『太平記』(184)

11月13日(月)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、宮方は京を囲み、新田義貞は東寺の門前まで攻め寄せ、尊氏に一騎打ちを挑んだが、尊氏は上杉重能の諫めで思いとどまった。結局、兵力に勝る足利方が宮方を敗走させ、この戦いで名和長年が戦死した。信濃から上洛した小笠原貞宗は、近江の宮方の攻撃を退けて戦功を立てたが、尊氏から(一説に後醍醐天皇を欺いて)近江の管領(守護)職を申し受けた佐々木道誉に近江を譲り渡して都に上ることになった。比叡山の宮方は越前・若狭方面と近江方面の補給路をふさがれて、兵糧の不足に苦しみだした。

 このような中で、尊氏は後醍醐天皇に密使を派遣して次のように申し上げた:建武2年の10月に、尊氏は北条時行の乱(中先代の乱)を鎮めて功績を立てたが、その手柄を妬む讒臣たち(具体的には新田義貞たち)の言いふらした根も葉もない作りごとのために、勅勘(天皇のお怒り)をこうむった。その時に、自分は恐れ入って、出家して自分の無実を明かしだてようとしたのだが、義貞以下の連中が、天皇のお怒りを理由にして、日ごろのうっ憤を晴らそうと攻め寄せてきたので、やむを得ず、反撃して、天下を揺るがすような戦乱を起こしてしまいました。これはまったく、天皇への反逆を企てようとた結果ではありません。ただ義貞の一族一門を滅ぼして、今後讒臣が現われないように懲らしめたいと思うだけです。もし天皇が真実をご照覧くださるなら、私が義貞の讒言に落ちて着せられた罪を、哀れと思召して、天皇のお車を京へ御戻しになり、鳳暦(天皇のご治世)をとこしえの春のめでたき世にお返しください。天皇に付き従った公家たち、並びに降参した武士たちについては、罪科の軽重を言わず、ことごとく元々の官職、所領に復帰させて、天下の政務を公家にお任せしたいと思います。このように申し入れる事柄について、一々ご不審を抱かれることがないように、別に起請文を添えて申し送る次第です」と言い、神仏に誓いを立てる<大師勧請の起請文>を添えて、後醍醐天皇の信任を得ている浄土寺の忠円僧正に送り渡し(取次ぎを依頼し)た。

 後醍醐天皇はこれをご覧になって、神仏への誓詞を添えて申し送ってきた以上は嘘偽りを申すものではないとお思いになったので、おそばにいる元老や賢臣と思われる人々にも相談されることなく、比叡山から都に戻ることを仰せだされた。尊氏は天皇の返事の趣を聴いて、「叡智浅からずと申せども、謀るも安かりけり」(第3分冊、174ページ、天皇は賢い方ではあるが、こちらの策略に乗りやすい方でもある)と喜んで、足利方に味方しそうな大名のもとへ、つてを頼り、様子を窺って、ひそかに回状を送り味方に引き入れた。

 天皇が都にお戻りになるということが、秘密裏にきめられたので、比叡山の武士たちの中でも足利方に降参しようとしていた者たちは、あらかじめ今路、西坂本の辺りまで一人また一人とひそかに抜け出して準備して、天皇が都へと敢行されるのを待ち受けていた。中でも江田行義と、大館氏明は、新田一族であり、これまでずっと新田軍の一方の大将であったのだが、どういう心づもりがあったのかはわからないが、2人ともに足利方に降参しようと、8月9日の明け方から比叡山の山頂付近に昇って待ち受けていた。

 尊氏が天皇に差し上げた書状の内容は、過去の自分の行動の弁明と、今後の宮方の公家・武士たちの処遇についての2つの部分を含んでいる。前半については、後から都合のいい理屈をつけているところもあるが、尊氏が、弟の直義や執事の高師直とは違って、天皇に特別な感情をもっていたことは、これまでの経緯からも否定できない。しかし、後半部分については、後醍醐天皇ももう少し慎重に内容を検討すべきであった、少なくとも秘密裏に事を運ぼうとするのではなく、重臣たちに諮って、その意見を徴すべきではなかったかと思われる。補給路を断たれて生活に不便が生じていたことはたしかであろうが、尊氏の言い分をうのみにして、義貞の意見を聞かずに、事を運ぼうとしているのは軽率であったのではないかと思われる。そして、この種の秘密というのは、簡単に漏れるものなのである・・・というのは次回。
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『太平記』(181)

10月23日(月)台風一過、晴天が広がる。久しぶりに富士山が見えた。

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月13日、延暦寺に籠っていた宮方の軍は京を囲み、新田義貞は足利方の拠点となっていた東寺の門前まで攻め寄せ、尊氏に一騎打ちを挑んだが、尊氏は上杉重能の諫めで思いとどまった。

 義貞は足利方の大軍を退却させて、東寺の門前まで迫ったが、この頃、300余騎の軍勢を率いて上賀茂に待機していた土岐頼遠(尊氏に近侍している土岐頼貞の子、東寺に攻め寄せた四条隆資の軍を追い払った悪源太頼直の弟)は、五条大宮に翻っている宮方の軍の旗を見て、あの軍を指揮しているのは公家の人々であると見て取り、その軍の後ろから鬨の声をあげて、叫び声を上げながら攻め寄せた。後ろから不意を突かれた五条大宮の軍は、慌てふためいて五条通を東へと敗走し、五条河原に追い立てられたが、ここにも足を踏み留めることができず、比叡山の西坂をさして逃げていった。
 学生時代にほんの数か月だが、上賀茂に下宿していたことがあり、五条まではいかないが四条大宮の近くの家で家庭教師をしていたこともあるので、双方の距離についての大体の見当はつく。上賀茂と五条大宮はかなり遠いが、この時代、あまり高層建築はないし、上賀茂の方が標高が高いので、五条大宮の方が見下ろせたのであろう。敵の弱いところをついて、陣営を崩していくというのはよくある戦術であるが、兵力だけでなく、指揮官も不足している宮方は、どうしても経験がほとんどない公家の指揮官を起用せざるをえず、そのことが敗因になるということを繰り返している。

 土岐頼遠は、五条大宮の合戦に勝利をおさめ、勝鬨を上げたので、あちこちに散らばっていた足利方の軍勢は、集まって数千騎となり、大宮通を下って義貞の軍勢を後ろから攻撃する。上賀茂まではいかず、旧大内裏の神祇官の跡地に控えていた足利一族の仁木、細川、吉良、石塔の2万余騎の軍勢は朱雀大路を横切って、東寺の西北篇の西は地上に押し寄せる。東からは少弐、大友、厚東、大内をはじめとする四国、中国の武士たちが3万余騎、七条河原を下って、八条大路の南側の針小路(東寺の北)から東寺の西にあった西寺の跡地まで展開させ、敵を一人も漏らさず打ち取ろうと包囲したので、新田勢は3方を敵に取り囲まれて、空を飛ぶか、モグラのように地面に潜るかでもしない限り、逃れられない状態に陥った。

 囲まれていないもう一方というのは正面の東寺であるが、そこは城郭を堅く守り、寺の中に籠っている兵が散々に矢を射かけてくる。義貞は、こうなったら今日を限りの運命であると思い定めて、2万余騎をただ一つにまとめて、八条、九条に控えていた敵20万余騎の真ん中に突入して、群がる敵を蹴散らし、血路を開いて三条河原に脱出する。それまで行動をともにしていた千葉、宇都宮は、この間に散り散りになってしまう。名和長年の軍勢とは、敵に間を隔てられてしまったようである。(湊川で楠正成が新田の軍勢と離れ離れになってしまったことを思い出させる。)
 新田方の仁科、高梨、春日部、丹、児玉、3千余騎の坂東の武士たちは一条通を東へと退却したが、その間に300余騎が戦死し、やっとのことで修学院の鷺森神社へと駆け抜けた。
 名和長年は、300余騎を率いて、大宮通を上って退却していたが、六条大宮で引き返し、自分から退路の城柵の門を閉ざして、一人も残らず、戦死を遂げたのであった。(後醍醐天皇から特別の寵遇を受け、「三木一草」などと言われた中で、長年一人が生き残っていると、出陣の際に女子供が陰口を言うのを聞きつけた彼は、この戦いを死に場所にする決意で臨んでいたのであった。)

 宮方の軍勢が総崩れになってしまうと、各地の戦闘で勝利を収めて勢いに乗る足利方の20万余騎は、わずかに残された義貞の軍勢を大軍で取り囲む。義貞もこうなったら最後と覚悟を決めて、一歩も後退しようとせず、味方の馬をすべて西方浄土の方角に向けさせ、討ち死にの覚悟で戦いに臨もうとしていたところ、後醍醐天皇が紅の袴を切って与えられた布を笠符に着けた兵たちが、あちこちから集まって2千余騎となり、朝からの戦闘で疲れが出てきた足利方の兵を必死に攻め立てると、さしもの大軍を誇る足利方も、そろそろ馬の足取りが怪しくなってきたので、京都市内に引き返していった。それで義貞、義助、江田、大館は、どうやら七を逃れて坂本に逃れることができたのである。

 宮方の京都への大規模な攻勢はついに失敗に終わった。もともと数の面では劣勢なので、包囲戦は無理であり、もっと長い期間にわたり、都への補給路を断って、敵の力を弱めることに専念すべきであった。相手が補給を遮断されて弱っていることや、比叡山攻撃に失敗した後で、都からも逃げ去った武士たちが少なくないことなどを自分たちに有利な材料として過大に見積もりすぎたようである。東寺を攻撃する義貞の軍の後詰として五条通を守っていた二条師基、洞院実世の軍は5千余騎を数えたはずであり、土岐頼遠の3百の軍勢に追い散らされるというのは情けない。
 今回の戦いにおける土岐一族の功績はきわめて大きいが、この後、頼遠は調子に乗りすぎて北朝の光厳上皇に対し狼藉事件を起こしてしまう。(それは23巻の出来事なので、まだだいぶ先である。) 土岐氏は清和源氏頼光流の美濃の豪族で、その子孫には明智光秀と浅野長政、幸長、長矩(内匠頭)などの有名人が出ている。私の研究室でアルバイトをしていた女子学生が、先祖は土岐氏だったそうですと言っていたから、土岐氏の子孫にあたるという人は他にもかなり多いのであろう。) 
 

『太平記』(180)

10月16日(月)雨

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、足利方は比叡山に立て籠もった後醍醐天皇方に対する攻撃を行ったが、後醍醐天皇方は地の利を生かし、よくこれを防いだ。比叡山が奈良の興福寺に加勢を求め、興福寺が応諾したことで西国の武士たちの中に後醍醐天皇方に味方するものが増え、都の四方を囲んで補給路を断ち、足利方を苦しめた。7月13日に、比叡山の後醍醐天皇方は都への攻撃を開始したが、北白川の火事を戦闘の開始と間違えて鳥羽の作道から足利方の本拠である東寺へと迫った四条隆資の率いる八幡の軍は、足利方の土岐頼直の奮戦により撃退され、八幡へ引き返した。

 南西から攻め寄せるはずだった八幡の軍勢が既に敗走したとも知らず、かねてから決められていた合図の時間になったというので、大手の大将である新田義貞は弟の脇屋義助とともに、2万余騎を率いて、今路、西坂から比叡山を下り、軍勢を三手に分けて押し寄せた。その一手は、義貞、義助、新田一族の江田、大館、関東の武士である千葉、宇都宮合わせて1万余騎、新田の紋である大中黒、千葉の紋である月に星、これも関東の豪族である結城の紋である左巴、宇都宮の紋である右巴、武蔵七党のうちの丹党と児玉党の内輪を組み合わせた図柄の紋、それぞれの紋を印した旗3千流れ(旗は~流れと数える)をさし連ねて、下鴨の糺の森を東から西へと抜け、大宮通を下って押し寄せる。
 もう一手は名和長年をはじめ、仁科、高梨、土居、得能、春日部以下、諸国の武士たちを集めて5千余騎、大将義貞の旗を守って、その陣形を変化させながら、猪熊通り(東大宮大路の東側の小路)を南下した。
 さらに一手は、二条師基(摂政関白二条兼基の子、道平の弟、北朝に寝返った良基の叔父にあたり、北陸の武士たちを集めて比叡山に応援にやってきていた)、洞院実世の2人の公家を大将として5千余騎、摂関家の紋章である牡丹の旗と、扇の旗(何の旗か不詳であるという)のただ2流れの旗だけをあげて、敵に道を遮断されないようにと、四条通を東の方に引き渡して、それから南の方にはわざと進まなかった(あまり戦力として期待されず、敵の攻撃の妨害を任されていたということらしい)。

 以前から東山の阿弥陀峯に陣を構えていた諸国の兵、阿波、淡路の兵千余騎は、まだ市中には入らず、泉湧寺(京都市東山区泉湧寺三内町にある真言宗寺院)の前、今比叡(東山区妙法院前側帖にある新日吉=いまひえ神社)のあたりまで下って、合図の狼煙を挙げた。そこで北区鷹峯の西北の長坂の大覚寺宮を大将とする額田右馬介の軍勢800余騎が、嵯峨、仁和寺の辺りに散開して、あちこちに火をかけた。

 足利方は数においては勝っていたが、後醍醐天皇方の武士たちに補給路を遮断され、人も馬も疲れて弱っていたうえに、朝の戦闘で矢をほとんど射尽していた(東寺の戦闘に参加したのは、足利方の一部の軍勢だけだったことが、これまでの記述でわかるので、これはおかしい)。対する新田勢は小勢ではあったが、名だたる名将新田義貞が指揮を執り、しかもこれまで何度も戦闘で敗北を喫ししていたので、今度こそは雪辱を果たそうと敵意を燃やし、この一戦に自分の名誉を掛けようという覚悟を決めて臨んでいた。それで、これまで対立してきた大覚寺統・持明院統の治世のご運も、新田足利多年の対立抗争も、この一戦によって決着を迎えるはずだと、新田方の武士たちはみな気を張り詰めていた。

 そうこうするうちに六条大宮から軍が始まって、足利方の20万騎と新田方の1万余騎とが、入り乱れて戦った。(兵力に差がありすぎるが、一つには数が誇張されていること、もう一つは、全員が一度に戦うのではなく、両軍とも先頭に立って戦う武士たちを入れ替えながら戦っているということである。) 「射違ふる矢は、夕立の軒端を過ぐる音よりもなほしげく、打ち合ふ太刀の鍔音は、そらに答古山彦の鳴り止む隙(ひま)もなかりけり」(第3分冊、162ページ)と、相変わらず作者の描写は大げさである。
 足利方は、都を碁盤の目のように通っている小路小路をふさいで、敵を東西から包囲し、敵が進んでくれば前を遮り、左右に分れれば中を突破するなど陣形を変化させ、相手の出方に応じて戦闘を続けたが、義貞の兵はそれにかく乱されることなく、中を突破されることもなく、時に退却することがあっても後ろから陣営を乱されることなく、向かってくる敵を次第に圧倒して、大宮通を下ってまっすぐ進んで行った。足利一族の仁木、細川、今川、荒川、足利方の土岐、佐々木(道誉)、甲斐源氏の逸見、武田、小笠原、安芸の小早川らの軍勢は、新田勢に追いまくられて、あちこちに敗走していったので、義貞の率いる1万余騎は、東寺の小門の前に押し寄せて、一度に鬨の声をどっと上げる。(東寺は京都駅の南側にあるのはご存知の方も多いと思う。京都駅は七条通と八条通の間にあるから、新田勢がどの程度足利勢を押しまくったかは想像できるはずである。)

 義貞は坂本から出陣してくるときに、後醍醐天皇の御前に参上して、「天下の落ち着く先は、天皇のご運にお任せする。今度の戦においては何としても、尊氏が立て籠もっている東寺の中に矢の一本も射かけなければ、戻ってこないつもりです」と申し上げた、その言葉の通りに、矢の届く範囲までに敵を追い詰めたので、今はついに尊氏を追い詰めたと大いに喜び勇んで、旗の下に馬の足をとどめ、城(東寺)をにらみ、弓を杖の代わりにして立ちながら高らかに呼びかけた。「天下の乱がやむことなく、罪のない人民が安心して暮らすことのできない日々がずっと続いている。この戦乱のもとは2つの皇統の争いとは申しても、ひとえに義貞と尊氏卿の対立がその原因である。自分だけの功業を立てるために、多くの人々を苦しめるよりも、大将同士が一騎打ちをして戦争の決着をつけたいと思うので、義貞自らこの軍門に罷り越したのである。この言葉が偽りかどうか、矢を一本受けてみたまえ。」と、強弓に矢をつがえ、十分に狙いを定めて、弦音高く切って放つ。その矢は遠く飛んで、尊氏が座っていた陣幕の中、本堂の南西の柱に、突き刺さった。

 尊氏はこれを見て、「自分がこの軍を起こして、鎌倉を出発してから、主上(後醍醐天皇)を滅ぼし妄想とは全く思っていない。ただ義貞にあって、自分の怒りを鎮めようとするためだけである。したがって、義貞と自分とで一騎打ちをして戦いの勝敗を決めるというのは、もとより願うところである。その木戸を開け、打って出るぞ」というのを、尊氏の母方の従兄弟である上杉重能が「これはどうしたことでしょうか。楚の項羽が漢の高祖に向かって、一騎打ちをしようと持ち掛けたのに対して、高祖があざ笑いながら、「おまえを討つのには、刑に服した罪人がふさわしい」といったではありませんか。義貞の奴は軽率に敵陣に深入りして、退却のしようがないために、やけになってたけり狂っているにすぎません。ここで軽々しく姿を現すべきではありません、とんでもないことです」と鎧の袖を引っ張って止めたので、尊氏もやむなくこの忠義から出た諫言に従い、怒りを抑えて座りなおしたのである。

 義貞は勇猛な武将であり、その率いる士卒も士気旺盛ではあるが、いかんせん軍勢が少ないうえに、兵力がある程度そろっても、それを率いる指揮官が不足している。衆徒はともかく、戦闘に慣れないお公家さんまで動員しているというのでは、勝ち目は少ないのである。足利方は軍勢が多いから、一時的にある程度劣勢になっても、持ちこたえていれば、やがて新田勢が疲れてきた時に反撃すれば勝てるという見通しを立てている。それだけの見通しを持った部将が配下にそろっているというのが強みである。あと一歩のところまで尊氏を追い詰めた義貞であったが、東寺に籠っている尊氏の陣を崩すことはできない。この後、足利方の反攻が始まる。それはまた次回。

『太平記』(179)

10月9日(月)晴れ、気温上昇

 建武3年(南朝延元元年、1336)の6月初旬から、京都を奪回した勢いに乗って足利方は、後醍醐天皇とその支持勢力が立て籠もっている比叡山を攻撃したが、比叡山の衆徒たちの応援を得た後醍醐天皇方の守りは固く、敗走せざるをえなかった。比叡山延暦寺は後醍醐天皇を支持する勢力を強めるために、南都の興福寺に加勢を求め、興福寺が応じたという知らせが伝わると、西国の武士たちの中に後醍醐天皇方に加わる者が続出し、京都が包囲される形となった。7月13日に(史実は6月30日)、宮方は京都に総攻撃を仕掛けようとしたが、三木一草の中で生き残っているのは名和長年だという女童の噂を耳にした名和長年は、もしこの戦いで負ければ生きて帰るまいと心に決めたのであった。

 京都の合戦は13日の巳の刻(午前10時ごろ)とあらかじめ手筈が決められていたので、比叡山の東坂から進んできた軍勢は、関山(逢坂山)と修学院に至る道である今路あたりに待機して、その時刻を待っていた。ところが足利方のものが相手を欺こうと放火したのであろうか、北白川から火が出て、その煙が空に上った。白川というのは鴨川の東の地域を言う。北白川は現在の京都では今出川通の北、東大路の東の一区画で、京都大学の農学部と理学部、人文科学研究所などがあり、学生の下宿も多い。私は住んだことはなかったが、友人の下宿などを訪ねて、歩き回った経験がある。
 京都を南から攻撃しようとして八幡に待機していた宮方の軍勢は、大将として四条隆資卿を頂いていたが、この火の手が上がるのを遠くから見て(現在では見えることはない)、比叡山から押し寄せた軍勢が京都市内に放火したものと誤解した。それで、すでに戦闘が始まったものと思い、この日の戦いに遅れては面目が立たないと、示し合わせていた時刻を待たず、自軍の軍勢は3,000余騎であったにもかかわらず、鳥羽の作道(朱雀大路の南端である羅城門から鳥羽へまっすぐ南下する道)を進み、東寺の南大門の前と押し寄せた。

 東寺に駐屯していた足利方の軍勢は、比叡山から攻め寄せてくる敵を防ごうと、下鴨神社の周辺の糺の森、北白川のあたりに皆向かっていたので、残っていたのは北朝方の公卿たち、あるいは将軍(足利尊氏、この時点ではまだ将軍位についてはいなかった)の側仕えの老人、子どもなどばかりが集まっていて、敵を防ぐような兵はいなかった。寄せ手である八幡からの軍勢の足軽たちは、作道周囲の低湿地である鳥羽田の南の畦道を伝い、四塚(南区四塚町)や羅城門の跡地のあたりに進んで、多くの矢を射かけたので、作道まで進出していた高師直の率いる500余騎の軍勢は、この矢の勢いに押されて退却する。八幡勢はいよいよ勢いに乗って、携帯用の楯である持立や、数人で担ぐ楯であるひしぎ楯を寄せ集めて、頭の上にかざして攻め込んだので、東寺の未申(南西)の隅にある塀の上の高櫓一つが、あっさりと攻め破られて焼けてしまった。

 寺の中にいた人々はこれに驚いて、口々に騒ぎ立てたけれども、尊氏は、少しも驚かず、東寺の鎮守八幡宮の前で読経を続けていた。尊氏の身辺を警護していたのは問注所の役人をしていた太田時連と美濃の豪族である土岐頼貞の2人の既に頭を丸めた年配の武士2人であったが、頼貞は周囲を見て、「しまったことをしました、愚息の悪源太(頼直)を北の方に向かった軍勢に加えないで、ここに留まらせておけば、この敵を簡単に追い払うことができたと思うと残念です」といっているところに、その悪源太がやってきた。〔悪源太というと、平治の乱で活躍した源義朝の長男(頼朝の兄)悪源太義平が思い浮かぶ。土岐氏も清和源氏の一流であるから、長男は源太と呼ばれるわけである。悪は悪いという意味ではなく、強い、異能のという意味である。〕
 頼貞は頼もしそうに息子を眺めて、「どうした、北の方の戦はまだ始まらないのか」と問う。息子は「いや、私はまだ存じ仕りません。三条河原まで進んでいたのですが、東寺の未申(南西)の方角に煙が見えましたので、取って返して駆けつけてまいりました。こちらの合戦はどんな様子でしょうか」と答える。すると、ここまで退却して来ていた高師直が「ただ今、通リ道の戦闘で負けて退却したのであるが、この陣営に兵が多くないので、入れ代わりの兵を出すことができない。すでに南西の角の出塀(だしべい、射撃や物見のために、城の塀の一部を外へ突き出したもの)を打ち破られ、焼き落とされてしまい、将軍の身辺は大変な危機に陥っている。一騎だけでも、貴公が出陣して、この敵を追い払ってほしい」。「畏まって承り候」といって、悪源太が尊氏の御前から退こうとしたのを「しばらく」と引き留めて、尊氏は、常に帯添(はきぞえ、戦場での用意のため、たちに添えて腰につけるもう一本の太刀)にしていた伝来の名刀を悪源太に与えた。御所づくりの兵庫鎖の太刀と記されたこの刀には相当な来歴があるのだが、ここでは省略しておこう。

 悪源太は、尊氏からこの太刀を頂いたことで、すでに大いに面目を施し、かくなる上は思い残すことはないと勇み進んで、洗皮の鎧(鹿のなめし皮で縅した鎧)に、白星の兜(鉢に銀の鋲を打った兜)の緒をしめ、尊氏から与えられたばかりの金細工で装飾した太刀の上に、3尺8寸の黒塗りの太刀をさらに佩用し、弓矢の準備を整えたが、わざと臑当を身につけなかった。低湿地なので、時々は馬から降りて、泥深い田をあるくためである。キタの顧問から出陣して、羅城門の西へまわり、馬を田の畔のかたわらに放し、3町余り向こうに群がり立っている敵を、矢を手早く弦につがえて次々に射た。1本の矢で2人を倒し、無駄な矢は1本もなかった。南大門の前に攻め寄せていた八幡から寄せてきた兵千余人、一度にばっと引き退く。悪源太、これを先途と、駆け足の勝れた馬に乗って、足もとの悪い鳥羽の田の中ではあったが、まるで平地を行くように馬を懸けたてて、敵を6騎斬って落とし、11騎を負傷させて、反り返った太刀を押しなおし、怒りを全身に表した様子は、建保元年(1213)の和田合戦の際に和田方で剛勇を歌われた和泉親衡と朝夷奈義秀もこれに勝るものではないと思われるものであった。

 悪源太一人に追い散らされて、数万(数千だったはずである)の寄せ手はみなバラバラになってしまったと見えたので、高師直は千四騎を率いて、また作道を下って追いかける。高師泰は700余騎で竹田道を南下して敵を横から攻めようとした。すでに浮足立った軍勢は、どうしてここで踏みとどまって反撃しようなどと思うものであろうか。戦死者が出ても振り返らず、負傷者を助けることもなく、われ先に逃げ散って、もとの八幡に引き返したのであった。

 手筈違いで、八幡の宮方が足利方の本拠を予定された時刻よりも早く攻撃、足利方の主力が北東方面に出陣していたすきをついて怪我の功名になるはずだったが、悪源太と呼ばれる土岐頼直の奮戦で、水泡に帰した。危機になると超人的な英雄が出てきて局面を打開するというのはこの種の合戦によくある型で、『太平記』ではそれが裏切られることが少なくないのだが、ここではうまくいっている。尊氏の運が強かったということであろうか。

『太平記』(178)

10月3日(火)晴れ、気温上昇

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月、京都を奪回した足利方は、都を捨てて比叡山を頼った後醍醐天皇方が勢いを回復する前に攻略しようと、比叡山に東西から攻め寄せたが、後醍醐天皇方が奮戦して攻撃を退けた。延暦寺は奈良の興福寺に加勢を求め、興福寺がこれに応じたことから近畿周辺の武士たちが宮方に味方して、都を包囲し、今日に入る7つの道のうち、6つを支配し、物資の補給を遮断して、都の足利方を苦しめた。

 京都の足利方は疲れ果て、比叡山の勢いがまた強くなってきたという噂が広がったので、諸国の軍勢が100騎、200騎と、東坂本に引きも切らずにはせ参じた。その中でも阿波、淡路から、阿間、志宇知、小笠原の人々が3,000余騎でやってきたので、比叡山にこもっていた公卿の人々は皆元気を取り戻し、「こうなったらいつまで待つ必要があるだろうか、四方から示し合わせて合戦を仕掛けよう」と言いながら、四国からやってきた軍勢を清水寺の南の阿弥陀峯に差し向けて、毎晩篝火を焚かせた。その光が2,3里余りの距離にわたって連なり、天の星が地上に落ちてきらめているように見えた。

 ある夜、東寺に陣を構えていた足利方の軍勢の兵たちが、楼門に上がってこれを見たが、「すごくたくさんの阿弥陀が峯の篝火であることよ」と言っていたので、高師直の弟の師茂(岩波文庫版の脚注によると、『梅松論』には高重茂となっているそうである)がこれを見て、すぐさま
 多くとも四十八にはよも過ぎじ阿弥陀峯にとぼす篝火
(阿弥陀峯の篝火が多くても、阿弥陀の誓願の四十八より多くはあるまい。)
と狂歌を一首詠んで、ふざけてみせたので、一同皆笑い興じたのであった。

 さて、宮方の方では、今一度京都に押し寄せて、天下分け目の合戦を行うことになると、各方面の合図が決められたので、士卒の勇気を奮い立たせようと、忝くも後醍醐天皇御自らが、着用されていた紅の長袴をお脱ぎになり、三寸(約9センチ)ずつに切って、希望する武士たちに渡されたのである。

 翌7月13日(史実は6月30日だそうである)、大将新田義貞は、これまでの何度にもわたる戦闘を経てなお生き残っていた一族43人を引き連れて、まず皇居へと参上した。後醍醐天皇は、ご機嫌麗しく、義貞らをご覧になり、「今日の合戦で、これまで以上に忠義を尽くすべし」と仰せを下されたので、義貞は、士卒の意中を汲みながら、「合戦の勝敗は、時の運によることでございますので、あらかじめ勝負を定めるのは難しいと存じます。今日の戦闘においては、尊氏が籠もっております東寺の中に、矢を1本射かけないうちには、帰ってくるつもりはございません」と申し上げて、天皇の御前から引き下がったのであった。
 後醍醐天皇や側近の公卿たちはこの戦闘での勝利を期待しているのであるが、歴戦の武将である義貞は「合戦の雌雄は、時の運による」(第3分冊、155ページ)と言葉を慎重に選んでいる。そのうえで、全力を尽くして戦うという態度には悲壮感が漂っている。

 宮方の軍勢が、義貞の前後に馬を速めて、坂本と穴太の間の白居という場所を通り過ぎようとしたとき、見物していた女童部(おんなわらんべ)たちが、名和長年が馬を走らせているのを見て、「この頃、天下に結城、伯耆、楠、千種を三木一草といい、天皇のご恩を受けて威張っていた人々であったが、3人は討死して、伯耆守(名和長年)だけが生き残っている」などと囁きあっていたのを、長年は耳にして、「さては、長年が今まで討死しなかったことを、人々がみなふがいないことだと噂しているので、女子どもたちまでもがあのようにいうのであろう。今日の合戦で、味方がもし負けるようなことがあれば、長年一人だけでも引きとどまって、討ち死にして見せよう」と独り言して、これを最後の合戦と、思い定めて戦闘に向かったのであった。
 世の中には言っていいことと、悪いことがあって、少しでも宮方に同情するのであれば、長年一人生き残っているのはけしからんなどとひそひそ話をしてはいけない。それを聞いて、よーし、こうなったら死んでやると思う長年も、短気過ぎる。それにしても本来、独り言であったはずの名和長年の言葉を『太平記』の作者はどうして知り、書き留めたのであろうか(たぶん、作者が長年の心中を前後の状況から推測して、書き加えたのであろう)。この当時の大方の武士たちが、戦況の有利・不利に従って、その帰属を変えるというなかで、新田義貞や名和長年のように後醍醐天皇に終始変わらず忠義を尽くす(重く用いられたので、裏切りようがなくなったという側面もあるとは思うが)のは、例外的なことであるがゆえに、『太平記』の作者から賞賛の目を向けられたかもしれないが、誉められなくても生き延びる方を選ぶ武士の方がはるかに多かったのである。

 さて、後醍醐天皇方の武士たちの今回の攻撃はどのような結果をもたらすか、それはまた次回。
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