『太平記』(198)

2月20日(火)晴れ、温暖

 建武3年(南朝延元元年、1336)、足利方によって花山院に幽閉されていた後醍醐帝は京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峰山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の知らせが新田義貞の立てこもっている越前の金ヶ崎城にもたらされた。いったんは足利方につき、金ヶ崎城の包囲軍に加わっていた南越前の瓜生保は、宮方に心を寄せる弟たちと同心すべく、本拠地の杣山に帰り、脇屋義治(義助の子)を大将として挙兵した。23日、高師泰により杣山攻めに派遣された能登・加賀・越中3か国の兵は、瓜生の奇襲により敗退した。さらに瓜生は29日、金ヶ崎包囲から戻っていた越前守護斯波高経の新善光寺城を攻め落とした。

 明けて建武4年(南朝延元2年、1337)正月7日、新年の椀飯(おうばん=正月の祝宴の行事)を済ませて、11日には雪が降りやんで晴天が広がったので、義治は新田一族の里見伊賀守(名は不詳)を大将として5千余人の兵を金ケ崎城の後詰として敦賀に派遣した。ここで「~人」という表現をしているのは、積雪のため騎馬での進軍が難しかったためであろうと思われる。その軍勢は吹雪に出会った際の用意をして、鎧兜の上に蓑笠を着け、踏沓(ふぐつ=雪の上を歩くための藁沓)を履いた上にさらに橇(かんじき)を履いて、雪深い山の中を8里踏み分け、その日は葉原(敦賀市葉原)まで進んだ。
 杣山から後詰の兵が差し向けられるであろうことは、高師泰もかねてから予期していたことであり、敦賀の港から20町(2キロ強)ほど東に極めて好都合な要害(とりで)があったので、そこに今川駿河守頼貞を大将として2万余人を差し向けて、あちこちに楯を垣のように並べ、今か今かと敵襲を待ち構えていた。

 夜が明けたので、まず一番に(瓜生保とともに金ヶ崎城包囲から離脱して杣山に走った)宇都宮泰藤が紀氏と清原氏の流れをくむ300余人の武士たちを率いて足利方の先鋒と戦う。敵陣に至る坂の中途にいる足利方の千余人の武士たちを遠くの峰に追い上げて、そのまま二陣の敵に襲い掛かろうとしたが、両側の峰の上から矢を射かけられて、北の峰に退いた。
 宇都宮の率いる紀清両党の兵は、これまで何度も登場してきた歴戦の勇士たちで、足利方の兵が後退したのは正面衝突を避けてのことと思われる(足利方のほうが兵力は多いし、坂の上にいるというのは地理的に有利であるが、それでも逃げている)。そして山の上から矢を浴びせるという戦法を取って、この軍勢を退却させた。

 二番手として、瓜生、(瓜生保とともに金ヶ崎城包囲から離脱した)天野、(『今昔物語集』の「芋粥」の説話で有名な藤原利仁の子孫である)斎藤、下野の武士である小野寺らの軍勢が切っ先をそろえて攻め上がり、守っていた今川頼貞の陣が3か所ほど打ち破られて退却したのと交代して、控えの新しい軍勢として高師泰の率いる3千余人が戦列に加わった。このため、瓜生、小野寺の軍勢が劣勢になり、追い立てられて、宇都宮の軍勢と合流しようと北の峰のほうに向かう。その様子を見た大将の里見伊賀守は見苦しい、引き返せということで、敵の側面から攻撃を仕掛ける。

 足利方は、里見こそが大将であるとみていたので、他の軍勢には攻めかかることをせずに、里見を包囲して討とうとする。それを見た瓜生保と義鑑の兄弟は、戦況を見極めて、我々が戦死しないと、味方の軍勢は助かりそうもないと判断した。味方を逃がすために勇敢に戦って、武名を残そうというのである。そして2人で敵陣に割って入ろうとする。
 瓜生保の弟の林二郎入道源琳、瓜生重(しげし)、照(てらす)の3人はこれを見て、すでにはるか後方に退却していたが、ともに討ち死にしようと引き返す。その様子を見た義鑑は、「日頃何度も言い聞かせてきたことをいつの間に忘れたのだ。我々2人が戦死するのは、一旦の負け、兄弟がすべて戦死してしまえば、永世の負けだということを。深い思慮がないのは情けないことよ」と声を荒げて思いとどまらせようとしたので、3人の弟たちはその通りだと思い、少し立ち止まっていたその間に、大勢の敵に兄たちとの間を遮られてしまい、里見伊賀守、瓜生保、義鑑房は3人ともに戦死してしまった。

 葉原から深い雪を分けて、重い鎧が肩に食い込んで疲れた者たちは、数時間の合戦に入れ替わって戦う軍勢もなく力を使い果たしていたので、引き返して敵と戦おうにも力が出ず、退却しようにも足の力が抜けてしまっていた。そのため、あちこちで進退窮まって、そのまま腹を切ってしまったものは数知れない。幸いにして逃げ延びることができた兵も、その途中で弓矢、鎧、兜を捨てぬものはほとんどいなかった。それで足利方の将兵たちは、「以前に国府(越前市)、鯖並の戦闘で自分たちが捨てた物具を、今になってみな取り返した」と笑ったのであった。

 瓜生兄弟の軍は厳冬の積雪の中の行軍で力を奪われているうえに、周到に準備をして待機している足利方の軍勢と対決することになった。要害の地を抑えられているために、奇襲攻撃をかける余地もなかったようである。後詰めの戦が失敗して、金ヶ崎城の包囲を破ることが難しくなり、北国方面での戦闘の帰趨がほぼ決してしまった。もともと足利方のほうが兵力は多いので、宮方としては自分たちの士気の高さだけが頼りというところがある。この戦いでも、高師泰以外の足利方の武将たちのやる気のなさは歴然としている。森茂暁さんが『太平記の群像』で書いているところでは、一族の中で「軍事的性格をもっとも色く帯びていた」(角川文庫版、174ページ)役割を演じた人物であり、武将としての能力には段違いのものがあったようである。それに比べると、今川頼貞は精彩に欠ける。頼貞の従弟の貞世(了俊)が『難太平記』という本を書いて、南北朝の動乱における今川氏の役割が『太平記』では過小評価されていると論じていることはよく知られているが、岩波文庫版の第1分冊の解説を見る限り、了俊が問題にしているのは、彼の属する遠江今川氏の業績であり、頼貞らが属する駿河今川氏のほうについてはどうも関心がなかったようである。了俊は頼貞を直接に知っていたはずだから、そういうことも影響しているのかもしれない。
 瓜生兄弟の軍に加わっていた斎藤という武士が、藤原利仁の子孫であるということは書いたが、源平の合戦の際に白髪を黒く染めて戦った斎藤実盛もこの一族である。大将を務めた里見伊賀守の名はわからない由であるが、里見氏は新田一族であり、同じく新田一族の山名氏の大部分が足利方に走ったのに対し、宮方にとどまっている。そして、滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』で描いているように、何とか戦国時代を乗り切るのである。
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『太平記』(197)

2月13日(課)晴れ、バスの車窓から雲に半ば隠れてはいたが富士山が見えた。

 建武3年(南朝延元元年、1336)、足利尊氏・直義兄弟によって花山院に幽閉されていた後醍醐帝は、京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峯山寺(こんぷせんじ)に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の角質から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の知らせが、再起を期して北国に向かったものの、越前金ヶ崎城で足利がtに包囲されている新田義貞たちの軍勢に伝わった。包囲軍に加わっていた武士たちの中で、瓜生保は宮方に心を寄せる弟たちに合流する意志を固め、包囲軍を率いる高師泰を欺いて本拠地である南越前のそま山に帰り、新田義貞の弟脇屋義助の子義治を大将として挙兵した。師泰は能登、加賀、越中の兵6千人に出動を命じ、そま山を攻めたが、瓜生は策を設けてこれを撃退した。

