2014年の2014を目指して

1月31日(金)晴れ

 昨年2013の「何か」をしたり、探しだしたりしたのに続けて、今年は2014の「何か」をしたり、探し出したりしようと考えている。とはいうものの、年始早々に仮住まいの為の引っ越しをして、落ち着かない気分が続いている。引越し直後は2匹の飼い猫が新しい住みかになじむかを心配していたのだが、どうやら落ち着いてきた様子である。むしろ、私の方が隠れ家的な場所(くつろいで酒を飲んだりして時間を過ごせる場所)を見つけられないまま、不安な気持ちのままうろうろしているというのがほんとうのところである。

 1月は12日を横浜で、19日を東京で過ごした。市区町村で言うと、横浜市、渋谷区、新宿区、千代田区、文京区の5市区町村に足跡を記している。東急、東京メトロ、都営地下鉄の東横線、目黒線、東西線、南北線、半蔵門線、三田線の3社6路線、表参道、渋谷、神保町、反町、白山、本駒込、横浜、早稲田の8駅を利用している。

 31件のブログを投稿した。読書が8件、日記が6件、詩と推理小説がそれぞれ5件、映画が3件、未分類が3件、外国語が1件と言う内訳である。過去のブログを含めて231の拍手、2件の拍手コメントを頂いた。

 紀伊国屋渋谷店、紀伊国屋そごう横浜店、南天堂書房で10冊の本を買い、9冊の本を読んでいる。読んだのは日向ノエミア『悪いけど、日本人じゃないの』、高橋哲雄『ミステリの社会学』、師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』、菊池章太『ユダヤ教キリスト教イスラーム』、南川高志『ローマ五賢帝 『輝ける世紀」の虚像と実像』、佐藤弘夫『鎌倉仏教』、柴山哲也『新京都学派 知のフロンティアに挑んだ学者たち』、田澤耕『<辞書屋>列伝』、加島祥造『わたしが人生について語るなら』である。今日中にもう1冊を読んで10冊にしたいが、さてどうなるか。

 映画は神保町シアターで『夫婦善哉』、シアターイメージフォーラムで『ほとりの朔子』を見た。

 フランス語の時間を19回、イタリア語の時間もやはり19回聴いている。引っ越しでそれぞれの1回分を聴き逃している。1月から両方とも応用編の番組が変わり、少し難しくなったのでやや学習意欲が衰えている。別の学習方法を考えるべきかもしれない。

 ノートを3冊、万年筆のカートリッジ(ウォーターマン)を5本、同じくカートリッジ(パイロット)を1本使い切った。

 寒中見舞いその他の私信を12通受け取っている。

 酒を飲まなかった日がこれまでのところ15日ある。今日飲むか、飲まないかはまだわからないが、飲まなければさらに1日増える。

 昨年はブログの拍手を算入することで2013年の2013を達成できたが、今年はブログの拍手そのものが年間で2014を超えそうな勢いなので、別の項目をどんどん加えていく必要がある。例年だと見に出かけた全国高校サッカー選手権を今年は見に行けなかったりした事情もあるが、何をどこまで数えていくか、数えようと思っていても見逃したり、忘れたりする事柄もでてくるのでなかなか難しい。

 昨日の当ブログ「森鴎外とデモクラシー」で辰野が鴎外のもとに一緒に出かけたと記している山田珠樹は東大の仏文の教師の1人であったが、一時期鴎外の女婿であったことも付け加えておくべきであった。

 さらにその前の「日記抄(1月22日~29日)」で三宅雪嶺の夫人であった三宅(田辺)花圃(1869-1943)についてあまり詳しく述べなかったが、明治以降で女性の書いた最初の小説である『藪の鶯』(1888)の著者であり、彼女と同じく中島歌子の教えを受けていた樋口一葉がこれに刺激されて小説を書きはじめることになった。後には文学の創作からは遠ざかったが、ジャーナリストとして夫とともに活躍した。以上、補足まで。
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森鴎外とデモクラシー

1月30日(木)曇り後雨

 昨日の当ブログでも触れた辰野隆『忘れ得ぬ人々』のなかで多くの人物が取り上げられているが、森鴎外については特に論じた文章がない。しかし、漱石とその『明暗』について論じた一文のなかに、鴎外についての言及があって、これが見逃せない内容を持っている。

 『明暗』という小説は読んだことがないので、わたしなりの見解を述べることはできないが、辰野によれば、「個人主義の心理解剖」の極致というべき作品だそうである。「加之、『明暗』の帰結は則天去私の道徳に依つて個人主義が罰せらるる運びらしく思へる。然しながら、私を去って天に則くまでには、その間に、社会生活の現実が横はってゐるのに、漱石はそれに直面してはゐないのである。/飽くまで批判的な漱石に、自然主義の影響が現はれるまでには相当長い取捨選択の事実を要した」(57ページ)。漱石の時代の日本の社会思想はまだ成熟してはいなかったと断じて、もし漱石がさらに10年長く生きていたら、みごとな社会小説を書いていたのではないかと推論するのである。そして、辰野は鴎外についての思い出を語る。

 「それに就いて、思ひ出されるのは大正9年か10年ごろの鴎外である。或日僕は山田珠樹、鈴木信太郎と一緒に鴎外を上野の博物館に訪れたことがあつた。館長室に案内された3人は鴎外といろいろな談を交はしたが、その時館長の机の上には、数冊の仏蘭西書が重ねられてゐた。それが何れも社会学や社会主義に関するものだつた。話は当時、吉野作造教授を中心とした民本主義の方へ移つて行った。その自分の鴎外は北条霞亭を書いて、伝記物の方面に新しい鍬を入れてゐる最中であつたが、民本主義や社会主義の問題にも無関心ではなかつた。言葉そのままには覚えてゐないが、鴎外が徐ろに語つた意味は、はつきり覚えてゐる。
 『デモクラシイのデモは民衆で、クラットは力だらう。民主主義と訳しても、民本主義と訳しても差支えないやうなものの、デモクラシイの方はむしろ民衆に依つて、或は民衆の力を利用して、といつた臭ひがあるのだね。そこで、民本主義の方はどうかといふと、これは民衆の為に、己を空しくして民衆の為に、といふ味があるなあ。だから、民本主義は、実はデモクラシイと言ふよりも、デモフィリイと呼んだ方が穏やかなのだ。仏蘭西語で云へばpaur(に依つて)とpour(の為に)との相違になるのだらう。』と言つて鴎外は微笑した。その時僕は竊かに、この文豪は今は伝記物を書いてはゐるが、将来は社会小説にも相当の野心を持つてゐると察した。然るに鴎外ももまた漱石と等しく、本格的な社会小説には筆を染めずに逝ってしまつた。両大家とも、卓れた社会小説家たり得べくして竟にその業績を残さずに死んだのは、能はざるにあらず、いまだミリュウ[環境]の熟せざるものがあつたと解する他はなかつた。何れも、ロオマン・イデオロジック[思想小説]の大家であったが、それはあくまで心理解剖かとしてのイデオロオグであつたので、社会学的なイデオロオグには遂にならずに了つたのである」(58-9ページ)。[仮名遣いは原文のまま、字体は新字体に改めた。]

 ここで述べられている議論はかなり荒っぽいもので、政治的な関心と社会的な関心はそれぞれ独自の領域とも、不可分のものとも考えられるし、それを漱石と鴎外という巨人に即して考えていくのは相当な知的作業である。漱石は19世紀の英国における大衆的民主主義の発展が文学に及ぼした影響について考えるところが多かったし、鴎外も19世紀以後のヨーロッパの社会思想について詳しく研究していた。ともにイプセンを読んでいたというのもなかなか面白いところである。また辰野は社会小説が書かれる環境として社会問題への関心が社会科学的な研究に裏付けされた社会思想によって支えられるているような言論のあり方を想定しているようであるが、言論の自由の問題もある。漱石は教育の世界からジャーナリズム、鴎外は陸軍、その後は官界にいたから、そのあたりの空気には人一倍敏感だったはずである。

 辰野のこの思い出はたぶん、高校時代に読んだのだが、その後ずっと記憶の片隅に残っていた。鴎外には個人的に少なからぬ愛着があるのである。高校の2年生になったときに、それまでやっていた自然科学系の部活動をやめた。それで学校の図書室で過ごす時間が多くなり、その時によく読んだのが鴎外で、「渋江抽斎」、『伊澤蘭軒』、『北条霞亭』などを読んだ。文学というよりも、歴史的な事実にどのように気付き、どのように調べて、どのようにまとめるかということをめぐり多くのことを学んだような気がする。鴎外は津和野の出身なので、津和野国学の流れをくむ学問の方法が彼の根底にあったようである。漱石と鴎外の背景をなす教養として英国的なものとドイツ的なものという対比もあるだろうが、東洋思想のなかでどのような傾向に影響を受けているかという比較も興味深いものではないかと考えているところである。

日記抄(1月22日~29日)

1月29日(水)晴れ

 1月22日から本日(1月29日)までに経験したり、考えたりしたことがらの一部:

1月22日
 NHKラジオまいにちフランス語の時間の終わりに放送されるPause-caféのコーナーでフランス語圏のマンガBD(bande dessinée)の話題が取り上げられた。やはり『タンタン』の知名度がもっとも高いようである。

1月24日
 柴山哲也『新京都学派 知のフロンティアに挑んだ学者たち』を読み終える。京都で11年間過ごした中で、この書物に登場する学者の何人かと接したのだが、自分がある「学派」に属しているという意識はない。Non scholae sed vitae (discimus).((我々は)学校のためではなく生活のために(学ぶ))というではないか。

1月25日
 終日、外出せず、酒も飲まず。

1月28日
 戦前から戦後にかけて東大のフランス文学の先生であった辰野隆の『忘れ得ぬ人々』は講談社文芸文庫から再刊されているが、どうも昔読んだものと違うような気がしていた。家の取り壊しで蔵書を調べていたところ、1950(昭和25)年に刊行された角川文庫版を見つけた。見つけてみるとかえって、どこがどう違うかについての詮索を続ける気持ちが薄れてくる。

 この書物は辰野がその師や友人たちについての思い出をつづったもので、浜尾新、三宅雪嶺、幸田露伴、上田萬年、夏目漱石、寺田寅彦、長谷川如是閑、鈴木三重吉、谷崎潤一郎、友田恭助といった人々が登場するが、三宅雪嶺のところでその夫人の花圃について触れた個所など、本筋とはいえないところで貴重な証言となっている部分が少なくないように思う。

1月29日
 友人からの手紙で、岡山に熊沢蕃山の名に因んだ蕃山町という町名があることを知った。江戸時代の学者の名前が付いている町名というと、仙台の(林)子平町とか、福井の(橋本)左内町のような例があるが、番山の方が時代が古い。

 東京大学が推薦入学を実施するというが、他の大学での推薦入学の実績についてどの程度調べたうえでの結論であろうか、疑問に思われる。

 昼食をとったそば屋に森鴎外生誕150年のポスターが貼ってあった。150年というのは微妙な時間的距離だなと改めて思った。 

ほとりの朔子

1月28日(火)晴れ

 渋谷のシアター・イメージ・フォーラムで深田晃司監督の映画『ほとりの朔子』を見る。

 この作品の鍵になるのは「ほとり」という言葉で、主人公である朔子が大人と子どものほとりにいるという意味がさまざまに語られることになるが、物語の舞台が海岸に設定されていること、海岸とその海にそそぎこむ川が時に美しく、時にありのままに描かれているのが特徴的である。

 大学受験に失敗した朔子は、血のつながらない叔母・海希江(みきえ)の誘いで、旅行でオランダに出かけるというもう一人の伯母・水帆の家で、夏の終わりの2週間を過ごすことになった。彼女の祖父母が離婚・再婚した際に彼女の母が姉妹になったという複雑な関係ではあるが、インドネシアの文化を研究し、その関係でオランダにも出かけた海希江を朔子は尊敬している。朔子は水帆と海希江の両方のむかしからのなじみである兎吉(うきち)やその娘で近くの女子大学に通う辰子、そして兎吉の甥で高校生の孝史と知り合う。朔子は不登校の高校生である孝史との距離を縮めるが、海希江には過去に兎吉との関係があっただけでなく、大学の教師で西洋美術史の研究家である西田との不倫も続けているらしい。その西田に辰子が興味を持つ。

 兎吉は地元では評判の悪いチンピラであり、現在はビジネスホテルに偽装したラブホテルの支配人をしている。福島から避難してきた孝史はこのホテルで働いているが、それは法律に違反している。伯父に一方で感謝しながら、このホテルで行われている多くの法令違反に我慢がならない。朔子は孝史をランチに誘うが、彼に急接近中の同級生・知佳から連絡が入る。浮足立つ孝史の表情を見て、朔子の心が揺れる。孝史は思いがけない体験に引き込まれ、苦しむことになる。

 叔母と二人で海辺の町へやってきた朔子は、一人で帰っていく。そこに彼女の成長を感じ取ることができるだろう。受験一筋で来た朔子は、まったく別の世界に生きている同年代の孝史や、少し(どのくらいの少しかが問題)人生については先輩の辰子と出会うことで新しい経験をする。どうも予定していた受験勉強はできなかったようであるが(本人のやる気がもう一つというところもありそうである)、何やら将来の計画も立てたようであるが、それは秘密であるという。叔母の海希江が自分の行動について秘密だというのをまねているようでもある。海希江は西田に対して恋愛は恋愛、仕事は仕事、両者をごっちゃにはできないという。理想と現実をどこでおりあわせるか。彼女には彼女のおりあわせ方があり、それを他人の都合であいまいに変更はできないということらしい。

 映像も登場人物も時に美しく、時にあまりに現実的である。それが「ほとり」の表現なのであろう。海希江が翻訳しているインドネシアの小説のなかに9・30の虐殺事件というのが出てきて、これはわたしにとっては同時代の出来事であるが、朔子にとってはもちろんのこと、海希江にとっても過去の出来事であろうと思って複雑な気分になった。同時代の出来事に対して、十分な認識を持つことができなかった年長の世代と、情報化のなかでさまざまなことを知ることができる年少の世代という問題も掘り下げてみてよかったことかもしれない。これはこれで完結した映画であるが、続編がつくられてもよいという気がしないでもない。

ウィルキー・コリンズ『月長石』(24)

1月27日(月)晴れ後曇り

 悪名高い軍人であったハーンカスル大佐が英国にもたらした黄色のダイヤモンド<月長石>は、彼の遺言で姪に当たるレイチェル・ヴェリンダーに贈られたが、その18歳の誕生祝いのパーティーが開かれた翌朝に紛失していた。レイチェルのもとに宝石を届けたのは彼女の従兄で求婚者でもあるフランクリン・ブレークであり、彼は宝石のゆくえに重大な関心を払って、ロンドンからカッフ部長刑事を読んで捜索に当たらせる。しかし彼の推理は事件前後のレイチェルの行動に疑いを投げかけるものであった。カッフの推理に傷ついたレイチェルは(それだけの理由ではなさそうであるが)フランクリンに対する態度を一変させる。ロンドンに移ったレイチェルは、もう1人の従兄であり求婚者のゴドフリー・エーブルホワイトといったん婚約し、その後婚約を解消する。ゴドフリーの行動の背景に金銭目的の動機が見え透いているという一家の顧問弁護士ブラッフの助言に従ってのことである。ゴドフリーには紛失の直後にロンドンに怪しいインド人に襲われるなど、奇怪な事件と噂が付きまとっている。

 事件の第4の証人として現れるのは、これまでのさまざまな証言のなかでも大きく取り上げられてきたフランクリンである。この物語は、事件が終わった後に彼の提案で関係者による証言がまとめられたという体裁をとっており、事件に対するフランクリンを中心とする関係者たちの弁明としての性格を持っている。彼の登場によって物語はいよいよ事件の真相の解明に近づくことになる(はずである)。

 レイチェルの態度の変化により傷ついた心を抱いてフランクリンは東洋に旅立つ。翌年の春に彼は旅行先で父親が死んだという知らせを受け取り、急きょ帰国する。物語の最初に展開されたヴェリンダー家の執事ベタレッジの寄稿からフランクリンの父親が莫大な財産の持主であり、ある公爵家の爵位の正当な継承者であることを主張しながらその主張を認められなかったため、その復讐として跡取り息子を海外で教育させたということが語られていた。フランクリンは金銭的にだらしなく、移り気ではあるが、心が広く、召使に対して差別意識を持たないので、ヴェリンダー家の召使のほとんど全員から親しまれている。

 帰国した彼はレイチェルに対する思慕の念が相変わらず続いていることに気づかされる。彼はレイチェルとゴドフリーがいったん婚約し、その後婚約を破棄したことで安心する。ブラッフからレイチェルが父親(故人である)の妹のメリデュー夫人のもとで暮らしている(母であるヴェリンダー夫人は事件後ロンドンで死んだのである)ことを知らされる。フランクリンはレイチェルを訪問するが、彼女が自分との面会を望んでいないことを知り、彼女の不可解な言動の原因を探るために、あらためて月長石の事件の真相を解明しようと決意する。

 フランクリンはすぐに汽車に乗ってヨークシャーに向かう。ヴェリンダー邸でベタレッジに会い、事件についての捜査を再開しようというのである。フランクリンとレイチェルのあいだが修復されないままであることを知ってベタレッジは残念がり、邸に止まることを勧めるが、フランクリンは別に宿をとることにする。フランクリンは月長石についての捜索を再開すると告げるが、ベタレッジは英国一の名刑事であるといわれたカッフ部長刑事でさえ失敗した捜索が彼によって成功するとは思えないという。カッフは今や引退してバラ作りに専念しているとベタレッジは告げる。彼から月長石の事件の後に邸の使用人で前科があり、カッフによって疑われていただけでなく、事件後自殺したロザンナ・スピアマンがフランクリン宛に手紙を残していることを聞いたフランクリンはまずその手紙を手に入れようとする。

 この作品のなかで事件の解明を妨げている問題の一つが、「階級」である。事件の謎が深まった理由の1つは、カッフが「紳士」ではなく、したがって地主の娘であるレイチェルに対して徹底した調査を行えなかったからである。「紳士」であるフランクリンが自分で捜索をやり直そうと考えて、事件は別の新たな展開を始めることになる。なお、『月長石』で描かれた事件には実在のモデルがあって、その事件の捜索がまさに「階級」的な理由によって難航したことが指摘されている。この件については、機会を見つけて詳しく論じてみたいと思う。

 フランクリンは「階級」的な偏見があまりない人物として描かれているが、これはコリンズ自身の考えの反映であろう。しかし、「階級」よりも個人の性格や素質を重視する考え方は当時としてはまだ孤立しがちであったことにも留意していく必要があるだろう。次回ではロザンナの手紙の中味に触れることになるが、彼女が目撃した事件の一端と事件を複雑なものにしている「階級」の問題がこの手紙によって明らかになる。

加島祥造『わたしが人生について語るなら』

1月26日(日)晴れ

 1月25日、加島祥造『わたしが人生について語るなら』(ポプラ新書)を読み終える。

 加島さんはかなり多くの顔をもつ人物である。昨日の当ブログでちょっとほのめかしたように、『英語の辞書の話』(講談社学術文庫)などの著書のある英語の先生であり、戦後の詩の歴史に大きな足跡を残した『荒地』の同人の1人であり、アガサ・クリスティーの『ひらいたトランプ』や『ナイルに死す』の翻訳者であり、最近は伊那谷に住んでタオという形に読み変えた老荘思想についての著作を発表している現代の隠者でもある。などと書いたのは、私が知る限りでの著者についての知識であり、知らないことはそれ以上に多いはずである。

 もともと中学生くらいの年代の読者を想定して書かれた書物であるが、反抗期真っ盛りの読者が著者のメッセージをどのように受け止めるかやや不安になるところがある。著者が読者と同じくらいの年代の頃、好き勝手をして暮らしてきた、きみたちも好きなことを追求していいんだよと言い聞かせても、読者がその通りに中学時代を過ごしていくかは分からない。おそらくは読者の反抗も織り込んでこの書物は書かれている。

 第1章「十代の私が今の私は助ける」では「思いきり遊んだ少年時代」、「偶然に導かれて英文学の道へ」と自分の過去を振り返りながら、「面白そうなことを嗅ぎ分ける」ことの重要性について説いている。「体で覚えたことが一生の役に立つ」というのが十代の冒険の中から得た教訓のようである。加島さんはあまり具体的なことを書いていないが、府立第三商業学校時代の友人の一人が田村隆一で、彼に誘われて詩の同人雑誌に参加している。いまどきの中学生は田村隆一なんて名前は知らないし、学校でも教わらないから、このことは省かれている。田村や彼の仲間を通じて広がった学校を超えた人間関係が加島さんに大きな影響をもったことは確かであるが、そのことについてはあまり触れられていない。あるいはそれほど強調すべきことではないと思ったのかもしれない。

 以下、第2章では「好きなことが生きるエネルギーを生む」と説かれ、第3章では「命を通して人間を見る」ことが勧められる。「自分のなかの良いものを味わう」、「やさしく柔らかいものほど強い」などは加島さんらしい主張である。さらに第4章では「うまく生きなくていい」と、読者にとってさらにやさしい指針が示され、「ダメな子ほど可能性を持っている」、「心の奥にあるものが人を動かす」と励ましと示唆とが繰り返される。さらに最終章では「自分を大切にして生きる」ことの重要性が強調され、「変化を受け入れる」ことが進められている他に、「大切なことはバランス」であるという人生の知恵が語られている。

 以上のように簡単にまとめたことから、多くの人生訓を読み取ることができるが、加島さんを人生の達人だなどと言ったら、本人が嫌がるだろう。しかし不器用なりに好きなことをこつこつやっていけば道は開けるということがだれにでも当てはまるとはいえそうもない(しかし、好きなことを一生懸命にやるのは、特段の事情がない限り推奨すべき事柄ではある)。

 好きなことを一生懸命にやれば道は開けるという著者の考えを力説してきたが、著者自身のこのようなことばも見落とすべきであろう:「今のおとなは、子どもに、「自分の好きなものを見つけなさい」とさかんに言う。でも、私にとっては、好きなものというのは、見つけるものではない。それは自然に自分の中から湧いてくるものであり、その湧いてきた力が自然と何かを探し出す」(92ページ)。これは分かりやすく、大いに賛成したい主張であるが、子どもを取り巻く現在の環境がそのような自然の成り行きを認めるだけの余裕に満ちているかどうかは疑問のところがある。

 だから若者向けの本としての意義は未知数であるが、年をとった人間が人生を考え直そうとするときに、読んでみて示唆と激励を受け取ることのできる書物であると思う。あるいはこの書物を読んだ若者が、人生経験を重ねて読み直し、その内容について自分の言葉で孫たち(の世代)に語るのにはふさわしい本であろう。「自分の言葉で」語る努力は、たぶん後継世代にも引き継がれる。冒頭で著者にはさまざまな顔があると書いたが、著者自身が「私は、この歳になってもまだ、自分の知らなかった自分に出会うことがあるんだよ」(140ページ)と記している。そういう発見が著者にも読者にも(私自身にも)まだまだ続くことを願うことにしよう。

田澤耕『<辞書屋>列伝』

1月25日(土)晴れ、予報ほど気温は上がらなかったが、温暖。

 田澤耕『<辞書屋>列伝』(中公新書)を読み終える。自身が『カタルーニャ語辞典』、『日本語カタルーニャ語辞典』、『カタルーニャ語小辞典』の著者である田澤さんによる内外の辞書作りに携わった人々の列伝。

 辞書作りは長い年月を要する作業であり、その間にはさまざまな事件が起こり、ドラマが生まれる可能性が大きい。恋愛、移住、病気、何らかの人間的な要素がからむ。決して平たんな道ではない。また辞書作りは学問というよりも日常生活に必要な「道具」を作る仕事であり、その意味では「職人」に近い。また辞書を利用者の手元に届くようにするためには売り捌く才覚も必要であり、「商人」としての面も持つ。そこで田澤さんは「辞書屋」という言葉を使うことにしたという。辞書作りは一方で自分が「学問」以下のことをしているという自己卑下の感情を抱き、他方で真に人々の役に立つ仕事に従事しているという自負をもっている。その機微を表すのに「辞書屋」という言葉がふさわしいという。

 何人かの辞書屋の伝記を集めれば、彼らに共通の個性、あるいは辞書屋という種族の共通の属性をあぶり出せるのではないかというのがこの書物の狙いである。もっともこの書物はそういう辞書屋の伝記を網羅するものではなく、田澤さんが「たまたま縁あって触れることができた」(ⅲページ)人々についてまとめたものである。取り上げられているのは第1章でOED(『オックスフォード英語辞典』のジェームズ・マレー、第2章で『ヘブライ語大辞典』のベン・イェフダー、第3章で『カタルーニャ語辞典」のプンペウ・ファブラと『カタルーニャ語・バレンシア語・バレアルス語辞典』のアントニ・マリア・アルクべー、第4章では『言海』の大槻文彦(国語辞書との関連で英和辞典の先駆『英和対訳袖珍辞書』の堀達之助)、第5章では「明治の知識人に大きな影響を及ぼした」2人の人物としてのア・ウェブスターとヘボン、第6章ではメキシコで『西日辞典』を作り上げた照井亮次郎と村井二郎、第7章では『スペイン語用法辞典』を独力で作り上げた主婦のマリア・モリネールが取り上げられている。さらに終章では田澤さん自身のスペイン語、カタルーニャ語との出会いと取り組み、辞書編纂の経緯などが述べられている。フランス語辞書のエミール・リトレやドイツ語辞書のグリム兄弟などを省いたのは縁がなかったからだということらしいが、加島祥造さんの『英語の辞書の話』を読めばわかるように、英語だけでもロジェーやブルーワーのようなさまざまな人物が辞書の発展に貢献しているので、ここで描かれているのは<辞書屋>のごく一端であることを認識しておく必要はある。

 田澤さんの専門領域だけに、プンペウ・ファブラとアントニ・マリア・アルクべーが対立しながら、それぞれのカタルーニャ語辞典を作り上げていく過程を描く第5章が一番面白いが、国語辞典の成立と英和辞典の成立とを関連させて論じている第4章、スペイン内戦の苦悩を引きずりながらもっともすぐれたスペイン語辞典を作り上げたマリア・モリネールを描く第7章も読みごたえがあった。

 いずれにしても言語と辞書には関心があるので興味深く読むことができた。ここに書かれていることは辞書の世界の全体に比べればきわめて小さい部分なのだが、そのために費やされた労力が莫大なものであることを考えることも大事であろう。

 あまりはっきりとは書かれていないが、第2章でいったん消えかけた言語であるヘブライ語をユダヤ人国家再建の過程で復活させようとしたベン・イェフダーを取り上げたり、(田澤さんの専門であるが)スペイン国家内部ではマイノリティー言語であるカタルーニャ語を取り上げているところに、著者の言語についてのある思いが見て取れる。だとすれば、アジアの日本語以外のアジアの諸言語の辞書作りについても目を向けてもよかったのではないかと思うのだが、それは別の著者を探した方がいいのだろうか。 

佐藤弘夫『鎌倉仏教』(5)

1月24日(金)晴れ後曇り、予報ほどには気温が上昇しなかったがそれでも温暖

 法然や親鸞の専修念仏の主張は荘園領主である寺社の支配に抵抗する民衆によって自分たちの権利を主張するために、旧仏教の仏神を否定する論理として利用された。鎌倉仏教の祖師たちの思想の中に内包されていた革新性が民衆によって新しい意味をもつものとして再発見されたのである。

 第7章「熱原燃ゆ」は、専修念仏教団で起きていたのと同じような動きが日蓮の教団でも起きた経緯を語っている。鎌倉時代の建知年間(1275-78)に入ったころから日蓮宗の教線は駿河方面で急速に拡大していた。その布教活動の中心になっていたのが、六老僧と呼ばれる日蓮の高弟の一人、日興であった。

 1274年に流罪を許されて鎌倉に戻った日蓮であったが、彼の弾圧の当事者である幕府の実力者平頼綱によって示された妥協を拒否し、身延にこもって弟子の育成に力を注ぐことになる。彼に代わって布教活動に従事したのが六老僧であり、特に日興の活躍は目覚ましかった。日興は彼のもとに集まった僧俗に分け隔てなく日蓮自筆の本尊を分け与えたが、それは日蓮の平等主義を継承する行為であった。

 一つの仏、一つの行だけを肯定し他を否定する<選択>の考え方は法然や親鸞の教団では祖師の死後後退し、否定される傾向にあったのに対し、日蓮宗の場合はかたくなに守られ、それゆえに他宗派からの攻撃と権力からの弾圧をうけることになる。第7章では弾圧と民衆の抵抗の過程が詳しく語られている。

 第8章「文化史上の鎌倉仏教」は鎌倉時代に出現した新しい仏教の歴史的な地位について考察を加えている。古代の仏教は東大寺や興福寺の壮大な伽藍に代表される文化を出現させたが、仏の救済の手が一般の民衆にまで届くことはなかった。古代の律令体制が解体するにつれて、寺院は自らが荘園を経営し、民衆から喜捨を集める必要に迫られることになった。民衆との接触の拡大は、伝統仏教に庶民が受け入れることができる容易な行の創出を促すことになった。こうして民衆は上から与えられる救済の教義に接することができるようになったが、鎌倉仏教は民衆が主体的に信仰の担い手であるような教義を説いたのである。それはただ宗教の次元にとどまらず、民衆が支配と対決する際の思想的な武器を提供するものでもあった。

 15世紀に入ると農民たちの戦いはより広範囲の連帯を基盤とするものに成長し、また都市においては町衆による自治都市化が進められていた。このような民衆の力の増大を背景に、室町時代になると庶民が文化の担い手として広く台頭することになる。能の大成者である観阿弥・世阿弥は高い身分に属してはいなかったし、茶の湯も民衆への喫茶の習慣の普及を前提として成立したものであった。「惣の結成や町衆の台頭にみられる民衆の地位向上を背景として、民衆自身がみずからのための文化を生み出す主体となる時代が、ここにようやく到来したのである」(227ページ)。

 15世紀になってそれまで異端として厳しい弾圧をうけた親鸞や日蓮の宗教が急速に社会に浸透してゆく背景には、こうした社会や文化の変動があった。真宗は蓮如によって親鸞に見られた阿弥陀仏一仏至上主義と<選択>に基づく専修を復活させられる。農村と都市とで真宗(と日蓮宗)は民衆が主体的に選んだ宗教として彼らの自治の主柱となっていくのである。

 あとがき、参考文献の他に、文庫化に際して加筆された「鎌倉仏教論を読みなおす」という文章が末尾に加えられている。

 一読して(一読どころか何度か読み返したのだが)、熱気が感じられたが、その一面で独断的ではないかという疑いももった。民衆を価値の源泉とするところに著者の思想のありようが見えているが、議論をより具体的にしていく必要もあるのではないか。また古代仏教が民衆に届かなかったというが、行基や空海の活動は民衆を視野に入れたものではなかったのかと思う。前回、鎌倉仏教の普及が農村部だけを問題として論じられているのではないかと書いたが、最後の方になって町衆と新しい仏教の結びつきについて触れられていたので、少し得心した。

夫婦善哉

1月23日(木)晴れ

 神保町シアターで『ふたりぼっちの物語 「ふたり」が紡ぐ「ひとつ」の映画』の1編として上映された豊田四郎監督の1955年作品『夫婦善哉』を見た。引っ越しでしばらく映画を見に出かける余裕がなかったが、これからまた機会を見て数を稼いでいくつもりである。そういえば、昨年も最初に映画を見たのは神保町シアターにおいてであった。

 織田作之助の同名小説の映画化。老舗の大店惟康商店の跡取り息子柳吉は道楽者で芸者の蝶子と駆け落ちする。食道楽で微妙な美意識は備えているものの怠け者で優柔不断な柳吉を何とか一人前の男にしようと蝶子は走り回るが、父親から許されて店を継ぐ、あるいは財産を分けてもらう可能性はないまま、ずるずると時間が過ぎてゆく。店は大学出の婿養子が継ぐことになり、柳吉は財産分与どころか父親の葬儀にしかるべき地位を与えられさえもしない。

 映画の中で2人が経験する不運は自分のせいだと蝶子は繰り返していうが、客観的にみれば悪いのは柳吉の方でそのあたりの2人と2人を取り巻く世間の目に古い時代の因習が見て取れる。人間はだれしも自尊感情をもっているのだが、それぞれがそれぞれの自尊感情を正確に読みとれるわけではない。そのすれ違い、食い違いの悲喜劇もこの作品の深さを増している。柳吉が正妻との間に儲けた娘が女学校で英語を習っているというので、蝶子がカフェの客から耳学問で習い覚えた英語を使って見せるがわかってもらえないという場面など、このすれ違いの例である。

 ラスト・シーン近くに題名にもなっている夫婦善哉が取り上げられている他に、自由軒のライスカレーなど、大阪の食道楽の名所がいくつか登場する。柳吉は商売に向かないだけで、もし何か別の機会に恵まれていれば、その道で大成したかもしれないのだが、なまじ大店の若旦那に生まれついたために見果てぬ夢を追いかけることになる。ちょっとした才能の片りんを見てしまっただけに蝶子の方はそれなりに安定した人生の設計ができるはずなのに、ダメ男に身も心も捧げつくしてしまう。

 柳吉を演じる森繁久弥が蝶子を演じている淡島千景にいう「おばはん、頼りにしてまっせ」というセリフはあまりにも有名。この形でいわれるのはラスト・シーンだけだが、「おばはん」も「頼りにしてまっせ」も何度も繰り返し口に出される。はっきり口に出さないとわかってもらえないのだろうかという不安があるのだろうか。口にしている森繁はまだ若く、その相手の淡島千景はさらに若く、美しい。一から人生をやり直すつもりがあればまだ人生は長いはずなのだが、映画の終わり近く二人の姿には諦念が漂い始めているようにも見える。一方でまだ人生への野心を抱きつづけながら、他方で若隠居を強いられている身の上への自嘲がこのような表現を生むのであろう。蝶子の悩みを見抜いて(?)呼びとめたことがある占い師が、ラスト・シーンで2人を見送るのも計算された演出である(原作にはない設定である)。

 最近、織田作之助が書いた原作の続編が発見され、発表されているし、それとは無関係にこの作品の続編映画もつくられているが、これはこれで完成された作品としてみるべきではないのか。主人公たちの運命には不安が付きまとい、それが映画を見た後の観客の心に大きな余韻を残すが、それだけ完成度の高い作品であると考えて、そこで主人公たちと別れるべきではなかろうか。物語は1930年代の大阪が舞台になっており、映画がつくられたのは1950年代であるとはいえ、撮影当時はまだ残っていた建物やセットを利用したのであろうが、今では姿を変えてしまった大阪の市街地や商店の様子が克明に描かれていて、それだけでも意味がある。私がサラリーマンのまねごとを始めた1960年代の末の大阪の姿は、映画の中のもっと古い大阪の姿には重なるが、今の大阪の姿に重ならないように思えてならないのである。

佐藤弘夫『鎌倉仏教』(4)

1月22日(水)晴れ

 鎌倉仏教の特徴であり、魅力でもあるものは何か? それは「すべての人々に平等の救済を与えることこそが仏教の原点であるという確信」(133ページ)を貫き通すため、それぞれの立場から伝統的な教学の常識に挑戦し、それを変えようとする知的冒険をいとわなかった点に求められると佐藤さんは論じてきた。法然の場合でいえば称名念仏が唯一の救済の道であるという主張であり、その実践であった。これに対する旧仏教の側からの反撃もまた厳しいものであった。

 第5章「理想と現実のはざまで」は元久元年(1204年)に延暦寺が朝廷に対して専修念仏と禅宗の禁止を求めた文書の紹介から始まる。比叡山に起こった反念仏の火の手は、法然による弁明書の提出と門弟への誡告によって鎮静するかとおもわれたが、翌年になると興福寺の衆徒が「八宗同心の訴訟」の名のもとに、新たに念仏停止の要求書を朝廷に提出したことで再燃する。朝廷と興福寺の間で折衝が重ねられるうちに、法然門下の安楽と住蓮が催した別時念仏の法会に後鳥羽上皇のもとにいた女官たちが出かけ、そのまま外泊したことが明るみに出た。このことに激怒した上皇は安楽と住蓮を死刑に処するよう命じ、法然やその有力な門弟たちを諸国に配流する。

 安楽・住蓮と女官たちの間に上皇が疑ったような不適切な関係があったかどうかは不明である。この点で弾圧の原因を2人の過激で反倫理的な行動に帰する後世の伝記作家の記述にも疑問が投げかけられる。少なくとも親鸞はこれが無実の罪によるものであると考え、そのように記している。かりに2人が無実であったとすれば、正しい道を行くものになぜ迫害が続くのか。実際に法然の数多くの門弟が弾圧を恐れて去っていった。

 「私たちは鎌倉時代の旧仏教というと、すでに凋落と頽廃の極みにあった古代仏教の残骸というイメージをもちがちである。しかし、・・・そうしたイメージは正しくない。実際には古代以来の伝統を汲む延暦寺・興福寺・東大寺などの大寺院が、その社会的勢力においても宗教的権威においても全盛期を迎えるのは、鎌倉時代に入ってからのことであった。それらの伝統教団に比べればいかに民衆への布教が進んだといっても、法然の教団などはしょせん泡沫以外の何ものでもなかったのである」(144-5ページ)。このような力関係の中で、専修念仏の教団が社会的に安定した地位を確保するためには、伝統教団によってその存在を認知してもらうことが不可欠であった。しかし「念仏以外に救いの道はない」という基本的な原則は伝統教団との和解を妨げる決定的な障害となる。門弟たちは師の立てた原則を守るか、教団を守るための妥協に踏み切るかという2つの立場の選択を迫られることになる。

 法然没後、彼の教団は多数の小集団に分裂していったが、それらの中で最も有力な存在へと成長を遂げるのが法然の直弟子聖光房弁長を派祖とする鎮西派と呼ばれる教団であった。弁長は念仏が唯一の救済の道として仏に選ばれたという<選択>の主張を捨て、旧仏教側の主張を受け入れ、旧仏教との競合を回避して共存を目指そうとした。このような大勢順応を潔しとせずに、あくまで念仏こそが唯一至上の法であると主張しつづける人々もいた。親鸞はその代表的な人物であるが、彼の教団においてすら親鸞の死後には彼の意図とは反対の方向に教団の大勢は向かったのである。このような旧仏教との妥協は日蓮や道元の教団においても見られる。「こうして鎌倉時代の後半から、どの宗派でも例外なく、祖師の厳格で妥協を認めない宗風を事実上放棄して、思想面でも実際の行動においても、旧仏教や権力との秩序ある共存が模索された。その結果、これらの宗派は公武の権力者の間にその支持基盤を広げ、また在地の民衆の中にも教線は目覚ましい勢いで広がっていった。/しかしその代償として、それらの宗派において祖師にみられた理想主義や現実批判の精神が、次第に色あせていったことも否定はできない」(157ページ)。現実が理想を圧倒するという現実が見られるようになってきたのである。

 第6章「襤褸の旗」はこのような動きの中で飽くまでも祖師の教えを守ろうとする人々の動きを追っている。法然や親鸞の門徒にみられる神祇不拝や諸仏誹謗と呼ばれた現象がまず注目される。法然や親鸞にとって<選択>は専修念仏に帰依した人が自分の内面の信心を純化していくための論理であり、外に向けられるものではなかった。とはいうものの教団教学の主流が念仏を唯一の法であるという<選択>主義を放棄しているときに、仏神を誹謗するという一部門徒の動きは祖師の教えに忠実であろうとする動きとして受け取ることができるのではないかと佐藤さんは論じている。

 封建領主としての大寺院・神社はその所領が本尊や祭神が支配する不可侵の「仏地」「仏土」であると主張したが、それは競合者に対して向けられた主張であっただけでなく、領内の農民たちを支配するための主張でもあった。荘園制支配が宗教のベールをまとうものであった一方で、それに対する抵抗も宗教的な形をとった。「中世では仏神を表に立てて支配を貫こうとする領主権力に対し、それに対する反抗もまた仏神に対する反逆という形態をとることになった」(170ページ)。「仏神の権威を押したてて支配を強化しようとする領主側に対し、その仏神の権威を利用し逆手にとって自分たちの立場を有利にしようとするのが、中世成立期の農民闘争のもっともポピュラーな形であった」(175ページ)。

 とはいうものの「民衆が自らの権利に目覚めそれをさらに拡大していこうとすれば、いつかは体制の壁に突きあたり、それを克服すべく荘園守護の仏神と対決する事態が到来することは目に見えていた。その時、仏神の存在そのものを否定できない中世の民衆が、宗教的権威を楯にして支配を貫こうとする荘園領主に対抗するためには、既存の仏神に代わる新たな精神的なシンボルが不可欠であった」(177ページ)。

 このような民衆の要請にこたえたのが専修念仏であり、この主張と実践を受け入れた人々にとってもはや荘園守護の仏神は宗教的な権威を失ってしまう。法然や親鸞は仏神誹謗を戒めていたが、彼らの専修念仏の主張から仏神否定という一点のみを取り出し、それを自分たちの思想的な武器としていった民衆たちの自主性と主体性とを評価すべきではないかと佐藤さんは論じる。「祖師さえも意識しなかった、その思想に内包されていた革新性を真に理解し、自らの生き方の指針としたのは、既成教団や権力との妥協にのみ心を砕いたプロの僧侶ではなかった。むしろ失うものをもたない名もなき民衆たちだったのである」(183ページ)。

 佐藤さんは中世の説話文学なども援用しながら鎌倉時代の荘園の現実という社会的な事情から宗教の動きを説明していこうとする。それはそれとして説得力のある議論ではあるが、この時代、都市と商工業が発達しはじめていることも視野に入れるべきではないか、それは宗教にどのように反映されているのかも興味あるところである。

日記抄(1月15日~21日)

1月21日(火)晴れ後曇り、雪が降るかもしれないと予報されている

 1月15日から21日にかけての経験と考えたことの中から:

1月15日
 テレビ朝日の「マツコ&有吉の怒り新党」で勤めている会社でコミュニケーションの研修が行われたが、そんなものは必要なのかという疑問が取り上げられていた。ある特定の業種で必要なコミュニケーションのスキルというものはあるだろうから全く不必要だとは思われないが、企業が組織する研修が社員のスキルの向上に役立つというよりも自己目的化してしまう恐れもないとはいえない。要するに程度問題である。社員のコミュニケーション能力を高めるためには研修だけでなく社内の人間関係のような環境の改善の努力も必要なのではないかと思う。

1月16日
 芥川賞・直木賞の受賞者・受賞作が発表されたことをめぐり、作家の島田雅彦さんがTVで文学の社会的な役割が変化してきたことが受賞作の傾向を変化させていると発言されていたのが印象に残った。どちらかというと直木賞の方が欲しいが、まあ、受賞できるような作品は書けないだろうなぁ。

1月18日・19日
 センター試験。共通一次試験からセンター試験への変化の中で、何度もこの試験の監督をしたことを思い出す。どんな制度にも欠点はつきものであり、制度を改革しようとする努力にも見落としがつきまとう。その中で大学改革が入試改革に集中しているのは明らかにおかしいし、むしろ入学してからの大学教育をどのように改善するかに力を注ぐべきであろう。そうはいっても入試にはまだ改善すべき点がある。一例だけ挙げれば、共通一次⇒センター試験が基本的に客観テストであることで、測定できない能力の領域が生まれているのではないか。大学での勉学に必要な学力とはなにかということとの関連で出題方法の改善が必要であろう。

1月20日
 NHKラジオまいにちイタリア語で
Non credevo che tu avessi tanta insicurezza.
È forse la timidezza la tua dbolezza?
(お前がこんなに不安を抱えてるなんて思いもしなかったよ。
その内気さがお前の弱点になっているのかい?)
という表現が出てきた。insicurezza(不安), timidezza(内気), debolezza(弱点)と-zzaで終わる単語が3つも出てきて「韻を踏んで(in rima)」いるように聞こえる。この表現をする人物が北イタリアの出身という設定になっているのでそれぞれの単語を「-ザ」と発音しているのだが、番組パートナーのヴァレンティーナ・ポンピーりさんは標準語で「-ツァ」と発音している。方言による発音の違いが語学番組で表に出ているのがイタリア語らしい。

1月21日
 NHKまいにちフランス語でオルレアン市と宇都宮市が姉妹都市だという話が出てきた。姉妹都市を選ぶのにどういう探し方をするのか、いろいろな場合があるのだろうが、相手を知ることで自らを知ることもできるところに意義があるのだろうと思う。

 BSでアンソニー・マン監督が1952年に撮った『怒りの河』(Bend of the River)という作品を見ていた。一応西部劇なのだろうと思う。後半、主人公たちが開拓民たちのところに食料を届けるための道のりが描かれる。主人公を演じているのはジェイムズ・スチュアート。これはわかったのだが、彼を助けることになるもう1人の登場人物がアーサー・ケネディー(1914―90)だというのがわからなかった。この映画ができた時に37-8歳だったはずだが、ずいぶん若く感じられた。

ブリューゲル

1月20日(月)晴れ

 ブリューゲル

見たとおりだといわれたり
似ていないといわれたり
さまざまに批評されながら
彼は克明に描き続けた

村で暮らす人々
街で暮らす人々
雪の日に狩りに出かける人々
祭の日に浮かれて踊っている人々の姿を

見えるものを見えるままに
その先にあるものを想像力を働かせて
どちらも同じくらいに克明に
彼は描き続けた

彼の描き続けた線の中で
人々の暮らしと思いが
生き続けている

絵画が
絵画以上の
生命を保っている

佐藤弘夫『鎌倉仏教』(3)

1月19日(日)晴れ

 「鎌倉新仏教」は民衆を救済対象の主客に据えた点に歴史的な意義があるとする議論が有力であるが、そうした説は再検討の余地があると佐藤さんは論じる。旧仏教でも民衆の救済は視野に入れられていたが、それはあくまで現世的なタテの社会関係の延長上にあるものであり、民衆の救済を下位に置くことによって現実の社会秩序を肯定する性格をもっていた。「法然や親鸞はそうした旧仏教の理念の背後に潜む欺瞞を鋭く見抜き、念仏一行以外のすべての教行を否定することによって救済行の一元化を達成した。その結果、その宗教においてはあらゆる人が身分や地位や権勢に関わりなく、仏や法といった普遍的価値の下に平等に位置づけられることになったのである」(109ページ)という。

 法然や親鸞の宗教の意義は念仏による万人の往生を説いて民衆に救済の門戸を開いたことにあるのではなく、念仏を末法に唯一残された救いの道とする一方で、それ以外の救済のあり方をはっきりと否定していった点にこそ彼らの宗教の独自性があったと佐藤さんは論じる。それはある意味できわめて偏狭で独善的な論理であったともいう。法然や親鸞に見られるような、阿弥陀仏と念仏といった一つの仏・一つの行だけに価値を認め他を否定する論理を、佐藤さんは<選択(せんちゃく)の論理>と呼ぶ。

 仏教において仏は人間が悟ってそうなるべき目標であり、生身の人間を離れては存在しえないものである。とはいうものの人間と仏の間には、宗派によってその距離の取り方にさまざまな相違があった。インドから中国・日本へと東へ仏教が伝わるにつれて、仏と人間との距離は次第に狭まる傾向にあり、主として天台宗において仏と人間という仏教における聖俗二極の概念を一元的にとらえる本覚思想と呼ばれる考え方が発達してきた。

 平安後期の仏教界では森羅万象の中に数多くの仏神の存在を認める多神教的な性格が強く、宗教的能力と縁とに応じて仏の自由な選択を認める議論が支配的であった。こうした考え方に対し、法然や親鸞は全く正反対の立場をとった。彼らによって仏教が一神教に接近することになったといえる。一つの法、一つの修行の<選択>とその結果としての一神教的信仰の確立といった現象は法然・親鸞ら浄土信仰に連なる人々の独占ではなかった。全く異質な系譜に属する日蓮にも見られるものである。

 法然が浄土三部経を尊重したのに対し、日蓮は『法華経』こそが釈迦の真意をもっともよく説き示していると信じた。この点では彼は天台宗の伝統を踏まえているが、『法華経』以前に解かれた諸経典を仮の教えとして否定したところにあった。日蓮は法然・親鸞とは別の道を通って一神教的な宗教に到達したのである。

 彼らが次に行った作業は、これらの仏の前では現世的な存在と価値がいかにはかなく無価値であるかを強調することであった。親鸞は自分たちを弾圧した後鳥羽上皇が失脚したことを仏罰と見ていた。日蓮も源平の内乱で死亡した安徳天皇や承久の変で敗れた後鳥羽・順徳院、さらには執権北条時頼までもが地獄に堕ちたと公言したのである。彼らは仏の前における万人の平等を考えたのである。

 禅宗においては仏法を王法に優先させるという考えはなく、両者の相互依存を説くことが一般的であったが、道元の場合には王法を仏法に優先させる考え方が見られる。

 このように「新仏教」の担い手たちは一仏に対する一行の専修を主張するとともに、他の一切の仏神の教行の価値をはっきりと否定した。佐藤さんはこの点にこそ彼らの宗教の革命的な意義があると論じ、さらに旧仏教の側からの彼らに対する批判が「素直にいって少しも面白くないのである」(131ページ)と言い切る。

 第4章「仏法と王法」を要約すると以上のようなことになるだろうか。鎌倉時代は鎌倉に政治の中心があった時代というよりも京都と鎌倉に2つの中心があった時代と考えられる。その一方で仏法と王法はもう一つの対立軸であった。佐藤さんは新仏教の平等主義的な傾向を肯定的に評価しているが、それは他の教行に対する排他的な姿勢と結びつくものであった。この点については価値が多元化している今日の目から見て別の評価がなされてもよいのではないか。旧仏教の学僧たちの著書が「面白くない」という意見は主観的に過ぎる。第5章~第8章を読んで行く中でこれらの点を中心に「鎌倉新仏教」をめぐる問題をさらに考えていきたいと考えている。

ウィルキー・コリンズ『月長石』(23)

1月18日(土)晴れ

 ハーンカスル大佐によってインドから英国に持ち込まれた黄色いダイヤモンド<月長石>は、彼の遺言によって姪であるレイチェル・ヴェリンダーの誕生祝いとしてヨークシャーのヴェリンダー家に運ばれた。しかし、レイチェルの誕生祝いのパーティーのあった翌日、宝石は彼女の手元から失われていた。この宝石には世代を超えてその行方を見守ってきた3人のインド人たちの姿が付きまとっており、宝石を盗んだのはヴェリンダー家の邸の周辺に出没していた3人のインド人の手品師ではないかと思われたが、彼らの仕業ではないことがわかる。その一方でレイチェル自身の不可解な言動や、邸の使用人の1人である前科者の女性ロザンナ・スピアマンの自殺、さらには紛失の直後にロンドンで起きた、レイチェルの従兄で求婚者であるゴドフリーの身辺で起きた怪事件など謎がさらに謎を呼んで事件の波紋が広がってきた。ヴェリンダー家の顧問弁護士であるマシュウ・ブラッフが紛失の後の成り行きについて、彼のかかわった範囲内での証言を続ける。

 紛失の前後の経緯について沈黙を守っているレイチェルはゴドフリーをめぐるうわさについて否定し、彼は犯人ではないと断言するが、その一方で彼女が心から彼を愛しているわけではないとの理由からいったんは承諾した彼との婚約を破棄する。その背景には、レイチェルが相続するはずの財産についてゴドフリーが調べていることを知ったブラッフの助言があったことを彼自身が語る。さらに、ブラッフは彼がであったいくつかの出来事について証言する。渋るフランクリンを説得して宝石をヨークシャーまで運ばせたのが、この宝石がヴェリンダー家にとって貴重な財産となるというブラッフの見込みがあったことも語られている。

 ゴドフリーとレイチェルの婚約破棄の1週間から10日ほど後になって、ブラッフの事務所をインド人らしい色の黒い異国人風の紳士が訪れる。彼は金貸しのセプティマス・ルーカー(月長石紛失事件の後に、ゴドフリーと同じ日に、インド人らしい人々に襲われた人物である)の紹介だといって、借金を申し込むが、実は月長石がブラッフの手元にあるのではないかを探りに来た様子である。ブラッフが金を貸すことはできないというと、紳士は英国では借金の返済の猶予期間はどのくらいの長さであるかと質問をする。ブラッフが1年間であると答えると納得した様子で帰っていった。

 その後、ブラッフはルーカーから連絡を受け、彼から話を聴くことになる。インド人らしい紳士はブラッフを訪問したその前日にルーカーのもとを訪問しており、やはり借金を申し込んできたが、彼がそれ以前に自分を襲った人物と同一人物であることをすぐに見抜いたルーカーは恐怖にかられて、貸すための金はなく、もし借りるのであればブラッフのところに行けばよいと答えたと弁解する。あやしい紳士はルーカーにも返済の猶予期間について質問をしたという。その意味するところは何であるのか、ブラッフは頭を悩ませる。

 ルーカーと会った夜、ブラッフはとある晩餐会に出席し、その席で探検家として知られるマースウェイトにであう(彼はレイチェルの誕生祝いの席にも姿を見せていたが、ブラッフは誕生祝いにはなぜか出席しなかった)。マースウェイトはブラッフから月長石の事件とのかかわりについての質問を受けて、びっくりした様子であったが、ブラッフがヴェリンダー家の顧問弁護士であり、この宝石をめぐる事件とかかわっていることを知って口を開く。ブラッフが返済の猶予期間についての質問の意味をはかりかねていることについて、マースウェイトはインド人たちと宝石について本気で考えてこなかったからわからないのだと断言する。インド人たちは宝石の奪還を目的として英国にやってきて、宝石を見守る役割を引き継ぎながら、ささやかだがしっかりした組織を作り上げてきた。

 彼らが宝石を奪還するのは警備が手薄になった時を見計らってのことであり、銀行の金庫に預けられていたり、多くの人々の目が光っているような場所では奪還は企てられることはない。月長石はレイチェルの部屋から紛失した後、何ものかの手によってロンドンに運ばれたと考えられる。運んだ人物として疑いをかけられるのはゴドフリー・エーブルホワイトである。「あの方はすぐれた慈善家だと聞いています――ところが、なにはさておき、あの方はその評判とはまるでうらはらな人物ですな」(中村訳、476ページ)とマースウェイトがいう。その評価にはブラッフも賛同するが、レイチェル自身がゴドフリーは犯人ではないと断言したことを思い出して(彼女の名前は出さずに)、彼への嫌疑を否定する証言があると述べる。マースウェイトはその証言については留保したうえで、ルーカーが何者かによって持ち込まれた宝石をすぐに銀行に預けたためにインド人たちの目論見が失敗したと推理する。しかし、彼らはルーカーから銀行の受領証を奪ったので、1848年の6月から1年がたつと、宝石を奪う機会がふたたび訪れると考えているはずだという。レイチェルの部屋から宝石を盗んだ人物がだれであるにせよ、1849年の6月に宝石は銀行から持ち出され、インド人たちがまたその奪還を企てるであろう、「インド人たちは続けて2度失敗したのですよ。3度目はしくじることはあるまいと私はかたく信じています」(478ページ)とマースウェイトはいう。「1849年6月。月末ごろ、インド人たちの消息を待つべし」(同上)とブラッフは書きとめる。

 以上でブラッフの証言による部分は終わり、今度は海外旅行から帰国したフランクリンの証言がはじまる。事件についての証言をまとめようと言い出したのが彼であることは既にベタレッジとクラックが語っている通りである。ゴドフリーに対する疑惑は増す一方であるが、レイチェルが彼は犯人ではないと言い張っているのはなぜだろうか。その謎は今後の証言によって解かれるのだろうか。それはさておき、ブラッフは弁護士という職業柄から世間的な知恵にたけている半面で、月長石に対するインドの人々の信仰を軽視するなど異文化への理解の不足も目立つ。この点を補っているのが探検家のマースウェイトの知識と理解である。

 物語の展開を通じて、ハーンカスル大佐がインドの財宝を強奪したことが非難される一方で、それをインド人たちが奪還しようとしていることについても「陰謀」として否定的に扱われている。大英博物館やルーブルに収蔵されているオリエントの財宝はもともとあった場所に戻される必要はないというのと同じ論理であろうか。その一方でブラッフの観察として彼を訪問してきたインド人たちの1人はその物腰も使う英語も見事なものであったと記され、ルーカーの方はインド人よりも劣った人物だと評価されているのも注意してよいところである。

佐藤弘夫『鎌倉仏教』(2)

1月17日(金)晴れ

 鎌倉仏教が日本史、特に日本思想史の中で特に重視される存在であるのは、この動きの中で成立した宗派が現代の我々の生活に大きなかかわりをもっていることだけでなく、「近世の儒学と並んで鎌倉仏教が日本の伝統思想界のピークを成していると考えられている」(46-7ページ)ことのためでもある。ではなぜ、この時期の宗教思想が高い水準のものと考えられているのであろうか。鎌倉時代に新しく生まれた仏教の特色のうち基本的かつ最大公約数的なものを上げるとするとその「民衆的性格」ではないかと考えられている。旧仏教が「国家仏教」「貴族仏教」の殻を破ることができなかったのに対し、新仏教はあらゆる人々の救済という課題に取り組んだ、そのような新しい宗教の幕開けとなったのが法然の宗教成立であるというのが従来の理解であったと佐藤さんはいう。

 しかし、法然以前にも口称念仏の意義を認めただけでなく、民衆の中に入ってそれを勧めた僧侶はいた。空也や永観(普通、えいかんと呼んでいるが、ようかんが正しいようである)はそうした僧侶の中でもっともよく知られている人々である。念仏聖を中心に法然以前に既に仏教を民衆化しようとする動きがあった、その結果院政期には、本願の念仏による万人の往生という思想が広く社会に定着していたと佐藤さんは論じる。それだけでなくそうした民衆の中に向かおうとする動向は念仏聖たちだけでなく、官寺仏教の側にも見られるという。源平の争乱で荒廃した東大寺をはじめとする奈良の寺院を復興するために諸国に勧進聖が足を運んでいたのである。

 このような動きの背景をなすのは律令国家の衰退による官寺の窮乏である。国家による財政的な援助を期待できなくなった寺院のなかには勧進聖たちの活動を通じて、生活の余裕ができてさらに精神的なよりどころを求めるようになった上層農民たちに寺院への参詣や喜捨を勧め、財政的な基盤を確保して荘園領主化するものが現れた。その意味で旧仏教も民衆に根を下ろしはじめたのである。

 寺院が人々に参詣を呼び掛けた結果は石山寺や長谷寺などの有名寺院への参詣者の爆発的な増加となり、さらに寺堂の建築が変化する、仏の世界である内陣に対し、人間のいるべき場所としての外陣の割合が相対的に増加していくことにもなっていく。また寺社の縁起絵巻のような新しい宗教芸術もこの動きから生まれてきた。これらの絵巻には『源氏物語絵巻』などとは違って、庶民の生き生きとした表情や動作が描き出されている。それはまた絵解き法師によって寺院に集まった人々に法を説くための素材とされていた。『鎌倉仏教』の第2章「聖とその時代」はこのように鎌倉時代における仏教界全体の民衆化の動きについて述べている。

 法然以前に聖たちの活躍を通じて既に伝統仏教は民衆に根をおろしていた。また称名念仏による凡夫の往生という考え方も広く社会に定着していた。とすると法然が始めた新しい宗教の特質を従来のような意味での「民衆性」に求めることはできないと佐藤さんは論じている。法然の主張の新しさは、念仏によって誰しもが平等に救済されると説く一方、念仏以外のさまざまな行は本願として選びとられたものでないために、いくら実践しても無意味であると断言しているところにある。しかしこのような主張の根拠を経典の中に求めることはできない。根拠とされる無量寿経についての法然の解釈は強引である。彼は経文に独自の解釈を施してでも主張したいことがあったのである。

 従来の仏教では「念仏」は「人が亡くなったときや、しもじものものがなすべき下劣で不吉な行」(60ページ)とされていた。修行法として念仏が軽視されていただけでなく、その実践によってもたらせる救済内容についても上下の区別があり、称名念仏だけで往生しようとするものは下品下生という最低ランクに位置付けられたのである。社会の支配=被支配の関係を反映し、正当化するような既成の仏教の考え方に法然は反発したのである。法然には比叡山の学僧たちよりも、在俗の民衆の方がはるかに真剣に、純粋に法を求めているように思えた。そして法然の教えを受け継ぎながら、伝統仏教者や権力者に対し、より厳しい批判の論理を研ぎ澄ましたのがその弟子親鸞であった。「偽善を憎み日々尊い汗を流す民衆に光を当てようとした親鸞は、ついに彼らの日常生活そのものを全面的に肯定する論理を生みだした」(106ページ)。以上のように、第3章「異端への道」は法然と親鸞による伝統仏教批判の系譜をたどっている。

 なかなか読みでのある本で、まだ全体の3分の1ほどしか紹介できていない。自分なりに納得のいくペースで書き進めるつもりなので、お付き合いのほどをよろしく。空也というと六波羅蜜寺にある念仏を唱える彼の立像を思い出し、永観というと永観堂の紅葉を思い出し、親鸞というと五島美術館で見た『教行信証』の断片の筆跡を思い出す。ある人間の業績を知るのに、その著作を読むことも大事ではあるが、何か具体的な手掛かりを見つけることも重要なのではないかと思う。

佐藤弘夫『鎌倉仏教』

1月16日(木)晴れ、最低気温が氷点下になった

 佐藤弘夫『鎌倉仏教』(ちくま学芸文庫)を読み終える。1994年に第三文明社よりレグルス文庫の1冊として刊行されている。ちくま学芸文庫に収められる際に著者によってこの書物の末尾に付け加えられた「補論 鎌倉仏教論を読みなおす――文庫化に寄せて」の終わり近くに次のように書かれている個所が印象に残る:「それでも私は、思想にはそれぞれの時代において果たした固有の役割があり、それに対する評価こそが歴史に携わる者のもっとも重要な使命であると信じている。そして、私にとってその評価の基準とは、ある時代に生きた人々の胸に、実際に希望の灯を灯すことができたかどうかという一点なのである」(262ページ)。ただ「希望の灯を灯す」だけでよいのかという気がしないでもないが、思想はそれが多くの人々の生き方の基準となり、目標を与えるものとなって初めて意味を持つという考えには同感である。鎌倉仏教は現代の我々の生活にもある程度の影響を及ぼしており、その思想史的な意義を知ることはわれわれが自分自身について知るためにも有益であると考えられる。

 この書物は鎌倉時代に新たに勢いをもった仏教の中の動きがその時代に生きた人々にとってどのような意味をもっていたか、言いだした宗教家自身、その周辺にいた人々、宮廷や幕府などの人々、既成の宗教界の人々、都市の人々、農村の人々のそれぞれに注目しながら掘り下げている。「思想は実践の中で鍛えみがかれて、はじめて生命を吹きこまれるのである。鎌倉仏教の祖師たちもまた、日々の民衆との接触の中で、一歩一歩その思想を彫琢していったのである」(13ページ)と著者は述べる。「鎌倉仏教の祖師の仏教を、教理としてではなく生きた宗教として捉えようとした」(同上)ともいう。これがこの書物の出発点である。

 第1章「法然の旅」は法然の歩みをたどる。国衙と荘園領主の対立という大きな歴史の動きの一こまである地方武士の間の紛争の中で父を失った法然は父の遺言に従って出家し、その非凡な資質を見抜いた師僧によって比叡山延暦寺に送られる。比叡山は日本仏教界の棟梁と目されただけでなく、12世紀になると「広大な治外法権の所領と強大な軍事力を所有する一大権門へと変身をとげ」(28ページ)ていた。その一方で比叡山は多くのすぐれた学僧を擁し、仏教教学研究の中心地でもあった。

 歴史書『扶桑略記』の著者として知られる皇円に師事した法然は天台教学を学ぶが、18歳で彼のもとを去り、25年間の長きにわたり西塔黒谷にこもって隠遁の生活を送る。当時の世俗化した寺院が本来の仏教から離れていると考えた一部の僧侶たちの間には、より閑静な山奥にこもって修学に専念しようとする風潮が広がりはじめていた。いわば「二重出家」であり、「遁世」とも呼ばれる。法然がこもった黒谷には天台浄土教の大成者であった源信以来の浄土信仰が根付いていた。平安時代の浄土信仰では観想念仏が念仏の主流であり、称名念仏はそれに比べればより低級で不確実な行とみなされていた。法然はそうした伝統的な称名念仏の位置づけに疑問をもち、誰にでも実践可能な称名念仏だけで、必ず極楽へ行けるという確かな証拠はないかと模索を始める。

 法然は『往生要集』の中に中国の唐の時代の僧、善導の『往生礼賛偈』からの引用の中の「念々に相続して」という言葉を「称名念仏を続けて」と読んだ法然は、ここに問題を解く手がかりがあると信じて善導の書物を読みふけり、念仏こそが仏が人間をすくうために用意したただ一つの道であると確信するに至る。それは一番やさしい方法であるがゆえに、仏によって選ばれたのであると考えた。こうして得た確信を実践に移すべく法然は比叡山を出て西山の広谷に移り、やがて東山の大谷に居を構えた。法然43歳の時のことであった。

 8章と補足からなるこの書物の1章だけをやっと紹介したことになる。以下の章については後日また紹介していきたい。1章では法然の歩みを、彼以前の日本の仏教のあり方を視野に入れながら描いたのであるが、次章以下では、法然の思想を受け入れたのは誰か、それがどのような社会的な意味をもったのか、さらに鎌倉仏教の他の祖師たちとその周辺についても同様の考察が展開されることになる。

道半ば

1月15日(水)曇り、ひどく寒い

 道半ば

四捨五入すれば
七十歳になるところまで
年をとったが
自分の本質が
何か変わったか
――変わらない

それでも本を読むスピードは落ち、
道で人に追い越されることが増え、
酒の量は減り、
何よりも詩を書くことが
難しくなった

人生は幻化に似たり――と
陶淵明は老境の気持ちを
歌ったが
その年齢を超えて

これから何が起きるかわからない
人生の行く末を案じて
陶淵明をまねて
酒を飲む
舐めるように酒を飲み
詩想の涌くのを待つ

日記抄(1月8日~14日)

1月14日(火)晴れ、寒さが厳しかった。

 自宅の改築のため1月13日に引っ越しをした。このため、読書時間は減り、映画を見ることはできなかった。蔵書の大部分は梱包したままで改築された家に運ばれることになる。ブログを書くための条件は厳しくなるが、何とか続けていくつもりである。

1月9日(木)
 NHKの語学番組:「まいにちフランス語 応用編」、「まいにちイタリア語 応用編」ともに新しい内容がはじまる。フランス語は"Bon voyage, Manon! ~大阪・京都・奈良~”で講師は福島祥行さん、パートナーのマリーヌ・ジャコブさんがテキストの執筆にも協力している。関西弁でのフランス語講座、マノンの旅のゆくえとともにその展開が気になるところである。イタリア語は『インタビューで学ぼう! イタリア語』で講師は富永直人さん。ちょっと私にはレヴェルが高すぎる感じがする。最初にインタヴューを受けるのはアレッサンドロ・ジョヴァンニ・ジェレヴィーニさんで、よしもとばななさんや、松浦理英子さんの作品のイタリア語訳を手がけている翻訳家であり、日常のさまざまな出来事についてイタリア語と日本語とでつづったエッセー集Dolce Italiano は(主として日本語の方を)読んだことがある。ジェレヴィーニさんはヴァイオリン製作で名高いクレモナの出身であるが、この都市はローマ時代にさかのぼる歴史を持ち、そのため遺跡の保存をめぐる問題が市民を悩ませているというようなことが書いてあったと記憶する。別の記憶によれば、タキトゥスの『同時代史』の中にクレモナの攻囲戦を描いた個所があった。

1月10日(金)
 50枚を連番で購入した昨年末のジャンボ宝くじでは4等が2枚、5等が5枚当たったのだが、その賞金を交換した。4等が2枚当たったのは珍しいことであるが、それでも購入額のもとはとっていない。その後、デパートのエレヴェーターの中で貧血に見舞われる。寒さで血圧が不安定になっており、自重しないといけない。

1月11日(土)
 Eテレで『アイ・カーリー』の再放送をしているが、この日は第1回を放送した。出演者がまだ日本でいえば中学生の年齢であり、特にフレディーを演じているネーサン・クレスが子ども子どもしているのが目立った。

1月13日(月)
 引っ越しをする。学生時代の初めのころは下宿生活になれなかったためか盛んに引っ越しをした。周囲の友人たちも同じように引っ越しを繰り返す面々が多かったように思う。あるいは、そういう学生は例外的な存在で、類は友を呼んでいたのかもしれない。その後、就職して職場を変わるたびに引っ越しをした一方で、職場の方の都合で引っ越しさせられたこともある。そのたびにだんだん、荷物が増えてきたが、これからは減らす努力をかなり必死でしていかないといけないと思っているところである。

1月14日(火)
 1日遅くネコの引っ越しをする。2匹のネコの引っ越しは相当な難事業である。1匹は元気よく家の中を探検しているが、もう1匹はあまり元気がない。家の改築が終われば元の住処に戻れるのだが、しばらくの間の我慢という言葉は、ネコ語に翻訳できそうもない。改築後の住まいが気に入ってくれるかもわからない。 

南川高志『ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像』

1月13日(月)晴れ

 1月11日、南川高志『ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像』(講談社学術文庫)を読み終える。

 「ローマ五賢帝」とは、紀元96年にローマ帝国の皇帝となったネルウァに始まり、その後帝位を継承したトラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウスの5人の皇帝をいう。「五賢帝」という言い方は、日本独自のものらしいが、紀元2世紀とほぼ重なりあうこの5人の皇帝の治世の時代はローマ帝国がもっとも繁栄した時代であり、「人類がもっとも幸福であった時代」とまで言われる。

 このような評価は啓蒙時代の英国の歴史家ギボンの『ローマ帝国衰亡史』によって与えられ、その後多くの人々によって承認されてきたものである。ギボンは180年にマルクス=アウレリウスが死去して、その実子であるコンモドゥスが即位、暴政を行ったことにより、ローマ帝国の衰退がはじまったことを強調している(ずいぶん昔に、『ローマ帝国衰亡史』を読んだことを思い出した)。

 しかし、このような評価はあくまでも後世のものであって、同時代の人々、特にローマの一般庶民はそのように感じていなかったと著者はいう。前任者のトラヤヌスが築いた帝国最大の版図を維持し、巧みに統治しただけでなく、自身機知に満ちた人物でもあったハドリアヌスは「暴君」として悪評が高かったと指摘している。しかしそのような評価の中身も問題ではある。このように、「五賢帝」の時代は虚像と実像の両側面をもった時代であった。この書物は、そのような皇帝たちの虚像と実像とをトラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス=アウレリウスの3人の皇帝に焦点を当てながら描き出そうとしている(たしかに「五賢帝」のなかでもこの3人が知名度が高い)。

 トラヤヌスは今日のスペインに相当する地域の出身であり、その意味で新しい「ローマ人」であったが、新旧の平衡を心がけた人材登用を行い、帝国の安定と強化を実現した。特に彼が『皇帝の自由』と「ブルトゥス的自由」の融和を実現したという指摘や、彼の時代の主要な人間像である「教養を備えた貴族」、「文人政治家」をめぐる考察などは興味深い。

 ハドリアヌスはユルスナールの小説の主人公として知られるように複雑で気まぐれな人物であったようであるが、その生涯は起伏の連続であった。五賢帝の3番目というからさぞ安定した治世であったと思われがちだが、まったくそうではない。しかし彼が晩年に準備した後継者たちによって帝国の安定が維持されたことは確かである。「光と陰の両面を持ち合わせたこの皇帝の生涯は、ローマ皇帝権の本質がいかなるものであったのか、私たちに改めて深く考えさせてくれるのである」(176ページ)との締めくくりに著者のこの皇帝への思い入れを感じてしまう。

 マルクス=アウレリウスは彼の残した『自省録』によって知られる哲学者皇帝である。彼の治世は「五賢帝時代という平和と安定の最盛期というイメージとはほど遠い、危機と戦乱の時代であった」(209ページ)。彼はこの危機を新しい人材の登用によって乗り切ろうとした。このような統治者、政治家としての彼の一面に加えて、著者は彼の人間的な側面についても印象に残る記述をしている:「とにかく彼は真面目な人であった。闘技場で民衆に娯楽の見せ物を提供しているときも、彼自身はロイヤル・ボックスで文書を読んだり署名したりする仕事をしていた。そのためしばしば民衆に冷笑されたのである。ローマの民衆は、自分たちとともに見せものを楽しみ、一体となってくれるネロのような皇帝を歓迎した」(226ページ)。その一方で「多事困難な時期にこのような性格の人物が皇帝となって大帝国の責任を一身に負わなければならなくなったことは、ローマ人にとっては幸いであったかもしれないが、当の本人にとっては悲劇以外の何ものでもなかった」(同上)。

