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『映画監督 野村芳太郎」特集上映をめぐって

7月27日(土)晴れ

 本日、神保町シアターで『映画監督 野村芳太郎』の特集上映のうちの『砂の器』を見た。
 このブログは読書と映画鑑賞を2枚看板にしているのだが、今年に入ってから、ほとんど映画を見ていないし、映画批評も書いていないのは、成り行きとはいえ、羊頭狗肉の謗りを免れないことである。というわけで、7月6日から8月9日にかけて神保町シアターで特集上映されている野村芳太郎(1919‐2005)の特集上映中、『どんと行こうぜ』(1954)、『背景天皇陛下様』(1963)、『砂の器』(1974)の3本をやっと見たのでその感想をまとめておこうと思うのである。

 昨年の終わりごろから、どうも映画を見るのが億劫になって、新しい映画を見に映画館に足を運ぶことがなくなってしまい、かといって旧作も小津安二郎、清水宏、オーソン・ウェルズ、アラン・ロブ≂グリエといった数々の魅力的な回顧上映を見逃しているというくであったのだが、なぜか、この野村芳太郎の特集には足を運ぼうという気持ちになった。
 野村監督は小津安二郎、木下惠介、渋谷実という戦後の松竹映画を支えた3大巨匠が世を去ったり、松竹との縁が薄くなったりした時期に、一方で喜劇を中心とするプログラム・ピクチュアを量産し、その一方で正月などには豪華女優陣が顔をそろえた女性映画を作り、そのスタッフから山田洋次監督や森崎東監督などを輩出したことで知られる。この時期は、わたしが映画、それもプログラム・ピクチュアの魅力に取りつかれ始めた時期であり、そういう懐かしさがある。それとともに、ここで書いておく必要があるのは、野村が、松本清張の原作によるものを含め、社会派サスペンスの名作を多く監督したことである。

 今回の特集上映では、20作品が取り上げられているが、そのうち『張込み』(1958)、『影の車』(1970)、『砂の器』(1974)が清張の原作、橋本忍による脚本による作品であり、『ゼロの焦点』(1961)は清張の原作、橋本忍・山田洋次の脚本、『わるいやつら』(1980)も清張の原作、井手雅人の脚本で、清張と野村監督が中心になって設立された霧プロダクションと松竹の提携作品であり、『疑惑』(1982)も同様である。つまり20作品中6作品が、清張原作ということになる。このほかにも白崎秀雄原作(橋本忍脚本)の『最後の切り札』(1961)、黒岩重吾原作(新藤兼人脚本)の『背徳のメス』(1961)、松山善三脚本の『東京湾』(1962)も社会はサスペンスと言えそうである(本日、『砂の器』を見た後で、『東京湾』を見ようかと思ったのだが、時間の関係で断念した。あるいは、これからまだ上映予定があるので、折を見て出かけるかもしれない。)

 この中で、『影の車』は封切り後しばらくした時点で、『張り込み』は神保町シアターでの上映を見ている。映画の感想は、見た時点での鑑賞者の人生経験に影響されることが大きいということで、20代半ばで見た『影の車』にはあまり感心しなかったが、『張り込み』には大いに感心したものである。この両作品は、登場人物の過去の恋愛経験が、その後、ある事件をきっかけとしてよみがえるという共通点があるが、幸か不幸か、わたしにはそういう経験はまったくないので、人生経験の重なりといっても、もう少し別の要素が関係しているようである。あるいは、岩下志麻よりも、高峰秀子の方が好きだというような単純な理由かもしれない。『張り込み』は題名のように、東京で起きた殺人事件の共犯者を逮捕すべく、警視庁の刑事がその昔の恋人の住まいの向かい側にある旅館に張り込むという話なのだが、その昔の恋人、さらには犯人自身にもだんだん同情していく、刑事の一人は、自分のうまくいっていない恋人との関係を思い浮かべる…という話で、だんだん刑事たちが犯人たちに感情移入していく過程が、おそらくは原作とは別のこの作品独自のものではないかと思う。

