2013年の2013を目指して(7)

7月31日(水)曇り

 7月の31日間、日記をずっとつけていた。ブログは32件を投稿。未分類が2(17)、読書が8(57)、外国語が6(17)、日記が2(16)、映画が10(47)、詩が1(34)、推理小説が3(25)という内訳である。7月に入ってブログへのアクセスと拍手が増加してきた。この1カ月間に41の拍手を頂いたのを励みとして今後とも頑張っていきたい。

 買った本が12冊、1月からの通算は75冊、読んだ本は10冊で1月からの通算は68冊である。その中身は:
三土修三『靖国問題の深層』、森知子『カミーノ! 女ひとりスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅』、張競『中華料理の文化史』、椎名誠『風景は記憶の順にできていく』、山口和幸『ツール・ド・フランス』、伊豫谷登士翁 齋藤純一 吉原直樹『コミュニティを再考する』、今野真二『漢字から見た日本語の歴史』、瀬川拓郎『アイヌの沈黙交易―奇習をめぐる北東アジアと日本―』、阿部泰尚『いじめと探偵』、柳田国男『海南小記』である。

 受け取った郵便は15通、学会関係7通、元同僚2通、親族4通、小学校の同期生1通、ハガキ通信1通という内訳である。

 見た映画は12本。『ペタル ダンス』、『異国に生きる 日本の中のビルマ人』、『スタンリーのお弁当箱』、『台湾アイデンティティー』、『俺俺』、『花嫁凱旋』、『マルクスのデパート騒動』、『海と大陸』、『ある海辺の詩人~小さなヴェニスで~』、『アタラント号』、『若き日のリンカーン』、『第七の封印』、ポレポレ東中野とヒューマントラストシネマ渋谷の2つの映画館に初めて出かけた。ユーロスペースに入ったのは今年初めてである。

 フランス語の時間を22回(143回)、イタリア語の時間を21回(140回)聴いている。イタリア語の時間の応用編では『続 文法塾~伊語事始~』の再放送が始まった。新たに7月から始まったカルチャーラジオ「歴史再発見」の『漢字と日本語の文化史』を聴いている。これまで1度聴き逃して、聴いたのは4回で、前回と合わせての通算は16回である。

 サッカーの試合を観戦することはなく、トトも当たらず。

 ノート3冊、万年筆のカートリッジ3本、ボールペン2本(黒、ブルーブラック)、修正液1本を使い切った。暑さで少し勉強量が落ちている。会議等で外に出かけるのが多かったことも影響している。

 紹興酒を2合ずつ5回、つまり1升、老酒をコップ20杯分、日本酒コップ4杯、ウーロン・ハイ4杯、ワインをグラス2杯と相当量、スタウトを中ジョッキ5杯、ジン(シュタインヘーガー)を4杯飲んでいる。

 酒を飲まなかったのは12日で、これまでに比べると飲まない日が減っているので、気をつけていこうと思う。1月からの通算は114日である。

 サンマー麺3杯、餃子6皿、焼きそば2皿を食べている。新たに渋谷の白鳳という中華料理店を開拓した。

 7月は外に出る用事が多かったのだが、その一方で暑さが厳しく、そのつもりでいると涼しくなったりして乗り切るのが大変であった。何とか頑張りながら、数字を稼いでいこうと思う。

 
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第七の封印

7月30日(火)曇り、夜になって一時雨

 渋谷のユーロスペース2で『第七の封印』を見る。イングマル・ベルイマン(1918-2007)が1957年に監督した作品である。

 中世の北欧が舞台。十字軍の遠征から故郷の海岸にたどりついた騎士を迎えたのは死神である。騎士は彼に対しチェスの試合を申し込む。もし勝ったら命を延ばしてくれというのだが、勝負がつくまでのあいだ時間を稼ごうという魂胆もある。

 騎士とその従者を迎えたのは黒死病の蔓延で荒廃した町や村である。死体が転がり、多くの家が空き家になっている。彼らを戦地へと向かわせた聖職者はコソ泥になり下がっている。騎士たちと相前後して旅芸人の一行がこの一帯を旅している。その1人は聖母子の幻を見たという。旅芸人たちの芸は観客たちには受け入れられず、疫病を神の怒りだとする狂信者たちの歌声にかき消されてしまう。一座の座長は鍛冶屋の妻と駆け落ちする。

 騎士と従者は家族を失った貧しい娘を料理人として一行に加え、旅芸人たちと道連れになり、妻に逃げられた鍛冶屋がついてくる。森の中で彼らは座長と鍛冶屋の妻に出逢う。疫病の元凶として魔女を焚察する場面に出逢い、黒死病で瀕死の男を目撃する。騎士の前にまた死神が登場する。

 騎士は神の存在について、その意思について問いをくり返す。地獄のような光景を目にし続けて、神が人間のために何を計画しているのか、懐疑的になっている。しかし他の登場人物は彼とは違って現実を受け入れているようにも思われる。旅芸人は死神の姿を見るが、その妻は何も見えないという。

 他の時代と同様に中世のヨーロッパは生と死の時代、大量の生と大量の死の時代を経験していた。この時代を暗黒時代と考える人々がいる一方で、ヨーロッパの原型をつくった重要な時代であると考える人々もいる。そもそも中世はヨーロッパ特有の時代区分であると説く学者が少なくない。この映画の世界は圧倒的な死の力を描いているが、その中で時に暴力的な姿をとる生命への衝動も描かれていると見るべきである。そしてその混乱した姿の中に新しい時代を創造するエネルギーも見え隠れしている。

 死神の姿に代表される中世のイメージの再現にベルイマンの造形力が発揮されている。言葉よりも図像の示すものを読み解くことがこの映画を理解するために重要であろう。

 旅芸人の妻を演じているまだ20代前半であったビビ・アンデショーン(アンデルソン)の若さが印象に残る。私が彼女の出演作をよく見ていたのは、彼女が30代になってからのことなので、あらためてその若い時代の美しさを発見したのはこの映画を見てのもう一つの収穫であった。

瀬川拓郎『アイヌの沈黙交易―奇習をめぐる北東アジアと日本―

7月29日(月)雨が降ったりやんだり

 瀬川拓郎『アイヌの沈黙交易―奇習をめぐる北東アジアと日本―』(新典社新書)を読み終える。僅か127ページという書物であるが、7月6日に買って、途中ほったらかしにしていたとはいうものの、読み終えるのに20日以上もかかった。

 「アイヌ史の謎のひとつに、近世の千島アイヌが行っていた奇妙な習俗、沈黙交易があります」(5ページ)とこの書物は書き起こされている。千島アイヌは北海道本島のアイヌと直接接触することなく物々交換を行っていた。その間、両者が言葉を交わすことはなかったという。

 もともと千島アイヌと北海道本島のアイヌとは言語・文化の点で大きく異なることのない人々であった。それなのに沈黙交易が行われたのはなぜか、それはアイヌ社会の古い風習の名残なのか、それとも千島アイヌが本島のアイヌから別れたことにより生じた新しい習俗であったのか、もし後者であったとすればその成立の理由は何であったのか、これらの問題は以前から気付かれてきたが、本格的に取り組む研究はなかったと瀬川さんは述べている。

 沈黙交易については古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの記述以来多くの事例が報告され、ポランニーや栗本慎一郎のように人類の交易進化の過程における一段階として評価する学者もいる。しかし沈黙交易についての資料は聞き書きばかりで、実証的に裏付ける資料はきわめて乏しいとして懐疑的な研究者も少なくない。千島アイヌの沈黙交易についてもその習俗を記す資料はきわめて少ないという。

 瀬川さんはまず、沈黙交易が千島アイヌに限られず、古くはアイヌが北方の異民族と行っていた習俗であったことが日本だけでなく中国の資料によっても確認できるという。その中で一般的に異文化間の交易方法と理解されている沈黙交易を同族間で行っていた千島アイヌの事例はどのように説明されうるのか。瀬川さんはこれを千島アイヌの抱いていた天然痘の伝染への恐怖(疱瘡神への恐怖という宗教的な外皮を被る)のためと考えている。

 その一方でアイヌの精神文化に及ぼした日本の影響の強さについても注目している。「アイヌのケガレ祓いの呪術や疱瘡神の信仰にも日本の影響が色濃くうかがえるのです。/アイヌ社会においては7~9世紀に日本の古神道の影響が、10世紀以降は陰陽道や修験道、また中世以降は民間信仰の影響が強くおよび、アイヌの祭儀や呪術の体系をかたちづくっていったのではないか」(11ページ)と論じる。

 だとすれば、アイヌ文化は周縁化した日本文化にすぎないのであろうか。瀬川さんはそうは考えていない。日本からの影響と思われる部分を取り除いていった先にアイヌの固有思想が見えてくるはずだという。

 沈黙交易という経済人類学に属する問題を精神文化に着目しながら論じていくという手法に多少の無理があり、沈黙交易よりもアイヌの宗教儀礼の方にともすると関心が偏っているように思われるが、瀬川さんは文献資料と考古学的な発見をもとに、本州、北海道、千島、サハリン、大陸の経済・文化の交流の歴史を再現し、問題の本質に迫ろうとしている。エミシを東北北部に移住してきた古墳人の末裔と考えたり、オホーツク人とアイヌの対立を強調する一方で千島アイヌにはオホーツク人の影響が見られるとしたりする知見は注目すべきものである。「アイヌの宗教や儀礼の形成については、多面的に検討されていく必要がありそうです」(110ページ)と瀬川さんは書いているが、この方向に沿った今後の努力とその成果が期待される。

『林芙美子詩集』

7月28日(日)曇り、時々日差しが差し込む

 思潮社から出ている「現代詩文庫第二期 近代詩人篇」の『林芙美子集』(1984)を読み返す。詩を書くためには、他人の書いた詩を時々読むことも必要である。林芙美子は小説家として知られているが、すぐれた詩人でもあった。この詩集は約30年以前に入手したが、何度か読み返して今日に至っている。芙美子に対し辻潤は「あなたは詩をからだ全体で書いています」(143ページ)と書き送ったというが、あけっぴろげに自分をぶつけて詩を書くという彼女の姿勢が好きである。

 この書物の解説の中で遠丸立は「わずか20行の詩が、100枚の小説に匹敵することだってある。いや、100枚の平板な小説より、惻々と胸に迫る20行の詩の方が、文学の衝撃という点で上回ることだってある」(148ページ)と書いている。それはそうかもしれない。しかしたぶん、彼女の中では詩も小説もそれほど自覚的に区別されていたのではないかと思う。彼女は体当たりの遍歴の中でのいろいろな見聞と感想を大学ノートに書き記し、それが詩になったり、小説になったりしたということのようである。小説の中に詩があり、詩の中に小説がある。

 だから詩と小説のどちらが好きだということもない。両方とも好きである。彼女の『放浪記』は何度も読み返した本で、この本に出てくる直江津の旅館「いかや」が気になって、直江津に用事があった時にホテルセンチュリーイカヤにちゅうちょなく泊まったことを思い出す。

 その生涯の経験はどのようなものであったのか、その一例として炭坑町での経験を彼女は次のように記す:
 重たい荷を背負って
 頬かぶりをした坑夫たちが
 『おい! カチューシャ早く帰らねえとあぶねえぞ!』
 私は十二の少女
 カチューシャと言われた事は
 お姫様と言われた事より嬉しかった
 『あんやんしっかりやっておくれっ!』(32ページ)

