夏目漱石『虞美人草』(5)

5月29日(月)晴れ、時々雲が多くなる

これまでのあらすじ
 外交官だった当主が任地で死んで、甲野家ではその後始末をめぐり混乱が収まらない。先妻の息子で大学で哲学を勉強した欽吾(27)は病弱なうえに厭世的・超俗的で、義理の母親とも、義理の妹である藤尾(24)とも折り合いが悪い。藤尾は、遠縁の宗近一(28)との結婚の話もあったが、英語の家庭教師をしている小野清三(27)に惹かれ、急速に接近し始めている。小野さんは大学卒業にあたって銀時計を頂いた秀才で、詩人として活躍する一方、博士論文の執筆中である。藤尾の母は、欽吾=甲野さんに愛想をつかしており、藤尾が将来有望な小野さんを養子にとって自分の面倒を見てくれることを考えはじめている。宗近君は外交官試験に落第して、浪人中である(再受験した)が、暢気に構えている様子が藤尾母子にはどうも気に入らないのである。一方、宗近君の妹で藤尾とは対照的に家庭的な女性である糸子(22)は甲野さんに惹かれているし、甲野さんも彼女に好意をもっている様子である。

 もともと孤児だった小野さんには井上孤堂という老学者に世話になって大学まで卒業したという過去があり、孤堂先生は自分の一人娘の小夜子(21)と小野さんを結婚させるつもりで、京都の住まいを引き払って上京してきた。孤堂先生と小夜子を連れて小野さんは上野の博覧会に出かけるが、同じ夜に宗近君、糸子、甲野さん、藤尾の4人が居合わせて、3人の様子を見ていた。孤堂先生は小野さんに結婚の約束の履行を迫り、小夜子の存在を知った藤尾は小野さんとの結婚に突き進もうとする。兄の質問に答えて、藤尾は宗近君ではなく、小野さんを選ぶと宣言する。

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 甲野さんの家で甲野さんと藤尾が話していたのと同じころに、宗近の家では父親が前日買ってきた、自分では掘り出し物だと思っている煙草盆を使って、タバコを吸っている。安定と落ち着きの感じられる場面である。そこへ宗近君がやってきて、しばらく骨董だの盆栽だのの話をした後、五分刈りから髪を伸ばし始めたと話題を転じる。まだ変わり映えのしない頭ではあるが、外交官試験に合格したので、1か月後には西洋に赴任することになるという。実は2,3日前に通知を受け取ったのだが、頭ができるまでと思って黙っていたのである。
 無作法な一が西洋に行くのはよい修行になるだろうという父親に対し、宗近君は「無作法な裏と、奇麗な表と」(305ページ) の二通りの人間をもって出かけなければならないから面倒だと答える。日本も「文明の圧迫が激しいから上部(うわべ)を奇麗にしないと社会に住めなくなる」「その代り生存競争も烈しくなるから、内部は益(ますます)無作法にな」(305-6ページ)ると父子の文明批評は開化後の日本にまで及ぶ。〔この文明批評や、ここでは省略した英国の悪口は、漱石自身の経験から出たものであるが、まだヨーロッパに出かけていない宗近君とその父親がこれほど奥に入り込んだ批評ができるとは思えず、不自然な感じがする。〕
 外交官試験に合格したのであれば、任地に赴くまでに結婚の話も決めておいた方がよいという父親に対して、宗近君は藤尾と結婚したいという。そのことについて、甲野の父親が生きていた自分に内々の相談はあったのだが、そのままになっていると父親は言い、先日、藤尾の母が訪問してきて長々としゃべっていったと語る。
 宗近君とは良縁ではあるが、まだご本人の身分がきまっていない(15で藤尾の母は外交官試験に合格するわけはないと自信満々に断言していたのだが、合格した);甲野さん(欽吾)が家を出たいと言っている、そうなると藤尾に養子をとることになるが、それも世間体が悪くて困る、かといって藤尾を嫁にやると自分ひとりになってしまって心細くなって困る…と要領を得ない。どう報告していいのかわからずに、今日まで黙っていたというのである。(藤尾の母親が宗近家を訪問してこの話をしたくだりは10に描かれている。藤尾の母親の方では、遠回しに断ったつもりなのだが、遠まわしすぎて、意味が通じていない。これが後の悲劇につながる。ついでに言えば、宗近君が外交官試験に合格の通知を受け取った時にすぐ、合格祝いをやっていれば、物語も変わっていたであろう。藤尾の母親が断りが通じたはずだと思っているのは、15に出てくる藤尾との対話から明らかである。)
 宗近君は問題解決に乗り出すことになる。まず、甲野さんを説得して家を出るという決心を辞めさせ、糸子と結婚させる(甲野さんと糸子の結婚については、藤尾と藤尾の母を含む周囲の全員が反対していない。それなのに、甲野さんだけが躊躇しているという奇妙な状態が続いている)。それから藤尾との結婚を申し込むというのである。
 彼はまず糸子の意向を確かめようとする。糸子は中二階の自分の部屋で、珍しく(というのは普段ならば針仕事をしているのだが)本を読んでいる。何を読んでいるのか見せようとしなかったが、甲野さんから借りた本である。宗近君は糸子に結婚するつもりがあるかどうかを尋ね、自分が外交官試験に合格したこと、藤尾と結婚するつもりであることを告げる。糸子は13で甲野さんと2人きりで話したときのことが気になっていて、彼との結婚に消極的であるが、兄が藤尾と結婚しようとしていることには反対する(10で藤尾の母親が宗近邸にやってきて話をしている時に、同じ部屋で兄に対して同じことを言っていた)。宗近君は妹が心から甲野さんを理解しようとしていることを知り、是が非でも2人を結びつけようと考える。

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 孤堂先生に小夜子との結婚を迫られた小野さんは、同じく孤堂先生の門下で法学士の浅井を郊外に呼び出す。帰省から戻ったばかりの浅井は手元不如意で小野さんから金を借りたいという。金を用立てる代わりに小野さんは、小夜子との結婚は博士論文の件があるのでないことにして欲しい、その代わり先生の面倒は一生見るからと伝えてくれるように依頼する。
 まだ就職が決まっていない浅井は宗近君のところに就職運動に出かけようかと思っているという。小野さんは宗近のところで孤堂先生の一件は話さないでくれと釘を刺す(言われなくても話さないはずで、この辺りが小野さんの紀の弱いところである)。

 小野さんが甲野の邸までやってきたのと同じ頃に、宗近君も甲野の邸にやってくる。小野さんは富士夫のところに向かい、宗近君は金後の書斎へと入り込む。外交官試験に合格したという宗近君に、甲野さんは藤尾と小野さんの姿を見せて、藤尾との結婚を諦めるように言う。宗近君は糸子が言っていたことが正しかったと知る。義理の母や藤尾と一緒に生活していると堕落する、だから家出をするという甲野さんに対して、どんなときでも糸子は君の味方になって支えていくはずだと2人の結婚を勧める。

 1~19までで構成されるこの小説であるが、次の18で物語が急転し、事実上の決着がつく。19は余燼という感じである。それで、今回は18まで紹介するつもりだったのだが、17でとめておくことにした。オースティンの『エマ』を読んだ後で、この小説を読むと、かなりうまく書けてはいるがやはり見劣りがするという感じが否定できない。(エマ⇔藤尾、ジェーン⇔小夜子、ハリエット⇔糸子というふうに考えてみると、漱石が男性でオースティンが女性だということを勘定に入れても、オースティンの方が女性たちの愛すべき側面を巧みに掬い上げているという感じはする。もっとも、ハリエットと糸子を比較すると、糸子もなかなかよく書けていると思うのは、多少のひいき目かもしれない。)
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倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』

5月24日(水)晴れのち曇り

 5月21日、倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)を読む。

 倉本さんは、その著書をこのブログでも取り上げたことがあるが、藤原道長の日記『御堂関白記』や、道長時代に天皇と公卿たちの間の連絡調整の任を果たした能吏にして能書家の藤原行成の日記『権記』、道長の権勢に阿らず是々非々の態度を貫いて『賢右府』と呼ばれた藤原(小野宮)実資の日記『小右記』の口語訳や、これらの史料に基づいた研究で知られる日本古代政治史、子機六額の研究家である。壬申の乱についての研究業績があるとはいえ、倭国が成立した時代から平安時代の末までの対外戦争を概観する書物を書いたことには、意外な気持ちを抱かされた。

 「はじめに 倭国日本と対外戦争」という書き出しの部分で強調され、その後本文でも何度か繰り返されているのは(倭国→日本は戦争を(ほとんど)しなかった国」であり、戦争の経験は乏しく、もっとはっきり言えば下手であるという主張である。しかしその一方で倭国と朝鮮半島の諸国の関係以来、蓄積されてきた帝国観念が近代におけるアジア侵略に影響を及ぼしていることも間違いないという。倭国が成立して以来、刀伊の入寇に至る対外紛争の歴史を実証的にたどることで、これらの問題に取り組むというのが著者の意図である。

 この書物の構成は次のようになっている:
 はじめに 倭国・日本と対外戦争
第1章 高句麗好太王との戦い 4~5世紀
 1 北東アジア世界と朝鮮三国
 2 百済からの救援要請
 3 高句麗との戦い
 4 倭の五王の要求
第2章 『任那』をめぐる争い 6~7世紀
 1 百済の伽耶進出
 2 新羅の伽耶侵攻
 3 「任那の調」の要求
第3章 白村江の戦 対唐・新羅戦争 7世紀
 1 激動の北東アジア情勢
 2 新羅との角逐と遣隋使
 3 唐帝国の成立と「内乱の周期」
 4 白村江の戦
 5 「戦後」処理と律令国家の成立
第4章 藤原仲麻呂の新羅出兵計画 8世紀
 1 「新羅の調」と律令国家
 2 新羅出兵計画
第5章 「敵国」としての新羅・高麗 9~10世紀
 1 「敵国」新羅
 2 新羅の入寇
 3 高麗来寇の噂
第6章 刀伊の入寇 11世紀
 1 刀伊の入寇
 2 京都の公卿の対応
終章  戦争の日本史
 1 蒙古襲来 13世紀
 2 秀吉の朝鮮侵攻 16世紀
 3 戦争の日本史――近代日本の奥底に流れるもの
 おわりに

 一見して分かるように、最も重点を置いて論じられているのは白村江の戦いである。著者が繰り返し強調しているように、前近代の倭国→日本が実施に海外に派兵して戦争した例は5世紀の対高句麗戦、7世紀の白村江の戦、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮侵攻の3回だけであり、特に中国と戦争した経験は後の2回だけである(秀吉の侵攻は、この書物の主な関心の外にある)。その後の北東アジアの勢力関係が白村江の戦によって決まったといっても過言ではないので、これは当然のことであろう。

 第1章では初期倭王権の対外関係を、石上神宮(奈良県天理市)に伝わる七支刀の銘と高句麗好太王碑(中国吉林省集安市に現存)の銘から推定している。
 北東アジア世界で最初に政治的成長を遂げたのは中国の東北地方から朝鮮半島北部に影響力を持つ高句麗で、北方のツングース系民族である貊(はく)族を主体としていた。中国から朝鮮半島に進出してきた勢力と戦いつつ、半島の南にある百済との抗争に注力するようになった。その百済は4世紀に馬韓を統一して成立し、4世紀後半の近肖古王の時代に勢力を拡大し、高句麗との抗争を続けた。高句麗に対抗するために中国の南朝の東晋に朝貢して冊封を受け、一歩上伽耶諸国と結び、さらに倭国に接近した。356年には朝鮮半島南東部の辰韓を新羅が統一した。朝鮮半島南東部は農業などの生産性が低く、地理的にも中国との交渉に不便で、高句麗に従属せざるをえなかった。なお、朝鮮半島南部の弁韓(弁辰)は統一されないまま、伽耶ショックとして小国が分立市た。それは小盆地がそれぞれ独立した地形を形成しているという地理的理由とともに、この地域が鉄資源に恵まれていたからである。朝鮮半島や倭国はこの地域の鉄生産に依拠していただけでなく、倭国の対半島交渉の中継地でもあった。
 4世紀の後半に倭国と百済との間に王権レベルでの通交が生じる。そのことを示すのが七支刀の銘である。高句麗に対して軍事的に劣勢にあった百済は倭国に軍事援助を求めて接近したと考えられる。「これまで本格的に国家間の交渉というものを知らなかった倭王権は、百済からの誘いに一も二もなく乗せられてしまった…。そしてそれが、今日まで続く半島と我が国との関係の出発点となったのである。」(28ページ)
 好太王碑の碑文を解読すると、391年以来、百済の要請を受けて倭国の軍は都会し、共同の軍事行動をとって新羅に攻め入り、400年には新羅・伽耶戦線で、404年には百済北部の帯方界戦線で、いずれも高句麗と戦って大敗したことが推定できる。敗戦の原因は重装歩兵を中心とした倭国軍に対し、組織的な騎兵を繰り出した高句麗が戦力的に勝っていたことによるものと考えられる。またこの敗戦を機に百済との同盟意識、新羅への敵対意識が生まれたこともその後の展開に大きな影響を及ぼした。

 5世紀の倭の五王時代になると、倭国は中国に朝貢して冊封を受けるとともに、新羅や伽耶諸国に対する軍事指揮権を獲得し、実際には軍隊は派遣しなかったものの、自分たちの「天下」の中に朝鮮半島諸国が含まれるという意識が後世まで残ることになったのである。
 次回は第2章、第3章の内容を検討することにしたい。

カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』

5月23日(火)晴れ、気温が上昇した一方で、風もかなり強く吹いている。

 5月19日、カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(岩波文庫)を読み終える。20世紀後半のイタリアを代表する作家のひとりであるイタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino,1923-86)が1952年に発表した、彼自身にとっての第2作。第二次世界大戦中に自らが参加したレジスタンスの経験をもとに書き上げた「くもの巣の小道」(1946、出版は1947)の後、冷戦時代を迎える中で新しい文学を模索していた彼が、ほんの手すさびのつもりで書き始めたという寓話的・幻想的な小説である。

 むかしむかし、イタリアのテッラルバ(夜明けの土地という意味だそうである)の貴族であるメダルド子爵はキリスト教徒の皇帝の軍に加わってトルコ人と戦うためにボヘミアの平原に馬を進めていた。不吉な予兆があちこちに見られたにもかかわらず、子爵はまだ若く
「あらゆる感情が一度に噴き出して、善悪の区別も定かにつかない年ごろだった。そして死の影に満ちたむごい経験であっても、そのひとつひとつがみな新しく、人生の愛に熱くおののいて見える年ごろだった。」(8ページ)

 トルコ軍との戦闘の中で、(無知も手伝って)勇敢にも大砲の真正面に立ちはだかっためどるとは、砲弾を浴びて、空中に吹き飛んだ。戦闘が終わって、死傷者の体が収容され、選別されたが、メダルド子爵の体は負傷者の車に収容された。しかし病院で調べてみると、彼の体は「右半分だけしか助からなかった。ただし助かった部分は完全に無傷な状態を保っていた。」(22ページ) 軍医たちの手術の結果、「まっぷたつになりながら、彼はいま生き返った。」(23ページ)

 戦場から帰ってきたメダルド子爵を迎えたテッラルバの人々は、彼が右半分だけの体になって戻ってきたことを知る。メダルド子爵は、息子の帰還を待ち受けていた父親のアイオルフォ子爵に挨拶もせずに自室に引きこもった。息子が悲しくも野蛮な性質になって戻ってきたことを予測していたのであろうか、父親歯芸を仕込んでいた小鳥を息子の部屋に使いに出すが、その小鳥は片翼をもがれ、片足をむしりとられ、片目を抉り取られたむごい死骸となって窓の外に投げ捨てられていた。父親は床に臥せり、まもなく息を引き取った。

 父の死後、メダルドは城を出るようになった。見るもの、触れるものをすべてまっぷたつに切り落として歩き回っていたので、従僕たちが彼の後を追うのは容易であった。メダルドのおいで、物語の語り手である少年はかごに入った半分のきのこを与えられるが、それは毒キノコであった。メダルドの乳母であったセバスティアーナは、「メダルドの悪い半分が返ってきたのだ。今日の裁判もどうなることやら」(35ページ)と心配した。
 領地で起きた事件を裁くのは領主である子爵の権限であった。子爵は被告である山賊たちに強盗の罪で、山賊たちが密猟者だといった被害者のトスカーナの騎士たちを、密猟の罪で、そして密猟者の悪事に気付かず山賊行為を予測できなかった職務怠慢の罪で警務員たちにまで縛り首の刑を言い渡した。
 絞首台つくりの仕事を請け負わされたピエトロキョード親方は実直で、腕の立つ職人だったので、処刑者の中に自分の知人がいることに悩み苦しみながらも、今回の死刑囚よりもはるかに多い罪人を一度に処罰することの出来る絞首台を作った。そこで子爵は、罪状ごとに、それぞれ10匹の猫を同時に縛り首にすると宣告した。

 叔父が自分の領地を勝手に支配している時代であったが、語り手にとっては幸せな日々が続いていた。アイオルフォ子爵の娘でメダルドには姉にあたる母親が、密猟者と駆け落ちして、その結果生まれた子どもであり、父親も母親も死に、祖父のアイオルフォのお情けで子爵の城に引き取られてセバスティアーナに育てられた彼は、主人でもない、使用人でもない立場にあって、自由を享受していた。そして、イギリス人でキャプテン・クックの航海にも乗り組んだことがある(航海の最中は下の船室でトランプばかりしていたという話である)。テッラアルバで暮らすようになってから、彼は医者らしい仕事はあまりせずに、自分の研究に没頭していた。語り手の少年はその研究の助手として森の中を歩き回っていたのである。彼が人魂の研究をしているという話を聞いて、メダルド子爵は領主におさめるべき農作物をきちんと差し出さなかったという理由で農民10人を死刑にした。トレロニー博士はこの援助に震え上がってしまった。
 しかし、子爵の恐怖政治のもとでも、喜びがないわけではなかった。テッラアルバにはきのこ平という集落があって、ライ病にかかった人々が住んでいた。彼らは他の人々の施し物で生きていたのであるが、自分たちの畑でいちごを作っていて、そのおかげでいちご酒には1年じゅう不自由せず、ほろ酔い加減を続けていた。
 メダルド子爵は悪行を続け、あちこち放火して歩いただけでなく、乳母のセバスティアーナがライ病ではないのに、きのこ平に追いやってしまう。海岸でカニをとっていた語り手に向かい、メダルドは半分になったタコを見せながら、「もしもお前が半分になったら、…普通の完全な人間の知恵では分らないことがおまえにもわかるようになるだろう。おまえはおまえの半分を失い、世界の半分を失うが、残る半分は何千倍も大切で、何千倍も深い意味をもつようになるだろう。そしてお前はすべてのものがまっぷたつになることを望むだろう、お前の姿どおりにすべてのものがなることを。なぜなら美も、知恵も、正義もみな断片でしか存在しないからだ」(72ページ)という。語り手はこの言葉が聞こえないふりをしながら、自分の周囲の人々がみなまっぷたつの姿をしていることに気付く。「彼こそは、ぼくたちが仕える主人であり、ぼくたちがあ逃れることのできない、主(あるじ)だった。」(73ページ)

 語り手である少年と、テッラアルバの人々は、この半分だけの子爵の暴虐から逃れることができるのであろうか。

 パソコンの調子が悪く、ほとんど書きかけたこの稿の原稿が2回も消えてしまったので、本来ならば1回で済ませるはずだった紹介の論評を2回に分けることにした。起伏に富んだ物語の進行の中で、一方で幻想的な記述があるかと思うと、その一方で森や海岸の動植物についての詳しい記述もあって読んでいて飽きない。後半では、子爵がある娘に恋をして、物語の構成要素がさらに膨らんで面白くなる。 

夏目漱石『虞美人草』(4)

5月22日(月)晴れ、気温上昇

主要登場人物
(甲野家)
 外交官であった当主が任地で没し、先妻の生んだ長男の欽吾(27)、後妻、後妻の生んだ娘の藤尾(24)の3人暮らし。
欽吾 大学で哲学を勉強し、卒業後は特に職に就くこともなく思索にふけっている。財産は妹の藤尾に譲って、家を出ようと思っているが、義理の母親が本心と逆のことばかり口にしているので、悩みが深まっている。
藤尾 「紅を弥生に包む昼酣(たけなわ)なるに、春を抽(ぬき)んずる紫の濃き一点を、天地(あめつち)の眠れるなかに、鮮やかに滴(した)たらしたるが如き女である。夢の世を夢よりも艶(あでやか)に眺めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢(びん)の上には、玉虫貝を冴々(さえざえ)と菫(すみれ)に刻んで、細き金脚(きんあし)にはっしと打ち込んでいる。(以下略、23ページ)」と漱石は描写している、<紫>の着物を好む美人である。宗近家の長男である一と、父親同士では結婚の内約があったが、英語の家庭教師をしてもらっている秀才で詩人の小野に心を移している。
藤尾の母 義理の息子である欽吾に不満を持ち、外交官試験に落第した宗近一にも愛想をつかし、卒業に際して銀時計をもらった秀才の小野を将来有望と考えて、藤尾の婿に迎えようとする。しかし、外聞を気にしてその本心とは逆のことばかり言う。

(宗近家)
 甲野家とは遠縁であるが、家庭の様子はかなり違っている。母親は没した様子であるが、第一線を引退したらしい父親と、長男の一(28)、娘の糸子(22)の3人が、下女の清、あまり役に立たない書生の黒田と仲良く暮らしている。甲野家がよかれあしかれ観念的・思弁的(あるいは審美的)傾向があるのに対し、こちらは実際的・実用的な傾向が強い。
一 大学卒業後、外交官試験を受験したが、落第。2度目の受験をしたらしいが、その結果はまだわからない。藤尾からは趣味が合わないと嫌われ、藤尾の母からは馬鹿にされているが、まだ藤尾との結婚をあきらめてはいない様子である。国士的な気概と実際的な能力を持つ男性で、妹想いの兄でもある。
糸子 「丸顔に愁(うれい)少し、颯(さつ)と映る襟地(えりじ)の中から薄鶯の蘭の花が、幽(かすか)なる香を肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。」(88ページ)と漱石は描写している。裁縫が好きな家庭的・実用的な性格で、教養も才芸も豊かとはいえないことで藤尾に劣等感を抱いているが、欽吾は糸子の方が好ましいと思い、糸子も欽吾に思いを寄せている。
宗近の父親 実業家であったのか、官吏であったのかは不明。引退して、謡や盆栽、骨董など趣味三昧の生活をしている。自分の子どもや欽吾など若い世代とよく話し、尊敬を受けている。

小野清三(27) 恵まれない環境に生まれ育ったが、京都で井上孤堂先生の世話になって頭角を現し、文科大学を優等の成績で卒業して銀時計を得た。博士論文の執筆中である。孤堂先生は娘の小夜子と結婚させたい意向であるが、本人は英語の家庭教師をしている藤尾の美貌と財産とに惹かれ始めている。孤堂先生が京都の住まいを引き払い、小夜子とともに東京に移住してきたことで決断を迫られている。

井上孤堂 小野さんが若いころに世話をした。教師をしていたらしいが、今は年金暮らしである。昔気質の老人で、京都から東京に出てきて、当惑しながらも、娘と小野さんの結婚に夢をつないでいる。
小夜子(21) 孤堂先生の一人娘。東京の女学校を中退して、京都で暮らしはじめて間もなく母を失い、父と二人暮らしである。「真葛が原に女郎花が咲いた。すらすらと薄を抜けて、悔(くい)ある高き身に、秋風を品よく避けて通す心細さを、秋は時雨れて冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜に、冬は果てしなく続く中に、細い命を朝夕に頼み少なく繋なぐ。冬は五年の長きを厭わず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に貧(まずしさ)を知らぬ春の天下に紛れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴に色づくを、ひそかなる黄を、一本(ひともと)の細き末に頂て、住むまじき世に肩身狭く憚りの呼吸(いき)を吹くようである。」(133ページ)と、漱石は彼女の境遇、性格、容姿をひとまとめにして女郎花に譬えている。女郎花の花は秋に咲き、淡黄色であるから、春と紫のイメージを重ねられている藤尾と対照的に描き出されている。京都での住まいの隣の旅館から彼女を見かけた宗近君が「藤尾さんよりわるいが糸公より好いようだ」(52ページ)と遠慮のない感想を述べている。東京に戻ってきたが、小野さんとの距離が出来てしまったことに引け目を感じている。

これまでのあらすじ
 京都に旅行に出かけた宗近君と甲野さんは、旅館の隣に住む娘(小夜子)を嵐山への花見でも見かけ、さらに東京に帰る汽車にも乗り合わせているのに気づく。2人の留守中に藤尾と小野さんの関係は深まっているのだが、そんなことを知らない孤堂先生は小夜子を連れて東京に出てきたのである。上野で開かれている博覧会に出かけた宗近君、甲野さんは、小野さんが孤堂先生と小夜子を案内してやってきているのを見かけ、彼らの関係に薄々と気づく。2人に同行していた藤尾と糸子も3人の姿を見て、それぞれの感想をもつ。翌日、小夜子は小野さんと買い物に出かけようとするが、小野さんは他に用があるのでと同行を断り、買い物を引き受ける。小野さんの訪問を受けた藤尾は、小野さんからしばらく顔を見せなかった事情を聞き出し、いよいよ小野さんの決断を迫る。

13
 散歩に出かけた甲野さんは宗近君の家に立ち寄るが、宗近君もその父親も不在で、使用人も取次に出ないので、家にいた糸子が相手をする。糸子は前日の博覧会で、兄が噂をしていた京都の女性を見かけたことを話題にする。小野さんが「美しい方を連れていらしったでしょう」(227ページ)と言い、兄と甲野さんが何度も彼女と出会っているという話を面白がるが、甲野さんは宗近の家の庭の片隅に咲いている鷺草(さぎそう)とも菫(すみれ)とも判断できない花に、糸子の注意を向けさせて、小夜子をこの花に譬える。小さいので、その美しさに気付く人がいない哀れな花だと言い、自分の美しさを利己心の満足のために利用する(そんなことははっきりとは言わない)藤尾のような女は、小夜子のような女を5人殺すとまで言う。そして糸子には、今のままでいる方がいい、結婚すると女は変わると言い残す。
 「可愛らしい二重瞼がつづけ様に二、三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと雨竜(あまりょう)の影が渡る。鷺草とも菫とも片浮かぬ花は依然として春を乏しく咲いている。」(232ページ)
 糸子は、当惑している様子である。偶然というか、行きがかり上そうなってしまったということではあるが、甲野さんの言っていることはあまり適切な発言とは思えない。遠まわしすぎて、通じにくいが、甲野さんの言葉をつないでいけば、糸子が好きだけれども結婚してうまくやっていく自信がないということであろう。それを糸子がどの程度理解したか、あるいはそういう「空気」だけを感じたのか、というのは今後の物語の展開の一つの要素となる。(漱石の描き出した小夜子の像と、甲野さんのとらえている小夜子の像がどのように違っているかというのも興味ある問題である。)
 物語の展開とは関係がないが、この時代には「鷺草」というのは普通に見かけられた草花であったようだ。今では九品仏浄真寺など限られた場所でしか見ることのできない植物になってしまった。

14
 外出中の宗近君は小野さんが紙屑籠とランプの台をもって歩いているのを見かけて、呼びとめる。小野さんは小夜子から聞いた買い物をして、孤堂先生の家に向かう途中なのである。藤尾を宗近君から奪うという意識がある小野さんは何となく落ち着かないが、宗近君は博覧会で見かけた小野さんの連れについて質問する。宗近君と別れた小野さんは、孤堂先生の家に急ぐ。
 一人で留守番をしていた孤堂先生は体調が悪く臥せっていたが、起きてきて、小野さんの相手をする。小夜子との結婚についてはっきりさせることを急ぐ先生に対し、小野さんは2・3日の猶予を申し出る。先生の家を出た小野さんは落ち着かない気分で、歩きながら道の向こう側を歩いて帰ってくる小夜子と下女の二人連れをやり過ごす(この時代の道は狭いけれども暗かったので、こういうことがありえたのであろうか)。

15
 甲野邸を訪問した小野さんは欽吾が使っている(もとは彼の父親のものであった)書斎を羨ましく思い、この書斎が自分が使えたらと空想にふける。その書斎では甲野さんがイタリアの厭世的な詩人であるジャコモ・レオパルディ(1798-1837)の『随想録』を読みながら抜き書きをしている。
 その間、藤尾とその母は小野さんを夫として選ぶという藤尾の決心を欽吾に話したか、この決心が宗近の方に伝わっているかについて話している。母親は話が伝わっているはずだというが、藤尾はもっとはっきり言うべきだと主張する。母親は藤尾と小野さんが大森へ行くという約束を思い出す。当時大森は行楽地として知られていて、2人で出かけるということは既成事実を作ってしまおうということであった。
 甲野さんの部屋に出かけた母親は藤尾の面倒を見てほしいというが、甲野さんは藤尾の方で世話になるつもりはないだろうという。藤尾の縁談を話題に持ち出すのに先立って母親は甲野さんに結婚する意志があるのかどうかを質問する。甲野さんは藤尾の方を先にした方がいいだろうという。家も財産も藤尾にやると甲野さんはいうが、母親はそれでは世間に対して面目が立たないという。そして藤尾と小野を結婚させたいというが、甲野さんは宗近の方がいいのではないかという。母親に呼ばれてやってきた藤尾は宗近君ではなく、小野さんを選ぶという。「趣味を介した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値(ねうち)は分りません。決して分りません。一さんをほめる人に小野さんの価値が分る訳がありません。…‥」(298ページ)

 自分の優柔不断を悩んでいる小野さんを「温厚の君子」というのは藤尾の買い被りである。もっと問題になるのは、有名な『日記』を残したスイスのアンリ・フレデリック・アミエルや、もっと有名なところを引き合いに出せばフリードリッヒ・ニーチェに見られるように詩と哲学とは対立するものではないということである。甲野さんが日記にレオパルディの語句を書き記すのは暗示的である。藤尾は自分は兄と違って詩を理解していると思っているが、実は甲野さんの方が詩を理解していると漱石は仄めかしているように思われる。

吉田茂・吉田健一・河上徹太郎「親子対談」

5月19日(金)晴れ、気温上昇

 1998年に小沢書店から刊行された『吉田健一対談集成』は座談の名手であった吉田が加わったさまざまな対談・座談を集めた書物で、英国や文学をめぐり、(少数の例外はあるが)同時代の一流の人士との意見交流が、主題についての多くの(少しばかり古めかしくなっているが、有益であることに変わりはない)知識や理解を与えてくれる。この対談集の冒頭に収録されているのが、『改造文芸』の昭和24(1949)年7月創刊号に掲載された吉田とその父親で、当時首相であった吉田茂(1878-1967)の親子対談であり、吉田の師匠筋である文芸評論家の河上徹太郎が第三者として加わっている。

 次のような前書きがある:
 定刻目黒の外相官邸へ着くとすぐ、二階の私室へ通される。よく手入れの行届いたフランス式の庭には梅雨が煙り、机の上には雑然と積まれた書類の上に、今まで読んでいたらしい「ライフ」が投げ捨ててある。首相「今日は何のお話をすればいいんです?」河上「ことによると議会より大変ですよ」といい乍ら、一同座につく。(9ページ)
 吉田茂は外相も兼務していたから、外相官邸に住んでいても不思議はない。いまの首相は官邸と公邸とをもっているが、当時は官邸の中に個人的な生活の場も設けられていたということらしい。なお、この官邸というのは現在の東京都庭園美術館であることが、対談を読んでいくとわかる。だから「目黒」と書いてあるけれども「白金」と書く方が適切ではないかと思う。季節は梅雨に入っており、7月号に掲載されたということで、雑誌発行当時は最新の情報を含んでいたと考えられる。通常国会の議事が終わって、首相としても一休みというところであるが、文学雑誌の取材ということで、ちょっと当惑しているところがあるかもしれない。

 河上が「今日は一つ政治に関係のないお話を‥‥。」と切り出すと、首相は「なんでも話しますよ。いまの日本は政治的にはどうせうまくゆきっこありませんよ。」とかなりざっくばらんな態度で対応する。この政治家が、少なくとも首相になって最初のころは、自分は本来外交官であって、政治については素人であると自認していたことがわかる発言もある。ワンマンといわれた吉田茂ではあったが、自分の能力を冷静に見つめる側面もあったようである。それでも日本はぼちぼち復興していることが話題にされ、戦勝国である英国が依然として耐乏生活を続けようとしていることを評価する。

