『太平記』(160)

5月28日(日)晴れ

 建武3年(1336)4月末、足利尊氏は大宰府を発ち、5月1日に秋の厳島明神に到着、3日間参篭した。その結願の日、都から持明院統の光厳院の院宣がもたらされた〔『太平記』本文には、後伏見院が崩御の前に下された院宣とあるが、歴史的事実としては光厳院である。もっとも院宣がもたらされたのは、もっと以前のことだとされている〕。備後鞆の浦(広島県福山市)で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は摂津兵庫まで退却した。後醍醐天皇は義貞を応援すべく、楠正成に兵庫下向を命じた。死を覚悟して兵庫へ下る正成は、途中、桜井の宿で嫡子正行に遺訓した。兵庫で正成を迎えた義貞は、足利の大軍と一戦を交えずに京都まで退却してしまうのは武将としての面目が立たないと語り、正成は兵法を知らない人々の評判を気にする必要はないと言い、お互いの気持ちを打ち明けあって夜を過ごしたのであった。

 翌朝、延元元年(延元は南朝の年号で北朝は建武3年=1336)5月25日、午前8時ごろ、暗い長雨の雲がようやく晴れて(太陰太陽暦で5月は梅雨の季節である)、風と波とがやや収まったちょうどその時に、沖の方に小さく風に漂う船がいえた。朝のうちに漁に出た舟か、海岸沿いの船路をたどる旅の舟かと眺めていると、次第に船の姿が大きくなり、漁船でも旅の船でもないことがわかる。舵を左右へと盛んに操り、楯を垣根のように並べ、櫓を備えて、大旗、小旗を立てた数万の兵船が、追い風に乗って帆を膨らませ、先がかすむほど波が果てしなく広がった中に、14・5里ほどの長さにわたって浪間が見えないほど密集して、こぎ進んでくる。それぞれの船が擦れ合うほど船首・船尾を並べているので、海上が突然陸地になり、船の帆陰に隠れて対岸の紀州の山も見えない。魏と呉が天下を争った赤壁の戦いや、元が宋を滅ぼした黄河の戦いの時の兵船の数もこれ以上ではなかったのではないかと、目を驚かして見ているところに、鹿嶋岡(神戸市長田区鹿松町)、鵯越(ひよどりごえ=神戸市兵庫区から北区一帯の地)、須磨の上野(神戸市須磨区の須磨寺=上野山福祥寺のある山)の一帯から、足利の二引両の紋、宇多源氏佐々木の四つ目の紋、片折違(かたすじかい)の紋、宇都宮・小山・結城の巴の紋、高氏の寄懸り輪違の紋を記した旗が6・700本風に吹かれて宙に舞いながら、その旗の多さによって知られる大軍の到来を知らせている。

 海上の兵、陸地の軍勢、予期していたよりもはるかに多く、噂をさらに上回るものであったので、宮方の兵は、三日他の軍勢の少ないのを改めて思い出し、戦う前から戦意を喪失してしまったのであった。とはいうものの義貞も正成も、大敵を見ると闘志を増し、小敵を見ても決して侮らないという後漢の初代皇帝である光武帝の精神を体得している勇者であったから、士気を失う様子はまったくなく、まず和田の岬の小松原(神戸市兵庫区和田岬の松林)に兵を進めて、静かに軍勢の手分けを行ったのであった。

 義貞の弟である脇屋義助を一方の大将として、一族23人、その配下の5千余騎を和田岬の近くの平清盛が築いた人工の島である経の島に配置する。新田一族の大館氏明が一族16人、3千余騎を率いて、これも平清盛が経の島の築造工事で死んだ人々を弔うために建立した燈籠堂の南の浜に控える。また一方には楠正成が、思うところあって自前の兵だけで700余騎、湊川(神戸市兵庫区湊川町)の西の宿に陣を張って、陸地の敵を迎え撃とうとする。総大将として新田義貞が2万余騎を率い、和田岬に陣幕を引いてそこを本営と定める。

 そうこうするうちに、海上の船が帆を下ろして磯近く漕ぎ寄せ、これに呼応して陸地の軍勢も旗を靡かせて進撃を開始する。遼仁たがいに攻め寄せて、兄である尊氏の率いる海上の兵船から太鼓を鳴らして、鬨の声を挙げれば、弟である直義の率いる陸の搦め手50万騎が、それを受け取って声を合わせて唱和する。その声が3度になったので、宮方の兵5万余騎も楯の板、矢を入れる箙を叩いて鬨を作る。敵味方の鬨の声が、南は淡路の絵島(兵庫県淡路市岩屋にある島で、月の名所として知られる)、鳴門海峡の奥、西は播磨路、須磨の板屋戸(神戸市須磨区板宿町の辺り)、東は摂津国生田の森(神戸市中央区生田神社の周辺)、四方三百里に響き渡って、天を支える綱である天維、大地の軸である坤軸も砕け傾くかと思われたのであった。〔1里を約4キロと定めたのはこの時代よりも後のことであるが、それにしても300里は誇張が過ぎる。『太平記』よりも少し前にイタリアで書かれた『神曲』の宇宙観はプトレマイオスの天動説に従ったもので、少なくとも地球が丸いということは認識しているのだから、時代遅れということで両者を同一視はできない。〕

 足利・新田の両軍がにらみ合いながら、まだ戦端を開かないときに、新田方の本間孫四郎重氏という武士が、黄色がかった河原毛(朽ち葉色を帯びた白毛で、たてがみと尾が黒)の太ってたくましい馬に乗り、紅色の縅の革を下に行くほど濃く染めた鎧を着て、ただ一騎で、和田岬の波打ち際に出て、打ち寄せる波が馬の蹄を浸すほど前に出て、敵の様子をうかがっていた。
 この本間孫四郎というのは既に第13巻に登場し、出雲の塩冶高貞のもとから後醍醐天皇に献上された竜馬を見事に乗りこなしたという武士である。相模の国の、現在の神奈川県厚木市に住んでいた。
 すると一羽のミサゴ(海辺などに住むタカ科の鳥)が波をかすめて飛んでいったかと思うと、海中に潜り2尺余りの魚を1匹つかんで沖の方に飛んでいくのが見えた。弓の腕に自信のあった重氏は、重大な戦いを前に、このミサゴを射て自分の腕を敵味方の人々に見せてやろうと思った。
 当時の武士は矢を箙という入れ物に差していたが、その表側には2本の鏑矢を差す習わしであった。その鏑矢のうちの1本を抜き出して、自分の二所籐という2箇所ずつ一定の間をおいて籐をまいた大弓につがえて鳥の様子をうかがうと、その間にミサゴは波の上6・7百町(1町は約109メートル)ほども遠くを飛んでいる。そこで重氏は海の中に馬を乗り入れて追いながら、飛んで行く鳥を射た。鳥を殺すまでもない、命は助けてやろうと思ったのであろうか、鏑矢はミサゴの片方の翼の付け根を射切った。そして鏑矢は周防の豪族である大内弘幸の軍船の帆柱に、一揺れして突き刺さった。ミサゴは魚をつかみながら、尊氏の御座船の右手に並んでいた大友の船の屋形の上に落ちて、片翼をなくした鳥は慌てふためいて走り回っている。

 本間はこれを見て大声をあげて叫ぶ:「将軍が筑紫よりご上洛とのことで、定めて、尾道の遊女たちを多く同行させていらっしゃるでしょう。そのためにお肴を進上する次第でございます。」 敵・味方、陸・海の上からよく射たものだ、凄い腕前だとと称賛する声がしきりである。尊氏はこの様子を知って、敵の武士が自分の腕前を見せようとして射た鳥が、味方の船の上に落ちてきたのは吉祥である。ともあれ、この見事な腕前の持ち主は何者か、名前を知りたいものだ」と仰せになった。そこで、そばにいた小早川七郎(桓武平氏土肥の一族で安芸・備後の武士)が「比類なき腕前を披露されたことよ。さても御名字を何とおっしゃるのであろうか。承りたいものだ」と呼びかける。
 本間は、馬を渚の砂の上に引き上げ、弓を杖代わりにして、「大したものではないので、名字を申し上げても、誰もご存じないでしょう。とはいえ、弓矢をとっては坂東八か国の中に名を知る人もいらっしゃるかもしれません。この矢でご覧ください」と、五人がかりで張る強い弓に、十五束三伏の長い矢をつがえて、尊氏の紋である二引両の旗を立てた舟を目指して放つ。その矢は、海の上5・6町を通り越して、尊氏の船の隣の備前の佐々木一族である佐々木信胤の船端を矢竹がこすって、そのまま上に飛んで、屋形の外に立っている兵の鎧の草摺りの裏に突き刺さった。
 重氏が弓の名手ぶりを見せる場面であるが、ミサゴを射た時の7・8町(約800メートル)とか、今回の5・6町とかいうのは誇張も甚だしい。大学に務めていたころ、弓道部の練習風景を時々見るともなく見ていたので、弓がどの程度の距離を飛ぶのかはある程度分かっているつもりである。(そういえば、私が担任した学生には弓道部というのはいなくて、アーチェリー部というのが2人いた。) それから、重氏がもったいぶって名を名乗らないのはあまり好ましい態度ではない。このときの重氏の態度は、その後の彼の運命に影を落とすが、それはまた後の話である。
 重氏の腕前の披露を自分たちへの挑戦と見た足利方は代表者を選んで遠矢を射返すことになり、いかにも『太平記』的な物語が展開する。それがどのようなものかは、次回に譲ることにする。
スポンサーサイト

『太平記』(159)

5月21日(日)晴れ、気温上昇

 建武3年(1336)4月末、都を追われて九州で再起を図っていた足利尊氏・直義兄弟は播磨の赤松円心の勧めで、大宰府を発った。途中、安芸の厳島明神に参篭、その結願の日に、都からかねて待ち望んでいた光厳院の院宣がもたらされた(これは歴史的な事実ではなく、院宣を得たのはもっと早い時期であったとされている)。備後鞆の浦(現在の広島県福山市)で軍勢の手分けを行った足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は摂津兵庫まで退却した。ここで尊氏・直義の軍が合流するのを待ち受けて、一戦交えようという腹積もりである。
 この知らせを受けた後醍醐天皇は楠正成に兵庫に向かって義貞を助けるように命じた。正成は足利方の大軍を防ぎとめることは難しいので、再び天皇が比叡山に行幸されて、都を足利方に明け渡し、正成と義貞がゲリラ戦で足利方を苦しめ、形勢を逆転することを進言するが、この提案は退けられた。正成は死を覚悟して兵庫に向かうのであった。

 正成はこれが自分の最後だと思っていたので、長男である正行が11歳になって、父親のお供をしようとついて来たのを、桜井の宿(大阪府三島郡島本町桜井)で自分の本拠地である河内の金剛山に送り返すことにした。そして泣きながら、庭訓(父が子に与える教訓)を言い渡す。「獅子は、子どもを産んで3日経つと、はるかに高い岩のがけから、母親が子どもを投げる。投げられた獅子の子に獅子としての資質があれば、途中で身を翻して飛び上がって、死なないという。(今、自分は獅子の親が子どもを崖の下に投げるように、子どもの器量を試すべき時に来ている。獅子の場合は、生まれてから3日目であるが)おまえは既に10歳を超えている。いろいろなことがわかる年頃だと思うので、私のいうことをしっかり覚えていて、それを間違えず実行してほしい。
 今回の兵庫での戦いは天下分け目の合戦だと思うので、この世でお前の顔を見るのもこれが最後だと思う。正成がすでに戦死したという情報が広がれば、天下は必ず将軍(足利尊氏)のものとなるだろう。そうなったとしても、当座の命を助かるために、楠一族の長年の忠節を捨てて、武家方に降参するという不義のふるまいをするということがあってはならない。一族郎党のものが1人でも生き残っているうちは、楠一族の本拠地である金剛山に立て籠もり、敵が押し寄せてくれば、命を経偉人にさらして、名を後世に残すべきである。それこそがおまえの親孝行と思うべきである」と涙をぬぐいながら言い含め、父親は兵庫の戦場へ、息子は河内の金剛山へと別れていったのである。その様子を見守っていた人たちは、心猛々しい武士であっても、父子の心中を推し量って、鎧の袖を濡らさないものはなかった。
 この逸話は昔の教科書などに記されて、大きな影響力を持った。もう60年ほど前に死んだ私の伯母が、動物園でライオンの親子を見て、「獅子は万仞の石壁より、母これを投ぐれば」というけれども、実際にライオンを見ると、母親が子どもをとてもかわいがっていると言っていたのを思い出す。とはいっても、ネコ科の動物は高いところから落ちても、体勢を立て直してけがをせずに済ませることができるというから、この話もまったく嘘ではない。なお、正成・正行父子の桜井の宿での別れを歌った「青葉繫れる桜井の」という歌は、小津安二郎の映画『彼岸花』に出てくるので、私の耳に残っている。

 『太平記』の作者はこの後、秦の丞相であった百里奚が息子である孟明視が出陣する際に、自分は老齢であるので息子が帰還するころにはもう会えないだろうと言って泣いたという話を引き合いに出して、正成・正行親子の父子二代にわたる忠義を称賛する言葉を記しているのだが、自分の知識をひけらかしているだけで、却って、感動を薄めているのではないかという気がしないでもない。

 このような次第で、楠正成は兵庫に到着する。新田義貞はすぐに正成と対面して、後醍醐天皇のご意向がどのようなものかを訪ねた。正成は、自分の考えと、天皇のお言いつけの内容を詳しく語った。義貞は、(正成の都をいったん去って足利方に明け渡したうえで、ゲリラ戦で苦しめて、その士気をそいでいくという正成の戦術について理解を示しながら)、「このたびの戦で不利な立場に立った少数の軍勢で、勢いに乗った敵の大軍と戦おうとするのは、無理が多いというのは承知しているが、昨年、箱根・竹下の合戦で敗北し、そのまま都に落ち延びて、途中で敵を防ぎとめることができなかったことで、世の人々の嘲りを避けることができなかった。それだけでなく、このたび西国に派遣されて、敵の数か所の城の一か所も陥落させることができないうちに、敵の大軍の襲来を聞いて、一戦も交えず、京都までの長い道のりを逃げてしまったのでは、あまりにふがいないと思われるので、勝敗を度外視して、この一戦で忠義のほどを示そうと考えるばかりだ」という。

 正成は、「愚かな大勢のものが言い立てる意見は、一人の賢人の言葉に劣る」という言葉もありますから、兵法を知らない人々のそしりを必ずしも気に掛ける必要はありません。ただ戦うべきところを知って進み、退くべきところを見て退くのをよい大将というわけですから、「暴虎馮河して、死すとも悔いなからん者には与せじ(虎に素手で向かったり大河を徒歩で渡ったりして、死んでも後悔しないような無謀な者とは、行動をともにすべきではない/論語・述而)と孔子もその弟子である子路を戒めたものです。義貞様にあっては、元弘の初めに北条高時を鎌倉で滅ぼし、今年の春は、尊氏卿を九州に敗走させたこと、天皇の聖運とは言いながら、やはり貴殿の武士としての徳によるものではないかと思われませんか。合戦のやり方については誰も非難しません。さらにこのたび西国から京都に退却されていること、その戦術、いちいち合戦の道理にかなっていると思われます」と語る。
 この言葉を聞いて、義貞は顔色が明るくなり、二人で夜を徹して語り合ったのであった。「貴殿の言われることを聞いていると、義貞の武勲も、一概に軽くは見られていないのは、私にとって励みになることだ」と言い、その夜は数杯の酒を飲み交わしたのであった(本来ならば、もっと飲みたいところだったのだろうが、明日は合戦と思うと控えなければならない・・・というのが、両者の気持ちが酒飲みには余計によくわかる箇所である)。
 武士の面目を気にする義貞と、現実主義者の正成という性格の違いがある一方で、義貞は戦いで敗れた後のことを気にしているのに対し、正成はこの一戦に死を覚悟しているというまったく逆の内心の動きも知られる箇所である。治承・寿永の源平の争乱の際にも重要な戦場となった兵庫で、一戦交えるというのは義貞らしい決断ではあるが、勝機を見出すのはかなり難しい。狭い地形の中では軍勢の多寡よりも、士気や指揮官の戦術が物をいう可能性が高いが、そうはいっても、彼我の軍勢の差が大きすぎるのである。 

『太平記』(158)

5月14日(日)曇りのち晴れ間が広がる

 建武3年(1336、この年2月に「延元」と改元されたはずであるが、『太平記』の作者は旧年号を使い続けている)4月末に、宮方の攻撃を支えることができず、九州に落ち延び、そこで武士たちの支持を得て再起を図ろうとした足利尊氏は大宰府を発ち、安芸の厳島明神に参篭。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた。(歴史的事実としては、尊氏が持明院統の院宣を得たのはもっと早い時期のことであり、厳島明神と院宣を結びつけたところに作者の足利方への配慮が感じられる。もっとも、足利氏は源氏であり、厳島神社は本来平家の守り神である。) 備後鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は戦線を縮小して敵の大軍に有効に対処しようと摂津兵庫まで退却した。後醍醐天皇は楠正成に兵庫で義貞を支援するように命じた。これに対して正成は朝廷が都を放棄して、再び比叡山に立て籠もり、都に戻った足利軍を南北からゲリラ戦で苦しめて弱らせるという戦術を提言する。

 この正成の提言をもっともだとお考えになった後醍醐天皇は公卿たちに今後の戦術について協議させる。岩波文庫版の『太平記』が底本としているのは西洞院本であるが、この個所は『太平記』の様々な写本によって記述が異なる。なお、公卿たちの会議には天皇・摂政・関白は出席しない習わしであるが、建武新政時代にこの習わしが続いていたかどうかはわからない(私が知らないだけで、研究した人はいるのではないかと思う)。

 公卿たちの会議の後で、天皇が重ねて仰せられたのは、「朝敵を征伐するために、その印の刀を拝領して征伐に向かう将軍が、まだ本格的に戦っていないうちに、朝廷が都を捨てて、1年のうちに2度まで地方に行幸されるということでは、天皇の地位が軽いということがあからさまになってしまう。また官軍としての面目を失うことにいなる。尊氏がたとえ九州の軍勢を率いて上洛してきたと言っても、昨年の春、関東の8か国の軍勢を率いて上洛してきた時の勢いには及ばないであろう。戦いの始めから、敵軍の敗北の時にいたるまで、味方は小勢であったが、毎度敵を服従させないことはなかった。〔これは何度か書いてきたように、そのとおりである。しかし、今回は足利方は持明院統の院宣を得て、大義名分を獲得して戦いに臨んできている。〕 「これ武略の勝れたるにあらず。」(第3分冊、63ページ、武士の立てた戦略が優れていたからではない。)ということであった。これは正成が述べたことを真っ向から否定するものである。さらにそれに加えて、「ただ聖運の天に叶へる事の致す処なれば、何の子細かあるべき。ただ時を替へず罷り下るべし」(同上、ひとえに、帝(私)の運が天命にかなっていたための勝利なので、このたびの戦いにも何の支障があろう。即刻、罷り下るべきである)と仰せになった。〔足利方と持明院統の連携が成立し、足利方の士気が奮い立っていることに気付いていない様子である。〕

 正成が誠意をもって申し上げた献策が真っ向から否定されたのである。岩波文庫版の脚注によると、これを諸卿僉議の際の坊門清忠の発言とする異本もあるそうである。清忠は後醍醐天皇の近臣で、『太平記』第12巻では鎌倉幕府滅亡後も信貴山に留まって武装を解除していなかった護良親王に、後醍醐天皇の命を受けて僧籍に戻るように説得に出かけている。どちらにしても、もう少し言いようがあっただろうと思う。「聖運が天に叶」っているのであれば、正成を差し向けるのではなく、自分自身が出かけたらどうだと言いたくもなる。少なくとも、正成に対し、何か一言、あるいは褒賞の約束をして送り出すべきではなかったか。(あるいは実際にはそうだったけれども、『太平記』の作者がわざと書き落としたということもありうる。)

 自分の献策を全面的に否定された正成は、「この上は、さのみ異儀を申すには及ばず。且は恐れあり。さては、大敵を欺き虐げ、勝軍を全くせんとの智謀、叡慮にてはなく、ただ無弐の戦士を大軍に充てられんとばかりの仰せなれば、討ち死にせよとの勅定ござんなれ。義を重んじ。死を顧みぬは、忠臣勇士の存ずる処なり」(第3分冊、63ページ、これは敬語が使われていないので、正成の心の中の言葉と考えるべきである:この上は、むやみに異論を申し上げることはない。そうはいっても、一方では恐れが残る。大敵を策をもって懲らしめ、勝利を確実なものにするという謀は、天皇のお考えには無く、ひとえに忠義無類の武士を大敵に向かわせようとの仰せなので、つまるところは戦死せよという勅命であろう。義を重んじ、死を顧みないのは忠臣勇士の本懐とするところだ」と述べて、その日のうちに正成は500余騎の兵を率いて都を発ち、兵庫へと向かっていった。
 この言葉には一方でこれまで自分を引き立ててくれた天皇に対する恩義に報いようという気持ちと、その気持ちから発する自分の勝利のための戦術が用いられないこと、公卿たちの机上の空論に基づく自分への出動命令の思慮のなさに対しての怒りが交錯している。お公家さんたちの空理空論に死をもって抗議しようというのである。正成が戦死してしまえば(事実そのとおりになるのだが)、お公家さんたちは再び比叡山に逃れることになる。(だから初めから逃れておけばよかったと思っても後の祭りである。) 自分の将来についての割り切った気持ちと、朝廷や世の中の将来についての複雑な気持ちの両方が交錯する中で、正成は兵庫に向かう。

『太平記』(157)

5月7日(日)薄曇り

 建武3年(1336)春、いったんは京都を去って比叡山に本拠を置いていた後醍醐天皇方は、京都を占拠していた足利方に勝利したが、宮方の総帥であった新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した〔これは『太平記』にだけ記されていることで、歴史的事実とは言えないようである〕。その間、赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が円心の立て籠もっていた白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ城の防備を固めてしまう。白旗城包囲に時間をかけすぎると、足利方の反攻を許すことになるとの献策を受けて、義貞は中国地方の武士たちを味方につけるべく播磨と備前の境の船坂峠に向かい、この動きに呼応して備前では和田(児島)高徳が挙兵した。
 京都、さらに近畿地方を追われて、九州に落ち延びていた足利尊氏・直義兄弟は九州の大半の武士を味方につけることに成功、京都での大敗の経験から上洛をためらっていたが、赤松円心からの使いの進めもあって4月の末に大宰府を発ち、中国地方に兵を進め、安芸の厳島明神に参篭した。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた〔『梅松論』には、尊氏が九州に落ち延びていく途中、備後の鞆の浦で院宣を受け取ったと記されている。おそらくこちらの方が歴史的事実に近いと思われる]。備後の鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は水陸の敵が一か所に集まるところで一戦交えようと、摂津兵庫を目指して退却した。

 そうこうするうちに新田義貞は備前、美作の味方の軍勢が合流してくるのを待ち受けようと、賀古川(加古川、兵庫県加古川市を流れる川)の西にある丘に陣を取り、ここに2日間滞在した。
 ちょうど梅雨の季節であったので、降り続く雨のため川が増水していた。そこで、あとから敵が追いかけてくることもあろうから、総大将をはじめ、主だった武将たちは船で向こう岸へ渡るべきだと人々が口々に進めたのだが、義貞は「なんの恐れることがあろうか。渡らないうちに敵が攻めてくれば、退路が立たれてしまっているので、決死の戦いを行うのに都合がよい。むかし、漢の高祖の家臣である韓信が、川を背にして趙の軍勢と決死の戦いをしたという故事の教訓はこれである。軍勢を渡し終わってから、義貞が後から渡るのに、何の不都合があろうか」と、まず戦いで馬が弱った軍勢、負傷者などを順々に渡河させた。

 そのうちに、一晩で水量が落ち、おりよく備前や美作の軍勢が集まってきたので、馬をいかだのように並べ泳がせて川を渡り、6万余騎が、同時に川を渡ったのであった。ここまでは義貞の率いる軍勢は10万余騎を数えていたのだが、尊氏・直義兄弟が上洛の兵を起こしたと聞いて、臆病風に吹かれたのであろうか、いつの間にか兵の数は減っていた。義貞が兵庫(神戸市兵庫区の辺り)に到着した時に、従っている兵はわずかに2万騎にも満たなかった。

 尊氏と直義兄弟が、大軍を率いて上洛を目指しているので、要害の地でこれを防ぎ戦おうと兵庫まで退却したという次第を、義貞が早馬を走らせて都へと知らせたので、後醍醐天皇は大いに慌てられて、楠正成を召され、「急ぎ兵庫へ罷り下り、義貞に力を合はすべし」(第3分冊、63ページ)とお申しつけになった。
 正成はかしこまって次のように申し上げた。「尊氏卿が、九州の軍勢を率いて上洛されてくるというのであれば、定めて雲霞のごとき大軍であるでしょう。味方のわずかでしかも疲れた軍勢をもって、敵の勢いづいた大軍と戦って、普通に戦ったならば、味方はきっと負けてしまうと思います。
 ああ、新田殿も京都に呼び戻されて、以前のように比叡山延暦寺に御臨幸あそばしませ。正成も(自分の本拠である)河内に馳せ下って、畿内の兵を集め、淀の大渡あたりの川の流れをせき止め、北と南の両方から(足利勢に奪われた)京都を攻め、(敵の補給路を断って)兵糧を欠乏させていけば、敵は次第にその数を減らし、味方は次第に多くなっていくのではないでしょうか。その時に、新田殿は比叡山から攻め寄せ、正成が搦め手の河内・摂津の方角から攻めていけば、朝敵を一戦で滅ぼすことが出来ようかと存じます。
 新田殿もきっとこの作戦をお考えでしょうが、(せっかく兵を進めてきたのに)遠征中に一戦もしないのはひどくふがいないと、人が噂をするのを恥じて、兵庫の辺で応戦されるのだと思われます。合戦はただ、とにもかくにも最終的な勝利こそ大事なのですから、遠い先のことまでのご思慮をよくよくお考えになり、結論をだされるべきだと思います。」
 天皇は「誠にも謂(い)はれあり」(第3分冊、62ページ)とお考えになり、公卿たちを集めて協議させたのである。

 大軍と正面から戦うのではなく、退却してゲリラ戦で相手を消耗させようという正成の戦術はローマ史に名高いクィントゥス・ファビウス・マクシムスがカルタゴの勇将ハンニバルと戦った際の戦術を思い起こさせる。正成がいうように、義貞も敵を京都に迎え入れておいて、ゲリラ戦で苦しめようという作戦を最善のものと考えていたかどうかは、この2人の武将の気質を考えると疑問である。現実主義者の正成にくらべて、武将としての意地にかけても兵庫で一戦交えようと考える義貞は、良くも悪くも伝統的な考えにこだわっているように思われる。(義貞は剛勇に加えて人間味に溢れた武将であるが、変な意地を張るところがあって、そこが欠点である。)

 なお、『梅松論』には、尊氏・直義が九州に落ち延びた時に、宮方の人々が喜ぶ中で、正成が「義貞を誅罰せられて尊氏卿を召かへされて。君臣和睦候へかし。御使にをいては正成仕らむ」(群書類従、第20輯、197ページ)と申し上げたので、周囲の人が驚きあきれていると、諸国の武士たちが心から尊氏に従い、その命令を実行しようとしているのは無視できないと述べたと記されている。正成がその時点、その時点で最善の策を考える武将であったことが推測できる。

 『梅松論』が出たついでに言うと、この書物で尊氏に持明院統の院宣をもらって自分たちの大義名分を得ることを献策するのは赤松円心である。(『太平記』では尊氏が自分の知恵でそうしたことになっている。) 『太平記』『梅松論』の記述を通じて、円心は非常に先を読む力のある、構想力のある武将として描かれている(正成と違って、その点があまり神秘化されて描かれていないので、余計すごみがある)。護良親王を不遇時代から助け、六波羅の軍勢といち早く戦ったのは彼であり、彼を敵に回したのは後醍醐天皇にとっての不運、逆に味方につけたのは足利尊氏にとっては大きな幸運であった。それもこれも、自分にとっては耳に痛い忠言でも聞き入れる度量があるか無いかの違いが出ているのかもしれない。

 正成は宮方がいったん京都を捨てて退却し、ゲリラ戦、持久戦に持ち込んで情勢を逆転させることを進言する。「悪党」出身の武士であった正成にとっては当然の行動であろうが、ぜいたくに遊び暮らしているお公家さんたちにとってはつらい選択になる。さて、どうなるか。 

『太平記』(156)

5月1日(月)晴れのち曇り、一時雨

 建武3年(1336)春、足利方に追われて比叡山に落ち延びていた後醍醐方は北畠顕家率いる奥羽・関東の軍勢の来援もあり、京都を奪回する。足利尊氏・直義兄弟は少弐氏をはじめとする九州の豪族たちを頼りにして西に落ち延びていくが、新田義貞は、勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した。その間、中国地方で播磨の赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義、大館氏明が赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って城の防備を固めてしまう。白旗城の攻囲戦に手間取った義貞は、他の中国勢を早く味方につけようと播磨と備前の国境にある船坂峠へ向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。
 九州の武士たちのほとんどを味方につけた足利尊氏は、京都での敗北の経験から上洛を躊躇していたが、赤松円心からの使者の勧めで、4月末に大宰府を発ち、安芸の厳島明神に参篭した。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた。備後鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。

 新田一族の大井田氏経は2千余騎の軍勢を率いて、備中の国の福山(岡山県総社市南部にあった山城)に進出して、この城に立て籠もっていたが、足利勢が登場するという情報を得て、この城はまだ十分に防備を整えていないのに、大勢の敵を迎えて防ぎこらえることはできる相談であるとは思えないという声があったのを、対象の大井田はしばらく思案して、「勝負は時の習い、時の運によるといっても、味方は小勢、敵は大勢で勝てる可能性は戦に一つもないだろう。とはいうものの、国を超え、都から遠く離れて、足利軍が上洛してくるのを防ごうというのでやってきた者達が、敵が大勢だからといって、噂を聞いただけで逃げることなどできるものではない。我々は前世における同じ業により現世で同じ報いを受けることになっていて、それがここで皆戦死するということではなかろうか。死を軽んじ名を重んじるものをこそ立派な人間というのである。おのおの方も討ち死にして、有名を子孫に残そうという覚悟を決めてほしいと部下たちを諫めたので、宇津宮氏配下の紀氏・清原氏の2つの党の武士団の武士たちをはじめとして、大井田に従っていた兵のすべてがそのとおりであると承諾して、討ち死にをひたすら覚悟したので、かえって今は心中さわやかに感じられた。

 そうこうするうちに、5月15日の宵から、足利直義が20万騎で勢山(倉敷市真備町の妹山)を越え、福山の麓4,5里の間に少しの土地も余さず、びっしりと立て込んで陣を取り、大篝火をたかせた。これだけの大軍の勢いを見せつけられれば、どんな鬼神でも、今夜のうちに城を捨てて落ちのびていかないということがあろうかと思われた。ところが福山城内では篝火をたき続けており、退却せずに踏みとどまっている様子なので、夜が明けるとすぐに、まず備中、備後の軍勢が3千余騎で押し寄せ、浅原峠(福山の南、総社市と倉敷市の間の峠)から攻撃をしかけた。この時まで、城中は鳴りを静めて音もたてない。さては、もう逃げだしたかと喜んで、鬨の声を上げると、城中は依然として音を立てない。「やはり敵は逃げたのだ」と喚声を上げて、城壁のように切り立たせた崖のすぐそばに千数男うとすると争って進むところに、城中の東西の上策の門に、太鼓を鳴らし、ただ一度だけ鬨の声を上げる。寄せ手の大軍はこれを聞いて、「新田の一族が大将になって立てこもっている城であるから、籠もっている軍勢が小勢だからというので、大軍の襲来の知らせを聞いただけで恐れて逃げ出すことはまさかしないだろうと思ったが、果たして、まだ場内に踏みとどまっているぞ。敵を小勢と侮って手始めの合戦を仕損じるな。四方を取り囲んで同時にせ御代と、諸国のぐ寧が城の四方のそれぞれ一方を受け持って、谷や峰一つ一つから道を探して攻め上ってくる。

 城内の兵は、すでに覚悟を決めて待っていたことなので、敵の大軍に囲まれても、少しも騒がず、ここかしこの木陰に、盾をつきならべて防御のための覆いとして、矢種を惜しまず散々に射かけてくる。寄せ手は稲や麻、竹や葦が群生するように隙間もなく立ち並んでいたので、射損じた矢は一本もないという様子である。寄せ手の方では敵に矢種を尽くさせようと、わざと矢を射かけないでいた。ここまで城の兵は、まだ一人も負傷したものがいない。それを見た大井田氏経は、まだ勢力が残っているうちに、これから突撃を試み、足利直義の人を一散らし懸け破ろう」と、500騎ほどの歩兵を残し、元気のいい馬に乗っている兵千四騎を率い、木戸を開かせ、逆茂木を取り除いて、北の方の山の尾根が下がってっくる先端からわめきながら駆け出してきた。この方面を責めていた寄せ手は、この勢いに押されて谷底に重なって落ちていったのである。

 大将である氏経は自分たちの近くにいる敵には目もくれず、東の離れ尾(周囲の山から孤立した山の尾根)に二引両の足利氏の紋を染め抜いた旗が見えるのは、直義の陣営だと思われる。真ん中に突っ込んで、直接に勝負を決しよう」といって、馬を懸け入らせ、長時間戦った。ところが直義になかなか出会うことができず、あれもこれも直義ではなかったと、大勢の中を駆け抜けて、はるかに後ろを振り返ると、敵は既に城を攻め落としたと見えて、櫓や掻楯(かいだて、垣根のように並べた楯)が放火されて燃えている。大井田氏経は部下の兵たちを集合させて、今日の合戦は、今はこれまでである。さあ、敵の包囲の一方を打ち破って、備前に帰り、播磨、三石の軍勢とお合流しよう」といい、板倉の橋(岡山市高松の辺りを流れていた川にかかる橋)を渡り、東の方へと落ちのびようとした。足利方はそうはさせじと2千騎、3千騎で、ここかしこの道をふさぎ、討ち果たそうとする。大井田配下の残っていた400余騎の兵たちは、これはもう逃れられないと覚悟を決めていたので、近づく敵に中に割って入り、十文字にかけ散らして、板倉川の橋から唐河の宿(岡山市北区辛川)まで、16度までも戦闘を繰り返した。ところが、思っていたほど宮方の武士で戦死するものは少なく、大将の氏経も無事で、虎口の死を逃れ、5月18日の早朝に、三石の宿に到着した。

 足利直義は、新田軍の先鋒である大井田が立て籠もっていた福山の城を攻略し、大井田を敗走させたので、事始吉しと大いに喜んだ。その日は1日、唐河の宿に逗留し、首実験を行ったが、生け捕り、討ち死にの首、1353人と記録された。(福山に立て籠もっていたのは2千余騎であり、400騎足らずが激戦を生き延びたということだから、数百人が行方不明になっている。) 直義は備中の一の宮である吉備津神社に参詣しようとしたが、戦の最中でもあり、死の穢れに触れることを憚って、祈願の文書だけを納めたのであった。そして次の日、唐河の宿を発ったが、兄である尊氏も船を進めて、順風に恵まれて東へと進んだのである。

 5月18日の夜になって、三石城を包囲していた脇屋義助が、兄である新田義貞に使いを送り、福山の合戦の次第を詳しく手紙で知らせた。義貞は「合戦の様子は立派であった。白旗、三石、菩提寺の城、どれもまだ攻め落とせないでいたところに、尊氏と直義が大軍を率いて船路と陸路から心を合わせて攻め上ってくるということである。水陸の敵に攻められることは疑いない。ここはすぐに中国地方での合戦を放棄して、摂津国辺に退却し、水陸の敵を一か所で待ち受け、京都を背後にして合戦すべきである。そちらからも急いで山里(やまのさと。兵庫県赤穂郡上郡町山野里)あたりに向かい、そこで合流しよう。美作に派遣した軍勢にもこの旨を伝達するつもりである」との返書を送った。

 こうして、5月18日夜半に、宮方の兵士は、皆三石の包囲を解いて、船坂峠を退却していった。三石城中の軍勢は、この機会を利用して、船坂峠に進出し、道をふさいで散々に射かける。
 月曇り、暗い山道で、前後もはっきりと見えないために、父親が倒れても子は気づかず、逆に子が倒れても父は振り向かないといった様子で、とにかく一足でも前に進もうとしていたのだが、九州の宮方の一族菊池の家来で原源五、源六という名高い剛勇の武士がいて、隊列の後ろにわざと残って、味方を落ち延びさせようと防ぎ矢を射かけた。しかし矢がなくなってしまったので、太刀の鞘を外して、菊池殿の家来の中で原源五、源六という剛勇のものが討ち死にするぞ。仲間がいるなら引き返せと大声で呼びかけた。彼らの仲間である菊池の若党がこれを聞いて、はるか先に落ち延びていたのだが、「俺はここにいるぞ」、「わしもここにいるぞ」と名乗って、戻ってきては戦い、戻ってきては戦ったので、三石城からやってきた足利方の武士たちも、さすがに近づくことはできずに、ただ他の峰に立ち並んで、鬨の声をつくるだけであった。その間に宮方の兵は、一人も戦死することなく、明け方には、山の里に到着したという話である。

 東上してきた足利軍が、新田軍の先鋒が立て籠もる備中福山城を陥落させ、新田軍は備中はもとより備前、美作、さらに播磨からも兵を撤退させた。新田義貞の作戦は摂津で足利軍の水陸からの攻撃に対処しようとするものである。(現在の神戸市の辺りは、山が海に迫っているので、大軍を迎え撃つのには適しているということであろう。)このような判断のもとになっているのは両軍の兵力の違いである。中先代の乱以後の尊氏と義貞の戦いをずっと見てきても、尊氏の方が兵力において勝っており、それを宮方が知略や武勇で打ち負かすという事例が多かった。義貞は宮方の長所を知りながらも、それがいつまでも効果をもち続けるとは思われないと慎重になっているのかもしれない。
 今回描かれたところでは、全体として足利方が優勢な展開であるが、『太平記』の作者が宮方の武士たちの知略や武勇を好んで語っているというのが、以上に述べたこととどのように関連するのか、興味深いところである。
 
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR