた間、彼がうわごととして言っていたことの中から手がかりがつかめるのではないかともいう。自身が不幸な恋愛の体験をもつジェニングズはフランクリンの告白を聞いて同情し、力になれることがあるかもしれないという。

 フランクリンはもともとかなりの喫煙家であったのが、それをやめたために不眠症にかかっていた。そのことを聞いたキャンディが薬の服用を勧めたのに対し、フランクリンが薬の効用を否定して大喧嘩になり、ヴェリンダー卿夫人が中に入ってやっと和解させたという経緯があった。(その前にフランクリンに会った時のキャンディが、誕生祝を愉快な経験だったというかすかな記憶を語っていたというのがここで意味を持ってくる。) どうも薬の効用を否定するフランクリンに対するいたずらとしてアヘンを一服盛ったのではないか、そして翌朝にそのことを告げにヴェリンダー家を訪問するつもりだったのが、思いもよらず病気になってしまったのであるという。キャンディのうわごとからジェニングズが読み取ったのは以上のことである。そしてフランクリンが宝石について心配していたことが、アヘンを服用したのちの水イン中の奇妙な行動になって表れたのではないかという。

 フランクリンの当夜の行動がアヘンを服用させられたことによるものであるというジェニングズの推理は、再度同じような条件の下で実験をすることによって確かめられるのではないかという。フランクリンは実験に同意する。しかし、ジェニングズの推理では、<月長石>の行方を突き止めることはできない。世間の噂では宝石はロンドンにいる金貸しのルーカーの手にわたり、銀行の貸金庫に入っているという。誰がヴェリンダー邸からルーカーのところまで宝石を運んだのか。

 この連載も30回を数え、物語の終わりに近づいてきた。わたしとしては、フランクリンの不可解な行動の説明がある程度なされた今回を持って、物語の紹介はやめたいと思う。この後、フランクリンはヴェリンダー邸にレイチェルを呼び、実験を行うことになる。その結果はどうなるのか、さらに<月長石>は誰によって銀行の貸金庫から持ち出され、どうなっていくのか、インド人たちは宝石を取り戻すのか・・・・というこの物語の終末については、読んでのお楽しみということにしておきたい。

 多くの人々によって指摘されているように、事件を解く重要な手掛かりとしてアヘンが使われているのがこの作品の推理小説といてみた場合の欠陥であって、もっと科学的に説明のつく仕掛けがなされていたほうが好ましい。作者であるコリンズ自身がアヘン常用者であったという事情も含めて、この作品を古色蒼然としたものとして営るように思われる。何度も書いてきたように、常軌を逸した行動が少なくない気まぐれなフランクリン、わがままで自己中心的な令嬢レイチェル、俗物で偽善者のゴドフリーなど、性格的に同情できない登場人物ばかりの小説ではあるが、であるがゆえに時代の特徴をよくとらえているともいえる。ヴィクトリア時代を英国の黄金時代として懐かしむ保守派の言説が全くもって信じがたいものであることを証拠立てる作品ともなっているのである。

 長々、お付き合いいただきまして、ありがとうございました。(この稿終わり)

黒田龍之助『もっとにぎやかな外国語の世界』

4月17日(木)曇り

 黒田龍之助『もっとにぎやかな外国語の世界』(白水社 白水uブックス)を読み終える。2007年に「地球のカタチ」シリーズの1冊として刊行された『にぎやかな外国語の世界』を増補、改題したものである。『にぎやかな外国語の世界』も読んでいるはずで、部分的にではあるが、記憶がよみがえってきた。

 黒田さんは外国語が好きで、「日本にいながら、外国語のある環境を自分で作る。それも1つや2つじゃなくて、たくさんの外国語がにぎやかに遊んでいるような、楽しい空間」(11ページ)を作ってきたという。この書物はそういうにぎやかな外国語の世界への案内書である。「本書では、世界の言語を少しずつ覗いて、その多様性をみなさんと一緒に楽しみたいと考えている」(同上)という。「世界の言語」といっても、黒田さんの主な関心からヨーロッパの言語、それもスラヴ系の言語が話題として取り上げられていることが多い。それでも、タイ語で書かれたスナック菓子のパッケージ(14-16ページ)、ハングル(25-28ページ)、ナーガリー文字で書かれたインドの小学校の教科書(30ページ)、ヘブライ文字で書かれたイスラエルの小学校の教科書(32ページ)などが紹介されている。文字について書かれた部分を読むだけでもこの調子である。できるだけ多くの言語を紹介しようとしている努力に頭が下がる。

 目で見る文字だけでなく、耳で聞く音も言語によってまことに多様である。「世界の言葉にはいろいろな音がある。日本語にも英語にもない音さえ珍しくない。いや、ないのではなくて、日本語や英語では意味の宇別に必要ないが、他の言葉ではこれを区別しないと混乱しちゃう音ということだ。性格を目指すと、まどろっこしくなってしまう」(55ページ)。特に印象に残るのは次の箇所:「南アフリカにコサ語ということばがあるのだが、これには舌を打ち鳴らしたり、喉の奥からポコンとやったり、日本語や英語にない音がたくさんあって、とてもにぎやかだ。わたしは暇があると、外国で出版されたコサ語の教科書を開いて、その付属CDに耳を耳を傾ける。すると憧れのポコンが聞こえる。/世の中は広いなあ。いろんな音があるなあ。それが全部出せるわけじゃないけど、世の中にたくさんの音があることを感じるだけで、とても豊かな気持ちになれる」(63ページ)。

 数の数え方や、名前の名乗り方も言語によって違う。単数、複数のほかに、2が特別扱いされる言語もある。ヨーロッパでは古代の英雄とか王様、宗教の聖人の名前など人気が集まるという。なお、「英語でジョンという名前も、キリストの弟子のヨハネが起源だ」(100ページ)というのは不正確。英語の辞書でJohnを引いていればわかるが、ヨハネというのはよくある名前だったようで、キリストの弟子で福音書の著者と呼ばれるヨハネよりも前に、イエスに洗礼を授けたJohn the Baptistがいたことを忘れてはいけない。地名についても、何語では問う言うかを知っておかないと、空港で困ることがあるというのはあちこちを旅行して身に着けた知恵であろう。

 では、世界の言葉はいくつあるのか。正確なところはわからない。「世界の言葉は本当にいろいろである。多くの国で話している言語もあれば、小さな地域だけで話している言語もある。同じ国の中でいくつもの言語があることは珍しくない。・・・言葉の世界はとてもにぎやかだ。これでは、全部でいくつの言葉があるのか、数えられないのも当然ではないか。/外国語を知ることは、世界の多様性を知ること、私はそう考えている。一つの外国語を熱心に勉強しなければならないこともあるけれど、いろんな世界を少しずつ覗くjことだって、視野を広げるためにはとても大切だ」(144ページ)。

 さらにこの後で、ラテン語やギリシア語についても触れて、「古典語も含めて、外国語をにぎやかに楽しみたい」(171ページ)としめくくるが、黒田さんの主な関心は生きている言語にあり、その意義を深く知るためにも古典が必要だという意見ではないかと思われる。というのは古代の言語の解読というような問題には触れていないからである。

 多少の意見の違いはあり、自分よりも多くの言語について習得の努力を重ね実績を積み上げたことへの妬みもあるが、外国語をたくさん勉強することの楽しみを味わうというところでは黒田さんに共感するところが多い。これからも黒田さんの本を読み、また自分でも時間と能力の許す限りいろいろな言語を勉強していきたいと思った次第である。

ロベレ将軍

4月16日(晴れ)

 シネマヴェーラ渋谷の特集上映「ナチスと映画Ⅱ」からジャン・ルノワールがアメリカで撮った『自由への戦い』(This Land Is Mine, 1943)と、ロッセリーニの『ロベレ将軍』(Il Generale Della Rovere, 1959)を見る。ともに第二次世界大戦でナチス・ドイツに占領された地域の人々の暮らしと戦いを描いた作品であり、改めていろいろなことを考えさせられた。特に強い印象が残ったのは『ロベレ将軍』のほうである。

 1943年に連合軍にシチリアを占領されたイタリアは無条件降伏して、バドリオ政権が成立したが、ナチス・ドイツはムッソリーニを首班とする傀儡政権をイタリアに樹立してさらに抗戦をつづけていた。そのドイツ軍が支配するジェノヴァの町、エマヌエーレ・バルドーネという初老の男が、ゲシュタポに連行された男性の家族を相手に、何とか話をつけて釈放してもらうようにするといって金をだまし取ったり、知り合った人々に怪しげな宝石を売りつけたりして、稼いだ金を賭博に使って無一文になってはまた詐欺を働くという生活を続けている。

 悪いことは続かず、とうとうその正体がばれてゲシュタポに連行されるが、そのミュラー大佐は以前にバルドーネと会ったことがあり、彼の才能を利用することを思いつく。ジェノヴァの町ではファブリツィオという名の男性が率いるレジスタンスが活動していて、ドイツ軍にとって目障りな存在になっている。連合国軍はバドリオ政権のロベレ将軍を送り込んでレジスタンスをテコ入れしようとするのだが、この計画はドイツ軍の知るところとなり、将軍を捕虜にする計画が立てられていた。ところが手違いで将軍は移動中に射殺されてしまう。そこで、バルドーネをロベレ将軍の替え玉として刑務所に送り込み、レジスタンスについての情報を探り出そうというのである。

 ところが同じ刑務所に入れられた政治犯たちの言動や、ドイツ軍の残酷で手段を選ばないやり方を見るにつれて、さらには自分のもとに会いに来たが(当然のことながら)ミュラー大佐によって阻まれた本物の将軍の夫人からの手紙などによりバルドーネは次第に、その気持ちを変化させていく。詐欺師としてだれからも相手にされなくなってしまっていた人物が獄中では英雄となるのだろうか?

 実話に基づいた小説が原作だというが、本物のロベレ将軍が単身敵地に乗り込むのはどう考えても無謀に思われる。そういう「個人技」に頼るところがイタリアらしいということであろうか。レジスタンスがロベレの奪回計画を立てる場面が挿入されているのは、抵抗運動の実際を再現しているのであろうが、それがどうなったのかが語られていないので不満が残る。バルドーネを演じているのはロッセリーニとともにイタリアのネオレアリスモを代表する映画監督であったヴィットリオ・デ・シーカで、軍隊では大佐にまで昇進しながら身を持ち崩してしまった人間の、狡猾に立ち回るかと思えば、他人のために無私の献身をいとわないこともあるという様々な面を巧みに表現している。映画撮影中にロッセリーニとデ・シーカがどのように意思を疎通させていたのか、気になるところである。

 1959年にヴェネツィア国際映画祭に出品された際のフィルムを復元しており、この年にイタリアで公開されたものより6分ほど上映時間が長くなっているという。字幕を岡本太郎さんが担当されているので、信頼感がある。本日がこの作品の上映の最終日であるというのは残念だが、平日であるにもかかわらず、映画館のかなりの席が埋まっていた。また、機会があれば見てみたいと思う。

日記抄(4月9日~15日)

4月15日(火)晴れ

 4月9日から本日(15日)にかけての日々の間で、経験したこと、考えたことなど:

4月9日
 「まいにちフランス語」入門編で出た話題:
 日本の喫茶店では、黙っていても水を持ってきてくれるが、フランスでは頼まないともってきてくれない。水を頼むときには、Un verre d'eau(グラス1杯の水), s'il vous plait.とかUne carafe d'eau(水差し1杯の水),s'il vous plait.という。文化勲章の受章者で数学上の業績だけでなく、その人物像によって多くの注目を浴びた岡潔の回想の中に、フランスに留学した際に食堂車で水をもらおうとEau, eauといったけれども、通じな買ったというものがあった。フランス語で論文を書くような学者でも、会話には興味がなくて失敗したという例であろう。

4月10日
 「まいにちイタリア語」応用編「イタリア:24の物語」はパドヴァを取り上げた。ダンテの同時代人であったジョットはその当時から第一の画家と考えられていた。『神曲』煉獄篇の第11回に「絵画においてはチマブーエが頂点にいたと思っていたが、今ではジョットの評判が高いせいで、その名声もかすんでしまいそうだ」と歌われているとおりである。彼はフィレンツェに住んでいたが、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画を描き、これは彼の代表作の1つに数えられているという。

 このブログをはじめて以来、読者の皆さんからいただいた拍手の数がこの日で1500を超えた。ご愛読に感謝するとともに、これからも頑張って続けていきたいと思う。

4月11日
 「まいにちイタリア語」応用編「イタリア24の物語」はボローニャを取り上げた。この市は”grassa, dotta e rossa"と呼ばれる。grassa(太った)いうのはボローニャ・・ソーセージやスパゲッティ・ボロネーゼ(正しくはアル・ラグーというそうである)に代表されるというこの市の食文化の豊かさにちなんで、dotta(学識のある)というのはもちろん、この市にあるヨーロッパ最古の大学にちなんで、rossa(赤い)というのは建物の色と、左翼的な政治傾向の意味を込めてのことだそうである。ボローニャは見たことがないが、京都大学に伝わる「京大反戦自由の歌」の中に「時計の塔の赤き壁 色褪せたれど」という個所があること、リヴァプール大学のヴィクトリア・ビルディングの煉瓦造りの赤い外観などを思い出した。

4月12日
 日本テレビの『ぶらり途中下車の旅』では日ノ出町駅から京急本線の沿線を取り上げていたが、探訪者が中華街や元町まで足を延ばすのは、ちょっと遠出のし過ぎではないかと思う。そこまでいかなくても、横浜には取り上げる価値のある店が少なくないと思う。

4月13日
 斎藤環『ヤンキー化する日本』(角川Oneテーマ21)を読み終える。「ヤンキー」と呼ばれる人々が体現しているエートス、「すなわちそのバッドセンスな装いや美学と、「気合」や「絆」といった理念の下、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合した一つの〝文化„(9ページ)が現代の日本ではかつてないほどの広がりを見せているという。私についてみると「気合」とは縁のあまりない人間であるが、最初に就職したときに、自分が不得意で経験の蓄積がほとんどない領域の教師にやとわれたため、「気合」で乗り切らざるを得なかったという思い出がある。教えられるほうの側から見ると、これはどんな経験であったのだろうか。

4月15日
 「まいにちドイツ語」入門編でIgel(ハリネズミ)という語が発音練習のために取り上げられた。ドイツでは親しまれている動物だそうである。そういえばグリム童話にも登場していた。英語ではhedgehogであるから、だいぶ違うなあと思った。ドイツに出かけたことはないが、英国ではハリネズミの人形をたくさん売っていて、買って帰って家族の顰蹙を買ったことがある。
 Igelの語末のlについては舌のポジションだけを考えてほしいといわれた。多くの日本人は文字があると、それを音にしなければならないと思っているところがあるが、そのように考えなくてもよいという。講師のハンス・ヨアヒム・クナウプ先生の発音ではlが聞こえるのだが、パートナーのズザンネ・シュテファンさんの発音では聞こえない。少なくとも私にはそのように聞こえたのだが、他の聞こえ方を経験された方もいらっしゃるかもしれない。

ゾラ『居酒屋 L'Assomoir』の周辺

4月14日(月)晴れ

 4月11日に放送された『まいにちフランス語」応用編「作家とともにパリ散歩」はゾラ(1840-1902)の『居酒屋』(1876)の中の、クーポーと結ばれて間もないジェルヴェーズが仲間たちとルーヴル美術館を訪問するくだりを紹介した。労働者や職人からなる婚礼の一行は、その中でただ一人のブルジョワであり、教養の面で優位にあると自負するマディニエ氏の案内で美術館の展示室をめぐるが、自分た地とは縁のない居心地の悪い場所にいるように感じ、途方に暮れる。展示されている作品を理解するのに必要な教育を受けていない彼らは、有名な作品を見てもその意義を理解できない、

 Il aurait fallu une heure devant chacune, si l'on avait voulu comprendre. (本当に理解するつもりがあったなら、ひとつひとつの絵の前で1時間は立ち止まる必要があっただろうに。) クーポーは『モナ・リザ』の前で立ち止まって、親戚のおばちゃんにそっくりだぜ、と言ったりする。

『居酒屋』を含むルーゴン・マッカール叢書は第二帝政期のパリに生きたルーゴン家とマッカール家の人々の性格や、彼らの運命を環境と遺伝とによって説明しようとしたシリーズである。講師の1人であるヴァンサン・ブランクールさんはCe que met en scene ici Zola, c'est la rencontre impossible entre la culture bourgeoise et le monde populaire.(ここでゾラが描こうとしているのは、ブルジョワ文化と庶民の世界のありえないような出会いである)とこの場面を要約している。しかし、第二帝政期のパリの労働者や職人たちが本当に美術が理解できなかったかということについては多少の疑問が残る。

