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ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(19)

3月28日(土)曇り、午前中、一時小雨

 ローマ白銀時代(14‐180)の詩人ルーカーヌス(39‐65)の『内乱――パルサリア――』は、作者が皇帝ネロの暗殺の陰謀に加わって自殺を命じられたために、未完に終わったが、紀元前1世紀にローマの支配権をめぐってポンペイウスとカエサルの間で戦われた内乱を描いた長編叙事詩である。
 紀元前60年にローマの3人の実力者、ポンペイウス、クラッスス、カエサルの間で結ばれた密約(第一次三頭政治)は混乱していたローマに安定をもたらしたが、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死すると、残った2人の間の対立が激しくなる。ポンペイウスはローマの元老院と結び、ガリア総督であったカエサルの職務を解き、軍隊の解散とローマへの帰還を命じるが、カエサルはこれに応じず、軍を率いたままガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、合流してきた元老院の大立者クリオの教唆もあってローマ進軍を企てる。カエサル進撃の報を聞いたローマは大混乱に陥り、ポンペイウスをはじめ、多くの元老院議員が脱出していく。(第1巻)
 ローマを脱出したポンペイウスは反撃を試みるが、彼を支持する軍勢は各地でカエサル軍に敗れ、ついに、イタリア半島南東のブルンディシウム(ブルンディジ)からギリシアの西の地方に向けて脱出していく。(第2巻)
 ローマに入城したカエサルは自分の立場を正当化したうえで、国庫から軍資金を略奪し、イベリア半島のポンペイウス派の軍勢の掃討に出発する。一方、ギリシアに逃れたポンペイウスは東方諸国から大軍を集め、反撃を企てる。カエサルは遠征の途中、両派の和睦を求めるマッシリア(マルセイユ)の抵抗を受けるが、一部の軍隊を残したままイベリア半島に向かう。マッシリアは海戦の末にカエサル派に降伏する。(第3巻)
 イベリア半島に進んだカエサルは、アフラニウスとペトレイウスが指揮し、イレルダを拠点とするポンペイウス軍を最終的に山間に封じ込め、降伏させる。その一方、イッリュリア(アドリア海東岸地域)の海戦ではカエサル派のアントニウス(第二次三頭政治家の弟)がポンペイウス派に包囲されて敗れ、またシキリアからリビュエ(北アフリカ)に渡ったクリオは、ヌミディア王ユバの軍勢の策略にはまって敗死する。(第4巻)

 今回から第5巻に入る(岩波文庫版の上巻に収められた最後の巻である)。
 かくして運命は、禍福ない交ぜ、二人の将に交々(こもごも)
戦の痛手を負わせて、なお伯仲する両雄として
マケドニア人の地まで温存した。すでに季節は、ハイモスが
雪を敷き、アトラスの娘たちが凍てつくオリュンポスを戴く空から
降ろうとする真冬。暦年に新たな元号を与え、日月を導く先駆けの
ヤヌスを祀る門出となる日が近づいていた。
(第5巻、1-6行、225ページ) 時は紀元前49年の暮れ、二人の将=ポンペイウスとカエサルの両雄がテッサリアのパルサルス(パルサリア)で対決することになるのは、紀元前48年の8月のことである。オリンピックというと思いだされるオリュンポスの山はギリシアの最高峰(2917メートル)であり、その北側がマケドニアであるが、テッサリアはアレクサンドロス大王の父ピリッポスⅡ世の時代からマケドニアに服属していた。ルーカーヌスがパルサルスがマケドニアの土地だとしているのは、このためであろう。ハイモスはバルカン山脈のこと。ギリシア最北東部から黒海まで連なる山脈である。「アトラスの娘たち」はプレイアデスのこと。ここでは彼女たちが変身したとされるおうし座の散開星団=プレイアデス星団のことを言う。日本ではスバルというが、冬の星座である。ローマの暦では各年は1年任期で交代する執政官の名前で呼ばれた。ここで「元号」というのはそのことを踏まえたものである。ヤヌスは前と後ろに2つの顔をもつ神で、行く年、来る年を見つめる。1年最初の月の神(英語のJanuaryの語源)である。その神殿の門扉は、戦時には開かれ、平時には閉ざされた(大体、いつも開かれていた)。まもなく新しい年が始まるが、ローマの公職は原則任期1年で、1月1日に任期が切れる。したがって、新しい人事を決めなければならないのである。

