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『太平記』(307)

3月23日(月)小雨が降ったりやんだり、肌寒い。

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1348年)2月、清水寺が炎上、6月11日には四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死傷者が出たが、それらは天狗の仕業であると噂された。足利直義は信頼する僧侶の妙吉侍者や側近の上杉重能、畠山直宗らの言葉を信じて、将軍の執事である高師直の謀殺を企てたが失敗し、逆に師直・師泰兄弟をはじめとする大名たちの「御所巻」に会い、出家して錦小路堀川に蟄居の身となった。上杉・畠山は越前に流罪となり、配所の江守庄で討たれた。
 事変に先立って羽黒山伏の雲景は、愛宕山の天狗太郎坊から直義と高兄弟の間で抗争が起きるという予言を受け未来記を記していた。その頃、天に電光が走るなどの怪異があった。

 今回から第28巻に入る(『太平記』は全体で40巻からなるが、古本系の写本では第22巻が欠けている)。全体の3分の2を読み終えたことになる。足利直義と高師直の争いが、尊氏と直義との間の争乱=観応の擾乱に発展していく。
 6月の四条河原の出来事は、第27巻の「田楽の事」では天狗の仕業として描かれているが、「雲景未来記の事」に登場する天狗太郎坊は、天狗の仕業だといううわさを否定している。妙吉侍者(同時代史料で確認できる実在の人物である)は事変後、逐電して行方不明となるが、太郎坊は、天狗の一味であると語っている。作者が物語の前後のつじつまを合わせている部分と、そうでない部分があるのはどういうことであろうか。

 貞和6年2月27日に、改元が行われ、年号は観応となった。前年の8月に高師直・師泰兄弟を首謀者とする一種のクーデター=御所巻が起きて、それまで政治の実権を握っていた三条殿=直義が失脚した。そしてそれまで鎌倉にいた尊氏の嫡子・義詮が上京して天下の政治をとることとなった。〔入れ替わりに、義詮の弟の基氏が、まだこの時点では元服していなかったのだが、鎌倉に向かうことになるが、そのことを『太平記』の作者は書いていない。〕 しかし、義詮の陰で、師直・師泰兄弟が実権を握り、政権を動かしていることは明らかであった。

 さて、その義詮・基氏兄弟の異母兄である足利直冬は、貞和4年に直義によって中国地方の探題として備後に派遣されていたが、貞和5年9月、師直の命を受けた武士たちの攻撃を受けて、備後を脱出、肥後の川尻幸俊のもとに身を寄せていた。九州の武士たちにも、直冬を討ち取るべしという将軍の御教書が届けられていたが、これは将軍の本意ではあるまい、師直が勝手に出した命令であろうと推し量るものが多く、後の禍を避けるために、だれも直冬を攻撃しようとする者はいなかった。
 そんな時に、何を思ったのであろうか、九州の有力な豪族の1人である少弐頼尚が、この直冬を婿にとった〔岩波文庫版の脚注によると、これが史実かどうかは不明だそうである〕。そして、その居館に直冬を住まわせたので、その催促(軍勢の招集)に従う者が、九州以外からも現れるほどの勢いとなった。
 これによって、天下は宮方、将軍方、直冬方に三分され、争乱は止まず、ますますその行方は混沌としてきた。あたかも中国で後漢の滅亡後、魏・呉・蜀の3国が鼎立したのを想起させるような様子である。

 中国地方では、石見の国の武士三角(三隅)兼連が直冬の呼びかけに呼応して国内で勢力を伸ばし、幕府に反抗する姿勢を見せているという情報が入り、反乱が大規模なものになる前に鎮圧しようと、高師泰が6月20日に京都を出発、途中から軍勢に加わるものも多く、2万余騎の大軍を率いて石見の国へと向かった。〔三角兼連は現在の島根県浜田市三隅町を本拠とした武士だそうである。三隅町の正法寺と三角神社に墓所があるという。〕
 7月27日に石見の国を流れる江の川の中流域の川岸に到着し、敵陣を眺めると、青杉、丸屋、鼓崎と3つの城塞が4、5町置きに丘の上に築かれていて、その麓を川が流れ、三鈷のように見える。この城塞は石見の国にその人ありと知られる佐波(さわ)善四郎が立てこもっている場所と見受けられた。〔沢善四郎は、邑智郡佐波郷、現在の島根県邑智郡美郷町の武士である。〕
 城から下りてきた敵兵300余騎が対岸に待ち構えて、ここを渡って来いと招き寄せる。
 寄せ手の2万余騎は、川岸に立ち止まり、どこを渡ればよいのかと川の流れに眼をやるが、水量の多い急流でなかなか思案が浮かばない。

 どこを渡ればよいのかわからない急流を、血気にはやって渡ろうとすると、水に溺れて死ぬものが出るかもしれず、それでは全く意味がない。もう日が暮れようとしている。夜になったら、泳ぎの達者なものをたくさん川の中に入れて、川の深さをしっかり測って、明日川を渡ることにしようと軍議は一決し、静かに馬を休ませていた。
 ところが、毛利師親(後に、元春と改名、安芸の武士)と高橋(高梁)九郎左衛門が300余騎を率いて、前陣にやってきて次のように述べた。源三位頼政が宇治の平等院に立てこもった時に、足利又太郎忠綱が宇治川を渡り、承久の乱の時に柴田兼義(能)が佐々木信綱と先陣争いをして瀬田川の浅瀬を渡った時も、どちらも瀬踏み(川の深さを測ること)をしてから馬を乗り入れたのであろうか。思うに、渡河が容易な場所だからこそ、敵はその地に兵を置いて防ごうとしているのではないか。この川の道案内は我々を置いて他にはいない。御一同、お続きください。
 こう言って2騎が川に馬を乗り入れ、彼らの郎等300余騎がそれに続き、安芸の三次の武士である三善が200余騎を率いてさらに続いて、馬筏を組んで川を渡り、対岸へと駆け上がった。佐波の軍勢はしばらく支えていたが、こらえきれず、敗走して背後の城の中に逃げ込んだ。

 毛利師親(→元春)は、吉川英治の『私本太平記』に登場する毛利時親の曽孫で、祖父・父が南朝方に味方したのに対し、曽祖父の意向を受けて足利方に加わり、後の大名・毛利家の基礎を築いた。この個所では知勇兼備の武将としての片鱗を見せている。彼の曽祖父である時親は、鎌倉幕府創設に貢献した大江広元の曽孫で、楠正成に兵法を教えたという伝承もある。吉川英治は『私本太平記』の中で、この人物をもっと活躍させたかったのだろうが、健康上の理由で十分に描き切れなかったのではないかと私は勝手に想像している。大江→毛利氏は鎌倉幕府にとっていわば元勲と言える存在の家柄であり、だからこそ北条氏に目の敵にされて、宝治合戦でほぼ壊滅状態になったのだが、一族の経光はしぶとく生き延び、その子、時親がさらにしぶとく幕府滅亡後も家系を継承させた。毛利家は隔世遺伝的にすぐれた武将の出る家系ではないかと、これも私の勝手な想像である。
 足利忠綱は藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の武士であり、治承寿永の乱において平家方で戦った猛将である。足利氏には、尊氏・直義に代表される清和源氏流足利氏もあるので、混同しないように気をつける必要がある。佐々木信綱は頼朝挙兵に従った佐々木4兄弟の長兄定綱の四男で、普通宇治川の先陣争いというと思いだされる佐々木四郎高綱の甥にあたる。実は、この二人の四郎の渡河における先陣争いの説話は混同されたところがあるのかもしれないと思われる。佐々木氏の高島、六角、京極などの流れは信綱の子孫であり、ということは『太平記』の主人公の一人といってもよい、佐々木(京極)道譽も信綱の子孫である。
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『太平記』(306)

3月16日(月)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から頂上に雲を被った富士山が見えた。午後になって一時曇り。空模様はまずまずだが、風が冷たい。

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)2月、清水寺が炎上、6月11日には四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業と噂された。足利直義は信頼を寄せる禅僧の妙吉侍者や、近臣の上杉重能、畠山直宗らの讒言を真に受けて、執事である高師直の暗殺を企てたが失敗し、逆に師直・師泰兄弟をはじめとする大名たちの「御所巻」に会い、三条の館を出て出家して錦小路堀川に蟄居することになった。上杉・畠山は越前に流罪となり、配所の江守庄で討たれた。
 事変に先立って羽黒山伏の雲景が愛宕山で不思議な経験をして、未来記を記していた。

 雲景が愛宕山で出会った不思議な山伏=おそらくは、天狗は、王法は平家の時代に滅びて、今は武力でしか天下を制することはできないのに、権力欲だけに駆られて後醍醐院は鎌倉幕府を倒すことを企てられ、幕府の運が尽きていたので企ては成功したが、すでに武士の世の中になっているという流れを理解されなかったために、その後の親政は一時で失敗した。
 皇位継承の徴である三種の神器は、国を守り治めるための宝器であるが、平家滅亡に際して安徳帝が入水された際にそのなかの剣が失われてしまった。これもまた武士が天下を支配するという流れの一つのあらわれであったなどと語る。

 今や「三種の神器、徒(いたず)らに微運の君に随(したが)つて、空しく辺鄙外土(へんぴがいど)に交はり給ふ」(第4分冊、321ページ、三種の神器は神威を発揮することなく南朝の帝に従って、空しく都の外の地=吉野に留まっている)。これは神々がわが国を見捨てられ、帝のご威勢がまったくなくなったことの徴である。「国を受け給ふ主(あるじ)に随ひ給はぬは、国を守らざる験(しるし)なり。」(第4分冊、321ページ、北朝の帝に三種の神器が従っていないのは、国を守らないという証拠である)。それは三種の神器をもたずに即位した後鳥羽院が勝利し、持っていた安徳帝が敗北した例を思いだせばいい。今の世の中は王法が行われなくなっているので、神のご加護もないのであるという。

 雲景はこれは大変な世の中に生きているものだと思いながら、世間では尊氏と直義が高師直のことをめぐって対立するようなことを言っているが、この先はどうなるだろうか、仏神のお計らいはどのようなものかと問う。
 山伏は、自分は仏神ではないから未来のことを知るはずもないが、妙吉侍者のことは、事が差し迫っていることを言っていたので、必ず、目を驚かすほどの不思議な事件が起こるだろうと予想できる。どちらに道理があり非があるかは、先に言ったとおり、今は末世で、道理にはずれた邪な振舞があふれているので、どちらが正しく、どちらが間違っているとはいいがたい。というのは、武家が帝王を軽んじており、その武家の大将たちを執事やその他の家来がないがしろに扱う、末代においては同じことである。こういうことはあり得ないことではない。とはいうものの、今時は大地が天を飲みこむような大変事が起きる、いかにも下克上(下位の者が上位の者を倒して権力を握ること)の時勢であるので、下のほうが勝つだろうという。

 それでは下の者が上の者を倒して、勝手気ままにふるまうことになるのかと雲景が問うと、いや、そういうことにはならない。末世乱悪の時勢なので、下の者が上の者を倒すが、上下の秩序を破壊するしたという罪を逃れがたいので、今度はそのことを問われることになる。これからしばらく公家と武家の立場はにわかに異変があって、大きな逆乱があるだろうという。
 それでは武家の時代が終わって、再び帝が天下を治める時代が来るのかと問うと、山伏は、それはどうもわからない。今日か明日のうちに武運が尽きてしまうという時勢でもないとはいえ、南朝の治世はどうなることやらわからない(どうにもならないだろう)。天がもたらす異変はまさしく近いうちに起きるだろうという。

 雲景がさらに未来のことを聞こうとすると、客来だと周囲があわただしくなり、雲景も辞去したほうがいい雲行きになってきた。それで立ち去ろうとして、自分をここまで連れてきた山伏に「これまで、あのように未来のことを鏡で見るように予言された方はどなたでしょうか」と当た。すると「もう隠しておけないから話すが、あれは人々が噂している愛宕山の太郎坊という天狗である。上座に席を占めている高僧たちは、諸宗の方々が混じっておいでで、奈良時代の玄昉、平安時代に入ってからの真済、寛朝、慈恵、頼豪、仁海、尊雲(護良親王)らの方々である」(恨みをもって憤死した高僧が多い)、その上に玉座を並べてお座りになっていらっしゃるのは淡路の廃帝(奈良時代に恵美押勝に擁立されて帝位についたが、孝謙上皇によって廃位された、後に淳仁天皇と諡された)、後鳥羽院、後醍醐院、それぞれが次第の昇進を遂げられて悪魔王の棟梁におなりになった。やんごとなき賢帝たちである」と説明したので、雲景はそれを聞いただけでも身の毛がよだってしまい、恐る恐るいとまごいをして、寺の門を出たと思ったら、夢からさめたような気分になり、もといた平安京の大内裏の跡の、椋木の巨木の下に立っているのに気づいた。

 雲景はぼんやりとした気分のまま、宿坊にたどりついて〔大内裏の跡は都の北西部にあり、彼の宿舎の今熊野は南東部にあるので、そうとうな距離を歩いたことになる〕、どうも自分は天狗たちの世界に迷いこんだらしい、不思議なことを聞いたので、それを思い出せる限り書き留めておこうと、一部始終をまとめて、その裏に貞和5年閏6月3日と記した。
 天狗が云ったように、神が恵みを垂れたのであろうか、6月11日に四条河原の桟敷が崩れて死傷者が出たが、次の日に激しい大雨が降り、河原の地や穢れを洗い流して、6月14日の山鉾巡幸の道を清めたのは不思議なことであった。末世とはいっても、やはり仏神のご加護・ご利益はあるのだと思わない人はいなかった。〔河原の死体や残骸が流されたのが、幸運であったかどうかは疑問である。〕 『太平記』は南朝びいきの書物と言われるが、今回紹介した箇所を詳しく読んでいけば、そうでもないという印象が強くなるはずである。

 〔前後がまったく混乱した描き方になっているが〕これらに加えて、同じ年の6月3日に石清水八幡宮(京都府八幡市)の宝殿が辰野国から酉の刻(午前8時ごろから午後6時ごろ)まで鳴動しつづけた。留まることなくなり続けたうえに、(神が放つ)鏑矢が都の方角へと飛んでいく音も聞こえたので、これは前例のないことであると社務が注進した。さらに6月10日から太白(金星)、辰星(水星)、歳星(木星)という季節の運行を司る3つの星が1列に並んだので、「間もなく、大きな争乱が起き、天子が位を失い、大臣が災いを受け、子どもが父親を殺し、臣下が主君を殺し、飢饉、疫病、兵乱の禍が襲いかかるだろう。これは重大な予兆である」と、陰陽師と宿曜師たちが密奏した。
 不吉な前兆が続いて、(北朝の)帝はお心を悩まされ、大臣たちは肝を冷やしていたところ、さらに6月5日には、空に電光が走るという怪異があった。人々は、このようなことが続くのは、これから大きな返事が起きる予兆だろうと恐れおののいたのであった。

 こうして第27巻は終わる。大乱≃観応の擾乱の予兆が描かれてきた。前々回に、「三条殿(直義)と執事(師直)との不快は、一両月を過ぐべからず」(第4分冊、314ページ)とあるのを、「直義と師直の不和は、一、二か月も続かないだろう」と解釈したと記憶するが、これは「一、二か月も経たないうちに本格的なものになるだろう」と解釈すべきであった。ここに訂正する。金星、水星、木星が一直線に並ぶ現象が実際に起きたかどうかは、おそらく天文学者による研究があるはずで、どなたかご存知の方がいらっしゃればご教示ください。3月13日のこのブログでは付記するのを忘れましたが、安倍首相は北条歴代のだれに似ていると思うかというアンケートにご協力いただければ幸いです(答えにくければ、好きとか、興味あるとかいう回答でも構いません)。〔コメントとしてお寄せください。〕
北条歴代:①時政、②義時、③泰時、④時頼、⑤時宗、⑥貞時、⑦高時、⑧時行

『太平記』(305)

3月9日(月)晴れ、午後になって雲が多くなる。温暖

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)2月に清水寺が炎上し、6月11日には四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業だと噂された。足利直義は、重用する僧侶の妙吉侍者や、側近の上杉重能・畠山直宗の言葉を信じて、執事である高師直の謀殺を企てたが、逆に高師直・師泰兄弟らの軍に三条の邸を包囲され、出家して錦小路堀川の邸に蟄居の身となった。上杉・畠山は越前に流罪となり、配所の江守庄で討たれた。事変に先立ち、羽黒山の雲景という山伏が愛宕山で不思議な体験をして、未来の出来事について聞いていた。

 どうやら天狗らしい、不思議な山伏は雲景に対して、これまでの出来事の原因を説き聞かせる。頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、武家が天下の政治を動かすようになった。その間、承久の乱で北条義時が三上皇を流罪にするなどのあさましい行いがあったが、北条氏の運が尽きていないので、そのまま政治がつづいた。しかし、高時の時代になって、その運が尽きたので、後醍醐帝の親政が実現したのだというのである。
 では、そうして実現した先朝(後醍醐帝)の政治が長続きしなかったのはなぜかという雲景の問いに対し、山伏は「随分賢王の行ひを学びしかども、真実の仁徳、撫育の叡慮は惣じてなし」(第4分冊、317ページ、「撫育の叡慮」は民を憐れむ帝の心である)と切り捨てる。また後醍醐帝は神仏に帰依されているような言動もされたが、じつはうわべだけでそうしていたので、「実儀(じつぎ)ましまさず」(同上、318ページ、真心がともなっていなかった)となおも厳しい評価を下す。それでも、昔のよい政治の真似をされたので、高時を倒し、しばらくの間政治を動かすことが出来た。しかし、昔の聖天子に比べれば、徳に欠けるところがあったので、高時に劣る足利に天下を奪われることになったのである。

 現在、持明院殿(北朝の帝)は、後醍醐帝とは違って、武力で政治の実権を握っている武家の意向に従って、赤ん坊が乳母を頼むような有様なので、政道の良しあしに関係なく、そのときの運に従って、位を保っておられる。おそらくは望んでそうされているのではあるまいが、今は末法の、邪悪な世界なので、理想や権勢慾を捨ててしまったことにより、かえって運が開けたのであろう。
 ともあれ王法は、平家の世の終りから日本では行われなくなってしまっていて、武家の覇道でなければ立ち行かないのに、そのことを悟り知られることもなく、昔の帝王のような聖徳もないのに、国を動かそうという権勢慾だけに駆られて、公家中心の世に戻そうと、当代が末世であるという時代の機運を悟られることなく、武士に敗北するなどということを想定されていなかったために、後鳥羽院は承久の乱を起こされたのである。しかし、この戦いに敗北し、公家はきわめて厳しい環境の下に置かれることとなった。後鳥羽院の無念を晴らそうと、後醍醐院は高時を滅ぼされたのであるが、公家の世を再興することはできなかった。

 さて本朝の宝というのは三種の神器=鏡・剣・玉の神代から受け継がれてきた宝器であり、国を治めるための守りとなるものでもある。この神器は代々継承していくことが大事なのである。ところが、現在の王者(帝王・帝)はこの明器を伝えることなく即位されているので、本物の王位に就かれているとはいいがたいのである。
 とはいうものの帝位に就くために、三箇の重事(さんこのちょうじ=三つの重要な儀式:即位式、御禊、大嘗会)を執り行われているので、天照大神も守護されるのだろうと頼もしく思われるところもある。この三種の神器は、我が朝の宝として、神代のはじめから人皇の今に至るまで、ずっと伝えてきたので、まことにありがたいことである。わが国は小国ではあるけれども、三国(インド・中国・日本)の中では最も優れた神の国であって、これはまことに不思議なことである。だから、この三種の神器が無くなって(かけてしまった)時代は、月が沈んでまだ陽が登らない残夜のようなものである。だから末代の証として、神が王の治世を見捨てたと悟るべきなのだ。

 この三種の神器は、平家が滅亡した時に、一門に同行されて西海に渡られた安徳天皇が、入水されて海底に沈まれたときに、勾玉と神鏡は取り返したのだけれども、宝剣は沈んだままになった。従って王法は、悪王〔といってはあまりにも可哀そうである〕安徳天皇までで終わってしまったという証拠がこの事実である。
 というのは後鳥羽院は始めて三種の神器なしに元暦年間(実際には寿永2=1183年)に践祚されたのであるが、その後も皇統が継承者によってずっと続いているのだから、(神器なしの践祚は)めでたい先例というべきであるかもしれない。とはいうものの、今、考えてみると、この後鳥羽院が践祚されたのとほぼ同じ時代に武家が幕府を開いている。剣が失われたというのは、朝廷の武威が失われたことを示す兆候であった。このために武家の力が強くなって、国家を支配するようになった。そして上級の変の後武家が我意に任せて天下を支配したとはいっても、天皇もいらっしゃったし、学芸の道も残っていたので、鎌倉幕府が政事を支配する一方で、天皇を尊重し、そのため各国に守護を置いたが、国司の所有する土地とその財政、公の租税、寺社の領地や公家が相伝する荘園には支配の手を伸ばそうとせず、公武が共存してうまくいっていたのだが、時勢や良い機会を得るのは前世の果報によることなので、後醍醐院が武家を滅ぼしたために、それがかえってあだになって、ますます王道が衰え、公家はことごとく廃れてしまったのである。

 天狗と思しき山伏の口を借りて、武家が台頭してからの世の中の変遷についての『太平記』の作者の意見が述べられていると思われる。この『太平記』の語りはじめでは、天子が天の徳に従って仁政を施し、臣下が地の道に従って君主を守れば天下は太平だと書いているが、ここでは、そのような政治の実現はおぼつかず、もはや世も末だという嘆きが前面に出ている。仏教でいう末法の世であるだけでなく、そのなかでわが国を守っているはずの三種の神器(のなかの剣)が源平の争乱で失われてしまったことが、武家の台頭を招き、しかも公武の強調による安定が今度は後醍醐帝の倒幕によって、さらなる混乱を引き起こしてしまったというのである。

 天狗(山伏)の話はなおも続く。話の続きはまた次回に。
 物語中で天狗が述べているのは、一種の事後予言であるが、この時点では観応の擾乱の結末は、作者には見えていなかったこともわかるのである。深く詮索しても仕方がないことであるが、三種の神器のうちの剣は本来、熱田神宮に納められているから、失われてはいないのではないかと思う。とすると、ここで問題になっている三種の神器というのは一体なんであるのかというのは、どうも容易には解けそうもない謎である。
 
 安倍晋三現首相が、北条歴代のだれに似ているのかというアンケートに回答を頂いた方はまだ1人にとどまっているので、これからでもご意見をお寄せください。

『太平記』(304)

3月2日(月)雨が降ったりやんだり

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)2月に清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業と噂された。足利直義は、帰依している僧である妙吉侍者と側近の上杉重能・畠山直宗の進言を受けて、高師直の謀殺を企てたが、逆に高師直・師泰兄弟の軍に三条の館を包囲され、出家して錦小路堀川に蟄居の身となった。上杉・畠山は越前に流罪となり、配所の江守庄で討たれた。事変に先立って、羽黒山伏の雲景が羽黒山と同じく修験道の霊場であった愛宕山に登った際に不思議な体験をしていた。

 妙吉侍者が天狗たちによって世の中を乱すために差し遣わされた天狗であったと聞いて驚いた雲景であったが、この際、天下の大事、未来の安否を聞いておこうと思ったので、さらに詳しいことを問いかけた。それに対する答えは、「三条殿(直義)と執事(高師直)との対立は1,2か月を過ぎることはないだろう〔実際はもっと長く続いた〕。大へんに珍しいことである」というものであった。雲景がさらに、どちらに道理があり、どちらに非があるのかを問うと、「どちらに道理があるとも言い難い。というのは、この人々が世の中を治め始めた当初は、1日でも長く政権を保つことが出来れば、政道はよく行われるようになるだろうと思っていたのであろうが、上の者は暗愚で、下の者はそれに追従して、万事公正ではない。それゆえ神仏のご照覧に背き、人望を失っているだけでなく、自分たちの非を知らず、お互いにそしり合う心がある。獅子身中の虫が、自分の寄生している獅子を食べているようなものである。たまたま仁政と思うことがあるかも知れないが、それは仁政ではなく、人々の嘆きである。

 そもそも仁というのは、天下に恩恵を施して、民衆を深く慈しむことをいうのである。政(まつりごと)とは道である。国のいろいろなことがらについて筋道を立てて治め、人を採用してその人物の深浅を知る。その上で、善悪において公私を混同せず、公平に民を養うことを政というのである。ところが政の徳義が少しも、これまで述べたところと合致せず、内心において欲深く、勝手気ままにふるまい、君臣父子の忠義や孝行の徳も忘れている。況やそのほかの、徳のある政治と民への慈しみなどはどこへいってしまったのかわからない。政治を行うとはいっても、実際には世の中のものを私物化し、他人の財産までも自分の懐に納めようとする気持ちだけで行っているから、すべて偽り飾り立てるだけのことしかしていない。

 そうはいっても神仏が世の中のことをみそなわしていらっしゃるから、何から何まで人間の思うとおりになるというものではない。前世での行為の報いとして受ける宿運の良しあしで、うまい具合に高い地位について、国政を動かしているものもいるが、それは真の徳義によるものではない。そういうわけで1人として世の中を正しく治め、その運を長く保つことのできる者はいないのである。
 昔の聖天子の道を軽んじ、仏神を恐れぬ輩が横行する末法の世の中であるので、これ以外の政治の在り方などあるわけがない。であるからして、悪逆のさまに違いはあるにしても、嫉み非難し合う輩、だれもかれも差別なく滅亡の運命をたどることに間違いない。たとえていえば、山賊と海賊とが同席して、お互いに相手の犯罪の軽重を非難し合うようなものである。

 ということで近年、武家が世の中を支配するようになって、頼朝卿よりこの方高時に至るまですでに11代を経た。武士はもとより東夷といわれるように蛮夷の卑身(野蛮で身分の卑しいもの)に過ぎない存在であり、世の中を支配するということは本来の道に適うことではないはずであるが、末世のこととて仕方のないことである。〔11代とあるが、鎌倉将軍は源氏将軍3代+摂家将軍2代+親王将軍4代の9代、執権は得宗・非得宗を合わせて16人だったという説と17人だったという説がある。おそらく源氏将軍と、北条氏の得宗執権をつないだのではないか思ってやってみると、頼朝、頼家、実朝、義時、泰時、経時、時頼、時宗、貞時、高時と10人にしかならない。源氏将軍時代に執権であった時政を入れているのか、泰時の子で執権にならなかった時氏を入れているのか、貞時と高時のあいだに10年以上執権をつとめた師時(時宗の甥、貞時の従兄弟)を入れているのかのどれかであろう〕。
 「時と事と、ただ一つ世の道理にあらず。」{第4分冊、316ページ、時勢と事態のなりゆきは、ただこの世だけの道理ではない(前世からの因縁がある)。} 家臣が主君を殺し、子が父を殺し、力をもって争うような時代がやってきたので、下克上の一端(下賤の者が上位の権勢を侵すことの一つの表れ)として、摂政関白・大臣・天皇も権力をふるうことができず、身分が低いはずの武士が天下に勢いをふるうに至った。こうして天下は、武家のものとなった。これは誰の仕業というわけでもない。時勢と機運とに巡り合って、すべての業因の報いの時がやってきたためである。
 承久の乱後、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を島流しにして、悪を天下におこなった北条義時を世人はあさましいと言ったけれども、前世の果報があるうちは、その子孫はずっと繁栄をつづけた。これは(北条代々の執権が)自分の分際に応じた政道を行ない〔泰時・時頼の撫民政治について言っているものと思われる〕、為政者に厳しく民衆に徳を施したので、国は豊かになり民衆は苦しまなかった。
 しかしながら、前世での善悪の業の報いの期限が尽きるときがやってきて、天の思し召しに背き、仏神も鎌倉幕府を見捨てるような時が到来して、先朝(後醍醐帝)が高時を倒すことができた。これは必ずしも後醍醐院の聖徳のためというわけではなく、鎌倉幕府の方の自滅の時が来ていたということなのである。〔ここで、後醍醐院という呼び方をしていることも注意しておいてよい。〕

 不思議な山伏(おそらくは天狗)の言葉はなおも続くが、鎌倉幕府の滅亡までのところでいったん打ち切って、残りは次回に回すことにしよう。武士の政権の成り立ち、性格をめぐって、『太平記』の作者の見解が述べられているのが興味深い。『太平記』が冒頭の部分で政治の在り方についての朱子学的な名分論に基づく作者の見解を述べ、北条高時の政治がそこから逸脱したことを非難していること、また第5巻で北条時政が前世で行った善行(66部の法華経を書写して全国の霊地に納めた)ことにより、子孫に繁栄がもたらされる→しかし、それには限りがある)という伝説が語られていることを思い出していただきたい。

 足利幕府の政治について『太平記』はぼろくそに言っているが、『梅松論』からは別の意見が読み取れるように思われるし、どちらかというと、後者の方が実態に近かったのではないかと思う。通説では直義と師直の対立は、伝統的な価値と秩序を重んじる直義と、実力を重んじ新しい方向を目指そうとする師直の対立であったとされるが、必ずしもそのように簡単に割り切れるものではなさそうである。
 天狗は本来魔の世界の住人であって、邪悪な存在のはずであるが、『太平記』の作者は物語の背景を説明する≂作者自身の考えを述べるために、その天狗を使っているところがある。つまり、それほど、事態の進展が奇々怪々なものに思われていたということなのであろう。
 このブログを始めて以来、皆様から頂いた拍手の数が41,000を越えました。あつく御礼申し上げるとともに、今後ともよろしくご愛読をお願いします。『太平記』300回と、『執権』10回を記念しまして、次のアンケートを実施します。コメントを頂ければ幸いです。
 安倍晋三首相は、北条歴代の次のどの人物によく似ていると思いますか。1人を選んでください。
 (1)北条時政、(2)北条義時、(3)北条泰時、(4)北条時頼、(5)北条時宗、(6)北条貞時、(7)北条高時、(8)北条時行

『太平記』(303)

2月24日(月)晴れ

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)2月に清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それらは天狗の仕業と噂された。足利直義は、妙吉侍者や上杉重能、畠山直宗らの讒言により高師直の謀殺を企てたが失敗、逆に高師直・師泰兄弟の軍勢に三条の邸を包囲され、出家して錦小路邸に蟄居の身となった。上杉・畠山は越前に流罪となり、配所の江守庄で討たれた。

 足利幕府の内紛が始まったちょうどそのころに、不思議な出来事が起きた。出羽国の羽黒山は修験道の道場として知られているが、そこに雲景という名の山伏がいた。この山伏が世にも珍しい体験をして、その一部始終を(嘘偽りがないという証拠に)熊野三山の発行する護符である牛王宝印(ごおうほういん)の裏に神仏への誓言を添えて、書き残した未来記が伝えられている。

 この雲景という山伏は、諸国行脚の志を抱いて、春のころから思い立って都に上り、新熊野(いまくまの:京都市東山区今熊野にある新熊野神社)に移り住んで、京都の名所旧跡を巡礼していた。そして、貞和5年6月26日に、天龍寺を見物しようと都の西の嵯峨野の辺りに赴いた。昔太政官の庁があった跡地の辺りに差し掛かると、60歳ほどの年頃に見える山伏が1人やって来るのに出会った。この山伏が雲景に向かって、貴殿はどこへ出かけようとされているのかとたずねてきたので、当今の公家武家の崇敬を集めて建立された大伽藍なので、一見したいと思い、天龍寺に出かけるところですと答えた。すると、その山伏は天龍寺も確かに重要な寺院ではあるが、夢窓疎石の住持する寺で、たいして見物に値するものがあるわけではない、我々が住む山こそ、日本に二つとない霊地であるので、修行の思い出になるように、これからお見せしようと、天龍寺からさらに山の奥の方に入って行って、(これまた修験道の霊地として知られる)愛宕山と呼ばれる高峰にたどりついた。

 来てみると、実際、玉を敷き、黄金をちりばめた壮麗な仏閣が建っている〔神仏習合の時代で、愛宕にあったのは白雲寺という寺であったから、「仏閣」とあっても不思議ではない。ただ、ここで描写されている建物は過度に豪華であって、すでにここから雲景は天狗たちの世界に入っているように思われる〕。そのただならぬ様子に、雲景は身の毛がよだつほどの感動を覚え、このままここで修行したいと思っていると、案内してきた山伏が、ここまでやって来られたのであるから、思い出のために秘密の場所にも案内しましょうと言って、雲景を本堂のうしろの辺りの、一山の長の僧坊と思われる場所につれていった。そこもまた素晴らしい場所であった。中の様子をうかがうと、大勢の人々が座っていて、貴族の正装として衣冠を正しく着用して、金の笏をもっている人もいたし、高位の僧らしく黄を帯びた薄紅色の衣を着た人もいた。

 運景はこれは大変なところにやってきたと恐る恐る広庇(ひろびさし=堂舎の庇の間の外側に一段低く設けた板張りの吹放し部分)に小さくなってかしこまっていたが、別の席に山伏が8人いて、そのうちの1人が彼を案内してきた山伏であった。8人のうちの1人が雲景を見て、どこからおいでになった旅の僧であるのかとたずねたので、雲景はかくかくしかじかと答えた。質問した山伏は「そういうことであれば、最近、京都で何が起きているかを見聞きされたことであろう。どんなことが起きたのであろうか。また京童部(きょうわらんべ=京の口さがない民衆)はどんな噂話をしているのか」とさらに質問を重ねてきた。
 そこで雲景は、「特にたいしたことはございません。ただ事件としては、四条河原の桟敷が倒れて、多数の死者が出たことが、前例のないことであり、天狗の仕業ではないかと噂されております。そのほか、何事もありませんが、ただし、将軍(尊氏)と三条殿(直義)とが執事(高師直)のために不仲になっているとのことです。これは天下の大事に至るかもしれないと下々では噂しておりますが、我々の雲の上の出来事なので、詳しいことは存じません」と答えた。〔ありませんと言っておいて、実は…と後から事件について述べるのは奇妙だが、現在のわれわれも同じような言い方をしていることがあるかも知れない〕。

 すると、その山伏は「そういう噂が取りざたされているのか。四条河原の桟敷が倒壊したのは、天狗の力の及ぶ所ではない。というその理由は、現在の関白殿(二条良基)はかたじけなくも天児屋根命のご子孫であり、天子の政治を補佐する貴人である。また梶井の宮も(尊胤法親王)も今上(光明帝)と太子(皇太子興仁親王、後の崇光天皇)の高貴な親族であり、天台座主という高い地位についていらっしゃる。将軍というのは天下を守る征夷大将軍である。(それぞれ貴い身分の方々で、神々の守護を受けていらっしゃる。)
 ところが、四条河原に組み立てられた桟敷というのは、橋を建設するために、仏門修行の世捨て人(祇園社の執行であった行恵、必ずしも世捨て人というわけではない)が企てた興行の見物のためのものである。見物人たちは京中の商人、雑役の力仕事にたずさわる人々、召使たち、よくて普通の侍に過ぎない。
 しかるに、日本の国を治める貴人たちがこのような卑しい身分の人々と席を同じくして見物人たちの列に加わっていらっしゃるので、(源氏の守護神である)八幡大菩薩、(藤原氏の氏神である)春日大明神、(比叡山延暦寺の守護神である)山王権現がお嘆きになり、それにこの地を支えている堅牢地神(大地を司る仏教の神)が驚いて、その勢いで桟敷が倒壊したのである。
 実はこの僧(つまり質問をしている僧)も、その当時京に出かけていたのであるが、村雲の僧(妙吉)に伝えるべきことがあって彼の元を訪問したところ、彼が食事などでたいそうもてなしてくれたので、時間が経ってしまい、見物できなかったのであると述べた。そこで雲景は、いま、村雲の僧とおっしゃいましたが、この頃、修行で得た徳、政治への発言力で、非常に評判の高い、この方はいったいどのような方なのでしょうか。京童部は、実際は天狗ではないかなどと噂しておりますが、真偽のほどはいかがでしょうかとたずねた。
 すると老僧(山伏)は、それはその通りである、あの妙吉という僧は、才気のある人物なので、天狗の中から選び出して、乱世を出現させるために派遣したのである。だから世の中が乱れてくれれば、もとの住処に帰ることになる。そういう理由があったので、住むところは他にもあったのに、村雲という場所をわざわざ選んで住まわせたのだ。雲は天狗の乗り物なので、村雲に住むのである。しかし、このようなことがらは秘密なので、決して他人に知らせてはならない。もし、この愛宕山までやってくれば、詳しい話をしてやることにしようと語った。

 貴賤が区別なく田楽を見物するということを神々が嘆息されるというのは、いかにも保守的な発想であって、『太平記』の作者の物の見方がはしなくも表れているとみるべきであろう。ここでやり玉に挙げられている二条良基が、最高級の貴族でありながら、その一方で庶民的な連歌に親しんでいたことについて作者は批判的、あるいは否定的であったのかもしれない。貴族の伝統的な文化と、庶民の新しい文化とが結びついて、さらに新しい文化が生み出されていくのであり、例えば佐々木道誉のような当時のバサラ大名たちは、そういう新しい文化の創造者であったとも言いうるのである。どうやら、天狗のように思われる山伏と、雲景との対話はさらに続くが、それはまた次回に。
 
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