 北国から都に向かう街道が一部でも遮断されると、金ヶ崎城を包囲している足利方は、背後に敵の接近を許すことになり、甲状腺にも不都合が生まれるであろう、早いうちに、そま山に立てこもる宮方の軍勢の勢いが国中にいきわたらないようにしないといけないと考えて、足利一族で越前の守護である斯波高経は、北陸道7カ国の中から4カ国の軍勢3千余騎を率いて、11月21日に蕪木(かぶらき、福井県南条郡南越前町甲楽城=かぶらぎ)の海岸から越前の国府(越前市国府)に戻った。瓜生はこの情報を得て、敵に少しも脚を休ませては勝利はおぼつかないと、11月29日に3千余騎で押し寄せ、1日1夜の戦いの末、ついに高経の立てこもっていた新善光寺の城を攻め落とす。この時に討ち取られた足利方の300余人と、生け捕りになった130人の首をはねて、帆山河原(越前市帆山町を流れる日野川の河原)に並べてさらした。
 岩波文庫版の脚注によると、斯波高経が越前の国府に戻ったのは11月28日とする異本もあるようで、そのほうが前後の関係から見て適切である。先ほど調べて見たのだが、新善光寺城のあとは、越前市京町の正覚寺の境内に今でも残っているようである。

 この勝利の後、脇屋義治を大将とする宮方の勢いは近隣に行き渡り始め、平泉寺(勝山市平泉寺町にあった天台宗寺院。白山の供僧寺院として栄えた。明治以後は神社になっている)、豊原(坂井市丸岡町豊原にあった天台宗寺院、豊原寺)の衆徒、越前や近国の地頭御家人たちが引き出物を捧げ、酒肴を携えて、日ごとに大勢集まってきたが、義治はひどく興ざめた様子に見えた。

 それを不思議に思った瓜生兄弟の1人である義鑑房がその前に出て、「勝利が続いて目でたい時節であるのに、何故勇ましげなご様子をお見せにならないのですかと」と問うと、義治は「見方が2度の戦いに勝利して、敵を多く滅ぼしたのは、喜んでいいことではあるが、恒良親王や尊良親王の宮様方を始め、おじである義貞、父である義助以下、新田家の人々が金ヶ崎上で敵の方位を受けているので、さぞ兵糧につまり、戦いに苦しんで、片時も安心して入られないだろうと思いやると、珍味佳肴を口にしても味なく、酒宴に臨んでも楽しい気分にならないのだ」と答える。義鑑房は恐れ入って、「そのことであれば、ご安心下さい。このところ吹雪が激しくて、長距離の徒歩の行軍は難しいのですが、天気が少しでも晴れることがあれば、その時は必ず後詰の兵を派遣することにするので、それをお待ち下さい」という。そして義治が大将としての立派な見通しを備えていることに感涙を流さずには居られない。

 瓜生と共にそま山の軍に加わっていた宇都宮と小野寺(栃木県下都賀郡岩舟町小野寺に住んだ武士)は、この問答を聞いて、栴檀は双葉よりかんばしというが本当だと感心した。義治は本当に立派な人物であり、金ヶ崎城にこもる味方の様子を明け暮れ気遣っているところが頼もしい限りである。こうなれば、出来るだけ早く金ヶ崎の後詰を実行しようと、兵を集め、楯を作らせて、雪がそれほど降らない日には出発しようと待ち受けたのであった。

 義治は第17巻に義助と義顕がそま山から金ヶ崎に退去する際に、義鑑房が宮方の兵を挙げるときの大将にしたいと請い受けてひそかに預かった人物であり、その時13歳で義助がそれまでずっと身辺においてかわいがっていたと記されているが、ここではなかなかの分別を見せている。数え年で13歳ということは未だ中学生になるか、ならないかという年齢であり、現代に引き寄せて考えれば、酒を飲んだり、酒宴を楽しんだりするような年ではないことも視野に入れる必要があるかもしれない。

『太平記』(196)

2月6日(火)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 建武3年(南朝延元元年、1336)の冬、囚われの身であった後醍醐帝は、京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峯山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の知らせが、新田義貞の一党が立てこもっている越前の金ヶ崎城にもたらされた。いったんは足利方について、金ヶ崎を包囲する軍勢に加わっていた越前の豪族瓜生保は、宮方に心を寄せる弟たちと同心すべく、包囲軍に加わっていた宇都宮泰藤、天野政貞らと、本拠地のそま山に帰った。

 長兄の保が宮方に加わって兵を上げるために帰ってきたので、3人の弟たちは大いに喜んで、このような事態に希望をつないで弟の義鑑房が預かっていた(新田義貞の弟)脇屋義助の子、義治を大将として11月8日、飽和(あくわ、福井県南条郡南越前町阿久和、そま山のある地)で、挙兵した。同じ年の10月に、新田義貞が坂本から北国へと向かった際にはぐれた軍勢が、あちこちに隠れていたのが、この挙兵を聞いて、いつの間にか集まってきて、程なく千余騎になった。そこで、その中から500騎を分けて、鯖並(南条郡南越前町鯖波)の宿、湯尾(ゆのお、南条郡南越前町湯尾)の峠に関所を設け、北国の道を塞ぎ、昔の火打城(南条郡南越前町今庄にある源平合戦の古戦場)の巽(南東)にあたる山の、水や木が豊かにあって険しく切り立った峯を、本城にこしらえて、兵糧7千余石(1石は、約180リットル)を運び込んだ。これは万が一、両軍が正面衝突しての戦いに負けた場合に、この城に立てこもるための用意であった。

 金ヶ崎包囲軍の大将の1人であった高師泰(尊氏の執事である師直の弟、保にだまされて、包囲軍からの脱出を許した)は、この噂を聞いて、「この連中の退治が遅くなれば、白山の金剣宮や白山本宮の衆徒たちが合流して、由々しい事態となるだろう。すぐさまそま山の城を攻め落として、安心して金ヶ崎の城を攻めることにしよう」と、能登、加賀、越中3カ国の軍勢6千余騎をそま山城に向かわせた。瓜生はこれを聞いて、要害の地に敵が陣地を築くことが無いようにと、(現在の南越前町の)新道、今庄、宅良、(敦賀市の)葉原一帯の民家を、一軒残らず焼き払い、そま山上の麓の湯尾の宿だけを、わざと焼かずにそのままにしておいた。
 冬の寒さが厳しい中なので、わざわざ戦闘を起こさなくてもいいのではないかと思う。高師泰は雪国の武士では無いので、そのあたりの分別が無かったように思われる。地元の武士である瓜生のほうがその点では用意周到である。とはいえ、冬の最中に自分たちの家を焼き払われた住民たちがどれほど飢え、凍えたかを想像することも大事ではないかと思う。

 そうこうするうちに、11月23日、寄せ手の6千余騎が、深い雪の中をカンジキを装着して、山路8里(約32キロ)を1日で踏破し、湯尾の宿に到着した(かなりの強行軍である)。ここからそま山城へは、50町(5キロ強)離れており、しかも両者の間には大きな川が流れている(ここで「大河」と記されているのは、九頭竜川の支流の日野川である。かなり大きな川であることは確かだが、上流なので、「大河」というほどの規模の流れであるかどうかは疑問に思われる)。日がくれて、雪道を歩き疲れている。十分に休息をとって、明日は攻撃に取り掛かろうと、あまり多くはない民家に大勢で泊まりこみ、火を起こして暖をとり、前後不覚に寝入っていた。

 瓜生は、目論んだとおりに敵を谷底におびき寄せて、今が頃合だと思ったので、その夜更けに、野伏(武装した農民・地侍の集団)3千余人を後ろの山へ上げ、足軽(軽装の歩兵)700余人を左右に展開させて、三方から鬨の声をあげて攻め寄せる。寝ぼけた敵兵たちは、鬨の声に驚いて慌てふためくところに、宇都宮氏配下の紀氏・清原氏の2つの党の武士団が乱入し、家々に火を掛けたけたので、よろいやかぶとなどの武具をつけたものは太刀を持たず、弓を持ったものは矢を負わず、5尺あまり降り積もった雪の上に、カンジキもつけずに走り出したので、雪の中に胸の辺りまで落ち込んでしまい、足を抜こうとするけれどもうまくいかず、泥にまみれた魚のごとくで、生け捕りにされるもの300人、戦死したものは数を知らずという体たらくである。幸いに逃げ延びることが出来たものも、みな武器や武具を捨てなかったものはいないという惨敗ぶりであった。

 寄せ手が6千余騎、守るほうが500余騎という兵力の差はあるが、城攻めの場合には、寄せ手が圧倒的に多数でないと落城させるのが難しいというのが常識で、この戦いでは寄せてのほうが短兵急に進軍するなど、兵法を無視した無理な作戦を立てている。守る瓜生のほうは、土地勘がある上に数において劣勢なので、奇襲を試み、さらにこれまでもあちこちでその役割を演じていた、野伏や足軽などの戦力を活用して勝利を収めている。このあたりの瓜生の戦い方は、楠正成を彷彿とさせるのだが、これから物語りはどのように展開していくのだろうか。

『太平記』(195)

1月30日(火)曇りのち晴れ

 比叡山に逃れていた後醍醐帝は、足利尊氏の密書に応じて京都に還幸することになったが、それに先立って新田義貞に東宮の恒良親王を託し、北国で再起を期すように命じた。京都に還幸した帝は、足利直義によってとらえられ、花山院に幽閉されたが、その際、北朝の光明院に三種の神器を渡すように迫られ、偽の神器を渡していた。
 囚われの身であった後醍醐帝は、京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峰山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から、宮方に味方しなかった。

 「先帝吉野に御座あつて、近国の兵馳せ参る由聞こえければ、京都の周章は申すに及ばず、諸国の武士も、天下また穏やかならじと、安き心もなかりけり。」(第3分冊、226ページ、先帝が吉野に落ち着かれて、近隣の武士たちがそのもとに参集しているという噂が伝わってきたので、京都の慌てぶりはもちろんのこと、諸国の武士も、天下がまた穏やかではなくなるだろうと、心をやすめることが出来なくなった。) 『太平記』の作者はこのように記しているが、京都の武家方の動揺を描く一方で、後醍醐帝を「先帝」と表記していて、作者自身の考えも落ち着かないような書き方になっている。

 後醍醐帝が吉野に逃れられてから1月余りたっても、新田義貞たちが立て籠もっている金ヶ崎の城は、陸上を足利方の軍勢に包囲されていて、外の世界との交流が絶たれているために、このような情報は伝わってこなかった。ところが、11月2日の朝凪の海を、敦賀湾をはさんだ金ヶ崎の対岸である櫛川の海に突き出した岬の先端から金ヶ崎を目指して泳いでくるものがいた。(陰暦の11月といえば、冬のことで海の水は冷たかっただろうと思う。) 海藻をとる漁師であろうか、あるいは波間に漂う水鳥を見間違えているのであろうかと、さらに目を凝らして見ていると、そうではなくて、名張新左衛門という武士が吉野に逃れられた帝から出された綸旨を髻に結び付けて泳いでやってきたのであった。城内の人々はその趣を不思議がりまた驚き、急いで帝の綸旨を開いてみると、「先帝は密かに吉野へ臨幸され、近国の士卒はみなそのもとに馳せ参ったので、すぐに京都を攻められることになるだろう」ということが記されていた。

 足利方は後醍醐帝の情報が金ヶ崎城内に伝わったことを知り、安心できなくなった一方で、城内の人々は諸国で宮方の武士が挙兵し、そのうちに城を包囲する足利方を追い払うことができると喜んだのであった。

 さて、17巻に登場した瓜生保は、自分たちを頼りにやってきた脇屋義助と越後に向かおうとしていた新田義顕の軍勢をいったんは歓迎したものの、尊氏の偽綸旨の謀により変心して、足利(斯波)高経の配下に属すようになり、金ヶ崎の包囲軍に加わっていた。しかしその弟の重(しげし)、照(てらす)、義鑑房の3人は、兄と行動をともにせず、居城である杣山城付近に留まっていた。彼らは内心では、10月に、新田の人々が北国にやってきた際に、義鑑房がひそかに預かっていた脇屋義助の子の義治を大将として宮方に呼応して兵をあげようとその機会をうかがっていた。〔既に触れたが、瓜生一族は嵯峨源氏であり、この系統の人々は一字名をつける習わしであった。〕

 兄の保は、このことを聞いて、弟たちが、もし軽率にも足利方に敵対して兵をあげたら、自分一人だけが知らないと言い逃れることはできない、金ヶ崎で打たれてしまうと思って、兄弟が力を合わせて討死をもしようと考えを変えて、包囲軍の中にも宮方に心を寄せるものがいてもいいと、人の噂に耳を澄まし、心底を探ろうとしていた。その中でかつては新田方で戦っていた宇都宮泰藤と天野政貞という武士と一緒になり、家々の旗の紋についての評判をしていた。すると、末座にいた誰ともわからぬものが、「輪の中に横線を二条引いた足利の紋(=二引両)と、輪の中に太い横線が一条の新田の紋(大中黒)と、どちらがすぐれた紋であろうか」と質問の声が上がった。宇都宮は「紋の善悪はともかくとして、吉凶をいえば、大中黒ほどめでたい紋はないだろうと思う。その理由は、北条の紋は三鱗形であったが、今は足利の二引両になった。これをまた滅ぼそうとする紋は、一引両(=大中黒)に他ならない」という。すると天野も「もちろんである。易経という中国の書物に一文字を敵(かたき)なしと訓じた個所がある。この紋は必ずや天下を治めて日本全土に全く敵がない世の中を実現するだろうと思う」と文字についての知識を披露した。そばにいた武士がこれを聞いて、「天に口なし。人をもって云はしむ」(第3分冊、229ページ、天は物を言わないが、その意を人の口を通じて言わせる、当時のことわざ)といって、遠慮する様子も見せずに笑いたわむれた。

 瓜生保はこれを聞いて、さてはこの人々も足利方を裏切って宮方に味方する気持があるなと、うれしく思い、常に酒を送り、茶を進めて、引き続いてしきりに仲良くなろうと試み、潮時を見て、宮方として挙兵を思い立っていると内心を打ち明けると、宇都宮も天野もともに、異論はないと同意した。それでは、やがて杣山に帰って挙兵しようと、相談を進めていた。
 長期の包囲戦になると、にらみ合いに飽きて、陣営を去っていく武士たちが出るのが習いなので、尊氏の執事である高師直の弟の師泰は、包囲軍の諸国の軍勢が、許しを得ずに、それぞれの所領に帰るのを留めようと、四方の口に関所を設けて、人を通そうとしなかった。もし所用があってこの道を通るものは、師泰から判を貰わなければならない。
 瓜生は、計略を立てて師泰を騙して関を通り抜けようと考え、彼のもとに行って、「味方の軍馬の飼料を調達するために、杣山に人足を150人遣わそうと思う。関所の通行の札を頂きたい」と申し出た。師泰の執事である山口入道(山口は静岡県湖西市山口に住んだ高一族だそうである)は、杉の板で札を作り、「この夫150人通すべし」と書いて、判を押して与えた。瓜生はこの札をとって、下の判だけを残し、上の文字を全部削ってしまい、「上下(身分にかかわらず)三百人通すべし」と書き直して、宇都宮、天野とともに、三山寺(福井県敦賀市深山寺)の関所を難なく通り抜けていった。

 物語の舞台はまた、北国(主として越前)に戻る。季節は冬である。包囲軍は春を待って攻勢に出ようということであろうが、金ヶ崎に籠城している新田勢は何とか後詰の軍勢が包囲網を突破してくれることを願うのみである。包囲軍から瓜生が抜け出して、後詰を試みようとするところで、物語は終わるが、果たしてこの企ては成功するか、それはまた次回に。
 宇都宮の三鱗(北条)→二引両(足利)→一引両(=大中黒、新田)という論法は面白い。徳川氏は新田一族の得川氏の末裔を自称したが、その紋が大中黒ではないのは、新田の紋が大中黒だと知らなかったという議論があるけれども、戦国時代における『太平記』の普及を考えると、この議論には無理があるような気もする。

『太平記』(194)

1月23日(火)晴れ、昨日降り積もった雪がどんどん溶けてゆく

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月10日に比叡山から京都に還幸された後醍醐帝は、足利直義によって三種の神器を北朝の天皇に渡すよう強要され(偽物の神器を渡した)、自らは花山院に幽閉された。しかし、12月に(『太平記』が8月の末と記すのは前後の整合性がない)京都を脱出して吉野に向かい、吉野金峰山寺に迎えられた。楠木正行ほかの宮方に心を寄せる近畿地方の武士が参集した。

