『太平記』(219)

7月17日(火)晴れ、暑い。

 今回から『太平記』第20巻に入る。『太平記』は第1巻~第40巻から構成されているが、第22巻が欠けているので、全部で39巻ということになり、第20巻は折り返し点であるといってもいい。

 建武3年(南朝延元元年、1336)5月、九州から反攻に転じた足利尊氏・直義軍が兵庫で宮方の新田義貞の軍を破り、義貞を応援にやってきていた楠正成が戦死する。足利方が京都を奪回し、後醍醐帝は比叡山に遷幸され、京都への復帰を期して何度か攻撃を試みられるが、補給路を断たれて戦闘を継続できなくなり、京都に戻り、尊氏・直義兄弟によって花山院に幽閉される。しかし京都を脱出して、吉野の金峯山寺に落ち着かれた。一方、比叡山から恒良親王を奉じて北国に向かった新田義貞は、本拠としていた(現在の福井県敦賀市にあった)金ヶ崎城を攻略されたが、宮方の瓜生兄弟の拠る南越前の杣山城を足掛かりとして次第に勢力を挽回していた。建武4年(南朝延元2年、1337)8月に、奥州の北畠顕家が大軍を率いて都を目指し、利根川の合戦で足利方に勝利する。11月(史実は翌年8月)足利尊氏は北朝により征夷大将軍に任じられる。12月、北畠顕家の奥州勢が足利方の守っていた鎌倉を陥落させる。建武5年(この年、暦応と改元、南朝延元3年、1338)正月、北畠顕家の奥州軍が鎌倉を出発して西上、鎌倉から退却した足利方の武将たちがそれを追って西上、美濃の青野ヶ原で両軍が戦うが、数において勝る奥州軍が勝利を収めた。京都では、高師泰、佐々木(京極お)導誉らの軍勢を派遣、奥州軍はなぜか、対決を避けて伊勢方面へと迂回し、足利方が京都を守り抜くという結果となった。〔このあたり、当時の記録に即して、『太平記』の記述の信憑性の詳しい検討を必要とする。〕

 新田義貞は、暦応元年(南朝延元3年、1338)の正月のはじめ(実際は2月の中旬)に越前府(こう、現在の福井県越前市国府)の新善光寺城に拠る斯波高経との戦いに勝利し、その後、(越前)国内の城郭70余か所を攻め落として、その勢力をとり戻していた。比叡山からは、3000の衆徒が旧来のよしみをもってひそかに連絡してきていたので、まず比叡山に戻って衆徒たちと力を合わせ、都の南方の宮方の軍勢と呼応して京都を攻めれば、極めて容易なことと思われたのだが、義貞は、斯波高経がなお越前の黒丸城(福井市黒丸町にあった、小黒丸城ともいうようである)に踏みとどまって抗戦を続けていたので、これを打ち破ってから上洛するのでないと悔いを残すと、つまらない小事にとらわれて、大事を後回しにしたのは残念なことであった。
 『太平記』の中では義貞は、小さなことに意地を張って大局を見失うことの多い、武将として描かれているが、それはあくまで『太平記』の作者の描く義貞像であって、本物の義貞がどのような人物であったかについては別の意見があってもよいのではないかと思われる。それに、義貞にとって足利一族の中の重鎮である斯波高経は侮ることのできない強敵であったことも否定できない。

 5月2日に義貞は、自ら6千余騎の軍勢を率いて、国府(つまり越前市国府)へと進出、斯波高経が防御のために足羽川流域(越前国足羽郡・吉田郡)に築いていたいわゆる足羽七城のうちの波羅蜜(福井市原目町)、安居(あご、福井市金屋町)、河合(福井市川合鷲塚町の辺り)、春近(はるちか、堺市春江町)、江守(福井市南江守町)の5か所に5千余騎の兵を差し向け、足羽七城の攻略を目指す。
 まず一番に、義貞の妻である勾当内侍の兄弟である一条行実が500余騎で江守から押し寄せ、黒龍(くずれの)明神の前で戦闘を交える。行実の軍、劣勢で押し戻され、元の陣へ引き返す。
 一番の戦法にお公家さんを使うというのは、戦術的にまずいのではないか。案の定、戦闘を有利に展開できずに戻ってきている。黒龍明神というのは福井市西南部の足羽山東麓の毛谷黒龍(けやくろたつ)神社のことだそうである。実は私は、40年ほど昔、足羽山に登ったことがあるが、この神社については気づかなかった。その頃は、『太平記』には全く興味がなかったのである。

 二番目に、義貞の重臣である船田経政が、500余騎を率いて安居の渡りから押し寄せ、軍勢の半分ほどが川を渡っているときに、斯波高経の副将である細川出羽守が150騎で対岸にかけ向かい、高くそびえたった岸上に陣取って、矢を一斉に射かけたので、ただでさえ水量の多い川の水に難儀していたものだから、馬も人も足を取られ、溺れ、大勢の戦死者を出してしまい、これまた戦果を挙げることなく、引き返すことになる。
 安居の渡りというのは九頭竜川の大支流である足羽川と日野川が合流するあたりで、それほど急流ではないが、水量は多く、川も深いはずである。船田は一番手の一条行実と違って歴戦の武士ではあるが、かなり軽率な攻め方をしたといわざるを得ない。

 三番に新田一族の細屋秀国が、1000余騎を率いて河合の庄から押し寄せ、その北の端にある勝虎城(しょうとらがじょう、福井市舟橋町。九頭竜川西岸、北国街道の渡河地点にあった)を包囲し、一気に攻め落とそうと塀によじ登り、堀を渡ろうと攻撃をしているところへ、斯波の被官で越中の豪族である鹿草(ししくさ)兵庫助が300余騎で包囲軍の背後を突いて襲い掛かった。数においては劣勢であったが、必死の戦いぶりである。細屋の軍勢は、城を守っていた軍勢と、背後から襲い掛かってきた軍勢とに追い立てられ、これまた元の陣に引き返さざるを得なかった。

 このように足羽七城をめぐる攻防戦は、3回にわたり展開されたが、それぞれ新田勢は戦果を挙げることなく敗退した。この3人の大将は「皆、天下の人傑、武略の名将たりしかども」(第3分冊、349ページ)と『太平記』の作者は書いているが、これは贔屓目に見た記述であろう。それぞれ相手を見くびって、勝ちを急いだのが敗因だという。〔これは部分的にせよ、当たっている。〕 それで、後漢の光武帝が戦いに臨む際に、大敵を見ては侮り、小敵を見ては警戒したというのは、それなりに筋の通った意見であると思われたことである。〔この時代の知識人ならば、誰でも知っていたはずのことであるが、建武というのは後漢の光武帝時代の年号である。〕

 新田義貞は越前と北陸地方で力を増してきたが、まだまだ万全の体制を築いたとは言えない。義貞は武勇に秀でているが、軍略に優れているとは言えない(執事であり、有能な助言者であった船田義昌が戦死したのが痛い)。宮方全体に言えることであるが、どうも人材が不足している。さて、今後の展開はどうなるか? 足羽七城についてはインターネットで検索すると、その遺跡を探訪したという記事がいくつも見つかるので興味ある方は自分で調べてみてください。
 昨日(7月16日付の『朝日』朝刊に「『想定外』を考える 元気ない太陽 夏が消える」という記事が出ていた。この記事では触れられていなかったが、14世紀の初めのころというのは、地球の気温が異常に下がった時期だったのではないかという説がある(このために海面が後退し、新田義貞の稲村ケ崎での海岸線からの突破もこのことと関連があるのではないかといわれる)。比叡山から越前に向かう新田義貞の軍が途中で寒さに出会い、かなりの部分が凍死したというのもこのことと関連しているようである。
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『太平記』(218)

7月10日(火)晴れ、暑い

 建武4年(南朝延元2年、1337)8月、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家は、軍勢を集めて白河の関を越え、鎌倉管領足利義詮(尊氏の三男)の軍と利根川で戦って勝利した。北条時行(高時の次男)は伊豆で、新田徳寿丸(義興、義貞の次男)は上野で挙兵し、鎌倉の足利方は、敵の大軍を迎え撃ったが敗走した。
 建武5年(8月に暦応と改元、南朝延元3年、1338)正月、北畠顕家の大軍が鎌倉を発って西上したが、鎌倉で敗れた足利方も、軍勢を集めて西上した。顕家軍とその跡を追って西上した足利軍は、美濃国墨俣川、青野原一帯で戦い、足利方は土岐頼遠と桃井直常の奮戦にもかかわらず敗れた。

 京都の足利幕府は、奥州勢が上洛してくるという情報を得ていたが、美濃には土岐頼遠がいるので、大軍が西上してきても、一支えはできるだろうと当てにしていたところが、頼遠が、青野原の合戦に敗北して、行方不明になった、あるいは戦死したといううわさが伝わってきたので、京都方の慌てぶりは一通りではない。

 ということになると、宇治、瀬田の橋を落して防御を固めて待ち受けよう、そうでなければまず西国の方に引き退いて、四国、九州の軍勢を味方に加えて、そこから敵に対して反攻を仕掛けようなど、意見がいろいろ出て、軍議の結果が一つの案にまとまらなかったのであるが、この頃、侍所の頭人であった高越後守師泰(尊氏の執事師直の弟)が、しばらく思案してから、次のように述べた。
 「昔から今に至るまで、都に敵が攻め寄せてきたときに、宇治、瀬田の橋を落して戦うという戦術をとって戦ったことは数知れずある。とはいうものの、この川(瀬田川→宇治川)で敵を支えて、都を守り抜いたという事例をいまだかつて聞いたことがない。これは、攻め寄せるほうの軍勢は後ろを味方にして勢いに乗り、防ぐ方は、かろうじて洛中を維持して気力をなくしているからだ。敗戦続きの不吉な例を踏襲して大敵を都の近くで待ち受けるよりも、戦に勝つその機を窺って、急いで近江、美濃のあたりに駆けつけ、戦いを畿内の外で決めるほうがよい」といかにも勇気に満ちた様子で、理にかなった戦術を説いたので、尊氏も直義も、その通りだと納得して満足したのであった。

 そう決まったら時を移さず向かえということで、大将軍には高越後守師泰、高一族の播磨守師冬(師行の子、師直の猶子)、足利一族の細川刑部大輔頼春、佐々木(六角)大夫判官氏頼(時信の子)、佐々木(京極)佐渡判官入道道誉、その子息の近江守秀綱、このほか諸国の大名53人、都合1万余騎が2月4日に都を出発して、6月の早朝に近江と美濃との境となっている黒地川(黒血川)に到着した。奥州勢も垂井、赤坂に到着したという情報が得られたので、ここで待ち受けようと、前方に関の藤川(藤古川)、後方に黒地川という2つの川のあいだに陣を取った。
 兵法上の常識としては、戦闘に際して山を背後に、川を前方にして陣を取るのが常道であるが、そうせずに、大河(というほどの川ではないが)を背後に陣を取ったのは、それなりの戦術であったのである。
 ということで、『太平記』の作者は足利方の陣構えは、漢の高祖(劉邦)と楚の項羽とが天下を争ったときに、高祖側の大将韓信が採った嚢砂背水の陣の戦法に倣ったものだという。
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 そうこうするうちに、北畠軍10万余騎は、垂井、赤坂、青野原にあふれて、東西六里、南北三里に陣を張る。夜になって篝火を託様子を見ると、天の全ての星が落ちて、地上できらめているように見えた。この時、越前では新田義貞、脇屋義助兄弟が、北陸道の武士たちをうち従えて、天を動かし、地を治めるような盛んな勢いを見せていた。それで、奥州勢が近江と美濃の境の黒地に陣取る足利軍を追い払うのが難しいのなら、北近江を経由して越前に向かい、義貞と合流して、さらに比叡山に向かい、京都を北から見据えて、南方の吉野の宮方の軍勢と連絡を取り、東西から〔南北からというのが正しいと思うのだが〕京都を攻めれば、足利方は一日も持ちこたえられないと思われたのだが、顕家は、自分の功績が合流によって義貞に奪われるのではないかと嫉み心を起こしたのであろうか、北陸の宮方と合流することも考えず、黒地の足利方とも戦わず、急に士卒を率いて、伊勢から吉野の方に向かったのであった。

 その結果、これまで鬼神のように恐ろしいと評判であった奥州勢は、自分たちよりも少ない軍勢の黒地の足利方と戦いもせず、あらぬ方角に転進してしまい、しかも奥州軍の後から追いかけてきた足利方の軍が京都に到着したので、宮方は恐れるに足りないと、足利幕府の方では相手を侮り始めたのであった。

 かくして、『太平記』19巻は終わる。宮方の起死回生を狙って奥州からはるばる遠征してきた北畠顕家の企ては竜頭蛇尾の様相を呈してきた。それにしても、足利方が『太平記』では50万余騎、今川貞世(了俊)の『難太平記』でも30万余騎と記されている大軍を迎え撃つのに1万余騎の軍を派遣するというのは奇妙に思われる。それから、桃井直常、土岐頼遠が、北畠軍と青野原で戦ったと書かれている直後に、奥州軍が青野原と、そこから少し後退した垂井、赤坂辺に陣を張っているというのもおかしいといえばおかしい。前回紹介したように、本郷和人さんは、鎌倉からやってきた足利軍が猛スピードで進軍する奥州勢に追いついたこと、そして自分たちよりも大規模な軍勢に対し、小人数の軍勢の逐次投入をしたことの2つが合理的とは言えないと論じている。『太平記』では土岐頼遠に奥州軍が勝ったと記されているが、足利方の大将の一人であった今川範国の息子の貞世(了俊)が書いた『難太平記』には、足利軍が勝ったが、その功績は土岐頼遠に帰せられていて、今川家の武勲が軽んじられていると書かれている。さらに本郷さんは、『太平記』、『難太平記』よりも『保暦間記』の方が歴史的な事実を正確に記録しているとして、足利方が戦闘に勝って、北畠軍が伊勢に迂回することになったのだという解釈を示している。歴史的な事実がどのようなものであれ、このあたりの『太平記』の記述がどうも不自然な作為に満ちていることは否定できないようである。

 一つ付け加えておくと、京都から派遣された幕府軍の中に北近江を本拠とする佐々木(京極)道誉と、南近江を本拠とする六角氏頼が加わっていることが注目され、足利方が地の利を計算していることが見て取れる。特に京極氏は道誉の頃までは、伊吹山の南麓の柏原の清滝寺のあたりを本拠地としていた(道誉の代で、多賀大社の近くの勝楽寺城に移る)。『太平記』の作者は、高師泰の兄の師直とか、佐々木導誉とか、土岐頼遠のような婆沙羅大名たちを嫌っていたことは明らかで、彼らの武勇によって足利方が勝利を収めた青野原の戦いの歴史的な事実を歪曲してまでも、彼らの事績を歴史から抹消したいと思っていたと考えるのは、考えすぎであろうか。
 
 

『太平記』(217)

7月3日(火)晴れ、暑い。

 建武4年(南朝延元2年、1337)8月、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家は、白河結城家の結城宗広をはじめとする奥州の軍勢を集めて、8月19日に白河関を発ち、鎌倉管領足利義詮(尊氏の三男、後の室町幕府二代将軍)の軍と利根川で戦って勝利した。〔戦闘がいつ、どこで行われたかを『太平記』の記事から知ることはできない。この時代の利根川の流れが東京湾に注いでいたことは知られているが、より具体的にどのようなものであったかを正確に知ることはできないようである。ただ顕家の率いる奥州軍は鎌倉街道の中の道を進んだと考えると、現在の栗橋市付近で戦闘が行われたと推測できる。中の道を進んだとすると、その後、顕家軍が武蔵国府に滞在して様子を見たということとも矛盾しない。『太平記』本文には、足利義詮が上杉憲顕を大将として派遣したとあり、義詮自身が出陣したとは書かれていない。〕
 伊豆では鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の次男である相模次郎時行が、上野では新田義貞の次男徳寿丸(後の義興)が挙兵し、鎌倉の足利方は、敵の大軍を迎え撃ったが敗走した。〔鎌倉街道の上の道から攻め込んだ奥州軍に斯波家長が敗死し、その他の軍勢は散り散りになりながら逃げたと記されている。〕
 建武5年(この年8月に改元し、暦)応元年、南朝延元3年、1338)正月、北畠顕家の大軍が鎌倉を発って西上したが、鎌倉で敗れた足利方も、軍勢を集めて西上した。60万余騎の奥州軍が西へと急行し、そのあとを8万騎の足利軍(上杉憲顕、桃井直常、高師茂、坂東八平氏、武蔵七党、芳賀高名らの軍勢に途中から、今川範国、土岐頼遠らが加わる)が追いかけるという展開になった。

 北畠顕家の軍勢を追う関東からやってきた足利勢は、美濃の国に到着して軍議を開き、将軍足利尊氏はおそらく宇治、瀬田の橋板を取り外して、応戦されるだろう。この作戦をとった場合、奥州軍はなかなか渡河できず、無為に日々を過ごすことになるだろう。そうして敵が倦み疲れて弱ったところを川の向うの味方とあい呼応して攻め立てれば、たちどころに勝利できるだろうという話合いになった。
 その時、それまで黙って話し合いを聞いていた土岐頼遠が口を開き、「そもそも、目の前を進軍していく敵を、それが大勢だからといって、矢の一本も射かけないで、後になって疲れるまで待つというのは、昔楚の宋義が「虻を殺すには、その馬を撃たず」といったのと似ているのではないか。世間の評価は、この目の前の敵との一戦にある。都にいる味方がどう動くかはまだわからないのである。頼遠の考えでは、命がけの一戦をして、義によって(戦死して)さらすことになった屍を墓場の苔に朽ちさせようと思っている」と断固として言い放ったので、他の大将たちもその言い分を認めて、この意見に賛同したのであった。〔ここで頼遠が言っているのは、あてにならない先のことばかり考えて、事態の本質を見失うべきではない。目の前の敵と戦うべきであるということであろう。その意味で、この引用が適切かどうかは、また別の問題である。岩波文庫版の脚注に詳しい解説が出ているが、この話は『史記』の「項羽本紀」に出てくるそうで、『太平記』の作者が必ずしも正確に元の話を理解していなかったことが読み取れるが、詳しいことは各自で調べてみてください。他の大将たちは、利根川の戦い、鎌倉の攻防戦と連戦し、東海道を猛スピードで進撃する奥州軍を追いかけてきてへとへとになっているのに対し、頼遠はずっと美濃にいたので、元気いっぱいで、そのあたりの状態の差が意見の違いになって表れている。このように勇ましいことを言われると、なかなか反論をしにくいというのは、会議の中ではよくありがちなことである。〕」

 奥州勢の先陣は垂井、赤坂あたりについていたが、痕から追いかけてきた後攻めの軍勢が近づいてきたという情報が入ってきたので、まずその敵を退治せよということで、3里引き返して、美濃、尾張両国のあいだのあちこちに陣を構えて敵を待ち構えた。
〔足利勢は美濃で軍議を開いたと書かれているのに、奥州軍は美濃、尾張の両国の国境付近まで戻ってきたというのがどうも腑に落ちない。〕
 後攻めの勢(足利勢)は、8万余騎を五手に分けて、攻撃の順番を鬮(くじ)で決めたので、まず一番に信濃の守護小笠原貞宗と、芳賀禅可(高名)が2千余騎で、自貴(じぎ、食=じきともいう。岐阜県羽島郡岐南町の旧地名。したがってこの渡しというのは木曽川の渡しということになる)へと駆け寄せれば、奥州の伊達郡、信夫郡の兵たち3,000余騎が川を渡って対抗して戦い、芳賀、小笠原は散々にかけ散らされて、大敗を喫したのであった。

 二番手として、高(大和守)重茂が3,000余騎を率いて墨俣川(長良川)を渡河して攻撃をかけようとしたが、川を渡り終えないうちに相模次郎時行が5,0000余騎で攻めかかり、互いに笠符(かさじるし)を目印にした馬上の組討となり、組んで落ち、落ち重なって首を取る。約1時間余り戦闘は続いたが、大和守の頼みとしていた300余騎の兵が戦死したので、東西にばらばらになって逃げ、山を退却場として引き上げた。

 三番手として今川範国(貞世の父)、三浦新介高継が阿字賀(羽島市足近町)に進出して、横合いに攻めかかろうとしたが、奥州勢の南部、下山、結城宗広が1万余騎でこれを迎え撃ち、火が出るほどの激しさで戦った。三浦、今川はもともと少数だったので、この戦闘にも負けて、川から東へと引き退いた。

 四番手として、上杉憲顕、憲成の2人が武蔵、上野の兵たち都合1万余騎を率いて、青野原(大垣市青野町から不破郡垂井町一帯の野原で、後には関ヶ原と呼ばれるようになった)に攻め入った。奥州軍からは新田徳寿丸と宇都宮の紀清両党が3万余騎で立ち向かう。上杉の紋は、竹に対雀(むかいすずめ)、新田は大中黒、宇都宮は右三つ巴、両軍の武士たちはともに北関東の日ごろから知り合っている間柄だったので、卑怯なふるまいをして後々までの物笑いの種になるようなことはしまいと、互いに一歩も退かず、命の限り戦った。両者死に物狂いの戦闘が展開されたが、数に勝る奥州勢が勝利をおさめ、上杉方はついに敗れて、右往左往に落ちてゆく。

 五番手として桃井播磨守直常、土岐弾正少弼頼遠が精鋭ばかり1,000余騎をすぐって、はるかに開けた青野原に打ち出て、敵を西北に受けて控えた。ここには国司鎮守府将軍顕家卿、その弟の顕信、出羽、奥州の6万騎の軍勢を率いて迎え撃つ。敵味方の数を数えると、奥州勢1,000騎に足利勢1騎で向かっても、まだ足利方が足りないという様子であったが、土岐と桃井はひるむ ことなく、前に恐れるような敵はいないし、後ろに退こうとする心は全くないような様子であった。鬨の声を挙げる時間も惜しむ様子で、1,000余騎が一体になって敵の大勢の軍勢の中に駆け入り、半時ばかり戦ったが、さっと戦いを切り上げて敵中を駆け抜け、軍勢を点検してみると、300余騎が戦死していた。残る700余騎をまた一手にまとめて、奥州勢の副将軍である北畠顯信の控えていた3万余騎の中に駆け入り、東に敵を追い、南に駆け散らし、汗をかいている馬の足を休めようともせず、太刀の切り結ぶ音を止めるときもなく、や、という声を出して切り結び続けた。

 1,000騎が1騎になるまでも、引くな、引くなと互いに気を励まして、これが勝負の分け目と戦ったのではあるが、雲霞のような敵の大軍に圧倒され、ここかしこで包囲され、勢いがつき、気力も衰えてしまい、700余騎だった軍勢も次々に討たれて23騎に減ってしまい、土岐頼遠も左の眼の下から右の口脇、鼻まで切り傷を負い、長森の城(岐阜市長森)に退却する。桃井も30回を超える攻防に、率いる武士は76騎にまで減ってしまい、乗馬の尻や、鬣の下の部分まで太刀を浴びせられ、戦いにつかれたので、戦闘はこの戦いに限らないぞ。さあ、者ども、馬の脚を少しばかり休めようと、墨俣川(長良川)に馬を乗り入れて休ませ、太刀、なぎなたの血を洗って、日が暮れたので、野原にそのままとどまり、川を東側に越えることはなかった。

 本郷和人さんは、この『太平記』の記述について、次のように疑問を投げかけている。
「・・・第一に北畠軍がものすごいスピードで行軍しているとすれば、追いついたこと自体に疑いが生じます。
 第二に、軍勢を寡兵に分けて攻撃すること、つまり少人数の逐次投入は絶対にやってはいけない軍事の初歩です。多数の敵に対して兵力を分散して逐次攻撃をかけると、攻撃のたびに全滅させられる危険性が高いからです。その禁じ手をあえてやったと『太平記』は書いていますが、どこまで本当なのか首を傾げます。
 関東から追いかけてきた武士たちは、土岐頼遠らの幕府軍に合流したと考えるのがよいと思いますが、もしかしたら軍事の初歩を逸脱するような愚かな戦いをした可能性もなきにしもあらず、悩ましいところです。」(本郷『壬申の乱と関ケ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか』、84‐85ページ)

 第一の問題については、北畠軍が猛スピードで行軍すれば、当然その軍の中から脱落者が出る。その脱落者の運命はというと、次の3つの可能性が考えられる。①追いかけてきた足利軍に討ち果たされる。②足利軍に合流する。③そのまま郷里に帰る。
奥州軍が徹底的に略奪した後を追いかけた足利軍は、このような脱落者を捕まえながら、彼らの略奪分を当てにして補給行動を行っていたと思われる。『太平記』の他の個所を見ても、②の可能性というのが非常に高い。移動中は行動を共にして、戦場になると敵味方に分かれる事例というのも少なくはない。第二の問題については、『太平記』の作者の潤色がかなりあると考えたほうがよく、青野原での戦いとその前哨戦とを一緒にして(ある意味では確かに一つのまとまりなのだが)描き出しているのではないかと思われる。もう一つ、本郷さんは見落としているが、この5次の戦いで、戦場は尾張と美濃の国境から美濃と近江の国境近くまで移動している、そのことを考えると、実は足利方の方が有利に戦闘を進めていたとも考えられるということである。
 本郷さんも認めているように、土岐頼遠というのは非常に有能な武将であったが、軍議の際の彼の発言は、『太平記』の他の部分で描かれている彼の姿と少し違っているようにも思う。このあたり、さらに資料を探しながら、考えを深めていく必要がある。奥州軍の事実上の指揮官は、本郷さんの言うように結城宗広であっただろうが、足利勢は尊氏の従兄弟の上杉憲顕であったと思われる。その存在感が薄く、土岐頼遠と桃井直常の存在感が濃いところが一番の問題かもしれない。

 青野原での戦闘の報せに驚いた京都の足利幕府は防衛軍を派遣することになる。その結果はどうなるかというのはまた次回。 

『太平記』(216)

6月26日(火)晴れのち曇り、暑し

 建武4年(南朝延元2年、1337)8月、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家は、10万余騎の大軍を率いて白河の関を超え、鎌倉管領足利義詮(尊氏の3男、後に室町幕府の2代将軍)の8万の軍と利根川で戦って勝利した。北条時行(中先代と通称される。鎌倉幕府最後の得宗であった高時の次男で、中先代の乱の鎮圧後各地を潜伏していたが、後醍醐帝の勅免を得て宮方に加わった)、新田徳寿丸(義貞の次男、後の義興)も伊豆と上野で挙兵し、鎌倉の足利方は、敵の大軍を迎え撃ったが敗走した。
 暦応元年(と記されているが、改元はこの年の8月なので、実際は建武5年、南朝延元3年、1338)、北畠軍は鎌倉を発って西上したが、鎌倉で敗れた足利方も、軍勢を集めてその後を追って西上した。

 前回、尾張の熱田で熱田大宮司入道厳雄(昌能)が500余騎を率いて宮方に合流したことを書いたが、その同じ日に、美濃の根尾(岐阜県本巣市根尾、宮方の根尾氏の拠点)と、鳥籠山(とこやま、岐阜県揖斐郡揖斐川町徳山)の1,000余騎の武士を集めて、新田一族の堀口貞満が加わった。貞満は、後醍醐帝が尊氏の呼びかけに応じて比叡山から京都へ還幸しようとしたのを止めようとした武士で、義貞とともに北国に赴いたはずだが、どこかで本隊から分かれて美濃に潜伏していたようである。
 本郷和人さんの『壬申の乱と関ケ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか』(祥伝社新書)は、672年の壬申の乱、南北朝時代の(この後展開される)青野ヶ原の戦い、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いがその後の歴史を大きく変えるものであったと指摘し、「なぜこの地で戦うのか? その勝敗がなぜ歴史を大きく動かすのか?」(本郷、5ページ)という問題に迫った書物であるが、北畠軍の実質的な指揮官は白河の大名である結城宗広であったと述べている。これまで読んだところでは出てこないので、この後出てくるはずだが、本郷さんによると、宗広は一日に一回は生首を見ないと落ち着かないという大変に荒々しい人物であったとされる。また北畠軍に加わっている北条時行には、自分が非命に倒れても、北条の血は必ず後世に残すという決意があり、彼が匿われていた諏訪大社の巫女たちや、各地の豪族の娘に片っ端から手を付けていたという伝承がある。

 さて、鎌倉の戦闘に敗北して散り散りになっていた足利方の、上杉憲顕、彼の従兄弟の憲成は相模から、桃井直常は箱根から再起をはかり、高師茂(師直・師泰の弟)は安房、上総方面から鎌倉に渡り、武蔵、相模の武士たちを集めようとしたが、考えるところあって、北畠軍には加わらなかった武蔵国豊島郡(東京都中央区)の江戸氏、下総国葛飾郡(江戸川区)の葛西氏、相模国三浦郡(神奈川県横須賀市)の三浦氏、相模国鎌倉郡(鎌倉市)の鎌倉氏、坂東の八平氏(関東に勢力を張った桓武平氏の8つの豪族、Wikipediaによれば秩父平氏の畠山、川越、葛西、江戸、小山田…;房総平氏の相馬…;相模平氏の鎌倉、中村、土肥、三浦、長尾、大庭、梶原…らからなるというが、これだけで8氏族を超えている)、武蔵の七党(武蔵の国に勢力を張った7つの党の武士団。丹・私市(きさいち)・児玉・猪俣・西・横山・村山)の武士たちが、3万余騎で参集した。また既にみたように、清原氏の流れである芳賀禅可はもとから足利方に心を寄せていたために、下野の紀清両党の主だった武士たちが北畠の軍に加わって上洛の遠征に出た際も、仮病を使って参加しなかったのであるが、清原氏の流れを引く武士たちを千騎率いて加わった。こうして足利方の軍勢は5万余騎となり、北畠軍を追って、その先陣が三河の国(異本によると駿河の国)に達した時に、この国の守護である高尾張守(岩波文庫版の脚注には師秀あるいは師業かと記されている)が6千余騎で合流した。なか一日あって遠江につけば(東から並べると、相模、伊豆、駿河、遠江、三河という順序になるので、このあたりの記述はおかしい)、遠江の守護である今川憲国が2千余騎を率いてはせ参じる。さらに進んで、美濃の国墨俣(岐阜県大垣市墨俣町)に到着すると、土岐頼遠が700余騎で加わった。

 北畠軍は60万騎、先を急ぎ、足利尊氏・直義兄弟を討ち取り、後醍醐帝を都に呼び戻そうと西に向かって急行し、それを足利方の重臣である高、上杉、一族の桃井が8万余騎を率いて、後ろから追いかける。〔中先代の乱の鎮圧後、足利尊氏・直義・佐々木導誉らが上洛するのを、北畠顕家の奥州軍が追いかけたのと似ているが、追うものと追われるものとが入れ替わった様相が展開することになった。〕 古代中国の賢人である荘子は「蟷螂蝉を窺へば、野鳥蟷螂を窺ふ」(岩波文庫版、第3分冊、333ページ、カマキリがセミをねらっているが、そのカマキリを野鳥が狙っている⇒獲物を狙うあまり、自分に迫る危険を忘れるたとえ)と人間の世の中の習いについて述べたが、まことにその通りだと思われたことである。

 本郷さんはこのあたりの記述をめぐり2つの疑問を提出している。1つは50万とか60万とか言われる大軍が、しかも鎌倉から美濃まで3週間という猛スピードで西上するという記述がどうも信じられないということである。しばしば指摘されてきたように、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた後、羽柴秀吉が備中高松城(現・岡山市)から引き返した「中国大返し」に勝るとも劣らない猛スピードであったことになる。~騎というのは騎馬武者だけを数えているので、実際にはこの何倍もの兵士がいたことになり、この数字は全く信じられないという。
 もう一つは、足利方が北畠軍を後から追いかけたという記述の問題である。猛スピードで西上する北畠軍に、その軍が略奪しつくした土地を通って、追いつくことがどこまで可能かということも問題となる。
 そうやってこのあたりの記述を読み返してみると、利根川の戦いからして具体的な戦闘の描写はほとんどないし、そのあとの鎌倉の攻防も、斯波家長が戦死したのは事実だろうが、一応の戦闘はしたものの、さっさと逃げて西に向かい、土岐頼遠の軍勢と合流したと考えるほうが理にかなっている。本郷さんはあまりその点について踏み込んでいないが、『太平記』が成立したのは、高一族がほぼ全滅し、土岐頼遠も光厳上皇に対する不敬の罪で斬首されてしまった後のことなので、彼らの功績をそのまま書き記すわけにはいかず、事実をかなり捻じ曲げて記されていると考えるほうがよいのではないかと思う。そして、この次はいよいよ青野ヶ原の戦いである。

『太平記』(215)

6月19日(火)晴れ

 建武4年(南朝延元2年、1337)、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家は軍勢を集め、8月19日に白河の関を越え、鎌倉管領足利義詮(尊氏の3男)の軍勢と利根川で戦って勝利した。伊豆では後醍醐帝の勅免を得た北条時行(高時の次男)が、上野では新田徳寿丸(後の義興、義貞の次男)が挙兵して、鎌倉に迫った。鎌倉では義詮の前で、主だった大名たちが集まって作戦会議を開いたが、戦わずに安房・上総方面に逃げて、関東地方の様子を見守ろうというような消極的な意見が大勢を占めていた。

 大将である義詮はこの評定を聞いていたが、まだ11歳(岩波文庫版の脚注にもあるように、実際は8歳)というまだ思慮が十分についているとは思えない年ごろであったのに、呆れかえった様子で次のように述べた。「これはおのおの方の意見とは思われないものである。戦をするからには、どちらかが勝つことに決まっているはずだ。負けては困るとむやみに恐れるなら、戦などしないに越したことはない。いやしくも義詮が東国の管領として、たまたま鎌倉に滞在しているのに、敵の軍勢のほうが大勢であるという理由で、ここで一戦も交えないというのは、後々の非難を免れないし、敵に嘲笑されることになるだろう。
 であるからして、味方のほうが小勢であろうと、敵が押し寄せてくれば、馳せむかって戦い、力及ばなければ戦死するまでだ。もし逃れることができれば、どこか血路を開いて、安房、上総方面にいったん退却し、敵の後ろについて上洛し、宇治、瀬田の辺で(都の足利方の軍勢と呼応して)前後から攻めれば、どうして敵を滅ぼすことができないといえるだろうか。」 このように、義詮が作戦を緻密に、理屈にかなって述べたので、大将と勇猛な士卒は、みなこの一言に励まされ、こうなれば討ち死にするよりほかの道はないと、ひたすらに思い定めて、鎌倉の中に立てこもる。その兵力は1万騎ほどにすぎない。

 このような様子を聞いて、北畠顕家、新田徳寿丸、北条時行、宇都宮の紀清両党、かれこれ総勢で10万余騎が、12月28日にそれぞれの方面で合図を取り合って、鎌倉へと押し寄せた。鎌倉では、敵の様子を聞いて、勝ち目はほとんどないと、一途に皆(討ち死にしかないと)心に決めたので、城砦の防備を固めるとか、堀を深く掘るとかいう謀を用いず、1万余騎を四手に分けて、鎌倉と外部とをつなぐ道に待ち構えて、一進一退、終日それぞれの命を惜しまずに戦っていたが、四方のうち一方の大将として派遣されていた足利一族の志和三郎(斯波家長)が、杉下(すぎもと、鎌倉市二階堂の杉本寺の背後)で戦死したので、ここから防御の陣営が敗れて、宮方の軍勢が鎌倉の町を構成する谷合の一つ一つに乱入してきた。寄せ手に三方を囲まれ、味方は一か所に集まっていると、戦死者を多く出すのに、戦う兵は少ない。こうなっては勝利の見通しはないと思われたので、大将である義詮をつれて、高、上杉、桃井以下の面々はそれぞれの心まかせに、落ち延びていったのであった。

 このような事態の推移の後は、東国の軍勢は、宮方に従いつくものが多く、雲霞のごとき大軍ができていった。ここで鎌倉に滞在しても、何の意味もないと、顕家は、暦応元年(南朝延元3年、1338)正月8日に鎌倉を出発して、昼夜兼行で上洛の軍をすすめた。その軍勢は合計で50万騎、5日間というもの、幹線道路だけでなく、そこから隔たった脇道までも進み、その間、もともと無頼の武士たちの一団であるので、道中の民家を略奪し、神社仏閣を破壊してまわった。この軍勢が通りすぎた後は、塵を払って、海道から2,3里のあいだには、家の一軒も残らないというすさまじい略奪ぶりであった。
 こうして大軍の前陣が尾張の熱田に到着すると、熱田大宮司源雄(昌能)が500余騎を率いて軍勢に加わった。北畠軍の勢いは盛んで、これから西、京都まではだれもその進撃を食い止めることはできないであろうと思われた。

 軍記物語に記される兵力は1桁小さく見積もるべきであるという意見を取り入れると、北畠軍は5万騎から10万騎という規模と思われるが、それでも大変な大軍である(関ヶ原の戦いのときの軍勢を思い出していただきたい)。顕家はこの前年にも大軍を率いて東北と京都とを往復しているが、これは日本の軍事史にまれな強行軍である。将兵も大変だったろうが、それ以上に軍隊の略奪を受けた沿道の住民たちは大変だったろうと思う(こういう時には、付近の山や野原に逃げる習わしだったとしてもである)。 

 ここで登場する主な人々のなかで、北畠顕家(1318‐38)は(数え年で)20歳、足利義詮(1330‐67)は8歳、北条時行(1325?ー53)は13?歳、新田義興(1331‐58)は7歳、斯波家長(1321‐37)は17歳と戦争に参加するにはあまりにも若い。そのことも痛ましい気分にさせられる。義詮の発言は8歳の子どものものとは思えないので、『太平記』の作者の創作であろう。初代の尊氏と、三代目の義光の間に挟まれて、比較的影の薄い義詮であるが、武将としての素質をうかがわせるような一面はあったと強調したい意図から書き加えられた箇所だと思われる。一応、戦うという形は作って、退却し、上洛を目指す北畠軍の後を追いかけるというのは既定の方針であったと考えてよいのではないか。
 杉本寺は、坂東三十三か所の第一番、鎌倉三十三か所の第一番とされ、鎌倉でもっとも古いといわれる寺院で、鎌倉と金沢を結ぶ六浦道の沿道の要衝を占めている。斯波家長が陣営を構えていたのは、寺のさらに奥の杉本城と呼ばれる城砦である。これは治承寿永の内乱の頃には三浦氏の軍事拠点であり、その後は鎌倉郷内の重要な城郭として機能していた。しかし、この合戦で落城、斯波家長の軍勢が全滅したことにより、二度と城郭として使用されることはなかった。

 杉本寺にはもう10年以上前に参拝に出かけたことがある。私は歩いて出かけたのであるが、鎌倉駅から京浜急行のバスが出ているので、それを利用する方がいいかもしれない。寺でドイツ人のグループに出会い、なかなか渋いところに目を付けたねえと感心したのを覚えている。またまだ皇太子妃であった皇后陛下が、まだ小学生であった浩宮(現皇太子)殿下とともに寺を訪れた写真が飾ってあったのを記憶している。ごく幼少のころから皇太子殿下は歴史に興味がおありだったようであるが、たぶん、この寺を訪問されたときには『太平記』をお読みではなかったと思われる。それでも、この寺と戦いについての説明を聞かれたかも知れず、この戦いでご自分とあまり年の変わらない若者たちが戦闘を展開したことについてどのような感想をもたれたのか、伺ってみたい気がする。
 Wikipediaで斯波家長について調べていたら、彼が甲州の大善寺についての文書を発給しているという記事に出会った。この大善寺は、ぶどう寺として知られているよしであるが、武田勝頼が滅亡寸前に立ち寄り、戦勝を祈願したという寺でもある。甲斐一宮の浅間神社に参拝した際に、タクシーの運転手さんからその話を聞いたことを思い出す。大善寺という寺はあちこちにあって、遠江の大善寺には今川義元の胴塚があり、その話は宮城谷昌光の『新三河物語』にも出てくる。
 熱田大宮司氏は、藤原南家から入った季範以来、熱田神宮の大宮司を代々務める家柄であるが、季範の外孫が源頼朝であるというように武家との結びつきも強い。以前、私が住んでいたところの近所に大宮司という表札を掲げた家があり、熱田大宮司と何か関係があるのかと思ったことを思い出す。
 今回は雑談が多くなった。北畠顕家は公家であるが、軍隊を統率する力はなかなかのものである。とはいうものの、彼の配下の武士は必ずしも統制が取れているとはいえず、前途に不安な面もある。さて、さらに西には何が待ち構えているか、またさらにその後を追いかける足利方の動きはどのようなものとなるか、それはまた次回。
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