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『太平記』(276)

8月20日(火)晴れ、暑し。その後、雲が多くなって、一時雨。

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月、光厳上皇の皇子興仁(おきひと)王が践祚された(崇光帝)。このとき、院の御所に幼児の首をくわえた犬が現れるという怪異があった。その頃、仁和寺の本堂で雨宿りをしていた僧が、天狗道に落ちた尊雲法親王(護良親王)以下の宮方の怨霊たちが、集まっているのを目撃した。

 天狗道に落ちた怨霊たちが集まってしばらくすると、房官(ぼうかん≂門跡寺院に仕える妻帯僧)と思しき一人が現れ、銀の銚子に金の盃を添えて、護良親王に飲み物を勧めた。親王は、盃を取り上げられて、左右のものを見わたし、3度に分けて盃のなかのものを飲まれて盃をおかれ、続いて峯僧正(春雅)以下の人々が、順々に飲んでいったが、酔いが回って浮かれ出すというような様子にも見えない(この人々は僧侶であるから、本来酒は飲まないはずである)。
 それからまたしばらくして、怨霊たちはいっせいにわめくような声をあげて、手足をばたばたさせ、首から黒い煙を立ち昇らせて苦しみ転げまわること約1時間余り、みな、火のまわりに集まった夏の虫がその日に焼かれて死んでしまったように、倒れ伏して動かなくなった。

 この様子を目撃していた僧は、あぁ恐ろしいことだ、天狗道に落ちると、焼けた鉄の塊を火に3度呑むことになるといわれているのはこのことであったのかと思っていると、約4時間ほどして、焼けた鉄を飲んで倒れていた怨霊たちがまた、息を吹き返しはじめた。そのなかで峯僧正春雅が、苦しそうな息遣いをしながら、「さても、この世の中を、どのようにしてまた大騒ぎさせたらよいものか」と他の者たちに問いかけた。
 すると、忠円僧正が末座から進み出て、「それは簡単なことです。あの直義は、他犯戒(たぼんかい=姦通などの邪淫の戒め)をしっかり守っていて、僧侶ではない俗人としては自分ほどこのような禁戒を犯さない者はないと深く慢心しております。われわれとしてはこの慢心に付け入って、大塔宮におかれては、直義の北の方の胎内に男子となってお生まれになってくださいませ。そうするならば、直義は、天下を自分のものとして、自分の子どもに譲り渡したいという欲心を起こすに違いありません。(こうして、いままでは結束が固かった、尊氏と直義の兄弟の仲を引き裂くことができるでしょう。)

 また、夢窓疎石の弟弟子で、妙吉侍者というものがおります。学道のほども修行のほども不足しているにもかかわらず、ご本人は自分ほどの学識のある者はいないと慢心しています。この慢心ぶりは、我々に付け入る隙を与えるものなので、峯の僧正様はその心の中に入りこんで、直義による政治を補佐し、邪法を大いに説き広めるようにしてください。
 智教上人様は、直義の側近である上杉重能、畠山直宗の心に取りついて、高師直、師泰兄弟を取り除こうとさせてください。
 この忠円は、高師直の心の中に入りこんで、上杉、畠山を滅ぼそうと策動します。
 こうすれば、尊氏と直義の兄弟の仲が悪くなり、師直が主従の礼に背くようになって、天下にまた大きな争乱が起きることになり、しばらくのうちは、我々は退屈することはないでしょう」と提案した。
 すると、大塔宮を始め、高慢な心、よこしまでおごった心の持主である天狗たちは、大天狗だけでなく小天狗まで大いに賛同し、「見事な企てですなぁ」とその計略の巧妙さに感心して喜んだ様子を見せるうちに、その姿は消えていった。

 天狗たちの謀議から、尊氏・直義兄弟の反目=観応の擾乱が始まるというのはもちろん『太平記』の作者の創作ではあるが、一定の歴史的な真実を反映していると考えるべきであろう。
 それはさておき、すでに見てきたように、中先代の乱のどさくさに紛れて護良親王を殺害させたのは直義であって(第12巻、これは直義を必要以上に悪役として描く、『太平記』の作者の創作であるという説もある)、その殺された護良が、今度は直義の子どもとして生まれ変わるというのは、なかなかの怪談噺である。優柔不断な兄尊氏を叱咤激励して、天下統一へと進ませる直義は、また禁欲的な性格の人物として描かれている。今回紹介した箇所で忠円が云うように、正妻以外に妻を持たないその当時としては珍しい人物であった。この時点まで直義には子どもがおらず、兄・尊氏が身分の低い女性に産ませた子どもである直冬を養子にしていた(そのことは、『太平記』ではまだ触れられていない)。直冬は、尊氏の嫡子である義詮よりも少し年長であったと考えられる。
 一方、尊氏には直冬は別として、正妻である赤橋登子との間に義詮(1330年生まれ)、基氏(1340年生まれ)という2人の子どもがいた(他にも男子がいたらしいが、出家している)。すでに義詮が、尊氏の後継として着々と成長して来ていたことも視野に入れておく必要があるだろう。
 さて、物語はどのように展開していくか、それはまた次回に。

 昨日も書いたように、今夜はみなさまのブログへの訪問ができませんが、これはシネマヴェーラ渋谷に映画を見に行くために時間がとれないということなので、特にご心配は無用です。明日からは、きちんと訪問するつもりです。
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『太平記』(275)

8月13日(火)曇り、一時雨

 貞和(じょうわ)4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月、光厳上皇の皇子である興仁(おきひと)王が践祚された(崇光=すこう帝)。その時に、子どもの首を犬が加えて御所にやってくるという怪異があった。このような出来事が起きたのだから、即位に伴う大嘗会は延期すべきであるという意見もあったが、坂上明清の意見に従って予定通り実施することになった。この儀式のための出費を強いられた民衆の不満は小さいものではなかった。

 また、このころ、仁和寺でも不思議な出来事が目撃された。仁和寺は京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派の本山で、仁和(885-889)という当時の年号を寺号にしていることからもわかるように勅願寺である。小川剛生さんの近著『兼好法師』によると、兼好はこの寺の近くに住んでいたのではないかということで、実際に『徒然草』にはこの寺にかかわるエピソードが少なからず収められている。

 諸国行脚の僧が、嵯峨(京都市右京区)から洛中に戻る途中、夕立にあって、雨宿りに立ち寄る場所もなかったので、仁和寺の六本杉の木陰で、やむのを待つことにした。しかし、雨は降りやまず、日も暮れてしまったので、どうしようかと不安な気持ちに襲われて、それならば、今夜は本堂の近くで夜明かしすることにしようと思って、本堂の付近で経文を唱えながら過ごしていた。
 余計な話であるが、現在では仁和寺には仁和寺御室会館という宿坊があって、泊まることができる(場所は寺から少し離れている)。一度泊まってみようと思うのだが、果たして実現するかどうか。

 深夜、雨が上がり、月が明るく照らし始めたので、目を凝らしてみていると、京都の西北にある愛宕山、東北の比叡山の方から、貴人の乗る四方輿に乗った異形のものが、空を飛んで集まってきて、この六本杉の梢に並んだ。
 愛宕山は山城と丹波の国境にあり、修験道の霊場で、古くから天狗が住むとされた。

 それぞれの異形のものの座が定まって、虚空にひかれていた幔をさっと引き上げたので、そこに居並ぶ人々が何者であるかを見定めることができた。上座に座ったのは後醍醐帝の母談天門院の一門の出身である峯僧正春雅で、香染め(丁子を煎じた汁で染めた黄を帯びた薄紅色)の衣に袈裟をかけた姿で、目は太陽か月のように光り、鳶のように見えるくちばしをしていたが、水晶の数珠を爪繰りながら、着席した。次に南都の西大寺の律僧で、正中の変でとらえられ処刑された智教上人、後醍醐帝の側近で正中の変で越後の国へ流罪になった浄土寺の忠円僧正が、春雅の左右に着席する。皆、生前の見慣れた姿ではあるが、眼の光は尋常ならず異様に光っていただけでなく、左右のわきから長い翼が生い出ていた。
 浄土寺というのは京都市左京区浄土寺町にあった天台宗の門跡寺院で、現在は地名だけが残っている。京都大学の近くであり、大学時代の友人知人で、浄土寺に下宿しているものが多かったので、この一帯はよく歩いた。地名にもかかわらず、浄土寺という寺がないのはどういうことかと不思議に思っていたものである。

 これを見ていた諸国行脚の僧は、自分もまた天狗道に落ちたのか、あるいは天狗が自分の目を狂わせているのであろうかと、茫然として、それでも目を離さずじっと見ていると、さらに五緒(いつつお)の車≂前方の簾に五筋の染革の緒を垂らした車(貴人が乗用する)でいかにも華やかな様子で現れた客がいた。台を踏んで降車する姿を見ると、大塔宮護良親王であったが、まだ還俗されずに僧侶の身で、天台座主という地位に就いていられた時の姿であった。それまで座っていた天狗たちは、みな席を立って蹲踞の礼=両膝を折ってうずくまり、頭を下げる礼をもって、親王を迎えた。
 天狗道というのは慢心した僧が落ちる魔界だそうである。この場面は『太平記』中もっとも有名な部分の一つであるが、宮方と思われる僧侶たちを天狗道に属している身の上として描く、作者のものの考え方に注目しておく必要がある。さて、天狗道に落ちた僧侶たちが、どのような話をするのか、それが天下の形勢とどのようにかかわるかはまた次回。
 浄土寺の話で考え着いたのだが、大学の授業で地域研究というか、大学のある地方・地域についての学習を課すことが望ましいのではないだろうか。その地域に詳しい人の話を聞くことも、自分で地域の歴史や現状について調べることも、それぞれ意味のあることだと思うのである。

 本日は、時間がないので、皆様のブログを訪問する余裕がありません。あしからずご了承ください。

『太平記』(274)

8月6日(火/広島「原爆の日」)晴れ、暑し。

 康永元年(この年4月に暦応から改元、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国、中国地方における宮方の反抗は鎮圧され、天下は武家方のものとなり、公家は衰え、北朝の朝廷においても朝廷の諸行事も行われない世となった。
 足利尊氏と直義は、先帝後醍醐の神霊を鎮めるために、夢窓疎石を開山として天龍寺を建立した。康永4年(南朝興国6年、西暦1345年)8月の天龍寺の落慶法要には、花園・光厳両上皇が臨席されることになっていたが、比叡山延暦寺の訴えに配慮して、8月29日の落慶の翌日に御幸された。法要が勅会とならなかったことは不吉の前兆であり、以後、天龍寺はたびたび火災に見舞われた。
 その頃、備前の三宅(児島)高徳は、丹波の荻野朝忠と結託し、新田(脇屋)義治を大将として挙兵を企てたが、計画が露見し、荻のは山名時氏に攻められて降伏した。三宅高徳は備前を脱出して京都へ上り、足利兄弟の夜討ちを企てたが、夜討ちの前日に事が漏れて幕府方に襲われ、宮方の兵の多くは自害し、高徳は大将新田義治とともに信濃へ逃れた。その折、壬生の地蔵堂に隠れた香勾(こうわ)高遠は、地蔵菩薩の霊験によって命を救われた。

 今回から、第26巻に入る。
 貞和(じょうわ)4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月27日、後伏見院の御孫で(光厳院の皇子で)ある興仁王(おきひとおう)が16歳で皇位を継承されることとなり、同日、内裏で元服の式を挙げられた(崇光帝である)。三種の神器のうち宝剣と宝璽とを手にされて後、28日に萩原の法皇(花園院)の長子である直仁親王が東宮になられた。御年13歳であった。
 この個所は、かなり多くの注釈を加える必要がある。岩波文庫版の脚注によると、この26巻に記されている足利直義室の懐妊や、楠正成の遺子である正行の挙兵などの出来事は、貞和3年の事柄であるが、巻頭に貞和4年の崇光帝即位を記すことで、あたかもこれらの出来事が貞和4年に起きたことのように記されている(後で出てくる仁和寺の六本杉で起きた怪異との辻褄合わせである)。
 ところで、飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館)には、このあいだの事情をめぐり注目すべき記述がある。光厳院が自分の子である興仁王の後継者として、叔父である花園院の子の直仁親王を選ばれたのは、ご自分が皇太子時代に薫陶を受けた恩に報いるためであるというのが従来の説であったが、実は直仁親王は光厳院の子であることを院ご自身が証言された置文が存在するというのである。直仁親王の子孫に皇統を伝えるべしというのが光厳院のご意志であったが、岩波文庫の脚注にある通り、直仁親王は観応の擾乱のあおりで、観応2年(1351年)に廃太子されてしまった。その際に出家されたが、応永5年(西暦1398年)まで生きながらえられることとなった。

 新帝の御即位に伴い大嘗祭を行なうこととなり、卜部宿禰兼前(うらべのすくねかねさき)が新穀を献上する悠紀(ゆき)・主基(すき)両国を卜定する儀式を行い、国郡が決められて、悠紀・主基の祭田に稲穂を抜き取りに出かける使者が丹波に派遣された。その10月に行事所始めという、大嘗会を差配する役所の執務初めがあって、斎庁所という神饌を整える建物を建てようとしたときに、院の御所で不思議な出来事が起きた。
 まだらの犬が、3歳ほどの幼児の首を銜えて現れ、院の御所の南殿(南おもてにある正殿)の広縁の上に首を置いた。夜明けに、格子戸をあけた御所の侍が、箒をもってこの犬を追い払おうとしたところ、この犬は御殿の棟の上に上って西の方に向けて3度吠え、どこへともなく姿を消してしまった(犬が建物の壁をのぼるというのも不思議である)。

 「このような怪異な出来事は、死の穢れに触れることであり、今年の大嘗会を取りやめるべきである。そうでなくても、先例を参考にし、法令を探って方策を勘案したほうがいい」と法律を専門とする坂上・中原の両家の人々に意見を徴した。皆、「一年の触穢が適当でしょう」という意見であったが、その中で刑部省の大判事であった坂上明清の意見書に、法令からの引用をしながら、「神道は王道によつて用ゐる所なりと云へり。しかれば、ただ宜しく叡慮に在るべし」(岩波文庫版、第4分冊、166ページ、神の意向は王の意向の赴くところに従うといいます。ですから、ひとえに帝のお考え次第です)と意見を申し立てていた。帝も上皇も、この明清の意見書が気に入られて、そのとおりであると思われたので、今年大嘗会を行うことにすると、武家へ院宣を下された。

 武家(幕府)はこの命令に従って、国々へ大嘗会に備える新米を供出するように急き立て、強制的に取り立てた。ここに至る数年間というものは天下の兵乱が続いて、国土は疲弊し、人民は苦しんでいるところであるのに、帝の御位がしきりに交代し、大きな儀式が繰り返し行われているので、人々はそのための負担の大きさに苦しみ、これが仁政であるなどと思うものはいなかった。それで、こと騒がしい大嘗会であることよ、今年わざわざ行うこともないだろうにと、人々は陰で非難しあったのである。院の御所で起きた怪異な事件は、世にもまれな出来事であるというのに。

 崇光帝と光厳院が、怪異にもかかわらず大嘗会を延期しようとされなかったのは、宋学の影響のもとで合理主義的な考えをされたからであろう。その一方で、院の周囲の人々が怪異があるので、大嘗会を延期すべきだといい建てたのは、兵乱の影響で人々が疲弊し、困窮しているからである。つまり、ここには笑えない事情が秘められているように思われる。院の周辺の人々が、怪異などに託さないで、もっとはっきりと、人民が疲弊・困窮しているから大嘗会を取りやめるべきだといえば、崇光帝はともかく、光厳院は考えを改めたかもしれないのである。そしてこの意志の疎通の滞りが、人々の不満につながっていく。歴史というのは、こういう出来事の繰り返しに満ちているのかもしれない。
 『太平記』の著者は、宋学の合理主義の大義名分論の影響はともかく、合理主義のほうの影響は受けていないようで、さらなる怪異について、次に記すことになるが、それはまた次回に。

『太平記』(273)

7月30日(火)晴れ

 康永元年(この年4月に暦応より改元、南朝興国3年、西暦1342年)、脇屋義助を吉野から迎えて、一時勢力を挽回したかに見えた四国・中国の宮方であったが、義助の急死後、細川頼春を中心とする足利方の武士たちに破れてほぼ壊滅状態となった。天下は武家のものとなったかに見えたが、康永4年(1345)の天龍寺の落慶法要の際に、比叡山の抗議により、花園・光厳両上皇が法要の1日後に行幸されることで混乱を避けたというように、まだまだ世の中は安定とは程遠かった。

 備前の国の武士である三宅(児島)高徳は、後醍醐帝の時代から南朝に忠義を尽くしてきた武士である。脇屋義助が吉野から伊予に下向した際に、高徳もその麾下に参じたのであったが、義助の死後、その軍勢が離散したため、備前に戻り、本拠である児島(倉敷市児島)に隠れ住んでいたが、なお闘志は盛んで、上野の国から義助の子息である義治を招き、彼を大将として頂いて、宮方の旗を挙げようと考えていた。

 丹波の国の武士荻野彦六朝忠は、相模の国の海老名党の流れをくむ武士で、千種忠顕が六波羅を攻めたときにその軍勢に加わっていたが、その後、尊氏・直義兄弟に属していた。ところが、将軍(尊氏)に恨みを抱くようになっているという噂が聞こえてきたので、忠徳は彼に使いを送り、仲間に引き入れようとした。2人は、千種の六波羅攻め以来の知己なのである。それで朝忠も忠徳と呼応して立ち上がるべく手はずを整えていたところ、計画が露見して山陰地方における足利方の実力者である山名時氏が派遣された。時氏は3千騎を率いて、朝忠が籠っている高山寺城(丹波市氷上町の高山寺に築かれた城)を厳重に包囲し、兵糧攻めを仕掛けた。これには朝忠もたまらず、ついに降伏を余儀なくされた。

 児島の方にも備前・備中・備後3カ国の守護が5千余騎を集めて攻め寄せてきたので、高徳は、ここでは思うどおりの戦いをすることは難しいだろう。むしろ、都に押し寄せて、将軍尊氏、その弟の直義、執事として権勢をふるう高一族、外戚として栄えている上杉一族らの幕府の要人たちに夜討ちをかけるほうが得策であろうと考えた。しかし、いくら奇襲をかけるといっても、ある程度の人数が集まらなければだめだというので、あちこちに隠れ潜んでいる宮方の武士たちに回状を回したところ、あちこちから1,000余騎ほどの武士たちが集まってきた。これだけの人数が1か所に集まっていると怪しまれるということで、200余騎を大将である義治につけ、比叡山の東麓である東坂本に隠れさせ、別の200余騎を宇治(京都府宇治市)・醍醐(京都市伏見区醍醐)・真木・片野(交野)・葛葉(楠葉:真木・交野とともに大阪府枚方市内)に待機させ、いちばんの精鋭300余騎は、洛中と鴨川の東の白河の辺りに潜ませて、気づかれないように勢力を分散させながら、機会をうかがっていた。

 いよいよ翌日の夜に小幡嵩(こはたとうげ、宇治市木幡)に押し寄せて、尊氏、直義、高一族、上杉一族の館に、4つに兵を分け手夜襲をかけようと手はずを整えていたのであるが、この企てをどこで聞きつけたのか、侍所の長官(所司、前回に触れたが、山名時氏のはずである)の代官(つまり所司代である)の都筑という武蔵の国都筑郡(現在の横浜市都筑区、川崎市西部、町田市あたり)の武士が300余騎を率いて、夜討ちの際の案内をしようと忍び(間者、隠密)たちが待機していた四条壬生の宿を急襲した。忍びのものが不意を突かれたのは、どうも体裁が悪いが、児島高徳が忍びのものを組織していたというのは興味深いことがらである。立てこもっていた忍びたちは、かくなる上はと必死に防戦し、射矢が尽きたあとは腹を切って死んだのであった。

 このことを聞いて、都の周辺各地に隠れていた仲間の武士たちは、望みを失い離散することになった。高徳はせっかくの計画が無駄になり、やむなく大将である義治に随行して、信濃の国に落ちて行くことになった。

 さて、壬生の民家に集まっていたところを急襲されて、ほぼ全滅した忍びたちの中で、武蔵国の住人香勾(こうわ)新左衛門尉高遠というものが一人だけ、地蔵菩薩が身代わりになってくださったために、命が助かったのは不思議な出来事であった。

 所司代の率いる兵たちが、世の明けないうちに押しかけて、十重二十重厳重に包囲する中で、高遠一人は、その包囲を切り抜けて、血まみれの刀を手に、地蔵堂(現在の壬生寺)の中に駆けこんだ。どこに隠れようかと、あちこち見まわしていると、寺の僧と思しき法師が一人、堂の中から出てきて、高遠の姿を見て、「そのような姿では、どこに隠れても隠れ遂せるものではありません。この念珠(数珠)を、その太刀と取り換えてお持ちなさい」というので、それもそうだと、この法師の言うとおりにした。

 そうこうするうちに、追手の武士が4・50人ばかり押しかけて、四方の門をふさぎ、残るところを隈なく探し始めた。高遠は、もともと剛毅な性格で、少しも動じることなく、数珠を爪繰りながら、高らかに「以大神通方便力、勿令堕在諸悪趣」(偉大な仏の力で、悪道(地獄・餓鬼・畜生の三道)に堕ちるのを救いたまえ)と「地蔵菩薩本願経」の中の句を唱えていた。追手の者たちは、これを見て、本物の参詣の人かと思って、あえて見とがめるものは一人もいなかった。「ただ仏殿のうち、天井の上まで隅々まで探せ」と大声で叫んでいた。

 すると、たった今、物を切ったように見える切っ先に血の付いた太刀を、袖の下に隠し持った法師が、堂の傍らに立っているを見つけて、「それ、これこそ落人だろう」と、取り手が3人走り寄り、いったん抱き上げた後で地面に転がして、高手小手に縛り上げ、侍所に渡すと、所司代がこれを受け取り、牢獄の中に厳重に閉じ込めた。

 ところが、翌日、見張り役はずっと目を離さず、牢の扉を開けることもなかったのに、この囚人はどこかに姿を消してしまった。監視の役人は不思議なことがあるものだと驚きながら、囚人がいた跡を見ると、霊妙な香りが漂っていて、あたかも天竺の牛頭山に産するという香木の栴檀のようである。囚人をとらえた兵たちが、皆、「左右の手、鎧の袖、草刷り(鎧の胴に垂れ下げて股を守る防具)まで霊妙な香りに染まってしまって、まだ香りが消えません」などと言っているので、「これは必ずや、ただ事ではあるまい」と、壬生の地蔵堂の扉を開き、本尊を拝顔すると、もったいないことに、六道の衆生を救済する地蔵菩薩のお体が、あちこちに刑罰の鞭のために血がにじんだ跡が黒くなって、高手小手に戒めた縄がまだお体を縛っているのが見えたのが不思議なことであった。

 地蔵菩薩を縛った3人の武士は、涙をこぼして泣いて、罪障を懴悔するだけでは足りず、すぐに髻を切って、発心修行のものとなった。香勾は順縁によって彼が平素から仏道を深く信じていたことが暗示されていると思われる)、その命を助かり、3人の武士たちは逆縁(仏道に背く悪事を働いたことが、かえって仏道に入る機縁となること)により来世で仏と会うことになった。仏が伝授された尊いお言葉の取り、仏はこの世、あの世にわたって我々の良き導き手であるのは、ありがたいことである。

 岩波文庫版の脚注によると、壬生寺の地蔵菩薩像は、伝定朝作だそうで、壬生寺にもこの高遠が地蔵菩薩に命を助けられた話は伝わっているらしい。私が昔務めていた会社の同僚が寺の息子で、自分の寺の本尊が定朝の作品ではないかということで、現在博物館で見てもらっていると話していた。その結果は知らないが、南北朝時代には、今よりも多くの平安仏が寺に置かれていて、定朝の作品もたくさんあっただろうと思うと、無常を感じざるを得ない。
 児島高徳という人物は、『太平記』の最初のほうの隠岐に流されることになった後醍醐帝の救出を企てたが、果たせず、やむなく帝の宿所の桜の木に「天句践を空しうするなかれ 時に范蠡無きにしも非ず」と書き付けた話がいやに有名になっているが、その後も、千種忠顕の六波羅攻め、足利尊氏との中国地方での戦い、越前での新田義貞の戦いと何度も顔を出している。彼の実在を証明する史料がないことから実在の人物ではないという説がある一方で、児島=小島繋がりで、『太平記』の作者として『洞院公定日記』に記されている小島法師と同一視する意見もある。それはともかく、物語の展開を導く狂言回し的な役柄として考えた場合には、それぞれの場面にただ居合わせるだけで、論評はするけれども、事態を動かすような働きはしないのは、実在・非実在などという問題以上に、この人物の存在価値を低くしているように思われる。作者の意図がどうであったのかについては、さまざまな解釈があるだろうが、どちらにしても、その意図はあまり成功していないのである。
 これで『太平記』25巻を終って、次回からは26巻に入る。事態の推移は作者の理解をこえたものになり、作者は様々な魔性の存在を念頭に置きながら、物語を進めることになる。

 体調は依然として回復しないので、皆様のブログを訪問することはやめさせていただきます。失礼がつづきますが、あしからずご了承ください。

『太平記』(272)

7月23日(火)朝のうちは雨が残っていたが、次第に晴れ間が広がる。

 康永元年(この年4月に暦応より改元、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国・中国地方で抵抗を続けていた南朝勢力が鎮圧され、天下は武家のものとなり、公家の勢いは衰えた。そのため、朝廷の諸行事も行われない世の中になってしまった。
 京都の将軍足利尊氏と、その弟の直義は、先帝後醍醐の神霊を鎮めようとして、夢窓疎石を開山として天龍寺を建立した。康永4年(南朝興国5年、西暦1345年)8月の落慶供養には、光厳上皇が臨席されることになったが、比叡山延暦寺は款状を捧げて抗議した。これについて、朝廷では公卿僉議が行なわれ、坊城(勧修寺)経顕、日野(柳原)資明が意見を述べ、三条(中院)通冬は和漢の例を引いて天台と禅に宗論を指せるように提案したが、二条良基は末代における宗論の難しさを説き、判断は武家に委ねられた。
 武家は延暦寺の訴えを退け、落慶法要の準備を進めた。延暦寺は強訴を企て、興福寺に牒状を送って同心を求めると、朝廷は上皇の御幸を法要当日ではなく、翌日とすることで延暦寺の憤りを鎮めた。
 8月29日、天龍寺の落慶法要が行われた。光厳・花園両上皇はその翌日に御幸されたが、法要が勅会とならなかったのは不吉の前兆であった。

 なお、花園院、光厳院ともにその伝記によると、禅宗に深く帰依されており、花園院はその御所を禅僧である関山に与えられて、妙心寺とされ、光厳院は晩年を丹波の常照寺(現在は常照皇寺という)で過ごされた。飯倉晴武は、天龍寺の建立に際しての光厳院のご尽力について詳しく述べている(飯倉『地獄を二度も見た天皇 光厳院』、132‐135ページ参照)。

 ここで『太平記』の作者は少し脱線して、東大寺の大仏に関わる故事を持ち出す。
 仏像をつくり、寺を建てることは善根を施すことではあるが、願主がそのことによって自分はいいことをしたのだという驕慢の心を抱いてしまっては、仏教そのものも混乱することになるし、三宝(仏・法・僧)の維持も難しくなるというのである。中国南北朝時代の梁の国の初代皇帝である武帝は、中国に禅宗を伝えた達磨に向かって、「自分は、1700か所の寺を建て、10万8千人の僧尼に供養を施したが、功徳があるのか」と問うたのであるが、達磨は「無功徳」と答えたという。これは、本気で功徳がないといっているわけではなく、皇帝の心の中にはまだ驕慢の心が残っていることを悟らせて、人為的でない、自ずからの善の心を生じさせようとしたのである。

 さて、わが国の奈良時代に、聖武天皇は東大寺を造立されて、金銅16丈の廬舎那仏を本尊として、その開眼供養を行われようとした。〔うるさいことをいうと、東大寺を造立される時点で、聖武天皇は皇女であった孝謙天皇に譲位されて、上皇になられていた。東大寺の大仏は16丈ではなく、現在の計測では5丈3尺5寸である(造立の時点では、もう少し大きかったことは否定できないが…)〕 開眼供養の導師(主宰する僧侶)として、行基菩薩をお迎えしようとした。

 ところが、勅使を迎えた行基がいうことには、「天皇のご命令は重大であり、辞退する言葉もありません。しかし、このように重大な御願は、ただ神仏のお心に任せるのがよかろうと思います。それで、当日は香華を備え、偈頌(韻文体の経文)を唱えて、天竺から梵僧(インド人の僧)が到着するのを待って、それから供養を行なわれますように」とのことである。
 聖武天皇をはじめとして、朝廷の公卿たちは、すでに世の中は末法の世になっているどのように我々が真心を込めても、百万里の波頭をへだえた天竺から、急に導師が来て、供養を行うなどということはあるはずがないと、心中大いに疑っていたのではあるが、jほかならぬ行基が深慮を凝らして申し上げているのであるから、異議を唱えるわけにはいかないと、いよいよ開眼供養が明日に迫ったという日になっても、導師を決めないままでいた。

 すでに当日になったその日の朝、行基は自ら摂津国難波の浦(今の大阪湾)においでになり、西に向かって香華を供し、座具を敷いてそれを礼拝された。と、五色の雲が空にたなびき、沖合から一葉の船が波に浮かんでいるのが見えた。その上に乗っているのは天竺の婆羅門僧正である。まさに突然の出現であった。

 仏法守護の諸天善神たちは高僧の上にさす傘を持ち、難波の湊(津)の松は大雪が降ったときのように頭を下げる、それだけでも驚くべきことであるのに、妙なる香の香りがあたりに漂い、春を告げる難波津の梅の花が、一斉に開花してその香りを人々の袖にしみこませるほどに発散しているのかと思うばかりである。まことに不思議な景色である。二人の僧の出会いに立ち会うことになった人々は、改めて仏縁の深遠さを知ることになるのである。行基菩薩は、旧知の友人に会ったというようなご様子で、
 霊山の釈迦の御所(みもと)に契りてし真如朽ちせず合い見つるかな
(霊鷲山での釈尊の御説法の座で再会を約束したが、仏法の真理が不変であるようにお会いできたことよ。)
と歌をお詠みになった。すると、婆羅門僧正も
 伽毘羅会(かびらえ)に契りて起きし甲斐ありて文殊の御顔相見つるかな
(釈尊の故郷である伽毘羅会でお約束したかいがあって、文殊菩薩の化身(行基)のお顔を再び拝見できました。)
と返す。こうしてお二人は奈良に向かわれ、東大寺の大仏開眼供養を執り行われることになった。その供養の様子というのは口で語りつくせるようなものではない。天上界から降る花は風に盛んに散り乱れ、読経の声は空の上はるかに高く上っていく。上古にも、末代にもこのような供養はあり得ないというような盛儀であった。

 仏閣を築造し、仏像をつくるというのであれば、この東大寺の例に倣うべきであるのに、この天龍寺の場合には、比叡山延暦寺が盛んに横やりを入れ、最後には落慶供養を勅会とさせなかったのは異例の事態というべきである。僧侶も俗人も驕慢の心が兆したために、仏道を妨げる悪魔に付け入るスキを与えてしまったのであろうかと、人々はこの事態を怪しんだ。その結果(であるかどうかは、現代の目から見るときわめて疑わしいところであるが)天龍寺は落慶後20年のうちに2度までも焼けてしまったのは不思議なことであったと『太平記』の作者は結ぶ。

 実際問題として、東大寺も兵乱や災害のために何度か、大仏殿や本尊が焼失したことはあったのである。結局宗教と政治とが結びつくことが問題であって、問題は『太平記』の作者の認識をこえたところにあったのである。
 歴史的な事実としては、行基は東大寺の大仏開眼の時点ですでに入寂しており、開眼供養の導師となる可能性はなかった。また婆羅門僧正(菩提遷那)の来日は、大仏造立の前のことである。
 この二人がすでに過去に会ったことがあるという話だが、中国の天台太師智顗が南岳太師慧思と会見したときに、慧思がよく来られた、あなたとこの前会ったのは、釈尊が霊山で法華経を説かれたときであったなと言って迎え入れたという説話を思い出させる。宗教は、われわれの日常的な体験の世界を超えた世界であるが、あまりにも日常離れをした説話は信じられないところがある。
 
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