2014年の2014を目指して(2)

2月28日(金)

 2月の28日間をずっと東京で過ごした。1月からの通算では東京で47日、横浜で12日を過ごしている。

 2月には新たに港区と新宿区に出かけた。これまでに出かけた市区町村は7か所になる。また東京メトロ丸の内線を新たに利用したので、利用した路線は3社7路線となった。東大前、白金台、新宿三丁目、新宿の4駅を利用したので、利用した駅の通算は12か所となった。

 投稿したブログは29件で、1月からの通算は60件となる。内訳は読書14(22)、日記5(11)、詩2(7)、映画5(8)、推理小説2(7)、外国語1(2)、未分類0(3)ということである。2月は230の拍手と拍手コメント1件を頂き、1月からの合計は467拍手、拍手コメント3ということである。

 10冊の本を買い、2冊の本を贈られた。買った本の通算は22冊である。2月は現在のところ9冊の本を読み、1月からの通算は19冊である。読んだ本を列挙すると:石原千秋『漱石と三人の読者』、白洲正子『ものを創る』、神野志隆光『古事記とはなにか 天皇の世界の物語』、ドラえもんルーム(編)『藤子・F・不二雄の発想術』、山田英雄『日本書紀の世界』、柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』、岡田温司『黙示録――イメージの源泉』、椎名誠『人はなぜ恋に破れて北へいくのか ナマコのからえばり』である。新たに渋谷の丸善・ジュンク堂と紀伊国屋新宿本店で本を買った。

 6本の映画を見て、1月からの通算は8本となった。見たのは『少女は自転車にのって』、『チェコの古代伝説』、『アメリカの影』、『若き日の啄木 雲は天才である』、『はじまりは5つ星ホテルから』、『エレニの帰郷』で、日本映画が1本、外国映画5本である。1月は日本映画しか見なかったが、2月は外国映画が多くなった。新たに岩波ホール、ユーロスペース、オーディトリウム渋谷、渋谷BUNKAMURAル・シネマ、新宿バルト9で映画を見た。オーディトリウム渋谷と新宿バルト9に出かけたのは初めての経験である。出かけた映画館の通算は7館ということになる。

 神保町すずらん通りの檜画廊で丸木位里・俊展を見た。これから少しずつでもこういう機会を増やしていきたい。

 ノートを7冊使い切った。1月から見ると10冊を使い切ったことになる。万年筆のカートリッジ(ウォーターマン)を6本使い切った。1月からの通算では11本である。同じくパイロットのカートリッジを1本使い切り、1月からの通算は2本である。

 フランス語の時間を20回、イタリア語の時間も20回聴いている。1月からの通算はそれぞれ39回である。2月は1度も欠かさずに聴くことができた。イタリア語の応用編「インタビューで学ぼう! イタリア語」のテノール歌手パオロ・ファナーレさんのインタビューが終わり、3月はまた新しいインタビューがはじまることになる。
 映画の中で、日本語のほか、英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語に接している。他にも接している言語があったかもしれないが、聞き分けられなかったのである。そういえば、料理についてみると韓国、中国、インド=ネパール、イタリア料理を食べている。

 郵便を1通受け取り、1月からの通算では17通となった。

 酒を飲まなかった日が15日で、1月とあわせると30日になる。だんだん、酒を飲む場所が決まりだしているが、心地よく酔えるという経験があまりない。仮住まいへの適応という点では依然として猫に後れをとっている。まあ、これからに期待することにしよう。

 これまでの数字から推算したところで、年末に2014まで積み上げるのは難しそうだ(当ブログへの拍手は合計が2014を超えそうなので、数に含めないことにしている)。数字を稼げるような事柄を新たに見つけるか、今やっていることのうちのどれかのペースを上げるか、何か工夫を凝らす必要がありそうだである。
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エレニの帰郷

2月28日(金)晴れ

 新宿バルト9シアター3でテオ・アンゲロプロス監督作品『エレニの帰郷』を見る。2012年、この映画の制作中にアンゲロプロス監督は交通事故で死去したが、上映された作品を見る限り未完成に終わったという感じはしない。

 ギリシア系のアメリカ人監督がイタリアのチネチッタで中断していた映画製作を再開しようとする。映画は彼の母親であるエレニをめぐる物語であるが、秘密のヴェールに包まれた過去の出来事を知ることの困難さが手伝ってなかなかまとまらないままなのである。監督自身の私生活も妻との離婚や、自分の娘(彼女の名前もエレニである)の問題行動という困難に直面しており、その中で「帰郷」を目指す母親と父親がベルリンに到着したという連絡を受ける。

 映画は現在と過去、大過去が交錯し、舞台もイタリア、ドイツ、アメリカ、カナダ、ロシア、カザフスタンと場所を変える。原題はThe Dust of Time (時の埃)で歴史の中で忘れられたり、意識的に遠ざけられている事件が意味されているようである。まさにこの時の埃が物語をますます分かりにくく混乱させている。エレニとその恋人で音楽家らしいスピロス、エレニと長く行動を共にして彼女を愛しているらしいユダヤ人のヤコブ、それぞれが歴史の片隅で苦労を重ねて生きてきた人物である。それぞれが移動を重ね、その分、自分の原郷がどこにあるのかを見いだしにくくなっている。スターリンの死が当時のソヴィエト社会に与えた影響とか、その後のスターリン批判の衝撃など、人によって受け取り方は違うが、正面からその影響を受けた人間にとっては重大な出来事であっただろう。いったん、イスラエルに向かおうと決心したヤコブはエレニと別れることができずにアメリカに向かうことになる。物語の軸となっている映画監督もシベリアの収容所で生まれたり、ヴェトナム戦争への徴兵を忌避してカナダにのがれたりする人生を送ってきた。そしてその娘の人生も別の波乱が起きそうである。物語の「現在」は1999年12月31日から2000年1月1日にかけてに設定されている。

 孤立感や生活の過酷さを強調するためか、雪が盛んに写される白っぽい画面が多く、それが効果的に思われる。ストーリーが分かりにくい分、映像の迫真性が印象に残っている。ロシアにはまだ旧ソ連時代の遺物が多く残っているのであろうか、ソ連時代の描写は現実的に思われた。加えて東欧風の哀調を帯びた音楽が多用されているのも印象に残った。ミキス・テオドラキスの音楽に彩られたミカエル・カコヤニスの作品が描いていたギリシャとは別のギリシャを感じさせられた。

 エレニというと思いだすのは、ロンドンの大学で同じセミナーに出席しているギリシア人の女子学生の1人の名前がエレニであったことである。当時はイレイニーなどと英語で呼んでいたので気づかなかったが、エレニはギリシア人の女性には多い名前のようである。自分の居場所を見失って死にたいと思っている孫娘のエレニを祖母のエレニが助けようとする。名前に託された命の流れが途切れずにさらに続こうとしている。祖母の20世紀を、孫娘の21世紀がどのように受け継ぐかは映画が終わった後の問題である。

 エレニを演じているイレーヌ・ジャコブは想定されている年齢を考えると美しすぎるという印象が残る。スピロスを演じているミシェル・ピコリが、年相応の老いを見せているので余計に違和感を強く感じるのである。それでも出演者が美しすぎるというのは映画が映画である以上持つべき現実との距離の1つなのだと考えておくことにしよう。

椎名誠『人はなぜ恋に破れて北へいくのか ナマコのからえばり』

2月27日(木)雨

 昨日、椎名誠『人はなぜ恋に破れて北へいくのか ナマコのからえばり』(集英社文庫)を読む。『サンデー毎日』に連載された文章をまとめて、2010年12月に毎日新聞社から発行されたエッセー集を文庫化したものである。椎名さんの本をわたしはかなり多く読んできたが、その理由の1つは著者と私とがずいぶん違った人生を歩んできた、自分がしたくてもできなかったような人生を歩んできたように思えてある種の解放感を味わうことができるということであるのだが、今回、読んでいて変に共通するところを見つけたのはどういうことであろうか。

 巻頭の「隣席の問題」は「列車や飛行機などの指定席で、隣に誰も座らない時というの、なんか嬉しいよね」(13ページ)と書き出されている。私は列車の指定席には乗らないたちであるが、飛行機の場合はたしかに同意見。映画館も隣がいない方が気楽である(隣に誰も座らないように席をとってくれる映画館の人も多い)。隣の席に有名人が座ることがあるということで中島誠之助さんと森進一さんが隣り合わせた経験が書かれていて、なるほどと思ったり、あれっと思ったりする。ベッドから落ちたことはあるが、「ベッド連続墜落」はない。こちらの方が上手でなくてよかったと思う。

 旅と日常生活の経験の他に、面白く読んだ本の内容が紹介されているエッセーもあり、その組み合わせがなかなかよくできている。ご本人が計算していろいろな本を読んでいるわけではないところが凄い。筒井康隆さんの初期短編「おれに関する噂」と同じような話が、ウディ・アレンの映画『ローマでアモーレ』の中のエピソードとして出てきたなと思う。これは偶然の一致であろう。

 椎名さんは次第次第に旅、特に海外の旅から遠ざかり、自宅に引きこもって原稿を書く生活に親しむようになっているらしいが、それでも経験と思いでは豊富だから「逃亡するならどの国か」というテーマでいろいろな国について論じることができる。こちらが出かけたことがない国の話題が多いので、おもしろがって読んでいくだけだが、逃亡の理由によって行き先も変わるのではないかという気がする。それでも「ポルトガルは日本人の気性でも十分住める『ほどよい緩さ』と演歌的な都市感覚のある国で、海産物の好みなど日本と変わらない。夜11時に開店する酒場には日本のようなガキ文化にはない港町の本当の『大人の男や女』がいる」(113ページ)という推薦理由はなかなかよく書けている(この後さらにブエノスアイレスの方がいいという理由が述べられる)。

 黒沢明の名作映画『七人の侍』で悪役にされている野盗たちの側からの描写をしなかったはおかしいという議論には作家としての眼が光っている。「電子書籍と秘密新聞」は同人雑誌、業界誌、ミニコミ、マスコミの「仕事」を渡りあるいた椎名さん独自の出版をめぐる観察と見通しが語られる。「ドーナツ化する田舎度」は文明批評として面白い。椎名さんは福井県の勝山左義長祭が気に入っていて、仲間とバスをチャーターして見に出かけるほどである。人生の中で何回か福井県の人や出来事に遭遇したが、そういう出会いはなかったなとちょっと残念に思う。

 そういうわけで自分の経験と対比したり、想像力に訴えたりしながら賛同したり、反発したりしながら読むことができる。お互いの老いを確認しながらも、ずっとこの著者の行動と思考の展開と集積を追いかけていきたいと思う。

柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』(5)

2月26日(水)晴れ後曇り、温暖

 柳田国男は日本に先住していた山人たちの生活のなかに遊動性、ユートピア性を見出したと考え、山人についての著作を発表しなくなっても、このような遊動性の探究をやめなかった。南島への着目もそこに山人と共通する生活や精神を認めたからであると柄谷さんは論じる。日本が政治的・経済的な膨張主義に走った時代に柳田は一国民俗学を主張し、定住民に目を向けたが、それは脱領域的な拡大と移住に反対してのことであった。

 『遊動論 柳田国男と山人』の第4章「固有信仰」は、日本の固有信仰をめぐる柳田の取り組みについて考察している。柳田は山人について書くのをやめた後、神道の中に焼畑狩猟民である山人の信仰の痕跡を求めようとした。ヨーロッパの民俗学は、実際は、キリスト教以前の信仰状態を探ることと結びついていた。柳田はそのことをハイネから学んだ。しかしもともと日本神道の原始形態には関心があったのである。柳田の父は中年になってから平田派の神官となった人物である。しかし柳田は平田が神道の中から外国の要素を排除するだけでなく、海外の神もその実体は日本の神であるというような侵略的態度をとったことを批判する。平田篤胤の師である本居宣長は神道が仏教や儒教の理論を利用しながら体系化を図ってきたことを視野に入れて、古代の人々の現実の生き方の中から日本人の本来の生活と精神を知ろうとした。そのような「古の道」を宣長は『古事記』に見いだそうとし、自らの学を「古学」と呼んだ。それを「国学」としたのは平田である。

 柳田の考えは宣長に近いが、彼は宣長が文献のみに頼ったことを批判した。国学者や神道学者が、固有信仰が仏教によって消されたとか、歪められたと考えたのに対し、彼は固有信仰の側に生じた綻びあるいは欠落を、仏教が補填したと考えていた。固有信仰は仏教のなかにその痕跡をとどめたと考えられていた。しかし、固有信仰そのものの姿は民俗学の探究の限界を越えたところにある。柳田は祖霊信仰こそ固有のものであったと考えていたが、それを証明することができないいらだちが彼には付きまとった。

 柳田の主張する固有信仰は他に例のない独特のもので、生者と死者との相互信頼性がその核心にあると考えられていた。このことは柳田が遊動民の富と権力の不平等や葛藤がない社会を前提としていたからであると柄谷さんは論じる。彼が日本社会の「家」や「祖霊」について考えた事柄の多くは母系でも父系でもない双系的なものを予想していたと考えられるという。双系は家を血のつながりから独立させる。さらには先祖を血縁とは無関係に考えることもできる。(柳田自身が養子として祖霊を祀ったことも指摘されている。)

 柳田は村の人々の現実の祖霊信仰から、日本の固有信仰の性格に迫り、さらにそこから普遍宗教を見出そうと考えていた。彼の民俗学の探究の対象が限定されていた時期にあっても、彼は普遍的な人間の生き方と精神を探究しようとしていたのである。

 「付論」では遊動生活を狩猟採集民のそれと遊牧民のそれとに分けて考えるべきことを主張し、柳田が一貫して狩猟採集民への関心を抱いていたと論じている。(そういえば、江上波夫の騎馬民族説に対して柳田がどのように反応したかなど、柳田の古代史研究に対する態度についても興味がわく。)

 柳田と固有信仰、神道の関係については、こちらの読み方が悪いのかもしれないが、どうも説明が不足しているように思える。あるいは別の書物の主題としてあらためて論じてみる方がよいのではないか。どうも消化不良の感じが否定できないが、一応書物の概要は紹介したつもりである。柄谷さんの主張は主張として理解したつもりであるが、この書物の中で批判されている柳田をめぐる先行研究について、読んでいないものが少なくないので、あらためて読みなおしてみようと思った。 

 

日記抄(2月19日~25日)

2月25日(火)晴れ、温暖

 2月19日から今日までのあいだに出会った事柄、ことば、考えたことなど:

