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トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(9)

7月24日(水)晴れ、暑し。

 コロンブスの新世界への航海に参加し、その後、地球上をさらに東へと進んで、世界を一周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、その航海の途中で立ち寄った「太陽の都」の様子を、マルタ騎士団の団員の質問に答えて語る。
 「太陽の都」はタプロヴァーナ島(この物語では、スマトラ島のことを指していると考えられる)の中央に広がる草原の中の丘の上に建設され、七重の城壁を同心円状にめぐらした都市で、その中心である丘の頂上には神殿が位置する。この都市を支配するのは、「太陽」と呼ばれる神官君主で、すぐれた学識を持つ人物が選ばれるという一種の哲人政治が行われている。「太陽」は「権力」、「知識」、「愛」と呼ばれる3人の高官によって補佐される。「権力」は軍事、「知識」は科学、「愛」は生殖、教育、医療を司っている。
 住民たちは私有財産を持たず、家族をつくらず、集団で共同生活をしている。(一部の例外はあるが)全員が働くので、社会全体としては豊かであるが、個々人の生活はきわめて質素である。衣服は配給制、食事は共同で行われ、城壁内の役人が指定した場所で寝起きする。
 神殿の外壁や城壁には様々な絵が描かれていて、子どもたちの教育に利用されている。人々は教育を通じてその能力・資質を見出され、それぞれに適した職業に就くことになっている。

 次にジェノヴァ人は、マルタ騎士団員の問いに答えて、生殖について語る。
 「太陽の都」では女子は19歳になるまで男子と同衾せず、男子は21歳までは生殖行為を行なうことができない(モアの「ユートピア」では女子18歳、男子22歳であった)。この年齢に達する以前であっても、情欲に激しく悩んでいる場合には、必要な手続きのもと、教師や医者の監督下で性交することができる。男色は激しく非難され、それが重なると死刑になる。21歳まで一度も西欧をしなかった男子は、褒賞などを授けられ、賞賛を受ける。
 彼らは古代ギリシャ人(スパルタ人)のように、男女の別なく全裸で運動するので、教師たちはそれぞれの身体的な特性をよく知っており、誰と誰の組み合わせが最も適切であるかを判断できる。坂本鉄男は「古代スパルタ人の習慣にヒントをえたもので、ラテン語版には明確に『スパルタ人のように』と述べている。モアの男女の適合性の判断はこれとは違って、行為の前に『互いに全裸で紹介される』と述べている」(87ページ)と注記しているが、古代スパルタ人が本当に全裸で運動する習慣を持っていたかどうかは疑ってみる余地がある。マリー=ルイズ・ベルネリが『ユートピアの思想史』で述べているように、リュクルゴスの唱導によるといわれるスパルタ人たちのこの習慣は、プルタルコスの『リュクルゴスの生涯』(『英雄伝』と訳されることが多い『対比列伝』の一部)に記されたものであり、プルタルコス自身が、彼の時代にはそうでなかったと述べているものである。が、リュクルゴスの改革に基づいて展開された(と言われる)スパルタ人たちの生活ぶりは、プラトンの『国家』と並んで、近世以降のユートピア思想に大きな影響を与えるものであった。すでに述べた、共同で食事をするという習慣についても、実はプルタルコスにその記述があり、モアも、カンパネッラもその影響を受けたと考えてよいのである。

 彼らの夜の営みは、教師たちの監督のもとで行われ、占星術によって最もよい時間が選ばれている。かれらが子作りのために入念な配慮をするのは、「生まれながらの素質なくしては道徳的力も育つことは難しい、性質の悪い人々は法を恐れるために善をするのであり、法が無くなるようなことがあれば公然とあるいは秘密裏に共和国を害するであろうといわれています。だから、生殖にこそあらゆる配慮がなされるべきであり、持参金とか一時的な貴族の称号などでなく、生まれつきの性質にこそ注意が払われるべきなのです。」(28ページ)という理由からである。

 ある女性が、男性との間に子どもを儲けることができないと、別の男性と結びつけられる。その結果、彼女が赴任であることがわかると、男性たちの共有物とされる。そのような女性は生殖の会議、食堂、寺院などで母となったことのある女性としての名誉を得ることはできない。
 妊娠した女性は15日間は仕事をせず、その後は、軽い労働に従事する。分娩後は共同の場所で自分で育児をする。そして博物学者たちの意見による2年間ほどは授乳を行なう。離乳後は女児ならば女性教師の、男児ならば男性教師の監督下に委ねられ、ここで他の子どもたちと一緒に学習することになる。
 
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梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(19)

7月20日(土)曇り、時々雨

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア4カ国を訪問し、熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌を調査した。これはその調査旅行の私的な記録である。
 調査に参加したのは、霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学の吉川公雄(医師でもある)、人類学の藤岡喜愛である。研究に協力しているタイのチュラーロンコーン大学のクルーム教授(動物学)の助手であるヌパースパット、通訳としてチュラーロンコーンに留学中の葉山陽一郎が現地で加わった。また、後からお茶の水女子大学の教授で植物分類学の津山尚が合流する意向を示した。
 一行はバンコクで開かれた第9回太平洋学術会議に参加して報告を行った後、自動車の運転の練習を兼ねてカンボジアのアンコール・ワットを訪問、その後、タイ北部における調査の準備を進め、12月24日にバンコクを出発、ロッブリー、ナコーン・サワン、ターク、トゥーンを経てチェンマイに到着した。ここでチェンマイの営林局に人員の派遣を依頼し、ドーイ・インタノン地区の森林官であるサイヤンが一向に加わった
 1958年1月2日に一行は、タイの最高峰であるドーイ・インタノンに向けて出発、山麓のメー・ホーイの村に一泊した。登山の荷物を運ぶためのウマに加えて、バンコクのフランス大使館のイヴァノフの勧めにしたがってゾウを2頭傭い入れた。谷川に沿って山を登り、山中に住むカレン族と遭遇、彼らの居住地であるソップ・エップの対岸にキャンプを設営したが、かれらとは友好的な関係を築くことができた。

カレン族
 カレン族はもともとビルマ(ミャンマー)に本拠を持ち、最大の少数民族として、ビルマ5州のうちの1州=カレン州を形成している。それだけでなく、山を越えてタイの山岳部まで進出しているのである。ビルマでは、かれらは山地民とは言えないかもしれないが、タイでは山地民として、平地のタイ人たちとは距離を置いて生活している。しかし、両者の間に交流がないわけではなく、(チェンマイ県)チョームトーン郡の郡長によれば、かれらは政府に税金を納め、また彼らの中でタイ語ができる適当な人物が村長に任命されているという。ただし、かれらが国有林の中で畑作を行なっているのは、不法行為とみなされているようである。かれらは自分たちをクリスチャンだといい、実際に、チョームトーンにある教会から、ときどき牧師がやって来ているという。

鳥かごの家
 翌日、一行は対岸のカレンの部落を見に出かけた。戸数わずかに3戸であったが、水田が開かれ、スイギュウとブタがいた。「かれらもまた、水田耕作者という点では、平原の民となんら異るところはないのである。」(213ページ)
 「家は、木と竹で組んだ鳥かごみたいな家だった。高い床と、大きくおおいかぶさる屋根にはさまれて、ぺしゃんこの、かれらの居住空間があった。」(214ページ)
 服装は、直線截ちの単純なスタイルのものだった。男たちは、ひざの下までのズボンに、赤い上着を着ていた。女は、娘たちは長いワンピースの白いのを着ていたが、年配の女は、ししゅうのある黒いツーピースを着ていた。結婚するとすっかり服装がかわるのである。男も女もみんなハダシである。
 前夜、仲よしになった少女たちが、広場で輪になって踊りをおどって見せてくれた。川村はそれを映画におさめた。

桃源郷パーモン
 その日は、さらに谷川をのぼりつづけた。谷はしだいに狭く、道は険しく入り組んできた。落葉性の広葉樹にかわって、次第に常緑広葉樹が増えてきた。「景観は、だんだん緑が濃くなり、見かけの季節は、秋から夏にかわってきたようだ。」(214ページ) 日本の山とは違って、高くなるほど緑が多くなっているのは、山の上の方が下の方よりもずっと雨が多いからである。

 「夕方、突然に森が切れて、開けた場所に出た。それがパーモンだった。」(215ページ) この附近のカレンの大中心地で、全部で90戸のカレンがいるという。
 「しかし、まったくふしぎなところだ。平原のタイ族の最後の部落から、距離にして約30キロメートル、高さにして1000メートル以上も高い。しかも、その両者のあいだは、すきまもなく大森林で埋められているのである。こんな山奥の谷間に、こんなりっぱな大集落をかまえて、別種の人たちが住んでいようとは、だれが想像し得るだろうか。
 わたしは、シナの説話の中に出てくる桃源郷というのを思いだす。桃源郷というのは、きっとこんなところだったのだろう。平原の漢民族とは別種の、南中国の山地民の村だったのかもしれない。」(215‐216ページ)
 これは注目すべき見解ではないかと思う。

「犬のくそ」という名のしゅう長
 翌日はパーモンに滞在して、登山の準備をした。まだ1000メートルほどの高さをのぼっていかなければならず、また道がないので、ウマを使うことができない。そこでカレンを傭うことにして、しゅう長と交渉にあたることになった。
 やがて部下を連れてやって来たしゅう長の名は、ヌッ・キーマーといった。この名は、タイ人の役人につけてもらったのだそうだが、北タイのことばえ「キーマー」は犬のくそという意味だという。梅棹は、日本統治時代に、台湾やミクロネシアで日本の役人が現地の人たちにでたらめな名前を付けたという話を思い出す。「しかし、魔よけのためにわざと奇妙な名をつけるという例もあるから、この場合はちがうかもしれない。」(217ページ) 梅棹はここでは慎重な態度で、解釈を回避している〔「奇妙」と言えば、織田信長が、自分の長男には「奇妙丸」→信忠、次男には(頭の格好が似ているから)「茶筅丸」→信雄と名づけたという話もある〕。

 ヌッ・キーマーは精悍な顔つきのわりには、気の弱そうな男だったが、なかなかの駆け引きをやった。それでもサイヤンがうまく交渉したおかげで、11人の人夫を適当な価格で傭うことができた。ヌッ・キーマー自身が人夫頭として同行することになった。

カレンはめっぽう強い
 1月9日の早朝、キャラバンはパーモンのベースキャンプを出発した。
 梅棹たちは、カレンの男たちが荷物をどのように持ち運ぶかを見守っていたのだが、かれらがみんな自己流で好き勝手に荷物を持ち運ぶのに驚く。大丈夫かと思うのだが、どうも平気な様子である。かれらはもちろん、ハダシである。
 しばらくは田んぼの中の道を歩いたが、田んぼがなくなると、道もなくなる。カレンたちのうち先頭の2,3人は荷物を持たず、山刀で道を切りあけた。その後を輸送隊がゆき、最後に隊員が登る。隊員が登るころには、いくらか踏み跡がついて、道のようなものができていた。
 「カレンたちは、めっぽう強い。ずいぶん無理な荷の持ち方をしているのに、けっこう平気である。」(218ページ) しかし、それでもときどき、休む。荷を下ろして、木の根っこに座りこんで、手製の葉巻を吸う。やっとのことで隊員たちが追いつき、倒木に腰を掛けて休む。「カレンの一人が、立木の一本を、山刀でチョンチョントけずって、その一きれをわたしに渡し、口に入れるよと手まねでおしえる。つーんと強い香りが走る。ニッケイである。」(218ページ)
 森林官のサイヤンが有能なので、一行は登山を順調に進めることができるが、山そのものはなかなか手ごわい様子である。さて、この後、どうなるかはまた次回に。

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(8)

7月17日(水)朝のうちは雨が残っていたが、その後次第に晴れ間が広がる。

 コロンブスの新世界への航海に参加して、その後、世界を一周してヨーロッパに戻ってきたイタリアのジェノヴァ出身(コロンブスと同郷)の船乗りが、マルタ騎士団の団員の質問に答えて、彼の世界一周の中で訪問した「太陽の都」の様子を語る。それはタプロバーナ島(スマトラ島と考えられる)の中心部の平原の中に建設された同心円状の城壁に囲まれた都市で、市の中央の丘の頂上に神殿が建っている。
 この都市を統治するのは「太陽」と呼ばれる神官君主で、学校教育を通じて優れた能力を持つと認められたものが選ばれる。かれは、軍事等を司る<権力>、学問を司る<知識>、生殖・教育・医術などを司る<愛>と呼ばれる3人の高官によって補佐される。
 住民たちは私有財産を持たず、家族をつくらず、集団生活をして、それぞれが役人によって決められた居室で寝起きする。神殿の壁と城壁には市民たちに知識を授けるための壁画等が描かれ、それは学校教育にも使われている。人々は学校教育を通じて、その能力と適性とを見出され、それぞれに適した職業に就くのである。

 「太陽の都」について語るジェノヴァ人の話はさらに続く。城壁に囲まれた環状地帯のそれぞれには、公共炊事場と食糧貯蔵場がある。仕事ごとに男女の年配者各1名が長となり、命令を下したり、仕事をなまけたり命令に背いたりするものを罰する権限を持ち、また仕事ぶりを記録している。勤務成績の評価を通じて、それぞれに適した作業が探索される。
 若者たちは40歳以上の年配者の身の回りの世話をする。ただ、夜の就寝時と朝は、当番のものがこの役割を引き受ける。若者たち同士では、お互いに助け合うことになっている。

 食事の際には第一テーブル群と第二テーブル群が並べられ、テーブルの片側に男子、反対側に女子が座って食事をする。あたかも修道院の食事のようだというが、修道院は男子のみ、あるいは女子のみだと思うので、なぜこのように書かれているのか疑問である。食事中は物音を立てないが、1人がテーブルについたまま歌うように朗読し、ときどき、係の指導者がその一節について何か話をする。集団が整然と食事をし、若者たちが手際よく給仕しているさまを見るのは素晴らしいことだとジェノヴァ人は言う。

 めいめいの仕事に応じて、料理、スープ、果物、チーズが分け与えられるのであるが、医者たちが料理係に料理の内容について指示を与える。指導者はいちばんよい部分を分けてもらうのであるが、その日の午前中の授業、学問の討論会、武芸などで一番の成績を上げた者の食卓には、指導者から食事の一部が分け与えられる。これはたいへんに名誉なことと考えられている。祭日には食事の時にも歌が歌われる。「太陽の都」では皆が仕事をしているので、なにひとつ不足するものはない。料理係と食堂長には賢明な老人がついていて、かれらが道路、部屋、什器、衣服、進退などの清潔状態を監督しているという。共同で食事をするというのは、モアの『ユートピア』と共通する考え方である。

 次にジェノヴァ人は、「太陽の都」の住民たちの服装について語る。彼らは一種の制服を着て生活しているのであり、その制服について細かく書かれている。不必要で華美な服装を嫌うのは、モアの『ユートピア』と共通するが、実際問題として、もしカンパネッラが一度でもスマトラを訪問したことがあれば、その暑さを考えて「太陽の都」の住民たちをもっと薄着にさせたであろうと思われる。それでも衣服は動きやすいように仕立てられ、年に4回衣替えが行なわれるという。「すべての人々は白ずくめで、毎月衣服は石鹸で、木綿類は灰汁で洗濯をします。」(坂本訳、24ページ) 

 地下室は全部工作場、調理場、穀物置き場、衣服置き場、食料品貯蔵所、食堂、洗濯場などに当てられている。ただし、沐浴は柱廊で行われるという。すでに神殿の周囲には柱廊が設けられているという記述があったが、城壁の周囲にも柱廊があるのかもしれない。そうしないと、「太陽の都」の多数の市民の入浴の必要に応じきれないからである。
 水は便所に直接流すか、便所に通じる溝に流すかする。
 土の環状地帯の広場にも井戸があって、ほんのちょっと仕掛けを動かすだけで水をくみ上げることができ、水はパイプを通じてほとばしり出る。この井戸についての記述には、たぶん、カンパネッラの願望も込められているのではないか。湧き水もあるが、貯水槽のなかにも、家々の樋から雨水を引き砂利をつめた濾過パイプを通して集めた水が大量に貯えられている。このような細心の配慮は、水の供給に苦労した人間の発想である。
 人々は教師と医師の命令でしばしば沐浴する。
 あらゆる手仕事は下の柱廊で、思弁的な仕事は絵画の描いてある上階の柱廊で行い、学習は神殿のなかで行われるという。
 各環状地帯の外側の柱廊には日時計、時鐘付時計、風向きを知るための風見が備えてある。 

 人々が食事など生活の多くの場面で共同生活を営み、みんながそれぞれの能力・資質に応じて働くので、社会全体としては豊かであるが、各人の暮らしは質素なものであるというのは、トマス・モアの『ユートピア』と共通する考えである。しかし、前回も書いたが、現実の社会を行政官・弁護士として観察していたモアと、修道院で生活し、さらには入獄していた寒波ねっらとでは、現実のとらえ方にかなりの隔たりがあり、そこから社会の描写の精粗の差が出ていることも否定できない。「太陽の都」に住む人々の暮らしぶりがある程度理解できた騎士団員はジェノヴァ人に人々の生殖について尋ねるが、それはまた次回に。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(18)

7月13日(土)曇り、午後になって雨が降り始める

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、東南アジアのタイ・カンボジア・ベトナム・ラオス4カ国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌の調査を行った。これはその私的な記録である。
 調査に参加したのは、梅棹のほかに霊長類学の川村俊蔵、植物生態学の小川房人と依田恭二、昆虫学の吉川公雄(医師でもある)、人類学の藤岡喜愛の5人である。タイのチュラーロンコーン大学、特に動物学のクルーム教授の協力を得て、その助手であるヌパースパットが参加、また同大学に留学中の葉山陽一郎が通訳として加わった。
 バンコクで開かれた太平洋学術会議への参加、アンコール・ワットへの旅行などを経て、12月24日に一行は北タイに向かい、ロッブリー、ナコーン・サワン、ターク、トゥーンをへて、12月28日にチェンマイに到着、同地の営林局と交渉して森林官であるサイヤンの動向を得ることになった。総勢9名となった一行は、1958年1月2日、タイの最高峰であるドーイ・インタノン登山に向けて出発した。郡庁所在地であるチョームトーンをへて山麓の村メー・ホーイに到着する。ここで荷物を運ぶためのウマを雇い入れ、登山に備える。

第8章 最高峰に登る(続き)
ゾウを傭う
 「庭にゾウが来ている。くびの下に、木の鈴をつけている。歩くとそれがコロコロと鳴る。それは、不似合いにかわいい音である。」(205ページ) バンコクでフランス大使館のイヴァノフ氏からゾウを使うといいと助言されていたので、傭えるものなら傭ってみようと考えたのである。「ゾウの持ち主という人に来てもらった。ちょっと人を食ったような顔つきの、中年のおやじだった。かれは、ゾウを7頭もっている。そのうち、2頭を傭うことにした。ウマといっしょに行くのなら、オスのゾウでないとだめだそうだ。メスは、ウマをこわがる。賃金は、1日50バーツ。帰りの分はいらない。」(同上)

 ゾウは、(チェンマイ県)チョームストーン郡全体で20頭をこえないと聞いて、案外少ないものだと驚く。いちばんゾウが多いのは、ウッタラディット県だという(ウッタラディット県も北部の県で、スコータイ県の東北にあり、ラオスとの国境に接している)。野生のゾウが多いのはコーラート高原のスリンの近くで、チェンマイ付近のゾウはそのあたりで捕まえた野生のゾウが大部分である。ゾウの繁殖は難しい。ゾウの値段は、オスで1万6千バーツ、メスで1万9千バーツくらい、当時の日本円で30万円前後だから安いものだと梅棹は記している(しかし、当時の日本のサラリーマンの年収を考えると、それほど安いとは言えない)。
 「門のところにゾウがつないである。ゾウは、ヤシの葉っぱをたべる。葉柄の太いところを、たちまちバリバリと食ってしまう。ゾウの消化力は、さすがにすごい。」(206ページ)

秋か? 冬か? 夏か?
 いよいよ出発する。これまで自動車で移動してきた一行にとって初めての徒歩による移動である。
 村を出てすぐに冷たい谷川を渡り、道はすぐに上り坂になる。(特に午前中の苦手な)梅棹はたちまち、息切れしてしまう。「山ゆきの歩きはじめは、いつもこうなんだ」(206ページ)と梅棹は考える。考えるというよりも、自分に言い聞かせている感じである。(三高時代に山歩きに熱中して2回落第したという人物にしては情けない感じで、それもこれも彼の低血圧のせいであろうか。)

 あたりの風景は日本の秋山を思い出させる。「しかし、秋ではない。冬なんだ。これが雨緑林の冬なんだ」(207ページ)と梅棹はカレンダーを思い出して、自分に言い聞かせる。だが、彼を苦しめる暑さは日本で言えば夏の暑さである。秋か? 冬か? 夏か? 梅棹は混乱してしまう。〔春が抜けているのが、特徴的である。〕
 昼まえ、大きな谷川のほとりに出る。メー・クラーンの滝の上流である。梅棹は日本アルプスのどこかの山に登っているような錯覚を覚える。ドーイ・インタノンはその標高からいえば、日本アルプスのなかでは二流の存在にしかならないかもしれないが、高くないかわりに山が深い。梅棹は木曽の御岳と王滝川を思い出す。「メー・クラーンの谷は、王滝川だ。これは相当な大作戦である。」(207ページ) 予定していたよりも、日数がかかりそうだと気を引き締める。

ゾウはのっしのっしと歩く
 川岸にゾウ使いの小屋があって、ゾウたちはここで合流した。ウマの荷を減らして、ゾウの背に積みかえる。ゾウは50キロほどの荷物を載せる。
 最初にウマ隊。続いて徒歩の人間たち。最後にゾウという順序で出発する。ゾウ使いたちは、ゾウの頭の上に乗る。暴れると危険だからという理由で、隊員たちは乗せてもらえなかった。
 時々、川を渡りながら、川沿いの道を上り続ける。ウマは川を渡るのが下手だが、ゾウは造作なく川を渡っていく。

森の精霊たち
 「森林はしだいに深くなっていった。谷はだんだんせまくなっていった。上流に、かなり高いところに、大きな倒木が斜めにかかっているのが見えた。わたしは、ハッとした。人がいる。かれは、その高い倒木の上をすべるように渡った。また一つ、人かげが横切った。大きいのや小さいのやら、つぎつぎと彼らは丸木橋の上をすべり渡った。
 『森の精霊』だな。わたしはそう思った。ふつうの人間に、あんな軽わざができるわけはない。」(209ページ)
 彼らは一行があえぎながら登っている道を、非常な速さで駈け下りてきて、一行の近くまで来ると道を開けた。「かれらは、いままで見たことのない、ズンドウの、異様な服を着て、みんな大きなかごを背におうていた。負いひもは、ヒマラヤの人たちのように、ひたいにかけていた。みんなハダシだった。わたしたちが通りすぎるとき、道わきの草むらの中からわたしたちをじっと見つめる目は、澄んで美しかった。
 服装から、挙動、目つきにいたるまで、一見して平原の住民とは異なる種類の人間である。この人たちはなんだろう。サイヤン君はいった。
 『カリヤンです』
 タイでいうカリヤン族、ふつうはカレン族とよばれる人たちとの、これは最初の出会いだった。」(210ページ)

三重通訳
 その夜は、川岸の平地にテントを張って過ごすことになった。一行のキャンプ地の対岸にソップ・エップというカレン族の小さな部落があり、そこの子どもたちが一行のもとにやって来た。さらに部落のしゅう長もやって来て、お互いの友好関係を確認した。しゅう庁の子どもの病気を吉川ドクターが診察して投薬したことも友好関係に寄与したかもしれない。

 「かれらは陽気で、人なつこかった。娘たちは、歌を合唱した。わたしはそれを、いくつも録音した。こういう場合、録音機はいつでも非常な人気を博することを、わたしは経験上知っている。自分の歌を自分が聞くことができるという奇蹟に対して、かれらは、たいへんな興味と満足とを感じるものなのだ。かれらは、いくらでも歌った。」(211ページ、 「合唱した」と梅棹は気軽に書いているが、合唱なのか、斉唱なのか気になるところである。)

 かれらとの意思の疎通はなかなか大変だった。かれらのことばはカレン語である(厳密にいうとカレン諸言語のなかの、スゴー・カレン語とよばれる言語らしい)。一行の中にカレン語が話せる者は一人もいない。ソップ・エップのしゅう長は北部タイ語を話すことができる。しかし、ヌパースパットも葉山も北部タイ語はわからない。そこで北部タイ語と標準タイ語の両方ができるサイヤンの出番となる。そこで、一行の質問を葉山、(あるいは英語による質問の場合は)ヌパースパットが標準タイ語に訳し、サイヤンがそれを北部タイ語に直し、しゅう長がそれをカレン語に直すということになる。逆の流れももちろんある。この通訳の流れの中で、「会話はしばしばすり切れて、ずいぶん短くなってしまうのだが、それはやむをえないことだ」(212ページ)と梅棹は書いている。
 後に(1992)梅棹が書いた『実戦・世界言語紀行』(岩波新書)の中に、カレン語のことも出ている。「わたしはもちろんカレン語はわからないけれど、かれらの会話や歌をたくさんテープに録音した。やはり、声調言語で高低の区別がある。」(同書、115ページ)と記されている。カレン語はシナ・チベット語族に属するといわれるが、その言語学的な位置づけはわからない部分が多いようである。この後、しばらくカレン族についての記述が続き、彼らを荷物運びにやとって登山はさらに続くことになる。

 昨夜は作業中に寝てしまったりして、皆様のブログを訪問できずに失礼しました。これからも同じようなことがあるかもしれませんが、管理者が名実ともに老人らしくなってきたためとご推察の上、ご容赦ください。 

トンマーゾ・カンパネッラ〔太陽の都』(7)

7月10日(水)曇りのち晴れ

 コロンブスの新世界への航海に参加し、その後、世界を一周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員の質問に答えて、彼が旅の途中で訪問した「太陽の都」の様子を語る。それはスマトラ島と考えられる島の中央にある平原の中にそびえる丘を中心として同心円状に城壁をめぐらして建設された都市で、丘の頂上には神殿が建てられている。
 この市を統治するのは「太陽」と呼ばれる形而上学者で、軍事を司る「権力」、学芸を司る「知識」、生殖と生活を司る「愛」の3人の高官によって補佐されている。都市の住民たちは私有財産を持たず、家族もなく、集団で生活している。神殿の外壁と城壁に蠅が描かれたり、模型がとりつけられたりして、世界のあらゆる事柄がそれを通じて学ばれるようになっている。子どもたちは集団で教育を受け、それぞれの能力・適性に応じて将来の仕事を決められていき、特に優れたものは役人となり、最も優れたものは「太陽」に選ばれる。

 もっともよく多くのことを知っているものが「太陽」に選ばれるというが、そんなにたくさんのことを知ることができるのかと、マルタ騎士団員は問う。「むしろ学問にたずさわる者は統治の方を知らないのではないか?」(19ページ) 学者は世間知らずで、実際問題には疎いというのはよく言われることである。
 ジェノヴァ人は自分も同じ疑問を抱いて、「太陽の都」の住民たちに質問してみたという。すると、かれらは、家柄がいいとか、有力な党派の後押しがあるからという理由だけで、無智なものを適任者として尊敬しているヨーロッパの人々よりも、自分たちのやり方の方が優れていると主張したという。学者による政治は、統治が下手である場合もあるが、「多くを知る人は決して残酷であったり、悪人であったり、暴君であったりすることはありません」(同上)というのである。これは、買い被りのようにも思える。

 次の議論の方がより重要である。ヨーロッパでは文法などの形式的な学問や、他の学者の学説をよく知っている人間が識者として重んじられているが、「太陽の都」の住民たちは現実の事柄についてよく知り、生き生きと頭脳を働かせる人々を重んじるというのである。それに「太陽の都」における教育方法はすぐれているので、ヨーロッパの子どもたちよりも、太陽の都の子どもたちの方が速く、多くのことを学ぶのだという。
 教育方法が優れている実例として、ジェノヴァ人たちのことばを知っている子どもたちに出会ったという。「この国では各国のことばを知っているものが常に3人ずついなければならないのです。」(21ページ) この個所は英訳ではかなり、坂本訳とは異なっていて、
 In this matter I was struck with astonishment at their truthful discourse and at the trial of their boys, who do not understand my language well. Iindeed it is necessary three of them should be skilled in our tongue, three in Arabic, three in Polish, and three in each of the other languages, and no recreation is allowed them unless they become more learned.
 (この点について、わたしは彼らの正直な議論と、わたしの言葉をよく理解しない少年たちの試用にびっくりしました。実際、少年たちのうち3人は私たちのことばに熟達すべきであり、3人はアラビア語、3人はポーランド語、その他の諸言語のそれぞれについて3人が熟達すべきであるとされているのです。そして、かれらがもっと学問を身につけるようになるまで、リクリエーションは禁止されるのです。) 坂本訳では、かれらが諸言語に通暁していることが強調されるが、英訳では諸言語を習得しようと努力していることの方が強調されているのである。〔trialは「試験」とも訳すことができるが、少年たちを通訳として起用して、実践の中で言語を学ばせようとする試みと解して、「試用」と訳しておいた。それにしても、英訳で、なぜポーランド語が出てくるのかは、よくわからない。〕

 少年たちは勉学の合間に、交代で田舎に出かけることがあるが、そこでは畑仕事をしたり、狩猟をしたり、体育競技をしたり、植物の名前を覚えたりして、無為に時間を過ごすわけではないという。このくだりはラブレーの『ガルガンチュワ物語』の第24章(まもなく本ブログでも取り上げることになる)の主人公ガルガンチュワのポノクラートのもとでの勉強ぶり、特に田舎に出かけた際の時間の過ごし方を思い出させるところがあるが、自由な環境で執筆された『ガルガンチュワ物語』の描写の方が精彩があることは致し方ないところであろう。 

 騎士団員はすべての公職について説明してほしいといい、それに公共教育が必要かどうかについて話すように頼む。この質問も英訳では違った形になっていて:
I really wish that you would recount all their public duties, and would distinguish between them, and you would also tell clearly how they are all taught in common.
(彼らの公共の義務、そしてそれらの間にどのような区別があるのか、そして彼らみんながどのようにして一緒に教えられているのかについてはっきりと話してくれないか。)
 ジェノヴァ人は、かれらの部屋、宿舎、寝台、便所は共同であり、6か月ごとに教師たちによって誰がどこの環状地帯のどの部屋で寝るかを指定されるという〔『ユートピア』には便所の話は出てこなかったと思って、英訳の方も見てみたが、英訳には便所に相当する単語は記されていなかった〕。古代スパルタの若者たちのような共同生活が営まれるのである。トマス・モアのユートピアの住民たちも、10年ごとに住居を変えると述べられていたが、「太陽の都」はさらに厳重な共産主義的制度が敷かれているのである。

 学芸は知的なものも、技術的なものも、男女の区別なく学習されるが、農耕、種まき、果実の収穫、放牧、脱穀、ブドウの取入れのような労力を要することや町の外に出なければならない仕事は男がするというような区別はされているという。またチーズ作りや乳しぼりのようなことは女性の仕事とされ、そのほかに女性たちは町の近くの菜園へ野菜をつくりに出かけたり、簡単な仕事をしに出掛けたりはすると語られる。座ったまま、あるいは立ったまま(移動せずに)でできる仕事は女性の仕事になっているので、鍛冶屋や武具づくりを除き、機織、裁縫、散髪、ひげ剃り、調剤、あらゆる衣服製造などは女性の仕事とされている。画才のある人間が絵を描くことは禁止されていない(画家としてなのか、余技としてなのかが不明)。ラッパや太鼓以外の音楽は女性の方が人を楽しませると思われているので、女性と子どもたちだけが演奏する。食事をつくったり食卓の準備をするのは女性であるが、給仕は20歳以下の男女の仕事であるという。トマス・モアの『ユートピア』では給仕は女性の仕事とされていたと記憶する。
 男女の分業については、カンパネッラの社会における分業の観察が十分だとは言えず、頭のなかだけで考えられているように思われる点が少なくない。今日では、彼の考えた分業のほとんどが否定されているといえよう。

 「太陽の都」の生活ぶりについてのジェノヴァ人の説明はまだまだ続くが、長くなりすぎると読みにくくなるかもしれないので、今回はここでやめておこう。『太陽の都』が、作者の強い好奇心・探求心を反映している部分がある一方で、彼が獄中にあったため社会の観察が十分ではなく、現実離れをした部分が少なくないことに気づかされた。現実離れというのは悪いことではないが、時と場合によっては現実を批判することを邪魔する場合がある。そういうことを考えさせられるのである。
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