 『砂の器』は確か『読売新聞』に連載されていた小説で、その当時、ぽつぽつとよんでいたという記憶がある。東京の蒲田で起きた殺人事件が、迷宮入りしかけるが、思いがけないところから、事件が解決に向かうという物語である。橋本忍、あるいは野村芳太郎なりの解釈が加えられていて、原作とは少し違った展開になっているようである。特に、映画の中で演奏される「宿命」というピアノ協奏曲が大きな意味を持ち、映画のストーリー展開や、俳優の演技以上の役割を演じているというところに特色がある。つまり、映像効果も含めて、総合芸術としての映画の芸術的な効果が最大限に発揮されている。作中の登場人物は犯人に感情移入している部分はあまりないが、音楽が犯人の感情の表現として大きな役割を演じているし、冬の厳しさ、春の暖かさなどを表現する背景の映像もまさに映画そのものの効果を発揮しているのである。

 夜も更けてきたので、ここでいったん打ち切らせていただきます。続きは、明後日の「日記抄」の中で書くことにします。皆様のブログを訪問できませんが、あしからず、ご了承ください。
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ダンガル きっとつよくなる

7月14日(土)晴れ

 7月14日、横浜駅西口ムービル4で『ダンガル きっとつよくなる』(インド映画、ニテーシュ・ティワーリ監督)を見る。

 ダンガル(レスリング)の選手だったマファヴィル(アーミル・カーン)は、家庭の経済的な理由により(国による支援が得られなかったこともあって)、オリンピック出場をあきらめ、コーチをしながら若手の育成に励んでいた。そんな彼の夢は自分の息子にレスリング選手として、国際大会で金メダルを取らせることである。ところが、ご本人と村の人たちの期待とは裏腹に、生まれてきた子どもたちは4人とも女の子であった。夢をあきらめかけた彼は、自分の長女のギータと次女のバビータが、けんかで男の子をやっつけたことを知り、娘2人をレスラーとして育てることを決心する。

 朝5時に起きてのランニングに始まる体力づくり、食事の制限、厳しい練習に娘2人は当然反発する。しかし、娘たちが嫌がっても、周囲の人々が嘲笑しても、マファヴィルは自分の夢を貫こうとする。父親に反発する長女に対し、その友人の一人が言う:自分たちの親は私たち女の子を厄介者扱いにして、家事を手伝わせ、早く嫁に出そうとしている。嫁に行けば行ったで、子育てに追われることになる。あなた方の父親は娘の中に可能性を見出して、それを伸ばそうとしている。そこが違う。
 自分からやる気を起こしたギータとバビータは、練習に励むようになり、やがてギータは州、さらに連邦の選手権で優勝してナショナル・チームの一員となり、国立のスポーツ・アカデミーに入学することになるが、そのコーチの指導方針はそれまで彼女が受けてきた父親の指導方針とは違うもので、次第にギータの心は父親から離れていくが、インド代表として国際大会に出場するようになったギータは、なかなか一回戦を突破できない。コーチは、彼女は国際試合に向かないのではないかと言い出す…。

 この映画は実話に基づいているそうであるが、努力すれば強くなれるというスポーツ根性物語としての側面だけでなく、父親と娘の信頼関係、初めはレスリング一辺倒だった父親が娘をコーチしていく中で女性の権利一般に対して理解を深めていく変貌ぶり、世間一般の女性がスポーツをすることに対する無理解や偏見、スポーツへの補助金を出し渋る役所の消極性や怠惰への批判、最初は馬鹿にしたり、無関心な態度をとっていたのに、勝ち始めると手のひらを返したように態度を変えて熱狂する大衆の描き方などいろいろな要素を含んでいる。とはいうものの、基本的にはスポーツを含む文化の各分野における女性の力量形成を応援する映画と見ることができるだろう。そうはいっても、日本とは全く違うように見えるインドのスポーツ事情の描き出し方がいろいろなことを考えさせる。人気を集めているスポーツも違うし、オリンピックとは別に、コモンウェルス(旧英連邦)スポーツ大会での戦績が注目されるというところも違う。

 インドを含む南アジア、西アジアと中央アジアを東洋でも西洋でもない中洋であると論じたのは梅棹忠夫であったが、この一帯には伝統的にレスリングがスポーツとして高く評価されているが、それはどうも男性のスポーツとしてということであったようである。一方でスポーツにおける伝統を重視する風潮があり、他方で新しい動きがある。それが女性のスポーツ参加ということである。
 この伝統と新しい動きとがつくりだす混乱を面白おかしく描き出したのが、女子が男子のサッカー・ゲームをスタジアムで観戦することが禁止されているイランで、男装して試合を見に行こうとする女性たちを描いた『オフサイド・ガールズ』(2006、ジャファール・パナヒ監督)であった。同作品では、試合を見に行っただけで、女性たちが警察に逮捕されてしまう(もっともそこで映画は終わらないのであるが…)。イスラム教の権威を振りかざして、女性のスポーツ観戦を禁止する宗教的な権威主義国家のイランと、一応世俗的な(最近ではヒンズー原理主義の影響力が強くなっているといわれはするが)民主主義国家のインドの事情はまた違う。この『ダンガル きっとつよくなる』は、女性がスポーツをすることへの偏見を描いてはいるが、むしろその偏見を打ち破ったギータ、バビータ姉妹の活躍に刺激されて、インドの女子レスリングが盛んになり始めているということを告げて、終わっている。インドの女性たちが強くなっているということだけではなく、インドの民主主義の強さもこの映画は描き出していると考えるべきではないかと思うのである。

江分利満氏の優雅な生活

6月23日(土)朝のうちは降っていなかったが、午前中から雨が降り続く

 ラピュタ阿佐ヶ谷で『江分利満氏の優雅な生活』(1963、東宝、岡本喜八監督)を見る。山口瞳(1926‐1995)の同名作品の映画化。原作は1961年から翌年にかけて『婦人画報』に連載され、1963年2月に文藝春秋から単行本として刊行された。その前に第48回(1962年度下半期)の直木賞を受賞している。私の母が『婦人画報』を読んでいたので、同誌連載中から読んでいたし、単行本も親の書棚から持ち出して読んだ記憶がある。その後も文庫本で買って何度か読み返していて、忘れがたい書物の1冊といってもいい。ところが映画を見たのは映画化されて55年後というのは不思議な因縁である。今回はそういう因縁を踏まえて、この作品を取り上げてみたいと思う。

 この作品はもともと川島雄三(1918‐63)が映画化することになっていたのが、彼が急死したために、その親友であった岡本喜八(1924‐2005)にお鉢が回ってきたという。企画の段階で山口と川島とは顔を合わせて飲み歩いていたようで、山口は映画監督というのは不良少年がそのまま大人になったような人が多いのではないか、川島というのはそういう人だったと書き残し、小津安二郎もそういうタイプだったのではないかと述べた。一つ、突っ込みを入れれば、難病に苦しんでいた川島と、偉丈夫であった小津とでは不良の種類というか程度が違うのではないかという気がする。佐藤愛子さんの言い草ではないが、不良というのはそれなりに奥深く、味わいのあるものなのである。それはさておき、原作者の山口も、監督の岡本も、主人公江分利満を演じる小林桂樹(1923‐2010)も、戦中派に属する世代で、それが映画の裏付けとなる現実性を与えている。

 江分利満は大正15年(1926、山口自身と同じである)生まれのサラリーマンでサントリーの宣伝部に勤務している(原作では東西電器という架空の会社の宣伝部員である)。大正15年生まれということは、昭和の年数と年齢とが合致するということである。数え年だとそれよりも1歳年長ということになるので、戦争には招集されたが、内地で訓練を受けただけで終戦になった。実は彼には(当たり前だが)御本人には全く責任のない出生の秘密があり、そのために誕生日が遅らされた。もし、本当の誕生日が届けられていたら、自分の運命は変わって、戦死していたかもしれないと彼は何度も思う。

 彼の父(東野英治郎)は、軍事産業に関わる会社を起こしては倒産し、起こしては倒産するということを繰り返してきた事業家で、今は事業に失敗しただけでなく、病魔に侵されているが、それでもなおかつ見栄坊で嘘つきである。江分利はそんな父親から離れて、貧乏でもささやかな幸福に満ちた生活を夢見ているのだが、勤めていた会社が倒産したりしてなかなかうまくいかない。銀座でお針子をしていた夏子と結婚し、庄介という子どもも生まれる。ところが、夏子は時々発作を起こすようになり、庄介は小児喘息に苦しめられる。さらに息子夫婦とささやかな暮らしを送ることを夢見ていた母親がある年の大みそかに急死する。ところがその後、江分利は運よくサントリーに入社でき、その社宅に入居できる。ささやかな幸福に満ちた家族生活を送れる…と思っていたところに転がり込んできたのは、借金だらけで糖尿病などなんだの様々な病気を抱えた父親である。

 以上は、映画の進行とともにわかる主人公の身の上で、映画そのものは彼の勤める会社の建物の屋上で、昼休みに繰り広げられる風景、コーラスの練習をしている社員たちがいるかと思うと、バドミントンやバレーボールに興じる社員もいる。その中でポツンと浮いている感じの1人…江分利というところから始まる。会社が終わって飲みに行こうか行くまいか、今日は飲むまいと思っていても、だれもついてこなくても、なぜか足が向かう。そして「面白い?」と会う人ごとに尋ねる。(屋上の場面はともかく、会社の仕事が終わってから、飲み歩き、「面白い?」と尋ねて回るというのは原作通りである。) そして悪酔いをして、飲んだものを吐きかけると、どこからともなく表れた1組の男女が彼をもっと飲みましょうと誘いだす。

 酔っぱらった後の記憶を全くなくしている江分利であったが、翌日、前夜の男女の訪問を受ける。彼らはある婦人雑誌の記者であり、彼に小説の執筆を依頼し、承諾を得たというのである。渋っていた江分利ではあったが、説得に負けて、創作に取り組むことになる(ここで山田だか満寿屋だか、どこかわからないが、一流どころらしい文具店の原稿用紙に、鉛筆で原稿を書きはじめるというところが、おもしろい。つまり、口で言っているのと裏腹に、結構やる気はあるらしいのである)。

 こうして物語が本格的に始まる。江分利の日常生活と彼の個人史が次第次第に明らかになる。昭和30年代も後半となり、家にはテレビが2台(1台は父親用)、ステレオも置かれているし、冷蔵庫もあり、内風呂も備わっている。豊かな生活の恩恵が及んでいる一方で、着るものはひどく貧弱だというようなアンバランスがみられる(このあたり、原作は細かく書き込んでいるが、それを映画では視覚的にうまく表現している)。それに、家計を苦しくしているのは、父親の病気に加えて、江分利が大酒を飲むということである。

 江分利が書く小説とも随筆ともつかない文章は、予想以上に反響を巻き起こし、直木賞候補に挙げられる。このあたり、原作よりも、原作者山口瞳のプライヴァシーに近くなってきている。そして・・・

 この映画ではある家系の3世代の男性の生き方が、主として主人公とその父親の関係に焦点を当てて描き出されているといってもよい。3世代といっても、まだ江分利の息子の庄介は子どもとしてしか描かれていないからである。さらに視野を広げてみると、原作についても、映画についても共通する気分は、戦中派の世代が自分たちよりも上、あるいは下の世代に感じる、そして世の中の動きに感じる違和感である。戦争中、江分利は平和にあこがれるが、その一方で、彼が享受していた豊かな生活は、戦争のおかげで得られたものであった。江分利は不器用で、何事にも一生懸命取り組もうとするのだが、なかなかうまくいかず、周囲から笑われたりする。笑わせようとしているわけでもないのに、笑いをとってしまうのはご本人にとっては困ったことである。

 川島雄三がこの作品の映画化を引き受けたとき、江分利の住む社宅から一歩も出ない作品をとろうと考えていたという。戦中派よりもほんの少し上の世代といえる川島なりに、違和感の表現を工夫しようとしたのであろう。それがどんな効果を生み出しえたのかは謎であるとはいうものの…。その点では、舞台を限定していない岡本による映画化は実験性に欠けるが、わかりやすい。山口が住んでいたサントリーの社宅は東急東横線元住吉駅の近くにあったが、その元住吉駅が高架化される以前の姿がとらえられていたりして、この沿線育ちの私には懐かしいところがある。映画化では省かれてしまっているが、関東の人間である江分利←山口が関西系の企業に就職して感じた違和感、東西の文化の違いというのは、おそらくは『東京マダムと大阪夫人』などという作品も残している川島雄三だったら、描き出していただろうという気持ちがする。この点は残念である。

 その一方で、山口の小説が描き、岡本の映画が再現しようとした江分利満は、山口瞳そのものではないことも心得ておく必要があるだろう。山口は、草野球の名選手・名監督であり、将棋は素人としては一流、そしてサントリー入社以前に様々な出版社を転々として腕を磨いた有能な編集者であった。サントリーに入社した経緯も、伝説的なPR誌である『洋酒天国』の編集部員募集の記事を見て、編集長の開高健(1930‐89、つまり山口よりも年少で、「焼け跡闇市」世代である)に連絡を取ったところ、冗談半分に記事を出した開高が本気になって彼の採用を上層部に働きかけたという経緯がある。原作・映画の中で展開されている江分利の小言幸兵衛的なこだわりは、山口瞳という不器用な半身と、達人・通人というもう一方の半身をもった人物ならではのものであり、映画を額面通りに見ているだけではわからないものではないかと思われる。そうはいっても、原作・映画ともに、山口瞳の生活と意見よりも、戦中派がその前後の世代の生活と意見に対して抱く違和感のほうに強調点があると理解すべきであろう。今や、この作品では子どもとして描かれている江分利の息子・庄介が70歳近くになっている(はずである)。世の中を動かすのが、もっと若い世代になっている現在、」戦中派の人生観を再点検・再評価する責任を負うのは、どのような世代なのであろうか。

 なお、この映画中で、江分利の父親の家に下宿しているアメリカ人の記者を演じているジェリー伊藤は山口瞳の義弟である。小林桂樹が山口瞳に似ていることにくわえ、岡本はこの作品中にまだまだ話の種を仕込んでいるかもしれない。

ドイツ映画の黄金時代

11月24日(金)晴れ

 NHKラジオ『まいにちドイツ語』応用編「ベルリン 変転する都市」は11月23日に”Filmstadt Berlin"(映画都市ベルリン)、11月24日に”Goldene Zeit des deutschen Films"(ドイツ映画の黄金時代)と映画に関係する話題を取り上げた。

 「映画都市ベルリン」では
Dass Berlin neben Paris die Stadt ist, die die Anfänge der Filmgeschichte markiert, ist relativ unbekannt. (ベルリンがパリと並んで映画史の始まりとなった都市であることは、比較的知られていない。)
として、1895年に映画の有料上映を行ったマックスとエーミールのスクラダノフスキー兄弟の業績から、戦間期におけるドイツ映画の隆盛ぶりについて紹介した。スクラダノフスキー兄弟の開発したビオスコープというシステムは、フランスのリュミエール兄弟のシネマトグラフに対抗できなかったが、それでもドイツにおける映画産業発展の出発点となった。
Die Universum Film AG (Ufa), die 1917 in Zusammenarbeit von Militär und Industrie gegründet worden war, avancierte schnell zu einem der größten Filmunternehmen in Europa. (ユニバーサル映画株式会社(ウーファー)は1917年、軍と産業界の協力で設立されたが、すぐにヨーロッパ最大の映画会社の1つにまで成長した。)
1919 gab es in ganz Deutschland ca. 3.000 Lichtspielhäuser und eine Million Menschen besuchten täglich die Kinos. (1919年にはドイツ全土におよそ3,000の映画館が存在し、毎日100万人もの人々が映画館に出かけていた。)

 番組パートナーの鎌田タベアさんはスクラダノフスキー兄弟と同じくベルリンのPankow地区の出身だそうで、1895年に兄弟はBerliner Straße 27で試験的に映画の上映を行ったが、それを記念してその場所にTivoliという名前の映画館が建ち、彼女が子どものころはまだ存続していたが、その後、そばに大きな映画館が出来て、残念ながらなくなってしまったとのことである。
Es gibt übrigens auch einen Film über die Brüder Skladonwsky vom Regisseur Wim Wenders. (ヴィム・ヴェンダース監督によるスクラダノフスキー兄弟についての映画もある。) 本題とは関係がないが、タベアさんの日本語が上手なのには感服する。

 11月24日放送分では、
In seiner Geschchte erlebte der deutsche Film zweimal seine Blützeit. Die erste hatte er in den zwanziger Jahren, während man die zweite in der Periode des ,,New German Cinema" von den sp äten 1960er bis zu den frühen 1980er Jahren sieht. (ドイツ映画はその歴史において2度の全盛期を経験した。第1の全盛期は20年代にあった。一方2度目の全盛期は1960年代末から1980年初頭にかけての「ニュー・ジャーマン・シネマ」時代にあると考えられている。) として、1920年代のドイツ映画が話題となった。エルンスト・ルービッチ、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ、フリッツ・ラングといった監督たちの代表作がこの時代につくられ、今日でも傑作とされ、その後の映画に大きな影響を与えた。

 この第一次黄金期につくられた映画の特徴は、怪奇映画が多かったことである(そのほか、山岳映画やフリードリヒ大王物などがヒットしたこともドイツ映画の特徴らしい)。それは不安定な時代の社会心理を反映したものと考えられる(この時代のドイツ映画の分析として、ジークフリート・クラカウアーの『カリガリからヒトラーへ』という有名な研究がある。ただし、クラカウアーの分析視角は、怪奇映画が多いということよりも、映画の中の<専制君主>像に向けられている)。

 ナチスの台頭とともに、ユダヤ系や進歩的な傾向を持つ映画人たちは亡命し、多くがアメリカに渡った。
Nicht wenige von diesen Regisseuren und Schauspielern wurden nach Hollywood eingeladen und kamen nach der Macht übernahme durch die Nationalsozialisten nie wieder nach Duetschland zurück. (これらの監督や俳優のうちの少なからぬ人々がハリウッドへ招待され、ナチス党が権力を掌握した後、二度と再びドイツへ戻らなかった。)

 ここでは、フリッツ・ラングやマレーネ・ディートリヒがハリウッドに去った映画人の例として挙げられ、ラングが亡命直前に作った映画『M』と、この映画に出演したペーター(ピーター)・ローレ(その後、『マルタの鷹』、『カサブランカ』等に出演)のことが語られ、ビリー・ワイルダーについても言及されたが、オットー・プレミンジャーもオーストリアからアメリカに渡った一人である。さらに、グレタ・ガルボやイングリッド・バーグマンのようにドイツを経由して、スウェーデンからハリウッドに渡った俳優がいるが、この場合血統や思想はおそらく関係がないだろうと思われる。いずれにしても、1930年代から40年代にかけてドイツをはじめヨーロッパ大陸各地から集まってきた人材がハリウッド映画の全盛期を現出するのに、大きな貢献をしたことは否定できないだろう。

 2回の放送で言及された映画のかなりの部分:『カリガリ博士』、『ノスフェラトゥ』、『メトロポリス』、『M』を見ているが、『M』を除くと、サイレント映画であり、ドイツ映画はトーキーの時代になるとやや衰退したのではないかという気がする。(『M』 は後に、アメリカでジョセフ・ロージー監督により再映画化されているが、これは見ていない。フリッツ・ラングはジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』に出演していたのを記憶されている方もいるだろうと思う。) 私は、怪奇映画があまり好きではないので、1920年代のドイツ映画は勉強のつもりで見ることは見たが、どうも違和感があるというか、しっくりこないものがあって、ドイツ語が大学時代の第二外国語だったにもかかわらず、苦手意識をもっているのと、どこかで関連しているのかもしれない。それから第2期黄金時代の「ニュー・ジャーマン・シネマ」の作品は、すでに就職して映画を見る余裕がなくなった時代に公開された作品が多かったので、部分的にしか見ていないのは残念なことである。
 

『深夜の市長』、『醜聞』

9月20日(水)曇り

 9月19日、渋谷ヴェーラ渋谷で『名脇役列伝Ⅱ 安部徹生誕百年記念 悪い奴ら』の特集上映から『深夜の市長』(1947、松竹、川島雄三監督)と『醜聞(スキャンダル)』(1950、松竹、黒澤明監督)の2本を見た。この特集上映は安部徹の出演作品の他に、小沢栄太郎(1909-88)と河津清三郎(1908-83)の出演作品も取り上げており、彼らが悪役だけでなく、主役や印象深いわき役として出演した作品も含まれていて、興味深い内容となっている。今回の、安部が正義の主役を務めている『深夜の市長』は川島雄三の比較的初期の作品として、小沢が悪役を憎々しく演じる『醜聞』は黒澤流の重喜劇(だと思う)として、それぞれ注目すべき作品であり、あえて紹介する次第である。

『深夜の市長』
 1942年(昭和17年)に起きた銀行強盗事件で、社会主義者として活動していた男が犯人として挙げられ、処刑された。そのころ、戦地に赴いていた彼の弟(安部)は友人の新聞記者(山内明)から事件について聞き、不審を抱き、復員後、タクシーの運転手をしながら事件の真相を探り始める。と、”深夜の市長”(月形龍之介)と呼ばれる謎の男が現われ、危機に陥りかけた彼を助ける一方で、事件に深入りしないようにと助言する。しかし、彼は事件の真相を突き止めようとさらに調査を進める…。
 事件の真相の発覚を恐れる犯人たちの動きが映画の初めの方からずっと描き出されていて、真相はある程度まで観客に明らかにされており、犯人グループと捜索を進める側の両方に接触する”深夜の市長”は事件の輪郭をつかんでいることもわかる(むしろわからないのは、なぜ彼が”深夜の市長”と呼ばれているかである)。謎解きの要素は比較的少ないが、アメリカのギャング映画を見るような登場人物の服装やアクション、その一方で戦後間もない東京の下町の風俗の描写のミスマッチ感が何とも言えない。”深夜の市長”の正体と、彼が主人公を助ける理由の方がむしろ物語の中心となっていると考えていいのかもしれない。戦争中に映画監督としてデビューした川島の、自分の作風を模索する手探りの様子が感じられる。勝鬨橋をはじめ、隅田川の河口近くの風景が背景として多用されているが、これはその後の彼の映画にもみられるのも興味深い。

『醜聞(スキャンダル)』
 オートバイで雲取山の麓に絵画の製作に出かけた画家(三船敏郎)が、バスに乗り遅れたという声楽家(山口淑子)に出会い、彼女をオートバイに乗せて温泉場にまで同行する。湯上りに、彼女の部屋で歓談しているところを、彼らを見かけたカメラマンに盗撮される。写真にとられた場面だけをみれば、彼らは親密な関係にあるように見える。
 写真を持ち込まれたカストリ雑誌『アムール』(『シネマヴェーラ通信』186号の解説には、週刊誌とあるが、この時期、まだ週刊で発行されていた雑誌は『週刊朝日』『サンデー毎日』などごくわずかであった)の編集長(小沢栄、小沢栄太郎はこの時期、この芸名を使っていた)は、2人のロマンスをでっちあげて、スキャンダルとして大々的に売り出す。
 この記事を読んで怒った三船が、出版社に乗り込んで編集を殴るという事件がさらに起きて、騒ぎはますます大きくなる。名誉棄損による告訴を考えているという三船のもとに弁護士と称する男(志村喬)が訪れてくる。見るからに怪しげで、事務所はビルの屋上のあばらやで、机の上には競馬新聞が散乱している。しかし、結核でずっと寝たきりの彼の娘(桂木洋子)の心の美しさに討たれた三船は、この弁護士を信用することにする。とはいえ、この弁護士は見てわかるとおりの食わせ物で、原告、被告の両者から金を巻き上げようと暗躍する。競輪場で、ギャンブル好きの弁護士を編集長が次々に金を渡して篭絡する場面など面白い。
 なぜ、こんなことにことさら触れるかというと、森繁久彌について小津安二郎が「あの人は同じ芝居が二度できない」と文句を言ったのに対し、森繁が小津のロー・アングルでは「競輪の場面は撮れないだろう」といったという話を読んだことがあるからで(両者ともに、冗談めかしてはいるが、相当厳しいところをついている)、このやり取りは、この『醜聞』という映画が出来てから10年ほど過ぎてからの話ではあるが、この作品で黒澤は競輪の場面を楽々と映画の中に取り込んでいて、その映画作りの特徴を理解するのに役立ちそうだと思うのである。 
 両方から金を受け取っている弁護士は、編集長から連名の告訴でないと勝ち目はないからと行って来いといわれて、画家のところに出かけると、声楽家も居合わせて、連名での告訴に踏み切ることにしたといわれ、進退窮まってしまう。
 裁判が始まると、有能な弁護士を雇った被告・編集長側に対して、原告代理人の志村はしどろもどろの対応ぶりで裁判は被告側に圧倒的に有利に展開する…。

 三船は自分がヴラマンクの真似をしているといわれるが、そういうことを言っているような奴に限って、外国の絵の真似しかしていないというようなことを言い、これはおそらく絵の勉強をしたことのある黒澤の本心が覗いている部分であろう。裁判を通じて、三船と山口が次第に近づいているようにも見えるが、物語の焦点はそういうところにはない。単純に正義を振りかざす三船よりも、むしろ弁護士・志村喬の内面の葛藤と、それが表に出た娘の桂木洋子とのやり取りに目をむけるべきであろう。映画としての見どころは、志村の熱演である。熱演が熱演を通り越して、怪演としか言いようがなくなると、もっと喜劇性が増すのだが、それを望むことを悪趣味にしているのが娘とのやり取りであり、全体としては勧善懲悪の人間ドラマとしてのまとまりの中に納まっている。
 
 『深夜の市長』の上映は私が見た回で終わってしまったが、『醜聞』は9月22日も、『悪魔の接吻』(1959、東宝、丸山誠治監督、河津清三郎出演)と抱き合わせで上映されるので、ご関心の向きはご覧ください。
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