2月19日(水)
 テレビ朝日の『マツコ&有吉の怒り新党』で「ネギトロ丼やカレー かき混ぜて食べるな」という話題が出てきた。ネギトロ丼、カレーの他にてんぷらそばやラーメンの話題も出てきて、東日本の出身であるマツコと西日本の出身である有吉・夏目との食をめぐる経験や趣味の違いが窺われて面白かった。『夫婦善哉』に何度も登場していた大阪の自由軒のカレーはかき混ぜて食べるのが本式であるという。この店、最近で東京にも店を出しているが、お客はどんな食べ方をしているのだろうか。東京の店の前を通ったことはあるが、中に入ったことはないのでわからない。

2月20日(木)
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編では、テノール歌手のパオロ・ファナーレさんのインタビューを取り上げているが、その中でファナーレさんがil paradosso del mestiere del cantante(オペラ歌手が抱えるパラドックス)として歌に感情を込めなくてはならないけれど、感情にのみ込まれないように戦わなければならないことを上げているのが印象に残った。芸術的な表現にかかわる人々の多くが共有するパラドックスではなかろうか。

2月21日(金)
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編で引用されていた。ジュール・ルナールの言葉:
 On finit toujours par mépriser ceux qui sont trop facilement de notre avis. (あまり簡単に他人の意見に同意するものは、いつでも最後には軽蔑されることになる。)

2月22日(土)
 プロップの『魔法昔話の起源』の「Ⅴ 不思議な贈り物」のなかでアメリカの神話では主人公が熊を投げ倒すと、そのクマが馬に変わって主人公を助けるという話があるという記述に出会う。金太郎が熊と相撲を取る話にも彼が力もちであったという以上の意味があるのかもしれない。幼稚園のときに学芸会で「金太郎」の劇をやって、私は碓井貞光であったか、金太郎を見つけて武士にしようという源頼光の家来の役をやったことを今でも不思議と覚えている。幼稚園時代の私は武士に似つかわしくないチビであったのだが、セリフがきちんと言えそうな子どもを探してこうなったのだろうと推測している。この劇の影響であろうか、源頼光の大江山の鬼退治の説話に興味を持つようになった。

2月24日(月)
 ソチの冬季オリンピックが終わる。冬のスポーツにはあまり興味がないので、詳しいことは書けないが、各競技は選手たちの健闘に支えられて成功していたと思う。プーチン大統領はこのオリンピックを国威発揚の手段として利用したかったようであるが、その目的はどこまで達成されたであろうか。
 冬季オリンピックというとなぜかロバート・レッドフォードが主演した映画『白銀のレーサー』を思い出す。アメリカの選手がオリンピックで最後に勝利する話だったと思うが、選手役のレッドフォードよりもそのマネージャーを演じて「金がない、金がない」といっているジーン・ハックマンの方が印象に残った。民間の努力で金を集めて頑張っている方が、政府から多額の補助金をもらって強化をはかるよりも健全である。

2月25日(火)
 昨夜、岡田温司『黙示録――イメージの源泉』(岩波新書)を読み終えた。新約聖書の「黙示録」を中心とする聖書の黙示文学が欧米人の物の考え方に及ぼしてきた影響をたどる書物で、多くの図像が理解を助けている。クリスティーの『蒼ざめた馬』についての言及が見られるなど広く文献や、映画について取り上げられていて、読者の関心をむしろ拡散させている恐れ無きにしも非ず。

 BSプレミアムでジョン・ウェイン主演、アンドリュー・V・マクラグレン監督の『チザム』を見るともなしに見ていた。最初と最後の場面がちょうど対応する作り方になっていて、主人公がその生きていた時代において既に伝説化しているような人物であることをほのめかしている。もう少しゆったりとした作り方の方がよかったのではないかという気がする。まだ30歳前に映画館でこの映画を見たときにはそんなことは考えもしなかった。

柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』(4)

2月24日(月)曇り

 柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』第3章「実験の史学」の続き。柳田の民俗学が日本一国の枠の中に閉じこもっていることを批判する議論に対し、日本が膨張主義に向かった時代に「一国民俗学」を主張したことの意義を柄谷さんは強調する。「山人」の生活の記憶の中に「協同自助」の精神を読みとった柳田は「山人」を弔うことを彼の民俗学研究の出発点とした。それゆえ柳田にとって植民地化の「未開社会」を研究する民族学と「同胞の文化」を研究する民族学という区別は存在しなかった。

 柳田は当初「山人」について考えていたが、昭和に入ってそれを放棄し、戦後には南島(沖縄)に稲作=日本文化の起源を求めたと一般には理解されている。柄谷さんは柳田が沖縄に向かったのは大正時代の1920年であり、その翌年に国際連盟の信託統治委員となってジュネーヴに向かったという事実を指摘して、これに異を唱える。

 村井紀さんは、柳田が官僚として日韓併合に深く関与したことへの自責の念から沖縄に向かい、南島に起源をもった日本民族の同一性という神話を創ったと論じているという。柳田が日韓併合への関与を悔いたことはおそらくは正しいが、その過去から逃げるために沖縄に向かったというのは違うと柄谷さんは論じる。柳田は官僚を辞めた後に沖縄を訪問したが、そのあとすぐにジュネーヴに向かっている。彼は日韓併合の問題を忘れようとしたのではなく、それをより普遍的な植民地支配という視点から見直そうとしたのである。ジュネーヴからかえった後に朝日新聞論説委員として彼は米国の排日移民法に憤激する日本の世論に対して、日本は近隣民族に対して同じことをしているのではないかという反省を促す議論を展開したのである。

 沖縄を訪問することによって、柳田は日本が島国であることにあらためて思いいたる。柳田は祖霊信仰に関して、死者の霊は近くの山の上に向かうという。しかし沖縄では海の向こうに行く。そのどちらも孤島における現象であるから、どちらが本来の姿であると問うことは意味がないと考えた。また彼は沖縄訪問によって中央と、その中央から差別され収奪を受けている周辺という構造を見出したが、同じような中央と周辺の構造を東北についても見出し、周辺に住む人々の問題を解決すべきであると論じた。彼は国際連盟での経験を通じて日本を含む列強諸国による植民地支配が経済合理性に照らして結果的に不利益をもたらすと考えた。これは「小日本主義」を唱えた石橋湛山らと共通する主張であると柄谷さんは論じている。柳田は植民地支配や、周辺部に住む人々への収奪に反対したが、被支配者を保護するのではなく、彼らが過去にもっていた「協同自助」の精神を思いだし、そこに立ち返ることによってその力量形成を行うことを期待したのである。そして「協同自助」の精神を思い出す手掛かりとなるのが民俗学であった。

 柳田は「山人」論を撤回したというのが通説であるが、彼は問題をより普遍的な見地から見直そうとしたのであり、撤回はしていないと柄谷さんは論じる。ジュネーヴから帰国した柳田は朝日新聞論説委員として普通選挙の実現のために尽力するが、その結果実現した選挙の結果に失望する。依然として農村の人々は従来からの地域の顔役たちの意のままに投票していたからである。ではどうすれば人々が自分の意思によって政治的な意見を表明するようになるのか。公民教育が必要であり、その中心となるのが「公民の民俗学」であるが、その際に柳田は欧米の制度や思想に学ぶのではなく、日本の前近代社会の人間の結びつきの中に求めていこうとする。前近代の日本には親・子というタテの労働組織とともに、結(ユイ)というヨコの労働組織があり、このユイを再認識することが求められる。(戦後、柳田が中心となって編纂した教科書の中に、結について小学生に分かりやすく説明する記述があったことを思い出す。ただ、農村の多くの子どもではなくて、ごく少数の、それも都市の子どもしか彼の思想に触れる機会がなかったのはまことに逆説的であり、残念でもある。)

 普通選挙の実現とその結果を踏まえて柳田がなそうとした「公民の民俗学」の追求は経済恐慌や満州事変によって成功しなかった。この時期のナショナリズムは一国に限定されず、対外膨張的な性格をもつものであり、建前にすぎなくても帝国主義や資本主義を否定し、克服して新しい社会体制を樹立しようとするものであった。現実には帝国主義が続いているのに、それが超克されたかのように語られたのである。民俗学においても「比較民俗学」や「世界民俗学」という提言がなされ、柳田は孤立を深めた。彼が「一国民俗学」を主張したのは時流への抵抗という側面を持つが、他方彼の学問的方法の帰結でもあると柄谷さんは論じる。

 では彼が確立した学問的方法とはどのようなものか。柳田が刊行した雑誌『郷土研究』をめぐる南方熊楠との応酬の中で、彼の目指すものが社会学や歴史学を含む、それらに分節できない農村生活史(誌)であるという。つまり、広義の歴史学というべきものである。つまり彼は民俗学を史学の中に位置づけようとしたのであり、この意味から民俗学は一国的でなければならなかったのである。彼は歴史学の知を文献や遺物だけでは知り得ないような領域に広げようとした。それは人々の主観的な「心意」・記憶を問うものであるが、それらを重ね合わせることによって共同主観的な現象を見出すことはできると考えた。研究対象を国内に限定することで研究の実験性が確保されるのであるという。

 たしかに柳田は山人について語るのをやめたが、それは山人論を放棄することではないと柄谷さんはいう。「山人論には2つの意味がある。第1に、それは先住民、異民族を意味する。第2に、それは、柳田が椎葉村に見たような遊動性・ユートピア性を意味する。山人論を放棄するという場合、通常は第1の意味で語られる。・・・/しかし、第2の意味では、柳田は山人論を放棄していない。絶えずそれを追求したのである」(116ページ)と主張する。この点と関連して柳田が「一国民俗学」を論じ始めた時期から、狼について論じ始めていることに着目している。

 柄谷さんは柳田が文化の地方的な多元性に否定的であったと論じていて、この点については実際に柳田の著作を読み返す必要があると思うが、多元的・一元的といっても、人間の社会に属することであるからどこで区分を設けて独立の事象と考えるかという問題も絡まっているように思う。このところ、プロップの『魔法昔話の起源』を読んでいて、プロップが魔法昔話の特徴として論じていることがあてはまる日本の昔話とそうでないものがあるような気がしている。日本列島の歴史の中で対外交渉が盛んであった時代とそうでない時代とがあり、徳川三百年と東アジア諸国の海禁政策がなかったら、柳田の「一国民俗学」の主張も根拠の乏しいものになっていた可能性もないわけではなかろう。

語学放浪記(23)

2月23日(日)晴れたり曇ったり、温暖

 柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』について書いてきて、いくつか気付いたことがある。一つは、柳田の「山人」論がハイネの『流刑の神々』に触発されたものであると柄谷さんは指摘しているが、柳田のこの書物についての理解がどの程度ハイネの真意をとらえているかも検討する必要があるということである。岩波文庫に入っている『流刑の物語』はハイネ一流の皮肉や諧謔が込められた書物だと記憶する(今、手元にあるので確言はできない)。柳田はおそらくドイツ語でこの書物を読んだのであろうが、そのような皮肉や諧謔をどの程度読みとったのかは分からないところがありはしないか。

 さらに、ハイネというと思いだすことがある。『サザエさん』の中で波平さんがフネさんとサザエさんを前に酔っ払っていい調子になって中学校で習ったという英語の歌を歌う。聞かされている2人はくすくす笑っていたのだが、歌を聞き終えて素晴らしかったという。波平さんがもう1曲歌おうかというので、「ローレライ」がいいですわというと、今、歌ったのがローレライだという落ちがつく。「ローレライ」はハイネの詩集『歌の本』に収められている詩である。問題はそれがもともとドイツ語で書かれたものだということである。旧制の中学校で英語の「ローレライ」を教えていたかどうかは定かではない。

 英語もドイツ語も外国語には違いないが、両者は違う言語である。外国語という範疇でいろいろな言語をひとくくりにしてしまうと個々の言語の違いが見えにくくなる。それぞれの言語を区別し、聞き分けるためにはそれぞれの言語を勉強する必要がある。現実問題として、自分が知らない言語を聞くと、それが英語だと思ってしまう人が少なくないようである。以前、スウェーデンの子ども向け映画を親子連れで見ている客がいて、子どもの方がこの映画のなかで話されているのは何語かと質問しているのに、父親が英語だと答えている場面に遭遇したことがある。中学・高校で英語を勉強していれば、英語ではないことくらいは分かりそうなものだと思ったが、どうもそうでもないらしい。あるいはわからないと答えては父親としての威厳が保てないと思ったのだろうか。

 もっとも最近では、街角でアジアの言語(たいていは中国語)を話す人々に出会うことが少なくなくなったから、何でも英語だと誤解する傾向は減少しただろうと思う。ただ、それが外国語を勉強しようという意欲を鼓舞しているのか、委縮させているのかは分からない。

 もう40年くらい前の話になるが、ある学校の校長と話していて、英語とドイツ語ができればヨーロッパの言語はほとんどわかるでしょうといわれたことがある(既に何度か書いてきたが、英語は多少はできるが、ドイツ語は全くできないのである)。ヨーロッパだけが世界ではないとはいうものの、その頃は、ヨーロッパの各地を旅行してまわるということはかなり稀少な体験だったから、インド=ヨーロッパ語族などという言葉に惑わされて、各言語がそれぞれ固有の発音の体系や語彙や文法をもっていることを私自身もなかなか実感できなかった。実感するには、それぞれの言語をかなりみっちりと勉強していく必要があったが、それほどの時間的な余裕はなかったのである。

 そうはいってもわたしが勉強した範囲でいえばスペイン語とイタリア語は似通ったところがあるというように、まったく違うとも言えないところはある。とはいうものの、そういう場合さらにしっかり勉強しないとどっちがどっちだかわからなくなって混乱するだけである。だから、よほど詳しい知識を持っていなければ、片方の知識はもう片方の足を引っ張るだけに終わる恐れがある。だから1つの言語を集中して徹底的に勉強することがその言語の習得のために必要なのだが、しかしそれだけでよいのかという疑問も残る。

柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』(3)

2月22日(土)晴れ

 2月20日の当ブログでも書いたが、第3章「実験の史学」はこの書物のなかでもっとも長い。第2章で柳田が椎葉村の「山民」の生活から「協同自助」の思想を読みとったこと、それを日本の農村再生に生かそうとしたことについて触れた。第3章はこの点を踏まえて書きだされる:
「柳田国男にとって、農政学は協同組合に集約される。とすれば、彼が"山人"に注目したのは、農政学を離れることではなかった。民俗学と見える彼の著作は、平地人、つまり、稲作農民に、かつてありえたものを想起させ、それが不可能ではないと悟らせるために書かれた。彼が"山人"に見だしたのは、「協同自助」をもたらす基礎的条件としての遊動性であった(付論参照)」(80ページ)。

 狩猟採集民は平地から追われて山に逃げ、彼らを追い詰めた平地の農耕民からは、不気味な"山人"とみなされていた。このような先住異民族の問題は日本に限られたものではないことを柳田は承知していた。彼は山人をアイヌや台湾の先住民から発想したといわれる。おそらくその通りであるが、だからと言って彼の民俗学が植民地主義や帝国主義と結びついているというのは批判にならないと柄谷さんは説く。
 この点で思い出すのは、大学院時代に梅棹忠夫について伝聞したことである。ある講義で梅棹がレヴィ=ストロースの文化人類学はフランスの帝国主義や植民地支配と結びついていると述べたことについて、それを聴いた学生が梅棹だって彼の学問は日本の帝国主義と植民地支配に結びついているのではないかと感想を述べていた。結びついているというのは客観的な事実である。その結びつきがどのようなものであるかを分析することなしに、結びついているということだけで批判するのは間違いである。

 柳田は民俗学(フォークロア)と民族学(エスノロジー)が日本では混同されやすいが、民俗学は自分の同胞の文化を対象とし、民族学は未開種族の生活が対象となることを指摘する。しかし、あえて両者を分ける必要はないと考えている。西洋では両者を区別しているが、柳田にとってこの両者は厳密に区別できるものではなかった。

 「歴史的に、民俗学は民族学なしには存在しなかった。つまり、民俗学とは、外に見出した「未開社会」を、内の「同胞」に見出すものである。・・・/柳田は、民族学を始めた最初の段階で、山人を、抑圧された先住民の末裔と見た。その際、柳田がアイヌや台湾の先住民を参照したのは当然のことである。また、彼は古代日本史を念頭においていた」(82ページ)。だから柳田の学問を、民俗学、民族学、歴史学のどれかに分類してしまうわけにはいかないが、そのような区別に意味はないと柄谷さんは論じる。

 柳田は民俗学が民族学あるいは歴史学と切り離せないということをハイネの『流刑の神々』を読むことによって悟った。ヨーロッパでは一般に近代化によって伝統的な文化が消えゆくことを嘆き、伝統文化を掘り起こそうとするロマン主義的な憧れや民族意識の高まりによって民俗学的な関心が醸成されたが、ユダヤ系のハイネはこのような流れからは自由であった。柄谷さんはハイネを「ユダヤ系」とみているが、ユダヤ人のなかにもハイネやフェリックス・メンデルスゾーンのようにキリスト教に改宗した人々と、伝統的なユダヤ教の世界を守った人々がいることを念頭に置いた方がいいだろう。

 ハイネによれば、ヨーロッパの森の中にいる妖怪は、キリスト教が到来する前に信仰されていた神々であった。このような神々の頽落はそれを信じる人間たちの抑圧でもあった。もし、ヨーロッパで民俗学がキリスト教以前の固有信仰を探る試みだとすれば、そのような固有信仰を抱いた人々を大量に殺戮してきたという事実を認め、罪をあがなうことが求められるはずである。しかし、そういう意識は西洋の民俗学にも民族学(人類学)にもなく、人類学者が植民地主義の共犯者であることを認めるようになったのは20世紀半ばになってからのことである。その中で柳田は、「他民族を対象とする民族学と、自民族を対象とする民俗学を区別しなかった」(84ページ)。

 柳田は先住民を「征服」した平地人の後裔の一人として「かのタシタス[タキトゥス]が日耳曼(ジェルマン)人を描いたと同様なる用意を以て、彼等の過去に臨まんと欲する」(86ページ)と記す。20日付の当ブログで柳田は文人的な官僚であったというべきであるとの意見を記しておいたが、『ゲルマニア』の著者タキトゥスはローマ五賢帝時代の文人的な官僚の代表的な1人であった。もっともゲルマン人たちはローマ文化の影響を受け、キリスト教に改宗したかもしれないが、ローマ帝国を滅ぼしたのは結局彼らであって、柳田のいう「山人」と同一視はできないところがある。その意味ではヨーロッパの歴史についての柳田の理解には不十分な面があったといわざるをえまい。たとえ、大筋での理解が正しかったとしても・・・。

 だんだん、紹介のペースが鈍ってきた。4章からなる書物なので、4回で終わらせるつもりだったのが、もう少しかかりそうである。柳田は英仏独の書物は読んでいるし、北欧における民話研究の成果も利用しているが、アファなシェフからプロップに至るロシアの民俗学研究の成果には触れていない。柳田とプロップはほぼ同時代人であっただけにこのことは残念である。というのはプロップの『魔法昔話の起源』を読み進んでいるが、彼はフランスやドイツの民話とアフリカやシベリアの民話を区別せずに取り上げているからで、この点は今回紹介した部分で柄谷さんが指摘していることと併せて考えるべきではないかと思う。

柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』(2)

2月21日(金)晴れ

 昨日に続き、柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』を取り上げる。

 第2章「山人」はこの書物の表題との関連で重要な内容を含むことが推測できるが、実際のところ第1章~第4章のなかでもっとも短い章となっている。

 柳田がその初期に、なぜ山人の問題を取り上げたかは、一般に文学的な興味からであると理解されてきた。彼の文学仲間である田山花袋や国木田独歩の目から見れば、柳田はロマン主義的な夢想を満たすために山人のことを書いたのであった。しかし、柳田はその回想記のなかで、飢饉を絶滅しなければならないという気持ちから農政学を勉強し、農商務省に入ったと述べている。さらに民俗学はそういう関心の延長だとも語っているのである。

 柳田は、自分の父が人生の途中から神官になったことをある講演のなかで語っている。平田派の神官であった父の影響のもとで柳田は「幽冥界」への関心を幼いころから育てていたと柄谷さんは推論している。このような関心と飢饉をなくそうという儒教的な「経世済民」の考えとは矛盾するものではないと柄谷さんは論じているが、もう少し説明が必要ではないかと思う。

 柳田は桂園派の歌人である松浦辰男に入門して和歌を勉強し、その一方で新体詩の詩人でもあった。彼は外来の新しい学問を学び、それを実践に生かして農村の生活を改善しようと企てながら、その一方で自分のなかの伝統的なもの、古いものを無視しようとはしなかったのである。

 柄谷さんは明治時代の終わりごろまでの官僚制には、農政学者としての柳田の政策提言を受け入れはしなくても、彼が自由の研究をし、その意見を発表することを認める空気があったと説く。柳田は早稲田大学で講義をしたり、各地で講演を行っていた。柳田の師匠格の森鴎外は東京美術学校や慶応で講義をしていた。それぞれ、講義分野について余人をもって代えがたい専門的識見を有していたからではあるが、このような自由があったということは評価すべきことである。

 富国強兵策をとった明治国家のもとで、農村は労働者を提供するだけでなく、失業した労働者を一時的に受け入れるため池であり、兵士を提供する母体でもある。それゆえ農村は収奪の対象であるとはいうものの、それが荒廃してしまっては資本と国家にとって危機を招くことになる。そこでさまざまな補助金を与える保護政策がとられることになるが、それは農村の自律的な改革や発展を目指すものではなかった。

 柳田の農業政策は農家が国家に依存せず、協同組合を通じて自助を達成することである。彼は外国におけるこのような試みを研究するだけでなく、同じような試みが日本や中国の過去にも存在したことを説いた。特に中国における自治的な相互扶助システムである社倉に注目した。また彼は日本に従来あった労働組織(ユイ)や金融組織(頼母子講)に新しい意味を与えようとしたのである。

 柳田が農商務省に入ったのは飢饉をなくすためであったが、彼がなくそうとしたのはたんに物質的な飢餓だけでなく、人と人との関係性の貧しさでもあった。彼の協同組合の構想はこのような側面も持っていたのである。柄谷さんは柳田の構想とおそらくは無関係に構想されている宇沢弘文の「社会的共通資本」の考え方の近縁性を指摘している。この点については自分なりに掘り下げてみるべきだと思うが、宮沢賢治の羅須地人協会の実践などはどういう位置づけになるのか、柳田の『遠野物語』と賢治のイーハトーヴォ童話が重なっているようないないような感じを持ち続けているだけに興味がある。あるいは藻谷浩介氏の「里山資本主義」なども視野に入れてもいいのかもしれない。

 柳田は農政学者・官僚として調査旅行をするなかで1908年に宮崎県の椎葉村という焼畑と(猪)狩猟で生活している村を見て衝撃を受ける。彼が「山人」について書きはじめるのはこの後のことである。彼が衝撃を受けたのは怪異譚のためではなく、山村の生活に理想的な「協同自助」を見出したことである。「柳田が椎葉村に見たのは、妖怪のようなものではなかった。また、たんに前代の生産形態でもなかった。彼がそこに見出したのは、平地とは異なる『土地に対する思想』、つまり、共同所有の観念である。さらに重要なのは、生産における『協同自助』である。それらは、彼らが焼畑と狩猟に従事するということ、つまり遊動的生活からくるものである」(69ページ)。

 椎葉村の人々は「山民」であって「山人」ではない。山民は先住者である山人を追って山中に定着した人々であるが、山人の生活を引き継いでいるところがあり、山民を通じて山人のあり方をうかがい知ることはできると柳田は考えていた。「山民が現存するのに対して、山人は見つからない。しかし、山人の『思想』は確実に存在する。山人は幻想ではない。それは『思想』として存在するのだ」(72ページ)。「思想」とは「協同自助」である。

 『遠野物語』の「序」で柳田は次のように言う。「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」。柄谷さんは松崎憲三さんの意見を引いて、戦慄させようとしているのは「怪異譚ではなく、山村に目撃した、別の社会、別の生き方なのだ」(73ページ)と論じる。第2章を通じて、柳田の「山人」論を柄谷さんがどのように理解しているかが分かってくる。

 では、このような「山人」への関心を出発点として柳田の農政学と「民俗学」はどのような展開を遂げたのであろうか。

柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』

2月20日(木)晴れ後曇り

 柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』(文春新書)を読み終える。昨年の10月~12月まで『文学界』に「遊動論――山人と柳田国男」として連載された論稿に新たに書き下ろした「付論」を加えて刊行されたものである。著者のこれまでの業績から、柳田の思想の批判的な継承が目指されていると想像できるが、どこを批判して、どこを継承しようとしているかが問題である。

 この書物は第1章「戦後の柳田国男」、第2章「山人」、第3章「実験の史学」、第4章「固有信仰」、それに付論「2種類の遊動性」から構成されている。

 第1章は「柳田は初期の段階で山人(やまびと)、漂泊民、被差別民などを論じていたが、後期にはそれから離れて彼が「常民」と呼ぶものを対象とするようになり、「一国民俗学」を唱えるようになった」(8ページ)と書き起こされている。このことが重視され、批判的に論じられるようになるのは1970~80年代にかけてのことであったという。戦後、まさに「一国的」であった日本の社会のなかで、「一国民俗学」の性格と可能性を批判する人はいなかった。しかし、日本企業の海外進出とともに日本人の自閉性が批判されるようになると、むしろ柳田の初期の業績の可能性の方が注目され、彼が「一国」に閉じこもったことが批判されるようになるのである。

 しかし柳田が一国民俗学を言いはじめたのは1930年代、満州事変以後の「五族協和」や「東亜新秩序」が唱えられ、それと呼応する形で比較民俗学や世界民俗学が提唱されたときに、それよりもまず一国内での民俗学を確立すべきであると主張することで、時代状況に抵抗する文脈でのことであった。しかし、この抵抗は、「それ以前に彼の企てが敗北してきた結果、やむなくとった形態であることを知っておくべき」(10ページ)であると柄谷さんはいう。朝日新聞論説委員として吉野作造とともに普通選挙を実現するために活発に論陣を張った彼は、しかしその結果実現した普通選挙の結果に民意が一向に反映されていないことに失望した。彼はこの問題を民俗学の方法によって解決しようとし、それを「実験の史学」と呼んだ。柳田は明治以来、一貫して、現実の政治にかかわってきたのである。しかしそれらはことごとく敗北に終わった。その敗北の原因を問うことが彼の民俗学の内実であった。

 とはいうものの1930年代以降になると柳田は現実の政治にかかわることができなくなる(現実にそうするための条件が失われる)。その一方で彼の民俗学はそれ以前よりも広い読者層を獲得するようになる。社会科学的なものが権力によって弾圧され、京都学派の「世界史の哲学」のような「観念的な歴史学」が支配的になったことに不満をもった人々が文学的な香りを帯び、実証的な調査に基づく柳田の民俗学の魅力にひかれるようになったと説明される。しかし、柳田自身がこの状況に満足していた訳ではない。現実の政治にかかわれなくなった事態を自身の無力さとして感じていた。「したがって、敗戦に際して、柳田は「一国民俗学」に満足するどころか、かつて企てながら果たせなかったことをあらためてなそうと待ち構えていた」(13ページ)。このとき、彼が取り組もうと考えていたのは、家族制度も含む農民問題であったと考えられる。

 柄谷さんは花田清輝の見解に着目しながら、「農村における前近代的な協同のあり方を否定的媒介にして」、新たな協同性を創造しようとしてきた柳田は、戦後改めてその可能性を試そうとしたが、米軍による農地改革によって阻まれた。その後の高度経済成長は結果として農村人口の減少と農業の保護政策をもたらした。柳田の構想は明治・大正時代と同じく、戦後にも挫折したのである。さらに柄谷さんは戦没者の祭祀の問題、沖縄の問題についての柳田の取り組みと敗北について論じている。その一方で1960年代以降の日本社会の変質に伴って柳田の読まれ方が変化したことを吉本隆明の『共同幻想論』を軸として論じ、農民=常民をベースにした柳田民俗学=史学が日本社会の現状と合わなくなった一方で、非常民への着目が顕著になったという。しかし、そのような人々に初めて着目した人物こそ柳田であった。そしてなぜ柳田が変わったかと問う場合に、その問いを自分自身にも振り向けるべきであると指摘する。実は日本社会の変化によって読者が柳田を見る目も変わってきたのではないか。柳田の歴史的変化と読者自身の歴史的変化とを交差させる、トランスクリティカルな視点から柳田の「山人」論を問い直すべきであると論じている。