河上 あなたは健一君をイギリスの学校へお出しになりましたけれども…‥。
首相 あれは私よりは私の家内が熱心に主張しましてね。
河上 その目的は功を奏しましたかしら。
首相 さあ、どうですかね(健一さんを見て微笑)。まあ、日本にいて不良少年になるよりかよかったでしょう。(笑)
健一 でも、イギリスへいったお蔭で、このごろずいぶん稼いでおりますよ。
首相 そうかい。親の所へ少しは持ってくるといい。(笑)
健一 それほどじゃないんだけども。(11ページ)
 吉田茂の妻(健一の母)雪子は昭和16(1941)年に死去していたが、外交官出身で各種大臣を歴任した政治家の牧野伸顕(1862-1949)の娘である。ここでの茂・健一の親子の間の距離の保ち方が絶妙で面白い。
 吉田茂はずっと日本で教育を受けたので、外国の文化について勘が働かないところがある。子どものころから外国に出かけて教育を受けると、そのあたりが違ってくるのではないか。白洲次郎などを見ているとそう思うというのが吉田茂の感想である。

 イギリスの小説ではどんなものを読むかという河上の問いに対し、吉田茂はクリスティはよく読んだという(この時代だから英語で読んだのであろう)。クリスティの小説には単に推理小説としての面白さだけでなく、イングランドの風土や人情についての詳しい描写があるので、この国で暮らした人間にとっては懐かしく読める部分がある。吉田茂は駐英大使の経験があるから、クリスティを懐かしい気持ちで読んでいたかもしれない。
 日本の小説では「鞍馬天狗」(大佛次郎)を読んでいるという。外相官邸はもともと朝香宮邸であったので、宮様の蔵書が残っていて、その中の「宮本武蔵」(吉川英治)だの「新書太閤記」(吉川英治)だのを引っ張り出して読んでいるという。
健一 パパは矢田挿雲の「太閤記」を読んだでしょう。
首相 矢田・・・・・? そうだったかな。
健一 吉川英治のはどうですか。
首相 あまり面白くないね。
健一 人生教訓みたいなものが入ってるからでしょう。
首相 さあ、それもあるかもしれない。もうお談義はたくさんですよ。(笑)
 70歳を超えた父親に対し、40歳に近づいている息子が「パパ」というのはどうもすごいねえと思う。吉川英治の作品の人生教訓的な部分を父子ともにあまり好まないというのは注目してよい(日本の経営者や教育者に吉川英治があたえた影響というのはかなり大きなものではなかったかと思うのだが、この親子はそういう流れとは無縁であったわけである)。

 読書以外では、以前は新国劇をよく見たが、ここ10年ほどはご無沙汰しているという。映画は見ない(当時のことだからテレビはまだない)。
河上 じゃ、お疲れをやすめるのは、大体何ですか。
首相 寝ますね。尤も睡れなくて困ってるんですけれども。
河上 武道の方は何かなすったんですか。
首相 いや、何にもしません。子供の時に親父で撃剣で殴られて以来、しないことにしています。
健一 馬はずいぶんお早いんでしょう。
首相 馬は乗ったけれども。
 吉田が武道とは関係がなかったというのが興味深い。親父というのは実父の竹内綱であろうか、養父の方であろうか。父親の暴力で、武道が嫌いになったような言い方である。いまの政治家は、学校で武道を教えさせたがっているが、吉田が生きていたら賛成するだろうか。

 吉田茂は能書家であった(以前、『開運!なんでも鑑定団』に吉田茂の書が出品されたことがあり、明治の元勲たちほどではないが、近年の政治家の中では吉田の書は出色であるという評価が語られていた)が、特に手本とする書家はなく、独創であるという。健一は「パパに書いていただいたお蔭で、ぼくの家の表札、非常に立派ですよ。」(16ページ)と思いがけないことを言う。
 話は清水崑と首相との付き合いや、政治漫画についての首相の感想から、政治家とジャーナリズムの関係に移っていく。かなり微妙な話も含まれるが、それは機会を改めて紹介することにしたい。

 この対談の主人公は明らかに父親の方であり、息子の方はまったくの添え物であるが、時々、座の空気を和らげたり、父親の意外な側面を引き出す援護射撃をしたりで、後年における座談の名手ぶりの片鱗を見せている。文学の話とはいっても、登場するのはクリスティやドイル、吉川英治で、話題がかなり限られているが、高橋哲雄(1989)『ミステリーの社会学』(中公新書)によるとミステリーを楽しむのは、幾分なりとも教育のある社会層であって、これにくらべると一般小説の方が受け皿は広いのだそうである。(日本の時代小説にもミステリーと多少似た部分があるのではないかという気がする。) それで漱石や鷗外の話題というのも出てこないのだが、『虞美人草』の登場人物で外交官志望の宗近一が明治40(1907)年に(数え年で)28歳という設定になっていることを思い出した。ということは明治13(1880)年生まれで、11年生まれの吉田茂よりも少し年下ということになる。吉田茂は杉浦重剛の日本中学校に学んだことがあり、座談の後半に出てくるように漢籍の素養もあり、欧米一辺倒という人物ではなかった。この時代の外交官というのは多かれ少なかれ、国士的傾向があったのかなと考えたりもするのである。 
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