FC2ブログ

『太平記』(302)

2月17日(月)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 貞和5年(正平4年、西暦1349年)、2月に清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業と噂された。足利直義は、妙吉侍者や上杉重能、畠山直宗の讒言により、高師直の謀殺を企てたが失敗、逆に師直・師泰兄弟の軍に三条坊門高倉の邸を包囲され、直義は兄・尊氏の勧めに従って近衛東洞院の尊氏のもとに移るが、高兄弟は包囲を続け(これを「御所巻」という、足利幕府独特の風習の始まりである)、ついに出家して錦小路邸に蟄居の身となった。

 さて、高兄弟のもう一つの要求は、反師直の中心人物であった上杉重能、畠山直宗の処分である。高兄弟は彼らを斬って六条河原でその首をさらすように言ったが、所領を没収し、宿所を破却したうえで、越前に配流することになった。上杉は尊氏・直義兄弟の母親の実家、畠山は足利一族である。両者は、まさか命まで奪われることはないだろうと当てにしていたのであろうか、しばしの別れを惜しんで自分の妻子を同行させ、自分が日ごろに趣味としていた琵琶を馬の鞍に結び付けて、旅の途中の宿舎で弾じていた。むかし漢の美女王昭君が、匈奴の王に嫁ぐ旅の途中で琵琶を弾いたという故事を思い出させる行為であった。〔どちらが、琵琶を嗜んでいたのか定かではない。しかし、旅の途中で琵琶を弾いたからと言って、日本の中世の武士と中国の古代の美女とを結びつけるのは乱暴な連想である。〕

 2人を中心とする一行は琵琶湖の西岸を北上し、今津、敦賀を通って、越前の江守の庄(福井市江守中町)に到着し、越前の守護代であった八木光勝がその身柄を引き取って、あきれるほどにひどいあばら家に彼らを置き、警固の武士をつけて見張ったのである。都での暮らしから変わり果てた有様に、涕の乾く日はなかった。
 師直・師泰は悪行を続けると、後の報いが恐いなどと考えることもなく、心のままに悪行を重ねてきたが、密かに討手を差し向けて、守護代である八木光勝と示し合わせ、上杉・畠山を討ち果たせと指示したのである。〔越前の守護は、足利一族の斯波高経のはずだが、彼は直義の三条の館に向かった武士たちのあいだにも、師直に同調した武士たちの中にもその名を見つけることができない。その後の観応の擾乱の中で高経は直義方で行動することを考えると、息をひそめて、情勢の変化を待ち受けていたものとも考えられる。〕

 八木光勝はもともと上杉重能と友人であったが、師直に説得されてにわかに心変わりをしたのである。そして8月24日の夜中に、江守の庄にいた上杉を訪ね、高一族のものが討手として追いかけてきたので、夜のうちに謁中・越後の方に落ち延びてしばらく姿を隠していれば、そのうちまた情勢も変わるだろうと夜逃げを勧めた。まさか、これが謀略とは知らずに信じた上杉・畠山の一行50人余は、その夜のうちに加賀の方面へと向かって旅立とうとしたのである。

 実のところ八木は、この近辺の土豪たちに、上杉、畠山の人々が留人として落ち延びようとしているのを見かけたら、ぜひに及ばず討ち取れと連絡しておいたのである。それで、彼らが落ち延びようとしていると聞いて、足羽(福井市足羽)、藤島(福井市藤島町)、江守(福井市江守中町)、浅生水(あそうず、福井市浅水町)、八代の庄(福井市足羽山の西)、安居(あご、福井市金谷町の辺り)、波羅蜜(はらみ、福井市原目町)の辺りに住んでいた無頼の徒たちが、太鼓を鳴らし、鐘をついて、「落人あり、討ち留めよ」と騒ぎ立てた。足羽川の渡しまで進んだが、橋を落されて進むことができず、戻ろうとすると、麻生津の橋が外されていて、進退窮まってしまった。
 いまはこれまでと、畠山の主従は自害し、腹を切る時に畠山は上杉に向かい、貴殿の短刀は少し長くて腹を切るのに不都合だから自分のを使えと、自分が腹を切った刀を投げたなり、息絶えた。
 ところが上杉は、奥方に未練が残り、ぐずぐずしているところを、八木光勝の部下の中間(武士と小者の中間の者)に生け捕りにされて、刺殺されてしまった。武士たるもの、死に際は綺麗にしなければならないのに、何たる不覚であろうかと人々の非難を受けた。
 奥方は、どこかでこっそりと身を投げて死のうと思われていたのを、そばに付き添っていた念仏聖がそれを思いとどまらせて、往生院(坂井市丸岡町にある時衆道場の往生院称念寺)で出家させて、一族の菩提と弔うことになった。

