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ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(23)

4月25日(土)晴れ

 ローマ白銀時代(14‐180)の詩人であるマルクス・アンナエウス・ルーカーヌス(39‐65)の、作者の死により未完に終わったこの長編叙事詩は、ローマ共和政末期(紀元前2世紀末から紀元前43年まで)に起きた(というよりも、ローマ共和政を終らせた)内乱、ポンペイウスとその一党(共和派)と、民衆の支持を背景に独裁政権を築こうとするカエサルとその一党(民衆派)との戦いを描くものである。
 この時代、ローマの政治は閥族派(共和派)と民衆派の対立の中で混乱を続けていたが、紀元前60年に閥族派のポンペイウス、同じくクラッスス、民衆派のカエサルの3人の間で密約が成立し(第一次三頭政治)、いったんは安定を取り戻したかに見えた。しかし、前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死すると、両雄並び立たず、残された2人の間の対立が激しくなる。
 詩人が「樫の古木」に譬える過去の英雄ポンペイウスは、ローマ元老院と結んで、当時ガリア総督であり、詩人が「雷電」に譬える昇竜の勢いのカエサルの職を解き、彼の率いる軍.隊の解散を命じるが、カエサルはこれを無視、紀元前49年1月(ユリウス暦では紀元前50年11月)にガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡る。(この時カエサルは、「賽は投げられた」Iacta alea est. = The die is cast.と言ったとスエトニウスは記す。) カエサル軍はポンペイウスと元老院の軍勢とを破竹の勢いで撃破し、ポンペイウスたちはイタリアを追われてギリシアへと去る(第1-3巻)。カエサルはポンペイウス派の軍隊を追ってヒスパニアのイレルダの戦いで勝利するが、彼の同盟者の1人であったクリオは、北アフリカでポンペイウス派に味方するユバ王の作戦にはまって敗死する(第4巻)。ポンペイウスはギリシアで反撃の準備と整えるが、その彼を追ってカエサルはギリシア西北部(現在の地理ではアルバニアにもまたがっている)エペイロス地方に上陸した。しかし、陸でも海でもポンペイウス派の優勢が続き、自派の有力な将軍であるアントニウスの来援を待ちかねたカエサルは、小舟でイタリアに戻って来援を促そうとする。

 戦いに疲れた兵士たちにとって、戦闘が終わった後の夜の束の間の休息のなか、カエサルの率いていた将兵たちも眠ろう説いていたが、カエサルは従卒をすべて残し、フォルトゥナ(運命の女神)だけを供としてイタリアへと舟で戻ろうと決心した。彼は、海岸で平和に暮らしていた若い漁師のアミュクラス(おそらく詩人が創作した人物)をその眠りから起こし、自分をイタリアまで運ぶように依頼する。不穏な雲行きを心配するアミュクラスではあったが、
「・・・一大事の危急が求めるというのであれば、手を貸すのを
毛頭躊躇わぬ。行けと言われた岸辺に、わしがたどり着くか、
それとも海と風とがこれを拒むかだ」。
(第5巻、570‐572行、263ページ)と、この冒険を引き受け、舟を海に出し、帆を張る。

 舟は悪天候のために揺れ動き、進むことができない。アミュクラスはカエサルに、もはや引き返すよりほかに道はないという。しかし自分はどのような危難であっても斥けることができると信じているカエサルは、アミュクラスのこの申し出をはねのける。
「・・・雲行きに
威(おど)されてイタリアに行くのを拒んでいるのなら、私に命じられて
イタリアを目指すのだ。・・・
(第5巻、590‐592行、264ページ) さらに、
・・・この海と空との争乱で図られているのは、
フォルトゥナが私のために成就したまう天啓なのだ」
(第5巻604‐605行、265ページ)と、不遜な言葉を吐く。カエサルの言葉にもかかわらず、舟はますます激しくなる旋風に、帆を奪い去られ、船体そのものも波に揺られてきしむのであった。

 それから、四海の至る所から、猛り狂う危難が次々と襲いかかった。
(第5巻、609行、265ページ) 舟は風と波に翻弄されるが、カエサルはそのような防風にもその気持ちを動揺させることはなかった。
・・・今やカエサルはこの危難が自分の偉大な定めに相応しい
大難と信じた。・・・
(第5巻、667‐668行、269ページ) 
 その高言にもかかわらず、暴風はカエサルの舟を翻弄し続けたが、幸いにも彼は、陸地に戻ることができた。 
 無事に海岸に戻ってきたカエサルであったが、彼の不在中にその行方を心配していた彼の麾下の将兵たちの目を欺くことはできなかった。かれらの非難の声が続く中、海はしだいに穏やかになっていった。

 この暴風に神々がすべての力を使い果してしまったかのように、海は静かになった。それを見定めて、イタリア半島に留まっていたカエサル派の軍隊は舟を出し、ギリシアへと向かった。この船旅も全く安全なものとは言えなかったが、船団はイッリュリアの港町ニュンパイオンの海岸に錨を下ろした。

 各地からカエサル派の大軍が終結し、両派の戦いが避けられなくなる見通しとなって、ポンペイウスは彼の妻であるコルネリアを安全な場所であるレスボス島へと移すことに決めた。ポンペイウスは妻にその理由を語り、コルネリアは夫と離れたくない思いを切々と語った。しかし、情勢を考えると、別離は避けられなかった。
あれほど長い愛の、これを最後の果実は失われ、二人は
急くように嘆きを終らせたが、別れ際、どちらも別れの言葉を
口にすることができなかった。二人が共にした生涯で、
これほど悲しい日はなかった。いかにも、ほかの喪失は、種々(くさぐさ)の
不幸を経て、すでに強靭、堅牢になった心で、二人は耐えてきたのだ。
(第5巻、816‐820行、279ページ) こうして2人は離れ離れとなり、二度と一緒になることはなかった。

 最期の方は、急ぎ足になってしまったが、ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』をこれで終わる。しばらく休んで、下巻にとりかかることにしたい。すでに何度か触れたが、カエサル自身が残した『内乱記』も同じ出来事を扱っている。カエサルは自分に都合の悪いことは書かず、ルーカーヌスの方は100年ほど後の時代を生きているうえに、カエサルに反感をもっていて、想像を交えて事件を叙述しているので、もっと公正な第三者の目から書かれた史料を探さないと、真相がわからないところがある。
 ポンペイウスはアンティスティア(離婚)、アエミリア(スッラの遠縁)、ムキア(離婚)、ユリア(カエサルの娘、死別)、コルネリア(メテッルス・スキピオの娘)と5人の女性と結婚している。それぞれ上流に属する女性であったが、それでも彼女たちが政略の道具と考えられていたことが推測できる。なお、レスボス島はエーゲ海の北東部、トルコ沿岸に位置する島で(しかしギリシア領である)、古代ギリシアの女流詩人サッポー(サッフォーとも)が住んでいたことで有名であり、レスビアンの語源ともなっている。
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ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(22)

4月18日(土)雨、午後になって晴れ間が広がったかと思ったら、夕方になってまた雲が多くなってきた。

 ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(39‐65)の未完に終わったこの叙事詩は、紀元前1世紀の中ごろ、ローマ共和政の末期に起きた内乱を題材とするものである。
 紀元前60年に、東方における軍事作戦の成功によって地位を固めたポンペイウス、スパルタクスの反乱を鎮圧したクラッスス、ヒスパニア(スペイン)総督として地位を築いたカエサルの三者の間で密約が結ばれ、第一次三頭政治が成立、それまで混乱していたローマの政治に安定をもたらす。しかし紀元前53年にクラッススがパルティアに敗死すると、残った2人の間の対立が激しくなる。
 ローマにいたポンペイウスはカエサルのガリア総督の地位を奪い、彼の率いる軍隊の解散を命じるが、カエサルはこれに応じず、軍隊を率いたままガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、さらに大軍を率いてローマに迫る。ポンペイウスはローマを捨てて、カプアを拠点として反攻を試みるが、彼の軍隊は各地で敗れ、ついにブルンディシウムからギリシアに逃れて、再起を期す。そして大軍を集めてカエサルに対抗しようとする。
 一方カエサルは、ヒスパニアのポンペイウス派の軍隊に勝利した後、軍隊の内部で起きた反乱を鎮圧し、ローマに戻って選挙を主宰、執政官の地位を得ると、ブルンディシウムからギリシアに渡ってポンペイウスと対決しようとする。

 ブルンディシウムに到着したカエサルは、「海が冬季の烈風に閉ざされ、船団が、星またたく/冬店の気候に脅かされている状況を知った。」(第5巻、420‐421行) 戦いを急ぐ彼にとって、これは耐え難いことであった。冬の北風さえ吹いてくれれば、春の気紛れな風を待つよりもはるかに確実に目的地に到着できると、彼は部下たちを鼓舞し、船を出航させようとする。
 もともと、ポンペイウス派の軍隊は、櫂で漕ぐ軍船を地中海の各地に持っていたのに対し、カエサル派は帆船しかもっていなかった。このため移動にはポンペイウス派の方が有利であった。カエサル自身の『内乱記』によれば、紀元前48年1月4日に船団はブルンディシウムを出航したが、なかなか順風を得ることができなかった。しかし、夜が明けると風向きが変わり、5日のうちに船団はギリシア・エペイロス地方のパライステに到着し、錨を下ろした。『内乱記』には、海岸の大部分をポンペイウス派の軍勢が占拠していたので、上陸地を選んだと記されている。

 二人の将が旗鼓(きこ)の間に陣を敷くのを最初に目にしたのは、
流れ速きゲヌソスと流れ緩やかなハプソスが河岸で囲む地であった。
(第5巻、473‐474行、256ページ)
 ゲヌソス、ハプソスについては、訳注に「マケドニアの川」とあるが、ここでいうマケドニアはローマの行政区分としてのマケドニアである。マケドニアはギリシア半島の東北部にあるが、ゲヌソス、ハプソスの両川は半島の西北部にある。訳注ではパライステがギリシアの西部であるエペイロス地方の町と記されている。エペイロスは現在のギリシアのイピロス地方を中心とするかなり広い地域(どうやらアルバニアにもまたがっているらしい)を指す言い方のようで、調べに調べた末に、ゲヌソス川は、現在アルバニアを流れているShkumbin川であることが分かった。ハプソスの方はまだわからないが、講談社学術文庫版の『内乱記』の301ページの地図に記載がある。

 以前は同盟者であり、またカエサルの娘で、いまは亡きユリアをポンペイウスが妻としていたという舅と婿の関係にある2人ではあったが、カエサルはもはや戦い以外のものを望まなかったと詩人は歌う(カエサルの『内乱記』を読むと、ここで、ポンペイウスとの間に和平交渉があったことが記されている)。
 しかし、カエサルには気になることがあった。ローマに残してきた軍隊を率いている「不敵なアントニウス」(マルクス・アントニウス)がなかなか、合流してこないことであった。〔このアントニウスは、後に第2次三頭政治を担う1人となり、さらにクレオパトラとの情事で知られる人物である。彼はカエサルに『内乱』をそそのかし、その後北アフリカで戦死したクリオの友人であり、ガリア総督であったカエサルの副官をつとめたこともあった。〕 ルーカーヌスはアントニウスが「内乱に乗じてレウカスでの事態を目論んでいた」(第5巻、492行、258ページ)と、不穏な動きを見せていたと歌うが、これは彼の創作ではないだろうか。要するに、困難な事態に直面して動きが鈍くなっていたというだけのことであると思われる。なお、岩波文庫版巻末の「地名・部族名等一覧」によると、「レフカス島、その対岸のアンブラキア湾の出口にある岬「アクティウム」、また「アクティウムの海戦」の換喩としても用いられる」(44ページ)とあり、ルーカーヌスが、アントニウスのその後の運命、紀元前31年のアクティウムの海戦(ローマのオクタウィアヌス軍と、エジプトのクレオパトラ・アントニウス同盟軍の間の海戦)を念頭に置いていたことは確かである。

 カエサルは三度、四度とアントニウスに来援を促すが、アントニウスは動こうとしない。ここに至って、彼は
自分が神の期待に添わぬことはあれども、神々が自分の期待に
添わぬことはないと信じ、自ら、大胆にも、不用心な闇の中、
命を受けたものでも恐れる海原に乗り出そうとした。経験から、神が
嘉したまえば、無謀ではあれ、果敢さが功を奏するのを学んでいた
カエサルは、艦隊さえ恐れる激浪を小舟で制覇できると信じた。
(第5巻、514‐518行、259ページ) 無謀にもイタリア半島まで小舟で戻ることを企てるのである。

 カエサルの企てがどのような展開となったかは、また次回に語ることにしよう。この時点で、ギリシアの西北部からイッリュリアにかけての海岸はポンペイウス方の海軍が支配していた(だけでなく、すでに述べたように、海軍力はポンペイウス軍の方がまさっていた)ので、カエサル派は援軍を送り込むことができなかったのであると、カエサルの『内乱記』は記しており、こちらの方が真相に近いと思われる。『内乱記』には海軍力にまさるポンペイウス軍がブルンディシウムを攻撃したと記されており、これらのことから、カエサルが小舟でアドリア海を渡ろうとしたというのも(話としては面白いが)、おそらくは詩人の創作であり、その間、カエサルはポンペイウス派との外交交渉を続けて、時間を稼いでいたという『内乱記』の記述の方が信ぴょう性がある。 

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(21)

4月11日(土)晴れ

 ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(39‐65)の未完に終わったこの叙事詩『内乱――パルサリア――』は、紀元前1世紀の半ば・ローマ共和政の末期に、ローマの版図を東方に拡大した過去の英雄ポンペイウスと西方のヒスパニア、ガリアで勢力を築いた昇竜の勢いのカエサルとの間で戦われた内乱を描くものである。
 「賽は投げられた」(これはスエトニウスの『ローマ皇帝伝』に出てくる言葉で、この叙事詩には現れない)と叫んでガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、自分を敵視するローマ元老院とポンペイウスに対し、軍事行動を起こすことを明らかにしたカエサルは、各地でポンペイウス派の軍勢を破り、ついにポンペイウスをイタリア半島から駆逐して、ギリシア西部のエペイロスへと追いやる。
 エペイロスに上陸したポンペイウス方の2人の執政官は、各地に将軍として散っていた元老院議員を招集して議会を開き(歴史的な事実であったかどうかは不明)、ポンペイウスを将帥とする決議、参集した諸国、諸王の名誉決議などを行う(この名誉を与えられた一人として、詩人はクレオパトラの弟であるプトレマイオスXⅢ世の名を挙げているが、これまた歴史的な事実であるかどうかは不明。プトレマイオスXⅢ世は後に、ポンペイウスを暗殺することになる)。
 参集した元老院議員の一人で、戦に不安を覚えるアッピウスは、一人アポロンの託宣所であるデルポイに赴き、アポロンの神託をうかがう。アポロンの巫女であるペモノエは気が狂ったふりをして神託を下すのを拒むが、やがて神霊にとりつかれ、アッピウスは戦には与らず、エウボイアで死ぬ定めだという神託を下す。その真意を悟らぬまま、アッピウスはエウボイアに向かう。

 一方、ヒスパニアでポンペイウス方のアフラニウスとペトロニウスの軍勢に対して勝利を収めたカエサルは、ポンペイウスの本隊との対決を目指して、ローマへと戻っていた。
 こうする間にも、カエサルは、ヒベリ人を征服したあと、
勝利の鷲旗を世界の別の地へ移そうと、帰国の途に就いたが、
折しもこれほどの利運に恵まれた定めが、神々の計らいから、
あわやその進路をそらすところであった。
(第5巻、232‐235行、240ページ) というのは、ローマにもどる彼の軍勢の中で、兵士たちの反乱がおきたからである。「己が、いかに脆くも動揺する土台の上に立っているかを、/この時の危機ほど痛切に思い知らされた危機はかつてなかった。」(第5巻、245‐246行、241ページ)。

 多くの士卒を率いてきたカエサルも、自分とその剣しか頼るもののない状況に置かれ、
・・・ひとたび抜き放たれた
剣の権利は、将ならぬ、兵士のものである事実を、改めて思い知らされた。
つぶやきはもはや恐る恐るのそれではなく、怒りは、閉ざされた
胸に蟠(わだかま)るそれではなかった。
(第5巻、249‐252行、243‐244ページ)

 ガリアでの戦いに続いて、ポンペイウスとの内乱に動員されることになった兵士たちは、戦に疲れ、軍役からの解放を求めていた。騒ぎ立てる兵士たちの中に、カエサルは恐れることなく姿を現した。
・・・カエサルは、
臆する風もなく、芝土を重ねて固めた土塁の上に立った。
毫も恐れぬその様と不敵なその面貌はかえって兵らを
恐怖させたが、怒りの命じるままに、彼は兵らをこう大喝した。
(第5巻、321‐324行、246ページ) 去りたければ、去っていくがよい。あとの兵たちはいくらでも補充できる。敗走したポンペイウスの軍勢には多くのものが参加しているのに、勝った自分たちの側から兵が去っていくのは理にかなわない。自分たちには運命が味方している。去っていきたいものは去れ。しかし、反乱を企てたものはここに残って、首を差し出せ。
 カエサルの主張の筋が通っているとは思われないが、このような緊迫した場面では、気合いがものをいうことも確かである。カエサルの気合いあるいは気勢に押されて、兵士たちは反旗を収め、首謀者たちの処刑をもって事態は収拾した。
 なお、岩波文庫版の訳注によると、この兵士たちの反乱はディオ・カッシウス『ローマ史』には記されているが、カエサル自身の『内乱記』には記されていない(私も確認した、カエサルは自分に都合の悪いことは書かないことはすでに言及済みである)。

 カエサルは軍隊をブルンディシウム(現在のブルンディジ)に送って、大軍をギリシアへと運ぶために船を集めさせた。その一方で彼自身はローマに入城し、
・・・独裁官として、名誉ある公職の最高位を手にし、
彼が執政官になることで、ローマの暦に吉祥を与えたという。
(第5巻、395‐396ページ、251ページ) こちらの方は、カエサルの『内乱記』に対応する記述がある。「カエサルが独裁官として管理した選挙会で、ユリウス・カエサルとプブリウス・セルウィリウスが執政官に選ばれた。法律の上からも、この年、カエサルが執政官になってもよかったのである」(國原吉之助訳、138ページ)。独裁官(dictator)は国家的な危機や執政官(consul)が自己で任務を遂行できないとき選ばれる一時的な役職で、選挙や祭典の執行など些細な仕事を任せられる。カエサルは紀元前49年の12月2日から11日間、ローマに滞在した。すでに述べたようにローマの執政官は2人いるが、その2人が両方ともイタリアを離れているので、独裁官が選挙を行う理由はあるのである。そして紀元前48年の執政官などの政務官や属州総督を選挙した。〔同じ時期に、ギリシアでは元老院議員たちが集会を開いたと、ルーカーヌスは述べている。〕 またラティウム祭を司った。「彼が執政官になることで、…吉祥を与えた」というのはルーカーヌスの皮肉で、これも既に述べたが、ローマの暦では1年はその年の執政官の名を冠して呼ばれる(「元号」と言ってもよい)。ローマの共和政を終わらせようとしているカエサルの名前が元号となったということをルーカーヌスは非難している。一方、当時のローマの法律では一度、執政官に就任すると、その後10年たたなければ執政官に立候補できないことになっていた。カエサルは紀元前59年に執政官になったから、紀元前48年の執政官になることには問題はなかったのである。これに対しポンペイウスは紀元前70年に執政官になった後、紀元前55年と52年に執政官となっている。カエサルはポンペイウスが10年の間隔を置かずに執政官になったことを非難する書きぶりであるが、その後自分自身も紀元前46年、45年、44年と3年連続して執政官に就任しているから、勝手なものである。

 カエサルによる権力の掌握により、
・・・我らが久しくその名で阿(おもね)り、君主を偽装してきた
あらゆる呼称がこの時代に編み出されたのだ。
(第5巻、397‐398行、251ページ)と、詩人はこの時をもって共和政が終わったと嘆く。内乱の年の年号にその名を残す執政官としてカエサルほどふさわしい人物はいないとも歌い、彼の元で「儀式と銘打つ茶番劇が繰り広げられ」(第5巻、404行、252ページ)とも記す。もはやラティウムの祭もその意義を失ったとも書いている。〔もっとも、血筋をたどっていくと、カエサルはローマの遠祖であるアエネアスの子孫という家系の出身である。〕 

 こうしてローマにおける自分の地位を築いたカエサルは、ポンペイウスとの対決を目指してギリシアへと海を渡ろうとするが、その成り行きについてはまた次回に。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(20)

4月4日(土/清明)晴れ

 エペイロス(ギリシア西部)の地に上陸したポンペイウス方の2人の執政官は、各地に将軍として散っていた元老院議員たちを招集して議会を開き(これが歴史的な事実であったかは定かではない)、ポンペイウスを将帥とする決議、参集した諸国、諸王の名誉決議などを行った。〔ローマの執政官は2人という決まりであった。非常時には独裁官が任命されることもあった。〕

 集会が終わって、元老院議員たちは彼らがもといた地方へと散っていった。
諸国民や将軍らが、事の向背も定かならず、戦の命運も
明らかならぬまま、兵戈を求めている間、ただ一人アッピウスは、
勝劣定まらぬ軍神(マルス)の与える帰趨に一身を賭するのを恐れ、神々に
事の成り行きを明かしてくれるよう責付(せっつ)き、長年閉ざされていた、
定めを告げるポイボスの、デルポイなる秘奥(ひおう)の御社(みやしろ)の扉を開けた。
(第5巻、66‐70行、229ページ)
 アッピウス・クラウディウス・プルケルはアッピア街道にその名を残した大政治家アッピウス・クラウディウス・クラッスス・カエクスの子孫で、彼の属するクラウディウス家はローマ屈指の名門に数えられていた。前50年の監察官で、前49年、カエサル進軍の後、ポンペイウスに従ってギリシアに渡り、ポンペイウスからギリシアの支配を委ねられていた。ポイボスはアポロン神の異称。デルポイはパルナソス山南麓にあったアポロンの神域(神託所)である。ソクラテスの友人がここで「ソクラテスほど賢い人間はいない」という神託を得て、その哲学的な解明をソクラテスに促した話は有名である。

 パルナソス(パルナッソス)山はアテネの西北に位置し、標高2457メートル、古代ギリシアでは様々な神の聖地とされたが、特にアポロンの聖地として知られる。ルーカーヌスも歌っているように、ギリシア神話の洪水伝説では、洪水が地上を覆ったときに、この山の山頂だけが水没を免れたという。『旧約聖書』のノアの箱舟がたどり着いたアララト山は5137メートルであるから、だいぶ違う。もともとこの地は大地の女神ガイアの託宣所があり、その女神を守っていたピュトンという龍をアポロンが倒して、この地を自分自身のものとした。その際、大地の裂け目から噴き出している噴気が神の予言を帯びていることに気づき、この地を自分の託宣所としたというのである。

 デルポイにはピュティアと呼ばれる巫女がいて、この噴気を吸うと予言を行う。その予言を行うさまは、火山が爆発をするようであるという。
もっとも、この神霊は万人に開かれ誰をも拒まず、しかもなお、
唯一、人間の狂気の穢れに染まることなく、聖性を保つ。
その謳い明かすは、何人も変え得ぬ天命の定め。何事もあれ、
祈願することを人間に許さぬのだ。
(第5巻、104‐107行、300ページ)

 かくしてデルポイの神託は古代ギリシアでもっとも権威のあるものとされたが、その託宣は時としてあいまいで、どのようにも受け取れるものであった。その一方で賄賂を使ってデルポイの神託を左右する一種の情報戦も行われたという。ギリシアの政治的・文化的な地位の低下に伴って、デルポイの権威も低下していった。さらにこの時代、予言は禁じられていたという。
王たちが未来を恐れ、神託を語るのを神々に禁じてこのかた、
神々の授けたまう賜物で、デルポイの聖地が黙(もだ)して語らぬ神託ほどに、
我らの時代が惜しみ、希(こいねが)う大きな賜物はない。
(第5巻、112‐114行、300ページ)
 実は、デルポイの神託が禁じられたのは、この時代≂共和政末期の内乱時代ではなくて、詩人がこの叙事詩を書いていた皇帝ネロの時代のことである(この個所は間接的にネロを批判したものである)という説もある。ネロが神託をうかがったところ、神は「親殺しには答えぬ」と答えた。ネロが母親を殺していたからである。この言葉に動揺したネロは、以後一切、神託をうかがうことを禁止した。これにより誰も、皇帝の運命を訊ねたり、陰謀を企てたりすることができなくするためである。これに対し、詩人は神託が語られないことを惜しんでいる(ネロの運命を知りたがっている)のである。

 しかし、噴気を吸って自分の体内に神霊を宿した巫女は、時ならぬ死を迎えることになったので、彼女たちにとってみれば、神託をうかがうことが禁じられているのはありがたいことであった。そこへ、アッピウスが現われたのである。
 託宣所の祭司は、アッピウスの命令を受けて、ペモノエという巫女を捕まえて、神託をうかがうように言う。彼女は狂気を装ってその命令を拒もうとするが、それが偽りの狂気であることは明らかであった。彼女の様子から容易にうかがうことができる彼女の恐怖が、神託が下ろうとしていることを物語っていると祭司は思った。
 彼女はなおも、躊躇し、抵抗しようとしたが、その言葉が偽りのものであることは、彼女の声調からも明らかであった。祭司に強要され、アッピウスに脅かされて巫女は鼎に近づき、「慣れぬ胸裏に神霊を迎え入れた」(第5巻、158行、235ページ)。鼎というのは三本足の容器であるが、一説には巫女は三本足の椅子の上に座って神託を述べたともいわれる。ここでは噴気を入れた容れ物のように受け取れるが、あるいは鼎の上に座るということなのかもしれない。

 アポロンの霊にとりつかれた巫女は、憑依状態になる。
己のものならぬ首をもたげ、乙女は狂気の裡に洞中を乱舞した。
神のリボンと月桂の葉冠を逆立つ髪から振り落とし、
首を左右に振りつつ、社の虚ろな空間をぐるぐる巡り、
彷徨いながら、足取り妨げる鼎を蹴散らし、ポイボスよ、怒れる
あなたに耐えつつ、激しい狂熱に駆られて、乙女は舞い狂う。
(第5巻、164‐168行、236ページ) あらゆる事柄についての予言がペモノエの胸の中に流れ込んだが、彼女が人々にすべてを語ることをアポロンは許さなかった。巫女は、膨大な予言の中からローマに関するものを選び出し、大声で叫んだ。
「汝は、ローマ人よ、これほど甚大な争いに与ることなく、
ただ一人、戦の大きな脅威を免れて、エウボイアの岸辺の
広やかな谷間(たにあい)で静寂の時を持ちつづけよう」。
(第5巻、189‐191行、237ページ)

 アッピウスはパルサリアの決戦には加わらず、前48年にギリシアのエウボイア島で没することになる。アポロンは巫女に、アッピウスの運命について語ることだけを許し、ローマ共和政の終焉、将軍たちの死、ポンペイウスの運命、ブルートゥスによるカエサルへの復讐などについては語らせなかった。そしてアッピウスの運命を語った巫女は洞窟からはじき出されるように飛び出してきた。彼女の託宣はアッピウスがまもなく死を迎えることを予言していたのだが、その表現があいまいなので、アッピウスはそのことを自覚しなかった。そしてエウボイア島に向かったのである。

 第5巻はこれまでポンペイウス側の動きを追ってきたが、この後はカエサル側の動きについて述べることになる。イベリア半島遠征に勝利したカエサルとその軍隊がどのような行動をとったかはまた次回に。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(19)

3月28日(土)曇り、午前中、一時小雨

 ローマ白銀時代(14‐180)の詩人ルーカーヌス(39‐65)の『内乱――パルサリア――』は、作者が皇帝ネロの暗殺の陰謀に加わって自殺を命じられたために、未完に終わったが、紀元前1世紀にローマの支配権をめぐってポンペイウスとカエサルの間で戦われた内乱を描いた長編叙事詩である。
 紀元前60年にローマの3人の実力者、ポンペイウス、クラッスス、カエサルの間で結ばれた密約(第一次三頭政治)は混乱していたローマに安定をもたらしたが、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死すると、残った2人の間の対立が激しくなる。ポンペイウスはローマの元老院と結び、ガリア総督であったカエサルの職務を解き、軍隊の解散とローマへの帰還を命じるが、カエサルはこれに応じず、軍を率いたままガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、合流してきた元老院の大立者クリオの教唆もあってローマ進軍を企てる。カエサル進撃の報を聞いたローマは大混乱に陥り、ポンペイウスをはじめ、多くの元老院議員が脱出していく。(第1巻)
 ローマを脱出したポンペイウスは反撃を試みるが、彼を支持する軍勢は各地でカエサル軍に敗れ、ついに、イタリア半島南東のブルンディシウム(ブルンディジ)からギリシアの西の地方に向けて脱出していく。(第2巻)
 ローマに入城したカエサルは自分の立場を正当化したうえで、国庫から軍資金を略奪し、イベリア半島のポンペイウス派の軍勢の掃討に出発する。一方、ギリシアに逃れたポンペイウスは東方諸国から大軍を集め、反撃を企てる。カエサルは遠征の途中、両派の和睦を求めるマッシリア(マルセイユ)の抵抗を受けるが、一部の軍隊を残したままイベリア半島に向かう。マッシリアは海戦の末にカエサル派に降伏する。(第3巻)
 イベリア半島に進んだカエサルは、アフラニウスとペトレイウスが指揮し、イレルダを拠点とするポンペイウス軍を最終的に山間に封じ込め、降伏させる。その一方、イッリュリア(アドリア海東岸地域)の海戦ではカエサル派のアントニウス(第二次三頭政治家の弟)がポンペイウス派に包囲されて敗れ、またシキリアからリビュエ(北アフリカ)に渡ったクリオは、ヌミディア王ユバの軍勢の策略にはまって敗死する。(第4巻)

 今回から第5巻に入る(岩波文庫版の上巻に収められた最後の巻である)。
 かくして運命は、禍福ない交ぜ、二人の将に交々(こもごも)
戦の痛手を負わせて、なお伯仲する両雄として
マケドニア人の地まで温存した。すでに季節は、ハイモスが
雪を敷き、アトラスの娘たちが凍てつくオリュンポスを戴く空から
降ろうとする真冬。暦年に新たな元号を与え、日月を導く先駆けの
ヤヌスを祀る門出となる日が近づいていた。
(第5巻、1-6行、225ページ) 時は紀元前49年の暮れ、二人の将=ポンペイウスとカエサルの両雄がテッサリアのパルサルス(パルサリア)で対決することになるのは、紀元前48年の8月のことである。オリンピックというと思いだされるオリュンポスの山はギリシアの最高峰(2917メートル)であり、その北側がマケドニアであるが、テッサリアはアレクサンドロス大王の父ピリッポスⅡ世の時代からマケドニアに服属していた。ルーカーヌスがパルサルスがマケドニアの土地だとしているのは、このためであろう。ハイモスはバルカン山脈のこと。ギリシア最北東部から黒海まで連なる山脈である。「アトラスの娘たち」はプレイアデスのこと。ここでは彼女たちが変身したとされるおうし座の散開星団=プレイアデス星団のことを言う。日本ではスバルというが、冬の星座である。ローマの暦では各年は1年任期で交代する執政官の名前で呼ばれた。ここで「元号」というのはそのことを踏まえたものである。ヤヌスは前と後ろに2つの顔をもつ神で、行く年、来る年を見つめる。1年最初の月の神(英語のJanuaryの語源)である。その神殿の門扉は、戦時には開かれ、平時には閉ざされた(大体、いつも開かれていた)。まもなく新しい年が始まるが、ローマの公職は原則任期1年で、1月1日に任期が切れる。したがって、新しい人事を決めなければならないのである。