 南大和、河内、紀伊など近国の武士たちはもちろんのこと、諸寺、諸社の衆徒(僧兵)、神官に至るまで帝の御威徳に従って、御身辺の警護など軍用を務めたり、盛運を願って御祈祷をいたしたりしたのであるが、紀州根来(和歌山県岩出市根来)の根来寺大伝法院の大衆は1人も吉野に参じなかった。これは必ずしも、根来が武家寄りで宮方を支持していなかったからではなかった。後醍醐帝が、高野山(金剛峯寺)を御崇敬になっていて所領を寄せられ、さまざまの御立願をされてきたことを知って、妬んでいたためである。

 おおよそ仏教の本旨はおだやかな心を落ち、耐え忍ぶ心を持つべきであるということであるのに、根来と高野が、なぜこれほどまで対立するのかをめぐっては歴史的な理由がある。〔天台宗の比叡山延暦寺(山門)と長良山園城寺(三井寺、寺門)間にも同じような対立があった。〕 平安時代後期に、高野の伝法院に、覚鑁(1095-1143)という一人の上人がいた。長年修業に励んだが、なかなか本格的な悟りの境地に入ることができない。そこで醍醐寺の覚洞院の清憲(勝憲が正しい、信西=藤原通憲の子だそうである)僧正のもとに参じ、一つの印(身密)と一つの真言(口密)とを伝授され、さらに百日修業を積むと、その効果が現れて、自然智(自然に生ずる悟り)を得ることができた。それで仏法の真理を次々と身に着けていった。

 すると仏道を妨げようとする天狗たちが、何とかしてこの僧の心の隙を狙って、不退転の修業楽音を妨害しようとしたのだが、上人の修業に励む力が強くて、隙ができない。ある時、この上人が温室(蒸し風呂)に入ってできものを湯気で蒸して治療したが、気持ちがよくて、心のゆるみが生じた。そこに付け込んで天狗たちは、無事平穏を害する造作魔の心を植え付けた。そのため覚鑁は、伝法院を建立して、自分の弟子たちを置こうと熱心に思いはじめ、鳥羽法皇にお願いをして、堂舎を建て、僧房を作った。伝法院が完成すると、覚鑁上人はすぐに悟りの境地に入り、、弥勒菩薩の56億7千万年後の御出現を待つことにした。

 高野の他の院の衆徒たちは、これを聞いて、なぜ覚鑁は高慢な心にとらわれ、弘法大師空海と同じようにご入定をしようとするのか。そういうことならば、伝法院を破却しようといって押し寄せ、伝法院を焼き払い、覚鑁の廟を彫り破ってみると、上人は不動明王の姿をして、迦楼羅煙の中に座っている。人々が力づくで引っ張り出そうとしても、棒でたたいてもびくとも動かない。さらに石を投げても、石が砕けてしまう。覚鑁はその様子を見て、この僧たちの投げる礫はまったく自分の体に当たらないだろうと驕慢の心を起こした。そこへ、石飛礫が1つ飛んできて、上人の額に当たり、血がにじみ出した。「やっぱりそうか」と押し寄せてきた大衆は、一斉に大笑いして自分たちの坊へと帰っていった。

 覚鑁上人の弟子たちは、これを心憂きことと思い、伝法院の御廟を根来に移し、真言秘密の道場を建てた。このような経緯があるので、高野さんと根来の両寺院は、互いに対立を続けてきたのである。

 新田義貞の率いる軍勢の北国における苦戦、後醍醐帝の京都脱出と南朝の成立、今度は高野山と根来の確執と物語の展開に連続性、一貫性があまりなく雑然と話が進んでいるように思われる。この後、物語はまた義貞の方に戻る。
 覚鑁の流れをくむ真言宗を新義真言宗といい、高野山の古義真言宗と区別する。新義真言宗には智山派と豊山派の2つの流れがある。根来は、その後も強い勢力を持ち、小牧・長久手の戦いのときには徳川家康の同盟者として戦った。そのため、徳川幕府に庇護され、関東地方には成田山新勝寺や川崎大師平間寺などこの派の有力寺院がある。古義真言宗にも御室派(仁和寺)、大覚寺派、醍醐派(醍醐寺)などの流れがあり、大覚寺は後宇多院が仙洞御所とされたため、亀山→後宇多→後二条→後醍醐と続く皇統を大覚寺統というのであるが、その一方で醍醐寺三宝院の賢俊僧正が足利尊氏の護持僧であったというように、宗派や寺院によってその政治的な姿勢は違っていた。
 
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