2013年の2013を目指して(8)

8月31日(土)晴れ、暑し

 今年の8月は例年以上の暑さに加えて、世界陸上などのスポーツの行事に気が散ったり、雑用を片付けなければならなかったりで、予定していたほどの仕事はできなかった。

 31日間日記を書き続けた。1月からの通算では243日分になる。ブログは33件を投稿、1月からの合計は248件である。未分類が1(18)、読書が12(68)、外国語が3(20)、日記が2(18)、映画が8(55)、詩が3(37)、推理小説が4(30)という内訳である。

 郵便を7通受け取る。親族から3通、友人からのハガキ通信、展覧会の案内、研究会の報告が各1通。

 買った本は16冊で、少し買いすぎたかなと思う。紀伊国屋の本店とヨドバシカメラの横浜西口店を新たに利用した。1月からの通算は91冊になる。読んだ本は11冊でアンドレア・カミッレ―リ『おやつ泥棒 モンタルバーノ警部』、柳田国男『火の昔』、都留重人『アメリカ遊学記』、大津雄一『『平家物語』再誕 つくられた国民叙事詩』、山下好孝『関西弁講義』、小山真人『富士山――大自然への道案内』、坂越ジョージ『結局、日本のアニメ、マンガは儲かっているのか?』、東海林さだお『どら焼きの丸かじり』、川島幸希『国語教科書の闇』、佐佐木隆『言霊とは何か』、中見真理『柳宗悦』。1月からの通算は79冊である。もう1冊は読んでおきたかった。

 見た映画は8本で、『白夫人の妖恋』、『孫悟空』(三木のり平主演)、『パリ猫ディノの夜』、『少年H』、『爆心 長崎の空』、『タイピスト!』、『スマーフ2 アイドル救出大作戦!』、『映画女優』という日本映画新作2本、旧作3本、外国映画新作3本である。新たに新宿ピカデリーで映画を見た。

 フランス語の時間を16回、1月からの通算で159回、イタリア語の時間を16回、1月からの通算で156回聴いている。再放送と、朝の放送を昼に聴きなおしたのは数に入れていない。

 ミニトトを2回あてて、今年になっての通算では4回あてたことになる。サマー・ジャンボは末等しか当たらず、今年は末等を12回あてただけという実績である。中公文庫のアンケートにあたって図書券をもらった。

 早川修さんの詩画展を見た。展覧会は招待状をもらって出かける場合とたまたま前を通りかかって飛び込む場合とがある。これは招待状をもらって出かけた方である。

 ノートを7冊、万年筆のカートリッジを4本、ボールペンを2本、スティック糊を1本使い切った。

 酒を飲まなかったのは17日で、1月からの通算では131日である。飲んだ方について言うと、生ビールを小ジョッキ1杯、スタウトを中ジョッキ5杯、シュタインヘーガー(ジン)を3杯、紹興酒を1升と1合、老酒をコップ18杯、ハード・シードルを2杯、白ワインをグラス2杯とデカンタ2杯(900ml)、日本酒(菊正宗)を枡酒で2杯ということである。餃子を8人前、サンマー麺を2杯、焼きそばを1皿食べている。

 どういう足し算をするかは最後になってみないとわからないが、どうやらいろいろな数字を合わせて2013に達しそうな見通しになってきた。あとはできるだけいいことを多くして数字の内容を充実したものにすることが目標になる。
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ウィルキー・コリンズ『月長石』(8)

8月30日(金)晴れ、猛暑

 これで第8回を迎えるが、これまで紹介してきたのは創元推理文庫版で770ページ、Penguin Popular Classicsで464ページあるこの大長編小説の創元推理文庫版で131ページ、Penguin Popular Classicsで87ページまでの部分で、つまり全体の2割までも達していないのである。もちろん、この物語の性格上、犯人がだれかということは伏せたままにする――全体を紹介するつもりはないのであるが、それでも30回くらいは進めていかないと概要がつかめないのではないかと思う。気長にお付き合い願いたい。

 娘のペネロープから宝石がなくなったことを知らされたベタレッジはレイチェルの部屋に向かい、前夜レイチェルが宝石をしまったはずの用箪笥にそれがないことを確認する。騒ぎを聞いたヴェリンダー夫人が寝室に引きこもってしまったレイチェルのもとに向かう。ゴドフリーとフランクリンも騒ぎに気付いてやってくる。ゴドフリーはどうしてよいのか分からないといったが、ベタレッジは「生まれつき精神力の強いゴドフリーさまらしからぬことであった」(132ページ)と書いている。そしてフランクリンならば頭脳明晰だから何か良い考えが浮かぶかもしれないという。

 日頃よく眠れないと悩んでいたのが、なぜかこの夜に限ってよく眠ることができたというフランクリンはやはり頭がぼんやりとしていてなすべき手立てを思いつかなかったが、コーヒーを飲んで頭をスッキリさせてから活発になり、まず宝石を探し直し、それからヴェリンダー夫人と相談して警察に連絡をとることになる。そこでヴェリンダー夫人に治安判事あての手紙を書くように頼み、その手紙をもって治安判事のもとに赴き、インド人の「手品師」たちを逮捕するように要請する。宝石を探しても見つからない以上、この宝石の由来から考えて、最も動機があると思われるのはインド人の「手品師」たちである。

 レイチェルは部屋に引きこもったままで朝食の席にも姿を見せない。ヴェリンダー夫人はもともと宝石や装身具に興味をもたないレイチェルが、この宝石の紛失にここまで心を痛めてしまっていることを不審に思う。11時前にがっかりとした様子でフランクリンが戻ってくる。インド人たちは捕まったが、同時に彼らが宝石を盗んでいないこともわかったという。そのあとで地元の警察のシーグレイヴ署長の一行が到着する。「署長は、まずお屋敷の内外をくまなく調べてまわったが、その結果、泥棒は外部から忍び込んだのではなく、したがって、お邸の中の誰かがやったことだとわかった」(139ページ)。当然のことながら召使たちのあいだに動揺が広がる。

 署長はレイチェルの部屋のドア(彼女がフランクリンと一緒に塗料を塗って飾っていた)に小さなしみがあるのを見つける。それ以外の手がかりがないので、彼はペネロープを尋問するが、彼女を怒らせてしまう。何とか怒りをなだめたものの、聞き出せたことはなく、次にレイチェルに会おうとするが拒絶される。それからゴドフリーとフランクリンに会って話を聞くが、2人はともに何も知らないという。そのあとでフランクリンはシーグレイヴについて「ばかだよ」と切り捨てるが、ゴドフリーは「実に有能な人物だ・・・全面的に信頼するよ」と感想を述べる。ベタレッジは「人のかずだけ意見はちがう」(142ページ)との感想を記す。

 レイチェルはフランクリンが自分を探していたと聞いて、彼に会いに出かけ、何か激しいことばを投げかけた様子である。そしてまた部屋に戻ってしまう。なすすべが限られているシーグレイヴ署長は召使たちの尋問を始める。しかしダイヤモンドもその手がかりも全く発見できない。

 召使の中のロザンナがフランクリンの部屋に出かけ、戻ってくる。ベタレッジがフランクリンの部屋に出かけると、彼はロンドンに電報を打って、シーグレイヴよりももっと有能な人物に捜索を依頼するつもりだという。彼はロザンナがダイヤモンドのことで何か言いたいことがある様子であったという。ロザンナは夕食の席に顔を見せず、気分が悪くて自室で寝ているということである。署長はこれまでの経緯から屋敷の中の誰かとインド人の「手品師」たちが共謀して宝石を盗んだのではないかと推理する。フランクリンとゴドフリーは署長を送りに出かけるが、その際にフランクリンはベタレッジを呼んで、署長の推理は時間稼ぎにすぎない、何か知っているかもしれないロザンナに気をつけているようにという。しかし彼が一番気にしているのはレイチェルのことらしい。

 署長を送ってフリジングホールに出かけ、インド人「手品師」への尋問についても情報を得たフランクリンとゴドフリーによると、やはり手掛かりは得られなかったようである。そこで電報を打つのを見合わせていたフランクリンはロンドンに電報を打ち、捜索の新たな展開に期待することになる。

 事件の前後のフランクリン、ゴドフリー、レイチェルのそれぞれの挙動が事件の展開と大きくかかわっているが、それにお気づき頂けただろうか。宝石の紛失と、レイチェルをめぐるフランクリンとゴドフリーの恋敵関係との絡み合いが事態を複雑にしているのである。それに召使であるベタレッジとロザンナも何らかの形で事件にかかわっている。この辺り、始めて読んで面白いと思うだけでなく、何度読み返しても面白い、いや、読み返すたびに面白さが増してくるというのがこの作品の名作たるゆえんである。(つづく)
 

中見真理『柳宗悦――「複合の美」の思想』

8月29日(木)晴れ

 中見真理『柳宗悦――「複合の美」の思想』(岩波新書)を読み終える。

 以前、駒場の日本民芸館によく出かけたものであるが、最近はご無沙汰している。この書物にも取り上げられている英国のアーツ・アンド・クラフツ運動(→近代デザインの創生)には興味があるというよりも、20代の後半に自分の学問的な研究の対象として熱心に取り組んだものであるが、これも最近では趣味の一環という位置づけにしてしまっている。

 その一方で京都にある河合寛次郎記念館には京都に出かける機会があるとできるだけ訪問するようにしている。河合は柳の民芸運動の同志の一人であったが、梅棹忠夫が彼の作品を愛用していた例に見られるように、京都を中心として多くの人々に親しまれた作家である。脱線になるが日本民芸館と河合の記念館の共通点はトイレがきれいなことで、その点には敬意を払っている。つまり柳と民芸運動、あるいはひろい意味での民芸、工芸については興味も敬意も抱いているが、積極的にその中に飛び込むこともしていない。

 中見さんのこの書物は、民芸を超えて柳の思想の広がりを問題にしている。彼の言動の根底には「複合の美」の思想があったと論じている。白樺派とのつながり、大杉栄やクロポトキン、トルストイの影響を受けた社会観、もっと広い領域にわたってのウィリアム・ブレークの影響、朝鮮文化への想い、沖縄・アイヌ・台湾など周辺文化あるいは地方文化へのまなざし、宗教観などが論じられている。非暴力の思想家としての柳の掘り起こしが試みられている。この点ではガンディーやラッセルの影響が着目されている。ただし、柳が独自の思想を形成していたことも強調される。

 これまでの―といっても柳の著書、あるいは彼についての研究書をそれほど多くは読んでいないのだが―所説に比べて、柳の社会問題や国際問題への関心に多くの記述がなされている点が特徴的である。彼が戦後の日本の政治の中で社会党を支持する一方で、共産党が自己中心的であるとして批判的であったことに特に興味を覚えた。

 柳の非暴力の平和主義や相互扶助、東西の文化のそれぞれの独自性の尊重などの思想と行動の多くが、白樺派の運動を担った他の人々の中にもあったものである。しかしその中で柳の軌跡は文学的、あるいは美術的な業績の形をとらなかった代わりに、文化運動として大きな役割を果たすものであった。それは柳の性格や、彼の国際的な友人関係、あるいは妻兼子との愛情に支えられていたというだけのものであろうか。その点がもう一つはっきりしない。

 白樺派にも民芸運動にも興味がある――武者小路実篤と河合寛次郎の色紙の複製を机の上に飾っているほどなのだが、それだけで自分自身が語れるとは思わない。柳には私自身と重なる部分と重ならない部分がある――というよりも、他の思想家よりも重なる部分が多いことを感じるのだが、それでも最近日本民芸館から足が遠のいているのはなぜか――という問題を改めて考えたくなった。

エピクロス主義の限界

8月28日(水)晴れ

 エピクロス主義の限界

ギリシアの哲人は
隠れて生きよといい、
その中でささやかな快楽に
身を委ねて、
大きな悪を避けようとした。

じっとしていることができず、
商店街を歩きまわり、
中華料理店を見つけては、
どんな紹興酒を出しているかを見定めるのが楽しみだ。

しかし快楽を続けていくことはできない。
ピーナッツをつまみながら、
ビールを飲み続けていたいが、
いつまでも
飲み食いできる訳ではない。

酔った足どりで、
人ごみの中の会話を聞くともなしに聞き、
商店街を飾る光の点滅を楽しんで
いつまでも、
歩きまわりたいが、
帰宅の時間を気にする必要もある。

電車の中で居心地の良さに
居眠りすることがあるが、
電車を乗り越すことができない身なら、
眠りに身を任せるぜいたくは
不本意ながらあきらめなければならない。

いつまでも、どこでも
好きなことだけをしていれば
それで済むというものではないのがつらい。

限りある命の中で
限りある楽しみを追う日々を
続けている。

佐佐木隆『言霊とは何か』

8月28日(水)晴れ

 佐佐木隆『言霊とは何か』(中公新書)を読み終える。

 この本の主な目的は、古代日本人にとって「言霊(ことだま)」とはどんなものだったかを具体的に検証することである。『広辞苑』のような辞書では「言霊」はことばに備わる霊力であり、古代人はその力によって発言した通りのことが実現すると信じていたと理解されている。この言葉は万葉集には出てくるが、『源氏物語』や『今昔物語集』のような後世の文献にはほとんど登場しない。その一方でことばがその不思議な威力を発揮して現実を左右したと読みとれる場面は、神の世の物語として設定されている神話の中のいたるところに出ている。このような例を一つ一つ検証しながら、古代日本人がことばについてどのような考えをもっていたのかを明らかにしようとしている。

 「序章 『万葉集』の「言霊」――言と霊と神と」では『万葉集』の中の「言霊」の用例を調べて、それが神とかかわる形で用いられており、独立したものとは考えられていないことが指摘される。「第1章 呪文の威力――神と人と」では神のとなえる呪文がもつ威力に対して、人間の呪詛の場合はそれが神の霊力と結びついたものになった時に効果をもつことが指摘されている。