 このように政道の趣がことごとく、将軍の執事である高師直とその一族の手に落ちて、このままでは済まないだろうと思われたのだが、その年のうちは何事もなく暮れたのである。

 「何事もなく暮れた」と『太平記』の作者は記しているが、もちろん、このままでは済まない。九州に向かった足利直冬が勢力を築くことになるし、直義もやがて京都を脱出して反撃に転じることになる。次回はそこまで進まずに、このころ起きた「不思議」の事件について語ることになる。
 往生院称念寺という寺はすでに登場した新田義貞の墓所のある寺である。「時衆道場」と書いたが、現在も時宗の寺で、これまた以前に書いたことだが、明智光秀がこの寺の門前に住んでいたことがあるという。
スポンサーサイト



『太平記』(301)

2月10日(月)朝のうちは雲が多かったが、次第に晴れ間が広がる。

 貞和5年(南朝正平3年、西暦1349年)、京都では南朝討伐に功績のあった高師直・師泰兄弟が奢りを極めていたが、それを妬む上杉重能と畠山直宗は高一族の排除を企てた。また、その頃、夢窓疎石の兄弟弟子で、足利直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟から軽んじられたのを憤り、兄弟を秦の趙高になぞらえて取り除くべき存在であると直義に進言した。直義はまず、兄・尊氏の庶子で自分の養子となっていた直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。
 この年2月に清水寺が炎上し、6月11日には四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業と噂された。足利直義は、妙吉侍者や上杉・畠山の讒言により、高師直の謀殺を企てたが、逆に高兄弟の軍に包囲され、やむなく三条坊門高倉の邸を出て、兄・尊氏の近衛・東洞院の館に移ったが、師直兄弟は包囲を解かず、ついに上杉・畠山の遠流と直義の政務からの引退を約束させた。

 観応の擾乱と呼ばれる室町幕府の内紛の始まりである。この内紛は南北両朝の抗争と絡み合って、ますます複雑な様相を呈していき、その過程でこれまで協力し合っていた尊氏・直義の兄弟の間に亀裂が入る。この兄弟だけでなく、多くの家系で骨肉の争いが繰り広げられる。
 ということで亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書)をあらためて読みなおしてみたのだが、「諸大名が、大軍で将軍邸を包囲して政治的な要求を行う。これを『御所巻』という。鎌倉・江戸幕府には見られない室町幕府独自の風習である。この御所巻を初めて敢行した武将が、高師直なのである。」(亀田、61ページ)という個所を読んでいたのに、「御所巻」という言葉をすっかり忘れていたことに気づいた。「御所巻」については、呉座勇一『応仁の乱』(中公新書)にもその例が示されていたと記憶する。本を読んだままにしておくと、内容を忘れたり、誤った理解が定着してしまったりするので、繰り返し読むことが重要であると自戒を新たにしたしだいである。〔そういえば、「室町幕府」という言葉を何気なく使っているが、まだ将軍の館が室町にはおかれていないので、この言い方もおかしいと言えばおかしいのである。〕

 師直・師泰兄弟は、直義が政務から退いただけでは満足せずに、彼の命を狙おうとしているという噂がしきりだったので、もはや自分には野心はなく、世俗のことを捨てたという気持ちを広く知らせようと、まだ41歳という年齢であったのに、頭を丸めて出家した。そしてこうなった以上は、広壮な屋敷に住むべきではないと、長年住み慣れていた三条坊門高倉の邸を出て、錦小路堀川のみすぼらしいあばら家に居を移した。この三条坊門高倉の邸というのは、村上源氏の中院家(三条坊門家)の邸を直義が接収して住んでいたのである。このような境遇の変化の結果、直義を訪問する人物はいなくなってしまった。
 前記『観応の擾乱』によると、直義が三条坊門高倉の邸を出たことは確かであるが、引っ越し先の錦小路堀川というのは足利一族の細川顕氏の邸であったから、あばら家というわけではない。三条の館には、この年の10月に鎌倉から尊氏の嫡子・義詮が上京してきて住むことになる(だけでなく、直義の職務を引き継ぐことになる)。このことをなぜか『太平記』は記していない。また、義詮と入れ替わりに、彼の同母弟である基氏(この時点では元服していないから、基氏とは名乗っていない)が鎌倉に赴くことになる。関東公方の初代である。田辺久子『関東公方足利氏四代』によると、基氏は直義の猶子であった(直冬が養子であったというのと微妙に違う点に田辺さんは注目している)。義詮は38歳、基氏は28歳で没し、2人とも短命であったが、武家政権の確立のためにそれぞれかなりの仕事をしているようである。『太平記』の中では影の薄い2人であるが、実像はもっと強力で巨大なものであったと考えたほうがよい。

