吉田神社の節分

2月3日(日)晴れ後曇り

 本日は節分で、各地で厄払いと福招きの行事が行われた。節分というと思いだすのは吉田神社の節分祭である。それがどういう祭礼であるかは、他のサイトで調べていただければ分かる。私が書きたいのは、自分が祭礼にどのようにかかわって(あるいはかかわらずに)過ごしていたということである。

 昨日も書いたが、11年にわたり京都大学で過ごした。京都大学のキャンパスは吉田神社に向かう東一条通りをはさんで広がっている。したがって京都大学と吉田神社は隣組と言ってよいのだが、京都大学の教職員と学生は必ずしも吉田神社に強い思い入れをもっているわけではない。祭だからと言って浮かれるわけでなく、それを横目で見ながら通勤・通学している人たちが大部分であろう。かく言う私も11年の間で、節分祭を経験したのは1度だけである(もちろん、節分以外の時に三高寮歌よろしく吉田山を逍遙したり、神社に参拝したことはある)。それも自発的な意思というよりも、同じ研究室の仲間に付き合ってのことであった。出かけようという仲間がいなければ一度も経験していなかったかもしれない。このことから推測するに、4年間の学生生活で一度も経験せずに卒業したという人も少なくないのではないか。

 もちろん、大学が世俗的な機関である以上、宗教的な行事(節分の場合は宗教というよりも民俗であろうが)に対しては無関心でいてもよいわけである。それに吉田神社以外にも、大学の近くには多くの宗教施設がある。吉田神社を特別扱いにする訳にはゆくまい。

 ただ、そうはいっても多くの露店が軒を並べる吉田神社の節分が心の浮き立つ行事であることは否定できない。それを横目で見ながら大学と下宿を往復していた時代の自分自身の心の貧しさを思うと忸怩たる気分になる。というのは、大学時代の終わりに高林陽一さんの『きょうと放浪記』という映画を見た中で、吉田神社の節分の場面があり、その中に多くの痩せこけて眼付の悪い学生たちの姿が映っているのを見て、もちろんその中に自分はいないのだけれども、何となく自分の姿を写しだされたような気分がして、いてもたってもいられなくなったことを記憶するからである。私が一度だけ仲間と一緒に行事を覗いたように、何かの理由で行事に参加する学生もいたのであろうが、信心はもとより、お祭りを楽しむ気分でもなく、祭の由来や意義について考えることもしなかった。大学は地域に対して超然としていたし、学生もその大学の態度を学びとっていたのである。それがよいことであったかについては再考の余地がある。最近では一方で大学の地域との連携が強調されるようになり、吉田神社の祭礼の露店のなかには国際化を反映して外国人の出店も見られるというが、学生たちはどんな気分でこの祭礼に接しているのであろうか。
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但馬一の宮、出石神社

12月12日(水)

 12年前のこの日、但馬一の宮である出石神社に出かけた。諸国一の宮巡りの第一歩をこの神社から始めようと思ったのである。それが平成12年12月12日という12尽くしの日になったのは偶然とはいえ興味深いことである。
 66か国、2島の一の宮の中で、なぜこの神社を選んだかというと、この神社が外国から来た神様を主神とする唯一の一の宮だからである。『古事記』によれば、新羅の王子であった天の日矛(あめのひぼこ、矛を槍とも書く)がもち伝えた8種類の宝物がこの神社に祭られている。天の日矛は逃げた妻を追って日本の難波の地に渡って来たのだが、妻に拒絶され、各地を放浪した末にこの地にたどりついて定住することになったという。川村二郎さんの『日本廻国記 一宮巡歴』(河出書房新社、1987)には「遠い異国に渡りながら妻にはめぐり会えず、難波よりはるかに北の地に住みつくよりほかなかった王子の悲哀が、メルヘンめいた雰囲気の底に沈みこんでいたのだろうか」(161ページ)とまとめている。12月に入って既に周辺の山は雪を被っていて、それが風景をひなびた中にも荘厳なものとしていたと記憶する。天の日矛については、この地を開拓した祖神としての彼の性格も忘れてはなるまい。この点については谷川健一さんが感動的な文章を書いているという記憶があるのだが、あいにく手元にその本がない。
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Author:tangmianlaoren
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