サカナの名前

7月17日(月)晴れたり曇ったり

 長年外国語の勉強を続けていると、教科書に出てこないようなことを知るようになる。サカナの名前とか、野菜の名前とかいうのを多く知っている、あるいは知らなくても興味をもつのは、そうした一種の年の功である。

 カツオのことを英語でbonitoというが、これはもともとスペイン語で、「きれいな」とか「かわいい」とかいう意味である。カツオがbonitoだという文化がスペイン語圏のどのあたりで発生し、それが英語圏にどのように伝わったのかは興味のある問題である。高橋美沙『フランス語で手帳をつけてみる』によると、フランス語ではカツオはboniteという。張あさ子『イタリア語で手帳をつけてみる』には、カツオのことをイタリア語でなんというかは出ていない。

 マグロのことは英語でtunaというのは、ご存知の方も多いと思う。日本では「ツナ」と発音することが多いが、英語の発音は「トゥナ」もしくは「テュナ」である。フランス語ではthon。イタリア語ではtonnoという。

 サカナの名前を気にしはじめたのは、英国で暮らしている時に、サカナの缶詰を買って食べることが多かったからである。B&Bで夜、ビスケットとパック入りの野菜サラダ、サカナの缶詰といったものを並べて、サイダー(リンゴからつくった発泡酒)を飲む。そんなことをして夜を過ごすことが多かった。もちろん、魚料理を出す店で食事をしたこともある。あまりえたいの知れない魚を食べたくないので、サカナの名前を覚えるようになった。それで、もともと知っていたsalmon(サケ)や、sardine (イワシ)に加えて、trout (マス)だとか、cod (タラ)だとか、herring (ニシン)といった語を覚えるようになった。フランス語ではサケはsaumon, イワシはsardine, タラはmorue, ニシンはharengである。ついでにイタリア語ではサケはsalmone,マスはtrota, イワシはsardina, タラはmerluzzo, ニシンはaringaである。

 なぜか、なかなか覚えなかったのはbream (タイ)である。これは手元にあるロングマンの英和辞書で調べると、ブリームというコイ科の淡水魚についてもこういうし、タイについてもこういうとのことで、欧米ではあまりタイを食べないからかもしれない。それで『ジーニアス和英辞典』に「エビでタイを釣る」に相当する語句として、a sprat to catch a mackerel というのが紹介されていたのが面白いと思った。日本語に訳すと「サバを捕まえるためのスプラットイワシ」ということで、スプラットイワシというのはニシンの一種らしい。mackerel (サバ)は日本ではきわめて大衆的なサカナで、食膳に上がることはきわめて多いし、中学・高校時代を過ごした学校が海の近くにあったので、サバが群れをなして泳いでいる様子はよく目にしたものである。だから、「エビでタイを釣る」という言い方と"a sprat to catch a mackerel"はまったく同じ意味で対応しているわけではないと考えてよさそうである。フランス語でタイはdorade、サバはmarquereauという。イタリア語でタイを何というのかは未詳であるが、サバはsgombroという。

 flatfish はカレイについても、ヒラメについてもいうようである。フランス語ではヒラメはsoleで、これは英語でもシタビラメの意味で使われるらしい。カレイについてはlimandeと区別している。イタリア語ではヒラメはrombo, カレイはpassera di mareとやはり区別している。flying fishはトビウオでこれもわかりやすい。yellowtailがブリ、conger (eel)がアナゴというのは想像できない。アジがhorese mackerelというのはあまり食べられないからではないだろうか。ブリはフランス語ではsériole、アナゴはcongre、アジはchinchardである。イタリア語でアジのことはsauroとかsorelloとか言っているようである。
 非常に変わったところで、coelacanth (シーラカンス)がある。coeをsi: と読むのはほかにあまり例がないのではないか。最後のthはもちろん、θの音になる。フランス語ではçœlacantheと綴り、「セーラカント」というような発音になるらしい。私の手元にあるイタリア語の辞書には、対応する名詞は記載されていなかった。

 大体同じような単語を使っているのかと思うと、まったく違っている場合があって、調べてみるとなかなか面白い。それぞれのサカナが食生活の中で占めている位置がこうした名前を通じて推測できるところがある。スペイン語やポルトガル語、あるいはルーマニア語について調べてみると、また別の興味が広がってくるかもしれない。
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語学放浪記(54)

5月4日(木)曇りのち晴れ

 5月2日付の『朝日新聞』朝刊の「折々のことば」を読んでいて、気になったことがあった。このコラムは哲学者の鷲田清一さんが、自分の心に残る言葉を選び出して、それについての感想を記しているもので、私が物を考えたり書いたリスるときの参考になることも多い。が、今回気になったというのは、鷲田さんが意識的に文の主題として主張していることではなく、文章の中に見え隠れしている潜在意識の方である。

 まず引用してみよう:
 Class is a state of mind,
not money. We are upper class.
       ある母親
 NHKラジオ講座「実践ビジネス英語」の米国人出演者は、幼いころ「うちは中流階級なの?」と母親に聞いた。彼女の答えは「階級は心の持ちようであって、お金ではないの。内は上流階級よ」。「よい人間」になるため知的な理解力を磨くのが上流階級だと。だが、長じて娘は、お金を使うこと、貯めることの意味をきちんと教えておくのも大事だと思うようになる。講座テキスト(3月号)から。
 
 ここで鷲田さんが引用しているのは、NHKラジオ『実践ビジネス英語』3月号の30ページから31ページにかけて掲載された”Talk the Talk with Heather Howard"の始めの部分である。念のために、テキストの該当する部分を引用しておくと:
「うちは中流階級なの?」と、母に一度聞いたことが確かにあって…
I did ask once if we were middle class, and I've always liked my mother's answer. She said, "Class is a state of mind, not money. We are upper class. If you try to be a good person, and dedicate youself to knowleddge and understanding, you are upper class." But a while back I read about one father's idea for helping children understand the concepts of spending and saving, and I think I'm going to follow in his footsteps.
その答えは、今でも気に入っている。母は、こういった。「階級は心のもちようであって、おかねっではないの。うちは上流階級よ。よい人間になろうとしていて、知識を得ることと理解することに打ち込んでいるなら、上流階級なのよ」と。でも、少し前に、お金を使うという概念と貯めるという概念を子供に理解させやすくする、ある父親の考えを読んで、私はその人を見習おうと思っている。

 自分がどのような階級に属するかということよりも、どのような人格形成上の努力をしているかの方が大事である。とは言うものの、やはり健全な社会生活を送っていくためにはお金も大事であるということで、両者の両立を図るべきだという意見には頷けるものがある(完全に同意しているわけではないが、それを書いていくと、話が長くなる)。
 ここで私が気になるのは、「米国人出演者」にはヘザー・ハワード(Heather Howard)という立派な名前があるということである。鷲田さんは、3月17日に突如、この番組を聞いて、この言葉に出会ったわけではなく、ずっと聴き続けていたはずであるから、余計に気になる。確かに、異文化に属する人たちの名前や個性を認識するのは、困難かもしれないが、番組をずっと聞いていれば、出演者の名前やその他の個性も次第に記憶に残ってくるはずである。特定の番組の外国人出演者というのは、いかにもその人間の人格や個性を無視した人間のとらえ方ではないかと思う。

 東京工大の教授で水道方式による数学教育の提唱者であった遠山啓にこんな逸話がある。彼は仲間の数学者と映画やテレビの話をするのが好きで、あの女優は数学ができなさそうだなどという話をして楽しんでいたが、仲間が女優の誰それがいいという話をしたところ、ぼくはモレシャンが好きだなぁといったという。その当時、テレビの『たのしいフランス語』のゲストをしていたフランソワーズ・モレシャンのことである。単に外国語の発音を学ぶための道具としてではなくて、もっと人格的な興味を寄せていたということであろう。そしてこれは、遠山だけのことではなくて、私の友人でも『やさしいドイツ語』のゲストであったクリスタ石井が好きだったので、ドイツ語が上達になったなどという人がいる。他にも同じような例は少なくないはずである。

 鷲田さんの書き方では外国人出演者を発音や「正しい」いい方を学ぶための道具としてみていないのではないかと受け取られてしまうところがある。異文化に属する外国人について、人格や個性よりも、外国人であることの方が判断に大きく影響してしまっているというのは、グローバル化時代に生きる哲学者としてはふさわしくないことではないかといわれて、反論は難しいだろう。あるいはヘザーさんは『朝日新聞』のライバル紙の『読売新聞』の記者を経て、現在は『ザ・ジャパン・ニューズ』に努めているということだから、ひょっとしてそんなことから遠慮しているのかもしれないと勘繰ったりしているのである。

 以前、池上彰さんが『実践ビジネス英語』を聴いているという話を書いたことがあるが、今回、鷲田清一さんもこの番組を聴いているらしいということを知った。他にどんな人が聞いているのか、知るのが楽しみである。

ムルタテューリ『マックス・ハーフェラール』

4月18日(火)晴れたり曇ったり、変わりやすい天気、気温上昇

 大学に入学した直後のことだったと記憶するが、第二外国語の選択をめぐる新入生へのガイダンスがあって、先生方が何を話されたのかは忘れてしまったが、出席された先生方の1人であった塩谷饒先生がドイツ語を勉強すると、オランダ語の勉強にも役立つと言われたのだけ記憶している。後で知ったことであるが、塩谷先生は教養部でドイツ語を教えられているだけでなく、文学部でオランダ語も教えられていたのであった。しかし考えてみると、我々の生活の中でオランダ語が必要になる場面というのはあまり多くない。それに英語ができるオランダ人は多いのである。

 そのオランダ語が必要になる数少ない場面の1つが、オランダの植民地であったころのインドネシアの歴史について研究することである。また、オランダ近代文学の中で傑作に数えられるムルタテューリMultatuli (本名Eduard Douwes Dekker, 1820-1887)の小説『マックス・ハーフェラール』(Max Havelaar)は、ジャワやスマトラで植民地官吏として働いた著者の経験をもとに、オランダのインドネシア(当時は東インド)植民地支配の問題点を描いた作品である。

 当時のジャワは18の理事州に分けられ、それぞれの理事州にオランダ人の理事官が最高責任者として配置されていた。さらに理事州はいくつかの郡に分けられ、それぞれの郡にオランダ人の副理事官が責任者として任命されていたほか、ジャワの有力な貴族が首長(オランダ人はこれをレヘントと呼んだ)として任命されていた。レヘントたちはジャワの各地で、住民に対して無償労働を要求したり、家畜を無償で供出されたりという不正を働き、そのために窮乏化した住民たちは難民として流出することさえあった。しかも東インド政庁の首脳は腐敗と事なかれ主義に陥っていて、この問題に深入りせず、したがって本国の政府に東インドの実情が伝わることはなかった。ムルタテューリは郡の副理事官として在職中にこれらの不正と戦い、その結果職を解かれたのちに今度は小説の題材としてこの問題を取り上げたのである。

 さて、この小説は昭和17年(1942)に『蘭印に正義を叫ぶマックス・ハーフェラール』という題名で朝倉純孝による翻訳が刊行されているそうであるが、目にしたことはない。しかし、私の手元に平成元年(1989)に大学書林から刊行された渋沢元則訳注の『マックス・ハーフェラール』がある。これはこの長大な小説の最初の3章だけをオランダ語と日本語の対訳でまとめたものであるが、それだけでなく、英語、フランス語、インドネシア語への翻訳のテキストも紹介されている。最初に述べた、塩谷先生の言葉を思い出すと、ドイツ語がないのが残念であるが、並べて比べてみると各言語の特徴がよくわかるのではないかと思う。それで、書きだしの1文だけであるが、書き連ねてみようと思う。

オランダ語
Ik ben makelaar in koffie, enwoon op de Lauriergracht, no. 37.
英語
I am a coffee broker, and I live at No.37 Lauriergrachat, Amsterdam.
フランス語
Je suis courtier en café. J'habite Lauriergrachat, nº 37.
インドネシア語
Saja adalah makelar kopi, tinggal di Lauriergrachat No. 37.
日本語
私はコーヒーの仲買人であり、ラウリールフラフト街37番地に住んでいる。

 「仲買人」というインドネシア語(makalar)の単語がたぶん、オランダ語(makelaar)からの外来語らしいことなど比較的容易に推測できる。また英訳だけ、ラウリールフラフト街がアムステルダムにあると付け加えているのは翻訳者が気をまわしたのだろうが、興味深い。

It's easy as pie.

4月13日(木)晴れ

 本日のNHK「ラジオ英会話」の”Apply It!"のコーナーでは
It's easy as pie. (超簡単です)
という表現を練習した。生地の上にあり合わせのものをのせて焼けば出来上がるということから、パイが簡単にできることのたとえに使われているという。
 U R the ☆!(You are the star!)の会話練習は
★: Have some apple pie. (アップルパイをどうぞ)
Jeff:Mmm, delicious. How do you make it?(うーん、おいしい。作り方は?)
★: It's easy as pie. (超簡単です。)
Jeff:Funny. I knew you'd say that. (笑える。そういうと思った。)

 手元にある辞書を動員して調べてみると、齋藤秀三郎『熟語本位 英和中辞典』(1933、私が持っているのは1979年に出た新増補版第32刷)にはこの表現は出ていない。『小学館ランダムハウス英和大辞典』(1975、私が持っているのは1975年に出たパーソナル版) には
[as] easy as pie 《米話》ひどくやさしい、いとも簡単
とある。研究社の『リーダーズ英和辞典』(1984、私の手元にあるのは奥付が取れてしまっている)では、
(as) easy [simple] as pie 《口》とてもたやすく、いとも簡単で、お茶の子さいさいで、朝飯前で
となっている。大修館の『ジーニアス英和辞典』(1988、私の手元にあるのは1994年の改訂版初版)では
(as) easy [simple] as pie 《略式》とても簡単な
となっており、桐原書店の『ロングマン英和辞典』(2007)にはpieではなくeasyの方の項に
be as easy as ABC (as easy as pie, as easy as falling off a log とも) とても簡単である
と出ていた。

 pieという語を使った成句はas easy as pie以外にも多くあり、『齋藤英和中辞典』では
have a (big) finger in the pie 事件に(大分)関係がある。
put one's finger into another's pie 他人のことに干渉する。
Promises are like pieccrust -- made to be broken. (口約束はパイの皮のように)人はよく(約束を)破る。
が載せられているが、『ロングマン英和辞典』では
be as AMERICAN as apple pie
EASY as pie
have a FINGER in every pie
eat HUMBLE pie
be a NICE as pie
pie in the sky 絵にかいた餅、夢のような話
が掲げられ(大文字は、その単語の項を見よということである)、かなり数が増えている。

 思うに、pieを作ることが簡単さのたとえに使われるようになったのは、それほど古いことではないようであり、またas easy as pieという表現はアメリカから広がっていったようである。さまざまな辞書の比較を通じて、英語の中で、そして言語が生活の反映である限り、英米人の生活の中で、pieがどのような役割を果たし、どのように意識され、pieをめぐる成句が定着していったかだけでなく、それぞれの辞書が編集された時代の日本語についても知ることができ、両方の言語が変化している様子を辿ることができて面白い。

大学の第二外国語について

3月24日(金)晴れのち曇り

 大学に入学して直面する問題の一つは、第二外国語として何を選ぶかということである。その際に、何のためにその言語を学ぶのか、どの程度できるようになることを目指すのかということも考えておいた方がよい。

 何のために外国語を学ぶのかという目的をめぐっては、実用的な目的と教養もしくは趣味という目的の2つが考えられる。ただし、趣味と実益を兼ねてという言葉もあるように、この両者は相互に関係しあうところがあって、どちらか一方だけのために学習するということはありえない。学習者の心構えとしてどちらに重点を置くかということである。グローバルな言語状況というのは、英語の一人勝ちであって、英語以外の外国語を専門にするには、それなりの覚悟と努力が必要であるし、専門にしない場合にも、しっかりした目標を定めることが求められる。ただ勉強したという記憶が残るというのでは困るのである。
 どの程度ということになると、いくつかの言語には検定試験があり、またヨーロッパの言語についてはCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)という枠組みが設定されていて、A1ならば「ごく簡単な表現を聞きとれて、基本的な語句で自分の名前や気持ちを伝えられる」、A2であれば「日常生活での基本的な表現を理解し、ごく簡単なやり取りができる」、B1ならば「日常生活での身近な事柄について、簡単なやり取りができる」というふうにその内容も示されている。なんとなくでいいから、自分なりにこのレベルまでは到達しておきたいという水準を決めることが大事である。

 何語を選ぶかという場合に、もう一つ考えておきたいのは、学習者が高校卒業までに勉強してきた英語(あるいはその他の外国語)の能力を見極めておくことである。実際問題として、外国語の学習は必要がないという人、英語以外の外国語の学習は必要がないという人は多い。また、(私もそうだが)英語以外の言語を勉強しても、結局使い物にならないという人も少なくない。使い物にならなくても、それなりの意味はあるのだということが、以下の内容になる。

 現在、NHKのラジオ・テレビで学習できる外国語は英語は別にして、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、ロシア語、韓国語、中国語、アラビア語、ポルトガル語の9言語である。ポルトガル語はラジオでしか開設されていないが、その他の8言語は両方で勉強できる。第2外国語を選ぶとすれば、この9言語の中から選択するのが無難だろうと思う。大学によっては、これらの言語のすべての授業を開講していない場合もあるだろうし、これら以外の言語の授業を開講している場合もあるだろうが、まず実際にその言語に接してみて感じをつかむことが大事ではないかと思う。

 以下、各言語について私が考えていることと、その言語との付き合いを書き連ねていく。要するに、自分が興味を持てそうな言語を選択すればよいので、その参考にして頂ければ幸いである:
中国語:世界で最も多くの人々に使用されている言語であり、その使用者の多くが中華人民共和国に集中しているとはいえ、シンガポールなど華僑人口の多い国もあるし、世界各地にチャイナタウンができているのはご承知だと思う。国連の公用語の1つである。古い歴史をもつ言語であり、日本との地理的な距離の近さ、日本語との共通語彙の多さや影響関係など、実用面でも、教養面でも学習する意義が大きい言語である。もっとも、現在の中華人民共和国の政治体制や、言論の自由をめぐる状況など否定的な要素も考える必要があるだろう。実際に会話に取り組むということになると、発音で苦労するはずである。私は、英語、ドイツ語の次に中国語を履修、一時かなり熱心に勉強した時期がある。その後、何度か勉強しなおしたが、かなり変化の激しい言語であるという印象がある。これからも中国社会の変動とともに、言語も大きく変わる可能性がある。中国の神話・伝説・少数民族の言語や文化に興味があり、これらの分野は、社会の変動にはあまりかかわりがないかもしれないと思っている。中華料理店によく出かけるので、その面でも多少の興味を維持し続けている。

スペイン語:中国語、英語に続いて多くの人々に使用されている言語ではないかと思う。スペイン語圏諸国は優れた文学的伝統を持つ一方で、科学技術においては後れを取っているようである。国連の公用語の1つである。就職して社会人になってから、これからは第三世界の時代であると思い、その中で重要な言語の一つがスペイン語だというようなことから、かなり長い間スペイン語を勉強していた。ただし、かけた労力という点では英語、中国語に比べて劣り、最近は語学番組を聞き流しているだけなので、かなり能力が落ちているようである。

フランス語:中国語、英語、スペイン語の次に多くの人々に使用されている言語である。フランスのほか、カナダのケベック州、ベルギー、スイスの一部、ハイチ、西アフリカ諸国で使われている。国連の公用語の1つである。中国語、スペイン語にくらべて、第二言語として使用する人々の数が多い言語である。最近の傾向としては、英語、スペイン語に押されがちではあるが、優れた文学的伝統を持つだけでなく、科学技術の方面でも多くの業績がフランス語によってなされてきた。定年退職後、フランス語とラテン語を集中的に勉強しようと思ってそれなりに努力しているのだが、なかなか成果が上がらない。

韓国語:使用する人の数ではこれまで挙げた3言語に遠く及ばないが、日本の隣国なので重要性は高い。観光や交流事業のために、歴史的な知識とともに、最低限の会話能力は身に着けておいてよいと思われる。また韓国、北朝鮮の情勢について正確な情報を得るためにも、高い能力を持った人材が必要とされる言語でもある。学生時代に入門書を買って初めの方を読んだことはあるが、本格的に勉強したことはない。韓国に出かけたことはあるし、韓国語ができればいいとは思うのだが、取り組む余裕がない。

ポルトガル語:ポルトガルの人口は1千万人程度であるが、ブラジルでは1億8千万人の人々に使用されており、ポルトガル系の住民が住んでいる国・地域はほかにも少なくない。ブラジルは経済的な発展が予測される国の一つであり、ポルトガル語は安土桃山時代の日本との交流を通じて日本語にもその影響を及ぼした。日本人がもっと興味を持ってよい言語の一つである。ブラジルに出かけた時に、飛行機の中でポルトガル語のアナウンスを聞いていて、日本のキリシタン文化の中でポルトガルの果たした役割の大きさを感じたという経験がある。フランス語、スペイン語、イタリア語、どれをとっても中途半端なので、ポルトガル語に手を出してもろくなことにはならないと自制しているところである。

アラビア語:中東・北アフリカの多くの国々で使用されている。国連の公用語の1つである。これらの地域の持つ地政学的な重要性から学ぶ必要の大きい言語である。とはいえ、字を見るだけで嫌になるところがある。発音もかなり難しい。何度かNHKのアラビア語講座を聴いて、そのたびに挫折を繰り返してきた。アラビア語の通訳をしていた小池東京都知事はすごいなあと、この点だけは感心している。

ロシア語:ロシアを中心にカザフスタンなど旧ソ連を構成していた国で使われている。国連の公用語の1つである。かつてソ連が持っていた国際的な影響力のため、ロシア語を第二言語として学ぶ国は少なくなかった。現在でもそれらの国々の人々がロシア語を使って交流しているのを見かけることがある。ロシア語は優れた文学的伝統を持つだけでなく、科学技術においても注目すべき業績がロシア語で発表されてきた。大学時代に、ドイツ語、中国語に続いて勉強して、初級の単位は取ったが、中級に進む余裕がなく、放置しているうちにほとんど忘れてしまったのは残念である。昨年、再挑戦してみたが、最後まで続けられなかった。

ドイツ語:ドイツ、オーストリア、スイスの大部分で使われているほかに、中欧・東欧にドイツ語を話す人々の多くの言語の島がある。どこまでをドイツ語の方言と考え、どこからをドイツ語とは別の独立した言語と考えるかは結構難しい問題である(ルクセンブルクや、フランスのアルザス=ロレーヌ地方の言語など)。使用する人口ということからいうと、日本語よりも少し少ないくらいではないかと思う。日本をはじめ、ドイツ語の学習を重視してきた伝統を持つ国は少なくないが、ドイツの国際政治・経済に占める地位の高さにもかかわらず、ドイツ語の国際的な地位はあまり高くないし、英語のできるドイツ人はきわめて多いことも留意する必要がある。大学時代の第二外国語であるが、普通の人が2年で取得する単位取得に3年をかけてしまった。付和雷同で、あまり興味が持てない言語を選択するとこういうことになる。

イタリア語:イタリアとスイスの一部で使われているほかに、アメリカ大陸をはじめとしてイタリア系移民のコミュニティーが形成されている国・地域は少なくない。使用する人口はそれほど多くはないが、芸術・文学などにおいて優れた伝統をもち、また科学技術においても無視できない成果がイタリア語で発表されてきた。イタリアとイタリア語への興味は趣味的なもので、自分の研究との関係はあまりないが、その分、気楽に勉強している。もっとも気楽な分、上達が遅れているという面もある。
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