 手元に資料がないので記憶に頼って書くのだが、この時期にローマ教皇庁を訪問した英国の文人で教育にも携わったマシュー・アーノルド(1822-88)はヴァティカンの高僧から、無学な職人たちが寺院内の美術品を実に的確に論評しているという話を聞いて強い印象を受けている。ルーヴルのほうは世俗的な作品で、ヴァティカンのほうは宗教的な作品であるし、実はイタリアの職人たちは自分たちの日常生活を通じてその審美眼を鍛えていたということのようであるが、無教養だから美術作品が理解できないというのは性急な決めつけである可能性もないとは言えない。

 『居酒屋』の原作は読んでいないし、ルネ・クレマンによる有名な映画化もまだ見ていないので、色々と書くのは遠慮するほうがいいとは思うのだが、ジェルヴェーズとクーポーの間にできた娘のアンナ(ナナ)は同じルーゴン・マッカール叢書の中の『ナナNana』(1879)の主人公になるし、ジェルヴェーズがクーポーと結ばれる前の恋人であったランティエとの間に設けた息子のエティエンヌは北フランスの炭鉱におけるストライキを描いた『ジェルミナール Germinal』(1885)の主人公となる。『ジェルミナール』もクロード・べり監督によって映画化(1993)され、日本でも公開された。その際の題名は『ジェルミナル』になっていた。

 なお、ゾラはパリ生まれだが、少年時代をエクス=アン=プロヴァンスで過ごし、中学時代の同級生であったセザンヌと長く親交が続いた。ゾラは印象派の画家たちを支持する美術評論も書いているようで、その点も考慮に入れてこの箇所を読むべきであろう。

詩を書くということ

4月13日(日)晴れ後曇り

 椎名誠さんの書いているものは好きで、よく読んでいるのだが、ごくまれに、承服しがたい意見に出会うことがある。最近出た『北への旅 懐かしい風に向かって』(PHP文芸文庫)という本については、3月17日の当ブログで書評を書いたが、その時はやめておいたけれども、どうも気になる個所が1か所あって、その部分について改めて書いておきたい。

 それは184ページから187ページにかけて掲載されている「野辺の花に」という文章の中の、北東北の農村の風景を眺めていて「宮沢賢治だったら、ここでどんな宮沢賢治の『ことば』を紡ぎだすのだろうか。そんなことを考えているとたちまち一時間は過ぎてしまう」(186ページ)という個所である。

 宮沢賢治という言い方があまり気に入らない。賢治、あるいはもっと親しみを込めて賢治さんというほうがこの詩人には似つかわしいというのは、ファンの言いぐさであろう。私はそれほど賢治には肩入れしているわけではない。ただ、自分が詩を書いているからその経験で言えるのだが、「どんな宮沢賢治の『ことば』を紡ぎだすのだろうか」という表現のよそよそしさは許せないと思うのである。賢治の詩はもっと自然に彼の内面から出てきた言葉を並べたものだと思う。

 グリム童話に口を開くと、言葉が金貨になって出てくるという話がある。それほど無理に考えなくても、詩を作ることのできる人がいるし、そうかと思うと、いくら考えても詩が作れない人もいる。賢治が自分の作品を「心象スケッチ」と名付けたことはさておいても、彼がわりに自然に詩を書くことができた人であることは否定できない(その詩、もしくは「心象スケッチ」を文学的にどのように評価するかはさておいても)。「自然に」という言葉はあまり好きではないのだが、賢治が「自然に」詩を書いた人であると思うので、「紡ぎだす」という表現には違和感があるのである。

 椎名さんが当代一流の散文家であることは多くの人々が認めることであろうが、その一方で、詩が分からない人であると言えるのかもしれない。ちょっとした言葉の切れ端をとらえて、そういうことを言うのは全く失礼なことではあろうが、気になったことなので書き留めておく。

語学放浪記(28)

4月12日(土)晴れ

 NHKラジオの語学講座は2週目が終わった。これまでも書いてきたように、ラジオ番組を聴くだけでなくプラスアルファの努力が必要だと思って、色々と手立てを考えているのだが、なかなか実現しない。

 これまで、このブログでは私が英語をはじめとして、学校で教えられたり、ラジオやテレビの語学番組で取り上げられたりする、いわば主要言語とどのように付き合ってきたかについて書いてきたが、本当のところ、これまで書いてきた他にも、いろいろな言語を勉強しようと思い、ある言語については取り組み始めて、しばらくして投げ出し、ある言語については入門書を買っただけで投げ出し、ある言語については心の中で思うだけで実際には取り掛からなかったという経緯がある。スウェーデン語とか、ポーランド語とか、ハンガリー語とか、それぞれに勉強しようと思うに至った理由があり、そういう言語を列挙していくとかなりの数になる。

 言語への好奇心の先には何があるのだろうか。空港の売店で自分の旅行先でもない地方への旅行記を突発的に買うことがある。旅行先の本屋で、特に必要とするわけでもない言語の入門書を買ってしまうことがある。その言語を使って生活している人々の暮らしとか、社会の在り方についても興味があるが、それ以上にどのような文学作品が生み出されてきたかということに関心を持っている。

 自分でも詩を書いているから、外国語で書かれた詩にも興味がある。とはいっても、吉田健一が英語やフランス語の詩を口ずさみながら、目に涙を浮かべたなどというのは全く他人事である。私の場合は、W.B.イェイツの詩を英語で読んで、その意味は理解できても、詩としての価値を実感できるという域には達していない。イェイツの詩の背景にあるアイルランドの文学的な伝統についての理解も不足している。アイルランドに滞在した折には、この国の豊かな文学的伝統を本当に理解するには英語のほかにアイルランド語とラテン語の知識が必要だなと思った。ラテン語のほうは少しずつでも勉強してきたが、アイルランド語にはなかなか手が回らない。アイルランドに限ったことではない。映画『ハーフェズ』を見て、ペルシャ語の音の美しさとその文学的な伝統を改めて感じ、ペルシャ語を勉強しようかと思ったが、アラビア文字を見ただけで恐れおののいてしまって、書店で入門書を覗き見るだけで済ませている。

 文学的な興味から勉強したいと思った言語以外にも、別の理由で興味を持った言語もある。社会言語学的な興味というのか、少数言語に興味を持って、イベリア半島のカタルニヤ語とか、ガリシア語の入門書を買って読み始めたこともあるし、オランダの一部で話されているフリジア語についても入門書を購入した。どちらかというとヨーロッパの言語、その中でもロマンス語のほうに興味が向っている。一種の出来心で、アメリカに本部のある「(絶滅の)危機に瀕している言語(を守るための)基金」という団体と連絡を取っているのだが、そのニューズレターにスペインの北西部の3つの村だけで話されているファラ(Fala)語という言語を記録するだけでなく、その言語を使って生活している人々の農業や牧畜における伝統的な勤労や日常生活の姿を保存しようという試みが紹介されていた。ファラ語はポルトガル語やガリシア語に近い言語だそうである。勉強する気は起きないが、その存在を知っただけでも得したような気分になっている。

ドン・ジョン

4月11日(金)晴れ

 4月10日(金)シネマライズで『ドン・ジョン』を見る。アメリカ映画で主演者の1人でもあるジョセフ・ゴードン=レヴィットが監督している。ということは、彼なりに物語に魅力を感じて取り組んでいるということらしい。

 主人公の青年ジョンは整った顔立ちに加えて体を鍛えることに人一倍熱心である。毎晩、違う女性を誘ってベッドを共にしているが、どうも満足できない。インターネットのポルノサイトを見て自分の欲望を満たすという生活を続ける。ある夜、ブロンドの美しい娘バーバラを見初め、熱心に誘うが、彼女はなかなか手ごわく、彼に大学の夜間コースに通うことを勧めたり、色々と注文を付けてくる。その大学で、少し年配の女性が一人で泣いているのを見かけ、それをきっかけに知り合う。彼女は自分と比較的年の近いジョンに親しみを覚えてきたように見える。さてジョンとバーバラの関係は進み、お互いの家族に顔合わせをしたりするが、ジョンはバーバラにポルノは見ないと嘘をついて、見つからなければいいさとまだ見続けている…ところが・・・。

 普段ならばこういう展開の映画は見ないのだが、XP問題で使用するパソコンを取り換えたりして身辺がざわつき、ついでに精神状態もざわざわしていて、少し気分を変えてみようかと思って見に出かけた次第。『ドン・ジョン』という題名から連想されるのはドン・ファンである。伝説的なプレイボーイであるドン・ファンの場合、女性を征服することが自己目的化してしまうところがあるが、この映画の主人公はヴァーチャルな世界の中でしか征服欲を満足できないところがあるらしい。女性を自己実現の手段にしてしまうという生活態度は否定されるべきであるが、克服するのが難しいという現実もある。それを喜劇的に誇張しながら描いていく。

 本家ドン・ファンであるモリエールの主人公が神を信じないのに対して、こちらはすでに親元を離れて一人暮らしをしているのに、日曜日になると父母・妹と一緒に教会に出かける。そして神父を相手に告解をして、自分の1週間の行いを正直に打ち明け(正直でないこともある)、××の祈りを何回唱えなさいといわれて、罪を許されている。そのやり取りがおかしい。禁欲的なプロテスタント信者にとっては腹立たしい場面かもしれないが、いい加減なところがあるからジョンは教会に通い続けることができるのだろう。

 カトリック信仰と性の悩みの問題といえば、鈴木隆原作、鈴木清順監督の『けんかえれじい』の主人公が思い出されるところだが、ジョンのほうが暴力的でない代わりに言行があからさまである。暴力行為の原因の一つは人生が思い通りにならないことへの怒りの表出であるが、この主人公の不満は大きくはないけれども(少なくとも彼にとっては)複雑なものである。複雑に思えるのは、問題は彼が自分を変える、あるいは自己実現の方向を変えない限り、解決できそうもないものであるが、人間そう簡単には自分を変えようとは思わないからである。

 ジョンとバーバラの関係がどうなっていくのか、二人は結ばれるのか、あるいは別の結末があるのかといろいろと予想しながら見ていく楽しみがあり、予想が外れてもそれほどがっかりしない。もう少し若い頃ならば自分の恋愛体験に引き付けていろいろと考えるところがあったかもしれないが、年を取ってから見るとストーリーの展開を楽しむ以外に見どころが少ない映画であるというのが正直な感想である。 

休み時間

4月10日(木)

 休み時間

近くのビルの
クリニックに務めている
看護師らしい女性が
地下街の蕎麦屋で
天ぷらそばを食べ終えて
そのまま出ていくのかと思ったら
今度はスマートフォンを手に取って眺めている

勤務の合間に
どうやら見つけた自分だけの時間
大事に使いたいらしい

そういえば
むかし
看護師になるための
短大で教えていたことがあった

大学で教え
短大で教え
海岸沿いの道や
並木道を
車で走り抜けていた
道端の草木や花の
四季の移り変わりが
いやでも目に飛び込んできたことを
思い出す
教えていたことだけではない
窓からの眺めも今は懐かしい

間もなく昼休みは終わって
また仕事の時間が始まる
仕事も大事だが
休息も大事だよねと
ひそかに励ましの言葉を送る

森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(6)

4月9日(水)晴れたり曇ったり

 この書物の本文については紹介を終えたが、巻末に置かれている「付論」はこの書物の性格を概観したもので見落としがたいものなので、取り上げておきたい。

 『太平記』には多くの写本が残されているが、全40巻のうち22巻が欠けているものがこの書物の古い姿を残すものであり、22巻を備えたものは後世の手で改ざんされたものと考えられている。前者に属する写本を古態本、後者に属するものを流布本と呼んでいる。関数は両系統ともに全40巻であるが、古態本には欠巻があり、個々の段には出入りがある。

 このような姿で伝わっている『太平記』は成立当初のものではない。何度も書写を重ねるうちに、増補や書き継ぎが加えられて現在の形になったのである。それではもともとの『太平記』はどのような形だったかを考えてみる必要が生じる。このことを考えるための唯一の同時代史料が今川了俊の『難太平記』である。この書物は九州探題として室町幕府の確立に貢献しただけでなく当代一流の文人でもあった了俊が応永9(1402)年、77歳の時、今川家の沿革と了俊が父範国から聞いた所伝を子孫に伝えようとした教訓の書であるが、そのころ読まれかつ増補が続けられていた『太平記』が今川家について十分に記述していなかったために、そのような問題点について指摘した個所があり、それが当時の『太平記』の姿とその成立の過程を知る上で重要な手掛かりを提供することになるのである。
 
 『難太平記』の記述を分析すると、康永―貞和頃(1340年代)に法勝寺の恵鎮上人がまとめた30巻以上に及ぶ書物を足利直義のもとに持参し、これを玄恵という僧が直義に読み聞かせたが、直義は錯誤が多いと考え、添削作業を行うことを命じた。おそらくは直義の失脚のためにこの作業はいったん中断したが、再開後はその当時の有力者たちの所望を入れて、武勇談などが取り入れられた。こうして『太平記』はかなりの年月をかけてその作者集団を変化させながら書き継がれたと考えられる。こうして『太平記』は足利直義の時代に書き始められ、管領細川頼之の時代に完成した。

 このような時の権力者との関係の中で成立した『太平記』はその時の政治情勢を反映した微妙な揺れはあるものの、その編集の基本的な姿勢に変化はないと考えられる。著者は『太平記』の中の「主上」「先帝」「官軍」「朝敵」などの言葉を拾い出し、その意味内容を調べることを通じて、武家政治がこの書物の序文で述べる天の徳、地の道にかなったものとしてその支配を確立したというのがこの書物の趣意であると論じる。「『太平記』は軍記物語の形態をとりながら、実は、室町幕府政治の成立・展開の必然性を歴史の中から解き明かし、幕府支配を合理化し、かつ正当化するというすぐれて政治的な性格を合わせもっている」(319ページ)とする。

 『太平記』には後醍醐・後村上天皇や、南朝の廷臣たちの活動、「勤王」の武将たちの悲壮な忠義・忠節が、誇張されて劇的に描かれている。戦争の時代に突入する中で、このような箇所だけが全体から切り離される格好で取り出され、日本精神・天皇主義の鼓吹に利用されたのは『太平記』にとっても不幸なことであったと著者は論じる。著者は戦前の『太平記』の読まれ方(とその教育上の取り扱い)について論じているのであるが、その影響は戦後にもかなり強く及んでいたように思う。私なども『太平記』は南朝より、『梅松論』が室町幕府寄りと長い間信じ込んでいたものである。『太平記』は部分的に、『梅松論』は全部を読んでいるというのに、なかなかこの考えが捨てられなかった(なお、『梅松論』を全部読んだというのは、こっちのほうが短いからである)。

 『太平記』はこれまで角川文庫版(この書物の11ページに参考にしたと触れられている)と新潮社版で途中まで読んでいるのだが、改めて全部を読んでみようと思っている(読みやすい角川文庫版が2巻までで中断しているのがまことに残念である。3巻以下を出してほしい)。「平家なり 太平記には月も見ず」(其角)というが、王朝風の「風流」とは違う新しい価値観を作り出そうとする時代の文学として、『太平記』には独自の魅力がある(これは私の好みの問題であって、『平家』のほうがすぐれているという人に対して敵意を持っているわけではない)。そしてその魅力を支えているのが、この『太平記の群像』に描かれた「南北朝を駆け抜けた人々」の個性であったことは確かなのである。

日記抄(4月2日~8日)

4月8日(火)晴れ

 4月2日~8日のあいだに出会った出来事、考えたことなど:

4月2日
 NHKの番組「ひるまえほっと」で栃木県佐野市ではクリケットが盛んにおこなわれていることを伝えていた。英国滞在中にTVによる中継を見たことはあるが、実際に競技しているところを観たことはない。英国発祥のスポーツであるが、インドやパキスタンなど英国の旧植民地に広まったので、競技人口は野球より多いという説もある。

 NHKBSプレミアムでブレーク・エドワーズ監督の『グレート・レース』を観る。オープニング・タイトルが活動写真時代への郷愁を誘うが、大成功作とは言い難い。それでもジャック・レモンの1人2役とか、ドロシー・プロヴァイン(もっと出番が多いような記憶があった)の歌と踊りなど見どころがないわけではない。何といってもヘンリー・マンシー二の音楽と主題歌がいい。トニー・カーティス、ナタリー・ウッド、ピーター・フォーク、それに監督と主要なスタッフ・キャストが故人になってしまったのは仕方がないといえば仕方がないが、それだけ私も年をとったということである。

4月3日
 NHKラジオまいにちイタリア語の応用編「イタリア:24の物語」の再放送はミラノから始まる。ミラノにはいろいろな側面があるが、ここではレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐(L'Ultima Cena)」が話題として取り上げられていた。英語ではThe Last Supperという。dinnerではなくて、supperという言葉が使われているところに意味を読みとるべきである。