 そこで、執政官2人は元老院議員たちをエペイロス(ギリシア西部)へと招集した(岩波文庫版の注によると、これが歴史的な事実であるかどうかは不明だそうである)。執政官2人とローマの元老院議員の多くがポンペイウスと行動をともにしている、とはいうもののここで新しい人事を行わないと、政権の正統性が疑わしくなると考えたのである。
 多数の元老院議員が集まり、この集まりがポンペイウス派の集まりというよりも、ポンペイウスが元老院と共和政派の一員であることを示していたが、一同の表情は暗かった。
 (同じころローマでは、執政官2人が不在という事態の中、独裁官となったカエサルが選挙会を開き、彼自身とプブリウス・セルウィニウスが(紀元前48年の)執政官に選ばれた。)

 執政官である(ルキウス・コルネリウス・)レントゥルスが立ち上がり、語りかけた。自分たちはローマを追われ、異郷をさまよっているが、「国政の枢機は我らに付き従い、最高指揮権は我らとともにあろう。」(第5巻、27行、227ページ)。ローマを占拠しているカエサルの政権には正統性はなく、彼らの軍勢はイッリュリアの海戦で敗れ、リビュエでクリオは戦死した。大義に基づく反撃のために、ポンペイウスを将帥に選出しようと彼は提案する。この提案は可決され、次に参集した諸国、諸王を賞賛する名誉決議が採択される。
 例えば、ギリシア人の植民都市であるマッシリアがカエサル軍と戦った武勇を賞賛され、その母市であるポキスには自由が与えられ、クリオを敗死させたヌミディア王ユバはリュビエの支配権を認められた。問題は、その次に登場する人物である。
…ああ、定めの何という無情。汝にも、
プトレマイオス、背信の民の王国にこの上なく似つかわしい者よ、
フォルトゥナの恥辱、神々の咎よ、汝にもその髪を絞める、ペッラの
王冠をかむることが許された。少年の彼は、民に向かって振るう狂暴な
刃を受け取った――望むらくはその刃が偏に民に向かっていたなら――。
かくして少年にラグスの王宮が授けられ、マグヌスの喉頸(のどくび)が
これに加わることになった。姉からは王権が、舅からは(婿殺しの)
非道の罪の機会が奪われたのだ。
(第5巻、57‐64行、229ページ) ここでプトレマイオスとよばれているのは、クレオパトラ(Ⅶ世)の弟のプトレマイオスXⅢ世である。ここで記されているのは一種の事後予言であるが、パルサリアの戦いで敗北したポンペイウス(マグヌス)はエジプトに逃れ、プトレマイオスを頼るが、彼に暗殺されてしまう。ペッラはマケドニアの古都でアレクサンドロス大王の誕生の地であるが、ここで「ペッラの王冠」はアエギュプトス(エジプト)の王冠を指している。「ラグスの王宮」のラグスはプトレマイオス王家の先祖の名であるが、「ラグスの王宮」はエジプトの王宮を指している。「姉」はクレオパトラ(Ⅶ世)で、(王家のしきたりにより)弟と姉弟婚をして王位にあったが、仲たがいをしていた。ここでルーカーヌスが書いていることがすべて史実に即しているとはいいがたいのであるが、彼はプトレマイオスがエジプト王になった後に、ポンペイウスを殺し、カエサルが自分の婿(娘の夫)であるポンペイウスを殺す機会が失われたことを憤っているのである。

・・・やがて集会は解かれ、
一群の元老院議員たちは兵戈を目指して散っていった。
(第5巻、64‐65行、229ページ) 彼らのだれも、自分の今後の運命はわからなかったが、それでも戦地に赴いていったのであるが、名門クラウディウス家の血を引くアッピウス(・クラウディウス・プルケル)は今後のなりゆきに対する不安から、将来の運命を知ろうとしていた。彼が知ることになる運命とは…それはまた次回に。
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ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(18)

3月21日(日)晴れ

 ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(39‐65)の未完に終わったこの叙事詩は、紀元前1世紀の中ごろ、ローマ共和政末期における内乱を題材としている。
 紀元前60年にポンペイウス、クラッスス、カエサルの3者の間で成立した第一次三頭政治は、混乱の続いたローマに安定をもたらしたが、紀元前53年にクラッススがパルティアで敗死してその一角が崩れると、残った2人の間の対立が激しくなった。詩人は過去の英雄ポンペイウスを「樫の古木」、昇竜の勢いのカエサルを「雷電」に譬えている。
 紀元前59年、ローマのポンペイウスは元老院と結び、カエサルのガリア総督の職を解き、軍隊を解散することを命じたが、カエサルは軍を率いたままガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、護民官の職を解かれてローマを追放されたクリオの教唆もあって、ローマへと進軍することを決心する。カエサル襲来の噂にローマは混乱に陥り、ポンペイウスをはじめ、ローマの高官たちの多くが脱出していく。(第1巻)
 ポンペイウスは反撃を試みるが、彼の軍隊は各地でカエサル派の軍隊に敗れ、最後に残ったブルンディシウム(現在のブルンディジ)も支えきれず、ギリシゃの西の方へと船で逃れていく。(第2巻)
 カエサルはローマに入城するが、彼を支持するものはわずかである。この後の戦いに備えて彼はサトゥルヌス神殿の予備金庫の中の財貨を略奪する。ポンペイウスは東方の各地から大軍を集めて反撃を準備する。カエサルはローマを発って、イベリア半島のポンペイウス派を掃討するために西進するが、ギリシャ人たちの植民地であるマッシリア(現在のマルセイユ)がポンペイウスとの講和を主張してそれを阻もうとする。カエサルは一部の兵を残してイベリア半島へと向かい、残った兵は陸では苦戦したものの、海戦でマッシリアを攻略する。(第3巻)
 イベリア半島に進軍したカエサルは、アフラニウスとペトレイウスが率いるポンペイウス派の軍隊を破るが、イッリュリアのクリクタ島ではアントニウス(後の三頭政治家の弟)がポンペイウス派に包囲され、脱出に失敗して敗れる。(第4巻のこれまで)

 ところで、この戦にまさるとも劣らず熾烈だったのは、その後、
リビュエの野で燃え上がった戦である。
(第4巻、574‐575行、207ページ) リビュエは「現在のリビアを中心とするアフリカ北西部地方、アエギュプトゥス(エジプト)を含む東北アフリカの総称として用いられる」(「地名・部族名等一覧」43ページ)と注記されている。リビアがアフリカ北西部にあるといっていいかどうかは疑問であるが、これからの戦闘が展開されるのは、現在のチュニジアの辺りなので、北西部と言ってよい。

 カエサルに内乱をそそのかしたクリオは、その後シキリア(シチリア)の総督であった小カトーを追い払って、この島に軍隊を駐屯させていた(カエサル『内乱記』41‐42ページ参照。ルーカーヌスは小カトーをストア的聖人として理想化して描いているが、政敵であったカエサルは、厳しい評価をしている。とにかく両者とも自分に都合の悪いことは触れていないので注意を要する)。
 クリオはシキリアの西端にある港町リリュバエウム(現在のリリベオLilibeoのことだろうと思われる。シチリア州トラパニ県マルサーラの一部になっているが、ポエニ戦争の時は重要な役割を演じた古代都市らしい)を出発し、アフリカ大陸北岸の(かつてローマと地中海の覇権を争った)カルタゴの遺跡と、その西にあるクリペアの間に上陸した。『内乱記』によるとカエサルはクリオに4軍団を与えたが、クリオは敵の力を見くびって2個軍団と騎兵500騎だけで渡ったという。カエサルはクリオの上陸地をアンクィッラリアと記している。

 海岸の近くにある高台とその周辺は「アンタイオスの領地」とよばれていたが、それは古代ギリシャの英雄ヘラクレスが、この地に住んでいた狂暴な怪人アンタイオスと戦い、苦戦の末やっと退治したという神話に基づく命名である。アンタイオスは大地の女神の子どもであったので、その体が大地に触れるたびに力をとり戻すことを見抜いたヘラクレスはアンタイオスの体を持ち上げたままその命を絶ったといわれる。
 また、海岸近くの高台は第二次ポエニ戦争(紀元前218‐201)の際に、シキリアから渡ってきたスキピオ(プブリウス・コルネリウス・~・アフリカヌス)が陣営を構えた場所であり、その遺跡がまだ残っているという。「ローマが初めて勝利を収め、占拠した野がここなのだ」。(第4巻、651行、212ページ)

 この前例が、自分の場合にも当てはまると思って、浅はかにもクリオはこの高台に陣地を張った。しかし、彼に対抗するプブリウス・アッティウス・ウァルスは大軍を擁し、しかもヌミディア王で、北アフリカでもっとも勢力をもっていたユバⅠ世の軍勢が家政として加わり、他にもアフリカの部族の支援を受けていた。
 ユバはローマの元老院からヌミディア王としてリビュエの支配権を与えられていたのだが、クリオはカエサルと結託してその王位と支配権を奪おうとした過去のいきさつがあり、ユバはクリオに対し敵意を燃やしていた。
 またクリオにしてみると、彼の率いている軍勢は、もともとコルフィニウムでカエサル軍に降伏した(第2巻)軍で、戦局によって有利な方に寝返ろうという危うい兵たちからなっていたことが、心配の種であった。
 しかし、緒戦では、クリオの軍勢はウァルスを破り、敗走させた。

 だが、ウァルスが戦闘で敗れ、撃破、掃滅されたとの悲報を耳にするや、
ユバは、戦の誉れが自分の軍勢のために取っておかれたと喜び、
急遽、密かに隊伍を率いて進軍したが、厳に緘口令を敷き、
自分の進軍が飛語となって広まらぬよう、極秘裏に事を運んだ。
(第4巻、705‐708行、216ページ) 彼は王に次ぐ地位にあるサップラを先発させ、自分たちの軍勢を実際よりも少なく見せかけたうえで、大軍を窪地の谷間に温存し、毒蛇をマングースが退治するやり方をまねて、クリオの軍勢を罠にかけようとした。
 クリオは「リュビエの陥穽に気をつけろ、奸策で常に血ぬられた/ポエニ戦役の例を忘れなという、再三再四受けた忠言を/徒にして」(第4巻、725‐727行、217ページ)朝早くから高台の崖の上を進軍した。

 サップラの率いる軍勢が事前の取り決め通り後退するのを、退却と判断したクリオは軍勢を平原へと向かわせるが、それまで隠れていたヌミディアの騎兵たちに包囲される。呆然自失として戦意を失ったクリオの軍勢は、ユバ王の軍勢のなすがままになる。包囲の輪はしだいに狭まり、最後の時を知ったクリオは、自刃して、その死骸を戦死者の中に交える。
 詩人は、クリオがカエサルに内乱をそそのかしたことを糾弾し、内乱の結末を見ずに非業の死を遂げたことを当然の報いだとするが、その一方で、彼の変節前の功績についても言及する:
ローマが生んだ市民で、これほどの俊才は他に類を見ず、正道を
辿っている時の彼ほどに法が多を負う市民は他に類がなかった。
(第4巻、810‐811行、223ページ)
 しかし、莫大な負債を抱えて窮地にあったところをカエサルから提供された金銭で救われ、閥族派からカエサル派に寝返った。彼の変心がローマの運命を大きく変えることになったと詩人は言う。スッラ、マリウス、キンナ、カエサル、彼らはローマを買ったのだが、クリオはローマを売ったのだと歌って、詩人は第4巻を終える。
 クリオがユバ王の軍勢に敗北する場面は、『内乱記』にも描かれているが、カエサルは軍人であるだけに戦闘の過程の描写はまさっているように思われる。ルーカーヌスの描写ではクリオが戦死したのか、自刃したのか分かりにくいが、カエサルは戦死したと記している。同じ出来事でも、描き方が微妙に違っている部分があり、関心のある方は、両者を読み比べてください。

 ポンペイウスはイタリア半島を追われ、またイベリア半島でも自派の敗戦を経験し、カエサルはイッリュリアとリビュエでの敗戦を経験し、それぞれに犠牲を出したが、主力を温存したまま、決戦の機会をうかがっている。第5巻ではまだ両雄の対決の場面は到来しないが、パルサリアの戦いに向けて、刻々と時間は過ぎていく。

 昨晩は居眠りをしてしまい、皆様のブログを訪問することができませんでした。失礼の段をお詫びいたします。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(17)

3月14日(土)雨、また寒さが戻ってきた

 ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(39‐65)の現存する唯一の作品であるこの叙事詩は、作者の死によって未完に終わったが、ローマ共和政末期・紀元前1世紀の半ば、グナエウス・ポンペイウス・マグヌスとガイウス・ユリウス・カエサルの間で戦われた内乱を描き、「敬虔、正義、法、平和の支配するローマの永遠の統治の到来を予告した建国叙事詩『アエネーイス』への文字どおりのアンチ・テーゼ――亡国叙事詩――であった」(大西英文「ルーカーヌス」、松本仁助・岡道男・中務哲郎編『ラテン文学を学ぶ』、Ⅳ‐2‐A、203ページ)といわれる。
 紀元前50年11月、ローマのポンペイウスと元老院によってガリア総督の地位を解かれたカエサルは、イタリアとガリアの境界であるルビコン川を軍隊を率いて渡り、ポンペイウス派に対する内乱を企て、ローマに迫ろうとする。ポンペイウスや元老院議員の多くがローマから逃亡し、市内は混乱に陥る。(第1巻)
 ポンペイウスは反撃を図るが、彼の派遣した軍隊は各地でカエサル軍に敗れ、ついにギリシア西部を目指して、イタリアから脱出していく。(第2巻)
 ローマに入城したカエサルは、サトゥルヌス神殿の予備金庫を開けて国庫から略奪を行う。一方、東方に逃れたポンペイウスは各地から味方の兵力を集める。カエサルはイベリア半島のポンペイウス派の軍隊を討伐しようとローマを離れるが、途中、ギリシア人の植民地であるマッシリアが、カエサル軍に抵抗する。カエサルは、軍の一部を残してイベリア半島へと向かい、海戦に敗れたマッシリアはカエサル軍に降伏する。(第3巻)
 イベリア半島のイレルダに本拠を置き、アフラニウスとペトレイウスが指揮するポンペイウス派の軍勢を、カエサルは山間部に追いつめ、降伏させる。(第4巻の前回まで)

 これまでカエサル軍が、ポンペイウス軍を各地で破ってきた様子を紹介してきたが、
 だが、世界じゅうで繰り広げられた戦の帰趨は一様ではなかった。
運命は、あえて、いささかの痛手をカエサルの党派にも与えた。
(第4巻、399‐400行、195ページ)
 イッリュリア(現在のクロアチア)のアドリア海上に浮かぶクリクタ島(クルク島)の好戦的な住民たちを頼りに、陣営を構えていたカエサル派のガイウス・アントニウスは、付近の海域をポンペイウス派に封鎖されて食糧の補給を阻まれた。〔このガイウス・アントニウスは、カエサルの暗殺後に、オクタウィアヌス(アウグストゥス)、レピドゥスとともに三頭政治を行ったマルクス・アントニウスの弟である。〕 

 しかし、対岸の本土の海岸にカエサル派のバシリスと彼が率いる軍勢とが進出してきたのを見て、島からの脱出を図ることになる。彼らは「巨大な荷に耐える頑丈な木を、/常ならぬ並びで組み合わせた筏」(第4巻、415‐416行、196ページ)をつくった。この筏を漕ぎ進める漕手たちは、木材の壁に囲まれているために、敵からその姿が見えないという奇妙なものである。アントニウス軍は、干潮になるのを待って筏を砂浜に運び、そして海へと漕ぎだした。

 イッリュリアの海の守備にあたっていたポンペイウス派の艦隊司令官オクタウィウスは最初に漕ぎだした3隻の筏をそのまま見過ごし、そのあとに続く軍勢を襲おうとした。彼らは昔からの戦法を用い、海面には細工をせずに、海中に綱を宙づりに渡し、綱は緩めたままにしていたが、その端を海岸の崖の岩に結びつけた。
 最初の筏も、二番目の筏もこの罠には引っかからなかったが、3番目の筏が捕らえられ、岩の方に引き寄せられていった。捕らえられた筏を、ポンペイウス派の艦船が取り囲み、また陸地にもポンペイウス派の別の軍勢が待ち構えていた。筏の指揮官であったウルティウスは刀で綱を切ろうとしたが、切り離すことができず、ついに勝ち目のない、戦いを決意することになった。
 包囲する軍勢は数千、筏の上の兵士たちは600人足らず、激しい戦闘が始められたが、すぐに日没で戦闘は停止となった。
 
 その夜、ウルティウスは部下たちに、後世の語り草になるような戦いをして自分たちの命を終わらせようと檄を飛ばす。
・・・私には、差し迫る
定めを避ける気など微塵(みじん)もない。たとえ運命が退却を許し、
この危地から解放してくれようともだ。
(第4巻、505‐507行、202‐203ページ)

 翌日、ポンペイウス派の軍勢は筏の上の軍勢に降伏した上での和睦を持ち掛けるが、すでに死を決意している兵士たちはこれを拒否、ついに戦闘が再開される。筏の上の兵士たちはわずかな兵力でよく戦い、「海と陸、同時に持ちこたえた。死を恃む/心はそれほど大きな力を与えた。」(第4巻、529‐530行、204ページ) しかし、衆寡敵せず、指揮官であるウルティウスも多くの敵兵を倒した末に、命を失う。全滅したとはいえ、彼らの勇武は敵によっても賞賛されたのであった。

 詩人はウルティウスとその部下たちの壮絶な戦いと最期を描き出すが、(どうも彼は敗者に対して熱心に感情移入するところがあるようである)、この軍勢の指揮官であったガイウス・アントニウスの身の上については語っていない。アントニウスは結局、生き残った部下とともに降伏し、赦免を受ける。
 次回は、カエサル派にとってもう一つの痛手であったガイウス・スクリボニウス・クリオの敗死を取り上げることになる。クリオは、すでに紹介したように、ルビコンを渡ったカエサルに合流し、彼に内乱をそそのかした人物である。 

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(16)

3月7日(土)曇り

 紀元前50年の11月、ローマのガリア総督であったカエサルは、ガリアとイタリアの境界を流れるルビコン川を軍隊を率いて渡り、ローマを支配していたポンペイウスと元老院との戦い、内乱の開始の意志を示した。カエサル進軍の風説に混乱したローマから、ポンペイウスや元老院議員の大半が逃亡、人々は来たるべき内乱の予感に恐れおののくのであった。(第1巻)
 ローマを離れたポンペイウスは、カプア(現在のカンパニア州に位置する)に拠点を構えてカエサル軍を迎撃しようとするが、各地でポンペイウス軍は敗北、カプアから退却してたどりついたブルンディシウム(現在のブリンディジ、イタリア半島の東南部プリア州)も支えきれず、ギリシアのエペイロス(西の部分)を目指して逃げてゆく。(第2巻)
 ローマに進軍したカエサルは、サトゥルヌス神殿の予備金庫を開けて、国庫を略奪する。ギリシアに逃れたポンペイウスは東方の各地から軍勢を集めて反撃の準備をする。ローマを離れたカエサルは、スペインのポンペイウス派の軍隊の討伐に向かうが、途中で両派の停戦を主張して籠城するマッシリア(現在のマルセイユ)の抵抗に出会い、軍の一部を残して、スペインに向かう。カエサル軍は陸では苦戦したが、海戦でマッシリア軍に勝利し、マッシリアは降伏する。(第3巻)
 スペインに転進したカエサルは、アフラニウスとペトレイウスが指揮し、拠点イレルダ(現在のレリダ)を守るポンペイウス軍と対峙する。カエサルの陣営は洪水で壊滅するが、態勢を立て直すと、ポンペイウス軍は形勢不利と見て、内陸への逃走を図る。追撃するカエサル軍が至近の距離に陣を構えた時、両軍の兵らは互いに旧知の間柄であったことを認め、勝手に停戦して交歓しあう。(以上、第4巻の前回紹介部分)

 両軍の兵士は、敵も味方もまじりあい、食事の卓を囲み、神を祀り、夜遅くまで昔話に興じた。
 しかし、ポンペイウス派の指揮官であるペトレイウスは、兵士たちが自分の指揮に従わず、戦いをやめたことを喜ばなかった。一時の停戦は破られた。
ペトレイウスは、一党の手に武器を持たせて罪深い戦闘へと駆り立て、
手勢を従えて、丸腰の敵兵を陣から追い立て、結ばれた抱擁を
剣で引き裂き、大量の血を流して停戦を打ち壊したからである。
(第4巻、207‐209行、183ページ)
 ペトレイウスは、さらに兵士たちに向かい、
・・・我らは生き延びようとしてこの内乱を
戦っているのではない。平和の美名のもと、我らが
隷属へと引かれ行こうとしているのが分からぬか。
(第4巻、220‐222行、183‐184ページ)と、独裁者の地位を目指すカエサルの手から、共和政を守るべきことを説く。この演説が奏功して、兵士たちは再び残虐な戦いへと進むことになる。

 ところが、このようにして再開された戦闘はカエサル軍の圧勝に終わる。
 このあたりの経緯については、ルーカーヌスを読んだだけではよくわからないが、イベリア半島の各部族の支持を得るために、カエサル軍とポンペイウス軍の双方が工作を続けた挙句、カエサル軍を支持する部族の方が多くなったことが、カエサルの『内乱記』(国原吉之助訳、講談社学術文庫)には記されている。ルーカーヌスは、両軍の兵士がお互いが身近な存在であることに気づいて停戦したのだと書いているが、カエサルによれば、カエサル軍が兵力において勝ってきただけでなく、ポンペイウス軍の食料や水の調達の手段を奪ったことにより、ポンペイウス軍の相当部分がカエサル軍に投降したことが記されている。

 ポンペイウス軍は再び逃走しなければならず、その軍勢をカエサルは山中にとじこめ、水源地を確保して、ポンペイウス軍が水に欠乏するよう計略をめぐらした。ポンペイウス軍は必死になってカエサル軍に戦闘を挑むが、カエサル軍は正面から戦おうとせずに、ポンペイウス軍の疲れを待つ。水と食料の欠乏に苦しむポンペイウス軍の兵士たちは、地面を掘り返して水を求めるが、それもむなしい試みに終わる。
 こうしてしだいしだいに追いつめられるなかで、アフラニウスは降伏を決意する。
 ついに、指揮官たちは屈し、敗北した。アフラニウスは、
武力での抵抗を断念し、和睦を乞うことを皆に提案した上で、
歎願者として、半死の軍勢を率いて敵陣に赴き、
勝利者の足の前に佇んだ。
(第4巻、331‐334行、191ページ) 『内乱記』の方がこのあたりの経緯は詳しく記しているが、カエサル軍は戦闘よりも、ポンペイウス軍の水・食料・糧秣の補給を断つことによって次第に敵を追い詰めていったのである。

 アフラニウスの降伏の言葉を聞いたカエサルは、意外にも彼の願いを受け入れ、兵の徴用も、軍の懲罰も行わず、アフラニウスとペトレイウスの命も助けた。正式に和睦が結ばれるや否や、今や自由の身となったポンペイウス軍の兵士たちは、カエサル軍の歩哨の消えた川辺に走って行って、川の水を心行くまで(中には慌てて飲んで、むせぶものもいたが)飲むのであった。「命は/一掬の清水で蘇るのだ。」(第4巻、376‐377行、194ページ)
 ああ、不幸なるかな、戦いを行う者は――。そのあと、兵士らは、
武器を勝利者に引き渡し、胸から鎧をはずして、心安らかに、
罪を犯す虞(おそれ)もなく、憂いから解き放たれて、おのがじし、
故郷の都へと散っていった。
(第4巻、378‐381行、194ページ)
幸いなるかな、世界が崩壊して揺らぐとき、己の置かれた境遇が、いかに
平安なものかを知りえたものは。疲れた彼を、戦闘が駆り出すこともない。
喇叭の合図が安眠を破ることもない。
(第4巻、390‐392行、195ページ)
 ここでポンペイウス派の軍隊の兵士たちを、そのまま故郷に帰らせたことで、カエサルの声望は一気に上がることになる。彼らにとってポンペイウスはもはや、かつての将であり、カエサルこそ、自分たちの生活を元に戻してくれた恩人である。
 ただし、大将2人、アフラニウスとペトレイウスはこれからもカエサルに刃向かい続ける。その結末までは、まだまだ時間がかかりそうである。

 この『内乱――パルサリア――』という叙事詩は、紀元前1世紀の中ごろに起きたローマの内乱を題材としているが、ギリシアのホメーロスとか、同じローマのウェルギリウスの叙事詩と比べて、戦争を正当化せず、その残虐さとか、平和の尊さとかを強く訴えているところが特徴となるのではないか。叙事詩の一方の主人公であるカエサルが出馬した戦いを描いているにもかかわらず、戦いそのものは詳しく描写せず、むしろ兵士たちの平和への想いを強調している今回は、そういう特色がよく出た個所ではないかと思う。当事者であり、軍人であるカエサル自身の記録『内乱記』と読み比べてみると、そのことが余計はっきりするのである。マッシリアに続いて、イベリア半島でも勝利を収めたカエサルであったが、運命は必ずしも彼に微笑み続けていたわけではない。詩人は、その視線を、カエサル派の軍隊が敗れた2つの戦いへと向ける。その詳細は、また次回以降に。

 昨夜は居眠りのため、皆様のブログのうち訪問できなかったものが少なくありませんでした。お詫びします。 

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(15)

2月22日(土)晴れのち曇り、夕方になって一時雨

 紀元1世紀のローマの詩人ルーカーヌスの未完に終わったこの叙事詩は、紀元前1世紀の半ばにローマの覇権をめぐり、閥族派のポンペイウスと民衆派のカエサルのあいだで戦われた内乱を題材とするものである。今日に残されているのは第10巻までであるが、これまで第3巻までを紹介してきた。今回から第4巻に入る。
 元老院とポンペイウスにより、ガリア総督の地位を解任され、軍隊の解散を命じられたカエサルは、その命令に従わず、ガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、大軍を率いてローマに迫る。内乱の始まりである。この知らせを聞いてローマは大混乱に陥り、ポンペイウスをはじめ、ローマの要人たちの多くがローマを去る。(第1巻)
 ポンペイウスはカプアを拠点として反撃を試みるが、カエサル派は各地でポンペイウス派の軍隊をやぶり、ポンペイウスはイタリア半島南東部のブルンディシウムの港から、ギリシアのエペイロスを目指して逃亡する。(第2巻)
 カエサルはローマに入城するが、彼を支持する者は少ない。一方、東方に逃れたポンペイウスは各地から大軍を集めて反撃を準備する。カエサルはスペインのポンペイウス軍と戦うべき西にむかい、その途中で両派の和睦を主張して抵抗したマッシリアの攻囲を部下たちに委ねて、スペインに向かう。マッシリアは、海戦によって陥落する。(第3巻)

 一方カエサルは、遠く世界の果ての地で獰猛に
戦を遂行していた。死者の数ではさほど罪深くはないが、
二人の将の命運を決する重大な契機となる戦であった。
(第4巻1‐3行、169ページ)
 ポンペイウス派の将軍はアフラニウスと、ペトレイウスであった。ローマから派遣された兵士たちに加えて、イベリア半島の各地からの兵士たちが彼の麾下に加わった。イベリア半島の東南部(後のアラゴン→カタルーニャ)にイレルダ(現在ではカタルーニャ語でリェイダと呼ばれている、スペイン=カスティーリャ語ではレリダである)という丘の上の町があり、その近くをシコリス川(現在ではセグレ川)が流れている。シコリス川と、その支流であるキンガ川(シンカ川)が合流するあたりを望む、もう一つの丘の上にカエサルの軍勢が陣営を構えた。〔シコリス川は、キンガ川と合流した後、今度はヒベルス川(エベル川)にそそぐ。〕

 両軍はしばらくにらみ合いを続けた。
 戦いの初日、流血の戦闘は控えられ、将の率いる
軍勢と数知れぬ軍旗を誇示するだけで終わった。
罪を恥じたのだ。恥の心が狂乱の将たちの兵戈を押しとどめ、
祖国と踏みにじられた法に一日の猶予を与えたのである。
(第4巻、24‐27行、170‐171ページ) このあたりの表現にルーカーヌスの戦争一般を否定する心情が込められているのではないかと思う。

 しかし、カエサル軍が動き出し、両陣営のあいだにある丘を占拠しようとするが、ポンペイウス派の軍の方が先に丘を自分のものとする。しかし、戦闘はどちらが勝利することもなく終わり、両軍はそれぞれの陣営に引き上げる。
 冬のあいだ、戦いは停滞していたが、春になると雨の日が多くなり、しかもピュレネ(ピレネー山脈)の山の雪が解けて、シコリス川が増水しはじめた。平原に陣地を張っていたカエサル軍は、「水難に見舞われて水没し、/陣営は押し寄せる洪水で壊滅した。」(第4巻、86‐87行、174‐175ページ)
 カエサル軍は苦境に陥ったが、運命は彼を見放さなかった。水害は長くつづかず、カエサル軍に挽回の余裕を与えた。彼らは柳の枝を編んで牛の皮を張った船を造って交通手段とし、さらに橋を架け、水路を掘って、水の勢いを押さえた。

 このようにカエサル軍が態勢を立て直しているのを見たペトレイウスは、イレルダの町の味方たちだけでは対抗できないと考えて、半島のさらに内陸部に同盟者を求めて去っていこうとした。
 それを見たカエサルは、兵士たちにすぐ、彼らの後を追うように命じた。ポンペイウス軍のしんがりに、カエサル軍の先頭の騎兵たちが追いつき、脅かし始めたとき、ポンペイウス軍は闘争を続けるか、踏みとどまって戦うかで迷っていた。
 カエサルは、ポンペイウス軍が内陸部に逃げ込むと戦闘が長期化することを懸念した、自分の軍隊の一部をポンペイウス軍に先回りさせて、正面から戦おうとした。
 両者は土塁を築いて先頭に備えた。しかし、そこで予期しない出来事が起きた。

・・・距離の遠さに霞むことなく、互いの目が
互いの顔をはっきりと見分けた時、兵士らは骨肉相食む
内乱の非道を覚悟した。皆は、軍律への恐れでしばし
声を呑み、ただ頷きと剣の動きで縁辺と会釈を交わしていた。
やがて、一層強い衝動に駆られて、熱い愛の心が軍律を破り、
思い余って土塁を乗り越え、両手を広げて腕を差しのべつつ
互いを抱擁した。知己の名を呼ぶ者もいれば、縁者の名を呼ぶ者もいる。
遊びや学びに共に熱中して過ごした子供時代が心に蘇った者もいた。
敵の中に知己、縁者を一人も認めなかったローマ人はいなかった。
(第4巻、168‐176行、180ページ)
 両軍の兵士たちは、相手の陣営に自分の知人や友人の姿を認めて、指揮官の命令や軍律を無視して戦闘を停止し、お互いに交歓しあったのである。この思いがけない平和は果たしてどのような結果をもたらすのであろうか、それはまた次回に。 
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