母に

5月31日(金)晴れ

 母の葬儀が終わる。その前後に書いた詩を掲載する。なかなか気持ちの整理ができないが、何とか頑張っていかなければならないと思っている。

 母に(その1)

小学生のころだった
風邪をひいて
熱にうなされて
目覚めると
母の顔を見た

その顔に
元気づけられて
いつの間にか
回復した

死の床で
母は、
子どもたちを見つめて
いたが、
子どもたちは
母に、
どれだけの力を
与えられただろうか


母から受け取った
力を

(その2)
母の
骨壷を
抱いて
帰宅する

啄木は
生きている母を
戯れに
背負って
その 軽さを
嘆いたが

母の
骨は
重く
あらためて
母の
想い出に
ふけっていた
 
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つれづれ

5月30日(木)雨

 昨夜(5月29日夜)、大野芳『吉田兼好とは誰だったのか 徒然草の謎』(幻冬舎新書)を読み終える。兼好の実像と『徒然草』成立の背景の事情を林瑞栄(はやし・みずえ)の『兼好発掘』の所説に即して論じた書物である。大野さんは専門の研究者ではないが、研究書を踏まえて書かれており、読みやすく、手応えがある。特に、私が何度か出かけたことがある金沢文庫についても触れられているので興味深かった。

 本日、書こうと思うのはこの書物の紹介ではなくて、この本を読んだことで思いだした自分自身のある経験についてである。もう20年くらい昔のことだが、ある大学で教えていた頃のこと、同僚の教育熱心な先生が学生に書かせたレポートを研究室の前の箱に入れて返却していた。その箱の中を何気なく覗きこんだところ、自分が指導している学生のレポートが一番上にあって、「思うことつれづれ」と題され、それに「?」という先生からの1文字が記されていた。私はそれほど教育熱心ではなかったから、その学生に対してこの話はしなかったが、この「?」の意味が提出した学生にどこまで届いたかは疑問である。

 その学生としては気の利いた題名をつけたつもりだったのだろうが、そもそも「つれづれ」という言葉の意味がわかっていない。「つれづれ」は辞書によると、「退屈」、「物思いにしずむこと」、「煩わされず、心静かなこと」であって、「思うことつれづれ」では日本語としての意味をなさない。「思うこといくつか」くらいが適切な題名だったと思うが、それでもあまり感心しない。授業についてのレポートは授業に即してかなり具体的に、焦点を絞って書く方が評価は高くなるはずである。だから漠然と思ったことを書くのは、きちんと授業を聞いていなかったことを証明するようなもので、あまり好ましくない。レポートを提出する以上、使う言葉、特に表題に使う言葉はその意味を辞書で確認するくらいの配慮はすべきである。何よりもよくないのは、ちょっと気の利いたことを言って歓心を買おうという料簡である。ただ、そういうことをどのように学生に言い聞かせて理解させるかはかなり難しい。ご本人が自負心が強い性格であることがしばしばなので、ますます難しくなるのである。

 大学での経験を思いだして、もっと厳しくした方がよかったと後悔することの方が、優しくしてやればよかったと思うことよりも多いのだが、学生の方はそう思っていないらしい。 

ミステリの地理

5月29日(水)曇り後、一時雨、関東甲信地方が梅雨入り。

 少し以前のことになるが、5月17日(金)の毎日新聞夕刊は「イタリアの刑事ものに注目」として、AXNミステリーで放映されている「モンテルバーノ~シチリアの人情刑事~」を紹介していた。この番組は見ていないが、アンドレア・カミッレ―リが創造したモンテルバーノ警視ものは、白水社の文庫クセジュ所収の『ミステリ文学』(2012)でも言及されており(122ページ)、既に1990年代に日本で翻訳が刊行されているそうである(ハルキ文庫から『モンタルバーノ警部―悲しきバイオリン』と『おやつ泥棒』が刊行されている。他にも翻訳されている作品があるかもしれない)。インターネットで調べた限りでは、なぜかドイツ語への翻訳が多いようである。それにしても、「刑事」、「警視」、「警部」と職名が翻訳によって違うのは日本とイタリアの警察機構とその中での職階が違うことによる混乱であろうが、何とかならないものであろうか。

 概説書を1冊読んだだけで、ある事柄の全体像をつかんだと思うのはそそっかしすぎると思うが、いくらかでも知識を得ることができることも確かである。文庫クセジュの『ミステリ文学」はフランスを初め、イギリス、アメリカ、イタリア、スペイン、スウェーデンなどのミステリを広く紹介していて(ネタばれが多いことに気をつける必要があるが)便利な本である。とはいうものの、最近『探偵ダゴベルトの功績と冒険』(創元推理文庫)が翻訳されたオーストリアの作家バルドゥイン・グロラー(1848-1916)とか、当ブログでおなじみのオランダの作家ロバート・ファン・ヒューリックについては触れられていないというような見落としがあるのは仕方がない。ロバート・ファン・ヒューリックが翻案した公案小説の伝統がある中国でも、現代社会を舞台にしたミステリは書かれているし、東南アジア、インド亜大陸、中近東、アフリカ、ラテン・アメリカでもミステリが書かれていないとは言い切れない。そういうことを言いだすときりがない。だから、取り上げた作品を理解するためには便利な本であると言っておこう(また言及する機会はありそうである)。

 この書物をざっと読んでいて思うのは、ミステリが好まれる風土のようなものがあるらしいということと、もう一つミステリの発展が諸国の警察・司法制度の性格と関連しているのではないかということである。例えば、英国(イングランド)の場合、barrister(法廷弁護士)とsolicitor(事務弁護士)の2種類の弁護士の制度がある。「ノーウッドの建築業者」(『シャーロック・ホームズの生還』で容疑者になるマクファーレンは事務弁護士で、「ソア橋」(『シャーロック・ホームズの事件簿』)で容疑者のダンバーの弁護にあたるカミングズは法廷弁護士である。このあたりのことは、古賀正義『推理小説の誤訳』(日経ビジネス人文庫)を読むとよくわかる。

 また『探偵ダゴベルトの功績と冒険』の「解説――シェエラザ―ドとしてのアマチュア探偵」の中で、翻訳者である垂野創一郎さんが書いているところによると、官僚機構が発展しすぎたオーストリア・ハンガリー帝国では「法規制や階級制度などは形だけのものとなり、それ自身のためのデータベースの堆積となる」(367ページ)、つまり警察機構は存続することが目的となって犯罪の捜査や予防は二の次になってしまう。

 「ホームズは現実を観察し、自らのデータベースを作り上げた。ところがダゴベルトの活躍するオーストリアでは、話は逆で、データベース自身が現実、あるいは現実の蜃気楼を作り上げているのだ」(同上)ということになってしまう。そして「ダゴベルトが探偵活動と称するものの多くは、弥縫と揉み消しに他ならない」(368ページ)という結果をもたらす。各国の警察・司法制度の特色がミステリの雰囲気を支配することになると言ってよいように思える。

 しかし、考えてみるとシャーロック・ホームズの探偵活動の中にも「ボヘミアの醜聞」がそうであるように弥縫と揉み消しに属するものは少なくないのである。それで結論を急がずに、個々の作品を楽しみながら、さらに読書の視野を広げ、多くの作品に接することで、ミステリがもともと内包している可能性を改めて発掘することができると思っているところである。

語学放浪記(3)

5月28日(火)晴れ後曇り

 柳沼重剛『語学者の散歩道』は、1991年に研究社出版から刊行され、その後、2008年に岩波現代文庫から再刊された。著者は故人になられたが、主として古典ギリシア語を専攻する西洋古典学者で、筑波大学などで教えられていた。授業中の雑談が面白いと言って喜んでいた学生の1人が出版社に勤めることになった関係からこの随筆集がまとめられたという。語学、西洋古典学についての雑談的なエッセーが集められているが、研究社版と岩波版とで内容に違いがある。特に「はじめに」が岩波版では相当に短くなっている。その岩波版で割愛された「はじめに」の中に次のようなことが書かれている。

 柳沼さんは古典ギリシア語が専門であり、古典学者である以上ラテン語ができないと通用しないのでラテン語を勉強し、近代語では英語、旧制高校ではドイツ語を第一外国語とするクラスに入ったのでドイツ語、大学では文学部に入った以上英・独・仏はできないといけないと言われて、フランス語を勉強し、さらに英国に留学した時の先生にラテン語をやっておいてイタリア語をやらないとはけしからんと言われて、イタリア語も見につけたという。(研究社版、2ページ)

 それだけの言語を勉強して、その中で自分の専門以外に最も親しんだ言語が英語であるというのが興味深い。学生のころ、アメリカの進駐軍の将校のハウス・ボーイを務め、大学卒業後は新制高校の英語の教師をしたという。特に英語教育についての勉強をしたわけではなくて、旧制高校で英語の単位を取っていれば、卒業証明書と成績証明書を出しさえすれば高校2級免許証が取れるという時代だったという。ところが成績証明書を見て驚いたことに、英語の成績はすべて可であった。教頭にこんな成績でもよいのですかと尋ねたところ、不可がなければよいのだと言われたという。よい時代であったのである。

 ただ、自分の経験からすると、不可がなければよいというのはかなり信頼性のある基準である。私が大学院の入試の口述試験を受けたときに、面接した先生が君は入試の英語の成績が一番だったのに、大学での英語の成績は悪いねえ(良が1、可が3)と言われた。しかし、ドイツ語の方が成績が悪いことを見落とされたようである。とにかく「不可」があったのである(優が1、良が1、可が2、不可が2)。ドイツ語の成績が悪かったのは勉強しなかったこともあるし、その上に試験の前日に用事ができたりして、準備が不十分だったことによる。
 
 外国語の授業を担当する先生にはそれぞれの個性や方針があり、厳しい人も甘い人もいる。それにたまたま山が当たって成績が良くなることもある。それから私が大学の教養部にいたころは、外国語の先生の大部分は文学畑の人が多く、時たまそうでない人がいても哲学畑で、必ずしも学生たちの進学する方向にふさわしい内容の教材を選んで授業をしてはくれなかった。したがって、大学の外国語の成績をあまりに問題にするのはおかしい。それでもやはり「不可」についてはその事情について探っておいたほうがよいだろうと思うのである。

 なお、そのときに君はロシア語の成績が一番いいとも指摘されたのだが、そのロシア語の勉強をいち早く断念したのは皮肉である(そのくらい思い切りがよかったというのが、成績がよかった原因であるかもしれない)。

高安国世先生について

5月27日(月)晴れたり曇ったり

 前言撤回。母の仮通夜が終わり、葬儀の日程が決まってみると、ブログを中断しなくてもよさそうだということになった。もともと2~3日の中断というつもりではあったが、1日中断することがあるかないかという程度で収まりそうである。亡父は現役のサラリーマンとして死に、母は現役の主婦として死んだ。こちらは既に退職しているが、ブロガ―として現役であり続けるつもりである。

 5月26日の当ブログ「「俳句」その他」で歌人である高安国世先生からドイツ語を習ったことを書いた。本日の毎日新聞の「短歌月評」(11ページ)で大辻隆弘さんが「相対化の視線」という題を掲げて、今年生誕100年を迎える近藤芳美と高安国世の業績の再点検の試みについて取り上げている。どうも偶然とはいえ、不思議なつながりだと思って、この文章について少し紹介していきたい。

 2人は『アララギ』の土屋文明欄から出発し、戦後短歌をリードする存在であったという。高安先生については、先生が主宰されていた『塔』の5月号で、生前の高安国世を知らない世代による座談会が掲載されている。各人が「通説にこだわることなく、虚心な態度で高安短歌の魅力を語っている。・・・自分の作風に満足できず変貌をくり返した高安の姿が浮かび上がってくる」という。

 さらに大辻さんは「これら2つの特集に共通するのは、対象に一定の距離を置いた「相対化の視線」だろう」とも書いている。「晩年の近藤に老耄と頑冥を指摘し、高安の全歌業に安住できない気の弱さを看取する。2人の影の部分に対するこれら率直な表現は、両者が没してから一定の年月を経たからこそ、可能になったものだろう」という。高安先生の「気の弱さ」が影の部分であるかどうかは疑問であるが、確かに先生には気の弱い部分があったと、今になって思う。先生が授業中短歌の話をされなかったのもそのことと関係するのかもしれない。しかし、弱点が魅力になる場合もあるのである。

 「高安没後29年、近藤が逝って7年。歳月の流れは2人の歌人をいやおうなく歴史上の人物に変えてゆく。が、それによって見えてくるものも、実は、大きい」と大辻さんは結んでいるが、何が見えてくるかは人によって違うのではなかろうか。

 私が先生からドイツ語を習った1960年代半ばの京都大学の教養部は、三高時代の木造建築と、戦後建てられ、さらに建てられつつあったコンクリートの建物が並びたち、あちこちで工事が繰り返されている過渡期の学園であった。教養部はもうないのだから、それは明らかに歴史である。私の中で自分の経験が次第に歴史になってきている。どうも複雑な気分である。

 校門の前で学生が独特の口調でアジ演説をしている。グランドでは体育会の連中が練習に余念がない。その一方、ボックス長屋の片隅でブリッジをしている連中がいる。そういうキャンパスの中を高安先生はひょうひょうと自転車を走らせていた。そういった光景も、今や歴史である。

しばらく中断

5月27日(月)曇り

 昨夜20時過ぎに母が世を去った。安らかな顔で旅だったことに安どしている。これからしばらくはブログどころではないので、投稿を中断させていただく。また、お目にかかる日まで。

「俳句」その他

5月26日(日)曇り

 昨日、講談の「秋色桜」について書いたが、「俳句」をめぐる雑知識は落語や講談、その他大衆芸能を通じて得たものが少なくないことを書き忘れていた。宝井其角と大高源吾の話などはその最たるものである。「俳句」と書いたのは、俳句という言葉は正岡子規以後の文芸であって、それまでは俳諧が一般的であったと思うからである。連歌から俳諧を経て俳句に至る歴史は高校でざっと習ったと記憶するが、どうも学習が欠落している部分がある。自分で勉強すればよいのだと言えばそれまでであるが、連歌→俳諧→俳句が日本の文学、文化の重要なものであることを思うと、どうもしっくりこない。不可欠の知識というわけではないが、生涯にわたる教養の形成ということから考えると無視してよいものではない。学校での教育は、教養への覚醒を促すという点での意味を追求すべきであろう。

 現在の学校のカリキュラムで短歌や俳句がどのように位置づけられているのかよくは知らないが、教えるの方の素養が重要である。小学校のときに校長先生の担当される時間があって、そのときに「歌書よりも軍書に悲し吉野山」という句を習った。吉野山は多くの歌に歌われてきたが、その(特に南北朝時代の)悲しい歴史を最もよく語っているのは軍記物語である『太平記』であるという意味である。先生は作者の名をおっしゃらなかった(小学生にそんなことをいっても無駄だと思われたのであろう)が、ずいぶん後になって各務支考の句だと知った。それからこれは『平家物語』を子ども向けに書きなおした本を読んでいて、「平家なり太平記には月も見ず」という句に出逢った。『平家物語』には月見や花見の話が出てきて風流なところがあるが、『太平記』の方は殺伐としている(だから『平家物語』の方が文学として勝っている)ということである。これも後になって宝井其角の句であると知った。『平家物語』と『太平記』、特に『太平記』について芭蕉の門弟2人が対照的な評価をしているところが興味深い。どちらも大した句だとは思わないが、俳諧文学の性格を考えれば、支考の奇想の方に軍配を上げたいと思うがいかがであろうか。其角の周辺に秋色がいたのに対し、支考の流れには加賀の千代がいる。そのあたりも視野に入れると余計にこの対比は面白い。

 中学、高校を通じての国語の先生の1人が俳句をたしなむ方で、芭蕉の『野ざらし紀行』や『奥の細道』を読まされた。先日、TVで出演者が『奥の細道』は芭蕉の「俳句集」だなどとぼけたことを言っていたのを聞いて憤慨したのはこの先生の教育の結果である。また先生が実作者としての立場から、毎日新聞の俳句欄で飯田蛇笏が選ぶ句に見るべきものがあると言われたことを覚えている。その先生の授業で雑俳について発表したことがあって、あとでよかったと褒められた。内容のほとんどは岩波小事典と広辞苑で調べたはずだが、「雑俳」を初めとする落語に親しんでいたことが内容の理解を助けたと記憶する。そのとき1度だけのことになってしまったが、もう少し雑俳や川柳について勉強しておけばよかったという気もする。

 大学時代にドイツ語の読本の授業を担当していただいたのが歌人としても知られるドイツ文学者の高安国世先生であった。先生は授業中、留学中の想い出話をされたりしたが、短歌については一言もおっしゃられなかった。一言でも何かおっしゃっていただければいい思い出になったかもしれない。とはいうものの、私の周辺で高安先生の短歌の結社に参加している人がいたから、それなりの影響力はあったのである。

 大学の教養部では文学という授業があったが、理論的なもので創作の指導ではなかった。現在の大学ではだいぶ事情は違っていると思う。先生の個性や能力もあるが、学生の文学への興味、創作への意欲を伸ばすような授業があってもよい。プロを育てることも大事だが、他に仕事をもちながら自分なりに創作活動を楽しむような人間を育てると言うつもりでやっていくべきである。

 大学時代に詩を書いていたのだが、当時の京都ではシナリオライターの依田義賢の主宰する『骨』という同人雑誌が発行されていた。その頃は依田がどんなに凄い人であるかをしっかり認識できなかったので、作品を送ってみようなどと一度も考えなかった。後の後悔先立たずである。
 
 現在の私であるが、創作への意欲は依然としてあって、当ブログに時々詩を載せているのはそのためである。普段手帳を持ち歩いていろいろと書きこんでいるので、俳句の先生ですかと言われたことがある。間違われる職業としてはなぜか医師が多いが、画家というのも時々あった。俳句の先生というのは一度きりである。私は一応モダニストを自認しているので伝統的な詩形は遊びと心得ている。それに俳句とか短歌とかは趣味で嗜むのがよく、本業にするとなかなか厳しいものがあるのではないかと思う。

講談「秋色桜」をめぐって

5月25日(土)晴れ後曇り

 NHKカルチャーラジオ「文学の世界」『落語・講談に見る「親孝行」』(講師:勝又基)の第7回「孝行と罪――講談「秋色桜」』を5月17日(金)に、第8回「孝行旅の系譜――講談「中江藤樹の母」」を5月24日(金)に聴いた。勝又さんによると、落語と講談の違いの1つは落語に登場する人物が多くは最大公約数的なありふれた性格をもつ架空の人物であるのに対し、講談の人物は(たとえ虚構の人物であっても)その実在性が強調されるということである。この点をとらえて、勝又さんは講談が「伝記」の芸だという。「講談には、いつでもどこにもありそうなホームドラマの温かみというのは、さほどありません。ただその代わりに、伝記特有のごつごつした、手触りがあります。…さまざまな人物の生き方を、時に見てきたように、そして事実よりも熱く、聴く者の心にぶつけて響かせる「伝記の芸」。それが講談だと私は考えています」という(テキスト、79ページ)。

 「秋色桜」という話は以前に聴いた記憶がある。秋色(1669-1725)は蕉門の十哲の1人に数えられる宝井(榎本)其角の弟子である。上野の山に花見に出かけた客が桜の枝に句を書いた短冊を結び付けて帰る。酔っ払って詠んだものなので、ろくなものがない中で13歳のお秋(秋色)の詠んだ
 井の端の 桜あぶなし 酒の酔(えい)
という句が宮様のお目に留まる。(上野の輪王寺には出家した親王が住まわれることになっていた。) このことから秋色は宮様のもとに出入りを許されるようになる。

 あるとき、秋色の父親が宮様の庭を見物したいというので、彼女のお伴という形で出かけることになった。ところが夕方になって雨が降って来たので、秋色には駕籠が用意されたが、父親には雨合羽が渡されるだけであった。そこで途中、秋色は計を案じて、供のものを遠ざけ、父親を駕籠に乗せ、自分が笠と合羽を身につける。秋色の家について駕籠屋はびっくりするが、お秋は父親を歩かせて自分が駕籠に乗ったのでは間違っていると駕籠屋に説明し、このことは内聞にと頼む。しかし、これが宮様の耳に伝わり、改めてご褒美を頂いた。

 勝又さんによると、この話の前半は菊岡せん涼(「せん」はさんずいに占)が編んだ『江戸砂子』(1732)に出てくるそうで、実話かどうかはともかく、秋色の生前から、かなりまことしやかに語られていた逸話と考えてよいようである。次に後半であるが、文化年間に刊行された『俳家奇人談』(1816)に見えるものが最も早いのではないかという。ところがここでは2人が出かけるのは宮様の庭ではなくて、ある大名の下屋敷となっており、彼女のたくらみは露見しなかったという結末になっている。『俳家奇人談』では秋色の人となりは孝行者である一方で自由気ままで規範にとらわれないと評価されているのである。

 宮様から与えられた駕籠に父親を乗せるというのは孝行かもしれないが、規則からは逸脱している。親のために罪を犯すという逸話は、講師の孝行ぶりを表す道具として伝統的に用いられ、それが講談「秋色桜」における元の話の改編に影響していると勝又さんは説いている。「孝にして放(ほしいまま)」と評された秋色が伝統的な孝行者の枠組みの中に組み込まれているのである。

 勝又さんは取り上げなかったが、この話を聞いて思いだされるのは落語「抜け雀」の落ちである。小田原の宿屋に泊りこんだ大酒のみの客が、一文も持っていないと言ってついたてに雀を5羽描いて去ってゆく。ところがこの雀が朝になると飛び立って、しばらくするとついたてに戻るので評判になる。ある日、この宿に人品いやしからぬ老人がやってきて、この雀は羽を休めるところがないので、そのうちに死ぬと言って絵にかごを書き添えた。すると、雀が籠の中で羽を休めるようになる。それでますます評判が高くなるうち、元の大酒のみの客が立派ななりでやってくる。この絵を見て、「不孝の段、お許しください」と泣き伏す、不審に思った主人が尋ねると、この籠を描いたのは自分の父親であるという。「親子で名人、結構ではないですか」「いや、親を駕籠かきにした」。

 秋色の句としては「雉の尾のやさしくさはる菫かな」辺りが優れた作品であろうか。親孝行の説話が残って句の方はあまり思いだされないようである。彼女の句を認めるのが宮様であるというのも特徴的で、先生の先生である芭蕉が認めるということになると芸談になってくるはずである。それで講談「秋色桜」は親孝行が前面に出て、俳諧は添え物の感じがある。それに対し落語「抜け雀」は親孝行を無視しているわけではないが、名人芸が主題である。それも誰か権威が認めるのではなくて、雀が抜け出るという自明の事実がその技量を示している。私が講談よりも落語が好きなのは、世間の規範からより自由に生きる人々を描いていることも影響しているようである。

帽子の冒険

5月24日(金)晴れ

 帽子の冒険

風に飛ばされた帽子が
鳥になって
飛んでゆく
夢を みた

帽子から鳥を出して
お客を喜ばせている
マジシャンたちが
失業するような夢だ・・・

白い鳥は
高く高く飛んで
白い雲に溶け込んでいった
雲がいっそう白くなった

白い雲が抜けてしまいそうに
青い 青い空が
目の中に
飛び込んできて

ぼくも鳥になって
舞い上がった
空をもっと
青くするため

英語の公用語化をめぐって

5月23日(木)晴れ

 母の病状は悪化。仕事は捗らず。「落語・講談に見る「親孝行」」の放送を聴き逃す。理念と現実の落差は大きい。

 石黒圭『日本語は「空気」が決める 社会言語学入門』(光文社新書)はなかなか面白い本である。特に第11章「言葉と政治」の中で提起されている「日本の言語政策――英語の公用語化をめぐって」提出されている6つの懸念には同意したい点が多く見出された。

 第1点はこの動きが財界主導で進められている点であるという。財界だけが言語政策を主導するというのでは困るということであろう。むしろ重要なのは第2点であると思われる。第2点は言語教育について発言する官僚、政治家、財界人などに、社会言語学や言語習得研究の素人が多いということである。石黒さんは詳しく論じていないが、このことは一方でこうあればよいという願望に基づいた理念先行の議論が勧められたり、その根拠としてごく卑近で例外的であるかもしれないような発言者の経験が重視されて取り上げられ、実証的な研究や、教育現場の努力が無視されやすいという結果を招きやすい。多くの教育改革は、教師が一生懸命教え、生徒がそれを間違いなくきちんと学習するという理想主義的な前提に基づいて進められていることが多い。しかし、教育行政の課題は、教師が意欲をもってしっかり教えられる条件を整備することであろうし、教師の課題は児童生徒が意欲をもってしっかりと学ぶように導くことである。それができていないから問題なのである。

 第3点は、英語といっても一様ではないということである。ある1つの正しい英語があるというのは思い込みである。石黒さんが言うように、英語の中にもさまざまな変種がある。「重要なのは、言葉にどんな内容を盛り込むか」(265ページ)だというのはまったくそのとおりである。この点と関連して、日本の英語教育では生活言語能力と学習言語能力との区別ができていないのではないかという指摘も重要である。中身のない内容をペラペラ話しても、国際的には評価されない。中身のある内容を話せる人が尊敬を集めるというのは経験的にもそう思う。そういえば、最近は日本側からの発信ということが強調されるようになってきたが、こちらの方も政府見解を繰り返したり、画一化された日本文化を宣伝するということであっては困るのである。話し手の1人1人が自分なりに思っていること、考えていることが発信できるようになることが望ましいのではなかろうか。

 4点目は英語だけでよいのかという問題が挙げられている。日本の周辺にはさまざまな言語があるし、日本に留学してくる学生たちを見ていると、母語+英語+一言語(英語が母語の場合は英語+二言語)が世界の趨勢になっているように思われると石黒さんは論じている。これは実感だけでなく、実証的なデータを示さないといけない議論だと思うので、私なりに調べてみたい。

 5点目として、日本語も国際化しているという点が挙げられている。日本語の学習熱は内外で見られる。ブラジリア大学で日本語のセミナーに出たことがあったが、そのとき出席していた学生の中に日系人は皆無で(先生は日系人だったが)、大部分が日本のサブカルチャーに興味があるというヨーロッパ系の学生であった(日本の工業技術を学びたいという学生もいた)。言語学習の動機は経済的なものだけではないことも認識すべきであろう→これは第1の点に対する懸念を補強するものである。

 6点目は日本語を第一言語とする日本人は、日本語で思考を行っているという点である。幼い時期は、日本語でしっかりと考えられる力を養成することが大事ではないかという。

 3月2日の当ブログ「語学放浪記」で書いたが、私は小学校のころから英語を勉強してきたが、それがよかったとは必ずしも思わない。そのために中学に入って英語の勉強で油断した時期があったからである。今、多少は英語ができるようになっているのは、早い時期に英語を勉強したためではなくて、大学を出てからずっと英語を勉強し続けたからである。言語の学習は持続である。子どものうちにしっかりやっておけば、それが一生長続きするというのはどうも疑わしい。それに世の中は変わるのである。ある国際会議で出会った私とおそらく同年代のベトナム人が、子どもの頃はフランス語を勉強し、ベトナムが社会主義国になるとロシア語を勉強し、今は国際会議で英語を使うことが増えたと述べていた。英語が世界で最も有力な言語の地位を失う可能性が全くないわけではない。加えて最も有力でなくても重要な言語というのはありつづけるだろう。また言語自体もかなり変化する。英語の例をあげると、focusという語はもともとラテン語からの外来語なので複数形はfociとラテン語そのまま(英語としては不規則な変化)であったのが、最近ではfocusesの方が一般的になってきている。学校で習った英語がいつまでも通用するというのではないのである。

 言語政策にしても、言語教育にしても現実の条件や実践についての実証的な知見を踏まえて推進されることが望まれる。そういうことを石黒さんの著書のこの部分から考えることができた。

 この文章では触れなかったが、日本語を支配する「空気」について考察する各章も興味深い。安倍首相がその発言の中でレジームなどと外来語を多く使うのは、英語の公用語化論を一部先取りしようという意図が表れている(ただ、レジームは英語の中でもフランス語からの外来語であろう)のかもしれないが、この「空気」が依然として苦手だからかもしれない。 

探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点

5月22日(水)晴れ

 このところ、北海道を舞台にした映画を見ることが多くなってきた。2010年の『海炭市叙景』、2011年の『探偵はBARにいる』、2012年の『しあわせのパン』と、佳作ぞろいである。『探偵はBARにいる』の最後でシリーズ化が予告されていたので、昨年中にシリーズ第2作にお目にかかれるのかと思っていたのだが、今年になった。第3作の予告はされていないが、東直己のシリーズ小説で映画化されていない作品はまだたくさん残っているし、この作品の興行成績はよいようであるから、これからも続編が作られるだろうと思われる。

 シリーズものというのは断片的にしか見ていない作品が多く、あまり偉そうなことは言えないのだが、第2作は意外に重要な役割を担うことになると思う。第一、ここで興行的に失敗してしまって、それっきりになるということだってある。第1作の二番煎じでもいけないし、あまりに独自路線に走ってしまうとシリーズとしての持ち味がわからなくなる。物語の展開についていえば、シリーズの奇数番の作品は第1作の路線を、複数番の作品は第2作の路線を継承するというやり方もある。それで、このシリーズに即して言えば、どのような事件が起きるか、事件に絡んでどのような女性が登場するか、事件の展開の中で前作から登場している主要および、主要ならざる登場人物たちがどのようにその個性を磨きあげて行くかというところにシリーズ化にあたっての見どころであろうか。

 語り手である探偵の出入り先のショー・パブの従業員であるおかまのマサコちゃんが全国番組のマジック・コンテストに出場して優勝するが、その翌々日に殺される。事件の捜査は意外に長引き、そのうちに探偵はよからぬ病気にかかり(どういう病気かは見てのお楽しみ)、復帰後、まだ犯人がわからないので捜査を始める。ところが関係者の口は固い。マサコちゃんはむかしある政治家の恋人であった過去があり、その死因を探ることは、この政治家の封印された過去を暴くことになり、探偵は政治家の支持者たち、反対派、そして第3のグループから追いかけられることになる。捜索の過程で探偵は謎の女性に付きまとわれるが、その女性は有名なヴァイオリニストであった。探偵とその助手は、彼女の公の姿と実像のギャップに戸惑いながらさらに冒険を続ける。

 行動派だがドジを踏むことも少なくない探偵を大泉洋、マイペースだが空手の腕は立つその助手を松田龍平というコンビの持ち味は第1作と不変、これからますます磨きがかかるか、変化が生じるかも今後の楽しみである。大泉はこのシリーズの他、『しあわせのパン』にも主演していて、北海道にますます深く根をおろしている。ヒロインが犯人への復讐に走るという前作の型を踏襲すると見せかけて、意外な方向に走る物語の展開が第2作としての最大の工夫であろう。前作で謎の女を演じていたのは小雪であったが、今回は尾野真千子。小雪があくまでクールにカッコよく演じていたのに対し、尾野は食い気が盛んなところを見せたり、熱くなったりと変化のある演技を見せる。映画の中では探偵の助手になってもいいというセリフがあったが、その可能性を残しておいてもよさそうだ。西田敏行、竹下景子が出演し、カルメン・マキの歌が流れた前作に比べて配役が薄いように思われる分、出演者がそれぞれの個性を発揮して補っているように思われる。フィクションとはいっても血を見るのが嫌いなたちなので、前作よりも流血の量が少ない点も好ましい。探偵を狙って登場する野球男が昔の野球選手のバッティング・フォームばかり真似するのが、どの程度観客に分かるか。バースやポンセというのはもう30年近く前に活躍した選手である。探偵が切れて、今の札幌の強打者は稲葉だろうというのはよくわかる。札幌オリンピックのジャンプ台が出てくるが、札幌ドームが登場しないのは残念。第3作はいかなる趣向となるか。
 

愛、アムール

5月21日(火)晴れ

 あまり個人的なことはこのブログに書かないことにしているのだが、しばらく投稿が不規則になるかもしれないような事件が起きたので、最低限のことを書いておく。本日の未明、二階で生活している老母が1階のトイレに行こうとして階段から落ちて救急車で搬送され、入院した。階段を下りる途中で気を失ったようであり、またあちこち内臓が弱っているとの医師の話である。それで自宅と病院を行ったり来たりの生活が続きそうである。

 そこで、オーストリアの映画監督ミヒャエル・ハネケがフランスで製作した『愛、アムール』が急に身近に思われ始めたこともあり、この映画を見て感じたことをとりあえず書いておこうと思った。特に不自由はなく2人暮らしを続けてきた音楽家の老夫婦の妻が音楽会から帰って病気で倒れる。体が不自由になったが、自宅での生活を希望し、夫が献身的に世話をし続けるが、妻の病状は悪化し、夫も次第に疲れてくる。それだけならば、話は分かりやすいが、老夫婦には娘がいて、これも初老の域に達している。娘は両親を引き取ってもよい口ぶりなのだが、親の方はあまりそれを好まない様子である。病気や療養生活の過ごし方をめぐり、親子の間で温度差がある。どちらが正しいというわけではない。特に言い争いがあるわけではないが、溝は埋まらない。

 夫=ジョルジュをジャン=ルイ・トランティニャン。妻=アンヌをエマニュエル・リヴァが演じている。『二十四時間の情事』(広島、わが愛)や『栄光への5000キロ』など日本映画への出演があるエマニュエル・リヴァは『華麗なるアリバイ』でも老患者を演じていた。どこまでが演技でどこまでが素顔なのか分からないようなところがある。年をとってからの体の衰えは、自分の意志ではどうにも食い止められないところがある。病気やけがをすればなおさらのことである。そのあたりの表現が真に迫っている。この好配役に加えて娘=エヴァをイザベル・ユペールが演じているのはわざわざ波風を立てるような配役だな、と思ったりした。単純に夫婦愛とか、介護の苦労とかを描くのではなくて、高齢者といっても世代対立があったり、金で片付かない問題がある状況が描かれている―と理解する方がよさそうである。娘のいうことを聞いておけば母親はもっと長生きをしたかもしれず、父親はもっと楽に暮らせたかもしれない。しかし、それを2人が望まなかったことも否定できない。自分たちの生活と価値をできるだけ守り続けるために、他人の介入を認めたくない(子どもといえども他人である)という考えもあるし、他人を信頼してその介入を認める、あるいは他人の手に自分たちの生活を委ねることも必要な場合もある。正解が求めにくい問題だけに、老いてからの人生とはなんだ―と、考えてしまう。

ひばりのお嬢さん社長

5月20日(月)雨

 シネマ・ベティで『ひばりのお嬢さん社長』、『愛、アムール』、その後109シネマズMM横浜で『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』を見る。『お嬢さん社長』はシネマ・ジャック&ベティが月例で行っている上映会『ひばりチャンネル』の第39回である。美空ひばりの作品を特集上映するというのは横浜の名画座ならではの企画である。それにこの映画が製作された1953(昭和28)年ごろ、ひばりは横浜市内の『ひばり御殿』に住んでいた。小学校の遠足にバスで出かけると、ガイドさんが右手に見えますのが、ひばり御殿ですとアナウンスしたものである。とはいえ、10:15という早い時間の上映開始であるにもかかわらず私が見に出かけたのは、この作品のメガフォンをとっているのが川島雄三だからである。

 ジャック&ベティに出かけるのには京浜急行で行くと黄金町が最寄り駅であるが、日ノ出町から歩くことにしている(どうもセコイ話だが、このほうが電車代を少し得する)。日ノ出町駅で降りたところ、駅前で何か撮影をしている、よくあるぶらり散歩の類の撮影ではない様子であったが、そのまま通り過ぎたので、どんな番組かは分からないままである。

 上映に先立って美空ひばりさんを愛する横浜市民の会の会長である鶴田さんのあいさつがある。5月29日の美空ひばりさんの76回目の誕生日に先立つ、28日の生誕前夜祭(歌と踊りの祭典で映画は上映されない)の宣伝や、次回の上映について触れた後、ひばりさんの古い作品を探して上映してくれる支配人に拍手をという締めくくりにこの映画館を取り巻く暖かい空気を感じることができた。実際、このあとに見た2本の映画よりも、この作品の方が観客が多かったというところが凄い。

 祖父が製菓会社のワンマン社長というひばりは、金もちの令嬢らしく遊び暮らしている。社長の息子であった彼女の父が、浅草のレビューのスターと恋に落ちてできた子どもがひばりであり、父母が亡くなって祖父に育てられているという設定。だから本人は歌が大好きで、歌手になろうとしている。ところが祖父が病気でそのただ一人の血族であるひばりがまだハイティーンであるのに社長ということになってしまう。

 祖父から引き続き仕事を続ける社長秘書や浅草で知り合った仲間たち(その中には実の祖父もいる)の助けを借りて、彼女は会社の再建の仕事を進め、特にTVの番組で自分自身が歌うことで社の製品を宣伝する。まだ放送を介したばかりであったTVのメディアとしての力に着目しているのはなかなかのものである。ところが会社の乗っ取りを図る連中にとって彼女の活躍は邪魔になり、彼女は危機に陥るが、周囲の援助で乗り切る。

 ひばりの歌とレビュー・シーンを目玉にした他愛のないストーリーであるが、わがままな令嬢が自分に対して批判的なことをいう男性にかえって惹かれるが、その男性には別に好きな女性がいると知って身を引くというもう一つのストーリーの展開は、この後の川島作品である『東京マダムと大阪夫人』と共通する。また水上バスや裏長屋を見せる下町の風俗の描きかたなどに川島らしい趣味が窺われる。まだ若い桂小金治がそれなりに重要な役どころで姿を見せているのが楽しく、助監督を中平康が務めていたことを知ったのも収穫である。
 

平山昇『鉄道が変えた社寺参詣 初詣は鉄道とともに生まれ育った』

5月19日(日)晴れ後曇り

 石黒圭『日本語は「空気」が決める 社会言語学入門』(光文社新書)を読み終える。この本については後回しにして、昨日読み終えた平山昇『鉄道が変えた社寺参詣 初詣は鉄道とともに生まれ育った』について書いてみるつもりである。

 一般に古くからの伝統だと思われていることが、実はそれほど古くから広がっていたことではない、あるいは近代になって再解釈や、再定義によって改造されたり、あるいはまったく新しく生み出されたりしたものであるということは少なくない。その場合、そのような再解釈や再定義がどのような意図によってどのように展開されたかを知ることは、意味のないことではあるまい。

 「社寺参詣のために敷設された鉄道は多い」という従来からの言説に対し、この書物は鉄道各社の集客競争の中で社寺参詣の動員力が注目され、それまでの「恵方詣」に代わって、「初詣」が普及するようになったことを鉄道各社の社史や新聞広告等の資料に基づいて実証する(特に西宮神社をめぐる研究の詳しさは敬服に値する)。恵方詣は年ごとによって異なる恵方(縁起の良い方角)にあたる神社仏閣に参詣することによって歳徳神(その年の幸運をもたらす神様)のご利益をさうかることを願うものであった。このやり方だと年によってお参りする神様が違ってくるので、沿線の神社に参拝する利用客は流動的になる。安定した方法を求めて鉄道各社は初詣のご利益を強調するようになったということである。

 首都圏、京阪神の他、より広い範囲の人々とかかわる伊勢神宮や仙台と塩竃神社のような事例についても目が配られているが、これ以外の地方についてはどうだったかについて目を配ってもよかったという気がする。例えば出雲大社をめぐってはどのような物語があるのか。太宰府天満宮や、宇佐八幡についてはどうなのか、気にしていくときりがない。

 著者は初詣が実はレジャー行動でもあったという側面を明らかにしているが、この点と関連して例えば浅草の観音様の近くには吉原遊郭があるというような信心の別の側面も掘り起こしてよかったかもしれない。そこまでいかなくても、堀之内祖師(杉並区)をめぐっては落語を引き合いに出して語った方がわかりやすいのではないか。落語と言えば、「恵方詣り」と言われていた落語が「山号寺号」で知られるようになった経緯というのもこの書物の趣旨と関連しそうである。楽しく読める本であり、示唆に富むだけでなく、いろいろと考えさせるものを内包する書物でもある。

中川正之『漢語からみえる世界と世間 日本語と中国語はどこでずれるか』

5月18日(土)晴れ

 平山昇『鉄道が変えた社寺参詣 初詣は鉄道とともに生まれ育った』(交通新聞社新書)と中川正之『漢語からみえる世界と世間 日本語と中国語はどこでずれるか』を読み終える。今月はまだ1冊しか本を読んでいなかったので、今日1日のうちに2冊を加えても、月の半ばを過ぎたのにまだ読み終えた本は3冊である。今日は、『漢語からみえる世界と世間』を取り上げて論じてみようと思う。

 題名からわかるように、この書物は中国語と比べながら日本語の特色を論じようとする書物である。それも、中国語を勉強したことのない読者にも分かりやすく読めるように、「千年以上も昔に日本語に大量に流入してきた中国語である漢語と、根っからの日本語である和語との比較、あるいは現代中国語と日本で通用している漢語との比較」(まえがき)を展開している。そしてそこから「世界と世間」のような外の世界の見方についてのより深い考察も行っている。
 
 日本語は中国語がそれほど厳密には分けていない何事かを区別して表現しようとしていることに著者は着目する。一方は感覚的・個人的な領域に関する表現であり、他方は論理的・集団的な領域に関する表現である。例えば、冷酒を「ひやざけ」と訓で読む場合は前者、「レイシュ」と音で読む場合は後者、同じ音読みでも罰を「ばち」と呉音で読む場合は前者、「バツ」と漢音で読む場合は後者であり、大きな傾向として訓読みよりも音読み、和語よりも漢語、呉音よりも漢音の方が分類的・抽象的な意味を示しているという。

 以下、日本語と中国語の具体的な会話場面に即してさまざまな考察が展開される。中国語の学習者にとっては役立つ例が多いし、たぶん、日本語を学ぼうとする中国語の話し手にとっても役に立つのではなかろうか。例えば、中国語で「妖精」というと①化け物、②妖婦の意味だという。これは日本語における意味合いと食い違う。日本語では下位概念を示すことばが上位概念を表す語と共通する例(「くるま」は「車」一般という意味でも「自動車」という意味でも使われる)が多いが、中国語では両者が区別されている。また漢語と現代中国語とを比べてみると、漢語が中国語の変化に影響されず、古い意味を保っている場合が少なくない。その一方で漢語の大半が、中国でのごく普通の日常的用法を欠落させてしまっていることも指摘される。日本語は「なる」言語的な性格が強く、中国語は日本語のような「なる」言語と、英語のような「する」言語の中間的な性格が強いとも指摘される。

 その他の比較を含めて、著者は最後に「世界と世間」の問題を取り上げる。日本人の多くは世間を気にしていて、世界はどこかよその事柄だと思っているという。確かに、世界史というと日本史は含まれない。もちろん、日本語と中国語、日本語を使用する人々の世界の見方と、中国語を使用する人々の世界の見方をこうだと断定してしまうことは性急な試みであるかもしれず、この書物の議論の多くがさらに多くの事例を突き合わせることによって修正される必要はあるだろう。加えて私の読み方が乱暴で、書物のかなりの部分を省略して紹介しているので、不正確になっているかもしれない。それでも、面白い本であることに変わりはないし、実際に役立つ内容を多く含んでいることを強調しておこう。一例をあげると、李白の「静夜思」の第1行「牀前看月光」で李白はどこでどうしているのだろうか。157~159ページをご覧ください。
 

河原の石

5月17日(金)晴れ

 河原の石

河原に
ごろごろ
転がっている
石は
みな
同じように見えて
同じではない

川の水に浸され
川の水に流され
川底に押し付けられ
他の石にぶつかり

人間に拾われたり
人間に捨てられたり
大事にとっておかれたり
彫刻の素材にされたりする

姿と同じくらい
石の運命は
ひとつ
ひとつ
違う

その石を刻んで
作られた
彫像の表情も
ひとつ
ひとつ
似ているようでもあり
全く違っているようでもある

吉本隆明『吉本隆明の下町の愉しみ』

5月16日(木)晴れ後曇り後雨

 5月14日の朝、早く目が覚めたのでその日のブログに書く文章を書いた。外出して帰宅が遅くなることを見越してそうしたのだが、帰宅したときにそれをころっと忘れていて手元のノートをひっくり返してさらに14日分(のつもり)の詩を掲載した。

 本日は、カルチャーラジオの「落語・講談に見る親孝行」を聴いて考えたことを書こうと思っていたのだが、番組を聴き逃した(あす再放送を聴くつもりである)。どうも注意力が落ちている。ロバート・ファン・ヒューリックの『北雪の釘』を昨日読み終えたので、この書物についての文章を書いてもよいのだが、まだ考えがまとまらない。それで、昨年9月に読んだ吉本さんの本について取り上げることにする。

 『吉本隆明の下町の愉しみ』は、2003年に青春出版社から『日々を味わう贅沢』として刊行された書物の題名を改め、同社から新たに新書版として出版したものである。1990年代から2000年代の初めにかけて執筆された16編のエッセーと3編の掌編小説を集めている。著者の周辺の事物に対する観察眼と抒情的な文章が詩人としての吉本さんの側面をうかがわせ、70代に入ってまだその感性が衰えていないことが見て取れる。

 例えば、「四季の愉しみ」という文章では「季節は魔法のように移る」(16ページ)という締めくくりの文が強い印象を残し「上野のかたつむり」という文章では、大原富枝の遺著『牧野富太郎』を読んで、谷中にある牧野の墓を訪れ、その近くにたくさんいたカタツムリが、最近姿を消してしまったのはなぜか―と考えたりする。「銭湯の百話」では先頭についての想い出をたどりながら、「孤独」について考えている。ここでは「容易く世界は一つなどと言ってもらいたくないし、容易く民族の伝統などと言ってもらいたくない」(97ページ)という言葉が胸に突き刺さる。吉本さんが敬愛してやまなかった宮沢賢治について触れた「イーハトーヴの冬景色」という文章では、賢治の童話のもつ懐かしさや温もりと、どこか冷たい孤独感について指摘しているのが印象に残る。

 一方で下町育ちの生活への郷愁とこだわりを持ちながら、それらの思い出をつづる中で孤独を感じているのは育った環境からいつの間にか離れてしまっている吉本さんの偽りのない気持ちであろう。猫(ねこじゃらしで猫と遊ぶというエピソードに驚かされる)をはじめ、いろいろな小動物への愛情や、ホームレスに対してそっとしてあげたいという気持など、吉本さんが周辺の人物や事柄に抱くさまざまなつながりや距離感の表明のすべてに共感できるというわけではないが、愛着のもてるエッセー集である。

風の武士

5月15日(水)晴れ、暑し

 昨日(5月14日)、シネマヴェーラ渋谷で「復活!! 久保菜穂子」特集上映の中から、『絶海の裸女』、『風の武士』の2本立てを見た。久保菜穂子さんは1952年に新東宝に1期スター候補として入社し、その後新東宝の経営難から東映に入社、1963年にはフリーとなり、大映、松竹などの多くの作品に出演した。その中には中川信夫、石井輝男、深作欣二、加藤泰、鈴木清順、池広一夫らの監督の注目すべき作品が含まれている。また、そうでなくても日本映画史上いろいろな意味で記憶しておく必要がある存在だと思われるので、この企画に拍手を送っておきたい。

 『絶海の裸女』は1958年の新東宝作品。監督は野村浩将。川内康範が脚本に名を連ねている。題名で観客を呼ぼうということらしい。この作品の製作者でもある大蔵貢は映画の題名に「と」をつけて、観客が二本立てだと思うように錯覚させたという話があるが、『シネマヴェーラ渋谷通信』119号に述べられているように「久保は“裸女”どころか水着姿すら披露しない」。孤島に漂流して、野性むき出しの生活を送る場面で、そのスタイルの良さが強調されているだけに脱ぎっぷりが今ひとつなのが残念ではある。物語は孤島で仲間に裏切られた男の復讐譚として展開するが、どうも安易な作りである。

 さて、加藤泰監督の『風の武士』。1964年の東映作品。司馬遼太郎の原作を野上龍雄が脚色。御家人の次男坊、名張信蔵はその怠惰な生活を兄嫁の律にとがめられながら、一膳飯屋の女将であるお勢以と通っている道場の娘であるちのの二股をかけるもて男ぶりを楽しんでいる。しかし、ある日その目の前で流血の事件に出逢い、道場主からは秘密を見た以上自分たちの味方となれと言われ、それが不調に終わると、師範代の高力伝次郎と対決する羽目に陥る。その場を助けた謎の男、猫。

 老中水野和泉守から呼び出しを受けた信蔵は熊野の山奥に<やすらぎ>の里という秘境があり、外の世界から独立した生活をしてきたところ、紀州藩がその併合を図っているので、その野望を阻止してほしいという幕府への要請があったと聞かされる。信蔵は猫と協力してその要請にこたえることを命じられる。どうやら道場主、高力、それにちのは<やすらぎ>の人間らしい。道場主は殺され(誰が殺したかは、観客にはわかるが、ちのと信蔵には分からないことになっている)、ちのと高力は東海道を西へと向かい、その行方を信蔵も追う。途中、猫の命令を受けたというお弓という女が信蔵に付きまとう。

 原作は伝奇的な要素が強いというが、映画化では信蔵(大川橋蔵)と女たちのさまざまなやり取り、特に後半になってちの(桜町弘子)とのロマンスが強調されている。ちの、お勢以(久保)、お弓(中原早苗)、それに兄嫁の律(野際陽子)と登場する女性たちの個性が、四季の風物とともに美しく描き出されているところに加藤泰らしい映画作りの特色がみられる。

 久保さんの再評価というのは、賞賛すべき試みであると思うが、他にも再評価を試みるべき女優さんは少なくないはずである。例えば、桜町弘子さんの出演作については、昨年ラピュタ阿佐ヶ谷で特集上映をしていたことを思い出す。桜町さんというと東映の時代劇での出演作を見ておらず、その後の山下耕作の『博奕打ち・総長賭博』の鶴田浩二の妻の役だけがいやに印象に残ってしまい、かなり固定したイメージを抱いていたのだが、この作品を見て改めて時代劇にも視野を広げて女優としての個性を探るべきであると思った。

与太郎

5月14日(火)晴れ、暑かった

 東京に出かけ、遅く帰る。本日の成果については日を改めて書くことにしよう。

 古いノートに書きつけた詩を書きなおして、眠ることにする。1月12日の当ブログに「よたろうさん」という詩を書いたが、それよりも古く、落語の与太郎さんについての詩を書いていたことに気付いたのである。

 与太郎

徳川三百年を
与太郎で過ごし
黒船を
与太郎で迎える

文明開化を
与太郎で追いかけ
憲法発布を
与太郎で万歳し

日清日露の
戦勝の
提灯行列に
与太郎でついて行き

大震災を
与太郎で切り抜け
空襲を
与太郎で逃げ回って

戦後の復興を
与太郎で支えてきたが、
平成の世に
与太郎は住みにくい
いい子も悪い子も
与太郎ではない。
おとなしく燗の番をして、
ろくろっ首に驚く
与太郎が見つからなくなった。

語学放浪記(2)

5月14日(火)晴れ

 昨日の映画『ブルーノのしあわせガイド』の論評の中で、イタリアの教育(制度)には時代遅れの不適切な部分が多々見出されるということを書いたが、日本についてみた場合、高等教育における「第二外国語」を再考する必要があるのではないか。千里の道も一歩よりはじまるというが、一歩歩いただけで千里を踏破したつもりになってはいけない。ある進学塾では学習の到達度を55段階で評価しているというが、これは自分の学習を客観的に見つめさせるという意味で適切なやり方である。大学で「第二外国語」を勉強したことは、習得することとは別のことである。普通まずはじめに勉強する「外国語」である英語の場合、人によって違いはあるが少なくとも4歩か5歩、学校の授業以外にもいろいろ工夫したりして努力した人はもっと多くの距離を稼いでいるはずで、それに比べると出発が遅れた「第二外国語」の場合、それ以上の努力をしないと追いつくことは期待できない。

 努力というのは自発的なものであるから外から働きかけてうまくいく性格のものではないが、それでも「外国語」の学習については教師の影響力がかなり大きいと思う。その一方でどういう先生がいい先生であるかという定義が難しいのも事態をさらに複雑にしている。

 大学に入学したときに「第二外国語」の履修についてのガイダンスをされたのが、塩谷饒先生であった。先生曰く、ドイツ語と英語ができると、その中間のようなオランダ語もできるようになるので面白い。先生はドイツ語もオランダ語も教えられているほどに両言語に通じていらしたからそういうセリフがはけるのだけれども、大学に入学したての右も左も分からない学生にこんなことをいってもまごつくだけである。ご自分の特殊な事情を普遍的なものとして語ってくれては困る。それにオランダ語ができることにどういう意味があるのか・・・ということも説明の必要があったはずである。(それを言うと、ドイツ語でもそうだし、英語だってそういうことになる。)

 世界的にみると、ドイツ語が重視されている国・地域は偏在していて、日本がその1つであるのはかなり有名な話のようである。江戸時代の特に後半に日本では蘭学が発展したが、オランダ語とドイツ語は(塩谷先生が言われたように)近縁性があり、明治の初めの岩倉使節団が米欧を視察した中で急速に富国強兵を達成した(何せ普仏戦争の直後であった)ドイツに注目したのはかなり自然の成り行きであった。しかし、その後の歴史をみると、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経てドイツ語の国際的な地位はかなり下がって来たのでドイツ語を過度に強調することは不適切になって来たことも否定できない。確かに現在においてもドイツは世界第4の経済大国であり、世界の主要国の1つであるからドイツ語を学ぶこと自体の意義はあるが、ドイツ人とごく普通に交流するだけならば英語で話が通じるので、その分英語をしっかり勉強する方が確実である。多くの人々が少しだけドイツ語をかじるよりも、ドイツ語がよくできる少数の精鋭がいる方がはるかに実利はあると思われる。

 日本在住のあるドイツ人の先生がこんなことをいっていた。日本の大学のドイツ語教授はヨーロッパの学校のラテン語の教授に似ている。言語を死んだ言葉として教えている。その意味について考えると、ドイツ語教授の主な内容は、あるテキストを読むこと、解釈することに重点が置かれている。既存のテキストを読み解くことだけに教授の焦点を当てれば、それは言語をそこに既にあるもの、変化しないものとして教えることになる。言語は変化している。文脈によってそのあり方を変える。そんなことを示唆しようとしたのであろう。ドイツ語に限らないが、「外国語」のいい先生というのは、その言語を学ぶことの意義を自問自答し、学習者によく説明できる先生、その言語の生きた姿を知り、その言語とともに生きている先生である。ただ、そのような先生であっても、学習者がその努力や誠意を受け止めるとは限らない。いい先生の定義が難しいというのはそういうことである。それに生きた言語という言い方をすると、ラテン語や古典ギリシア語、サンスクリットやパーリ語の教師の場合はどうなのか・・・という話にもなる。当ブログに何度かその逸話を書いてきた水野有庸先生には、学会で相手かまわずラテン語で話しかけて嫌がられた(嫌がる方にも問題はある)という逸話がある。先生にとってラテン語は生きた言語であったように見受けられる。過度に熱意を押し付けられて辟易する場合もあるので、その点のバランスのとり方に工夫が必要であろう。

 私自身について言うと結局のところ、大学時代を通じてドイツ語よりも中国語を、大学を出てからはスペイン語を勉強した時間の方が多いので、ドイツ語はいわば「第四外国語」になっている。ゴルフのハンディ―に譬えると、英語が14、中国語が30、スペイン語が32、ドイツ語が33、フランス語とラテン語が34、イタリア語が35、古典ギリシア語が36、ロシア語が問題外というのが今のところの自己評価である。

ブルーノのしあわせガイド

5月13日(月)曇り後晴れ
 銀座シネスイッチ2でイタリア映画『ブルーノのしあわせガイド』(Scialla!)を見る。脚本家として活躍してきたフランチェスコ・ブルーニが初めて監督した作品である。NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編Cinecaffe "Pensieri e Parole"2の4月放送分で取り上げられていた。

 現代のローマ。15歳のルカは母親のマリーナと暮らしている。気はいいのだがどうも生活不規則、学校や勉強とは何とは相性が悪い。勉強についていけないので、元教師で今は家庭教師兼ゴーストライターであるブルーノに指導を受けている。ブルーノは元ポルノスターで、現在はアダルト映画のプロデューサ-であるティーナの自伝の代筆のために彼女の話を聞いたり、なじみのバールで新聞を読んだり無駄話をしたりしている。そんな2人の生活に変化が生まれる。

 向上心に富んだマリーナは資格を取ってアフリカのマリで仕事をすることになり、(秘密にしてきたのだが実はルカの父親である)ブルーノにルカを預けることになる。こうしてブルーノとルカの共同生活が始まる。ルカの学業成績と態度について学校のデ・ビア―ジョ先生は厳しい評価を下し、そもそも高校ではなく職業訓練校に行くべきであったという。それに承服できないブルーノはルカの生活を改めさせ、彼に特訓を行って進級試験に合格させようとする。一方、何か大きなことをしたいと考えているルカは麻薬のカリスマ的な密売人であるポエタ(詩人)と関係をもつ。

 4月号のテキストのコラム「◆ボロボロの学校◆」で触れられているところによると、「イタリアでは、まともな人間は学校や勉強についてごくオーソドックスな考え方をもっていて、それは日本人の一般的な感覚とはずいぶん違うようだ。例えば教養とはそもそも人生をより深く理解し、より豊かに生きるためのアイデアの総体であって、学校がそれを教え、学ぶ場だとすれば、その結果としての成績が実社会で役に立つかどうかはまた別の話になる」(110ページ)。ブルーノがルカに教えるのはラテン語の文法であったり、『イーリアス』や『アエネイス』の内容であったりする。それがルカのこれからの人生にどのような意味をもつかについては日本人の観客から見ると、かなり疑問に思えるところである。ところが、ブルーノもデ・ビア―ジョ先生も、それどころかティーナやポエタでさえもこのような教養とそれが教育の主要な内容であるべきことを疑っていないのである。ルカがこれからどんな職業を選んで、どのように生きて行くかと全く関係のない教育の成績が彼の人生と大きな関係をもってくるかもしれないのである。

 映画の題名Sciala!はromanescoと呼ばれるローマ方言の中の、若者特有の言葉で(標準語ならばStai sereno)「まあいいから」「大丈夫」というような意味だという。ローマの若者ことばが連発されるこの作品は、イタリア国内で字幕なしで上映されたときよりも、海外で字幕付きで上映されたときの方が反応がよかったという。そういう言葉の問題も手伝って、現代のイタリアの社会と教育(制度)が若者にとって不適切極まりないものになっている状況がコミカルに描かれている。(実際のところは悲劇かもしれないが、あまりにも深刻すぎて、笑って時間を稼ぐよりもよい対処の仕方が見いだせないようなのである。)

 簡単には解決が見いだせない状態にまで追いこまれたイタリア社会の問題が明らかにされる(ポピュリスト政治家の政策によって解決できると信じている人がまだ少なくないというイタリアの大衆社会状況も問題ではある)。幕切れに近づくにつれて物語の展開が速くなり、演出が冴えて来るように思われるので、最後の最後まで画面から目を離さないことをお勧めする。ブルーノのヴェネト方言と、彼を取り巻く人々のローマ方言の対比などということがわかるほど、こちらがイタリア語に通じていないのが残念であった。Chi va piano, va sano e va lontano. (ゆっくり行くものは安全に遠くまで行く。)というイタリア語のことわざもある。そういえば、Pianoという言葉が、ルカとブルーノが2人でバイクに乗っている場面で使われていた。
 

いちごの花

5月12日(日)晴れ

 久しぶりにニッパツ三ツ沢球技場に出かけ、横浜FC対愛媛FCの試合を観戦した。両チームとも得点をあげられぬままに試合が終わる。まことにスッキリしない。

 いちごの花

白い いちごの 花に
集まってくるのは もんしろちょうだけだ

いちごの 花が
春の 日差しに 浮かれて
飛び出してしまったのか
遊び疲れた 蝶が
そのまま 眠り込んで
花になってしまったのか

もんしろちょうは 白い いちごの
花の 周りだけを 飛び回る

それなのに いちごの 実は
赤い

白い 花と 白い 蝶が
遊びまわっている ときに
赤は
どこに 隠れているのか

入試改革か教育改革か

5月11日(土)雨

 東京大学が推薦入試の導入を骨子とする入試改革案を発表した。これまでのやり方では確保できなかった個性的な学生を増やそうというのがその意図のようである。

 さらにその背景になっている事情を斟酌すると、最近、盛んになっている各種の国際大学ランキングで、東京大学は日本の大学では首位に立っているが、国際的にみると今ひとつというところなので、さらに頑張ろう、そのためには学生の質を変えて行こうということらしい。したがって孤立した試みというよりも、9月入学制への移行のような他の改革と連動する動きと見るべきである。

 物事はやってみなければわからない。今回の改革についてとやかく言うよりも、その成否を見守る方が公正な態度ではあろう。しかし、実施にあたっていくつか投げかけておきたい疑問がある。

 その第1は大学が「個性」というものをどう考えているかということである。1人1人の人間はそれぞれ他と区別される特色をもっている。それを「個性」と考えるのであれば、すべての人間は「個性的」である。「個性的な学生を増やす」という議論自体が、どうも胡散臭く感じられてしまう。

 むかしむかし、林竹二の講演を聴いていたく感銘を受けたことがある。一人ひとりの子どもはそれぞれ素晴らしい可能性をもっている、彼があるところで現場の先生を相手にそういう話をしたら、「そうはいっても先生、出来ること出来ない子がいるでしょう」と言われたというのである。

 林竹二も、現場の先生も間違ったことはいっていない。議論がかみ合っていないだけである。できる子にはできる子の、出来ない子にはできない子の可能性がある。それらの子どもの可能性は個性的なものである。それぞれの可能性を伸ばすことは本人の問題であるが、可能性に気づいて努力するのを援助することはできるはずである。それが教師の仕事であろうが、なかなかできない、それはなぜか・・・という方向に議論をもっていくべきであったのであろう。

 実は東大の推薦入試について、センター試験で一定程度の成績をとることが前提となっていて、やはりできる受験生の間での「個性」が問題になっているようである。だとすると、大学としてはもっとその「個性」の中身について具体的に説明する必要があるのではないか。

 もっとも、最近は推薦入試、AO入試についても専門の予備校ができている。大学が入試改革をすると、受験産業の方もそれに対応する。その繰り返しが続いてきたというのが真相のように思われる。今回の東大の入試改革についても、受験産業はそれなりの対応を試みることが予想される。大学が求める個性を具体的に示して、手の内を明かしてしまうと、受験産業に付け入るすきを与えることになると考えたのかもしれない。

 だとすれば、むしろ大学は入試よりも、入ってからの学生の教育に重点を置くべきである。そういう議論に対しては、大学は十分に教育の改革に取り組んできたが、どうしてもそれだけでは限界があるから、改めて入試改革に取り組むのだという反論があるだろうが、大学入学後の教育において、学生の個性にどの程度配慮がなされているのかについては疑問をさしはさむ余地がある。「個性的な学生を増やす」よりも、今いる学生の個性を発掘し、伸長することに重点を置くべきである。大学には大学の専門的な研究・教育の領域があり、それにふさわしい個性の持ち主を選びたいという気持ちはわかるが、個別の学問についての情熱に目覚めさせることこそ大学の教師の仕事であろう。その一方である種の意外性のようなものも考えに入れておく必要もあるだろう。そこにこそ新しい学問の発展の芽があるはずだからである。

 さらに言えば、人間のすることにはどんなことでも失敗はあるのであって、入学試験にも選抜される側だけでなく、する側の失敗もあることは念頭に置く必要があるだろう。間違って入ってきちゃった学生が多少いても、それは仕方がないし、大学にもそれを認めるだけの雅量があってよいのではなかろうか。間違って入ってきても、学生相互の磨き合いの中でこれまで眠っていた可能性を開花させることができるかもしれない。それでももし、そのような学生の存在を認めたくなければ、単に教育のやり方を工夫するだけでなく、学生の学習到達度についてより厳しい基準を設けて、厳正な評価をすることが必要であろう(つまり気に入らない学生はどんどん追い出せということである)。いずれにせよ、大学教育には(というよりも教育全般には)我慢比べのようなところがある。入試改革は、我慢の性格を変えるかもしれないが、依然として我慢比べが続くことは覚悟しておくべきであろう。

ヒッコリー・ロードの殺人

5月10日(金)晴れ後曇り

 クリスティーの『ヒッコリーロードの殺人』(Hickory,Dickory,Dock, 1955)を読み返している。第二次世界大戦後、少し落ち着いてきたロンドンの学生寮で起きた連続殺人事件にポアロが取り組む。学生寮と書いたが、もともとの英語ではStudent hostelと表現されているらしく、個人の所有で学生だけでなく一般の勤め人も入居させている。バス・トイレは共用、食事つきである。持ち主はニコレティス夫人という感情の定まらない老夫人であるが、ハバード夫人という実務能力にたけた経営者がいて、寮の生活を取り仕切っている。ところが、この寮でしきりに奇妙な盗難事件が起きてハバード夫人を悩ませる。

 ハバード夫人というのが実はポアロのきわめて有能な秘書のミス・レモンの姉であり、姉の心配事が妹に伝染して、ミス・レモンが彼女にあるまじき仕事上の間違いをする。そこで気になったポアロがヒッコリー・ロードにある学生寮に出かける。(ヒッコリー・ロードは架空の地名で、ロンドンのたぶんウェスト・エンドのどこかであろう。リージェント・パークが出てくるからその近くと考えればよいかもしれない。)

 盗難事件そのものは簡単に片付き、寮で生活する心理学者の卵コリンの気をひくためにおこなった、同じく寮で生活する薬剤師のシーリアの仕業とわかる。そして二人は婚約を発表するが、あくる朝に、シーリアが死体で発見される。最初自殺と思われるが、そうではないという確たる証拠が出てくる。一連の事件の中には、シーリアが自分でしたのではないと言っていたものがあり、何かもっと奥の深い奇怪な事件があるように思われる。寮に不穏な空気が立ち込める。

 学生寮が舞台になっているので、コリンとシーリアの他に、中世史専攻のナイジェルと考古学専攻のパトリシア、医学生のレンとアメリカ人でフルブライト留学生のサリーという3組の男女の関係が展開する。その行き先はある程度まで予想がつくものではあるが、必ずしも後味のいい結末とはならない。犯人がわかる前に読んでも、分かってから読んでもあまりこの印象は変わらないのではないか。おそらくはそのために、この作品はそれほど人気のあるものではないが、ロンドンの大学の中で、時代も違うしごく短期間ではあるが暮らした経験がある私にとってはある種の身近さが感じられる作品である。この中にアキボンボというアフリカからの今ひとつ英語が達者でない留学生が出てくるが、彼の言動を見ていると何となく自分のロンドンでの生活が思いだされて苦笑せざるを得ない。

 つけ加えておくと、ロンドン大学というのは学位授与機関であって、研究や教育は個々の高等教育機関が行っている。その中でユニヴァーシティ・カレッジとキングズ・カレッジが総合的な高等教育機関としてさまざまな学部をもっている他に、この時代は理系のインペリアル・カレッジと社会科学系のロンドン・スクール・オヴ・エコノミクス(LSE)という2つの専門教育機関がその傘下に入っていた。今ではインペリアル・カレッジはロンドン大学から独立しているので、インペリアル大学などと紹介されている。ユニヴァーシティ・カレッジ、キングズ・カレッジ、それにインペリアル・カレッジのそれぞれに医学部や付属病院がある他に、ロンドン大学の傘下にある医学校や病院は他にもある。それでコリンとレンはセント・キャザリン病院に所属しているというのだが、これは架空の病院らしく(全部ではないと思うが、ホームズに出てくる病院はセント・バーソロミュー病院、チャリング・クロス病院など実在のものが多い)、したがって彼らがロンドン大学のどこのカレッジの所属なのかは推定しがたい。

 クリスティーはナーサリー・ライム(イングランドの伝承的なわらべ歌)から発想を得た作品を多く書いているが、これもその一つ。ただし、題名と内容のつながりがもう一つ弱いようにも思える。しかし全般的に言えば、クリスティーのわらべ歌や古典からの引用の生かし方は実に巧みであることも付け加えておこう。それが具体的にどういうことかは、これから書いていくつもりである。

二十四孝

5月9日(木)晴れ

 NHKカルチャーラジオ「文学の世界」『落語・講談に見る「親孝行」』第6回「する孝行と聞く孝行―落語『二十四孝』」を聞く。前回に続いて、三代目三遊亭金馬の口演の一部を聞くことができた。それが何よりも嬉しい。

 『二十四孝』は中国の史上から24人の孝行者を選んだ中国の古典文学で、元時代に郭居敬という人が作ったと言われる。日本には江戸時代以前に伝わり、大変よく読まれてきた。勝又さんは触れなかったが、『お伽草紙』の中に含まれているほどである。ということは子どもにもよく読まれたり、読み聞かせられたりしてきたということである。

 落語「二十四孝」はがさつで乱暴者の八五郎が大家のところに駆け込んで、離縁状を書いてくれという。妻だけでなく、母親にも出すというのであきれた大家が「二十四孝」のわかりやすそうな逸話を選んで話して聞かせるが、八五郎は混ぜっ返してばかりいる。それでも大家に、親孝行をしろ、そうすれば離縁状を書いてやると言われて、家に戻り、母親から死んだ父親の墓参りに出かけて来いと言われて、墓参りをすると墓石がぐらぐらと揺れる。帰宅して妻に事の次第を告げると「まあえらいことがあるもんだねえ、だけどお前さん心配してたんだよ、さっきの地震にどこで遭ったい?」

 笑いの対象になるのは八五郎であるが、彼にも言い分はある。1つは「二十四孝」に出てくる親の要求が日常生活のレヴェルを離れていることである。第2にその解決に奇跡が絡んでいることである。このことについて、勝又さんは江戸時代を通じて孝行の徳に天が感じるという「孝感」は一般的に信じられていたし、われわれの意識の中にもそのような考えの名残りがあるのではないかと指摘している。江戸時代という異文化を理解するうえで考慮すべき議論であろう。

 そして笑いの対象となっている八五郎が大家さんに屈しないで説教を茶化す場面では、むしろ「二十四孝」の不適切性が明らかにされている。この点で勝又さんが、庶民が日常生活のレヴェルで親を大事にするという親孝行=「する孝行」は実践可能であるが、物語としては面白くなく、日常レヴェルを越えて奇跡が起きるような「聞く孝行」が面白くて耳になじむという2つの孝行の区別を論じているのは興味深い論点である。

 この議論とは別に問題にしてよいのは、「二十四孝」が子どもの想像力と経験の発達に即して不適切な物語を含んでいるのではないかということである。この点については魯迅が『朝花夕拾』の中で論じている。郭巨の釜堀の話を読んで、自分が穴に埋められるのは困ったことだと思ったという。これは決して批判精神が豊かな賢い少年だけのもつ感想ではなかったのはないか。

ヴァン・ルーン『人間の歴史の物語』(5)

5月8日(水)晴れ

 特殊撮影映画の名匠として知られたレイ・ハリーハウゼンが91歳で亡くなったそうだ。彼の『アルゴ探検隊の大冒険』(Jason and the Argonauts,1963)を1970年代の初め頃だったと思うが、渋谷にあった全線座で見たことを思い出す。そんな映画館があったことを知らない人の方が多くなっているのではないかと思う。

 『アルゴ探検隊の大冒険』はギリシア神話の英雄イアーソンが黄金の羊の毛を求めて行った冒険を映画化したものである。イアーソンはコルキスの王女メーデイアの協力を得て羊の毛を手に入れることができ、冒険の末ギリシアに帰りつく。高津春繁によると、もともとの話は簡単だったらしいが、だんだん話が複雑になっていったそうである。(高津『ギリシア神話』(岩波新書、75-90ページ、特に86ページをご覧ください。) 

 さて、ヴァン・ルーンの書物に話を戻すが、フェニキア人についての章に続くのは『インドヨーロッパ語族』(The Indo-Europeans)という不可思議な章である。どこが不可思議かというと、「インドヨーロッパ語族」というのは言語学の概念であって、特定の民族を指しているわけではない。しかし、19世紀に比較言語学的な研究が始まったころは言語の系統的な関係が、民族の系統的な関係と結び付けて考えられた。20世紀になってもその傾向は残っていたということである。

 We call this race the Indo-European race, because it conquered not only Europe but also made itself call this race the Indo-European race, because it conquered not only Europe but also made itself the ruling class in the country which is now known as British India. (我々はこの民族をインドヨーロッパ語族と呼ぶ。なぜならばそれはヨーロッパだけでなく、今日英領インドとして知られている国の支配者ともなったからである。) raceは普通「人種」と訳されているが、この場合「民族」と訳すべきであろう。「人種」は形質人類学的な概念で、インドヨーロッパ語族に属する言語を話すからと言って、話す人々をすべて同じ「人種」とみなすことは難しい。欧米のユダヤ人の一部が話すイディッシュ語がインドヨーロッパ語族に分類される例を思い出せば、これはよくわかることだと思う。ルーンはイディッシュ語の話し手と接する機会があったはずだが、このことについて考えていない(イディッシュをドイツ語の方言とみなしていたのかもしれない)。

 ルーンは一方でヨーロッパの多くの言語がインドヨーロッパ語族に属していることについて触れ、次に同じ系統に属する言語がイランの高原でも話されていたことに触れる。
Under the leadership of Zarathustra (or Zoroaster) who was their great teacher many of them had the leadership of Zarathustra (or Zoroaster) who was their great teacher many of them had left their leadership of Zarathustra (or Zoroaster) who was their great teacher many of them had left their mountain homes to follow the swiftly flowing Indus river on its way to the sea. (彼らの偉大な教師であったツァラトゥストラ(あるいはゾロアスター)の指導のもとに、彼らの多くは山の中の本拠地を去って、海へとインダス川の急流沿いにその道をたどった。)

 これは全く歴史的な事実とは食い違った記述である。ゾロアスターはペルシア人の伝説的な宗教指導者であって、彼がアーリア人のインド亜大陸進出を指導した訳ではない。

 その他の人々はメディアとペルシアという半独立の共同体を築き、そこからペルシアという国ができる。ペルシアはやがて西アジアとエジプトを統一する帝国を建設し、さらに西へと進出する。

But in this they did not succeed. (しかし彼らはこれに成功しなかった。)

It was the first encounter between Asia, the ancient teacher, and Europe, the young and eager pupil. was the first encounter between Asia, the ancient teacher, and Europe, the young and eager pupil. A great many of the other chapter of this book will tell you how the struggle between east and west many of the other chapter of this book will tell you how the struggle between east and west has continued until this very day. (それが古くからの教師であるアジアと、若く熱心な生徒であるヨーロッパとの最初の出会いであった。この書物の他の章の大部分は君たちに、どのようにして東西の間の戦闘が今日ここに至るまで続いてきたかを告げるだろう。)

 ルーンが公正で客観的な歴史記述を心がけようとしていることは理解できなくもないが、やはり欧米中心の歴史となっていることは否定できない。

 彼がこの書物を書いた頃は、まだヒッタイト語がインドヨーロッパ語族に属する言語であることが一般的な知識とならず(ハンガリーの学者フロズニがヒッタイト語はインドヨーロッパ語族に属する言語であるという説を学会で発表したのは1915年である)、このあとに出てくるミュケーナイ文明の線文字Bは未解読であった。第二次世界大戦後、線文字Bが解読され、古い時代のギリシア語であることがわかって、インドヨーロッパ語族の全体像がかなり変化することになった。そういうこともあって、この章の記述は現在では大いに書き直される必要がある。

 もっと大事に思えることは、ヨーロッパの言語は同じ言語系統に属するものが多いと言っても、勉強する場合には一つ一つ確実に勉強していく必要があるということである。似たようなものだから大丈夫だろうなどとのんきな気分で多くの言語に手を出して失敗した経験があるので、このことは強くいっておきたい。ルーンの本のこの章には、英語のmotherがオランダ語ではどういう、ドイツ語では、フランス語では・・・とインドヨーロッパ語族の近縁性を説明する図が載せられているのだが、どうせなら林檎は英語でapple、フランス語ではpomme、イタリア語ではmelaなんて例も取り上げてほしかった。
 

天使の分け前

5月7日(火)晴れ

 4月30日(火)に銀座テアトルシネマでケン・ローチ監督の『天使の分け前』を見た。そのあとで東京国立近代美術館フィルムセンターで岡本喜八監督の『独立愚連隊』を見て、その批評は昨日の当ブログに書いた。『天使の分け前』の批評を書くのは難しいが、この映画の雰囲気は詩で紹介する方がわかりやすいかもしれないと思う。

 天使の分け前

上等なウイスキーは
特別な樽に詰めて
熟成される
樽の中に忍び込むことのできる
天使たちが
こっそりと
試飲している
だから
樽を開けたとき
ウィスキーは少しだけ
減っているという

アダムとイヴの昔はもちろん
イエスが
福音を説いたとき
ウィスキーなんてものはなかった
だからウィスキーの飲み過ぎは
新しい罪にちがいない
天使たちは酔っ払うと
悪魔にだってなる
(嘘だと思ったら、
ミルトンをお読みなさい)

それでもどこかに
地上に堕ちてきた
天使たちのどこかに
天国の記憶と
天使だったときの能力は
残っている
それが
幸運をつかむ鍵だ

天国にはウィスキーはないだろうが
もっといい酒の記憶を
残している奴がいる
彼らはグラスゴーの町でペンキを塗ったり
ハイランドの道を醸造所へと
キルト姿でヒッチハイクしたりしているが、
ウィスキーの利き味をするという
見た目には危なっかしいやり方で
幸運への鍵を
試そうとしている

強い風雨に耐えるように
頑丈につくられた屋並みと
石畳の道が続く町から
はるかに広がる
緑の野原と
湖の土地へと
よりよい人生を
求め続けている

独立愚連隊

5月6日(月)晴れ

 4月30日(火)に東京国立近代美術館フィルム・センターで「特集・逝ける映画人を偲んで2011-2012」の中で上映された岡本喜八監督の『独立愚連隊』を見る。映画を見てから1週間近くたってからようやく批評をまとめるのはわれながら不器用な仕事ぶりであるが、Better late than never. (遅れてもしないよりはまし)ということわざもある。

 上映によって追悼されている佐藤允の最初の主演作であり、代表作である。全編を通じて、若々しく生き生きとして嬉しそうな表情が印象に残る。話全体は決して明るいはずのものではなく、戦争末期の軍のよどんで弛緩した雰囲気ときびきびとした主人公のアクションとが好対照となっている。

 『独立愚連隊』という題名がかなりインパクトが強い。この映画が封切られた1959年の秋に中学生だった私は、反抗期の真っただ中であったことも手伝ってか、映画は見なかったが、言葉だけはずっと記憶してきた。

 弟の見習士官の死の真相を突き止めようと、原隊を脱走して従軍記者に身をやつした下士官がたどりついたのは中国北西部の部隊、さらにそこで本隊から見捨てられたくずのような兵士だけを集めた独立愚連隊という分遣隊が最前線に配置されているという。記者はその舞台へと馬を走らせる。馬賊との接触や、彼を追う従軍慰安婦の存在などが絡んで、事態は思いがけない方向に進展していく。

 部隊の設定からいえば戦争映画であり、主人公が弟の死の真相を突き止めて行くという進行はミステリー仕立て、原野を馬で行く場面は西部劇風、やたら威張っている副官の射撃の腕が全く駄目だったり、世界の三船が頭に変調をきたした部隊長を演じたり、霧の中で馬を走らせた主人公が実はほとんど進んでいなかったりという喜劇風の場面もある。岡本監督が助監督時代に書きためた脚本を映画化したものだというが、張り切り過ぎの詰め込み過ぎの感じがしないでもない。娯楽映画としての性格を強めるのであれば、映画の背景をよりあいまいにして無国籍化を図る一方で、愚連隊の隊員の個性をもっと描き分けるとともに、ミステリーの解明に物語の進行を絞った方がよかったのではないかとも思う。題名通りに『独立愚連隊』をもっと活躍させるべきであった。屑のような兵隊に意外な特技があったというような展開こそ、娯楽映画としての興味につながるのではないだろうか。

花は萎れかけているが

5月5日(日)晴れ

 ロンドンのタヴィストック・スクエアはブルームズベリー地区によくある一種の公園であるが、平和や人権のために貢献した人たちの記念碑や像が並んでいるところに特色がある。2005年の3月にロンドンに出かけたときに、この詩を書いたが、悲しいことにその年の7月7日に起きたテロの際に、爆弾がこの近くで爆発した。それでもその後ガンジーの像にはずっと花がささげられ続けている――はずである。

 花は萎れかけているが

あなたに捧げられた
花は 萎れかけているが
花を捧げた
人たちの心は
萎れていないはずだ

花は 萎れているだけでなく
乾きかけてもいるが
あなたの志は
決して忘れられているわけではない

正義と平等と平和のために
知恵を働かせ
勇気をもって
非暴力を貫いた
あなたの努力は

かれることのない 泉だ
マハトマ・ガンジーよ

 

親孝行の人気

5月4日(土)晴れ

 5月1日に、NHKカルチャーラジオ文学の世界『落語・講談に見る「親孝行」』の第5回「孝行者は人気者―落語『孝行糖』』を聴く。

 頭は悪いが気立てのよい与太郎が親孝行だというので奉行から青緡(あおざし)五貫文(現在の貨幣価値では12万円ほどだそうである)を頂く。長屋の者たちがこれを元手に商売をさせようと考える。むかし嵐璃寛という大坂の役者が江戸に出て、中村芝翫と共演し東西の人気役者の共演ということで大当たりをとった。そのときに大坂の商人が璃寛茶に芝翫茶という反物を売り出して大もうけをしたが、江戸の方でも負けずに璃寛糖・芝翫糖という飴を売ってひと儲けしたという例から、孝行糖という飴を売らせようと話になる。

 本来ならば五貫文の中から飴売りの衣装や道具一式を買いそろえるところだが、長屋の人々がそれぞれ金を出しあって準備を済ませてやり、売り声まで考えだして覚えさせてやる。親孝行の徳で、飴がよく売れる。それで与太郎はますます張り切って商売に励む。ところがある日、水戸の殿様の屋敷の前まで売りに出て鳴り物は禁じられているのに鳴らして門番にひどく打擲(ちょうちゃく)される。通りがかった人がとりなしてくれて、愚か者であり、親孝行であるという事情がわかって放免される。「馬鹿野郎、よっぽどぶたれたろう。どことどこをぶたれた?」「こぉこぉとぉ、こぉこぉとぉ(孝行糖)」

 この話はもともとは大阪でできた話だとされる。明治初期の大阪に孝行糖という飴を売り歩く行商がいて、そこからヒントを得て大阪で作られた話を二代目の三遊亭金馬が東京に持ち帰って今のような話にしたというのが通説である。しかし、文献を調べると、孝行糖売りという商売の歴史はもう少し遡ることができるという。

 江戸末期、神田の御成道(現在の秋葉原周辺)で露天の古本屋(貸本屋という説もある)をしていた藤岡屋由蔵という人物が、江戸の噂や事件などがあれば書き留めた日記を書き続け、1804(文化元)年から1868(明治元)年までの65年間、152巻におよんだ。この『藤岡屋日記』の1846(弘化3)年の記事に、孝行糖売りのことが挿絵入りで記されている。孝行糖という菓子売りが来て、その服装は、半纏に雪と筍の絵が描かれていたという。雪と筍は中国の二十四孝の中の孟宗の故事にちなむものであり、落語がこの孟宗が老來子になっているが、飴売りの口上はほとんど同じである。

 要するに『孝行糖』という落語は歴史的な事実に根拠があり、そういう飴売りが商売として成り立つだけの親孝行を尊重する精神風土が江戸時代末から明治にかけての日本にはあったということである。講師である勝又さんは、松尾芭蕉と高山彦九郎が孝子を訪ね歩いた例を挙げてそのような精神風土の存在を強調する。そして江戸時代の孝行者が人気と尊敬を集めたことをオリンピックのメダリストのようであるとも論じている。

 前回の放送について触れた「親孝行の周辺」(4月28日付の当ブログ)では6代目の三遊亭円生の口演が紹介されたが、今回は三代目三遊亭金馬(1894-1964)の口演の一部が放送された。勝又さんは1970年生まれだそうだから、三代目の生前の声は聞いたことがないはずであるが、他の演者でなく三代目を選んだのはそれだけ定評のある口演だからであろう。(残念ながら美声ではないのだが)声がよく通り、口調がしっかりしていて分かりやすい。「楷書芸」と評されたゆえんである。私淑していた三代目三遊亭円馬の芸の豪快な面を継承したと言われる(これに対して、黒門町の師匠こと八代目桂文楽は繊細な面を継承したと言われる)。

 根岸の師匠とかやかんの先生とか呼ばれた三代目には想い出や暮らしぶりなど身辺に関する雑談集である『浮世断語』という面白い本があり、この種の本をもっと書いておいてほしかった(編集者が聞きだしておいてほしかった)と思う。ある人間が話したいと思っていることと、他人が知りたがっていることは必ずしも一致しない。そのあたりの折り合いをつけて、面白い本をまとめて行くのが編集者の仕事である。

 ところで一つ疑問に思うのは、与太郎が飴をどこから仕入れていたのか、それとも与太郎かその周囲の人たちが自分で作っていたのかということである。この落語ができたことの人たちには分かっていたことだろうが、現在になってみると調べなければ分からない。あるいは調べてもすぐには分からないことなのかもしれない。
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