2014年の2014を目指して(3)

3月31日(月)晴れ

 3月の31日間はずっと東京で過ごした。1月からの通算では東京で過ごしたのが78日、横浜で過ごしたのが12日ということである。新たに乗り降りした駅は東京メトロ丸の内線の淡路町である。

 この記事を含めて31件のブログを投稿した。読書10(32)件、日記5(16)件、映画4(12)件、詩4(11)件、推理小説4(11)件、外国語4(6)件、未分類0(3)ということである。1月からの通算は91である。275の拍手を頂いた。1月からの通算は今のところ744である。

 買った本は19冊で1月から買った本の合計は41冊となった。読んだ本は10冊で:足立幸代編著『気ままに漢詩キブン』、ロバート・ファン・ヒューリック『五色の雲』、椎名誠『北への旅 なつかしい風にむかって』、山口雅也『狩場最悪の航海記』、椎名誠『旅に出る ゴトゴト揺られて旅と酒』、森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』、今野真二『日本語の近代―はずされた漢語』、プロップ『魔法昔話の起源』、長谷川修一『旧約聖書の謎』、カミ『機械探偵クリク・ロボット』がその内訳である。買ったものの読んでいない本が多くなっているので、4月は読む方に力を入れるつもりである。

 見た映画は『トキワ荘の青春』、『河口』、『女優須磨子の恋』、『黒い潮』、『闇を横切れ』、『家庭の事情』、『夜の蝶』、『家族の灯』の8本である。1月からの通算は16本となり、日本映画が7本、外国映画が1本ということになった。新たにシネマヴェーラ渋谷に出かけた。出かけている映画館は通算で8館である。

 ノート4冊を使い切った。1月からの通算は14冊である。万年筆のカートリッジ、ウォーターマンは8本(19本)、パイロットは2本(4本)使い切った。

 フランス語の時間を21回(61回)、イタリア語の時間を21回(61回)、ドイツ語の時間を1回聴いた。3月31日から新しい番組がはじまり、7:00からドイツ語、7:30からフランス語、7:45からイタリア語の時間を聴いたのだが、それぞれのゲストの自己紹介をフランス語と、イタリア語ではかなりの部分を聴き取れたのに、ドイツ語は全く駄目だった。大学で第二外国語として履修したのはドイツ語なのだが、ここ何年か勉強し続けてきたフランス語とイタリア語に比べて聴きとる能力が劣って来ていることが分かった。ラジオの講座を聴くことでどういう結果が得られるか、できるだけがんばってみようとは思う。

 酒を飲まなかった日が16日で、1月からの通算は46日となった。飲まない日が飲んだ日を上回っているというペースを今後も続けていきたい。グリーン・ジャンボは6等が1枚、7等が5枚当たっていた。サッカー関係のクジは今のところあてていない。

 2014年の2014を達成するためには、もう少し別の数字を加える必要があり、その工夫が今後の課題となりそうである。
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カミ『機械探偵クリク・ロボット』

3月30日(日)雨、午後にいったんやんで晴れ間が見えたが、夜になってまた降り出し、雷が鳴った。

 カミ『機械探偵クリク・ロボット』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読み終える。2010年にハヤカワ・ミステリの1冊として刊行された作品に特別付録としてカミの書いた2編のコントをつけて文庫化されたものである。ハヤカワ・ミステリ版で既に読んでいるが、あらためて読みなおしたのは、それだけの魅力を感じているからである。

 カミ(1874-1958)はフランスを代表するユーモア小説家で、代表作の1つである『エッフェル塔の潜水夫』はむかし筑摩書房の世界ユーモア小説全集の1冊として翻訳・出版され、それ以前にラジオの連続ドラマとして放送されたこともある。翻訳者である高野優さんが「訳者あとがき」で述べているように「奇想天外というのは、まさにカミのためにある言葉だろう。その奇想天外ぶりにカミの作品がジャック・プレヴェールやシュルレアリストの詩人たちに大きな影響を与えたということは率直にうなずける」(338ページ)。

 古代ギリシアの科学者で発明家でもあったアルキメデスの直系の子孫であるジュール・アルキメデス博士は機械探偵クリク・ロボットを発明して警察に協力している。「事件が起こると、クリク・ロボットは計算機としての優れた能力を発揮して、正確無比な方程式を立て、代数学的に謎を解く。その冷徹な推理力の前には解決できない謎はなかった」(48ページ)のである。カミはアルキメデス博士とクリク・ロボットが活躍する作品を2作しか書かなかったが、この本はその2作を1冊にまとめたものである。

 「五つの館の謎」(1945)では「ある昼下がりのこと・・・庭に一発の銃声が鳴り響き・・・額にナイフの突き刺さった男が地面に倒れた」(10-11ページ)という事件が起きる。捜査にあたったグリモ―刑事は一号館の借主で、ナイフ(正確にはペーパーナイフ)の持主である作家のデ・ブルイヤール氏を疑う。被害者はデ・ブルイヤール氏の小説の中に登場する女性に恋してしまって、彼女を殺さないようにと作家を脅迫していたという。が、予審判事は慎重を期してアルキメデス博士とクリク・ロボットを呼び寄せる。クリク・ロボットは博士の指示のもと、その性能を生かしながら捜査を進める・・・。

 五つの館の住人のうち、二号館の借主はスプーンや宝石、五号館の住人は自慢のシケモクのコレクションのうちの(歴史的な名女優である)サラ・ベルナールのシケモク、四号館の住人は銀製の爪楊枝など、さまざまなものが紛失したと訴えている。これらの一連の盗難事件は新たに起きた殺人事件と関係があるのだろうか? そして事件の真相は?

 「パンテオンの誘拐事件」(1947)では、フランスの歴史に名を残す偉人たちを祀る霊廟として知られるパンテオンから、ヴォルテール、ルソー、ゾラ、ユゴーの遺骸が盗まれるという事件が起きる。その後、ボブ・メーカーンチ株式会社と名乗る一味から犯行声明が届けられ、5,000万フランの身代金が要求される。捜査の過程で怪しげな思想を信奉する学生と、新婚旅行中の葬儀屋の夫婦が登場し、話が混乱する。今回もアルキメデス博士とクリク・ロボットはロボットのさまざまな性能を生かしながら捜査を進めていく。

 今回は博士もロボットも危ない橋を渡ることになるが、どのような危険も実は折り込み済みというところにこの小説の凄さがある。ロボットは不死身だし、博士の智謀は悪漢たちの想定を超えたものである。

 <手がかりキャプチャー>、<推理バルブ>、<仮説コック>、<短絡推理発見センサー>、<推理推進プロペラ>、<論理タンク>、<誤解ストッパー>、<事実コンデンサー>、<情報混乱防止コイル>、<真相濾過フィルター>、<自動式指紋レコーダー>、<解読ピストン>などクリク・ロボットが備えている装置はまことに多彩で、カミが2編しかクリク・ロボットものを残さなかったのが残念である。カミはナチスの台頭とともに生まれ故郷のポーの近くに引っ込み、第二次世界大戦後にパリに戻ったというが、戦争中にどのようにクリク・ロボットの活躍する物語の発想を得て、構想を練っていたのか想像してみるのも一興である。

 翻訳者の高野さんによると、カミにはシャーロック・ホームズのパロディーで奇想天外な事件が続出する『ルーフォック・オルメスの冒険』が翻訳されている他に、まだ翻訳されていない名作も多いという。この後、ハヤカワ・ミステリから『三銃士の息子』が刊行される予定だというので、楽しみに待つことにしよう。

森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(5)

3月29日(土)晴れ

 第5章は「室町幕府支配の確立」と題されている。実際のところ「確立」されたかどうかは怪しいところがある。それでも将軍の地位と権力は尊氏からその二男である義詮に継承された。義詮は尊氏が西国に派遣されるときに母とともに人質として鎌倉にとどめ置かれたが、その後脱出、新田義貞とともに鎌倉を攻撃し、陥落後も鎌倉に本拠を置いていわば鎌倉公方の初代としての役割を果たした。その後、鎌倉での役割を同母弟基氏に譲って上京、尊氏の後継者の地位を直義と争い、直義の滅亡後は父尊氏と二頭政治を行い、やがて将軍職を継承した。彼が発給した文書を見ると、彼の将軍職時代にその権力が次第に強力なものとなっていったことがわかるという。「尊氏から義満にいたる室町幕府の将軍権力の確立過程を段階的にみてゆけば、義詮の段階で将軍権力が飛躍的に高まることがうかがわれるから、義詮をいつまでも影の薄い存在に押しとどめておくことは室町幕府の成立過程を正しく理解する上で好ましくない」(258ページ)と著者は論じている。

 その弟の基氏は東国経営に全精力を注いでいたが、若くして没した。よくその任務を果たした有能な武将であったようである。

 義詮の執事を務めたのは細川清氏である。既にみてきたように将軍の執事は、高師直、仁木頼章が務め、さらに清氏のあと、斯波義将、細川頼之が務めるが、将軍家の執事という役柄から、幕府の政務の長官をも兼ねる役柄である管領へとその役柄を変化させてゆく、問題は誰からを管領とみなせるかということであるが、意見の一致はいまだ見られていない。「管領制度は、・・・守護たちの領国支配強化と将軍の親栽権の拡張という相反する二つの志向を調整し、止揚する職制的装置として登場する」(263ページ)と著者は考えている。この点で清氏の時代は重要な画期であったという。彼は前任の2人と違って、足利氏の有力な一門の出身であり、幕政においても一定の役割を果たしたのである。

 南北朝の戦乱を長引かせた原因の一つは武士たちの所領や所職、特に守護職をめぐる争いが絶えず、それぞれが目的のために手段を選ばず、去就を転々とさせたことにある。そういった有力守護大名のなかで得意な地位を占めるのがバサラ大名佐々木導誉であるが、彼は義詮から離反することはなかった。その一方で執事である細川清氏の失脚の原因を作りだしたのも彼である。

 室町幕府の存立に大義名分を与えたのが北朝であった。北朝の天皇・上皇のなかで『太平記』がもっとも多く登場させているのは光厳院である。世の中の動きにあらがって自分の主張を貫き通そうとした後醍醐天皇と対照的に、動きによってその地位を転変させる人生を送った。後醍醐天皇の京都復帰によって皇位から追われるが、尊氏が後醍醐天皇と対立すると「朝敵」の汚名を受けるのを避けるために、治天下の地位を保障される。「『太平記』は光厳院を登場させることによって、南北朝時代の特質、その時点での時代の要請をうまく表現している」(282-3ページ)と著者はいい、院への土岐頼遠の狼藉と直義によるその処理を描いて、幕府内の急進派と守旧派の対抗関係を描き出していること、また光厳院と後村上天皇の対面の場面を設けて(これはフィクションかもしれない)当時の平和への願望を描き出しているという2つの例を上げる。光厳院、その皇子である後光厳院はまだ幕府の力が十分に確立されていない時代にあって一定程度の政治的な働きをしたが、幕府の権力が拡大していくとその政治的な実質を失っていった。

 幕府に従わない守護たちの討伐で頭角を現したのが、清氏のいとこの細川頼之である。守護大名の雄として管領に就任することになるが、このことによって(南北朝の対立はまだ続くのだが)天下は太平になったとして、『太平記』の著者はその筆を擱くのである。頼之の管領就任は死に直面した義詮が、まだ幼い義満の前途を気遣っての任命であったが、頼之はその任務をよく果たし、義満の将軍としての地位を不動のものとするのである。その一方で彼は守護たちの支持を失った時には、その地位を退かなければならなかった。

 <太平記の群像>として、後醍醐天皇、護良親王、足利尊氏、直義、直冬、新田義貞、楠木正成、正行、名和長年、北畠親房、顕家、高師直、佐々木導誉などは目立った存在であるが、それ以外にもさまざまな人物を取り上げてそれぞれの人となりを実証的に再現しようとしている。著者は歴史学者なのでその側面から、特に社会史的な側面を強調して迫っており、その半面で文化史的な考察は弱い。高師直がらみで登場する兼好については全くエピソードとしてしか触れていないのはちょっと残念である。吉川英治の『私本太平記』がおそらくは奈良本辰也の影響のもとに芸能民の活躍を描いているのは文学的想像だとしても、光厳院の歌人としての側面を高く評価する意見もあるのだから、もう少し文芸的な面に踏み込んでもよかったのではないかという感想もある。

 この書物にはさらに『太平記』全般の性格をめぐる「付論」がつけられており、それについてもさらに意見を述べていくつもりである(つまり、もう1回この書物について書くということである)。 

長谷川修一『旧約聖書の謎』

3月28日(金)晴れ

 長谷川修一『旧約聖書の謎』(中公新書)を読み終える。同じ著者の『聖書考古学』(中公新書)を昨年の2月23日付の当ブログで紹介している。その際、聖書のなかの歴史的な記述を中立的・実証的にとらえ直そうという著者の立場に賛同しながら、注文も付けておいた。この書物では考察の対象を旧約聖書に限定して、その中の歴史的な記述が歴史・考古学研究の知見に即してどのように理解されるかが論じられている。第1章「ノアの方舟と洪水伝説」、第2章「出エジプト」、第3章「エリコの征服」、第4章「ダビデとゴリアトの一騎打ち」、第5章「シシャクの遠征」、第6章「アシェクの戦い」、第7章「ヨナ書と大魚」について考察が進められている。ダビデとゴリアトについては、前著『聖書考古学』でも触れられていた。著者が特に力を入れて研究している問題のようである。

 「ノアの方舟と洪水伝説」では、ノアの物語がシュメル以来のメソポタミアにおける伝承を継承したものであること、それらの伝承が自然災害の恐ろしさとそれに立ち向かい、復興に努める人々の現実を反映したものであること、さらにメソポタミアの伝承における神の意思が多神教的な枠組みの中にあるのに対し、旧約ではそれが唯一の神の意思に帰られていることを指摘しながら、「ノアの方舟の物語は、西アジアの人々が語り継いできた、普遍的なテーマをもつ洪水伝承の後継者といえよう。また、その話が今日まで聖書のなかの物語として私たちにまで伝わっているところに、聖書が全人類に果たしてきた大きな文化史的役割を見出すことができるだろう」(29ページ)と結論している。

 シュメル以来のメソポタミア文明との関連で旧約聖書をとらえることが重要であるという考えは十戒とハムラビ法典をはじめとするオリエントの諸法には一致する部分があることから、「出エジプト」にも及んでいる。ここでは旧約に記された「出エジプト」がいつ頃のことか、またどのような規模と性格をもつものであったことかがこれまでの研究成果を検討しながら論じられ、確定的なことはあまり分からないという研究の現状が報告されている。さらに日本の世界史教科書が「出エジプト」を歴史的な事実のように記載していることについての苦言も呈されていることが注目される。

 ダビデとゴリアトについてもさまざまな研究成果を踏まえて縦横に論じられているが、まだ確定的なことは分かっていないと慎重な態度に終わっている。そして「この物語が話自体の面白さと同時に放っているのは、神を信頼し、強大な敵に果敢に挑む姿の重要性、というメッセージであった」(130ページ)と結ぶ。たしかにこの物語は、歴史よりも文芸の領域で取り上げるべき要素が多いようである。

 「ヨナ書と大魚」は、旧約の内容を歴史的な事実に即して検討する他の章とは違って、この物語があらかじめフィクションとして構想され、読む者が預言者でありながら神の与えた使命から逃げ続けるヨナの「頑なさの中に自分たち自身のかたくなさを、ヨナの偏見の中に自分たち自身の偏見を見ることができるように」(211ページ)書かれているという。ヨナの非イスラエル人に対して抱く偏見が滑稽なものとして風刺の対象となっているという指摘に物語の今日的な意義を感じ取ることができる。

 ここで紹介しなかった部分も面白くないわけではない。昨年私は『聖書考古学』の中になぜ歴史的な内容を盛り込んだ歴代誌への言及がないのかという疑問を書き記した。著者は第5章で「歴代誌は・・・サムエル記と列王記の内容をベースとし、そこにさらに歴代誌筆者の神学的解釈を加えて書かれたものである」(157ページ)とその性格を論じていて、私の疑問に答えている。著者が私の論評を読んだかどうかは分からないが、私の疑問が特殊なものではなかったと知って安心した次第である。

 全体として謎は謎のままに終わっている場合が多く、それがかえって旧約聖書という書物の面白さを浮かび上がらせているように思われる。キリスト教(あるいはユダヤ教)を信じようと信じまいと、その面白さを味わうことはだれにでも可能であることを教えてくれる書物でもある。

『家庭の事情』、『夜の蝶』

3月27日(木)雨が降ったりやんだり

 シネマヴェーラ渋谷で「山村聰の世界」の中から上映された『家庭の事情』(1962、大映)と『夜の蝶』(1957、大映)を見た。ともに吉村公三郎監督の作品であることも手伝ってなかなか興味深い上映であった。

 『家庭の事情』は以前に見た『四つの恋の物語』(1965、日活)とよく似た話だと思ったが、両作品ともに源氏鶏太の小説『家庭の事情』を原作とし、前者は新藤兼人、後者は三木克巳が脚本を書いている。母親を亡くして父親と四人姉妹で暮らしている家庭、父親が定年で退職し、退職金と預貯金を合わせた全財産を5人で等分することに決める。娘それぞれに金の使い道があり、ロマンスがあり、父親にも何かありそうである。

 この大映版では長女=若尾文子、次女=叶順子、三女=三条魔子、四女=渋沢詩子、父親が山村聰であるのに対し、日活版では長女=芦川いづみ、次女=十朱幸代、三女=吉永小百合、四女=和泉雅子、父親が笠智衆である。両作品を比べてみると、三女の描き方が全く違い、大映版では一人だけ働かずに家にいて母親代わりを務めているのに対し、日活版では働きに出ているだけでなく、幼馴染がデモに加わっているのをあなたは就職活動でそんなことをしている場合じゃないでしょうと連れだすなど大活躍をする。当時の吉永小百合の人気が反映された強調のされ方で、「四つの恋の物語」と銘打っているものの、日活版では和泉雅子だけロマンスと無縁である。つまり、出演者の個性に合わせて原作を適当に改変していることがわかる。大映版では父親に再婚話があり、その再婚相手になりそうな女性が経営する喫茶店を長女が買い取って自分の店にするという展開になるが、日活版では再婚話はない。なお再婚相手となるのが月丘夢路で(Movie Walkerで藤間紫となっているのは誤り)、映画製作再開直後の日活の中心的なスターであったのは皮肉である(だから日活版ではこの役どころがなくなっているのであろうか!?) 
 正月映画として製作され、出演者をそろえた作品であるが、最初と最後に満員電車の混雑を描写するなど吉村監督は社会の現実から目をそらさない姿勢を見せている。この点は川口松太郎の原作小説、田中澄江脚本の『夜の蝶』についても同じである。

 銀座一のクラブのマダム・マリと京都から乗り込んできたおきくという2人の女性の戦いを描く。実はマリは大阪出身で、かつて自分の夫をおきくに奪われた過去があった。マリを京マチコ、おきくを山本富士子が演じている。その一方で関西のデパート王白沢が東京進出を画策して銀座をはじめとして夜の街に出没しはじめている。物語は今ひとつ夜の世界を描きたりないし、登場人物の個性も十分に描き出されているとは言い難いのだが、映像には見るべきものがある。カラー映画だが、回想場面は白黒で出てきたり、映像構成の工夫が凝らされている。そうして撮影された当時の風俗であるが、まだ銀座にも埋め立てられていない堀が残り、都電が走っている。そういう昭和30年代の初めの東京の描写が興味深く、それに比べると京都は古い景観が残っているねぇと別の感心をしてしまう。登場人物が運転する自動車の多くが左ハンドルだったり、酔っぱらい運転がまだ厳しく取り締まられていないことなど、この時代の世相を映すものであろうか。

 おきくが経営する「おきく」は伝説的なバー「おそめ」がモデルだという。それとどういう関係にあったのか知らないが、河原町御池にあった「おそめ」というクラブが昼間は喫茶店をやっていたのに、好奇心から何人かで連れ立って出かけたことがあった。学生時代のこととて、いくらなんでも夜、顔を出すほど図々しくはなかったし、金もなかったのである。

 シネマヴェーラ渋谷はこれまでも見どころの多い特集上映を行ってきたが、今回の山村聰特集は過去の日本映画の多様な姿を知ることができる貴重な機会であった。今後の上映にさらに期待したい。

森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(4)

3月26日(木)曇り、終日在宅したため詳しい天気は分からない。

 『太平記の群像』の第4章は「南朝を支えた人々」と題されている。有力な武士を結集した幕府に対して、南朝はさまざまな戦略と戦術をもって抵抗を続ける。「南北朝時代には、現在の常識ではとても考えられない出来事が多い。その1つは犠牲的な国家の一時的成立である。・・・あえていえば、それらは地域国家だろう」(204ページ)とこの章は書き起こされている。

 まず、「幻の北陸王朝」の見出しのもとに、後醍醐天皇が春宮の恒良親王に位を譲り、新田義貞らとともに北陸に派遣したという『太平記』の記述を紹介する。この記事はそれほど重視されてこなかったが、事実であることを裏付ける文書も存在する。「北陸王朝」の拠点とされた金崎城はほどなく陥落し、義貞も戦死したが、少なくとも10年間は北陸地方に独立の勢力が存在し、一種の地域国家を存続させ、一時は「白鹿」という年号までも使用していたことが確認できるという。

 さらに後醍醐天皇は皇子たちを各地に派遣して南朝の勢力の回復を企てる。しかし1339年には後醍醐天皇が崩ずる。『太平記』には「玉骨は縦(たと)ひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」(221ページ)とその遺命を記す。天皇の第七子の義良親王が即位する。後村上天皇である。約30年間、南朝天皇の地位にあったが、その間、南朝の本拠を転々と移さなければならないほど、追いまくられたがなおも抵抗を続けていた。

 南朝を支え、特に奥州の経営に意を用いたのが北畠親房・顕家父子である。『太平記』に登場する回数は顕家の方が多く、その戦死について「聖運天に叶はず、武徳時至りぬる其謂(そのいわれ)にや、股肱の重臣あへなく戦場の草の露と消給しかば、南都の侍臣・官軍も、聞て力をぞ失ける」(226ページ)と記す。「顕家のような南朝の重臣があえなく戦死したのは武徳が聖運に勝ったからだといっている。『太平記』はこういう形で幕府支配の正当性を随所で説いているのである」(226-7ページ)と著者は解説している。

 楠木正成死後の楠木氏を引き継いだのはその子の正行・正儀兄弟である。正行は若くして(もっとも正確な年齢は分からないらしい)華々しく戦死し、その後正儀が家督を引き継ぐ。『太平記』は彼を父祖同様に情にあついが、父や兄に比べて勇猛心が欠ける人物として描いている。とはいうものの彼は南朝を強力に支え、その一方で北朝・幕府との和平に熱心であった。一時は幕府に投降したこともあるが、結局は南朝に戻った。

 正平年間(1346-70)の一時期、詳しくは1351年から52年にかけて、南朝が京都を制圧して、北朝の天皇を廃止し、南北両朝を統一したことがあり、これを「正平の一統」という。これは弟直義と対立し、彼を滅ぼそうとする足利尊氏とその子義詮の側の都合によるものであった。それで尊氏が直義を滅ぼすと事態は急変し、南北朝の内乱が再開されることになる。この間、宗良親王が征夷大将軍に任命され、義貞亡き後の新田一族が従って、一時は鎌倉を制圧し関東地方で勢力をふるうが、やがて尊氏に敗れて新田一族も離散する。

 「衰亡の一途をたどる南朝の大勢とはうらはらに、意外な活躍をとげたのは九州統治の任務を負って下向していた懐良親王だった。すなわち征西将軍宮。筑前博多が大陸との交易の玄関口であるだけに、懐良の王国を支えた要素は国際的なものをはらんでいる」(245ページ)。懐良親王を支えたのは文吏では五条頼元、武将では菊池武光である。しかし、懐良親王の支配は幕府が派遣した今川了俊の巧みな戦術で切り崩されてしまった。

 懐良親王は明の皇帝から「日本国王」と認められた。南朝でもなく、北朝でもなく、懐良親王の九州の勢力を交渉の相手として選んだことが注目される。明が彼の政権に通交を要請した背景には「倭寇」問題があったことは確かであるが、いったんは拒否したものの、懐良は明の要請に応じて上表することになった。

 この間の経緯は幸田露伴の歴史小説『運命』に『明史』の記述に基づきながら紹介されている。明の太祖洪武帝の孫である建文帝と子である永楽帝の2人の戦いを描いたこの小説に、余談のように挿入されたこのエピソードであるが、実は物語の構想と関連をもっている。読みにくい作品ではあるが、露伴の格調の高い文章はそれを克服しても読みとおしたくなるような魅力を備えている。南北朝の対立は国内問題のように見えるが、実は国際性をもっていたことも見逃すべきではない。

日記抄(3月19日~25日)

3月25日(火)晴れ

 暑さ寒さも彼岸までという言葉の通り、春分を過ぎて春の気配が強まってきた。3月19日~25日にかけて、であった出来事、読んだ本、考えたことなど。

3月19日
 テレビ朝日『マツコ&有吉の怒り新党』で「いかに北海道が広いかわかって」という怒りが寄せられていた。北海道の広大さを十分に実感するほどに長く滞在したことはないが、同じ都道府県、あるいは同じ市町村に属していても、離れていて簡単には出かけられない場所があることは確かである。自分の生活圏内だと距離感はつかめているが、旅行先だとなかなかわからない。広島市に所用があって福山市に住む友人に電話をかけて、広島と福山は遠いんですよと言われたことを思い出す。

3月20日
 NHKラジオまいにちイタリア語の応用編「インタビューで学ぼう!イタリア語」ではヴェローナ生まれで現在はパリで衣装家・アートディレクターとして活躍しているアリーチェ・アンセルミさんのインタビューを聴いている。大学では文化財保護について学び、最初の仕事でいきなりジョゼフィーヌ・ボナパルトの衣装の確認作業を任されたという。彼女の仕事ぶりを通じて、パリには最新のモードの発信地である、伝統的な文化を保存・継承するという2つの面があるということが語られた。こういうところでパリと京都は似ているような気がする。

3月21日
 椎名誠『旅に出る ゴトゴト揺られて本と酒』(ちくま文庫)を読む。2001年に本の雑誌社から刊行された単行本を文庫化したもので、ちくま文庫から出る椎名さんの最初の本であるということであるが、文庫化までの間隔が空いて内容の鮮度が落ちていることも手伝って、物足りない感じがする。

3月22日
 日本テレビ『メレンゲの気持ち』の『ビューティフルライフ』のコーナーにマンガ家の浜田ブリトニーさんを登場した。企業に向けてギャル文化を売り込む活動をしているというブリトニーさんに、訪問者が「アベノミクス」についてどう思うかという大きすぎる質問をしていたが、ブリトニーさんが適当にお茶を濁していたのがかえって専門家らしかった。ぺらぺらと意見を述べたからといって、誰かが感心して聴き入るという場面でもないのである。

3月23日
 今野真二『日本語の近代――はずされた漢語』(ちくま新書)を読み終える。この著者の書物を読むのは、これで今年2冊目となる。興味深い主題を取り上げているのだが、なぜか読み終えるのにちょっとてこずった。国語をめぐるいろいろな考え方や主張が紹介されている。例えば、日本では時々「漢字を中国語規範に従って使おう」という掛け声がかかることがあるという(206ページ)。逆に言えば、それは中国語のもとの使い方を離れた独自の用法が普及していることの反映と受け取ることができるのである。

3月24日
 柄谷行人編・柳田国男『「小さきもの」の思想』(文春学芸ライブラリー)を読んでいたら、国際連盟の信託統治委員の仕事を辞めて帰国した柳田が朝日新聞論説委員として、普通選挙の実現を目指す論陣を張って大正デモクラシーの一翼を担った他に、エスペラントの普及運動を行ったという記事に出会った。柳田と宮沢賢治の共通項を探しているのだが、エスペラントもその1つだと思う。

3月25日
 NHKBSプレミアムでイタリア製西部劇の『群盗荒野を裂く』を途中まで見ていたのだが、この映画の中に「アデリータ」という歌が出てくるのに気づいた。たしか『ワイルド・バンチ』にも出てくるはずで、メキシコの代表的な民謡らしい。兵士が故郷の恋人を歌う内容の歌詞であったと記憶する。他にもこの歌が出てくる映画があるかもしれない。

森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(3)

3月24日(月)晴れ

 昨日はこの書物の第3章「足利尊氏」の初めの部分、尊氏と直義の兄弟の協力と二頭政治、その性格や考え方、支持基盤の違いと反目、敵対について見ていくだけで終わってしまった。この章の残りの部分は、尊氏の子の直冬と基氏について取り上げ、それから有力な家臣で彼の執事を務めた高師直とその一族、師直の滅亡後、執事を務めた仁木頼章とその一族、将軍の護持僧であった賢俊(既に第2章で建武新政下におけるその雌伏の様子が記されている)について取り上げている。

 尊氏の子どもたちのなかでは、彼の後継者となった義詮についてあまり取り上げられていないのは、この後の第5章で大きく取り上げられるからである。直冬は義詮よりも年長ではあったが、尊氏が一夜通いの女性とのあいだに儲けた子どもで、そのため父親から見捨てられ、男子のいなかった直義の養子となって世に出るが、軍事的な要請から尊氏の実子と認められて各地に派遣されるが、父親からその武功を認められることはなかった。「この直冬の地位は直義の幕府内での権勢に支えられていたから、観応の擾乱での直義の失脚や復権に伴い、直冬の立場も変動した」(151ページ)。直義の死後の直冬は南朝と手を結ぶに至り、一時期京都を制圧するが、その後は中国地方西部で活動を続けたに留まる。彼の残した文書から「外からの影響を受けやすい小心者で、ナイーブな性格の持ち主だったらしい」(155ページ)と著者は推測している。

 尊氏の三男である基氏は兄義詮と同様、平(北条・赤橋)登子の子である。若くして没したが、鎌倉に拠点を置いて関東地方の経営にあたる役割を与えられた。基氏は兄義詮を助けるようにという父尊氏の意向と、関東の独立を目指せという直義の意向との間で板挟みになったようであるが、父の言葉に背くようなことはしなかった。やがて尊氏が鎌倉から直義を追うと、基氏の本格的な関東支配がはじまる。

 尊氏の腹心であり、もともとは一家の家宰から将軍の執事となった高師直については、『太平記』では好色残忍な悪役とされていて、それが歴史上の吉良上野介が歌舞伎の『忠臣蔵』では高師直ということに脚色されるところまで尾を引いているのであるが、実際には将軍尊氏の執事として堅実な仕事ぶりを見せており、「その悪逆非道ぶりのみをことさら強調する『太平記』の叙述をそのまま事実と見るには躊躇せざるをえない」(171ページ)とする。なお師直が佐々木高貞(塩冶判官)の妻に横恋慕して、恋文を吉田兼好や薬師寺公義に代筆させたりして、気持ちを伝えようとするがうまくいかず、高貞を失脚させようと尊氏・直義に讒言するという有名なエピソードについては、高貞が出走・自害したという事件は事実であるが、その他の部分については確証がないという。兼好の代筆についてもありえない話ではないという研究もあるようである。

 師直の滅亡後、尊氏の執事となった仁木頼章は、師直と違って足利一門の出身であり、幕府の活動が軌道にのってからの執事であるために、その仕事の内容もパターン化しているという。頼章は将軍の執事としての職務を基本にしながらも、政務についてもかかわっており、その後の管領制の萌芽のような仕事ぶりが見られるという。

 将軍尊氏の護持僧として活躍した三宝院賢俊は日野家の出身である。第1章で既に触れられたように、日野家は学問の家柄で優れた吏僚を輩出してきたが、(例外はあるが)持明院統寄りであったために建武新政下では逼塞を余儀なくされた。「動乱は日野家を再び歴史の舞台に押し上げることになった。南北朝時代は日野家にとって飛躍のときだった。日野家一門のものたちは、官界・宗教界に大きく羽ばたき、各方面に太くて深い根を張った」(191ページ)。賢俊は日野家の繁栄の基礎を築いた僧侶であった。賢俊は尊氏の護持僧として活躍しただけでなく、北朝の天皇の護持僧でもあり、東寺・醍醐寺のような宗教権門の長でもあり、また荘園領主でもあった。彼はまた『太平記』の編纂にもかかわっていると考えられるが、『太平記』本文中に登場するのは2回だけである。賢俊は真言宗の僧であり、『太平記』が天台宗の強い影響のもとに成立したことがこの理由ではないかと論じられている。

 第3章を通じて、足利氏とその一門が一方では尊氏と直義・直冬に見られるように骨肉の戦いを演じながらも、一門でまとまって幕府の力をもりたてようとする動き、さらにそれを支える(利用して生き延びようとする)武士や公家、僧侶たちの動きが概観されている。『平家物語』に比べて『太平記』の登場人物は全体として転換期を生きるたくましさと強い個性をもっている人物が多く、それがこの物語の魅力ではないかと思う。そのような個性的な人物たちの柱になったのが尊氏であった。

森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(2)

3月23日(日)晴れ

 墓参りに出かけたり、パソコンの買い替えのため時間がつぶれたりで、なかなか落ち着いてぶんしょうをまとめるじかんがとれないまま過ごした。それで本日は、第3章「足利尊氏」の、それも前半の尊氏と直義の兄弟関係について論じた部分だけを取り上げることにする。この章は「足利尊氏」と題されているが、尊氏だけでなく、その周辺の室町幕府の成立にかかわったさまざまな人物が取り上げられている。その中でとくに重要な存在は尊氏の1歳年下の弟である直義である。

 尊氏とその弟の直義の兄弟はあるときまでは緊密に手を取り合って行動していたのに、その後激しい対立関係に陥る。尊氏については既に第2章で、その鎌倉末期から建武の新政までの動向が記されていたが、この間の直義の動きについては論じられていないとして、彼の動きを簡単に述べる。直義が『太平記』に登場する最初の場面が印象的である。尊氏は幕府軍に加わって上洛する際に、北条高時より人質として妻子を鎌倉にとどめるように命じられ、どうすればよいかを直義に相談する。直義は「大行は細瑾を顧みず(大事をなす時は小事を無視してもやむを得ない)」ということわざを引いて、動揺する尊氏を引き締めている。このように尊氏を直義が積極的にリードする場面が『太平記』にはたびたび現れるという。

 直義は尊氏に従って上洛し、尊氏とともに六波羅攻めに加わり、これを陥落させた。新政権で用いられ、成良親王を奉じて鎌倉に赴く。新政権のもとでの直義の活動は、鎌倉を拠点とした関東の統治に重点が置かれる。直義にとって見ると鎌倉は足利氏を中心とする武家勢力の結集の核であって第二の武家政権樹立が竊に企てられていた。その背後には関東地方に根を張る大豪族的領主層の支持があった。このように直義によって準備された武家政権樹立の構想を現実のものとするには源氏の嫡流と自他ともに認める尊氏の存在が必要であった。京都にいた尊氏は中先代の乱の鎮圧のために鎌倉にむかい、乱が終息した後も鎌倉に留まり、直義の説得によって後醍醐天皇に反旗を翻すに至る。

 『太平記』の筆致は直義に対し、全体に厳しいと著者は指摘する。彼は目的のために手段を選ばない冷徹な人物として描かれている。しかし、その一方で、直義の冷徹だが禁欲的な性格と、直義を熱烈に支持するグループがあったことを『太平記』は見落としていない。彼は光厳上皇に代表される王朝などの伝統的な保守勢力との強いつながりももっていた。『太平記』が急進派、快楽志向型の人物として描く尊氏側近の高師直とは対照的な描き方をされている(その2人のあいだで何となく動揺しがちな尊氏というのも歴史的にはともかく、文学的には見事な造形である)。また直義は門地よりも文道を重視する性格の持ち主であったという今川了俊の証言を引用している(文武両道とか、兼備ということからすれば、もっともそれにふさわしい武士の1人である今川了俊が言っているのだから重みがある)。

 室町幕府開創期の政局は、尊氏と直義による二頭政治であった。将軍尊氏は、将士に対する恩賞の給付、守護・地頭職の任免などを行い、直義は土地関係の裁判を担当した。今川了俊の『難太平記』には尊氏は「弓矢の将軍」、直義は「政道」と両者の分担関係が要約されているという。「しかし、このような幕府の権力機構の分割は、幕府を支える諸勢力の利害関係と複雑に結びつき、内紛を引き起こすことになる。内紛とは、いわゆる観応の擾乱である。将軍権力の一元化は、幕府政治の安定化にとってさけて通れない課題だった。結果的に言えば、尊氏はこの内紛を大きな犠牲を払うことによって収拾し、難題を克服するのである」(143-4ページ)と著者はまとめている。

 では「観応の擾乱」はどのようなものであったか。このころ、各地で所領や生産物をめぐる抗争が顕在化していた。「荘園の簒奪を通して自己の領主的発展を遂げようとする急進的小武士層と、これを排除して荘園制的秩序を守ろうとする寺社権門との抗争、一族内の惣領と庶子の抗争など、さまざまの階層における守旧派と急進派との間の抗争は、大きく2つの対立する政治勢力を形成した。幕府の二頭政治はこうした対立関係と結びつき、観応の擾乱の導火線となった。急進派が尊氏―師直を支え、守旧派が直義を支えるという図式である」(144ページ)。

 南北朝の動乱を武家の側から描いた『梅松論』には夢窓疎石が尊氏が仁徳の他に、心が強く、慈悲深く、寛容であるという3つの徳を備えていると賛美したことが記されているという。しかし著者は『太平記』のなかで、尊氏が合戦の最中、進退きわまって自害しようとして周辺のものにとめられる場面がよく出てくることを指摘している。あるいは「心強きこと」というのは、夢窓が尊氏を励まそうとして言ったことかもしれないなどと思う。(『太平記』は南朝寄り、『梅松論』は幕府よりという見方が何となく定着しているが、『太平記』はそれほど単純な書物ではないことも、この書物では論じられている。)

 尊氏と直義の関係は歴史的にも文学的にも興味深いものである。この書物では詳しく触れられていないが、尊氏の正室で北条一門の出身である赤橋登子は、吉川英治の『私本太平記』では評判の美人として描かれている。それはさておき、2人のあいだの子どもたち、二代将軍義詮、関東管領となる基氏は(この書物でもあとから登場するが)、比較的できがいいという印象がある。その意味で、頼朝と政子のあいだの子どものできがあまりよくなかったことといろいろな意味で対照的ではないかと考えている。

森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』

3月22日(土)晴れ

 森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(角川ソフィア文庫)を読み終える。1991年に角川書店(当時)から刊行された『太平記の群像―軍記物語の虚構と真実』(角川選書)を文庫化したものである。既にこのときに買って読んだはずであるが、読み直してみて、記憶が蘇らないのは困ったことである。

 『太平記』は、軍記物語の中でひときわ高く評価されている傑作であり、これまで主として国文学の分野での研究材料となってきた。この書物は、歴史学の見地から『太平記』を見直そうとする試みの1つである。「『太平記』の描く南北朝時代は、日本史上、他に例を見ない大規模な動乱の時代だった」(9ページ)。日本全土が動乱の渦の中に巻き込まれ、政治・経済はもとより、庶民の生活・文化にまで大きな影響が及んだ。それだけでなく、この動きは海外へも及んだ。「南北朝の動乱は、人々の生活と活動の場を、国の内外に、格段に押し広げたのである。/こういった時代に、思う存分、駆け回った人々の顔は輝いていよう。反対に、処世に失敗して、失意のどん底で、悲嘆にくれる人々の声も聞こえるようである」(10ページ)と著者は言う。

 それゆえ、『太平記』を日本史の資料として活用すれば、新たな発見の可能性が生まれる。とはいえ、現在手にすることのできる『太平記』は写本であるし、物語自体も史実に基づいているとはいえ虚構を含んでいる。とはいえ、この物語はその成立の過程で多くの資料や証言が集められてまとめられている。したがって慎重に取り扱っていけば、史実とそれに対する同時代の人々の評価を読みとることができるはずである。そこで、著者は『太平記』に登場する人々をめぐり、その生きようと役割をできるだけ確かな史料に基づいて明らかにすることを試みている。

 第1章「傍系たちの反逆」は後醍醐天皇とその周辺の人物について考察している。『太平記』の本文は、後醍醐天皇の紹介から始まる。南北朝動乱の時代の幕開け役を果たしたのが後醍醐天皇であるから、これは当然のことである。『太平記』巻1は後醍醐天皇の善政を記し、その「聖主」「明君」ぶりを称えている。特に物資の流通を阻害する新しい関所の停止、飢饉で庶民が苦しんでいるときに米価を定めて売らせたこと、天皇自身が訴訟をじかに聞き、理非を決断したことの3つを高く評価している。しかし、そうはいっても、『太平記』は後醍醐天皇の政治を全面的に賞賛しているわけではない。彼が覇者的で狭量な政治を推し進めたから、その政権は短命におわったのだと、「実に手厳しくかつ的確な批判の言を付するのを忘れていないのである」(15ページ)。『太平記』はどちらかといえば、儒教的な政道観に立って、個々の場面に則して是々非々の判断を下していると著者は指摘する。また後醍醐天皇の政治振りを記した記事が正確な史料に見える一方で、『太平記』の記述との対応関係をめぐっては議論があるという。

 「傍系」というのは、南北朝時代の遠因となっているのが皇位の継承をめぐる持明院統と大覚寺統の対立であり、後醍醐天皇はその大覚寺統の「傍系」=後宇多天皇の第2皇子であり、本来ならば皇位を継ぐ立場になかったのが、兄の後二条天皇が若くして亡くなったために「一代の主」=一代限りの中継ぎの天皇として行為につくことになったことを指している。後醍醐天皇のあとに大覚寺統から皇位を継ぐはずだった天皇の甥(兄の子)の邦良親王が若くして亡くなるなどの環境の変化により、後醍醐天皇は新しい政治への野心を膨らませていくが、両統迭立の原則を守ろうとする鎌倉幕府が彼にとって最大の障害物に思われてきたと推測される。

 後醍醐天皇の后妃としては、権力者の娘として生まれ、天皇の政治的な野心に利用され、時代の波に翻弄されて生きた正室の西園寺禧子、天皇の寵愛を受け、幸運にも恵まれた阿野廉子の2人が対照的に取り上げられ、さらに歌道の大御所二条為世の娘で自らも和歌をよくした二条為子やその他の妃たちについても考察を加えている。また年長の皇子たち、一の宮で苦難の道を歩んだ尊良、早世した世良、武人親王護良、文人親王宗良についてそれぞれの経歴と性格が論じられている。

 後醍醐天皇の周辺には公家と僧侶をはじめとするさまざまな階層に属し、それぞれ目指す方向の違う人々がいた。彼らはそれぞれの特技を生かして、天皇に接近していた。公家を代表するのが代々の天皇に仕えた公家界の重鎮で、大覚寺統に忠誠を尽くしてきた万里小路宣房、エリート公家で幕府からも一定の信頼を得ていた吉田定房、鎌倉期から後醍醐天皇のもとで活躍する北畠親房、文筆系吏僚の家柄で持明院統に仕えてきた日野家の出身であるが後醍醐天皇の側近の1人となった日野資朝と、日野俊基らである。日野資朝や俊基は自らの意思で日野家の主流と反目する立場に立ったのであるが、一種の傍系だという評価がなされているように思われる。

 後醍醐天皇の周辺では僧侶たちも幕府調伏のための祈祷を行うなどして討幕運動に重要な役割を果たした。そのような僧侶として円観(恵鎮)があげられるが、彼はその後南北和睦をあっせんし、さらには『太平記』の編集にも携わったと考えられ、『太平記』においても特に重く扱われている存在である。さらに「法験無双の仁、文観、顕宗の碩徳仲円についても考察されている。

 第2章「建武新政の人間模様」では鎌倉幕府を倒すのに貢献し、後醍醐天皇の信任を得て短期間ではあったが高位・高官に昇った「三木一草」=「合理主義者、楠木正成」、「親衛隊長、名和長年」、結城親光、千種忠顕について、まず取り上げている。楠木正成と後醍醐天皇の出会いや正成の生まれについての『太平記』の記述のぎこちなさを指摘し、正成についてはまだ謎の部分が多いとして慎重な発言に終始しているのは専門家の見識というものであろう。

 また新政下での浮き沈みの様相として、得意の絶頂に上った阿野廉子、逆に失意に沈んだ護良親王、その諫言が受け入れられずに遁世した万里小路藤房、新政下で幕府時代にもっていた影響力を失って逼塞を余儀なくされ、謀反事件に巻き込まれる西園寺公宗、倒幕に貢献しながら新政下で重用されず、そのために変心する赤松則村、鎌倉幕府につかえ、建武新政権でも用いられたが陰謀が発覚して処刑された二階堂道蘊、新政権のもとで天皇の護持僧として活躍する文観と全くさえず、武士政権の到来を待ち望む賢俊という2人の僧侶の姿が描かれる。

 この章の最後に、『太平記』のなかでもっとも多く登場し、主人公的な存在である足利尊氏と、彼との対立・抗争の記述を通じていわば引き立て役を演じている新田義貞が取り上げられている。尊氏は六波羅を陥落させて後醍醐天皇の京都への復帰を実現させるが、新政権からは多少の距離を置き、武家政権の再建をはかろうとする。新田義貞は鎌倉を攻めて幕府を崩壊させる。もともと競争意識の強かった両者の対立は建武新政権の基盤を危うくすることになるが、現在残されている両者の発給文書を対比してみる限り、その活動の量と質には雲泥の差があると著者は論じている。

 5章からなる書物の2章までしか紹介できなかった。残りの部分については後日取り上げるつもりである。『太平記』には興味があるのだが、この書物でも紹介されている角川文庫版を読んだのと、(紹介されていない)新潮社から出ている版で2巻目まで読んだだけで、全体を読み終えていない。もっともかの吉川英治の『私本太平記』だって楠木正成の死という『太平記』全体のまだ半ばまでいかないところで筆を置いているのだから、5巻のうち2巻を読んだというのはまずまずの取り組みといってよいのである。

 優れた文学作品がそうであるように、『太平記』もいろいろな読み方ができる書物である。ここでは歴史学の側からの接近が語られているが、もちろん文学として、また文章として、政治哲学としての読み方もできる。文学としての読み方といっても軍記物語として他の軍記物語と対比して読むこともできるし、細部にこだわって、たとえば物語のなかの説話に着目したり、和歌に着目したりして読むこともできる。個人的な好みからいえば、細部にこだわるほうが好きで、この書物のなかでも、物語の挿話を史実に照らして考察している部分に特に興味をもった。

語学放浪記(26)

3月21日(金)晴れ、風強し

 一昨日(3月19日)の当ブログ「Les senbei」について、フランス在住のMGBさんからコメントを頂き、フランスで暮らしていると煎餅が恋しくなる理由を確かめることができた。コメントに対する返事は別に差し上げるつもりであるが、ここでお礼を申し述べておきたい。フランスに出かけたことは1度きりで、国際会議の末席を汚し、3食フランス料理という豪華版の滞在だったので、そういうことは分からない。

 ヨーロッパに滞在した日数を全部合わせて400日を超えるかどうか。その9割ほどは英国で過ごした。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの地方のすべてに足跡を記したとはいうものの、もっと詳しく見ていくと、イングランドではコーンウォール、スコットランドのハイランド地方などまだ足を延ばしたことのないところが出てくる。とにかく、英国では塩味のスナックのようなものは簡単に入手できるからフランスで煎餅が恋しくなるという気持ちが想像できなかったのである。

 3月13日放送の「まいにちフランス語」応用編の練習問題で「フランス語で書くことを選ぶことで、ベケットは、自分の母語である英語を捨てたのである」(解答例はEn choisissant d'écrire en frnçais, Beckett a renonce a l'anglais, sa langue maternelle.)という文が出てきた。1969年にノーベル文学賞を受賞したアイルランドの小説家・劇作家であるサミュエル・ベケット(1906-89)はEn attendant Godot(ゴド―を待ちながら、1952)のような不条理劇で知られるが、フランスに定住して作家活動を行っていた。たしかに、彼は英語が母語であったが、アイルランドでは英語とともにアイルランド語(ゲール語)が国語とされているし、彼が育った時期のアイルランドは、アイルランド語の復興運動が盛んな時期であったのではないかと思われる。だから、ジョイス(1882-1941)の助手を務めた時期があることも手伝って、ベケットはかなり複雑な言語意識をもっていたと想像される。ジョイスが距離を置きながらも、尊敬し続けたイェイツ(1865-1939)はアイルランド語と文化の復興に尽力した人物の1人であり、さらに年長の世代に属するワイルド(1854-1900)は代表作の「サロメ」をフランス語で書いている。アイルランドはもともと大部分の人々がゲール語を話していたのが、(話せば長くなる過程を経て*)英語が次第に浸透して行った。だからアイルランドの特に知識人たちの言語意識は押し並べてかなり複雑なものであったと考えられる。(*たとえば、スウィフトが『ガリヴァー旅行記』を書いた時代には、ダブリンでは英語が支配的であったが、アイルランドの他の部分ではゲール語を話していた。)

 現在、アイルランドのさまざまな表示は英語とアイルランド語の二言語になっている。一度ダブリンからベルファストまで汽車の旅をしたことがあるが、駅の名前がアイルランド国内では二言語表示なのが、北アイルランドに入ると英語だけになったのが印象的であった。このような二言語表示はウェールズでも見受けられる。ウェールズでも鉄道の駅の名前は英語とウェールズ語の二言語で書かれていた。それだけでなく、ウェールズの国旗にも描かれているドラゴンが、多くはマンガ風に書き添えられているのが面白かった。写真を撮ってくるか、模写しておくべきであった。ウェールズ語もアイルランド語と同様にケルト語派に属する言語であるが、ケルト語派に属する言語としては、スコットランドのゲール語、フランスのブルターニュ地方に残っているブルトン語なども挙げられる。英語、あるいはフランス語の使用が支配的になる一方で、これらの言語を保持していこうという運動も盛んである。

 何が言いたいのかというと、国家が(自覚的・あるいは無自覚的に)言語政策を設けて国民の言語生活の望ましい方向付けを行うのは1つのことであって、各個人がどのような言語生活を選んで生きていくのかは別のことであるということである。日常生活でどのような話し方を選ぶか、学校でどのような言語を学ぶかというのは基本的には個人の問題である。伝統的な言葉を守っていくか、それとも広い範囲で通用し、仕事の上でも役に立つ言語を選ぶかというのは難しい問題であるが、その両者のバランスをとることを含めて、やはり個人の問題と考えるべきである。昨年見たイタリア映画『海と大陸』に出てくる母親と息子の場合、母親が標準イタリア語を話すのに対し、息子はシチリア方言を話している。「母語」という概念自体が限界をもっていることがわかる。
 
 そうはいっても、世の中には常識というものがある。その言語が国際社会と国内社会でどのような役割を果たし、評価を受けているかを大雑把に理解することは必要である。私が学生の頃に、英語は帝国主義者の言葉であるから勉強しない、などといって落第を繰り返している学生運動家がいたが、第二外国語に選んだ社会主義国の公用語の単位も落としていたので、単なる怠け者の口実でしかなかったように思われる。ただし、こちらも他人が2年間で単位を取り終えるドイツ語を3年かけて勉強したのだから、他人の悪口を言う資格はなさそうだ。とにかく、自分の道を選ぶための予備知識と、それを生かす努力は必要である。

 さて、MGBさんのコメントは、フランス語を勉強しようと思うようになった動機についての質問で終わっているのだが、ごく大雑把な動機というか、背景にあるのは、一応学問に志すうえでフランス語とドイツ語くらいは辞書を引いて読めるようにならなければ格好がつかないというようなことを先生や先輩や同輩からいわれるような環境の中で学生生活を送ったこと、したがって確たる動機というのはなくて何となくだらだらと勉強してきたというのが本当のところである。ただ、少しやる気を増す動機付けになったのは、私は英国の社会思想史のようなことに興味があって、そういう英国の思想家たちがフランスの思想家から一番大きな影響を受けているということが分かってきたことである。たとえばジョン・スチュアート・ミルとアレクシス・ド・トクヴィルとはお互いに文通したりして影響を及ぼし合っているのだが、その半面でこの2人の関係にはどこかずれたものを感じる・・・ということでやはりフランス語をしっかり勉強して、トクヴィルのいっていることをより深く理解してみたい・・・と思うようになったし、現に思っているということである。 

山口雅也『狩場(カリヴァ)最悪の航海記』

3月20日(木)雨

 山口雅也『狩場(カリヴァ)最悪の航海記』(文春文庫)を読み終える。題名を見ればわかるように、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』のパスティーシュである。ドラえもんにしばしば登場する「ガリバー・トンネル」は、それをくぐることで、小さくなったり、大きくなったりできる。このことに集約されているように、ガリヴァーの第1編の「小人国」と第2編「大人国」は特に子ども向きの本として好んで読まれてきたが、スウィフトご本人はそんなつもりで書いたわけではない。そしてこの本も子どもに読ませるような本ではない。

 有名な旅行記では第3編に相当する航海の途中、ラピュータ島から不死人間の国ラグナグにわたり、そこの国王の親書を携えてガリヴァーは日本に渡る。ザモスキという小さな港町から彼は江戸へと向かい、将軍と会見する(ここまでは原作の設定を踏まえている)。将軍綱吉は病臥しているが、天然痘で回復は望めそうもない。ガリヴァーを迎えた側用人の狩場蟲斎は、オランダ語どころか英語までも話せるだけでなく、海外渡航の経験もあり、冒険家としてのガリヴァーの名を知っているという。

 狩場はガリヴァーに将軍が求めている不老長寿の秘薬を探しに航海に出かけるといい、経験豊かな彼の同行を求める。その秘薬はモルッカ諸島の近辺の竜臥島という幻の島にあるという。どこにあるのか正確には分からず、海域には霧が立ち込めたり、大あらしが起きたりして地元の人間でもたどりついたものはいないという島である。この島を訪ねる航海は「最悪の航海」となるだろうと狩場はいう。そこへ行き着く前に海賊に襲われることも十分に考えられるのである。ガリヴァーと狩場、よく似た名前の2人が航海に出かける。狩場をKalliverとローマ字表記するのには無理があると思うが、大冒険家ガリヴァーの相棒を務めるのだから多少の無理は致し方ないだろう。

 探検の旅に出かけるためにザモスキに到着した彼らを迎えたオランダ船は、予定していた商船ではなく、なぜか軍艦であった。しかもかなり老朽化した船で、乗組員の挙動もあやしげである。それどころか船医は間に合わせの偽物で、結局ガリヴァーが船医になるというところからはじまって、海賊の襲撃、島への到着、そしてそこで待ち構えていた新たな冒険・・・と『ガリヴァー旅行記』を踏まえながら、ポーの大渦巻きや、ドイルの『失われた世界』など冒険小説や幻想文学の風味を取り入れて奇想天外な物語が展開する。日本の侍が海外で活躍するというのは荒唐無稽に思われるし、綱吉の時代の日本は既に鎖国していたとはいうものの、この小説にもでてくるようにドイツ人のケンぺルはオランダ人に化けて入り込んでいたし、この少しあとの時代になるとシドッチのように密入国を企てる宣教師もいた。それに小説だから多少の脱線はあってよいのである。

 実は私、スウィフトが好きで、彼が(著者の用語によれば)首席司祭を務め、その墓がある聖パトリック大聖堂を2回訪問したことがある(別に威張るつもりはない。3回以上訪問された方がいらっしゃれば、喜んで頭を下げるつもりである)。それで、日本のガリヴァーといわれることもある浮世草紙の和荘兵衛とガリヴァーがであうという小説を書いてみようと思っていたのだが、別の構想で先を越されたかというのが正直な感想である。

 『ガリヴァー』の第3編は、社会批判、特にイングランド王国によるアイルランド支配の批判の要素が強く、ラピュータの学者たちの描写は当時の科学者たちの世界への皮肉が込められているといわれる。ただ、そういうかなりどぎつい批判や風刺について知らなくても、面白く読めるというところにスウィフトの凄味があるのではないかと思う。この小説の毒をできるだけ再現しようとしていることは分かるのだが、その毒を何に向けて発射しようとしているのかが分かりにくいところがある。『ガリヴァー』は語り手である主人公の背後に、その主人公を皮肉な目で見つめている著者の存在が強く感じられる部分がある(ガリヴァーはホイッグ党支持であるが、それがスウィフトと重ならないことはすぐにわかる)が、この小説ではダブリン大学文学部のジョアンナ・ウフィストJohanna Wfistt*という人物によるという注がつけ加えられていて、主人公の語りを相対化する役割を果たしていることに注目すべきであろう。(*変な名前だが、スペリングを注意して見ていただきたい。)

 既に述べたように、『ガリヴァー』とそれ以外の文学の趣向を大きく取り入れたうえで独自の物語を組み立てているので、物語の筋を追っていくだけでも楽しいが、多少の読書歴を持っていれば自分なりに楽しみをつけ足すことができるはずである。物語のなかの主要登場人物の1人である女海賊のキャプテン・ラウラはユートピア建設を夢見ているが、そういう部分をもう少しふくらませて、怪奇色を薄める方が私の趣味にはあう。

Les senbei

3月19日(水)晴れ後曇り

 本日放送(厳密にいえば再放送)されたNHKラジオ「まいにちフランス語」初級編「百合のFranceウォッチング」の第69回を聴いていて考えたことが2つある。

 フランスで暮らす日本人にむかって、フランス人がIl y a qulque chose du Japon qui te manque en France? (フランスにいて、日本のもので何か欲しいと思うものはある?)と尋ねると、いくつかあげる中に、les senbeiがあった。フランスのお菓子には塩味のものがないので、こういうものが食べたくなることがあるのでしょうと講師の藤田裕二さん(玉川大学教授)がコメントしていたが、これは藤田さん自身がフランスに滞在しているときに感じたことであろう。les senbeiと複数になっているのは、せんべいを1枚しか食べないということはあまりないということであろうか。

 その一方で日本のものをフランス語でどういい表わすかというコーナーで、せんべいをle biscuit sale (塩味のビスケット)と訳していた。塩せんべいはこれでいいのかもしれないが、せんべいにはいろいろな種類があって、それぞれに対応した訳し方をする方が親切ではないかと思った。

 昔、ある人にお歳暮としてあられの詰め合わせを送ったら、「おせんべいを有難う」という礼状を受け取ったことを思い出す。子どものころからどのようなお菓子になじんでいるかによって、お菓子についての認識は異なる。子どもの頃に、母がかき餅を焼いたり、あられを炒ったりして食べさせてくれたことをなつかしく思い出すのだが、育った地方や年代によってこの種の思い出は異なる。おかきとせんべいを区別する人もいるし、いない人もいるだろう。

 もう1つ、気になったのはen deux mots(簡潔に言うと、一言で)という表現で、文字どおりに訳すと「二言で」(motは「語、言葉」)ということになる。英語ではin a word(一言で)だが、他の言語ではこういうときに「一言で」というのか、2つ以上の数字が入るのか、調べてみたいと思っている。あまり数が多いと、「簡潔に」という意味にふさわしくなくなってしまうのではあるが・・・。

日記抄(3月12日~18日)

3月18日(火)晴れ、関東南部で春一番が吹く

 3月12日~18日のあいだに出会った出来事、考えたことなど:

3月12日
 NHKBSプレミアムで『ジョーズ』を観た。『ゴジラ』+『白鯨』=この映画ではないかと思った。

3月13日
 友人がキューバのハバナから昨年の9月に出した葉書が今頃になって到着した。
 吉永小百合さんの誕生日である。

3月14日
 栗原小巻さんの誕生日である。

3月15日
 Beware the ides of March.(3月15日を警戒せよ)という言葉がある。ローマの軍人であり、政治家でもあったユリウス・カエサルが暗殺された日。古代ローマの暦は複雑で、ひと月のなかのある特定の日から何日めという数え方をしたのだそうだ。idesはnones後の8日目(3,5,7,10月は15日、その他の月は13日)であり、nonesはというと3,5,7,10月の7日、その他の月の5日ということである。なぜ、このような暦になったのか、何か理由があるのかもしれないが、詳しいことは知らない。

3月16日
 横浜FCがカターレ富山を破り、今季初勝利を上げる。アウェーでの勝利。今度はホームでの初勝利を期待する。

3月17日
 「まいにちフランス語」の練習問題でla biere bien fraiche (よく冷えたビール)という語句が出てきた。英語のfreshは「新鮮な」という意味で理解されているが、窓を開けて外のfreshな空気を入れるというふうに使われることもある。この場合は「さわやかな」という感じであろうが、ちょっと寒い感じも付きまとう。さらに風があって寒いという意味もあるようである。フランス語のfrais (先ほどのfraicheは女性形)は「ひんやりとした」、「肌寒い」、「冷たい」、「冷えた」という意味で使われることの方が多いようであるが、「新鮮な」という意味もある。単語のいろいろな意味や使い方を知っておく必要を感じさせられた。

 「まいにちイタリア語」を聴いていて、cameraという言葉が出てきたので思いだした話がある。ある人がルーマニアの地方都市を旅行していて、宿が見つからず、どこか部屋を貸してくれる人がいないかと頼んでいると、1人のおじいさんが、カメラ、カメラと叫ぶので、写真機をよこせば部屋を貸すといっているのかと思ったら、ルーマニア語でカメラというのは部屋のことだったというのが落ちである。イタリア語でもcameraは部屋である。じゃあカメラのことをイタリア語で何というかというとmacchina fotograficaで、話の状況ではmacchinaだけでもいいらしい。macchinaはもともとは機械、普通は自動車のことをいうので、ずいぶん意味の幅のある言葉である。それにしてもルーマニア語では、写真機のことは何というのだろうか?

3月18日
 「まいにちフランス語」、「まいにちイタリア語」の4月号に加えて、「まいにちドイツ語」の4月号を買う。4月からは久しぶり(約15年ぶり)にドイツ語の勉強をしてみようと思っているところである。入門編:「Kompass」、応用編:「言うが花のドイツ語」の他に、ケストナーの『飛ぶ教室』の対訳(抄訳)が掲載されている。ケストナーは好きな作家であり、その中でもこの話は特に好きで、日本語だけでなく英訳でも読んだことがある。部分的にでもドイツ語で読む機会ができたのはうれしい。このほか、時間を見つけてラテン語もさらって見るつもりで、言語の習得には集中した学習が大事だということは分かっているが、相変わらず拡散した学習を続けることになる。一応、フランス語>ラテン語>ドイツ語>イタリア語という優先順位をつけて勉強していくつもりではあるが、はたしてどうなるか???

椎名誠『北への旅 なつかしい風にむかって』

3月17日(月)晴れ

 椎名誠『北への旅 なつかしい風にむかって』(PHP文芸文庫)を読み終える。椎名さんのいう北東北(青森、岩手、秋田)を2006年から2010年のあいだに旅行した際の写真と文章を集めて、2010年に『北への旅』という表題で出版されたものの文庫化であるが、『おとなのための北東北エリアマガジン ラ・クラ』に連載された「北東北 雲ながれ風まかせ旅」の単行本未収録作品7編が加えられ、さらに追加がある。この文庫本の「あとがき」で椎名さんは「北東北の写真旅でいつも感じるのは『日本人はまだいい人がいっぱいいるんだなあ』ということだった」(299ページ)と書き記している。だから、大震災の後に、北東北がどうなったかを知ろうとあらためて宮古市を訪ねた時のことが「文庫版のための3年目の旅『いちばん足を運んだ宮古の今を歩く』」として書きくわえられている。

 写真の特徴は白黒写真にこだわっていること、写真が被写体とのコミュニケーションの手段となっていることが多いことであろうか。その土地の人の生き生きとした表情をとらえた作品が多い。宮古市の浄土浜の祭に遭遇した際の「神輿の横ではいかにもアルバイト然とした巫女さんが並んでおいしそうにお弁当を食べておりました」(92ページ)という文章に添えられた写真など特に生き生きとしている。

「おいしい」といえば、各地で酒を飲み、ラーメンを食べたことが記されているが、同じく宮古のラーメンしかないラーメン店(79ページ)とか、青森県の十三湖のしじみラーメン(256-7ページ)のような単純さを愛する気持ちが嬉しい(当方もどちらかというと単純な料理の方が好きなのである)。常連客が多い飲み屋は(一見の旅の客として)入りづらい(222ページ)というのには同感。

 「観光地ではなくてもひっそり気持ちのいい場所というのが日本中にまだいっぱいあって、多くの場合はその素晴らしさに地元の人がまるで気がついていなかったりすることが多い」(184ページ)と椎名さんはいう。もっとも気づいてしまうと、いやらしい観光事業が展開されることになるだろうから、それはそれでいいはずである。「変わらない田舎を愛する旅人がいるように、変わらない故郷の魅力に気がつく人もこれから増えてくるような気がするのだ」(273ページ)ともいう。その通りにことが運ぶかどうか、これからが正念場であろう。

 混浴温泉や○○「横丁」についての考察もおもしろいが、「ナマハゲ岬にて」という文章の中で、「それにしても巨大で怖い顔をしたナマハゲが、大して悪いコトをしたわけでもない小さい子をああやって無闇に脅かす、というのはあまりにもひどいんじゃないか」(200ページ)と疑問を投げかけておいて、「だいたい最近の世の中は、悪いおじさんばかりではないか」(201ページ)とさらに突っ込む。最後に現地のおばちゃんからわるいのはむしろナマハゲの方らしいという結論を得るという展開に大いに笑うことになった。

 大震災からの復興を期して、「仮設に住んでいる人たちを対象に造られた、やはり仮設の寄り合い商店街、『多ロチャンハウス』」(292ページ)を訪問して、大きな音で流されている演歌の「男と女の情念や恨みの歌詞と、ショッピングセンターとしての色合いがちょっとアンバランスだが、どっこい負けずに立ち直っていくぞ、という気概に満ちていて、なかなか感動的な風景だった」(同上)という観察は椎名さんならでのものである。ここに居酒屋系の店がないのではと心配して、端の方の食堂が夜は居酒屋になることを知り、安心して探訪記を終えている。普通の生活を愛する気持ちが伝わる締めくくり方である。

 「あとがき」で椎名さんは写真に写っている人たちの「いい顔、いい笑顔」(300ページ)がこの本のタカラモノだと書いているが、時々、写真だけでも眺めてその表情を確認したい気持ちに誘われる。椎名さんはさらに新しい東北を探しに出かけると最後に宣言している。新しい旅に期待することにしよう。

『黒い潮』、『闇を横切れ』、『河口』

3月16日(日)晴れ

 終日、家に居る予定だったのが、昼食を外で食べてくれというので、ついでに足を延ばすことにした。といっても見たい映画が見当たらず、結局昨日に続いてシネマヴェーラ渋谷で「山村聰の世界」を見ることになった。本日見たのは山村自身が監督した『黒い潮』(日活、1954)と増村保造監督の『闇を横切れ』(大映、1959)の2本である。ともにある事件をめぐる新聞記者の動きを描いた作品であるのが共通していて、興味深い2本立てであった。昨日見た中村登監督の『河口』(松竹、1961)と合わせて3本のそれぞれについて思ったことを書いてみようと思う。

 『黒い潮』は国鉄総裁の失踪と謎の死をめぐる下山事件をモデルとした井上靖の同名小説の映画化である。井上自身が所属していた毎日新聞をモデルとしたらしい毎朝新聞という新聞社で、事件のデスクを担当する速水(山村)という記者を中心に、彼らが直面する取材活動における客観性や正確さの重視と、発行部数を増やすために事件をセンセーショナルに取り上げようとする内外の圧力、さらに事件の背後にある社会の動きの葛藤に重点が置かれ、事件の真相究明は必ずしも目指されていない。速水が客観的な報道を心がけるのは、自分自身の過去の体験が影響しているのだが、彼の学校時代の恩師の一家との関係も含めて物語の展開の上では余計な説明になっているようにも思われる。
 
 映画を見ていての興味は、この当時の新聞作りの現場の様子が忠実に再現されていることに向けられる。特に部屋の中に氷をもちこんだりしてしのごうとする夏の暑さの描写は見事である。なお、この作品の助監督は鈴木清太郎(清順)が務めている。山村自身が監督もし、主演もしているので、鈴木の役割も小さいものではなかったと思われて、製作現場がどのようなものであったかにも興味がわく。

 『闇を横切れ』は北九州の地方都市を舞台とする作品で、市長選挙の候補者がストリッパーの絞殺死体の傍らに倒れていたというショッキングな事件が起きる。容疑は候補者にかかるが、現場近くで別の男を見かけたという証言がある。地方新聞の若い記者・石塚は独自の調査に取り掛かる。彼の上司であり、憧れの先輩である編集局長の高沢(山村)はその取材を励ます。石塚は被害者の仲間だった女性(叶順子)から証言を得ようとするが、なかなかうまくいかず、取材の過程で重要な証人たちが次々と消されていく。こちらも事件そのものや、この市の市長選挙のゆくえはどうでもよく、新聞記者の事件への取り組みが前面に出ている。

 同じ増村の『黒の試走車(テストカー)』が最新の技術をめぐる情報の争奪⇒産業スパイとその非人間性を描いていたのに比べると、この作品で描かれている社会の悪はどうも類型的・抽象的である。ただ、この2日間で見た4本の映画の中で、この作品の山村が一番カッコよかったというのは否定できない。山村の扮する高沢がラ・マルセイエーズを口笛で吹いて街を闊歩するというところに時代があらわれている。

 『河口』は『黒い潮』と同じく井上靖の原作小説の映画化であるが、こちらは岡田茉莉子主演の女性映画で、彼女が一番きれいだったころの作品の1つではないかと思われる。財界の重鎮・宮原と別れたまだ若い李枝(岡田)は宮原の相談役・館林(山村)の勧めで銀座に画廊を構える。風貌こそ冴えないが美術について深い知識と鋭い鑑識眼をもつ館林は、男を利用しても生き抜こうとする李枝に期待をかけるのだが、李枝は打算抜きの恋への憧れを捨てきれない。彼女が男にはまるたびに、館林が嫌みを並べるのだが、その一方で彼女に対してひどく憶病なところも見せる。

 画商となる女性が主人公であることも手伝って、美術作品や建築・庭園などが紹介され、また風景やヒロインの姿も絵から抜け出したような描かれ方がされているのが興味深い。昨日の当ブログで取り上げた『女優須磨子の恋』が演劇の世界を演劇的に描いているのに対し、こちらは絵画的といってよい。同じ井上靖の原作小説を映画化した川島雄三の『明日来る人』で月丘夢路と三国連太郎が人ごみに交じって京都の夜の街を歩く場面があったが、この作品では岡田茉莉子と田村高広が京都御苑を2人だけで歩いている。館林は李枝に向かってあなたは人間の方に興味があるらしいというが、美術に興味がある館林は中村監督の分身であるのかもしれない。

 私は、風景よりも人間の方に興味があるし、中村よりも川島の方が好きなのだが、それでもこの作品の終わりごろ、李枝と館林が京都から大阪に向かう場面で車窓からの風景がとらえられているのには感激した。京都と大阪のあいだの電車の窓から、何箇所か捨てがたい場面を拾うことができると思うのである。

 それぞれの作品が、山村聰という俳優のさまざまな演技を引き出しており、この他に彼がどのような演技を見せたかをあらためて知りたくなる。シネマヴェーラの特集上映は3月28日まで続くので、また機会を見つけて身に出かけようと思う。

女優須磨子の恋

3月15日(土)晴れ

 シネマヴェーラ渋谷で「日本のオジサマ 山村聰の世界」の中の『河口』(1961、松竹)と『女優須磨子の恋』(1947、松竹)の2本を見た。山村は前者では喜劇的な演技を見せ、後者では悲劇の主人公の1人を演じている。

 『女優須磨子の恋』は長田秀雄の戯曲『女優須磨子』を原作として依田義賢が脚本を書き、溝口健二が監督した。原作者である長田はこの映画のなかにも登場する、生前の須磨子を知る1人であり、映画製作当時まだ存命であった。須磨子の死後、関東大震災や太平洋戦争による世相の変化はあったが、彼女の記憶はまだ生きていたころにつくられた映画だということが貴重である。また、俳優座と早稲田大学の演劇博物館が協力して日本の「新劇」の草創期の姿を再現しようとしていることも注目される。映画の中で、イプセンの『人形の家』をはじめとして、『復活』や『カルメン』などの須磨子の舞台が再現されているのも見どころの一つである(千田是也が指導しているとクレジットに記されていた)。

 映画は島村抱月が早稲田で近代劇の背後にある哲学を講じる場面から始まり、『人形の家』の上演と須磨子をみいだしてノラ役に抜擢する過程、抱月と須磨子の恋、2人が芸術座を起こし新しい演劇を目指しての苦闘、『復活』の興行的な成功、抱月の死とそれを追う形になった須磨子の自殺までを描いている。「新劇」が過去のものになってしまった今日の目から見ると、抱月と須磨子の新しい演劇の創造にかけた熱意をどう評価するかは、難しい問題であり、むしろ2人の世間に背を向けた、新しい愛の姿の方に目を向けて評価すべきであるのかもしれない。

 冒頭で抱月が語る、人生は苦しいものであるが、それと対決して生きていくことが重要であるという哲学は19世紀末に特徴的なものである。同時代の欧米で流行していた哲学・人生観を大学で学生たちに講じることと、それを自分の問題として人生のなかで取り組むことは別のことではあり得ないはずでり、抱月と須磨子の恋もその文脈でとらえられるべきであろう。演劇の世界の歴史を描いた戯曲を映画化するという試みの中で、溝口のワンシーンワンカットという得意の手法が効果を上げている。

 映画の中で抱月の妻を演じている毛利菊枝は俳優座ではなく、京都に本拠を置いていたくるみ座という劇団の主宰者であった。あまり得な役回りではない出演をしているのは、大先輩である松井須磨子への敬意の表れと考えられるが、そのくるみ座も今はない。京都大学在学中、下宿へ帰るために百万遍から東大路を北に歩いていくと、くるみ座の稽古場の近くを通ったことを思い出す。溝口健二は既に世を去っていたが、この映画の企画を担当している絲屋壽雄は近代映画協会のプロデューサーとして、依田義賢はシナリオ・ライターとしてまだ健在であった。依田が主宰していた詩の同人誌『骨』を書店で見かけて、買おうか買うまいか思案したことを思い出す。

 映画・演劇の世界の中での記憶の継承ということになると、松井須磨子を田中絹代が演じたこと、溝口をはじめとする多くの映画人や映画観客が田中絹代と同時代を共有したことを、その後続の世代に属するものとして尊重すべきであろう。そういえば、市川崑監督の『女優』で吉永小百合さんが田中絹代の半生を演じていた。あと何年かすると吉永さんの伝記映画もつくられる時が来るかもしれない。どんな記憶になるか知りたい気持ちもあるのだが、自分としては吉永さんと同時代を生きるだけで満足すべきなのであろう。

ウィルキー・コリンズ『月長石』(28)

3月14日(金)曇り

 インドの寺院で月の神の像の額を飾っていた黄色いダイヤモンドは、イスラーム教徒の手にわたり、その後英国の軍人であるハーンカスル大佐の手で英国に運ばれた。彼がどのようにしてこの宝石を手に入れたかをめぐっては血なまぐさい噂があった。またこの神聖な宝石を取り戻そうとする3人のインド人たちの姿も英国にあらわれるようになった。

 大佐はその遺言で姪であるヴェリンダー家の令嬢レイチェルに宝石を遺贈した。レイチェルの母ヴェリンダー卿夫人は一族のなかでも大佐があちこちで起こした野蛮なふるまいをもっとも強く非難した1人であった。ダイヤモンドをめぐる不吉な噂と、大佐の人格を知る人々は宝石に触れることを避けようとするが、ヴェリンダー家の顧問弁護士であるブラッフは宝石の価値がヴェリンダー家の富を増すものであることを信じて、大佐の甥であるフランクリン・ブレークを説得して月長石をレイチェルの18歳の誕生記念の祝いに届けさせる。レイチェルには、彼女の従兄であるフランクリンと、もう1人の従兄で慈善事業家として知られるゴドフリーの2人が求婚中であった。金満家の息子で落ち着きのないフランクリンと、社会的な声望を集めるゴドフリーではあったが、レイチェルの心はなぜかフランクリンの方に傾いているようであった。

 ところが誕生祝いの翌朝、レイチェルの部屋から月長石が消えており、地元の警察の捜索、さらにはフランクリンがロンドンから呼び寄せたカッフ部長刑事の捜索にもかかわらず、月長石のゆくえは分からない。しかもこの事件をきっかけとしてレイチェルのフランクリンに対する態度が一変する。自分の努力が報われないまま、失意のフランクリンは大陸旅行へと旅立つ。一方、ロンドンに出たレイチェルはいったんゴドフリーと婚約するが、彼の求婚の動機に不審を感じたブラッフの助言を受け入れて破棄する。この間にヴェリンダー卿夫人が急死する。それ以前にゴドフリーはインド人の襲撃を受けており、彼と月長石を結び付ける噂が流れている。

 翌年、父親が死んで莫大な財産を相続することになったフランクリンは帰国して、レイチェルとの仲を取り戻すためにも事件の真相を突き止めなければならないと考える。ヴェリンダー邸のあるヨークシャーに向かった彼は、事件の後に消息を絶った(自殺した)邸の使用人で前科のあるロザンナ・スピアマンが何かを隠していたことを知り、それを探し出すが、見つけたのはカッフが事件を解くカギになるといっていたレイチェルの部屋の扉に塗られたペンキのついたナイトガウン、それも彼自身のものであった。ナイトガウンに添えられていたロザンナの遺書にはフランクリンが犯人であると信じた彼女がこのガウンを隠す努力をしたが、フランクリンに無関心な態度を示されたためにこの遺書を残すと書かれていた。

 自分自身が犯人であることを示すナイトガウンの発見とロザンナの遺言における証言はフランクリンにとっては不可解な成り行きであった。なによりも彼の手もとに宝石はないのである。ロンドンに戻った彼はブラッフと相談し、叔母であるメリデュー夫人のもとで暮らしているレイチェルにあって、宝石が紛失した夜に彼女が何を見たのか、これまで証言を拒否してきた彼女の口を開かせようとする。フランクリンはブラッフの手引きにより、彼の支度を訪問しているレイチェルに会おうとする。

 フランクリンはレイチェルに近づき、思わず彼女に接吻するが、レイチェルは彼を突き飛ばし、「卑怯な方ね!・・・卑劣な、情けない、薄情な卑怯者よ!」(中村訳、567ページ)という。原文では”You coward! ...You mean, miserable, heartless coward!"(Penguin Popular Classics, p.339). レイチェルはフランクリンが1年前の夜にしたことを弁解するためにやってきたのだろうが、やり方が卑劣であると非難する。フランクリンは自分が何をしたのを見たのかを尋ねようとする。それに対してレイチェルは答える。

 「あたくし、あなたの破廉恥な行為を秘密にしてあげているんですのよ。それを隠しているおかげで、ひどい目にあっていますのよ。ご自分がなにをしたかなどとおたずねになるなんて、そして侮辱をうけずにすむ権利は、あたくしにはないものでしょうか。あなたには感謝の気持ちというものが消えてなくなったのでしょうか? あなたも前には紳士でしたわ。前には母にとって親しい方、そして、あたくしにとっては、もっと親しい――」(568‐9ページ)

 冷静さを保とうと努力しながら、フランクリンはロザンナ・スピアマンがレイチェルにナイトガウンを見せたかを質問する。レイチェルにとってこの質問は全く不可解なものである。フランクリン自身が月長石を盗んでおいて、ロザンナに罪を着せるつもりかとくってかかる。フランクリンは自分が犯人だという彼女の発言にかっとなるが、レイチェルは「悪党! あたくしは、あなたがあのダイヤモンドを盗むところを、この目で見たのですよ!」(571ページ)という。この彼女の言葉でフランクリンは救いようもなく打ちのめされる。

 事件の起きた1年前に、レイチェルはフランクリンを見逃した。もし、わざわざ彼女を訪問するようなことをしなければ彼女は沈黙を守り通すつもりだったという。フランクリンはレイチェルの中にまだわずかに残っている彼への愛情にすがって、彼女を落ち着かせ、真相に近づこうとする。レイチェルはフランクリンがダイヤモンドを盗むのを見たという。しかしそれはフランクリンが全く知らないことであったのだという。1年前の夜に何が起きたかをあらためて思いだす努力への協力を求める。

 そのよ、レイチェルは12時を過ぎても眠れなかった。フランクリンのことを思って眠れなかったのだと思わず漏らす。午前1時ごろ、寝室を出て居間に本を取りに行こうとすると、ドアの下から光が見え、近づいてくる足音が聞こえたので、扉を開けるのをやめる。レイチェルはそれが不眠症で苦しんでいる母の足音ではないかと思ったという。ヴェリンダー卿夫人はその夜、ダイヤモンドを用心するようにと何度も口にしていた。レイチェルは自分が起きていることを知れば、あらためてダイヤモンドをどこにしまうかの話をもちかけようとするにちがいないと考えて、ろうそくの灯を消して寝たふりをすることにした。

 しかし、居間のドアが開いてあらわれたのは、フランクリンであった。レイチェルは思わず立ちすくんで彼を見つめていた。フランクリンはレイチェルの用箪笥をあけて月長石を右手に持ち、左手にろうそくをもってしばらく物思いにふけるようにじっと立っていた後に、ドアを開けたまま立ち去って行った。レイチェルは暗闇の中に取り残された。

 今回は、これまでのあらすじの部分を少し長く、逆に新たに展開する物語の部分を短く紹介することになった。事件の関係者の証言が重なっていくにつれて、それまでは語られていなかった事件の周辺のさまざまな出来事が明らかになっていく。それで、「これまでのあらすじ」の部分が、少しずつ変化してきているのが連載の妙味となっているというと自画自賛になってしまうかな。

 19世紀の半ばの貧富の差が激しかったイングランドの裕福な人々の世界(召使という形で貧しい人々も登場しはするが、本当の意味での貧民はロザンナだけである)、登場するのはよくいえば精力的、悪くいえば俗物的な人物ぞろいである。そうした俗物の1人、事務弁護士であるブラッフの常識は一方で事件を起こし、その一方で事件を解決に向かわせる。しかし、事件のもう一方の端には宝石を取り戻そうとする(宝石は本来インドの神のものである)インド人たちの姿が見え隠れする。常識だけで事件は解決するのだろうか。

 この作品で事件の解明に迫る探偵役は前半においてはカッフ部長刑事であるが、後半においてはフランクリンの存在が大きくなる。しかし、彼には同時に犯人ではないかという疑惑が付きまとい、ブラッフが疑惑の払しょくを手伝う。この物語でのフランクリンの活動をもって、後のシャーロック・ホームズやピーター卿のようなアマチュアの紳士探偵の元祖とする考えもあることも付け加えておこう。既に触れたことだが、カッフが紳士でないことが事件の捜索の困難を大きくしていた。『月長石』は何か1つの図式で割り切れない複雑な魅力をもっている。物語のなかのダイヤモンドと同様に、純粋ではないための魅力をもっている。

演技だったのだろうか

3月13日(木)雨

 演技だったのだろうか

公演に向けての
稽古に励むある日
京都の寺の部屋を借りた
雨の降る日のことであった

京都の寺で
雨を眺めたいと
思っていたのが
こんな形で実現してしまったと
ある女性部員が呟いていた

強い雨の音を耳にして
もう50年近く昔の
学生時代
演劇にうちこんでいたころの
出来事を思い出した
雨の音でやる気をそがれ
稽古が何度も中断した

上演しようとしていた
劇の名は忘れたが、
雨を眺めていた
白い顔と
つぶやきは忘れない

舞台に立つどころか
舞台を眺めることさえ
しなくなったが
今でも自問することがある
あれは演技だったのだろうか

語学放浪記(25)

3月12日(水)晴れ後曇り、気温が上がる。

 一時期、大学で英語を教えたことがある。既に何度か書いたように、小学校4年生の時から英語の授業を受けてきたから、他人より長く英語と付き合っているわけであるが、付き合い方がろくなものでなかったこともあって、他人よりも良くできるとはいえない。要するに英語の先生が不足していたので、少しは英語の本を読んでいそうな専門外の教師が手伝うことになったということである。

 その後、英語を教えなくてもよくなってから、英語を専門にしている先生にどうも力不足で済まなかったというようなことをいったところ、いや、いろいろな人がいろいろな英語を教えるのがいいと思うのですよと慰め?られた。この先生のいうことにも一理はあるのだが、英語のいろいろな授業を開設する場合には、先生の方で授業内容についての情報をできるだけ開示して、学生の方も選択の自由を行使できるようにする方がいいだろう。経済学の先生が英語の経済雑誌や経済紙の記事を読ませたり、推理小説が好きな先生がアガサ・クリスティーを読ませたり、音楽を聞かせたり、映画を見せたりというのはどうだろうか。やってみる価値はある。

 だが、「いろいろ」といってもそれこそいろいろな水準がある。わたしはというと、あまり高くなかったし、現在も似たようなものである。大学に勤めていたアメリカ人の先生と仲がよくなり、大学の食堂などでよく会って話をする機会があったのだが、だいたいは日本語で話していて、monopolyというのを日本語で何というのですかと聞かれて、「独占」でしょうなどと答えていた。あるとき、こちらがひどく疲れた顔で歩いていたときにその米国人教師に出会い、exhaustedという単語がとっさに出てこなかったのいで、ひどく情けない気分になって余計に疲れたことを思い出す。

 英語に限らないが、会話というのはある用件なり話題なりがあって成立するものである。したがってその用件や話題についての十分な知識や理解がないと会話はうまくいかない。飛行機の客室乗務員のような仕事の場合、話す相手は限定されないが、内容が限定される。国連本部で仕事をしている理髪師が多くの言語を操ることで有名だというが、もちろん自分の仕事に関連する会話に堪能だという話である。感心したのは、ある国際会議を手伝っていたときにある国の代表が途中で気分が悪くなったと言ってきたので、急いで医者に連れていった。地方の国立大学の助教授から開業したという話であったが、容体を聴いて適切に治療している様子だったので、医者という職業についてあらためて敬意をもった。何事にせよ、自分の専門領域で外国語に熟達することが大事である。

 専門領域の話はさておいても、趣味をめぐっても外国語で話すことができれば会話の話題が広がる。アメリカの研究者と話していて、私は『オズの魔法使い』を愛読しているのだが、笑うなよといったところ、あれは古典であるから、お前を笑ういわれはないといわれた。相手の文化のよい部分、誇りにしている部分を取り上げて話題にするのが常道であろうが、そうでない場合もある。1999年に英国とアイルランドでラグビーのワールド・カップが開かれたときにダブリンにいて、帰りのタクシーの中でアイルランドがアルゼンチンに負けた試合の話になり、ちょうどその試合をテレビで見ていたのでひどく話が弾んだことを思い出す。運転手にお前のようによく英語を話せる日本人は初めてだといわれたが、社交辞令が含まれていたかもしれない。タクシーの運転手といえば、ロンドン郊外で乗ったタクシーの運転手がシーク教徒であることがわかったので、自分はそういうタクシーにのるのは初めてだと言ったら、俺も日本人を乗せるのは初めてだといって話が弾んだこともある。この場合、相手の宗教を尊重する気持ちが通じたのであろう。

 よく言われることだが、欧米人には日本人と東アジアの他の国の人々の区別がつかないらしい(もっともこっちだって韓国や台湾の留学生を日本からの留学生と間違えることはあった)。それで、たまたま道でであった2人連れの女性に大学の公開講座で中国語を習っているのだが、実際に使えるのか試してみたいので、話してくれないかと言われて、実は日本人なので残念ながらご期待に添えないと断ったことがある。日本語を教えてくれと頼まれたことは一度もない。これは考えてもよいことである。

日記抄(3月5日~11日)

3月11日(火)曇り後晴れ
 東日本大地震から3年がたった。亡くなられた方のご冥福と、被災地の復興を心から念じるものである。

 3月5日~11日のあいだに経験したことから:
 3月5日(水)
 NHK BSプレミアムで『ナバロンの要塞』を観ていた。第二次世界大戦中の地中海東部における戦闘のなかで、当時ギリシャを占領していたドイツ軍が築いていた砲台を爆破しようと連合国側から特命グループが送りこまれる(架空の話である)。舞台や活動の内容は違うのだが、『荒野の七人』あるいはさらに『七人の侍』と似た設定である。グループに協力するギリシャの地下組織の女性をイレーネ・パパスが演じているが、彼女はこの後ミカエル・カコヤニス監督の作品で大きく認められることになる。

 3月6日(木)
 NHK BSプレミアムで『マイフェアレディ―』を見る。バーナード・ショーの舞台劇『ピグマリオン』を原作とするミュージカル。ピグマリオンは自分が作り上げた彫像の美女に恋をしてしまった神話上の人物であるが、ここでは町の花売り娘の言葉遣いやマナーを修正して仕立て上げたレディーに恋する言語学者が主人公である。彼女には他に若い紳士が熱を上げる。ヒロインがどちらの男性を選ぶ方が結末として面白いか、ショーは頭を悩ませたそうだが、観客の方が頭を悩ませるような作品にはなっていないのが減点材料である。

 3月7日(金)
 神保町の東京堂本店で足立昭七郎『聖書のラテン語――創世記・出エジプト記・四福音書を中心に―』という熊本出版文化会館から2012年に発行された本を見つける。立派な装丁の本だが、1800円(+税)という価格にびっくりして購入を決めた。旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で書かれているのに、なぜラテン語かというと、ラテン語の聖書が長く人々の読める唯一の聖書だった歴史があるからである。足立さんは聖書の英訳を試みたウィクリフの研究を志し、その過程で聖書のラテン語に興味をもったようである。
 ラテン語の発音には変遷があったが、著者はラテン語の読み方について古典式の発音に従うとしている。皇帝ネロの時代のキリスト教徒への迫害を描いたQuo vadisという小説の中に登場するペトロニウスは『サテュリコン』という小説の作者として知られる実在の人物であるが、この『サテュリコン』のなかのラテン語は当時の日常会話を取り入れた、古典期のラテン語とは違うものだといわれる。このようなことから古典期の発音にこだわる必要は特にないという議論もある。

 3月10日(月)
 ラジオの「まいにちイタリア語」でnon solo ~, ma anche ~という英語のnot only ~, but also ~に相当するいい方が出てきた。ドイツ語ではnicht nur ~, sondern auch ~だったかな・・・とこれまでに勉強した言語をどのくらい覚えているのか、確かめ直す目安として使ってみてもいいかもしれないと思ったりした。

 NHK BSプレミアムで『冬のライオン』を観ていた。同名の戯曲の映画化で、ヨーロッパ中世の王侯の生活ぶりをよく再現しているように思われる。若い頃にこの映画を見た時は、あまり面白いと思わなかったのだが、年をとってみるとヨーロッパの遺跡や歴史的な施設を少しは訪問した経験も手伝って、感動する部分が多くなっている。主演のピーター・オトゥール、カサリン・ヘップバーンともに故人になっているが、彼らの子どもの長男を演じている当時はまだ若かったアンソニー・ホプキンズが伸び盛りの勢いのある演技を見せているのも見ものである。

 3月11日(火)
 ラジオの「まいにちフランス語」で「フランス語圏(francophonie)」の国・地域の話題が出てきた。フランス語を公用語とする国は32カ国あるそうである。番組の中でチュニジア旅行の話題が出てきたが、英国の大学に滞在中、チュニジア人の職員と顔見知りになったことを思い出す。

 ラジオの「まいにちイタリア語」に
Leonardo ha dipinto "La Gioconda".
(レオナルドは『モナ・リザ』を描きました)という文が出てきた。イタリアでは『モナ・リザ』ではなくて『ラ・ジョコンダ』というのが一般的ないい方らしい。

おまけ
 前回(2月26日~3月4日)の2月26日の項でフランス人の女優でアカデミー賞を受賞したのはシモーヌ・シニョレとマリオン・コティアールであるという話を書いたが、シニョレの娘であるカトリーヌ・アレグレは『七人目に賭ける男』や『燃えつきた納屋』で母親と共演する一方で、『エディット・ピアフ 愛の讃歌』ではコティアールと共演している。他にもこの2人の両方と共演している俳優は少なからずいるはずである。

ロバート・ファン・ヒューリック『五色の雲』

3月10日(月)晴れ

 3月8日、ロバート・ファン・ヒューリック『五色の雲』(ハヤカワ・ミステリ)を読み終える。ヒューリックはオランダの東洋学者で、日本大使を務めたこともある外交官でもあった。彼は中国の唐時代に実在した能吏で則天武后(武則天)の時代に宰相まで務め、彼女の暴走にブレーキをかけた人物である狄仁傑(630-700)を主人公として活躍させる推理小説を何篇も残している。主人公ディー判事=狄仁傑は実在の人物だが、物語は虚構で、中国の歴史文化に通じ他ヒューリックがその想像力の翼を自由に羽ばたかせて、独自の世界へと読者を誘っている。その中で長編小説の方が多く翻訳されてきたが、これは短編集。8編の作品を収める。長編小説と同じく和爾桃子さんによる翻訳である。

 「五色の雲」(Five Auspicious Clouds)はディーの最初の任地、朝鮮半島に近い平来(架空の地名である)での出来事である。この港町で造船業を政府の保護監督下に置くというディーの提案が船主たちとの協議の末成立する。ところが規則の起草に手を貸した侯という引退した法律の専門家の年若い夫人が首を吊って死んだという知らせが届く。ディーが現場に駆け付けると、検死官は不審な点があるという。死体の近くに香印(香時計)の灰の粉が残っていて、死亡時刻を推定できそうである。香印のふたの切り抜き模様は幸運を呼ぶとされる五色の雲である。調べが進むと、夫人は結婚前に方という同年輩の画家から絵の手ほどきを受けていて、結婚後もあって親しく話をしていたという。ディーは方を取り調べる。彼は芸術家らしいモラルの箍を越えた人物のように思われる…。

 「赤い紐」(The Red Tape Murder)も平来で起きた事件。この地に駐屯する帝国軍の孟大佐が砦の副司令官だった蘇大佐を殺した犯人として逮捕される。軍の内部での殺人事件はディーが口を出す問題ではないが、彼の副官である馬栄と喬泰は孟大佐と酒席で意気投合した仲で、彼が犯人であることが信じられないという。軍から彼のもとに届けられた書類がそろっていないので頭を悩ませているディーであるが、部下たちの要請を受けて軍の司令官のもとに事件について問い合わせに出かける・・・。証拠は孟大佐に不利であるが・・・。Red Tapeには「無味乾燥な役所仕事」という意味もあることを知っておいた方がよさそうだ。

 「鶯鶯の恋人」(He Came with the Rain)も平来が舞台。市の外れの沼地に建っている古い望楼に鶯鶯と呼ばれる耳と口の不自由な娘が住んでいて、その住まいにめった切りにされた死体が転がっていたという。軍警察が逮捕した(越権である)容疑者は娘と平素から付き合いのあった若い漁師である。殺されたのは隠居状態の金もちの質屋で釣りが趣味だというが、小鳥も可愛がっていた。被害者の生活ぶりには表向きとは違う顔が見え隠れする。娘が文字にして示すことは「雨の精」などとこの土地の民間信仰にかかわる奇妙な内容ばかりである・・・。翻訳者が書いているように、「鶯鶯」といえば、元曲『西廂記』のヒロインを思いだすはずだが、この短編のヒロインは「ヒューリック流のひねりと皮肉」(222ページ)が施されている。

 「青蛙」(The Murder on the Lotus Pond)は都にほど近い湖畔の古い町漢源で起きた事件である。歌妓や芸妓が姸を競う柳街のすぐ裏で、つましい持ち家にひっそりと隠棲していた老詩人が殺された。蓮池に浮かぶあずまやで、心静かに月を愛でているさなかに降りかかった凶行である。目撃者はいない――はずだった。老詩人は若い芸妓を身受けして再婚生活を送っていた。若い妻にはろくでなしの弟が付きまとっているという。ディー判事はその一方で県境で起きた金塊の強奪事件の手がかりがつかめないのにいら立っている。「『泥中の蓮』のたとえどおり、汚泥にあってもなよやかに凛とした姿が、苦境にめげない美しい女人をほうふつとさせる」(223ページ)と和爾さんは注記しているのが、事件を読み解くカギになるかもしれない。

 「化生燈」(The Two Beggars)は蒲陽が舞台。正月の行事の締めくくり、ランタン祭としても知られる元宵節(1月15日)、家族だんらんを楽しむつもりだったディー判事のもとに、物乞いの年寄りが側溝に落ちて死んだという知らせが届く。そのままにしておこうと思ったのだが、被害者と思しき幽霊があらわれ、思い直して死体を調べると、他殺らしい。犯人は被害者を物乞いに見せかけて死体を捨てたのである。おりしも林親方の家塾の教師が行方不明になっているという。彼には華やかな過去があったが、何かの理由で零落したらしい。ディー判事はあることに思いついて、思いがけない方向に捜査の手を伸ばす。彼の悪友の羅知事が何かの形で絡んでいる・・・事件かもしれない・・・。

 「すり替え」(The Wrong Sword)も蒲陽で起きた事件。ディー判事の出張中、馬栄と喬泰が留守居役をしている。旅芸人の一座の芸の最中に少年が死亡する。知らないうちに芸のために使う剣がすり替えられていたのである。2人は事件の真相に迫ろうと苦労して捜査を進める・・・うちにディー判事が帰還して事件を一気に解決する。

 「西沙の柩」(The Coffins of the Emperor)は西域の辺境、蘭坊で起きた事件。国境近くに30万の兵を展開している突厥軍を迎え撃とうとして20万の兵を率いている元帥からディー判事に呼び出しがかかる。軍の内部に敵に内通しているものがいるという申し立てがあった。西域での狩猟中に死亡した皇帝の長子の柩の中に兵器が隠されているという。柩に直接手を触れずに、兵器が隠されているかどうかを突き止める方法があるだろうか。一方、ディーはたまたま知り合った妓女の恋人の軍人が同僚の妻を殺害したかどで処刑されようとしていることを知る。彼は2つの事件をうまく解決できるだろうか・・・。

 「小宝」(Murder on New Year's Eve)も蘭坊で起きた事件。大晦日、路上で小さな子どもが、家で事件が起きて、母親がいないと騒いでいる。夫婦喧嘩が血なまぐさい事件に発展したらしい。ディー判事は事件の究明に乗り出すが、日ごろに似ずその推理は誤った方向に向かう。しかし・・・。「小宝」は騒いでいた子どもの名前。事件の解決にも彼が大きな役割を果たす。

 ということで8編のすべてについて、紹介を試みた。それぞれの作品の面白さを伝えられたかどうか、紹介に濃淡があらわれているのは、わたしの好みの反映ということだろうか。2005年に刊行された書物であるが、大きな書店で見つけることはできるし、図書館でお読みになっても、古本屋で探されても結構である。ヒューリックというヨーロッパの人間の目をフィルターとして描き出された古い(唐代ということにこだわる必要はない)中国の雰囲気を楽しむのもいいし、もちろん、その推理について楽しむのもいい。たとえば「青蛙」は普通は騒ぎ立てないかえるが騒ぎ立てたという証言が事件を解くカギになっている。吠えるはずの犬が吠えなかったのはなぜかというのがカギになる推理小説の古典を思いだすはずである。短編ということで食事を楽しむ場面が少なくなっているのが少々残念ではある。

雪国に続く道

3月9日(日)晴れ

 所用で出かけていて、更新が遅くなってしまった。人生のなかで、起点と終点にはかかわりをもったが、その途中の道のりにはあまりかかわっていないある国道についての詩を書いてみた。

 雪国に続く道

雪国に続く国道の
起点近くを歩く
そういえば、
終点近くを
歩いたこともあった

川には水源と
河口があるが
それは自然の成り行きで
水源と河口の姿は違う
道路の起点と
終点は
人間が勝手につくったもので
そのありようは似ているといえば
似ているし
似ていないといえば似ていない

今、雪国では雪が少ないというが、
そこに行くまでの
峠道は雪で大変だろう
この間珍しくも
都会に降った雪の
かすかな痕跡をたどりながら
この道の終点の
雪国で暮らしていたころの
大雪の思い出を振り返る

道は人間が
勝手につくったものだといっても
この道も昔からの旅人たちの
足跡の集まりで
足跡には
さまざまな思いが重ねられている

その道を
ずっと歩いていけば
ところどころで
足が重くなるかもしれないが、
今は
さしあたっての用事を片づけるために
急ぎ足で通り抜けていく

起点と
終点だけに付き合って
あとの道のりは
付き合わなかった
国道の一部分だけを歩きながら
人生を振り返る
何か省略してしまったものが
ないか
あらためて考え直す

足立幸代(編著)『気ままに漢詩キブン』

3月8日(土)晴れ

 3月6日、足立幸代(編著)『気ままに漢詩キブン』(ちくまプリマー新書)を読む。『ちくま』3月号でこの書物を紹介している辛酸なめ子さんの「アダルト漢詩入門」という文章が印象に残り、読んでみたのである。「著者のマニアックな知識と、ユルくてかわいいキャラクター、そして超訳的文章が、ど素人の読者を中国数千年のめくるめく文学世界に誘ってくれます」(『ちくま』3月号、12ページ)。書物の帯には「漢詩を女子感覚で現代語訳」とあり、著者が描いたイラストとあわせて、どちらかというと女子向けに書かれた書物ではあろうが、そうでない読者にとっても面白く読めそうである。

 古くは『詩経』、『楚辞』から新しくは高啓までのさまざまな形式の詩(詞を含む)作品が選ばれていて、その中に卓文君、李清照、薛濤、魚玄機と女流の作品が目立つ(特に恋の歌が多い)のが特徴である。『詩経』から選ばれた作品の中にも女子の気持ちを歌ったものが少なくない。教科書に出てくるような有名な詩も多く取り上げられているが、はじめてお目にかかる作品も少なくないのでなかなか新鮮な気分で読むことができる。陶淵明、李白、杜甫、白居易、柳宗元、杜牧、蘇軾の作品は入っているが、韓愈や陸遊は選ばれていない(その代わりに李賀の作品が複数選ばれている)。個人的な好みでいうと元好問が入っていないのがやや不満。寒山詩が入っていないのは著者の好みがまだ枯れていないからであろうか。まあ、自分の好みをぐだぐだ述べても仕方がない・・・。巻末の「詩人名鑑」に記された著者による紹介が面白い。

 1章「恋はいつでもウラハラ」、2章「酒をやめたら寝こんじゃう」、3章「生まれてくれて、ありがとう」、4章「今日も一首、よませてもらおう」、5章「あの月はどこからきたの」という標題にふさわしい詩を集め、それぞれの詩が「原詩・書き下し」「訳詩」「注釈」の3つの部分により紹介され、それにイラストがついている。たとえば蘇軾の「食茘枝」(茘枝を食す)は「こりてねえよ、あいつ」という見出し、「流刑先でのお気楽な詩は政敵のカンにさわった模様 どうなる!?蘇軾先生」という込みだしのもとに、次のように訳されている。
フルーツ天国
ここは常春の南国
珍しい果物でいっぱい
ライチは食べ放題
このまま永住しちゃおうか
「南国満喫の詩。/ただ、状況が凄い。・・・この時は「流罪」でいつ死刑になってもおかしくなかった。なのにこんな詩を詠んだため、「あいつ、懲りてねぇ」ということになり、さらに南へ飛ばされる」という注釈がつく(118‐9ページ)。これでわかるように自由奔放な訳しぶりであるが、その効果が一番現れているのは1章であろう(読んでのお楽しみ)。3章にとられている子どもを歌った詩にも実感がこもる。このなかにも出てくる陶淵明の「子を責む」という詩は、その最後の2行を書きぬいて研究室の壁に貼っていたことがある(うちの子は勉強嫌いで、出来が悪いという詩だが、「うちの子」の意味がこの場合違うのはおわかりだろう)。「天運 苟(いや)しくも此のごとくんば/且(しばら)く杯中の物を進めん」⇒「もうしかたない 酒でも飲まないとやってられん」(107ページ)。陶淵明の研究家である一海知義先生から中国語初級の授業を受けたことはこのブログ上で既に書いたが、先生は学生の勉強ぶりについてどのような感想をおもちだったのだろうかとあらためて思ってしまう。梅尭臣の「祭猫」というネコの死を悼む詩は初めて読んだが、泣ける。

 「千年前の人たちも 飲んで騒いで恋してる!」と帯にはある(『詩経』の詩は千年前どころじゃないだろう!!)。自分たちの思っていることが表現されていたり、思ってもみなかったことが表現されたり、この書物が描き出す世界は豊かである。漢詩と中国の伝統文化に興味をもつこと、あるいは漢詩の自由詩訳に取り組むことなど、この本がきっかけになりそうなことはいくつもありそうで、多くの可能性を感じさせてくれる書物である。

トキワ荘の青春

3月7日(金)晴れ、一時雪

 神保町シアターで「素晴らしき伝記映画の世界」特集上映中の1編として上映された市川準監督の『トキワ荘の青春』を見た。上映が終わった後で、この映画いつごろの映画なの?と話している人たちがいた。映画がつくられたのは1995年であるが、描かれた世界は1955年前後である。そしてさらにもっと古い灰田勝彦の歌が多用されていたりして、見るものをノスタルジックな気分に誘う。もっともそれらの仕掛けにノスタルジーを感じることができる人間も限られてきているのかもしれない。この映画が封切られたときに、たしか(今はなくなってしまった)横浜の関内アカデミーという映画館で見たのだが、1995年よりも以前に見たという誤った記憶が残っていたことに気付いた。

 東京都豊島区にあったアパートであるトキワ荘は戦前、『少年倶楽部』の名編集者として活躍した加藤謙一が戦後創設した学童社と発行した雑誌『漫画少年』にかかわった漫画家たちの何人かが住みつき、マンガ家たちの結成した「新漫画党」はその後の少年マンガ週刊誌の時代を支えるマンガ家たちを輩出することになった。それで「マンガ荘」などとも呼ばれて、戦後のマンガの歴史にとって記念碑的な存在となった。というようなことについては、私以上によく知っている人もいるだろうし、まったく知らない人もいるだろう。そういうことで、この映画はそれほど批評しやすい映画ではない。私自身はここに登場するマンガ家のかなりの部分にその初期の作品から接している詩、映画の製作に協力したことがクレジットに記されているスタジオ・ゼロで、登場人物の一人である鈴木伸一さんの実物に会ったこともある。懐かしさは否定できないが、今回は懐かしさとは別のものを感じた。

 戦後の少年マンガに一紀元を画した手塚治虫が住んでいるトキワ荘に、『漫画少年』の投稿家から一本立ちした寺田ヒロオ(博雄)が入居する。映画はこの青年漫画家の周辺の出来事を拾い上げて描いていく。学童社では投稿仲間のつのだじろうに声をかけられる。アパートの暮らしに慣れはじめた頃に、手塚をしたって地方から藤子不二雄の2人組が上京してきて、そのまましばらく寺田の部屋に居続ける(これは歴史的な事実ではなくて、居続けたのは藤子不二雄ⓐ=我孫子素雄だけである)。そして手塚が別のアパートに引っ越した後に藤子が入居し、その後さらに石森章太郎、赤塚不二雄らが入居してアパートはマンガ家たちの巣窟となる。彼らは「新漫画党」を結成して新しいマンガ作りに情熱を傾けるが、それぞれのマンガをめぐる哲学と作品の認められ方には温度差がある。寺田はその一方で劇画家の棚下照生やつげ義春とも交流がある(つげは赤塚とも交流があって、アパートを去り際に、赤塚が「また来いよ」というと、「いや、もう来ない」と答えてそのままになってしまったというエピソードは赤塚が語っていたので、本当にあったことなのであろう)。

 一方で戦前からの児童漫画の流れがあり、他方で手塚治虫によって切り開かれた新しい作風をさらに進めようとする流れがある。少年マンガが巨大なマーケットとなり、TVが普及していくなかで、古き良き子どもの世界によりどころを求めようとする寺田のマンガは支持を失いがちになる。子どもたちの遊びの世界を過剰なギャグによって再現しようとする赤塚不二夫は苦労が実ってやっと成功するが、自分の子ども時代の思い出にしがみつく森安なおやは成功しないまま、姿を消してしまう。売れっ子と売れない漫画家のあいだの心の隙間も仲間内にできるようになっていく。寺田にとっては石森の姉との語らいの時間が心の安らぎになるようであるが、彼女は病気で郷里に帰っていく。(その後、またアパートに戻ってきたことを示すシーンが出てくる。)

 映画はトキワ荘についてのさまざまな証言を利用しながら、それをあらためて並べ替えて、物語を構成し直している。藤子不二雄ⓐの『まんが道』にしたって事実そのものを描いているのではないから、それはそれでいいのである。われわれはこの映画についても本当にあったこととしてではなくて、作り話としてみる方がよいのである。そう思った方が気楽になるほど、物語の雰囲気は暗く、さびしい。寺田の孤独が映画全体を支配しているようにさえ思える。石森の姉がその後病死したことを知っているから余計にこれはフィクションだよ、映画として完結した世界なのだよと思いたくなるのである。

 そして作られてから20年近くがたって、映画でその「青春」を描かれているマンガ家たちの過半数が没しているし、現在のマンガはトキワ荘のグループが描いていたマンガと大きく異なったものになっていることにも思い至る。少年マンガ週刊誌にはマンガに限定されず、青少年の世界を導く総合雑誌的な役割もあることを考えると、トキワ荘のマンガ家たちもまた別の視角から回想されてもよいのかもしれない。

昔の仲間たち

3月6日(木)晴れ

 昔の仲間たち

詩を書くだけで
生活している人間は
ほとんどいないとは心得ていたが、
それでも詩を書き、
場所を見つけては
集まって批評し合い、
やっとまとめた雑誌を
周りの人間に押し付けていた。

一緒に集まっては
文学を語り、社会を語り、
未来を語った。
むかしの未来は、
つまり現在で、
昔の仲間たちと語り合ったのとは違う
社会で生活しながら、
彼らのことを思い出す。

記憶の糸をたどり、
詩の雑誌の投稿欄を眺め、
インターネットで調べても、
彼らの名前に出会うことはない。
詩を書くことをやめてしまったのかもしれないし、
人知れず、傑作を書きためているのかもしれない。

我々みんなが
この世を去った後で、
だれの言葉が
人々の心に残っているだろうか。
そんなことを考えながら
昔の仲間たちを思い出す。

ウィルキー・コリンズ『月長石』(27)

3月5日(水)雨が降ったりやんだり

 またしても前回(2月17日の第26回)から間が空いてしまったが、コリンズの『月長石』の紹介を続ける。

 1年前に起きた<月長石>と呼ばれるダイヤモンドの紛失事件を調べ直そうと思ってヨークシャーを訪れたフランクリンは、叔母のヴェリンダー卿夫人の邸で働いていて、事件後に自殺したらしいロザンナ・スピアマンが残した自分自身のナイトガウンと手紙を手に入れ、愕然とする。ナイトガウンには彼が夜、従妹のレイチェルの部屋の扉に触れたしるしであるペンキのあとがついていた。そして、<月長石>を盗んだ犯人はペンキのついた衣服をもっているはずだと、事件を捜査したカッフ部長刑事は推理していた。

 ロザンナはフランクリンが犯人であると考えたが、彼への思いからナイトガウンを隠し通そうとしたと手紙は語っていた。ヴェリンダー家の執事であるベタレッジとともに彼女の残した手紙を読んでいたフランクリンの前に、エズラ・ジェニングズという名前の異様な風体の男があらわれて、彼らの作業を中断させる。彼はヴェリンダー家のかかりつけの医師で、病気のために仕事ができなくなってしまったキャンディーの助手である。

 ジェニングズが去った後、フランクリンはロンドンに戻って事務弁護士のブラッフにこれまでの経緯を話して助言を仰ぐこと、レイチェルに直接会うことを決心する。手紙の後半には事件の捜査が進む中でロザンナがどのようにナイトガウンを隠したかが記されている。その一方彼女はベタレッジの娘でレイチェルの小間使いをしているペネロープから、レイチェルが捜査とフランクリンに腹を立てて、邸を出ようとしていること、レイチェルはフランクリンに腹を立てているけれども、フランクリンのレイチェルに対する愛情は変わらないだろうということなどをきかされる。彼女は自分の前歴を知っていて、自分に対してはその様子を見せないカッフの態度から自分が疑われていることを知り、まだ自由に行動できる間にナイトガウンを隠そうと企てたのである。

 フランクリンはロザンナが自分に話しかけようとした時に、それを無視したことを後悔する。ロンドンに戻るために停車場へ向かう途中、彼はベタレッジに2つの質問をする。<月長石>がなくなった夜に、酔っ払ったかという問いに対して、ベタレッジは眠れないという彼にブランデーを飲ませたが、水で割ったので酔うことはなかったと答える(フランクリンはもともとあまり酒を飲まないのである)。それから夢遊病のような癖はなかったかと尋ねるが、それはなかったといわれる。ベタレッジはフランクリンが宝石を盗んだことを認めるにしても、その後起きた出来事は別のことを示しているのではないかと示唆する。そしてブラッフと相談すればよい解決策が生まれるだろうと助言する。停車場で、フランクリンは偶然、またもやエズラ・ジェニングズを見かけ、挨拶を受ける。

 ロンドンに到着した彼は、ハムステッドにあるブラッフの私邸を訪問する(事務所にはいない時間だったのである)。ナイトガウンを点検し、ロザンナの手紙を読んだブラッフはレイチェルがフランクリンを犯人だと信じたことが、彼に対する態度の変化の理由だと知る。もともとレイチェルが証言を拒否していることが事件の捜査を難航させてきた原因であった。ブラッフは何とかレイチェルの口を開かせることが真相解明にとって重要だと考える。ヴェリンダー邸に滞在中、フランクリンは彼から借金を取り立てようとするフランス人の弁護士の訪問を受け、騒ぎを起こしたことがあった。このことで彼はヴェリンダー卿夫人とレイチェルの信頼を失墜させてしまったのである。

 フランクリンは何としてもレイチェルに会って事件について彼女が知っていることを尋ねようとする。あまりに乱暴な提案であるといったんは反対したブラッフであるが、レイチェルがまだフランクリンへの愛情を心のどこかに残していると判断しているために、やってみる価値があると承諾する。一時期、ブラッフのもとで生活していたレイチェルは、現在は叔母であるメリデュー夫人のもとで生活しているが、ブラッフの夫人と娘が招待すれば彼の家にやってくるはずであるとブラッフはいう。その際にフランクリンが予告なしに彼女に近づけばよいというのである。

 レイチェルと会うまでの時間をフランクリンはじりじりしながら過ごす。ベタレッジからの手紙が届き、どういうわけかエズラ・ジェニングズがその後やってきて、フランクリンと話ができなかったのが残念であると記されていた。手筈が整って、フランクリンはブラッフの邸に出かける。レイチェルが一人で引いているピアノの音が聞こえる。そのさびしい音色は彼女の心情を表しているように聞こえた。フランクリンは扉を開ける。

 この作品について恋人同士が誤解がもとで離れてしまうという感傷的なドラマだという評価もあるが、レイチェルは片意地でわがまま、フランクリンは軽率で奇矯なところがあり、読者としては感情移入しにくい性格設定になっている(その分、現実にこういうカップルは存在しそうだと納得してしまうところがある――とくに現代においては)。そしてこの2人の性格が事件の捜査の進展を妨げてきたことも確かであって、そこにコリンズの構成の巧みさを認めることができる。フランクリンとレイチェルは和解できるのか、それとも離れたまま物語は終わるのか、<月長石>のゆくえと、誰がこの宝石を盗んだかの謎とともに物語をめぐる興味の対象となっている。

日記抄(2月26日~3月4日)

3月4日(火)晴れ後曇り、夜になって雨

 2月26日から3月4日にかけて経験したこと、考えたこと、思い出したことなど・・・:
2月26日(水)
 日本テレビの『PON!』だったろうか、フランスの女優であるマリオン・コティアールの話題になり、彼女が第80回のアカデミー主演女優賞をとったが、これはフランス人の女優としては49年ぶりのことであったという話になり、その49年前は誰だったかという質問に誰も答えられなかった。『年上の女』のシモーヌ・シニョレである。ネットで調べればすぐにわかることなので、TVにでる以上きちんと調べておいた方がいいと思う。

2月27日(木)
 NHKラジオの「まいにちフランス語」応用編で京都の南座の話題が取り上げられた。初めて知ることが多かった。というよりも、南座の前を通ったことは何度もあるけれども、中を覗いたことはないのである。

2月28日(金)
 新宿バルト9でテオ・アンゲロプロス監督の『エレニの帰郷』を見た。この映画については既に書いたが、本編とは異質な予告編の上映が多すぎたことを書きくわえておきたい。

3月1日(土)
 ちょうど50年前のこの日、受験のため京都に向かった。列車にのりこむときに、多くの同期生が見送ってくれたことを思い出す。それより前、慶応義塾大学の経済学部の試験の日に、日吉の駅前で同期生を激励したこともあった。世の中、お互いさまである。

 1954年のこの日、ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験のために第五福竜丸の乗組員の方々をはじめとして、海域に住んでいたり、居合わせたりした多くの人々が被ばくした。この時代の核実験の影響は何らかの形で我々に及んでいる。それがどのような形で現れるか、今のところ予知はできない。

 1919年のこの日、第一次世界大戦後の民族自決の流れにのって、日本の植民地統治下にあった朝鮮の人々が独立を叫んだ。現在の韓国では「三一節」として記念されている。この時期に朝鮮半島で少女時代を過ごした今は亡き伯母の思い出話で、「暴徒」とか「夜間」とかいう言葉の意味が分からず、ボートや薬缶のお化けが暴れているのかと思っていたという。どうもよくわからないのは、伯母はこの時期既に高等女学校に在学していたので、そんな幼稚なことは考えなかったはずだったということである。あるいはもっと早い時期に韓国の人々による独立を求める動きがあったのかもしれない。真相を確かめるべくもなく、伯母が他界したこと、話を聞くことを怠っていたことが悔やまれる。俳人であった彼女と2人で足利学校に出かけようなどと約束していたのである。

3月2日
 J2開幕。本来ならば、三ツ沢球技場まで横浜FCの開幕試合を観戦に出かけるところだが、東京都内に仮住まい中で、行き帰りに時間がかかるので見合わせることにした。後で知ったところでは愛媛FCに対し0―0で引き分け。退場者を出して相手が1人少ない状態での引き分けはどうかと思う。FC岐阜に移籍した難波選手、高地選手がそれぞれゴールを記録していると聞くと、余計に残念。

3月3日
 NHKまいにちフランス語の時間で、北アフリカの家庭料理でフランスでも食べられるようになったクスクスの話題が取り上げられた。北アフリカでも西の方、マグレブ地方の料理である。『アラビアン・ナイト』でマグレブ地方には特別な意味が与えられているそうである。そして、ロンドンのマグレブ書店の主人の顔を思い出す。

3月4日
 NHKまいにちイタリア語で
 Un tempo si vedevano molte piu lucciole.(昔は蛍がもっとたくさん見られていました)という文が出てきた。蛍に対応する外国語として知ったのはlucciolaが初めてである(luccioleは複数形)。番組パートナーのヴァレンティーナ・ポンピーリさんによると、イタリアに比べて日本の蛍の光は緑がかっているそうだ。イタリアと比べようにも、日本の蛍をじっくりと見たことがないのがどうも残念である。 

言語放浪記(24)

3月3日(月)朝のうちは雨が残っていたが、その後晴れ間が広がる

 以前にも書いたことであるが、小学校4年生の時に英語を勉強しはじめたので、その後60年近く英語との付き合いを続けている。それに比べると他の言語の勉強を始めたのは遅いし、勉強時間もずっと少なく、しかも人生のある時点において勉強を中断したりしたので、付き合いの程度は浅い。どちらにしても、もっと勉強しておけばと後悔することしきりである。ある言語を習得するには、一定期間集中的に勉強するのが効果的だといわれるが、学校の授業の枠内で勉強する場合、他の教科・科目も勉強しながら外国語も学ぶことになるので、それだけに依存して上達をはかることの効果は限られている。

 現在、NHKのラジオ放送でフランス語とイタリア語の時間を聴いている。それぞれのテキストの巻末に聴取者(読者)の声が掲載されているが、長年勉強し続けているがなかなか上達しないという感想を述べているものが少なくない。しかし、番組の放送時間は大学での授業時間に比べてかなり短い。放送を聴くだけで外国語の上達をはかるというのも虫がよすぎる。フランス語については語学学校に習いに通ったことがあるが、2学期でやめてしまったので十分な効果が得られなかった。英語についても会話教室に通ったが、これまた1学期で他の用事が出来て辞めてしまったのでそれほどの上達はしなかった。一定期間、集中的にというのとはどちらも程遠い学習の仕方である。

 大学入試センターの統計によると、センター試験の受験生のうち、外国語のなかで英語を受験するものが50万人くらい、中国語が400人くらい、韓国語が150人から200人くらい、フランス語がそれよりも少し少なく、ドイツ語はさらに少なくて100人を少し超えるくらいだそうである。この数字でわかるように日本の中学・高校生はほとんどが外国語として英語を勉強している。中には高校時代に第二外国語を勉強する例もあるし、課外活動で英語以外の言語を勉強する例もあるとはいうものの、たいていの場合、大学に入って初めて英語以外の外国語を勉強することになる。センター試験ができる前もそうだったし、その時代の新入生として私も大学に入ってはじめて第二外国語としてドイツ語を勉強することになった。その頃は、現在に比べて履修する外国語の幅が狭かった。つまりフランス語かドイツ語かという選択しかなかった。中国語とロシア語はわたしの所属する学部の場合、追加単位でしかなかったのである。韓国語とかスペイン語は当時の教養部では開設されていなかった。

 しかし世界には数え方にもよるが、5,000から7,000の言語があるとされることを考えると、どうも選択の幅が狭すぎる。外国語の選択を迫る前に、世界の言語状況についての大まかな見通しを知らせる必要がありそうである。(本日のフジテレビ『特ダネ』で、菊川怜さんだったかが、「インド語」ということを言っていたようだが、インドの言語状況はきわめて複雑で、20以上の「公用語」があることくらいは知っておいてほしいと思う。) 江戸時代に前野良沢がオランダ語の書物を見て、まったく理解できない文字で書かれているが、人間の書いたものなのだから分からない訳はないだろうと思ってオランダ語の勉強を始めたという話がある。そういう闘志も外国語の勉強には必要な場合がある。若いうちに未知のちょっとやそっとでは理解できそうもない文字と言語とに出会うのも悪いことではない。だから、小学校から高校までの国語や英語(社会科でもいい)の時間のなかで、世界の言語について(古代の言語や未解読の言語についても)ふれる単元を設けてもいいのではないかと考えている。

 大学で第二外国語としてある言語を勉強する場合、既に述べた理由によってその上達はかなり限定的なものである。外国語を勉強する理由として実用的な理由と教養的な理由とがあり(その他に言語学者になるというような学術的な理由もあるだろうが、これは例外的なものとして省くことにする)、学習者と第3者は外国語の実用的な側面に期待を寄せる傾向があるが、大学の学習だけで実用的なレヴェルの外国語を習得するのは無理である(大学の授業以外の場所での学習も含めて個人で努力する必要がある)。だからこそ、選択の幅を広げ、初歩的なものでもいいから学習者の好奇心に応えていくことの方が望ましいのではなかろうか。

 すべての学生に第二外国語を課すというやり方をやめて、やる気のある学生だけに徹底的に学ばせていくというやり方の方が実効性が大きいように思うが、それが難しいというのであれば、大多数の学生に向けては、外国の文化の紹介を主眼とする楽しい授業を開設していくというのが当面の打開策として考えられるのではなかろうか。たとえばイタリア語の授業であれば美術系、音楽系、料理系、スポーツ系、映画系などのコースを設けて授業の内容を構成してみてはどうかということである。 

ネコと段ボール箱

3月2日(日)雨が降ったりやんだり

 ネコと段ボール箱

新しい住まいに移ったら
開けようと
積み上げたままにしてある
段ボール箱の上に
ネコたちが飛び乗ったり
座ったり寝転んだりして
動き回っている

この荷物をまとめるのに
ずいぶん時間がかかり
腰を痛めたり
あちこちに傷を作ったりしたものだが、
ネコにとっては遊び場ができただけのことらしい

仮住まいに移ってくるときに
鳴き騒いだことなど
けろっと忘れて
箱の上でじゃれ回っている

まあしばらくのことだ
新しい住まいに落ち着けば
段ボールの山はなくなる
今の遊び場はなくなるが、
こいつらのことだ、
またどこかに遊び回る
場所を見つけるだろう
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
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