4月4日
 まいにちフランス語応用編「作家とともにパリ散歩」の再放送で、モーパッサンがエッフェル塔が嫌いだったという話が出てきた。そういえば、京都タワーができるときにも美観を損ねると反対する人がいたのを思い出す。逆にエッフェル塔が好きな人もいて、映画監督のトリュフォーもその1人であった。

4月5日
 サッカー女子U-17の日本代表チーム<リトルなでしこ>が6戦全勝という成績でワールド・カップ制覇を成し遂げた。優勝を祝うとともに、選手1人1人のこれからの活躍を期待したい。

 伊藤遊 谷川竜一 村田麻里子 山中千恵『まんがミュージアムへ行こう』(岩波ジュニア新書)の中に紹介されているロンドンのマンガミュージアムに出かけたことがあるのを思い出した。それよりも、土産物屋などでマンガの絵葉書を売っていることの方が印象に残っている。マンガとはいえないが、一面が灰色に塗られていて「これが霧のロンドンです」というような説明だけが書かれているなんてものがあった。そうかと思うと、エディンバラで見かけた絵葉書にはネス湖の怪獣が観光局相手に「こないだ食べた観光客はうまかったので、もっと観光客を寄こしてください」などと舌なめずりしながら手紙を書いているという図は、かなり鮮明に覚えている。買ってこなかったのをいまだに後悔している。

4月6日
 映画を観に出かけるつもりだったのだが、天気が荒れ模様になるというのでやめて家で飲み残しの酒を飲んでいた。

4月7日
 まいにちフランス語入門編「話せるフランス語」で出てきた話題:フランスのカフェでUn café, s'il vous plait. と頼むと日本でいうところのエスプレッソが出てくる。日本で飲むようなコーヒーが飲みたければ、Un double s'il vous plait.といって注文するのだという。コーヒーの飲み方一つとってみても国や場所によっていろいろな違いがありそうである。

4月8日
 今日は7:20頃に目を覚ましたので、朝のドイツ語の時間を聴き逃し、15:15からの再放送だけを聴いた。フランス語とイタリア語は、朝の時間と再放送の時間をともに聴いている。フランス語とイタリア語が簡単な会話に入っているのに対し、ドイツ語はそこまでいかず、発音や文法をめぐる基礎的な事柄をゆっくり説明している。だからといって、1回くらい聴き逃してもいいだろうなどと思わずに、気持ちを引き締めて勉強していきたい。

飯沼賢司『八幡神とはなにか』(2)

4月7日(月)晴れ、日差しは温かかったが、まだ風は冷たく感じられた。

 東大寺の大仏造立に八幡神が深くかかわっていることは、歴史的な事実としては知っていたが、それがなぜかということにまで考えが至らなかった。この書物はこの問題を解き明かそうとする試みである。実は私、若い頃に東大寺の大仏造立についての展示物の作成に携わった経験があり、その後は2回ほど、外国人を案内して東大寺を訪問したことがある。それで、東大寺には特別の思い入れがある。それで、今回は多少の脱線をするかもしれないが、我慢して付き合って下さい。

 『八幡神とはなにか』の第2章は「仏に帰依した神」と題されている。まさにこの性格のために神仏が融合した神仏習合による鎮護国家の実現に決定的な役割を果たすことになる。その実現は鋳造が終わって間もない大仏を拝するために八幡神が入京することによってなされたのである。

 著者は九州で活動しながら聖武天皇の鎮護国家の体制の確立に大きな役割を果たした法蓮と、畿内にあって大仏造立のために力を尽くした行基に、その活動範囲の違いにもかかわらず共通点があると主張する。両者ともに中国に留学して玄奘に学んだ飛鳥寺の道昭と何らかの接点をもち、その宗教思想の影響を受けていると考えている。両者はともに山林で修行する生活を送っていたが、法蓮は医療活動としての放生を通じて鎮護国家の仏教の実践に努めた。他方行基は民衆の中に入り、道昭から学んだ土木技術を生かして人々の生活を改善することに意を用いた。行基の仏教は当時の国家仏教のあり方に反するものであったために弾圧をうけるが、天平12(740)年に河内(大阪府柏原市)の知識寺の盧舎那仏を観て、知識(同信集団)の素晴らしさを認識した聖武天皇により大仏造立への協力を求められることになる。聖武天皇は自らが発願主となり一大知識を結集して大仏を建立しようと考えたが、そのためには行基と彼に従う人々の協力が不可欠であった。

 聖武天皇は行基とともに菩薩国家の実現を目指すが、それに対する反対にも根強いものがあった。反対勢力は、奈良に拠点をもつ藤原氏と考えられるが、その中心は天皇の最も身近な存在であった光明皇后であり、その下で頭角を現した藤原仲麻呂であった。皇后について、「二人の関係は決して蜜月の関係ではなく、藤原氏という氏の影を背負う皇后と藤原氏の影を嫌う天皇との間には冷たい風が吹いていた」(67-8ページ)とする万葉研究者の説を援用したりしながら、天皇と皇后・仲麻呂の対立を描き出す。やがて情勢は後者に有利に傾き、大仏は奈良に造られることになる。「天皇には、藤原氏の氏寺の春日大社と興福寺の前にある金鐘寺の地に、律令国家の中心となる東大寺を建設するのは、藤原氏に屈することのようにしか思えなかったかもしれない」(69ページ)。一方、「光明子は唐の高宗帝の皇后で後に皇帝となった則天武后が造立した龍門の盧舎那石仏をイメージしていたのではないだろうか。それは天皇の理想とする民衆的「知識」が、「一枝の草、一把の土を持ちて造を助け造る」という造営形態とはまったくかけ離れた官僚主導の形態となったといわれる」(69-70ページ)。このような造立形態のなかでは行基もその役割を演じることができず、天平21(749)年にこの世を去る。通説では天皇は意欲を失って娘である阿部内親王に譲位し、孝謙天皇が登場するということになるのだが、聖武天皇はそれほど簡単に理想を捨てるタイプの人物ではなかったというのが著者の考えである。

 平城京の東大寺で再開された大仏造立は、天皇の意に沿うものではなかったが、大仏を中心とする法都の夢は現実のものになりはじめていた。聖武天皇は天平20(748)年に造東大寺司を設置して、造仏所・写経所の管轄権を皇后から取り戻し、大仏主導権の回復をもくろみ、また八幡神の神官たちに位を授けて入京への布石を打っていた。さらに左大臣橘諸兄をはじめとする側近の勢力の強化に意を用いた。その後、天皇は仏道に専念するためと称して退位するが、これは退位によって天皇制の枠を超え、聖・俗のトップを一体として支配しようと考えたのであると理解している。

 天皇の理想は多くの人々が大仏造立の事業に参加し、そのことによって「凡夫の菩薩」の道を歩みはじめることにあったが、実際には多くの民衆は仏教とは無関係であった。『このような仏教とは疎遠な多くの人々を、菩薩の道に導くには、最後は日本のすべての神々の仏教への帰依が必要であった。ここで企画されたのが、八幡神の入京という一大イベントである。/八幡神は軍神として律令国家の西方の境界を護り、放生という仏教的手段によって、殺生によって引き起こされる病から国を護った。その意味で、八幡は日本初の鎮護国家の神であった」(74-5ページ)。天平勝宝元(749)年に八幡大神は託宣して平城京に向かう。

 こうして八幡神の女性神官である禰宜の大神杜女が東大寺に入り、大仏を拝んだ。彼女はシャーマンであり、神が乗り移った状態で大仏を拝んだことは、神が大仏を拝んだことであると理解できる。「日本で最も早くから仏教と遭遇し、仏教的医療行為である放生ということを通じて、鎮護国家を実現しつつあった八幡神は天神・地祇すなわち、日本のすべての神々を仏教の道に導く神として、神々の頂点に立ったのである」(77ページ)。八幡入京は、天皇の支配するすべての国土の神々を仏教の道へ誘うという一大イベントであった。

 しかし、反対勢力は皇后宮を発展させ、紫微中台という太政官に準ずる巨大な役所を作り始める。これは光明子と藤原仲麻呂が、聖武太上天皇の政策に対抗する措置であり、両者の綱引きが公然と行われるようになる。天平勝宝3(751)年には聖武太上天皇が重病となり、翌年の大仏開眼供養に際して、東大寺の記録では聖武、光明子が東大寺に行幸したとされるが、『続日本紀』には孝謙天皇の行幸しか記されていないという。

 光明子と仲麻呂の勢力が優勢になるにつれて、聖武に近い僧侶や神官が弾圧を受けるだけでなく、八幡神自体も一種の「配流」をうけることになる。天平勝宝8(756)年についに聖武太上天皇は亡くなり、菩薩国家の実現という夢は消え去る。