 「第2章 国見・国讃め――支配者の資格」ではおもに天皇が高い場所に立って自分が支配する国土を眺め渡してその素晴らしさを讃め称えるという儀礼であり、その国土を賛美することを、特に「国讃め」と呼ぶことがある。適切な表現で国土を褒め称えることによって、そこを支配する神の霊威が強まり、その結果として国土が繁栄して王権も安定したものとなると考えられていたのである。皇祖神や天神地祇がよしと認めてくれることにより、天皇ははじめて国家を統治することができるとされていた。

 「第3章 国産み・死の起源――生と死の導入」では「神が日本の国土を創造した時のことを語る神話でも、その場その場における神の発言は単なる発言なのではなく、それぞれの発言に積極的な意味がある」(74ページ)ことが伊邪那美命と伊邪那岐命による国産み神話、黄泉の国に去った伊邪那美命を伊邪那岐命が訪問したことから人間の生と死という現実がもたらされたという神話などに即して論じられている。

 「第4章 発言のし直し――状況の転換」では「神の不適切な発言によって生じた不都合な事態は、そのあとに発言のし直しを行い、新たに適切な言葉を発することによって解消する」(97ページ)と考えられてきたこと、国見・国讃めのやり直し、日本武尊の神話における不適切な発言の例などが語られている。

 「第5章 タブーと恥――一方的な発言」では相手に何かを依頼したことばが、結果的に相手に無視されてしまったために神が相手を恨むというタイプの話が取り上げられている。「第6章 偽りの夢合わせ――妻の発言」では「たとえでたらめの内容をもつものではあっても、ひとたび口から発せられたことばはそのまま現実になる」(147ページ)と考えられていた例が取り上げられている。これら2つの章で取り上げられていることは奈良時代だけでなく、もっと後の時代の説話や民話にも登場する事例ではないかと読んでいて思った。

 「第7章 名前へのこだわり――実体との対応」は人名や地名をめぐり名称と実体の関係が考察されている。「終章 古代日本人の言霊――神のことばがもつ霊力」では『延喜式』に収められている古い祝詞の分析を通じて「古い祝詞の内容は、言霊に対する人々の信仰を反映するものでなく、神々の霊力に対する人々の考え方を反映する」(216ページ)ものであると論じている。さらに「『古事記』『日本書紀』『風土記』の神話・伝説や『万葉集』の歌を見る限り、ことばの威力が発揮され、威力を発揮したと見える話では、人間の発したことばを聞き入れた神がその霊力を発揮して現実に影響を与える、というかたちになっているのがふつうである」(217ページ)と結論する。ことばには独特の霊力があるという解釈は近世後期の国学者たち曲解であるとつけ加えている。

 神話の中でのことばの役割についての個々の考察が興味深く、特に第4章がいろいろと考えさせられた。日本ではこの後の時代になって中国の影響で綸言汗のごとし(天子や君子のことばは取り消せない)という考え方が入ってくるが、発言をしなおすことで事態を修正できるという考えの方が柔軟で気楽であり、合理的でもあると思う。読んでいて考えさせられることの多い書物であった。

映画女優

8月27日(火)晴れ

 所用で千代田区役所に出かける。その後、渋谷に戻って『上京物語』を見ようかとも思ったのだが、神保町シアターで市川崑監督、吉永小百合主演の『映画女優』を見ることにする。その後、檜画廊で「早川修 詩画?展 『やわらかなたましい』」を見る。早川さんの独特の発想と画風はもっと多くの人に見ていただきたいと思うが、ここでは吉永小百合さんが田中絹代を演じた『映画女優』について取り上げることにしたい。

 『映画女優』は神保町シアターの「銀幕の森光子」特集の中での上映で、この作品で森光子は吉永小百合さんが演じている田中絹代の母親役である。昭和の初め、映画監督の清光宏に見いだされて京都から松竹鎌田撮影所の大部屋女優として絹代が上京してきてから、昭和26年に溝内健二監督の『西鶴一代女』に出演するまでの半生が描かれている。原作は新藤兼人の小説『小説・田中絹代』で、新藤には他に映画『ある映画監督の生涯』がある。主人公をはじめ、多くの登場人物が実名である一方で、溝内健二=溝口健二、城都四郎=城戸四郎、五生平之助=五所平之助といったかなり見え透いた仮名の登場人物も少なくない。

 田中絹代は昭和史に加えて、サイレント映画の時代からトーキーへの転換、さらには白黒映画からカラー映画への変換の時代を生きた。この映画が描いている時代の後にはスクリーン・サイズの変化にも遭遇したのである。この作品には田中絹代の映画人生を通じての大正末から昭和26年までの映画の歴史が描かれ、田中を吉永小百合が演じていることによって、市川監督のこの時代の映画の歩みに対する評価も表現されている。実際にライブラリー・ショットが多用されたり、旧作の登場人物が同じ場面を吉永さんと再現したりすることで市川監督の日本(と世界)の映画史に対する愛着を感じ取ることができる。三國一郎と吉永さん自身の2種類のナレーションが流れるのも、この映画の内蔵する二重構造を示すものであろう。

 この映画のラスト・シーンに設定されている1951(昭和26)年からこの映画が撮影された1987(昭和62)年までは相当の年月がたっている。この時点で田中絹代も溝口健二も故人になっている。だから、今日われわれがこの作品を見るときは、この映画に示された市川監督の映画史に対する愛着を超えて、さらに広い視野からこの作品を見直すことができるのである。1951年から1987年のあいだに、カラー映画はさらに映画の主流になり、それに画面のワイド化が加わった。1987年以後、3D化やデジタル化が映画に新しい変化が生まれている。田中絹代が映画の変化に対応してきたように、吉永さんもそういう変化に対応して女優人生を生きてきているのである。

 田中絹代が初めて溝内(溝口)の『浪花の女』に出演した際の彼の脚本と演出に対して感じた違和感の描写など、市川監督は溝口の映画づくりの技法に興味を示しているように見える。脚本家の依田義賢の名前が出てくるが、映画の中で大きな扱いをされていなかったのは残念である。技法にこだわる市川監督の姿勢は、もっと早い時期の彼女が五生(五所)監督の作品の試写会を見ている場面で、映画青年たちがクローズアップについて論じている姿がクローズアップで描かれているようなところによくあらわれている。

 昨年、川島雄三監督の『暖簾』を見た際にも感じたことであるが、昭和の戦前と戦後を一貫した過程として描くのは1つの見解ではあるが、かなり難しい作業である。戦中と戦後の占領時代の田中と溝口のあゆみが両者の会話を通じてしか描かれていないので、余計にこのことを感じる。むしろ2部作にした方がよかったのかもしれない。

 文句を言いながらも、楽しんでみることができたのはひとえに市川監督の映画に対する愛着が感じられたからであろう。吉永さんが演じる田中絹代が丁寧な言葉づかいをしたり、ざっくばらんな話し方をするのが面白かった。常田富士男が演じる絹代の伯父源太郎、石坂浩二の城都(城戸)はよかったと思うが、菅原文太が溝内を演じているのはミス・キャストであろう。溝内の姪の役で沢口靖子が出演しているのは観客へのサーヴィスのつもりであろうか。

川島幸希『国語教科書の闇』

8月26日(月)曇り

 川島幸希『国語教科書の闇』(新潮新書)を読み終える。

 現在、高校の国語教科書では各社共通に同じ作家の同じ作品を、しかも同じ学年向けに掲載している。芥川の「羅生門」、漱石の「こころ」、鴎外の「舞姫」、中島敦の「山月記」などがそうである。これらの作品はなぜ、「定番小説」となってきたのか、それは本当に高校生の意識と高校の先生方の容貌に即した選択なのかという問題が論じられている。特に芥川の作品中ではなぜ「羅生門」が、漱石では「こころ」が、鴎外では「舞姫」が選ばれてきたかという理由の考察を中心に議論が展開される。

 そして少子化に伴う教科書市場の縮小と、教科書の検定と採択のシステムのなかで、教科書会社が事なかれ主義に陥っていることを指摘しながら、国語の現代文の教材として暗い作品が選択される傾向があることを指摘して、もっと明るい作品を選ぶべきであるとの提言を行っている。

 傾聴すべき意見ではあるが、もっと大事な問題がいくつか見落とされているように思う。著者は青年が親しむ近・現代の文学が教科書を通じて決まっていくと考えているようであるが、学校外での読書との関連を視野に入れる必要がある。マンガやネット小説を含め、さらに映画やTVドラマを含めた環境を考えるべきではないか。文学教育ということからいえば、受容・鑑賞もさることながら、表現も視野に入れられてよい。島尾敏雄が開高健に語ったという言葉を思い出す。あまり優れた名作に接すると自分でも書いてみようという意欲をなくす、これならば書けるというものを読むべきである。これも考えるべき意見であろう。さらに国語教育の目的は文学に親しむことだけではないはずで、もっと実用的な国語力の育成も考えなければならないはずである。

 などなど、さらに掘り上げて論じるべき議論がいくつかあるのだが、特に気になるのはこの書物を含めて、教育問題をめぐる最近の議論が学習内容や教科書の問題に限定される傾向があることである。「教科書で」教えるか、「教科書を」教えるか、つまり教科書の内容を授業の最終的な目標達成のための手段とするか目的とするかという議論がずっと展開されてきているなかで、「教科書を」教える方に教育界の大勢が動いているとすると、それだけ教える側に精神的な余裕と準備作業が足りなくなってしまっているためではないかとその点が気がかりなのである。教師が「教科書を」教えることに汲々としているような教室の中では、どのように明るい教材を取り上げようと、生徒の心情が豊かにはなりそうもないと思うのであるが、著者の意見を伺ってみたい。

 もう一つ気になるのは、暴力とセックスは教科書から省くべきであるという通念を著者が追認していることで、私の経験からいえば、ある一部の生徒にとって最も関心があるのはこの2つのどちらか、あるいは両方であって、それと正面から向き合うために文学は重要な教材ではないか、その点を逃げては教育にはならないのではないかということである。この点についてもしっかりとした議論と説明が必要であろう。

ジュリー・ハリスさんを悼み、日米間の距離について考える

8月25日(日)曇り

 エリア・カザン監督の映画『エデンの東』でジェームズ・ディーンが演じていたキャルの兄アロンの恋人アブラを演じていた女優のジュリー・ハリスさんが8月24日にマサチューセッツ州の自宅で心不全のため死去されたことが報じられた。日本では『エデンの東』が記憶されているが、トニー賞を5回、エミー賞を3回、グラミー賞を1回それぞれ受賞した舞台・TV女優であり、ナショナル・メダル・オヴ・アーツの他数々の栄誉を得ているそうである。

 最近、TVで『エデンの東』を放映していた。また8月13日の毎日新聞のコラム「火論」で玉木研二さんが1972年の映画『キャバレー』がヒトラーの台頭する時代のドイツ社会の雰囲気をとらえていると書いていたが、この映画は1955年に製作された『嵐の中の青春』のリメイクだということに触れていなかったのを残念に思った。1972年版でライザ・ミネリが演じていたサリーの役を1955年版で演じていたのがハリスさんであったようである(実はこの映画は見ていない)。だからなぜかジュリー・ハリスさんについて思い出すことが多かった。虫の知らせであろうか。

 ハリスさんは1952年にカーソン・マッカラーズの戯曲『結婚式のメンバー』(The Member of the Wedding)で最初の成功をおさめ、その映画化(日本では公開されていない)でアカデミー賞にノミネートされた。同じ年に『嵐の中の青春』(原題は『私はカメラ』I Am a Camera)のもとになった舞台(映画化は1955年のことである)での演技でトニー賞を得ている。『マクベス』のマクベス夫人や、『人形の家』のノラを演じたこともあるという。

 こちらが不勉強だったと言えばそれまでだが、ハリスさんが舞台で活躍していることをよく知らずに、あまり映画作品への出演がないねえなどと勝手に決め込んでいたのは慙愧の至りである。カーソン・マッカラーズの原作による映画『禁じられた情事の森』(原題はReflections in a Golden Eye,ジョン・ヒューストン監督)に出演している姿を見て、『エデンの東』からの変わりようにがっかりしたことも思い出すが、それももう50年近く昔の話になってしまった。『さすらいの航海』や『愛は霧のかなたに』などの出演作が公開されたころ、こちらは映画をあまり見ていなかったということもいまさらながら悔やまれる。

 日本の映画ファンが知っているジュリー・ハリスさんは女優であるハリスさんのほんの一側面に過ぎなかった。もちろん、アメリカや英国でどんな映画や演劇が人気を得ているかを活字の上で、あるいはインターネットで追うことはできる。だが、それは生きた知識とはいえない。よほど金があって、英語がよくできる人でないとアメリカの舞台事情には詳しくなれないだろう。舞台事情に詳しくなるほどアメリカに慣れ親しんでしまうと、今度は日本のことが分からなくなるかもしれない。そのあたりが難しい。

 実際のところ、単純な知識に加えて、物事の受け止め方の違いの問題もある。アメリカで興行的に成功した映画が、日本でも同様であるとはいえない場合が少なくないようである。それがなぜか、日本人とアメリカ人のあいだにはどのような気持ちのずれがあるのかと考えることは、政治や経済の上での日米関係を考える際にも重要なことではないかと思うのだが、どうだろうか。

 ジュリー・ハリスさんの舞台での演技に接する機会は失われてしまったが、映画での演技に接する機会は残されている。それも若く美しかった時代の姿を見ることができることで心を慰めることにしよう。改めて、ハリスさんのご冥福をお祈りしたい。

語学放浪記(11)

8月24日(土)曇り、夕方になって雨

 1967年の4月、どうやら3回生に進級した。2つ履修しなければならなかったドイツ語中級の授業のうち、落としたのではないかと思った厳しい先生の授業の単位がぎりぎりの60点で出ていたのには心底ほっとした。3年かけて仮進級ではかっこ悪すぎると思っていた。当時は、現在に比べて進級の基準が厳しかったのである。

 進級しても語学熱は残っていて、前回書いたように理学部のロシア語中級の授業を覗きに出かけたり、文学部で開講されているラテン語とイタリア語の授業を聴きに出かけたりした。ラテン語の先生が水野有庸先生であったことについては既に何度も書いた。これまでその思い出を書いてきた中国語の尾崎先生、ロシア語の山口先生、小野先生はどちらかというと学生にはやさしく接し、よい点数をつけて、そのやる気を引き出そうというタイプの先生であった。落第学生には好都合であったが、その半面で、自信過剰にさせる欠点もあったと思う。水野先生の教え方はこれとは違っていた。

 水野先生は非常勤講師で他の大学に籍があったのだが、京都大学でラテン語を教えることに情熱を燃やされていたようである。西洋古典語・古典文学を講座として開設している大学はほとんどなく、大学のカリキュラムの中に組み込んでいる例も少なかった。それで西洋古典語・古典文学の研究家の多くが英語やその他の外国語の教師として生計を立てざるをえなかったのである。それで水野先生も本務の大学ではラテン語以外の先生をされていたのではないかと推測している。とにかく、水野先生の張り切り方は尋常ではなかった。

 受講者に対して、何を専攻しているかを尋ねるアンケートを配布される。さらにかなりの量のプリントが配布された。どんなプリントであったか、全く記憶がない。だいたいラテン語の教科書というのはどれも同じようなもので、名詞の第一変化から始まるはずなのであるが、そういう勉強をしたという記憶もないのである。もっと熱心に、かつ私よりも後の方までラテン語の勉強をしたという方にどんな授業であったかについて詳しく教えていただきたいものである。私が記憶しているのは、とにかく先生がプリントの内容を説明する授業を進められ、授業が終わるはずの時間になっても一向にやめようとされなかったということである。当時の京都大学の授業時間は1時間50分で、15時10分にはじまり、17時に終わる予定なのだが、17時が過ぎても先生は授業を続けられている。それで早めに退出させていただいたり、友人に資料の確保を頼んで授業を休んだりしているうちに敷居が高くなって、足が遠のいてしまった。

 ラテン語を学習する動機はいろいろあり、西洋古典語・古典文学を専攻しようとする人や、言語学を専攻しようとする人だけでなく、他の語学の参考にしようとする人、西洋史を勉強しようとする人、哲学専攻の人、ローマ法を勉強しようという人、単なる教養という人、いろいろである。動植物の学名はラテン語で命名されるし、理科系の人でもラテン語に興味を持つ人がいて不思議ではない。それらのすべてに対応した授業を行うのは至難の業であり、そうなると自分なりの優先順位を設けて履修者を選び分けていく必要があるだろう。水野先生の授業は冷やかし組をふるいにかけていくという意味では効果的なものであり、私は見事にふるい落とされたわけである。ただ先生の個性は強い印象を残した。

 ラテン語については高校時代に岩波新書の『私の読書法』を読んだ際に、その中で加藤周一さんが戦時中、電車の中でマクミラン・ショーター・ラテン・コースを読み、降りたら読まないことを習慣づけていたと書いていたのが記憶に残っている。加藤周一さんは医者の勉強をしていたはずだから、ラテン語が全く役に立たないということはなかっただろうが、そういう職業的な理由よりも、時流への抵抗としてヨーロッパの文明の根源に迫るような勉強を少しでもしてみたいという気持ちがあったのではなかろうか。さらに同じようなことを花田清輝が書いていて、ラテン語の教科書を電車の中で読んでいて、気が付いたら電車が車庫に入っていたと回想している。マクミラン・ショータ―・ラテン・コースという書名が印象に残り、大学院の博士課程に上がってからだっただろうか、この本の1冊目を買ってきて、途中まで読んだりした。理由は分からないが、とにかく、ラテン語には何かがあると思っていたふしがある。

 何のために語学を勉強するのかについて、あるいは自分の学習計画の中で語学をどのように位置づけるかについてあまり体系的に考えることなく、ただいろいろと手を広げることに没頭していたような記憶がある。だから放浪記なのである。

ウィルキー・コリンズ『月長石』(7)

8月23日(金)曇り、午後になって雨、時々激しく降る。

 コリンズの『月長石』の紹介、8月5日に6回目を書いてから、少し時間がたってしまった。これまでのあらすじを紹介しておこう:
 インドの奥地で人々の信仰の対象となっていた月長石と呼ばれるダイヤモンドは、英国陸軍の軍人ハーンカスルの手によって英国に渡ってきた。宝石の入手をめぐっては悪いうわさがあり、ハーンカスルは一族から除け者にされていた。臨終に際して彼は宝石を姪のレイチェルに贈ると遺言し、ヨーロッパで育ったために一族の他のメンバーとは疎遠で、あまりこだわらない性格である甥のフランクリンがレイチェルにこの宝石を渡すことになり、ヨークシャーにあるヴェリンダー家を訪問する。しかし、この宝石を追っているらしい3人のインド人たちの姿が見え隠れしている。

 6月21日のレイチェルの18歳の誕生日に彼女が身につけた宝石は人々を驚嘆させるが、なぜか誕生祝いは盛り上がらずにちぐはぐな会話が続く。フランクリンだけが陽気だが、座の気分からは浮き上がっている。インド人たちが現れて手品を披露するが、同席していた探検家のマースウェイトが彼らは本物の奇術師ではないと言って彼らを追い払い、宝石の由来を聞いて警戒を呼び掛ける。

 さて、ここまでの(これからもしばらく)語り手であり、ヴェリンダー家の執事であるベタレッジが客たちを見送って広間(inner hall)に戻ると、そこにはブランデーとソーダ水(中村能三が「ソーダ水」と訳しているのに従う。果汁や甘味が添加されていない――日本でも最近スパークリング・ウォーターとして出回っているようなものであろう)が用意されている。ヴェリンダー夫人とレイチェルがフランクリンとレイチェルの従兄弟の一人で、夫人がより高く評価しているらしいゴドフリーを従えて、広間にやってくる。ゴドフリーはブランデーを飲んでいるが、フランクリンは口をつけようとしない。中村訳ではゴドフリーが「ブランデー・ソーダ」を飲んだとなっているが、原文はMr Godfrey had some brandy and soda-water.であり、ブランデーと炭酸水は別の容器に入っていて、ゴドフリーは炭酸水をチェーサーにしてブランデーを飲んでいたととる方がよいと思う。

 ヴェリンダー夫人はレイチェルに宝石をどこにしまっておくのかを訊ね、レイチェルは自分の居間(sitting room)にあるインド製の用箪笥(Indian cabinet)に入れておくと答える。夫人が用箪笥には錠がついていないと念を押すと、誕生祝いの延長で舞い上がっているうえにもともと強情なところがあるレイチェルはこの屋敷の中に泥棒などいるわけはないと言い張る。それ以上ヴェリンダー夫人は口を出さないが、宝石が気になる様子である(彼女は兄であるハーンカスルの悪意を感じ取っているようでもある)。

 フランクリンが疲れた様子なので、ゴドフリーは彼もブランデーを飲むように勧め、ベタレッジも同じようにいうが、フランクリンは断る。しかし、寝室に赴く前にブランデーを試してみようという。戸締りを済ませたベタレッジは屋敷の庭に犬たちを放し、万全の警備を整えて寝床に入るが、静かな夜であるにもかかわらず、なかなか眠ることができない。

 あくる朝8時過ぎに、ベタレッジが犬をつなぎに出かけようとすると、彼の娘でレイチェルの小間使いであるペネロープが駆けこんで来て、ダイヤモンドがなくなったと知らせる。前の晩、レイチェルが用箪笥に宝石を入れるのを彼女も見届けたのだが、朝になってみると用箪笥の中に宝石はなかったという。ベタレッジは2階のレイチェルの居間に上がってみたが、確かに宝石はなくなっている。レイチェルは寝室に入ってしまう。

 いよいよ事件が展開することになるが、この続きはまたの機会に。宝石や異国情緒を盛り込んだ伝奇的要素が強いが、フランクリン、レイチェル、それにベタレッジなど登場人物が長所も欠点もあり、気分が高揚したり、沈みこんだりする様子が詳しく描かれ、物語の展開に現実味を与えている。

時の断片――藤圭子さんの訃報を聞いて――

8月22日(木)曇り

 時の断片
 ――藤圭子さんの訃報を聞いて――

一瞬、人生の時計を巻き戻して
おっかなびっくりもう一度戻ってみたい時代
雑踏の流れの中で
浮き沈みしながら
春夏秋冬を 過ごした日々

横目で大通りをゆくデモ隊を眺めたりもしながら、
トラックで荷物を運んだり
問屋街を歩きまわったりしていた

そういう日々のそういう街に
彼女の歌が流れていた。
歌に気分を重ねながら
仕事を続けられたのは、
若かったからだけではない。

気分の振動を感じながら
職場へと行ったり来たりして、
書店の店員や
喫茶店のウェイトレスに
ちょっと面影が似ている娘がいると
噂しあったりした。
そんな思い出は、
いつでも詳しく描きだせると思っていたが、

なぜか、突然、
時計は壊れてしまった。
藤圭子さんは過去でもあり、
未来でもあるどこかに去っていった。
想い出への往復の道のりの、
故障に戸惑う同世代人たちを残して。

大津雄一『『平家物語』の再誕』 つくられた国民叙事詩』(5)

8月22日(木)曇り後晴れ、今後の空模様については不安定だと予報されている。

 藤圭子さんの急死が報じられている。藤さんが大ヒットを飛ばされていた時代は、私がまだ20代の半ばだったころであったが、その時代が決定的に過去になってしまったという印象が残る。ご冥福を祈るという言葉を書き記すのがひどくつらい。

 第二次世界大戦後、この戦争への参加・協力の責任を問われる人々がいたが、国文学者でそのようなことになる人々はほとんどおらず(逆に言えば、占領軍によって小物だと思われていたということである)、その一方で彼らの戦争への加担・協力への罪悪感も希薄であった。そのような気分を「国文学一家」、「国文教職者たちの同業組合」が支えていたのである。

 戦争中、「武士道」や「日本精神」と結びつけて『平家』を論じ、青少年を戦争へと駆り立てていた国文学者たちも武士道を普遍的妥当性のある倫理として現代に強要すべきものではないなどと前言を翻していた。彼らの多くはその戦時下の業績について頬かむりをしていたのである。

 一方、永積安明は戦時下でも維持した社会経済的な見方を続けて、『平家』が封建社会の文学であることを認め、そのために戦時中に日本主義・伝統主義者によって利用した経緯があるとしながらも、現代の社会の中にある封建的なものを知るためにその研究が必要であると説き、また『平家』の中の矛盾を読み取ることが文学者の課題であるとも論じていた。しかし彼のその後の研究は『平家』のこのような性格を掘り下げる方向には進まなかった。

 この点で影響力があったのが歴史学者である石母田正の『中世的世界の形成』(1946)をはじめとする一連の研究である。中世を通じて、武士集団(領主層)は古代的な社会構造を克服して力を伸ばし、彼らに率いられた広範な庶民・国民層が成長したというのが石母田の主張の骨子である。『平家』は農村的民衆的な古い「語り」の精神と都市的散文的精神の結合として現れたと指摘する石母田の議論はそれが唯物史観という理論と荘園史の実証的研究の裏付けをもっていたことから、永積を力づけるものであった。

 「『平家物語』を叙事詩、国民文学ととらえる石母田の理解は、やはり古風でロマンティックである」(192ページ)と大津さんは論じている。石母田自身が認めるように、それは山路愛山の影響を強く受けたものであった。石母田に先んじて英雄時代を考えていた国文学者が高木市之助である。マルクス主義史学は、原始共同体から階級社会への過渡的段階として英雄時代を規定していたが、石母田はは高木の英雄時代論をこの考えによって解釈しなおそうとしたのである。それは戦後の日本が進むべき進路をめぐってアメリカによる占領の永続化、植民地化に危機感を抱く左翼知識人たちの民族意識と結びつく議論であった。ここで大津さんは歴史学者の北山茂夫が英雄時代論の裏付けの希薄さを指摘しながら、戦前の日本浪漫派の議論の延長を見ていたことも紹介している。いずれにしても、古代英雄時代論争の余波で中世の英雄時代も脚光を浴び、英雄叙事詩として『平家物語』が復活する環境が整えられる。

 この一方で文学の世界でも民族の危機の中から国民文学運動が提唱され、展開される。そこでは日本民族の文学的な遺産をどのように継承するかが問題とされた、その中のブルジョワ的な要素や、それについてのブルジョワ的な解釈は破棄されるべきであるが、新しく創りだされるべきものがあるという。

 この動きに対して、大津さんは「古典を日本民族のアイデンティファイのために必要なものとして規定すると、国文学は外国の文化に対する日本文化の特殊性を語るための教材になってしまう。・・・より普遍的なレヴェルにおいても日本の古典を活用する道を探ることが大事だと思っている」(207ページ)との論評を加えている。

 『平家』に描かれた平安時代末期の変革が、新しい時代の到来をもたらす革命として、武士たちがあたかも民衆革命のリーダーのように受け取られているのは、「革命的ロマンチシズム」であろう。この物語が古代末期の変革期を描いていることは確かであるが、物語の政治的関心は天皇王権の絶対性の保持にある。「物語がしきりに嘆くのは王の政治が尽きようとしていることであって、新たな時代の到来を喜ぶことはない。物語の思想はきわめて「保守的」である」(210ページ)。永積は彼自身の信念に沿うようにこの物語を読んでいる。しかし、『平家』を変革期の民族叙事詩ととらえる見方は、明治の評論の焼き直しに過ぎなかったにもかかわらず、作品の評価に大きな影響をもったのであった。

 現在の中・高等学校の国語教科書において、『平家物語』は必ず取り上げられる古典の安定教材となっており、その解釈の基調をなしているのは時代の変革期を描いた国民叙事詩という受け止め方である。民族の危機が高度経済成長と経済の安定によって遠ざかったかに見えたとき、『平家』をめぐる議論は低調になる。吉川英治の『新・平家物語』は明治以来の清盛の再評価を踏まえつつも、人々に『平家』の世界を再認識させることに貢献し、最近ではサブカルチャーの中で『平家』の新しい解釈が生まれようとしている。あるきまった読み方だけが『平家』の正しい解釈というわけではないのである。

 『平家物語』は型にはまった物語の連鎖によって構成されており、それゆえに個々の物語は懐かしく、分かりやすい。それで人々の記憶になじむものである。しかしそれらの物語は時に矛盾し、それをそのままに残している。結果としてその矛盾が、この物語に奥行きを与えているのである。だから、この物語をどのように解釈し、そこから新たにどのような創造を行おうとも自由だが、「武士道」だの「日本精神」だのという枠組みにはめなければならないと強調し、それを正解として他を斥けるような考えが出てきてくれては困るというのが大津さんの結びの言葉になっている。

 ついでに言えば、社会の変革期には文学の最高の形式である叙事詩が現れるという議論をめぐり、大津さんはヘーゲルの議論をもちだしているが、おそらく日本のマルクス主義的な歴史家、文学者はハンガリーのマルクス主義の理論家であったルカーチのこの問題についての議論を手掛かりにしているはずである。ルカーチの議論は、社会の変革と文学の関係についてきわめて公式的にしかとらえておらず、叙事詩が最高の文学形式であるという議論は独断的で、また叙事詩は国民的でなくて、個人的なものであってもよいし、英雄を歌わなくても一向に構わないはずである。これらの点については、私なりにいいたいことがあって、何とか掘り下げてみようと思っているのだが、なかなか勉強が進まないでいる。

 この書物は、明治以後の『平家物語』の受容の一側面を見事にまとめたものであるが、『平家物語』の解釈を求めて読んだ読者は肩透かしを食ったような気分になるだろう。読む前に、予備知識が必要であり、初心者には勧められない書物である。 

スマーフ2 アイドル救出大作戦!

8月21日(水)晴れ、夕方から雨が降るかもしれないという予報である。

 8月19日(月)、109シネマズ川崎で『スマーフ2 アイドル救出大作戦!』を見る。ベルギーのペヨことピエール・クリフォール(1928-92)が創造し、彼の死後も刊行が続いているバンド・デジネ(bande desinee=こまわりマンガ)に基づいてアニメーションと実写の合成によりつくられた映画。一昨年に公開された『スマーフ』の続編であり、全体では3部作となる予定らしい。原作はフランス語圏中心に人気を集めているが、アメリカ資本による映画化であり、『スマーフ(Smurfs)』という題名も英語圏で親しまれている名前によっている(フランス語ではシュトロンフSchtroumpfと言い、スマーフという呼び方はオランダ語から出たものだそうである)。

 ヨーロッパのどこかの奥深い森で平和に、ハッピーに暮らすスマーフはリンゴ3個分の身長と青い肌を特徴とする種族であるが、彼らの秘密を知り、そのエネルギーを利用して世界征服をたくらむ悪い魔法使いのガーガメルによって時々その安全を脅かされている。前作『スマーフ』ではガーガメルのたくらみで起きた混乱からニューヨークのセントラル・パークにたどりついた彼らが、この町で暮らすウィンズロー夫妻と知り合って彼らの助けを借りながら、元の村に戻る過程が描かれていた。

 ニューヨークに取り残されたガーガメルは、偶然イリュージョニストとして認められ(本当は本物の魔法使いなのだが、世間の人々は魔法を認めないので、イリュージョンだとばかり思っているのである)、やがてパリに移って成功を収めている。世界征服をあきらめない彼はべクシーとハッカスという小人をつくり、スマーフたちの中でただ1人の女の子であるスマ―フェットの誘拐をたくらむ。

 スマ―フェットはもともとガーガメルがスマーフたちを混乱させるためにつくりだして送りこんだ存在だったのが、スマーフたちの指導者であるパパ・スマーフの力でその姿も性格もつくりかえられてスマーフの仲間になっていたのである。そしてその誕生日。スマーフたちは彼女をびっくりさせようと、盛大な準備を隠しているのだが、スマ―フェットはみんなから相手にされないと思いこんで落ち込んでいると・・・べクシーが現れて彼女を誘拐する。

 スマ―フェットがいなくなったことに気付いたスマーフたちは人間世界に出かけて彼女を取り戻す決心をして、パパ・スマーフのもとにクラムジー、グラウチ―、バニティーが参加するチーム青を結成してニューヨークへと向かう。(ガーガメルがつくりだしたべクシーとハッカスはチーム白である。)

 ウィンズロー家では、前回はまだお腹の中にいた赤ん坊がブルーという子どもに成長しているという変化があったのだが、そのブルーの誕生日にウィンズローさんの義理の父親が現れたことでひと騒動が起きている。チーム青は彼らからガーガメルがパリにいることを知り、パリに向かうことになる。

 ガーガメルにとらえられたスマ―フェットは、彼女だけが知っており、ガーガメルが知りたがっている秘密の呪文を教えようとしないが、自分と同じ境遇にあるべクシーとハッカスに心を開き、次第に心変りしていく。もし彼女が呪文を教えればスマーフたちはおしまいである。スマーフたちの運命やいかに・・・。

 バンド・デジネの映画化としてはこの作品の他に『ペルセポリス』と『タンタンの冒険』が日本では公開されていて、そのどちらも見ている。『スマーフ』はアニメーションと実写の合成であるという点に加えて、物語がおとぎ話風で、主人公たちが可愛いというのがいかにも子ども向けである。さらにクラムジーClumsyは「不器用な」、グラウチ―Grouchyは「文句が多い」、バニティーVanityは「うぬぼれ」というように、スマーフたちの名前はその性格と直結していて、その点ではディズニーの『白雪姫』の小人たちを思い出させる。それぞれの個性を生かしながらチームワークで困難を乗り切るのも同じだが、外見に大きな変化がない分、個性の主張も控えめである。

 前作は批評家には評判が悪かったが、主要な観客である小さな子どもたちの評判がよく、かなりの興行収入をあげたそうである。ただし日本での観客動員は限られており、今回は一部の映画館で1日1回~2回の上映であり、前作が3Dでの上映だったのに、今回はそうではないなどというふうに冷遇されているが、上映会場は子どもたちとその親で満員になっていた。上映方式を工夫すればそれなりの興行収入は見込めるはずだと思いながら見ていた。なぜか、オードリー・ヘップバーンと彼女の出演作(『ティファニーで朝食を』とか『マイ・フェア・レディ―』)に関連するセリフが出てきたのはどういうことであろうか。とにかく次回作を含めて、三部作をそろってみてみたいと思っている。

板越ジョージ『結局、日本のアニメ、マンガは儲かっているのか?』

8月20日(火)晴れ後曇り

 8月19日、板越ジョージ『結局、日本のアニメ、マンガは儲かっているのか?』(ディスカヴァー携書)を読む。

 海外で人気はあるが外貨を稼ぐ収益性の高いビジネスにはなっていないというのが結論である。アニメ、マンガ業界の現状を詳しく分析すると、それが日本の産業モデルの縮図であることがわかる。アニメやマンガはこれまでのところ、国内完結型の閉鎖的産業であったし、それでやっていけたが、これからはもっと開放的な産業となり、さらに国際的競争力も持たないと生き残れない時代になっていると著者は主張する。

 確かに日本のアニメは海外で人気を呼んでいるが、特にアメリカにおけるビジネスの構造が理解されていないこと、デジタル化の時代に対応できていないことのために十分な収益を上げていない。例えば、テレビアニメの多くは、テレビ放映によってだれでも無料で視聴できる。したがって二次的な派生事業で収入を得る必要があるという。

 日本のマンガビジネスが国内完結型であるのは、国内に成熟した市場がり、国内市場で十分採算が取れたからである。しかし日本の人口が減少に向かい、グローバル化、デジタル化が進んでくると、国内市場を優先させ、余力があれば国外進出を考えるという従来の姿勢ではやっていけなくなる。海外進出を図るに際して、特に必要なのはマーケティング戦略である。特にアメリカでは商品を使う前からその効用を説明するビジネス組み立てており、使ってみてその良さを理解してもらうという日本とは違いがあることを理解しなければならない。日本では知的財産ビジネスの専門家が少ないことも問題である。海賊行為や違法動画のアップロードという事態に対応できていないのはこのことと関連する。さらに実のところアニメDVDなどの映像パッケージを販売している店舗が減少しているという事態もある。文化経済におけるナショナリズムの台頭が追い打ちをかけている。

 日本のマンガとアメリカのコミックの違いは、アメリカでは知的財産権はすべてパブリッシャーがもっているということである。マンガを世界展開のビジネスとして考えるならば、アメリカモデルの方がやりやすいはずである。海外進出を考えるのであれば、戦略的パートナーシップを結べるようなプロデューサーが必要となる。作品がいいのに収益が上がらないのはビジネスの仕組みが悪いからである。従来のディレクター中心のシステムを、プロデューサー中心のシステムに切り替えていく必要がある。

 かなり簡単に内容を紹介してしまったが、この他にも著者は多くの議論と提案を行っている。知的財産権をめぐって、最近のTPPをめぐる日米間の動きについて触れてくれるとありがたかったのだが、その点についての言及がないのが残念である。ディズニーと手塚治虫の違いについて触れた140-1ページの記述が特に印象的。ディズニーと言えば、95-101ページで触れられている紅白歌合戦へのミッキーマウスの登場についての議論も見逃せない個所である。

 「今や、アニメやマンガ業界において、日本人が熱中しやすい『ものづくりの質にこだわる』ことは最高の美徳ではありません。国際競争力を持つためには、しっかりとした知的財産戦略とマーケティング戦略が必要なのです」(162ページ)と著者は説く。「日本は、システムをつくり、ルールをつくる立場にならないと、いつまでたっても『ものをつくるだけの国』になってしまいます」(165ページ)という危機感が著書全体を貫いている。日本の政府と企業が「クールジャパン戦略」を本気で展開するつもりであれば、広く読まれてよい本である。 

大津雄一『『平家物語』の再誕――創られた国民叙事詩』(4)

8月19日(月)晴れ

 昨日、今日と外出。体力をかなり消耗した。

 大正時代、関東大震災後の社会不安に対応した国民教化の動きの中で、それまで哀調を帯びた悲劇の歴史物語と理解されてきた『平家』がこの流れに巻き込まれ、「叙事詩などとロマンティックに構えていることはできなくなり、国民道徳・日本精神の結晶した国民文学として、国体に奉仕することになる」(134ページ)。

 昭和に入って日本は戦争へと歩みを進め、そのような中で『平家物語』は日本精神学習のための有益な教材と化していくことになる。国文学者の高木武による「戦記物語の研究」(新潮社の『日本文学講座』の一部)は武士道的精神、国体観念、尊王忠君、祖先崇拝などを軍記の特徴としている点でこの時代の傾向をよくあらわしている。1934(昭和9)年に発表された野村八良の『武家時代文学に現れた日本精神』は『平家物語』をはじめとする軍記は、文学作品というよりは国民道徳・国民精神・日本精神を研究する「資料」として評価されるようになっているという。大津さんも指摘しているように、「ここまで来るともはや文学を離れた政治的狂熱の産物」(139ページ)としか言いようがなくなってくる。もちろん、日本精神の強調から離れた『平家』の研究もすすめられてはいたが、一般社会に向けてこの物語を語る際に、まず強調されたのは武士道であった。

 日米開戦の翌年である1942(昭和17)年に日本文学報国会が設立される。その中に国文学部会が設けられていたが、そのおもな業績は『標準日本文学史』の執筆であり、さらに「日本精神昂揚古典講座」を全国各地で開催した。この会の中心的な存在となったのは1940(昭和15)年に国文学者の有志によって設立された皇国文学会の同人たちであった。その一員であった冨倉徳次郎は「日本戦記文学の展開―日本戦記文学とその武人的なるもの」という論文の中で「武人のもつ理想性を宣揚した文学」、「日本精神の一つの宣揚の文学」(150ページ)が戦記文学であるとして、『平家』では源義経について取り上げて論じているという。

 皇国文学研究会は1943年に「皇国文学叢刊Ⅰ」として『超克の美』を出版する。そこでは日本文学の中の死の超克の美が異常に強調されている。1944(昭和19)年に出版された冨倉の『もののふの文学』は戦時下において『平家物語』をはじめとする軍記がどのように利用されたかを分かりやすく示す書物である。この書物の中で『平家』をはじめとする軍記物語の逸話を例として冨倉は武士に学び、その精神を受け継いだ日本軍人に学んで、天皇や大日本帝国のために潔く死ね、死をためらってはならないと青少年に教えようとしている。

 その一方で時局に抵抗した国文学者も少数ながら存在した。その1人である永積安明は論文「平家物語に関する基礎的覚書」(1936)で、物語の中に旧秩序と新秩序の葛藤が含まれ、それは仏教や儒教によって変革期の歴史を裁断しようとするアイディアリスティックな方法と、旧秩序に対抗する悪僧や武士などの現実的な行動を描き出すリアリスティックな方法との混在にあらわれているという。そしてこの点にこそ時代の客観的な真実があると評価すべきであると主張していた。この延長線上で1940年の「日本古典読本」シリーズの『平家物語』ではこの物語が卑俗な政治的効用のためにゆがんだ読まれ方をすることに警告を発している。しかしその彼も戦局が進むにつれて時流に迎合する発言をするようになってくる。

 本の紹介だけを続けていても退屈であるかもしれないので、『平家』についての個人的な感想を書いておくと、たぶん3回くらい(高校時代に1回、社会人になって、それもかなり年をとってから2回)読んでいて、日本文学の古典の中では多く読んだ方であると思う。学校では古典作品を部分的にしか教えないので、自分で全部読んでみるというのは貴重な経験になる。自分で読んでみると『平家』には多面性があること、いろいろな読み方ができることがわかる。学校で何を、どう教えるかも重要ではあるが、生徒が自分で勉強してみる可能性を広げていくことも学校の仕事であると思う。(つづく)
 

タイピスト!

8月18日(日)晴れ

 109シネマズMM横浜(シアター10)でフランス映画『タイピスト!』を見る。楽しめる映画である。

 1959年、北フランスの地方都市。若い娘のローズは商店主である父親が進める結婚話に乗り気にならず、職を探す。思いがけず試験的な雇用ではあるが、小さな保険会社の経営者の秘書としての仕事を得る。本人はやる気満々であるが、不器用でドジばかり踏んでいる。ただ一つの取柄はタイプ打ちが速いことである。上司のルイは雇用を続ける条件としてタイプの早打ち大会への出場を勧める。しかし、我流でタイプのキーをつついている彼女は僅かなところで入賞を逃す。そこでルイは彼女に特訓を施す。ただタイプライターの練習をさせるだけでなく、すぐれた文学作品を読ませて文章の特徴を覚えさせたり、ピアノを習わせて指の動きをさらに滑らかにさせようとする。

 タイプの早打ち大会は予選、準々決勝、準決勝、決勝と段階を踏んで行われ、それも地方大会、全国大会、国際大会と進んでいく。それぞれの段階で難敵が現れ、心理的な駆け引きや自分自身との戦いが描かれることになる。その一方でローズとルイのあいだに恋が芽生え、その行方も観客としては気になるところである。

 この映画を楽しく見ることができたのは私自身、人生の一時期タイプライターに付き合っていたからである。大学に入学した時のガイダンスで図書館学を勉強するとタイプライターが練習できると聞いて、勉強してみようかと思った。エスペラント研究会のメンバーがタイプを打っている姿に見とれたこともある。結局、スミス・コロナのタイプライターを友人から借りて我流で打つようになったのは大学院時代のことである。新聞記者の特ダネをめぐる競争を描いたアメリカ映画『フロント・ページ』はタイプライターへの憧れを増幅させる映画でもあった。就職してからは職場のタイプライターを使えるようになり、本格的に練習した。手動から電動になり、この映画でも最後にそのアイデアが出てくるボール式の電動タイプを使うようになった。その後、ワープロ、さらにコンピューターを使うようになってタイプライターとの縁は切れてしまった。タイプライターと付き合った期間は10年近くあるし、タイプライターで身につけたスキルはコンピューターへの入力にも役立っている。もっとも、アパートの片隅に未使用のタイプ用紙が残っているのをどうしようかと迷い続けている。

 新聞記者や作家、あるいは研究者がタイプライターを使っていたのは原稿を分かりやすく書き残すためである。職業的なタイピストは自分の考えを表現するのにタイプライターを使うわけではない。それだけにどんな職場に勤めるかが重要になるわけである。

 タイプライターが過去のものになってしまった今日では、この映画はある世代にとっては過去への郷愁とともに見る映画であり、もっと若い世代にとっては未知の過去への興味をかきたてる映画であろう。そういえば1959年はトリュフォーの『あこがれ』やシャブロルの『美しきセルジュ』が発表された翌年にあたる。それから50年以上たってしまうと、ヌーヴェル・ヴァーグもただの過去なのであろうか。映画を締めくくるアイリス・アウトは確か『勝手にしやがれ』でも使われていた―などと言っても仕方がないか。

 結論としてこの映画はメッセージを伝えているわけでも、芸術的な表現に富んでいるわけでもない、ただの娯楽作品なのだが、その娯楽性という点で面白く見せてくれるのだから、文句は言えないのである。

さるすべり

8月17日(土)晴れ、暑い

 さるすべり

猿が本当に滑り落ちても
不思議はないような幹と
百日紅という漢字が似合う
紅い花(白い花もあるが・・・)
その対照を楽しみながら
夏の坂道を上り下りしていた

さるすべりの花が
咲いていた庭の
持ち主が変わって
木も切り倒されてしまった
目印がなくなって
坂道を歩く足どりも重くなる

毎年
花を揺らしていた
風も戸惑いながら
坂道を吹きぬけて
いるようだ

大津雄一『『平家物語』の再誕 作られた国民叙事詩』(3)

8月16日(金)晴れ

 1912(大正元)年に出版された五十嵐力の『新国文学史』は武士道を中心として時代を描いたのが『平家物語』などの軍記であるというそれまでになかった視点を示す。それは武士道は「封建の余習」だとするような当時の新しい思潮とは対立するものであった。

 『平家』の時代には<武士道>という言葉はなく、この語が散見されるようになるのは近世からであり、武士の道徳を表す言葉として広く使われるようになったのは、明治になってからのことである。もともと戦乱の世にあっては、謀略により相手を倒すことは当たり前のことであり、それが世の上に立つ為政者としてふさわしいものではないと批判されるようになったのは儒学が盛んになった徳川の太平の時代になってからのことである。こうして儒教に則った<士道>が提唱されるようになる。それが幕末の尊王攘夷運動の中で、自己鍛錬としての「道」からナショナリスティックなイデオロギーへと変貌し、明治を迎えることになる。維新後、武士道が特に注目を集めるようになったのは、日清戦争後に国家意識が高揚してからのことであると著者は論じる。

 1902(明治35)年に山岡鉄舟の言葉を集めたという『武士道』が出版されるが、これは武士としてふさわしい出処進退や心構えについて語ったもので、自己鍛錬の<士道>の系譜に連なる書物である。また1900年にアメリカで刊行されていた英語版が、翌年日本でも出版され、1908年には邦訳が出版された新渡戸稲造の『武士道』は欧米におけるキリスト教に基づいた道徳に対応するものとして日本には武士道があると論じるものであり、「他国の人々とも共有しうる倫理を求め」(115ページ)る姿勢から書かれていた。私が新渡戸の本を読んだ限りでは、武士道はヨーロッパの騎士道に対応するものと考えられており、その意味で大津さんの評価は正しいと思われる。(ただし、騎士道には女性に対する尊重や弱者に対するいたわりが含まれている点に注目すべきではないかとも思う。)

 しかし、この後急速に広まっていったのはこれらとは異なる武士道であった。1901(明治34)年に井上哲次郎は『武士道』を出版しているが、その中で武士道は日本だけの比類のない道徳観であるとするナショナリスティックで偏狭なとらえ方が強調され、それが国民道徳あるいは日本精神の根幹を形成すべきものであるとされた。それは日露戦争後に社会不安が顕在化する中で、政府が国家主義的な教育を強化しようとする動きの中で積極的に採用される考えとなった。武士道という概念は『平家物語』が描いた時代にも、この物語が成立した時代にも存在はしなかった。しかしひとたび武士道が国民道徳の中に取り込まれてしまうと、軍記物語について論じる際にもこの点に触れなければならなくなる。五十嵐の『新国文学史』はこのような状況を反映するものであった。

 国家主義的な動きの一方で(著者はこのあたりの社会と思想の展開の力学を詳しく論じているとは言い難いが)、社会運動も盛んになり、自由主義的な文化も普及し、大正デモクラシーと呼ばれる動きも見られる。この時代を代表する歴史学者である津田左右吉は『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の中で「戦記文学」について取り上げ、『平家』が民衆の思想を反映する文学であることを指摘している一方で、「貴重な国民詩であり国民文学である」(125ページ)と評価する。また英文学者の土居光知は1922(大正11)年に『文学序説』を刊行し、英文学の理論に依拠しながら社会の発達段階と文学形態の展開との関連性を明らかにしようとした。彼は社会に騒乱が起こり、人々の関心が外部に向けられると、叙事詩がその時代の代表的文学形態になると論じ、『平家物語』などの軍記物をこのような変動期の産物である叙事詩に位置付けている。しかしこれらの意見は国文学者からは無視された。大正時代を通じて国文学研究は盛んではあったが、これまでの研究をより詳しく繰り返すだけの内容に終わっていた。このあたりの議論は著者の主要な関心ではないからであろうか、やや粗雑に感じられる。議論が詳しくなるのは、戦時下における『平家』と軍記物語をめぐる部分に入ってからである。(つづく)
 

爆心 長崎の空

8月15日(木)晴れ

 シネマ・ジャックで『爆心 長崎の空』を見る。

 青来有一の6つの作品からなる連作短編小説『爆心』を原作として、原田裕文が脚本を書き、長崎の爆心地周辺に住む人々の姿を、母を亡くした娘と娘を失った母の出逢いを中心に描いている。

 長崎は(港町はたいていそうだが)、坂道の多い町である。そんな町を自転車で走り回る人はほとんどいない。大学生の門田清水は坂道を自転車で上り下りして来たために心肺機能が鍛えられ、陸上の長距離選手として活躍する一方で、医学生である光太とデートを重ねている。光太との仲は母親にも話さない秘密であったが、おそらくそのために母親とちょっとしたいさかいを起こし、光太と一緒に過ごしているときに母親からかかってきた電話を留守電にしてしまう。ところが母親が心臓発作で急死し、そのことが彼女の負い目になる。

 清水が言うように坂道を登ることによって新しい景色が見えてきたり、それまで見えていたものが見えなくなったりする。坂道は人生の新しい日々を象徴するように思われる。しかし、死は新しい日々を奪う。

 新聞社に勤める夫をもち、実家の印刷屋を手伝っている高森砂織は1年前に一人娘を急性肺炎で失い、その悲しみを癒せないでいる。彼女の実家は300年続いたカトリック信者の家柄で父親はことあるたびにその命のつながりを絶やすべきでないという。砂織の夫は小倉の出身で、8月9日は小倉に原爆が投下されるはずであったことをくり返し口にする。被爆体験者が少なくなってきた中で砂織の両親から体験を聞きだそうとするが2人の口は重い。口が重いのにはそれなりの理由があるのである。

 ある日、洗濯物を干していた砂織は宝貝を見つける。それは一人娘が海岸で拾っていた貝であるが、夫は貝は棺の中に収めた、彼女の掌の中の貝は見えないという。砂織が妊娠したことがわかるが、また子どもを失うのではないかという恐怖と、生みたいという思いが彼女を混乱させる。

 心臓発作も急性肺炎も原爆とは関係のない病気である。だが、それを関係があるように考えさせてしまうところに原爆投下が爆心地近くの人々の生活と心情に及ぼした影響の深さが要約されている。清水の物語と砂織の物語がなかなか交差せず、その間に砂織の妹の美穂子が実家に戻ってきて、清水の古い友達の勇一と関係をもったりして、見るものを混乱させる。もう少しストーリーを簡略化した方が分かりやすい映画になったかもしれない。作者は宝貝や白鷺の羽に映画の中での象徴的な役割を与えているのだが、必ずしもそれが成功しているとは言い難い。カトリック信者の生活の描写がはたしてどこまで現実を写し撮っているかについては疑問が残る。とはいうものの命をつないでいくという作品のテーマは重く、作る側の取り組みの真剣さが映画としての出来は必ずしも良くないこの作品を感動的なものとしている。 

大津雄一『『平家物語』の再誕 創られた国民叙事詩』(2)

8月14日(水)晴れ後曇り

 前回、「国民的叙事詩としての平家物語」という評価の形成に生田弘治(大津さんはこう表記しているが、生田長江という号の方で知られている)が大きくかかわっていたとの所説を紹介したが、生田に大きな影響を及ぼしていたのが、彼の先輩である高山樗牛であるという。『平家物語』の受容・解釈との関連で樗牛の注目すべき業績は、平清盛の再評価にかかわるものである。清盛を従来の超人的な力をもつ一方で、頑迷でよく深い女好きの人物という姿に代わる、「不屈の精神」をもち、「時代を進めた個性的な英雄のもつ大きなエネルギー」(83ページ)を認めるという今では常識的になっている評価を与えたのは樗牛であった。

 言論人樗牛の影響力は多くの文学青年たちだけでなく日本史学者の辻善之助や国文学者の藤岡作太郎にも及んでいた。辻は清盛を平安末期の思想界を超越した人物と評価し、藤岡は日本の「革新」の時代は、大化、寿永、明治であるが、大化の改新はあまりにも古いことなので論外に置き、寿永と明治の革新を比較すれば、明治の革新は民衆の時代の革新であって英雄は存在しないが(西郷、木戸、大久保を「維新の三傑」という徳富蘇峰や、司馬遼太郎以来の龍馬崇拝の風潮を考えると注目すべき意見である)、寿永の革新は、貴族と武士という異なる階級の激しい争いであり、この革新を成し遂げようとした人物こそが清盛という英雄であると称えた。「国や民族の大きな変革期を語る叙事詩(英雄叙事詩)には、超人的な力で時代を動かす英雄が不可欠である」(88-9ページ)。『平家物語』の叙事詩としての再評価と、清盛の英雄としての再評価は符合するものであった。

 さらに木曾義仲が英雄として加わることになる。既に登場した竹越三叉は『平家』における義仲の挫折を「健康的で純粋な野生が都という都会に翻弄され挫折するという構図で理解する…野生の人・木曾義仲の誕生である」(91ページ)。さらにこの野人義仲を広く認知させたのは、山路愛山であった。彼は義仲を古い価値観や秩序を破壊する清盛の後継者と論じている。『平家』のテキストをそのまま読む限り、このような解釈には無理がある。しかし竹越や山路や、彼らの影響を受けた芥川龍之介や保田譽重郎は義仲への深い同情を語っている。

 明治維新から国会開設までの急激な変化の時代のあとの閉塞感の中で、現状を打破する英雄への憧憬、国力の増大への熱望、社会のさまざまなひずみへの怒りが一緒になって英雄の出現を待望する風潮を醸成していた。山路愛山の議論はこのような風潮を代表するものであった。大津さんは清盛や義仲が文学的に未開拓の存在であったこと、従来は反逆者という評価をされてきたことについても注意を促している。

 また高山樗牛の弟であった斎藤野の人(随分変な号である)は日本文学におけるもっともロマンティックな作品として『平家物語』を挙げ、樗牛や愛山が「英雄」に強調点を置いたのに対し、「運命」、「漂浪」、「愛」に注目して『平家』のロマンティックな性格を読み解こうとした。ロマン主義は相反する要素を内包しているが、国民的英雄叙事詩『平家物語』論は、国家主義・民族主義に傾いたロマン主義の産物であるという。

 大正期に入って、『平家物語』はもう一つの解釈、武士道や国民道徳と結びついた解釈をされることになる。そのことについては次の機会に見ていくことにしたい。(つづく)

山下好孝『関西弁講義』

8月13日(火)晴れたり曇ったり

 山下好孝『関西弁講義』(講談社学術文庫)を読み終える。著者は京都市伏見区に生まれ育ち、神戸の大学でスペイン語(イスパニア語)を学んで、外国人を相手にする日本語教育に携わり、日本人学生を相手にスペイン語を教えてきた。「しかし、あるとき、自分が一番自信をもって教えられる語学は何かと自問してみた。/絶対に関西弁である。/そして、勤務する北海道大学で「外国語としての関西弁」という講義を開くことになった」(14ページ)。この書物はこうして行われてきた「外国語としての関西弁」講義ノートをもとにして書かれている。

 日本のどの地方で関西弁が話されているかをめぐっては意見が分かれている。著者は一応近畿地方の2府5県を関西弁使用地域と考えているが、三重県を近畿地方に含めることには異論があるだろうし、兵庫県でも昔の但馬に相当する部分は言語的にも文化的にもむしろ山陰に属するのではなかろうか。逆に福井県の若狭地方の言葉を関西弁として聞く人もいるし、さらに徳島県の言葉を関西弁だという人もいる。近畿地方に住んでいなくても関西弁を使う人はいるだろうし、その逆で近畿地方に住んでいても関西弁を使わない人もいる。言語は流動的で、変化している。関西弁も同様である。京都、大阪、神戸…、地理的な条件による違いもある。京都、大阪、神戸はそれぞれの特色をもって国際的な性格をもつ都市であり、外国の言葉の影響も考えられてよい。

 関西弁について特にその音韻を著者は詳しく記述・分析している。そのような記述・分析を通じて「関西弁はイタリア語やスペイン語のような明瞭さをもって発音される」(45ページ)と断言しているのは勇み足かもしれないが、英語の発音に日本語の発音が悪影響を与えている例を指摘して、日本の英語教育の問題点だと論じているのは頷けるところである。まず日本語の音韻について敏感な観察者になることが外国語の発音上達にも有益であろう。アクセントについての議論も説得力に富む。文法についての考察はこれに比べると精密さを欠いているように思われる。さらに語彙や発想の違いをめぐる記述も興味深い。

 関西弁は標準語から派生したものではない、日本語の西と東は、より古い日本本土共通祖語から有史以前に分かれて生まれたという主張はそれなりに説得力をもつが、「外国語」だといいきってしまうのは問題がある。ドイツ語やイタリア語の方言の中には独立した「外国語」と考えてもよさそうなものがあるようである。それらがなぜ「外国語」とみなされていないかを考えることも必要であろう。また共通祖語が本当にあったかどうかについては疑問が残る。あるいは日本語はもともと多元的なものであったのかもしれないのである。10年前に書かれた書物であるために、プロ野球の球団名や芸能人など執筆当時とは状況が変わっている例が少なくない。著者の努力は認めるが、分かりやすいと思って書いているところが分かりにくくなっていたりするのは残念で、より長期的な視野をもって書かれるべきであったと思われる。いずれにしても、重要な問題提起、結論よりも出発点として読まれるべき書物である。

少年H

8月12日(月)晴れ後曇り、その後雷雨

 メンテナンスのためログ・インできず。この原稿は13日になってから書いている。ムービル3で『少年H』を見る。

 1940年代、太平洋戦争を挟んだ時代の神戸を舞台に、洋服仕立屋の一家の経験を描く妹尾河童の自伝的な小説の映画化。原作は読んでいないし、どこからどこまでが本当にあったことで、どこがフィクションであるかは分からない。

 主に外国人相手の商売を営んでいるために普通よりも広い視野をもつ父親と寺の娘でありながら米国人の宣教師に出逢ってクリスチャンになった母親。父親は息子を「あんた」と呼んでできるだけその意思を尊重するような育て方をしている。息子の嘘を見抜いたりして厳しくしつけているのはむしろ母親である。それでも息子にその名前がハジメなのでHというイニシアルを入れた(少年Hである)セーターを編んでやったりする。普通と違った暮らしぶりに周囲の目は時として厳しいが、息子は友達とそれなりに楽しくやっている。その周辺には藤原義江のレコードを聴いている青年や、元大衆演劇の女形だった青年など、これまた風変わりな青年が出没している。父親は自分の生き方を貫きながらも、息子が周囲から突出することを戒めたりする。

 時局の変遷の中で外国人たちは次第に去ってゆき、青年たちは思想問題で逮捕されたり、軍隊に召集されたりする。父親はスパイの疑いで調べられたりするが、家族を守るために頑張りぬく。洋服屋がもうからないので消防署に勤めたりする。周囲との折り合いをつけるために母親も町内会の役員をしたりする。中学校に進学した少年は軍事教練中心の教育に戸惑う。まだ小さな妹は田舎に疎開することになる。

 神戸というと国際性や自由な雰囲気が特徴となる町であるが、映画の前半にはそのような雰囲気と日本の他の都市と変わらない側面との両方が感じられる。少年であるからその生活範囲は狭く(それでも父親のお伴をして歩きまわっているから、同輩よりは広いはずである)、この作品の中に西欧人ではない外国人が登場しないのはその一例である(神戸には日本三大華人街の1つがある)。この映画に登場する青年たちとほぼ同世代であった足立巻一の回想記を読んだことがあって、そこには神戸について、その中での青年群像について、また別の描き方がされていたことを思い出す。

 映画の中で印象を残すエピソードの1つ、父親がポーランドから逃げてきたユダヤ人たちの服を繕う仕事を引き受け、彼らの衣服の匂いに電車の他の乗客たちが辟易する。日本に大勢のユダヤ人がやってきたという事実は少なからぬ人々が書きとめている。あるいはもっと多くのことを知っていたのかもしれないが、それ以上のことを書いていない。ここにはそのもっと多くのことを知る手がかりがある。

 戦後の大人たちの変貌に不信感を募らせる少年H。それでも一家は次第にその生活を再建してゆく。少年は新しい道を歩もうとする。

 舞台芸術家としての妹尾さんの仕事に接したことはないのだが、インドやヨーロッパ旅行記、そして藤原義江の思い出などの文章は読んだことがある。そういう目からすると、少年時代の想い出はそれなりに貴重なのだが、この物語のあと、なぜ舞台芸術家の道を選んだのかとか、少年時代にレコードを聴くだけであった藤原義江とどのように出逢ったのかなどのエピソードの方に興味をもっている。その意味では、続編がつくられることを期待する。これは映画製作者よりも妹尾さんの方に言うべき言葉であろうか。

語学放浪記(10)

8月11日(日)曇り、今日も暑くなりそうで、みなさん、お気をつけください。

 大学時代に学んだロシア語の話の続き。小野理子先生について。

 このブログを書いていて、先生が2009年に亡くなられていた(1933-2009)ことを知った。その前年に植野先生もなくなられていたのである。遅ればせながら先生方のご冥福をお祈りしたい。

 小野先生の最初の授業、背の高い、色の黒い女性がかなり颯爽と教室に入ってきた。「あれっ、女だぜ」と失礼なことを言った学生がいた。そう、当時は大学に女性の先生は珍しく、京都大学全体では柳島静江先生が助教授(今でいう准教授)でいらっしゃったのが唯一の常勤であった。中学・高校と男子校だったこともあり、小学校卒業以来では私が授業を受けた唯一の女性の先生であった。

 それだけに小野先生はいろいろと(一部の学生のあいだだけではあったが)話題になる先生であった。中国語中国文学科を卒業されたのち、夫君であるソ連研究家の小野一郎氏に従って東欧に滞在され、チェコのプラハ大学の助手をされていたこと、その後モスクワ大学の東洋学院で専任講師をされ、この大学の大学院で勉強されたこと、したがって先生のロシア語がモスクワ方言で生きたロシア語を伝えるものであることなど、敬意をもって語られていた。

 先生の授業はなかなか歯切れがよかった。ロシア文字を教えている中でШを「シャー」と教えるべきところ、うっかり「シェ―」と言われてしまい、次の授業で訂正された。「流行とは恐ろしいもんだ」。赤塚不二夫の『おそ松くん』が一世を風靡している時代である。

 先生と山口先生が共同で編纂された教科書を使用されたのだが、プーシキンやガルシンの一節、トルストイの『アンナ・カレーニナ』のレーヴィンがキーツィに求婚しようとシェルバツキー家に出かける個所、ショーロホフの『静かなドン』などが抜粋されて収録された内容であり、先生の授業は大変に文学的であった。プーシキンがシベリアに流刑になったデカブリストたちに贈った詩や、それに対して詩人でもあったデカブリストのアレクサンドル・オドエフスキーが「火花は炎となって燃え広がるであろう」と答えた詩を学んだ。(一時期のロシア社会民主労働党の機関紙名がこの詩にちなんで『イスクラ(火花)』であり、日露戦争の際に平民新聞の非戦の訴えに回答する論説が載ったのはこの新聞であった。) ロシア文学に登場する女性の造形についての話をよくされたが、不幸にして聴講者は男性ばかりになってしまっていた。

 この時期、ロシア語と中国語では学ぶ学生の質がかなり違ったと思うのである。だから私が両方を勉強していることを山口先生がよしとされたのかもしれないと今になって思う。京都大学にはロシア語ロシア文学科はなかったから、人文系・語学系の勉学のためにロシア語を勉強する学生は少なかった。経済学部にはプレハーノフの『歴史における個人の役割』を翻訳された木原正雄先生がいらして、マルクス経済学を勉強する学生のあいだにはロシア語を第二外国語とするものが少なくなかった。さらにそれ以上に理学部や工学部ではロシア語を第二外国語とする学生が多く、彼らのクラスが編成されていたのである。これに対して中国語を勉強するのは私のような一部のモノ好きは別にして、中国語・中国文学を志望するか、中国哲学、東洋史などの専門領域を選ぶ学生が大半であった。

 そういう雰囲気の中で小野先生がロシア文学の豊かな伝統について語られたり、ロシア語よりもチェコ語の方が名詞の格が多いというような話をされていたのは、先生が戦後間もない時期に京都大学に学ばれ、この大学の実利よりも純粋に学問を追求しようという学風を実感されていたこと(そういう実感は男性よりも女性の方が強くもっていたはずである)のためであろう。

 あるときプーシキンの作品を何か読んだかと学生たちに質問され、それぞれが答えた中で私が「ピョートル大帝の黒奴」と答えたら、あれは面白いですねと言われ、その後、授業の中でプーシキンについてのスライドを見せていただいたことがある。この作品は、プーシキンの祖父でピョートル大帝に仕えた聡明なアビシニア人のことを書いたものであり、プーシキン自身も普通のロシア人と違った色黒の容貌であったことなどスライドを通じて知った。

 山口先生が常勤であったのに対し、小野先生は非常勤であったこともあり、先生との個人的なつながりはなかったが、先生が後年、エカテリーナ女帝についての著書を中公新書の中の1冊として出版された時は買い求めて読んだものである。その他、チェーホフの『桜の園』や『ワーニャ伯父さん』の翻訳もあって上演台本として採用されることもあるらしい。機会があればその舞台も見てみたいと思っている。

 どうやら学部に進級した際に、ロシア語の中級の授業をとるつもりで、理学部のロシア語のクラスに出かけたのだが、担当が植野先生で学生相手に皮肉なことばかりおっしゃっていたので(その気持ちは分からなくもない)なんとなくやる気をなくし、1時間目の授業であったこともあって足が遠のき、ナウカで買い求めたロシア語の本を自分で読んだりして、独習に努めていた時期もあるが、結局大学院時代のあとの方になってやめてしまった。

 それでもカザフスタンの人と話していて、彼がロシア語を話すと聞いたので、小野先生から聞きおぼえた発音でちょっと話しかけてみたら、こっちがロシア語に堪能だと思われてぺらぺらと話しかけてきたので慌てて、ロシア語を専門とする同僚にバトン・タッチした記憶がある。ロシア語を勉強し直してみたいと思うこともあるが、なかなか難しいだろうなあとも思っている。

大津雄一『『平家物語』の再誕 創られた国民叙事詩』

8月10日(土)晴れ、暑くなりそうである

 8月9日(金)、大津雄一『『平家物語』の再誕 創られた国民叙事詩』(NHKブックス)を読む。「『平家物語』は、国民的な文学であり叙事詩(的)であるというのが、一般の常識であるようだ。しかし、そもそも、「平家物語」は物語であり詩ではない。それがどうして、叙事詩あるいは叙事詩的と認定されるようになり、どのような理由から国民的な文学と認定されるようになったのであろうか」(11ページ)と著者は問う。『平家物語』が国民的な叙事詩であるという理解が、明治以降の日本社会の中で創りだされてきた経緯を追うのがこの書物の内容である。

 この書物の特徴の1つは、学問研究の制度の枠組みとの関連で『平家物語』の見方の変遷をたどっていることである。1889(明治22)年に帝国大学(東京大学)の和文学科が国文学科と国史学科に分けられたことから、『平家』が歴史か文学かという問題を生じさせたという。実証的な歴史研究が進む中で、創作的な要素が強い軍記物語は文学に引き取られることになる。

 折から上からの急速な欧化政策の展開に対する反発が強まり、政府もまた国民統合のために復古的な動きをある程度まで利用しようとする。この動きが顕著に表れたのが教育制度であり、帝国大学に国文学科、国史学科が設置されたのはこれらの学問によって「日本国民としてのアイデンティティー」の形成を図るためであった。このような気運の中で1890(明治23)年には古典文学全集の刊行が開始され国文学史が相次いで書かれ、日本文学の「伝統」が編成されはじめる。しかし、これらの動きの中で『平家物語』の評価は必ずしも高くなかったし、中世文学そのものの評価が古代と近世のあいだにはさまれて相対的に低いものであったという。

 『平家』が「国民文学」との評価を得るためには、叙事詩とみなされることが必要であったと著者は説く。「西欧の文学を学んだ研究者にとって『平家物語』を叙事詩と認定することは不可能であった」(64ページ)というのは、その通りだが、「西欧」という表記にこの書物の後半の部分を考えるときに問題がある。「西欧」とすれば、ロシアは入ってこないからである。

 『平家』の叙事詩的な性格に着目した最初の人物は竹越与三郎(三叉)である。彼の『二千五百年史』(著者は触れていないが、講談社の学術文庫に収められている)には『平家』が新しく台頭した武士の気風に合致し、その価値観を反映した文学作品であるとの評価、イーリアス、オデュッセイアとの比較が見られ、『平家』を叙事詩として捉えようとしているが断定はしておらず、またこの意見が多くの支持を得た訳ではないと著者は論じている。

 1894(明治27)年には日清戦争がはじまったが、この年帝国大学の学生が中心になって帝国文学会が組織され、『帝国文学』が創刊された。そこで強く主張されていたのが「文明国には、国民精神を発揚する文学がなくてはならない」(68ページ)ということである。「そして、国民文学として、ぜひなくてはならないのが叙事詩であった」(同上)。

 日清戦争終結直後の1896(明治29)年5月、『国民之友』(297号)は「叙事詩」と題する社説を掲げる。叙事詩が雑誌の社説となること自体が驚くべきことであるが、日本における叙事詩の不在を嘆き、このジャンルへの挑戦を訴えている。この年6月、高山樗牛がこれに答えて『太陽』(2巻13号)に「何故に叙事詩は出でざるか」を執筆し、「国民的詩人」の必要を説く。日清戦争の勝利によって列強の一員となったと自負する日本に、西欧列強にはある叙事詩がないことに我慢が出来ない人々がいたのである。ドイツの哲学者ヘーゲルによれば、叙事詩こそが民族の精神の全体性を客観的に表すものであった。西欧には叙事詩があって日本にはないとすれば、日本は文明的には二等国になってしまうと認識された。その中で1899年に国文学者の芳賀矢一は『国文学史十講』で「雄大な国民」である日本人は「深遠広大な思想を歌った詩篇」や『国民を代表すべき立派な戯曲』をもたなければならないと力説している。その背景にあるのは西欧に後れを取ってはならないとするナショナリスティックな姿勢であるという。

 日本においても、叙事詩とされるような長編の詩を新たに作ろうとする試みがなかったわけではないが、成功しなかった。それでも叙事詩の存在を主張するならば、過去から発掘するしかない。『平家物語』にそのような叙事詩としての評価を与えたのは生田弘治(長江)である。彼は1906(明治39)年『帝国文学』3~5月号に「国民的叙事詩としての平家物語」を発表する。彼は国民的文芸とは国民性を発揮したものでなければならず、国民性は、外国に対してその独自性を示し、国内に向けては国民を統一するような働きをもつものでなければならないと規定し、日本の国民性をもっともよく示すのが鎌倉時代の文学であると主張する。この時代の文学は貴族と庶民の中間にある武士という「中流階級」を基礎としているために国民全体の興味と傾向を示し、また日本独自の新仏教や武士道の萌芽も認められて、文章もそれまでの時代に比べて複雑で多角的になったとこの時代を肯定的にとらえている。さらにヘーゲルにならって、「国民文学の最たるものは、国民全体の感情や空想から生み出され、国民全体の事跡や事実を基盤としている国民的叙事詩であると主張する」(75ページ)。幾多の議論の中で、『平家物語』が琵琶法師によって語られていたことが重要な論点であったと著者は推測する。「国民的叙事詩にとって、口承という要素は不可欠なものであった」(76ページ)。著者は見落としているが、この「口承」という性格は、ナショナリズムにとってある種のわなを仕掛けるものである。というのは口承はかなり容易に国境を越えるからである(日本の民話でも韓半島や中国に類話が見出されるものがある)。『平家』が詩ではないという自明の事実が無視され、「ヨーロパの叙事詩にも劣らない叙事詩が日本にもあることが『発見』されたのである。まことに時宜を得た『発見』であった」(77ページ)。そしてこの生田の意見がその後の『平家』の評価に大きな影響力をもつことになる。

  ある研究会で生田長江についての発表を聴いたことがあり、それは彼の女性解放運動への貢献を調べる内容であった。ある人間には多くの側面があって、彼の『平家』論とフェミニズムとは重なる部分もあるだろうし、斥けあう部分もあるだろうと思う。当初考えていた以上にこの書物の紹介には多くの字数が必要なようである。それでとりあえず、紹介はここまでにしておく。(つづく)

都留重人『アメリカ遊学記』

8月9日(金)晴れ

 都留重人『アメリカ遊学記』(岩波新書)を読み終える。1948年から1950年にかけて書かれた原稿を集めて1950年に発表された著書の第9刷である。1931年9月から1942年6月までアメリカの高等教育機関で過ごした際の経験がまとめられている。留学中に日米が開戦するという事態が起きている。今と違ってアメリカに留学することがきわめて例外的な経験的な時代であった頃の回想であり、引き揚げの際に全く文字資料をもちかえることができなかったという条件のもとで記憶だけをもとに書かれている。

 著者は「30日間無届欠席を理由に高等学校を追い出された私には、当時の社会情勢の下では、それ以上の高等教育を受ける扉は閉ざされたも同じであった」(38ページ)という。それで父親に工面してもらった5000円(2500ドル)の金をもって、アメリカ中西部のウィスコンシン州アプルトンに向かい、同地にあるローレンス・カレヂに入学した。もともとアメリカでしばらく勉強してから、ドイツに渡って本格的に勉強する心づもりであったのが、ドイツでヒトラーの独裁制が施されて、「学問のための環境としてはドイツに何の魅力も感じなくなったので」(1ページ)アメリカに居座ることになったという。その間、経済学に志し、ハーヴァード大学に転校し、さらに大学院で研鑽を積むことになった。

 とはいえ、日本とはあまりにも違う環境になじむことはかなり困難であった。都留さんはダンスをしなかったし、アプルトンで盛んであったスケートとも無縁であった。しきりに本を読み、ニューヨーク・タイムズを取り寄せ(それがこの都市での話題になった!)、その一方で陸上競技とドイツ語のクラブで活躍した。風変わりな、しかし自分の意見をもった学生として過ごしたのである。

 ハーヴァードに転校する際に、ローレンスの学長であったリストンは次のようにいったという:
「君がハーヴァードにただ勉強のためにのみ行くというのなら、私はあえて助けはしない。日本の帝国大学へ行けば、君などハーヴァードにおけるよりもずっと有益な勉強ができるに相違ない。君がアメリカへ来ているのは、アメリカの文化を学び、アメリカ人を識り、アメリカの国情に親しむためではないか。ハーヴァードに行ったら、是非とも寄宿舎の一つに入って学生と一緒に生活してほしい」(11ページ)。都留さんはこの期待に必ずしも答えられなかったと書いている。しかし、海外での勉学について考える際に重要な示唆を与える発言であると思う。

 ハーヴァードではミルとマーシャルの伝統をひく老碩学タウシグからそのセミナール的講義に出席して経済学についての学問的な訓練を受け、チューターであるテーラー博士からアダム・スミスとりカード―を読むことを学んだが、当時のハーヴァードを支配していた新古典派的な雰囲気には必ずしも馴染めなかったという。必修であった「経済学入門」を理由をつけて途中でやめたことについては後悔もあるようである。この「経済学入門」という授業、日本で言うと「経済原論」のようなものであるが、きわめて入門的初歩的なもので、「ハーヴァードなどではこの課目に登録している500人余りの学生を25人ずつ20ぐらいの小さなクラスに分け、助手級の若い25,6の先生が何人も動員されて、これをセミナールの形で行うならわしになっていた」(45ページ)という。こういう授業を受けてみたかったし、教えてみたかったと思う。

 著者が最も身近で世話になったというシュンペーターについて、彼が当時のアメリカの経済学者の中では例外的にマルクスを高く評価していたこと:「われわれの科学はイデオロギーの故に緩慢な進歩しかしないかもしれないが、同時に、イデオロギーなくしては、進歩そのものがとまってしまうだろう(105-6ページ)。貴族趣味である一方で、十分な科学性をもたない経済学が政策と結びついてしまうことを嫌ったシュンペーターの一面が窺われる。「現在のような世界情勢の下で学問にいそしむということは、『五世紀のローマで学問をするようなものだ』とは、教授が私に送られた最後の手紙の一節である」(109ページ)という個所も印象に残る。

 真珠湾攻撃の後でも、大学関係者だけでなく、一般庶民の日本人に対する態度は変わらなかったという。「人民の生活は、本来平和なものであり、また平和を愛好するものなのである。戦争になれば、春を待つような気持ちで平和を待つのではなかろうか」(133ページ)という言葉には、実体験を踏まえた重みが感じられる。

 最後に著者はアメリカ人について一般化することは難しいとしながらも、その特色を主体性、価値判断の基準、飛躍を嫌う特性、行動の規格化という4点にまとめている。これが正しいかどうかは分からないが、自分でアメリカで暮らして確認してみたいと思う。その点では著者がもう一度アメリカで学生として勉強したいと記している個所に同感である。「学問の内容においても、生活の様式においても、社会の実践にぴったりと結びついたアメリカの大学に席をおいて、些事にとらわれない人間精進のまともな努力を、今度こそはもっと有効に積み上げてみたいと思うからである」(23ページ)。「社会の実践にぴったりと結びつかない」学問も時として必要かもしれないが、それも程度問題ではある。

柳田国男『火の昔』

8月8日(木)晴れ

 柳田国男『火の昔』(角川ソフィア文庫)を読み終える。1943(昭和18)年に執筆され、翌年実業之日本社から刊行され、その後「少年少女のための文化の話」と言った添え書きつきで版を改めた。一般向きには1962(昭和37)年に角川文庫として公刊されて広く読まれうようになったという。

 火は人間の生活になくてはならないものの1つであるが、管理の難しいものでもある。それでも人間は知恵を働かせ、経験を積み重ねて人の付き合い方を工夫しながら生活を改善してきた。この書物は燈火や暖房、炊事などにおける火と人間のかかわりの変遷を柳田自身の研究に基づいて分かりやすく記述したものである。いろいろな問題について広く論じていて手引きとして役立つ一方で、太平洋戦争中に執筆されたことによる記述の制約も感じられる。

 1875(明治8)年に生まれて、1962(昭和37)年に没した柳田は、文明開化により人々の生活が急速に変わるのを身近に体験した人であった。さらに巻末の解説で池内紀さんが書かれているように、地方から都会へ出てきた経験も彼の問題意識に大きくかかわっているはずである。「…東京から遠くない山麓の村で実験したことですが、24,5年の前、そこにしばらく私の滞在していたころには、もう村のたいていの家へは電燈が来ていました。それで私などよりは年の若い土地の人に聞いてみると、その人が覚えてから、農家の燈火は石油燈の小さな変化をひとつと勘定しても、既に四たびの変遷があったということが分かりました」(60ページ)と書いているのは変化を示す一例である。

 柳田の民俗学は日本人の生活の研究を通じて、その精神の原像を明らかにしようとするもので、精神の原像を求めるという点では国学の系譜につながるが、単なる尚古主義に陥らず、生活はどんどん便利になっていく方がよいのだ、そのためには学問の裏付けが必要なのだと主張している点に見るべき特徴がある。菜種油が普及し、各地で菜の花が栽培されるようになると、「もとは日本はどちらかというと、畑作のあまり進まぬ国でありました。それがちょうどなたねの花を咲かせるようになったころから、麦類も盛んに畑にまくことになり、また、一方には、田んぼの緑肥用として、れんげそうを作りだしまして、麦の緑と菜の花の黄色と、れんげ草の紅の色とで、みごとに春の平野をいろどることになりました。すなわち家々の夜を明るくしようとした私たちの願いが、偶然ながらも、一国の風景までを明るくしたのであります。世の中の進みというものは、まことにうれしいものでありました」(38ページ)という文章は美しく、力強い。

 このような生活の改良に役立ってきたのが学問の力である。「…以前の民間の学者の著述の、少なくとも半分くらいは、ほたるの光窓の雪ではないまでも、ほとんどそれに近いわずかなあかりの下で、顔もまっ黒にしようし、目も悪くしようし、ひとかたならぬ苦労をしながら、人のために働いたのだったということを・・・認めなければならぬのであります」(64ページ)。

 今ひとつ注目すべきは、この著述には国内に留まらず、海外における暮らしぶりについての観察と言及が見られることである。「西ヨーロッパの諸国では、町で炭屋という商売を見かけたことは少なくとも私はありません」(183ページ)。さらに西欧における炭についての考察が続けられるが、ここには比較文化論の端緒となりうるものがある。

 柳田が「現代」の暮らしぶりとして記述しているものの大半は今日探し当てることが困難な過去の遺物となってしまっている。産業と火のかかわりについての記述が十分ではないのはこの書物の欠点であろう。それでも、自分たちの暮らしぶりの変化と現在の様子を見つめることによって、さまざまな思索の手がかりと、改善の糸口を見つけることができることをこの書物は教えてくれている。

アンドレア・カミッレ―リ『おやつ泥棒 モンタルバーノ警部』

8月7日(水)晴れ

 8月6日、アンドレア・カミッレ―リ『おやつ泥棒 モンタルバーノ警部」(ハルキ文庫)を読み終える。5月29日付の当ブログ「ミステリの地理」で触れた作品である。

 アンドレア・カミッレ―リ(1925-)はシチリア生まれで舞台やテレビの脚本家、演出家として活躍、1978年に小説家としてデビューしたそうである。最初はシチリアの想像上の町であるヴィガ―タを舞台にした一連の歴史小説を書いていたが、1994年にモンタルバーノ警部を主人公とする『水の形』を書いて成功、その後このシリーズを書き続けることにある。『おやつ泥棒』(il ladro di merendine, 1996)は『水の形』に続くシリーズ第2作であり、「訳者あとがき」によると、その後のシリーズにおいて重要な役割を演じることになるフランソワ坊やとクレメンティーナ・ヴァッジーレ・コッツォ夫人が初めて登場する作品でもあるという。こちらはこのシリーズを始めて読むので、そうしたことはこれから追いかけていくことにしよう。

 ヴィガ―タ分署のボスであるモンタルバーノ警部のもとに北アフリカのチュニジアの艦艇とイタリアの漁船のあいだに起こったトラブルの知らせが入る。銃撃でイタリア漁船の乗組員が死亡するが、彼は出稼ぎのチュニジア人であった。この事件とは別に、ヴィガ―タ分署管轄下のアパートのエレベターの中で刺殺された死体が発見される。被害者のもとに出入りしていたチュニジア人売春婦が関係しているらしい。彼女の身元を調べるうちに、その息子であるフランソワが「おやつ泥棒」を働いたことから、事件の真相が見え隠れしはじめる。

 北アフリカに近いという地理的条件もあって多文化的に変化しているシチリアの社会の姿が詳しく描かれているという意味でも、読めば読むほど新しい事態が展開し、思いがけない方向に物語が進んでいくという意味でも、食べることに強い関心を示すモンタルバーノの人物像が社会に溶け込みながらも個性的だという意味でも、読みごたえがある作品である。特に家庭料理でも外食でも、食事の場面の料理の描写が魅力的である。「カニのパスタには最高のバレリーナの優雅さが楽しめたが、サフランのソースを詰めたスズキには息が止まるほどに驚かされた」(292ページ)。主人公以外の人物もそれらしく的確に描き分けられている。

 アンドレ・ヴァノンシニ『ミステリ文学』(文庫クセジュ)はモンタルバーノ警部を「優雅で冷めた目をもつ人物」(同書、122ページ)と書き、その名前がカタルニャの作家マヌエル・バスケス・モンタルバン(Manuel Vazquez Montalbn,1939-2003)にちなんでいるだけでなく、カミッレーリにはモンタルバンからの影響が見られると論じている。モンタルバンの作品に登場する私立探偵カルバイヨがバルセロナに根をおろしているように、モンタルバーノもシチリアに根をおろしているのである(片方が私立探偵で、もう片方が警部というところに市民社会と犯罪の性格の違いを探究すべきであるのかもしれない)。

 モンタルバーノ警部ものは1990年代から日本に紹介されていたが、BSでそのTV化が放映されはじめたことで人気が出始めたようである。TV番組の方は見ていないが、そのうち見る機会も生まれるだろうと思う。最近上映された映画『海と大陸』を見ているとシチリアの海岸と移民をめぐる状況はこの小説の描いたものからさらに変化しているようである。シリーズの他の作品も読み進めていきたい。モンタルバーノをイタリア語で、カルバイヨをカタルニャ語で読めるようになればいいと思うが、イタリア語とは言ってもシチリア方言が交じっていては読みにくそうだし、カタルニャ語を勉強する機会はかなり限られているから、どうも夢に終わるだろうね。

桜隊

8月6日(火)晴れ後曇り後雨

 あるとき、友人の家でその一家の方々と話していて、戦前は演劇に関心があって築地小劇場によく通ったという友人の父上から「丸山定夫はどうしているのですか」と質問を受けてびっくりしたことがある。

 築地小劇場の有力な一員であった丸山は劇団解散後、新築地劇団を経て苦楽座を結成、戦争中は移動演劇隊である「桜隊」を率いて軍の慰問などの活動を行っていたが、8月6日に広島の爆心地近くで被爆、原爆症のため死亡した。これは演劇に関心のある人ならばだれでも知っていることだと思っていたのだが、戦前に熱心に演劇を見ていた方でも、戦後離れてしまったためにその間の事情から遠ざかってしまったのであろう。それだけ自分の仕事に打ち込まれた――だから大きな業績を残されたということであろうが、若い頃熱心に見ていた俳優の運命に気付かなかったというのは心残りにならなかっただろうか。

 私はそれほど演劇には関心がないのだが、桜隊には『無法松の一生』(1943年、東宝、稲垣浩監督)で吉岡夫人を演じていた園井恵子が加わっていた。被爆当時は特に目立った外傷もなかった彼女であるが1カ月もたたないうちに原爆症でなくなったのである。

 桜隊に加わっていた1人である多々良純は応召されて広島にいなかったために難を逃れた。稲垣監督が1958年に大映で再度監督した『無法松の一生』に多々良も出演している。1958年の作品はヴェネツィア映画祭で金獅子賞を受賞したが、日本における評価としてはこの作品で高峰秀子が演じた吉岡夫人よりも園井恵子の方がよかったという人が多かったようである。

 実は『無法松の一生』はどちらも見ていないし、新藤兼人が1988年に監督した『さくら隊散る』も見ていないので、この間の事情についてあれこれと書くのも心苦しいのだが、8月6日というとやはり桜隊の悲劇を思い出してしまうので書いておく次第である。1943年版の『無法松の一生』で松五郎を演じた坂東妻三郎どころか、この作品に子役として出演していた長門裕之(当時は沢村アキラと名乗っていた)も故人となってしまった。そういう時間の経過はあるが、それでも機会を見つけて、『無法松の一生』も『さくら隊散る』も見るようにしたいと思う。

ウィルキー・コリンズ『月長石』(6)

8月5日(月)晴れたり曇ったり

 1848年6月21日にレイチェルの18歳の誕生日を祝うパーティーが開かれる。ディナーの席に着いたのはヴェリンダー家の家族を含めて24人、主役のレイチェルは月長石をドレスの胸にブローチとして飾って席に臨んでいた。フランクリンがその器用さを発揮して針金を使ってブローチに仕立て上げたのである。一同が感嘆する中、レイチェルの両隣に座っていた2人だけがその場にそぐわない発言をする。その2人はこの家の主治医のキャンディーと有名なインド探検家であるマースウェイトであった。

 キャンディーは周囲の気分をあまり斟酌しない人柄であるが、かえってその判断が当たることが少なくないとベタレッジは記す。キャンディーはダイヤモンドがなくなった方がよいという。マースウェイトの発言はもっと深刻で、ダイヤモンドはインドでは信仰の対象となっているので、その宝石を身につけてインドに出かけるのは危険だという。

 ベタレッジはこの晩餐会がなぜか盛り上がらなかったと記す。まずキャンディーはいつもにもましてその場の人々の気持ちを読み取らない発言ばかり繰り返す。周囲の人が話題を変えろ、変えろと合図を送っているのにある話題に固執する。ゴドフリーは演説の名人として知られているのにこの席ではいやにおとなしく「お隣の席の親戚筋にあたるご婦人とひそひそ話していらっしゃるばかりであった」(中村訳、113ページ)。ベタレッジの手記では名前を挙げられていないが、この女性はヴェリンダー夫人の今は亡き夫の姪にあたるミス・クラックで、ベタレッジの次にこの事件について証言をすることになる。「ゴドフリーさまが関係しておいでになる委員会の会員のお一人で――信仰心に篤く、鎖骨がひどく目立ち、シャンパンがお好きのようで」(同上)と遠慮がちだが、否定的な書かれ方をしている。あとで彼女の手記を読むと、彼女もベタレッジを毛嫌いしていることがわかる。とにかく、二人は信仰とか愛とかについてかなり抽象的な問題を二人だけで話していた。

 その一方でフランクリンも相手を考えない発言ばかり繰り返している。特に専門家に対してその専門的な知見を真っ向から否定するような発言をするので相手を怒らせてしまう。医療をめぐって医師のキャンディーと激論をたたかわせ、とうとうヴェリンダー夫人が止めに入り、論争の継続を禁止することになった。フランクリンが頓珍漢なところはあっても善良なキャンディーを怒らせたのは思慮にかけた行為であった。

 そこへ以前にも屋敷の近くをうろうろしていたインド人たちがあらわれて手品を披露しようとする。ところがマースウェイトが彼らに向かってインドの言葉で何か話しかけると彼らは手品を中断して姿を消す。フランクリンとベタレッジに向かってマースウェイトは彼らは手品師ではなくて、高い地位にあるバラモンであり、彼らがそのように低い身分に身をやつしているのには相当な理由があるはずだという。そしてフランクリンから月長石の来歴を聞いて、彼らは自分たちの宝物を取り戻しにやってきているのであるから、注意が必要だと警告する。

 応接間に退いた人々は相変わらずちぐはぐな、落ち着かない状態を続けており、ヴェリンダー夫人はホイストでめったにしない間違いをするし、探検家は居眠りをしており、フランクリンはゴドフリーに対して彼が主導的な地位にある婦人慈善協会の事業について議論をもちかけて激怒させていた。レイチェルはそのようなフランクリンを好意的なまなざしで盗み見ていた。客たちはやがて雨の中を帰宅していく。

 この物語の主要な時間が1848年というヨーロッパと英国社会の大きな変動期に設定されているにもかかわらず、そういう動きが全く登場人物の生活と意見に反映されていないのも注目されるところである。レイチェルがゴドフリーよりもフランクリンに好意を寄せている理由は分からないが、とにかく彼女の気持ちは明らかである。あるいはゴドフリーたちの活動にある種の偽善を感じているのかもしれない。ゴドフリーはレイチェルに求婚を拒否されたことだけでなく、他にも元気がない理由がありそうである。フランクリンがやたらに周囲の人間に食ってかかるのは、一方でレイチェルの愛情を感じていることと、他方で自分を認めてもらいたがっていることのためであろう。ただ、ここまで浮足立たなくてもよいと思われるような行為が見受けられるのが、彼の性格の軽さを物語っている。

 月長石をインド人たちから守るために邸内には厳重な警戒態勢が敷かれるが、はたして宝石は無事にレイチェルのもとに留まるだろうか。 

孫悟空(1959年、東宝)

8月4日(日)晴れたり曇ったり

 暑いのに、というよりも暑さで頭がおかしくなったためであろうか、蔵書の整理に取り組み、ひどく疲れる(あたり前だ)。なかなか頭が働かないが、とにかく、一昨日見た『孫悟空』について書くことにする。

 1940年に『エノケンの孫悟空』を監督した山本嘉次郎が、戦後ふたたび手がけた『西遊記』の映画化。今回は三木のり平が孫悟空を演じている。前作同様に原作に大きく手を加えており、物語の展開は異なるとはいうもののミュージカル仕立ての冒険ファンタジー活劇になっているところは共通している。

 徳川夢声扮する紙芝居屋のおやじが語る孫悟空の活躍。2000年ほど昔の中国(これは実際の歴史に照らすと計算が合わない)、時の皇帝は人々が苦しんでいるのを救おうと、インドから三蔵のお経を取り寄せようとする。その使命をだれに託すべきか、中国の山奥に住む玄奘という少年が母親に孝行を尽くしていると、仙人に知らされた皇帝はこの少年を選ぶ。大勢の従者とともに出かけた玄奘=三蔵法師であるが、途中山賊に襲われてひとりぼっちになり、観音菩薩の使いだというポンに教えられて山の中の洞窟に閉じ込められている孫悟空を助けだす。暴力を禁じる三蔵と暴れ者の孫悟空は反目することもあるが、次第に強いきずなで結ばれるようになる。二人はある村で美しい娘翆蘭に婿入りしようとした豚の化け物である猪八戒を退治して三蔵の弟子に加え、さらに流沙河で沙悟浄が弟子入りする。三蔵の母の死という悲しい知らせを受けた一行ではあるが、ひたすらインドを目指して前進を続ける。

 中国の人々を苦しめてきた悪魔大王は一行がやってくるのを知り、部下の金角、銀角、銅角(原作には登場していない)と言った子分たちを使って三蔵をとらえ、食べてしまおうとする。あわやという場面に料理の先生が出てきたりするのがおかしい。なお、『エノケンの孫悟空』にも金角・銀角が登場しているが、原作とは全く違った登場の仕方であり、この作品では原作とも、エノケン版ともまた違った設定になっている。エノケン版で銀角を演じていた中村是好が、この作品で沙悟浄になっているのも面白いし、この作品では銀角を中田康子が演じているのも一つの趣向である。もう一歩で悪魔の国を出るという国境の町で妖魔の化けた女たちを孫悟空が手荒に扱ったことから三蔵との間に反目が生じ、その結果孫悟空が花果山に戻ってしまい、一行は悪魔大王の手中に落ちてしまう・・・。

 『エノケンの孫悟空』では悟空・八戒・悟浄がロケットに乗ったり、金角・銀角が電気仕掛けの兵器を使ったりする場面があったと記憶する(かなり不確かな記憶である)が、そういう新奇さを狙った趣向が今見てみると古臭く感じられ、そのくせ古いなりに面白いという逆説的な効果が感じられた。この作品でもミュージカル仕立ての当時としては斬新であったらしい演出が、今日の目から見ると懐古的な興味の対象になるという時代の流れを感じてしまう。それはそれでよいと思うのである。

 そういえば、最近ではウィルコムのコマーシャルの佐々木希のように三蔵を女性が演じることが多くなってきているが、この作品では少年であるのは、もともと子ども向けの映画として企画されたからであろうか。それならば、観音の弟子のポンの役で登場する団令子の使い方などもう少し工夫があってもよかったと思う。動きが軽快で猿面のエノケンの方が孫悟空向きであるのは誰もが認めるところで、時代的な制約にもかかわらず結構自由闊達に作られている(意外に欧風だったりする)『エノケンの孫悟空』に比べて、三木のり平は動きが悪い分、損をしているが、これはこれなりに面白い映画である。
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