 著者はプロソポグラフィーと呼ばれる歴史上の個々人の伝記的資料の集成をもとにその時代の政治や社会の在り方を研究する方法を用いて、五賢帝時代における社会の指導層の変化をたどり、それをもとにこの時代の権力のあり方の光と陰とを描き出そうとしている(著者自身も認めているように、陰の部分のほうが強調されている)。表面だけ見ていると、皇帝が後継者を養子の形で決めることにより、政権の安定が保たれているように見えるが、それが実態とはかけ離れたものであると著者は論じている。むしろ帝国各地に広がった元老院議員たちの家族の間に広く婚姻関係が結ばれ、それによって生じる親族の意識が重要な役割を果たしていたという。「賢帝たちが安定した社会の階層構造の上に立ち、その最高位の元老院議員階層を広範囲にわたり支持基盤としつつ、彼らと不可分の関係を保つことによって帝国を統治できた。これこそが、最盛期ローマ帝国の内政安定の秘密といえよう」(231ページ)。

 しかしながら、帝国の拡大と外部との衝突は有能な軍人の必要を増し、身分制度の頂点にある元老院に新しい人材を送り込むことが求められた。そのことが階層構造の変化を生みだし、次第に帝国の基盤を掘り崩スことになったという。それは皇帝個人の資質を超えた大きな社会の変化であった。

 この書物のなかでも紹介されているように、五賢帝時代にはタキトゥスや小プリニウスのような元老院議員でもあり文人でもあった人々が活躍した。著者は触れていないが、タキトゥスの『ゲルマーニア』や『同時代史』にはタキトゥスが自分の時代と社会に抱いていた危機感が読みとれるのであり、そのことからも五賢帝時代をただ単に幸福な時代と賛美するのは軽率であるように思われる。

 今日の目で客観的に見たローマの歴史と、ローマ人自身が書き記した自分たちの歴史の両方からわれわれは多くのことを学ぶことができるし、また学ぶべきであると思う。その場合、自分を社会のどのような場所に位置付けて読み解いていくかが重要ではないか。出来るだけ気楽に人生を送りたいとは思うが、社会に対して無責任であってはならない。パンとサーカスを野次馬的に求めたローマの民衆を反面教師として、より賢い生き方を探るべきではないかと考える次第である。

那蘭陀寺と雷音寺の間

1月12日(日)晴れ

 むかし、京都に那蘭陀寺という寺があった。

 『徒然草』第179段に、入宋した道眼上人が一切経を持ち帰り、六波羅の辺りに那蘭陀寺という寺を創建したという話が語られている。道眼上人はここで大仏頂如来密因修証了義万行首楞厳経(首楞厳経)を講じた。首楞厳経の別名を中印度那蘭陀大道場経であったことにちなんで、寺の名をこのように名付けたという。ただし、この寺について触れている文献は『徒然草』だけだという話で、この段と第238段の2か所に登場するという。

 中インドのマガダ国の王舎城にあったナーランダ寺院はインド仏教の中心地で、玄奘がここで学んだことでも知られている。玄奘の西域・インド旅行は唐の初めの頃のことであったが、彼の事跡は特に日本ではその後長く敬慕の対象となった。『大唐西域記』が広く読まれ、多くの説話集の種本となり、『玄奘三蔵絵』という絵巻物が描かれたり、インドの地図である『五天竺図』に彼の旅行の道のりが描き込まれたりしたのはその何よりの証拠である。

 第179段では、商人が那蘭陀寺は大門が北向きだという大江匡房の説を、実際にインドのナーランダ寺院を訪問した玄奘や法顕の書き残したものに照らしたことを述べている。匡房の説は『十訓抄』などに見える由であるが、当時の権力者であった関白頼通が宇治の平等院を建てる際に、門を北側に建てざるを得ず、このことが妥当であるかどうかとの質問に応えたものだそうである。匡房は、インドでは那蘭陀寺、中国では玄奘がインドから戻って建てた西明寺、日本では六波羅蜜寺が北向きの門をもっておりますと答えたという。したがって上人の発言は直接的には玄奘の事跡に対する敬意を表明するものではないが、『西域記』が言及されていて、日本では玄奘の旅行そのものへの関心が衰えなかったことが示されているように思われる。寺の門を南向きにすべきか、北向きにすべきかという議論が取り上げられているものの、兼好は自分の意見を述べていない。六波羅蜜寺は何度か訪問したことがあり、現在では門は東側にあるのではないかと記憶するのだが、どなたかご教示ください。とはいえ私としては、寺の門の向きなどはどうでもいいが、昔、京都に那蘭陀寺という寺があったという事実そのものに興味がわく。一方、中国では宋の時代といえば、『西遊記』の原型の一つである『大唐三蔵取経詩話』が書かれたことに示されるように、玄奘の事跡がさまざまな創造によって変形し、膨らまされて、次第に物語化への道を歩んでいたのである。

 『西遊記』で三蔵たちの一行が目指すのは、天竺国霊鷲山雷音寺であって、那蘭陀寺ではない。実在した那蘭陀寺に代わって現実を超越した聖地の寺である雷音寺が設定されている。霊鷲山は中印度に実在する山であるが、釈尊が『法華経』などを講じた場所として知られ、仏教の聖地の一つである。天台大師智顗が南岳大師慧思に初めて会った際に、よく来られた、そなたとこの前にあったのは、釈尊が霊鷲山で法華経を講じられたときであったなと話しかけたのは仏教の世界では有名な説話である。京都にもこの山に形が似ているということから、霊山と名づけられた山がある。とはいうものの、インドに出かけて霊鷲山を見て帰って来た人は近代にいたるまでいなかったはずである。現在はインドに出かけて仏跡をめぐる旅行が盛んになっていて、霊鷲山もそのコースの中に含まれているはずだから、実際に見た人は少なくないはずであるが、もはや山の形が似ているかどうかは問題にならないくらいに既成事実化してしまったようである。

 日本の古典的な文献のなかには玄奘三蔵をめぐる、ひょっとすると『西遊記』の成立史と関連するかもしれない説話が豊富に含まれているのではないかと思われる。そういう説話を見つけていくこともおもしろいのではないかと考えているところである。

霜柱

1月11日(土)晴れ

 まだ勤めていたころ、集団登校の小学生たちを見かけて書いた詩:

 霜柱

街路樹の根元に
少しだけ
顔をのぞかせた土に
霜柱を見つけた

子どもの頃
霜柱を踏みながら小学校に出かけ
霜が解けた泥の道を
家へと戻ったものだが・・・

集団登校の子どもたちは急ぎ足で
舗装された冷たい道を歩いている
でも、気づいてほしいものだ

歩道と街路樹と信号と
街の人々の他に
土だって君たちを支えていることを

ウィルキー・コリンズ『月長石』(22)

1月10日(金)晴れ、ひどく寒かった

 悪名高い軍人であったハーンカスル大佐によってインドから英国に持ち込まれた巨大な黄色いダイヤモンド=月長石はもともとインドの神殿の月神の像を飾る宝石であり、その行方は3人のバラモン僧によって世代を超えて見守り続けられ、元の場所に戻されようとしてきた。大佐の遺言によって宝石は彼の姪であるレイチェル・ヴェリンダーの18歳の誕生日の贈り物として、彼女の従兄であり求婚者でもあるフランクリンによって届けられたが、誕生祝いの席で彼女の身を飾った翌朝に行方不明となった。

 地元の警察によって解明されなかった事件は、ロンドンからやってきたカッフ部長刑事の手に委ねられるが、彼もレイチェルの沈黙によって事件の真相に迫ることができない。誕生祝いの席に現れた3人のインド人手品師たち、邸の下働きの女中で前科のあるロザンナ・スピアマン、そして事件をきっかけに挙動が一変したレイチェル自身に嫌疑がかかるが、どれも決定的な証拠を見つけることができない。

 事件の後、怪しげな金貸しであるルーカーと、レイチェルのもう1人の従兄で求婚者であるゴドフリー・エーブルホワイトがロンドンでインド人から襲撃を受けるという事件が起き、ゴドフリーが月長石をもっているのではないかとの世間の噂が起きるが、ほかならぬレイチェルが彼の無実の証拠をもっていると口を開く。彼女は事件の後ロンドンのタウンハウスで心身を休めていたのである。ゴドフリーは彼女に求婚し、承諾を得るが、その直後にレイチェルの母であるヴェリンダー卿夫人が急死する。ゴドフリーの父がレイチェルの後見人となり、2人の結婚も間近と思われるが、レイチェルは(どうやら一家の顧問弁護士であるブラッフの入れ知恵により)婚約を破棄する。

 これまでの経緯は、ヴェリンダー家の執事であるベタレッジと、レイチェルの従姉であるクラックの口から語られてきたが、今度はブラッフが事件の証言者となる。ところで創元推理文庫の中村能三の訳では「クレイズ・イン・スクエアの弁護士マシュウ・ブラッフの寄稿」となっているこの部分は、Penguin Popular Classics版では”Contributed by Matthew Bruff, Solicitor, of Gray's Inn Squareとある。「クレイズ・イン・スクエア」という地名はなく、「グレイズ・イン・スクエア」は実在することからも、後者が正しく、翻訳者がなぜか間違えたように思われるが、そう考えると奇妙なことがある。既に何度か述べたように、イングランドの司法制度の中で、barrister(法廷弁護士)とsolicitor(事務弁護士)は区別される。グレイズ・インというのはロンドンの4法曹学院(Inns of Court)の1つで、法廷弁護士や裁判官はこの法曹学院のどれかの会員であることを求められているが、ブラッフは事務弁護士なのでここに事務所をもっているとは考えにくい。登場人物のなかではゴドフリーが、またこの作品の作者であるコリンズ自身が法廷弁護士の資格をもっていたということを考えると、どうもこのあたりの設定は奇妙である。

 ブラッフはこれも既に述べたようにレイチェルにゴドフリーとの婚約を破棄するよう助言した当の本人であり、その事情について語る。また彼自身が気づかないうちに月長石の事件に巻き込まれることになった経緯も語る。

 レイチェルの父であるジョン・ヴェリンダー卿は生前、ブラッフの度重なる勧めにもかかわらず遺言状を作成せず、結局妻であるヴェリンダー卿夫人にすべてを一任する形で世を去った。そこでヴェリンダー卿夫人は自分自身の遺言状を作成して財産の相続について決めた。その後、月長石の事件が起きて娘とともにロンドンにやってきた彼女は余命が短いことを知らされて遺言を修正したが、それは根本的なものではなかったとブラッフはいう。娘の性格を心配したヴェリンダー卿夫人はレイチェルが終身財産権しか受け継がないように定めた。「母親の良識と私の長い経験によって、レイチェルを一切の責任から解放し、将来だれかすかんぴんで破廉恥な男の犠牲になる危険から守ったのである。彼女もその夫も結婚した場合ともに不動産からも動産からも、鐚一文たりと得ることはできない。二人はロンドンとヨークシャの邸を持ち、かなりの収入を得る――ただそれだけであった」(447ページ)。

 ヴェリンダー卿夫人の死後、遺書が「検認」を受けて3週間ほどたって、ブラッフはただならぬ情報を得る。ヴェリンダー卿夫人の遺言状が既に閲覧の請求を受けているというのである。当時のイングランドではすべての遺言状はDoctors' Commons (中村訳では「民法博士会館」と訳されている。『リーダーズ英和』でも同様に訳され、1857年まで遺言検証・結婚許可・離婚事務などを扱っていたという)で1シリングの手数料を払えば閲覧できた。ヴェリンダー卿夫人の遺言状はまだ原簿に書きうつされていなかったので、もともとの文書そのものが閲覧されたという。閲覧した人物の属する法律事務所はブラッフの影響力の及ぶ範囲であったので、彼がだれの依頼で閲覧したかをブラッフはつきとめることができた。それはゴドフリー・エーブルホワイトであった。

 慈善事業のために寄付を求める弁舌家として知られるゴドフリーであるが、ブラッフは彼を口先だけの人間だとしてよく思っていなかった。彼が遺言状を調べてから1週間もたたないうちにレイチェルに求婚したという噂を聞いてブラッフは思案する。レイチェルはヴェリンダー家の膨大な財産に手をつけることができない。ゴドフリーが裕福であれば、レイチェルの収入だけでも結婚する価値はある。しかし彼が切羽詰まった状態にあるとすれば、ヴェリンダー卿夫人の遺言状がものを言って、財産はゴドフリーの手にわたることはない。母親を失った直後のレイチェルに真相を暴露することはためらわれるが、彼女の意向を確かめる必要を感じたブラッフはブライトンに向かうレイチェルに同行する機会に恵まれ、この機会を利用する。そしてレイチェルがゴドフリーとの結婚に希望を抱いていないこと、逆にゴドフリーは希望を抱いているらしいことを知る。ブラッフからゴドフリーが遺言状の内容を調べた次第を聞いたレイチェルは彼との婚約を破棄する決心をする。その一方で月長石の一件でレイチェルの心が傷ついたままであることをブラッフは知るのである。

 月長石の紛失を境に、レイチェルがフランクリンに対する態度を一変させたこと、この事件についてほとんど証言を拒んできたことが彼女への疑惑を生んできたのだが、その彼女がゴドフリーをめぐって湧き上がってきた疑惑を否定してきたのには何か理由があるはずである。しかし、ゴドフリーにも何か秘密がありそうである。レイチェルの愛を失って、海外へと旅立ったフランクリンはもう戻らないのか? その前に月長石をめぐってブラッフが語るべきことはまだいくつかあるようである。 

アガサ・クリスティー『葬儀を終えて』

1月9日(木)曇り

 『葬儀を終えて』(After the Funeral,1953)は戦後の英国社会の変化の中で起きた事件を解決していくエルキュール・ポアロの活躍を、遺産相続をめぐる世代間の対立を織り込みながら描いており、クリスティーの作品中の傑作に数えられている。

 イングランド北部の豪壮な邸宅エンダビー・ホールの主人である富豪のリチャード・アバネシーが急死して、その葬儀に参列した一族が一堂に会する。リチャードは68歳であったが、息子のモーティマーに先立たれたのがこたえたようである。本来モーティマーが継ぐべき彼の莫大な遺産をめぐり、書きかえられた遺言が一家の顧問弁護士で遺言執行者であるエントウィッスルによって発表される。慈善事業への寄付と忠実に仕えてきた執事のランズコムへの年金を除いた残りを6つに均等に分割し、そのうちの4つは税金を払った後、リチャードの弟のティモシーと、甥のジョージ・クロスフィールド、姪のスーザン・バンクス、同じく姪のロザムンド・シェーンに渡される。残りの2つは信託に回されて、そこから上がる収入をリチャードの亡き弟レオの妻ヘレン・アバネシーと、リチャードの妹コーラ・ランスケネに終身支払うことになる。この2人が死亡した場合は、その元金が残る4人に均等に配分されることになる。