 著者の論旨を要約するだけで(しかも後半になるとほとんど見出しだけを紹介する形になってしまったが)、疲れてきたが、柳田の根本的な関心の一つが農民の協同による農村の自立であったこと、民俗学がそのような共同の根拠を探る学問であったことなどをとりあえず理解しておこう。

 柳田が亡くなった1962年にわたしは高校生であったが、柳田が主唱して編纂された教科書がわたしの周辺にあったり、ラジオで柳田の話を聴いたり、学校の先生から柳田の話を聞いたのは小学校時代のことであったと思う(それ以後、柳田は高齢のために目立った活動ができなくなったのである)。さらに言えば父母の本棚にも柳田の『木綿以前のこと』などの著作があったことも思いだす。ただ、死んだ父は柳田を民間の学者、町の学者ととらえていたが、わたしが彼について抱くイメージは「文人としての顔も持つ高級官僚」である。この点は柄谷のとらえ方と一緒で、このことは彼が農政学者、官僚として農村の現実とかかわろうとした、そこから進んで日本社会の現実とかかわろうとして敗北したというこれまでの記述からも明らかであるが、第2章以降を紹介するなかでさらに明らかになると思う。 

ネコの影

2月19日(水)晴れ

 昨日の「日記抄」の2月12日のところに入れるつもりで書きつけた詩が思いがけず長くなってしまった。

 ネコの影

窓の向こうを
のそり
のそりと
大きなネコが
歩いていく
気配がする

近所のネコたちは
悪ネコばかりだから
うちのネコは
家から出さないと
家人はいう

うちのネコだって
階段の途中に寝そべったり
椅子の下でじゃれついたり
仕事の邪魔ばかりしている
悪い奴だが
近所のネコたちほどではないらしい

いいとか
悪いとか
それは人間の都合だと
いいたそうに
窓の向こうを
のそり
のそりと
大きなネコが
存在感を示しながら
歩いている

日記抄(2月12日~18日)

2月18日(火)

 大雪の被害を受けている方々に心よりお見舞い申し上げます。1日も早い復旧を祈っております。

 2月12日から18日までの気候の変動に翻弄された日々のなかでしてきたこと、考えたことのなかから:

2月13日(木)
 テレビ朝日の『世界の車窓から』でポーランドのポズナンで今も走っている蒸気機関車を取り上げていた。蒸気機関車には日頃それほど興味をもっていないのだが、珍しいと思って画面を見つめていた。

2月14日(金)
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編、「Bon voyage, Manon! ~大阪・京都・・奈良~」では四条通の回転寿司に入る場面が出てきた。回転寿司は四条通よりも新京極の方が似つかわしい感じがする。

 イタリア語の時間、「インタビューで学ぼう! イタリア語」はテノール歌手のパオロ・ファナーレさんのインタビューの続き。これまで出かけた場所を列挙したなかでin Germania a Monacoというのが出てきたが、Monacoはイタリア語でミュンヘンのことであった。
 ファナーレさんがシチリア出身であるからだろうか、シチリア出身の文学者ルイージ・ピランデッロ(1867-1936)の言葉が引用されていた。「人はもともといくつもの顔をもっている」。ピランデッロは日本でいうと、幸田露伴、夏目漱石と同じ慶応3年の生まれであるが、もうちょっと新しい時代の作家のような気がする。もっともわたしの学校での同期生たちのなかにも慶応3年生まれの祖父をもった人は少なくなかった。なお、ピランデッロは1934年にノーベル文学賞を受賞している。

 2月15日(土)
 フジテレビの「にじいろ」の「ぐっさんを連れていくならこんなとこ」でゲストとして鶴田真由さんが登場、先日見た『ほとりの朔子』の場面が紹介されていた。(この映画については1月28日の当ブログで取り上げている。)
 ジーンちゃんが世界を回るコーナーではベルギーのブリュッセルが紹介され、マンガ博物館が取り上げられていた。タンタンやスマーフが出てきたが、ベッキーさんの「スマーフはアメリカのマンガだと思っていた」という言葉が耳に残った。マンガを映画化したのはアメリカのハンナ・バーベラであるからまるっきりの誤解でもないのである。

 2月16日(日)
 TBSの「アッコにおまかせ」で大雪のなか、渋谷の道玄坂でスキーをしている人がいたという話題が取り上げられていた。道路交通法違反であり、決してしてはいけないことである。

 ベルリン映画祭で女優賞を得た黒木華さんが受賞後こういうことならばもっとドイツ語を勉強しておくのだったというスピーチをしたのは初々しくてよかったと思うが、最初の挨拶と最後の感謝の言葉だけ、カタカナでメモしてでもドイツ語で話した方がもっとよかったのではないか。ドイツの映画界で活躍するわけではないのだから、ドイツ語は片言だけ話せればそれでよしとすべきである。田中将大投手がヤンキーズ入団会見の最初の方だけ英語で話した意気を評価したいと思う。以前、ロンドンのヒースロー空港でVAの外国人のアテンダントがメモを片手に日本語でアナウンスしているのを聞いたことがある。本人は自分が何を話しているのか分かっていない様子だが、それでも伝えるべきことは通じていた。国際的な場面ではとにかく図々しくあるべしと思った。

 2月17日(月)
 東京大学の周辺でプリント・コピーのできる店を探す。パソコンのプリンターがないので、こういうことが必要な場合がある。東大で勉強していたわけではないので、こういう時は勝手がわからず不便である。東大の前の本郷通は旧中山道の一部であり、また東京と新潟を結ぶ国道17号の一部でもある。国道17号は起点と終点の両方に足跡を記した道路の1つである。しかし、途中の大半は知らないままである。

 2月18日(火)
 まいにちイタリア語の時間の練習問題から:
 Se avessi studiato bene, parlerei meglio in italiano. (もし私がしっかり勉強していたら、イタリア語でもっと上手に話せるだろうに。)

ウィルキー・コリンズ『月長石』(26)

2月17日(月)晴れ

 前回(2月5日の第25回)から少し間が空いてしまったが、コリンズの『月長石』を読み進んでいく。1849年の春、英国に戻ってきた青年紳士フランクリン・ブレークは前年の6月に彼の従妹であるレイチェル・ヴェリンダーに誕生祝いとして贈られ、その祝いの夜が明けた際に姿を消していたインド伝来のダイヤモンド<月長石>のゆくえを突き止め、紛失後その態度を変化させて彼に連れないそぶりを見せるようになったレイチェルの愛を取り戻そうと、事件の現場であったヨークシャーを訪れる。そこで彼はヴェリンダー家の執事であるベタレッジから、事件後その前歴のために嫌疑をかけられ、姿を消した(自殺した)下働きの女中のロザンナ・スピアマンが彼にあてた手紙を残していたことを知らされる。その手紙の指示に従って海中を捜索したフランクリンは彼女が彼のペンキのついたナイトガウンを隠していたことを知って愕然とする。事件を捜索していたカッフ部長刑事は、レイチェルの部屋の扉の汚点から月長石をもちだした犯人の衣類にペンキがついているにちがいないと推理していたのである。

 自分が何をしているのかわからないほど驚いたフランクリンは、ベタレッジの勧めに従って彼のナイトガウンとともにロザンナがはこの中に隠していた手紙を読みはじめる。彼女の手紙は、彼への愛の告白から始まっていて、それがまたフランクリンを驚かせる。中村能三の訳では「私は、あなたさまをお慕いしております」(515ページ)となっているが、原文ではI love you.(Penguin Popular Classics, p.313)とごく簡単である。フランクリンにはこれが何のことかわからない(一つは彼がレイチェルだけを思っているからであり、今ひとつは、彼とロザンナの間の身分の違いから2人の間に恋愛感情が生まれることはあり得ないと思っているからでもある)。ロザンナの気持ちに気づいていたベタレッジはフランクリンに手紙を読み進むように言う。

 フランクリンがベタレッジを探して海岸にやって来た時にたまたま彼の姿を見たロザンナは一目で彼に恋い焦がれたと告白する。そして彼の身の回りの世話を特に丁寧にしてきたという。フランクリンがレイチェルに恋していることに気付いたロザンナはレイチェルを憎みさえする。レイチェルがフランクリンの部屋のコップに活けたバラの花を捨てて、自分で摘んだバラの花を活けたりする。「レイチェルさまがきれいなのは、着ていらっしゃる衣装と、あの方の自信たっぷりの気持ちがさせている」(中村訳、519ページ)とロザンナはいう。もちろん、彼女は身分の違いには気づいている。しかし、それでも恋する気持ちは変わらない。

 事件が起きたときに、最初捜索に当たった地元の警察のシーグレイヴは使用人たちを疑い、それで彼らの反発を買う。ロザンナは自分の衣服にペンキがついていないか気にするが、召使のなかで一人だけ彼女と仲がよかったペネロープに大丈夫だといわれる。ペネロープはシーグレイヴの態度に腹を立てていて、事件の当夜12時に彼女がレイチェルの部屋を出た時には扉には汚点がついていなかったことを見ているが、それを証言するつもりはないと言い切る。

 フランクリンの身の回りの品を整えていたロザンナは彼のナイトガウンにペンキがついていることに気づく。彼女はペネロープとの会話を思い出し、「これは、フランクリンさまが昨夜12時から今朝の3時までのあいだに、レイチェルさまのお居間にいらっしゃった証拠だわ!」(524ページ)と思う。そこでロザンナはナイトガウンを隠す手立てを考える。土曜日に、洗濯屋の女が目録を邸にもってくる前に、そっくり同じナイトガウンをもう1着作ろうというのである。犯人はフランクリンであり、彼女はその証拠を隠そうとしている、そのことに2人を結び付けるきっかけがあるのではないかと思うようになる。そして作業の合間にフランクリンにダイヤモンドのことで話しかけようとするが、フランクリンが冷たい態度をとったので謎めいた態度を見せる。2人の近くにベタレッジがやってきたので話は中断するが、ロザンナはフランクリンに自分の気持ちを打ち明ける希望を失わない。

 ところがロザンナが過去に出会ったことがあるカッフが捜査のためにやってきたので事態が一変する。カッフはロザンナと同じく、事件を解く手がかりはペンキのついた衣類にあると推理する。しかし、彼はペンキのついた衣類の持ち主がフランクリンであることには気づかなかった。

 ロザンナの手紙をここまで読んだときに、フランクリンとベタレッジのところに異様な風貌の男がやってくる。彼はヴェリンダー家に出入りしていた医師のキャンディーの助手のエズラ・ジェニングズである。故人になったヴェリンダー夫人は病気の貧乏人たちにポートとシェリーを寄付していたので、レイチェルにもそれを続けてほしいとそれを必要とする人々の名簿をもってやってきたのである。(中村訳ではポートを赤葡萄酒、シェリーを白葡萄酒としているが、これは誤訳である。) ベタレッジはジェニングズを嫌っているようすであり、彼はすぐに立ち去るが、物語のこの後の展開で彼は小さいとはいえない役割を果たすことになる。

 レイチェルの部屋から月長石をもちだしたのがフランクリンであるという可能性は大きくなったが、しかし彼の手もとにこの宝石があるわけではなさそうであるし、ヴェリンダー家の顧問弁護士であるブラッフがいうようにフランクリンには宝石を盗む動機らしいものがない。事件の犯人を邸の使用人のあいだで探すシーグレイヴは紳士の知的なゲームとして成立する「探偵小説」以前の捜査を行っているわけである。確固とした手がかりをもとに捜査を進めようとするが、「紳士」ではないカッフは捜査の過程で階級の壁にぶつかって事件の真相に迫れなかい。紳士であるフランクリンは真相に迫ろうとして、自分自身の嫌疑を晴らさなければならないという立場にあることに気づかされる。使用人たちは、ベタレッジとペネロープの父娘にしても、ロザンナにしても、脇役の立場に置かれているが、彼らなりに事件をしっかり見据えているように描かれている。そのあたりもこの物語の特徴として視野に入れられるべきであろう。

山田英雄『日本書紀の世界』

2月16日(日)晴れ

 2月11日、この書物を読み終える。1979年に教育社から『日本書紀』として刊行されたものの再刊である。著者の言葉を繰り返すまでもなく、『日本書紀』は日本の古代について多くの知識を与えてくれる基礎的な歴史書である。この書物は『書紀』の成立過程の問題点を概観したものであるが、内容についても多少は触れていて、『日本書紀』の性格を知るための貴重な手掛かりを与えてくれる。とはいうものの、この書物が書かれたのが既に30年以上むかしのことであり、その後文献資料の批判と考古学的な研究が進んだ結果として、時代遅れになっている部分がないわけではない。当ブログで詳しく紹介した神野志隆光『古事記とはなにか 天皇の世界の物語』を読んだ後でこの書物を読むと、いっそうその感を深くする。そうはいっても、神野志さんが論じているように『古事記』と『日本書紀』は異質の著作である。それを同一視して、ある主張の裏付けとするような試みは警戒すべきである。同じものを別の角度から見たものと考えるか、まったく異質なものと考えるかはさておいても、記紀を読むことによって我々は日本の古代についての何かを知ることができるかもしれないが、それがどのような価値をもつかは飽くまでわれわれに委ねられている問題である。その前提として、記紀の成立事情についての正確な理解や、内容の解釈が求められる。それは多くの研究とその相互批判を経た蓄積に基づくべきものである。そういう意味で、少し前の時代の常識的な意見がわかる書物として読むのが適切であろう。

 この書物は全体の「概観」に続いて、1「日本書紀の成立」、2「日本書紀編纂上の諸問題」、3「内容(1)」、4「内容(2)」、5「研究史」の各部分から構成されている。「内容(1)」では神代から武烈天皇まで、「内容(2)」では継体天皇から持統天皇までの記事が要約されている。

 まず、『日本書紀』の成立をめぐる事情は不明な部分が多く、多くの論争が重ねられてきたという。書紀以後の五国史には序文・上表文等があって、それぞれの成立・編纂者について知ることができるが、書紀についてはそれがなく、『続日本紀』に完成した時の簡単な記事があるだけでなく、天武天皇時代以後の歴史書編纂についての記事が『紀』『記』のどちらを指しているかが分からないことが問題を複雑にしているという。以下、この書物の複数の執筆者でもっとも重要な役割を演じたのは紀清人であると推測し、歴史的な記述として何を目指すのかが明確にされていないことを問題点として(控えめながら)指摘し、構成と記述の特色を指摘し、分註や史料からの引用について考察を加えている。『書紀』がことさらに漢文で書かれている事情についても論究されているが、この点については異論の余地がありそうである。

 「編纂上の諸問題」では取り上げられている記事がどのような裏付けをもっているのか、またその年代がなぜか詳しく記されていることとその問題点が指摘されている。この書物を読み終えた2月11日が「建国記念の日」とされていることも、『書紀』の記事に基づくものなのであるが、「日本書紀の編纂者は年月日のない記録をいかなる基準で年月日に割り当てたかは明らかでない。この作業は順序不同の材料を時間の順序に配列するのは一種の創作に属する」(76ページ)と奥歯に物が挟まったようなもののいい方ながら、記述の問題点を指摘しているのは注目すべき議論であろう。さらにまた「史料のない人物の影像をいかにして構成したかはいまだに疑問であって出典論の研究も程遠いといわねばならない」(103ページ)とも論じており、『書紀』の性格を考える上で重要な示唆ではないかと思われる。

 「内容(1)」においては、神代巻をめぐり中国の歴史書との比較考察を展開しているのが注目される。神代についての記述を「日本人の思考方法の原初的形態を探る貴重な資料である」(111ページ)と評価していることも見落とすべきではなかろう。「内容(2)」をめぐっては巻17の継体天皇紀から巻19の欽明天皇紀の記述をめぐる文献批判上の問題を詳しく論じているほか、「仏教公伝」、「聖徳太子」、「大化改新」、「壬申の乱」などがどのように記されているかを概観している。この書物が執筆された時点での大まかな理解がどのようなものであったかを知ることができる。

 最後に、『書紀』成立以後の研究史について述べているが、江戸時代の研究、津田左右吉の研究、小島憲之の研究を中心にそれぞれの特色が簡潔にまとめられている。その中で森鴎外の「かのやうに」が、神話と歴史の境界をどのように設定するかの問題を、日本とキリスト教世界との比較を視野に入れて提起していることに触れているのが注目される。書物全体として、『書紀』の入門書という性格が強いが、注意深く読み進むと、『書紀』の内包するさまざまな問題についての好奇心をかきたてるいくつかの示唆を読み取ることができる。 

パヴェーゼ『美しい夏』

2月15日(土)午前中、雪と風雨 午後、曇り

 2月13日、パヴェーゼ『美しい夏』(河島英昭訳、岩波文庫)を読む。大雪の予報が出ているときに『美しい夏』でもないだろうという人がいるかもしれないが、この作品で「美しい夏」という言葉は象徴的な意味をもって使われていることに気づくべきである。イタリアの青春映画の多くが夏をその季節として選んでいることも思い出されてよい。

 1940年ごろの北イタリア(ピエモンテ)のトリーノ市で兄とともにアパート暮らしをしながら、洋裁店で働いているジーニアという16歳の娘が、3歳ほど年上のアメーリアという女性と知り合い、彼女を通じてグイードという画家を目指す青年とであって次第に大人の世界に足を踏み入れていくというのが物語の大筋である。

 チェーザレ・パヴェーゼ(Cesare Pavese, 1908-50)は20世紀イタリアを代表する文学者の1人である。この小説はもう50年か、それよりも昔、まだ高校生だったころに読んだことがある。それを読み返そうと思ったのはイタリア語の勉強のために何かいい読みものはないかと思ってイタリア書房で探した限りで、『美しい夏』が長さも手ごろだし、一番読み易そうで、とりあえず翻訳からでも読んでみようと思ったからである。

 河島英昭さんの「解説」によれば、この作品は物語の結末を知っている<作者>とそれを知らない<登場人物>の間の均衡によって成立しており、男性である作者が物語のなかに結末を知るものとして登場せずに、その役割をアメーリアに担わせている。「『美しい夏』は始めから終りまで女言葉で書き抜かれている」(188ページ)。たぶん、このことが原文の字面を追った限りでの私の印象と重なるのだろうと思う。

 物語はジーニアが自分の閉ざされた生活を破って「美しい夏」を過ごしたいと思い、体験を重ねる(そのこと自体が「美しい夏」である)過程を描くが、それは少し前にアメーリアが通り抜けた過程であった。「丘の向こうにまで、行ければいいのに」(5ページ)と夢想していたジーニアが、物語のなかほどでアメーリアと2人、40ぐらいの片眼鏡の男の運転する自動車で丘に登る。「もうあの美しい緑の木々はなくて、霧と電線ばかりの虚ろな空間があった。丘の斜面は禿げたようになっていた」(125ページ)。終わり近くでジーニアは独白する。≪あたしは年をとったんだわ、それだけのことよ。美しい盛りは終わったのね≫」(174ページ)

 冒頭の「美しい夏」へのあこがれが美しく描き出されているだけに、物語の進行に連れて現実の社会を生きることの辛さや暗さが強く印象付けられる。パヴェーゼの筆致は飽くまでも柔らかだが、登場人物たちが暮らす部屋の闇や、彼らを包み込む寒気や霧をしっかりと描き込めている。

 50年ほど以前にこの小説を読んだ時、それが自分と同じ年代の異性を描いているということをほとんど意識せず、何となくジーニアが自分よりも年上であるような錯覚をもっていた。それだけ文学の読者として未熟だったということであろう。イタリアがファシストの支配下にあった時代に書かれ、戦後になって発表されることになったこの小説は恋愛を通じた女性の成長ではなくて、恋愛への憧れが成就しない女性の運命を描いて社会への間接的な批判を試みていると読みとれる。

 河島さんの翻訳は読みやすいが、「市電」という言葉が使われているのには違和感がある。現在の日本で運行している路面電車の大部分は私鉄の経営する路線である。「路面電車」とか「トラム」とか訳すべきであろう。

神野志隆光『古事記とはなにか 天皇の世界の物語』(4)

2月14日(金)雪

 このブログを始めて以来、読者の方々からいただいた拍手の合計が1,000を越えた。ご愛読に感謝するとともに、もっと読み応えのある紙面づくりを目指してさらに努力を続けようと思う次第である。

 神野志隆光『古事記とはなにか 天皇の世界の物語』の第3編は「天皇の物語」と題されている。第1編と第2編は『古事記』上巻の神話的物語を扱ったが、ここでは神武天皇から応神天皇までの中巻と仁徳天皇以後の下巻の内容が考察されている(『古事記』本文はもう少し後まで続くが、この書物が対象としているのは雄略天皇までである)。

 第3編第1章は「大八島国の秩序化と朝鮮半島に及ぶ『天下』」と題されている。ここでは「天皇の世界たる『天下』の成り立ち」(224ページ)が語られている中巻について論じている。それはさらに「大八島国において服従しない人を討ち、平定することを語る、成務天皇までの第1部」(同上)と「新羅・百済を服属させることを語る、仲哀・応神天皇の第2部」(同上)とからなる。神武から成務までの中巻第1部のなかで中心となるのは神武天皇とヤマトタケルであり、第2部の中心となるのは応神天皇である。

 神武天皇の物語はヤマトを中心とする王権の確立を語るものであり、その中で「天つ神御子」の葦原中国領有の正統性が再確認されるとともに、天皇が住まいを定めることによりその正統性を実現する、天皇の世界の定立が果たされたと論じている。著者は天皇の世界を定立するための戦いの物語のなかに歌謡が含まれていることに注意を喚起する。それは平定の戦いの結果そのものではなく、苦しい戦と勝利の喜びがあったことへの共感を求めるものであると論じられている。

 神武は、ヤマトを中心とする天皇の世界、「天下」を確立し、以下の天皇たちがそれを拡充していく。ヤマトタケルの働きによって大八島全体が天皇の世界となる。その働きを語る際に、アマテラスの神意が働いていたと語られていることは見過ごせないと著者は論じる。ヤマトタケルの物語は大八島全体に及ぶ天皇の世界の確定を物語りものであるが、物語自体は悲劇的な英雄タケルの像を強く印象付けるものとなっているとも論じている(著者の関心が歴史ではなく、文学にあることを示す指摘でもある)。

 大八島を天皇の世界として確定した後に、さらに朝鮮を「天下」のなかに含むことを語るのが中巻第2部であり、この部分は応神天皇の物語と見るべきであると著者は説く。朝鮮が「天下」に含まれることと関連して、『古事記』は『日本書紀』と違って中国に触れていないことが注目される。「何時にもわたる遣隋使や遣唐使、また朝鮮半島における唐との戦いと敗北・・・を、『日本書紀』は記すのだが、『古事記』はそれを回避して、「天下」の歴史としての統一性・完結性をたもとうとするのである」(261ページ)。

 第2章「めでたく満ち足りた『天下』」は『古事記』下巻について取り上げている。ここには皇位継承をめぐる戦いの記述はあるが、平定記事は含まれない。中心となるのは仁徳・雄略両天皇であり、量的に見てもこの2帝の記事は下巻全体の4割強に及ぶという。「仁徳記」は「色好み」の聖帝としての仁徳を描き、その大部分が歌謡物語である。応神までに実現し終えた「天下」が、めでたく充足をもって保たれ、継承されていることがしるされているという。

 仁徳と並んで、活力あふれた、充足の御世をあらしめた大王が雄略である。その抜きんでた苛烈さ、荒々しさを『古事記』は強調している。と同時に、雄略にかかわる歌謡物語が充足の「天下」をもたらした偉大な天皇の姿を示していると論じている。(浦島太郎の話をはじめとして、雄略の時代が「説話」に満ちていることに注目する論者もいることを思い出す。)

 第3章「悲劇の主人公たち」は正統性に対する反逆者たちを描いた部分を取り上げている。敗れ去った反逆者たちに共感と同情を寄せながら描いているところに『古事記』の文学としての特色を見出し、その中での物語と歌との関係について考察を加えている。

 「天皇の世界の物語」として『古事記』をとらえるという著者の主張に沿って書物は一貫した体裁を備えていると思われるが、その一方でヤマトタケルや、最後の「悲劇の主人公たち」に見られる悲劇的な性格への関心が書物にまた別の色合いを与えているように思われる。『古事記』における歌謡の役割の重視など、この書物が歴史ではなく、文学の側からの取り組みであることを示すものであろう。「色好み」を徳として捉える点など、これまで気づかなかった指摘も多く、読み応えのある書物であった。

はじまりは5つ星ホテルから

2月13日(木)曇り

 渋谷BUNKAMURAル・シネマ1でマリア・トーレ・トニャッツィ監督の『はじまりは5つ星ホテルから」を見る。イタリア映画で、字幕を担当している岡本太郎さんはラジオのまいにちイタリア語・応用編で何度かイタリア映画を紹介する特集の講師をされている。もっとも、映画のなかの実際の会話ではフランス語も英語も使われていた。

 ヒロインのイレーネは5つ星ホテルの"覆面調査員"である。私生活では40歳の独身、家庭も子どももなし。仕事では豪華な部屋に泊まり、一流の食事を楽しんでいるが、アパートはガラガラ、冷凍食品を食べている。元婚約者である親友はいるのだが、彼は別の女性を妊娠させて今後の身の振り方を考えている。ベルリンのホテルで知り合った独身女性の文化人類学者と意気投合し、翌日食事を共にすることを約束するのだが、翌朝彼女が急死したことを知り、人生について考え直しはじめる。

 人生は落丁の多い本に似ていると芥川龍之介はいった。この映画に登場する人物は主人公を含めてどこか大きな欠点を抱えていたり、ものの見方に死角があるように思われる。したがって失敗も目立つ(その代わり、失敗をそれほど気にしないところがあって、そこがイタリア的なのかもしれない)。独身のヒロインは結婚して2人の子どものいる姉妹に老後の面倒を見てもらおうと思い、姉妹が死んだら姪たちを頼ろうとするが、果たしてうまくいくだろうか。姉妹もその家族も問題だらけである。

 物語に大きな起伏はなく、むしろ調査員としての活動と日常生活のなかでの問題を一つ一つ取り上げていく展開になっている。ヒロインと周囲の人間たちはさまざまなトラブルを起こし、それを何となく(時間の流れのなかで)克服している。だから、映画の展開が舞台になっているホテルの様子を眺めることを邪魔していないのである。当方、5つ星ホテルに泊まったことはなく、テレビの海外旅行の番組でお目にかかるだけであるから、その意味では眼を楽しませてもらえる。そのうえ、大都市と観光地のホテルの配合が絶妙に思われる。

 それでも、ゆっくりホテルでの朝食や夜の時間を楽しめずに、いちいちサーヴィスを点検しているのは心が休まらないだろうなぁとヒロインに同情してしまうところがある。安いホテルに泊まってものんびり過ごせる方がいいと思うのは、私が貧乏性だからであろうか。そういう意味では映画の幕切れはヒロインへのいたわりと解釈できる(どういう結末になっているのかは、見てのお楽しみである)。

神野志隆光『古事記とはなにか 天皇の世界の物語』(3)

2月12日(水)曇り

 この書物の第1編「世界の物語としての神話」では、『古事記』には、今日の日本の原型である葦原中国という世界が高天原の神のもとに成立してきたかが記されているという議論が展開された。第2編「天皇の正当性の論理」では高天原から降った神の血統を受けた天皇が葦原中国の正当な支配者であるということが論じられる。

 第2編第1章「正統性を保障するアマテラス」はこの正統性をめぐる神話のなかでのアマテラスの役割を論じている。イザナミが死んだ後もイザナキは神々を成らせる。黄泉国から逃げ還った後に禊をしてまた神々が成る。その禊によって成った神の最後に、アマテラス・ツクヨミ・スサノヲのいわゆる三貴子が出現する。このなかでアマテラスとスサノヲはその名前に実質・実体を指す語を含んでいない。スサノヲは「荒れすさぶもの」、アマテラスは「至高性を負うもの」として対極をなすものであることが神名にあらわれていると著者は説く(異論はあるかもしれない)。この三貴子を得て大いに喜んだイザナキはそれぞれに高天原、夜の食国(をすくに)、海原を分治させる。ところで、それぞれが統治する世界から葦原中国は除かれている。これは未完成の状態にあるから統治者を定めないのであると論じられている。葦原中国の完成にはアマテラスとスサノヲの関与が必要とされるのである。

 この書物は読者が『古事記』を読んでいる、あるいは一定の知識を持っていることを前提として書かれているために、物語のあらすじなどひどく簡単に語られているが、アマテラスに対して異心がないことを示すためにスサノヲはアマテラスとの間でウケヒをする。スサノヲが勝ったことで調子にのって暴れまくるので、アマテラスがイハヤにこもる。神々が相談してアマテラスをイハトから引き出してふたたび支配者の地位につけ、スサノヲを追放する。彼は出雲に降りヤマタノヲロチを退治する。一連の物語のなかでウケヒによってアマテラスがオシホミミという男神を自分の子として得、それが天に属することになったことを著者は重視する。オシホミミの子がニニギであり、葦原中国の正統な支配者となるのである。ヤマタノヲロチ退治の物語はスサノヲの力の巨大さを物語るとともに、その血統をひく神が葦原中国を完成させることを示す。

 アマテラスはオシホミミこそ葦原中国を支配すべきだと考えて、大国主に国を譲らせようとする。オシホミミは葦原中国の様子が騒がしいといって戻ってくる。そこで神々が相談して使者の神を派遣するがうまくいかず、タケミカヅチが出かけることになる。大国主は自分の子の事代主が答えるでしょうと言い、その事代主は葦原中国を献上すると誓う。次に最初は反抗的であったが服属した次男のタケミナカタに事代主のことばに背かないことを誓わせ、改めて大国主にそれを確認させる。誓言を向けるようにさせることとしてのコトムケがなされたことにより、アマテラスの子孫である神が葦原中国を所有することが可能になる。こうしてオシホミミの子であるニニギが高天原から葦原中国に降ることになる。国譲り・降臨という一連の神話を通じてアマテラスの役割は正統性の根源となるということである。『日本書紀』においてはニニギが天から下るにあたってアマテラスは何の役割も演じないと著者は指摘している。「『古事記』においてのみ皇祖神アマテラスということができるのである」(187ページ)。ただし『古事記』においてもアマテラスがタカミムスヒに支えられ、導かれていることも見逃すことができないと著者は注記している。

 第2章「古代神話の多元性と『古事記』」は『古事記』と『日本書紀』(とその他の神話テキスト)の異質さの検討を通じて多元的な神話が、多元的にまとめられていく過程をたどろうとしている。『古事記』上巻は葦原中国が高天原と天の神々の意向を受けて形成され、その帰属を決定される過程を語る物語であり、世界としての関心の対象となっているのはあくまで葦原中国なのだと著者はいう。また天地の世界と神々の所属について柔軟に見ていく必要があると論じている点が注目される(柔軟というよりも、いい加減といった方がいいのかもしれない)。さらに「近年デュメジルの影響下で、神族としての天つ神・国つ神を祭祀・戦闘機能と生産機能との分担という点から論じる、吉田敦彦『日本神話の源流』、大林太良『日本神話の構造』のような論議があるが」(197ページ)、『古事記』における神々の実際の描かれ方に則して承服しがたい議論であると述べているのは、興味ある点でわたしなりにも吉田や大林の書物に目を通して論じてみたい。(そもそもデュメジルはインド=ヨーロッパ語族の世界のなかで3機能論を展開しているので、それが普遍的なものであると入っていないはずであるが・・・)

 これに対して『日本書紀』は陰陽二元論によって世界の物語を語ろうとしている。何よりも重要なのは『日本書紀』には高天原という天の世界がないことである。「高天原という天上世界をもつ『古事記』の神話的世界に対して、『日本書紀』には高天原がない。『日本書紀』は、高天原をもつことなく、自らの神話的物語の全体を成り立たせているのである」(204ページ)。「イザナミは死ぬことなく、どこまでも陽神イザナキ、陰神イザナミの相和するところで世界は生成される」((207ページ)。

 「『古事記』の神話的物語と、『日本書紀』のそれとは別個な神話としてみるべきだ」(213ページ)というのが著者の見解である。「『古事記』と『日本書紀』とは、2つのテキストによる2つの神話というべきである」(216ページ)とも論じられている。『古事記』はムスヒの働きによって世界の成り立ちを説明し、『日本書紀』は陰陽二元論に依拠することによって世界の物語を語った。『古事記』『日本書紀』が作成された時代は天皇の神格化が進められた時代であったが、それはさまざまなやり方でなされたのであって、一元的に理解されるべきではないというのである。

 理解しにくいところは適当に省いたりして紹介したので、分かりにくいかもしれないが、『古事記』と『日本書紀』は異質の神話を語っているというのが神野志さんの意見である。今回触れた個所には記紀とは別の神話テキストである『古語拾遺』についての言及も見られていることも付け加えておこう。

日記抄(2月5日~11日)

2月11日(火)曇り(ところによっては雪が降っているようである)

 2月5日から本日にかけてしたこと、考えたことなどの断片:

2月5日
 NHKBSプレミアムでヘンリー・ハサウェイ監督ジョン・ウェイン主演の『サーカスの世界』を放送していた。アメリカのウェスタン・ショーの一座がヨーロッパで興行をする。リタ・ヘイワースとクラウディア・カルディナーレが共演。カルディナーレは2月15日から上映予定の『家族の灯り』など、現在でも活躍しているが若いころの作品を見直してみたいというのが正直なところ。1970年に大阪で日本万国博に合わせて開かれた国際映画祭の開会式にカルディナーレが来ていたのを思い出す。『家族の灯り』で共演するジャンヌ・モローもこのときに来日したのだが、開会式には出ずにフランス館で開かれたフランス映画の特集上映の会場にだけ姿を見せたと記憶する。開会式にはフランソワ・トリュフォーが出席していたのである。

 テレビ朝日の「マツコ&有吉の怒り新党」で遠まわしにものをいう人に腹が立つという話題が取り上げられていた。あまりあけすけなもののいい方は無用な摩擦を生むかもしれないが、あまりに婉曲な表現も腹が立つ。このこととは別に、出来るだけ直接にものを言わず、誰か他人を迂回して自分の意見を伝えようとする人がいるが、これも時と場合によって予期したのと違う結果を生むことがある。自分では想像できないような人間関係が他人同士の間で展開しているかもしれないのである。

 同じ番組の後半で取り上げられた「本当に泊まれるかドキドキする宿」3軒の紹介が面白かった。

2月6日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編"Bon voyage, Manon!~大阪・京都・奈良~"で節分と豆まきの話題が取り上げられていて、haricotは「インゲンマメ」のことだが、豆の代表として使われることもあると説明されていた。英語でもharicotという単語は使うが、英国の朝食の皿を賑わわせているbeansをわざわざ「インゲンマメ」と訳す人もいる(たしかにその通りかもしれないが、ここは「豆」とか「ビーンズ」とか訳しておけばいいのではなかろうか)。

 テレビ朝日「世界の車窓から」ではポーランドを旅行しているが、町のあちこちに小さな妖精の像が置かれているヴロツワフ市の紹介が印象に残った。社会主義体制に抗議する学生たちが像を置きはじめたのだが、今でも新しい像が増えているという。妖精たちの表情が江戸時代の木喰上人が彫った仏像に似ているような気がした。

2月7日
 NHKの「首都圏ネットワーク」で横浜の洪福寺松原商店街が取り上げられていた。相鉄の天王町駅の近くである。昔天王町にあった映画館に時々出かけたことを思い出した。

2月8日
 昔話研究の古典的な名著であるプロップの『魔法昔話の起源』(斎藤君子訳、せりか書房)をぼちぼちと読み進んでいる。『古事記』にでてくるオホアナムヂがスセリビメの助けを借りてスサノヲから与えられた試練を乗り越えていく説話も「魔法昔話」の一種であろうと考えている。

2月11日
 ドラえもんルーム編『藤子・F・不二雄の発想術』を読み終える。『西遊記』と『アラビアン・ナイト』が好きだというのはわたしと共通する趣味である。藤子・F・不二雄さんの場合はそこからマンガの創作へと向かっていったのだが、わたしの場合はあくまで趣味として説話研究を続けているということである。
   

若き日の啄木 雲は天才である

2月10日(月)晴れたり曇ったり、まだ雪が残っている

 神保町シアターで中川信夫(1905-1984)が1954年に新東宝で撮った『若き日の啄木 雲は天才である』を見た。中川は怪談映画の名手として知られるが、時代劇、喜劇、文芸映画など他のジャンルにおいても注目すべき作品を残している。この作品は文芸ものに属し、石川啄木が故郷渋民村での代用教員生活としての職を追われ、北海道で新聞記者として過ごした日々を描く伝記映画である(彼の小説『雲は天才である』を映画化したものではない)。

 新しい文学の創造を目指す啄木は中央の文壇にその作品がなかなか認められず、悶々とした日々を過ごしている。新体詩、短歌、小説とさまざまなジャンルの作品に取り組むがなかなか思うような作品が書けない。作品を書くとどうしても既成文壇のなかの人物を攻撃してしまい、それがあだになって没書されることになる。身過ぎのために就職しても周囲の人々と衝突することが多い。教師としては熱心のあまりに周囲の批判を浴びてしまうし、記者としてはたとえ身内であっても不正を見逃さない態度が孤立を招く。妻は彼の可能性を信じているが、彼女以外の家族の視線は複雑であり、ときに冷たい。彼の才能を信じる友人にすがって転々とする啄木だが、理解者に出会うこともあり、釧路では記者として出世の道が開けそうになる。しかし、記者としての成功は文学者としての可能性を閉ざすことになるかもしれない。

 地方の都市に埋もれるにはもったいないような芸術家としての可能性を感じさせる青年啄木に好意を寄せる女性たちもあらわれる。しかし彼には妻子がある。そういう芸術家をめぐる愛情のもつれという点ではジャック・ベッケルが画家モディリアニの生涯を描いた『モンパルナスの灯』をちょっと連想させるところがあるが、こちらの方がロケーションによって作られた部分が多いようである。この映画が製作された時代には、まだ明治時代の面影を残す風景があちこちに残っていたようで、啄木の生活の様子が違和感を感じることなく再現されているように思われる。東北の農村も、北海道の町も、蒸気機関車も汽船も啄木の時代の面影を宿しているようである。1950年代にはまだランプは近い過去の記憶であったし、火鉢はまだまだ現役であった。

 最後まで映画についての情熱を燃やし続けた中川はその一方で、詩を書き続け、若い頃に抱いた小説への夢を忘れない人物でもあった。彼の文学への夢が啄木への感情移入となってこの作品に結実しているように思われる。とはいうものの、この映画にとって不幸なことは、この作品がつくられた時代に比べて、現代では啄木の評価が少し下がってきているように思われることである。たぶん、現代人は豊かになった分、啄木の世界から遠ざかり、彼の作品の価値を忘れかけている。そしてそのことは、1950年代にはまだ残っていた明治の風景が、現在では探すのが困難になっていることと無縁ではない。もちろん、生活が便利になり豊かになるのはいいことには違いないが、啄木の世界をあらためて探索し直すことも意味のあることだろうと思った次第である。 

神野志隆光『古事記とはなにか 天皇の世界の物語』(2)

2月9日(日)晴れ

 首都圏は45年ぶりの大雪だそうである。ソチの冬季オリンピックでは日本選手が健闘。しかし外国選手も健闘している。みんな全力で競技しているので、こちらの思惑通りにすべてが運ぶわけではない。とにかく応援しよう。

 昨日に続いて神野志隆光『古事記とはなにか 天皇の世界の物語』を取り上げる。第1編第2章「世界の成り立ちの物語」に進んでいよいよ『古事記』の本文が分析されはじめる。「『古事記』の神話的世界は、世界の成り立ちを語ることから始まる。その語りはじめをどのように読むかに『古事記』の理解がかかっている」(68ページ)と著者は記す。冒頭部分はほとんど神の名を列挙するだけのようなものであるが、これが『古事記』の世界を語ることの始まりなのである。

 本居宣長は『古事記伝』においてこの冒頭部分を天と地の成り立ちを語るものであると宇宙論(コスモロジー)的に解釈した。この見解には見るべきものがあるとしながらも、著者は別の読み方を提案する。冒頭の「天地初発之時、於高天原」についてアメノミナカヌシ~イザナミに至る神々の全体が「高天原」になったと受け取るべきであると著者は説く。天地となって世界が動き始めた。その初めに、天の世界に神々があらわれたというのが冒頭の部分の語るところであるという。高天原は既にあるものであり、そこに神々があらわれたことが語られているというのである。したがって、「はじめに高天原があり、『国」は『ただよ』っている、その高天原に神々があらわれて『国」を世界として成り立たせていく――これが『古事記』の語る世界のはじまりなのである。高天原という天の世界を基点とする世界像であり、それを見定めることが、『古事記』の読み出しとしての核心だと考える」(82ページ)と著者は論じている。これに対して『日本書紀』は渾沌から陰陽分かれて天地となったという陰陽論の世界像を展開している。『古事記』とは全く別の世界像が示されているのである。

 天と地が動き始めた時、天の世界=高天原に神々があらわれた。『古事記』冒頭部分はほとんど神々の名前の列挙に終わっているが、神々はその名前によって何を語っているのか。冒頭に登場する神々は「独神隠身」とされる神々と、そうでない神々に大きく分けられる。「独神隠神」のうち最初のアメノミナカミヌシは天の世界の中心をつかさどる神であり、次のタカミムスヒ、カミムスヒについてみるとムスヒ(生成の霊力)の神であり、生成の霊力の次に生成の場としてトコタチが出現する。まずアメノトコタチ、続いて「国」への働きをもつ神々生成の場としてクニノトコタチがあらわれ、その後さらに男女神としての体を備えたイザナキ・イザナミが出現する。ムスヒの神は冒頭部分だけでなく、その後の神話の展開でも登場し、神々に指示を与えている。『古事記』ではムスヒの働きが重視されているのに対し、『日本書紀』では天の世界は絶対的ではなく、命令を与える天神はいない。イザナキ・イザナミは、自発的に共同して国生みを始める。「ムスヒの導くところで、『国』にかかわるという性格を負うて高天原にあらわれたイザナキ・イザナミと(『古事記』)、陰陽の作用のなかで、陰陽神として『天地の中』にあらわれたイザナキ・イザナミと(『日本書紀』)であり、二神によって地上世界の成り立ちを語る神話的物語は、根本的に、世界像的に異なるのである」(101ページ)と著者は2つの書物の世界像を区別する。

 第3章「世界の生成――「修理固成」の物語」では、「イザナキ・イザナミの物語」、「黄泉国の話」、「大国主神による国作りの完成」の3つの考察により地上世界が生成される過程をたどっている。イザナキ・イザナミは天つ神の命を受けて『ただよへる」だけの地上を世界にしようとする。著者は「修理固成」の字義の考察から、天つ神には既にあるべき地上の姿が構想されていて、イザナキ・イザナミはその実現のために派遣されたのであると論じている。国作りの過程でイザナミが死んでしまうために、国作りは未完成の状態に終わる。

 未完成のままの国作りを続行させるためにイザナキはイザナミを追って黄泉に出かける。黄泉は地下の世界であるという理解が一般的であるが、著者は黄泉も葦原中国も地上世界であると論じる。それだけでなく、黄泉国とのかかわりで葦原中国という呼び方が出現したことに注目する。「他の世界とのかかわりをもって、世界としての性格が明確にあらわし出されたのだということができよう」(120ページ)。

 イザナキ・イザナミによって完成されなかった国作りを完成させたのは大国主神である。『古事記』における大国主神の物語は3つの部分に分けられる。
(1)オホアナムヂから「大国主」へと成長する物語
(2)ヤチホコノ神の歌謡物語
(3)オホクニヌシの国作りの物語
 はじめにオホアナムヂと呼ばれて登場する若い神が試練を経て国作りをになうべき「大国主」となる。この過程でカミムスヒが関与している点に著者は注目している。高天原のカミムスヒの力が葦原中国に働き続けているのである。根之堅州国のスサノヲを訪問し、自分の祖先であるその神の巨大な力を呼び込んだオホアナムヂは大国主となり、国作りの完成を果たしうる偉大な神となった。オホクニヌシはヤチホコノ神と呼ばれ、ヌナカハヒメおよびスセリビメと歌を詠み交わす。古代においては「色好み」であることが徳と考えられていたのであり、多彩な恋愛関係を破たんなく展開できることがオホクニヌシの偉大さの証明となる。

 大国主は八十神を逐って「始めて国を作」ったのに続き、スクナビコナと協力して「国を作り堅め」、さらに御諸山の神とともに「相作り成」した。大国主が完成させたのは葦原中国という世界であり、それは天皇の世界の神話的根源となるものであった。

 こうして完成された葦原中国を誰が支配することになるのか、第2編ではその支配の正当性をめぐる問題が論じられることになる。これでこの書物のだいたい3分の1を読んだことになるが、『古事記』という書物が単なる説話の寄せ集めではなく、しっかりとした意図をもって構成された書物であり、それぞれの部分に全体を支える意味があることがよくわかった。

神野志隆光『古事記とはなにか 天皇の世界の物語』

2月8日(土)雪

 ロシアのソチで冬季オリンピックが開幕。晴天のもとで開会式と競技が行われているのに対して、こちらは雪に見舞われている。

 2月7日、神野志隆光『古事記とはなにか 天皇の世界の物語』を読み終える。1995年に『古事記』として日本放送出版協会から発行された書物を文庫化したものである。著者による長年の研究を一般の読者にわかるようにまとめたというのだが、1月4日に購入してから1カ月以上の時間をかけて読み終えることになった。簡単にまとめると、『古事記』はどのような事情のもとでどのような意図をもって書かれたかについて問うた書物であり、その問いに答えて、この書物は「天皇の世界の物語」であると論じている。では、「天皇の世界の物語」とはどういうことなのか?

 『古事記』をどのように読むか、日本文学史上もっとも古い作品であるから、この書物をめぐって多くの研究が積み重ねられてきた。そのような研究のなかで有力なのは、「たとえば、神話の場合、元来の共同体的社会において生きた神話がもとにあり、それが政治的に体系化され、さらに高度に政治化体系化されて『古事記』となった」(3ページ)とするような発展段階的な理解であるが、著者はこの見解に対して批判の目を向ける。もともとまとまった形の神話があって、それが『古事記』に利用されたのではなくて、ある全体を目指して『古事記』が書き進められるなかで個々の物語が意味をもつようになったというのである。

 書物は
序章『古事記』の成り立ち
第1編 世界の物語としての神話
 第1章 『古事記』神話への視点
 第2章 世界の成り立ちの物語
 第3章 世界の生成――「修理固成」の物語
第2編 天皇の正当性の論理
 第1章 正統性を保障するアマテラス
 第2章 古代神話の多元性と『古事記』
第3編 天皇の物語
 第1章 大八島国の秩序化と朝鮮半島に及ぶ「天下」
 第2章 めでたく満ち足りた「天下」
 第3章 悲劇の主人公たち
という構成をとっている。今回は第1編の第1章までを取り上げることにしたい。

 「序章『古事記』の成り立ち」では『古事記』の成立をめぐる問題が論じられている。『古事記』の成立の事情については、その時代の正史である『続日本紀』には何も記載がなく、『古事記』の序文が語っているのみである。この序文について、著者はこれが太安万侶によって書かれたことは信頼してよいと論じる。しかし、その内容については疑う余地があるという。太安万侶は『古事記』の編纂に天武天皇が直接に関わり、かつそれが決定的な重みをもつものであったという。しかし『古事記』が書かれた時代には、天武天皇を神格化する時代精神があったと著者は論じる。この時代精神のなかにあった安万侶が天武天皇の決定的な関与を書き記しているからといって、それをそのまま受け入れるわけにはいかないという。

 もう1つ著者が強調するのは、太安万侶が『古事記』を書くことは、それが文章体としての『古事記』をはじめて成り立たせる営みだったということである。訓を主体とし、日本語として読まれ、理解されることを意図して書かれた文章が、安万侶を通じてはじめて実現されたということである。「今の『古事記』の内実は、安万侶の創ったもの(文字表現)においてはじめてできた」(25ページ)と著者は考えている。

 『古事記』成立の背景として著者が重視するのはこの時代までの中国とのかかわりである。倭の国家としての形成は中国王朝を中心とする東アジア世界のなかで進行したものであり、倭の支配者たちは中国王朝に朝貢して王に任じられるという冊封を国内における自己の権威づけのために利用していたのが、倭の五王時代になると朝鮮半島における倭国の地位を強化することが目的となる。しかし冊封関係は7世紀以降の隋や唐に対しては認められなくなる。中国に対し対等の立場を取ろうとし、中国の「天下」の一部として自国を位置づけるのではなくて、自分たちが独自の「天下」を形成しているのだという態度をとるようになる。『古事記』『日本書紀』は東アジアの独立した小帝国としての国家形成と一体のものであり、天皇が支配するそのような世界を内的に支えるものとして書かれたのであると著者はいう。天皇の世界としての『日本』の完成は、制度の輸入だけでなく、制度とともに自分たちの世界を内側から支えるアイデンティティーの確立が必要である。そしてそれは文字のレベルで求められるものである。「日本語文であり、したがって訓読されるべき『古事記』と、・・・中国語文(漢文)である『日本書紀』が並立することは、文字のありよう・・・と対応する」(44ページ)。

 第1編第1章では「『古事記』神話への視点」として、『古事記』のなかの神話的な部分を見ていくが、ここで既に述べたように発展段階論的な神話把握の方法が批判される。著者が強調するのは、『古事記』『日本書紀』をそれぞれ別個な作品として把握することである。

 例えば『古事記』の神話は「人間のはじめ」については語っていない。著者は追求されるべきであるのは「『古事記』が人間のはじめについてふれることなく、地上の、世界としての成り立ちを語ることの意味であ」(57ページ)るという。『古事記』はあくまで天皇の世界の根源として、天皇につながるものとしての神の世界を語るものなのであると論じる。さらに黄泉国の話が一般的に死者や詩をめぐる神話として見られるべきではないという議論を展開する。そして『古事記』はあくまで天皇につながる神の世界の物語として読みとおすべきだということを力説してこの章を終えている。

 これまでの議論は方法論的なものが多いが、津田左右吉による文献批判、三品彰英による要素的な比較などの従来からの研究を批判しながら著者は独自の議論を展開しており、読み応えがある。これから、何回かに分けて残りの部分を紹介していきたいと考えている。 

アメリカの影

2月7日(金)晴れ

 渋谷のユーロスペースで「映画祭 チェコアニメのすべて」のなかからイジー・トルンカ監督の『チェコの古代伝説』(1952)、その後オーディトリウム渋谷で「ジョン・カサヴェテス レトロスペクティヴ」特集上映から『アメリカの影』(Shadows,1959)を見た。特集上映の最終日になって1作品だけを見たというフットワークの悪さは自慢できるものではないが、それぞれ映画史上記念すべき作品を見たことで多少の補いにはなるだろう。前者は人形アニメの巨匠トルンカがチェコの建国に関わる伝説を描いた大作で、戦乱をさけて平和な土地に移り住んだ人々がであうさまざまな出来事が描かれている。人形たちの見せる多彩な表情が強い印象を残した反面で、物語になじみがなく、説明が中途半端で(チェコ人にはわかっていることだから省いたということだろうが)どうもわかりにくさが残った。

 ジョン・カサヴェテスの監督作品を見るのは実はこれが初めてである。俳優としての彼はポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』のローズマリーの夫役とか、親友であったピーター・フォークの人気シリーズ『刑事コロンボ』の犯人役とか、何度か見かけてきた。彼がニューヨークを中心として独立系の映画作家として活動してきたという知識は持っていたが、やっとその作品を見ることができたということである。

 『アメリカの影』はマンハッタンに暮らす3人兄弟の日常を中心にその周辺の出来事を即興的な演出で描き出している。あらかじめ決められた筋書きなしに映画がつくられたというが、どの程度信じていいのかは分からない。長兄はあまり売れない歌手で仕事のために地方に出かけたり、気の進まない司会の仕事までさせられたりしている。次兄は長兄に金をせびってはその金でビールを飲んだり、女性を追いかけたりしてその日暮らしを続けている。末の妹は20歳になったばかりで画家を自称しているが、小説も書いているらしく、要するに芸術家気取りである。問題はこの3人の兄弟の父親と母親は姿を見せないけれども、どちらかが白人でどちらかが黒人だということである。長兄は色が黒く、あとの2人は白い。そのため周辺の人々との人間関係は微妙である。

 物語のなかで末の妹が白人の青年と仲がよくなり、彼女が遠まわしに深入りを避けようとしているのに青年が気づかず、一夜を過ごした後でやっと事態に気付き、騒ぎが起きる。長兄だけが事件を収拾しようとして、次兄を遠ざけるのだが、それを彼は面白く思わない。結局次兄も役割を果たすことになる。が、問題が解決したかどうかは疑問である。長兄は仕事のためシカゴに旅立ち、次兄は女性の取り合いをきっかけとする乱闘で傷ついて自分の生活を変えようとする。だが、彼らが直面する現実は厳しいままであろう。

 おそらくは映画の大部分がロケーションで撮影され、演出は即興的、若者たちの生活が現実に近い形で再現されている。ハッピー・エンドにも、悲劇的な幕切れにもならず、結末はいわば保留された形になる。映画の主題においても手法においても、その後の新しい映画の方向を開いた作品である。と同時に、やや控えめな形でではあるが、人種問題についても観客の目を向けさせようとしている点も注目される。オーディトリウム渋谷での上映は7日で終わりになるが、機会を見てカサヴェテスの作品を追いかけてみていこうと思う。

白洲正子『ものを創る』

2月7日(木)曇り

 白洲正子『ものを創る』(新潮文庫、2013)を読む。1973(昭和48)年に読売新聞社から単行本として発行され田書物であるが、2001(平成13)年に新潮社から刊行された『白洲正子全集 第5巻』をもとに文庫化されたもので、著者の娘である牧山桂子さんが「文庫刊行によせて」という文章を巻末に書きくわえているのが書物を理解する上で貴重な手掛かりとなる。

 <ものを創る>という。「創る」という文字が使われているのは大量生産による日常品づくりよりも、手作りの創造的な作業が念頭に置かれているのであろう。実際、「人と芸術」という章に北大路魯山人、浜田庄司、井上八千代、梅若實、吾妻徳穂、笹部新太郎、梅原龍三郎、「人ともの」に広田熙、青山二郎、細川護立、安田靫彦、鳥海青児、「人と作品」に黒田辰秋が著者自身による交流の体験を軸にして語られている。「ものを創る」というだけでなく、舞踊や演技、美術や工芸品の収集も視野に入れられている。その中には当時も今も有名な人々、当時は有名だったが今は忘れられかけている人、そして当時も今も有名でない人々が見出される。当時は無名であって現在評価が高くなっている人が見かけられないように思うのは、私だけのことであろうか。

 しかし、その人間像が詳しく、また親しみをこめて描かれているのは大阪の古い名家に生まれながら家財を蕩尽して桜の在来品種の保存に努めた笹部新太郎とか、京都育ちの木工作家で柳宗悦の民芸運動に参加した1人である黒田辰秋などあまり有名とはいえない人々である。笹部はいう:「版に上(のぼ)すことを・・・日本の国学者は、『桜木に上す』という。版木に桜の材を使ったからです。その他、双六の盤、鼓の胴、いい表具屋の定規は、みんな桜です」(75ページ)。もちろん、有名人の逸話がつまらないというわけではない。京舞の井上八千代が踊りを教えるやり方の描写などびっくりさせられる。直接に接触したことのある人間だけが知りうる具体的な事柄がふんだんに盛り込まれているのがこの書物の特色である。

 芸術は芸術自体のためのものか、それとも生活のためのものかという論争がある。生活のための芸術ではなくて、生活の芸術化こそが目指すべきものだという考えもある。生活のための芸術という場合に、生活の中身も問題にする必要がある。富豪の生活も生活であり、労働者の生活も生活である。その意味では白洲正子の立場は微妙なものであるといわざるを得ない。牧山さんによると母である「正子の口癖は、器は高価なものでも使わなければ意味がないというものでしたが、本音は少々違い、食器などは自分で洗ったりしないせいか、自分の大事にしている器を頻繁に食卓にのせることはありませんでした」(242ページ)ということである。それでも多くの作家のもとに足を運び、その業績を知らせ、伝えようとした白洲の努力には敬意を払う必要があるだろう。

 とはいうものの、読み終えてみると黒田辰秋の次の言葉が一番印象に残る:「古来、本当にいいものは、創作の上に立っている。それも自分だけではなく、周囲の条件がそれをなさしめた。個人の力なんて知れたものです」(208ページ)。

ウィルキー・コリンズ『月長石』(25)

2月5日(水)晴れ

 1848年の6月にヨークシャーのヴェリンダー家の令嬢レイチェルの部屋から月長石と呼ばれる黄色いダイヤモンドが紛失してから1年がたとうとしている。この宝石はハーンカスル大佐がインドで不法な行為によって入手したものだという噂があったが、彼の遺言でレイチェルに贈られたのである。レイチェルの従兄で求婚者でもあるフランクリンはこの宝石の運び手であり、事件の後にはその解決の為にロンドンからカッフ部長刑事を呼び寄せるなど奔走したにもかかわらず、レイチェルの態度が急変したことに衝撃を受け、英国を去っていた。

 翌年の春、英国に戻ってきたフランクリンはレイチェルの自分に対する冷たい態度を解くためにも改めて事件の真相を解明しようとして、ヨークシャーを訪れる。そして邸の留守番をしている執事のベタレッジから、事件のあと自殺したロザンナ・スピアマンが友人であった漁師の娘ルーシーがロザンナからフランクリンにあてて書いた手紙を預かっていると聞く。

 ヴェリンダー邸に近いハザーストンの農園で一夜を過ごしたフランクリンは、翌朝早くベタレッジと落ち合うためにヴェリンダー邸に向かう。2人は事件の真相を突き止めたいという「探偵熱」にせきたてられて、海岸の漁村コブズホールに住む猟師のヨーランドのもとを訪れる。ヨーランドのおかみさんは2人を歓待しようとするが、足に障害を抱え粗野でやつれた感じがするルーシーは好奇心と恐れの混じった表情を浮かべてフランクリンを見つめる。

 ベタレッジからフランクリンの名を聞いたルーシーは、いきなり部屋を出て、海岸に急ぎ、斜面を下って子船の陰でフランクリンの表情を見つめ、嫌悪の言葉を口にする。ロザンナの親友であったルーシーは、ロザンナから彼女のフランクリンへの思いを聞き、フランクリンの為にロザンナが死んだと思っている。「ああ、ロザンナ、あんた、こんな男のどこがよかったのよ?」(中村訳、502ページ) さらに彼女はフランクリンに彼女がロザンナにしたことについて良心が痛まないのかとも詰問し、フランクリンが何も感じないと答えるとロザンナから預かった手紙を文字通り彼に投げつけて、足早に立ち去っていく。

 ロザンナが残した封筒のなかには手紙と紙片とが入っていた。手紙にはヴェリンダー家にフランクリンが滞在中に彼がロザンナに対して奇妙に感じたことの理由を知りたければ紙片の指示に従って自分が隠したあるものを手に入れてほしいと記されており、紙片には具体的な指示が書かれていた。

 フランクリンは紙片の指示に従って一人で海岸に赴き、海中を探して漆塗りの錫箱を引き上げる。箱のなかには白いものがいっぱいに押し込めてあり、それはリンネルの布であった。そしてその布のなかにはフランクリン宛の手紙が入っていた。彼はリンネルを海岸の乾いた砂の上に運び、それを広げてしわをのばした。それはナイトガウンであった。彼が裏側を返してみると、レイチェルの部屋のドアに塗られたペンキの汚点がついていた。

 汚点のついたナイトガウンが事件の鍵を握るというカッフ部長刑事の言葉を思い出した彼は、そのナイトガウンがだれのものか、ガウンに書かれえている名前を探す。そこにはフランクリン自身の名前が書かれていた! 「ペンキの汚点という動かぬ証拠によって、私は私自身が泥棒であることを発見したのである」(511ページ)。原文ではAnd, on the unanswerable evidence of the paint-stain, I had discovered Myself as the Thief.(Penguin Popular Classics, p.310)

 前回、この作品では「階級」が事件の解明と大きなかかわりを持っていると書いたが、フランクリンとルーシーの対面は物語のそこを流れている階級的な対立のもっともはっきりと表れている場面である。フランクリンは比較的分け隔てなく誰にでも親切にふるまう人間で、したがってヴェリンダー家の若い女性の使用人たちに人気があるが、人気が別のものに変わったときに、階級の壁が越えることのできない障壁となるはずである。フランクリンはルーシーと出会って「私という存在が、娘の心に、激しい憎悪と嫌悪の気持ちをかきたてたのだ。私はこれまでに、女性からこのような目で見られたことはない」(502ページ)という経験をする。

 ペンキの汚点のついたナイトガウンの発見で宝石の紛失とレイチェルの不可解な態度の両方の謎が解けたように思われる。しかし、まだ謎は残っている。ロザンナはフランクリンに何を書き遺したのだろうか。その内容については次回に。

日記抄(1月29日~2月4日)

2月4日(火)曇り後雨、昨日に比べて寒い

 1月29日から本日までの間にしたこと、考えたことなどを手短にまとめてみた:

1月29日
 テレビ朝日の「マツコ&有吉の怒り新党」で「何でもかんでも『個性』って言うな!」という話題が取り上げられていた。人間1人1人がそれぞれ独自の存在だという意味での個性と、強い個性をもった人物の存在を強調していう場合の個性とが混乱して使われているという事情があるように思う。個性について語る時、自分はどういう意味でこの言葉を使うかをはっきりさせる必要がありそうだ。

1月30日
 NHKテレビの「クローズアップ現代」で東大紛争とその結果としての1969年度の入試中止について、当時紛争の収拾にあたった加藤一郎学長代行とその補佐役を務めた教官たちが、事態の推移について振り返って行った座談会の記録の内容が紹介された。見ごたえのある内容であったが、番組がちょっと不可解な終わり方をしたのが残念である。自分が大学に勤めていたから見方が甘くなっているかもしれないが、東大の場合大学側に問題解決能力があったにもかかわらず強引に入試を中止させたという印象が残る。

2月1日
 マルチェロ・マストロヤンニとカトリーヌ・ドヌ-ヴがでてくる夢を見た。1970年代の映画で見た時の姿で、懐かしかった。

2月3日
 病院に出かけた帰りに神保町(すずらん通り)の檜画廊で丸木位里・俊展を見る。この画廊で毎年開かれている展覧会で案内のハガキに「今年も新しい作品が見つかりました」と記されている。「原爆の図」で知られるお二人の作品展を開き続け、また作品を発掘し続ける画廊の姿勢に敬意を表したい。

2月4日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」初級編は「百合のFranceウォッチング」の再放送である。百合の姉のさくらはDepuis que je suis à Rennes, je suis très attirée par la musique celtique. (レンヌに来てから、私はケルト音楽にとても惹かれているの)という。昨日の会話ではセシル・コルベル、本日はアラン・スティヴェルとブルターニュの音楽家の名前が出てきた。

 アイルランドと、スコットランド、ウェールズなど英国のなかのケルト文化が強く残る地方は実際に出かけたこともあるし、それなりに知識はあるつもりだが、フランスのブルターニュ地方には出かけたことはないし、知識も貧弱である。ケルト音楽共通の特徴としてハープやバッグパイプなどの楽器の使用が言われていたが、実際に音楽を聴いてみないとつかめない特徴が多い。

少女は自転車にのって

2月3日(月)晴れ、温暖

 岩波ホールでサウジアラビア映画『少女は自転車にのって』を見る。岩波ホールは入場料金が高いのだが、現在の仮住まいから地理的に近く、交通費を考えると割安になるかもしれないという思案もあったが、この作品、高く評価する意見をあちこちで眼にしていたので遅ればせながら見に出かけた次第。

 サウジアラビアの少女ワジダは一人娘で、男の子が欲しい父親と祖母はどうも彼女の母親以外にもう一人の妻を欲しがっているらしい。そういう大人たちの世界を知ってか、知らずにか、ワジダは近所の同年輩の男の子であるアブダラと自転車競走がしたくてたまらない。しかし母親は男の子と遊ぶことにも、自転車を買うことにもいい顔をしない。家庭でも、学校でもワジダは女性がしてはいけないという「決まり」にぶつかっている。しかし、彼女にいろいろな「決まり」を守らせようとする学校の校長先生(女性である)は自分の家にやってきたボーイフレンドを父親には「泥棒が入った」と言い訳しているらしいと生徒たちは噂している。

 ある日、きれいな緑色の自転車を見て、どうしても欲しくなったワジダは、自分で金をためて買おうとする。しかし、自転車代の800リヤルにはなかなか届かない。そんなときに、学校でコーランの暗誦コンテストが行われることになった。優勝賞金は1000リヤル。ワジダは「心がけを入れ替えて」宗教クラブに入部、コンテストに出場して1000リヤルの獲得を目指す…。

 初めて見るサウジアラビア映画である。イスラム教の国ではこれまでイランの映画がかなりの数日本に紹介されてきたし、その中には『オフサイド・ガールズ』のようにこの作品と同様、女性が男性と同じように社会のなかで行動できない不合理が描かれている作品もあった。とはいうものの、イランとサウジアラビアでは文化の違いがあるし(違っているということであって、どちらが優れているとかそういう問題ではない)、この作品はハイファ・アル=マンスール監督が女性としての視点からつくったという点で独自のものである。特に主人公のワジダを演じている少女の表情が自然で、これは演出者が女性だから引き出せた表情ではないかと思われる。さらに言えば、ロング・ショットの多い画面構成が物語の内容に合致しているように思われる。

 ワジダが自転車を買って乗り回したいというのは、見方によってはわがままであるが、男性のわがままは結構認められるのに、女性のわがままは抑圧されるという社会においては、女性がわがままを通そうとすることも社会的な意味を持つ可能性がある。サウジの人々の生活はまだまだコーランとイスラムの戒律によって規制されているようであるが、ある見方からすればわがままに過ぎないような素朴な疑問の蓄積が、そのような規制の根拠を相対化していくかもしれない。イスラムがきわめて多くの人々の導きの原理となっているのは偉大なことではあるが、どんな偉大な事柄にも負の側面はあるし、その点を認めて改善を図ることも必要であろう。そうした変革の可能性を感じさせる映画である。

ネコ

2月2日(日)雨後曇り

 ネコ

ネコを抱き上げて膝に乗せる
子ネコのときと同じように
膝の上でゴロゴロと喉を鳴らす
何度も何度も
膝に乗っけているうちに
ネコもわたしも年をとってきた

昔はもっと軽く
捕まえるのも大変だったが
今では随分落ち着いた
とはいうもののやっぱり軽いし
ふわふわしていて
こちらがちょっと油断すると
すぐに逃げ出そうとする

そしてそのうわふわとして
温かい体のなかに
人間とは別の血が流れ
別の時間が過ぎている

わたしがずいぶん年をとってから
飼いはじめたネコだが
たぶん今の私と
同じくらいの年寄りになっているはずだ

人間の時間と
ネコの時間
重なってはいるが
交わらない時間
ネコを抱きながら
2つの時間について考える

永遠に比べれば
本当にちっぽけな2つの時間
その中の一瞬を
膝の上で
ネコが温めている

小林一郎『「ガード下」の誕生――鉄道と都市の近代史』

2月1日(土)曇り

 1月31日、小林一郎『「ガード下」の誕生――鉄道と都市の近代史』(祥伝社新書、2012)を読む。「ガード下」の生成・変化を手掛かりに鉄道と都市の歴史をたどろうとする書物である。発想も内容もおもしろいが、日本中の「ガード下」を網羅的に取り上げているわけではなく、著者の取材が及んでいないところもあるので、今後の探究の発展を期待したい。そういう期待を込めて内容の紹介と批評を書いていくつもりである。

 「ガード下というと、思い浮かべるのが、赤提灯。店の前の通路にまでテーブルや椅子をせり出すのがガード下流儀で、なんとも食欲をそそる焼き鳥の香りと煙が漂う。ビールケースを逆さにした椅子に寄り添い詰め合って、電車の騒音のなかで、弾んだ声があたりを埋め尽くす――」(10ページ)とこの書物は書きだされている。このような「ガード下」という魅力的な空間は、いつごろ、どのような理由で生まれたのであろうか。

 我が国におけるガード下は、明治から大正にかけて誕生したのだが、それが店舗(飲食、物販)、事務所、住宅、倉庫、駐輪・駐車場などに利用されるようになった経緯については複雑であり、わからないことも多いのが本当のところである。著者の小林さんは建築関係の雑誌編集に携わってきた方で、建築関連の知識を生かしながら「ガード下」の形成についてわかっていることをまとめている。

 著者は「ガード下」を「戦前に誕生したガード下」、「高度経済成長期に誕生したガード下」、「現在進行中のガード下」と歴史的に分類し、まず第1のカテゴリーに属するものを「生命力あふれるウラ町・ガード下」と特徴づけてJR鶴見線国道駅、JR山手線などの新橋駅~有楽町駅、旧万世橋駅、JR山手線などの上野駅~御徒町駅、JR総武線秋葉原駅、JR山手線などの御徒町駅~秋葉原駅、JR総武線浅草橋駅、JR総武線両国駅、京成本線・JR常磐線日暮里駅、JR阪和線美章園駅、JR神戸線元町駅~神戸駅、阪神本線御影駅の駅下、周辺を実地に探査しながらその歴史と現状を描き出している。この部分が書物の約半分を占め、美章園駅ガード下にはミヤコ蝶々が暮らしていた時期があるなどの興味深いエピソードが満載されている。

 「高度経済成長に誕生したガード下」として取り上げられているのは東京メトロ千代田線綾瀬駅(地下鉄の「ガード下」というのは奇妙である)、JR中央線吉祥寺駅の2例であり、どうも少なすぎる。もう少し他の例を探してきてほしかったというのが正直なところである。「新時代に挑むガード下」としてはJR京浜東北線赤羽駅、小田急経堂駅~祖師ヶ谷大蔵駅、JR京葉線舞浜駅、京浜急行線日ノ出町駅~黄金町駅における試みが取り上げられており、ホテル・保育園などへの利用が進められているという。

 「ガード下」を歴史的に3つに分類しているが、その3つについての記述のバランスが悪いの気になる。全体としてJRの駅周辺の「ガード下」に取材が集中しており、もう少し私鉄の事例も拾い上げた方がよかったのではないかという気がする。東急東横線のガード下など変化が激しく、また系列のスーパーが入っていたりするので面白くないと思ったのかもしれないが、沿線に勤務していた経験のあるものとしては1例くらい取り上げてくれてもよかったと思う。それから新橋駅のガード下の新橋文化・ロマンという映画館について取り上げてほしかったというのもつけ加えておこう。わたしの年代だと宮城まり子さんの「ガード下の靴みがき」という歌を思い出すのだが、小林さんはこの歌を知らない世代のようである。

 さらに言うと、この書物では首都圏と阪神地方だけに取材が限定されているが、他の都市ではどうなのか、それぞれの都市をめぐる鉄道の事情、地下鉄網や路面電車網の発展なども視野に入れてさらなる考察を望みたいと思う。繰り返しになるが、興味深い記事が満載されているけれども、さらなる取材によってこれ以上に興味深い多くの記事を探すことができるはずである。
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