 飯沼さんの考えでは菩薩国家実現の理想を追う聖武天皇とより現実的な光明皇后・藤原仲麻呂の対立のなかで八幡神は天皇の理想の一端を担い、その実現を助けようとする存在であったということである。大仏開眼供養の盛儀の陰で政治的な綱引きが行われていたというのは文学の題材になりそうである。昔、有吉佐和子の『光明皇后』という戯曲の舞台中継(文学座)をラジオで聞いたことがある(古いね)が、それよりも面白くなりそうな感じがする。

 大仏開眼供養の際に開眼師を務めたのはインドから中国を経由して日本にやってきた菩提僊那という僧で、東大寺の四聖の一人に数えられる(あとの3人は良弁、聖武天皇、行基)。東大寺では菩提僊那ではなく、波羅門僧正という呼び方をしている。日本にやってきた菩提僊那と行基の出会いをめぐっては伝説があり、それをもとにして小説を書きかけているのだが、うまくまとまるかどうか。東大寺所蔵の「四聖御影」の写真を撮影させていただいたことなど、もう40年以上も前のことであるが、今でも覚えている。東大寺というとさまざまな思いが交錯してしまってなかなか収拾がつかないところがある。

飯沼賢司『八幡神とはなにか』

4月6日(日)天候定まらず、時々雨

 飯沼賢司『八幡神とはなにか』(角川ソフィア文庫)を読み終える。2004年に角川選書の1冊として刊行された『八幡神とはなにか』を文庫化したものである。

 「八幡神は、恐ろしい人を殺す軍神の顔から慈愛にあふれた里の鎮守まであらゆる顔をもつ不思議な神である。現在日本には、小さなものまで含めると、四万社以上の八幡宮がるが、この神は、最も身近な神であると同時に最も民衆から遠い国家神でもあった」((10ページ)と著者は言う。この書物では豊前国(大分県)の宇佐八幡宮の成立と発展、さらに東大寺の大仏の造立とのかかわりからこの神が国家との結びつきを通じてその信仰を拡大してきたこと、さらに神仏習合や御霊信仰との結びつきによってその性格を変えてきたこと、宇佐八幡宮と石清水八幡宮の統合の過程とその中での権力との結びつきや権門化の動きなどを取り上げて、12世紀までの八幡信仰の性格の変化と特質を論じている。したがって、鶴岡八幡宮などは記述の対象外ということになる。

 長く宇佐八幡宮と八幡信仰の研究に携わってきた中野幡能は、八幡神をこの地に存在した地域国家の地域神あるいは氏神として祭祀されていたと考え、それが通説となってきた。宇佐の地は律令国家の時代には辺境と考えられたかもしれないが、それ以前には有力な地域国家の所在地であったかもしれないというのである。これに対し、著者は偏狭だからこそ、国家神というべき神が出現したのではないかと考える。宇佐は古代国家にとって、隼人の土地と境を接する辺境の地でありそれゆえにこそ古代国家の成立と密接にかかわっていた。「おそらく、八幡神は豊前国の渡来系の人々が律令国家の対隼人政策の尖兵にされた時に、その軍神と国境を衛る神が連動して創設された神であると考えられる」(22ページ)と著者は考えている。

 「日本で最も早い段階で仏教に遭遇し、それと結合した神が八幡神であろう」(26ページ)。著者は8世紀に豊前の国で医療活動に従事して国家からその功績を認められた法蓮という僧侶の活動に注目する。彼は放生という行為を導入したが、これは宇佐八幡のもっとも重要な祭である放生会に連なるものである。戦闘行為は国を守るものであるとはいえ、多くの死者を生みだす。死者の怨霊により疫病やその他の災害がもたらされると考えられていたので、死者の慰霊の行事である放生が意味をもつのである。

 八幡信仰は日本と新羅の関係が悪化するにつれて新羅に対して戦う神としての崇拝をうけるようになる。疫病から人々を守る神としての性格も備え、両者が分かちがたく結びついていたのである。さらに740年に起きた藤原広嗣の乱においても八幡神の神威が期待された。この乱が隼人による最後の反乱という性格も持っていたことから、もともと対隼人の神であった八幡神への信仰はさらに強まることになる。八幡宮には弥勒寺という神宮寺が建立されるが、これは国分寺の建立と趣旨を同じくするものであったと考えられる。「ただ、八幡宮が国分寺とまったく異なるのは、仏教による鎮護国家だけではなく、神と仏が融合した神仏習合による鎮護国家という、これまでにない日本独自の鎮護国家の方式を確立していたことである」(52ページ)と著者はその性格についてまとめている。このような性格が東大寺の大仏造立に際して、大きな役割を果たすもととなるのである。

 著者である飯沼さんは大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館における勤務を通じて、宇佐八幡宮やその周辺の地域についての踏査活動を積み上げただけでなく、中野幡能からも多くの教示をうけながら、その研究を進めてきた。従って中野をはじめとする先行研究者たちの業績に対して多くの異論を唱えているとはいうものの、それぞれが実証的な根拠に基づくものである。このことが著者の議論を魅力的であるだけでなく、説得力に富んだものとしている。今回ははじめの方の部分の紹介だけに終わってしまったが、この書物の面白さはこれから紹介する部分にあると思うので、読み続けていただきたい。

語学放浪記(27)

4月5日(土)晴れたり曇ったり、一時雨
 このシリーズでは、これまでどういう言語をどのように勉強したかという回想が多かったのだが、今回は今、何をしているか、これからどうしていきたいかを書いてみる。

 3月31日からNHKラジオの語学番組がそれぞれ新しいシリーズに入った。そういうこととは関係なく、自分の意思で学習計画を立てて実行していくことができればよいのだが、外部の刺激に頼って学習する方が容易に感じられて、それが習慣化している。今年度からドイツ語を勉強してみようと決心した。フランス語とイタリア語だけでもかなりの負担になるのに、さらにもう1つ加えるのは無謀かもしれないのだが、最悪の場合はフランス語だけが上達すればよいというつもりで、それ以外の目標は低く、努力はできるだけ切り詰めて取り組んでいこうと考えていた。

 実際の番組の内容を検討してみると、当初の予定を多少変更する必要が生まれてきた。ドイツ語は入門編がKompass、応用編が「言うが花のドイツ語 Wer spricht, gewinnt.」でともにコミュニケーション力をつけようという目標を掲げている。講師の1人のハンス・ヨアヒム クナウプさんとパートナーのズザンネ シュテフェンさんの自己紹介があまりよく聞き取れなかったとはいうものの、これまでのところ、内容についていくことよりも、放送時間(7時から7時15分まで)に目を覚ましていることの方が難しいという感じである。まあ、油断せずに続けていくことにしようと思っている。

 フランス語は珍しく初級編ではなくて、入門編として「話せるフランス語~文法より実戦練習」ということで、会話に力点を置いたコースを設計している。これまでかなりの回数フランス語の時間を聞いてきたので、だいぶ耳が慣れてきたとはいうものの、口で発音する方はなかなかうまくいかない。フランス語については、辞書を引いて本が読めるというレヴェルを目指すとはいうものの、ある程度発音ができないと読むことにも支障が出るので、しっかり練習を重ねるつもりではある。その一方で応用編の「作家とともにパリ散歩」の再放送では、パリを題材とするさまざまな文学作品が取り上げられている。分かりやすいものを選んでいるのかもしれないし、一度放送を聞いているのだが、かなりの手ごたえを感じる。放送を聞くだけでなく、教材を自力で読み進む努力をしなければと思うのだが、なかなか手が回らない。

 イタリア語は入門編が「イタリア語のシャワーを浴びよう! Facciamo una doccia d'italiano!」でやはりコミュニケーション力をつけることに重点を置いているが、10月から少し高度な「初級編」へと連続することを目指している点がドイツ語、フランス語とは違う。こちらもだいぶ耳が慣れてきた感じであるし、イタリア語の方がフランス語に比べて日本語との発音の違いは大きくないとはいうものの、実際にイタリア語を母語とする人の話し方は速いので、やはり口に出して発音していくことの困難に変わりはない。応用編は「イタリア:24の物語 L'Italia in 24 storie」の再放送で、イタリアの各都市にまつわる様々なエピソードを紹介するものである。フランス語の応用編がパリだけを取り上げているのに対して、イタリアはいろいろな都市を取り上げているというところが、それぞれの国柄をよくあらわしているといえよう。イタリア語は実用というよりも、趣味で勉強していると割り切っているので、その点は気楽である。

 ドイツ語とイタリア語の入門編がそれぞれ「欧州共通参照枠」(CEFR)の一番初歩の段階であるA1(簡単な自己紹介ができるレヴェル)を参考にして作成されているというのは興味深く、やる気をかきたてるところである。勉強方法についてみると、今までのところ特にノートを作らず、テキストに書きこむだけで済ませている。もっとも来週以降、気が変わって一部のコースについてはノートを作成することになるかもしれない。またそれぞれの時間に何を学んだかについて全体的に見ることができるようなメモは作成している。

 フランス語については以前にも書いたように清岡智比古 レナ・ジュンタ『フランス語初級卒業講座』を読んで勉強しようと思っているのだが、なかなか計画通りに読み進めることができないでいる。このほかにラテン語の勉強を再開しようと思っているのだが、なかなか時間が取れない。ノートにラテン語のことわざを書き記して、時々読みなおすように心掛けるという程度のことしかできそうもない。これからも時々、現況報告のようなことは書いていきたいと思っている。

新学年に

4月4日(金)雨がいったん上がったが、その後また一時雷を伴って激しく降る。

 4月から新しい学年度に入った。もっともこちらは既に退職しているので、関係のない話である。それに真理の探究に時間の切れ目があってはならないのである。

 初めて就職した学校の物理の先生が京都大学で学ばれた方で、私が教養部で田村松平先生の物理学の授業を受けたという話をしたら、田村先生についての次のような思い出を語られた。大学に入学された当時のことであろうか、理学部で田村先生が相対性理論の講義をされるから聴いた方がいいということで教室に出かけたが、授業の内容がさっぱりわからない。授業が終わった後でやっとわかったことは、先生は昨年の授業が終わらないまま、新しい学年になってもまだ授業を続けているということであったという。

 私は物理学には素人なので、よくわからないが、相対性理論というところがどうも気にかかる。田村先生は私が調べたところでは日本で初めて量子力学の研究を手がけられた方で、その後、後輩である湯川秀樹教授の研究グループの重鎮として活躍された。先生が講義されていたのが本当に相対性理論についてであったのか、あるいは量子力学であったのかについては他の証言を待つべきであろう。

 とはいうものの、田村先生はある時代に京都大学で学んだ者にとっては生きた伝説といえる存在であった。先生が京都大学教養部で文科系の学生相手にどのような授業をされ、どのような評価をされたかについては真継伸彦の『青空』という彼の京大時代の思い出をつづった小説があって、その中に「村田教授」というのが登場するので、その個所を読んでいただきたい。「物理学と天皇制」という試験問題を課したとか、その採点は学生の自己評価に任せたとか、どこからどこまでが本当のことかわからないことが書かれている。教えをうけた学生であった人たちが勝手に伝説を作り上げている部分もありそうである。

 先生につきまとっているさまざまな伝説を新制大学出発時の混乱の一こまとして片づけるのはあまりにも乱暴である。真理の探求には時間の切れ目などあってはならない。講義の内容は計画的に構成すべきではあるが、学問研究の創造的な過程を講義に反映させることに努めるならば、途中で新しいことがわかる場合だってありうる。だから、新しい学年になっても、前年の講義をまだ続けているということはあってもしかるべきである。とはいうものの、こういう場合、学期(学年)末に教務係に提出する成績はどういうことになるのであろうか。

 成績といえば私は高校時代、物理の成績が悪く、それで自分の進路について制約された。文科系の学部に進学するのに、理科系2科目を必要とするという時代に受験生であったのは不運ではあったが、今さらそんなことを蒸し返しても仕方がない。理科系と文科系とを問わず、秀才と鈍才とを問わず、同じ大学に入ってしまえば、同じ先生の授業を受ける機会を平等にもつことになる。それをどのように生かすかが自己責任になるのも怖いことではある。高校時代の物理学の成績が悪かったにもかかわらず、大学の教養科目として物理学を履修したのは、時間割編成の都合もあったかもしれないが、先生の授業がどこか面白かったことも手伝っていたのであろう。なお、田村先生の物理学の評価はたしか60点台であったが、それでも高校時代に赤点ばかりとっていたことを考えれば、よく頑張ったと思うのである。

 大学における新学年は出会いと再発見の機会である。私の場合はそうでもなかったが、高校時代に苦手だったものが大学に入って苦手ではなくなることだってあるかもしれない。そんなことを考えるのである。
 

ダブリンの時計職人

4月3日(木)雨

 渋谷UP LINK Xでアイルランド映画『ダブリンの時計職人』(2010年、ダラ・バーン監督)を見る。

 イングランドで職業を転々とした挙句失業して住む場所も失ったフレッドは唯一残った財産である車とともに故郷であるダブリンに戻ってくる。故郷といっても親戚も知人もなく、昔住んでいた家には他人が住んでいる。海岸の駐車場に車を止めて、洗面には公衆トイレを使ったりする。住所がないためにイギリスでちゃんと掛け金を払っていたにもかかわらず、失業手当を受け取ることができない。

 同じ駐車場に住みついた青年がいる。カハルという名前の彼は父親とうまくいかずに、家を出て自動車を住みかとしている。ドラッグを断ち切れず、悪い仲間との付き合いがある彼であるが、フレッドにいろいろな生活の知恵を授け始める。スポーツセンターを利用するように勧めたのはその一つである。センターのプールでフレッドは未亡人であるピアノ教師のジュールスに一目ぼれしてしまう。彼女が合唱隊の伴奏をしている教会に出かけたり、さらに彼女の家に出かけたりするが、自分の本当の姿をどうしても告白できない。

 フレッドは処世術は下手かもしれないが、自分の自動車をいろいろ改造して住みやすくしたり、起きたら音楽をかけ、小さな植物に水をやり、トランクの中の水タンクから水を出して歯を磨いたりする。時計職人をしていたことがあって、どんな時計でも直してしまう。しかし、時計を直すという仕事が電池式の時計が主流になってくると個人営業にふさわしいものではなくなっていることも確かである。(そのくせ、時計の修理には高い金を取られ、サーヴィスも悪い。) 地域に住む人々がお互いの特技を認め合い、助け合って生きるなどというのは全くの幻想になっているのが現在の社会である。フレッドが愛すべき側面を多く持つだけに、社会の不条理が強く感じられる。しかし、社会の不条理に打ちのめされるのは結局、フレッドではないのである・・・。

 ダブリンには2度出かけたことがある。この映画の舞台になっているのは、中心部よりももっと東側の海沿いの地域のようで、見覚えのある風景には出会わなかったが、冬の荒れた海の情景が何度も映し出され、主人公やその周辺の人物の心の中を反映する描写のように思われた。晴れた日に、飛行機でアイリッシュ海を渡るときなど、その美しさに見とれるのだが、海にもいろいろな表情がある。

 カハルが何度勧めても、フレッドはプールの飛び込み台からプールに飛び込むことができないのだが、ラスト・シーンで生活が変わって、一人になった彼は、一人でプールに飛び込む。生活だけでなく、彼の内面にも変化が出てきたことを暗示して、映画は終わっている。アイルランドといえば、すぐに連想されるパブと酒の場面は全くなく、出てくる教会もプロテスタントの教会らしい(アイルランド国民の大多数はカトリックである)。いろいろな意味で「らしさ」を打ち消しながら、この映画はアイルランドの現在の問題に迫ろうとしているようである。そしてこの映画が取り組もうとしている社会の問題は、アイルランドだけのものでもなさそうである。

ウィルキー・コリンズ『月長石』(29)

4月2日(水)晴れ後曇り

 前回(3月14日の第28回)からだいぶ間隔が空いてしまった。この物語も次第に大詰めにさしかかっていて、どこで紹介をやめるか、思案しているところである。

 1848年の6月にヨークシャーのヴェリンダー邸の令嬢レイチェルの部屋から忽然と姿を消したインド伝来の宝石<月長石>のゆくえは1年近くがたってもまだわからないままである。事件後、容疑をかけられたまま自殺した前科のある使用人のロザンナの残した手紙とナイトガウンは、宝石をレイチェルのもとに運んだ従兄で求婚者のフランクリンが深夜レイチェルの部屋に入った証拠となるペンキのあとがついたものであった。しかし宝石はフランクリンの手元にはなく、なぜこうした事態が起きたかは彼には分らないのである。一縷の望みを抱いてフランクリンは事件後彼を避け続けてきたレイチェルのもとを訪問するが、彼女の口から彼が<月長石>をもちだしたという驚くべき証言を聞く。

 事件の数日前に、フランクリンは債務の履行を迫る訪問客を迎えていた。そのことを知るレイチェルは、金に困ったフランクリンが宝石を盗んだのだとその動機を推測する。もし、フランクリンに金が必要ならば、彼を愛していたレイチェルは、その程度の金は貸したであろう。それどころか、宝石が持ち出された後でもフランクリンと連絡をとって金を貸し、宝石を返してもらう手筈を整えていたという。ところがフランクリンはレイチェルの予想を裏切って事件を警察沙汰にしたため、彼女はフランクリンに渡すつもりだった手紙を破り捨てる。彼女はフランクリンに真相を確認しようと近づいたが、フランクリンの表情から彼がしらを切りとおし続けようとしていることを読みとって二度と会わない決心を固めたという。彼女はフランクリンと、彼のいうことを全く信用していないと言い切る。そして、ダイヤモンドを盗んだだけでなく、質入れしたのは彼であると信じているという。

 フランクリンはレイチェルが自分を誤解しているのだといって、レイチェルのもとを去ろうとする。レイチェルはフランクリンとは二度と会わないが、彼を許すという。

 その日の夕刻、フランクリンの宿所をヴェリンダー家とフランクリンの両方の顧問弁護士であるブラッフが訪れる。ブラッフはフランクリンとレイチェルの会話の内容を知っており、過ぎたことにこれ以上こだわるべきではないといって、これから起きる事態に備えることが重要だと助言する。おそらくは金貸しのルーカーによって、銀行の貸金庫に預けられている<月長石>は今月(1849年6月)の末には貸金庫から引き出され、宝石を担保にして金を借りた人物(=ヴェリンダー邸から宝石を盗んだ人物?)に引き渡されるだろう。その時点を待つべきだという。

 月末までの2週間を何もしないで過ごすことを苦痛に感じているフランクリンは1年前の捜査にかかわり、今は引退しているカッフ部長刑事を訪問することを思いつく。しかし、ドーキングのカッフの家を訪ねてみると、今はバラ作りに専念しているカッフはそのためにアイルランドまで出かけて留守だという。フランクリンは彼に伝言を残しロンドンに戻ってくる。ロンドンで彼はヴェリンダー家の執事であるベタレッジの手紙を思い出し、事件についてあらためてその夜に邸内にいた人物から聞き取りをして事態を確かめ直そうと考える。ベタレッジの手紙にはなぜか、キャンディー医師の助手であるエズラ・ジェニングズがフランクリンに会いたがっていると書かれていた。

 事件の夜邸内にいた人物のうち、探検家のマースウェイトはまた探検の旅に出かけ、クラックは経済的に困窮して北フランスに住所を移した。すぐに会うことができそうなのは彼の従兄のゴドフリー・エーブルホワイトだけである。フランクリンが聞き知ったところではゴドフリーはレイチェルとの婚約を破棄した後、別の若い夫人と婚約したが、これも財産分与の件で相手の父親と深刻な対立が生じて不調に終わった。しかし、慈善運動で知り合いであった老婦人から5,000ポンドの遺産を受け取ることになり、医師の勧めもあって、大陸に保養のための旅行に出かけることになったという。フランクリンがゴドフリーを訪ねた1日前に、彼はブリュッセルに向けて旅立っていた。ロンドンで会うべき人物がいなくなってしまったので、フランクリンはヨークシャーに戻って残された人々の証言を集めようとする。

 登場人物のそれぞれが事件について限定された見聞と知識しか持たず、それをもとに推測を交えて思考を展開しているので話がもつれてしまっている。これまでの経緯から<月長石>をレイチェルの部屋から持ち出したのがフランクリンであることは間違いないように思われる。しかし、それを担保にして金貸しのルーカーから金を借りたのはゴドフリーらしい(少なくともそういう噂がある)。フランクリンには盗んだという記憶はないし、宝石は彼の手元にもない。あるいはレイチェルが信じているように、フランクリンこそがルーカーから金を借りたのだろうか。

 フランクリンはロザンナに対してもそうだったけれども、レイチェルに対しても相手の微妙な発言や態度にあまり注意を払わず、冷淡であったり、いい加減であったりする態度で臨んで自分の立場を悪くしているところがある。ベタレッジ、ブラッフ、ヴェリンダー家の使用人たちなど、彼に好意を寄せる人物は多く、だいたいにおいて好人物なのであろうが、脇が甘いというか、隙だらけというか、主人公としても、探偵役としても頼りないところがある。

日記抄(3月26日~4月1日)

4月1日(火)晴れ

 3月26日~4月1日のあいだに出会った事柄、考えたことなど:

3月26日
 NHKラジオまいにちフランス語初級編「百合のFranceウオッチング」の放送が最終回を迎える。講師の1人であるシルヴィ・ジレ=鈴木さんが最後に、フランスに関連するもので何でもいいから好きなものを見つけることがフランス語上達の秘訣である、「好きこそものの上手なれ」ですといっていた。フランス映画は比較的好きで、よく見てきた。ジュール・ヴェルヌの小説も好きである。フランスの思想家のなかで興味をもっている人は少なくない。フランスの植民地であったマグレブ諸国に興味があるので、これらの国々についてフランス語で書かれた書物を読んでみたいと思っている。
 イタリア語の初級編「サンタとグイードの物語」も放送を終了した。イタリアについても興味のあることは少なくないので、まだ勉強は続けていくつもりである。

3月27日
 既に一度書いたけれども、吉村公三郎監督、京マチコ、山本富士子主演の『夜の蝶』を観た。大映とはつながりの深い作家である川口松太郎が原作者である。原作小説を読んだ人も、映画を見た人もそれほど多くはないはずだが、「夜の蝶」という言い方は結構広まってしまった。昔地方大学に勤めていたころに、別に地方大学に勤めていた同業者から聞いた話。バスの停留所で出会った女子学生が、これからアルバイトに出かけるという。居酒屋か何かでアルバイトしているということで、「わたし、夜の蝶なの」といっていたそうだ。居酒屋のアルバイトが「夜の蝶」になるのであろうか。

3月28日
 まいにちイタリア語応用編「インタビューで学ぼう! イタリア語」の放送が終わる。衣装家、アート・ディレクターであるアリーチェ・アンセルミさんのインタビューの最終回で、アリーチェさんの父親が常日ごろSe ci credi, fallo(信じているなら、やってみろ)と言い聞かせていたというのが印象に残った。信じてもいないのに、やらされる羽目になったことが私の人生には多かったような記憶があるからかもしれない。フランス語の応用編「Bon voyage, Manon!~大阪・京都・奈良~」も終わる。

3月29日
 会議で外出する用事があったついでに、神保町の三省堂の本店を覗く。読みたい本も読みたくない本もそれぞれにたくさん並んでいる。今年はこのあと何冊読めるだろうかと思う。

3月30日
 高岡詠子『チューリングの計算理論入門 チューリング・マシンからコンピュータへ』(講談社ブルーバックス)を読んでいるのだが、あまりよくわからない。以前、読んだ本のなかでチューリングがケンブリッジでウィトゲンシュタインの講義に出たけれども、いっていることをどうも理解できずに苦しんだという話を思い出して、自らを慰めている。私にはウィトゲンシュタインの方がまだわかるような気がする(わかったつもりになっているだけのことかもしれないのが怖い・・・)。

3月31日 
 新学年の始まりに先駆けて、NHKラジオの語学番組が始まる。今年度はドイツ語の放送も聴くことにしたというのは既に書いたが、フランス語については清岡智比古 レナ・ジュンタ『清岡&レナ式 フランス語初級卒業講座 文法が好きになる1200問』を買ってきて、このなかの問題に取り組むことにした。他にも上達のための工夫を考えていきたいと思っている。

4月1日
 STAP細胞についての論文をめぐる理化学研究所の調査委員会の最終報告の記者会見が行われた。よりにもよって4月1日に報告するというのはどういうことだろうか。エープリル・フールというと『サザエさん』の家庭内の騙し合いを思い出すのだが、テレビ・アニメの『サザエさん』にこの騙し合いが出てきた記憶はほとんどない。テレビ・アニメ版が原作の持ち味をどのように薄めたり、変えたりしているかを検討してみるのも興味あることではないかと思う。

 NHKBSプレミアムでジョン・スタージェス監督の『墓石と決闘』を観ていた。OK牧場の決闘の「その後」を描く作品であるが、ワイアット・アープを演じるジェイムズ・ガーナーもさることながら、ドク・ホリデーに扮したジェーソン・ロバーズ、敵役のクラントンに扮したロバート・ライアンの演技がよかった。
 
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