スペイン語とその周辺

12月20日(水)曇りのち晴れ

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』入門編は、高垣敏博さんを講師とする「人生は旅! ¡ Vivir es viajar!」を放送している。これは2016年4~9月に放送されたものの再放送だそうであるが、旅行用のスペイン語会話に特化した内容で、わかりやすく、おもしろい。その代わり、スペイン語を本格的に勉強して、読み・書き・聞き取り・話せるようにしたいと思っている人には物足りないかもしれない。とはいえ、現地を旅行して、ちょっとした会話を楽しむためにも、基本的な文型の反復練習や、単語の暗記が必要だということを忘れているわけではないから、油断はできない。

 この番組のもう一つの特徴は、旅行用ということに関連して、スペイン語の多様性に目を向け、それを強調していることである。まず、スペインと、ラテンアメリカのスペイン語の違い、それからラテン・アメリカ各地でのスペイン語の違いが説明されているし、それどころか、スペインの中でのカタルーニャ語(catalán)、ガリシア語(gallego)、バスク語(vasco, バスク語ではeuskera) というスペイン(カスティーリャ)語と異なる言語の存在、あるいはラテンアメリカにおけるナワトル語(náhuatl)、マヤ語(maya)、アイマラ語(aimara)、ケチュア語(quechua)、グアラニー語(guaraní)などの先住民の言語の存在についても触れているのも注目される。パートナーとして出演されているソニア・デル・カンポさんがスペインのレオン出身で、ガリシア地方の中心地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラ大学の卒業、もう一人のパートナーのパコ・パルティーダさんがメキシコの出身ということで、スペイン語の多様性についての配慮がこの点にも感じられる。

 特に12月18日~20日放送分は¿Habla usted ...?(あなたは~語を話しますか?)というフレーズの練習を中心とした内容であったが、20日には野菜と果物を表す語彙の中から、スペインとラテンアメリカで違う言い方をするものを取り上げた。
 ジャガイモはスペインではpatata、ラテンアメリカではpapaという。〔各言語でジャガイモとその他のイモ類を何というかについては、また機会を改めて探ってみることにする。〕 トマトはスペインではtomateというが、メキシコではjitomate(赤いトマト)とtomate(緑色のトマト)を区別する。アボガドはスペインではaguacate、ラテンアメリカでもaguacateということが多いが、アルゼンチン、チリ、ペルー、ウルグアイなどではpaltaという。トウガラシはスペインではguindilla、メキシコではchile、ラテンアメリカではajíという地域も多いとのことである。グレープフルーツはスペインではpomeloというが、メキシコやベネズエラではtoronjaというそうである。
 それで、グレープフルーツジュースを1つくださいというのをスペインでは
Un zumo de pomelo, por favor.
メキシコでは
Un jugo de toronja, por favor.
という(ジュースについても違う言い方をするのである。)

 さらに、スペイン国内におけるスペイン語以外の言語をめぐり、空港の表記の実例の写真などを添えて、「出口」をスペイン語ではsalidaというが、カタルーニャ語ではsortidaという、広場をスペイン語ではplazaというが、ガリシア語ではprazaというなどの実例が紹介された。カタルーニャ語はスペイン語型の言語ではなく、南フランスの話語(ラングドック)と言語的類縁性があると言われるが、スペイン語、ガリシア語とともにロマンス諸語の中に含まれることは間違いがない。これに対して、バスク語は、そもそもインド=ヨーロッパ語族に属さない謎の言語である。「ありがとう」をスペイン語ではGraciasというが、バスク語ではEskerrik asko. こんにちは(Hola)をKaixo、「さようなら」(Adiós)をAgurという。
 番組ではラテンアメリカの先住民の言語の詳細には触れなかったが、深入りすると大変なことになりそうである。

 バスクで忘れてはならないのは、日本に初めてキリスト教を宣教したフランシスコ・ザビエルがバスク人だったということである。彼が臨終の際に何か言ったのだが、近くにいた人がそれを理解できなかったという話があり、つまりバスク語で話したので、意味が解らなかったのだろうと解釈されている。ユリウス・カエサルが暗殺されるときに、ギリシア語でKai su, teknon? (わが子よ、おまえもか)といったとローマの歴史家であるスエトニウスが書いているそうだが、いまわの際に外国語を話したカエサルよりも、母語を話したザビエルの方が人間らしいと私は思う。

 今夜は、研究会に出かけるので、訪問できないブログが多くなりそうです。悪しからず、ご了承ください。
スポンサーサイト

サカナの名前

7月17日(月)晴れたり曇ったり

 長年外国語の勉強を続けていると、教科書に出てこないようなことを知るようになる。サカナの名前とか、野菜の名前とかいうのを多く知っている、あるいは知らなくても興味をもつのは、そうした一種の年の功である。

 カツオのことを英語でbonitoというが、これはもともとスペイン語で、「きれいな」とか「かわいい」とかいう意味である。カツオがbonitoだという文化がスペイン語圏のどのあたりで発生し、それが英語圏にどのように伝わったのかは興味のある問題である。高橋美沙『フランス語で手帳をつけてみる』によると、フランス語ではカツオはboniteという。張あさ子『イタリア語で手帳をつけてみる』には、カツオのことをイタリア語でなんというかは出ていない。

 マグロのことは英語でtunaというのは、ご存知の方も多いと思う。日本では「ツナ」と発音することが多いが、英語の発音は「トゥナ」もしくは「テュナ」である。フランス語ではthon。イタリア語ではtonnoという。

 サカナの名前を気にしはじめたのは、英国で暮らしている時に、サカナの缶詰を買って食べることが多かったからである。B&Bで夜、ビスケットとパック入りの野菜サラダ、サカナの缶詰といったものを並べて、サイダー(リンゴからつくった発泡酒)を飲む。そんなことをして夜を過ごすことが多かった。もちろん、魚料理を出す店で食事をしたこともある。あまりえたいの知れない魚を食べたくないので、サカナの名前を覚えるようになった。それで、もともと知っていたsalmon(サケ)や、sardine (イワシ)に加えて、trout (マス)だとか、cod (タラ)だとか、herring (ニシン)といった語を覚えるようになった。フランス語ではサケはsaumon, イワシはsardine, タラはmorue, ニシンはharengである。ついでにイタリア語ではサケはsalmone,マスはtrota, イワシはsardina, タラはmerluzzo, ニシンはaringaである。

 なぜか、なかなか覚えなかったのはbream (タイ)である。これは手元にあるロングマンの英和辞書で調べると、ブリームというコイ科の淡水魚についてもこういうし、タイについてもこういうとのことで、欧米ではあまりタイを食べないからかもしれない。それで『ジーニアス和英辞典』に「エビでタイを釣る」に相当する語句として、a sprat to catch a mackerel というのが紹介されていたのが面白いと思った。日本語に訳すと「サバを捕まえるためのスプラットイワシ」ということで、スプラットイワシというのはニシンの一種らしい。mackerel (サバ)は日本ではきわめて大衆的なサカナで、食膳に上がることはきわめて多いし、中学・高校時代を過ごした学校が海の近くにあったので、サバが群れをなして泳いでいる様子はよく目にしたものである。だから、「エビでタイを釣る」という言い方と"a sprat to catch a mackerel"はまったく同じ意味で対応しているわけではないと考えてよさそうである。フランス語でタイはdorade、サバはmarquereauという。イタリア語でタイを何というのかは未詳であるが、サバはsgombroという。

 flatfish はカレイについても、ヒラメについてもいうようである。フランス語ではヒラメはsoleで、これは英語でもシタビラメの意味で使われるらしい。カレイについてはlimandeと区別している。イタリア語ではヒラメはrombo, カレイはpassera di mareとやはり区別している。flying fishはトビウオでこれもわかりやすい。yellowtailがブリ、conger (eel)がアナゴというのは想像できない。アジがhorese mackerelというのはあまり食べられないからではないだろうか。ブリはフランス語ではsériole、アナゴはcongre、アジはchinchardである。イタリア語でアジのことはsauroとかsorelloとか言っているようである。
 非常に変わったところで、coelacanth (シーラカンス)がある。coeをsi: と読むのはほかにあまり例がないのではないか。最後のthはもちろん、θの音になる。フランス語ではçœlacantheと綴り、「セーラカント」というような発音になるらしい。私の手元にあるイタリア語の辞書には、対応する名詞は記載されていなかった。

 大体同じような単語を使っているのかと思うと、まったく違っている場合があって、調べてみるとなかなか面白い。それぞれのサカナが食生活の中で占めている位置がこうした名前を通じて推測できるところがある。スペイン語やポルトガル語、あるいはルーマニア語について調べてみると、また別の興味が広がってくるかもしれない。

語学放浪記(54)

5月4日(木)曇りのち晴れ

 5月2日付の『朝日新聞』朝刊の「折々のことば」を読んでいて、気になったことがあった。このコラムは哲学者の鷲田清一さんが、自分の心に残る言葉を選び出して、それについての感想を記しているもので、私が物を考えたり書いたリスるときの参考になることも多い。が、今回気になったというのは、鷲田さんが意識的に文の主題として主張していることではなく、文章の中に見え隠れしている潜在意識の方である。

 まず引用してみよう:
 Class is a state of mind,
not money. We are upper class.
       ある母親
 NHKラジオ講座「実践ビジネス英語」の米国人出演者は、幼いころ「うちは中流階級なの?」と母親に聞いた。彼女の答えは「階級は心の持ちようであって、お金ではないの。内は上流階級よ」。「よい人間」になるため知的な理解力を磨くのが上流階級だと。だが、長じて娘は、お金を使うこと、貯めることの意味をきちんと教えておくのも大事だと思うようになる。講座テキスト(3月号)から。
 
 ここで鷲田さんが引用しているのは、NHKラジオ『実践ビジネス英語』3月号の30ページから31ページにかけて掲載された”Talk the Talk with Heather Howard"の始めの部分である。念のために、テキストの該当する部分を引用しておくと:
「うちは中流階級なの?」と、母に一度聞いたことが確かにあって…
I did ask once if we were middle class, and I've always liked my mother's answer. She said, "Class is a state of mind, not money. We are upper class. If you try to be a good person, and dedicate youself to knowleddge and understanding, you are upper class." But a while back I read about one father's idea for helping children understand the concepts of spending and saving, and I think I'm going to follow in his footsteps.
その答えは、今でも気に入っている。母は、こういった。「階級は心のもちようであって、おかねっではないの。うちは上流階級よ。よい人間になろうとしていて、知識を得ることと理解することに打ち込んでいるなら、上流階級なのよ」と。でも、少し前に、お金を使うという概念と貯めるという概念を子供に理解させやすくする、ある父親の考えを読んで、私はその人を見習おうと思っている。

 自分がどのような階級に属するかということよりも、どのような人格形成上の努力をしているかの方が大事である。とは言うものの、やはり健全な社会生活を送っていくためにはお金も大事であるということで、両者の両立を図るべきだという意見には頷けるものがある(完全に同意しているわけではないが、それを書いていくと、話が長くなる)。
 ここで私が気になるのは、「米国人出演者」にはヘザー・ハワード(Heather Howard)という立派な名前があるということである。鷲田さんは、3月17日に突如、この番組を聞いて、この言葉に出会ったわけではなく、ずっと聴き続けていたはずであるから、余計に気になる。確かに、異文化に属する人たちの名前や個性を認識するのは、困難かもしれないが、番組をずっと聞いていれば、出演者の名前やその他の個性も次第に記憶に残ってくるはずである。特定の番組の外国人出演者というのは、いかにもその人間の人格や個性を無視した人間のとらえ方ではないかと思う。

 東京工大の教授で水道方式による数学教育の提唱者であった遠山啓にこんな逸話がある。彼は仲間の数学者と映画やテレビの話をするのが好きで、あの女優は数学ができなさそうだなどという話をして楽しんでいたが、仲間が女優の誰それがいいという話をしたところ、ぼくはモレシャンが好きだなぁといったという。その当時、テレビの『たのしいフランス語』のゲストをしていたフランソワーズ・モレシャンのことである。単に外国語の発音を学ぶための道具としてではなくて、もっと人格的な興味を寄せていたということであろう。そしてこれは、遠山だけのことではなくて、私の友人でも『やさしいドイツ語』のゲストであったクリスタ石井が好きだったので、ドイツ語が上達になったなどという人がいる。他にも同じような例は少なくないはずである。

 鷲田さんの書き方では外国人出演者を発音や「正しい」いい方を学ぶための道具としてみていないのではないかと受け取られてしまうところがある。異文化に属する外国人について、人格や個性よりも、外国人であることの方が判断に大きく影響してしまっているというのは、グローバル化時代に生きる哲学者としてはふさわしくないことではないかといわれて、反論は難しいだろう。あるいはヘザーさんは『朝日新聞』のライバル紙の『読売新聞』の記者を経て、現在は『ザ・ジャパン・ニューズ』に努めているということだから、ひょっとしてそんなことから遠慮しているのかもしれないと勘繰ったりしているのである。

 以前、池上彰さんが『実践ビジネス英語』を聴いているという話を書いたことがあるが、今回、鷲田清一さんもこの番組を聴いているらしいということを知った。他にどんな人が聞いているのか、知るのが楽しみである。

ムルタテューリ『マックス・ハーフェラール』

4月18日(火)晴れたり曇ったり、変わりやすい天気、気温上昇

 大学に入学した直後のことだったと記憶するが、第二外国語の選択をめぐる新入生へのガイダンスがあって、先生方が何を話されたのかは忘れてしまったが、出席された先生方の1人であった塩谷饒先生がドイツ語を勉強すると、オランダ語の勉強にも役立つと言われたのだけ記憶している。後で知ったことであるが、塩谷先生は教養部でドイツ語を教えられているだけでなく、文学部でオランダ語も教えられていたのであった。しかし考えてみると、我々の生活の中でオランダ語が必要になる場面というのはあまり多くない。それに英語ができるオランダ人は多いのである。

 そのオランダ語が必要になる数少ない場面の1つが、オランダの植民地であったころのインドネシアの歴史について研究することである。また、オランダ近代文学の中で傑作に数えられるムルタテューリMultatuli (本名Eduard Douwes Dekker, 1820-1887)の小説『マックス・ハーフェラール』(Max Havelaar)は、ジャワやスマトラで植民地官吏として働いた著者の経験をもとに、オランダのインドネシア(当時は東インド)植民地支配の問題点を描いた作品である。

 当時のジャワは18の理事州に分けられ、それぞれの理事州にオランダ人の理事官が最高責任者として配置されていた。さらに理事州はいくつかの郡に分けられ、それぞれの郡にオランダ人の副理事官が責任者として任命されていたほか、ジャワの有力な貴族が首長(オランダ人はこれをレヘントと呼んだ)として任命されていた。レヘントたちはジャワの各地で、住民に対して無償労働を要求したり、家畜を無償で供出されたりという不正を働き、そのために窮乏化した住民たちは難民として流出することさえあった。しかも東インド政庁の首脳は腐敗と事なかれ主義に陥っていて、この問題に深入りせず、したがって本国の政府に東インドの実情が伝わることはなかった。ムルタテューリは郡の副理事官として在職中にこれらの不正と戦い、その結果職を解かれたのちに今度は小説の題材としてこの問題を取り上げたのである。

 さて、この小説は昭和17年(1942)に『蘭印に正義を叫ぶマックス・ハーフェラール』という題名で朝倉純孝による翻訳が刊行されているそうであるが、目にしたことはない。しかし、私の手元に平成元年(1989)に大学書林から刊行された渋沢元則訳注の『マックス・ハーフェラール』がある。これはこの長大な小説の最初の3章だけをオランダ語と日本語の対訳でまとめたものであるが、それだけでなく、英語、フランス語、インドネシア語への翻訳のテキストも紹介されている。最初に述べた、塩谷先生の言葉を思い出すと、ドイツ語がないのが残念であるが、並べて比べてみると各言語の特徴がよくわかるのではないかと思う。それで、書きだしの1文だけであるが、書き連ねてみようと思う。

オランダ語
Ik ben makelaar in koffie, enwoon op de Lauriergracht, no. 37.
英語
I am a coffee broker, and I live at No.37 Lauriergrachat, Amsterdam.
フランス語
Je suis courtier en café. J'habite Lauriergrachat, nº 37.
インドネシア語
Saja adalah makelar kopi, tinggal di Lauriergrachat No. 37.
日本語
私はコーヒーの仲買人であり、ラウリールフラフト街37番地に住んでいる。

 「仲買人」というインドネシア語(makalar)の単語がたぶん、オランダ語(makelaar)からの外来語らしいことなど比較的容易に推測できる。また英訳だけ、ラウリールフラフト街がアムステルダムにあると付け加えているのは翻訳者が気をまわしたのだろうが、興味深い。

It's easy as pie.

4月13日(木)晴れ

 本日のNHK「ラジオ英会話」の”Apply It!"のコーナーでは
It's easy as pie. (超簡単です)
という表現を練習した。生地の上にあり合わせのものをのせて焼けば出来上がるということから、パイが簡単にできることのたとえに使われているという。
 U R the ☆!(You are the star!)の会話練習は
★: Have some apple pie. (アップルパイをどうぞ)
Jeff:Mmm, delicious. How do you make it?(うーん、おいしい。作り方は?)
★: It's easy as pie. (超簡単です。)
Jeff:Funny. I knew you'd say that. (笑える。そういうと思った。)

 手元にある辞書を動員して調べてみると、齋藤秀三郎『熟語本位 英和中辞典』(1933、私が持っているのは1979年に出た新増補版第32刷)にはこの表現は出ていない。『小学館ランダムハウス英和大辞典』(1975、私が持っているのは1975年に出たパーソナル版) には
[as] easy as pie 《米話》ひどくやさしい、いとも簡単
とある。研究社の『リーダーズ英和辞典』(1984、私の手元にあるのは奥付が取れてしまっている)では、
(as) easy [simple] as pie 《口》とてもたやすく、いとも簡単で、お茶の子さいさいで、朝飯前で
となっている。大修館の『ジーニアス英和辞典』(1988、私の手元にあるのは1994年の改訂版初版)では
(as) easy [simple] as pie 《略式》とても簡単な
となっており、桐原書店の『ロングマン英和辞典』(2007)にはpieではなくeasyの方の項に
be as easy as ABC (as easy as pie, as easy as falling off a log とも) とても簡単である
と出ていた。

 pieという語を使った成句はas easy as pie以外にも多くあり、『齋藤英和中辞典』では
have a (big) finger in the pie 事件に(大分)関係がある。
put one's finger into another's pie 他人のことに干渉する。
Promises are like pieccrust -- made to be broken. (口約束はパイの皮のように)人はよく(約束を)破る。
が載せられているが、『ロングマン英和辞典』では
be as AMERICAN as apple pie
EASY as pie
have a FINGER in every pie
eat HUMBLE pie
be a NICE as pie
pie in the sky 絵にかいた餅、夢のような話
が掲げられ(大文字は、その単語の項を見よということである)、かなり数が増えている。

 思うに、pieを作ることが簡単さのたとえに使われるようになったのは、それほど古いことではないようであり、またas easy as pieという表現はアメリカから広がっていったようである。さまざまな辞書の比較を通じて、英語の中で、そして言語が生活の反映である限り、英米人の生活の中で、pieがどのような役割を果たし、どのように意識され、pieをめぐる成句が定着していったかだけでなく、それぞれの辞書が編集された時代の日本語についても知ることができ、両方の言語が変化している様子を辿ることができて面白い。
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR