『太平記』(176)

9月19日(火)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、都を奪回した足利方は、勢いに乗って、後醍醐天皇とその側近、従う武士たちが都を捨てた後に頼りにした比叡山に東西から攻め寄せた。西坂では後醍醐天皇の寵臣で三木一草の1人に数えられた千種忠顕が、宮方は知性の有利さと、武士たちの勇敢な働きとで足利方の攻撃を何度も食い止めた。6月17には、足利方は山での戦いに慣れた熊野八庄司を先頭に攻撃を掛けたが、本間重氏と相馬忠重の弓勢に恐れをなして逃走した。そんな中、八王子権現の託宣があり、搦め手の大将高師久の敗北を予言した。果たして20日、宮方の急襲で寄せ手は総崩れとなり、高師久は捕えられて斬られた。

 6月5日から20日まで、比叡山での合戦が続き、多くの戦傷者を出したが、攻撃を仕掛けた足利方は東西の坂の両方で敗戦を重ね、退却せざるをえず、さらに臆病風に吹かれて京都市内にも留まることなく、あちこちに逃げていった。このため、京都市内は思ってもみなかったほどのがら空き状態になり、都を守っていた武士たちがどうしようかと驚き惑った。この時、もし比叡山から時間をおかずに都へと攻め寄せていれば、足利方が都を持ちこたえることはできそうもない状態であったが、比叡山の内部では意見の対立があり、10日以上も無為に過ごした。これは宮方と比叡山にとっては惜しい逸機であった。

 そうこうしているうちに都から離れた片田舎や郊外に逃げ隠れしていた武士たちが、気持ちを取り直してまた京都に戻ってきたので、京都を守護する軍勢はまた大ぜいになった。比叡山の方ではそんなこととは知らず、京都市内には大した軍勢はいないと聞いて、6月末日に、10万余騎を二手に分けて、今路、西坂から都へと押し寄せた。

 尊氏は、相手を油断させようと、わざと鴨の河原にわずかの軍勢しか置かず、矢を射かけただけで退却させた。そこへ宮方の千葉、宇都宮、土居、得能、仁科、高梨の軍勢が、勝ちに乗じて、追いかけて洛内に攻め入る。足利方は、敵が存分に近づいてきた時に、当時から準備していた50万の兵を出陣させ、今日の南北、東西の小道に魚鱗の陣を張り、東西南北から相手を押し込み切り離して、四方にあたり八方に囲んで、一人残らず切り捨てようと戦ったので、宮方の歴戦の武士たち1000人余りが戦死し、日が既に暮れてきたので、戦場を駆け巡って汗みどろのなった馬の脚を休めようとして、戦闘で劣勢であった宮方の兵たちは、なんとか士気を奮い起こして西坂をさして引き返したのである。

 これまでは数で勝る足利方の攻勢を比叡山の僧兵たちと宮方の武士たちの連合軍が受けて立つという展開であったのが、今回は攻守を変えて、宮方の方が都を攻めた。一端は多くの武士たちが逃亡して数的にも劣勢になった足利方であったが、逃げていた武士たちが戻ってきたことで勢いを取り戻し、宮方の攻撃を退けた。京勢=足利方は勢いに乗り、山方=比叡山・宮方は勢いを失い、両者互角の形成となった。

 こうしてまたしばらくは合戦もなかったが、北陸地方から二条帥大納言師基卿が敷地(石川県加賀市大聖寺)、山岸(福井県坂井市三国町山岸)、瓜生(越前市瓜生)、河島(大野市川嶋、深町(坂井市)の武士たち3千余騎を率いて、7月5日に東坂本に到着した。師基は摂政関白を務めた二条兼基の子で、道平の弟、この時代有数の文化人で連歌の名手として知られる良基の叔父である。良基がなぜか大覚寺統・南朝を裏切って、北朝に走ったのとは対照的に、終始大覚寺統・南朝に仕えた。帥は大宰府の權帥ということ(太宰府の帥は親王任官)である。
 比叡山はこれに力を得て、この月の18日に京都を襲撃した。「前には、京都中を経て東寺まで攻め寄せたので、小路を横切って出てきて前後左右から懸ってくる敵を防ぎかね、敵の包囲を破ることができなかった。今回は、(二手に分かれて)一方は二条を西へ内野(北野の南、平安京の大内裏の跡地が野原になっていた)へと駆け抜けて、大宮通から南下して、もう一方の軍勢は鴨川の河原を下って押し寄せ、東西から京都を中に挟んで、火攻めにしよう」と軍議が定まった。

 ところがこの謀が、裏切り者がいたために、京都の足利方に漏れてしまった。尊氏は、これを聞き知ったので、50万余騎の軍勢を3方に分け、20万騎を東山と七條河原(七條大路東端の鴨川の河原)に置いた。これは河原から押し寄せる敵を東西から挟み撃ちにして包囲しようとするためである。また20万騎を船岡山(大徳寺の南、京都市北区紫野船岡町にある小山。現在は織田信長を祀る建勲神社があるが、もちろん、この時代にはない)の麓と神祇官(の建物の跡地)の南に隠しておいた。これは、内野から大宮通を南下しようとする軍勢を南北から包囲するためである。残る10万余騎を、西八条(東寺の北の辺り)、東寺の辺に控えさせて、軍営の門の前に配置した。これは前線の兵が追い散らされた場合に、控えの新しい軍勢として補充するためである。

 そうこうするうちに、夜が明けて7月18日となり、卯の刻(午前6時ごろ)に比叡山から押し寄せてきた軍勢が、北白川のあたり、八瀬、藪里、降松(さがりまつ)、修学院の前に打ち寄せて、東西2陣に軍勢を分けた。新田一族5万余騎は、下鴨神社の森である糺の森を南に見て、紫野から内野へと駆け通る。二条帥大納言、千葉、宇都宮、仁科、高梨、春日部は、真如堂(左京区浄土寺真如町にある天台宗寺院)の西を通り過ぎて、鴨川の河原を下って押し寄せる。配下の足軽たちが散らばって、京都中の民家数百か所に火をかけたので、炎が高く上がり、黒い煙が四方に立ち込める。

 五条河原から戦闘が始まって、射る矢は雨のよう、剣戟は稲光を見るようであった。やがて内野でも合戦が始まり、右近の馬場の東(北野神社の東南の地)、神祇官の跡地の南北に、汗をかいた馬がすれ違いあいながら走り、双方の時の声が入り混じり、落雷が大地を揺るがすような様子である。
 激しい戦闘が続いたが、五条河原に攻め寄せた宮方が敗走したために、内野に派遣されていた足利方の大軍がいよいよ勢いを得て、新田義貞兄弟の軍勢を十重二十重に取り巻いて、大声をあげて攻め戦う。とはいえ、義貞の部下たちはもともと馬を操ることにはたけており、これまで何度も訓練を重ねて人馬一体となって戦うことができるようになっているので、一挙に敵の篤い包囲を破り、左右を護衛する兵の1人も戦死することなく、敵の攻撃に反撃を続けながら戦って、比叡山へと引き返した。

 七部の兵法書にこのようなことが出ている。「大将の謀が漏れると勝ち目がない。敵が味方に内通していると災いを防げない。」(これは七部の兵法書=『孫子』『呉子』『六韜(りくとう)』『三略』『司馬法』『尉繚子(うつりょうし)』『李衛公問対(りえいこうもんたい)』の中の『三略』に出てくる言葉だそうである。) 今回、洛中の合戦に、宮方の軍が敗北したのは、ただ敵に内通するものが味方の中にいたためであったと宮方の武士たちは警戒しあったのであった。

 足利方が比叡山を攻撃した際には、尊氏・直義兄弟はもちろんのこと、高師直も出陣せず、一族の武将たちが指揮を執っていたのだが、宮方が京都に攻め寄せるということになると、新田義貞が全軍を率いて出陣する。兵力だけでなく、統率する武将の頭数でも足利方が圧倒的に優勢であることが分かる。二条師基の3千余騎に喜んで都を再度攻撃するというのは慎重さを欠くといわれても仕方がなく、京都での2度目の戦が、師基軍の敗退によって帰趨が決まったのも、寄せ集めの軍勢の欠点が表面に出たといえよう。作戦が漏洩したというだけのことでもなさそうである。(義貞は互角に戦っているのに、他の武将が足を引っ張るというのは、これまでも見られた例である。)

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『太平記』(175)

9月12日(火)雨が降ったりやんだり(午前中一時激しい雷雨)

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、京都を奪回した足利方は、延暦寺に立てこもる後醍醐天皇方を、東北、北陸方面から後醍醐天皇方の援軍が到着する前に攻撃しておこうと、東西から攻撃し、搦め手の西坂では三木一草に数えられた後醍醐天皇の寵臣千種忠顕が戦死した。しかし、後醍醐天皇方はよく戦い、戦局は膠着状態になった。16日、山での戦いには慣れているという熊野八庄司が足利方に加わり、彼らを先方として西坂から攻撃が掛けられたが、後醍醐天皇方の本間重氏、相馬忠重が強弓を射て威圧し、足利方の兵は逃走した。
 足利一族で越前の守護である斯波高経が比叡山への攻撃に加わると聞いた僧兵たちは、伝教大師の廟の修理のために集められていた材木を、防御用に使おうとしたが、比叡山三塔の1つである横川の般若院の高僧が召し使っている童に八王子権現がとり憑き、搦め手の大将である高師久の敗北を予言した。不思議なことではあったが、高師久の敗北はありそうも無いことであったので、周囲の人々はこれを自分たちだけの秘密にしておいた。

 比叡山の内部では、かねてから、西坂に敵軍が迫ってくれば、東塔の本院の鐘を撞き、東坂で合戦が起きれば、西塔の里坊である生源寺(比叡山の開山である伝教大師最澄の生誕の地とされる)の鐘を鳴らすことにしようと取り決めていた。
 かくするうちに、6月20日の早朝、日吉山王七社のうちの早尾社の猿たちが、大勢集まってきて生源寺の鐘を、東西両塔に響き渡るほどに大きく撞き鳴らした。
 周辺に陣をとっていた武士たち、延暦寺の三塔九院の僧兵たちがこれを聞いて、「それ、合図の鐘がなった、敵襲だ、こうなれば、攻め口に駆けつけて防ごう」と、我先に前線へと急ぐ。

 東西から比叡山を攻めようとしていた足利方のほうでは、この様子を見て、山にこもっている後醍醐天皇方のほうから反撃してきたと思い、水飲、今路、八瀬、藪里、志賀、大津、松本にいた足利方の武士たちが、楯はどこだ、武具を早く身に付けようと慌てふためいている。後醍醐天皇方の武士たちは、機先を制して有利な状況にあることを知り、比叡山の山上、西の麓の坂本にいた十万余騎の軍勢が、木戸を開き、防御用に道に置いていた逆茂木を引きのけて、同時に打って出た。

 足利方の大将は、踏みとどまって、「敵は小勢だぞ、それなのに逃げるのは見苦しい。引き返せ」と指示を下し、しばらく後醍醐天皇方の攻勢を支えていたが、大軍とはいえ浮き足立っている兵は一足も留まることなく、総崩れになった。
 新田義貞の弟である脇屋義助の率いる兵5千余騎が、志賀(大津市滋賀里)の炎魔堂のあたりに設けられていた足利方の向かい城(城攻めのとき、敵の城に相対して築く城)の500箇所以上に火を掛け、叫び声を上げながら攻め立てた。
 足利方の陣地は、これから破れて、東西から比叡山を攻撃しようとしていた80万予期が、険しい今路、古路(東塔から大津市穴太へ降りる道)、音なしの多岐、白鳥、三石、大嶽から、人が雪崩を打つよう崩れ落ちて敗走したのであった。谷が深く、行き先に人が詰まっていったことから、人と馬とが折り重なって死んだ様子というのは、木曽義仲が平家を破った倶利伽羅谷の戦いもこのようなものであったのかと思わせる光景であった。

 西坂の大将高師久は自分の刀で太ももに怪我を負い、退くことが出来ずにいるのを、新田義貞の家来である船田経政の灰化の武士が生け捕りにして、昼日中、比叡山、坂本を引き回し、大将である新田義貞の前に両手を後ろ手に縛って顔を前に差し向けて連行した。義貞は、師久が神社仏閣を破壊しようとしているとのうわさを聞いていたので、これは仏敵神敵の最たるものであるので、昔、奈良の都を焼き討ちにした平重衡の例に倣って処刑すべきだと申し渡し、比叡山の僧兵たちがこれを申し受けて、唐崎の浜で彼の首を刎ね、さらし首にした。

 この師久という人物は、足利尊氏の執事である師直の猶子の弟で一方の大将に任じられるほどに足利方では重んじられてきた存在であったから、自分の命を捨ててもその命を守ろうとするものが大勢いてしかるべきだったが、実際には誰一人として彼を助けようとせず、ふがいなくも敵に生け捕りにされてしまったのは、ひとえに日吉大社の山王権現の神罰であったのであろう。この日になってみると、前日の神託がなるほどと思い合わせられて、(神託を聞いていた比叡山の僧たちは)身の毛がよだつような思いをしたのであった。

 後醍醐天皇方の勝利のきっかけとなったのは、早尾社の猿(日吉山王権現の使者)の撞き鳴らす鐘の音であった。つまり、前日の神託とあわせ、この勝利には神佑、さらには比叡山を焼き払ってしまえと命じた高師久への神の怒りが働いていたと考えられる。ただし、仏神が常に後醍醐天皇を加護し、その勝利をはかっているわけではない。ということも、『太平記』の作者はわきまえていたはずである。

『太平記』(174)

9月4日(月)雨が降ったりやんだり

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、再び京都を奪取した足利方は、京都から逃れた後醍醐天皇らが立て籠もる比叡山に、東西から攻め寄せた。西坂では後醍醐天皇の寵臣の1人であった千種忠顕が戦死した。数の上では劣勢の後醍醐天皇方であったが、地の利と、士気の高さで足利方の攻勢をしのぎ、戦局は膠着状態になった。16日、山での戦闘に慣れていると自認する熊野八庄司の軍勢が足利方に加わり、彼らを先鋒として西坂から攻め込んだが、本間重氏と相馬忠重の弓勢に恐れをなして敗走した。

 膠着状態の中で、双方が弓を射あう矢軍(やいくさ)だけで毎日を過ごしていては、何年かかっても比叡山を攻め落とすことはできないと考えられた。足利方では、攻めあぐねてどのように攻めればよいのか迷いが出てきた。そこへ、延暦寺の僧である金輪院律師光澄(こんりんいんのりっしこうちょう)のもとから、今木少納言隆賢という同宿の僧を使いのものとして高師久のもとに伝言したのは、「新田殿が陣を構えている四明山の下は、比叡山の中でも第一の難所であるから、たやすく攻め破ることはできないとお考えいただきたい。山岳地帯での戦に慣れている西国方の兵を4・500騎、この隆賢につけていただいて、無動寺の方面から忍び入り、東塔の文殊楼あるいは四王院のあたりで鬨の声をあげれば、光澄に味方する僧兵たちが、東西両塔の間で旗を挙げ、鬨の声をあげて呼応し、比叡山をわずかの時間のうちに攻め落とすことができるでしょう」という内容であった。
 比叡山は宮方一辺倒で、足利方に味方するものはひとりも出てこないだろうと思っていたところに、隆賢がこっそりと使いを送って、夜討ちを掛けるように申し出てきたので、高師久は大いに喜んで、播磨、美作、備前、備中4か国の軍勢の中から、夜討ちに慣れた兵500人余りを選び出し、6月18日の夕暮れ時に、四明の頂上を目指して出発させた。

 隆賢は、長年比叡山の地理を知ったものであるうえに、敵のいるところ、いないところ、詳しく見ておいたことなので、少しも道に迷うはずがないのであったが、天罰であろうか、突然目がくらみ思い惑って、終夜、四明の麓を南北に迷い歩いていたために、夜が明けてしまい、義貞麾下の紀清両党の兵に見付けられて、包囲されてしまい、彼に従っていた武士たちのうち100余人が討たれて谷底へ転び落ちていった。隆賢1人だけは、あちこちに深手を負い、腹を切ろうとしたのだが、鎧の胴の上を巻き締める上帯を説いているうちに組みつかれて、生け捕りにされた。裏切りの張本人であるから、すぐさま首をはねられるのが当然のことであったが、義貞は延暦寺の僧であることで赦して、その身柄を味方として比叡山にこもっている今木一族に預け、「このまま生かしておいても、首を切ろうとも、貴殿たちのご意向に任すつもりである」と申し伝えられたので、一族の今木中務丞範景が「畏まって承り候」と、まだ使者が帰らずに見ているところで、その首をはねて投げ捨てたのであった。

 かたじけなくも万乗の君(=天皇)が医王(根本中堂の本尊である薬師如来)、山王(日吉大社の山王権現)の御助けを頼りにされて、比叡山に臨幸されたのであるから、3千人といわれる衆徒たちは、すべて、仏法と王法とが互いに支えあうという道理を自分たちのものとして、二心を抱かずに天皇のために忠義の戦いをすべきであるところに、金輪院一人が、比叡山の僧のみであるのに自分の寺に背き、武士の出身でもないのに将軍に従い、それだけでなく弟子の同宿の僧を使いとして、比叡山を滅ぼそうと企てたことはきわめてあさましいことであった。だからこそ、悪逆がたちまちに表れて、手引きをした同宿の僧たちは、戦死したり、生け捕りにされたりした。中でも光澄は、それほどの時間がたたないうちに自分の子どもに殺されたという。その子どもはまた同じ母から生まれた弟に討たれるという不思議な因縁が続いた。まことに恐ろしい神罰であった。

 さて、足利一族で越前守護の斯波高経が、北陸道の軍勢を率いて、琵琶湖の西の岸にある仰木(大津市仰木)から押し寄せて、延暦寺三塔の一つである横川(よかわ)を攻めるだろうという噂が伝わってきたので、横川の本堂である楞厳院(りょうごんいん)、九の谷の衆徒たちが要所要所に木戸を築き、逆茂木を組み立てて、要害を構えた。

 そのころ延暦寺の開山である伝教大師最澄の御廟所である東塔の浄土院の修理のために材木をたくさん山上に引き上げて貯蔵していたのを、櫓の柱、矢間の板にしようと、坂本に運んだ。その日、横川の般若谷にあった般若院の法印が召し使っていた童が、突然何者かに憑りつかれて、いろいろなことを口走ったのであるが、「我に大八王子権現付かせ給いたり」と名乗り、「この廟の材木を急いで元のところに返し運ぶべきである」といった。(大八王子権現は比叡山の神宮寺である日吉山王上七社の一つであり、その祭神が憑りついたというのである。)
 僧兵たちは不審に思い、「本当に八王子権現が憑りついたのであれば、本地仏のうちに悟った真理を明らかに知り、諸々の教えに通達しているだろう」といって、開山以来の学僧たちが伝えてきた天台宗の根本教説や、秘密の口伝など、さまざまに質問を浴びせかけた。
 すると、この童は、からからと笑って、「我も衆生と同じ世俗の塵に交わること久しく、三世了達の知(前世・現世・来世を知り尽くす知恵)も浅くなったとはいえ、釈迦如来が在世されていた時に、法会に列して聞いたことなので、大ざっぱなことだけでも言い聞かせよう」と、僧兵たちの問うた質問に対し、華やかで流麗な言葉で答えたのであった。

 僧兵たちは、すっかり信用して、比叡山とこの戦いの今後のゆくえを質問すると、この物付きは涙をはらはらと流して次のように述べた。「われ内には完全円満な天台宗の教えを加護し、外には末永く王室を護持するために、延暦寺草創の初めから仏の身を神に変えて現れたので、当然のことながら比叡山の繁盛、朝廷の静謐をこそ心がけてきた。しかし、天皇のお考えはご自身の栄華ばかりで、民を利し世を治めるものではなく、僧徒たちの祈願も、慢心と破壊のもとになる自分のことばかりで、自分たちのことばかりを考え、仏法を盛んにするということではないので、諸天善神も保護の手を休めるようになり、四所(興福寺の鎮守である春日大社の四神=武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ))三聖(さんしょう、日吉大社に祭る大宮・二宮・聖真子(しょうしんじ))も慈悲の力をめぐらそうとはされない。悲しいかな。いまから後、朝廷は長い間苦しい境遇に置かれることになり、公卿大臣は蛮夷の奴となり、天皇はかわるがわる都を去り、臣は君を殺し、子は父を殺す世になることの何という浅ましさか。君主や親を殺す悪行を重ねれば、当然その報いを受けることなので、逆臣が猛威を振るうのもそんなに長いことではないだろう。恨めしいことではないか。師久は、我が山を攻め落として、堂舎仏閣を焼き払おうと軍議を進めている。その悪逆を見よ。明日、午の刻(正午ごろ)に、早尾、大行事の両権現を差し遣わして、敵を四方に追い散らすはずであるから、我が山になんの恐れることがあるだろうか。その材木をみな元の通りに運び返せ」と託宣して、この童、4・5人がかりでないと持つことができないような大木を一つ持ち上げて、御廟の前に打ち投げ、手足を縮めて震えていたが、五体から汗を流して、憑依状態から目を覚ましたのであった。

 僧徒たちは不思議なこともあるものだと、天皇のお耳に入れようとしたが、明日の午刻に敵を追い払うであろうという神託は、どうも現実離れがしていて本当にそうなるとは思えず、疑わしい限りである。一つでも違うことがあれば、子どもの言ったことだけに根も葉もないことだということになるだろう。しばらく明日の様子を見て、思い当たることがあれば、後日にこそ天皇のお耳に入れようと申し合わせ、このことを隠していたので、神託を知るものは彼ら以外にはいなかったのである。

 宮方の中心であるはずの児島高徳の属する今木一族から裏切り者が出たり、比叡山の守護神が子どもに憑りついて託宣したり、奇々怪々の展開が続く。律師とか法印とかいう僧侶の位階が出てきて分かりにくいかもしれないが、僧正(法印)←僧都(法眼)←律師(法橋)というふうに理解しておく。僧正は公卿相当、律師でも五位相当だそうである。童の口を借りて神が託宣する内容は、実際のところ、『太平記』の作者が自分の意見を言っているのであろうが(その後の内乱の展開を予見しているのは、事後予言だからである)、「蛮夷」は武士のことらしいが、天皇や僧侶たちのことまで批判しているのは『太平記』の作者の思想を示すものとして注目される。

『太平記』(173)

8月28日(月)晴れ、依然として暑し

 建武3年(南朝延元元年、1336)の6月初旬、京都を奪回した足利方は、都を脱出した後醍醐天皇が臨幸された比叡山を東西から攻撃した。西坂の戦いでは、三木一草の一人に数えられた千種忠顕が戦死した(既に結城親光、楠正成は死んでいる)。16日に足利方に熊野の八庄司の軍勢が加わり、山中での戦いには慣れていると豪語したので、西坂を攻める大将である高師久は大いに喜んで、彼らを先鋒にして、攻勢を掛けた。これに対し、新田義貞は部下の中から強弓で知られる本間孫四郎重氏と相馬四郎左衛門忠重を呼び寄せ、2人は、自分たちだけで敵を追い払って見せると言い放つ。

 足利方の先陣を切って進む熊野八庄司の軍勢の中でも大力をもって知られる、身長8尺ばかりの一段と荒々しそうな男が、鎖帷子の上に黒皮の鎧を重ねてきて、五枚兜の緒をしめ、兜の下の額のところにつける半首(はっぷり)の表面に朱をさして、8尺ばかりに見える柏の棒を右の手に振り、イノシシの目に似たハート形の穴を透かし彫りにした鉞の、刃渡が1尺ばかりあるのを左の手に振り上げて、少しもためらう様子も見せず、小躍りして登ってきた。その様子は経典に出てくる悪神阿修羅が護法の善神である帝釈天の住む須弥山に攻め上った様子もこのようなものではなかったかと思われるものであった。
 この大男と宮方の2人の武士の間が2町(約200メートル)あまりに近づいた時、本間が小さな松の影からあらわれて、用意してきた弓を、矢の長さを忘れるくらい引き絞り、ひょうっと射渡す。狙いたがわず、大男の鎧を裏表五重になっているのを射抜き、血に染まった矢の先の方が3寸(約10センチ)ばかり鎧の背の部分から出た。鬼神もかくやと思われた熊野の大男であったが、もっていた鉞を手から離し、笹薮の上に倒れる。

 その次に、今倒れた男を一回り大きくして、仁王(仏法守護の金剛力士)を作りそこなったような武士、その顔はというと目が逆さまに割け、髭が左右に分かれていたのであるが〔どんな顔だか想像できない〕、矢をよけるために左の袖をさしかざし、鎧をゆすって隙間ができないようにしながら上がってきたところを、相馬四郎左衛門が五人張りの弓にこれも長い矢をつがえ、弓を目いっぱいに引き絞って矢を放つと、その矢があやまたず仁王のような男の兜を真正面から射抜いたので、この男もまた、アッという声とともに倒れて、たちまちのうちに2人の男が命を失ったのであった。

 戦死した2人の後に続いていた熊野勢500余人、この2筋の矢を見て前に進むとも、後に退くこともできず、身を縮めて立ちすくんでいた。本間と相馬の2人は、その様子を見る様子もなく、2町ほど先の向かいの尾根に陣を取っている味方の兵に、「いつになく敵勢が動いているのは合戦が始まろうとしているのか。手慣らしに一矢ずつ射てみようと思う。なんでもいいから的として立ててくださいというと、「これを射てはいかがでしょうか」と、紅の地に銀で三日月を描いた扇を矢に挟んで、遠的として立てた。本間は前に立ち、相馬は後ろに立ち、「月を射るならば、天の怒りに触れる恐れもある。両方の端の方を射ることにしよう」と約束して、本間がはたと射ると、相馬もはたと射る。先ほどの約束と少しも違うことなく、まん中の月を残して的を射抜いていた。〔日の丸の扇を的にして、太陽を射るのは恐れ多いからと、扇の付け根の部分を狙って射た『平家物語』の那須与一を思い出させるところ。日の丸の扇が、三日月の扇に代わっているところが興味深い。〕

 その後、百本の矢を入れた箙を2つ取り寄せ、予備の弓を取り上げて、矢をつがえずにためしにつるを引いたりして(おどしをかけながら)、「相模の国の住人本間孫四郎重氏、下総国の住人相馬四郎左衛門忠重の二人で、この陣を固めておるのだぞ。矢を少々浴びて、貴公どもの付けている鎧の札(さね)の善し悪しを判断するのもよかろう」と高らかに名乗りを上げれば、熊野八庄司のあとに続いていた寄せ手の20万余騎、誰が追ってきたわけでもないのに、我先にと慌てふためいて元の陣に逃げ帰ったのであった。

 新田方には優れた射手が多いというのは、これまでの戦闘の経験で分かっているはずなのに、足利方はそれに十分に備えずに戦闘に向かっている様子である。熊野八庄司の軍勢は自分たちの武具の堅牢さに自信をもっていたのだろうし、2番目の仁王の造りそこないのような男は、矢を射かけられることを意識した態勢で進んでいたのにもかかわらず、想定以上の矢の力に命を失ってしまった。
 山の上から射る方が矢は遠くまで届くし、材木や岩、土砂などを上から落とすということもできるから山地の戦いは上に陣を取った方が有利である。下から攻める方は、数的に勝っていても、なかなか攻略の糸口を見いだせない。風向きを見て火攻めにするか〔相手が仏法の聖地であるだけに、恐れ多い〕、包囲して補給路を発ち長期戦に持ち込むか〔そうこうしているうちに北畠顕家が宮方の新しい援軍を連れてやってくるかもしれない〕、じつは、軍勢の量的有利を生かすもっといい戦法があることがこれから分かってくるはずである。

『太平記』(172)

8月21日(月)曇り

 建武3年(南朝は延元と改元、1336)6月初旬、足利方は比叡山の東西から攻め寄せ、西坂では千種忠顕が戦死した。しかし、東でも西でも、数的な劣勢にもかかわらず、宮方はよく戦い、戦況は膠着状態になった。

 6月16日、熊野の八庄司と呼ばれる、熊野地方の土豪たちが500余騎で上洛してきた。庄司は荘園の代官のことで、湯川・玉置・新宮・安田・芋瀬・中津川・野長瀬・湯浅の8氏がこのように呼ばれている。新しく到着した軍勢であるので、とにかく一戦交えようと、西坂の方に向かった。

 彼らの様子を見ると、黒皮の大荒目の鎧(黒川の太い緒で肩広の札(さね)を荒目に縅した鎧)、同じ毛の五枚冑(鉢から垂らす首おおいである錣の板が5段からなる兜)に、指の先まで鎖を編み込んだ小手、臑当、半首(はつぷり、前額部から両頬にかけてを覆う鉄製の防具)、よだれ縣(喉の防具)、武士たちがみな防具で隙間もなく覆った装いをしており、見るからに強そうな様子で、普通の兵が出陣するのとは違い、大いに活躍しそうに見えたので西坂を攻める足利軍の大将である高師久は、大いに喜んだ。さっそく対面して、合戦についての意見を質問すると、八庄司の1人である湯浅の庄司が、特に前に出手うことには、「紀伊国育ちの者どもは、幼い時より難所の岩場を馬で駆けることに慣れて、鷹を使い、狩りをするのを常としてきましたので、普通ならば馬が通らないような険しい場所でも、平地のように考えております。ましてや、この山はそれほどの難所だとはまったく思いません。鎧こそ立派ではありませんが、自分で鍛えこしらえた鎧なので、かつての伝説的な強弓の射手である筑紫八郎(源為朝)であっても、たやすく射通すことはないだろうと思います。いまが将軍にとって大事な戦の時だと思いますので、我々が武士の矢面に立って、敵が矢を射たら、鎧で受け止め、斬ってくれば、その太刀を長刀に取り付けて、敵の中へ割りいるようにしますので、以下に新田殿が剛勇の武士でもどうして持ちこたえられるでしょうかと自信満々の様子でいったので、聞く人、見る人、妬み恨む心などは持たずに、確かにその通りであろうとその姿を見ていたのであった。

そこで、「これ(熊野八庄司)を先頭に立てて攻撃しよう」と、6月17日、辰の刻(午前8時ごろ)に、20万騎の大軍が、熊野の八庄司の500余騎を先頭に立てて、雲母坂の途中の松尾坂の尾根の下がってくる先端のところから、楯をかざし並べて登って行った。

 宮方の10万余騎のなかには、四月一日五郎左衛門、池田九郎、本間孫四郎、相馬四郎左衛門という4人の強弓の射手がいた。四月一日は「わたぬき」と読むのだが、それはこの日がわたぬきの単衣に衣替えする日だからである。四月一日五郎左衛門は群馬県高崎市綿貫町に住んでいた武士である。池田九郎は上野国那波郡池田郷に住んだ武士であろうか。本間孫四郎は相模の武士ですでに何度か登場した弓馬の達人である。相馬四郎左衛門忠重は下総の武士で、千葉氏の一族であった。池田と四月一日とは、ちょうどそのころ、東坂本には検査rていて居合わせなかったので、本間と相馬の2人が、義貞の前に出てきて、「本日の合戦は熊野の武士たちが先頭に立って登ってくるとのことです。今日は味方の塀には、たちを抜かせることはしないつもりです。また矢を一本も射させないつもりです。我々2人がまず敵と対決して、矢の一本も射掛けて、連中の胆をつぶそうと思います」と言って、落ち着いた様子でその席を立ったのであった。
 本間は弓を引く邪魔になるからと鎧を脱いで、普通よりも長い弓を大木に押し付けてゆらゆらと張り、トキの羽をつけた矢を100本のうちから2本選んで、弓にとり添え、鼻歌交じりにしずしずと向かいの尾根にわたっていった。後に続く相馬も弓をためなおして強くして、2人だけで敵に近づいて行ったのであった。

 足利方は新しい戦力が加わって戦意を取り戻して攻撃に取り掛かり、宮方は弓の名手としてこれまでも活躍してきた本間重氏がまたも登場して、余裕綽々の様子で敵を待ち受ける。どのような戦いが展開されるか、これはまた次回に。
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