『太平記』(167)

7月16日(日)曇り

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から東上した足利尊氏・直義兄弟の率いる軍勢は、中国地方から兵庫まで後退してここで一戦を交えようとしていた後醍醐天皇方の新田義貞と衝突し、新田軍はよく戦ったが衆寡敵せず、退却を余儀なくされた。このため、後醍醐天皇は廷臣や自分に従う武士たちとともに比叡山に向かわれた。持明院統の花園法皇、光厳上皇、豊仁親王は、比叡山に赴く途中で、足利方の武士たちに助けられ、8月には豊仁親王が即位されることになる。これは持明院統の皇族を天皇に推戴することによって、朝敵となることを避けようという尊氏の考えによるものであった。
 もともと天照大神が伊勢に鎮座されてこの国の主となられたときに、日本に仏法が広まることで自分たちの力が失われることを恐れていた魔王たちに対して、自分は仏法には近づかないと約束され、それに感激した魔王たちが、天照大神の子孫である方々に反旗を翻すものがいれば、自分たちが滅ぼすと誓ったという経緯があった。そのような朝敵の例として、神武天皇の時代に巨大な蜘蛛がいて、人々を苦しめたが、官軍によって滅ぼされた。

 『太平記』の作者は、大蜘蛛の次に、天智天皇の時代に、藤原千方(ちかた)という朝敵が出現したという話を語る(藤原千方は、実在の人物で、既に15巻で大ムカデを退治したという説話の中に登場し、またこの後にも平将門を討伐したと語られる――これは歴史的事実である――俵藤太こと、藤原秀郷の孫であるから、大変な時代錯誤である。そもそも藤原という姓は、天智天皇の股肱の臣であった中臣鎌足が初めて与えられたものである)。
 千方は金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼(おんぎょうき)という4つの鬼を使っていた。金鬼は、その体が堅固にできていて、矢を射ても矢が突き刺されない。風鬼は、大きな風を吹かせて、敵の城を吹き破ってしまう。水鬼は、国隋を興して、敵を溺れさせる。隠形鬼は、その姿を消して、突然敵に襲い掛かる。こういう神通力をもつ鬼たちであったので、普通の人間の力では防ぐことができず、伊賀、伊勢の2つの国は千方の勢力範囲となってしまい、天皇のまつりごとに従おうとする者がいなくなった。

 ここに紀友尾というものが、天皇の宣旨を頂いて伊賀の国に下り、一首の歌を詠んで、鬼たちにそれを伝えた。
 草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲家なるべき
(日本の国土は草も木もすべて帝のものであって、鬼の住処などあろうはずがない。)
 4つの鬼は、この歌を見て、「ということは、我々が悪逆無道の家臣のいうことを聞いて、善政有徳の帝に背いたということは、天罰を逃れる場所がないということだ」といって、たちまちに方々に逃げ去ってしまった。そのため千方は勢いを失い、やがて友尾に討伐されたという話である。
 紀友尾というのは、紀貫之や友則の一族ということであろうが、岩波文庫版の脚注によると不詳だそうである。

 さらに、平将門の話が紹介される。朱雀院の時代に、平将門というものが、東国に下って下総国相馬郡(現愛の茨城・千葉両県にまたがる地)に都を立て、勝手に平親王と号して、独立政府のようなものを作り上げた。朝廷は軍を派遣して総力を挙げてこれを討伐しようとしたのだが、将門の体は鉄でできていて、矢を射ても突き刺さらず、劒や鉾で斬りつけても怪我をしない。そこで朝廷の諸卿が相談した末に、仏教の守護神である四天王の像を鉄で作り、比叡山にこの像を置いて、四天合行の法という四天王を本尊として行う修法を行わせたところ、天から白羽の矢が一筋下りてきて、将門の眉の間に立った。その矢が抜けずに将門が苦しんでいるところを、俵藤太秀郷が首をはねた。

 その首は、獄門にかけられたのだが、3か月というもの、目は開いたままで、顔色も生きている時のままで、常に歯ぎしりをして、「斬られてしまったわが五体はどこにあるのか。ここにやってこい。また首と一緒になってもう一戦戦おう」と夜な夜な呼び掛けていたので、聞く人はこれを怖がっていた。そのころ、藤六というものが道を通ったのであるが、このうわさを聞いて
 将門は米かみよりぞ斬られける俵の藤太が謀(はかりごと)にて
(将門の首は、俵藤太のはかりごとでこめかみから斬られた。こめかみと米を掛け、米と俵は縁語である。)
と詠んだ。(歌に感心した)首がにやりと笑ったのであるが、その瞬間に目はふさがり、屍は朽ち果ててしまった〔首のことを語っていて、首と切り離された屍のことは語られていなかったので、この記述は奇妙である。〕
 この説話、小学校5年生の時に、社会科の時間で先生が話されたのを覚えているのだが、どうも説明が十分でなかったような気がする。教師たるもの、しっかり予習すべきだという例として記憶に残っている(自分が教師をしていたころに、予習不十分な授業をずいぶんしたことを棚に上げている!!)

 朝敵となって滅ぼされたものはこれら3例だけではないと、『太平記』の作者はさまざまな人物の名を列挙する。岩波文庫版の脚注は『平家物語』巻五「朝敵揃へ」に類似していると記している。名前を列挙した後で、「悪は滅びる」とその末路をまとめている。作者がいいたいのは次のところであろう。

 以上のことがあって、尊氏がこの年の春に、関東八か国の多句の武士たちを率いて上洛したけれども、朝敵という汚名を着せられていたので、私的な望みに基づく武運はやはり長続きするものではなく、数度の合戦に敗北して九州に逃亡することになった。そこで今回はその先非を悔いて、一方の皇統(持明院統)をお立てし、朝敵征伐の院宣に従ったので、威勢に道理が加わり、偉業が道理のもとに達せられようとしていると、人々はみなこの挙を軽く見なかった。こうして東寺が上皇の御所となり、武将が城郭を構えて警護して防備を固めたので、人々は安心したのである。これは比叡山から敵が攻め寄せてきたのであれば、小路小路を遮って、縦横に合戦をするための備えとなるものであると、この城郭を構えたのであった。

 京都の北の比叡山は後醍醐天皇を支持しているが、南の東寺、醍醐寺は尊氏寄りの立場をとっている。比叡山は天台宗、東寺、醍醐寺は真言宗であるが、宗派というよりもそれぞれの寺院の僧侶たちの意向の方が大きく影響しているようである。後醍醐天皇が天皇親政の政治の復活を考えられていたのに対し、持明院統の皇族方は上皇の1人が<治天の君>として政治をとられるという平安末期→鎌倉時代の政治の在り方を理想とされていたようである。従って、持明院統を代表されるのは、光厳上皇であった(尊氏に院宣を下したのも、上皇である)ことを重視すべきである。
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『太平記』(166)

7月10日(月)晴れ、暑い

 建武3年(延元元年、1336)春、いったん占領した都から宮方の軍勢の反攻に敗退して、九州に落ち延び、勢力を回復した足利尊氏・直義兄弟は再び上洛を目指し、5月25日に兵庫の戦いで新田義貞の軍を破って、都に向かった。都の後醍醐天皇は比叡山へと向かわれた。持明院統の花園法皇・光厳上皇・豊仁親王は、比叡山に赴く途中で足利方の武士に助けられた。6月15日に豊仁親王が天皇として即位する式を挙げた。(光明天皇である。)

 『太平記』の作者はここで、天皇の位をめぐる一種の神話を語りはじめる。
 「それ日本開闢の始めを尋ぬれば、二儀すでに分かれ、三才漸く顕れて、人寿2万歳の時、伊弉諾、伊弉冉の二尊、夫婦となつて、天の浮橋の下にて妻夫交合して(みとのまぐわえ)して、一女三男を生み給不。」(第3分冊、97ページ、そもそも日本の国の始まりの様子を訪ねてみると、天地の二儀が既に分かれ、天・地・人の三才がようやく出現して、人の寿命がまだ2万歳であったころ、伊弉諾尊、伊弉冉尊の二柱の神が、夫婦となって、天の浮橋の下で夫婦としての交わりをされて、一女三男をお生みになった)。その一助というのは、天照大神、三男と申すは月神、蛭子、素戔嗚尊である。〔「古事記」では黄泉の国に、火神を生んだ際のやけどで死んでしまった伊弉冉の尊を訪ねに行って、戻ってきた伊弉諾尊が日向の橘の小門(おど)で禊をされ、左の目を洗った時に天照大神、右の目を洗った時に月読命、鼻を洗った時に素戔嗚尊が生まれたと記されているが、『日本書紀』には様々な異説が描かれていて、その中には伊弉冉の尊から三貴子が生まれたとするもの、さらに蛭子が生まれたとするものなどがあったと記憶する。〕

 第一の御子である天照皇太神は、この国の主となって、伊勢国度会郡、御裳濯川(みもすそがわ=五十鈴川)の神域の川瀬の下の巌にご降臨になってより、あるときは神が仏となって、次々に衆生を救うための変化の姿を現され、あるときは本来の神に戻って、塵のように無数の国土の民に利益を与えられてきた。これすなわち、本地の神が垂迹の仏よりも勝るということである。

 ここに欲界六天の第六天の魔王が鳩(あつま)って、「この国に仏法が広まると、魔力の効き目が少なくなって、その力を失ってしまうだろう」と天照大神の応化利生(神仏が姿を変えて衆生を仏道に導き利すること)を妨げようと欲した。すると天照大神は魔王たちに邪魔をさせないために「われ三宝に近づかじ」(第3分冊、98ページ、私は仏教に近づかないようにしよう。三宝は仏・法・僧で、仏教のことを「三宝」ともいう)と誓われた。

 このため、第六天の魔王は、怒りを静めてその五体から血を出し、「未来の果てに至るまで天照大神の子孫である人をもって、この国の主とすべきである。もし王命に従わないものがあって、国を乱し民を苦しめるようなことがあれば、我々と十万八千の従者たちが、朝でも夕方でも駆けつけて天罰を与え、その命を奪うであろう」と固く誓い、誓約書を書いて天照大神に差し上げた。これが三種の神器の一つである八坂瓊勾玉に関する異説である。

 実際に、伊勢神宮の内宮と外宮の様子は、他の社壇と異なって、錦の帳に仏をかたどる鏡をもかけず、念仏読経を行うこともなく、僧尼の参詣を許していない。これらすべては、伊勢神宮が天照大神の魔王との約束を違えることなく、俗世の衆生を教化し仏縁を結ばせて救う手立てをひそかに隠したものなのである。
 つまり、天照大神は魔王たちに自分は仏教に近づかないと約束し、事実伊勢神宮では当時の神仏混交の他の寺社とは違って、仏教色は排されている。そして、魔王たちは天照大神の子孫である国の主たちを守り続けると誓約した。その一方で、伊勢神宮以外出は仏教は広まっているので、魔王たちが悪いことをできる範囲は限られているわけである。天照大神の作戦勝ちということである。

 さて、このあと、『太平記』の作者は、天照大神の子孫に反抗した者の末路をいくつか語るのである。「天照大神より以来、継体の君九十六代、その間に朝敵となつて亡びし者を数ふれば」(第3分冊、98-99ページ、天照大神以来、皇位を継がれた帝は96題にわたり、その間に朝敵となって亡びたものを数えると。『太平記』の作者は後醍醐天皇を96代と計算していた。なお、中世には「百王説」と言って、第100代の天皇で日本は滅びるという俗信があった)、まず神武天皇の御代の天平4年に(これはとんでもない大でたらめで、天平は聖武天皇の時代の年号である)、紀伊国名草郡に長さ2丈(約6メートル)あまりの蜘蛛「があった。手足が長く、波の人間以上の力をもっていた。網を張ること数里におよび、道行く人を食い殺していた。しかし、天皇により派遣された軍勢が鉄の網を張り、鉄の湯を沸かして四方から攻めかかったので、この蜘蛛はついに打ち負かされて、その身はズタズタに割かれ、しかも爛れてしまったのである。

 以上、読んできて、『太平記』の作者がいろいろなことを知っていること、その中にはずいぶん荒唐無稽な、あるいは歴史的につじつまの合わない話もあることに気付かれたと思う。しかし、それが歴史的な事実に反するとか、不合理だとか批判するよりも、そういう多様な説話を含んで、『太平記』の世界が出来上がっているということの文学史的、さらには思想史的な意義の方に目を向けるべきではないかと思う。『太平記』は、この後まだしばらく、不思議な力をもっていた「朝敵」がそれ以上の力によって滅ぼされてきた歴史を語り続ける。

『太平記』(165)

7月3日(月)晴れ

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から海路東上してきた足利尊氏、陸路を進んできた直義の軍勢は、中国地方から退却して、兵庫で防備を固めている新田義貞、京都から応援として派遣された楠正成の軍勢との戦闘を開始した。正成は弟の正氏とともに足利直義の命を狙ったが、事ならず、二人は七生まで朝敵を滅ぼすことを誓って湊川で自害した。生田の森で奮戦した義貞も、衆寡敵せず退却した。義貞敗戦の知らせに、後醍醐天皇は再び比叡山へと向かった。

 このような次第で、公家と武家とが、天皇の乗られている輿の前後を取り巻き、修学院から雲母坂を経て比叡山を越えていく今道越を進んで行くこととなった。
 一方、持明院統の君である花園法皇、光厳上皇、豊仁(ゆたひと)親王(のちの光明天皇)に対しては、洞院大納言公泰卿が勅使として派遣され、持明院殿の法皇・上皇・親王の方々の御所を天皇と同じように比叡山に移されるように申し入れがされたので、持明院統では花園法皇の兄、光厳上皇、豊仁親王の父である後伏見院が4月に亡くなられたばかりで喪中であったのではあるが、避けられないことなので、比叡山に遷られることを承諾する旨を伝えられた。そこで備前の武士である大田全職(まさもと)が遷幸の警護役としてお供すべくやってきた。ところが、支度を整えて御所を出られようとしたところで、突然ご病気を訴えられ、しばらく出発を見合わせることとなった(どなたが、ご病気になられたのか、書かれていないのが奇妙である。なお、飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』では、『皇年代略記』により、病気と称したのは光厳院であったとしている)。
 『太平記』の作者は、後から考えると真相は、後伏見上皇が(歴史的な事実としては光厳上皇が)尊氏に院宣を与えられていたので、ご政務をあきらめてはおられなかったのだろう。あるいは尊氏の方からも内々に連絡があったのかもしれないと述べている。

 そうこうしていたが、全職と彼の率いる武士たちは、早くご出発していただきたいと急き立てていたので、上皇は輿に召され、臨幸を開始されたのだが、鴨川の河原に出たあたりでご病気が悪化したので、しばらく腰を留め、ご回復をお待ちしていた。ところが時間がたつうちに足利方の軍勢が都に乱入したらしく、都のあちこちから火の手が上がり、鬨の声が辺り一帯に響いてきたので、全職は「ご病気であるのに無理をして険しい山道を越えられるのも、その後のご病気が悪化する原因となるでしょう。逆臣たちは既に京都に入ってきて、あちこちで合戦が始まるのを見ながら、意気消沈して待機している場合ではありません。全職はまず比叡山の方に急いで駆けつけるつもりです。敵に道を遮られて」しまえば、悔いてもどうしようもないので、私はまず先に東坂本へ参ります。おのおの方はご病状の様子次第で、急いで後から駆けつけてください」とお供の人々に申し渡して、比叡山に向かっていった。

 この直後に、尊氏の方から、持明院の御所に警護の武士たちを派遣したのであったが、朝早くから比叡山の方に向かわれましたという留守の者の言葉であったので、武士たちは途方に暮れて、ひょっとして院の行幸に行き会えるかと、馬で駆け回り、探し回ったのであるが、お三方のご運がよかったのであろう、石捨(岩波文庫の脚注によると、どこのことか不詳だそうである)というところで出会うことができたので、大喜びで、尊氏卿の使いと名乗ったところ、上皇もお喜びになり、お供をしていた日野資名、源重資らの公家たちもほっとしたのであった。そして、尊氏の命令で、まず土御門東洞院にあった六条長講堂を御所として定め、尊氏配下の武士たちが警護に当たった。

 その後、京都市内での合戦がまだ決着していなかったので、同じ年の6月3日に、花園法皇、光厳上皇、豊仁親王を石清水八幡宮に臨幸させ申した。同じ月の14日に八幡から京都にお戻りになり、当時に向かわれ、灌頂院を御所とされた。これは尊氏の差し金によるものである。後醍醐天皇とともに比叡山に向かった以外の公家や武士たち、これまで持明院統に仕えてきた公家たちは、それぞれ東寺へと集まった。

 6月20日から比叡山を本拠とする宮方との戦いが本格化したが、足利方が有利であったので、ますます味方となるものが増え、覇権を確立したので、この年の8月15日に押小路烏丸の二条中納言中将良基の邸で、後伏見院の第二王子、豊仁親王が践祚された。これは、尊氏の運勢が隆盛に向かうはじめであったと、後になって思い当たることであった。

 光厳上皇とともに、鎌倉を目指して都を離れた六波羅探題の一行に加わり、探題一行が自刃したのちに出家した資名がひさしぶりに登場し、光厳院への忠誠を通しているのも注目されるが、ここで二条良基(1320-1388)の名が出てくるのが興味深い。政治家としては摂関の地位に昇り、文化人としては連歌道の樹立者とされ、『増鏡』の作者という説もある。当時はまだ十代で(それでも中納言という高い地位にあるのだから、門閥というのは恐ろしいものである)あったが、なぜ彼の邸が(もちろん、彼が父祖から継承した邸ではあるのだが)豊仁親王(光明天皇)の践祚の場となったのかは、歴史上のひとつの謎である。さらに、もともと大覚寺統寄りの公家・文化人として育ち、後醍醐天皇からも目を懸けられていたという良基がここで北朝方に寝返ったのはなぜかというのも謎である。伊藤敬『新北朝の人と文学』という書物には、木藤才蔵「二条良基の研究」(1963、『学士院紀要』所収)からの「一筋なわでは解釈のつかない、複雑な人間像を想定せざるようである」(伊藤、55ページに引用)という評価が引き合いに出され、また伊藤自身も「良基の振幅は大きく、それだけに偉大であった」(同上)と評価している。とにかく武家同士の戦闘もさることながら、文化の領域でも様々な動きがあったことも視野に入れる必要がある。〔二条家は摂政・関白になることのできる家柄=摂関家であるのに対し、学者・実務官僚の家柄である日野家の家格は名家であった。〕

 この後の『太平記』は政治と戦闘の動きからしばらく離れて、<中世神話>を含む、奇怪な物語を展開する。 付け焼刃のにわか学問になることは承知で、これから1週間ほど<中世神話>について調べておくつもりである。

『太平記』(164)

6月25日(日)午前中は雨が降っていたが、午後は曇り空が続く

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から海路東上してきた足利尊氏の軍勢は、陸路を進んできた弟の直義の軍勢と呼応して、兵庫に陣を構えて都の朝廷を守ろうとする新田義貞の軍勢に襲い掛かった。京都から義貞の応援に派遣されていた楠正成は、弟の正氏とともに足利直義の命を狙ったが、大軍に阻まれて成功せず、2人は七生まで朝敵を滅ぼすことを誓って湊川で自害した。生田の森で奮戦した義貞も、衆寡敵せず退却した。

 退却する味方の軍勢を安全に落ち延びさせようと、最後尾で奮戦していたために、敵の中に孤立した義貞を、武蔵の国の武士である小山田太郎高家が身代わりになって救ったという話を前回の最後に書いたが、その際に参考にしようと思って見つからなかった安田元久『武蔵の武士団』が見つかったので、少し補足しておく。小山田氏は、桓武平氏で武蔵の国で最強と言われた秩父武士団を構成する一族であり、その祖小山田有重は、剛勇廉直の鎌倉武士として幕府の創建に貢献した畠山重忠の叔父にあたる。幕府の内紛に巻き込まれて畠山、稲毛など秩父武士団を構成する一門の武士たちが滅ぼされた後も、小山田氏だけはその血脈を伝えていた。現代の町田市下山田町にある曹洞宗の古刹大泉寺は、文明9年(1477)に長尾景春の乱で小山田氏の居館であった小山田城が落城したのちに、この地に移ってきた寺だそうで、本堂の西側の丘の中腹にある3基の宝篋印塔の1基が小山田高家の墓と伝えられているという。〔私が時々その近くに出かけている小机城址が長尾景春の乱と関係があることは以前に書いた。なお、小机城は「続・日本100名城」に選定されたという掲示が出されていた。〕

 楠正成が戦死したという情報は、義貞から早馬で京都に伝えられ、京都中が色を失い、後醍醐天皇は困惑された。正成が討ち死にしたとはいえ、まだ義貞がいるし、何とか敵襲を食い止めてくれるだろうと望みをつないで、敵が急に勢いづいて近づいてくるだろうとは、誰も思っていなかったのだが、宮方の総大将である義貞が、わずかに1,000余騎にも満たない敗残の兵とともに京都へ敗走してきたので、人々が慌てて騒ぐことは一通りではない。男も女も右往左往し、主君も家臣も呆然として地に足がつかない。

 朝廷では新田軍がもし敗北したならば、この年の正月にそうしたように、ふたたび比叡山に朝廷を移すことをかねてから決めていたので、延元元年5月25日(1336、歴史的事実としては27日)に、天皇は3種の神器をまず先にして、またもや比叡山へと行幸される。

 驚くべきか、嘆くべきか。元弘元年(1331)には、鎌倉幕府の圧力を避けて後醍醐天皇は都から出奔され、その年のうちに幕府に捕らえられて、隠岐の島に配流されたが、皇位は朽ちない定めであったので、間もなく北条氏を滅ぼし、公家一統の政治を実現された。こうして昔の律令政治が復活するかと思われたのだが、それからまだ3年もたたないうちに、今度は足利尊氏・直義兄弟が武家の政治の再興を企てて謀叛を起こした。こうして天下は再び内乱に苦しむことになったが、いったん武家方は京都を占領したものの、宮方の反攻に敗北したので、これこそ天皇の徳のなせるところである、もはや謀叛を企て、兵乱を起こすものは出てこないだろうと思っていたのに、足利軍は九州で勢いを盛り返し、半年もたたないうちに2度まで、天皇が都から玉座を移すという事態が起きてしまった。「今は日月も昼夜を照らすことなく、君臣も上下を知らざる世になつて、仏法、王法ともに滅すべき時分にやなりぬらんと、人皆心を迷はせり」(第3分冊、89ページ)と『太平記』の作者は嘆く。

 それでもまだ人々は、正月にいったん都から落ち延びた宮方の軍勢が、天皇のご威光によって敗走した前例を思い浮かべ、同じことがまた起きるのではないかと希望をつなぐのであった。そのため、前回の比叡山行幸の際には態度をはっきりさせなかったけれども、今度こそは比叡山にお供をして、自分の忠義の心を示そうと考えるものも少なくなかった。
 それで、正月の臨幸の際よりも多くの、さまざまな身分の人々がお供に加わり、武士は無論のこと、戦争に従軍した体験のない公家の人々まで、ここで手柄を立てて名を挙げようと、空元気だけは勇ましく見えることであった。
 臨幸に加わった主な人々の名が列挙されている中に、奥州から大軍を率いて上洛していた北畠顕家の名がある。前回、正成ではなく、大軍を動員できるという意味で顕家の方が適任ではなかったか、しかし、すでに顕家は奥州に戻っていたと書いたが、実はまだ京都に残っていたことを知らなかった。だとすれば、なおさら、正成を戦死させたのは作戦ミスとしか言いようがない。
 もう一つ気になる記事は、持明院統系の公家として活躍していた日野資明の名があることである。彼はもちろん、この後すぐに抜け出して、北朝方の公家の中にその名を連ねるのであるが、この時どのような態度をとっていたのかは興味あるところである。〔足利尊氏が京都から敗走する途中で、側近の薬師丸という少年僧におまえは日野中納言(=資明)と面識があるそうだから、そこから光厳院の院宣をもらってきてほしいと言いつける。(第15巻) この巻で、厳島神社に参篭している尊氏のもとに、醍醐寺の高僧である賢俊僧正が光厳院の院宣を持ってくるが、賢俊は資明の弟である。だから、資明は尊氏と連絡を取っているはずで、それが天皇の臨幸の中に加わっているというのはなにがしかの意図があってのことだと推測されるのである。〕

 とにかく、天皇の臨幸の列に加わらなかった人々も、後を追って比叡山や、その麓の坂本に押し寄せたので、公家や武家であふれかえってしまい、宿取りの争い、あるいは食糧の争奪戦など、朝晩やかましいことであったと作者は記している。

 いったん京都から敗走した尊氏・直義兄弟が再び、京都に迫ってくる。後醍醐天皇はまたも都から離れることになる。前回、都を占拠した時に、尊氏は持明院統の皇族と連絡を取ることができなかったが、今回は連絡が取れているというところが違い、それが今後の展開に大きく影響してくる。それがどのようなものかについては、また次回に。 

『太平記』(163)

6月18日(日)曇り、昼頃から雨が降り出す

 建武3年(延元元年、1336)4月末に、九州に逃れていた足利尊氏・直義兄弟が大宰府を発って東上、安芸の厳島明神で光厳院の院宣を得ると、備後鞆の浦で軍勢を手分けして、尊氏が海路を、直義が陸路を進んで都を目指した。中国地方での優勢を固めようとしていた新田義貞は直義軍の攻撃を受けて、摂津兵庫まで後退した。劣勢を挽回すべく、後醍醐天皇は楠正成に兵庫下向を命じた。死を覚悟して兵庫へ下る正成は、途中、桜井の宿で嫡子正行に遺訓した。5月25日、足利尊氏の軍勢が海路兵庫につくと、新田方の本間重氏が遠矢を射て、戦闘が開始された。
 尊氏に合流していた細川定禅率いる四国軍は摂津の紺部の浜(現在の神戸市中央区)に上洛を図り、それにつられて新田軍は東へと移動、新田軍が陣を構えていた和田岬に尊氏の率いる九州・中国軍がやすやすと上陸し、湊川に陣を構えていた楠正成は敵中に孤立、陸路から迫ってきた直義軍と戦い、直義を危地に陥らせるなど奮戦したが、尊氏軍が直義軍に援軍を派遣、ついに楠兄弟は七生朝敵を滅ぼすことを誓って湊川で自害した。

 正成戦死を知った新田義貞は、早馬を仕立てて京都にこの旨を報告、京都の朝廷は鎌倉幕府の大軍を退け、倒幕に大きな功績を残した正成が命を落としたことに大いに驚いたが、新田がなんとか敵を食い止めてくれるだろうと頼りに思ったことであった。

 ということで、尊氏、直義の兄弟がそれぞれの軍を合わせて、西から新田義貞の軍勢に戦いを挑む。義貞、義助の兄弟はこの様子を見て、紺部の浜から上陸してきた敵は、旗の紋を見たところ、四国、中国の武士たちと判断される。湊川の方面から攻めてくる軍勢こそ、足利兄弟と思われる。これこそ願うところの敵である」と、脇の浜(神戸市中央区脇浜町の海岸)から取って返し、生田の森を背にして、その率いる4万余騎を3手に分けて、敵を三方から迎撃しようとした。〔楠正成・正氏、新田義貞・脇屋義助、足利尊氏・直義、3組の兄弟がこの戦いに参加しているのが注目される。血は水よりも濃し、一族一門の団結のきずなの基本的な結びつきは兄弟の関係であったのである。戦いの継続とともに、兄弟は他人の始まりという時代が訪れる…〕

 新田軍、足利軍ともに勢いをつけようと、それぞれ一斉に鬨の声を上げる。まず、一番に、新田方からは大館氏明と江田行義が3千余騎を率いて、足利一族の仁木、細川、斯波、渋川の6万余騎の中に駆けこみ、火を散らして戦って、二手に分かれてさっと退却する。
 次に、宮方からは中院中将定平(戦闘に加わっているが、もともと村見源氏の公家である)、新田一族の大井田、里見、鳥山の武士たちが5000余騎を率いて、足利譜代の家臣である高、尊氏・直義兄弟の母親の実家である上杉、尊氏の盟友佐々木道誉、赤松一族の軍勢8万余騎の真ん中に駆け込み、1時間ほど黒煙を立てて戦闘を続けた。
 3番目に、義貞の弟の脇屋義助、宇都宮公綱、菊池武重、伊予の河野一族である土居、得能らの1万余騎の軍勢が、足利直義〔図らずも義貞と尊氏の弟同士の対決となった〕と足利一族である吉良、石塔、畠山、小俣、一色の10万余騎の中に突っ込み、天を響かし、地を動かし、両者入り乱れての乱戦を展開したが、戦死者が多く、両陣ともに退却して、いったん休息の時間をとった。

 この様子を見て、新田義貞は「控えの新しい軍勢は既になくなってしまったが、戦いはまだ決しない。これは大将たる私が自ら出陣すべき場面である」と2万余騎を左右に進め、尊氏の20万余騎の中にかけ入り、戦闘を開始する。いよいよ両軍の首将同士の対決である。一方が宮方の総大将で、新田家の嫡流の武将であり、もう一方は武家方の首将で、足利家の正統の武将である。ということで、名実ともに両軍を代表する存在として相争うべき存在である。ということで両方の軍勢が激突して激しい戦いが展開された。しかし、新田軍は軍勢の数において劣るので、命を捨てて勇敢に戦ったとはいうものの、ついに壊滅状態になり、残る軍勢はわずかに3千余騎、生田の森の東から丹波路を通って、都の方へと敗走する。

 足利方の軍勢は勢いに乗って、敗走する新田軍に襲い掛かる。しかし、総大将である義貞はこれまでの戦いでもそうしてきたように、味方の軍勢を無事に逃がすために、敗走する軍勢の後陣に引き下がって、戻っては戦い戻っては戦いしていた。そうこうするうちに義貞の乗っていた馬が矢を3筋まで受けて、進めなくなったので、乗馬の乗り換えをしようと思って待っていたが、味方の軍勢はこれを知らなかったうえに、義貞から見える味方の兵もその時は遠くにいたので、義貞を馬に乗せようとする人がいないという状態であった。

 これを見た足利方の軍勢は、数百騎の兵が争うように殺到し、義貞を取り囲んで討ち果たそうとするが、義貞は弓を引き絞って、近づいてくる武士たちをめがけて矢を射る。その勢いのすさまじさに圧倒されて、足利方の武士たちは義貞を遠巻きにして矢ふすまを作り、遠矢を射かけるだけであった。その矢が雨のように降りそそぐ中、義貞は源氏の家柄に代々伝わる薄金という鎧を着て、これも源氏に代々伝わる鬼切という(渡辺綱が鬼の腕を着たとされる)名刀を抜いて、鎧をゆすって札(さね)の隙間をなくし、あるいは矢を鎧の左袖で受け止め、あるいは飛んでくる矢を刀で切り捨てて、防いだので、その体には矢を受けて傷つくこともなかった。〔前回の楠正成が11か所の傷を負うていたというのと対照的である。〕

 そこへ、遠くからこの様子を見つけた小山田太郎高家という武蔵小山田(現在の東京都町田市内)の武士が馬を全速力で走らせて駆け付け、馬から飛び降り、自分の馬に大将義貞を急いで乗せ、自分自身は徒立(かちだち)になって、追ってくる敵を防いでいたのだが、大勢の敵に囲まれ、ついに戦死してしまった。その間に、義貞は敗走する自軍に追い付いて、きわめて危険な状態を脱し、しばらくは安堵したのであった。

 『太平記』の作者は尊氏・直義と義貞・義助の軍勢の戦いを例によって過剰な言語を連ねて描写するが、実態としてはどの程度激しい戦闘が展開されたのかは疑問である。新田軍の兵力が急激に減ったのは、自軍の何倍もある足利軍の軍勢を見て恐れをなして逃げ散った武士たちが少なくないからではないかとも思われる。戦闘の様子を見て、どちらにつくかを決めるという武士たちが多いからこそ、自分たちの武勇をもって何とか劣勢を挽回しようと義貞は考え、確かに武勇のほどは発揮したのだが、それ以前に細川定禅の陽動作戦に引っかかって、軍勢を東に移動させ(楠を孤立させてしまっ)たのが大きな敗因であった。そのまま和田岬の陣を動かず、正成と呼応して戦っていれば、あるいは勝機が生まれていたかもしれない。もちろん、一番大きな敗因は両者の軍勢の規模であって、その意味では後醍醐天皇は楠正成ではなく、大軍を動員する力量のある北畠顕家を派遣すべきであった〔といっても、この時点で、顕家は自分の任地である東北地方に戻っていたはずである〕。新田軍主力の勇猛さや団結力はたしかに賞賛に値するのだが、尊氏・直義兄弟に加えて、高師直、上杉憲房、細川和氏、細川定禅、佐々木道誉、赤松円心と軍勢だけでなく、存在感を持つ武将の数でも足利方の方が有利であったことは否定できない。 
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