2013年の2013を目指して(9)

9月30日(月)晴れたり曇ったり

 9月を通じてずっと日記を書き続け(30日分)、ブログを30件書きためた。そのうち未分類3件、読書11件、外国語3件、日記2件、映画5件、詩3件、推理小説3件ということである。60の拍手と1つのコメントを頂いた。1月からの通算では日記が273日分、ブログが278件、拍手が192、コメントが4、トラックバックが1ということになっている。

 読んだ本は10冊で、ポール・ギャリコ『シャボン玉ピストル大騒動』、椎名誠『あやしい探検隊 済州島乱入』、椎名誠『おれたちを笑うな わしらは怪しい雑魚釣り隊』、柳田国男『昔話と文学』、椎名誠『コガネムシはどれほど金持ちか ナマコのからえばり』、日下力『いくさ物語の世界 中世軍記文学を読む』、平松洋子『サンドウィッチを銀座で』、谷口一巳『割引切符でめぐるローカル線の旅』、植草甚一『いつも夢中になったり飽きてしまったり』、荒井章三『ユダヤ教の誕生 「一神教」成立の謎』を読んだ。
1月から読んだ本は89冊である。

 見た映画は6本で、『プルガサリ』、『花を売る乙女』、『ジンジャーの朝』、『上京ものがたり』、『壊された5つのカメラ』、『スティーブ・ジョブズ 1995 失われたインタビュー』を見た。1月からの通算は58本になった。バレンティン選手のホームランと競争になっている感じであるが、こちらはより長い期間にわたって数を稼いでいけるので、最終的には上回るだろう。今年になって初めて渋谷のシネマライズに出かけた。映画を見た映画館は20館になった。

 ラジオでまいにちフランス語の時間を21回、イタリア語の時間を21回聴いた。1月からの合計ではそれぞれ180回、177回である。9月30日からそれぞれ新しい放送が始まったので、これからも続けていくつもりである。

 その他の数字についてはまだ集計ができていないので、明日の当ブログでまとめていくつもりである。あしからず。 
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植草甚一『いつも夢中になったり飽きてしまったり』

9月29日(土)晴れ

 昨日(9月28日)、植草甚一『いつも夢中になったり飽きてしまったり』(ちくま文庫)を読み終える。1975年に番町書房から刊行されたものを文庫化した書物である。題名にいかにも自由人らしい植草さんの姿勢が表現されているように思われるが、気楽に読みおえるだけの長さにまとめられていないのが(あくまでも私にとっては――ということであるが)問題である。

 これも全く個人的な意見になるが、ジャズとロックについての論説が大部分を占めていて、そのどちらにもそれほど興味がないわたしにとって見ると、いったい何を言っているのかと思うような個所が少なくなかった。これらの音楽ジャンルには――というよりも音楽には――それほど興味がないのである。にもかかわらず印象に残った個所がいくつかある。

 たとえば、「ベラフォンテのレコードをそばに置いて」という文章の「・・・『生れ変ったら』という歌は、全く世の中が癪にさわった。死んだら南京虫に生れ変り、おいしいものばかり食べて太っている人たちの肉に噛みついて苦しめてやりたい、といったユーモアたっぷりな歌詞の中に貧しい人たちの反抗気分が何となく出ている。だいたいカリプソ・ソングは西インド諸島の方言で歌われ始めたもので、残酷な奴隷酷使者である白人の主人には、方言だから何のことだか分らなかった。それで発生地のトリニダット島の住民たちは、こうした方言のカリプソ・ソングを歌うことで意思の伝達をはかり、新聞と同じような役割を果そうとしたのだった」。(293-4ページ) それだけでなく、ベラフォンテがミリアム・マケーバとナナ・ムスクーリを世界的に売り出したこと、ライオネル・ロゴージンのアパルトヘイトをテーマにした映画『アフリカよ、帰ってこい』のことなども触れられている。何せこちらは、この文章の中で触れられているベラフォンテの「バナナ・ボート」が、子どもの頃によく聞いた歌であるにもかかわらず、英語(の方言)の歌であったことをつい最近まで知らなかったのである。

 あるいは当時売出し中であった作曲家のモーリス・ジャールについて触れてみたり(「モーリス・ジャールと映画音楽」)、音楽以外の事柄をあつかった文章ではクリス・マルケルの『ラ・ジュテ』に注目したり(「各国の短編映画」)、池波正太郎の作品に関連して(だいたいスリラーは読者の気持ちを緊張させながら、ときどきリラックスさせなければならない。このことをぼくはヒッチコック映画から教わった」(「池波正太郎の『鬼平犯科帳』」483ページ)と記したり、イタロ・カルヴィーノに言及したり(「おかしな世界には、おかしな人物がいつでも登場する」)と、その好奇心と炯眼に感心させられる。

 そして、「モダン・ジャズにシビれるとき」という文章の中で、「もともとモダン・ジャズは、他の人から教えられて好きになっていくような性質のものでなく、ふとしたある瞬間、まだ経験したことのないような新しい興奮をあじわったことから、しぜんとすきになっていくものなのです」(311-312ページ)と書いているあたりに、この著者の面目が現れているように思われる。いろいろなうんちくが詰まった面白い本ではあるが、もう少し編集者が気を利かせて、内容を絞り込んでおけばさらに面白い本ができただろうと思う。その点が残念である。あるいは植草の個性が編集者を圧倒してしまったということであろうか。

壊された5つのカメラ パレスチナ・ビリンの叫び

9月28日(土)晴れ

 9月26日、横浜シネマ・ジャック&ベティでドキュメンタリー映画『壊された5つのカメラ パレスチナ・ビリンの叫び』(Five Broken Cameras)を観た。アメリカのサンダンス映画祭をはじめ、各地の映画祭で受賞した作品である。

 パレスチナのビリン村に住むイマ―ド・ブルナートは四男のジブリールの誕生を機にカメラを手に入れ、彼の成長を追いかけようとするが、村でただ1台のカメラであることから村の行事の撮影を頼まれたりして、記録者の役割を担わされてしまう。彼はもともとオリーヴの栽培を中心に農業を営んでいたのだが、彼らののうちにイスラエルの入植地を拡大する計画が進められ、それに対して抗議する親族にもカメラを向ける。しかし、カメラはイスラエル兵が放った催涙弾によって破壊される。

 イスラエル人の知り合いがカメラを譲ってくれたので、イマードは撮影を続ける。が、入植地反対闘争を撮影中にまたもカメラが破壊される。村人が次々に逮捕され、イマードも逮捕される。入植地を守るという分離壁は延長され、他の村でも抗議行動が展開される。イマードの運転する自動車が壁にぶつかり、彼は重傷を負う。

 複雑で困難な状況の下、映画の撮影と編集も複雑で困難な過程を経たものであることは画面そのものが雄弁に物語っている。というのは、イスラエルの兵士の背後からでなければ撮影できない画面が少なからず含まれているからである。重傷を負ったイマードはテルアヴィヴのイスラエル側の病院で治療を受けることによって九死に一生を得る。敵味方がはっきりと区別されるようでいて、事態はそれほど単純に割り切れるものではなさそうである。そのことを含めて、この作品はパレスチナの人々の生活のありのままの姿を描き出していると受け止めてよかろう。

 5台のカメラが壊され、6台目のカメラで撮影中に今度はイマードの方が被弾したという。それでイマードとガイ・ダビディの共同監督作品として完成させられたとのことである。もともと個人的な目的で購入されたカメラが集団の記録の手段になっていく過程が興味深く、またそのカメラが壊されて画面が乱れたり、突如中断されたりするのを観て映像が何を伝え、語るものであるのか、この映画のもつ、あるいはもっていたかもしれないさまざまな可能性について考えさせられた。

 カメラと映像の役割というと、ジョナス・メカスは移住地での孤独な生活の中で私的にカメラを動かして、他の人々との連帯を求めたことを思いだすが、この作品では親族や地域の人々の中で生活しているイマードがごく自然に他の人々と連帯してカメラを回し続けている。そしてその映像が他の村の人々に勇気を与えている場面も挿入されている。映像がどのようにして人々を結びつけ、また時として敵対させるものであるかというのがこの映画が投げかける問いである。

夢の中で

9月27日(金)晴れ

 夢の中で

夢の中で
28歳だった
周りの人たちから
言われていることは
その1年の後に
言われていたことだった

恋愛以前の
経験が
もっと深刻な経験に
置き換わるころだったのだが、
なぜか
夢の中では(現実には1年後に)
これからが楽しくなるはずだ
などと
見当違いな励ましを受けていた

時間は
不思議で
気まぐれなものだ
わたしが
過ごしていた時間を
全く別の
尺度で測っていた
人たちがいて

本物の時間は
そのどちらとも違う
足どりで歩んでいたようでもあるが・・・
その1年が
わたしにとって
思いだして
とても大事だが
楽しいことのない1年であった・・・

個性と競争

9月26日(木)曇り時々晴れ

 9月24日に届いた葉書で、昔の同僚の急逝の知らせを受けた。その翌日、今度は高校時代に2学年にわたって担任していただいた先生の訃報が届いた。

 亡くなられた先生があるときに、自分は小学校で教育を受けていない、自分たちの時代は国民学校であったというのを記憶している。小学校ではなく、国民学校であったという過去の教育制度を経験した世代が次第に姿を消しはじめている。戦後の教育改革以前の教育制度についての記憶が薄れているので、出来るだけ正確にその内実についての情報を残すことはますます重要になるのではないかと思う。

 大学受験を控えた我々に向けて、先生が言われたことの中で比較的鮮明に覚えているのは、旧制では旧制中学4年(5年制であった)から旧制高校に入学できたのが、新制では現役合格、5年で入学したのが一浪で合格というのに相当するという話である。われわれの世代は父親やその他の縁者に旧制高校出身者が多かったからこの話は結構説得力があったし、余計なプレッシャーを取り除くのに役立ったと思うのである。

 別の先生であるが、天下の秀才が集まっているとされた旧制第一高等学校に学ばれた方がいらっしゃって、授業の折に高校時代の想い出を語って当時は逆トツ(トップ)というのがあったという話をされたのを覚えている。成績が上位に届かない生徒たちがせめてもの自己主張として、落第点ぎりぎりで合格した生徒を逆トツとしてコンパなどの折に優遇したという話である。それで試験の折に60点の合格点ぎりぎりを取ろうとして苦労する。落第してしまっては元も子もないし、60点ぎりぎりで合格するようにできる問題も無視して解答を書く。ところが、先生の方もあまり生徒を落第させたくないので、60点未満の答案でも下駄をはかせて合格させることがある。それが先輩からの申し送りになっているので、60点を狙わずに、60点未満のしかるべき得点を狙うのだが、うっかりすると落第になってしまうのということでスリル満点である。それにしても、自分がどのくらいの点数が取れているかを計算できる自己評価能力は大したものである。わたしが大学で教えていた時代のことを思い出すと、そういう学生は少なかったように思う。今はもっと少ないかもしれない。

 そうはいっても、単位を取る方法というのはあったし、たぶんあるのである。「語学放浪記」でも書いたことであるが、教師には採点の方針というものがあり、それが何らかの形で学生のあいだに伝わっていると、対策が立てやすい。学生は一般に経験に乏しく、思考が雑であるから、教師の採点方針については甘い(仏)であるが、厳しい(鬼)であるかという判断を下しやすかった(あくまで私が教師をしていたころの話、現在は違うかもしれない)、好成績を取るとか、そこまでいかなくても単位を取るためのキーワードとかキー概念はあるし、それを知ろうとすることが勉強の第一歩かもしれないと思うところである。(最近は大学で教える内容の標準化が進んでいるので、教師の個性による単位の取りやすさの違いもなくなってくるかもしれない。)

 もう一つ重要なことは、成績が上位ではなくても周囲に認められる可能性が留保されているということである。つまり、競争の中で勝者ではなくても、何らかの形で自分の個性を認めさせる可能性はあったということである。競争の中での勝ち負けが、全人格的な評価ではなく、学校による、あるいは生徒相互間での別の評価を許容するものである限り、それはむしろ生徒の個性を伸ばす余地をもっている(伸ばすのはあくまで生徒自身の努力である)。

 個性といっても学者や知的専門職に就くための個性もあるし、企業の中で管理職に就いたり、社員として企業を支えるという個性もある。わたしの場合は卒業生がほとんど大学に進学するという高校に学んだのであるが、すぐれた知性と該博な知識を備えながら、著作を世に問うこともされずに生徒たちの教育に献身された偉大なる暗闇ともいうべき先生方に大いに影響を受けたものである。進学よりも就職を視野に入れる生徒が多い学校の場合(あるいは大学に進学した後で会社に就職する生徒が多いということを考えると進学者が多い学校の場合でも)企業や地域社会での世渡りについて経験を積んだ先生がいるほうがよいのかもしれないとも思う。学生・生徒の個性を育てようと思ったら、教師の個性に配慮することも必要である。さらに言えば、学校の特色に応じた教師の個性の配合や、教師と学生・生徒の組み合わせも工夫すべきである。

谷川一巳『割引切符でめぐるローカル線の旅』

9月25日(水)雨が降ったりやんだり

 9月22日、谷川一巳『割引切符でめぐるローカル線の旅』(平凡社新書)を購入、その日のうちに読む。収入が限られた生活の中で、人生を楽しむためには割引切符のような安価で便利な手段の利用が欠かせない。その利用法を教えてくれるという意味で、この本はまず役に立つ。それとともに著者がこの書物に盛り込まれた割引切符利用法を身につける過程で得た鉄道、特にローカル線についてのさまざまな知識を開陳していることのために読み応えのある面白い書物ともなっている。

 第1章「乗り放題切符の横綱『青春18きっぷ』」では「青春18きっぷ」の性格と利用法が詳しく紹介されている。利用に際してのさまざまな知恵が授けられている中で、特に注目されるのは民営化の進行や、新幹線の延伸によって「青春18」が使える区間が次第に制限されてきていることである。また、普通列車の車両が最近は簡素になってきて、旅の気分を味わうことが難しくなっているとはいうものの、地方によってはまだクロスシートの車両が残っている場合もあるという情報は貴重である。さらに夜行バスや格安航空券、フェリーなどを利用することについても触れられている。

 第2章「『青春18きっぷ」で旅するローカル線」ではこの切符を使ったさまざまな旅の具体例が紹介されている。第3章「JRの乗り放題きっぷ」では、「秋の乗り放題パス」、「鉄道の日記念・西日本1日乗り放題きっぷ」、「北海道&東日本パス」、JR東日本の「週末パス」、「四国再発見早トクきっぷ」、「旅名人の九州満喫きっぷ」、「東北ローカル線パス」などの普通列車限定のパス、「北海道フリーパス」、JR四国の「バースデイきっぷ」、「四国フリーきっぷ」、「四国グリーン紀行」のように特急やグリーン車が利用できるもの、さらに会員制のプログラムや、週末の日帰り旅行向けのパスが紹介されている。

 第4章「私鉄各社の乗り放題切符を楽しむ」では私鉄各社のプランが紹介されているが、あまり種類が多くないし、首都圏の私鉄のプログラムが充実していないようであるのが残念である。とはいえ、第5章「都市の乗り放題きっぷ」では東京と大阪のプログラム、例えば「東京メトロ1日乗車券」が紹介されている。この章では、東京と大阪の地下鉄の性格の違いが対比され、東京が私鉄との相互乗り入れを盛んに行っているのに対し、大阪はそうでないのはなぜかなどということが説明されていて興味深い。「東京都が地下鉄運営に携わる意味はとっくになくなっている」(212ページ)という意見には賛成。最後に広島、松山の路面電車について触れているのも情報として役立つ。

 このところ機会に恵まれないで旅に出ることはほとんどなかったのだが、この本に盛り込まれている情報を活用して、地方の神社を探訪する鉄道旅行に出かけてみたいと考えている。

語学放浪記(14)

9月24日(火)曇り、時々薄日が射す、予報では雨が降るかもしれないということだが、今のところその気配はない。

 学部・大学院を通じてもっと勉強しておけばよかったという後悔が残っている。学部の5年間(普通より1年多い)は「若気の至り」で見逃してもらえるかもしれないが、大学院は本来、勉強するための場所なので、そこであまり勉強しなかったのは弁解のできないことである。最初の方は大阪の会社で働いていたし、終わりの方は学校の非常勤講師をしていたので、やむを得ない部分もある。

 もっとも、大学院時代は人生の方向が定まったようで、実際のところは何を目指して、どのような内容をどのような方法で勉強するのか、についての見通しが全くない期間であったことも否定できない。あまり目的もなく、ただ大学に出かけたり、出掛けなかったり、本を読んだり、読まなかったりという日々であったというのが正直なところである。それに読みかけた本を読み終えなかったというのが一番多かったのではないかと思う。

 さて、本題の外国語であるが、一時期フランス語の勉強をしていたことがあり、その後も大学に近くの日仏学館でフランス映画の上映をよく見た。映画を見るだけならば、アメリカ、英国、ドイツ、さらにイタリアの映画もしばしば見たものである。それから、博士課程の2年目だったと思うが、英会話を習いに出かけたこともある。ともに長続きしなかった理由については、その当時の人間関係が絡んでいるとだけ言っておこう。

 前回、種田輝豊さんの『20か国語ペラペラ』という書物について触れたが、同じように多くの言語を習得した人物が書いた書物としてロンブ・カトーというハンガリーの人が書いた『わたしの外国語学習法』(創樹社、1981→ちくま学芸文庫、2000)をよんだのは、就職してからのことである。こういう本を読むと外国語を勉強しよう、出来たらいいなと思うけれども、どうも地道な努力の方に目が向かないというのが悪い癖である。

 ある言語を勉強しようと思うについては時間的、地理的な環境に左右される部分が小さくなく、カトーについてみると第一次世界大戦と第二次世界大戦のあいだのハンガリーに生まれ育ったこと、種田さんについてみると第二次世界大戦後すぐの時期に中学校に入ったという時代背景が大きいように思われる。ただし、それだけでなく、家庭的な背景や学習を刺激する要因となる人物との出会いというような条件もある。種田さんについて言うと、高校時代に基地の米軍兵士たちと接触したこと、さらに幸運なことにオースタリッツというギリヤーク(ニヴフ)語の研究をしている言語学者(ギリヤークの昔話についての著書がある)とであったことなどが意欲を推進しているようである。さらに、カトーの場合は中等教育の中で組織的・体系的にラテン語を勉強したことが(成績は必ずしも良くなかったらしいが)影響力のある経験となったと考えられる。何によらず、基礎をしっかり勉強しておくことが重要だということである。

 学習の動機としては肯定的な経験によるものと、否定的な経験によるものがあり、肯定的な経験というのは、誰かから発音を褒められてやる気が増したというようなこと、否定的な経験というのは外国人に話しかけられてどうもわからなかったというようなことであるが、わたしの場合は否定的な経験からの出発の方が多かった。どうも否定的な経験は起動力としては強力ではないように思われる。ただし、これはその人の性格にもより、人一倍負けん気が強い人にとっては否定的な経験が積極的な起動力になるかもしれない。それから褒めると言っても、抽象的、一般的に褒めたり、相手からそれほど信頼されていないのに、褒めても逆効果になるということもありうる。その人間が努力している方向を理解して、褒めることが望ましいのだが、努力の方向性を見つけるのが難しい場合もある。

 わたしの場合は外国語を身につけようという意欲はあったのだが、具体的に努力はしていなかったから褒めてもあまり意味がなく、具体的な努力の方向を示すことが必要だったのだが、そういう環境に恵まれなかったということらしい。当時の指導教官はドイツ語の教師の口ならば世話できる(わたしの能力を考えれば無理である)と、ドイツ語を勉強させることに熱心であった。当時は第二外国語としてドイツ語の授業を開講している大学が多く、それだけという大学も少なくなかったのだが、いくら就職しやすくても、ろくな実力をもっていない教師に教わる学生の方が気の毒であるというところまで考えが及ばなかったようである。さらにそんないい加減なことをしていると、ドイツ語教育の信頼性も疑われ、次第に就職口も少なくなっていく。

 件の先生は教えさせることに熱心なのに加えて、ドイツ語で書かれた難しい本ばかり読ませたがったので、一向に努力が積み重ねられなかったのである。自分のためにも、教えることを考えても、やさしい本を興味をもって多く読みこなすことがとりあえずは大事なのに、逆の勉強をすることになったというのは悲劇であった。

essere di cattiva pasta

9月23日(月)曇り、時々晴れ/秋分

 水曜日夜の23:15からテレビ朝日で放送している『マツコ&有吉の怒り新党』の9月11日放送分だと思ったが、こんな話が出てきた。自分が何かカタカナ言葉を言うと、必ずもっと新しくかっこいい(と自分が思っている)言葉で言い直す友達がいて腹立たしい。「新しい」かどうかは別にして、相手が英語で言うと、ドイツ語で言い直したりする悪い癖というのはわたしにもあるので、気をつけようと思った次第。

 さて、その一例として出てきたのが、「わたし、スパゲティ―を食べたの」、「ああ、パスタね」。しかし、スパゲティ―をパスタと言い直すのが、より新しい、かっこいいいい方なのであろうか。もし、いった方も言われた方もそう思っているのであれば、少し考え直したほうがよい。パスタpastaというのはイタリア語で麺類の総称であって、スパゲッティは麺類の一種である。つまり、先ほどの会話を日本風にいいかえると、「ゆうべ、うどんを食べたのよ」、「ああ麺類なのね」というような意味になる。うどんを麺類と言い換えることは決して気のきいた、かっこいい日本語の会話にならないと思うのである。追い打ちをかけてパスタの種類を変えていうと、「ゆうべ、ペンネ・アラビアータを食べたのよ」、「ああ、パスタね」という会話のどこが気がきいているのであろうか。

 というようなことを言うのも、イタリア語の辞書を手に入れたからである。これまで外しまくっていたサッカーくじであるが、652回のミニトトAとBの両方を当てたのですっかり嬉しくなって、伊和辞典を買ったのである。今年になって買った一番高い本ということになる。わたしが買った辞書にはパスタの種類が絵入りで詳しく説明されている。日本ではマカロニというが、正しくはmaccheroni(マッケローニ)であるらしい(どこかの誰かを連想させられる)。表題に掲げたessere di cattiva pasta(まずいパスタでできている)というのは、「性格が悪い」という意味の慣用表現であるという。こういうところにパスタをもちだすのが面白い。

 さて、この件をめぐって思い出すのは、もう50年近く前に日本で上映されたミレーユ・ダルク主演のフランス映画『恋するガリア』(ジョルジュ・ロートネル監督)の一場面である(老人の話なので、話題が古くなることをご容赦いただきたい)。ミレーユ・ダルク扮するパリジェンヌのガリアが、ある日、投身自殺を図った中年女性を助ける。彼女は夫との仲を断ち切ろうとしているのだが、未練が残っているようである。ガリアは2人の本当の関係を探ろうと彼女の夫に近付くが、次第にその魅力に惹かれていく。
 
 それで、件の男性に近づいたガリアが彼のために食事を準備して「うどんがゆであがったわよ」というと、男の方が「うどんではない、麺といわなければならない」、「あ、そうか、あんたはイタリア人だったわね」というような場面があったと記憶する。『恋するガリア』はフランスでヒットした作品として日本に輸入されたのだが、白黒であったことも手伝ったのか、作品に魅力を感じる観客は少なかったようである。それでもこのやりとりだけはなぜか詳しく覚えている。フランス語でどういう会話であったのか、その当時はフランス語もイタリア語も勉強していなかったから、注意して聞いてはいなかった。しかし、フランス(イタリア)にうどんがあるというのも変な話であるとは思った。その頃はフランス料理はもちろんのこと、イタリア料理も高嶺の花で、学生が多少の知識をもつことができるような料理ではなかったのである。

 友達がスパゲティ―というのをパスタと訂正して優越感に浸るくらいならば、少し張り込んでイタリア料理の食べ歩きをして、もっとよくばってイタリアまで出かけて、パスタといわず、イタリア料理についてのもっと詳しい知識を蓄えるべきなのである。揚げ足取りをするのではなく、自分の経験に基づいてイタリア料理の地方性・多様性について蘊蓄を傾けるくらいではないと真の意味での尊敬を勝ち取ることはできないだろう。さらに言えば、その蘊蓄を口に出して優越感に浸るよりも、心の中で優位性を感じている方が奥ゆかしいと思うのだが、どうだろうか(と言って、わたしはそれほどの知識も経験もないのに、こうしてブログに書いているのであるが・・・)。

椎名誠『コガネムシはどれほど金持ちか ナマコのからえばり』

9月22日(日)晴れ後曇り

 椎名誠『コガネムシはどれほど金持ちか ナマコのからえばり』(集英社文庫)は9月10日に読み終えた。それを2週間近くたってからこのブログで取り上げるのは、他に書くことが見あたらないという芳しくない理由からであるが、だからといってこの書物の価値が低いというわけではない。飽くまでもめぐり合わせの問題である。この書物は『サンデー毎日』2009年3月29日号から2010年1月24日号までに連載されたエッセーをまとめて2010年に毎日新聞社から単行本として刊行されたものを文庫化したものである。「ナマコ」というのは椎名誠=シイナマコトという名前の中にこの3文字が含まれていることからの発想で、一種の自称のようである。コガネムシはどれほど金持ちかをめぐっては、この書物の中ほどに「コガネムシ金持ち問題」という一文が含まれている。

 椎名さんがそのとき、そのときに思いついたことを書き記したエッセー集で、著者の周辺で起きている出来事をめぐり、所々にその通りだ!と思うような問題提起や洞察が見られ、そうかと思うとこの人にしてはどうも迂闊だなあという惚けた記述もある。前者の方が多いのであるが、両者が適当に混ざっているところが面白いともいえる。ただし、ご本人が自覚しているように後者の方が多くなってきているようでもある。(なあに、こっちだって同じように老化が進んでいるのである。)

 椎名さんが書いたものはエッセーを中心にかなりの量を読んできたのだが、著者自身の経験をめぐり同じことを繰り返し書いているようで、その内容の著者自身による評価が少しずつ変化しているように思われる。それを考えさせるのが、「こんなところに住んできた」という一文である。アメリカ生まれの椎名さんの孫たちが日本とアメリカのどちらで暮らすかの選択をすることになり、相談を求められる。それで日米の社会の根底にある価値観を比べて考えることになる。そこで椎名さんは『哀愁の街に霧が降るのだ』で描き出された小岩のおんぼろアパートでの共同生活時代のことを改めて思い出す。「人生に『黄金時代』というものがあるとしたら、たぶんこのときではないか、とぼくは今になってそう思う。しかし当時の自覚としては『最悪』の日々だった」(192ページ)と書く。さらに「価値観は実に全く相対的なものである。今になると、あのころの生活は絶対に楽しかったという確信がある。具体的に楽しい記憶はまるでないのだけれど、でも圧倒的に『いい時代』だったのだ」(同上)と結論する。ここに椎名さんの一つの到達点が感じられる。

 その一方で、これは何だという部分がないわけでもない。「娘と二人で嘆きのワイン」という文章の中に、「ウナ・セラ・ディ東京」という歌の「ウナ・セラ」とはなんだという疑問が出てくるが、これは自分で調べればわかることではなかろうか。この歌がはやったのは1964年のことで50年近くの時間がたっている。この歌はもともとザ・ピーナッツが「東京たそがれ」という題で1963年に歌ったものを、1964年にイタリアの歌手ミルバが来日した折、お客へのサーヴィスとして歌う日本語の歌として編曲され、題も「ウナ・セラ・ディ東京」と改められたものである。「ウナ・セラ・ディuna sera di」というのはイタリア語で、全体として「東京のある一夜」という意味である。seraは英語のeveningに相当し、夜といっても早い時間について言う。ミルバの歌唱力によって歌の魅力が発揮され、他の歌手も歌うようになり、本家のザ・ピーナッツの方も「ウナ・セラ・ディ東京」として歌うようになったそうである。

 1964年は最近、盛んに思いだされているように東京オリンピックの年であり、東京が国際都市であることがあらためて強調された年でもあった。「ウナ・セラ・ディ東京」はそういう気分にも乗った歌であったようである。それに東京の前の1960年のオリンピックはローマで開かれていた。

 ただ、こんなことを気にしているのは、椎名さんにとってこの歌は別世界の歌だったという印象があったからではないか。そして実は私にとってもそうだったのである。流行歌というが、ある人々にとって流行の歌であっても、他の人々にとってはそうではない、歌が強調しているその時代の気分に同調できない人もいる。椎名さんが言っているのはそういうことかもしれないなと考えている。 

ウィルキー・コリンズ『月長石』(10)

9月21日(土)晴れ

 フランクリンの依頼で、ヴェリンダー邸から姿を消した月長石の事件を捜索ためにロンドンからやってきたカッフ部長刑事は、レイチェルの部屋の扉のペンキの小さな汚点に関心を示し、そこから捜索を進めようとする。彼は事件の真相に迫ってはいるが、しかしまだ全体を把握しきれていないという。

 カッフはヴェリンダー夫人に面会を申し込むが、ベタレッジから話を聞いた彼女は気が進まないという。「あの方がこの家にめんどうなことや不幸なことをもちこむような気がしてね」(中村訳、175ページ)。カッフに先立って事件を捜索していたシーグレイヴの出した結論は、犯人は邸の中にいる、あるいは少なくとも外にいる犯人の共犯者が邸の中にいるということであった。これまでの経緯から推測して、ヴェリンダー夫人は月長石が発見されることを必ずしも望んではいないし、もし召使ではなくて自分の身内に犯人がいるのであれば、それは隠し通したいと考えているように思われる。ベタレッジは、夫人の態度をいぶかしく思う。というのは彼はカッフを信頼しはじめてきたからである。

 結局、ベタレッジが同席して、夫人はカッフと話をすることになる。カッフは邸の中の誰かの衣服にペンキがついているのではないか、それを調べたいと述べる。
「『それが見つかれば』と奥さまはおっしゃった。『泥棒も見つかるという意味ですか』
『失礼ですが、奥さま――わたしはダイヤモンドが盗まれたとは申しておりません。いまのところ、ダイヤモンドはなくなったと申しあげているだけです。ペンキのついた服が見つかれば、ダイヤモンドを発見する糸口になるかもしれません』」(中村訳、176-77ページ)。

 夫人は召使たちは信頼できるものばかりなので、彼らを疑うようなことはできないというが、カッフはダイヤモンドを見つけるためには衣服を調べることが必要だと主張する。結局、ヴェリンダー夫人は調べることに同意するが、カッフはその前に邸内にいる紳士や淑女についても衣服を調べる必要があると言って、彼らの同意を求める。ゴドフリーは出発の直前であったが、快く協力を申し出て旅行鞄とそのカギをカッフに渡す。そしてレイチェルに伝言を残す。ベタレッジはゴドフリーがまだレイチェルとの結婚をあきらめていないと確信する。次にフランクリンも協力を申し出る。

 召使たちの衣服を調べる前に、カッフは洗濯物の帳簿を調べたいという。帳簿をもってきたのはロザンナ・スピアマンでみじめなくらいやつれて青い顔をしていた。カッフは以前に彼女を刑務所で見かけたことがあるといい、彼女が以前からこの屋敷に奉公していたのかと夫人にたずねる。夫人はやむなく、本当のことを打ち明け、彼女が邸でまじめに働いてきたことを付け加える。カッフは次にレイチェルの衣類を調査しようとするが、彼女は母親の指示にもかかわらず拒絶する。カッフは調査は打ち切りだという。

 カッフが自分の本心を打ち明けないので、ベタレッジはかえって好奇心をかきたてられる。ベタレッジと一緒に庭を歩きながら、カッフは召使たちから事情を聴く必要があるという。そして宝石がなくなってから変わった様子を見せた召使がいなかったかと質問する。ベタレッジはロザンナのことを思い出すが、それを口にする前にカッフは背中のリューマチの痛みが出たといって植え込みの方に目を向ける。彼はロザンナが植え込みの中に隠れていたのを見つけたのである。

 カッフからロザンナに恋人でもいるのかと質問されたベタレッジは、悩んだ末に、どうも彼女がフランクリンに思いを寄せているらしいこと、植え込みの路がフランクリンが好んで通る場所であることを告げる。フランクリンの方ではロザンナのことは全く気にも止めていないのである。それを聞いたカッフはロザンナに同情的な発言をする。宝石がなくなってから変わった様子を見せた召使がいなかったかと彼が再度質問した時に、ベタレッジはいないと言い切るが、カッフは「きみはわたしに協力するのがいやなのかね? わたしのほうじゃ、きみが非常に気にいっているんだが」(中村訳、188ページ)と彼の嘘を見透かしたうえでまたも謎めいたことばを発する。

 何回か読み直してみると、ここまでの経緯でカッフがかなり事件の真相に迫っていることがわかる。ところがレイチェルがかたくなに調査への協力を拒むので、大事なことが分からないままなのである。フランクリンは宝石をもってきた人物なので、取り戻したいと思っているが、ヴェリンダー夫人やレイチェルにはもっと大事な問題があって、宝石などどうでもいい様子である。そのあたりの人間模様のもつれが事件というよりも、捜索を複雑なものにしてしまっている。(つづく)

上京ものがたり

9月20日(金)晴れ

 渋谷シネマ・ライズで『上京ものがたり』を見た。西原理恵子さんの同名の原作漫画を森岡利行監督が映画化、脚本も担当している。

 何となく魅力的だがダメ人間の父を失い、好きな絵で身を立てようと東京の美大に入学した菜都美であったが、東京での暮らしはアルバイトをしても苦しい。美大の友達から時給のいいアルバイトとして紹介された先はキャバクラだった。嘘と欲望の渦巻く世界。この店で知り合った良介が彼女から腕時計をカタに借金をしただけでなく、ある晩、家に転がり込んでくる。彼は優しく、カメラマンへの夢はもっているというものの、定職に就かず、家でごろごろしていることが多い。自分は稼いでいないくせに、拾ってきた猫の病院代に8万円もの金を平気で使い、「命の方が大事じゃないか」などという。ホステスとしての成績も、大学での成績も最下位で、菜都美は上京したことを後悔しはじめる。

 ある夜、一人でいるところを見かけて知り合った沙希という少女が同僚のホステスである吹雪の娘であり、2人が菜都美の絵を好きだと言ってくれたことから彼女は元気をもらう。吹雪は「最下位には最下位の戦い方があると思う」という。良介の浪費で金が足りない菜都美はカットやマンガの出版社への持ち込みを始めるが、「絵の独創性がない」、「絵が下手だ」となかなか採用してもらえない。

 出版社に作品をもちこむというのは『俺はまだ本気出してないだけ』、カメラマンを目指すというのは『横道世之介』、『俺俺』と同じような話ばかり続くような気がするが、この作品は原作者の実体験をもとにしていること、少なくともヒロインについては夢を見るだけでなく、夢を実現する道のりを歩もうとしているところが大きく違う。さらに言うと、夢はかなり漠然としていて、漫画家として成功していくのは何となく成り行き任せのところがあるのも特徴的である。

 「あのころの私のとこにちょっとだけ行って絶対信じないだろうけどあんたの人生これからちょっとちょっと楽しいよって教えてあげたい」と原作者は語っている。しかし、その一方で原作者自身がどんなに苦しい思いをしたにせよ、この時代を懐かしんでいることも否定できないだろう。もし懐かしく思わなければ、この時代について触れないか、全く違う形で触れるかであろう。

 ただ、地方から夢を抱いて都会に出て来てあちこちでもまれるという経験、あるいは異性間の性格の違いによるぶつかり合いの苦労という経験は多くの人々が共有できるかもしれないが、創造的な仕事で成功する経験というのは誰もがする訳ではないので、この作品に共感できる人は限られるかもしれない。そう思ったのは平日とはいうものの、この映画を見ている人があまりにも少なかったからである。物語の展開の中で何度か映し出されるモノレールが走る風景がなぜか印象に残る。 

9月19日(木)晴れ、中秋の名月

 月

飛行士を乗せて
月へと旅立つロケットの
出発を見送ったのは
学生のころだった

祭で賑わう街の
その気分に任せて
見知らぬ人の家に
上がり込んでテレビを見せてもらった

波乱の多い日々の中での
高揚した気分の夜だった

高層建築が
街を埋めるようになる中で
ビルの中で働きながら
次第に年をとってきた

あの時
一緒に歩いて、テレビを見て騒いでいた
連中は、今、どこにいるのか

科学の力で
月はだんだん身近に
なってきたはずだが

夜空を見上げると見える
月は
なぜか、遠く、小さい

アガサ・クリスティー『書斎の死体』

9月18日(水)晴れ

 9月10日の当ブログ「国際映画祭」でわが国ではモントリオール映画祭の方がトロント映画祭よりも大きく取り上げられているようだと書いたが、そのトロント映画祭で園子温監督の『地獄でなぜ悪い』がアクションやホラー映画などに特化したミッドナイト・マッドネス部門の観客賞を取ったという記事が9月17日(火)の毎日新聞夕刊に出ていた。ということで前言を部分的に修正。

 さて、約3カ月ぶりにクリスティーの作品を取り上げる。『書斎の死体』(The Body in the Library)は1942年に発表された。ミス・マープルが登場する長編としては2作目であるが、第1作である『牧師館の殺人』が発表されてから12年がたっている。この翌年に書かれた『動く指』でも最後にマープルが登場して事件を解決するが、彼女が本格的に活躍するのは1950年に発表された『予告殺人』以後のことではないかと思う。

 ミス・マープルが住んでいるセント・メアリ・ミードの静かな村の、マープルの友人であるバントリー夫妻の邸ゴシントン・ホールの書斎に見知らぬ美女の死体が転がっていた。だれの死体なのか? 誰がそこに置いたのか? 

 死体は村から18マイル(28.8キロ)ほど離れた海水浴場デインマウスのホテルでダンサーをしているルビー・キーンという女性と確認される。確認したのは彼女と同じホテルでダンサーとブリッジ・ホステスをしているジョゼフィン・ターナーという女性で、被害者とはそれぞれの母親が従姉妹だったという。被害者の身元が身元であるだけに、死体が発見されたバントリー夫妻、特にその夫をめぐって噂が飛び交う。バントリー夫人の依頼で、ミス・マープルが調査に乗り出す。

 デインマウスのホテルで彼女は飛行機の事故で体が不自由になってしまったコンウェイ・ジェファーソンという富豪と、事故で死亡した彼の息子の妻アダレイド、同じく娘の夫マーク・ガスケルという一家が滞在しているという。バントリー夫人は彼らと知り合いなのだが、殺されたルビーはコンウェイ・ジェファーソンに気に入られていたらしい。

 事件がミス・マープルの手でどのように解決されるかは読んでのお楽しみとして、それとは別の愉しみ方を2つ紹介しておきたい。

 この小説の特徴の1つは子ども探偵が登場することである。アダレイドには、コンウェイの息子と結婚する以前に夫だった男性との間にピーターという息子がいる。この子どもが探偵小説が好きで、事件に興味を示す。「ずいぶん読んじゃった。それにね、ドロシー・セイヤーズやアガサ・クリスティーやディクスン・カーやH・C・ベイリーなんかに署名してもらったのだよ」(高橋豊訳、91ページ)という。クリスティー自身の名前が出てくるところが面白い。子ども探偵が出てくるクリスティーの作品としては、この他に『ねじれた家』がある。この作品については6月16日の当ブログで触れているが、物語の展開、特に子ども探偵の運命は大きく異なっている。

 アダレイドにはヒューゴー・マックリーンという恋人がいるのだが、いろいろな事情がからんでなかなかその関係は進展しない。マークはヒューゴーを「ウィリアム・ドビン」だという。これは説明が必要かもしれない。ウィリアム・ドビンは19世紀英国の文豪ウィリアム・メークピース・サッカレー(1811-63)の代表作『虚栄の市』(1847-48)の中で、お嬢さん育ちで気立てが良いが実家の没落と夫の死という悲運に見舞われるアミーリア・セドリーを慕い続ける好人物の軍人の名前である。『虚栄の市』という小説がどのように読まれているかを示す一例としても興味がある。クリスティーの作品にはマザー・グースに示唆を得ていたり、シェイクスピアへの言及が見られることはよく言われているが、サッカレーやディケンズの作品に触れている例も探してみると面白いのではないかと考えている。 

平松洋子『サンドウィッチは銀座で』

9月17日(火)晴れ

 9月16日(月)、平松洋子『サンドウィッチは銀座で』(文春文庫)を読み終える。2008年7月から2009年5月まで『オール読物』に連載された食べ歩きのエッセー「いまの味」の12回分をまとめて、2011年1月に単行本として刊行されたものの文庫化である。

 昨年、同じ著者の『焼き餃子と名画座』を読んだが、神保町の書店街を歩き、神保町シアターで昔の映画を見るのが好きだというところは私と共通する好みである。この書物の2番目に収められている「それゆけ!きょうもビールがうまい」ページには、小津安二郎監督の『晩春』を見た後天鴻餃子房で焼き餃子とビールを楽しむくだりがある。「焼き餃子、生ビール、テレビ/最強のゴールデン・トリオを手中にして、またしても天下を取った気分です。そういえば、たしか『晩春』は、小津安二郎が原節子とコンビを組んだ第一作め、以後1961年まで全部で六作の小津映画に出演した。絶妙の相手を得てはじめて、原節子の輝きは花咲いた。目の前の焼き餃子と生ビールのコンビみたいに。あっ、原節子が焼き餃子だと言っているわけではありません。念のため」(28-29ページ)。

 著者は1人で、担当の編集者と2人で、あるいはもっと大勢であちこちに出かける。てんぷら、精進料理、ウナギ、オムライス・・・、食べる場所も多様で、社員食堂を訪ねてみたり、寺に出かけたり、山奥にクマを食べに出かけたりする。織田作之助の足跡を大阪の町でたどったりもする。

 なかでも興味深いのは「池袋で中国東北旅行」である。「かつて横浜や、神戸、長崎などの港町に住みついた中国人は『老華僑』、一方80年代ごろから就学ビザを手に急増した中国人は『新華僑』と呼ばれる。『新華僑』にとって池袋は安価な部屋の賃貸物件が多く、日本語学校や専門学校もあり、都心に近いターミナル駅として通勤通学にも便利だから、と絶好の居住先になっていった」(63ページ)という経緯からである。中国東北地方は多元的な民族構成と文化をもつので、料理も多彩、したがってこの町に並んでいる店も料理も変化に富んでいる。著者はメンバー・チェンジをしながら、何度もこの町を訪問し、そのたびに別の店で料理を楽しむ。それでも「この街のあちこちには食べたい味、うれしい味、おどろく味がたくさん隠れている。たぶんまだ、その半分も知らない」(81ページ)。

 訪問先の多様さで読みごたえを感じさせるのは「いただきます、社員食堂」。文藝春秋の社員食堂に始まり、女子栄養大学の学食、横河電機の社食、さらに文藝春秋のライヴァルである新潮社の社食、同行したY田青年(東海林さだおさんのエッセーにしばしば登場する編集者が「ぐ、ぐやじー(くやし涙)」(メニューの充実ぶりも食堂の居心地の良さも新潮社の方が文春を上回っているのである)。ポーラの社員食堂。共産党本部の食堂。「ちなみに『自由民主党』にも同じ取材を申し込んだら、断固拒否されました。理由は『公正さを欠く可能性のある前例のない取材はお引き受けできません』(97ページ)。うーん、このころから秘密保護法の構想をもっていたのかな。そしてはるばる遠く琉球新報社の社員食堂。「沖縄本島の大動脈、国道58号線を眼下に眺めながら食べる火傷しそうなほど熱い味噌汁定食。とろりとやわらかな半熟卵や大きな豆腐には、『琉球新報』で働く実感がたっぷりとこもっていた」(100-101ページ)。

 本書の表題にもなっている「サンドウィッチは銀座で」は木村屋總本店の小エビのカツレツサンド、洋菓子舗ウエストのトーストハムサンド、帝国ホテルのアメリカンクラブハウスサンドイッチ、はまの屋パーラーのスペシャルサンドゥイッチ、銀座千疋屋のフルーツサンド、みやざわのカツサンド、バー・ロックフィッシュの生ハムとカマンベールのサンドウィッチ、チョウシ屋のコロッケサンドを取り上げている。ここで列挙されなかった店とサンドイッチの方が多いはずではあるが、そうはいってもよく食べ歩いたものだと感心させられる。

 巻末の「百年も、二百年も」では、作家たちが愛した店が探訪されている。織田作之助の足跡をたどっているほか、9月3日の当ブログ「吉田健一『東京の昔』」で触れた吉田とランチョンの関係についても取り上げられている。

 著者があとがきで書いているように、ここで紹介された店の中には姿を消した店もあり、その一方でいったん店を閉めた後再開した店もある。火災で店舗が焼失した「かんだやぶそば」の当主は次のようにいったという。「伝統が味をつくるのではなく、技術が味をつくる。再建後も同じ味は出せる」

 著者はこの言葉を紹介した後、「このたくましさ、不屈の精神こそ、日本の味を鍛え、育ててきた核心に思われてこちらのほうが励まされた。オムライスにも、サンドウィッチにも、大阪のてっちり鍋や滋賀の山奥の熊鍋にも、惹かれるおいしさのなかには味覚にかちりと響く一本の芯がある。そこをこそ果敢に味わいたい。食べることで大事に守っていきたい」(245ページ)と結んでいる。あれ、中国や韓国の料理も味わいたいし、平松さんだって食べているじゃないか・・・と突っ込みたくもなるが、それはさておいて、自分なりに近場の食べ歩きに励もうと心を新たにしているところである。 

語学放浪記(13)

9月16日(月)台風の影響で残っていた雨は止んだが、風が強かった

 台風のもたらした豪雨と強風で多大の被害が出た。被害を受けた方々に心からお見舞いを申し上げるとともに、被災後の復旧が迅速に進むことを祈りたい。

 これまで英語、ドイツ語、中国語、ロシア語、ラテン語を学習したことについて書いてきた。これらは学校で授業に出て勉強した言語である。前回書いたように、ラテン語は途中でやめてしまったが、それ以外は一応単位は取った。単位を取ったからと言って、「できる」わけではない。いつだったか、TBSの「サンデー・モーニング」で張本さんが言っていたが、「甲子園を出発点と考えるか、目的地と考えるかで選手のその後の歩みは違ってくる」。大学の語学の単位取得を出発点と考えるか、目的地と考えるかはその後の言語との付き合いに影響してくる。成績がよかったからと言って油断はできないし、悪くてもその後の努力で取り返せるかもしれない。

 ところで、大学で授業を受けるというだけならばフランス語とイタリア語も少しだけ授業に顔を出したことがある。英語は別にして、現在、勉強を続けている言語は、大学で単位を取った言語ではなくて、少しだけ授業に顔を出してすぐにやめてしまったフランス語、イタリア語、それにラテン語であるというのは奇妙なことである。あるいは大学時代の選択がその後の人生の軌跡に即してあまり適切ではなかったということかもしれない。TVのCMで20代の青年が30代、40代、50代の自分自身とあって話をするというのがあるが、現在のわたしが大学入学直後の自分自身と話すことができれば、英語をもっと勉強しろ、ドイツ語はやめて、フランス語を第2外国語として選択せよ、フランス語がしっかり身に着くまで他の言語には手を出すなくらいの助言はするだろうと思う。将来のことは見通しにくい。だから流行や一時的な便宜よりも、自分が本当に興味があるかどうかが選択にあたっては重要になるはずである。

 実はフランス語、それにスペイン語についてはラジオ、テレビの語学番組で多少勉強していた。ただ、これらの番組を聴くことで勉強できる量は、大学の授業で勉強する量に比べて少ない。それに大学の授業だと他の受講者と情報を交換したりできるが、語学番組の視聴者間の交流はそれに比べてはるかに限定されている。それに大学時代の生活はその後に比べるとかなり不規則であったから、語学番組をきちんと聴き続けることは難しかった。

 その他にも入門書を買って読みはじめた言語というのは少なくない。きっかけはいろいろあるのだが、古典ギリシア語、朝鮮(韓国)語、インドネシア語、ルーマニア語などを勉強しかけた。とにかく、語学に興味はあったのだが、それをどのような方面でどのように生かすかという方面に頭が回らず、空回りを続けていた。そういう無計画なところが若さの特徴であろうが、他のことについてと同様に語学の学習についても不思議なドタバタをくり返していた(大学院に進学しても、社会人になって到底若いとはいえなくなっても、この傾向はさらにつづいた)。

 種田輝豊さんの『20か国語ペラペラ』(実業之日本社、1969)という書物は書店で見つけて立ち読みしていたのが、その当時出入りしていた先生の本棚に置かれていて、先生が興味があるのならばあげるよと言われたのでありがたく頂いてきた。この書物の中ほどに「きたる1970年は、日本万国博覧会の年である。万博を見に、世界各地から日本へはるばるやってくる観光客は75万近くにのぼる見込みだそうである。まさに空前の『言語の祭典』である。/会場の隅々から、アラビア語、英語、中国語、スウェーデン語、朝鮮語・・・・・・などが、入りまじって聞こえてくることであろう」(149ページ)と書かれている。その万国博の会場をアルバイトと私用とでしばしば訪問することになった私は英語もろくろくできないことを痛感しながらパビリオンからパビリオンへとうろうろしていたのであった。

 

季節外れの話題

9月15日(日)台風の影響で雨、これから風雨が激しくなるのか心配である。

 昨日(14日)の毎日新聞の朝刊のコラム「経済観測」に大武健一郎氏が「吉宗の桜と東京五輪」という文章を書いている。徳川将軍吉宗が飛鳥山や御殿山に桜の木を植えて庶民が花見を楽しめるようにしたり、隅田川の大花火を始めたりしたことが経済の活性化を生みだしたと評価し、この改革を今回の五輪招致と結びつけてアベノミクスの将来に期待を寄せている。大学時代の教養部の経済学(溝川喜一先生)も、学部の経済原論(杉原四郎先生)もBであったくらいで経済学については暗いので、議論の当否については論じる資格がないのだが、文の中で「落語『長屋の花見』が今に残り、庶民の元気な日常生活を伝えているのも、吉宗あってのことだ」と書いているのには異議がある。

 落語に少しうるさい人ならば知っていることだが、「長屋の花見」は大阪の落語「貧乏花見」を二代目蝶花樓馬楽(1864-1914)が東京に移植したもので、これを定着させたのは4代目の柳家小さん(1888-1947)である(矢野誠一『落語手帖』201ページを参照されたい)。江戸時代から語り継がれた落語などではないのである。それに庶民の元気な日常生活を伝えているのは、大阪の「貧乏花見」の方で、東京の方は江戸っ子のやせ我慢の方が前面に出ている。演者によって異なるが、噺の中で紹介される弥太さんの俳句「長屋じゅう歯を食いしばる花見かな」がその気分をよくあらわしている(この句は馬楽=本名は本間弥太郎のものである)。矢野さんの書物に引用されている永六輔さんのコメントをさらに引用すると「東京の『長屋の花見』が、大家の発案で店子連中しぶしぶ出かけるのに対し、『貧乏花見』は、朝の雨がやんで仕事に出そこなって、身をもてあましていた店子たちの相談がまとまって、いわば自発的に出かける。大家が顔を出さないあたりが大阪的だ」。永さんはそこまで指摘していないが、東京は男だけ出かけるのに対し、大阪は男女混成で出かけるというのも大きなちがいである。

 江戸時代起源の花見についての落語というとむしろ「花見の仇討」の方がふさわしいのである。こちらは瀧亭鯉丈『花暦八笑人』の春の部が原作、文政時代から演じられていたし、現在では上野の山の花見の中での出来事とされているが、もともとは飛鳥山での出来事とされていたとのことである。ただし、こちらも4代目橘家圓蔵の「八笑人」と大阪の「桜の宮」を名人といわれた3代目三遊亭圓馬がない混ぜにして現在演じられるような形にしたのだという(矢野、前掲、229ページによる)。

 なお、花見と落語と経済の組み合わせというと笠信太郎の『花見酒の経済』という有名な先例がある。この本は読んだはずだが、内容はすっかり忘れてしまった。前記矢野さんの書物の中にこの本からの引用と思しき文があるので、これも引用しておく:「・・・国内消費をどの程度まで進めて、一杯景気をつけることができるかということは、国の経済の規模に応じ、経済発展の段階に応じて、十分の勘考が要求されることであろう」(矢野、前掲、228ページ)。笠の議論がかなり総論的であるのに対して、大武氏の議論は「五輪を一過性の祭りにとどめず、超高齢化社会に対応する都市改造や、社会保障制度改革を進めるきっかけにしてほしい」と具体的な要求が述べられているのが違いといえようか。

 それにしても秋に花見の話を持ち出すのは強引であるし、台風が近づいている中でこんな話をされても困るというのが正直なところではある。ただ、落語について少し調べさせて貰ったのはよかったとは言える。
 

ウィルキー・コリンズ『月長石』(9)

9月14日(土)曇り、時々晴れ

 前回(8月30日の第8回)からまた間が空いてしまった。そこで前回までのおさらい。インド寺院の秘宝、月長石は数奇な運命をたどって英国に渡ってきた。しかし、その宝石を取り戻そうとしているインド人たちの影がつねに見え隠れしている。フランクリンの手で彼の従妹であるヴェリンダー家の令嬢レイチェルの18歳の誕生祝いとして届けられた宝石は、その祝いの席が開かれた翌朝に消失してしまっていた。シーグレイヴ警察署長の指揮のもと、地元の警察が捜査に当たるが、犯人の目星も、宝石のゆくえもつかめない。インド人を捕縛したが、彼らは犯人ではなさそうである。そこでフランクリンは彼の父親に電報を打ち、その友人である警視総監に依頼してロンドンから優秀な警官を派遣してもらうことを思いつく。

 ベタレッジのもとに2つの噂が届く。1つは荒れ地の小路をヴェールで深く顔を隠して町の方角にあるいているロザンナ・スピアマンを見かけたというものである。その時間、彼女は体の具合が悪くて彼女の部屋にいたはずなのである。もう1つはレイチェルの誕生祝いの席から雨の中を歩いて帰ったキャンディ医師が風邪をひいて寝ているというものである。事件の解明に彼の援助を得られないことをフランクリンは残念がる。

 フランクリンのもとに父親から、ロンドンから有名なカッフ部長刑事(Sergeant Cuff)が派遣されるという返事が届く。フランクリンは驚く一方で、彼が到着すれば事件はすぐに解決すると楽観的な希望を述べる。シーグレイヴ署長とヴェリンダー邸の人々は彼の到着を待ちうけるが、彼を運ぶ馬車の都合がつかない。(カッフの職名sergeantは、inspectorの下、constableの上で、巡査部長と訳す人もいる。当時のイギリスと現在の日本とでは警察の組織が違うので、どう訳すのが正しいとは一概には言い切れない。)

 停車場からの貸馬車に乗ってやってきたカッフは予想とは違い、またシーグレイヴとも全く違う白髪交じりの、初老の男であった。「全身これ骨と皮ばかりと言いたいくらい、みすぼらしいまでにやせていた。こざっぱりとした黒服に白のネクタイをつけ、顔は斧のように鋭く、顔の皮膚は秋の朽ち葉のように、かさかさして黄色かった。冷たい灰白色の目は、ふと目と目がぶつかると、相手自身さえ知らないことまで見通そうとするような、こちらをどぎまぎさせるようなところがあった。物静かな足どり、重く沈んだ声、野獣の爪めいた鉤なりに曲がった手の指。牧師か葬儀屋――そのほか、どんな職業でもいい、ただ刑事とだけは思えなかった。こうしたカッフ部長刑事ほど、災難にであった家のものたちの慰めにもならず、シーグレイヴ署長とはまるきり違ったタイプの警察官は、どこをさがしてもいるもんじゃない、と私ははっきり言いきれる」(159ページ)。中村さんが「斧」と訳しているhatchetは普通、手斧、鉈と訳されている。「鉤」と訳しているclawは猫やタカなどのもつカギ爪やカニ、エビなどのはさみを表す語である。

 ベタレッジの出迎えを受けたカッフは屋敷のたたずまいを褒めたり、潮風が実にさわやかだなどと言いながら、庭にまわってヴェリンダー夫人に会おうとする。そして屋敷のバラ園についていろいろな意見を述べる。彼はバラが好きなのである。そして、ベタレッジや園丁よりも早く、ヴェリンダー夫人を見つけて、ベタレッジにこれはただ者ではないという気持ちを抱かせる。ヴェリンダー夫人と話して、彼女の不安を取り除いた後、彼はシーグレイヴ署長から事件についての説明をうける。それから2階のレイチェルの居間を見に出かける。

 2階の様子を見た後でカッフはペンキを塗ったドアの錠前の真上の小さな汚点に気付き、それが誰かのペチコートが触ってできたのだという説明を聞いて、誰のペチコートかを確かめなかったシーグレイヴの怠慢を責める。そしてペンキについてもっともよく知っているフランクリンの説明を聞き、シーグレイヴよりもフランクリンの方が捜査にとって役立つ人物だという印象をもったようである。ところがカッフにあったレイチェルは、フランクリンの意見を聞くべきではないと言い放ち、また自分の寝室に閉じこもってしまう。そこでカッフはまず、ベタレッジの娘でありレイチェルの小間使いのペネロープの証言を求めるが、彼女の衣服にはペンキのあとはなく、彼女の疑いは全く晴れる。カッフはこの汚点が事件を解くカギになると確信している様子であるが、自分のそれまでの捜査を無視されたように思ったシーグレイヴは面白くない様子である。

 カッフは「夏の名残りのバラ」(「庭の千草」)を口笛で吹きながら考えをまとめようとする。「それは何となく彼の人柄にふさわしいような気がした」(173ページ)とベタレッジは書き記す。ダイヤモンドを誰が盗んだのかの見当はついたのかというフランクリンの問いに対し、「ダイヤモンドを盗んだものは誰もいませんよ」(174ページ、原文はNobody has stolen the Diamond.ペンギン・ポピュラー・クラシックス版の113ページ)と謎のような答えを返す。そしてまだ謎として残っている部分があるといい添える。(つづく)
 

日下力『いくさ物語の世界――中世軍記物語を読む』(3)

9月13日(金)晴れ後曇り

 第4章「物語の生まれるところ」の続き。『平家物語』を代表とする軍記物語は歴史的な事実を題材としているが、それを作者の意図に基づいて再構成している。歴史的な事件の背後にある複雑な事情を単純化し、個々の人物の役割や対立軸を強調しているのである。

 歴史における個人の役割を重視する物語の造形の上で重要な役割を担うのは「起死回生」を託されたヒーローの創出である。「『平家物語』における日常の生活実感、あるいは社会的視野の欠如を指摘する声があった。が、なぜそうした事柄を描かぬかと言えば、登場させる個々の人間の生にこそ関心の中心があるからであろう。他作品でも、事件を発生させ、事を進展させるのは、社会的状況や経済的状況などではなく、あくまでも人物の個性的な性格であり、彼らそれぞれには物語上の固有な役割がになわされている。
 いくさ物語の基本的な志向性の一つは、敗者側に起死回生を託す人物を創ろうとすることである。そうしなければ、ストーリー展開は冷めたものになってしまうからである。『保元物語』では為朝、『平治物語』では悪源太義平、『平家物語」では清盛の弟教盛の子息たる能登守教経、『承久記』では山田次郎重忠が、その役割をになう」」(134ページ)。

 事態の推移の中で混乱状態を強調し、時間を凝縮して表現し、事件の展開を劇的に再構成していく。「いくさの物語は、歴史事実を伝えようとするものでは決してないことを、充分に知っておく必要があろう。言葉により非日常的空間を作出し、そこにさまざまな人々の生の曲折を、その言動とともに描き込み、享受者の心を揺り動かして異次元の世界へ誘引しようとする、そうしたものとして物語は企図されている。あらためて言うまでもなく、軍記物語の文学たるゆえんである」(146ページ)。

 第5章「求められたものは――戦争の体験から」ではいくさの時代の中でのさまざまな人間模様が特に人間関係を中心として取り上げられる。美しい人間関係がことさらに強調されているのは、戦乱の体験の中でそのような関係が渇望されていた時代の雰囲気を反映するものであると論じられている。

 第6章「いくさ物語の強さ――時代を超えて」では、登場人物たちの歴史の不条理性への自覚が平重衡の例に即して語られ、「現実を告発しながらも、それを受け入れ、乗り越えていこうとする精神を、物語は、重衡の中に描き込んだのである。現実と対峙するそうした精神のありようは、西洋の叙事詩の世界には見出せない」(190ページ)と説く。

 さらに実際にはどうであったかは別にして、人間の恩讐の世界からの心の離脱や固有な自分の生に、固有の意味を見出し潔くことを決していく人間の姿が描かれているとする。当時の人々の精神を支配していた仏教的な末法観を否定し、この考えとともに人々の不安をあおっていた百王思想(神武天皇から数えて国王百代で世が尽きるという終末思想)も、国王すら相対化する物語の作者によって乗り越えられている。このようなものの見方は物語の成立した時代の雰囲気を反映するものであったという:「軍記物語4作品が誕生した1230年前後から40年ころにかけては、…既に末法観や百王終末思想に拘泥されない、のびやかな物の見方、考え方が、平和を背景に育っていtにちがいないのである」(208ページ)。この時代、「平和の継続が喜びとして社会的に共有され、現実を肯定的に受け入れる雰囲気が新たな広がりを見せていた。それが軍記物語誕生の時代的な環境であった」(209ページ)という。(これはこの書物が取り上げている4作品の成立の背景であって、軍記物語全般について言えることではないことを考える必要もある。しかし戦乱の時代を描いた軍記物語があえて『太平記』と名づけられたかも考えることも必要であろう。)

 他方、命のはかなさについてのこの時代特有の認識も示されているという。この時代は人の命をめぐる不思議が実感された時代であった。「中世の一時代に創られたこの国のいくさの物語は、こうした精神的土壌を自らの帰属すべき原点として胎生し、なおかつ、それを継承して表現を熟成させた。それゆえ、勝利者の武の力を単純に賛美するだけの文学には終わらず、陰に陽に、多様な要素を含む。叙事詩に比べ、まがりなりにもはるかに戦いの実相と密着したところから発想され、かつ、歴史的に屈折させられた人々の生と死を、多面的に伝えようとしたからであろう。その思いは、深く受け止められねばならない」(213-214ページ)と説く。さらに「戦いの物語は面白さを求められるが、しかし、それで終始することは許されないものであった。喜怒哀楽の混在する物語世界は、戦争が繰り返され混乱の世が続くことを、決して望んではいない」(214ページ)として、それが第二次世界大戦をまだなお記憶にとどめている現代においても十分に理解できる内容に満ちていることを述べて筆を擱いている。

 著者が断っているように、これは鎌倉時代の初期に成立した軍記物語4作品を論じたもので、『将門記』や『陸奥話記』から『明徳記』、『応仁記』(さらにその後の作品群も含める考え方もある)に至る軍記物語全般について論じたものではないし、同時代の歴史物語やその他の文学作品についてもあまり言及はされていない。新書という著書の性格からして包括的な論述は無理だということもあるだろうし、論旨を明確にしようとする意図もあると思われる。おもな議論は、『平家物語』が歴史そのものを記述した記録文学ではなく、作品が成立した時代の人々の精神の表現として過去の歴史を再構成した文学作品であること、そして現実と向き合うさまざまな精神のありようを書きとめているがゆえに、西洋の叙事詩にも勝る性質をもっているということである。

 この書物を読みはじめたきっかけは大津雄一さんによる明治から現代までの『平家物語』の受容をめぐる論考『『平家物語』の再誕』を読んだことであり、その中で論じられていた『平家物語』を叙事詩と見る考え方が、この書物の中で完全に乗り越えられていることを知ったのは一つの収穫であった。叙事詩を最高の文学形式だというドグマは文学についての窮屈な檻の中に閉じ込めるものである。多様な文学形式の展開こそがどの時代にも求められてよいのである。 
 

日下力『いくさ物語の世界――中世軍記文学を読む』(2)

9月12日(木)晴れ

 昨日に続いて日下力『いくさ物語の世界――中世軍記文学を読む』を取り上げる。昨日の記事について、「歴史ものですか」というコメントを頂いた。軍記物語は文学であって、そのまま歴史として受け止められるべきではないというのが著者の見解であり、私もその通りだと思うが、その一方で物語が歴史的な事実に基づいていることも否定できない。そしてその歴史的な事実が作者によってどのように受け止められ、描き出されているかに作品の文学的な評価がかかっているということを理解していただきたいと思う。

 第3章「いくさは何をもたらしたか――結果への視線」ではこの書物が取り上げた4つの軍記文学『保元物語』、『平治物語』、『平家物語』、『承久記』が成立したと考えられる時代(1230年前後から40年ころ、他の個所で著者はこの時期が相対的に平和な時代であったことを指摘している)の人々にとって死が目前の現実であったこと、天災や飢饉が物語の作者の周囲の現実であったにもかかわらず、物語にはそれらの記述がないことが指摘される。「勇猛果敢な合戦場面が、現実そのままではなかったのと同じように、悲惨な社会状況や戦いの実態が、軍記物語に忠実に写し取られているわけでもないのである。が、現実と表現世界との間に大きな隔たりがあるにしても、両者は、いわば層を異にしながら、確かに結びついている」(86ページ)という。作者が目撃しなかった過去の場面が、同時代の体験を踏まえて再現されているように思える個所があるからである。

 そして著者は物語が戦争の悲惨さ、被害者たちの姿に目を向けていることに着目する。被害者となるのは弱者、女性や年少者たちである。それだけでなく「勝者もまた戦いの犠牲者としての側面を持ち、勝者はいつまでも勝者たりえないという、この世の法則への自覚」(110ページ)が見られるという。「転変する世にあって、勝利は絶対的価値をもちえず、勝つことの罪も悲哀も分かっていた時代、諸行無常を説く『平家物語』の冒頭は、多くの人々の共感を得ていたに相違ないのである。軍記物語が戦争の記録ではなくして、文学にまで昇華しえたのは、勝敗を相対化する視座を、究極的に保持していたことと深く関わる。その視座は、戦いの結果が残した悲しき現実を、体験的に知りつくしている目と表裏するものであったろう。・・・/敵味方の差なく、戦争そのものの人にもたらす不幸を、叙事詩にはない熱意をもって語っているこの国の文学のありようは、まっとうに評価されることを待っている」(112ページ)とこの章は結ばれている。(「究極的に」という表現がどうもわかりにくい。)

 第4章「物語の生まれるところ――異次元の世界へ誘う技法」はこの書物のもっとも重要な章である。まず一の谷の合戦をめぐり、源氏の兵力は『平家』や『吾妻鏡』が記しているような大軍ではなく、平家に比べて劣っていたことを当時の公家の日記という史料を使って論証し、源氏の勝利は後白河院と宮廷貴族たちの謀略(和平をもちかけて平家軍を油断させて、追討軍を差し向ける)の結果であったとする。これは武士にとっては不都合な筋書きであり、『吾妻鏡』は『平家』を利用して史実を書き換えたと論じる。それでは『平家』はどのような意図をもってこの戦いを描き出したのか。

 「『平家物語」には、実際にあった醜いかけひきの影は微塵もない。物語は、この合戦を、勲功に野心を燃やして果敢にふるまう、・・・東国武士たちと、その野心に欠けるゆえに悠長な、かつ、駆り集められたゆえに団結力にも欠ける平家武士たちとの戦いとして描いた。・・・野蛮な東国人と気質を異にする教養ある平家の人々の姿を描いた。開戦以前から、両陣営の勝利への執念の違いを明瞭に示し、勝敗の帰趨はすでに定まっていたかのごとく、語り進められてもいく。平家滅亡の必然性がおのずから理解されてくるような物語世界が、壮大なスペクタクルを軸として、独自に創出されている。その見事な「作劇」ゆえに、今日まで歴史記述をも誤らせてきたのであった」(125-126ページ)。

 これらの軍記物語は複雑な事情を単純化して語っている。その単純化の作業の一つはいくさの原因を個人の対立として描いていることである。『平治物語』であれば、藤原信頼と信西の対立が平治の乱の原因として位置づけられている。ある出来事を伝えようとするときに、どうしても省略される部分が生まれるが、このやり方を効果的に使っているのが『平家物語』である。「実際にあった歴史事象の省略と焦点化は、いくさ物語にとっては対立軸を明確にすることにつながろう」(133ページ)という。物語を面白く、生き生きと語るために歴史離れも必要であったのである。

 今回で紹介を終えるつもりだったが、いろいろな事情で第4章の途中で次回につなぐことにする。これら一連の軍記物語を「歴史」への興味から読むか(その場合、物語が歴史そのままからどのように隔たっているかが問題にされてよい)、物語として読むか(この場合、物語が歴史的な事実をどのように修正し、どのような歴史上の意識に基づいて構成されているか、その結果どのような効果が発揮されているかが問題にされる)、どちらでもよいのだが、わたしとしては物語の方に比重を置いて読んでいきたいと思っている。(つづく)

日下力『いくさ物語の世界――中世軍記文学を読む』

9月11日(水)曇り、一時雨

 日下力『いくさ物語の世界――中世軍記文学を読む』(岩波新書、2008)を読み終える。当ブログでは8月10日、14日、16日、19日、22日と5回にわたり『平家物語』の受容史である大津雄一『『平家物語』の再誕』を取り上げた。『平家物語』が明治以後、現代に至るまでの日本でどのように受容され理解されてきたかも興味深い問題ではあるが、『平家物語』あるいは軍記物語についての研究書も読んでみたいと思って書店の棚を見たらこの本が目に入って買ってきて読んだ次第である。

 この書物が取り上げているのは『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』の4作品である。これらはどれも鎌倉期の1230年前後から40年ころにかけて生まれたものと考えられている。4作品が共有する性格と本質について考えてみようというのがこの書物の狙いである。「過去の戦いを振りかえり文字化死得た背景には、久しぶりに訪れた平和があった。・・・それは、第二次世界大戦の体験者がなお生き残っている今の状況と、いわば相似形をなすもの、現代への連想もおのずから働く」(ⅱページ)と著者は書く。

 序章「いくさ物語の読まれ方」では、いくさ物語を<歴史>としてみる読み方、<叙事詩>としてみる読み方について紙面を割き、物語は歴史的な事実から離れた物語独自の構想によって書かれていること、叙事詩とは違う文学的な性質があることを論じている。歴史、あるいは叙事詩として読む観点から離れていくさ物語の文学性を探ろうというのが著者の姿勢である。

 第1章「力を渇望した時代――いくさ物語の背景」では上皇や貴族たちが武芸を好む当時の風潮、武士たちの時代を担うものとしての自信と彼らの相対的なものの見方、力の時代の中で超越的な力をもつ英雄として描きだされた源為朝の姿、いくさ物語の笑いの質がヨーロッパの叙事詩の笑いのそれとは違うこと、武士的貴族の登場などについて論じ、「ことの善し悪しはおいて、力を持つことへの渇望が、社会全体に遍在していたのではあるまいか。さまざまな勢力が台頭していたあの時代、それは格別な意味を持っていたはずであった。そうした風潮に忠実な一面を持つ作者にして、はじめて生きるエネルギーにあふれた人々を活写しえたし、そうした人物の描出なくしては、軍記物語の世界は誠に色あせたものとなってしまっていたことであろう」(48ページ)と結論している。

 第2章「戦いの面白さを語る――勝敗劇への関心」では『平家』の中で義経の二つの顔:勝者の顔と敗者の顔、その背景にある指揮官としての魅力と悲劇を招く資質が描かれていることを取り上げ、「作品創出の当初から改作を重ねてもなお、人物像の矛盾といわれる要素が維持され続けた現象は、ひとりの人間の正と負、勝者と敗者の両側面を伝えるのに、それが不可避だったからにほかなるまい」(56ページ)と解釈してみせる。そして「『平家物語』の作者は、決して単純な判官びいきではなかった」(57ページ)ともいう。そのような作者の背景には「平氏の血脈復権の時代相」があったとする。「ともあれ、勝者が敗者ともなるゆえんを、義経や義仲の、当人の性格に即して『平家物語』の作者は語ろうとした。その時、人物像の内部的齟齬は二の次であったらしい。勝敗の要因への関心が、何よりも優先したからであったろう」(59ページ)とも論じている。さらに軍記物語の戦闘描写の面白さが、『平治物語』の源義平が率いる17騎が平重盛の率いる500騎を駆逐する場面を取り上げて語られている。さらに『保元物語』の中の策戦会議の中での夜討ちをめぐる議論を取り上げ、夜討ちの建言を取り上げた天皇方の信西の判断が勝利を導いたことから、文と武のあるべき姿を作者が彼の中に見いだしていると論じる。さらに個々の武士の手柄話が物語の中に組み込まれていく過程についてもたどり、「軍記物語の描く合戦譚で、事実を忠実に再現したものは皆無に等しいであろう。そうなったのは、そうなったのは、表現する側にも享受する側にも、劇的なるものを求める心情があるからで、言葉による表現は、現実の領域を超えてインパクトを欲する心情の領域へ、進路を取る定めにあった」(80ページ)とまとめている。

 大津雄一『『平家物語』の再誕』に5回を費やしてしまった轍を踏まないようにできるだけ簡潔に紹介していくつもりだったが、1回で終えることができなかった。次回で何とかまとめ終えようと思うので、手際の悪さをご容赦ください。(つづく)

 

国際映画祭

9月10日(火)晴れ

 昨日(9月9日)の『毎日』夕刊はモントリオール映画祭についての広瀬登記者の報告と、「『風立ちぬ』ベネチア受賞ならず」という共同通信による記事を掲載していた。ベネチア(ヴェネツィアと書きたいところ)映画祭の詳細についてもいずれ報告がされるだろう。

 第37回モントリオール世界映画祭(8月22日~9月2日)には432本の映画が出品され、田中光敏監督の『利休にたずねよ』が最優秀芸術貢献賞を受賞したほか、コンペ部門以外で上映された市井昌秀監督の『箱入り息子の恋』が日本におけるよりも多くの笑いをとったそうである。他にも少なからぬ日本映画が上映されたという。

 気になるのは現在、カナダでは第38回トロント国際映画祭が開かれているはずなのだが、この映画祭についての報道がほとんどないことである。私はこれまで海外の映画祭を見に出かけたことがない(以前にも書いたが、映画館で映画を見たこともない)ので、出かけやすそうなカナダに目をつけて、モントリオールとトロントの映画祭のはしごをするという夢を抱いているのである。そういう事情なので一方が詳しく報道され、もう一方があまり注目されないのは困ったことである。それとも10月に開催されるロンドン映画祭に出かけることを考える方がよいのだろうか。もっと若く体力があって、英語が達者ならばサンダンス映画祭に出かけたいところであるが、インターネットもろくろく使いこなせないのではかなり難しそうである。

 とはいうものの、年金生活者の限られた収入では海外の映画祭に出かけるのはかなり実現性の低い夢である。これも10月に開かれる東京国際映画祭で複数の映画を見に出かけることをとりあえずは考えているところである。

柳田国男『昔話と文学』

9月9日(月)晴れ

 柳田国男『昔話と文学』(角川文庫)を読む。

 4月3日の当ブログで取り上げた同じ著者の『日本の昔話』(1930)はそれまでの柳田の民話蒐集の蓄積の所産であったが、彼はその一方で昔話についての理論的な分析に取り組み、『桃太郎の誕生』(1933)に続いてこの書物を1938年に発表した。ここでは各地で語り継がれ(変容を重ね)てきた昔話と、『竹取物語』や中世の説話文学、御伽草子などの(主として都会で)書かれた文学作品との交渉を考えようとしている。

 柳田の研究の出発点となっているのは「交通往来のもっとも想像しにくい遠隔の土地に、偶然とはいえない[物語の細部の]一致のある」(5ページ)ということである。そういう物語には古いものが多いと柳田は言う。「もし方法をつくすならば、この中からでも一国の固有信仰、われわれの遠祖の自然観や生活理想を、尋ね寄ることは可能」(7ページ)だと考えている。江戸時代の国学者が『古事記』や『万葉集』の中に見いだそうとした日本思想の基層を柳田は昔話に求めた。このことは注目してよいことである。柳田の民俗学の関心が日本一国内に限定されていることはしばしば指摘されることであるが、この書物では海外の民話や民話研究の成果が視野に入れられていることも注目されてよい。

 放送原稿を含む12篇の論稿が収められているが、『竹取物語』における富士山との関連性から、羽衣説話に着目し、さらに他の求婚者試験譚や異常成長譚との関連について論じている「竹取翁」、説話がいったん記録になってから後も、なお民衆のあいだにはこれを成長させ変化させる力が保たれていたと考える「藁しべ長者と蜂」、イタリアの民話集『ペンタローネ』の中の説話の紹介から書きだされる「うつぼ舟の王女」、御伽草子の「梵天国」についての考察を展開する「笛吹き婿」などが特に興味深かった。

 「梵天国」が『竹取物語』と同様、求愛の障害としての難題に文学作品としての工夫を凝らしていると指摘しながら、『竹取』はそ(難題)の解決を未解決に引き直して、予期せられざる結末を導こうとしているが、「梵天国」はしまいまで昔話のままである。文学の芽生えとしてはこのほうが一段と価値は低い」(202ページ)と論じているのが柳田の文学観の一端を物語っていると思われる。この2つの説話の共通点については私自身でも考えてみたい。

 柳田が紹介した説話と、彼が展開している分析から多くの示唆を受け取ることのできる書物であるが、彼の意見のすべてに賛同できる訳ではない。『昔話と文学』という表題を掲げながら、文学として取り上げられているものが古典的な作品に限定され、近代の文学作品、特に児童文学に論が及んでいないのは物足りない点である。また、外国の昔話研究についての視野が時代の制約を受けて限定されていることも否定できない。ドイツのベンファイ、英国のフレーザー、フィンランドのアールネへの言及はあるが、ソ連(当時)のプロップの所説は取り上げられていない。第二次世界大戦中と戦後における海外の研究を柳田が読んでいれば、研究がより多角的なものになったのではないかと惜しまれる。

 さらに「新版解説」で三浦佑之さんが述べられている、柳田は笑話を昔話の零落と見ているのは間違いであるとの見解に賛意を表しておきたい。三浦さんは『古事記』のアマテラスとウズメのやりとりが笑話の「松山鏡」につながるのではないかとも述べているが、この書物、特に「笑われ婿」の中で紹介された説話の中には落語の原型のような話が少なくないように思う。(昔話と落語のあいだにはたとえば説経のような中間の媒介項があるから、そう簡単に原型云々とはいえないのだが・・・) 昔話は文学の素材となるだけのものではないはずである。「かちかち山」に関連して「石川県南部には兎と蟇(がま)との話がある」(141ページ)という指摘があるが、これなど「鳥獣戯画」のウサギとカエルの相撲を思い出すのである。 

吊り輪

9月8日(日)曇り

 2020年に東京でオリンピックを開催することがIOCの総会で決まったそうである。そういえば、2008年の北京オリンピックのときに電車の中で見かけた風景が記憶に残り、次のような詩を書いていた:

 吊り輪

オリンピックの
体操が気に入ったのかな
電車の中で
お母さんに抱っこされながら
小さな子どもが
つり革にぶら下がっている
空いている席もあるのに
このままぶら下がっていたいらしい。

半分は抱っこされているのだから
オリンピックの代表までの
道のりはずいぶん遠いけれど
十年、二十年なんて
あっという間に過ぎてしまう
大舞台で活躍している
君の姿を見る日が
来るのかな

ガタンガタンと揺れたりもする
電車の中で
お母さんに抱っこされたまま
子どもが
つり革にぶら下がり続けている。

語学放浪記(12)

9月7日(土)曇り

 パキスタンで女子教育の必要性を訴えてイスラム武装勢力の銃撃を受けたマララ・ユスフザイさんがオランダの人権団体から「国際子ども平和賞」を授与された様子をTVのニュースで見た。マララさんは16歳で私の4分の1以下の年齢であり、英語を勉強した年数もはるかに少ないはずであるが、その堂々としたスピーチには感心させられた。

 これまで、どんな言語を勉強してきたか(勉強したというだけで、一向に身につかなかったか)を書いてきたが、大学も3年生の終わりから4年生(関西の大学では3回生から4回生という言い方をする)になって、勉強したというだけでは済まなくなり、応用力が試されるようになってきた。

 まず、就職するか、大学院に進学するかが問題であった。とりあえず就職を考えて、その際の特技として中国語ができることを売り込もうと考えたりしたが、どうも考えが甘いようであったので、大学院進学に進路を変更した。まことにいい加減な話である。スポーツは全く駄目で、試合を観戦することもほとんどなかったのに、スポーツ新聞の記者になりたいなどと夢想していた。しかし本屋でアメリカの野球雑誌を見つけて立ち読みしたところ、全く意味が取れなかったのであえなく断念した――ということにしておこう。

 問題は、大学院に進学するとなると、外国語2科目の試験を受験しなければならないことである。卒業論文のために英語の本を読んでいた(応用力というのはそういうことである)から、まあ英語はなんとかなるだろうと思った。問題はもう1つの外国語であって、ドイツ語ということになるが、ドイツ語ができないために2年で済むはずの教養部に3年もいたので、全く自信がない。英語だけで受験できる大学院を探して、書類を取り寄せたくらいである。

 それでもドイツ語を選ぶよりほかに仕方がないような様子であったから、大学院進学を希望する友人やその他の知人とドイツ語の文献を読む勉強会を始めた。中に1人、よくドイツ語ができるのがいて、彼から随分いろいろなことを学んだ。他の専攻の友人でもドイツ語がよくできるのがいて、いろいろと知恵をつけてくれた。ドイツ語についてはこの時期、友人たちから学ぶことが多かった。

 卒業論文を提出してから、大学院の入試までのあいだ、英語の本を結構読み漁った。それまでの不勉強で能力が落ちていた英語の力が、卒業論文の勉強のおかげでかなり回復したことが実感された。それでも特に明確な目標がない方が意欲がわくというあまり生産的ではない性分がこういうときになると大いに発揮される。近代イタリアの歴史や社会学についての本を読んだり、チェーザレ・パヴェーゼの『丘の上の悪魔』を読んだりした。それ以前からイタリアには興味があったのである。

 その一方で映画をよく見て、『市民ケーン』とか、『昼下がりの情事』とかいう映画の対訳シナリオを買ってきて、映画を見る一方でシナリオを読み返したりしていた。だから学問的関心だけで外国語に興味をもっていた訳ではない。この時期、ドイツ映画にはろくなものがなかったので、余計にドイツ語を勉強するための動機が見いだしがたかった。

 それでも、ドイツ語の本については現在よりも当時の方が入手しやすかったように思う。京都の丸善にはドイツ語の哲学の本がそろっていた。今はどうだろうか。大学の近くのナウカはロシア語やその他社会主義諸国の言語の本を主として取り扱っていたが、その中にはドイツ語の文献もあったし、極東書店はドイツ語の本をかなりそろえていた。難易にはこだわらず、安い本を買って読みかけてはやめるということをくり返していた。それよりも、ナカニシヤ書店でドイツ語の教科書や読本を買ってやさしいドイツ語をたくさん読みこなした方が力はついただろうと今になって後悔する。ドイツ語は我流で勉強した分伸びなかったという反省が残っている。

ジンジャーの朝 さよなら、わたしが愛した世界

9月6日(金)曇り

 渋谷の[シアター]イメージフォーラムで『ジンジャーの朝 さよなら、わたしが愛した世界』(Ginger and Rosa, 2012)を見る。1960年代のロンドンで社会不安の中で仲良しの2人の少女のあいだに次第に亀裂が生じていく過程を描いた作品である。

 1945年、第二次世界大戦が終わった直後に2人の母親がそれぞれの娘を生む。母親2人同士、ジンジャーとローザという娘同士はずっと友達であり続けている。そして、米ソの冷戦が核ミサイルの開発をめぐる競争にまでエスカレートした1960年代、ハイティーンになった2人の娘はヒッチハイクで遠くまで出かけて夜遅くまで遊び歩く一方で、核戦争の危機に不安を感じ、デモや集会に参加したりする。

 ジンジャーの母はもともと画家を目指していたのが、彼女を妊娠したことで断念したが、家事が苦手なまま結婚生活に入ったことを気に病んでいて、ジンジャーの学校に家庭科の授業を増やせと要求しにやってきたりする。自由思想家である父親は別居していて、そのことも母親をいら立たせている。

 母親の干渉を嫌うジンジャーは父親のもとで生活するようになるが、それとは別にローザは男としてのジンジャーの父に魅力を感じはじめている。キューバ危機が起きて、ジンジャーは抗議行動に参加するようになるが、ローザは神に祈ればよいという。座り込みに参加したジンジャーは逮捕される。

 クローズ・アップを多用する映画作りで、監督であるサリー・ポッターは登場人物の心理描写に意を用いている。彼女は1949年生まれというから主人公たちよりも年少であるが、無神論と無政府主義の雰囲気の中で育ったと語っていて、ジンジャーの姿には監督自身の経験が投影されているようである。拘束されたジンジャーについて医師は何か問題があるのではないかといい、彼女の周囲の人々は平和への情熱がそうさせたのだという。しかし、彼女の家庭環境が何らかの意味で影響を及ぼしていることも否定できない。いろいろな意味で考えさせられる映画であった。

 キューバ危機というと、この前後のハバナで暮らす資産家の知識人の姿を描いたキューバ映画『メモリアス―低開発の記憶』が思い出される。危機の感じ方は、どこでどのような立場でその危機に接するかだけでなく、それぞれの人生経験によっても影響される。

 ジンジャーとローザは私と同年代で、私も高校時代にキューバ危機の報道に接した人間であるからここで描かれている登場人物の気持ちには理解できる部分があった。とはいうものの、危機感を持ち、人間関係に傷つきながらも、自由に行動し、自分を変えようとする主人公にはある種の羨望の念を感じさえした。

椎名誠『あやしい探検隊 済州島乱入』『おれたちを笑うな!』

9月5日(木)雨

 椎名誠『あやしい探検隊 済州島乱入』(角川書店)、『おれたちを笑うな! わしらは怪しい雑魚釣り隊』(小学館)を読み終える。もとはといえば、椎名さんが高校時代からの仲間と、職場で知り合った新しい仲間を糾合してあちこちでキャンプをしていた一部始終を書き記した「あやしい探検隊」が時とともに姿を変えながら、今日まで続いているのは椎名さんの腕力と筆力、それに新しい個性を発掘し続ける組織力の賜物であろう。この2冊の書物に書かれた「探検隊」≒「雑魚釣り隊」の行動は連動している、というよりも、『雑魚釣り隊』の142-164ページに記された「済州島遠征」を膨らませて書かれたのが『済州島乱入』という関係である。

 済州島は日本からも旅行者が多く出かける観光地であるから、探検隊の遠征先としては物足りないという意見が出そうなので、メンバーを交代させながら島の各地を移動、大部分は自炊生活を送り、さらに隊員には「各自ヒトコトずつ、本人自身のアイデンティティのもっとも中核をなす韓国語を覚えてきて、それが通じるようにする」(47ページ)という課題が課されている。そうはいっても、結局のところカジノで大枚をはたいている隊員の行状、宴会のメニューとその料理のレシピ、席上の騒ぎも多角的に描き出されている。韓国に出かけるというのに、ニンニクにアレルギーを起こすという隊員さえいる。「毎日何もおこらないけれど、でも何か確実におきている」(181ページ)。

 『おれたちを笑うな!』の大部分は沖釣り専門誌『つり丸』に連載されたものであり、雑誌販売網の関係で「関東近辺縛り」があったが、その後、『週刊ポスト』に掲載の場を移したために、遠征先がさらに広がることになる(そうはいっても、大きく変化する訳ではないように見える)。釣りといっても、対象は限定されないし、参加するメンバーの中には釣りざおを握ることなく、飲むことと騒ぐことに専念しているような顔ぶれもいる。だから余計にその行状が面白いということも言えそうである。「流木焚き火をおこし、その煙がときおりの風に本部テントまで流れてくる。夕闇がその濃度を増してくるころに焚き火の煙の匂いをかぐのが俺は好きだ」(185ページ)という感想はいかにも椎名さんらしい。

 個性といえば、『おれたちを笑うな!』には次のような個所がある:えー、世の中にはいろんなことに興味を持つ人がいるもので、政治、経済、科学、宗教、野球、プロレス、カブトムシ、ギョーザ、将棋、囲碁、マージャン、バカラ、風呂、酒、めし、とくるとそのあと女かニワトリか。この辺どちらを選ぶかでその人の個性や生い立ちが問題になりますな」(188ページ)。ちなみに小生はプロレス、カブトムシには興味なく、囲碁、マージャン、バカラはできないし、将棋はいつまでたっても初段になれないほど弱い。

 探検隊≒雑魚釣り隊のメンバーの変化だけでなく、その変化したメンバーの中からも物故者が出ているという記述がさびしく、椎名さん自身が体力・気力の衰えを嘆く部分が見られる。また、挿入されている写真に写る姿もよる年波を隠せない様子である。椎名さんは私と同じ世代であるだけに、この衰えとどのように向き合っていくかも(その方面での著書もあるようであるが)興味のもたれるところであるが、老いを楽しむ新しい展開が開けていくことを個人的には期待している。 

ポール・ギャリコ『シャボン玉ピストル大騒動』

9月4日(水)晴れ後曇り、一時雨

 9月3日、ポール・ギャリコ『シャボン玉ピストル大騒動』(原題 The Boy Who Invented the Bubble Gun, 創元推理文庫)を読み終える。6月28日に買って読みはじめたのだが、登場人物が多く、場面がくるくると変化するうえに、個々の登場人物がそれぞれの物語をもって筋書きの中に入り込んでくるために、読んでいて混乱させられ、かなりてこずった。それでも、最後まで読みとおしてしまったのは、作者ならではのストーリー・テリングと人間観察の巧みさのためであろう。

 アメリカ西海岸のカリフォルニア州サンディエゴに住む9歳半の少年ジュリアンが家出を企てて、ワシントン行きのバスに乗り込む。地元の名士で多忙なあまりに息子のことを構いつけない父親と、過干渉な母親が彼の発明に対する情熱を理解しないので、自分が発明したシャボン玉ピストルの特許を取りに一人で出かけようというのである。バスには初めて外泊する高校生のカップル、ヴェトナム帰還兵、機密をたずさえている米国軍人とKGBのスパイ、殺人犯とあまりにも雑多な人々が乗り合わせ、この少年の旅を波乱に満ちたものにしていく。

 1977年に一度翻訳が早川書房から刊行されているが、今回はそのライヴァル社から翻訳者を変えて刊行された。ポール・ギャリコ(Paul Gallico, 1897-1976)はある人にとっては児童文学作家であり、ある人々にとっては推理小説作家であり、別の人々にとってはファンタジー作家というようにかなり多彩な作品をかき分ける作家であった。映画で言うと『打撃王』(Pride of the Yankees, 1942)、『リリー』(Lili, 1953), 『ポセイドン・アドベンチャー』(The Poseidon Adventure, 1972)の3本の映画の原作者が同一人物であるとはなかなか信じにくいが、そうなのである。今、ギャリコの作品で本屋で最も見つけやすいのは、この『シャボン玉ピストル大騒動』を別にすれば、『猫語の教科書』であろうか。個人的には彼の『ほんものの魔法使い』を読んでひどく感心したことがある。

 登場人物が多いと書いたが、実は最初から最後までその役割を演じるのは主人公の少年ジュリアンとその道づれになるヴェトナム帰還兵フランク・マーシャルの2人だけであり、この本の解説で三橋暁さんが書いているように、一種の「ロードもの」という展開をとる。そしてこれも三橋さんが書いているように、この道連れとの必ずしも順調とはいえない接触によって未熟な天才少年が成長を遂げていく(吃音が治るのはその表れのひとつである)。

 2人はバスの乗っ取り犯に出逢っただけでなく、その取り押さえに成功するが、ジュリアンが家出をしたことがばれてしまうとワシントンへの旅行が中断されてしまうので、姿を隠す。行く先はあくまでワシントンなのである。結末は伏せておくべきであろうが、「ジュリアンにとっては、どの日もどの夜も、この広大な大陸を走り続ける1時間1時間が、幼い少年の思い描く天国そのものに感じられた。自分を1人前の男としてあつかってくれる大人の友情と尊敬をかちえ、仲間としてつきあうひととき」(210ページ)が貴重な経験として思いだされるようになるのである。

 少年の旅が終わってからも物語はしばらく続くことだけ書き添えておこう。最後に、ある出来事からジュリアンの父親に「真実がふと明瞭に浮かびあがるあの瞬間、考えかたのちがい、愚かさ、妨害、無理解といったものをすべて押し流し、ふたりの人間を隔てる壁を打ちこわしてくれるひらめきが」(309ページ)訪れる。ギャリコの人間的な温かさがこもった言葉と、結末が感動的である。

吉田健一『東京の昔』

9月3日(火)晴れ、今後空模様が変化することも予想されている

 9月1日のテレビ朝日『報道ステーション サンデー』については昨日も書いたが、オリンピックと東京の都市開発という話題の他に、マンガが好きだという麻生太郎副首相兼財務相による「はだしのゲン」をめぐる発言も取り上げられていた。麻生氏は「はだしのゲン」を問題にするのはおかしい、成人向けのマンガの中にはもっと問題にしてよい内容の作品があるというようなことを話していた。

 「はだしのゲン」を私は読んでいないので、麻生氏の意見や、その発言の背景にある松江市教委によるこのマンガの取り扱いについての指示をめぐっては何も書かないことにする。しかし、マンガについての意見を聞かれて得々として答えている姿は、本人はざっくばらんで庶民的にふるまっているつもりかもしれないが、高い教養を身につけた政治家であった吉田茂元首相の孫としてふさわしいものだとは思われない。

 その吉田元首相がなくなったときに、ある人がこのように書き記している。「吉田さんは高い教養をもったハニカミ屋だった。『近頃は何をお読みですか』といったような愚問に対して、『銭形平次ですかな』と答えた時の録音は私も聞いた。その声音にふくまれていた皮肉とハニカミに気もつかず、この傲岸な首相の無教養ぶりをつかまえたなどと思ったらしい当時のマスコミ界の無教養さは今もなお健在であろうか」(白上謙一『ほんの話』、教養文庫版、203ページ)。なお、吉田茂の妻の父で大久保利通の実子である牧野信顕は自由主義的な政治家であったが、またシャーロッキアンとして有名であった。

 吉田元首相の長男であった吉田健一は英文学者であり、フランス語に通じ、ギリシア語を理解し、和漢の典籍に通じた教養人であったが、酒ばかり飲んでいる人だという世評もあったのは親譲りのハニカミ屋であったからではなかろうか。吉田健一=吉健さんがよく出かけたという神保町のランチョンに出かけるのが楽しみであるとともに、彼の代表作の1つである『東京の昔』を読み返すのが好きである。

 時間はぼかしてあるが、おそらく昭和10(1935)年ごろ、本郷の下宿に転がり込んだまだ若い自由人の語り手は、下宿の近くの自転車屋の若旦那の勘さんと顔見知りになり、やがておでん屋で徳利10本の酒を飲んだのを皮切りに、一晩中飲み明かすほどの仲になる。彼が考案した新しいブレーキを装備した自転車について、知り合いの川本さんに資金提供の交渉に出かけ、うまく話をまとめたりする。その一方、おでん屋で知り合った帝大生(=東大生)の古木君という仏文学とともあちこち遊び歩いて文明談義をしていたが、彼が川本さんの秘書のような形で渡仏するための橋渡しもする。古木君が横浜から船でフランスに向かうのを見送るところで小説は終わる。

 話自体は他愛ないが、その中に描かれるグルメ場面と文明批評に見るべきものがある。というよりもそれだけで十分である。あらすじの中でも述べた語り手と勘さんが一晩中飲み明かす場面が魅力的であるし、古木君と横浜のフランス料理店で食事をする場面も想像力をかきたてる:「この酒は舌から水気をとるという風な味がしますね」とそれで持って来られたMontrachetを飲んで古木君が言った。それはフランスの辛口の白葡萄酒に就てそれまで聞かなかったことで当っていると思う他なかった。そのときの料理は殻付きの生雲丹だった。(ちくま学芸文庫版、192ページ)

 そうかと思うと、当時発表されたばかりと思われるベケットのプルースト論についての論及があり、「よく知らないけれど、英国人じゃないんですか、」(127ページ)というおとぼけもある(ベケットはアイルランド人である。もっとも吉田が英国とアイルランドを区別していなかった可能性もある)。

 「どの国語にもその歴史があってそれに応じてそれが洗練されたものになっている。そうするとこれは翻訳の問題なのか。併しそれでもないでしょう。我々でもつまらないことは自分の家にいても言わない積りでいる。いつも一つひねることを考えている。」(193ページ) などと、一言一言に含蓄が感じられる。

 吉田健一の築き上げた文学的な教養をこれからの時代に伝えていくためには、彼の文学を理解できるものが何とか頑張ってその面白さを宣伝するしかないようである。

 

川島雄三の戦後

9月2日(月)晴れ、暑さが残る。

 9月1日のテレビ朝日の番組「報道ステーション サンデー」で現在の東京の街をつくったのは1964年の東京オリンピックであったといわれていた。オリンピックに向けて市街地が整備され、高速道路がつくられた。それ以前の復興は計画的に進められたものではなかったのである。それで思い出したのが川島雄三の映画『縞の背広の親分衆』(1961、東京映画)でオリンピック道路の建設用地買収にやくざの縄張り争いが絡む喜劇である。そうやって大騒ぎをして出来た高速道路が今や老朽化している。

 川島のつくった映画の中から彼がどのように日本の戦後を描いたかを見ていくのは興味深い作業である。これまで私が見てきたのは川島の51本の監督作品のうちの17本にすぎないし、17本の中には『幕末太陽傳』(1957、日活)のような時代劇もあるから、十分とはいえないし、劇映画なりの作為や演出もあるから、映画に描かれていることをすべて同時代の証言と受け止めることはできないが、それでも自分の記憶と合わせてある程度まで過去を復元することはできる。もっとも『幕末太陽傳』でも冒頭にその当時の品川の様子が描かれ、翌年に実施される売春防止法の話題が出てくるのだから、現代と無関係に映画がつくられているわけではない。

 名作といわれる『洲崎パラダイス 赤信号』(1956、日活)で新珠三千代と三橋達也が転がり込む飲み屋ではまだ氷を使う冷蔵庫を使用しているし、ラジオ、それも真空管ラジオがニュースを伝えている。それよりも早い『東京マダムと大阪夫人』(1953、松竹大船)で同じ会社の社宅に住む東京マダムの月丘夢路と大阪夫人の水原真知子が洗濯機などの電化製品をどちらが早く買うかの競争をする。競争が水原の弟の高橋貞二を月丘の妹の芦川いづみと、水原の女学校の先輩の娘の北原三枝のどちらと結婚させるかという話になって物語が展開するが、電化製品が導入部に出てくるのが面白い。そのあとにつくられた美空ひばり主演の『お嬢さん社長』(1953、松竹大船)ではひばりの社長が自社製品をテレビを使って宣伝して業績を伸ばすという話が出てくるが、まだテレビは庶民には手が届かないものであった。

 ラジオといえば、銀座の裏町の質屋に入り婿したドラマーの転変する運命を描く『人も歩けば』(1960、東京映画)では淡路恵子のおでん屋の女将がトランジスターに投資して儲けるという話が出てくる。『赤坂の姉妹より 夜の肌』(1960、東京映画)では赤坂のTV局が主要な舞台になっている。この映画の自動車教習所の場面で、新珠三千代が左ハンドルの教習車に乗っていたのがいやに印象に残っている。まだ教習車が足りなかったということであろうか。

 オリンピックの年、1964年に新幹線が開通するまで短い間ではあったが、東京大阪間を結んで走っていたビジネス特急を舞台にする『特急にっぽん』(1961、東宝)はこの列車の食堂のコックのフランキー堺とウェイトレスの団令子の恋愛模様を中心に従業員、乗客の人間模様を描いている。この作品は獅子文六の原作によるものだというが、原作がビジネス特急を舞台にしていたかどうかは確認していない。原作の舞台がつばめかはとであったとすれば、川島は最新の風俗を取り込もうとしていたことになる。そういえば、私が関東から京都大学を受験するために乗り込んだのもビジネス特急であった。新幹線ができた後でも、まだ在来線に乗ることの方が多かったと記憶する。

 山本周五郎原作の『青べか物語』(1961、東宝)は漁師町の昔ながらの風俗人情を描いているようであるが、冒頭に京葉工業地帯の開発という話題を取り上げているし、獅子文六原作の『箱根山』(1962、東宝)はその冒頭で箱根山猿蟹合戦といわれた小田急と西武の箱根山の観光開発をめぐる競争を取り上げている。この時の運輸大臣だったのが小田急と縁の深い東急の重鎮であった綾部健太郎というのも名前は出てこないもののちゃんと指摘されている(なお、フランキー堺の代表作の一つである『末は博士か大臣か』は菊池寛と綾部の友情物語である)。さらに遺作『イチかバチか』(1963、東宝)では愛知県の東部における地域開発をめぐる実業家と市長、市長に対する反対派の対立が描かれている。これらの作品では地域開発によって変わりゆく日本の姿が映画の背景に映し出されているのである。

 1963年に川島は急死してしまった。彼が監督する予定であった『江分利満氏の優雅な生活』は岡本喜八が変わって映画化したが、川島だったらどんな映画にしただろうか。そして彼がもっと長生きしていれば、オリンピックや新幹線をどのように材料として映画をつくったかと想像が膨らむのである。

 まだ不完全なメモ書きというところで終ってしまったが、これからも川島の作品を見て、少しずつでも内容を充実させていきたいと考えている。

日記(9月1日)

9月1日(日)晴れ後曇り

 昨日も書いたように、8月は16冊の本を買って、11冊を読んだが、買ったけれども読み終えていない本が5冊もあるのは、今年になって初めてのことで、要注意である。9月は買った本をできるだけ読み終えるように気をつけることにしよう。日本の古典と伝統・民俗に関する本が8月に読んだ本の中心になった。9月はこの方向性を維持しながらも、さらに視野を広げることを心掛けたい。

 8月に読みはじめた本の中に『資本論』があり、その一方で『月長石』を読み直している。19世紀の英国に興味があって、この2冊の書物に代表される2つの方向からこの時代の英国社会について見直していくつもりである。

 フランス語とイタリア語についてはNHKのラジオ放送での講座を聴き続けていくつもりである。9月でそれぞれ一区切りになるので、最後まで気を緩めないようにしたいと思う。

 映画については、『上京ものがたり』と『夏の終り』を見ようと思っていたのだが、身近な映画館では上映の予定がない。そのうちシネマ・ジャック&ベティかその他の映画館で上映されるのを待つしかないのだろうか。ジャック&ベティの上映企画:「北朝鮮映画の女性たち」については議論もあるところだと思うが、この国の映画を見る機会は限られているので、出来るだけ見に出かけようと思っている。

 8月は当ブログに3編の詩を掲載した。3編というのは多い数ではないが、ノートに書きためておいた昔の作品ではなくて、新しく書き下ろした作品であることを書き添えておきたい。9月は全く書けないかもしれないが、詩魂が枯渇しているわけではないことを再確認しているところである。

 藤圭子さんがなくなったのは衝撃的な事件であり、彼女が歌っていた世界とは違うかもしれないが、彼女が演出者の1人であった時代は、私にとっても忘れ難い時代であったことを改めて思いだし、その時代が次第に遠ざかっていることを感じさせられた。それに比べるとジュリー・ハリスさんの訃報は高齢だし、仕方がないかなという気もするのだが、やはり、時代の推移を感じさせられる出来事ではあった。谷川健一さんの本は何冊か読んできたし、かなり影響を受けてきたと思うのだが、その死について触れる文章を書かなかったのは怠慢であったと認めざるを得ない。谷川さんから学んだものをこれから、少しでも生かすように努力していきたい。 
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