呉座勇一『応仁の乱』(15)

3月23日(木)午前中は曇り、その後晴れ間が広がる

 応仁元年(1467)5月、畠山義就によって畠山氏の家督を奪われた政長を支援する細川勝元は、将軍御所を包囲し、義就を支持する山名宗全と全面対決の体制に入った。その後、文明9年(1477)まで続く応仁の乱の始まりである。この戦乱は室町幕府の三管領家の一つである畠山氏のほかに、別の管領家である斯波氏の家督争いも絡み、さらには将軍義政の後継者をめぐる対立など、幕府内の様々な利害関係が絡んだ複雑な性格をもつものであった。
 細川勝元の率いる東軍には政長のほかに、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢などの大名が加わり、山名宗全の率いる西軍には義就のほかに、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らが加わっていた。当初、将軍義政を囲い込んだ東軍が有利であったが、中国地方から大内政弘が上京すると西軍が勢力を挽回して、義政の弟である義視を迎えて西幕府を成立させた。この時代、井楼に代表される防御施設の発達により、両軍ともに短期の戦闘で決着を図ったにもかかわらず戦闘は長期化し、また味方の補給路の確保、敵の補給路の遮断を目指しての戦闘地域の拡大も見られた。
 戦乱が長期化する中で、厭戦気分が高まり、補給路が確保できなくなった西軍が次第に解体していくなかで、文明5年(1473)に宗全と勝元が相次いで死去、文明6年(1474)4月には山名一族と細川一族の間での和睦が成立したが、西軍の残りの将兵は畠山義就、大内政弘を中心になお戦闘を継続した。しかし、文明9年11月に大内政弘は幕府に降伏、義就は河内へと撤退して、大乱は形の上では終わった。「11年にわたる大乱は京都を焼け野原にしただけで、一人の勝者も生まなかった。しかも戦乱の火種は完全に消えたわけではなかったのだ」(199ページ)。
 戦争の終結後、将軍義政は武家勢力からの寺社本所領の返還を求める政策を打ち出す(実際は寺社の保護よりも自分の側近の武士たちの勢力拡大を図るものであった)が、幕府の主導権をめぐる実子の義尚との対立もあって、幕政の再建は思うように進まなかった。

 応仁の乱が終結すると、南山城を占拠していた西軍が撤退し、畠山政長が山城守護に就任した。権力の衰退によって全国からの収入が期待できなくなった室町幕府は、お膝元の山城国からの収奪を強化することで財政を再建しようとしたのである。しかし政長は義就との戦いで不利な状況に陥っており、宇治以南の山城3郡(相楽・綴喜・久世)が義就の勢力圏に入って、幕府の影響力が全く及ばないという状態であった。幕府内部での足並みの乱れもあり、義就方と政長方の対立が続いていた。

 文明17年(1485)に政長方が大攻勢を仕掛け、両軍のにらみ合いが続く中で、南山城の国人(地元武士)たちが「国一揆」を結成して、両軍に撤退を要求して圧力をかけたため、両軍はともに撤退した。国人たちもまた寺社本所領の返還を求めたが、それは結局自分たちが寺社領の代官となって勢力を拡大することを目指すものであった。文明18年(1486)2月、山城国人は宇治の平等院で会議を開き、「国中掟法」を制定、自分たちの自治を行おうとした。これに対し、足利義政は伊勢貞陸を山城守護に任じて幕府による直轄支配を目指すが、実態としては国人たちの自治を黙認する形となった。また義就の南山城からの撤退を評価して、彼の斜面が実現した。応仁の「乱後の幕府は衰退する一方であったと思われがちだが、少なくとも畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)においては、それなりの政治的安定を実現したことを見落としてはならない」(225ページ)。
 この山城国一揆をめぐって、その黒幕は細川政元であったという説もあるが、呉座さんはむしろ政元は両畠山の紛争に不介入の態度をとろうとした、もっと平たく言えば、強力な軍事力をもつ義就との対決を回避していたのではないかと論じている。そして、このことから政元と政長との間に隙間風が吹き始め、それが明応の政変の伏線となると論じている。

 文明17年4月に、将軍義尚との対面の順番をめぐり、将軍の親衛隊=武官である奉公衆と文書行政を取り仕切る文官である奉行人との間の対立が激化、その後も尾を引きずった。応仁の乱後、大名たちが本国へ引き上げたため、奉公衆と奉行人の幕府内での存在感は高まってきており、両者の間での対立も顕著なものとなっていた。「だが平時においては、事務官である奉行人たちのほうが明らかに有利である。押され気味の奉公衆が、足利義政に頭を押さえつけられている義尚に接近していったのも、これまた必然といえよう」(231ページ)。そうした中で義政は政務への意欲をますます失ったが、以後も気まぐれに政治に口を出し、義尚にとっては障害以外の何物でもなくなっていったのである。

 長享元年(1487)9月、足利義尚は近江守護六角高頼討伐のため、自ら軍を率いて出陣した。討伐の理由は高頼が寺社本所領や奉公衆の所領を占拠し、幕府による返還命令に従わないことである。もっとも寺社本所領回復は建前で、真の目的は奉公衆の所領回復の方にあった。大名の多くは六角高頼同様に寺社本所領や奉公衆所領を守護領に組み込んでいたので、この遠征には消極的で、討伐軍の主力は奉公衆であった。
 六角高頼は一戦して敗れると、すぐに行方をくらまし、以後は六角家臣の散発的な抵抗が続くだけであったが、義尚はそのまま在陣を続けた。義尚には、この戦いを続けることで、将軍と奉公衆との主従関係を強化しようという目的があったと呉座さんは推測している。さらに、奉公衆だけでなく、奉行人たちも同行させたことから、幕府の機能を近江に移動させることで、義政の影響力をそごうとしていたとも論じている。
 しかし、在陣が長引けば長引くほど、将軍義尚と周囲の諸勢力との軋轢は増していった。在陣に反対する勢力の筆頭が細川政元であり、政元ら大名と将軍接近勢力の間の対立は激しくなり、その中で苦しんだことも手伝って、長享3年(1489)義尚は没し(享年25歳)、討伐軍は帰京することとなった。

 足利義尚死後、誰を将軍位につけるかが問題になった。候補者となったのは義政の弟である義視の嫡男で24歳の義材と、義政の庶兄である政知の息子で9歳の清晃である。細川政元は自分の御しやすそうな清晃を推したが、日野富子が自分の妹の生んだ子である義材を推し、足利義政も同調したために義材が後継者に決まった。しかし、細川政元の巻き返しもあり、義材は将軍に就任せずに、当分は義政が政務をとることになった。延徳2年(1490)正月7日に、足利義政が没し、義材の将軍就任は時間の問題となり、その父である義視が幕府の実権を握った。

 ところがもともと細川勝元の邸で、その後足利義政、義尚が御所として利用、日野富子の邸宅となっていた小川殿を富子が清晃に譲ったことから、富子と足利義視・義材父子との関係が悪化した。もとは細川氏の邸宅だったとはいえ、今や「将軍御所」と認識されていた小川御所を清晃が譲られたというのは大きな意味を持つ。これを喜ばない義視は、清晃が入居する前に、小川殿を破壊してしまった。この暴挙をきっかけとして日野富子は、義視・義材父子を敵視するようになった。

 延徳2年7月に義材は朝廷から将軍宣下を受けるが、就任のための儀式が終わると、管領であった細川政元はすぐに辞任、将軍の側近であった伊勢貞宗も隠居して非協力の立場を表明した。10月には義材の母良子がなくなり、延徳3年正月には父の義視が病没して、将軍義材は孤立を深めた。幕府内に支持基盤を持たない足利義材は側近政治に走り、お友達政治を進めたので、旧来の幕臣たちの反感を募らせ、ますます孤立するようになったのである。

 15回かけてもまだ紹介・論評が終わらないのは、呉座さんの著書の内容の濃密さを物語るものであろう。もう応仁の乱が終わったのだから、あとは簡単に見ていけばよいと思う方もいらっしゃるだろうが、孤立を深めている義材将軍に対して、細川政元が起こしたクーデターである明応の政変をめぐって、この書物から離れて書きたいことが少しあって、そのことも手伝って長々と連載しているという事情もある。室町幕府が決定的に求心力を失うのは、応仁の乱ではなくて、明応の政変によってであるというのが最近の学説らしく、そのことについても検討を加えていくことになるだろうと思う。 
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ジェイン・オースティン『エマ』(5)

3月20日(月)晴れたり曇ったり

これまでの展開
 ロンドンに近いイングランド東南部のサリーのハイベリーの地主の娘である21歳のエマは、病弱な父を助けてハートフィールド屋敷の経営を取り仕切り、その美貌と才知も手伝って村の女王的な存在であるが、彼女の住み込み家庭教師(ガヴァネス)を長く務めてきたミス・テイラー(→ウェストン夫人)が結婚して、身近な話し相手がいなくなった。結婚相手のウェストン氏は村の社交好きな紳士で、最初の結婚相手との間にフランクという息子を儲けたが、その息子は亡妻の実家であるヨークシャーの名門チャーチル家に養われている。
 ミス・テイラーとウェストン氏の結婚の橋渡しをしたのが自分であると思い込んだエマは、自分には男女の仲を取り持つ才能があると思い込み、村の教区牧師であるエルトンの結婚相手を見つけようと考える。隣村の地主で、エマの姉の夫の兄である(ジョージ)・ナイトリーはそれは余計なお世話であるとエマをたしなめる。彼は、エマの欠点を指摘できる数少ない人間の一人であるが、エマは彼の助言に耳を貸さない。
 エマは村の寄宿学校の特別寄宿生であるハリエット・スミスという若い女性を紹介され、彼女がすっかり気に入る。ハリエットはナイトリーの信任の篤い農夫のロバート・マーティンという求婚者が現われたのだが、エマは2人が身分違いであると言って、ロバートの求婚を拒絶させる。もっと身分の高い男性と結婚すべきだというのである。ハリエットこそ、エルトンの伴侶にふさわしいと思って、いろいろと工作をするが、エルトンが思いを寄せていたのは、実はエマであった。野心家のエルトンにとって、財産を持たないハリエットはまったく問題にならない相手だったのである。

 もともとエマの思い込みの激しさにあおられてエルトンへの思慕を募らせていたハリエットは、エルトンが自分のことをまったく気にかけていないと知って、落胆するが、なかなか彼への想いを断ち切ることができない。何か手を打たなければならないと思ったエマは、2人で、もとの教区牧師の未亡人であるベイツ夫人とその娘のミス・ベイツを訪ねる。村の人々の生活に関心を寄せるのは地主の娘としての義務であるが、エマは村の二流・三流の人々ともしきりに付き合い、人気を集めているこの母娘が(特に娘のミス・ベイツのおしゃべりが)苦手である。エマはベイツ夫人の孫(ミス・ベイツの姪)であるジェイン・フェアファックスが体調が悪いのでハイベリーに里帰りするという話を聞く。(第19章)

 ジェイン・フェアファックスはベイツ夫人の末娘がフェアファックスという陸軍中尉と結婚して儲けた一人娘で、両親が若くして世を去った後、祖母と伯母によって育てられていたが、死んだ父親の上官で親友であったキャンベル大佐がその境遇を知って引き取り、自分の娘と一緒に育てていたのである。ジェインは成長して美しく、才芸に秀でた娘となったが、キャンベル大佐には自分の娘に譲る以上の財産はなかったので、その才芸を生かして家庭教師(ガヴァネス)として生計を立てるはずであった。キャンベル大佐の娘がディクソンというアイルランドに住む金持ちの青年と結婚したのだが、その前後からジェインは体調を崩して、ハイベリーへと戻ってきたのであった。伯母とともにハートフィールドを訪れたジェインに会ったエマは彼女の美しさや才能を認めざるを得ない一方で、彼女の慎重で口の堅い性格と態度が我慢できず、打ち解けることができない。(第20章)

 エマとジェインが出会った場に同席していたナイトリーは、2人が仲良くくつろいでいる様子に満足したというが、エマはそれが気に入らない。ナイトリーが彼女にニュースを告げようとしていたところに、ミス・ベイツがやってきて、エルトンが(イングランド西南部の有名な保養地である)バースで出会った女性と結婚することになったと知らせる。実は、ナイトリーも同じ情報を得ていたのである。エマはこのニュースを聞いてハリエットがさらに動揺しないかと心配するが、ハートフィールド屋敷にやってきたハリエットは、雨宿りをしていた店で、ロバート・マーティンに再会したと語る。(第21章)

Human nature is so well disposed towards those who are in interesting situations, that a young person,who either marries or dies, is sure of being kindly spoken of.
人間の野次馬根性は、噂の種になりそうな人物には大変好意的で、若い人が結婚したり死んだりすると、必ず好意的に話題にされる。(中野康司訳、上巻280ページ)
 第22章はこのようにことわざ風に書き出されている。ただし、オースティンの「好意的」という観察が正しいかどうかについては疑問がある。私の経験だと、in interesting situationsにあるわけではないのに、勝手な噂をたてられて迷惑したことが何度かある。

 ハイベリー村では、エルトンがミス・ホーキンズという女性と結婚することになるというニュースが伝わると、彼女が容姿も知性もすばらしいという評判が広まった。エルトンは得意満面で村に戻ってきた。エマに求婚を拒絶された失地を回復したというわけである。エマはそのような噂を聞いても、ミス・ホーキンズよりもハリエットの方が、優れた女性であるという信念を持ち続けている。だからこそ、ハリエットに負い目を感じ、心配する思いを抱くのである。ロバート・マーティンの妹のエリザベスがハリエットを訪ねて来て、置手紙を残しという話を聞いて、エマは、ハリエットに(エルトンについての想いを断ち切らせるためにも)その返礼をさせようと考える。(第22章)

 ハリエットをマーティンのもとに連れて行ったエマは、その帰り道にウェストン夫妻と出会い、ウェストンの息子のフランク・チャーチルが今度こそハイベリーにやってくると知らせる。翌日、予期していたよりも早くハイベリーに到着したフランクに出会ったエマは、初めのうちこそぎこちなく応対していたが、次第にフランクと打ち解けてくる。フランクは知り合いだというジェイン・フェアファックスを訪問すると言い出し、ウェストンがジェインはロンドンのキャンベル一家のもとでは淑女として暮らしているが、ハイベリーで食べていくのがやっとという貧しい祖母と伯母と一緒に暮らしているのだと言い、だからと言って礼儀を欠くようなことをしてはならないと忠告する。(第23章)

 フランクはハイベリーが気に入った様子で翌日もハートフィールド屋敷を訪問し、エマと義母であるウェストン夫人との3人でハイベリーの村を散策する。フランクはエマにジェインのことをいろいろと質問する。エマはジェインとは子どものころからの知り合いで、皆が2人は仲良しだと思っているが、自分としては彼女が好きになれないと本当のことをいう。そういう話を通じて、彼女はフランクとはずいぶん親しくなったように感じ、フランクが早く結婚したがっているのではないか、そのためにはチャーチル家の財産を相続しなくてもいいと思っているのではないかと推測をめぐらす〔エマは普通以上に想像力が豊かな女性であるが、この想像は的外れではないようである]。(第24章)

 フランクに高い評価を与えるようになったエマではあるが、彼がなんと散髪のためにロンドンに出かけるという話を聞いて、その評価を少し下げる〔実は散髪にことよせて、別の用事のために出かけているのかもしれないのだが、こういうときに限って、彼女の想像力は働かないのである]。ハイベリー村に住む成り上がりのコール夫妻がディナー・パーティーを企画していて、エマは自分よりも身分の低いコール夫妻が主催するパーティーには不参加の予定であったのだが、ウェストン夫妻の勧めもあって、出席することになる。(第25章)

 この小説では結婚により5組の夫婦が成立する(厳密にいうと1組は小説の完結後に挙式する予定である)。物語の発端でエマのガヴァネスだったアン・テイラーが結婚してウェストン夫人となり、間もなくエルトンがミス・ホーキンズという女性と結婚するはずである。残るは3組である。ハリエットはロバート・マーティンを憎からず思っているようであるが、エマからこの結婚は身分不釣り合いであると反対を受けている。そしてエマと、彼女が表向き仲良くはしているが、心の中では嫌っているジェインはどのような結婚に向かっていくのか? ウェストン夫妻が望むようにフランクはエマに関心を寄せているように見えるが、ジェインのことも気にかかる様子である。ナイトリーは、そのフランクを軽薄な男だと切り捨てる。温厚で思いやりの篤い彼がこういうのは、何かの気持ちが混ざってのことかもしれない。物語はエマの気持ちに沿って語られているが、彼女が事態を正しくとらえているとは限らない…ということから物語はさらに複雑になり、そして確実に面白くなっているのである。
 ジェイン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』のヒロインがジェインと同じような境遇で育っていることを思い出された方もいるかもしれない。エマは、ジェインの伯母のミス・ベイツが無意味に思われる長話をするのが嫌で、その彼女に「甘やかされた」ジェインを好きになれないところがある(実際には、ジェインよりもエマの方が、甘やかされて育ったところがあり、ジェインはキャンベル家で優れた教育を受けて、エマを上回る才芸を身に着けている)。あるいは、エマのジェインに対する嫌悪感には自分よりも優れたものに対する嫉妬が含まれているのかもしれない。 

呉座勇一『応仁の乱』(14)

3月17日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。この書物はこの大乱の背景と結果とを含む全容を、同時代の興福寺僧である経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』、尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という2つの日記を基本的な史料として、明らかにするものである。
 すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」は鎌倉・室町時代を通じて興福寺が事実上の守護であった大和という地方の特殊性と、室町幕府・京都との関係、史料の記述者の1人である経覚の経歴の前半について述べている。大和に隣接する河内は室町幕府の三管領家の一つである畠山氏の本拠であり、応仁の乱の直接の原因となった畠山義就と政長による家督争いと、その大和の武装勢力との関係についても触れられている。
 第2章「応仁の乱への道」は嘉吉の変(1441)による将軍義教の暗殺から文正の政変(1466)にいたる幕政の混乱とその中での主導権争い、それと関連して起きた有力大名家の内訌と合従連衡、その中でも特に畠山氏の家督争いの展開、そのような中で義教によって失脚させられた経覚が再び表舞台に登場し、興福寺の荘園からの年貢をめぐる問題の対処に活躍する姿も描かれている。
 第3章「大乱勃発」は、文正元年(1466)に軍勢を率いて上洛した畠山義就が翌年初めに、自身の武力と山名宗全の後ろ盾をもとに畠山氏の家督を奪い、政長を放逐する(文正2年の御霊合戦)が、政長を支持してきた細川勝元が年号が変わった応仁元年5月に京都市内で戦端を開く。勝元の陣営(東軍)には勝元、政長のほか、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢ら、宗全の陣営(西軍)には宗全、義就のほか、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らが加わった。将軍義政を確保した勝元が幕府軍の地位を得て、先制攻撃を懸けるが、西軍は持ちこたえ、中国地方から大軍を率いて上洛した大内政弘の活躍で反攻に転じた。応仁2年(1468)に兄である将軍義政と対立した義視が西軍に投じ、西幕府が成立した。両陣営ともに、短期の決着を図っていたが、戦局が長期化したのは、両軍ともに陣を堀や井楼で防御したため、市中における戦闘が実質的に攻城戦となり、さらに味方の補給路を確保し、敵の補給路を遮断しようと、周辺地域に戦闘が拡大するようになったためである。
 第4章「応仁の乱と興福寺」では、戦争によって荘園からの年貢の取り立てが困難になる中で、興福寺の別当(寺務)に返り咲いた経覚と大乗院門主の尋尊が対策に奔走する姿を描いている。
 第5章「衆徒・国民の苦闘」は、興福寺・春日社と結びついた大和の国独特の武装勢力である衆徒・国民がこの戦乱にどのように対処したか、西軍優勢の中で、足利義政は西軍の有力武将である朝倉孝景の切り崩しに成功、朝倉が越前を抑えたことで、西軍の有力な補給路の1つが遮断されたこと、戦局が不利になる中で西軍は後南朝と結びつこうとするが、かえって西軍内での対立を招いたことなどが記されている。
 第6章「大乱終結」の前半では、疫病の流行や飢饉などにより、両軍の戦意が衰え、厭戦気分がみなぎってきたこと、和睦のための交渉が続けられたこと、文明4年(1472)に勝元、宗全ともに引退した(文明5年には、両者とも死去した)こと、西軍の補給路を遮断したことで東軍の優位が続く中、文明6年(1474)には細川・山名の和議が成立したものの、西軍の畠山義就と大内政弘はあくまで戦闘を継続しようとしたことが記されている。しかし、義政は政弘の懐柔に成功し、文明9年(1477)に政弘は幕府に降参、西幕府はなし崩し的に解体し、戦争は終結した。

 今回は第6章の残りの部分、応仁の乱終結後の大和の情勢について触れた部分と、第7章「乱後の室町幕府」の幕府による再建の取り組みを辿った部分を取り上げることにする。
 史料の1つである『経覚私要鈔』の記述者である経覚は文明5(1473)年に死去していた(勝元、宗全と同じ年のことである)。呉座さんは両者の日記を比較することから、その関心の対象や、記述者自身の性格をめぐり、次のように指摘している。
〔「天魔の所行」「寺社滅亡の基(もとい)」などと頻繁に乱世を嘆く尋尊と異なり、経覚は応仁の乱という戦争全体に関する感想を記すことはなかった。経覚の関心は政治や社会情勢ではなく、もっぱら自分と親交のある人々の動向に向けられた。」(199ページ) たとえば自分と親しい朝倉孝景が越前を制圧すると、彼が西軍から東軍に寝返ったということは不問にして(経覚は西軍びいきである)喜んでいる。これは「越前での合戦のせいで、河口荘からの年貢が入ってこないのではないかと心配する尋尊とは対照的である。」(200ページ)

 経覚の死後、尋尊は彼の日記などの諸記録を取り寄せた。2人の微妙な関係のために、尋尊は経覚の日記を見ることができなかったのである。「経覚が没した時、尋尊は既に44歳であった。多くの記録を調べ上げ、大乗院の歴代門主の中でも随一といってよいほどの博識となった尋尊にとって、いまさら経覚の日記から学ぶことはほとんどなかっただろう。それでも経覚の記録を即座に入手する尋尊の学究心には感心させられる。」(200ページ) 惜しいことに、おそらくは尋尊が知りたがっていた古い記録は文安2年(1445)に起きた兵火のために焼けてしまっていた。
 経覚はかなりの額の借金をしていたが、このようなこともあろうかとかねてから準備をしていた尋尊は借金取りを丸め込んだだけでなく、経覚が経営していた所領の回収に動き、成功している。「将来発生するであろう問題を予見し、事前に対策を練っておく尋尊の手腕は見事というほかない。大乱の傍観者と侮っていると、尋尊の本質を見失ってしまうだろう。」(204ページ)

 文明9年(1477)に大内政弘の降伏によって孤立した畠山義就は、9月22日に京都を出発して、野崎(大阪府大東市)にまで進出し、政長の重臣遊佐長直が守る若江城をうかがう構えを見せた。幕府側もある程度は予測していたであろうが、河内における義就の勢いは予想以上のものであった。政長に泣きつかれた義政は、朝廷に畠山義就治罰の綸旨を要請し、朝廷の影響下にある寺社勢力と公家大名の力で義就を討伐しようとするが、時すでに遅く、義就は河内を切り取ってしまう。
 このような軍事的進出は、義就の名望・魅力によるものが多いと呉座さんは論じている。「畠山義就の魅力は、軍事的才幹もさることながら、守護家に生まれた御曹司でありながら、権威をものともせず、実力主義を貫く点にある。」(206-207ページ) 山名宗全が室町幕府の秩序の枠内で行動しているのに対し、義就には「そもそも幕府の命令に従うという発想がない。…彼の本質は幕府の権力に頼ることなく自力で領土を拡張する独立独歩の姿勢にある。中央からの統制を嫌う地方武士たちが義就のもとに集まったのは、このためである」(207ページ)として、朝倉孝景や北条早雲とともに「最初の戦国大名」に数えてよい存在であると評価している。

 河内を制圧した義就はその矛先を大和へと向ける。おそらく義就と示し合わせて、京都にいた大内政弘が重臣に兵力を与えて山城国を南下させた。このため、筒井氏をはじめとする大和の政長方勢力は四散してしまった。尋尊は筒井順尊の代わりに、義就との太いパイプを持つ古市澄胤(第5章に登場した古市胤栄の弟)を官符衆徒棟梁に任じ奈良の治安を確保しようとする。筒井は復権を目指して策動を続けるが、大和での影響力を次第に失っていく。

 さて、第7章「乱後の室町場幕府」では、まず、応仁の乱によって将軍の権威が失墜したとはいっても、「足利義政も巷間言われるほどに無為無策だったわけではなく、幕府再建に努力している。その柱が寺社本所領返還政策である」(214ページ)と、寺社が守護に奪われた所領を元に戻す(「徳政」の一種)政策の再開について論じている。しかしこの政策は、実は寺社と守護の対立の中で、自力で守護勢力を排除できない寺社に将軍側近の武士たちを派遣して援助させることにより、将軍権力の強化を図ろうとするものであった。
 
 義政の子である義尚は文明5年(1473)に征夷大将軍となっていたが、文明11年(1479)11月22日に判始(はんはじめ)を行い、法的な責任能力を持った大人として政治に携わることができるようになった。しかし、父である義政が依然として政務をとり続けていたため、文明12年5月、突如本鳥を切って出家を図るなど不満をあからさまにした。
 周囲の人々になだめられて気を取り直した義尚は、摂政関白の経験者で当時一流の学者であった一条兼良(尋尊の父であり、第4章では奈良に「疎開」して優雅な暮らしをしていた)に政治の心構えを諮問し、兼良は政治意見書『樵談治要』を執筆、7月に義尚に献上した。しかし、そこにはきれいごとの建前論しか書かれておらず、実戦的・具体的な提言に乏しかった。「ちなみに兼良の息子の尋尊は、義尚の為政者としての資質に疑念を抱いており、義尚に理想の君主となるよう説く『樵談治要』を「犬の前で仏の教えを説くようなものだ」と皮肉っている。」(217ページ)
 文明13年(1481)正月、義政は隠居すると言い出したが、突然の引退表明だったために、周囲は困惑した。父親の当てつけ的な政権投げ出しに義尚は反発し、父親同様に年賀のあいさつを拒否して引きこもってしまうという異常事態となった。このため、義政を補佐していた日野富子が政務を代行した。「ただし、関所を乱立させたり高利貸を営んだりと私財の蓄積に狂奔する富子の評判は以前から悪く、長く続けられる政治体制ではなかった。」(218ページ) 文明14年(1482)7月に義政は正式に義尚に政務を委譲し、義尚の執政が開始された。とはいえ、義政はその後も幕府の最高権力者としての地位を維持し、義尚の権力を制約し続けたのである。

 大乱は終結したが、畠山義就のように幕府の権威に従わず、独自の行動をとり続ける武士がいる(というよりも、これからだんだん増えてくる)。寺社勢力は自分たちの権益を守るのに必死である。有力な大名たちは下剋上を恐れて領国に帰りはじめる。大名たちを抑えて自分の勢力を伸ばそうとする義政の努力は実らず、むしろ将軍の権威と権力は低下の一途をたどる。義政・日野富子・義尚とどうもすごい人たちばかりがそろった感じがあるが、彼らの個性ばかりに幕府の衰亡の原因を求めるべきではないだろう。『樵談治要』は『群書類従』に収められているそうなので、探して目を通してみようと思う。あるいはネットでも読めるかもしれない。
 今回は、『大乗院寺社雑事記』を通じて知られる尋尊の人間像や、戦国大名の先駆というべき畠山義就の個性など、呉座さんがこkの書物を書いていくうえで、大いに魅力を感じたであろう内容が含まれていて、読みごたえがあった。著者が史料をしっかりと読み込んで、その内容を整理していることが、この読みごたえを支えているように思われる。
 

ジェイン・オースティン『エマ』(4)

3月13日(月)曇り

これまでの展開
 ロンドンに近いイングランド東南部のサリー州のハイベリーという村に住む地主の娘、エマ・ウッドハウスは若く、美しく、村の女王的な存在であった。彼女の家の家庭教師(ガヴァネス)であったミス・テイラーが、村の有力者の1人であるウェストンと結婚したのは、自分の働きのためであると信じ込んだ彼女は、自分には縁結びの才能があると思い、村にある寄宿学校の生徒であるハリエット・スミスを村の牧師であるエルトンと結びつけようと画策する。隣村の地主であり、エマの姉の夫の兄であるジョージ・ナイトリーはエマのそういう出すぎた行動をたしなめる。ハリエットはナイトリーの信認篤い農夫のロバート・マーティンから求婚されるが、ハリエットがもっと身分の高い人物と結婚すべきだと考えているエマはそれを断るように指示する。そのことで、エマとナイトリーの仲が気まずくなる。エルトンは、エマにハリエットの肖像を描くことを勧め、絵が完成すると、額縁を買いにロンドンに出かけたりして、ハリエットのことがまんざらでもない様子に思われた。クリスマスが近づいて、エマの姉のイザベラが夫のジョン・ナイトリーや子どもたちとともに、里帰りしてくる。この機会にエマとナイトリーは仲を修復する。

 社交好きのウェストン氏が里帰り中のジョン・ナイトリー夫人たちを含めたウッドハウス家の人々を12月24日にディナーに招待する。内輪の集まりなので、両家の人々のほかはエマの仲良しのハリエット、牧師のエルトン、ジョン・ナイトリーの兄の(ジョージ・)ナイトリーが招かれただけであったが、ハリエットが風邪をひいて出席できなくなる。心配したエマは見舞いに行くが、その帰りにエルトンに出会う。エルトンはハリエットの病気が伝染性のものではないかと疑い、エマの身を案じる。エルトンとハリエットとを結び付けたいと思っているエマは、エルトンの声がおかしいことを指摘して、大事をとってディナーには出席しないように忠告する。エルトンはその忠告を喜んだものの、その場に居合わせたジョン・ナイトリーが自分の馬車に乗れば寒さは問題がないというと、その申し出を喜んで受け入れ、ディナーに出席することに決める。
 ハリエットの見舞いに行くエルトンと別れた後、一緒に歩きながらジョン・ナイトリーはエマに、エルトンはエマに気があるらしいと言って、彼に対する態度に気を付けるように忠告する。エマは彼がずいぶん変なことをいうものだと当惑する。
 ウェストン家に向かう馬車に乗り込んだエルトンはパーティーを楽しもうとしている様子であり、家庭を第一に考えるジョン・ナイトリーとは話が合わない。エマは、エルトンがハリエットのことをそれほど気にかけている様子ではないことをいぶかる。(第13章)

 ウェストン家に着いたエマは、客間でエルトンの隣に座ることになり、彼のなれなれしいおしゃべりにイライラする。他のみんなはウェストンの息子(=フランク・チャーチル)の話をしているのに、聞き逃してしまう。エマは結婚するつもりはないと心に決めてはいたが、フランク・チャーチルの存在はなぜか気になっていたのである。〔フランクはウェストンが死んだ先妻との間に儲けた子どもで、ヨークシャーの名門である先妻の実家のチャーチル家で育てられているのである。〕
 その後、ディナーの席に着いたエマはウェストンから翌年の1月にフランクが訪ねてくる予定であるという。エマの元家庭教師であったウェストン夫人によると、フランクの育ての親であるチャーチル夫人は大変に気まぐれで横暴な人物であり、フランクの行動はその意向に左右されているので、実際に訪れて来るかどうかはわからないという。そしてエマに次のようにいう。
 ’My dearest Emma, do not pretend, with your sweet temper, to understand a bad one, or to lay down rules for it: you must let it go its own way.'
「あなたみたいに性格のいい人が、性格の悪い人のことをわかったつもりにならないほうがいいわ。決めつけたりしないほうがいいわ。こういうことは成りゆきに任せた方がいいの。」(中野訳、193ページ)
「ねえエマ、あなたは優しい気性の持ち主だけれど、性悪女の気持ちがわかったようなふりをしたり、そのためのルールを決めたりはしないほうがいいわ。ほうっておけばいいのよ。」(工藤訳、191ページ)(第14章)

 折から雪が降り始め、ディナーは打ち切りになる。帰りの馬車にエルトンと2人で乗ることになったエマは、彼から愛の告白を受ける。エルトンとハリエットの仲を取り持とうとしていたエマは、2人の間にあいが芽生えているというのが彼女の夢想であったことに気付く。(第15章)

 エルトンがハリエットではなく、自分に思いを寄せていたことを知ってエマはショックを受ける。そしてエルトンが、自分の社会的地位を高めて、財産を増やしたいと思っているだけの人物であると気づく。帰宅後、大雪のために外出ができないまま、数日が過ぎる。(第16章)

 天候が回復しジョン・ナイトリー一家はロンドンに戻る。その日の夜に、エルトンからバースに出かけ、2,3週間滞在するという手紙がウッドハウス氏あてに届く。エマはハリエットを訪問して、これまでのいきさつを説明する。ハリエットは涙を流すが、悲しみに耐える。その様子にエマは感動する。そして何とか彼女を幸せにしてあげようと考える。(第17章)

 フランク・チャーチルが実父のウェストン氏に会いにやってくるという話は取りやめにあった。この件をめぐってエマとナイトリーの意見は対立する。エマは、チャーチル夫人の横暴さがフランクの行動を邪魔していると言い、ナイトリーは、フランクに来る気があればその位のことはできるはずだと主張する。エマは、時々意見の違いから衝突することはあっても、ナイトリーが心の広い人間だと思っていたので、彼がフランクのことを自分とは違う性格の持ち主だというだけで嫌悪していることが理解できない。(第18章)

 私の手元にあるPenguine English Library版では、この物語は3部構成になっていて、今回の最後に紹介した第18章までが第1部である。物語の表舞台にまだ登場してこない人物がフランク・チャーチルをはじめまだ何人かいることに留意してほしい。さらに言えば、それらの登場人物が表面に出ない別の物語を展開させているかもしれないのである。
 エマは21歳で、まだ人生経験はそれほどのものではなく、ウッドハウス家では女主人として手腕を振るうことができるかもしれないが、外の世界には彼女の力に余ることがいくらでもある。エルトンの牧師という外見を信用しすぎて、彼が相手によって態度を使い分けていることに気付かず、また自分に対する関心とハリエットに対する関心を識別できず、ジョン・ナイトリーの指摘を見当外れだと思ったりしたのはその一例である。しかし、十分に世故に長けているとはいいがたい彼女がさまざまに行動するから物語の展開が面白くなるということも確かである。さて、物語はこの後どのように展開していくのであろうか。

呉座勇一『応仁の乱』(13)

3月10日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで続いた大乱である。この書物は『経覚私要鈔』と『大乗院寺社雑事記』という同時代の2つの日記を史料として、この戦乱の全容の解明を試みるものである。すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」では史料となる2つの日記が書かれた奈良の興福寺が事実上の支配者であった大和地方の状況と室町幕府との関係を、『経覚私要鈔』の筆者である経覚が将軍義教によって失脚させられるところまでを記している。
 第2章「応仁の乱への道」は大和に隣接する河内に本拠を持つ室町幕府の管領家である畠山氏の家督をめぐり、義就と政長との争いが続き、それが室町幕府の主導権をめぐる将軍義政の側近たち、山名宗全に近い人々、細川勝元に近い人々の争い、義政の弟である義視と子どもである義尚のどちらを将軍光景とするかの争いと絡み、複雑な様相を呈していったことが記される。畠山氏の家督をめぐる争いは衆徒・国民と呼ばれる大和地方の土着の武士的勢力を巻き込むものであった。
 第3章「大乱勃発」では畠山義就が山名宗全の支援の下に上洛し、政長を破った御霊合戦の後、応仁元年5月に政長を支持する細川派の巻き返しが始まり、大乱が勃発した次第が記されている。細川を盟主とする東軍は勝元、政長、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢らで構成され、将軍義政を確保して、山名方に先制攻撃を仕掛け、山名を盟主とする西軍は宗全、義就、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らで構成され、当初は劣勢であったが、中国地方の武士を率いた大内の到着により勢いを取り戻し、やがて義視を擁して西幕府を構成するようになる。戦乱は当初の両者の目論見に反して長期化したが、これは物見やぐらを築いたり、防御のための堀を掘ったりする戦法の変化によるものであり、戦乱は市街戦から、自分たちの補給路を確保し、敵の補給線を断とうという周辺地域での戦いへと拡大していった。
 第4章「応仁の乱と興福寺」では、この戦乱によって興福寺が地方の荘園からの年貢の取り立てに苦しんだり、京都の公家たちが戦乱を避けて奈良に「疎開」してきた様子が記されている。経覚は武士を頼りにすることで年貢の取り立てを確保しようとしていたが、尋尊は慎重な態度をとり続けたという。
 第5章「衆徒・国民の苦闘」では中世都市奈良で春日大社の「おん祭り」が中断せずに続けられるなど、大和地方は京都での戦乱にもかかわらず、比較的平和であったが、戦乱の長期化に伴い、後南朝の後裔が挙兵(これを西軍が支持)、西軍が大和に侵攻、また興福寺と縁の深い朝倉孝景が西軍から東軍に寝返るなど大和も戦乱に巻き込まれるようになった。

 今回は、第6章「大乱終結」の概要を紹介する。
 文明3年(1471)に京都では疱瘡が流行し、後土御門天皇や足利義尚まで巻き込んだ。同じ時期奈良でも疫病が流行したが、干ばつと戦乱のために食糧が不足し、人々の体力が奪われていたことがその理由であると考えられる。
 文明4年(1472)には細川勝元と山名宗全の間で和睦交渉が始まる。両軍ともに士気が低下し、厭戦気分が高まっていたことがその背景にあったと考えられる。この年の2月16日に、山名宗全は西軍諸将にそれぞれ使者を派遣し、東軍との和睦を提案した。しかし西軍では、畠山義就と大内政弘が和睦に反対した。義就は畠山氏の家督にこだわっていたし、大内は瀬戸内海の制海権をめぐって細川一門と利害が対立していたからである。東軍では山名氏と播磨・備前・美作の領有をめぐって戦い、優位に立っていた赤松政則が反対であった。

 3月に細川勝元は養嗣子であった勝之とともに隠居し、月に宗全は家督を孫の政豊に譲って、両軍の大将がともに引退してしまった。このことにより山名と細川の間のわだかまりは解消されたかもしれないが、正式な講和交渉が行われなかったために、諸将は思い思いに戦闘を続け、大乱はなおもだらだらと続くことになってしまった。
 西軍から東軍に寝返ったが、思わしい戦果を挙げられなかった朝倉孝景は、いったん主家を乗り越える下克上を断念し、東軍の斯波松王丸(義敏の子。後の義寛)を主君と仰ぐことにして、大義名分を獲得、西軍の甲斐方を破り、ついに越前を平定する。西軍の主要な輸送路は山名・大内に分国が多い山陰地方から日本海を渡って越前に入り、琵琶湖水運を利用して京都へと食料を運ぶものであり、このことによりそれが寸断され、西軍の兵站の維持が困難になった。
 また東軍の赤松政則が大山崎の天王山を抑えた。山陽地方の物資は瀬戸内海を通って大坂湾に入り、淀川を船で遡上して京都に運ばれていた。淀川流域の山崎が東軍の手に落ちたことにより西軍は瀬戸内海からの補給路も失った。さらに東軍の京極政経の重臣である多田高忠が、東国からの補給路の要地である近江を制圧した。西軍の土岐成頼の重臣である斎藤妙椿が南都か近江を奪回したものの、西軍の劣勢は明らかになってきた。
 
 文明5年(1473)3月18日に山名宗全が70歳で他界、5月11日には細川勝元も44歳の働き盛りで死去した。同年12月19日、足利義政は息子の義尚に将軍職を譲った。義尚はまだ9歳であり、実権は義政が握っていた。これは将軍の後継問題から義視を排除するもので、遠からず、西幕府を屈服させることができるという義政の自信の表れであると呉座さんは論じている。

 文明6年(1474)2月、講和交渉が再開されたが、東軍では赤松政則、西軍では畠山義就が反対した。4月3日に、山名政豊と細川政元の会談が実現し、和睦が成立した。しかし、西軍の大内政弘、畠山義就、畠山義統、土岐成頼、一色義直は和議に応じず、陣を解散しなかった。東軍の畠山政長、赤松政則も臨戦態勢を解かなかった。結局、和睦は山名・細川間だけのものとなり、西軍と東軍の和議には至らなかった。

 山名一族が東幕府に降伏したことで、西軍に主力は畠山義就・大内政弘に移行した。山名宗全と細川勝元という両軍の総帥が没し、山名・細川両氏の間で和議が成立したにもかかわらず大乱が続いたのは、あくまで畠山政長打倒を目指す畠山義就が反細川の大内政弘を巻き込んで徹底抗戦したからであると呉座さんは論じている。そして、「山名宗全の決起は、足利義政神性の打破を目的としていた。だが、山名一族降伏後の西軍は反細川の色彩を強めていく。ここに応仁の乱は新たな局面を迎えた」(191ページ)と大乱の性格が変化していったことを指摘している。

 この頃、西軍の中では美濃の守護である土岐成頼の重臣である斎藤妙椿の発言力が大きくなっていた。彼は応仁の乱が始まると、近江・伊勢・尾張などに侵攻し、その武名を轟かせていた。尋尊の『大乗院寺社雑事記』には東西両軍のどちらかが勝つかは、守護の家臣である妙椿の動向によって決まる。ありえないことであると反感を込めて記されている。尋尊の思惑がどうであれ、守護代層が応仁の乱のキーマンに成長していたことが記録の中に書きとどめられているのである。文明6年に衝突を起こした甲斐と朝倉を和睦させたように斎藤妙椿の存在は大きく、西軍は、彼の力で東部戦線を保つことができたが、妙椿にも上洛するほどの余裕はなかった。

 室町幕府は将軍足利義尚の伯父である日野勝光を通じて、終戦工作を模索するが、足利義視の処遇が決まらないこともあって、交渉は進展しなかった。越前が完全に東軍の支配下にはいり、西軍は一層不利に陥ったが、文明8年(1476)に日野勝光が死去し、終戦工作は暗礁に乗り上げた。
 この年の9月に、足利義政は大内政弘に御内書を送り、終戦への協力を求め、受諾を得た。政弘としても、10年近く領国を離れて京都で戦闘に加わっていたので、本国が心配になってきたのである。その後、講和交渉は日野勝光の妹で足利義政の正室である日野富子である。彼女は東西両軍に金を貸して戦乱の拡大を促したと悪く言う向きもあるが、それは当たらない、むしろ終戦に向けて努力していたのだと呉座さんは説いている。

 大内政弘が降伏すると、畠山義就は孤立することになる。そこで、先を見越して京都の陣を引き払い、政長の重臣遊佐長直が守る河内若江城へと向かった。ただし、義就撤退後も、西軍は京都の下京に布陣していた。取り残された形になる足利義視は斎藤妙椿に上洛を要請し、10月に斎藤が上洛する。しかし11月に大内が東幕府に降参する。同月、土岐成頼・畠山義統ら西軍の諸大名は自陣を焼き払って、それぞれ本国へ下った。こうして「西幕府はなし崩し的に解散し、応仁の乱は形の上では終わった」(198ページ)。行き所のない足利義視は土岐成頼とともに美濃に下ることになった。「11年にもわたる大乱は京都を焼け野原にしただけで、一人の勝者も生まなかった。しかも戦乱の火種は完全に消えたではなかったのだ」(199ページ)。

 「完全に消えたわけではなかった」戦乱の火種は、戦国時代へと燃え広がっていく。呉座さんも別のところで論じているように、応仁の乱を通じて守護代層が力をつけ、また朝倉孝景のように下剋上を企てるものもあらわれ、さらにこの後に出てくるように畠山義就は暴れ続けるなど、新しい力の台頭は確実にみられるので、「一人の勝者も生まなかった」というのはあまり適切な表現ではないようにも思う。
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