 モーティマーが死んだ後に、リチャードは一族の誰か1人に財産をそのまま譲るつもりであったが、弟のティモシーは病身(というよりも、病身であることを理由に消極的な生活を送っており)、甥のジョージは法律関係の仕事をしているとはいうもののギャンブルにのめり込み、周囲の信用がない、スーザンはすぐれた素質をもつ女性であるが、配偶者のグレゴリー・バンクスの精神状態に問題がある、ロザムンドは女優で夫で俳優のマイクル・シェーンとはお似合いのカップルに見えるが、俳優という職業に信頼できないところがあるうえに、ロザムンドは頭が足りないし、マイクルは必要以上に野心的に思われる。ということでリチャードはやむなく財産の等分を決心したようである。

 エントウィッスルの発表を聞いて、みんなが雑談に移りかけた時、コーラが突然奇妙なことを言い出す:「でも、うまくもみ消しちゃったわねえ・・・だって、リチャードは殺されたんでしょう?」

 コーラは一族の中で愚かなだけでなく、精神的に平衡を欠いたところがあるとみられていた。子どものころから言わずもがなの真実をぶちまけてしまうので、みんなが迷惑してきた存在である。彼女の発言はすぐに取り消されるが、一族の中に波紋を広げる。

 翌日、エントウィッスルのもとにコーラが何者かに殺されたという知らせが入る。発見者は彼女と同居して、その世話をしていたギルクリストという初老の女性である。コーラは優れた芸術家だと思い込んで周囲の反対を押し切り結婚した夫に死に別れ、戦後、彼女と同居したのである。コーラ自身も風景画を描き、画家の娘であったギルクリストとはうまくやってきたという。

 エントウィッスルは現場を訪ね、警察の担当者と会い、また一族の人々を訪問する。しかし、事件の手がかりはつかめない。そこで旧知のエルキュール・ポアロに事件の捜査を依頼する。はたしてリチャードは本当に殺されたのか、コーラはだれに殺されたのか、2つの事件は関係があるのか、あるとすればどのような関係なのか、風変わりな人物の多い一族の、愛憎と利害の入り組んだ人間関係の中でポアロの捜査が続けられる。

 犯人(と動機)の意外性、小道具の使い方など巧みに構成された小説であり、エントウィッスルをはじめ、これもポアロの旧知である地元警察のモートン警部、一族のスーザンやジョージもそれぞれ独自の調査を行う。もし、ポアロが知っていればもっと早く事件が解決したかもしれない・・・と思わされる部分が少なくないのが語り口の妙である。

 推理小説としての物語の展開の背景をなしている世相がしっかりととらえられているのもこの作品の特色である。無気力なティモシーと新しい事業に情熱を燃やすスーザンをはじめとする若い世代の対立が、福祉国家へと歩み始め、不労所得者に厳しくなりはじめた世相を背景に描かれている。女性であるクリスティーは、新しい時代に女性の役割が大きくなることに期待するような筆致でスーザンを描き、その一方でこれまでの英国を支えてきた女性としてヘレンやティモシーの妻モードの姿もしっかりと描き込んでいる。伝統にこだわりながらも新しいものに理解を示すというところがクリスティーが多くの英国の読者の心をとらえた理由であろう。
 

2013年の2013

1月8日(水)予報では雨が降るということだが、今のところ晴れたり曇ったり

 2013年にしたこと(あるいはしなかったこと)を2013の数字にまとめてみた。

 書いたブログ:373
 頂いた拍手:632
 コメント: 8
 トラックバック: 4
 読んだ本:122
 本を買った書店: 7(紀伊国屋本店、渋谷店、そごう横浜店、三省堂本店、有楽町店、丸善ジュンク堂渋谷店、ヨドバシカメラ横浜店)
 見た映画: 73
 出かけた映画館: 21
 ラジオのフランス語の時間:236
 同じくイタリア語の時間:233
 カルチャーラジオ:29
 観戦したサッカーの試合:13
 宝くじあたり:24
 アンケートあたり:1
 酒を飲まなかった日:186
 出かけた市区町村:13(文京区、千代田区、中央区、中野区、新宿区、渋谷区、品川区、港区、大田区、川崎市、横浜市、逗子市、小田原市)
 利用した駅:38(西早稲田、新宿三丁目、渋谷、新丸子、反町、横浜、新高島、馬車道、本駒込、白金台、目黒、白山、神保町、日比谷、御成門、九段下、表参道、永田町、虎ノ門、四谷、宝町、東銀座、京急川崎、子安、仲木戸、日ノ出町、黄金町、新逗子、高田馬場、東中野、原宿、有楽町、新橋、大森、川崎、新横浜、桜木町、小田原)
 以上の合計が2013になるはずである。もし計算が間違っていれば、別の数字をもってきて修正すればよく、予備の数字はいくつか準備している。例えば、京急川崎と川崎と同一の駅と考えれば、駅の数は1つ減るが、その代わりにサッカーを見に出かけたスタジアム2(ニッパツ三ツ沢と等々力)を入れて、アンケートの当たりを取り除けば、調整できる。
 2014年も2014を目指すつもりであるが、どのように数字をそろえていくかについてははっきりしたことを決めていない。
 

日記抄(1月1日~7日)

1月7日(火)七草/晴れたり曇ったり

 1月1日~7日にかけて起きたこと、考えたことなど(既に何度か書いたが、喪中であり、風邪をひき、なかなかはかどらない引越し作業を抱えて、正月気分どころではない。例年ならば三ツ沢、調子に乗ると国立に高校サッカーを見に出かけているのだが、今年は家の中にこもりがちである:

1月1日
 日向ノエミア『悪いけど、日本人じゃないの』を読み終える。日本人移民の両親をもち、ブラジルで育ったが日本に留学して日本人男性と結婚し、現在は日本に住んでいる女性による自分自身の経験を通して語られる比較文化、異文化接触論。いろいろなことが書かれているのだが、控えめで下でにでる日本的なコミュニケーション(ただし日本人のすべてがこのスタイルをとるわけではないのも確かである)を国際的にもっと生かすべきだという主張が注目される。この本についてはあらためて紹介してみたいのだが、なかなか自分の意見をまとめることができないでいる。

1月2日
 この日に書いたブログの補足:昨年の2月18日に神奈川県立音楽堂が還暦を迎えたということなのだが、そういえばここでピアノを弾いたことがある。やはりブルグミュラーの練習曲であった。子どもの頃に音楽をやっていたからといって音楽家になるわけでもないし、音楽が好きになるわけでもない。音楽を外国語に置き換えてみてもよさそうだ。

1月3日
 箱根駅伝で東洋大学が優勝したが、監督による選手のコンディションの調整がうまくいった結果だろうと思う。練習計画を立て、その通りに実施していくことは難しい。個人でも難しいことを集団でやり遂げていくのだから、相当な苦労があったのだろうと推察される。

1月4日/5日
 引越しの準備を進めるが、いろいろと邪魔になることがでてきて捗らない。

1月6日
 NHKラジオまいにちフランス語初級編「百合のFranceウォッチング」は、主人公の百合が北部のブルターニュ地方の都市であるレンヌにいる姉のところに赴く場面となる。フランス語の時間で舞台となる地方都市は北部と西部にあることが多いように思うのだが、どうだろうか。何年間もフランス語の時間を聴いているわりに、練習問題など間違えることが少なくない。もう少し緊張感をもって頑張らないといけない。

1月7日
 荷物を整理していると、昔撮った写真がでてくる。いつ、どこで撮ったのか忘れていたり、わからないものも少なくない。集合写真など、自分がどのあたり、だれと並んで写っているのか、あらためて自分自身を発見し直すことになる。

2013年に見た映画について

1月6日(月)晴れ

 2013年は合計73本の映画を映画館で見た。この他にテレビで何本かの映画を見ている。73本というのは、30代の前半までの年間100本を超える映画を見ていた時代に比べれば大したことはないが、近年にないことである。昨年は47本であった。見る映画の数が増えてきたことについては映画館入場にシニア割引が使えることが大きいようである。

 月並みだが、2013年度の日本映画のベスト・テンを選んでおくと①ももいろそらを、②ヨコハマ物語、③ペタル・ダンス、④横道世之介、⑤そして父になる、⑥俺俺、⑦台湾アイデンティティ、⑧上京ものがたり、⑨ケンとメリー 雨上がりの夜空に、⑩すーちゃん まいちゃん さわ子さん
ということになる。『ももいろそらを』が2013年度の作品になるかどうかわからず、また『台湾アイデンティティ』は文化映画だということになれば、『さよならドビュッシー』と『爆心長崎の空』を繰り上げることになる。『ももいろそらを』の手作り感にあふれる画面構成と即興的な演出が強い印象を残した。その他では主演・助演を含めて北乃きいさんの出演作を多く見ているのが特徴的であるが、結果的にそうなったということである。ただ、彼女の元気のいい演技には注目しており、今後のさらなる活躍を期待したい。この部門は20本からの選出。

 2012年度以前の日本映画では①幕末太陽傳、②張込み、③探偵事務所23、④風の武士、⑤白夫人の妖恋、⑥とんかつ大将、⑦ひばりのお嬢さん社長、⑧影なき声、⑨坊っちゃん、⑩映画女優
というところだろうか。16本からの選出。映画としての完成度よりも、好き嫌いを優先させた順位である。

 2013年度公開の外国映画のベスト・テンは①駆ける少年、②海と大陸、③壊された5つのカメラ、④シュガーマン 奇跡に愛された男、⑥ジンジャーの朝、⑦天使の分け前、⑧スタンリーのお弁当箱、⑨世界にひとつのプレイブック、⑩ムーンライズキングダム
ということで、25本からの選出。これまたできのいい作品よりも、自分の心に響くところの大きかった映画を優先させた。日本映画同様に、大作よりも手作り感のある作品のほうに感動することが多かった。

 2012年度以前に公開された外国映画では①アタラント号、②悪魔の美しさ、③第七の封印、④麗しのサブリナ、⑤パリの恋人、⑥マルクス兄弟デパート騒動、⑦若き日のリンカーン、⑧沈黙の声、⑨007スカイフォール
となる。12本からの選出。この分野はもう少し作品を見に出かけてもよかったと悔やんでいる。

 もっともよく出かけた映画館は横浜シネマジャック&ベティでベティに9回、ジャックに6回合計15回出かけて15本の映画を見ている。以下、109シネマズMM横浜で13本、神保町シアターで10本、シネマヴェーラ渋谷で6本(2本立てなので出かけたのは3回)、イメージフォーラムで4本、109シネマズ川崎と横浜ムービルでそれぞれ3本、横浜ブルク13、キネカ大森、銀座シネスイッチ、横浜ニューテアトル、ユーロスペースで各2本、アップリンクX、角川シネマ有楽町、銀座テアトルシネマ、東京国立近代美術館フィルムセンター、ポレポレ東中野、ヒューマントラスト渋谷、新宿ピカデリー、渋谷シネマライズ、BUNKAMURAル・シネマで各1本を見ている。横浜ブルク13、キネカ大森、角川シネマ有楽町、ポレポレ東中野、ヒューマントラスト渋谷、新宿ピカデリーには初めて出かけた。また銀座テアトルシネマはその後閉館した。何度か出かけていた映画館であり、なくなったのはさびしい。

 本来ならばそろそろ映画を見に出かけてもいい頃なのだが、風邪が治りきらないのと引越しの準備で出かける余裕がない。月末までには動き出そうと思っているところである。

 お読みのうえ、ご意見・ご感想、あるいはご自分で選んだベストテンをコメントの形で頂ければ幸いである。

つらら

1月5日(日)曇り後晴れ

 昔、北国で暮らしていたころに書いた詩を紹介する。実際に自分の家の近くで見かけた情景をそのまま書いたものだが、この時の小学生たちは今や30代半ばにはなっているはずである:


 つらら

どこで手に入れたのだろうか
バットくらいもありそうな
大きなつららを手に
小学生の一団が駆けていく

いくら大事に持っていても
いつかは溶けてしまうはずなのに
嬉しそうに叫びながら
駆けていく

ぼくが子どもの頃
こんなふうに 駆けていく
子どもたちを見る 大人になるなんて
想像できなかった
大きなつららができる
北の国で暮らすなどと
思いもしなかった

いま、つららをもって
駆けている小学生たちは
どんな大人になると 想像しているのか
そして大人になったときに
どんな思い出をもつのだろうか
つららのことを
覚えているのだろうか

語学放浪記(22)

1月4日(土)晴れ

 スペイン語にかなり長い間のめり込んでいた理由の一つは、日本人にとって発音が簡単だということではなかったかと思う。したがって音読しやすい。何となく気分が乗ってくるということであった。現在はフランス語とイタリア語を勉強していて、フランス語のほうが勉強している年数や蓄えてきた知識は多いにもかかわらず、発音に今ひとつ自信が持てないままであるのに対して、イタリア語はそれなりに発音できるので、少しずつやる気を増しているという現状である。外国語を勉強する際に発音は重要であるとあらためて思う。

 外国語を学習するとき、自分が正確に発音しているかどうかというのはその後の学習に大きな影響をもつ。中学で英語を習いはじめたときに、発音を褒められた同級生がいて、彼はそれで自信をもって英語を話すことに興味を持ち、後にある一流大学の英語部の主将になった。彼のその後の人生がまた面白いのだが、それは彼自身が語ればよいことである。以前にも書いたように、私は小学校時代に英語を勉強していたのであるが、発音を褒められることはなく、中途半端なままで現在にいたっている。英語のように文字面と発音の関係がかなり無秩序な言語の場合、とにかく勉強して両者の関係に慣れなくてはいけないし、それにはすぐれた指導者の存在が不可欠である。ただ単に早く教えればよいというものではない。早い時期にいい加減な指導者にであったり、よい指導者にであってもいい加減に勉強したりすればその効果はないと知るべきである。

 幸い、英語に比べて、その他のヨーロッパの言語は文字面と発音の関係に規則性がある(すべてがそうだというほどこちらは勉強しているわけではないが、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語についてはそう言える)。だから第二外国語以後の学習は少し楽になるはずだが、英語でさんざん骨を折ってしまうと、それどころではなくなる場合が多いようである。第二外国語のテキストを音読する際についつい英語風に読んでしまうということが起こりうる。発音に限ってみると、既習の言語の知識を新たな言語に生かすよりも、既習の言語はいったん忘れてしまう思い切りが求められる。

 実際問題としてラテン語のように話す必要がない言語であっても、音読することはどの程度自分が内容を理解しているかを確認する意味もあって必要である。ラテン語の勉強をはじめてしばらくしたころ、やはり自分がしている発音を確認したいという願望に取りつかれ、ロンドンのある本屋で初心者用のテキストとカセット・テープを買った。ところがとでカセット・テープを受け取らずに店を出たことにあとになって気づいた。こういう場合に、本屋で説明するのは一苦労で、何をどうやって説明したのか、記憶はないが、とにかくカセットを無事手に入れて、帰国してからラテン語の発音を聴いたのを覚えている。rの発音が特に印象に残った。現在では白水社の「エクスプレス」シリーズのラテン語のCDで発音を知ることができるから、そういう苦労はしなくていいはずである。

 ヨーロッパ以外の言語についてもやはり発音は重要である。尾崎雄二郎先生は中国語音韻学の大家であったのだが、その教え子は発音が悪いという噂があった。大先生ほど雑魚には寛容なようである。それでも先生の教育力は大したものであった。引越しのために荷物の整理をしていたら、大学時代に使った中国語中級のテキストがでてきた。魯迅の『彷徨』なのだが、拼音での書き込みが詳しくされていると思いきや、ほとんど見当たらなかった。仲間内で示し合わせて分担者を決めて、その分担者だけがしっかり予習して授業に臨むというやり方をしていたこともあるが、それなりに中国語の学力が身についていたのだと思い直した次第である。今ではどの漢字をどのように発音するか、見当のつかないもののほうが多い。勉強は長続きさせるべきである。

ウィルキー・コリンズ『月長石』(21)

1月3日(金)晴れ

 昨日、高橋哲雄『ミステリーの社会学』(中公新書、1989)を読み終えた。今更ながらという感じであるが、この書物が発行された当時は仕事に追われて推理小説どころではなかったことを考えると、多少は推理小説を読みためた後に読んだことで、より深く理解できるとも思う。その一方でその後の社会情勢とミステリー界の変化(たとえば、この本では推理小説がない国と断定されていたドイツでもミステリーが盛んになってきている)がとらえられていないことはやむを得ないところであろう。著者はコリンズと『月長石』にもかなりの言及を行っており、教えられるところが少なくない。

 さて、『月長石』という長編小説について、ようやくその半分くらいのところまで紹介してきた。とにかくこれまでのあらすじを紹介するだけで2~3段落は必要になるところまで進んできたが、我慢してお付き合い願いたい。インドの財宝<月長石>と呼ばれる黄色い巨大なダイヤモンドはある謎めいた経緯によって(暴力によるものだと噂される)英国の軍人ハーンカスル大佐の手に入り、英国に持ち込まれる。彼はさまざまな悪評のため一族から除け者にされて、その生涯を終えるが、自分の妹のヴェリンダー卿夫人の娘であるレイチェルにダイヤモンドを贈ろうとする。実はこのダイヤモンドには呪いが掛けられているという伝説があり、宝石を世代を超えて見守ってきた3人のバラモンたちの影が見え隠れしているのである。

 ヴェリンダー卿夫人は一族の中でもっともハーンカスル大佐を嫌っていた人物であった。宝石は彼女の姉の息子であるフランクリン・ブレークの手でヨークシャーのヴェリンダー家の邸宅に運ばれ、レイチェルの誕生祝いの席で披露されるが、その翌日、レイチェルの居室から姿を消していた。犯人だとして拘留された3人のインド人たちは無実であると分かり、疑いは邸の中に居合わせた人々に向けられる。フランクリンがロンドンから呼んだ犯罪捜査の名人カッフ巡査部長は、前科のある使用人であるロザンナ・スピアマンに疑いの目を向け、かつ事件後のレイチェルの証言の拒否にも厳しい態度をとるが、事件の解明には至らない。そしてロザンナは自殺し、謎を残したまま、カッフも去る。フランクリンは事件のあとレイチェルの自分に対する態度が変わったことに失望して海外に旅行に出かける。

 事件のしばらくのちに、レイチェルのもう1人の従兄であり、慈善運動家として知られるゴドフリー・エーブルホワイトがロンドンで、悪いうわさの絶えない金貸しのルーカーとともにインド人らしい謎の人物に襲われるという事件が起きる。このため、月長石を盗んだのはゴドフリーではないかといううわさが広まるが、事件の衝撃を和らげるためにロンドンで静養中のレイチェルはこのうわさを否定する。ゴドフリーとレイチェルの間が親密になり、ゴドフリーはレイチェルに求婚し、承諾を得るが、しばらくは母であるヴェリンダー卿夫人に内密にしておこうといい交わす。ところがその直後にヴェリンダー卿夫人が急死する。

 前回にも書いたのだが、この作品に登場する人物の中で人間的にバランスがとれていて賢明であるという点でヴェリンダー卿夫人に勝る人物はいない。彼女はロンドンで自分の死期が近いことを知らされ、姪のクラックを立会人に選んで遺言書を作成する(その内容はいずれ明らかになる)。中村能三訳では夫人となっているところを今回わざわざ卿夫人と書いたのは、この作品では<階級>が物語の中でのポイントになっていると思うからである。「卿夫人」というのはLadyに対応し、女性の侯・伯・子・男爵、Lord(侯・伯・子・男爵)とSir(baronetとnight)の夫人および、公・侯・伯爵の令嬢につける称号である。今は亡きヴェリンダー卿はSir Verinderと呼ばれているから、おそらくはbaronetであろう。

 ヴェリンダー卿夫人の死後、レイチェルは未成年であるので、後見人が必要となり、ヴェリンダー卿夫人の次姉のカロラインの夫であるエーブルホワイト(ゴドフリーの父)が選ばれる。ロンドンの邸(タウン・ハウス)は母親の死の思い出が、ヨークシャーの邸(カントリー・ハウス)は月長石の思い出が付きまとって住まう気持ちになれず、エーブルホワイト氏の邸は他の家族に気を遣うので好ましくなく、ということからブライトンに貸し家を借りてレイチェルはカロライン、その病身の娘と同居し、ゴドフリーがロンドンとブライトンを往復することになる。ヴェリンダー卿夫人がなくなったため、レイチェルとゴドフリーの婚約は一族の周知の事実となる。

 ヴェリンダー卿夫人の葬儀がヨークシャーで行われるが、クラックは叔母の死の数日後にその衝撃から立ち直って葬儀に参加することは自分の信仰上からも出来ないことであったと述べる。それに葬儀を司式するのはクラックの目から見ると腐敗堕落した教区牧師(Rector)であった。中村訳によると「前にわたくしは、その神に見放された聖職者が、ヴェリンダー夫人のトランプ台に向かって祈祷していたのを目撃していたことがありましたので」(400ページ)となっており、これは意味が通じないので原文にあたってみるとHaving myself in past times seen this clerical castaway making one of the players at Lady Verinder's myself in past times seen this clerical castaway making one of the players at Lady Verinder's whist-table(Penguin Popular Classics, p.243)となっていて、訳しにくい文章だが、「以前に私はこの聖職者の屑がヴェリンダー卿夫人のホイストのテーブルを囲む仲間の一人となっていたのを見たことがあり」くらいが妥当ではないか。教区牧師が地主の奥方とホイストをするのは、この時代としては不思議なことではなかっただろう。とにかくトランプ・ゲームの一種であるホイストを聖職者がたしなむのはけしからんというのがクラックの意見である。(ホイストというゲームは今ではブリッジにとって代わられてしまったが、昔は盛んであったらしい。ホームズの「赤毛同盟」にも週末には必ずホイストをするという銀行家が登場している。)
 
 カロラインは自分でものを決めることができない性質で、召使の人選などをクラックに一任する。「熱心な」キリスト教とのクラックは自分の意向にそった人選を進め、カロラインやレイチェルを自分の望む信仰の道に導こうと用意する。ところが、ブライトンで待っていると、一向につきそってきたのはゴドフリーではなくて、ヴェリンダー家の顧問弁護士であるブラッフであった。彼はヴェリンダー卿夫人の遺言書の作成の際に月長石をめぐりクラックと議論したことがある人物である。「この老俗物が何やら魂胆あってブライトンへきたのだなと、わたくしは納得しました」(407ページ)。ただやってきたというだけでなく、彼はそのまま夜まで居座ってやっと引き上げた。翌日、クラックはレイチェルを自分の信仰する教会に連れてゆくが、レイチェルは頭が痛くなっただけだという。帰宅すると昼食の席にブラッフが座っており、頭痛で何も食べたくないというレイチェルを散歩に連れ出す。帰って来た時、ブラッフはレイチェルに「決心ははっきり決まっておりますな?」と尋ね、レイチェルの決心を確かめてブライトンを去ってゆく。クラックはレイチェルに2人で何を話したのかを尋ね、彼女の機嫌を損ねる。尚も強引に会話を進め、彼女がゴドフリーとの結婚を取りやめると決心したことを知る。クラックはこのことがレイチェルを苦境に導くのではないかと予測し、それは彼女を自分と同じ信仰に導く機会となるかもしれないとも考える。

 翌朝、外出から戻ったクラックはレイチェルを訪問してきたゴドフリーに出逢う。ゴドフリーはレイチェルにあったこと、彼女から婚約の破棄を告げられたことを予測に反し平然とした態度で告げる。レイチェルには他に意中の人がいて、その人を忘れようと思ったためにいったんは婚約を承諾したのだという。クラックはゴドフリーを慰め、また慈善事業に戻るように勧める。ゴドフリーがこのような行動をとったのには、他人に隠している内密の事情があったからだという噂、さらに慈善事業に戻ろうとしたのは団体のある婦人委員と仲直りするためであったという噂があることを記したうえで、クラックはそれを否定する。

 クラックは婚約破棄がゴドフリーの父親であるエーブルホワイト氏の機嫌を損ねることになるだろうと予測する。そのエーブルホワイト氏がブライトンにやってくるが、同じころ合いにブラッフも到着する。エーブルホワイト氏に向かってレイチェルははっきりとゴドフリーとの婚約を破棄したと述べる。お互いにお互いを自由にし、もっとよい相手を見つける機会を与えあうべきだという。エーブルホワイト氏はハーンカスル一族(おそらくは貴族である)の誇りが銀行家(中流階級である)を見下しているのかと問い詰める(英国的な階級観が顔を出している)。クラックは議論の中で信仰問題をもちだして全員から邪魔者扱いをされる。エーブルホワイト氏に代わる新しい後見人を選ぶことになり、それまでレイチェルはブラッフの家に滞在することになる。そしてブラッフとともに(召使のペネロープを連れて)ブライトンを去ってゆく。

 <月長石>の物語についてクラックが語る部分はこれで終わり、次にブラッフが証言することになる。レイチェルの婚約破棄の背景はブラッフの証言によって明らかにされる。クラックはこの後金融市場の変動のために僅かな財産さえも失い、英国からフランス(ブルターニュ地方)に移住するという悲運に恵まれる。ゴドフリーが仲直りしようとした婦人委員の遺産がクラックのもとに転がり込んでいれば事件の展開は違ったかもしれないのだが、そういうことについて彼女は一言も書いていない。偽善か、愚鈍か、ただのやせ我慢か。

 最初の証言である執事のベタレッジの手記に出てくるように、ハーンカスル家の3姉妹の長女アデレイドは大富豪で公爵位をめぐる訴訟を起こしたブレークと結婚し、二女のカロラインは失恋の末銀行家のエーブルホワイトと結婚し、三女のジュリアはヴェリンダー卿と結婚した。長女と三女は自分たちの階級に見合った相手を選んだのだが、二女はそうではなかったという経緯が物語に影を落としている(その後の英国社会の発展の中で、銀行家が爵位や勲位を得たり、貴族や地主と婚姻関係を結んだり、あるいは自分自身地主になったりして上流階級化が進んだことを考えれば、どうでもいい話のようにも思える)。

 クラックはレイチェルが何かの事情で借金を作り、そのために月長石を自分で隠して質入れしたのだというカッフの推理を信じている(彼女への敵意がこの推理を助けている)だけでなく、このことが婚約の承諾と破棄の過程に影響していると考えているようなのだが、果たしてその通りであろうか。

練習曲

1月2日(木)晴れ

 間もなく引越しの予定のため、正月返上で作業を続けているが、風邪で体調が悪いうえに、荷物を片づけていると思いがけない発見があったりして荷作りが間に合うかどうか微妙なところである。

 そういう発見の1つがもう60年以上の前の私の卒園式のときのプログラムであった。捨ててもいいような汚い紙きれだが、昨年死んだ私の母が長年大事にとっておいたものなので、保存することにした。このとき、バイエル55番を独奏したことになっている。ピアノを弾いた園児は私一人であった。そんなことは全く記憶に残っていなかったので、あらためて自分の過去を再発見することとなった。

 昨年見た映画『そして父になる』で一流の会社に勤めている方の父親が、自分の息子が競争心がないことに不満をもっている。だから、病院で取り違えがあったことを知って、つい、そうだったのかと頷いてしまうという場面があったと記憶する。

 この子どもがピアノを習っていて、発表会に臨むのだが、うまくは弾けない。弾いているのはバイエル55番よりは難しい曲だろうと思うのだが、同じ年齢くらいの女の子がもっと難しい曲を弾きこなしているのを見て、父親は不満に思う。小学校の低学年のレヴェルで競争心はまだ育っていないし、それを無理強いすることは教育上よくないのだが、父親はそれを理解しているようには思えない。教育「熱心」な親がはまりやすい罠である。

 この父親には、実の母親と離婚して新しい女性と結婚している父親がいて、疎遠になっていたのが、久々に再会する。近くの家で子どもがいつまでも同じ曲を練習している。父親の父親がいう。「いつまでたっても『やさしいこころ』ばかり弾いている」。こういうセリフが言えるのは、ある程度音楽の知識があると考えてよく、父親はそのまた父親に音楽を強制されていたとも推測できる。「やさしいこころ」は、ブルグミュラーの練習曲集にある曲であるのは、多くの方がご存知だろう。ピアノの発表会で、何度かブルグミュラーの練習曲を弾いた記憶のある人間にとって、『そして父になる』は分かりやすい映画であった。

 攻撃的な競争心は祖父から父親に受け継がれている。しかし、その子どもということになると別の遺伝的な要素が加わるかもしれないのである。たとえ病院での子どもの取り違えがなくても、親の期待通りの子どもが育つとは限らない。子どもには無限とはいえないまでも多くの可能性がある。ピアノを習っているすべての子どもが音楽家を目指しているわけではないだろう。それでは何のために。子どもの可能性とは何か。親はどのように可能性と向き合えば良いのか。『そして父になる』はピアノを習った人の多くが知っている練習曲を多用することで、親子の問題を身近に考えさせる手がかりを与える映画となっていたと思う。 
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