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『太平記』(315)

5月18日(月)曇り、雨が降りそうで、降らない。

 観応元年(南朝正平5年、西暦1350年)12月、足利直冬(尊氏の庶子で、直義の養子。直義の命で九州に赴き、勢力を拡大していた)討伐のために西国へ向かった尊氏は、都を脱出した直義が南朝と手を結んだことを知って、備前から引き返した。翌年正月、直義は、石清水八幡宮に陣を置き、それに呼応して、越中守護で足利一族の桃井直常(もものいただつね)が上洛した。尊氏の留守中、都を預かっていた足利義詮(尊氏の嫡子、直冬の弟)は形勢不利と見て、京を退いた。正月15日、尊氏と高師直は義詮と合流し、京一帯で直常軍と戦った。この時、師直の家臣の阿保忠実と桃井軍の秋山光政が四条河原で華やかな一騎打ちを演じ、人々が絵に描いてもてあそぶほどの評判となった。
 桃井との合戦に勝利したにもかかわらず、離反者が続出した将軍方は、丹波路を西へ落ち、義詮は丹波井原の石龕寺に留まった。石見の三角兼連の三角城を攻めていた高師泰(師直の弟)は、知らせを受けて京へ向かう途中、備中で上杉朝定の軍を破り、高師夏(師直の子)とともに、播磨の書写坂本で尊氏、師直の軍と合流した。

 『観応の擾乱』(中公新書)の中で亀田俊和さんが書いているが、尊氏が戦闘に勝ったにもかかわらず離反者が続出したのは、それまでの戦いの戦功に対する恩賞が少ないことに不満をもった武士が多かったことが影響しているようである。ところが、味方に加わるものが多かったにもかかわらず、直義が積極的に動こうとしていないことも気になるところである。

 さて、石清水八幡宮に陣を構える直義は、足利一族の石塔頼房を大将とし、愛曽伊賀守(三重県度会郡大紀町阿曽に住んだ武田一族の武士)、矢野遠江守(三重県一志郡矢野の武士)以下5千余騎を書写坂本の尊氏・師直攻略のために派遣したが、書写坂本には師泰が多数の軍勢を率いて合流したという情報を得て、播磨国光明寺(兵庫県加東市光明寺にある真言宗寺院)に陣をとり、八幡へ増援を要請した。

 尊氏の方ではこの情報を聞いて、増援の兵が光明寺に到着しないうちに、まずこれを攻め落としてしまえと考え、観応2年2月3日、書写坂本を出発し、1万余騎の兵で光明寺の四方を包囲した。石塔は城を固め、山に籠ったので、尊氏は曳尾(ひきお=引尾。光明寺の西、加西市方面への道)に陣をとり、師直は啼尾(なきお=鳴尾。小明時の北、西脇市方面への道)に陣を構えた。仏教の言葉で名詮自性(みょうせんじしょう、物の名はその本性を表わす)というが、尊氏も師直も実に縁起の悪い地名の場所に陣を構えたものである。

 2月4日に戦闘開始の儀礼である矢合わせ(双方が鏑矢を射合わす)が行われ、寄せ手は高倉の尾から攻め寄せたが、愛曽は仁王堂(寺の仁王門)の前で待ち構えて戦う。城内で守っていたのは命知らずの無頼の武士たちであり、この戦いが勝敗の分かれ目になると決死の覚悟を決めて戦いに臨んでいる。これに対して、寄せ手の方は名を知られ、大禄の大名たちがそろっていたが、味方が多数であることだけをあてにして、この戦いに勝って自分の未来を切り開こうなどという意気込みはまったくもってなかったから、いざ戦闘ということになると守る側の方が優勢になるのは当然のことであった。

 寄せ手に加わっていた赤松円心の三男の則祐は700余騎を率いていたが、遠くから城の様子をうかがって、「敵は無勢なりけるぞ。一攻め攻めて見よ」(第4分冊、408ページ)と下知を下した。そこで配下の浦上行景と五郎兵衛(ともに揖保郡浦上郷=たつの市に住んだ武士)、吉田盛清、長田資真(加古川市に住んだ武士)、菅野五郎左衛門(相生市に住んだ武士)らが急な啼尾の坂を攻め上って、城の垣のように並べた楯の下にまで到着した。この時に、他の道を包囲していた武士たちもこれに呼応して攻め上れば白を一気に攻め落とすことができたかも知れなかったのに、ほかの武士たちは何をしなくても、今晩か明日のうちには城内の武士たちは戦意をなくして落城するだろう、そんな城をむりに骨を折って攻めても何になるだろうと傍観していた。そのため、浦上以下の武士たちは掻楯の上から矢を射かけられて進むことができなくなり、もとの陣へと戻ったのであった。