 そこで、執政官2人は元老院議員たちをエペイロス(ギリシア西部)へと招集した(岩波文庫版の注によると、これが歴史的な事実であるかどうかは不明だそうである)。執政官2人とローマの元老院議員の多くがポンペイウスと行動をともにしている、とはいうもののここで新しい人事を行わないと、政権の正統性が疑わしくなると考えたのである。
 多数の元老院議員が集まり、この集まりがポンペイウス派の集まりというよりも、ポンペイウスが元老院と共和政派の一員であることを示していたが、一同の表情は暗かった。
 (同じころローマでは、執政官2人が不在という事態の中、独裁官となったカエサルが選挙会を開き、彼自身とプブリウス・セルウィニウスが(紀元前48年の)執政官に選ばれた。)

 執政官である(ルキウス・コルネリウス・)レントゥルスが立ち上がり、語りかけた。自分たちはローマを追われ、異郷をさまよっているが、「国政の枢機は我らに付き従い、最高指揮権は我らとともにあろう。」(第5巻、27行、227ページ)。ローマを占拠しているカエサルの政権には正統性はなく、彼らの軍勢はイッリュリアの海戦で敗れ、リビュエでクリオは戦死した。大義に基づく反撃のために、ポンペイウスを将帥に選出しようと彼は提案する。この提案は可決され、次に参集した諸国、諸王を賞賛する名誉決議が採択される。
 例えば、ギリシア人の植民都市であるマッシリアがカエサル軍と戦った武勇を賞賛され、その母市であるポキスには自由が与えられ、クリオを敗死させたヌミディア王ユバはリュビエの支配権を認められた。問題は、その次に登場する人物である。
…ああ、定めの何という無情。汝にも、
プトレマイオス、背信の民の王国にこの上なく似つかわしい者よ、
フォルトゥナの恥辱、神々の咎よ、汝にもその髪を絞める、ペッラの
王冠をかむることが許された。少年の彼は、民に向かって振るう狂暴な
刃を受け取った――望むらくはその刃が偏に民に向かっていたなら――。
かくして少年にラグスの王宮が授けられ、マグヌスの喉頸(のどくび)が
これに加わることになった。姉からは王権が、舅からは(婿殺しの)
非道の罪の機会が奪われたのだ。
(第5巻、57‐64行、229ページ) ここでプトレマイオスとよばれているのは、クレオパトラ(Ⅶ世)の弟のプトレマイオスXⅢ世である。ここで記されているのは一種の事後予言であるが、パルサリアの戦いで敗北したポンペイウス(マグヌス)はエジプトに逃れ、プトレマイオスを頼るが、彼に暗殺されてしまう。ペッラはマケドニアの古都でアレクサンドロス大王の誕生の地であるが、ここで「ペッラの王冠」はアエギュプトス(エジプト)の王冠を指している。「ラグスの王宮」のラグスはプトレマイオス王家の先祖の名であるが、「ラグスの王宮」はエジプトの王宮を指している。「姉」はクレオパトラ(Ⅶ世)で、(王家のしきたりにより)弟と姉弟婚をして王位にあったが、仲たがいをしていた。ここでルーカーヌスが書いていることがすべて史実に即しているとはいいがたいのであるが、彼はプトレマイオスがエジプト王になった後に、ポンペイウスを殺し、カエサルが自分の婿(娘の夫)であるポンペイウスを殺す機会が失われたことを憤っているのである。

・・・やがて集会は解かれ、
一群の元老院議員たちは兵戈を目指して散っていった。
(第5巻、64‐65行、229ページ) 彼らのだれも、自分の今後の運命はわからなかったが、それでも戦地に赴いていったのであるが、名門クラウディウス家の血を引くアッピウス(・クラウディウス・プルケル)は今後のなりゆきに対する不安から、将来の運命を知ろうとしていた。彼が知ることになる運命とは…それはまた次回に。
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