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『太平記』(292)

12月10日(火)曇り

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年、なお、『太平記』では貞和5年の出来事として描いているが、これは誤りである)正月、京都の足利尊氏・直義兄弟によって楠討伐のために派遣された高師直・師泰兄弟は、正行・正時の楠兄弟と四条畷で対戦し、一時は苦戦したものの、これを破り、楠兄弟は自刃した。勢いに乗った師直は吉野の皇居や金峯山寺を焼き払った。師直に追われて吉野から賀名生に退去した後村上帝以下の南朝の人々は、暮らしにも事欠く有様だった。
 一方、南朝討伐に功のあった高師直・師泰兄弟はますます心驕り、見苦しい振る舞いが多くなった。師直は一条今出川にその身分を越えた豪華な屋敷を構え、高貴な身分の女性たちを次々とわがものにしていた。その弟の師泰はというと…

 「これらはなほもおろかなり」{第4分冊、249ページ、これらは(師直が豪華な屋敷を構えたり、高貴な身分の女性をわがものにしたりしたのは)まだましな方である}と『太平記』の作者は評する。「越後守師泰が悪行を伝へ聞くこそ不思議なれ」(同上)と、その弟師泰の「悪行」について語りはじめる。
 師泰が東山の枝橋(現在の京都市左京区今出川口の辺り)に山荘を造営しようと考えて、その土地の持主が誰かをたずねてみると、菅原氏の長者である宰相(=参議)菅原在登(ありのり)の領地であることが分かった。そこで、使者を送って、この土地を譲ってほしいと申し入れた。
 使いの者に対して在登は申し出の趣は承知したが(本当は承知したくないのだが、長い物には巻かれろということであろう)、この地は先祖代々の墳墓の地であり、せめて墓標を移転するまでの猶予をお願いしたいと答えた。これを聞いた師泰は何を言うのか、本当は土地を譲りたくないからそんなことをいうのだろうと怒って、その墓をみんな掘り崩してしまい、樹木を切り倒して地ならしをした。すると、地に重なり落ちた五輪の下に、苔にまみれた死骸が見えたり、割れた石碑に昔の人の名が刻まれていたり、あわれ惨たらしい情景が目の前に広がった。

 どこの誰だか知らないが、余計なことをする人はいるもので、一首の歌を書いて、地ならしをしている土の上に立てかけた。
 亡き人のしるしの卒塔婆堀棄てて墓無かりける家造りかな
(第4分冊、250ページ、故人の墓石を掘り捨てて家を建てても、永くは栄えまいよ。墓が無しと、はかなしをかけている。) 
 師泰はこの落書を見て、これはきっと菅三位(=在登)の仕業にちがいない。当座の口論にことよせて、差し殺せと言って、亀山院の皇子寛尊法親王の寵愛の稚児で五護殿と呼ばれていた大力の少年をたきつけて、強引に在登を殺させてしまったのは哀れむべき出来事であった。在登は代々の学者の家の出身で、北野天満宮の祀官であるとともに文芸の大家でもあった。何でこのような不運に出会ったのか、まことに気の毒なことであった。
 森重暁『太平記の群像』(角川ソフィア文庫)によると、師泰が菅原氏の墳墓を破壊し、在登を殺害したということをめぐっては傍証はないそうである。『常楽記』{じょうらくき=永仁3年(1295)から応永32年(1425)にかけての天皇・公家・武家・僧侶などの死没年月日を列記した一種の過去帳)には、在登は観応元年(1350)5月16日に子息在弘とともに護吾丸のために同時に殺害されたと記されているという。また『祇園執行日記』{ぎおんしぎょうにっき=京都祇園社(八坂神社)の執行(しゅぎょう≂寺務を担当する僧職、この時代は神仏混交しているからこういう役職の人がいた)の日記}にも5月16日に「西院宮児五々殿」のために殺害という記事があるそうである。それで在登父子が「吾護殿」という稚児に殺されたことは事実のようであるが、事件と師泰との関係は明らかではない。(森、168ページ参照)

 さらにまた、この山荘を建てているときに、四条大納言隆蔭に仕えている青侍(公家に仕える六位の侍)上杉重藤と古見宗久とが通りかかって、山荘造営に使用されている人夫たちが汗を流してこき使われているのを見て、どうも気の毒なことだ、身分の低い人夫たちであるとはいっても、これほどまでに痛めつけなくてもいいだろうと非難の言葉を漏らしていきすぎていった。この工事の現場の責任者であった中間がこれを聞きつけて、何者かは知らないが、ここをとる公家仕えの侍が、このようなことを言って通りすぎていきましたと師泰に言いつけた。
 師泰は大いに怒って、よくも言いおったな、人夫をいたわれというのであれば、そ奴らを使うべしといって、遠くまで去っていた2人の武士を呼び戻し、人夫たちの着るつぎはぎだらけの粗末な衣服に着替えさせて、高位のもののつける立て烏帽子をへこませて、庶民の被る柔らかな烏帽子のようにして、夏の暑い日1日中、鋤をとって土を掘り返させ、石を掘っては釣り輿で運ばせるなどこき使ったのであった。これを見た人々は非難のしぐさをして、命は惜しいものではあるが、恥を見るよりも死んだほうがいいのかななどといいあったのである⦅表向き、2人の武士を非難しているが、心の中では師泰を非難しているということであろう)。
 この事件が歴史的な事実であるかについては、森さんの前記著書では触れていない。

 これらはまだまだたいしたことではないと『太平記』の作者は続ける。貞和4年の正月に師直が吉野に攻め入ったときに、師泰が石川河原(大阪府富田林市の東部を流れる石川の河原)に陣をとって周囲ににらみを利かせたことはすでに述べたが、その一帯の寺社の所領を、領主に問い合わせることなく差し押さえてしまった。のみならず四天王寺の燈明の費用に充てる荘園もその中に含まれていたので、700年にわたり一度も消えたことのなかった仏法常住の燈(仏法の不変を示す燈)も消えてしまい、それとともに仏法の威信も失われたのである。

 また、何者であろうか、極悪非道な人物が云いだしたことに、この辺の塔の九輪(塔の最頂部に立てる九重の金具の輪)は混じりけのない赤銅製であるそうだ。これを使って鑵子(かんす=茶の湯を沸かす釜)を鋳造したら、おいしいお茶が飲めるはずだなどという。それをもっともだと思った師泰はある寺の九輪の輪を1つ外してそれで鑵子を鋳造させた。すると、言われた通りじつに芳しいお茶を飲むことができた。
 上に立つものがこのように仏法を敬わない行為をするものだから、配下の者も我も我もと近くの寺の九輪をはずしてそれで鑵子を鋳造した。そのため和泉、河内の三重塔、五重塔、九重塔、多宝塔など数百か所の塔婆でまっすぐなものは1基もないという有様となった。あるいは九輪を下ろされて、柱の上の枡形の木枠だけが残っているもの、またあるいは塔の中心となる支柱を切られて、建物の土台だけが残っているもの、宝塔に座す多宝如来と釈迦如来の像を飾っている瓔珞(宝玉)が雨ざらしになり、五智の如来(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)の肉髻が夜の雨に打たれて濡れているという仕儀である。昔々仏教の敵となった物部守屋が再びこの世に生まれ変わって、仏法を滅ぼそうとしているのかと思えるほどにあさましい様子であった。
 これらの行為についても傍証となる資料はないようであるが、森さんは配下の武士たちの「所領横領の黙認については、当時の在地領主たちの寺社本所領に対する濫妨・狼藉の停止を幕府が徹底させえなかった事情を反映しているようである」(森、169ページ)と師泰に対しむしろ同情的な評価をしていることを書き添えておこう。

 師直に続いて、師泰の兄を凌ぐ悪行の数々が記されて、兄弟の悪逆非道振りが描き出されるが、今日の歴史研究の中でそのような人間像を裏付ける史料が確認できるわけではないことも付け加えなければならない。ただ、師泰の悪行の描写を通じて、どうも『太平記』の著者が寺院の関係者だったらしいことが推測できる。
 さて、このような師直・師泰兄弟の驕慢に対し、反感を持ち、排除を企てるものが出てきても不思議はない…というのが次回以降の展開である。詳しいことは、その時に。
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『太平記』(291)

12月3日(火)晴れ、温暖

 今回から第27巻に入る(『太平記』は40巻からなり、第22巻が欠けているので、第27巻は26巻目ということになり、この巻を読み終えれば、全体の3分の2を読み切ったことになる)。

 貞和4年(南朝正平3年、1348年、なお『太平記』では貞和5年の出来事として描いているが、4年が正しい)高師直・師泰兄弟は四条畷で楠正行の軍勢と戦い、一時は苦戦したものの勝利を収めて、楠正行・正時兄弟は自刃する。
 高師直兄弟は吉野に押し寄せ、南朝の皇居や金峯山寺を焼き払った。後村上帝と南朝の人々はさらに山深くに落ち延びていった。

 四条畷の戦いで、正行・正時兄弟は戦死し、正行の弟で正成の三男である次郎左衛門正儀だけが生き残って河内の本拠を守っているという噂なので、このついでに一族を根絶やしにしてしまえと師泰は3,000余騎を率いて、石川河原(大阪府富田林市)を流れる石川の河原に、向かい城を築き、楠勢の残党との間で攻防を繰り返した。

 後村上帝は天川(てんのかわ=奈良県吉野郡天川村)の奥の賀名生(あのう=五條市西吉野町賀名生)というところに、にわか作りの黒木造りの御所(皮を削らない丸木づくりの御所)を建ててお住まいになった。それは昔の中国の聖天子である唐の堯、虞の舜が屋根を葺いた茅の先を切りそろえず、椽(たるき)もかんなで削らない質素な住まいに住んでいたというのもこんなことではなかったかと思わせるものであった。

 そのように古の聖天子に通じる質実な暮らしぶりであったとはいうものの、後村上帝の母親である新待賢門院(阿野簾子)、中宮である顕子(北畠親房の娘)は柴葺きの粗末な小屋に住まわれて雨漏りに悩まされ、涙をぬぐう袖が乾く暇もなかった。公卿殿上人たちは木の下、岩の陰に、松の葉を屋根に吹き、苔の莚を床に敷いて、身を置く仮の住まいとした。高い山から強い風が吹きつけ、夜は重ね着をして寒さをしのごうとするが、露の置く野での旅寝が寒いので、昔の栄華を夢に見ることもできないという有様であった。さらに、その家来・従者ということになると、夕暮れの山で薪を拾ってきても、雪を頂く吉野の地は寒く、深い谷間の水を汲んでも、月の光をあびる肩がやせ衰えて見える。

 こうして生き延びる価値がないような暮らしを送ることになってしまったが、それでも容易には消えない露のようなはかない身の上を嘆きながら、わずかな希望にすがって生き延びていたのである。

 その一方で南朝の朝廷を吉野から追い払った高一族は驕りたかぶっていた。そもそも富貴な身の上となり、武功を賞賛されるようになると、物事の終りを慎まずに恥ずべき行為に及ぶものが多いのは世の常である。将軍足利尊氏の執事である高師直とその一族は、正行との戦い、吉野攻略と大きな手柄を立てたので、いよいよ心驕り、横暴になって、人の謗り、世のあざけりをますます多く受けるようになった一方で、全くそれを気にせずにふるまっていたのである。

 世の中の仕来りとして、4位以下の位の低い武士たちは、板葺きの家に住むものであったのに、師直は、一条今出川(鴨川の分流の今出川が、平安京に入る東洞院大路と一条大路の交点)に、以前は護良親王の母親である宣旨三位殿(北畠師親の娘・親子)が住まわれていたが、今は荒れ果ててしまった古御所を改築して自分の住まいとした。唐門(屋根が唐破風造りの門)と棟門(むなもん=屋根が切妻破風造りの門)を四方にあけ、釣殿(寝殿造りの池の側の殿舎)、渡殿(わたどの=渡り廊下)、泉殿(池に突き出た殿舎)を壮麗に築き、まことに華やかなものであった。
 庭には、伊勢、志摩、紀州の雑賀から大きな石を運ばせ、その際に石を乗せた車の心棒が折れたり、車を引く牛が苦しんだりの大騒ぎであった。さらに庭の樹木として、吉野の桜、高砂の松(兵庫県加古川市の尾上神社の松)、八塩丘(京都市左京区岩倉の紅葉の名所)の紅葉、西行法師が「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風渡るなり」と詠んだ難波の葦、在原業平が東下りの折に通った宇津ノ谷峠の蔦楓、未署名所の風景が、その場にいて楽しめるように集めたのである。

 さらに公卿や殿上人の娘たちは、変転の激しい世の中で寄る辺のないわびしさをかこっていたのに付け込んで、自分のものにしようとするのはこのような時世なので、仕方のないことなのかもしれないが、高貴な皇女腹の姫君などその数がわからないくらい大勢、あちこちに隠し養っていた。毎夜毎夜あちこちに通っていくので、「執事の宮廻に、供え物を頂かない神もない」(宮腹と宮=神社をかけたしゃれである)と京の口さがない民衆が笑い興じていたのもあさましいことであった。
 こういうけしからん振る舞いが多い中でも、果たしてこれでいいのかと思うような出来事は、二条の関白(道平であろうかと脚注にある)の妹君を、宮中にお仕えさせようと考えられていたのが、師直が盗み出して、最初のうちは遠慮してこそこそと通っていたのが、あとのほうになると図々しく大っぴらに通うようになった。こうして2人の間にできたのが武蔵五郎と称した高師夏であったという。いかに末世とはいえ、かたじけなくも大織冠(たいしょっかん)藤原鎌足公の末裔である方が、礼儀作法もわきまえぬ坂東節と結ばれるというのは、あさましいことであった。

 足利尊氏の執事に過ぎない高師直が奢りを極めたことを『太平記』の作者は非難しているが、貴族が住むような寝殿造りの邸宅に住むのは、鎌倉時代の上級武士もしていたことであるのは、金沢北条氏の遺跡である金沢文庫と稱名寺を訪れてみればわかることで、最近ではもっと僻遠の地方の武士でも、豪勢な暮らしをしていたことがうかがわれる遺跡が発見されているようである。
 師直の好色ぶりについても大いに非難されているが、それが事実であるかどうかという問題、また事実だとしても当時の武士たちの生活ぶりと比較してどの程度、逸脱したものであったかという問題など、そう簡単には片付かない問題は多いのではないか。林家辰三郎によると、この時代の武士の居館には、もし落城するようなことがあれば、一家の妻女たちが自殺するための場所が設けられていたというし、『太平記』の作者が見逃している問題も少なくはないように思われる。
 とにかく、文学作品であるから、歴史的な事実ではないことも書き込まれていることをご承知の上でお読みください。次回は、師直の弟である師泰の悪行が記された個所を読むことになる。

『太平記』(290)

11月26日(火)雨が降ったりやんだり

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、楠正成の子正行が、父の13回忌に際して挙兵し、8月、河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った(史実は、貞和3年、以下の出来事も実は1年前に起きている)。11月、正行は住吉、天王寺で、山名時氏と細川顕氏の軍を破った。12月、高師直・師泰兄弟が楠討伐に向かった。死を覚悟した正行は、吉野に赴いて後村上帝に謁し、如意輪堂の壁板に一族の過去帳を書きつけた。翌正月5日、正行は四条畷の合戦で師直軍を追い詰めたが、上山左衛門の身代わりで師直は難を逃れた。正行・正時兄弟は戦死し、師直軍は吉野へ押し寄せた。このため、後村上帝と南朝の人々は、吉野を去り、さらに山奥へと落ち延びたのであった。

 南朝の朝廷が吉野を去って、山中を逃げまどっているうちに、高師直は3万余騎の軍勢を率いて、吉野へと押し寄せ、3度鬨の声をあげたが、すでに人々が逃げ去った後なので、こたえる声はなかった。それならば焼き払ってしまえということで、皇居や側近の貴族たちの宿所に火をかけた。折からの強風にあおられて、2丈(約6メートル)の高さのある笠鳥居、2丈5尺(約7.5メートル)の高さの金鳥居、二階建ての仁王門、蔵王堂近くの天神宮、72間(約130メートル)の回廊、三十八所神社、宝蔵、竈神を祀る神社、蔵王堂の本尊である蔵王権現の三尊の社壇まで一時に灰燼となり、煙が空に立ち昇った。あさましいことかぎりのない情景であった。
 この時代は神仏が習合していたので、南朝が頼りにしている金峯山寺にも鳥居があったり、仁王門があったりする。岩波文庫版の脚注には笠鳥居は金峯神社の鳥居(修行門)か、金鳥居は、総門と蔵王堂の間の銅製の大鳥居(発心門)と記されている。実は吉野に出かけたことがあるのだが、何せ60年以上昔のことなので、ほとんどのことを忘れてしまった。ただ、蔵王堂の規模の大きさに感心したことだけはかすかに記憶している。

 さて、北野天神の社壇がなぜ吉野にあるのか。延喜13年(西暦913年)に吉野の奥にある大峯の笙の岩屋で修業をしていた日蔵上人が頓死するという出来事があった。すると蔵王権現がその左の手に上人を乗せて、地獄の閻魔王の宮殿へと連れて行った。閻魔庁の役人の1人が、上人に倶生神(くしょうじん)を1人付き添わせて、六道(衆生が輪廻する6種の世界:地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を見せた。倶生神というのは人が生まれた時から常に両肩のところにいて、その人の一生を閻魔王に報告する男女2神である。ここではそのうちの1人が随行することになっている。
 こうして地獄の中の鉄窟苦所(てっくつくしょ)というところにやって来ると、溶けた鉄が湯のようになっているところに、玉のを被り、天子の装いをした罪人が苦しんでいるのが見えた。その罪人が手を挙げて上人を招いている。どんな罪人であろうかと不思議に思いながら、近づいてその顔を見ると、延喜の帝(醍醐帝)であった。

 上人は、御前に跪いて、陛下はご在位の折に、外には五常(仁・義・礼・智・信の5つの徳)を正しく保たれて仁義を専らにし、内には五戒(殺生・偸盗・邪婬・妄語・飲酒をしないという5つの戒)をお守りになって慈悲を心がけて政治にあたられたので、十地等覚(じゅううじとうがく=仏になる一歩手前の、菩薩の修業の最終段階)の位に到達されるであろうと思っておりましたのに、なぜこのような地獄に堕ちるようなことになられたのですかとたずねた。
 すると、帝は涙を流されながら、私が在位の間、帝としての総ての職務を怠りなく果たし、民衆をいたわって治世を行えば、何事も間違いないはずであったが、藤原時平の讒言を信じて、無実の罪で菅丞相(菅原道真)を左遷したために、この地獄に堕ちたのである。上人は、いま、冥土に滞在しているが、これは定業(じょうごう=前世から定まった宿命)ではないので、生き返るはずである。私と上人との仏道における師弟関係は浅いものではない。上人は早く娑婆に生き返って、すぐに菅丞相の廟を建てて、衆生を導き利益を施してほしい。そうすれば、私はこの苦しみを逃れることができるだろうと、泣く泣くおっしゃったので、上人はそれを詳しく承ったということで、吉野山に廟を建てて、衆生に恩恵を与えるようにした。これが天神の社壇の由来である。

 蔵王権現というのは、昔修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ)が衆生を救済するために金峯山に一千日籠って生身(しょうじん=肉身)の像を現出させようと祈ったところ、この金剛蔵王はまず柔和忍辱(にゅうわにんにく=温和で怒らず耐え忍ぶこと)の相を顕わされて、地蔵菩薩のお姿で地から湧き出られた。役行者はその頭を押さえて、これからは末法の世の中になるので、そんなおやさしいお姿では人々を導くことはできそうにありませんと申しあげたところ、像は伯耆国の大山へと飛び去って行かれた。そして激しく怒った姿に様子を変え、右のお手には密教の法具である三鈷(さんこ)を握って肱を怒らせ、左のお手には5本の指を組み合わせて(印を結んで)お腰を押さえられた。激しく怒った姿で睨みつけて、仏道を妨げる悪魔をとり鎮める神の姿をされ、一方の足を高く上げ、他方を低くして、天地を秩序づける威徳を顕わされた。〔文章だけだとわかりづらい。〕
 お姿の顕わし方が尋常の神仏のそれとは違い、またお姿を錦の帳の中にお隠しになろうとしないので、この世に現れた姿を隠すために、役行者と天暦帝(村上帝)がそれぞれ脇侍となる二尊の像を造り添えて、三尊として安置することとした。悪愛(おあい=忿怒と慈愛)を日本中に示し、人々の是非を正し、全世界に賞罰を明らかにして、煩悩にとらわれる人を懲らしめ、物事を糺した。仏が神として顕れた例は多いが、蔵王権現こそは衆生利益のあらたかなことは、他にまたとない霊妙な神である。

 このような不思議な霊験を持つ社壇を一度に焼き払ってしまうことを、悲しまない人がいただろうか。だからこそ、この知らせを聞いた人々は大いに悲しんだのであるが、その一方でこういう悪事を働く高師直は、間もなくその命運が尽きて滅びることになるだろうと思わない人はいなかったという。

 こうして第26巻は終わる。師直に追われて吉野を去る南朝の人々の姿を描いた後に、霊場を焼き払う師直の悪行と、吉野がどのような理由で霊場となったのかを語る2つの説話が語られる。
 無実の菅原道真を左遷したことにより、醍醐帝が地獄に堕ちたという説話は、『北野天神縁起絵巻』にも描かれている。東御苑の三の丸尚蔵館に『北野天神縁起絵巻』が複数収納されているのは、すごいなあと展示を見て感心した記憶がある。その一方で、醍醐・村上二帝の時代は摂政・関白を置かずに帝が親政されたため、「延喜天暦の治」として理想化する人々もいた。日本の中世というのは、一筋縄では語れない時代なのである。〔『太平記』とほぼ同時代に書かれた(少し先行する)ダンテの『神曲』にはローマ教皇の一人が地獄に堕ちている姿が描かれているのも注目に値することである。〕
 帝王の守るべき徳として、儒教的な五常と、仏教の五戒が並置されていること、蔵王権現の信仰が神仏混交であることなど、中世人の世界観が様々な要素を結びつけながら、独自の世界を構築するものであったことも注意する必要があるだろう。  

『太平記』(289)

11月19日(火)晴れ

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、楠正成の子正行が、父の13回忌に際して挙兵し、8月、河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った〔史実は1年早く、貞和3年のことである。以下同じ〕。正行はさらに11月、住吉、天王寺で、山名時氏と細川顕氏の軍を破った。12月、高師直・師泰兄弟が楠討伐に向かった。死を覚悟した正行は、吉野に赴いて後村上帝に謁し、如意輪堂の壁板に一族の過去帳を書き付けた。明くる正月5日、正行は四条畷の合戦で師直軍を追い詰めたが、上山左衛門の身代わりで師直は難を逃れた。力尽きた、楠正幸・正時兄弟は自刃した。

 四条畷の合戦で1日のうちに、和田・楠の兄弟4人(正行・正時・和田高家・源秀)、一族23人(和田橘六左衛門ら)、相従う兵343人は戦死を遂げ、その首を京都の六条河原にさらされた。奥州から2度も大軍をひきいて京都に向かい宮方のために気を吐いた北畠顕家卿は暦応元年5月に和泉の堺で戦死し、武将として宮方を率いていた新田義貞は暦応元年閏7月に越前で戦死、畿内から遠く離れた場所に山塞をかまえて宮方として戦っている武将はいても、全体を統率するような優れた武将がいなくなってしまった中で、楠正行は2度も足利方の軍勢を破って気を吐き、後村上帝の信頼も厚い存在であったのが、ここに戦死を遂げてしまったのは、いよいよ宮方の運の傾く前兆であるかに思われた。

 一方、一度は肝を冷やす思いをしたとはいうものの、敵の主力を壊滅させた師直・師泰軍はこの勢いに乗じて、河内の楠の館を焼き払い、吉野の南朝の帝を生け捕りにしようと、師泰は正月8日に、6千余騎を率いて、和泉の堺を発って、石川河原に向かい城を築く。師直は、3万余騎の軍勢を率いて、14日に、大和の平田を発って、吉野の麓へ押し寄せた。

 師直の軍勢が近づいてきたという情報を得て、四条隆資卿は(自身ダミーの別動隊を率いて、四条畷の合戦に参加していたのであるが)、急いで急ごしらえの御所に参上して、「残念ながら正行は戦死いたしました。明日、師直が勢いに乗って皇居に襲いかかってくると噂されております。この吉野というところは防備がおろそかで、我々には十分な兵力もありません。取り急ぎ、今夜のうちに天川(奈良県吉野郡天川村)の奥、穴生(あなう、五條市西吉野町賀名生、もと「穴生」と書いたが、朝廷の行在所として「賀名生」と改められる)のあたりにお逃げください」と申しあげた。
 そして、三種の神器を内侍典司(ないしのすけ、後宮の内侍の司の次官)に持たせ、馬の準備をさせると、帝はなにがなんだかわからず、夢でも見ているようなお心持で、御所を出発され、女院(帝の母の阿野廉子)、中宮など皇族の方々、さらに女官や貴族たちも取る物もとりあえずに、慌てふためき、倒れ迷い、慣れない山道を更に山奥へと進んで、残雪をふみながら、吉野の山奥へと達したのである。

 後村上帝にとって吉野の山の中は、心をとめるような場所ではなかったはずであるが、すでに長年暮らされていた上に、これから向かう先がさらに山の中ということで、これまで以上に住みにくい場所になるだろうと思われ、涙を流されるのであった。そして、蔵王堂の南にある勝手神社の前を通り過ぎられるときに、馬からお降りになって、草深い祠に向かい祈1願をされ、涙ながらに次の歌を詠まれたのである:
 たのむ甲斐なきにつけても誓ひてし勝手の宮の名こそ惜しけれ
(第4分冊、236ページ、戦勝祈願をした甲斐もなく、勝つという名の勝手神社の名折れであることよ。)

 中国の例を調べてみると、唐の玄宗皇帝が安禄山の乱に遭って蜀に行幸したという例がある。わが国の古い例では天武天皇が、天智天皇の皇子である大友皇子との対立から、吉野山に隠れられたという例がある。これら2つの例は、逆臣によって天子が都をはなれさせられたけれども、最終的には戻って(ただし、『太平記』の作者は知らなかったのかもしれないが、玄宗皇帝は退位させられている。日本とちがって中国の皇帝の生前退位はきわめて異例である)よい政治を行ったという例であるので、このままで終わることもあるまいと、古の出来事と比べ合わせてお考えになる点はありながらも、付き従う人々が、泣き悲しむ様子を御覧になると、帝の御心は休まることがなかった。

 こうして周章と傷心のうちに吉野の朝廷の人々は、更に山奥へと落ちていくのであるが、追ってくる高師直たちはどのような行動に出るのかというのは、また次回に。『太平記』を読んでいると気付くことであるが、帝の身辺に持して、三種の神器を運んだりしているのは女官であって、男性の侍従ではないということで、これは現代の即位礼が過去の先例を踏まえていないということになるのではないかと思うのである。



『太平記』(288)

11月12日(火)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、楠正成の子正行が、父の13回忌に際して挙兵し、8月河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った(史実は貞和3年のことである。以下、すべて史実では1年早く起きた事柄である)。さらに11月、正行は住吉、天王寺で、山名時氏と細川顕氏の軍を破った。12月、高師直・師泰兄弟が楠討伐に向かった。死を覚悟した正行は、吉野に赴いて後村上帝に謁し、如意輪堂の壁板に一族の過去帳を書きつけた。あくる正月5日、正行は四条畷の合戦で師直軍を追い詰めたが、上山左衛門の身代わりで師直は難を逃れた。

 さて、楠正行は、多年の宿願である高師直の首を取ったと喜んで、その首をよくよく見てみると、師直ではなかったことが分かったので、大いに怒ってその首を傍らに打ち捨てたが、彼の弟の次郎正時が「(だまされたという気持ちはわかるが)そうはいっても、(主君の身代わりになって死ぬという)剛勇の志は立派なものではないですか。ほかの首とは区別して置いておきましょう」と彼の小袖の袖を切りとって、上山の首を包んで、少し高いところに置いた。

 楠方の河内の武士であった鼻田与三は膝がしらに矢を深く射られて、動くこともままならぬまま立っていたが、この様子を見て次のように叫んだ。「さては師直は討ち取られなかったのだ。どうも安心できないな。師直はどこにいるのだろうか」と、兜の中に髪が乱れかかるのを払いのけながら、血眼になって北の方角を見つめた。すると、輪違の高家の紋を示す旗が一流れ見えて、その近くに身分の高そうな老武士の姿が見え、その近くに7・80騎の武士たちが控えていた。
 「あそこにいる武士は、たしかに師直と思われる。さあ、出かけて行って討ち取ろう。」 すると、楠一族の和田橘六左衛門という武士が引き留めていった。「少し考えてみた方がいいぞ。功を焦って、大事な敵を撃ち漏らすということがあってはいけない。敵は騎馬で、こちらは徒歩である。こちらが追いかければ、向うは逃げるだろう。そういうことになれば、我々はとても追いつき、討ち取るということはできない。だから策をめぐらせるべきだ。われわれがわざと退却をする様子を見せれば、敵は調子に乗って追いかけてくるだろう。敵を近くにおびき寄せておいて、その中で師直だと思われる武士の馬の脚を薙ぎ払い、落馬したところで首をとればよい。」 戦死せずに残っていた50人あまりの武士たちは、この意見に同意して、楯を背中に宛てて、退却する様子を見せ始めた。

 高師直は老練な武将なので、この程度の作戦に引っかかって、馬を進めるというようなことはしなかったが、彼の猶子である師冬(実は師直の従弟である)は西側の田んぼの中に300騎ほどの部下を率いて待機していたところ、敵が退却する様子を見せたので、全滅させてしまおうと兵を率いて襲い掛かった。楠勢は決死の覚悟をしていたので、師冬の軍勢を近づけるだけ近づけさせておいて、一気に反撃し、大きな被害を与えた。師冬はこれはかなわないとみて、退却したが、もといた陣から20町以上(約2.2キロ)も遠くに移ったのである。

 こうして楠軍と師直との間隔は、再び1町(約100メートル)あまりに縮まり、いよいよ思っていた敵を追い詰めることができたと、楠軍の武士たちの気は急くのであるが、これまでの戦いの疲れと、戦いで受けた傷が災いして、思うように体を動かすことができない。しかも楠軍は徒歩立ち、師直軍は騎馬である。とはいっても、10万余騎と呼号していた師直・師泰の軍は四散してしまい、師直の旗本には7・80騎ほどしか残っていないのだ、と勇を鼓して前進しようとする。和田、楠、野田(河内国丹比郡野田荘=堺市内の武士)、禁峯(きんぷ、不詳)、大和の三輪神社の神主である関地西阿(せきじのせいあ)、その子息の良円、河辺石菊丸(かわのべのいわきくまる、大阪府南河内郡赤坂千早村川野辺に住んだ武士)らが、じりじりと前進を続ける。

 このように何があっても動じることがなくひたひたと迫ってくる決死の軍勢に恐れをなして、さすがの師直も退却しようという気配を見せ始めたときに、九州出身の武士で鱸四郎という強い弓を矢継ぎ早に射る名手が馬から飛び降りて、逃げていった武士たちの捨てていった箙、尻籠(しこ、箙も尻籠も矢を入れる容器である)を拾い集めて、(矢を集めて)楠軍に向け散々に射かけた。和田源秀は7か所も傷を負った。楠正行も何本も矢を受けた。さらに一騎当千と頼みにしてきた武士たち113人も何か所にも傷を受けてしまっていた。

 馬はすでに解き放してしまった。戦いで疲労は限界に達している。いまはこれまでと思ったのであろうか、楠正行と、その弟の次郎正時、和田源秀の3人は立ちながらお互いに刺し違えて、倒れ伏した。吉野の如意輪堂の壁板に名を連ねた143人のうち、63人がまだ生き残っていたが、「今はこれまでだ。さて、皆の衆、同じ冥土に赴こう」と同時に腹を切って果てたのである。

 正成の甥、正行の従弟、源秀の兄である和田新兵衛行忠(別の個所には高家となっている)はなにを考えたのだろうか、たった一人で、鎧の一そろいを着て、右の脇に太刀を挟み、敵の首を一つもって左手で下げて、この頃はやっていた小歌を歌いながら、徒歩で東条(大阪府富田林市、楠の根拠地)の方角へと歩いて行こうとした。
 これを見た安保肥前守忠実(武蔵七党の丹党の武士、埼玉県神川町出身)がただ一騎で追いかけて、「和田、楠の人々はみな自害されたのに、見捨てて一人で落ちのびようとするのは見苦しく思われる。戻ってきて、勝負しなさい」と声をかける。和田はにっこりと笑って、「戻って勝負するのは簡単だ(自分の方が勝つにきまっている)」と4尺6寸の大刀が血まみれになっているのを打ち振って走りかかる。忠実は、一騎打ちでの勝負では敵わないと思ったので、馬の首をめぐらせて逃げ出す。忠実が止まると、行忠はまた落ちて行く。落ちて行けば、忠実はまた追いかけて、討ち取ろうとする。追えば返し、返せば止まり、とうとう1里(約4キロ)あまりを進む間、お互いに討たれぬままであり、次第に日没が近づいてきた。どうやら、討ち取ることはできないままに終わりそうだと忠実が思っていると、同じく丹党の武士である青木次郎(埼玉県飯能市の武士)と小旗一揆に加わっていた長崎彦九郎の二騎が箙に少し矢を残して追いついてきた。彼ら2人は新兵衛を自分たちの左手において、馬上から矢を射かけたので、新兵衛はその体に何本も矢を受け、ついに忠実に首を取られたのであった。

 こうして四条畷の戦いは、楠正行軍の全滅で幕を閉じた(もっとも、その前に、後陣の兵は逃げかえっているので、楠一族の活動は今後も続くことになるのである)。まことに壮絶な戦いぶりであったが、南北朝の力関係を逆転させることはできなかったのであり、吉野の後村上帝が正行に言われたように、生きて戻って帝を助けることを考えた方がその後の情勢の変化を考えるとよかったのではないかと思われる。実際に、正行の戦死後の吉野の朝廷は大へんな状況に陥るのであるが、それはまた次回に。 
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