 城内の兵たちは手合わせの合戦で寄せ手を退け、多少明るい気分になったとはいうものの、寄せ手は大軍であり、城内の防御の構えは十分に整っておらず、最後にはどんな結果が待ち構えているのかと、石塔頼房、それに備後から師泰軍に追われて逃げてきた上杉朝定らは安心できない様子であった。
 そんな時に、伊勢からやってきた愛曽の召し使っている童が神がかりをして、和が軍には二所大神宮(伊勢神宮の内宮と外宮)の神々がついており、この城の三本杉の上に鎮座されている。寄せ手がいかに大勢でも、この城が落城することはない。それだけではなく、高兄弟はその悪行の報いで七日以内に滅亡するだろうと言い、竜神が苦しめられている熱を冷ますと言って寺の中の閼伽井に飛び込んだところ、井戸の水が熱湯になるという出来事が起きた。城内のひとびとは、自分たちには神のご加護があると確信して、勇気を得たのである。

 この奇瑞の噂は寄せ手の赤松則祐のところにまで伝わってきて、どうもこの様子ではこの戦いははかばかしいことになりそうもないなと気にしはじめていた。そこへ、彼の兄範資の子で、則祐の猶子になっていた朝範が、兜を枕にして転寝をしていた時の夢で、寄せ手1万余騎が同時に掻楯の真下に攻め寄せ、同時に火をつけたところ、石清水八幡宮のある男山(京都府八幡市)、金峯山寺のある吉野の山々の方から数千羽の山鳩(鳩は八幡神の使いである)が飛んできて、翼を水に浸し、櫓、掻楯に燃えついた火を消してしまった。朝範はこの夢を則祐に語り、則祐は、これを聞いて、思っていた通りだ、この城を攻め落とすことは難しいのはなぜかと思っていたが、果たして神明のご加護があったのだ。これは事態が難しくなる前に、自分たちの本拠に帰った方がよさそうだなどと思い始めた。ちょうどそこへ、美作から敵が攻めてきて、一族の本拠地である赤松(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)に来襲したという情報が入ったので、則祐は光明寺の麓に構えていた陣を解いて、白旗城(赤穂郡上郡町の白旗山に城址がある。赤松氏の本城であったが、1441年に嘉吉の乱の際に落城した)へと帰っていった。

 赤松が本拠へ帰っていったことで戦いの様相はますます不透明になった。どうもやる気のなさそうな直義ではあるが、それでも石塔・上杉に援軍を送るくらいのことはするだろう。この先、何が起きるか、特に童子の予言のように師直・師泰兄弟が滅びるかどうか、気になるところではあるが、それはまた次回以降に。
 光明寺という寺は鎌倉をはじめ、あちこちにあるようであるが、ここに出てくる光明寺は播磨の真言宗の寺だということで、私の知り合いの1人がやはり兵庫県(播磨)の真言宗の寺の住職をしているので、気になって調べてみたところである。光明寺ではないが、やはり由緒ある名刹のようで、大学時代に勝手なことを言って揶揄ったりしてどうも済まないことをしたと反省しているところである。
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『太平記』(314)

5月11日(月)曇りのち晴れ

 観応元年(南朝正平5年、西暦1350年)12月、足利直冬討伐のため西国へ向かった尊氏は、直義と南朝の合体を知って、備前から引き返した。翌年正月、直義は、石清水八幡宮に陣を構え、それに呼応して越中守護の桃井直常(もものいただつね)が上洛した。形勢不利と見た足利義詮は京を退いた。正月15日、尊氏と高師直は、義詮と合流し、京一帯で桃井軍と戦った。この時、師直の家臣である阿保と桃井軍の秋山とのはなやかな一騎打ちは、人々が絵に描いてもてあそぶほど評判となった。桃井との合戦に勝利したにもかかわらず、離反者が続出した将軍方は、丹波路を西へ落ち、義詮は、丹波井原の石龕寺に留まった。

 高師直の弟である師泰は、この時まで、石見の国の直冬方である三角兼連(みすみ・かねつら)が籠っている三角城を攻略しようと、石見に留まっていたのであるが、師直から飛脚による連絡があり、「摂津の国、播磨の間の合戦の状況が切迫している。早く石見での合戦を切り上げて、将軍の陣営に加わってほしい。中国地方の武士たちのなかには、将軍方の勢力の弱体化に付け込んで、師泰軍の合流を邪魔するものが出てこないとも限らないので、高師直の子である師夏を備後に派遣して中国地方の反将軍方の武士たちの動きを示して待っていることにする」と伝達された。師泰はこれにより事態の急変を知って驚き、急いで石見を出発し、約束通り師夏が播磨を出発して備後の石崎(いわさき=広島県福山市駅家町)に到着した。

 尊氏は八幡に陣を張る直義、比叡山の桃井直常の軍に押されて、播磨の書写(兵庫県姫路市西北の書写山、天台宗寺院である円教寺がある)の坂本(麓)に落ち延び、師泰は三角城を攻めあぐんだ末に東へと引き返してくるという情報を得て、直義方の上杉朝定(扇谷上杉氏の重顕の子、尊氏・直義兄弟の従兄弟である)は八幡から船に乗って西にむかい、備後の鞆(広島県福山市鞆町)に上陸した。これを聞いて備後、備中、安芸、周防の武士たちはわれもわれもと上杉の陣営に駆けつけ、「その勢雲霞の如く似て、靡かぬ草木もなかりけり」(第4分冊、402ページ)という勢いであった。

 このような情勢の中で、高師夏は師泰が戻って来るのを待たないで、中国地方には滞在せず、すぐに上洛する(というよりも、播磨の尊氏のところに戻る)という噂が伝わってきたので、上杉はとるものもとりあえず、後を追いかけて攻め滅ぼそうと3千余騎を率いて、草井地(福山市草戸町)を出発し、師夏軍を追跡する。
 師泰はこのような動きを夢にも知らず、先を急ぐ旅であるから馬を急がせて、西山(せいやま、岡山県倉敷市真備町妹=せにある山)を越えた。小籏一揆、伊豆の武士である河津氏明、遠江の武士である高橋英光(河津、高橋はともに師直兄弟麾下の大旗一揆に属していた)、備中の武士である陶山(すやま)高尚・師高兄弟らは、この軍勢の後陣としてはるか後方を進んでいた。

 状況を整理すると、武蔵五郎こと高師夏は、師直の子で母親が摂関家の娘であり、この時点ではかなりの年少(10代前半)であったと思われるので、お飾りの大将であって実際に指揮を執っていたのは、『太平記』に名を記されていない何者かであったと思われる。〔石見の師泰が再三の連絡にもかかわらず戻ってこない(師泰の判断ミス。関ケ原の戦いの際の徳川秀忠のミスと重なる)ので、尊氏・師直は師夏を催促の武将として派遣し(つまり、それだけ師夏が一門の中で重んじられていたということである)、それでやっと師泰も事態の深刻さを知ったということだが、師夏を派遣したことが果たして的確な判断であったかどうかということが今後の展開で問われることになる〕。その師夏を追って、直義方の上杉朝定が軍を進めるが、実は高師泰の軍勢はすでに朝定の前を急行していた。〕

 上杉朝定の軍勢の先陣と、高師泰の軍勢の後陣の距離は狭まっていたのだが、お互いにお互いの軍勢の多少が見定められるということはなかったので、上杉の先陣の500騎余りの兵が、師泰軍の最後尾の陶山の軍を見つけ、楯の端をたたいて鬨を作って戦闘を徴発する。〔上杉の先陣が500余騎、陶山が100余騎だから本来ならば勝負にならないのである。〕 陶山は敵に後ろを見せたことのない剛勇の武士だったので、この挑戦を受けて立ち、縦横に自軍を展開させて戦闘を継続させる。両軍の間に華々しい戦闘が展開される。

 とはいうものの、陶山軍は師泰軍の本隊から離れてしまっているので、本隊からの応援は期待できない。とうとう大将である陶山高直が体中に傷を受けて討死してしまう。それを見た舎弟の陶山師高も死を覚悟して、こうなったら自分の最期に相応しい相手を見つけて死のうと考え、土屋平三(現在の神奈川県平塚市に住んだ武士)と組打ちをして、討死する。大将たちの死を目の当たりにした陶山の一党は、自分たちの命を惜しまず必死になって戦い、そのため上杉の先陣は相当な損害を被ったのだが、とにかくこの戦闘に勝利を収めることができた。

 宮兼信(備後の国一宮である吉備津神社/広島県福山市新市町の社家)は初めのうち70騎ほどを率いて師泰軍の中盤(ということは陶山軍の前方)を進軍していたのだが、後陣の戦闘で味方が負けたといううわさが広がって、配下の武士たちがいつの間にか戦線を脱落し、数えてみると自分に従うものは6騎だけになってしまった。しかし、臆病な連中がいなくなったのは自分にとって好都合だ、敵が勝ちを収めて油断しているすきに急襲してやろうと、6騎で攻めかかる。
 これを見て、小旗一揆、河津、高橋の500余騎が続き、上杉方はすっかり浮足立ってしまい、反撃を試みることもなく退却し、それだけでなく大将である上杉朝定も重傷を負い、多数の死傷者を出して惨敗する結果となった。

 このようにして、備中の国の合戦には高師泰はたやすく(と『太平記』の作者は書いているが、これまで見てきたように、それほどたやすい勝利ではなかった)勝利を収めることができた。ここから尊氏と師直のいる播磨までは、特に大きな敵に出会うこともなく進軍できると思っていたところ、美作の武士である垪和(はが)、角田が700人ほどを集めて、美作と播磨の境にある山陰道の要所・杉坂(岡山県美作市と兵庫県佐用郡佐用町の間にある杉坂峠)をふさいで師泰軍の進路を阻もうとした。しかし、備中の戦勝で勢いに乗る河津、高橋の軍勢は相手を圧倒してしまい、美作の武士たちは戦うこともせずに逃走し、全滅したのであった(実際はほとんどが逃走したのだろうと思う)。
 備中・美作での戦いに無事に(とも言えないのであるが)勝利したので、師泰軍と、それに合流した師夏軍は喜び勇み、2月1日に播磨の国の尊氏・高師直の陣営に到着したのであった。

 都での合戦に勝利したにもかかわらず、尊氏と高師直の陣営から離反する武士が相次いだことについては、『観応の擾乱』(中公新書)における亀田敏和さんの分析を踏まえて、次回以降考えていくつもりである。備中は高一族の南宗継が長年守護をつとめ、一族にとっては本拠地の一つに数えられる土地であったので、『太平記』に記されているような個別の戦闘の結果はさておいても、師泰・師夏軍の優位は動かなかったのであろう。とにかく、これまであまりいいことがなかった尊氏・師直にとっては師泰・師直の合流が久々の朗報であったことは否定できない。しかし、事態はさらに深刻さを増していく。それがどういうことかは、また次回に。

 観応の擾乱は尊氏・直義兄弟の骨肉の争いであるけれども、その一方で、尊氏の子である直冬・義詮の骨肉の戦いでもあって、さらに言えば、尊氏・直義の世代から、ともに尊氏の子である直冬・義詮の世代への世代交代を促した戦乱であったともいえるのではないか。

『太平記』(313)

5月4日(月/みどりの日/休日)朝のうちは雨が降っていたが、その後は曇り空が続く。

 観応元年南朝正平5年、西暦1350年)12月、九州で勢力を伸ばしている足利直冬(ただふゆ、尊氏の庶子で、直義の養子)討伐のために西国へ下った足利尊氏は、直義の南朝との合体を知って、備前から引き返した。翌年正月、直義は石清水八幡宮に陣を置き、これに呼応して足利一族で越中守護であった桃井直常(もものい・ただつね)が北陸道から上洛してきた。尊氏の留守を守っていた、彼の嫡子・義詮は形勢不利と見て京を退いた。
 正月15日、山陽道を東上してきた尊氏と高師直は義詮と合流し、京一帯で桃井軍と戦った。この時、高師直の家臣で武蔵七党の一党である丹党の阿保忠実(あぶ・ただざね)と桃井軍の武士で甲斐源氏の秋山光政が四条河原で一騎打ちを演じたが、両者の武勇は人々が絵に描いてもてあそぶほどの評判となった。

 この一騎打ちを皮切りとして、両軍入り乱れての合戦が始まった。桃井が率いてきた7千余騎と、仁木・細川が率いる1万余騎とが鴨川の東側(現在の左京区、東山区)のあたりで一進一退の攻防を展開した。7・8度にわたり両軍が激突し、戦死者が両軍合わせて300人余り、戦傷を負ったものは数え切れなかった。
 両軍が戦いに疲れて、しばし休息の状態にあった時に、あらかじめ示し合わせていた通り、東山の山腹に700騎ほどの兵を待機させていた佐々木道誉が東山中霊山(ひがしやまなかりょうぜん=京都市東山区清閑寺霊山町の霊山)の南からどっと鬨をつくって、桃井軍の後ろから攻めかかった。不意を衝かれた桃井軍は、散開して二手に分かれ、前後の敵と戦った。
 西南の敵(仁木・細川であろう)に攻め立てられて、桃井軍の兵たちが引き気味になったので、桃井直常と直信の兄弟は馬から下り、敷皮の上に座って、「運は天にあり。一歩も退却してはならない。(逃げる位なら)討死せよ」と下知した。

 そうこうするうちに日はすでに傾いて夕刻を迎えたが、八幡に陣をとっている直義(と南朝)の軍勢はとうとう姿を現さなかった。合流を期待していた直義軍が到着しないこともあって、桃井軍は戦いの疲れが激しくなり、東山をのぼって戦線から離脱しようとしたときに、それまで待機していた尊氏と義詮の5千騎の兵が二条通を東に進んで、桃井軍が東山に登るのを阻止しようとする。この強襲を受けて桃井もたまらず、それまでの戦いの疲れも加わって、交代する人員はおらず、三方に敵を受けて、劣勢となったのは明らかであり、粟田口(京都市左京区粟田口)を東に抜けて山科へと逃れていった。しかし、東坂本まで戻ることなく、関山(逢坂山、滋賀県大津市逢坂)に陣を張り、かがり火をたいて留まっていた。

 尊氏が京に戻ってきたうえに、桃井との戦いにも一応勝利したので、現在のところでは直義に従って八幡にいる武士たちも、おおよそは尊氏の元に戻って来るのではないかと思われ、多くの人々が、これで都は平静になると安心したのであったが、案に相違して、15日の夜半ばかりから尊氏方の将兵で、京を抜け出して八幡に向かうものが後を絶たなかった。
 そこで尊氏は側近の者に対して次のように心中を吐露した。戦が有利になったなら、(味方の兵が増えるはずなのに、かえって)味方の兵が敵方に走っている。、尊氏を裏切るものが多いことだ。この状態では京の洛中で合戦を続けるなどは思いもよらないことである。しばらくは西国へ退いて、中国地方の武士たちの加勢を得て、また東国の武士たちにも挙兵を促して反攻を組織することにしよう。尊氏がこの意見をしきりに述べたので、周囲の武士たちも同意して、正月16日の早朝に丹波路(京都市西京区大枝=おおえの老の坂から亀岡を経て播磨へと至る道を)西へと落ちていった。〔亀田敏和『観応の擾乱』(中公新書)によると、この時、尊氏は天龍寺で兵馬を休ませようとしたが、夢窓国師に拒絶されたという(亀田、103ページ参照)。夢窓国師までが直義に味方していたのである。〕

 桃井軍の来襲で不利を悟った義詮が都を退去して、桃井直常が都にに入り、義詮と合流した尊氏が上洛して直常を破ったかと思うと、全体の情勢の不利を悟って、また都を去ってゆく、「吉凶糾(あざな)へる縄の如く、哀楽地を易(か)へたり。何を喜び、何事を嘆くべしとも定まらず」(第4分冊、20ページ)と都の人々は感じたと、『太平記』の作者は記している。

 〔この時の尊氏は「征夷大将軍というよりは敗軍の落ち武者である」(亀田、103ページ)とまで評する人もいる。『太平記』には記されていないが、18年前の元弘3年(1333)に鎌倉幕府討幕の旗を挙げた丹波の篠村八幡宮に赴こうとしたのに敵兵や野伏の妨害に遭って果たせなかった。この前後の尊氏と師直の動静は亀田によって詳しくたどられている。〕

 尊氏の一行は、前日の早朝東山の朝霧を背に京を後にし、この日の朝はというと西の方の山陰の山を見るという旅の途中であったが、将軍たちが一箇所に集まっているというのは戦略上よろしくないという意見から、義詮に仁木頼章、その弟の義長をつけて、丹波国井原の石龕寺(せきがんじ、兵庫県丹波市山南町岩屋)に2千余騎の兵とともに止め置くことにした。この寺の衆徒(僧兵)たちは将軍方に忠誠を誓っており、要害の地である上に、糧食も十分に備えていた。
  さらに近隣の武士たち、荻野、波々伯部(ほうかべ)、久下、長沢ら将軍方の者たちが一人残らずこの地に集まり、警戒に加わったので、義詮に従う将兵は、これまでの苦戦を忘れて、しばし安心することができたのである。
 石龕寺は現在でも紅葉の名所として知られる真言宗高野山派の名刹であり、義詮を迎えた僧侶たちは、勝軍毘沙門の法を行って、義詮の武運を祈った。義詮はその志に感じて、この寺に丹波の国の小川の庄を寄進したのであった。
荻野、波々伯部、久下、長沢はいずれも丹波の武士で、荻野、久下は兵庫県丹波市、波々伯部、長沢(中沢)は篠山市に住んだと脚注にあるが、これらの武士はすでに何度も『太平記』に登場している。特に久下は、第9巻で尊氏が篠村八幡宮で挙兵した際に、時重が郎等を従えて参加し、その際に笠に「一番」という文字を記しているのを尊氏が不思議に思って師直にたずねると、その昔、頼朝が石橋山の合戦に敗れた後、しばらく土肥の杉山(現在の湯河原市の一部)に身を隠していた際に、久下重光が一番に駆けつけた功を賞せられ、以来「一番」を紋としているのだという答えを得る場面がある。この久下氏は、武蔵七党(に数える人もいる)の私市(きさい)党に属する武士で、直光の代の建久3年(1192)年に縁戚でもあった熊谷次郎直実と領地争いの争論を起こし、頼朝の前で対決、口下手な直実が怒って座を去り、そのまま遁世したという事件の一方の当事者であった。だからもともとは坂東武士なのであるが、いつの間にか丹波に土着していたのである。
 なお、尊氏・直義兄弟の母親である上杉清子は、丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町付近)を領した藤原氏勧修寺系の下級貴族上杉氏の出身であり、彼女もこの地の生まれだという(本郷和人・門井慶喜『日本を変えた8人の将軍』、113ページ参照)。上杉氏は宗尊親王が将軍になった際にそれに従って下向し、武士化した一族である。だから足利一族は丹波とのつながりは浅くないが、それは尊氏に限ったことではないのである。

 四面楚歌の状況に陥りかけた尊氏・師直であるが、果たして西国での勢力の挽回はなるだろうか。また石見から引き返してくるはずの高師泰の軍はどのような行動を展開するのか、それはまた次回に。

『太平記』(312)

4月27日(月)曇り、午後になって雨が降り出す。

 観応元年(南朝正平5年、西暦1350年)12月、足利直冬討伐のために西国へ向かった足利尊氏は、直義と南朝の合体を知って、備前から引き返した。翌年正月、直義は石清水八幡宮に陣を置き、これに呼応して足利一族で直義に味方する桃井直常(もものい・ただつね)が上洛した。尊氏の留守を、その嫡子である義詮が守っていたが、形勢不利と見て京を退き、西へと向かった。

 義詮は一族の仁木・細川らの武士たちを率いて、心細い思いで都を離れて桂川を渡り、向日明神(むこうみょうじん:京都府向日市向町にある向日神社)の南方を通っていたところ、物集女(もずめ:向日市物集女町)の前、西岡(にしのおか:向日市・長岡京市一体の丘陵地帯)の東西に馬が蹴立てる土ぼこりがおびただしく上がり、そのために多数少数は分らなかったが、2・30本余りの旗を立てて軍勢が進んでくるのが見えた。
 義詮はこれを見て、八幡の直義軍が搦手に回って自分たちを攻撃しようとしているのではないかと思い、斥候を出して様子を探らせたところ、直義軍ではなくて、尊氏と高師直が山陽道の武士たちを集め、2万余騎を率いて上洛してきたのであった。義詮の一行は、法華経に出て来る窮子(ぐうじ)が他国から帰って、父の長者にあったのと同じような心持で、大喜びしたのであった。
 かくなる上はすぐに都へと取って返し、桃井の軍勢を打ち破ろうと、尊氏・義詮父子の軍勢合せて2万余騎が東に向かい、桂川を渡ったところで、その軍勢を3つにわけた。

 大手の軍勢は高師直を大将とし、これに丹波の守護であった仁木頼章が加わり、四条大路を東へと進む。その南の道を進むのは佐々木道誉で、手勢700余騎を率い、東寺(京都市南区九条町の教王護国寺)の東を進み、今比叡(京都市東山区妙法院前側町の新日吉神社の辺りに控え、大手の合戦が本格的になった時に、思いがけない方角から敵の背後を衝こうと旗竿を側において隠し、敵味方を区別する笠符(かさじるし)を巻き隠して、東山に上った。〔楠正行との四条畷の戦いでも、道誉は生駒山に上って敵の背後をついて、正行軍の退路を断つことに成功した。なお、第21巻には、道誉が妙法院を焼き払うという狼藉を働いた話が出ている。〕

 尊氏と義詮は1万余騎を1つの部隊にまとめ、東寺の横の東大宮通りを北へ上り、二条通りを東に進んで岡崎の法勝寺の前に出ようと合図を決めて待機していた。これは桃井が東山に陣をかまえたという情報を得て、四条を進む高師直・仁木頼章の軍とは鴨川の河原で対決することになるだろう、その時に味方が敗けたふりをして退却すれば、桃井軍は勝ちに乗じて前進するだろうから、そこを佐々木道誉の軍勢が背後から襲う。桃井は前後に敵を受けて慌てる。その時に尊氏・義詮の大軍が北白川方面に出て、敵の退路を塞ごうとする。そうなれば桃井がいかに勇猛でも、退却しないではいられなくなるだろうという作戦である。

 予定の作戦通り、尊氏・義詮軍と佐々木道誉軍の中間を行く高師直・仁木頼章の大手の軍は大宮通りに出ると旗を降ろして戦闘態勢に入り、四条河原をめがけて駆けだしてきた。桃井は東山を背後に、鴨川を前に赤旗一揆、扇一揆、鈴付け一揆、3千騎ずつ3か所に待機させて、射手を前陣に進ませ、畳楯(じょうだて=折り畳みができる面が広く大きい楯)を並べて、敵が攻めてくれば受けて立ち、河原という広い場所で勝負を決しようと、静まり返って戦闘開始を待ち受けていた。

 両陣ともに旗を進め、鬨の声を挙げていたが、足利方は搦手の軍勢の合図を待っていて、戦闘を開始しようとはせず、桃井軍は石清水八幡宮の直義の軍勢の到着を待っていて、これまた戦闘を開始する気はない。お互いに味方の士気を鼓舞しようとして、馬を走らせて陣営の前に出て、曲乗りをして見せるものが出たりするが、戦闘開始には至らない。

 すると、桃井に従っていた扇一揆のなかから秋山九郎(光政)という大男の武士があらわれ、自分が甲斐源氏に属する代々の武士であり、兵法に通じていると誇って、自分に一騎打ちを挑むものがいないかと挑発する。
 すると、高師直の重臣で武蔵七党の一つ、丹党に属する阿保忠実(あぶただざね)という武士があらわれ、自分は兵法などは知らないが、実践経験は豊富だと一騎打ちに応じる。両者は白熱した戦いを続け、それぞれの武器を失う。師直は忠実が武器をとらせたら強いが、秋山の方が力は強そうで、武器をなくしてしまったら、秋山の方が有利と見て、秋山に矢を射かけるように命じる。しかし、忠実は秋山の武勇を惜しんで、自分が楯になって秋山を矢から守り、結局二人は生き残る。
 この戦いは京都の人々の間で評判となり、神仏に供える絵馬の類、扇や団扇に描くバサラ絵に、阿保・秋山の河原での戦いの絵を描かない人はいないという人気を集めた

 この後、両軍の本格的戦闘が始まり、この衝突の辺りから、観応の擾乱が本格的に始まる。亀田敏和さんの『観応の擾乱』(中公新書)はこの戦乱が全国規模のものであったことを強調し、各地の武士たちの動きを詳しく述べているが、『太平記』の作者は戦乱の推移を主要な武将の動きに限定して、表面的にしか描いていないように思われる。亀田さんが当時の記録をもとに京都での市街戦を再現しているところによると、四条を進んだのは義詮、二条を進んだのが尊氏で、いったんは本拠の北近江に戻ろうとしたが、三井寺の僧兵にさえぎられて引き返してきた佐々木道誉と三方面から桃井直常の軍隊を包囲して攻める形になったというのが真相らしい。
 亀田さんは多くの武士たちが、尊氏を離れて直義の方に味方するようになった理由として、尊氏の庶子で直義の養子となった直冬が優れた武将としての器量をもちながら、尊氏に冷遇されていることに反感をもった武士が多かったのではないかと論じている。それだけでもないだろうが、一考に値する見解である。

 本文の「窮子の他国より返つて、父の長者に逢へるが如く」(第4分冊、388ページ)というのは、法華経の信解品(しんげほん)の比喩を踏まえたものだと岩波文庫版の脚注に記されている。長者の息子が家出して流浪し、50年後に偶然長者の邸を訪れたのを、長者は下男として召し使い、後に親子の名乗りをして財産を譲ったという説話である。仏を長者、仏道修行者を子、仏法を財宝に譬えた譬喩であるという。この話、新約聖書に出て来る「放蕩者の息子」の帰還の話によく似ている。両者の関係について論じた研究があるかも知れないので、気長に探すことにしよう。
 華々しい一騎打ちを演じた2人の武者のうち、秋山は現在の山梨県南アルプス市秋山に住んだ武士、阿保忠実は現在の埼玉県児玉郡神河町に住んだ武士だと岩波文庫版の脚注にある。安田元久『武蔵の武士団』(有隣新書)は最後の方で丹党と阿保氏に触れているが、忠実についてはその名を挙げていない。なお、党というのは中小武士団の同族的結合であり、「武蔵七党」について安田は野与・村山・横山・猪俣・児玉・丹・西とするのが一般的だが、私市(きさい)・続(つづき)を加える見解もあると述べている。また、一揆というのも武士集団であり、その欠号の目印を名前として白旗一揆とか、扇一揆とか言ったようである。

『太平記』(311)

4月20日(月)雨、肌寒い。

 貞和6年(南朝正平5年、西暦1350年)2月、改元して観応となった。三条殿(足利直義)の失脚後、鎌倉から尊氏の嫡男義詮が上洛して、政務をとることになったが、これは高師直・師泰兄弟の思惑によるものであった。前年9月、備後(広島県東部)から九州に落ちた直義方の足利直冬(尊氏の庶子、義詮の異母兄で、直義の養子になっていた)は、九州の有力武士たちを味方として力をつけ、天下は宮方、将軍方、直冬という三分の形勢となった。
 10月、高師直の進言により、直冬の父尊氏が自ら直冬の討伐に向かうことになったが、その前夜直義は蟄居していた錦小路の邸を脱出して大和へ落ちた。11月、九州へ向かう尊氏と高師直の軍は、悪天候のため備前に留まった。大和へ落ちた直義は、越智氏の加勢を得て、まず北朝の光厳上皇から鎮守府将軍の院宣を受け(これは歴史的な事実ではないようである)、次に南朝に書状を送り、吉野殿(後村上帝)に勅免を乞うた。
 南朝では公卿僉議が行われ、洞院実世が、直義を討つべきだと主張したのに対して、二条師基は、直義を味方として召し使うべきだと主張した。意見が割れる中で、北畠親房は、高祖(劉邦、沛公)と項羽との漢楚合戦の故事を語り、漢が勝利したのは、陳平、張良の謀によって、高祖が偽って項羽と和睦したからだと説いた。この意見に諸卿は同意し、12月、後村上帝から直義に勅免の宣旨が下された。

 北畠親房の一時しのぎの提案が実行に移され、吉野の後村上帝と足利直義の間の和睦が成立した。直義は、大和の高市郡越智郷を本拠とする越智伊賀守のもとに留まっていたので、東条(現在の大阪府富田林市の一部)の和田・楠の一党をはじめとして、大和、河内、和泉、紀伊の宮方の武士たちが次々に直義のもとにはせ参じた。それだけでなく、都の周辺の武士たちもひとり、一人と抜け出して、直義に合流した。その噂を聞いて、これまでは一貫して将軍方であり、楠(正儀)に対抗して石川河原(富田林市の東側を流れている石川の河原)に向かい城を築いて退陣していた足利一族の畠山国清も配下の千余騎を率いて加わったのである。

 宮方の軍勢が都を奪回しようと押し寄せてくるという噂が大きくなり、尊氏と師直が都を離れた留守を預かっていた足利義詮は早馬を仕立てて、九州に向かう途中、備前の国の福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)に留まっていた足利尊氏のところに、都に戻るようにとしきりに促した。この知らせを受けて、尊氏は石見の三角城に立てこもる三角兼連を攻略しようと包囲戦を展開していた師直の弟の師泰に石見の平定よりも都の危急の方が重大であるから昼夜兼行で上洛せよと飛脚を差し向ける。飛脚の往復に時間がかかるので、師泰が上洛できるかどうかの返答を待つまでもないと、尊氏は急いで福岡を発ち、2千余騎を率いて都に向かった。
 直義は、尊氏が都に向かうと聞いて、尊氏の軍が京都に到着する前に義詮を打ち破ろうと、観応2(1351)年正月7日、7千余騎を率いて八幡山(石清水八幡宮のある京都府八幡市男山)に陣を敷く。

 越中の守護であった足利一族の桃井直常はかねてから直義に心を寄せていたので、直義の進撃に呼応すべく、同じ年の正月8日に越中を発って、能登、加賀、越前の武士たちを加え、昼夜兼行で都に向かっていたが、折あしく大雪に見舞われ、馬を進めるのが困難になった。そこで、兵を皆馬から降ろさせて、橇(かんじき)を履かせて、2万余人の人を先に行かせ、その後から馬を通行させたところ、山の雪が凍って鏡のようになったので、馬も楽に進めるようになった(凍ったら、滑って危ないのではないかと思うのだが、そうではなかったようである)。こうして7里半の西近江路(越前=福井県の敦賀から愛発山を越えて、近江海津=滋賀県高島市マキノ町海津へと至る)を容易に超えることができ、比叡山の麓の東坂本(現在の大津市坂本)に到着した。

 都を守っていた義詮は、南方の八幡と、東北の比叡、坂本に敵の大軍がやってきていると聞き、これは油断ができない、着到(軍勢の来着を記す名簿)をつけて、自分の陣営の軍勢の数を調べようと、正月8日から点検を始めたが、最初は3万余騎と記されていたのが、次の日には1万騎に減り、さらに翌日には3千騎に減ってしまった。これはきっと、これまで味方であった武士たちが、敵方に寝返っているに違いない、道ごとに関所を設けて阻止せよと、淀(京都市伏見区淀)、赤井(京都市伏見区羽束師から淀の桂川西岸の地)、今路(いまみち、左京区修学院から延暦寺東塔を経て坂本へ至る比叡山越えの道)、関山(逢坂山、大津市逢坂)に関所を設けたのだが、その関所の役人も含めて敵方に寝返っていく始末である。とうとう、正月12日の暮れ方には、名簿に載っているのは足利一族、外様の大名を含めて500余騎にまで減っていた。 

 そうこうするうちに、13日の夜、桃井は比叡山の山上に登ったと見えて、大篝の火が燃えているのが見えた。そして八幡山でもこれに呼応して合図の篝火をたいているのがわかった。これを見て義詮の周辺にいた足利一族の仁木・細川の面々は評定を催し、合戦は初めと終わりが大事である。敵は大勢、味方は小勢、千に一つも勝ち目はないと思われる。その上、将軍尊氏は西国から上洛の途中であり、すでに摂津国の辺りに到着していると聞く。ここは軍勢を損なうことなしに都を離れて、尊氏の軍と合流し、その上で京都に攻め上るのがよいのではなかろうか。不本意な戦いを避けて、思い通りの合戦の機会を俟つほうがよかろうという結論になった。義詮は時宜に従うのがよいだろうと答え、正月15日の早朝に都を離れ、西国を目指して軍勢を動かしたのであった。すると、同じ日の午の刻(正午ごろ)に入れ替わって桃井が都に入った。

 かつて寿永2年(1183)に平家一門が都落ちした際に、源義仲は比叡山に陣をとったまま11日になるまで軍勢を動かさなかった。これはまったく入洛を急がないわけではなく、一つには敵の力を侮らずに警戒したこと、もう一つは自軍が狼藉を働こうとするのを鎮めるためであった。武略に長じた人々は慎重をむねとすべきであるのに、軽率にもすぐに入れ替わって都に入るのは不必要な行動である。もし、義詮軍の退却が偽りのもので、反転して都を襲ってきたならば、直常は必ずや敗北するであると都の人々は口々に噂したのであった。

 すでに尊氏軍は都の近くまで戻って来ている。父子で力を合わせて都を奪回する戦が間もなく始まろうとしているが、それについてはまた次回に。桃井直常は、暦応元年(1338)正月、青野原で土岐頼遠とともに北畠顕家の大軍と戦い、『太平記』では敗れたと記されているが、本郷和人さんの説では勝ったのではないかといわれる。それはともかく、弟の直信とともに驍将として知られる。直常は自分の軍功を高師直に無視されたことから直義方につき、その際に直義の偏諱を受けて、直常(ただつね)と名乗ったといわれる。
 青野原の戦いの前に、まだ11歳で鎌倉を守っていた足利義詮は北畠顕家の大軍が迫る中、衆議が退却に決しようとする時に、一戦も交えずに退却すべきではないと主張した(第19巻)ことがあったが、今回は家臣たちの意見に従っている。そのあたりに武将としての成長ぶりを読み取ることができる。影の薄い二代目という印象の強い義詮であるが、森茂暁さんが説くように、彼の代で幕府内における将軍の権力が強大になっている事実を見落とすことはできないだろう。
 
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