2013年の2013を目指して(4)

4月30日(火)曇り

 4月も30日間日記を書き続けた。また当ブログも書き続けた。ブログのうち「日記」に分類したものが2件ある。郵便が6通(旧職場からの連絡、同窓会関係2通、異動の連絡、展覧会の案内、友人のハガキ通信)届いた。1月からの累計では日記が120日分、ブログが120件(日記10件)、郵便117通である。

 小田原市に出かけた。都営浅草線、JR東日本の小田原駅、都営浅草線の宝町駅を利用した。

 11冊の本を買い、11冊を読んだ。読んだ本はアレクサンダー・キャンピオン『パリのグルメ捜査官①予約の消えた三つ星レストラン』、柳田国男『日本の昔話』、井上寿一『理想だらけの戦時下日本』、千田稔『古事記の宇宙――神と自然』、椎名誠『世界どこでもずんがずんが旅』、柳田国男『日本の伝説』、柳田国男『海上の道』、バルドゥイン・グロラー『探偵ダゴベルトの功績と冒険』、海老坂武『加藤周一 ニ十世紀を問う』、海部美知『ビッグデータの覇者たち』、植草甚一『ぼくは散歩と雑学がすき』である。『探偵ダゴベルト』はドイツ語圏の推理小説で、ウィーンが主な舞台であるが、あまり面白くなかった。

 『ももいろそらを』、『横道世之介』、『天使の分け前』、『独立愚連隊』の4本の映画を見ている。日本映画3本(新作2本、旧作1本)、外国映画1本ということである。銀座テアトルシネマと東京国立近代美術館フィルムセンターに今年初めて出かける。銀座テアトルシネマはこの作品を最終上映として閉館するそうである。残念。

 フランス語、イタリア語の時間を20回ずつ聴いている。ラテン語の勉強を始めるつもりだったが、なかなかそこまで手が回らない。この他カルチャーラジオ『落語・講談に見る「親孝行」』を4回聴いた。

 サッカーの試合は観戦せず。トトもあてていない。

 ノート4冊、万年筆のカートリッジ2本、ボールペン3本、蛍光ペン2本を使い切っている。

 たぬきそば、天ぷらそばを1杯ずつ、カレー丼とかけそばのセットを1食たべている。アルコール類を飲まなかった日が17日ある。

 この調子で2013年の2013を達成できるかちょっと不安になっている。この他にも記録している物事がないわけではないが、改めてどこかで数を稼いでいく必要も生まれてくるかもしれない。
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アガサ・クリスティー『殺人は容易だ』

4月29日(月)晴れ

 『殺人は容易だ』(Murder Is Easy, 1939)については1月4日の当ブログ「二等車の運命」でこの小説の最初の方の場面について少しふれたことがある。ロンドンに向かう列車の一等車の中で主人公であり語り手のルーク・フィッツウィリアムは奇妙な老婦人と同席する。彼女の住んでいる村で、ひそかに連続殺人が行われている。彼女はその犯人を知っていて、これからスコットランド・ヤードに訴えに行くというのである。軽く聞き流していたルークは、翌朝の新聞を見て呆然とした。例の老婦人が車にひき殺されていたのだ。

 ルークはロンドンで彼がその住まいに身を寄せていた友人のジミー・ロリマーにこの話を告げ、さらに老婆が話の中で触れていた医師がやはり死去したという記事も発見する。老婆と医師が住んでいたウィッチウッド・アンダー・アッシュという町にはジミーのいとこのブリジェット・コンウェイが住んでいてタブロイド週刊誌の経営者であるホイットフィールド卿の秘書から婚約者になっているという。ジミーはブリジェットに連絡を取って民俗学の研究のためにウィッチウッドを訪問するという名目で事情を調べることを提案する。ルークはこの提案に従ってウィッチウッドに出かけ、ホイットフィールド卿の屋敷に受け入れられる。

 ブリジェットはルークの正体をすぐに知ってしまうが、それでも彼女の協力を受けながらルークは町の事情を調べはじめ、この町ではさまざまな事件が起きていたことを突き止める。靴屋の息子に生まれ、店の店員からたたき上げて成功して郷里の町に戻ってきたホイットフィールド卿の周辺にはさまざまな波風が立っているようである。

 1939年に発表されたこの作品は一般にそれほど高い評価を受けているわけではないが、私はわりに好きである。若い(と言ってもこの作品の場合はそれほどでもない)男女が怪事件を捜査するとともに、次第に2人の中が深まっていくというクリスティーの作品群の中によくある展開をもっているためかもしれない。事件の方も恋愛の方もそれぞれもつれながら、事件は終盤に急展開して、意外な結末を迎える。事件の解決にスコットランド・ヤードからバトル警視がやってくるというのが、実はこの作品の犯人探しのヒントになる。それから『殺人は容易だ』というこの書物の題も、ヒントとなるはずである。

親孝行の周辺

4月28日(日)晴れ

 4月25日(木)に放送されたNHKカルチャーラジオ文学の世界『落語・講談に見る「親孝行」』の第4回は「親の厳しさと甘さ―落語『火事息子』『ラーメン屋』」として、これらの2つの演目の一部を放送しながら、落語に描かれた親子関係をめぐる情愛の機微について論じる内容であった。特に『火事息子』については六代目三遊亭円生の口演が紹介されていて、懐かしかった。

 質屋である伊勢屋の息子の徳三郎は小さい頃から火事が好きで、火消しになろうとするが、どこへ行っても相手にされず、仕方なく臥煙(がえん)という火消し人足になり、そのため家からは勘当されてしまう。あるとき、伊勢屋の風上に火事が起き、店では防火のために蔵に目塗りをしなければならないのだが、職人が間に合わず、店の者だけで目塗りをすることになる。ところが素人なのでうまくいかないのを、臥煙になった徳三郎が駈けつけて手伝ってくれたおかげで無事に終えることができる。

 手伝ってもらった番頭に実は勘当された若旦那がと打ち明けると、父親である主人はもう他人だといったんは拒むが、番頭に説得されて渋々承諾し、親子が久々に対面する。はじめは型通りにあいさつを交わしていた親子であるが、全身刺青姿の息子を見て父親はだんだんと小言じみた物言いになってくる。このまま気まずくわかれそうになったところへ母親がやってきて、風向きが変わり、話は落ちへと進む。

 講師である勝又基さんの説明もさることながら、六代目三遊亭円生の口演、特に父親の性格描写が実に見事であった。なかなか自分の感情を表に出さないが、実は心の中にさまざまな葛藤が秘められているというところは、六代目の人物そのものであったようにも思える。

 六代目の不肖の弟子であった川柳川柳師匠は次のように書いている:
 圓生師がこんなことをいっていた。
「わたしは、芸術院会員なら喜んでいただくが、あの国宝てえのは、いけません。どこかの島の婆さんが機を織ってたり、なんか焼物をしてる汚い爺さんが、泥なんかこねてる。私はあんなのと一緒にされたくありやせんな」
 実に圓生らしい言葉だ。悔しいから、そんな憎まれ口を利いているが、本当に選ばれればホイホイ喜ぶにきまっている。(『ガーコン落語一代』河出文庫、2009、155ページ)。

 ついでながら、泥をこねている汚い爺さんであった河井寛次郎は人間国宝を辞退している。それはそれとして、親しい仲だからこその憎まれ口というのもあるだろうし、自分の心情を正直に言うことへの気恥ずかしさもあるだろう。心の中の葛藤をそのままの言葉で表現せずに、憎まれ口や小言の中に感情を込めることで一層人間、それもそのあたりに転がっている平凡人の精神の奥深くまで描き出すことにこそ話芸としての落語の価値があるのである。そういう話芸の奥行きを久々に感じることができた。

海老坂武『加藤周一 ニ十世紀を問う』

4月27日(土)晴れたり曇ったり


 海老坂武『加藤周一 ニ十世紀を問う』(岩波新書)を買ったのは4月22日で、24日に読み終えている。読むには比較的簡単であったが、論評するとなるとそう簡単ではない。

 その理由の一つは加藤の業績が簡単に整理できる性質のものではないためである。海老坂さんの言葉を借りれば、彼は「『文学とは何か』の文学批評家であり、『運命』の小説家であり、「雑種文化論」の文明批評家であり、『日本 そのこころとかたち』の美術史家であり、『日本文化における時間と空間』の思想史家であり、『夕陽(せきよう)妄語』の時評家であり、「九条の会」の政治的行為者であり、エトセトラ。いわば多面体の存在である」(2ページ)。さらに言えば、加藤はフランスを中心とするヨーロッパ文化の研究・紹介者であり、読書人であった。岩波新書に入っていた『私の読書法』は各界の有名人がそれぞれの読書体験を述べたエッセイを集めた書物であったが、その中で新書と文庫しか読まない(訳はないのだが)という加藤の文章は大きな影響力をもった。(少なくとも私に対してはいまだに影響力を及ぼしている。)また加藤は内外(外の方が多いのが凄いところであるが)の大学の教師を務め、社会人としての出発点においては医師であった。

 多面体といっても、その中には輝いている面もあるし、それほどではない面もある。それとは別に私が触れたことがある面と触れていない面がある。多面性に加えて、多くが社会的な状況や文学会の動きに関連して書かれたものであるために体系をなしているとは言い難いし、量的にも膨大であることも考えてよかろう。しかし全体としてみると、加藤は海老坂さんが言うように<観察者>として政治運動に参加しても周辺の方にいたし、政治や経済よりも文化の方に興味を持ち続けていた。海老坂さんが加藤を知るために最もよい本であると推奨している『羊の歌』は読んでいないので(今度、読んでみようと思う)あるが、私自身としては文明批評家として、時評家としての加藤の仕事ぶりには瞠目してきた。これはこれらの仕事が<観察者>としての立場をより多く要求するものであることによるものではなかったか。

 興味深く読んだ個所を挙げて行くと、加藤が初めて渡仏して「戻ってきた」という印象をもったのに対して、海老坂さんが「そのほぼ十年後にやはり留学生としてフランスの土地を踏んだ私の目から見ると実に驚くべき言葉である。私にはすべてがすべて日本と違って見えたからである」(96ページ)。ヨーロッパの研究をしていると、ヨーロッパに出かけて何となく懐かしくなる部分もあるし、日本との違いを感じる部分もある。そのどちらを強く感じるかはその人の成育歴や世代、出かけたときの年齢などさまざまな要素に影響される。私の印象は海老坂さんに近い。

 『日本 そのこころとかたち』の中に含まれる重大な示唆:「民俗宗教に対する仏教とキリスト教の対応の違いを、『共存』と『組み入れ』の違いとして捉えている個所。これは、イスラム教の場合を含めて一冊の本のテーマともなるだろう。」(193ページ)。キリスト教にも「共存」が、仏教にも「組み入れ」があると海老坂さんは続けて論じているが、確かにもっと掘り下げてよい問題が含まれている。またどちらでもなく「融合」や「乗り越え」を志向する立場もあるだろう。

 『夕陽妄語』の中の歴史教育をめぐる指摘:「一国の歴史の叙述を自慢話に還元しようとするのは、その国の文化の未熟さを示す」(226ページ)。ここは『旧約聖書』の「列王記」と「歴代誌」を持ち出して論じると議論がふくらむところである。

 加藤という知の巨人の業績を概観して、読者の彼に対する考えを整理し直すためだけでなく、たぶん入門書としても役立つはずである。 

柳田国男『日本の祭』(1)

4月26日(金)晴れ、夜になって一時雨が降ったようである

 午後、『舟を編む』を見に出かけるつもりだったが、雷雨になるという予報を真に受けて見に出かけなかった。そのうち出かけることにしよう。

 柳田国男『日本の祭』(角川ソフィア文庫)を読んでいる。巻末の「新版解説」で安藤礼二さんは「柳田国男がたった一人で創り上げてしまった民俗学という新たな学問がいったいどのような可能性をもつものであったのか、おそらくは最も体系的に説明してくれる稀有な書物である」(257ページ)とこの書物の性格をまとめている。次から次へと発想を展開していく語り口の多い柳田がここでは、かなり体系的に自分の研究成果を述べているのは、戦時下に大学生、それも理工農医の学生が多く集まった中で行った講義に基づいているからであろう。

 本題に入る前のまえおきのような形で展開されている「学生生活と祭」は、大学の学園祭の話ではもちろんなくて、研究対象としての「祭」に大学生はどのように取り組むべきかを述べようとするものである。それに先立って、柳田は大学と大学生について注目すべき意見を述べている。

 柳田が大学生であった明治時代と、講義が行われた1941(昭和16)年では学生生活の様相は異なっている。しかし変わっていない部分もあるのである。明治と比べてどころか、「遠くは平安朝の大学生と比べても、さして大きなちがいのない点もありうる」(9ページ)とさえ言う。「この昔から現在へと変遷したものを、明らかにすることももちろん歴史であるが、それと同時にその千年以来を一貫した何物かのあることを知らず、時さえ過ぎれば何でもかでも、必ず変わっているにちがいないと即断してしまわぬように、注意させてくれるのもまた歴史の学問である」(同上)とも述べる。これは少なくとも2つの点で注目に値する意見である。

 まず平安朝時代の大学と明治以後の大学とを同一視しているとはいえないまでも、共通性のあるものとする見方である。大学は文明開化の一環として欧米から輸入された制度であるという考えを彼は受け入れていないように思われる。もう一つは、歴史には変化を研究する側面と、変化しない一貫したものを研究する側面とがあるという主張である。

 歴史が国民全体の普通教育の不可欠の部分となっているのは、なぜか。「これによって我々は今までよりももっと賢くならなければならぬのである」(11ページ)。伝統と向き合うことによって我々は賢くなることができるはずである。そのような探求の対象として「祭」を取り上げるという。

 柳田は「日本の祭」を論じるまえおきとして、日本社会での学問と学生のあり方が特定の社会層に限定されたり、あるいは現実の社会から遊離した道楽であったりしたことを述べる。しかし、大学生について考えても、高等教育の勉学の成果よりも家庭や学校外の社会生活を通じて身につけた生活の知恵の方が実社会では貴重な役割を演じることが多い。そのよう知恵を蓄積してきた現実の生活と向き合うべきであると論じる。

 その際に問題となるのは、民衆が自分たちの生活を卑下して新しい学問を盲信してしまう傾向、その一方で学者が身近な問題に目を向けない傾向である。柳田はどんな人間のすることにも動機はある、それをあっさり蒙昧などと片付けてはならないと説く。

 そこで社会律として浸透していたものが3つあり、1つは婚姻にかかわるもの、2つ目が共同労働に関する法則、そして3つ目が祭であるという。そのなかである種の楽しさをもって語ることのできるのは「祭」であり、それがこの問題を取り上げる理由であるとしている。

 柳田がこのように論じたのは70年以上前のことであり、この3つがそれぞれかなり変容していることに気づくはずである。と同時に、やはり連続性を最も強く感じるのが祭ではないかとも思う。

 以下に続く日本の祭についての議論はまた別の機会に紹介することにしたいが、柳田が一方で学問は社会に貢献すべきことを説き、他方で愉しみのある探求でなければならないとしていることを確認できたのが、今回の収穫であった。

 

植草甚一『ぼくは散歩と雑学がすき』(1)

4月25日(木)晴れ

 JJ氏こと植草甚一さん(1908-1979)とは一度すれ違ったことがある。もう40年も昔のこと、京都の河原町通りの本屋で本を買ったら、店員さんが私の前に買い物をしたお客の噂をしている。その人がJJ氏だったというわけである。当時、植草さんの本はよく立ち読みしていて、この『ぼくは散歩と雑学がすき』の書き出しなど、何度も読んだおかげで今でも記憶しているが、とうとうそこから進まなかった。今、植草さんの本を読んで、もっと早い時期に読んで知識を蓄えておけばよかったと思う個所が少なくない、その一方で呼んでも読まなくてもいいやと思うような部分もある。それが雑学の雑学たるゆえんである。

 例えば、昨日の当ブログでフリッツ・ラングの『暗黒街の弾痕』(You Only Live Once)について触れたが、この作品について植草さんはポーリン・ケールというアメリカの映画批評家の『俺たちに明日はない』(Bonnie and Clyde)に至るアンチ・ヒロイズムの映画の系譜で論じた文章を紹介している((214-222ページ)。視野を広げることのできる文章である。他人の文章を要約紹介しただけじゃないかなどというなかれ。目をつけただけで立派である。

 スタンリー・キューブリック(植草さんはクブリックと表記している)についての文章、特に彼の『博士の異常な愛情』をめぐる「人間の想像力には限度があるし、政治家にしろ軍事家にしろ、リアリティには、とてもかなわないんだ」(236ページ)という指摘には植草さんの想定範囲の広さとその限界への自覚が示されている。

 4月23日の当ブログで映画『横道世之介』について論じたとき、≪教養小説≫について筆を滑らせたが、この点に関連して植草さんが、1970年代のアメリカの青年の生き方をめぐる小説について論じながら、「アメリカの小説を読んでいるとき、これは奇妙な珍しい特徴だと思うのは、青年期にたっした年ごろの主人公が、ほとんどいつも描けていないということである」(319ページ)と述べ、その一方で「ドイツ教養小説」との類似性を述べているのも注目に値する。「どっちも主人公が学生であってあらゆる経験は、たちどころに哲学化され、その価値判断は作者の独り合点できまってしまうからだ」(320ページ)。ドイツ文学にはほとんど縁がないし、アメリカ文学も多少かじっただけだからこの点については論評できない。しかし記憶しておこうと思う意見である。

 そういうわけで他人の意見を面白がって要約・紹介する文章が多いのだが、その面白がっているところに著者の持ち味が出ている。当ブログもそのように楽しんで書き進めたいものである。

 まだ読み終えていないので、読み終えたらこの続きを書く(かもしれない)。

映画ノートについて

4月24日(水)曇り、予報ではこれから雨が降るようである。

 4月22日(月)に日本テレビ(4チャンネル)で放送された朝の情報番組「スッキリ!」で、女優の(というよりも元AKB48と言った方がわかりやすい)前田敦子さんが映画が好きで、見た映画をノートを作って記録しているという話題が取り上げられていた。大部分はDVDで見ているが、映画館にも出かける、新橋の駅のガード下の映画館に出かけたこともある、その際に見た映画は『ゴッドファーザー』であったということであった。

 新橋の駅のガード下の映画館というのは新橋文化のことで、映画館の名前を知らなくても、そういえばわかる。この映画館は時々掘り出し物の作品を上映する。4月27日、28日にはフリッツ・ラングがアメリカに渡ってから撮った『暗黒街の弾痕』(1937年)を上映するそうである。

 4月19日(金)にキネカ大森に出かけたら、映画ノート(というよりも手帳)を売っていた。1部840円ということだったので買おうかと思ったが、既に市販のルーズリーフを利用して映画ノートを作っているのでやめることにした。ルーズリーフの映画ノートには見たい映画の上映時間、見たい映画についての紹介記事の抜粋、今映画館で上映されている映画の中で自分が見たことがある作品がどのくらいあるか、実際に見た映画についての記録(いつ、どこで見たかの確認のために入場券を貼りつけることにしている、スタッフ、出演者、あらすじなどを書く)、その他を書いている。記録中心のこのノートは持ち歩かず、映画を見ての批評や感想のメモはいつも持ち歩いている雑記帳に書き込み、その後文章にまとめていく。雑記帳に書いたメモはできるだけ早く捨てるようにしている。

 前田さんはまだ若いからそんなことまで考えていないだろうが、これからずっと映画を見続けると(映画というメディアがその形を変えるかもしれないが)ノートは膨大な量になるはずである。それを整理保存ということになると、結構エネルギーを使うことになるかもしれない。テレビに写されたノートを見る限り、やはり記録は最低限のもののようであるが、あるいは別に出演者の演技についてのメモもとっているのかもしれない。メモをとるよりも記憶して体にしみこませた方がいい――と思ってメモを取らないのならば、見上げた役者魂の持ち主ということになるだろう。真相はどうだろうか。

横道世之介

4月23日(火)晴れ

 4月19日にキネカ大森で『横道世之介』を見た。批評がなかなか書けないままに時間がたってしまい、映画を上映している映画館も少なくなってきた。不完全でもいいから、少し書きたいことを書いてみようと思って書き進める次第である。

 1980年代に東京の大学に入学したために長崎から上京した横道世之介という学生が周囲の人間と接触しながら積み重ねる約1年間の経験を描く。大学での友人たち、同郷の先輩や仲間、それに彼があこがれる年上の女性千春、彼に思いを寄せる富豪の令嬢祥子、そして長崎にいる高校時代の恋人であるさくら・・・。とともに、この映画はそれから16年たった(21世紀の初めの)彼らの姿と彼らの想い出の中の世之介をも描く。

 吉田修一が毎日新聞に連載した小説の映画化。映画化にあたって吉田さんはコメディーにしてほしいと要求したそうで、世之介と付き合っているときの祥子の型破りな行動などに喜劇的な要素が盛り込まれている。スタンダールは『パルムの僧院』の主人公の生涯を幸福なものであるとして描いたというが、幸福にもいろいろある。コメディーにもいろいろあるということであろうか。

 大学に入学して東京に出てくる学生の生活を描くという試みは、漱石の『三四郎』以来少なからず取り組まれてきた。『三四郎』は1908(明治41)年9月から12月まで朝日新聞に連載されたが、それに先立って8月19日付の同紙にこんな予告文を書いているそうである。

 田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入った三四郎が新しい空気に触れる。さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して色々に動いて来る。手間は此空気のうちに是等の人間を離す丈である。あとは人間が勝手に泳いで、自ら波瀾ができるだらうと思ふ、さうかうしてゐるうちに読者も作者も此空気にかぶれて是等の人間を知る様になることとしんずる、・・・たゞ尋常である。(高橋英夫『偉大なる暗闇』25-6ページより重引)

 この引用をした高橋さんの著書には、小川三四郎、佐々木与次郎という平凡な名前に既に類型化が施されていることも指摘されている。『横道世之介』の場合、この風変わりな名前が類型化を促しているようである。そしてこれは三四郎の時代と世之介の時代とでは大学生の社会的な評価が違ってきていることの表れと解するべきである。新入生が巻き込まれる空気が描き出されるという点で『横道世之介』は『三四郎』の系譜に連なっているが、高等教育の大衆化の波をまともにかぶった作品でもある。『三四郎』から石原慎太郎の『青年の樹』に至る多くの大学新入生小説(その少なからぬ部分が映画化されてきた)の舞台が東京大学であるのに対し、この作品では同じ東京六大学ではあっても私立の法政大学であり、授業の場面がついに1場面も出てこないことが時代の変化を物語っている。

 映画は現代ではなく、1980年代の学生生活を描いている。そういえば、4月21日の毎日新聞の日曜くらぶの「雑誌のハシゴ」というコラムに荻原魚雷さんが「80年代は、今以上に首都圏と地方の文化格差が」あったと書いている。格差というよりも距離といった方がこの映画を考える上では重要かもしれない。

 世之介は長崎から東京に出てきた。大学から離れた、おそらくは新宿駅から西武(でなくてもよいが)鉄道の電車に乗っていくつも駅を過ぎたところにあるアパートに住んでいる。アルバイト先も都心部であるらしい。映画の後の方ではめったにアパートに帰らなくなっている。彼があこがれる千春は、いかにも都会の女風にしているが、もともとは東北の出身で、母親とは方言で話す。環境や生育歴が違う祥子との距離も微妙であり、学年の終わりに彼女は短期の留学でパリに旅立っていく。

 地理的な距離だけでなく、登場人物の16年後の回想を描くことで映画は時間的な距離も示している。さらに重要なのは心理的な距離であろう。1人1人の人間の間に距離があるのは当然で、どのくらいの距離を保つのかが問題である。世之介はそのことに人一倍苦労しているが、それがうまくいっているとは言い難い。

 冬休みにスキーに出かけた祥子がけがで入院する。退院した彼女を世之介が迎える。彼は退院を2人で祝おうと強引に誘う。

 16年後、世界を飛び回って活躍している祥子が車の中からふと眺めた窓の外に、そのときの急ぎ足の世之介と松葉杖の祥子の姿が見える。見ている祥子の顔がなぜか若返る。映画の中の一番印象に残る場面である。

 パリに旅立つ祥子に世之介は自分が最初に撮った写真は彼女に見せると約束する。そしてその約束はずいぶん時間がたってから果たされることになる。世之介の想い出は周囲の人間1人1人で違う。それは当然のことである。しかし、おそらくは彼と出会ったことで一番自分を変えることになったのは祥子である。世之介を追いかけて出かけた長崎の海岸で遭遇してしまったインドシナ難民の姿を世之介と祥子が別の目で見ているのが象徴的である。

 大学新入生を描く小説はいわゆる教養小説の体裁をとることが多いのだが、ここでむしろ教養形成を遂げているのは主人公であるというよりもヒロインの方だというのが注目すべき点ではないかと思っている。

ヴァン・ルーン『人間の歴史の物語』(4)

4月22日(月)晴れ後曇り

 メソポタミアの歴史に続いてルーンは、モーセとユダヤ(イスラエルと書くべきだと思うが、ルーンはユダヤの方を好んで使っている)民族について、続いてフェニキア人の歴史的な役割について語っている。

 エジプトで過酷な運命の下に置かれていたユダヤ民族はモーセの指導のもとにエジプトからの脱出を企てる。
After many years of suffering they were saved from their miserable fate by a young Jew, called Moses, who for a long time had dwelt in the desert and there had learned to appreciate the simple virtues of his earliest ancestors, who had kept away from cities and city-life and had refused to let themselves be corrupted by the ease and the luxury of a foreign civilisaiton. (多年にわたる苦しみの後に、彼らはモーセという名の若いユダヤ人によってその悲惨な運命から救われた。彼は長い間砂漠に住み、そこで彼の最初期の先祖たちの素朴な美徳を正しく認めることを学んだ。彼らは都市と都会的な生活から遠ざかり、外国の文明の安易と贅沢によって堕落することを拒否したのである。) モーセが砂漠をさすらったことは旧約聖書に書いてある通りであるが、それに加えて、ユダヤ教の中心的な価値が砂漠の遊牧民のものであるということが仄めかされているようである。

 モーセに率いられた人々は砂漠の中をさすらった後、豊かな土地にたどりつくが、そこにはペリシテ人やカナ―ン人たちがいた。
But the Jews forced their way into the valleys and built themselves cities and constructed a mighty the Jews forced their way into the valleys and built themselves cities and constructed a mighty temple in a town which they named Jerusalem, the Home of Peace. (しかしユダヤ人たちは谷間へと向かって侵入し、都市を建設し、エルサレム、すなわち平和の家と彼らが名づけた町に巨大な神殿を建設した。) 都市エルサレムの建設はダヴィデの時代、神殿はソロモンの時代のことで、モーセよりだいぶ後のことである。その点も含めて、聖書にかいてあることを忠実に受け止めようとする人達にとっては、ルーンの記述には不満があったのではないかと思う。(ダヴィデ、ソロモンについてはその実在を疑う意見もあり、2月23日付の当ブログで取り上げた長谷川修一『聖書考古学』によれば、ダヴィデが実在した可能性はかなり高いというのが現段階での研究の状況のようである。)

 モーセについてルーンは次のようにまとめている:
Not only had he guided his brethren out of foreign slavery into the free and independent life of of a new home but he had also made the Jews the first of all nations to worship a single God. (彼はその同胞たちを外国人への隷属状態から新しい住みかでの自由で独立した生活へと導いただけでなく、ユダヤ人たちをただ1人の神をあがめる最初の民族としたのであった。)

 一方フェニキア人については次のように書く:
The Phoenicians, who were the neighbours of the Jews, were a Semitic tribe which at a very early age had settled along the shores of the Mediterranean.(ユダヤ人たちの隣人であったフェニキア人たちはきわめて早い時期から地中海の沿岸に定住したセム民族の一派であった。)

 彼らは航海と通商に従事する人々であり、儲かると思えば何でも売買したという。
If we are to believe all their neighbours they did not know what the words honesty of integrity meant. (彼らのすべての隣人たちのいうことを信じるならば、彼らは正直とか誠実とかいうことばの意味を知らなかった。) フェニキア人が同時代の隣人たちに評判が悪かったことは記すが、それがフェニキア人の本当の姿を反映しているかどうかについて判断を避けている。
 
 しかしあまり評判がよくなかった民族であるにもかかわらず、彼らは人類の歴史に大きな貢献をした。実際的な民族であった彼らは交流のあった文明の文字を取り入れながら、より簡単に表記できるアルファベットを作り出し、それを他の民族特にギリシア人に伝えた。そしてギリシア人からローマ人、ヨーロッパの各地へとその文字は広まっていった。
・・・that is the reason why this book is written in characters that are of Phoenician origin and not is the reason why this book is written in characters that are of Phoenician origin and not in the hieroglyphics of the Egyptians or in the nail-script of the Sumerians. (それはなぜこの書物がフェニキア起源の文字で書かれていて、エジプト人たちの聖刻文字やシュメール人の楔形文字で書かれてはいないのかの理由である。)

 このようにユダヤ人、フェニキア人の歴史について詳しい政治的権力の推移や、社会経済の特色を強調するのではなくて、ユダヤ人については一神教、フェニキア人についてはアルファベットとその文化的な貢献を力説しているのがルーンらしいところである。

柳田国男『海上の道』

4月21日(日)雨

 柳田国男『海上の道』(角川文庫)を読み終える。1961(昭和36)年に発行された柳田最後の著作であり、日本の民族と文化の起源と伝播をめぐり彼が晩年まで抱えてきた問いと(一部の問いに対する)答えがまとめられている。

 角川ソフィア文庫に収められた柳田の著作の多くを即日、あるいは翌日というように短期間で読み終えている中で、この書物については2月8日に買ったのだから、入手してから2カ月以上かけて読み終えたことになる。考えさせられたことも確かであるが、読みにくかったことも否定できない。

 この本の基調を作っているのは柳田が1952(昭和27)年に九学会連合大会で行った講演「海上の道」であり、そこで彼は稲作民族としての日本人南方起源説を提出した。稲作の技術を持った中国江南地方の人々が、宝貝という貴重品を求めて海上に乗り出し、島伝いについに日本列島にたどりついたという仮説である。日本人の南方起源説そのものは柳田の独創ではないが、沖縄諸島には中国南部から稲が伝わったことを説く、さまざまな伝承が残されていることに注目し、海民であり農民である原初の日本人の姿を仮説として提示したのである。

 解説で中沢新一さんは日本人の起源の問題や稲作の伝承について柳田の仮説は魅力的ではあるが、それ以上に複雑で重層的な過程を含んでいることがその後の研究で明らかになったことを指摘している。そういうことは今後勉強していくことにして、柳田の議論には個々の細かい事象への着目という点で印象に残るものが少なくない。

 柳田は日常経験する事柄(日本の海岸にやしの実が流れ着くこと)に書物で海外の知識を学びとろうとする人々が無関心であることの問題点を指摘している。経験知と書物知は補い合うべきものであって、一方が他方に対して優位に立つという性格のものではない。一番よくないのは聞きかじりの生分かりで、この書物を読まないで、書評や紹介文を通じて柳田の考えの一端を知り、全部を理解しているような気分になってネズミについての伝承を研究してみようかなどと考えていた二十代のはじめの頃の自分を思い出して恥ずかしい気分になる。

 柳田は催馬楽の
  武生のこふ(国府)に我ありと、
  親に申したべ心あひの風、
  さきんだちや
という中世の遊女の歌を引用している(18ページ)が、私はこの武生(現在は越前)市に住んでいたことがあり、そのときはこのことを全く知らなかった。実際にその土地に住んでいても知らないことが多いことを改めて考えさせられた。

 内容だけでなく、研究方法論としても多くの示唆を含む書物である。

柳田国男『日本の伝説』

4月20日(土)曇り後雨

 柳田国男『日本の伝説』(角川文庫)を読み終える。もともとは1929(昭和4)年に『日本児童文庫8 日本神話伝説集』としてアルスから発行された後改訂を施され、出版社を変えたものの、何度か刊行されてきた。それだけの魅力と価値をもった書物である。青少年向けに、出来るだけ身近なところに見出すことのできる伝説を拾い集めた書物である。伝説とは何か、それは昔話とどう違うかという問題を棚上げして、柳田は個々の伝説について紹介する作業を始めようとする。内容を紹介する前に、解説に従って、伝説と昔話の違いを3点にまとめておくのが便利であろう。

 ①昔話は、誰からも信じられていないが、伝説は、ある程度まで信じられている。
 ②昔話は「昔々、ある所」の物語であるが、伝説は、どこか決まった場所と結びついている。
 ③昔話は、決まった型をもっているが、伝説はこれという型をもたない。(大島建彦による、178ページ)

 「咳のおば様」から始まって「驚き清水」、「大師講の由来」、「片目の魚」、「機織り御前」、「お箸成長」、「行逢坂」、「袂石」、「山の背くらべ」、「神いくさ」、「伝説と児童」という話題が論じられている。すぐに詳しい論評ができるような内容ではないが、気付いたことを書いておこうと思う。

 2月20日の当ブログ「柳田国男『一つ目小僧その他』」で触れた「片目の魚」について、ここでは詳しく論じられている。残念ながら、神奈川の片目の泥鰌についての言及はない。

 もう一つは「お箸成長」で、箸を地面にさしておいたら、だんだん大きくなって、大木になったという話が方々にあるという(96ページ)。関東地方では源頼朝と結び付いた伝説があるというが、義経と結び付いた伝説もある。もっと古く日本武尊と結びつくものもあるという。自然の中の生命力への信仰が神話の原動力になったということであろうか。

 神話と伝説ということで一番興味が持たれるのが、「袂石」である。ここで問題にされているのは、石が清明をもって次第に大きくなるという古代人の考えで、そのように大きくなってきた(と信じられている)石とその石をめぐる信仰の例が列挙されていて興味深い。

 分かりやすく、読者の興味を喚起することを目的としているためであろうか、内容が簡略に過ぎるのが残念な書物である。こういう感想をもつ本はあまりない。 

親孝行と詩

4月19日(金)曇り

 昨夜(4月18日)、NHKカルチャーラジオ「文学の時間:落語・講談に見る『親孝行』」の第3回「孝行者表彰のゆくえ――現代の親孝行」を聴く。

 江戸から明治へと世が改まったが、孝行者への表彰は1881(明治14)年に制定された緑綬褒章に引き継がれる。1882年から昭和の終わりにかけて、緑綬褒章は合計905人が受賞したが、実はこのうちの多くは親孝行によるものではない。1890(明治23)年から緑綬褒章には「実業に精勤」という項目が加わり、受賞者の多くがこれによるもので、孝子・順孫・節婦・義僕は全体の5分の1以下の160名に留まっている。しかも千五緑綬褒章を「実業に精勤」以外の理由で受賞した人は3人に留まり、その行いを子細に見ると「節婦」と考えられる事例ばかりである。1955(昭和30)年に黄綬褒章が設けられ、実業家や技術者がこの部門で表彰されると緑綬褒章そのものの受賞者がいなくなってしまった。

 ところが1975年ごろから、親孝行を表彰しようとする自治体の試みが見られるようになる。これは一方で経済成長でなおざりにした人間の心を大事にしようとする動きの反映であり、他方で親孝行を軍国主義と結び付けるイメージが薄れたことにもよるものである。

 このような表彰には高齢になった親への介護を対象とするものと、伝統的な親孝行の延長上にあるものが見られる。しかし、この後者については1992(平成4)年の新聞報道によると、疑問の声が寄せられるようになってきたという。それでもこの制度は平成の市町村大合併によって当該自治体が消滅するまで続いたのである。

 その一方で、平成14(2002)年の政府による栄典制度改革で「ボランティア活動などで実績のある個人に」緑綬褒章を授与することに対象が拡大されている。講師である勝又さんは第1回(このブログでは触れていない)で述べた『桃太郎』の変化―身内への孝行から公共への善行へ―と軌を一にするものであると論じている。

 以上、書いてきたことで思い出すのは田村隆一さん(1923-1998)が1997年に次のように書いていることである:「こうなったら、僕は緑綬褒章の戦後4人目の老人になってやるぞ。・・・では、物証は? と問われたら、ただ一言――『子孫に美田を残さず』(『新潮45』1月号、田村『若い荒地』366-7ページより重引) 美田を残す方が伝統的な親孝行には合うだろうが、残さない方が公共のためには役立つかもしれない。とにかく、でたらめを続けてきた詩人の韜晦と見るべきか、照れ隠しと考えるべきか。

 これに比べると「ラク町の街頭詩人」として多くの人々から親しまれた城米彦造(1904-2006)さんの没後編まれた詩集『城米彦造“昭和を謳う〟』(2008)の巻頭に掲げられた「母に」という詩の方が心に素直に響く:
私が十三の歳に亡くなったお母さん
その悲しみの日からもう五十年も経ちました
半世紀という、遠い昔のことなのに
私には、まだ、悲しみは新しく(以下略)

 詩の好みは別にして、田村さんも城米さんも勲章や褒章とは無縁の人生を送った。詩人には無冠が一番よく似合う(桂冠詩人などという制度を設けている国もあるが、なくってもよいのである)。親孝行も詩のように人々の間に広がってゆくのが望ましいのではないか(無理に広まらなくてもよいのではないか)と思う。

人はパンだけで生きるものではない

4月18日(木)晴れ

 本日放送された「まいにちイタリア語」応用編の中に、non si vive di solo pane という聖書の一節が出てきた。これを放送では「人はパンのみにて生くるにあらず」と文語訳していたが、新共同訳では「人はパンだけで生きるものではない」と訳されている。

 ヨハネから洗礼を受けたイエスは荒野をさまよい、断食を続けるうちに空腹になる。と、悪魔が現れて、神の子なら石をパンに変えてみろと誘惑する。そこでイエスが答える。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイによる福音書4-4) 「ルカによる福音書」4-4にもほぼ同じような記述がある。

 「書いてある」としか書かれていないが、英訳を見ると、
"The scripture says, 'Human beings cannot live on bread alone, but need every word that God speaks.'"
とある。scriptureは「経典」とか「聖典」とかいう意味である。ここでScriptureとあれば、この場合は『旧約聖書』のことであるが、小文字になっているのはどういうことであろうか。大文字と小文字で意味が違ってくるので悩むところである。

 ヨーロッパの言語は皆同じようなものだと思っている人が少なくないが、同じヨーロッパの言語であるイタリア語訳と英訳とをくらべてみると、この両方の言語への翻訳がかなり違うことに気づくはずである。これはそれぞれの言語が歴史的に形成されてきた過程で、それぞれの特有の表現を発展させてきた結果である。聖書はキリスト教社会で重要な文献であるから、その翻訳には一方で印象の強い、簡明な表現が求められ、その一方で分かりやすさも求められる。ギリシア語の原典の単語を置き換えただけの単なる直訳では済まないはずである。そういうことで、たとえば「人」がイタリア語訳では「単数」で、しかも省略されている(viveという動詞の形で三人称単数ということがわかる)のに対し、英語ではhuman beingsと「複数」になっているというようなことが起きている。

 言葉の意味や文法的な用法をゆっくり考えながら勉強するというやり方はもちろん万能ではない。特に社会の急速な変化に対応することは難しいので実用的ではないかもしれないだろう。しかし学習方法というのはそれぞれの長短をもっているのである。キリスト教が文化の中に深く根をおろしている土地の言語を学ぶ場合に、その土地の言語で書かれた聖書を読むことが大いに役立つことは確かである。 

アガサ・クリスティー『蒼ざめた馬』

4月17日(水)曇り

 『蒼ざめた馬』(The Pale Horse)はクリスティーが1961年に発表した彼女の52篇目の長編小説である。『ひらいたトランプ』(4月5日)で書いたように、この作品はポアロもマープルも登場しない代わりに、ポアロを主人公とする作品にしばしば登場する女流推理作家のアリアドニ・オリヴァと、マープルが登場する『動く指』に登場していたケーレブ・デーン・キャルスロップ牧師夫妻が姿を見せている。さらに『ひらいたトランプ』のデスパート少佐がアン・メレディスの友人であったロウダ・ドーズと結婚しており、ロウダは物語の主要な語り手で探偵役のマーク・イースターブルックの従姉という設定になっている。クリスティーの作品を多く読めば読むほど面白さが増してくるという性格の作品である。

 『蒼ざめた馬』はこの作品中に登場する古ぼけた館の名称で、もともと旅館であったときの屋号と<蒼ざめた馬>を描いた看板とを残す、普通の住宅になっている。しかしその中に住んでいる人たちにはどこか疑わしいところがある。

 物語は原稿執筆のためにチェルシーに部屋を借りているイースターブルックが、立ち寄ったコーヒー店で2人の若い女の喧嘩を目撃する場面から始まる。一方が他方の髪の毛をごっそりと引き抜く。その1週間ほど後になってイースターブルックは髪の毛を引き抜かれていた若い女が死んだことを新聞で知る。喧嘩の直後に店員から彼女の名を聞いていたのである。イースターブルックは教会の募金活動への協力を依頼にオリヴァ夫人のもとを訪れた折に、この話をする。

 ある霧の夜、ロンドンのある下宿屋である女性の臨終に立ち会い、その告白を聞いた神父が帰り道で撲殺された。彼は靴の中に奇妙な紙切れをもっており、その紙切れには9人の名が書き連ねられていた。その9人には何のつながりもないように思われたが、そのうち数人は既に謎の死を遂げていた。

 イースターブルックは劇場からの帰りのおしゃべりの中で<蒼ざめた馬>という言葉を耳にし、翌朝にオリヴァ夫人からの電話でまた募金を行う教会の近くにある<蒼ざめた馬>という名の館の存在を聞かされる。友人である医師のコリガンから最近起きた怪事件について聞き、興味を持ちはじめる。教会に出かけたイースターブルックは<蒼ざめた馬>に住む3人の女が魔法で人を呪い殺すという噂を耳にする。一連の事件とこの館は関係があるのか。

 謎解きよりも物語の展開を支える雰囲気づくりに興味がわいてくる作品である。いかにも邪悪な人々と、善良な人々、その間の人々が入り混じって不思議な人間劇を展開している。「蒼ざめた馬」は新約聖書の黙示録6-8に出典をもち、物語の終わり近くでデーン・キャルスロップ夫人がこの個所を読みあげる場面があるが、その意味については読者の自由な解釈に委ねられていると考えてよかろう。『マクベス』の3人の魔女についての言及についても見られる。英語世界の3大ベスト・セラーというと聖書とシェイクスピアとアガサ・クリスティーの作品だと言われるが、これはそのクリスティーが他の2者に言及している作品だという点でも読む価値がある。

椎名誠『世界どこでもずんがずんが旅』

4月16日(火)晴れ

 昨日(4月15日)、紀伊国屋そごう横浜店で植草甚一『ぼくは散歩と雑学がすき』(ちくま文庫)とこの書物を買い、昨日のうちにこちらを読み終えた。植草さんの本の方は読み終えるのにもう少し時間がかかりそうである。旅と行動の人である椎名さんと散歩と雑学がすきだという植草さんとでは、植草さんの方が私に近いと思うし、実際、植草さんとは一度だけすれ違ったことがある。そのことについてはまた書くことにしよう。とはいうものの、同世代といってかまわない椎名さんの書いたものは、気質の違いを自覚しながらも楽しく読んできたし、これからも読み続けるだろう。

 この本は2010年に単行本として発行されたものを文庫(角川文庫)化したものである。単行本の方も読んでいるので、記憶に残っている内容が少なくない。新聞と雑誌に連載された旅についてのエッセーをまとめたものである。「ずんがずんが」は見なれない言葉であるが、「あとがき」によると子どもが小さかったころによく読み聞かせた絵本の中に出てくることばで、その豪快な感じが旅の話にふさわしいと思って選んだのだという。椎名さんのこの種のエッセーには旅の最中、あるいは直後に書かれた臨場感にあふれたものが少なくないが、これは想い出に基づいて書かれたもので、そうした臨場感はない代わりに強い印象を残した経験が選び出されており、深く考えたことが付け加えられている。

 楼蘭・ロプノールへの探検の想い出から、砂漠の中のオアシスのみどりに感動して、「樹々の緑がこれほど人間の心にやさしいものなのか、と驚愕した。そして人間は緑を失ってはいけないんだ、ということを強く知り、その時の強烈な思いが、いとも簡単に、そして無闇に山の樹々や公園の樹木を切ってしまう日本のヘンな行政のあり方への疑問の始まりになったような気がする」(9ページ)と記す。

 椎名さんとお役所のものの感じ方・考え方の違いが出ているもう1カ所。「・・・ぼくはリスボンに着いた初日から路地ばかり歩いていた。洗濯した水は坂の多い路地を流れるので温泉街に来たように道の端から水流の音が聞こえてきたりする。ああいいなあ、と思った。/でも、モノの見方はさまざまで、そのあと日本の役人関係のいわゆる視察旅行があって、そのときの役人の報告に『リスボンの街は古い石の建築が多く危険であり、石畳の道は狭くその路上に洗濯物などが干してあって汚く、都市整備が全体に遅れている』などと書いてあるのを見たことがあり、驚いた記憶がある。/色とりどりの野放しの看板や電線が空を覆い、全体がプラスチックのハリボテ見たいな風景になってしまった日本の都市風景のチープさをつくづく虚しいと思っていたから、まったくその反対の感想をもった日本の役人たちの感覚にびっくりしたのだった」(77ページ)

 ミャンマーを訪問して「全体がひっそりしている。人々はひっそりと真剣に力強く生きているように思えた。9・11以降、もしかすると世界戦争か、などという不安に満ちていたときに、そんなことも知らずこの貧しい国でひっそり生きている人々の厳しさと、とりあえずの小さな平安を複雑な思いで眺めていた」(84ページ)と記す。まだ軍政による統制が厳しかったこの国の探訪記として貴重な証言である。

 「いくつもの島を、それぞれ逆回りのカヌー船団で回る、途方もないスケールの、命がけの儀式であり、祭礼であり、レースである」(162ページ)クラを見るために訪問したニュージーランドの東方のキタヴァ島から「帰国した直後はしばらく不思議な感覚におそわれた。・・・キタヴァ島で毎日見ていたのは空や海や波や雲や草木や動物や燃える火や星々出逢った。それらはすべて自然界の造形で、自然界には直角や正方形や正三角形や真円という目に厳しく飛び込んでくるトゲトゲしい風景はないのだ、都会がいかにストレスにみちた風景ばかりか、ということを逆の世界に行っていて学んだ気分だった」(166ページ)という経験は『ガリヴァー旅行記』そのものである。

 というわけで、単なる読み物である以上に、さまざまな思索の手がかりを与えてくれる本なのである。

 

ヴァン・ルーン『人間の歴史の物語』(3)

4月15日(月)晴れ

 エジプトに続いて、ルーンはメソポタミアの物語を語る。ユーフラテスとチグリスの2つの川にはさまれた肥沃な土地であるメソポタミアには多くの民族が侵入し、それらの民族の強豪と闘争の中で重要な文明が形成されていったことが説かれている。メソポタミアが古代世界の「るつぼ」(Melting Pot)であったことが強調されている。この時代のアメリカでは、アメリカが民族のるつぼであると盛んに言われていたことを思い出す。ルーンはメソポタミアと彼の同時代のアメリカ社会との類似性を感じていたのであろうか。

 エジプトについての章と同じように、彼は楔形文字の解読の過程や楔形文字の構造について語られているが、これらについては日本人によって書かれた書物を読んだ方が分かりやすいはずである。楔形文字では同じ文字がいろいろに読めるだけでなく意味をもつということなのだが、漢字とその音読み(それも呉音、漢音、場合によっては現代中国語風に読むこともある)と訓読みを使い慣れ、さらに仮名を交えて表記している日本人には不思議でもなんでもないので、説明の仕方が違っていいのである。

 さて、ルーンはThe story of Mesopotamia is one of endless warfare and conquest. (メソポタミアの物語はいつまでも繰り返される戦争と征服の物語である)としてシュメール人から始まって、アッカド人、アモリ人、ヒッタイト人による破壊、アッシリア人、カルデア人(新バビロニア)、ペルシア人、アレクサンドロス大王とギリシア人、ローマ人とこの地を支配した人々の歴史を記していく。注目すべき指摘は2つ、バビロンの支配者であったハンムラビ王について、

who gave his people a set of laws which made the Babylonian state the best administered empire of the ancient world(彼はその人民にバビロニア国家を古代世界でもっともよく治められた帝国とした法典を与えた)としてその法典の意義を強調していること、またカルデア(新バビロニア)のバビロンの王で旧約聖書では否定的に描かれている部分もあるネブカドネザルについて、彼が科学を振興したことを取り上げて

Nebuchadnezzar ... encouraged the study of science, and our modern knowledge of astronomy and mathematics is all based upon certain first principles which were discovered by the Chaldeans. (ネブカドネザルは科学の研究を奨励し、我々の天文学や数学についての現代の知識はすべてカルデア人によって発見された一定の第一原理に基づいているのである。)とこの時代の科学研究が現代の我々の科学研究につながることを示唆している(古代の知識の体系を「科学」と言い切ってしまうことの当否も含めて、過大評価ではないかと思う)。

 当時の考古学の水準(例えばヒッタイト人についての研究はこの後に大きく発展することになった)を反映して不十分、不正確な個所も少なくないし、まだまだ旧約聖書に引きずられているところもあるのだが、法律や科学が人々の暮らしによい影響をもつことを強調する啓蒙主義的、合理的な姿勢が全体の基調となっていることは以上、紹介してきたところから明らかであろう。

 

くすのきの夢

4月14日(日)晴れ後曇り

 私の住まいの近くで目立つ樹木はクスノキである。まだくすのきの緑の鮮やかさが目立つ季節には早いが、書くことがあまりないので、くすのきについて書いた詩を掲載することにしたい。

 くすのきの夢

くすのきの 朝は
東の国の 朝
陽の光を浴びて あちこちの緑の草木が
今日も
がんばろうと 励まし合う 朝

くすのきの 昼は
北国の 昼
涼しい木陰を 吹き抜ける風が
草木を揺らし
午後の仕事をなだらかに 整える 昼

くすのきの 夕方は
西の国の 夕方
夕焼けが 空一面に広がって
一日を 彩り染めて
仕事を緩やかに 思いだす 夕方

くすのきの 夢は
南の国の 夢
旅を重ねて たどりつくことを
夢見ながら
勇気をもらうことのできる 国の 夢

ももいろそらを

4月13日(土)晴れ後曇り

 シネマ・ジャックで小林啓一監督の『ももいろそらを』を見る。予期していた以上に面白かった。意外と言えば意外であるが、いい方の意外である。

 東京近郊(らしい)、女子高生の川島いづみは大金の入った財布を拾う。交番に届けようとするが、警官は不在である。財布の中身から突き止めた持ち主の家に出かけるが、表札の人物に記憶があり、躊躇してしまう。彼女は毎日新聞記事を採点する習慣があり、表札の人物は天下りをした高級官僚であったのである。そこから彼女の屈折した行動が始まる。

 寝坊して学校をずる休みして、釣り堀に出かけると顔見知りの印刷屋のおやじに出逢い、財布を拾ったことを打ち明ける。自分の店の経営に行き詰っているというおやじに30万円あった財布の中身のうち20万円を貸す。いづみは友達の蓮実と薫に事情を話すと、2人は財布を落とした佐藤コウキ少年(彼女たちよりも1年学年が上)への興味があって家に返しに出かけようということになる。20万円を抜き取って貸しているいづみは阻止しようとするが、佐藤に夢中になっている蓮実は聞こうとしない。そして財布を返した彼女たちは中身の1割として3万円を渡される。中身が10万円と思っている蓮実と薫は多すぎると思って受け取ろうとしないが、いづみがさっさと受け取ってしまう。

 いづみのアルバイト先に佐藤がやってきて問い詰める。佐藤は父親のへそくりから30万を抜き取って入院中の自分の友達を励ます新聞の編集のために高級カメラを買おうとしていたのである。居直ったいづみに、佐藤は自分の新聞の編集を手伝うように提案する。佐藤はいづみの裏をかいて蓮実を新聞の編集長にする。いづみがカメラをもって取材し、書いた記事をチャットのアルバイトでパソコン操作に慣れている薫が入力する。佐藤は原稿を没にするが、データが欲しいという。

 佐藤を天下り役人の息子と言い切り、世の中の出来事に批判的な見方をするいづみ。ちょっと古風な義理人情を振りかざすところがあるが、本心はどうなのだろうか。背が高く、地元の一流高校に通う佐藤にあこがれる恋愛体質の蓮実。可憐な見かけながら根はしっかりしていて、家族の事情を胸に畳んでアルバイトに励む薫。3人は仲が良いようで対立したり、反目したりする。3人に言わない秘密を抱えているらしい佐藤は3人を適当に利用しているようにも見える。新聞の編集という経験を通じて彼らは少しずつ変わりはじめているのかもしれない。

 善いこと、人のためになることをすることに何かためらいや、恥ずかしさを感じることも青年期の特徴のひとつかであろう。いづみも、佐藤も何となく自分がしようとすることにまっすぐに向き合えないところがある。物語の展開は現実離れがしているのだが、青年の心理に対する迫り方にはリアリティーを感じる。おそらくはそのことに関連して、登場人物に焦点を当てて、背景となる風景や建物をぼかす白黒の画面と、登場人物、特にいづみの衝動的とも受け取れるような行動が強い印象を残す。そうした映像の構成と演出はジャン=リュック・ゴダールの映画と、その中でのアンナ・カリーナの演技を思い出させるほどである。
 

江戸時代の親孝行をめぐって

4月12日(金)晴れ

 NHKラジオ第二放送の「カルチャーラジオ 文学の世界」の4月から6月まで放送される「落語・講談に見る『親孝行』」の第2回「表彰された孝行者――江戸時代の親孝行」を聴く。講師は明星大学の勝又基さん、昨夜(4月11日)に聞き逃した講義の再放送である。

 日本の近代化について考えるとき、庶民の道徳についての意識が近代化につれてどのように変容したかを考えることは重要である。近世の道徳において重視された道徳的価値が「忠孝」であったとすれば、そのうちの孝について思想史的・社会史的にたどることはその貴重な手掛かりを与えるはずである。さらに日本の近世の道徳思想が東アジアの道徳思想と密接に関連しているとすれば、中国で重視されていた徳目である「孝」が日本ではどのように評価され、社会生活の中で生かされていたかは興味ある問題となるはずである。

 江戸時代になると、儒教というよりも、もっと広い意味での中国の思想の影響を受けて孝行者を表彰する動きが現れる。三名君といわれる岡山の池田光政、会津の保科正之、水戸の徳川光圀であるが、前者2人が孝行者を積極的に表彰している。徳川将軍では、徳治政治を目指した五代将軍綱吉が親孝行の表彰を行っている。

 綱吉が将軍であった1681(延宝9)年に諸国に巡検使が派遣され、駿河の国に派遣された巡検使は五郎右衛門という孝行者の噂を聞いたので、宿泊所に彼を呼び寄せて真相をただす。五郎右衛門は親が自分を可愛がって人並み以上に親孝行だと言っているのにすぎないと言って否定する。しかし土地の者が彼の親孝行を賞賛するので、巡検使は彼の名前を帳面に記載することにする。

 巡検使からの報告に基づいて勘定奉行の取り調べを受けた、五郎右衛門は自分が20年前にした親不孝の例を挙げて、自分は親不孝だというのだが、勘定奉行は20年も前の親不孝を覚えていること自体が親孝行の証拠であるとして、彼を親孝行だと判断する。こうして彼は手厚い褒賞を受けただけでなく、将軍への目通りを許されるなど破格の待遇を受ける。さらに彼の肖像画が描かれ、伝記が執筆される。

 このことと関連して思いだされるのは、明治・大正期の落語の速記を見ていると盛んに出逢うのが「陰徳」あるいは「陰徳家」という言葉であることである。陰徳とは人に知られない善行をいう。自分はいいことをしたと言いふらすことをよしとしない気持ちをたいていの人間はもっている――とわたしは思うが、どうだろうか。勝又さんの講義の中にも「孝行者というのはえてして謙虚なものです。『私は孝行をしたのだから表彰しろ』などというものはあまりいません」(22ページ)という個所がある。

 そして(中間の期間が空くのだが)寛政の改革期になると日本の孝行者をすべて集めてこれを本にまとめようという試みがなされ、『官刻講義録』50冊が1801(享和元)年に刊行される。さらにその続編が刊行される。儒教思想の下で孝行者が多いことは為政者の政治が成功を収めている証拠とされたので、諸藩は競って孝行者を表彰することになる。このように江戸時代と、現代とでは親孝行をめぐる意識にはかなりの違いがあったと今回の講義は結ばれていた。

 親孝行が勘定奉行の管轄になっていたというのが意外と言えば意外。こういうことは教えられなければ知ることのできない知識に属する。親に対する愛情を「孝行」というような他人の言葉で定義され、さらに表彰されることには江戸時代の人々でも違和感を感じたようである。権力が理想とする思想と、庶民の生活の中での気持ちのずれがどのように意識されたか、それがどのように解決されようとしたのか、あるいは問題のまま残ったのか、さらに次回以後の講義における解明を期待したいものである。

ジェームズ・ヒルトン『学校の殺人』

4月11日(木)晴れ、一時小雨がぱらついた

 ジェームズ・ヒルトン(James Hilton, 1900-54)の『学校の殺人』(Murder at School, 1932)を龍口直太郎訳の創元推理文庫版で読み直している。ヒルトンは『失われた地平線』(Lost Horizon, 1933),『鎧なき騎士』(Knight without Armour, 1933)、『チップス先生、さようなら』(Good-bye, Mr Chips)、『私たちは孤独ではない』(We Are Not Alone, 1937)、『心の旅路』(Random Harvest, 1941)、『朝の旅路』(Morning Journey, 1951)などの作品で知られる英国出身の作家で、1937年にアメリカに移住してカリフォルニアのロング・ビーチでこの世を去った。これらの作品の多く、特に『失われた地平線』と『チップス先生』は繰り返して、映画化されているのはご存知の方も多いだろう。

 『学校の殺人』は彼がまだ名声を得る前にグレン・トレヴァー名義で発表した彼のただ1作だけの長編推理小説である。ある学校で連続して起きた事件(殺人である可能性がある)をめぐり、その学校の卒業生である詩人が素人探偵として捜索に当たるうち、スコットランド・ヤードから本物の刑事が派遣されて捜索を始める。敏腕だが俗物的な校長、その片腕である人間的に面白みのないハウスマスター、彼の若く魅力的な妻、元軍人の明るいが乱暴なところのある学校つき神父、戦争で神経障害を起こした教師などが詩人の周辺に出没する。素人とプロの捜査の対立、犯人の意外性など推理小説としての骨格を十分に備えている。

 主人公である詩人のコリン・レヴェルはオックスフォード大学を卒業した後、就職することもなく親の遺産に頼って、新聞や雑誌に雑文を投稿しながら現在取り組んでいる長編叙事詩が日の目を見るのを待つ生活を送っていた。ある日、母校の校長から学校で起きた不可解な事件の捜索を頼まれる。レヴェルが大学時代に発揮した探偵としての手腕を覚えていた旧師から推薦されたというのである。3か月ほど前に、寄宿舎で寝ていた生徒の上に重いガス燈用具が落ちて即死してしまった。検死では事故死の評決がなされたが、その後生徒の奇妙な遺言状が発見された。レヴェルは学校の教師や生徒たちの間を調査して回る。

 学校つきの司祭であるダガットとの会話の中で、レヴェルは彼が学校に1915年から1918年まで在籍したと語っている。舞台となっているのはパブリック・スクールであるかどうかはきわめて疑わしいが、現在の校長になってから急速に評価を上げてきたオ―キングトンという学校である。実は1915年から1918年というのは作者であるヒルトンがリース(Leys)校に在学した期間と重なっている。ヒルトンが在学したことから、パブリック・スクールの教師の生涯を描いた『チップス先生、さようなら』のブルックフィールド校もリース校がモデルになっており、チップスはこの学校の教師であったバルガーニーがモデルであったと言われている。オ―キングトン校もブルックフィールド校もイングランド国教会(聖公会)の学校らしく描かれているのに対して、リース校は19世紀の後半に創立されたメソジストの学校であるとか、バルガーニーはギリシア語が専門であったのに対し、チップスはラテン語の教師として描かれているとか、ヒルトンが読者に分かりやすいように工夫しながら学校や教師を描写していることに注目すべきであろう。

 ところでこのリース校に1920年から1923年まで学んだ英文学者の池田潔(1903―1990)が戦後間もない時期に書いた『自由と規律』(1949)はイングランドのパブリック・スクールについての肯定的なイメージを日本に定着させるのに大きく役立った書物であるが、ヒルトンの『学校の殺人』はパブリック・スクールについてかなり否定的なイメージを描き出している。ただ、物語の終わり近く、レヴェルが事件の結末にもかかわらず、母校への愛情を確認することになっているのはいかにも英国らしい。この点は池田潔も書いているが、英国人は自分の感情を抑え、ときに皮肉や自嘲ともとれる表現をする。そのような感情の機微を理解する必要があるだろう。

 寄宿舎での事件は事故であったし、遺書は少年の気まぐれであったと結論して、レヴェルは学校を去る。ところが翌年の6月に(英国では6月は学年の終わりである)寄宿舎で死んだ少年の兄が学校のプールで水がないのにもかかわらず、飛び込んで死んでいるのが発見されたというニュースが飛び込む。レヴェルは慌てて母校に駆けつける。ハウスマスターのエリングトンは死んだ2人の少年の従兄であり他に身寄りがいない彼らの遺産は彼のものになるという。このことを彼に知らせた教師のランバーンは戦争中に受けた神経障害に加えてどうも謎めいた態度が気になる。校長の態度も不審である。

 卒業式、翌日の検死の後でレヴェルはロンドンに戻ろうとするが、学校にやって来たガスリー刑事から少年たちの後見人が事件の捜査を依頼し、兄の遺体を解剖した結果彼の死因が銃で撃たれたことによるものであることが判明したと告げる。レヴェルは学校に留まって警察の捜索に協力することになる。学校関係者が質問を受けるが、その捜索の途中でランバーンが死亡する。検死の結果睡眠薬の飲み過ぎということになり、警察の捜索は打ち切られてガスリーはロンドンに帰る。校長の臨時秘書となって学校に残ることになったレヴェルはノートに次のように書く:
「この事件で困った点は、あまりにも多くの部分が人のいったことばかりに依存していることだ。…あまりにも、ひとのことばが多すぎる。そして、独立した充分な証拠の発見がない」(212-213ページ、下線部は原文では傍点)。

 この小説がレヴェルの視点から展開されていて、読者が事件を客観的に分析することが難しくなっていることにも気づくべきであろう。このことを含めて、推理小説としての完成度がかなり高い作品であり、ヒルトンがこの他に長編推理小説を書かなかったことが惜しまれるのである。
 

母親と子ども

4月10日(水)晴れ

 母親と子ども

電車の中で
むずかりだした赤ん坊を
あやしやすいようにと立ち上がった
母親が

すみません、場所をとってと
周りの人たちに
しきりに謝っている
その表情に 若さが 走る

母親だということは
子どもとともに 生きること
子どもと 若さをともにすることだ

母親の 力が 子どもに乗り移り
子どもの 力が 母親に乗り移り
お互いの力が お互いを支える
それが 母親と子どもの姿だ。

ヴァン・ルーン『人間の歴史の物語』(2)

4月9日(火)曇り後晴れ

 Van Loon, The History of Mankindをメソポタミアの章まで読み進む。今回はエジプトについて触れた部分について取り上げてみる。

 この書物は欧米人の見地から書かれているので、エジプトとメソポタミアの古代文明については触れているが、インダス文明や黄河文明については触れていない。この書物のかなり後になって、釈迦と孔子が登場するが、インドと中国の文化的な伝統をこの2人だけに帰するのは乱暴ではないかと思う。

 エジプトについては「聖刻文字」(Hierographycs)、「ナイルの谷」(The Nile Valley)、「エジプトの物語」(The Story of Egypt)の3つの章があてられている。

 「聖刻文字」ではまずヨーロッパに住む人々がエジプト人とどのような関係にあるかについて説明する。「エジプト人たちは我々に多くのことを教えてくれた。」(Egyptians have taught us many things. として、農業、灌漑技術、キリスト教の教会の原型はエジプトの神殿であること、現在の暦がエジプトの暦にわずかな修正を加えただけのものであることを述べ、これらにもまして重要な彼らの遺産が文字の発明であること、文字を通じて我々が自分たちの経験を後継世代に伝えることが可能になったと論じている。(文字以前の口承による文化の伝達の意義が軽視されている。)そしてシャンポリオンによる聖刻文字の解読と、聖刻文字の仕組みについての説明がされている。この説明については省略するが、聖刻文字の複雑な体系は漢字を使いなれている我々にはもっと別の説明がされてよいし、実際にもっと分かりやすく解説している書物が少なくないと思った。

 「ナイルの谷」ではエジプト文明がナイル川の洪水とその結果として堆積された豊かな土壌の生み出した高い農業生産の所産であることが説明される。その結果としてエジプト人は余暇を得て、それまでの人間たちが問うことのなかった人間についてのさまざまな問題を問うようになり、死後の世界についての様々な問題に解答が与えられ、それがミイラやピラミッドの製作へと導いた経緯が説明されている。

 「エジプトの物語」では古王国、ヒクソス人の支配、アッシリア人の支配、独立の回復、ペルシアの支配、アレクサンドロスによる支配、プトレマイオス朝とローマ人による支配までの過程が語られている。ヘブライ人たちがヒクソス人たちの支配のもとでそれに協力したという記述は、今日ではあまり支持されておらず、ヒクソス人については(ヘブライ人たちの「出エジプト」についても)まだまだ謎が多く残されているようである。また今日アッシュールバニパルと呼ばれているアッシリアの王をサルダナパルスと表記しているのは、この本が歴史といいながらまだまだ古い伝説を引きずっているのを示す例と言えそうである。

 ルーンは自分自身の経験と読者の経験を重ねながら著述を進めて行くのが得意で、エジプト人の生活や考え方についてこの手法を交えて欧米人が理解しやすいように書き進められているが、あまり成功しているように思われない。これは、両者の距離が離れすぎているからであろう。このことはメソポタミアについても言えそうである。実際、私が大英博物館に出かけた際に、これらの文明の遺物の展示されている部屋からギリシアの部屋に入って何かほっとした気分になったことを思い出す。

森田思軒訳『十五少年』

4月8日(月)晴れ

 蔵書の整理をしていて、岩波文庫に入っている森田思軒訳『十五少年』を見つけ、読み直してみた。もともとジュール・ヴェルヌ(Jules Verne, 1828-1905)が書いた『二年間の休暇』(Deux ans de vacances)を英訳から重訳したもので、思軒はこの翻訳の1896年に書かれた「例言」で細かい言葉にこだわらずに、大筋の意味をとって訳したと断っている。

 この翻訳は明治時代の少年たちを熱狂させ、本当にこのような冒険をしてみたいと思ったりしたと回想する人々もいる。この後、日本では『十五少年漂流記』という表題が定着したし、ヴェルヌの膨大な作品群の中ではあまり評価の高くないこの作品が日本では長く人気を博すことになったのは思軒の翻訳の力によるところが大きい。

 漢文調が目立つ翻訳であるが、翻訳者の努力によって、漢字の意味さえとっていけばむしろ分かりやすい文体となっていることに気づくはずである。と同時にヨーロッパの言葉を日本語に移し替えるときに、付きまとうさまざまな問題がこの翻訳を通じて感じられることも否定できない。

 例えば、武安(ブリアン)に対して莫科(モコ―)は「主公」と呼びかける。これは英語のMasterの翻訳と考えられる。Masterは英和辞書によれば、「坊ちゃん、若様、召使が14歳までぐらいの少年に対して用いる敬称」である。実際には『あしながおじさん』のジャーヴィス・ペンドルトンのようにかなりい年をしても、半ばふざけて、また半ば親しみをこめてMasterと呼びかけられる例がないわけではない。この表現にモコ―のブリアンへの気持ちが表れているように受け取られるが、英文、仏文が本当のところどうなっているのか、確かめてみたい気持ちにさせられる表現である。

 また感謝の気持ちの表現としては「多謝す」が用いられている。スケートに興じているうちに行方不明になった杜番(ドノバン)と虞路(グロース)を探しに出かけた弱克(ジャック)が今度は行方不明になり、2人が戻ってきてもまだ帰ってこないのでやきもきしていると、その姿が見える、武安が「多謝す、上帝」(137ページ)という。「上帝」という表現が漢文調である。これを「ありがとう、神様」としてしまうと、どうもわざとらしくなるかもしれない。かといって「よかった、有難い」などと訳してしまっても原文のニュアンスは伝わりにくい。

 武安と反目していた杜番が和解する場面で武安が「否な杜番、否な親友、余は幸ひにして今日の如く君の手を執るを得たり、余は君が余と偕(とも)に佛人洞に還ることをことを承諾するまでは、肯(あへ)て斯(こ)の手を放たざるべし」。杜番「諾、武安、敬(つつし)みて君の好意を承(う)く・・・」(163ページ)とあって、Yesは「諾」と訳されている。他の個所では「然り」という語も用いられ、これに対してNoは「否な」である。諾否の表現をめぐる苦心に、諾否がはっきりしている英語からはっきりしない言語である日本語への翻訳の難しさが出ているように思われる。

 以上のことからもわかるように、この翻訳は地の文だけでなく、会話も文語体で書かれていて、その分親しみにくいことは否定できない。しかしながら、使われている語句を検討することによって明治時代の翻訳家の苦心の跡をたどることができて、物語そのものの展開を楽しむ以外の愉しみを与えてくれるのである。 

千田稔『古事記の宇宙――神と自然』

4月7日(日)晴れ、午後から雲が多くなり、一時雨が降る。依然として風が強い。晴れ間が覗いているのに、雨が降ったが、これを狐の嫁入りと呼んでよいのか。

 昨夜遅くまでかかって千田稔『古事記の宇宙――神と自然』を読み終えた。『古事記』の描く世界像、特に紙と自然と日本列島に住む人々のかかわりについての問題提起の書物である。少なくとも問題提起の書物として読まれるべきであると思う。「宇宙」には「コスモス」とフリガナがしてある。『リーダーズ英和』によるとcosmosは「秩序と調和の現われとしての宇宙」という意味である。この書物は「『古事記』から、この列島の人々と自然とのつながりを探ってみようとするのが、本書の試みである」(1ページ)と書き出されている。『古事記』が日本人の本来の心を伝える書物だという言説は江戸時代からある。千田さんも指摘されているように、史書であること、本来口承であるものが書物に書き留められていること、さらに政治的な意図をもって閉鎖的な空間で編纂されたことなどのために、この書物の内容については慎重な取り扱いが必要である。それでもなお、古代の人々がどのように自然をとらえ、その中で神を感じていたかを知るために『古事記』が重要な手掛かりを与える書物であることは確かである。

 『古事記』の自然と神を語るとき、道教との関係を避けて通ることはできないと著者は論じる。第1章「天と地、そして、高天の原」はこの問題を論じている。舒明天皇から文武天皇までの歴代のうち孝徳天皇を除いた7人と天武と持統の間に生まれた草壁皇子の墓は道教思想にのっとって八角形で作られていることが取り上げられ、『古事記』成立の背景にあった道教の影響が示唆されている。『古事記』冒頭の「天地初めて発(ひら)けし時」の「天地」は今日の宇宙に相当する概念を表すとし、この天地が陰陽の原理に従うものであること、初めて現れた神とされる天之御中主神に道教的な性格が強いことを指摘している。『古事記』の自然観の中に時折道教思想の反映が見られるという。

 天之御中主神に次いで現れたとされるのが、タカミムスヒの神、カミムスヒの神であり、第2章「ムスヒとアマテラス」はこの二柱の神に共通する「ムスヒ」についての考察である。ムスヒは万物生成の霊力であり、タカミムスヒが陽、カミムスヒが陰の性格をもっているという。

 第3章は「海――神々の原郷」と題されていて、沖縄の神話を挟んで、イザナキとイザナミ、海幸彦と山幸彦の神話が論じられている。

 第4章は「山――神と精気」として聖なる山、山の神の神話を取り上げながら、山への信仰と王権の結びつきについて論じている。

 第5章は「植物――王権と精霊」として『古事記』で取り上げられている植物や、巨木信仰などについて論じている。

 第6章は「鳥――天と地を結ぶ」であり、古代人が鳥の霊力を信じていたことを、『古事記』に登場する鳥についての考察から明らかにしている。カラスが太陽と結び付けられていることから改めて道教の影響についても考えさせられる。特に鵜についての考察が興味深かった。

 第7章は「身体――内なる自然」について取り上げ、特に演技と呪力の関係について考察している。

 終章「言霊としての『古事記』」では、『古事記』の内容がもともと語られたものであったことを思い出し、内なる自然としての身体性を重視することが重要ではないかと示唆している。

 内容を大雑把に概観するだけになってしまったが、実際のところ、私が読んで面白いと思ったのは個々の神話や事項についての千田さんの解釈である。例えば、山の枕詞が「足ひきの」であるのは、山が巨大な人間に見立てられているからではないか(107ページ)という推論は説得力に富むものである。

 『古事記』の成立にかかわる政治史的な背景よりも、その中に描かれた古代人の生活や物事の感じ方の方に興味があり、この書物が『古事記』の中の歌謡を多く利用することによって、より具体的なイメージを描き出そうとしていることに好感をもった。
 

井上寿一『理想だらけの戦時下日本』

4月6日(土)曇り、夕方から風が強くなると予報されている

 昨夜(4月5日)、井上寿一『理想だらけの戦時下日本』を読み終える。この書物の主題は「国民精神総動員運動」であると著者は述べ、なぜこの運動を問題にするかというと、日中戦争がはじまり、次第に拡大していった時代と現代とでは国民心理が似ているからであると続けている。似ているのは「国民心理」であるとすると、書名にあるような理想をやたら追っているのは国民の方であるように思われ、何となく違和感を感じる。著者自身が、国民の間にあった意識の分裂、その背景である社会階層に対応した生活実態や戦争の影響の違いを書物の中で詳しく論じているので、「国民心理」という切り口にはどうも納得がいかない。「国民心理」を問題にする以上は、もう少し社会心理学的な調査結果を利用すべきであろう。

 著者は当時と現代の「国民心理」の3つの類似点を指摘している。①代表民主制に対する国民の懐疑。その根拠として選挙の得票率(投票率ではないか)の低さが挙げられている。②共同体の再生。(再生への期待とすべきではなかろうか。) この点については、著者の観察だけで、意識調査の結果のような根拠は示されていない。③社会の平準化。(これも論旨からすれば、平準化への願望とすべきであろう。) これも意識調査の結果としての数字説いた根拠は示されていない。つまりこの3つの類似点は実証的な根拠をもたず、著者が「空気」を読んだ結果にすぎない。読み物としては面白いが、研究としては薄弱に過ぎる出発点である。選挙の投票率の低下や、直接民主主義への期待を思わせる動きはウォール街の占拠に見られるように日本だけのものではない。また現実を無視して理想が先行する政策の強行(というのも単純すぎる割り切り方ではあるが)についても同様である。とすれば、この書物の出発点をめぐってはもう少し慎重な設定が必要であったのではなかろうか。

 以下、第1章が「『体を鍛えよ』といわれても」、第2章が「形から入る愛国」、第3章が「戦前昭和のメディア戦略」、第4章が「気分だけは戦争中」、第5章「節約生活で本当に国を守れるのか?」、第6章「戦争の大義はどこへ行った?」、第7章「ファシズム国家になれなかった日本」という構成で、国民精神総動員運動の展開が国民のどのような反応を呼んだかが、当時の資料を踏まえて語られる。それぞれ興味深い記述に満ちているとはいうものの、この時代の思想動向や大衆運動をめぐる先行研究についての意識的な言及がなく、ただ資料だけが読まれているように思われる。資料がどのような基準で選択されているかについても述べてほしかった。

 興味深く読んだのは国防婦人会と愛国婦人会の対立について言及している個所である。もう55年ほど昔になるが、母の実家を訪問したことがあり、その時に家の門柱に祖母の名前と愛国婦人会名誉会員という文字を刻んだ標識が残されていたのを思い出した。祖母が戦争について、あるいは婦人会の活動についてどのように考えていたかを知る機会は失われてしまったし、取り戻すことはできない。第二次世界大戦が終わって10年以上がたち、愛国婦人会はもう存在していなかったはずであるが、だからと言って標識を取り除くという手間をかけようという人もいなかったのである。どうも人間の意識は簡単に量り知ることのできるものではない。

 第3章で映画について取り上げ、洋画の輸入禁止や日本映画の振興策について論じているが、映画愛好者からするともう少し詳しく正確に書いてほしい個所が散見される。「マルクス三兄弟」(94ページ)とあるが、「マルクス兄弟」というのが一般的。必ずしも三兄弟で活動していた訳ではない。フランス映画『赤ちゃん』はレオニード・モギー監督作品で、ミシェル・モルガンのデビュー作。このあたりの作品については川喜多かしこのような当時の関係者の証言を読むべきであった。同じ95ページの写真はジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『舞踏会の手帳』についての記事であることを記すべきであろう。「スミス氏首都へ行く」(99ページ)は『スミス都へ行く』とすべきであろう。映画以外についても、改善を要する記述が少なくないと思われる。

 以上、文句を言えば言えるのだが、それよりも自分なりにここで書かれた事柄について考えを掘り下げることの方が重要ではないかと思ったことを最後につけ加えておく。

アガサ・クリスティー『ひらいたトランプ』

4月5日(金)晴れ

 『ひらいたトランプ』(Cards on the Table, 加島祥造訳、ハヤカワ文庫版による)は1936年に発表されたクリスティーの20作目の長編小説で、エルキュール・ポアロを主人公とする作品としては13作目、この他の内訳を書いておくとトミーとタペンスが1作、マープルが1作、ノン・シリーズが5作書かれている。

 謎の富豪シャイタナ氏がポアロを含む7人の人物をパーティーに招待する。当日集まったのは探偵作家のアリアドニ・オリヴァ夫人、スコットランド・ヤードのバトル警視、情報部に所属するレイス大佐、この3人にポワロを加えた4人は探偵役として呼ばれている。その一方、成功した医師であるドクター・ロバーツ、60過ぎの老婆であるロリマー夫人、探検家のデスパード少佐、20歳を過ぎたばかりの美しい女性であるミス・メレディスの4人はシャイタナ氏によると過去に殺人を犯したが、知られずにいるのだという。

 食事の後、来客たちはブリッジを始める。一方のテーブルをロリマー夫人、ドクター・ロバーツ、ミス・メレディス、デスパード少佐が、もう1つのテーブルをポアロ、オリヴァ夫人、バトル、レイスが囲み、シャイタナ氏は客間で1人過ごすことになる。時計が12時を回り、参加者たちは帰宅しようとして、シャイタナ氏が動かない―何者かに殺されたらしいことに気づく。容疑者はシャイタナに過去の秘密を知られた4人の中の1人であることは容易に想像ができる。警察に連絡が取られ、捜査が始まる。

 巻末の「ブリッジについて」という解説的な文章の中で高木重朗はこの作品について「クリスティーの作品のうちでもA級に属するものであるが、わが国ではあまり評価されていないようである。/その理由はわが国では、ブリッジがまだ一般に知られていないからである。4人の容疑者が行った、ブリッジのゲーム展開が犯人をつきとめる重要なカギになっている」(299ページ)と書いている。

 先に取り上げた『七つのダイヤル』の中にもブリッジの場面は盛んに登場していたことでわかるように、クリスティー自身がブリッジが好きだったようである。あいにく私はブリッジについては全く知らないので、この作品の本当の面白さは分からないのかもしれないが、高木氏が触れていないところで、この作品には別の愉しみ方がある。

 それはこの作品に登場する人物のかなり多くが、クリスティーの他の作品に登場し、そういう人物の多さではおそらくこの作品に勝る作品はないだろうということである。まずクリスティーの作品の中でのポアロの位置については言うまでもない。オリヴァ夫人はクリスティー自身を戯画化した存在といわれるが、この後『マギンティ夫人は死んだ』(Mrs. McGinty's Dead, 1952)、『死者のあやまち』(Dead Man's Folly, 1955)、『蒼ざめた馬』(The Pale Horse, 1961)、『第三の女』(Third Girl, 1966)に登場する。『蒼ざめた馬』以外はポアロの登場する作品で、ポアロの友人として特に迷惑をかけながらも彼の事件への取り組みを助けている。バトル警視は『チムニーズ荘の秘密』(The Secret of Chimneys, 1925),『七つのダイヤル』(The Seven Dials Mystery, 1929)に登場していた(ノン・シリーズ5作と書いたうちの2作に登場しているわけである)が、この後『殺人は容易だ』(Murder Is Easy, 1939)、『ゼロ時間へ』(Towards Zero, 1944)で活躍する。『ひらいたトランプ』を含め、引き立て役だったり、最後の最後になって問題を解決する役だったりしているが、『ゼロ時間へ』では名探偵ぶりを見せる。そこでポアロの推理に言及しているのは読者サーヴィスであろう。レイス大佐は『ナイルに死す』(Death on the Nile, 1937)でポアロと行動を共にし、『忘られぬ死』(Sparkling Cyanide, 1945)では事件の捜査に当たっている。

 これは物語の展開をあらかじめ知らせることにもなるが、4人の容疑者の中の1人であるデスパード少佐はアン・メレディスの友人のロウダ・ドーズと結婚して、『蒼ざめた馬』に登場する。この作品の語り手で探偵役であるマーク・イースターブルックはロウダの従兄弟という設定である。だから『蒼ざめた馬』には『ひらいたトランプ』の登場人物3人が再登場することになるが、それに加えてデスパード夫妻の居住する教区の教区牧師ケーレブ・デーン・キャルスロップとその夫人は『動く指』(The Moving Finger, 1943)に登場している。キャルスロップ夫人はミス・マープルの親友の1人である。だからオリヴァ夫人を通じて、ポアロとマープルはつながることになる! オリヴァ夫人がクリスティー自身の戯画化だとすれば、これは当然のことであろうか。

 ポアロ中心に執筆当時考えられる範囲での探偵役をそろえて、自分の好きなブリッジが謎解きの鍵になるという設定により、この作品はクリスティーにとってもっとも愛着の持てる取り組みになったと思われる。読むほうもそれだけの心の準備をしてとりかかる必要がある。

 『動く指』と『蒼ざめた馬』の両方の作品で登場する場面は少ないのだが、キャルスロップ夫人の残す印象はきわめて強い。このことについてはまた機会を改めて書いてみることにしよう。 

リンゴとナシの雑学

4月4日(木)晴れ

 NHKの夕方の番組「首都圏ネット」で昨日(4月3日)、「同じバラ科の花なので桜の花に似ています」として、ナシの花が咲いている果樹園の様子を放送していた。関東では千葉県がナシの一大産地であるだけでなく、川崎市から三多摩に走る府中街道沿いにも観光ナシ園を見かけることが多い。かなり身近に見ることのできる果物である。
 
 またナシというと果物のイメージが強いが、楊貴妃が涙ぐんでいる様子を形容した「梨花一枝春帯雨(りかいっしはるあめをおぶ)」という句が白居易の「長恨歌」の中にあって、その花が美人に譬えられる場合があることも忘れてはならない。花も果物も人間の生活とのかかわりの中で様々な文化的な意味を蓄えてきた。逆に言えば、花や果物を通じて文化について知ることも可能である。

 実はリンゴが人間の文化の中で演じてきた役割についてまとめてみようと思っていろいろな話題を集めてきた。しかしどうもリンゴだけでは話題が欧米に偏りそうで面白くないので、ナシに加勢を頼むことにして、「リンゴとナシの雑学」をこれからしばらく展開してみようと思っている。その矢先に、ナシの花の映像を見たので幸先がいいと思っているところである。

 林檎と書いて、本来は「リンキン」と読むべきであるのに「リンゴ」と読み習わしているのは、それだけこの果物が生活の中で親しまれてきたことのためであろう。とはいうもののリンゴがその名称からいって外国起源であるのに対し、ナシは固有種である。ナシは都道府県名にその名を刻んでいる(山梨県)が、リンゴについてはそういう例はない。日本や中国の古い物語に梨は出てくるが、リンゴは出てこない。東アジア世界では伝統的にリンゴよりもナシの方が文化的に重要な役割を演じていたようである。というわけでなしに加勢を頼むのは筋の通らないことではないと思う。また、ナシのなかには日本ナシと西洋ナシの両方を含めることにする。

 これからいろいろと書いてみるつもりで、本日は予告編的に少し書いてみた。

柳田国男『日本の昔話』

4月3日(水)

 昨日(4月2日)、柳田国男『日本の昔話』(角川文庫)を読む。書名通り日本各地の昔話を選んでまとめた本であるが、柳田の狙いはそれぞれの昔話が僅かな違いはあるけれども、読者が年長者から聞いた昔話と共通性をもっていることを認識させること、そのことを通じて自分たちの伝統に気付かせ、興味を持たせることであったと思われる。このことと関連して柳田が都市よりも地方、貴族や武士よりも彼の言う常民の生活を描いた物語を重視している点も注目してよい。いわゆる歴史から見逃されがちな人々の間の伝承を重視する柳田の姿勢は新しい社会観を日本に定着させようとする試みの一環として捉えられるべきであろう。この点と関連して『続飛騨採訪日記』所収の「味噌買橋」(82―84ページ)という説話をめぐり、この名前の橋が実在したことを注記しているのは伝承と歴史の接点を示そうとするものであろう。

 ところで柳田のこれらの意図とは別に、私が考えさせられたのは児童文学における伝統と近代という問題である。子どもという概念も、児童文学というジャンルも近代の産物には違いない。しかし、グリムの例を見れば明らかなように、児童文学は近代以前の伝承にその内容の相当部分を負っていることも無視できない。

 60代の私は、ここに集められた物語を懐かしく読むことができる。しかしその懐かしさがどの世代まで継承されているのか、現代の子どもたちはどんな昔話を聞いて育っているか、あるいはそもそも昔話に縁がないのかは、実証的な調査を必要とする問題である。親が子どもに絵本の読み聞かせをすることの効用を説く意見があるが、その絵本の内容も問題だし、読み聞かせではないただのお話も必要であろう。

 特に考えなければならないのは昔話という場合の昔が変質していることである。石井桃子さんの『ノンちゃん雲に乗る』の中にノンちゃんに向かって母親がむかしむかし・・・というと、おじいさんのおじいさんが子どもだったころといって聞かせる場面があったと記憶する。今の子どもたちのおじいさんのおじいさんが子どもだったころは、既に明治である。あるいは大正かもしれない。子どもたちのむかしむかしには既に文明開化が入り込んでいる。柳田の弟子であった早川孝太郎は、蒸気機関車に化けたたぬきの話を書き留めているが、蒸気機関車は近代であるとともに、その近代が過去になっていることを示す存在である。浦島太郎や金太郎だけでなく、今やディズニーも伝統に入り込もうとしていることを見逃すべきではあるまい。

 以前、ある研究会で宮沢賢治について発表した人がいて、その時に賢治の童話と柳田の『遠野物語』の関係について何か考えるところがあるか質問したのだが、不勉強でと逃げられた記憶がある。賢治と柳田は同時代を生きていたし、『遠野物語』のインフォーマントであった佐々木喜善は賢治と親交があった。賢治と柳田の両者は伝統と近代の相克という同じ問題に取り組んでいたと考えるべきでないか。『遠野』が描いているのは過去だけでなく同時代の村の生活でもある。賢治の童話には伝統が近代にぶつかっている状況を描く「なめとこ山の熊」のような作品と、近代が前面に出ている「銀河鉄道の夜」のような作品とがあり、そのこと自体彼の作家としての葛藤を示していると思う。

 もう一つ、柳田はあえて避けているが、『日本の昔話』と言いながら、ここに集められた話は、様々なジャンル、海外の民話と共通する内容を含んでいることも無視できない。『土佐昔話集』から収録された「たのきゅう」(76-77ページ)は落語の「田能久」のもとになっていると考えられるし、『津軽口碑集』からの「米ぶくろ粟ぶくろ」(99-102ページ)は一種のシンデレラ物語である。また大分県臼杵市『俚謡集』所収の「炭焼小五郎」(91-93ページ)の話は東北地方だけでなく朝鮮半島にも類似の伝説があるし、『沖永良部昔話集』から採られた「山の神と子供」(162-167ページ)の説話に似た話を『ベトナム民話集』で読んだことがある。解説で三浦佑之さんが述べているように、柳田は比較神話学者の高木敏雄と影響し合っていたはずだが、高木が若くして死んだために、海外の説話との比較という方向が消えてしまったように思われるのは残念なことである。

ラテン語の授業

4月2日(火)

 ラテン語の授業

ラテン語入門の授業を
受けたことがあった
午後も遅い
夕暮れが忍び寄る時間の
授業だった

先生は何枚も
プリントを用意し
丁寧な口調で
授業を進めていった
話しながら
自分の言葉に酔ったように
だんだん 早口になり
終了のベルが鳴っても
一向に授業をやめようとしなかった

何度も何度も
そんな授業が続いた
残るものは残り
去る者は去った
去る者の姿など
気にとめない様子で
先生は授業を続けていた

残った学生のその後を
ぼくは知らない
ぼくは 去ったものの 一人だから
授業を去っても
ことばへの憧れだけは残った
先生が夢中になっている
授業なんてそんなに
あるものではない

先生が外国で
自作のラテン語の詩を
朗読されたと
噂話で聞いた

去ったものの一人である
ぼくは
今でも入門レベルから
脱出できないまま
ラテン語を勉強し続けている

先生から授業で
学びそこなった
情熱と学識のかけらを
拾い続けている

日記

4月1日(月)晴れ、温暖

 昨夜、就寝するのが遅かったうえに寝つきをよくする薬が効きすぎて目を覚ますのが8時前となってしまった。フランス語もイタリア語も本日から新しい番組が始まるのだが、朝の放送を聴き逃す。フランス語は新しい番組であるが、イタリア語は昨年の4月~9月に放送された「アルレッキーノと旅に出よう!」の再放送である(この番組については1月11日の当ブログ「イタリアの作曲家ガルッピ」で触れている)。昼からの放送分を聴き逃さないように気をつけよう。この他、ラテン語の勉強をしたいが、その時間がとれるだろうか。

 3月に11冊本を読んだことは昨日書いたが、1月からの通算は27冊で、昨年を1冊上回っている。『ジェイン・エア(下)』、『フリント船長がまだいい人だったころ』、柳田国男『海上の道』、河野淳『ハプスブルクとオスマン帝国』は依然として読み終えないまま、さらに柳田『山人論集成』、田澤耕『カタルーニャを知る事典』、キャンピオン『予約の取れない三ツ星レストラン』が読み終えられないまま残っている。Van Loon, Story of Mankindはノートにさし絵まで描き写しながらのんびりと、読み進んでいるが、今年中には読み終えるつもりである。クリスティの『七つのダイヤル』を検討し終えたので、今度は『ひらいたトランプ』に取り掛かろうかと思っている。

 映画では今週中に見る映画として、『ある海辺の詩人』と『千年の愉楽』、旧作では鈴木清順の『殺しの烙印』あたりをマークしている。来週以後では『舟を編む』、『海と大陸』、『ブルーノの幸せガイド』に注目している。『ある海辺』『海と大陸』『ブルーノ』は「まいにちイタリア語」の時間の応用編「スクリーンが映し出すイタリアの現在」に取り上げられることになっている。

 横浜FC、YSCCともに初戦は勝ったものの、その後は成績が伸びない。F・マリノスだけが好調。614回のミニトトBを当てたが、賞金は僅かに950円にとどまった。調べてみたら、昨年は554回のミニトトB を当てて、賞金は1,052円だった。昨年はA、B合わせて13回あてたのだが、今年は何回あてられるだろうか。

 腰の調子があまり良くならないので、しばらくは自重を余儀なくされそうである。冒険の夢だけでも育てて行こうと思う。
 
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