 「カチューシャ可愛いや」の歌しか知らない坑夫たちの言葉に触れた少女時代の想い出を、トルストイの『復活』を読み、作品の社会的背景まで洞察して反芻しているところに、芙美子の凄味がある。庶民的な側面と社会批判的な側面とが経験を通じて縫い合わされている。坑夫たちの声援に声援を返す心の温かさも感動的である。小説家・詩人としての活動がこの経験と思索、心と心の縫い目をほころばせるかもしれない危険を察知しながら、彼女は「私は何でも触ったものをつかむ。/トロッコで凱旋している旅愁」(104ページ)と、風物のスケッチを続け、「一隅の人に幸福をねがうは/徒爾とのみ放ってはおけぬ」(106ページ)と心象の点検を怠らない。そのあたりが凄いのである。

 人間は放り出される瞬前でも生きる
 ぶつくさ云いながら這いずりまわる(101ページ)

 テレビや名画座で『浮雲』を見て接する芙美子もあれば、(少し年を取り過ぎた感じがないでもなかったが)森光子の舞台を通して知る芙美子の姿もあった。だが、詩集を通じて知ることもできる芙美子の姿も我々は見失うべきではないのである。 

語学放浪記(8)

7月27日(土)夜半に雨、朝のところでは晴れたり曇ったり

 少し話を戻して、一海知義先生について書いてみたい。先生が陶淵明の研究家であるという予備知識はあったことは既に書いた。岩波の『中国詩人選集』で先生が担当された『陶淵明』も『陸遊』も学部時代に読んだ。岩波新書の『陶淵明―虚構の詩人―』を今、読みなおしている。陶淵明を「酒の詩人」、「超俗の詩人」、「田園詩人」、「隠遁詩人」と評する通説に対して、「虚構の詩人」という新しい見方を提案し、彼の代表的な作品「桃花源記」、「五柳先生伝」、一連の「形影神」詩、「山海経を読む」、「閑情の賦」、挽歌詩、自祭文の分析から自説を裏付けている。読み応えのある本であると改めて思う。

 ところで、私が書きたいのは、一海先生が素晴らしい研究者である、あるいは偉い先生であるということではなくて、そう思って授業に出てみると実物との落差に戸惑うことがあったということである。高校時代に漢文が好きだったり、興味があるという学生にとっては一海先生は注目すべき少壮学者であったが、たいていの学生にとってはただの中国語の先生であった。私が欠席した授業であったか、あるいは先生がもたれていた2コマの中国語の授業の私が履修していない方のもう1コマでのことであったのか、定かではないが、先生が授業中に中国語で「インタナショナル」を歌われたことが話題になり、一部の学生が怒っていたことがある。このことと関連して尾崎先生が「一海くんは中国というよりも、中華人民共和国が好きな人なんですよ」と言われていたのを思い出す(くだらないことはよく覚えている)。『陶淵明』のあとがきで先生は「私が大学に入学した年、中華人民共和国が成立し、日本の多くの若者の関心は、中国革命に集中した。私も例外ではなかった」(213ページ)と書かれている。先生の中国文学への関心は人民中国への関心と結びついていたのである。それを情熱と見るか、偏りとみるか、学生の受け取り方は分かれるところであったと思うが、私は情熱だと思った1人である。

 そういえば尾崎先生の中国語初級の最初の時間で先生が王翰の「涼州詞」をPu tao mei jiu ye guang bei・・・と現代中国語の四声の響きを伝えるために朗唱されたことを思い出す。先生が実際に朗唱されたことで印象が強くなった。

 大学で2年間少しは真面目に中国語を勉強したことで、大学教育とか大学の先生の内実について少し詳しい知識を得たのは幸運であった。2年間の学習では中国語を知るには十分とはいえない。しかし結構貴重な別のことを学んだような気がする。学生が見ている教師の姿は豹のたくさんある斑のせいぜい数個にすぎないのである。学生が知ることのない多くの隠れた側面を教師はもっている。学生は自分の勉強の、あるいは生活の水準に即して教師を知るのだが、自分の認識がごくごく制約されたものであることになかなか気付かない。「坊っちゃん」が団子を食べたり、うどんを食べたりする姿を見つけて、中学生たちは先生のすべてを知ったような気になって得意がっているが、彼らの知らない教師の側面はあまりにも多い。それを少しずつでも見つけ出していくことで学校生活はもっと有意義なものになるはずである。教師の方は学生のなれの果てであるから、そのことは分かっているが、学生に対して面と向かってそういうのはなんとなく気恥ずかしい。その辺の呼吸は、結局のところ学生が自分で勉強しなければ分からない・・・ということである。

 世間的に名の知れた大学に入ると、有名な先生の授業を聴講する機会は多くなる。その実像や世評との落差を知るのは貴重な経験である。そしてさほど有名ではないけれども、深い学識を蔵した先生に出会うのも学生生活の楽しみである。それだけでなく、学生とともに先生の方もさらにその学問を深めているのである。一海先生は多くの著作を発表されてきたが、まさかその著作集が編纂されるに至るとは思わなかった。著作集にまとめられるだけの研究の蓄積とその社会的な評価の高さには敬服すべきである。先生に比べて私の勉強が足りないこと、またその結果として著作集を買いそろえる資力がないことが悔やまれる。

映画と映画館あれこれ

7月26日(金)曇り

 NHKラジオ第2放送「まいにちフランス語 応用編 映画の話をしよう!」は2012年10月~12月に放送されたものの再放送であるが、今日(26日)はフランソワ・トリュフォーが1973年に撮影した『アメリカの夜』(La Nuit americaine)の中から4つのセリフを取り上げていた。その中で、問題ばかり起こしている若い俳優のアルフォンス(ジャン=ピエール・レオが演じている)の次のセリフが気になった。(フランス語のアクサンは省いている。)

 On a la chance dans une ville ou il y a trente-sept-cinemas. Alors on choisit un film dans le a la chance dans une ville ou il y a trente-sept-cinemas. Alors on choisit un film dans le programme, on cherche l'adresse, on va devant le cinema, on verifie l'heure de passage du film, et si on on cherche l'adresse, on va devant le cinema, on verifie l'heure de passage du film, et si on a le cherche l'adresse, on va devant le cinema, on verifie l'heure de passage du film, et si on a le temps, on va bouffer un sandwich au premier bistrot du coin...
(映画館が37軒もある町にいるなんて、ラッキーだ。プログラムの中から映画を1本選んで、映画館の住所を探して、映画館の前に行く。上映時間を調べる。もし時間があったら、一番近くのビストロでサンドウィッチをかじればいい。)

 いかにも映画好きらしいセリフだが、そうでない人には付き合いにくいかもしれない。 講師の梅本さんの解説では、この町というのは有名な観光地のニースであり、おいしいレストランもたくさんあるというのである。それにしても40年昔の話とは言っても、ニースという小さな都市に映画館が37軒もあったというのはすごいなあと思う。みなとみらいのシネコンのスクリーンを全部足せば37を超えるはずであるが、スクリーンの1つ1つを映画館だと思うわけにはいかない。

 梅本さんはアムステルダムの唯一の想い出はこの町でポランスキーの『チャイナタウン』を見たことだと語っていたから、相当なものである。それに比べて私は海外で映画を見たことはない。いちばんよく出かけたのはロンドンであるが、大英博物館の近くにあるブックマークという書店に『戦艦ポチョムキン』を上映するという案内のハガキがあったので、もらってよいかと尋ねたら、ぜひ見に来いと言われた(ユーストンの駅の近くのフレンド派=クエーカーの建物で上映するということであった)が、他に用事があって出かけられなかったこと、同じくルノアール(ジャン・ルノアールを記念した名前であろう)という映画館で『ライフ・イズ・ミラクル』を上映していたので、見に出かけたが上映時間にはまだ早かったので、ホテルに帰って横になったら寝過して結局見なかったという2つの想い出が残っている。『ライフ・イズ・ミラクル』はその後東京で見たと記憶するが、どの映画館で見たのか記憶があいまいになっている。あるいはもう閉館してしまった館であるのかもしれない。長いだけでなく(私は長い映画が苦手である)、日本語字幕で見ても分かりにくい部分がある映画であった。ロンドンで見ていたら、どういう印象をもっただろうか。

 それで、映画と映画館について書いた詩をつけ加えておく。

 映画を見る

映画館は
歩いて行ける
距離にあるのがいい
帰ってから
夢の中で
もう一度映画を見る
時間をもちたいから

誰彼となく感想を話しかけたくなる
映画もあるし
相手を選んで話したい
映画もある、そして
感動を自分一人で
しまっておきたい映画もある

映画館に入る前に
一杯飲むこともある(深酒はいけません)し
出てから飲みたくなる(飲みすぎはいけません)
こともある

いろいろな映画があって
いろいろにふるまう
いろいろあるから
映画が好きだ

アタラント号

7月25日(木)曇り

 シネマヴェーラ渋谷でジャン・ヴィゴ監督の『アタラント号』(1934)とジョン・クロムウェル監督の『若き日のリンカーン』(1940)を見る。この映画館が続けている「映画史上の名作9」シリーズの中での上映である。なお、映画館の発行している通信ではジョン・フォードが1939年に監督したYoung Mr.Loncoln(ヘンリー・フォンダ主演)を上映するということだったが、映画館の窓口で1940年のAbe Lincoln in Illinoisが上映されるといわれた。リンカーンを演じているのはレイモンド・マッセーで、日本語の吹き替え版である。『エデンの東』で父親を演じた俳優の代表作ということで、これはこれで見どころのある映画であった。特にスプリングフィールドを去ろうとしている特別列車の上からリンカーンが人々に演説する場面は忘れがたい印象を残す。

 『アタラント号』(L'Atalante)は若くして世を去ったフランスの映画監督ジャン・ヴィゴ(Jean Vigo, 1905-34)の最後の作品であり、1990年に原型に近い形で復元された版の上映である。私はこの版が製作される以前に2度ほど、1970年の大阪万博の際のフランス館の上映と、それ以後どこかの上映会で見ている。ストーリーよりも画面の美しさの方の印象が強い。その評価は今回の上映を見ても変わらなかった。

 アタラント号はル・ア―ヴルとその上流の田舎町を往復している川船である。若井船長のジャンは、田舎町の娘ジュリエットと結婚し、船の上での生活を始める。新妻のジュリエットには慣れないことも多い。彼女はパリに近づいたときに、都会へのあこがれから船を抜け出してしまう。怒った夫は彼女を置き去りにして船を出してしまうが、すっかり気落ちして急に川に飛び込み、水の中に彼女の幻影を見たりしている。一方ジュリエットはひったくりにあって帰るに帰れなくなってしまう。船長を心配した副長の老水夫ジュールおやじがジュリエットを探し出して、二人は元の鞘に戻る。

 トーキー初期の作品でセリフは少なく、ストーリーは単純かつ通俗的なものであるが、映画の画面の美しさが特徴的である。特に川霧が漂う場面の詩情については多くの人々が指摘してきた。その一方で川船が航行する水路や船の中での生活の詳しい描写など今でも新鮮に思われるショットが少なくない。老水夫を演じているミシェル・シモンの演技と彼が可愛がっているたくさんの猫たちの全く勝手な動きが印象を残す。

 ヴィゴはその短い生涯の中で4本の映画しか作らず、長編劇映画として残されたのはこの作品だけである。この映画には、映像表現のいろいろな可能性が感じられるのだが、物語が小さくまとまっている分、可能性が可能性だけで終わっているようにも思われる。彼を記念するジャン・ヴィゴ賞が実験的な映画をつくった新人作家に与えられる傾向があるのは頷けるところである。

ウィルキー・コリンズ『月長石』(5)

7月24日(水)雨が降ったりやんだり

 フランクリンは1848年の5月24日に、予定よりも1日早くヨークシャーのヴェリンダー家に到着した。伯父であるハーンカスル大佐の遺言により<月長石>を従妹のレイチェルの誕生祝いに贈るためである。しかしレイチェルの誕生日は6月21日であって、また1カ月近い期間が残されている。5月29日にフランクリンはレイチェルとともに屋敷の中の扉の装飾作業に取り掛かる。ベタレッジはその作業が無意味だと思うが、2人は仲睦まじく作業に取り組んでおり、このまま2人が結婚するのではないかと推測する使用人もいる。

 レイチェルは誕生日がくると18歳を迎える美しい娘であり、自分の意見をはっきり持ち、自分のことは自分で決めるという性格である。そのため母親に大事な相談事をするということもない。19世紀の前半の英国の小説には強い自己主張をもった女性がしばしば登場し、コリンズの作品でも『白衣の女』のマリアン・ハルコムもその1人と考えられるが、レイチェルは彼女ほど強烈な個性をもっていないけれども、芯の強い女性であると理解しておいてよかろう。

 6月12日にレイチェルの母のヴェリンダー夫人は彼女の2番目の姉の次男であるゴドフリー・エーブルホワイトに招待状を送る。夫人はレイチェルがゴドフリーをひそかに恋していると考えているとベタレッジは記す。あるいはフランクリンよりもゴドフリーの方が娘にふさわしいという自分の考えを押し付けようとしているということかもしれない。

 ベタレッジの見るところでも、ゴドフリーの方がフランクリンに比べてレイチェルの好意を得るのに有利な立場にあった。ゴドフリーのほうが背が高く、風采も見栄えがする。職業は法廷弁護士(barrister)であり(中村訳では「高等法院の弁護士」となっている)、女性たちが運営するさまざまな慈善団体の援助者である。イングランドでは法廷弁護士と事務弁護士(solicitor)という2種類の弁護士がいて、法廷での弁論にあたるのは後者なのだが、実際には資格だけもっていて法廷には立たない人も少なくなかったようである。ゴドフリーの場合も、慈善活動家としての活動の方が目覚ましいものであったと推測される。

 6月20日にゴドフリーが彼の2人の妹とともに近くの町までやってきて、21日には訪問すると伝える。伝言とともに届けられた誕生日の贈り物もゴドフリーの方が心がこもって立派なものである。ゴドフリーの方が社会のしきたりには通じているが、フランクリンの方は何かにつけて率直にふるまっている。

 ところが6月21日を迎えてみると、フランクリンも、この日到着したゴドフリーもあまり元気がない。フランクリンは預けてあったダイヤモンドを人々に披露する。感嘆する人々の中でゴドフリーだけが冷静である。

 ベタレッジのところに娘のペネロープがやってきて、ゴドフリーがレイチェルに求婚し、拒否されたと報告する。ペネロープは父親と違って、フランクリンびいきで彼の方がレイチェルの伴侶にふさわしいと考えている。また、下働きの召使であるロザンナ・スピアマンがフランクリンに対して奇妙なそぶりをすると記されている(恋心を抱いているのだが、ベタレッジも他の人々もまさかそんなことはないと思っている)。

 そしてレイチェルの誕生日を祝うパーティーが開かれることになる。
 

くきやか

7月23日(火)晴れ、暑くなりそうである

 昨日の当ブログ(山口和幸さんの『ツール・ド・フランス』の紹介)で「改めて今年のレースについて、どうなっているのかを覗いてみようと思った」などとのんきなことを書いたが、その日の夕刊に既に「★新城総合99位で完走」(共同→毎日)という記事が掲載されていたのであった。総合優勝は英国のクリストファー・フルームで、昨年に続いて英国勢が勝利を収めた。

 7月21日(日)の「毎日歌壇」に滋賀県の塚本深雪さんという方の次のような短歌が選ばれていた:
訪ねゆく三月書房くきやかに店主の声す槐咲く季

 京都の寺町二条にある三月書房は学生時代、よく通った書店である。遠くの土地に就職してからも京都に出かけると、必ずと言ってよいほど立ち寄っていた。この短歌を見て、まだこの書店が続いていることを知って懐かしく、また心強い気持ちになった。

 塚本さんは短歌の本や雑誌を探してこの書店に出かけているのだろうが、詩や文学評論、思想書、その他さまざまなジャンルの小規模出版物がそろっていた。たぶん、今でもそうだろう。特にこの書店で新しい号を見つけては買っていたのは同人誌『凶区』である。もっとも実際に買ったのは3冊ほどであったと記憶する。詩を書くことから、映画批評に興味の軸足を移そうとしていた時期なので、その両方にかかわっているこの雑誌はちょうど気分にあっていた。その他に『眼光戦線』などという映画批評誌を見つけて喜んでいたことも記憶している。私の友人2人が出したミニコミなども扱ってくれて、店頭で見つけて喜んだ(しかし買わなかったのだから友達がいのない人間である)こともある。

 ところで塚本さんの歌にある「くきやか」という言葉であるが、辞書によると「物のきわだってはっきりしていること。きわやかなこと。くっきりしていること」だそうである。そう言われてみると、40年以上前にこの店で店主をしていた女性の声は「くきやか」であった。就職後、久しぶりに店を訪ねると、その声が聞こえるのだが、姿が見えない。どうも代替わりして、娘さんが店を継いでいるようで、姿は似ていないのだが、声はそっくりなのである。それからまた時間がたってしまったので、塚本さんが歌に詠んだ今の店主がそのときと同じかどうかわからない。代々、声と話し方が受け継がれているのだとすれば、それもまたこの店の財産であろう。

山口和幸『ツール・ド・フランス』

7月22日(月)曇り、夜になって雨

 山口和幸『ツール・ド・フランス』(講談社現代新書)を読み終える。

 1999年に英国に数カ月滞在していたが、その間、クリケットとラグビーのワールド・カップが英国(とラグビーについてはアイルランド)で、スペインのセビーリャでは世界陸上が開かれ、暇な時間は宿舎のTVでスポーツ番組ばかり見ていた。

 その中でツール・ド・フランスもTVで見ていたのだが、レースそのものよりも選手と沿道の観衆との興隆の方に興味をもった。ある選手が飛び出してきた観衆の1人とぶつかってしまったために、時間をロスしたのだが、翌日、その観衆が選手のところに謝りに行ったという場面が報じられていた。両者の距離の近さが印象に残った。箱根駅伝の観衆への規制の厳しさとは大違いだな、一度は本物を見に行きたいものだなと思ったが、実際に見に行ったことはない。日本に帰ってしまうと、ツール・ド・フランスは一部のマニアだけの興味の対象で、インターネットやBS放送で情報を得るのもなんとなく億劫になってしまう。それに私が熱心に見ていたレースがランス・アームストロングが「初優勝」したものであったこともなんとなくこのレースへの興味を失わせてしまった理由かもしれない。(1月28日の当ブログ映画『テッド』の批評でランス・アームストロングの名前を挙げている。)

 それでも、この書物が出版されたことはツール・ド・フランスが今年100回を迎えたことにもよるのであろうが、このレースの人気が少しずつ高まっていることの証拠であろう。そしてその人気の上昇には、この書物で触れられているように日本選手の参加が貢献しているように思われる。また、日本国内でも自転車のロード・レースがだんだんと人気を増していることも見逃すわけにはいかないだろう。ただ、私は自転車レースは見るだけで、自分で乗って楽しんでいるわけではないから、どうも及び腰になるところがある。

 山口さんは四半世紀にわたってツール・ド・フランスの取材を続けてきた経験をもとに、このレースがどのようなレースであるか、どんな選手が活躍してきたか、どんな歴史的な経緯をたどって発展してきたか、最近の動きと日本選手の参加、今後の展望について手際よくまとめ、このレースへの興味を誘っている。各章のあいだにはさまれているレースの要所についてのコラムも読みごたえがある。特に「モンバントゥー」が興味深い(ファーブルが彼の『昆虫記』でこの山に登った経験を書いている個所を思い出したのである)。改めて今年のレースについて、どうなっているのか覗いてみようと思った次第である(その程度の興味であることをご容赦願いたい)。

椎名誠『風景は記憶の順にできていく』

7月21日(日)晴れ

 『小説すばる』2012年1月号~2013年1月号に掲載された「風景進化論」を加筆・修正したもの、集英社新書ノンフィクションの1冊。椎名さんがその生涯の中で記憶に刻んできた風景を改めて探訪し、その変貌を記録したエッセイ集である。「風景が消えないうちに、風景の多くの断片が衰えないうちに、それを大急ぎで回収するような気持ちでランダムに歩いてみた」(11ページ)記録である。生まれ育った場所、働いていた場所、旅行先などいろいろな場所が取り上げられている。身の上が安定せずにうろうろしていた頃のことはよく思い出すというのは思い当たるふしがある。それに比べると旅行先の想い出は気まぐれである。出版社の予算の関係であろうが、探訪先は国内に限られている。それでも時々海外の記憶がよみがえってくることがある。

 大事にしたい現在があればある程、過去を思い出すことには慎重になる。過去の友人や知り合いのすべてと連絡が取れているわけではないし、思い出は誰にとっても懐かしいものであるとは限らない。それで、書き出しの古い友人の住まいであった浦安が、抒情的で散文詩のような書かれ方をしている一方、最後に出てくる新宿がいつもの椎名さん独特の語り口になっているのも頷けるところである。作家には作家の配慮がある。

 椎名さんとはそれほど年齢が違わないので時間的な記憶は重なる部分が多いのだが、行動半径が大きく違うために空間的には重ならないところが多い。また、浦安に話を戻すが、この町は山本周五郎の「青べか物語」の舞台になっており、川島雄三によるこの小説の映画化には、今ではもう失われてしまった漁師町の風物がとらえられているのだが、椎名さんはこの映画を見ていないようで、もっぱら小説と、浦安を訪問して青べかに乗っていた自分の経験だけを語っている。それはそれでうらやましいことである。(山本周五郎が取材のために船宿「吉野屋」を訪問した際の写真についてさりげなく語っているが、周五郎は写真嫌いで通っていたので、貴重な情報である。)

 取り上げられているのは関東、四国、そして沖縄で、その他の地方の風景やその変貌が描かれていないのは、経験がそれほど濃密ではないということであろうか、あるいはまたの機会の愉しみということであろうか。新橋のガード下の2館の映画館は新橋名画座と新橋ロマンというのだが、なぜか名前を出していない。この映画館については4月24日付の当ブログ「映画ノートについて」で言及しているので、読んでいただければ幸いである。

 失われた風景もあるし、世を去ってしまった友人もいる。このエッセイ集が椎名さんの軌跡のすべてをたどるものでもないことも確かである。それでも、これまで読んだ椎名さんの本とその語り口を思い出し、自分自身の体験を重ね合わせたりしながら読んでいくと、気づくことが少なくない。郷愁に浸る椎名さんも悪くはないが、この作家には常に挑戦し続けてほしいと思うのは私だけであろうか。
 

コナン・ドイル「クルンバーの謎」

7月20日(土)晴れ

 コナン・ドイルはシャーロック・ホームズの作者として知られているが、その他に『失われた世界』を初めとするSF小説、スポーツ小説、怪奇小説、歴史小説など多くのジャンルにわたって作品を残しており、そのかなりの部分が日本語に翻訳されている。

 彼が1888年に書いた「クルンバーの謎」(The Mystery of Clomber)は怪奇小説に属する作品であるが、この作品を収録したドイルの短編集『クルンバーの謎』(創元推理文庫、2007)の解説で北原尚彦さんが書かれているように、ウィルキー・コリンズの『月長石』の影響を強く受け、その一方で彼自身が1890年に発表する『四人の署名』の内容につながるものをもっていることで、ホームズの読者にとっても一読の価値のある作品ではないかと思う。

 くわえて、北原さんによると「本国で1888年に発表された『クルンバーの謎』の我が国への初紹介は、割合に早い。明治32年(1899年)から翌年にかけて『東京朝日新聞』に連載された『残月塔秘事』である。訳者は抱一庵主人(原抱一庵)。しかしこの翻訳(というか翻案)はとんでもない代物で、『クルンバーの謎』に当たるのは前半のみ。後半はなんと、『四人の署名』になってしまうのだ。モーダントにあたる毛禮(モーレー)がホームズ、フォザギル・ウェストがワトスンの役目を果たしてしまうのだから、驚きである」(331ページ)という。

 「クルンバーの謎」はスコットランドの大学の学生であるフォザギル・ウェストが遭遇した事件を関係者の証言をもとに再現するという形をとっており、このスタイルは『月長石』や『白衣の女』などコリンズの作品と共通するものである。その一方で物語の大部分がフォザギル・ウェストによって語られており、その点ではホームズにおけるワトスンの語りに近づいているようにも思われる。

 ウェストはサンスクリット学者である父親、妹と3人で細々と暮らしていたが、裕福な親戚の計らいでその留守中にアイリッシュ海に面したスコットランドの南西部ウィグタンシャーの地主の代理をすることになる。ある日、この土地にあるクルンバー館という広大だが長い間無人のまま放置されていた屋敷に新しい住人が住むことになる。新しい住人はヘザーストーン将軍というインドで勲功を立てた軍人で大金持ちらしいが、何かを恐れており、地元の人々とほとんどづき合おうとしない。しかしウェストは、将軍の息子のモーダント、その妹ゲブリエルと知り合うようになり、彼の妹のエスターを含めた4人で将軍の目を盗んでは逢うようになった。

 ある、嵐の日、この海岸の沖合で難破した船に3人のインド人の仏僧が乗っていたことから事態は大きく動き出すことになる。彼らは何かの意図をもって英国にやって来たらしいのである・・・。

 インドで起きた事件が、英国に凶事をもたらすという物語の大枠は『月長石』、この作品、『四つの署名』に共通する。北原さんは「事件の裏に謎のインド人が見え隠れするなど・・『月長石』と類似することがある。・・・『四人の署名』も、インドの宝石をめぐる物語であるところが『月長石』に通じており、ドイルがコリンズから影響を受けていることは間違いなかろう」(329ページ)と指摘されている。その中で「クルンバーの謎」の特徴となっているのは、ひどく神秘的で奇怪な物語の設定がされていることである。他の2作品もオリエンタリズムや奇怪な見せかけは共通しているが、事件そのものは合理的に解釈できるものであり、事件の解決も人間の経験の枠内で得られる経験知によってなされる。これに対して「クルンバーの謎」の事件は、最後まで神秘的な謎に終わる。他にも、謎に満ちた事件の進行の中でロマンスが進行するというようなところが3作品に共通していることを指摘しておこう。

 その一方でドイルの東洋についての知識にさまざまな瑕疵が見出されることも否定できず、むしろ間違った点を指摘することが読書の楽しみになるようなところがある。「達磨大師の教えを英訳し、釈迦牟尼生誕以前における婆羅門教を位置づける序説を附して発表する」(225ページ)という発言や、19世紀のインドから仏僧が英国にやってくるという設定など、ドイルの東洋についての知識の限界を示すものではないか。それに西側の人々がどのように考えようと、東洋は彼らの想定を超えた多様性をもつ世界であったのである。

ある海辺の詩人――小さなヴェニスで――

7月19日(金)晴れ

 横浜シネマ・ベティで『ある海辺の詩人――小さなヴェニスで――』を見る。7月16日に見た『海と大陸』と同様にイタリアにおける移住者の問題を漁師たちとのかかわりで取り上げているが、『海と大陸』が南部を舞台にしているのに対し、こちらは北部が舞台になっており、『海と大陸』がアフリカからの移住者を題材にしているのに対し、こちらは中国からの移住者が題材とされており、共通する面と対照的な面とがあっていろいろ考えさせられた。

 「小さなヴェニス」と呼ばれる北イタリアの港町キオッジャ。衣類を縫製する工場で働いていたシャンリーは移住者たちの仕事を取り仕切っているボスの命令でこの町の酒場で働くことになる。彼女は中国の福州の出身で古代の詩人屈原を祭ることを忘れない。店の客たちの中で詩人と呼ばれている漁師と次第に親しくなるが、周囲は2人の中をさまざまに取りざたする。イタリア人は財産目当ての中国人の陰謀だと噂し、中国人は摩擦が起きることを恐れる。

 この作品はNHKまいにちイタリア語の応用編(4月~6月)「スクリーンが映し出すイタリアの現在」の6月放送分で取り上げられた。番組の講師であった岡本太郎さんはこの作品の字幕の担当者でもある。岡本さんによると原題の“Io sono Li"は「わたしはリーです」という意味と、「私はここにいます」という意味が掛け合わされているという。好むと好まざるとにかかわらず、世界のグローバル化に伴う移住者の増加は現実の問題である。その現実に、人々の意識はなかなか追いつかない。

 登場する中国人たちが相対的に若いのに対し、イタリア人たちは年老いている。若者たちはどこへ行ってしまったのかと思われるほど、街は活気を失っている。そういうキオッジャの町と海の情景が灰色を基調とする画面に美しくとらえられているのが印象的である。雨と霧が風景をぼんやりとしたものに変えているが、それが効果を上げているようにも思われる。その中でシャンリーが赤い傘をさしたり、灯篭?を流したりしているのが画面の調和を乱しているようにも感じられる。

 『海と大陸』が将来の展望を示さない結末ながら、若者のエネルギーを示していたのに対し、『ある海辺の詩人』はシャンリーの将来の展望が見えるようでいて、港町の閉塞感の方が前面に出ているのはどういうことか。さらにまたストーリーよりも映画が捕えている風景の方がどうも気になる作品だと思ってしまうのは私だけのことであろうか。

道案内

7月18日(木)晴れ

 7月15日(月)放送のNHKラジオ「まいにちフランス語」初級編は「前置詞」と「場所」を取り上げて、道案内についての表現を紹介していた。「この近くに銀行はありますか?」とか、「郵便局はありますか?」とかいう問いとその答えが出てくるのだが、実際に使う場面が私に訪れるであろうか? 銀行や郵便局に出かけた後の会話がまたまた大変である。

 番組の終わりの「教えてMadame」のコーナーで講師の久松謙一さんがパートナーのフロランス・メルメ=オガワさんに「日本人に比べてフランス人は、どうもきちんと道を案内してくれない、そんなふうに言う人が多いのですが、偏見でしょうか?」と尋ねたのに対し、「時に、たぶん、彼らが急いでいるからでしょう。それに、日本人の質問がよくわからないということもしばしばです!」と答えたのはかなり辛辣に聞こえた。

 フランス語の会話経験はないが、フランス語よりはなじみが深い英語でも道をたずねた経験はほとんどない。自分で地図で探すのが普通である。英国の主要都市について、その都市の地名索引が完備した地図帳が発行されているから、まず迷うことはないのである。もっともその代わり英語で道をたずねられたことは結構ある。それもなぜかロンドンで経験したことが少なくない。こっちが白人でないのは見ればわかると思うのだが、中国系の英国人も少なくないので、話しかけてくるようである。それで首尾はというとうまくいったこともあるし、いかなかったこともある。これも同じフランス語の時間に出てきた表現を使えば、
Desole, je ne suis pas d'ici.(ごめんなさい、この近くのものではありません。)
といえばよいことがしばしばであったが、見栄を張って答えようとするのでうまくいかない・・・というバカなことがよくあった。大英博物館の近くのホテルに泊まっていたときに、博物館へどうすればいけるかを何度か尋ねられて、英語でどういえばよいのか分からないから手振りで示して済ませたことを思い出す。そもそもあてずっぽうで歩いても大丈夫なくらい近くなのだが、すぐ目の前に見えないと不安になるという心理が働くのであろう。

 それに比べると、日本人はあまり道をきかないような気もする。ここ数年、道を聞かれるという経験はほとんどしていない。道に迷っている様子の人がいないわけではないのだが、あるいはこちらの風体が怪しげなので、こういう人物には道を聞くべきではないと思われているのかもしれない。

語学放浪記(7)

7月17日(水)曇り

 先日、ある新聞の世論調査の質問項目に「外務大臣には英語ができる人がなるべきか」というようなものがあった。これは愚問である。日本の外交的な地位が経済的な地位に見合わないのは、外交政策の結果であって、それは外務大臣や外務省の責任というよりも、国民の国際政治や経済についての認識の問題である。確かに一般的に言って英語ができる方が、出来ないよりもよい。が、それは外務大臣に限ったことではない。むしろ国民がもっと英語で物を読んだり、書いたりする努力を心がけるべきだということである。第2に、なぜ、英語かということを問題にすべきである。国際関係において重要なのは英語だけではない。現実にアラビア語の通訳の経験があり、英語圏の新聞に論説を寄稿している元閣僚がいる。政治家の中には2つ以上の言語に通じている人は少なくないようである。そういう人がもっと増える必要があるが、それは国民全体の語学力の向上を前提とするはずである。国民が外交は誰か、えらい人のすることだという意識を捨てなければ、民主国家の外交とはいえない。それから「できる」というのは相対的なもので、ご本人ができると思っていても、現実の場面で役に立たなければできないわけであるし、周りの人が過大評価していたり、過小評価している場合もあって、その場合も同じことが言える。なまじ少しは様子がわかると余計な気を利かせる人が少なくないが、その結果誤解が生まれることもある。自分の語学力を過信して暴走するような人が一番怖い。だから「できる」ということに慎重になる必要がある。

 さて、中国語を2年間勉強したが、十分にできるようになったとはいえない。一応、本は読めるようになったが、幸か不幸か、中国では文化大革命が起きた。詳しい事情は省くが君子危うきに近寄らずということで中国語の学習から遠ざかり、大学院の入試科目ではなかったこともあり、その後の職業生活においても中国とは縁のない仕事をしてきたこともあって疎遠になってしまった。その間中国の社会も言語も大きく様変わりして、自分が習った中国語は古いものになってしまった。20年以上の中断を経てNHKまいにち中国語の時間を聴いて、中国語の変化に驚いたものである。

 文化大革命というと思いだすのは、当時は中国書籍店の店頭に毛沢東語録のさまざまな言語による版が並べられていたことである。考えてみると、そのとき以来、お目にかかっていない言語というのがありそうで、何冊か珍しい言語のものを買っておけばよかったという気がしないでもないが、どうせどこかに紛れ込んでしまうのが落ちであったと思うことにしている。毛沢東はいろいろな名文句を残しており、彼の語録はそれなりに読む価値があるとは思うが、語学の教材としてはどの程度の効果が期待できるだろうか。