 訪れるものがほとんどない直義のもとを、ときどき訪ねてきたのは、天台宗の学僧で独清軒と号していた玄恵法印だけであった。すでに、足利直冬を一時養っていた人物として物語に登場した人物である。後に、今川了俊は彼が直義を助けて、『建武式目』を起草し、また『太平記』の編纂にも関わったと記している。玄恵は、師直の承諾を得て、錦小路堀川に通って日本や中国の歴史のことなどを話して直義の無聊を慰めていたのであるが、老齢であり、病気がちのため、訪問が困難になって来たと伝えてきた。そこで、直義は薬を一包み送り、それに
 長らへて問へとぞ思ふ君ならで今はともなふ人もなき世に
(第4分冊、302ページ、長生きして私を訪ねてください。今はあなた以外に親しく過ごす人もいない。)
という歌を添えた。
 法印はこの歌を見て、泣く泣く、次のような詩を書いて、心持を伝えた。
 君が今日の恩を感じて
 我が九原の魂を招く
 病を扶けて床下(しょうか)に座し
 書を披(ひら)いて涕痕(ていこん)を拭(のご)ふ
(第4分冊、302ページ、今日までのご恩に感謝し、墓場へ赴くわが魂を呼び返す。病床から起きて座し、君の文を見て涙を拭う。)
 その後、間もなく(翌観応元年、西暦1350年の2月)、法印が没したので、出家して恵源と名乗っていた直義は、この詩の奥に紙を継いで、金剛般若経を書写して送られたのはあわれなことであった。

 法印というのは、法印大和尚位の略で、坊さんの位としてはきわめて高い地位である。そういえば『徒然草』に「強盗の法印」とあだ名された坊さんが登場するが、これは何度も強盗に遭ったためについたあだ名だという。地位が高い分、収入も多くて、強盗につけ狙われたのであろう。法位としての法印に相当する僧官は大僧正、僧正、権僧正であり、『徒然草』には堀池の僧正という坊さんの話もあった。地位が高いからと言って、知恵も徳も備えた名僧かどうかはわからないのは、他の世界でも当てはまることかもしれないが、この玄恵法師は人々の尊敬を集めるだけの智慧も徳も備えていたし、だからこそ、『太平記』の作者も敬意をもってこのやりとりを記したのであろう。

 直義と師直の闘争は、まず初戦で師直の勝利に終わったが、これで終わるわけではないし、直義はおそらく、『太平記』の作者が書いたようなわび住まいをしていたわけではなく、復讐のためにいろいろと策を練っていたと思う方が自然である。亀田さんによると、観応元年に玄恵が死去した後、直義の勧進によって『玄恵追悼詩歌』が編纂されており、さらにその後、直義は京都を脱出して反撃に転じることになる。だが、物語はそこへ行く前に、師直によって取り除くように要求され、遠流と決まった上杉重能、畠山直宗の運命を語ることになる。それはまた次回に。

『太平記』(300)

2月3日(月/節分)晴れ

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)、京では南朝討伐に功があった足利家の執事である高師直・師泰兄弟が奢りを極めていたが、それを妬む上杉重能と畠山直宗は、高一族の排除を企てた。また、その頃夢窓疎石の兄弟弟子で、足利直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟に軽んじられたのを憤り、直義に師直を秦の滅亡の原因となった趙高になぞらえて、高兄弟を討つように進言した。そこで直義はまず、尊氏の庶子で自分の養子となっていた足利直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。
 2月に清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それらは天狗の仕業と噂された。足利直義は、妙吉侍者や上杉・畠山の讒言により、高師直の謀殺を企てたが失敗し、逆に高兄弟の軍に自分の居館を包囲され、兄の尊氏のもとに逃げ込んだ。

 将軍尊氏の近衛東洞院の館へ直義は逃げ込んだが、その館を師直たちは包囲して、盛んに鬨の声を上げる。尊氏も直義も、今はこれまでと覚悟を決めて、武士たちにしばらく防ぎ矢を射させておいて腹を切ろうと決心した。そして鎧を脱いで小具足だけの姿になっていたが、師直と師泰はそうはいっても、ただちに攻め入ろうとするそぶりだけで、攻め込んではこようとはしないままに時間がたっていった。
 そこで尊氏は側近の武士である須賀清秀を師直のもとに遣わして、次のように伝えた。「我が先祖である源義家以来、汝の先祖は足利家代々の家臣として忠義をつくし、一日たりとも主従の礼儀を違えたことはなかった。ところが今の今になって、一時の怒りに駆られて、先祖代々の足利家の恩を忘れ、詳しい事情を穏やかに述べることもせずに、みだりに武装して我が居館の四方を囲んでいる。このように尊氏を軽んじることはできても、天の道に背いたことで自分の運命を逃れることはできないだろう。もし心中に怒りを抱いているのであれば、私に対してその所存を申し述べることに何の支障があるのだろうか。とはいうものの、佞臣の讒言にことよせて、国家を奪おうとする企てをもっているのならば、議論の余地はない。わたしはここで腹を切って、黄泉(あの世)の下で汝の運命の行方を見守ることにしよう」と、言葉は少ないが道理のつくされた発言である。
 これに対して師直は、「いやいや、これほど厳しいお言葉を承ろうとは思いませんでした。直義さまが侫者の讒言を聞き入れられて、師直の一派を滅ぼそうという語計画を立てられたので、我々は無実であるという申し開きをし、また讒言の張本人である上杉と畠山の2人を引き出して、(刑場である)六条河原に切り懸けて、後の人の戒めとしようと思って、ここに参ったしだいです」と、旗を下げて、楯を前面に進ませ(戦闘準備に入る態勢をとり)、将軍尊氏の決定をいまや遅しと促したのである。

 尊氏はいよいよ腹を立てて、「そもそも先祖から代々の譜代の家臣に取り囲まれて、事件の張本人を出せと言われ、出すというようなことがあっていいのだろうか。そんなことをすれば天下の笑いものになってしまう。もはやこれまでだ。腹を切ろう」と勢い込んだのであるが、直義の方はなにを考えたのであろうか、「ここはまず師直の言い分を通させましょう」と、尊氏を固くとめたのである。何度か問答を重ねた末に、とうとう師直の思い通りに話が決まり、「これからは、直義を政道に関与させることはない。上杉、畠山は遠流の刑とする」と師直の言い分をほぼ認める回答が出たので、師直は喜んで、自分の宿所へ帰っていった。

 もう1人、直義に師直の讒言を吹き込んだ人物とされた妙吉侍者についても、翌日人を派遣して、捕縛しようとしたのであるが、すでに行方をくらませていたので、仕方なく、その寺の堂舎を壊し、残骸をあちこちに散らかした。妙吉侍者が築いたかのように思われた富と地位は、たちまちに浮雲のように儚い夢物語となって消えてしまった。〔世の無常を感じて出家するのではなくて、出家してから世の転変無常に出会うのでは、順序がおかしい。〕 

 さて、長門探題として中国地方に派遣され、備後の鞆(広島県福山市)に本拠を置いていた足利直冬であったが、彼もこの中央における政治の動きの影響を受けた。師直は、近国の地頭、御家人たちに触れ回って、直冬を取り除くべきであると指示したので、杉坂又次郎という武士が200余騎を率いて、彼の居所に押しかけた。急なことで、然るべき防備もしていなかったため、直冬の命は危うくなったが、磯辺左近将監という武士とその郎従3人が、それぞれ強い弓にかけてはならぶもののない名手で、略式の鎧も着ずに、できるだけ弓を引きやすい態勢をとり、矢を箙から砂浜に散らして、砂の上に突き刺し(てはすぐに抜き取って弓につがえ)、押し寄せてくる敵の物の具のすきまになっているところを過たず射かけ、矢を次々に手早く弦につがえて打ち出したので、寄せ手のうち16騎が落馬し、18騎が負傷した。直冬を逃がすべく、波打ち際に立って、頑張っていた。

 こうして直冬は、磯辺の奮戦のおかげで逃げる時間を稼ぐことができ、肥後の豪族である川尻幸俊の舟に乗って、肥後へと落ちて行こうとした。直冬に心を寄せる人びとははるかに沖までついていった。そして一行は周防の鳴門(山口県柳井市大畠と周防大島=屋代島)の間の海峡を目指して西へと向かっていった。
 建武元年に足利尊氏・直義兄弟が京都の攻防戦に敗北して九州に落ち延びたものの、すぐに勢力を回復して京都に戻った例はすぐ最近のことだったので、気を落すことはないと人々は強いて強気を装ってはいたが、落ち行く旅の悲しさを覆い隠すことはできないようすであった。
 9月13日の夜は、8月15日の夜を「中秋の名月」というのに対し、「後の月」と言って、やはり月見の行事をする習わしであった。その「後の月」の明るさが旅心を掻き立てたので、直冬は
 梓弓われこそあらめ引き連れて人にさへ憂き月を見せつる
(第4分冊、300‐301ページ、私はともかくとして、引き連れた他の者にまで、異郷の辛い月を見せることだ。)
と歌を詠んだので、同行した人々は涙で袖を濡らしたのであった。

 この記事もとうとう300回を数えるに至った。次回、高師直の圧迫を避けるため、直義は出家して、わび住まいをすることになる。また上杉、畠山は越前に遠流される。が、事態はそれで済みそうもない。足利直義と高師直の確執はやがて、直義と兄尊氏との対立になり、南朝の動き、さらには地方勢力の動きとも絡み合って、観応の擾乱が展開されることになる。混乱が混乱を生むこの擾乱は、結局室町幕府の権力を一元化するのに役立っていくのだが、そこまでどれだけの曲折があるかは予測しがたいものがある。
 高氏は天武天皇の王子で壬申の乱で活躍した高市親王の末裔であるが、平安時代以来、源氏、後にはその中の足利氏に仕えて、高氏の惣領が代々、足利氏の家政全般を取り仕切るようになっていた。それで尊氏が幕府を開き将軍となった問、師直は同時に幕府の執事、将軍家の執事となったと考えられている。とにかく足利氏と高氏の主従関係は極めて長いのであって、今回の個所はそのことを踏まえなければ理解できないだろう。備後の鞆の直冬を襲った杉坂又次郎は、杉原とする異本もある由で、杉原とすると、尾道市木ノ庄町に住んだ武士だと岩波文庫版の脚注に記されている。
 最後に、直冬が歌を詠むところで、「武衛」と兵衛府の唐名が使われているが、この語で思い出すのは『吾妻鏡』で頼朝のことをはじめのうち、「武衛」と記していることである。頼朝は平治の乱の際の除目で右兵衛権佐に任じられており、この職は乱後にすぐに解かれるが、坂東武士たちから和風に「佐殿」と呼ばれたことでも分かるように、いったんこの官職に就いたことが彼の社会的評価に後々に大きな影響をもつのである。それはそれとして、直冬も自分に随行する人々を思い遣るところを見せるなど、将としてそれなりの資質を持った人物であることが見て取れる。 

『太平記』(299)

1月27日(月)曇り

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)、京都では南朝の宮廷を吉野から賀名生へと追い払った高師直・師泰兄弟がおごりをきわめていたが、それを妬む上杉重能(足利尊氏・直義兄弟の母方の従兄弟)と畠山直宗(足利一族)は、高一族の排除を企てた。またその頃、夢窓疎石の兄弟弟子で、足利が直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟に軽んじられたのを憤り、直義に、師直を秦の滅亡をもたらした趙高になぞらえて、兄弟を討つように進言した。直義はまず、尊氏の庶子で自分の養子となっていた足利直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。
 2月に清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業と噂された。直義は、妙吉侍者や上杉・畠山の讒言により、師直の謀殺を企てたが、千葉一族の粟飯原清胤が師直に内通して計画を知らせたため、未遂に終わった。

 師直が師泰を呼び寄せて、多くの武士が上洛してきたことで、都の中では、今にも合戦が始まるだろうという騒ぎになり、8月12日の宵から、数万騎の兵士たちが、南北に走り回っていた。
 直義の三条殿に集まったのは、足利一族の石塔頼房、この騒ぎの張本人の一人である上杉重能、彼の甥で犬懸上杉氏の朝房、これも騒ぎの張本人の一人である畠山直宗、足利一族の石橋和義、高一族の南宗継、これも高一族でこれまでも名前が出てきた大高一成、島津四郎左衛門(光久)、相模の武士曾我師助、同じく饗庭尊宣、同じく梶原景広、同じく須賀清秀、評定衆の斎藤利泰をはじめとして、直義に日ごろから忠誠を誓っていた武士たちが3千余騎、参集した。
 この中で気になるのは島津四郎左衛門で、校注者の兵藤裕己さんは触れていないが、第10巻に出て来る北条高時が目をかけて、烏帽子子にした島津四郎と同一人物かも知れない(第10巻の島津四郎について、曽我時久とする異本もあるようである。なお島津四郎は第15巻の多々良浜合戦にも登場している。) 梶原景広は、梶原景時の子孫らしい。梶原氏は坂東八平氏の一流で、景時は源頼朝の寵臣であったが、頼朝の死後、他の御家人たちの嫉みを買って、正治元年(1199)の梶原景時の変で一族はほぼ全滅状態になるが、景時の次男、三男の子孫が各地でその血統を伝えたという。斎藤利泰は「左衛門大夫」と記されていて、同じ斎藤でもこの前に出てきた「五郎兵衛入道」とは別人のようであるが、ともに利仁流の藤原氏であろう。

 一方、師直の方に味方としてやってきたのは、足利一族の仁木頼章、その弟の義長、同じく弟の頼勝、これも足利一族の細川清氏、清氏の父・和氏の弟である頼春(楠正行との戦いではいいところがなかったが、その子・頼之がこの後大活躍して、『太平記』終盤の中心人物となる)、足利一族の吉良満義、これまで何度も登場してきた山名時氏、足利一族の今川範国(遠江・駿河守護で、後に大活躍する貞世=了俊の父親である。駿河の今川氏は、範国の長男である範氏の子孫である)、同じく今川頼貞(範国の甥)、千葉氏の総領である千葉貞胤、伊予宇都宮氏の宇都宮貞宗、その弟の宇都宮貞泰、土岐頼遠の甥で頼遠の死後に美濃守護となった土岐頼康、佐々木(京極)道誉、近江守護で佐々木一族の六角氏頼、安芸・甲斐の守護で四条畷の合戦の際に勇戦した武田信武、信濃の守護の小笠原政長、大友一族の戸次頼時、荒尾(肥後の武士か)、関東の土肥、土屋、多田院(清和源氏の源光仲が建立した多田院→ただ神社の周辺に住んだ多田源氏)、常陸の国に勢力を築いてきた千葉・相馬の一族、甲斐源氏の武田・小笠原一族、高一族のものはもちろんのこと、畿内近国、四国、中国の武士たちが我も我もと集まってきて、その数は5万騎を数え、一条今出川の師直の邸に入りきらない軍勢が一条通にあふれかえった。

 三条殿にはじめ3千余騎が集まっていたのだが、師直側に多数の武士が集まっていることが分かると、これは敵わないと思ったのであろうか、一人ぬけ、また二人ぬけて、姿を消すものが相次ぎ、とうとう300騎ほどが残るだけとなってしまった。尊氏はこれを聞いて、三条殿に使いを送り、「師直、師泰の様子を見ていると、主従の義を忘れて、主人に刃向かおうとしているように見えるので、きっと三条殿に攻め入ろうとしているのであろう。急いでこちらの方に来てほしい。運命をともにしようではないか」と申し送った。これを聞いた直義は、残った兵150余騎を率いて、尊氏の近衛東洞院の館に入った。
 近衛大路は京の東西を、東洞院大路は南北に走っている。

 明けて8月14日の卯の刻(早朝)、師直とその子師夏が2万余騎を率いて、近衛大路の東の端、鴨川の岸辺に建っていた法成寺へと兵を進め、将軍の館の東北を取り巻き、弟の師泰は7千余騎を率いて、西南の小路を封鎖して、搦手に回った。四方から火をかけて火攻めにするという噂だったので、兵火の余煙から逃げることはできそうもないと、近くに邸宅を構えていた貴族たち、長講堂、三宝院などの寺社の僧侶たち、皆あたふたと逃げ惑った。
 内裏もほど遠からぬところにあったので、軍勢が戦乱の余波でどのような狼藉に及ぶかもしれないというので、帝(崇光院)が急遽他の場所に移られる準備を始めた。それで太政大臣、左右の大将、大中納言、参議たち、弁官たち、 5位・6位の者たちが階上・階下をうろうろとし、内侍所や、その他の役所に仕える女官たちがなりふり構わず逃げ惑う姿は目も当てられないものであった。
 当時の内裏は、今日の京都御所(土御門東洞院殿)の場所にあったから、尊氏の近衛東洞院とは近かったのである。法成寺は現在府立鴨沂高校があるあたりを含む広大な土地に藤原道長が建てた寺であるが、『徒然草』に記されているように、この時代にはその大部分が焼失・荒廃していた。そして現在はまったく姿を消しているのである。
 この時点では尊氏と直義の間には意思の疎通ができていることがわかる。妙吉侍者は、師直が既成の権威を重んじようとしないと非難したが、いよいよその傾向が激しさを増して、主人である尊氏にさえ、弓を引こうというのであろうか。それとも、さすがに尊氏を倒すことは思いとどまるのであろうか。それはまた次回に。
 なおここで、直義方と師直方に、様々な武士がはせ参じている中で、一族の分裂がみられることも注意しておく必要があるだろう。足利一族はもちろんのこと、高一族でも、大高忠成のように師直ではなく、直義に帰属している武士がいるのは注目してよいことである。
 

『太平記』(298)

1月20日(月/大寒)晴れ

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)、京では南朝討伐に功のあった高師直・師泰兄弟が奢りを極めていたが、それを妬む上杉重能(足利尊氏・直義兄弟の母方の従兄弟)と畠山直宗(足利一族)は、高一族の排除を企てた。その頃、夢窓疎石の兄弟弟子で、足利直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟に軽んじられたのを憤り、直義に、高師直を秦の滅亡をもたらした趙高になぞらえ、高兄弟を討つように直義に進言した。
 直義はまず、尊氏の庶子で自分の養子となっていた足利直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。
 この年2月、清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者を出したが、それは天狗の仕業であると噂された。

 上杉、畠山はいよいよ讒言を連ね、妙吉侍者も高兄弟を取り除くことをしきりに勧めたので、直義は兄である尊氏には知らせることなく、上杉、畠山に加えて、高一族の大高重成、千葉一族の粟飯原清胤、利仁流藤原氏の斎藤五郎兵衛入道らを集めて、評定を行い、こっそりと高兄弟を討ち取ろうと相談した。中でも大高伊予守(重成)は大力である、宍戸安芸守は歴戦の勇士であるということで、この2人が討ち取ることと決められ、もしそれでも討ち取ることができないときの用意にと、武芸に秀でた武士たちを100人以上集めてそこここに潜ませた。そして何食わぬ顔で、師直を召し寄せた。
 大高重成は第9巻で尊氏が篠村から引き返して六波羅を攻めたときに、「足利殿の御内に大高次郎重成と云ふ者なり」(第2分冊、62ページ)と名乗りを上げた時が初登場で、その後も尊氏に従って足利軍の一角を占めてきた。しかし、貞和4年(1348)に足利尊氏の怒りを買って、若狭守護を解任され、所領をすべて没収された。その理由は不明である。なお、大高重成が失脚した際に、側杖を食っているのが粟飯原清胤である。(亀田俊和『観応の擾乱』43-44ページ参照)。ただ、今回取り上げた個所でもわかるように、師直とは違って直義と近く、この後から展開される観応の擾乱をうまく乗り切ることができた。武人ではあったが、夢窓疎石と足利直義との禅問答集『夢中問答』を出版したことで、文化史、宗教史にその名を残している。〔森茂暁『太平記の群像』、角川文庫、180‐181ページ参照〕 宍戸安芸守は、常陸国茨城郡宍戸荘)の武士だという。

 まさか直義が自分を討ち取ろうなどと考えているとは思わなかった師直は、騎馬の若党を3人連れて、安心しきった様子でやってきた。若党や中間は、皆侍の詰め所、主殿の前庭に控えており、中門(表門と主殿のあいだの門)に連なる白壁の塀で主殿からは隔てられていた。師直は1人で客間に通されて座っていた。彼の命はまさに風前の灯火ということになっていたが、彼を暗殺する謀議に加わっていた粟飯原下総守が、突然心変わりして、暗殺計画を師直に知らせた方がいいと思うようになり、ちょっと挨拶するような格好で、きっと目で挨拶をした。師直は、抜け目のない人物であったので、すぐにそれが何を意味するかを察して、ちょっとしばらく退出するようなふりをして、門前から馬に乗り、自分の宿所に帰ったのである。

 その夜が暮れると、すぐに夜の闇に紛れて粟飯原と斎藤が師直の邸にやってきた。そして直義の居館である三条殿では、上杉と畠山を中心に謀議が進められており、かくかくしかじかとこれまでの経緯を語った。師直は喜んで、2人に相当の引き出物を与え、これからも三条殿の様子を内内に知らせてほしいと頼んで、相原と斎藤を返した。師直は、これから用心を厳しくして、一族若党数万人(これは大げさ)を自邸の近くの民家に宿泊させ、出仕をとどめて、仮病を使って邸にこもっていた。

 前年の春から、師直の弟である師泰は、楠一族の中で最後に残っている正儀を討伐しようと河内国に下って、石川河原(大阪府富田林市の東部を流れる石川の河原)に楠一族に対する向かい城を構えて対峙していた。そこへ師直は使いを送って、事情を知らせたところ、師泰は紀伊の国の守護であった畠山国清に連絡を取り、彼の代わりに石川河原の城に入らせたうえで、急いで京都に戻ってきた。畠山国清は足利一族で、この後も登場することになる。

 直義は、師泰が大軍をひきいて上京してくるという噂を聞いて、この人物の起源をとらないと師直排除の計画は上手く行かない、だましてやろうと思ったので、飯尾修理入道(宏昭、幕府の引付衆)を使いに出し、「師直の政務ぶりは短才庸愚(才が無く凡庸で愚か)なので、しばらくの間政務への関与をとどめているところである。これからは、師泰を管領(執事、将軍の補佐役)に任じるものである。政所(幕府の財政・行政を司る役所)やその他の運営は、丁寧に行うべし」と管領職を委ねようとした。
 師泰は、この使いに対して、どうもありがたいお申し出ではあるけれども、枝を切った後で、根を断つという腹積もりではないのでしょうか(師直を倒した後で、今度は師泰を倒そうと画策している)。どのように入京して、お返事を申し上げればよいのでしょうか(わかりません)」と直義の目論見に反して返答をして、すぐにその日のうちに石川の館を引き払った。鎧兜で武装した兵3,000余騎に、7千人ほどの人夫たちに各種の盾を持たせ、今にも合戦に取り掛かるような様子で、しかも白昼に京都に入ってきた。京の人々は洛中でまた合戦が起きるのかと驚き、恐れおののいたのである。

 師泰は師直の宿所に入り、いよいよ三条殿(直義の居館、また直義のこと)との合戦が始まるといううわさが広がったので、8月11日の宵に、赤松入道円心とその子・則祐、氏範が700余騎を率いて、師直の邸に出かけた。
 師直は、赤松父子と急いで対面して、直義殿は理由もなく師直とその一族を滅ぼそうとされており、事態は切迫していると告げた。そして、彼は将軍≂尊氏にこの事情を説明したところ、尊氏は、直義がそのような企てをするのは穏やかではない。なんとかその企てをやめさせて、直義に師直の讒言を吹き込んだ者たちを重く処罰するべきである。もしその命令に従わずに、師直に討手を遣わすことがあれば、尊氏は必ず師直と一緒になって、安否を共にするつもりであると言われた。
 将軍のご意向がはっきりしたので、もし直義殿から討手が使わされば、反撃する所存である。京都のことは、内内に気脈を通じているものが多いので、安心である。しかし問題は、直冬殿が備後に居られることである。もし中国地方の兵を率いて京都を目指して攻め込んでこられると、厄介なことになる。今晩すぐに(赤松氏の本拠である)播磨におくだりになって、山陰道、山陽道から攻め上ってくる敵を杉坂、船坂の要害の地で食い止めてはくれないかと、依頼をする。赤松一族の武勇はこれまでの歴戦で明らかである。そして、藤原道長に仕えて勇武の士として知られた藤原保昌(伝説では源頼光、彼の四天王とともに大江山の鬼を退治した)のもっていた、代々受け継いで身辺から離さないできた護身用の懐剣を錦の袋に入れて、引き出物として与えた(大変な信頼ぶりである)。
 
 赤松父子3人はその夜ただちに都を発って播磨に下り、3千余騎の配下の兵を2手に分けて、備前の船坂、美作の杉坂、2つの道を封鎖したので、直冬は、備後から軍勢を率いて上京する心づもりであったのが、予定が狂ってしまった。

 いよいよ観応の擾乱と呼ばれる室町幕府の初期における最大の戦乱が始まろうとしている。今回、師直が打った布石のために、直冬は一応抑えられたが、この程度のことでは事態は収まらないはずである。
 亀田俊和さんによると、この擾乱によって室町幕府の権力構造が鎌倉幕府(と建武新政権)の単なる模倣から、室町幕府独自のものへと変化することになるという。それはさておき、ここでは人間関係に重点を置いて、事態の推移をみていきたいと思う。三条殿(直義)の下に、また高師直の下に、多くの武士たちが集まり、一触即発の危機が出現するというのは、また次回に。 
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR