『太平記』(155)

4月23日(日)晴れ

 建武3年(1336)春、京都の合戦で宮方は勝利したが、大将の新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機会を逃した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義、大館氏明らが赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ、その間に城の防備を固めてしまう。白旗城を攻めあぐねているままに、義貞は中国地方の武士たちを味方につけるべく船坂峠に向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。宮方の軍は船坂峠の足利方を破り、江田行義は美作に侵入、脇屋義助は三石城を包囲、大井田氏経は備中に進出して福山城(岡山県総社市)に陣を構えた。

 そうこうするうちに九州に落ち延びていた足利尊氏は、多々良浜の合戦で奇蹟的な勝利を収めたのち、九州の武士たちが一人残らず味方に付き従うようになって大変な勢いである。〔もちろん、菊池氏のように宮方の武士はいるのだが、物語としての修辞上の綾でこのように書いているのである。〕その一方で、中国地方では宮方の勢力が強く、上洛の道を阻んでおり、東国の武士たちは宮方に心を寄せるものが多くて、尊氏の味方は少なかったので、安易に上洛を図るのは上策ではないと、正月の京合戦の経験から怖気随ていたので、将兵たちはあえて上洛しようという元気はなかった。

 そこへ、赤松円心の三男の則祐律師と、赤松一族の得平秀光が播州から筑紫に急ぎやってきて、「京都からやってきた敵軍が、備前、備中、美作に充満しておりますが、そのすべてが城を攻めあぐねて、気力を失い兵糧も尽きて着た頃ですので、大勢で上洛なされば、ひとたまりもなく自分たちを支えることはできないと思われます。もし京都に向けての出発が遅れ、その間に白旗城が攻め落とされてしまいますと、そのほかの城も宮方の攻勢をこらえることはできないでしょう。中国地方の4か所の要害(名義能山2か所と菩提寺と三石城の合計4か所)が敵の城になってしまいますと、味方が何十万の軍勢であっても、上洛されることは不可能になると思います。むかし趙の都邯鄲が秦の始皇帝の大軍に囲まれ、落城寸前のところを、魯仲連の策と楚や魏の救援で切り抜けたという例、また楚の項羽が秦の将軍章邯と戦った折に、黄河を渡河してから船を沈め、釜や甑(=蒸し器)を焼いて、兵士に退路がないことを示して決死の戦闘を促した故事に類する、決死の戦いをなすべき場面ではないでしょうか。天下をとるかどうかは、ただこの一戦にかかると思われます」と言葉を尽くして言上すると、尊氏もその通りに違いないと思い、4月26日に大宰府を進発、28日に追い風を得て船を進め、5月1日に安芸の厳島神社に船を寄せて、3日の間参篭したのであった。〔則祐と秀光の言葉の前半は、彼らの事実認識を述べていて、おそらくはこれに類することを発言したのであろうが、中国の故事については『太平記』の作者が自分の学のあるところを見せようと、勝手に付け加えたのではないかと思う。とは言うものの、あまり適切な例だとは思えない。〕

 その結願の日に、京都の醍醐寺の三宝院の賢俊僧正が京都から駆けつけて、持明院殿(『太平記』の作者は後伏見院としているが、史実としては光厳院)の院宣を尊氏に下した。この賢俊僧正というのは日野家の出身で、第15巻で尊氏が京都から落ち延びていく際に側にいた薬師丸(→道友)に日野中納言(日野資明)を通じて、院宣を得るように取り計らえと申しつけたその資明の弟である。尊氏は、院宣を拝見して、箱と蓋とがぴったり合うように念願がたちどころに的中したと喜んだのであった。後伏見院(法皇)は3月6日に崩御されていたのであるが、それ以前に下された院宣である。〔既に書いたように、実際には後伏見院の子である光厳院が下されたものである。この時代、天皇の在位期間は短く、その結果として複数の上皇がいらっしゃるのがふつうで、その中で政務をとられる上皇を治天の君と呼んでいた。後醍醐天皇のように天皇として在位したまま、政務をとられるというのはかなり例外的なやり方であった。〕

 尊氏は、厳島神社への奉幣を終えて、5月4日、厳島を出発、九州の軍勢に加えて、射よ、讃岐、安芸、周防、長門の武士たちが、500余艘の船を並べて軍勢に加わった。さらに7日に、備後の鞆(広島県福山市鞆町)に到着すると、備後、備中、出雲、石見、伯耆の軍勢が、6,000余騎ではせ参じた。そのほか、諸国の武士たちが、招いていないのに集まって来るし、攻撃しなくても帰順するということで、止めるものがないような勢いでの進撃である。

 新田義貞は、備前、備中、播磨、美作に軍勢を分けて、それぞれの国の城を攻撃しているという情報が伝わってきていたので、尊氏は鞆の浦で陸路と水路に軍勢を分けた。陸路を進むのは足利直義を大将とする20万6千余騎の軍勢であり、尊氏は、足利一族の吉良、石塔、仁木、細川、荒川、斯波、吉見、渋川、桃井、畠山、山名、一色、加子(かこ)、岩松らをはじめとして40余人、足利氏の譜代の家臣である高の一党が50余人、尊氏・直義の外戚である上杉の一類が39人、外様の土岐、佐々木、赤松、千葉、宇都宮、小田、佐竹、小山、結城の一党、さらに三浦、河越、大友、厚東、菊池、大内ら160人、これらの棟梁の率いる軍勢が7560余艘の船に乗り込み、中でも将軍の御座船をはじめとする30艘は巨大な船であった。それらが思い思いに纜を解き、小さな船をつなぎとめて、帆を挙げ、船のヘリがこすれあうほどぎっしりと並んで、東へと向かったのである。〔足利一族として列挙されているうち、吉見は以前にも書いたが、頼朝の弟範頼の子孫、山名は足利一族ではなくて新田一族である。一方で、土岐と佐竹は足利氏と同じ清和源氏であるが、外様とされている。〕

 15日に、備後の鞆を出発したのであるが、その際に不思議なことがあった。尊氏は、館の中でしばしまどろんでいたのだが、その夢に南方から光きらめいた観音菩薩が飛来されて、船の先端にお立ちになっただけでなく、観音菩薩に従い行者を守護する28全身が、それぞれ武装した姿で菩薩をお守りしている様子である。尊氏は夢が覚めたのちに、これは菩薩の加護を得て、戦に勝つという瑞祥の夢であると思い、杉原紙を短冊の形に切って、自筆で大悲観世音菩薩と書き、船の帆柱ごとにそれを押しつけた。このように順風を得て、海路を行く尊氏の軍勢は備前の吹上(岡山県倉敷市下津井吹上)に、また陸路を行く直義の軍勢は備中の草壁庄(小田郡矢掛町)に到着した。

 九州で勢力を回復した尊氏・直義兄弟の反撃が始まろうとしている。ここで重要なのは尊氏が自らの軍事行動を正当化するために持明院統の上皇から院宣を得ていること、その仲介者が賢俊僧正であったことである。最近出版された森茂暁『足利尊氏』によると院宣を得たのは2月15日ごろのことだというから、『太平記』は必ずしも歴史的事実をそのまま書いているわけではない。また、院宣によって自らの行動の正当性を主張するというのは、『太平記』では尊氏自身の思い付きとなっているが、『梅松論』では赤松円心の入れ知恵とされているそうである。『太平記』は歴史そのままを書いているわけではないが、赤松円心・則祐や賢俊僧正を要所で登場させることで、これらの人々が果たした役割を物語っているということは言えそうである。
 尊氏・直義兄弟の東上に中国地方を攻略中の新田義貞とその軍勢はどのように対処しようとするか、というのはまた次回。
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『太平記』(154)

4月16日(日)晴れ

 建武3年(1336)春、京都の合戦で宮方は勝利したが、新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かい、初戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って城の防備を固めてしまう。義貞は中国勢を味方につけるべく船坂峠へ向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。船坂峠、三石城にいた足利方は、その兵を割いて熊山に向かわせるが、撃退される。

 児島高徳らと打ち合わせて攻撃をかける日になったので、義貞の弟である脇屋義助を大将として、船坂峠の東の麓にある梨原(兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原)まで進み、2万余騎を3手に分けた。一方の軍勢は、江田行義を大将として3,000余騎が杉坂へ向かう。杉坂というのは兵庫県佐用郡佐用町から岡山県美作市へ至る杉坂峠のことで、山陰道の要所である。この地方の菅原氏の一族の武士たちが守っているのを追い散らして、美作の国へと進むためである。もう一手は、新田一族の大井田氏経を大将として、菊池、宇都宮の武威たち5,000余騎を、船坂へと差し向けた。これは敵を遮りとどめて、この後で言及する搦め手の軍勢をひそかに敵の背後へと回すためである。最後に残った一帯は、この土地の地理に詳しい伊東大和守を案内者として、頓宮六郎、畑六郎左衛門尉、播磨国司の代官である少納言房範猷、新田の家来である由良新左衛門尉、小寺六郎、三津山城権守以下、わざと小勢を選りすぐって、300余騎を差し向けた。この部隊は馬の轡の手綱を結びつける部分である七寸に紙を通して馬の舌を抑え、嘶かないようにしていた。この兵たちが進んだのは三石の南の鹿が通る道である。〔できるだけ隠密裏に敵の背後をつこうという計略である。〕 足利方はこの道のことを知らなかったのであろうか、堀を掘ったり、逆茂木をおいたりして、敵の侵入を防ぐ手立てを講じていなかった。道の左右の木が生い茂って枝が邪魔であったが、そういうところでは馬を降りて徒歩で進んだりして、約6時間をかけて三石の宿の西へ出て姿を現した。〔三石の宿は船坂峠の西にある。前後の関係からすると、東の方に出る方が合理的なのだが、あるいは宿のさらに西側に城があったということであろうか。] 三石城にいたものも、はるか船坂峠から見下ろしていたものも、思いがけないところから軍勢が現われたので、熊山を攻撃していた軍勢が帰ってきたのだと思って、特に驚きはしなかった。

 300余騎の兵は、三石の宿の東の方の小社の前で小休止して、新田の中黒の旗を掲げ、東西の宿に火をかけ、鬨の声を上げた。三石城では、城内の軍勢の大半を船坂に差し向け、残っていた兵のかなりの部分が熊山に派遣されていたので、残っていた兵は少なく、戦意が低いうえに、防ぐ手立ても思いつかない。〔宮方の搦め手の兵300余騎は、三石城ではなく、船坂の攻撃に向かう。] 船坂を守っていた兵たちは、前後を敵に囲まれて、何もできない様子であり、馬、物の具を捨てて、城に続いている山の上に逃げ登ろうと騒いでいる。これを見て大手、搦め手の兵が厳しく攻撃を続けたので、逃げ場がなくなった足利方の兵たちは、あちこちに行き詰まって、自害をするものが100余人、生け捕りにされるものが50余人という有様であった。

 備前国一の宮である吉備津彦神社の神主で、国司の庁に在勤する役人でもあった大藤内美濃権守佐重というものがいて、彼もまた逃げ場を失って、切腹しようとしたのであるが、ふと思いついたことがあって、脱ぎ捨てた鎧をまた身につけて、乗り捨てていた馬に飛び乗って、向かってくる敵のなかを押し分け押し分け、播磨の国の方へと向かっていった。船坂峠を越えてやってくる大勢の兵たちは、お前は何者かと尋ねてきたので、自分は搦め手の案内者をつとめたものであるが、合戦の様子を新田殿に詳しく申し伝えるために、早馬で急いでいるのですと答えた。それで行合う数千騎の兵たちは、どうぞどうぞと道を譲って彼を通したのである。佐重は、総大将の侍所(軍奉行)であった長浜の前に跪いて、備前の国の住人、大藤内佐重が三石の城から降伏しにやってきましたと言ったので、総大将は神妙なりとこれを褒めて、軍勢の来着を記す名簿である着到に記載させた。佐重は、たくさんの敵を出し抜いて、その日限りだと思われた命を助けることができたのである。これもしばしの間の智謀だと、後になってほめそやされたのであった。

 このようにして要衝である船坂が破れたので、江田行義は3,000余騎を率いて美作国へと入り、奈義能山にある2か所の城、菩提寺城、合わせて3か所の城を包囲し、脇屋義助は5,000余騎で三石の城を攻撃、大井田氏経は2,000余騎を率いて備中の国に入り、福山の城(岡山県総社市南部にあった山城)に陣を構えた。

 宮方は、中国地方にいる味方の武士の援助を得て、要衝である船坂峠を突破して美作、備中まで進出した。もともと動員できる武士の数では劣勢なので、できるだけ味方を増やしたいのであろうが、戦線を延長していくのは必ずしも好ましいことではない。播磨では赤松円心が白旗城に立て籠もっていることも忘れてはならない。『太平記』の作者は大藤内佐重の「暫時の智謀」を記録しているが、同じようなことをして、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしている武士はほかにも少なからずいたのではないかと思われる。次回は九州で勢力を養った足利尊氏・直義兄弟がいよいよ中国地方に反撃の手を伸ばす様子を取り上げることになる。

『太平記』(153)

4月9日(日)雨が降ったりやんだり

 建武3年(1336)春、京都の合戦で後醍醐方は勝利したが、新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、九州へと敗走していく足利方を追走する機を逸した。その間、中国地方で足利方の赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ、城の防備を固めてしまう。白旗城を攻めあぐねているうちに、足利方が迫ってくることを警戒して、義貞は中国勢を味方につけようと船坂峠へと向かった。しかし船坂峠も要害の地であり、なかなか攻略の手掛かりが得られないまま日々を過ごしていた。

 備前の国の住人の和田(児島)高徳は前年、四国から細川定禅が攻め上ってきたときに備前、備中の戦いで敗れて、山林に身を隠し、いつかは敗戦の屈辱を晴らそうと、義貞軍の到着を待っていたが、船坂山を義貞軍がなかなか突破できないという情報を得て、ひそかに使いを義貞のもとに送り、次のように伝えた。
 船坂を突破しようとされていることを伝え聞きました。もし本当であれば、そう簡単に突破できるようなところではありません。(したがって陽動作戦を立てるべきだというのである。) 高徳が、来る8日に備前の熊山(岡山県赤磐市南東部にある山)に出て、そこで挙兵しようと思います。そうすると、船坂に立て籠もっている賊軍は、きっと熊山へと攻め寄せて来るでしょう。それで船坂山の防御が手薄になったところをついて、軍勢を二手に分け、一手を船坂に差し向けて、攻撃する様子を見せ、もう一方を三石山(備前市)の南を目指し、木こりが使う道があるので、それをひそかに回って、三石の宿から西に出れば、船坂の敵は、前後に敵を受けることになり、慌てふためくでしょう。高徳が国内で宮方の旗を掲げ、まず船坂を攻略すれば、西国の軍勢は、争って味方に参集するでしょう。合図を決めて、攻撃をかけてください。
 これまで播磨の武士たちしか新田軍に集まってこなかったのに、備前の高徳がやってきて以上のように述べたので、義貞は大いに喜んで、早速、どのように合図するかを決めて、急いで使いを高徳のもとに返した。

 使者が備前に帰って、合図について報告したので、4月17日の夜半に高徳は、自分の館に火をつけて、わずか25騎の武士たちを率い、旗を掲げて出陣した。備前以外の国にいる一族の武士たちには、事態が急だったので連絡をせず、近くに住んでいる親類たちにだけ事情を話したので、小嶋(和田)一族の今木、大富、射越(いのこし)、原、松崎といった武士たちが集まってきて、合わせて300余騎となった。

 あらかじめ、夜半に熊山に取りついて、井法に篝火をたいて、大勢が籠もっている様子を敵に見せようという謀をめぐらしていたのだが、馬よ、物の具よと、慌てて騒いでいるうちに、夏のことなので夜が間もなくあけてしまった。このように急なことなのでぐ寧の準備は手薄だったが、仕方なく、合図の時間を間違えまいと熊山へ上った。経略通り、三石、船坂の軍勢は、これを聞いて、国中に敵が出てくることになると、大変なことになる。何もかも差し置いて、熊山を攻めよと、船坂、三石に立て籠もって田中から3,000余騎を分けて、熊山へと向かわせた。

 この熊山というのは、高さは比叡山のようで(岩波文庫版の脚注には、比叡山は約840メートル、熊山は、約500メートルとある)、四方に7つの道があった。その道のどれもが麓の方では険しい岩道で、峰は平らである。高徳はわずかの軍勢を7つの道に差し向けて四方から押し寄せてくる敵を防ぐ。敵を追い下したかと思うと、また別の敵が攻め上ってくる。そこで追い下す。また昇ってくると終日戦いが続いた。夜になると、寄せ手の中に石戸(おいこ)彦三郎というこの山のことをよく言っている武士がいて、思いもよらない方角から山頂にたどり着き、この山の山頂にある天台宗霊仙寺の本堂の後ろの小山の上から、鬨の声を上げた。

 和田は、四方の麓へ軍勢を分遣していて、山頂付近に残っていたわずか14・5騎とともに本堂の庭に控えていたのだが、石戸の率いる200余騎の中へ懸け入り、叫びながら火を散らして戦った。多くの木々が茂る山上は月の光も届かぬ暗さで、高徳は敵の太刀を受け損ねて、内兜をつかれ、馬から逆さまに落ちてしまった。敵2騎がこれを見つけて首をとろうとすると、高徳の甥の松崎彦四郎範家と和田四郎範氏が駆け付けて2人の敵を追い払い、和田を馬に載せて、本堂の縁側に下した。

 高徳は内兜の傷が痛手であった上に、馬から落ちた時に、胸板を馬に強く踏まれて目がくらみ肝をつぶしたので、しばらく気絶していたのを、父である備後守範長がその枕元によって、「昔、鎌倉権五郎景正は、左の目に矢を受けながら、3日3番もその矢を抜かず、敵に矢を射返したという。この程度の軽症で死ぬわけがない。ここでのびているようなふがいない心持でどうして、この大事を成し遂げることが出来ようか」と荒々しく叱責したので、高徳は息を吹き返し、俺を馬に乗せろ、一合戦して敵を追い払うのだと言った。父親は喜んで、もう大丈夫だ、死ぬことはない。さあ、おのおの方、ここにいる敵を追い払おうと、今木太郎範秀、その弟の小次郎範仲、中西四郎範顕、和田四郎範氏、松崎彦四郎範家、主従合わせて17騎で、石戸の率いる200余騎の中にかけ言ったが、石戸は相手が小勢とは気づかなかったのであろうか、一勝負をもしないで、熊山の南斜面の長い坂を福岡(瀬戸内市長船町福岡)まで退却していった。そしてこのまま両陣がにらみ合いを続けたが、戦闘には至らなかった。

 本格的な戦闘の前の小競り合いが続いているところである。すでに何度か書いてきたように、この時代の武士たちの多くは戦局の展開によって、強い方につくとか、ちょっと劣勢になると逃げるというのが普通に行われていた。その中で、一貫して宮方の和田(児島)高徳が久しぶりに登場するが、この人、頭はいいけれども、武勇の方はいまいちというところがある。それでも、これまでのところ、作戦は成功し、熊山の砦も無事に持ちこたえた。新田隊の船坂、三石での戦いの帰趨は次回に語ることになる。
 鎌倉権五郎景正は後三年の役の際に、八幡太郎義家に従って戦い、目を射られても奮戦を続けてその武勇を語り継がれた。朋輩の武士が彼の矢を抜こうと、顔に足を懸けたので、その非礼を罵ったという説話もある。桓武平氏の鎌倉氏(梶原、大庭)の祖である。また観音像で知られる鎌倉の長谷寺の近くにある鎌倉御霊神社は鎌倉権五郎景正を祀った神社である。

『太平記』(152)

4月2日(日)晴れ
 建武3年(1336)春、京都の合戦で後醍醐方は勝利したが、新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。ようやく出発することになったところで、義貞が瘧の病に倒れ、新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かう。江田、大館は緒戦に勝利し、西国の朝敵を退治するのは容易であるとの連絡を送り、病気が治った義貞もようやく出陣する。各地から武士が集まって義貞に従う兵は6万余騎になった。

 この勢いでただちに赤松を討伐しようと、新田義貞の率いる兵は播磨国揖保郡の斑鳩の宿(揖保郡太子町鵤)まで押し寄せてきたので、赤松入道円心は義貞のもとに一族の小寺藤兵衛尉を使いに出して、次のようにいう。「円心は不肖の身ではありますが、元弘の初めに、鎌倉幕府の大軍と戦い、幕府軍を後退させたこと、おそらくは第一の忠義の証であると思います。ところが、恩賞として与えられた土地が、降参した卑怯な敵方よりも少なかったので、一時の恨みにより、長年の忠功を捨てて背きました。とは言うものの兵部卿親王(大塔宮護良親王)のご恩はいつまでも末永く忘れられないものでありますので、足利方についたのはまったく私の本意ではありません。要は、今すぐ播磨の国の守護職に任命するという綸旨と御辞状(任命書)を頂ければ、元通り宮方の味方となり、忠節を尽くす所存です。」
 これを聞いて義貞はこの件はそれならば問題あるまいと、すぐに京都に飛脚を立て、守護職に補すという綸旨を頂こうと計らう。その使いが往復するのに、10日以上かかったので〔義貞の軍勢が兵庫県の西南部にいることを考えると、京都との往復に10日以上かかるというのは、かかりすぎである。あるいは、京都に到着してから、綸旨の発行までに時間がかかったということであろうか〕、その間に赤松は城の防備をすっかり固めてしまい、播磨の国の守護職は、すでに将軍(足利尊氏)からいただいているので、手のひらを返すように始終変転する綸旨を、当てにすることはないと、嘲りながら義貞からの使節を返したのであった。

 義貞はこれを聞いて、「王事もろい事なし」(第3分冊、37ページ、帝の事業は堅固であり、それへの務めはいい加減ではならない)、といい、恨みを抱いて朝敵になることはあっても、天の下に生きて天を欺くことができるだろうか。こうなったら、ここで数か月をかけても、赤松の城を攻め落とさなければ道理が立たないと6万余騎で、赤松のこもる白旗の城を百重千重〔どうも大げさである。とにかく厳重にということであろう〕取り囲み、夜昼50日、息を継がせずに攻撃を続ける。ところが、この城は四方が皆切り立ったがけで、人が昇るような足掛かりはなく、兵糧や水、薪はたくさん備えられているうえに、播磨、美作の名だたる射手が800余人も城の中にこもっていて、新田軍が攻めかかっても、矢に射られて負傷者が増えるだけで、城の中に動揺が起こる気配はない。

 義貞の弟である脇屋義助は、この様子を見て、兄の義貞に次のように述べた。先年、楠正成が籠もっていた金剛山の城を、日本忠から集まってきた武士たちが攻めあぐねて、足止めをされ、結果的に鎌倉幕府の天下が覆されてしまったことは北条氏が後悔していることではないでしょうか。わずかな小城1つに取り掛かり、漫然と日数を送っていると、味方の軍勢は兵糧の乏しさに苦しみ、敵陣の城はいよいよ力を得る危険があります。そのうえ、尊氏はすでに九州を平定して上洛するという噂なので、近づいてくる前に、備前、備中を退治して、安芸、周防、長門の軍勢を味方につけなければ、大変な事態になってしまうと思います。とはいうものの、今までッ攻撃していた城を落城させないままに退却すると、天下のあざけりを招くことになるかもしれませんので、軍勢のうちわずかな部分をここに残して、それ以外の軍勢を船坂(兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原と岡山県備前市三石の間の峠)に差し向け、まず山陽道を攻め開いて中国の軍勢を味方につけて、九州へ攻め下るべきでしょう。
 この意見を義貞ももっともだと思い、(義助を城攻めのために残し、自らは)宇都宮と菊池の軍勢を率い、土地の地理に詳しい伊東大和守、頓宮(はやみ)六郎を案内者として、2万余騎で船坂山へと向かったのであった。

 船坂山というのは、山陽道第一の難所で、2つの急峻な峰がそびえている中に細い道が一本通っている。谷は深く、石は滑りやすく、曲がりくねった道を上ること20余町(2キロ以上)、雲と霧が立ち込めて暗く、先が見えない。「一夫怒りて関に臨まば、万侶(ばんりょ)通ることを得難し。」(同上、39ページ、一人の男が猛って関を守れば、万人の兵士たりとも通ることができない。杜甫の剣門という作品の「一夫怒って関に臨まば百万も未だ傍(そ)ふべからず」という行が念頭にあるという。唱歌の「箱根山」にも同じような歌詞があるのを思い出した方もいらっしゃるだろう。) それだけでなく、岩石に穴をあけて細い橋を渡し、大木を倒して防御柵としたので、何百万騎の軍勢でも、攻略できるとは見えない。それで、勇み立ってやってきた菊池、宇都宮の軍勢は、麓に控えて進むことができない。案内者として頼りにされた伊東、頓宮の武士たちも、山を見上げて、いたずらに日数を送るのであった。

 後醍醐天皇たちが京都に戻った後の2月25日に、年号が建武から延元に改められていて、15巻にこの改元のことも記されているのだが、『太平記』はそれを忘れたかのように、旧年号を使っている。足利方はこの改元を認めずに建武を使い続けていたことも影響しているのかもしれない。
 京都から派遣された義貞軍は、赤松の時間稼ぎの計略に引っかかって、赤松のこもる白旗城をなかなか攻略できず、他の城を攻略した方がいいという義助の助言を聞いて、6万の軍勢のうち2万を率いて船坂山に向かった。しかし、軍勢を分けて戦線を拡大することが事態の打開に役立つかどうかは疑問である。さて、この後の戦局はどう展開していくのかは、また次回。

『太平記』(151)

3月26日(日)雨

 いったんは京都を占拠したものの、宮方の反攻を支えきれず、九州に落ち延びた足利尊氏・直義兄弟はわずかな軍勢で筑前多々良浜に上陸、宗像大宮司の館に迎え入れられた。宮方の菊池武俊が尊氏が頼りにしていた少弐貞経の城を攻め落とし、さらに多々良浜に押し寄せた。軍勢の多寡から見れば、圧倒的に宮方が有利であったが、時の運に恵まれたのであろうか、尊氏軍は百倍に余る菊池軍を退け、さらに菊池の居城を攻め落として、九国二島(九州の筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の9国と壱岐、対馬の2島)を制圧した。

 今回から第16巻に入る。建武3年(1336)2月、尊氏が九州へと落ちのびた時に、四国および中国地方、さらに九州の足利方の武士たちは、気勢をなくして慌て惑い、あるいは山林に隠れ、あるいは縁者のもとに身を寄せ、旗色をかえて新田義貞の命令書を受け取るものもあった。このときに、義貞がすぐさま足利方の武士たちの討伐に赴いていたら、一人として降参しないということは無かったはずであるが、このとき、もしすぐに各地の足利方の武士たちを討伐に出かけていれば、足利方の武士たちの中で降参せずに、宮方と戦い続けたものはいなかったはずであるが、これまで同様新田勢は長時間にわたる軍議に時間を使ってしまって、討伐の機会を失っていた。さらに義貞は、そのころ、世間に美人としての評価が高かった勾当内侍(後醍醐天皇の側近の一条行房の娘。行房の妹とする文献もあるそうである。「勾当内侍」というのは、天皇の身の回りのお世話をする女官たちの三等官の長であり、本名を呼ばずに職名で呼んでいる)を妻として天皇からいただき、尊び寵愛し始めた頃で、わずかな時間でも別々になってしまうのを嫌がり、建武3年3月の末まで、西国への遠征を延期していたが、このことこそ傾城傾国、つまり美女が城や国を傾けるという故事の通りであった。

 義貞がグズグズしているうちに、丹波では久下、中沢、荻野、波々伯部(ほうかべ)らの武士たちが、足利一族の仁木頼章を大将として、高山寺(兵庫県丹波市氷上町の弘波山上にあった)を山城として立てこもった。播磨では赤松入道円心が白旗山(兵庫県赤穂郡上郡町)に城を構えて、宮方の討伐軍の来襲に備えていた。
 美作では、この地に勢力を張っている菅原一族の江見、弘戸、その他の武士たちが奈義能山(岡山県勝田郡奈義町と鳥取県八頭郡智頭町との境にある)、その東南にある菩提寺(勝田郡奈義町高円)に城を築いて国中で無法を働いた。
 備前では土地の田井、飽浦(あくら)、内藤、頓宮(はやみ)、松田、福林寺などという武士たちが、足利一族の石橋和義という武士を大将として、甲斐川、三石(備前市三石)に城を構えて水陸両方からの宮方の来襲に備えようとしていた。
 備中では庄、真壁、陶山、成合(なりあい)、新見、多地部(たじめ)などの武士たちの一族が、勢山(せやま、倉敷市真備町の妹山)で防御を固めて、鳥も通えぬほど厳重に城柵を築いた。

 さらにこれから西の、備後、安芸、周防、長門は言うまでもなく、四国、九州の武士たちも、尊氏方に味方しないと立ち行かないので、本心がどうであれ、足利方に従いなびかないということはなかったのである。

 西日本の各地で城郭が築かれ、固められ、また諸国の武士たちの蜂起の情報がすべて京都へと伝えられたので、さらに東国で足利方の勢力が強大になってはかなわないと、北畠顕家卿を鎮守府将軍に任じて奥州へと派遣した。鎮守府は奥州平定のために置かれた軍府である。歴史的な事実としては、顕家が鎮守府将軍になったのは、これよりも早く建武2年11月、陸奥守になったのはさらに早く元弘3年8月のことだそうである。 

 新田義貞には、山陰道8か国(丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐)、山陽道8か国(播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門)、計16か国の管領(政務全体の管理)を許されて、尊氏追討の宣旨が下された。義貞は天皇のご命令を受けて、西国に旅立とうとしていたその矢先におこりの病を発病して、体を動かすことができなかったので、まず新田一族の江田行義、大館氏明の2人を播磨へと派遣したのであった。

 赤松円心はこれを聴いて、敵を踏みとどまらせるようなことがあってはいけないと思い、備前、播磨両国の武士たちを糾合して、書写山(兵庫県姫路市北西部)の麓の坂本に押し寄せたので、江田、大館を大将とする宮方の軍勢は室山(兵庫県たつの市御津町室山)で対戦した。宮方の兵が赤松軍を破り、江田、大館は、勢いを増して、この勢いならば西国の足利方を討伐することは容易であると京都に向けてしきりに文書を発送した。

 義貞は勾当内侍への愛情に溺れたり、病気になったりで、尊氏方攻略の機を逃す少し間抜けな武将として描かれている。それでも、江田、大館からの知らせを受け取って、いよいよ重い腰を上げることになる。宮方としてみれば、九州から大軍が押し寄せてくる前に、中国地方の尊氏方の武士たちを抑え込んでおきたいところであるが、果たしてどのような展開になるか。尊氏方の中心になるのは赤松円心であるが、九州から尊氏・直義兄弟が戻ってくるまで自分たちの勢力だけで宮方の攻勢に対抗できるかどうか、気になるところである。丹後の荻野のようにいつの間にか尊氏方になっている武士もいるので、本文を気を付けて読んでいく必要がある。
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