 そんなことを書いたのは、語学の教材として聖書がいいという話があるからで、例えばアイルランド文化復興運動を推進したグレゴリー夫人はアイルランド(ゲール)語を聖書で勉強したという。ただ、これは聖書の中身をよく知っている、部分的にせよ頭に入っている内容があるから可能になったのであって、聖書とは縁のない人が聖書を教材にして外国語を学んでも効果は限定的であろう。

 考えてみると尾崎先生の中国語の時間で『彷徨』を読んだとき、その作品の全部を竹内訳で読んでいたというそれまでの経験があったから中国語の授業に何とかついていけたのである。先生は学生の大半が既に竹内好、あるいはその他の翻訳で『彷徨』を読んでいることを前提として授業をされていたわけで、そうするとこちらは翻訳の問題点を探るようなもっと高次の読み方をすべきであったと今になって思う。そういう努力をすることにどういう意味があるのかばかり考えた結果として、その努力の先に見える世界を見つける機会を失う・・・ということは人生の中で意外に多かった。

海と大陸

7月16日(火)曇り

 シネマ・ジャックでイタリア映画『海と大陸』(Terraferma、2011年製作、2013年日本公開)を見る。シチリア島のさらに沖合、アフリカ大陸に近い地中海上の島を舞台にするエマヌエ―レ・クリアレーゼ監督のこの作品は第68回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞している。

 映画の中では島の名前は出てこないが、リノーザ島が舞台だという。最近、難民たちの実態を知るためにローマ教皇が訪れたというランぺドゥ―ザ島の北にあるとはいうものの北アフリカに近い場所にあるため、多くの難民たちが海を渡って押し寄せている。その少なからぬ部分が海上で命を落としているのも見落とせない現実である。

 かつてとは違って漁獲量が激減しているこの島で漁師を続けている祖父とともに海に出ている20歳のフィリッポは20歳にしては少し頼りない。父親は海で死に、母親は本土にわたって新しい人生を築こうと計画している。父親の兄弟である伯父は観光業で生計を立てており、祖父にも仕事をやめるように勧めているが祖父は耳を貸さない。

 母親は自分たちの住まいを改造して夏のあいだ観光客に貸しだす商売を始める。自分たちと同世代の若者たちとの交流が始まろうとする。ところが海に出た祖父とフィリッポは海上で出逢った難民たちを助ける。その中にまだ小さな男の子を連れた出産間近の母親がいて、彼らは母子を助けざるをえなくなる。違法難民を助けるのは法律違反で、フィリッポたちの船は当局に差し押さえられる。母子を見殺しにはできないが、自分たちが生きることさえも難しい状況が迫ってきている。

 祖父の世代の人々は海に生きる者には海の掟があると主張し、父母の世代は現実と法律に従わなければ生きていけないと考えている。では若い世代はどのように自分の目の前の問題と取り組むか。フィリッポは標準語を話さず、母親の考え、いらだちを十分に斟酌できない。それでも、住まいを借りにやってきた観光客との交流を通じて、また難民の母子との接触を通じて少しずつ世界を広げているようにも思われる。ただ、それがどのような結果をもたらすかについては、予測不可能な部分が残されている。

 難民の船と、観光客の船がそれぞれ鈴なりの乗客を乗せているために似て見えるという視覚的な効果が印象的である。一方が違法とされ、他方が合法というのはいかにも不条理であり、そのような映像の中にイタリア政府の難民政策への告発が込められている。光と影を対照させながら島と海の自然を写しだすカメラワークには風景描写以上の意味があると考えるべきであろう。 

ウィルキー・コリンズ『月長石』(4)

7月15日(月)晴れ、依然として暑し

 フランクリンはもともと明るく悪戯好きな少年だったが、父親の意向で英国で学校教育を受けず、ドイツの学校に送られた。その後、大陸を遍歴し、いろいろな方面に関心を示したが、その一方であちこちで借金を重ねた。家柄も人柄もよいので多くの人々から愛されたが、トラブルも抱えて25歳になって帰国してきた。

 フランクリンの到着に先立って、ヴェリンダー家の屋敷の近くを3人の怪しげなインド人たちがうろつく。彼らが立ち去った後ベタレッジは、下働きの女中であるロザンナが浜辺をうろうろ歩きまわって、食事の時間になってもやってこないという苦情を受けて、彼女を探しに出かける。ロザンナはもともと受刑者で矯正施設に入っていたのをヴェリンダー夫人が雇い入れたのである。ベタレッジがロザンナを見つけて話していると、突然フランクリンがやってくる。

 フランクリンは3人のインド人たちにあとをつけられているのではないかと語る。彼が予定よりも早く到着したのは、彼らを撒くためであったというが、既にその足跡は知られている。フランクリンは尾行されている理由は、ハーンカスル大佐が遺言でレイチェルの誕生祝いとして贈られるダイヤモンドのためではないかという。ベタレッジが大佐が一族から嫌われていたことを思い出させようとするが、フランクリンは取り合わない。

 ハーンカスル大佐にはインドでの行状、特にダイヤモンドを手に入れた経緯をめぐる悪いうわさがあって一族からのけものにされてきた。しかし困窮の中にあっても、月長石と呼ばれるこのダイヤモンドを手放すことはなかった。このダイヤモンドを見ると命を失いかねないという噂がある一方で、大佐は一族と和解し姪であるレイチェルの誕生祝いにこのダイヤモンドを送ろうと企ててきた。

 1847年の末頃だろうか、ヴェリンダー夫人のもとにある牧師から大佐が臨終に際して夫人を赦し、他のすべての人々を赦して立派な臨終を遂げたという知らせが届く。このことについて、「悪魔は依然大手を振ってジョン大佐にとりついていて、あのいまわしい男の最後のいまわしい行ないが、・・・牧師様をたぶらかしたのだと固く信じている」(57ページ)。

 フランクリンはベタレッジの話を聴いて、自分が持ち込んだダイヤモンドには3つの疑問があるという。「疑問の第一――大佐のダイヤモンドは、インドで何かの陰謀の対象であったのか。疑問の第二――その陰謀は、大佐のダイヤモンドと一緒にイギリスまでついてきたのか。疑問の第三――大佐はダイヤモンドにまつわるその陰謀のことを知っていたのか。そして、何も知らないレイチェルを通じて、妹に厄介で危険な遺贈をわざと残していったのか」(58ページ)。中村能三は「疑惑」と訳しているが、原文ではquestionで、前後の文脈からすると「疑問」の方がわかりやすい。フランクリンは理路整然と自分の疑問を示すのだが、この議論を超えたところで事件が起きてしまう。

 ある事情でフランクリンの父は大佐の遺言執行人となっていたが、ダイヤモンドは父の顧問弁護士の手で銀行の金庫に預けられていた。大佐の死後、ダイヤモンドが鑑定されてみると2万ポンド以上の価値がある(宝石をいくつかに切り分けるとさらに値打ちが増す)ことが分かり、遺言どおりにレイチェルに宝石を渡すことがフランクリンに託されたのだが、そこで大佐の意図がどこにあるのかがわからず、宝石の扱いに困っているとフランクリンは言う。結局、誕生日の日にフランクリンからレイチェルに直接渡すことにして、宝石はしばらく地元の銀行の金庫に預け、様子を見ることになる。

 フランクリンは海外で暮らし、一族の他の人々とは連絡が密でなかったために伯父である大佐に偏見をもっていない代わりに、警戒心も希薄である。善良で、ある程度明晰な頭脳の持ち主ではあるが、軽率なところがある。それでもベタレッジを相談相手として大事にしているのは自分の欠点に気づいている証拠かもしれないが、ベタレッジも相談相手としては不足なところがある。フランクリンの父親も英国の小説によく出てくる訴訟好きの金もちで、今ひとつ信頼感にかける。宝石を取り戻そうとするインド人たちの努力を陰謀(conspiracy)と表現するのは異文化の理解が不十分であることを示すが、フランクリンやベタレッジがそのまま作者の異文化についての見方を代表する人物ではないこともいずれわかるはずである。慎重に行動しているつもりで、どこかに隙がある。そういう事件の前の人間模様がよくとらえられている。

俺俺

7月14日(日)曇り、一時雨

 ヒューマントラストシネマ渋谷で『俺俺』(三木聡監督)を見る。映写機の故障のため10:20に上映開始の予定が45分も遅れた。主演の亀梨和也くん目当てらしい女性客たちからは特に不満の声は上がらず。その後シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作9」特集上映から、『花嫁凱旋』(リチャード・ボレスラウスキー監督)、『マルクスのデパート騒動』(チャールズ・F・ライスナー監督)を見る。映画が終わって外に出ようとしたら激しい雨で足止めを食った。

 カメラマンの夢をあきらめて郊外の家電量販店で働く均は、団地に住む母親には文句を言われ、職場の上司であるタジマからは何かといじめを受けているが、まずまず平穏に暮らしている。ある日ハンバーガー店で隣り合わせた客の携帯電話が自分のトレーに置かれたのをそのまま持ち去り、出来心でその母親に90万円を振り込ませる。ところがその母親が自分のアパートに現れ、自分の母親の住む団地に出かけるとストーカー呼ばわりされる。事情がわかってくると、どうやら均の他に、2人の人間が彼と同一人物になっている。均、彼がその携帯を盗んだ大樹、それにもう1人の学生である。3人は意気投合し、学生のあぱーとを「さるやま」ならぬ「俺山」と名づけて連絡を取り合う。その一方で均は謎めいた美しい女に仕事を頼まれるが、その夫という男とその仲間に付きまとわれるだけでなく、どうも行動を監視されているようである。

 均は増殖を続け、学生はそういう増殖した仲間を集めることを主張するが、大樹は反対する。すると学生は削除を始める。均の身近な人物が消され始め、彼自身も危険を感じるようになる。女が仕事をしている建物にはひどくがらがらの空間が広がっている。彼女が何をしているのかも謎である。

 ビートルズの『HELP! 4人はアイドル』などという例を持ち出すまでもなく、ある程度の集客を想定できるアイドル主演映画には時々とんでもない実験映画が紛れ込むことがある。これもその一例であろう。どこまでが現実(と言っても作り話ではあるが)、どこまでが幻想か、その境界があいまいになったまま物語が展開する。コメディーのようでもあり、サスペンスのようでもあり、寓意劇のようでもあり、不条理劇のようでもある。主人公が働く家電量販店の店員たちは、いつまでもこんな仕事をせずに転職しろと半ば以上強引に夢をしつけられている。夢がかなうとは限らないのに、その代価だけは厳しく取り立てられているのはどうもおかしい。職場の仲間、あるいは「俺」たちが集まって飲み交わすときのメニューのさみしさにも注目する必要がある。平穏に見える彼の職場生活にも実は闇があるし、その闇を照らすと、こんなドラマが見えてくるのかもしれない。

リヴァプールの坂道

7月13日(土)晴れ後曇り、依然として暑い

 朝、テレビ朝日の『旅サラダ』でリヴァプールを取り上げていた。もう10年前になるがこの町で数カ月を過ごしたことを思い出す。この市の名前の起源になった茶色いドックの水、青い空、時々経験する川霧、そして坂道、いろいろなことを思い出す。

 リヴァプールの坂道

暑くなってきた日差しを受けて
ふうふう言いながら 坂道を
上がっていくと
あまり人の乗っていないバスが
お先に―とこちらを追い越していった

行先はペニーレーン
そうだ ここはビートルズの町だったのだ・・・と
心の中でなぜか くすりと笑って
うろ覚えの歌を ちょっと口ずさむ。

見上げれば 青い空
振り向くと
港を望むビルディング
そのてっぺんのリヴァーバードの姿が
かすかに見える。

改めて坂道を
上りなおす。

Take it easy!

7月12日(金)晴れ、依然として暑い

 寝坊しない限り、NHKラジオ第2放送で7:30から「まいにちフランス語」、そのあと続けて「まいにちイタリア語」の時間を聴いている。月曜日から水曜日まで、フランス語は初級編、イタリア語は入門編、木曜日と金曜日はフランス語が応用編、イタリア語は初級編ということである。ここ数年、この組み合わせで語学番組を聴いている。語学番組を連続して聴くことは、あまり好ましいことではない。放送の前後にある程度の予習をしたり、復習をしたりすることが必要ではないかと思うからである。それで、特にフランス語は、午後の再放送を聴きなおすことが多い。以前はさらに夜に再放送があったり、土曜日にまとめて再放送されたりしていた。繰り返し聴くことによって効果が上がるので、その方が有難い。

 さて、本日のイタリア語の時間「続・文法塾~伊語事始~」ではdareという動詞の命令形の活用、さらに英語のgiveに相当するこの動詞が間接目的語と直接目的語をとる場合について取り上げていたのだが、tuを相手にする命令の場合、daとdaiという2つの言い方があり、daiの場合は「与える」という意味はなく、相手の行動を促すようなときに用いるということであった。例えば、Dai forza!というのは「さあ、がんばれ!」ということで相手の行動を促すニュアンスがあるという。それで、放送の最後にパートナーのルチアーナ・ギッツォーニさんがDai, forza!と言ったのが聞き取れたのは、まずまずの首尾であった。

 イタリア語には確かこの他にCoraggio!という言い方があって、これも「がんばれ」と訳されている。逆に言うと、Dai, forza!もCoraggio!も厳密には日本語の「がんばれ!」には相当しない、だいたい同じような意味だということのようである。フランス語ではBon courage! Du courage! あるいはCourage!だけの言い方もある。courageは「勇気」だから日本語の「頑張れ」とは少し意味が違うようにも思われる(フランスでフランス語を使って生活したことはない――というよりもできそうもないから、ここはあくまで憶測にとどめておく)。

 今、手元に本がなくて記憶で書いているが、ハンガリー出身の数学者であるピーター・フランクルさんがあるときもらった手紙に「プリーズ、ファイト」と書いてあって、これは「がんばってください」という意味のようだが、英語ではそういう言い方をしない、そもそも英語では「がんばれ」に相当する言葉はないのだと書いていた。

 三省堂の『ニューセンチュリー和英辞典』(第2版)を見ると、「頑張れ!」(元気を出せ)は"Come on!", "Cheer up!"・・・[中略]とあって、「英米では日本のようにこのような励ましを言うことは少なくTake it easy.(気楽に構えて)のようにリラックスさせることの方が普通」と注記されている。「頑張れ!」という言い方がないというよりも、そういう言い方をすることは少ない、一般的ではないということのようである。

 何か仕事に取り組んでいるときに、「頑張れ!」と言われるのと、「気楽にやれよ」と言われるのとどちらがよいかというのはその場合によるので、どちらとも言えない。しかし、この暑さの中でどちらがよいかと言われれば、明らかに「気楽にやれよ」の方である。
 

台湾アイデンティティー

7月11日(木)晴れ、暑し

 7月9日(火)ポレポレ東中野で酒井充子監督作品『台湾アイデンティティー』を見る。

 アイデンティティーidentityという言葉は自我同一性などと訳されているが、自分が自分であることを証明する、あるいは自分自身を他人と区別する手掛かりとなる性質である。実際のところ人間は意識的・無意識的に国家、民族、職業、言語、宗教、その他多くの事柄と結びついた多様なアイデンティティーをもって生きているのであって、ある人間を描き出す手掛かりとなるのはそれらの複合体である。

 台湾は1895(明治28)年から1945(昭和20)年までの50年間、日本の統治下にあった。その間、人々は日本語で日本式の教育を受け、日本人として育てられていた。そして多くの人々が自分は日本人であると思って生きていた。衣食住も日本式であった。同化政策が台湾の文化的伝統を破壊した側面とともに、人々の生活を向上させた側面もあるはずである。だから戦争が起きると喜んで従軍する人が大半であったのである。

 この映画は台湾の名前、日本の名前をもった5人の人々のこれまでの生き方についての証言をまとめている。中には台湾の少数民族であるツオウ族の名前、インドネシアの名前をもった人もいる。彼らの(ナショナル)アイデンティティーはどこにあるのかというのがこの映画の底を流れている問いである。

 高菊花さんはツオウ族のリーダーだった父親が国民党政府によって処刑され、家族の生活を支えるために歌手になったが、たえず官憲の干渉を受け続けてきたという。現在はツオウ族の村で生活しているが、その一方でクリスチャンである。

 黄茂己さんは台湾少年工の一員として来日、敗戦直後に日本で結婚したが、台湾に帰国して小学校の教師を勤めていた。戦後の抗議行動に加わることはなく、その一方で国民党員ではなかったから教頭や校長に昇進することもなかった。

 宮原永治さんは戦後にインドネシア国籍を取得した残留日本兵の一人で、インドネシア政府と日本政府から勲章をもらっている。日本企業のジャカルタ試写で働いていた。シャツ姿で無造作に勲章と勲記を見せる姿に、彼にとっての国家とは何かについての疑問が巻き起こる。

 呉正男さんは東京の中学に進学、航空つ晋氏として現在の北朝鮮で敗戦を迎え、シベリアに抑留され、逢いたい人がいた日本に戻ッて台湾に連絡をとると親から帰ってくるなと言われ、そのまま日本に留まり続けた。在日台湾人の金融機関に勤めてきた。日本に帰化できると思っていたが、窓口の役人の態度に腹を立てて取りやめた。横浜中華街の道教の廟にお参りするだけでなく、伊勢山皇大神宮の氏子総代を務めているそうである。

 張幹男さんは台湾人の父と日本人の母のあいだに生まれたが、台湾独立派の日本語の冊子を翻訳しようとして逮捕され、長年服役した経験をもつ。旅行会社の会長をしているが、同じような経歴をもつ仲間を多数雇っている。

 これらの人々だけでなく、その周辺の人々の証言を含めて、それぞれの戦後の複雑な歩みが浮き彫りにされる。自分は台湾人だという人、運悪く日本人になれなかったという人、自分より日本語が下手なのにやすやすと日本人になれる人がいるという人、異国に生きることを選んでいる人、それぞれのアイデンティティーは異なる。

 映画に登場することになって人前に出てしまうと、なかなか本当のことが言えないという事情も想像できる。その意味で映画の中での発言をすべての見込むのは危険であるかもしれない。しかし、国民党政権下の弾圧のひどさが前面に出てくる中で日本統治のその後の社会に与えた影響について、決して浅くはないこの国と日本との関係について考えることも必要であろう。/span>

張競『中華料理の文化史』

7月10日(水)晴れ、相変わらず暑い

 1997年に筑摩書房から出版された同名書に、時代の変化を反映した加筆を施して、ちくま文庫の1冊として刊行された書物。著者は上海生まれ。日本に留学。その後長く日本に住み、アメリカの大学に滞在したこともある。日常の食事としてまたごちそうとして中国の料理を食べてきたし、自分で料理もしてきた。中華料理についてかなり広い視野から見てきたし、語ることができる立場である。

 この書物は次のように書きだされている:
 中華料理と言えば、「四千年の歴史」がまくらことばのようについている。はたして四千年前の中国人は現在の「中華料理」を食べていたのか。テレビの料理番組、雑誌の記事や料理書ですっかり耳慣れたこのセリフを聞くたびに疑問に思わずにはいられない。(10ページ)

 著者自身が1994年に調査のため9年半ぶりに上海に戻った際に、料理や食生活の変貌ぶりに戸惑ったそうである。こうして「過去の長い歴史のなかで、異なる民族の食文化を吸収して形成してきた中華料理は多様性に富んでいる」(27~28ページ)という見地から、中国における料理の歴史を概観して、その変貌ぶりをたどったのがこの書物である。

 第1章「孔子の食卓――春秋戦国時代」は孔子の時代の食生活や料理法、食事のマナーなどを概観している。地方によってまた社会階層によって食生活が違うのは昔も今も同じである(その程度に違いはあるかもしれないが・・・)。「現在もっとも多く栽培され、庶民生活に欠かせない白菜、チンゲン菜、キャベツ、ほうれん草はどれもまだ登場していない」(42ページ)という。

 第2章「ラーメンの年輪――漢代」では麦栽培の増加、粉食の登場、さらには麺類の出現と普及が記されている。外食業が出現したのはこの時代であるという。

 第3章「食卓のビッグバン――魏晋・六朝時代」はこの時代に遊牧民族の影響で広まった「胡餅」の移り変わりと、中国における主食の転換が述べられている。

 第4章「犬肉を食うべきか食わざるべきか――隋唐時代」はそれまで食べられていた犬肉が、次第にいやしいものとして食べられなくなる過程がたどられている。この時代、西域から新しい食材が渡来し、食生活はますます豊かになる。

 第5章「羊肉VS豚肉――宋代」はこの時代、羊肉が重んじられたが、それが北方の民族の習慣であり、羊肉食がしだいに南下していったこと、当時の中国の料理が油をそれほど使わず、日本料理に近いものであったことなどを語っている。

 第6章「箸よ、お前もか――宋元時代」は日本では橋を横に置くのがふつうであるのに対し、中国では縦に置くが、中国でも昔は横に置くのがふつうであり、それがこの時代に変化したと述べている。

 第7章「ああ、フカヒレ――明清時代」はフカヒレに代表される珍味の発見や、唐辛子の登場によってもたらされた味覚の革命について述べられている。北京ダック、アワビ、ピータン、クラゲが広く食べられるようになったのも新しいことであるという。

 そして21世紀を迎えて中華料理は進化し続けている。特に変化が急速に訪れるようになった最近20年間を通じてみ書くの進化の早さと、それに適応する中華料理の柔軟な包容力が感じられるという。新しい食材が加わり、調理法が変化し、刺身や焼き肉が中華料理に加わっている。料理名や食器にも変化の波は押し寄せている。中華料理は変化し続けている。

 この書物の結論の1つは中華料理の特徴はその雑種性にあると言うことであるが、日本料理にもある種の雑種性はあり、そう考えてみると、雑種性を指摘するだけでは不十分なのかもしれない。豊富な逸話を含み、中華料理の変遷の概要をつかむのには便利な書物であるが、さらなる掘り下げも必要であろう。
 

語学放浪記(6)

7月9日(火)晴れ

 前回、前期の成績がかろうじて合格点だったのに、後期の試験の前におバカな先輩の余計なお世話のおかげで単位を落としてしまったドイツ語の授業というのは芦津丈夫(1930~2001)先生の授業であった。この原稿を書いていて、私が先生の授業を受けていた頃には先生は30代後半だったことを知ったが、何かもっと年配であるような気がしていた。年長者の年齢というのは分かりにくいものである。独文学者、歌人として活躍されたらしいが、そういうことについても無知であった。多くの学生にとって先生の専門が何であるのか、さらには教師の仕事を離れてのさまざまな側面が何であるのかは、それを好んで語られない限り知ることのない事柄であるし、教師がそれを好んで語ったとしても、記憶しているかどうかは定かではないことである。

 尾崎先生の研究室に中国語中級の受講者一同がかしこまっているところに、ロシア語の山口先生が入ってこられたという話は、既に2回書いたと思う。山口先生は大阪外国語大学がまだ専門学校であったころにロシア語を学ばれ、京大の大学院で言語学を学ばれた方であり、山口先生とともにロシア語を担当されていた小野理子先生は中国語・中国文学のご出身で、ロシア語はその後の経歴の中で習得されたのである。それで小野先生は授業中に自分の学生時代の話をされることがあったが、トルストイの『アンナ・カレーニナ』のシチェルバツキー公爵家(先生はシェルバツキーと発音された。モスクワ方言ではそういうそうである)には面会日が設けられているというくだりを読んでいて、吉川幸次郎先生も面会日を決められていた、貴族趣味だといわれた。尾崎先生にその真偽を確かめたところ、あれは我々が悪いんです、昔は先生にはいつ面会に出かけてもあっていただけたのだが、あまりにも学生のたちが悪いので、面会日を決められたとのことであった。

 尾崎先生の中国語中級の授業はまずまず順調に進み、その年の暮にはX君の発案で尾崎先生をお招きしてコンパを行うことになった。ゲストとして一海先生もお呼びするという話もあったが、わざわざ学生のコンパのために神戸から京都までやってくるのはまずあり得ないことである。尾崎先生からいろいろな話を伺うことができただけでももうけものと言ってよいのである。吉川先生の面会日の話も、この時に耳にしたのではないかと思う。先生の学生時代は騒然とした時期で、夜道を歩いていると警官から不審尋問を受けたりする。よせばいいのにわざわざ尋問されるようなことをする。例えばからのビール瓶を持ち歩いていると、火炎瓶だと思って警官から尋問される、そのたびに吉川先生の方に確認が行くので、先生も来るものは拒まずの方針を変えられたという話であった。

 尾崎先生は中国語音韻学がご専門で、授業中の話も語学関係の話が多かった。受講者は文学青年が多かったから、少し肌合いの違いを感じながらもついていったということであろう。岩波の中国詩人選集の『陶淵明』と『陸遊』を担当された一海先生を囲んで話を伺いたいというのも自然な話である。実は高校時代の漢文の時間に陶淵明について学んだとき、担当の先生がわざわざ中国詩人選集の一海先生による解説の一部をプリントして配ってくださったことを覚えている。その先生から中国語初級を習うことになったのは記憶すべきめぐり合わせである。さらに言うと吉川先生の当時新潮文庫に入っていた『中国の知恵』は高校時代によく読んだ本であるが、解説は尾崎先生が書かれている。書名は忘れてしまったが、別の本で一海先生が解説を書かれたものもあった。書物の解説は、著者の弟子が書くという学者の世界の慣行が生きていた時代の話である。

 自分が社会人になって初めて知ったことであるが、尾崎先生は東亜同文書院、一海先生は旧制高校のご出身であり、その点でも対照的なお二人であった。中国語の有気音と無気音の発音の訓練のために、自分で発音してみる際に、口の前に紙を構えて、有気音では紙が動き、無気音では動かないというように練習するというのは東亜同文書院における教育法の一環であったこと、先生とこの学校で一緒だった大城立裕の小説『朝、上海に立ちつくす』を読んでいて知った。高橋和巳の『憂鬱なる党派』、山田稔の『ごっこ』にも先生をモデルにしたと思しき人物が登場するという話で、その意味で尾崎先生は文学と関係の深い方である。

 傾向の違う2人の先生から中国語を学ぶことによって、それだけ学習の奥行きが出たということはあるかもしれない。語学の教師にさまざまな個性があった方が学生の動機づけが喚起されやすいはずではあるが、それは教師の実力があってこその話であることは言うまでもない。学生の方もやる気になるだけではだめで、現実に努力しなければならないのである。

雑記

7月8日(月)晴れ、暑し

 朝、ラジオのまいにちフランス語の時間の最後でパートナーのフロランス・メルメ=オガワさんが東京のどんな部分に魅力を感じるかを語っていた。その中でle quartier des temples a Negishi ou a Meguroとあるのをテキストでは「根岸や目黒の神社のある界わい」と訳しているが、根岸にしても、目黒にしてもお寺の方が多いのではないかと思った。目黒には大鳥神社もあるが、地名の起こりとなった目黒不動瀧泉寺の一帯が念頭にある発言であろう。

 毎日新聞の「毎日俳壇」と「毎日歌壇」にそれぞれ1句、1首タイサンボクを詠んだ作品が掲載されていた。
 夜明けより泰山木の花匂ふ(日高市・落合好雄)
 と
 上り坂のタイサンボクの花見上げ父は故郷を語りはじめる(北九州市・やまぶきみほ)
 である。

 私の住まいの近くの崖の上にもタイサンボクの木があって、白い大きな花を咲かせている。梅雨時、この花を見あげてはもうすぐ夏だと思って通り過ぎている。今年は空梅雨であったが、やはり白い花は変わらずに咲いている。匂いがわかるほど、近くによれないのが残念である。

スタンリーのお弁当箱

7月8日(月)晴れ

 銀座シネスイッチでインド映画『スタンリーのお弁当箱』を見る。インド映画というとボリウッド製の歌と踊り、アクション満載の娯楽作品が連想されるが、これは素人の子どもたちを出演させてできるだけ彼らのありのままの姿をとらえようとした例外的な作品である。

 ムンバイにあるカトリック系の学校(ハイスクールとあるから中等学校であるが、生徒たちの見かけは比較的幼い)。この学校に通うスタンリーはクラスの人気者であるが、家庭の事情で学校に弁当をもってくることができない。子どもたちの、そして教師たちのもってくる弁当は千差万別、ピンからキリまであるが、スタンリーは昼食時間中は子どもたちの中に入らず、水を飲んで過ごすことがしばしばである。その一方、ある教師は他の先生方や、子どもたちの弁当をたかり歩いている。特にスタンリーの同級生の豊かな家庭出身で母親が料理上手という子どもの弁当がお気に入りである。

 作文や踊りの得意なスタンリーは英語の先生であるロージーに可愛がられ、またクラスの仲間たちも同乗して弁当を分けたりする。ロージー先生が結婚のため休暇中に他人の弁当を当てにしている教師が弁当をもってこない子どもは学校に来るなとスタンリーを追いだしてしまう(それならば、自分も首になっていいはずであるから、勝手な理屈である)。他の生徒たちは復帰したロージー先生に事情を説明し、その声は校長に届く。その一方でカトリック学校が連合して開くコンサートに出場することができたスタンリーはその活躍を認められる。

 というのは物語の半面、スタンリーの親は実は事故で亡くなっており、彼は伯父の下で過酷な労働を強いられているというのがあとから観客に分かるもう一つの半面である。この映画は児童労働を廃絶しようとするキャンペーンの一環として作られた映画なのであった。スタンリーは校長や先生たちの厚意や励ましを受けるが、マザー・テレサの活動があるとはいうものの、インドにおいてはキリスト教、その中でカトリックはきわめて少数の人々の宗教であることにも気づく必要がある。

 そして厚意や励ましといっても、スタンリーのウソがばれて、問題の解決が図られる…というのではなく、彼が嘘を通し続けるのがいかにもインド的である。主人公以外に真実を知るものは観客であることから、事態の深刻さを改めて考えさせるというこの映画のもつメッセージの発信力の強さを感じさせられる。

森知子『カミーノ! 女ひとりスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅』

7月7日(日)晴れ、暑し

 7月5日に購入、6日に読み終える。2010年に携帯専用サイト「モバイルブロス」(東京ニュース通信社)に「さらばイギリス夫、今日から一人でファッキン巡礼! ~スペイン810km徒歩の旅」として連載されたものを改題し、再構成して幻冬舎文庫から出版された書物。

 スペイン北西部のガリシア地方にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラは十二使徒のひとり、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の墓があり、ローマ、エルサレムと並んでキリスト教徒の三大聖地に数えられている。中世に起源をもつ巡礼の歴史の中で、ヨーロッパ各地からの巡礼のルートができているが、フランスからピレネー山脈を越えてきたスペインを歩く「フランス人の道」(810km)がもっとも有名である。

 ライターとしての仕事がほとんどなくなり、イギリス人の夫からは離婚を申し出られた著者は思い切ってサンティアゴ巡礼の旅に出かける。キリスト教を信じているわけではない、ただ旅に出てものを書きたいという一念からである。歩きとおすだけでも大変である。ものを書いてインターネットで送るとなるとさらに荷物が増える。ただ、ひたすら歩くだけではなくて、旅のあいだのさまざまな出会いと触れ合い、邪念、雑念の数々が綴られている。

 さまざまな国籍、境遇の老若男女がこの巡礼路を歩いている。必ずしも快適とはいえない巡礼の旅を忘れられないものとしているのはそのような巡礼者たちの出会いである。巡礼は普通、早朝に旅立ってできるだけ早く宿を確保するのだが、そのペースに著者はなかなかなじめない。それでも追い抜かれたり、追いついたりを重ねながら次第に旅のペースをつかむ。アルべルゲと呼ばれる巡礼宿を初めとして、さまざまな宿に泊まるが、上には上が!?いて野宿専門の巡礼者に出逢ったりもする。宿もいろいろである。

 信仰の旅というよりも、人生を考え直す旅、おしゃべりの旅、そして合間合間にビール(セルベッサ)やワインを飲む旅の記録である。歩いているうちに知り合いが増える。うわさが広がる。自分と同じ年どころか、同じ誕生日の巡礼者に出逢う。そういう旅の中で、岡本かの子の「東海道五十三次」ではないが旅の終わり近くになると、旅を終えたくなくなってくる。

 などと書いたが、「やっぱ酒飲むとだるいね~(あたり前)。『一杯のビールはエナジーになる』ってサラとマルコが言ってたのはどこの町だったっけ? 4杯のワインとは言ってなかったもんなー」(229ページ)というようなざっくばらんな調子で旅の次第が語られている。

 サンティアゴ巡礼についての書物は最近多く出版されているが、この書物がおそらく一番世俗的な(宗教とは縁の遠い)ものである。実のところ私もサンティアーゴ巡礼と四国お遍路を成就して、両者を比べてみたいとひそかに思っていたのだが、この巡礼を終えた著者はさらに四国お遍路を歩きとおし、著書をまとめたとのことである。ひょっとすると歩くこと自体が一つの宗教的な意味をもつのかもしれない。とにかく著者のエネルギーに感心するとともに、今後の活躍を期待したい。 

ウィルキー・コリンズ『月長石』(3)

7月6日(土)晴れ

 『月長石』について書いた第1回が6月3日、第2回が6月12日のことであるから、大分間があいてしまったことになる。ただし、この名前をもつダイヤモンドをめぐって事件が展開するのはこれからのことであるから、前2回を読んでいなくても物語の概要はつかめるはずである。

 第1期(First Period)「ダイヤモンドの紛失(1848年)」を構成するのはジュリア・ヴェリンダー夫人の執事であるガブリエル・ベタレッジの手記である。

 1799年にインドで起きたセリンガパタム襲撃事件でジョン・ハーンカスルはサルタンの財宝である月長石とよばれるダイヤモンドを略奪し、英国に持ち帰っていた。この事件とその他の悪行のために彼は親族とは絶縁状態になっていた。

 ハーンカスルには兄と3人の妹がいた。アデレイド、カロライン、ジュリアという3人はその美しさのために社交界では有名な存在であった。(創元推理文庫の中村能三の訳は原文のthe fashionable worldを「上流階級」と訳しているが、社交界の方が適切ではないかと思う。ただし、詳しいことはあいまいにされているとはいうもののハーンカスル家が上流に属することは前後の文脈から明らかである。) アデレイドは莫大な資産家であり、公爵の地位をめぐる訴訟で世間を騒がせたブレークと結婚し、フランクリンという息子をもうけた。カロラインは一度恋愛に失敗した後に、身分違いの恋をして、周囲の反対を押し切り銀行家のエーブルホワイトと結婚し、多くの子どもをもうけた。この物語の主要登場人物となるゴドフリーはその次男である。ジュリアはジョン・ヴェリンダーと結婚し、レイチェルという一人娘をもうけた。(ヴェリンダーはSirという称号で呼ばれているので、准男爵(baronet)のはずである。)

 ベタレッジはもともとハーンカスル家の令嬢たちの召使であったのが、ジュリアがヴェリンダー家に嫁いだ時にそのまま奉公先を変えてついてきたのである。そしてジュリアの配慮で土地差配人(bailiff)の助手の仕事を与えられ、次第にその地位を上げて土地差配人になる。年をとったためにまたもやジュリアの配慮で執事として邸内の仕事を取り仕切ることになった。彼は妻に先立たれて娘のペネロープと暮らしており、彼女はレイチェルの小間使いをしている。ベタレッジの手記はペネロープの日記をよりどころとして書かれている。本文にも出てくるが、それならばペネロープが事件の概要を記せばよいのだが、彼女には彼女の事情がある(らしい)。

 ベタレッジは『ロビンソン・クルーソー』を人生の指南書として愛読する人物で、彼の物の見方には癖がある。もっとも誰のものの見方にもそれなりの癖や首尾の不一貫性があるのは否定できないことで、ベタレッジ自身もレイチェルの性格の長所と欠点について述べながら、自分の見解の矛盾について居直った言い方をしていることに注目しておこう。

 1848年5月25日にフランクリンがヨークシャーの海岸にあるヴェリンダー家の屋敷を訪問することから物語は動き出す。(つづく)

今野浩『工学部ヒラノ教授』

7月5日(金)曇り、時々雨

 6月28日に買って、その日のうちに読み切った。それだけ面白い本だが、簡単に論評できない内容を含んでいる。

 「筒井康隆は1990年代はじめに、早治大学と立智大学の文学部を舞台とする『文学部唯野教授』なる小説を発表し、文学部教授の生態を白日の下にさらした。長老教授たちの利権闘争。取り巻き連中の誹謗・中傷合戦。セクハラ・アカハラのオンパレード。留学先のパリから逃げ帰り、下宿に隠れて1年間を過ごしたフランス文学助教授の物語、などなど。

 この本がベストセラーになったためか、その後、大学暴露・告発本が続々と出版された。研究はもとより、教育もろくろくやらない無能教授と、はじめから勉強する気がない学生があふれる新設文系大学の姿に、わたしこと「工学部ヒラノ教授」はただあきれるばかりだった」(9ページ)とこの書物は書きだされている。

 著者は大学院大学の研究科長にまでなっているので、厳密な意味では「ヒラノ」教授ではない。それでもヒラの立場から大学について言いたいことがあって、それを言おうというのがこの書物の趣旨であると推察される。『文学部唯野教授』は創作であるが、こちらは多少の潤色はあっても実録である。2011年に新潮社から単行本として出版され、今回新潮文庫に収められた。

 大学にはその大学、学部、あるいはその専門の領域によってそれぞれの特色をもつ固有の文化がある。それは人間の個性に似ているといってもよいかもしれない。この書物に述べられているヒラノ教授の生活と意見は工学部の文化を反映するものである。この書物の中ほどには「工学部の教え7ヶ条」というのが紹介されていて、その中に工学部の文化が見事に要約されている。いわく:

 第1条 決められた時間に遅れないこと(納期を守ること)
 第2条 一流の専門家になって、仲間たちの信頼を勝ち取るべく努力すること
 第3条 専門以外のことには、軽々には口出ししないこと
 第4条 仲間から頼まれたことは、(特別な理由がない限り)断らないこと
 第5条 他人の話は最後まで聞くこと
 第6条 学生や仲間をけなさないこと
 第7条 拙速を旨とすべきこと(111~112ページ)

 ヒラノ教授が長く務めていたのは東京工業大学であるが、私の友人知己を見渡して、専門家として信頼できるという人はこの大学の出身者が多い。それはこの大学のエートスの所産であるし、大学の理念を実現するために研究上の努力と教育における工夫が積み重ねられてきたこともこの書物の中で盛んに語られている。特に専門教育と一般教育、理系科目と文系科目の均衡をどのように保つかに払われた配慮は他の大学が学ぶべき多くのものをもっている。この大学の卒業生である吉本隆明は東京工業大学はセコイ大学で単位が細切れにしか出なかったと回想しているが、それも学生を勉強させるための工夫であったと理解すべきである。

 だからと言ってすべての工学部がうまくいっていたわけでもなさそうであるし、工学部の文化が大学の文化として普遍妥当性をもつものではない。他の大学、学部には他の文化があってよいのだし、それをますますしっかりしたものに築き上げていく責務があるはずである。ところが「文庫版あとがき」で著者は「工学部教授は、増え続ける雑務と減り続ける研究時間に苦吟している」(234ページ)と書いている。この事情は他の学部でも変わらないようである。政治家や官僚の仕事は、大学人が研究と教育に専念できるように環境を整備することであるはずであるが、どうもそのあたりが理解されなくなってきている。大学が外部の声に反応する必要とともに、大学と外部の両者の分別と良識がその際にどのように働いているか、働くべきかを考える必要はあるだろう。 

異国に生きる 日本の中のビルマ人

7月4日(木)雨が降ったりやんだり

 昨日見た映画の2本目。1991年に軍事政権の弾圧を逃れ、妻を残したまま日本にわたってきたビルマ人チョウチョウソー(チョウ)さんの軌跡を中心に日本で暮らすビルマ人の姿を描いている。生活のためにレストランで働きながら、民主化運動を続ける日々。それでも少しずつ法的な権利を拡大し、タイに渡って(ビルマからやってきた)妻と再会し、やがて彼女も来日して、2人でビルマ料理店を経営することになる。そこは在日ビルマ人たちの交流の拠点となる。

 88歳になった老父とのタイにおける再会。チャオプラヤー川を船で遊覧したり、アユタヤを訪問したりする。仏像の前での父子の対話の宗教的な深さは感動的である。しかしそれは父子の生前における最後の対面となり、ビルマで父が死んでもチョウさんは帰国することはできなかった。日本滞在は既に20年以上になり、暮らしも安定してきた。東日本大地震と津波の被災者たちの救援活動も在日ビルマ人として参加した。しかし日本での生活の将来の保障はなく、故国で民主化を求めて戦っている人たちに対する負い目もある。「家族に会いたい」「祖国で暮らしたい」という願いと「祖国の民主化運動」のためにその望郷の念を捨てなければならないという思い。チョウさんはまだビルマの民主化は不徹底だと思いながら、帰国できる日を待ち望んでいる。

 バンコクを訪問したこと、チャオプラヤー川を船で遊覧したり、アユタヤに出かけたり、寺院を拝観した経験は私にもある。そこで自分の祖国について考えたり、宗教的な思索に耽ったりしたということは全くない。日本人としての豊かさのための精神の貧困の一例かもしれない。そういえば、アウンサンスーチーさんは京都大学東南アジア研究センター(研究所)の研究員だったことがあるが、この研究施設が創設された当時、学内の一部からはかなり強い反対があったことを記憶している。東南アジア研究は「豊かな」日本による「貧しい」東南アジアに対する進出と略奪の道具でありうるが、その一方で東南アジアの人々の自立と成長の手助けもなしうる。可能性を過大に評価することも、全く否定することも間違いである。

 チョウさんは望郷の念や負い目を感じながらも日本で生活している。祖国との距離のための温度差もあるはずである。誰も完全ではありえない。ビルマの民主化闘争のために戦った仏教の僧侶たち(の一部)がイスラーム教徒の人権を抑圧する急先鋒になっているという(そういえばこの映画では、ビルマのイスラーム教徒の問題については触れられていない)ニュースを聞くと、複雑な思いに駆られてしまうのは私一人のことであろうか(イスラームが正義で、仏教が悪だ――などと、あるいはその逆のことを主張するつもりはない。ただ、相手の立場を理解し、思いやることも宗教の一環ではないかと思うのである)。チョウさんの負い目を感じながらの民主化への働きかけから、我々が学ぶべきものは少なくないはずである。

ペタル ダンス

7月3日(水)曇り、一時雨

 横浜シネマ・ベティで『ペタル ダンス』、その後、横浜ニューテアトルで『異国に生きる 日本の中のビルマ人』を見る。それぞれ優れた作品であったが、連続してこれら2本の映画を見ると、お互いがお互いの感動を打ち消すようなところがあって、あとになって整理して批評を書くのが難しくなる。それでも何とか、『ペタル ダンス』について書いてみようと思う。

 ジンコと素子は大学時代からの友人だが、6年間会うことがなかった大学時代の友人のミキが海に飛び込んだらしいという話を耳にする。2人は素子の元夫から自動車を借りて、ジンコが運転してミキを訪ねに行こうとする。ところが、ジンコは駅で電車に対して身構えた若い女性=原木を飛び込み自殺をしようとしているのだと間違えて抱きとめ、その勢いで手にけがをしてしまう。原木は勤めていた店が突然閉店してスイッチを入れ直そうと思っていたのだといい、けがをしたジンコに代わって自動車を運転していくことを申し出る。こうして3人は北の果てにある風の町に旅立ってゆく。
 
 旅の途中に格別変わった事件が起きるわけではない。たずねあてたミキも落ち着きを取り戻している。ただ、北国の海岸の風景は厳しい。ペタル(petal)は花びらという意味である。花びらの舞いという意味にしては物語は控えめに展開している。そうはいっても訪ねていく3人と、訪ねられるミキのそれぞれがドラマを抱えている。それぞれのドラマが声高には語られずにいるだけである。そして旅はそのドラマの中の一種の間奏曲にすぎないのかもしれない。しかし、旅をすることによって、あるいは友人たちの訪問を受けることによって、それぞれが新しい出発をしようとしていることも確かである。事件が起きて、解決する――というストーリーの方が現実にはありえないことで、実は我々はいつまでたっても終わらないドラマを生きているのだと暗示しているようでもある。

 この映画について適切な言葉を選んで批評することはかなり難しいが、監督・脚本・編集を手がけている石川寛監督(撮影は長野陽一)は風景をできるだけ柔らかく描きだし、女性たちの自然な表情の動きを引き出そうとしている。風景と表情を対照的に見せようとする映像の構成が印象に残る。そうして登場人物の微妙な感情表現をとらえながら、その心の奥底にある感情の流れについて観客の想像力を動かそうという意図があるようだが、ストーリーの起伏が激しくないこともあって全体として地味な映画になっている。そのことは欠点ではないが、集客力にはつながらないだろう――というのが残念である。
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