FC2ブログ

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(25)

9月14日(土)曇り

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年11月から1958年3月にかけて、当時彼が所属していた大阪市立大学の組織する学術調査隊の隊長として、川村俊蔵(霊長類学)、小川房人(植物生態学)、依田恭二(植物生態学)、吉川公雄(昆虫学、医師)、藤岡喜愛(文化人類学)の各隊員とともに、主としてタイ北部を調査地として熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌の調査を行った。この書物は、その調査旅行の私的な記録である。
 バンコクに集合した一行は、太平洋学術会議への参加、カンボジアのアンコール・ワットへの旅行を経て、自動車で北タイに向かい、タイの最高峰であるドーイ・インタノンに登山、その途中、ビルマから越境してきた山岳少数民族のカレン族に遭遇した。その後、チェンマイからドーイ・ステープに登り、中国から越境してきた山岳少数民族のメオ族と接触した。その後、北のビルマとの国境付近まで移動しながら、テナガザルの生態を研究するための適地を探し、またチェンマイに戻ってきた。
 前回から第10章「ランナータイ王国の首都」に入っている。「ランナータイ王国の首都」とはチェンマイのことであり、チェンマイではILOから派遣されて漆工芸の指導に当たっている生駒弘さんの世話になっている。

第10章 ランナータイ王国の首都(続き)
 明治の日本男児
 当時、チェンマイには日本人は3人しかいなかった。生駒さんと、この地で写真館を開いている田中盛之助さん、その娘婿の波多野さんである。〔この書物の下巻を読むとわかるが、その後生駒さんは日本に帰国、田中さんは亡くなられた。〕 この項では田中さんのタイ移住以後のことが記されている。
 チェンマイの町は昔は、1.5キロメートル四方の城壁で囲まれた城市であった。城壁はなくなったが、その周囲にめぐらされていた濠は残っている。田中さんの写真館はその東濠の堤防沿いに建っている。
 田中老人はそのとき84歳で、鹿児島出身で、台湾からアモイを経て、タイにやって来たのが明治35・6年(1902・03年)ころのことだったという。日本で身につけた写真の技術がものを言って、バンコクで写真館を開いて成功していたのだが、知人がチェンマイの総督に就任したのをきっかけにチェンマイに移り住んだのだという。
 チェンマイで写真館を開き、タイ人と結婚して、そのまま居ついてしまった。戦争中は収容所に入れられたりしたが、戦後また事業を再開した。波多野さんを娘婿に迎えたが、子どもたちの大半はタイ人になってしまい、タイ語しか話さない。一人だけ、日本人として生きる道を選んだ孫が、バンコクの日本大使館で領事事務をしていた。しかし、田中さん自身は自分は日本人だという自覚が常にあったようである。

 たき木で走る汽車
 戦争中はチェンマイは日本軍の一大基地で、日本軍はビルマ戦線への大補給路をつくる計画を立て、軍事道路の建設に取り掛かった。田中さんはこの計画は無謀だといって、当時のチェンマイの知事と一緒に日本軍の司令官である山内中将に進言したが、取り合ってもらえなかったそうである。しかし、結局工事は、インパール作戦に間に合わないことがわかって、放棄されることになった。

 とはいうものの、チェンマイが北タイの交通の中心であることは確かで、各地に向けて定期バスが出ている。またバンコクとの間に鉄道路線が通じている。梅棹はチェンマイ駅まで行ってみたが、終着駅らしい雑踏はなく、閑散としていた。バンコクとチェンマイ間を結ぶ列車は1日に1本しかないという。
 「フォームには、バンコク行きが入っていた。列車はなかなかりっぱだった。機関車も客車も、みんな日本製だった。駅の構内に、おびただしい木の山があった。汽車の燃料である。ここの汽車は、木をたいて走るのだ。むりもない。タイには石炭は出ない。しかし木は、いくらでもあるのだから。」(261ページ)
 この時代、日本でもまだ幹線以外では蒸気機関車が走っていたことを想起すべきである。

 半世紀のうつりかわり
 チュラーロンコーン大学の助手で、この調査に参加していたヌパースパットが大学の仕事の都合でバンコクに戻ることになった。通訳として協力していた日本からのチュラーロンコーン大学留学生の葉山陽一郎もバンコクに戻ることになった。2人の送別会を開いた翌日、葉山は飛行機でバンコクに帰っていった。2時間もあればバンコクに着くはずである。
 梅棹は、田中老人がバンコクからチェンマイにやって来るのに2か月余りかかったという話を思い出す。当時は鉄道はなく、道路もなく、ターク(ラヘーン)経由でメー・ピンを川船でさかのぼったのだそうである。1か月分の食料を準備していったのだが、途中で食料がつきかけて、野鶏やシカを撃ち、タケノコを掘って来て塩をつけて食べたという。
 日本の近代化に比べて、タイの近代化はさらに急激なものであったということを梅棹は実感する。江戸時代の日本は五街道など陸の交通は整備されていたが、20世紀の初めになってもタイには幹線道路は整備されていなかったのである。

 女は髪を長くしている
 北タイの人はバンコクあたりの人に比べて色が白い。またチャオプラヤー河の下流域の人々とは違って、女性は髪を長くしている(現在では全体的に髪を長くする方が普通ではないかと思う)。
 田中老人が初めてタイに来た頃は、バンコク近傍の女性はみんなザンギリ頭だったという。チェンマイに来てみると、女性がみんな髪を長くしているのに感激してしまったという。あるいはそれがチェンマイで結婚して、そのまま居ついてしまった理由なのかもしれない。〔フランソワーズ・サガンの原作でヒロインを演じたジーン・セバーグ(日本ではセバーグという呼び名が定着してしまったが、シーバーグという方が正しいようだ)の短い髪形が話題を呼んだ『悲しみよこんにちは』が日本で公開されたのは、梅棹帰国後の1958年4月のことであった。この映画のヒロインの名にちなんだセシル・カットが日本でも流行することになる。〕

 風俗習慣だけでなく、言語的にも北タイはバンコクあたりとはだいぶ違うようだと梅棹は観察する。ドーイ・インタノンとかドーイ・ステープとかの「ドーイ」は「山」という意味であるが、バンコクあたりでは通用しない言葉だという。
 民族的にいえば、広い意味でのタイ族であることは間違いないが、むしろ東北タイやラオスの人々と近く、ラーオ族の一派ということができる。チャオプラヤー下流域の人々については、シャム人という言い方もされるという。田中老人が盛んにラーオ人という言葉を使うので最初のうちは奇異な感じをうけたものだが、田中老人のいい方の方が正しいのである。
 現在でこそ、ラオスという国が存在するが、ラオスはフランスがタイからメコン以東の地を強奪した結果生まれた国であって、カンボジアやベトナムよりも、タイの方に近いのは当然のことなのであると梅棹は言う。

 ランナータイ王国の首都
 タイ人もラーオ人も、先祖は同じで、広い意味でのタイ族の国は、もともと今の雲南省にあり、ナンチャオ(南詔)と呼ばれた。8世紀のころには唐に対抗するほどの勢力を築き、13世紀まで続くが、1253年に元のクビライ汗に征服されて独立国としての歴史を閉じる。
 しかし、それ以前からタイ族の南進は始まっていた。大きな川の谷に沿って、彼らはしだいに移動していった。あるものは紅河(梅棹はホンコイと書いているが、ベトナム語ではソンコイ、中国語ではホンホーのはずである)に沿って今のトンキン地方(ベトナム)に入り、あるものはメコンに沿ってラオスに入った。あるものはサルウィーン(サルウィンと表記する例の方が多いようである。中国では怒河というそうだ)に沿ってシャン(ミャンマーの州の一つ)に入って、シャン族となった。そして、あるものはメコン上流からメナム(チャオプラヤー)の流域に入って、これが現在のタイ人の先祖ということになる。

 すでに述べたように、8世紀のころ、ナンチャオの王子がタイの北部にチェンセーン市を建てたという伝説がある。このチェンセーンの王統から、スコータイ王国、アユタヤ王国、それにチェンマイのランナータイ王国の3王国が建国され・並立したという。
 前進するタイ族の全面には、高度の文化を持った2つの帝国が立ちはだかっていた。一つは東部タイからカンボジア、ラオスの大部分を領有し、アンコールを都とするクメール帝国であった。もう一つは、西部タイから南ビルマに広がり、ペグーを都とするモン帝国であった。

 1259年に即位したチェンセーン王国のメンラーイ王は、チェンマイ市の建設者であるとともに、ランナータイ王国の建設者でもある。メー・ピン(梅棹はチャオプラヤー河の支流という書き方をしているが、こちらの方を本流とする見方もある)の流域にはモン帝国に属するラワー族のハリプンチャイ王国があったが、メンラーイ王は1281年にその首都ランプーンを陥落させた。メンラーイ王はランプーンの北にチェンマイを建設したが、自身はもう一つの都であるチェンラーイに留まっていた。チェンマイがランナータイ王国の首都となるのは14世紀半ばのことである。〔ランプーンは第7章の終わりのところで、「ミス・タイの都」として登場している。〕

 メンラーイ王とほぼ同時期に、スコータイ王国には偉 な王ラーマカムヘーン(ラームカムヘーンと表記するのが一般的)が現れ、クメール帝国の版図にまで支配を広げ、ついにアンコール・トムまで占領する。しかし、王の死後、スコータイ王国は衰え、アユタヤ王国に併合されてしまう。こうしてランナータイ王国とアユタヤ王国は直接国境を接することになり、両者はしばしば紛争を起こすことになる。

 1556年、ビルマのバイナウン王は北からランナータイに侵入し、チェンマイを包囲する。奮戦空しくチェンマイは陥落し、独立国ランナータイの260年の歴史は終わる。のち、16世紀末に、この地はアユタヤ王国に接収され、以後、チェンマイは統一タイの一部となったのである。

 スコータイ王国のラームカムヘーン王は政治家として優れていただけでなく、タイ文字を始めて考案するなど、文化的な面でも大きな業績を残し、タイの三大王の1人に数えられているという。ラームカムヘーン王とチュラーロンコーン王というのはわかるが、あと1人はだれだろう。
 この書物の最初の方で、梅棹の「文明の生態史観序説」を読んだというタイの大使館員から「あなたは、歴史をやっている梅棹さんですか」(23ページ)と質問される個所があるが、タイの歴史について、北タイを中心にまとめ直す作業には梅棹の歴史的な好奇心のありかが、見事に示されているように思われる。

 昨夜はパソコンに向かっているうちに寝てしまい、またまた失礼いたしました。明日(9月15日)はサッカーの試合を見に出かけますので、同じような失礼がるかもしれません。予めご承知おき願います。
スポンサーサイト



トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(16)

9月12日(木)曇り

 コロンブスの新世界への旅に参加し、その後さらに進んで地球を一周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、その途中で訪問した「太陽の都」の様子について、マルタ騎士団の団員に語る。
 それはタプロバーナ島の中央部に広がる草原のなかの丘の上に七重の城壁を同心円状にめぐらせて建設された都市で、すべての人々が働き、私有財産を持たず、共同生活を送っている。かれらの暮らしぶりは質素であるが、全体としては豊かな富を蓄えているという。
 「太陽の都」を支配しているのは「太陽」と呼ばれる神官君主で、軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖・医療・教育を司る「愛」の3人の高官によって補佐されている。このような高官を含めて政府の役人たちはすべて教育を通じて、それぞれの能力・適性を見極めることにより選び出されている。
 彼らの食べ物は自然の理法にしたがって選び出され、季節ごとに最もふさわしいものが選ばれる。おもな産業は農業で牧畜も行われているが、商業は主として外国向けである。

 騎士団員の学問と役人について話してほしいという要望に応えて、ジェノヴァ人はさらに多くのことを語る。
 新月と満月には、20歳以上のものがすべて参加して大評議会が開かれる。ここで参加者たちは1人1人、この都市で欠乏している(必要とされている)ものは何か、どの役人が有能で、どの役人はそうではないかについて意見を述べる。
 それから8日ごとに、役人全員の会合がある。太陽と、その3人の補佐の高官のほかに、補佐の高官のそれぞれ3人の部下、補佐の高官の部下のそれぞれ3人の部下がこの会合に参加するので、1+3+3×3+3×3×3=40(人)ということになる。役人たちにはそれぞれ専門の仕事があって、「権力」は軍事を、「知識」は学問を、「愛」は食糧、生殖、衣服、教育を司る。このほか、男女はそれぞれ組に分けられているので、それらの組の組長(=組頭)、十人組組頭、百人組組頭などもいる。〔英訳によると、十人組の組頭、五十人組の組頭、百人組の組頭がいることになっている。〕 かれらは国家の福祉に必要なことがらについて議論をし、あらかじめ大評議会で指名された人々のなかから役人を選ぶ。「太陽」と3人の高官は毎日必要事項について相談し、選挙で定められたことやその他の重要事項を確認したり、訂正したりする。くじ引きは、どちらに決めるべきか迷った場合以外には用いられない。一般の役人は人々の医師に基づいて開戦されるが、筆頭の4人は、自分たちで会議を開いて、自分たちよりも知識があり、すぐれた才能を持つと認めた者に地位を譲ることを決めたとき以外には交代することはない。実際に、このような人物が現れれば、交代は快く行われるが、交代が行われることはまれであるという。

 学問の各分野の指導者たちは、形而上学者である「太陽」とともに、「知識」のもとに属している。かれらのなかには、文法学者、論理学者、博物学者、医者、政治学者、経済学者、道徳学者、天文学者、占星学者、幾何学者、宇宙学者、音楽家、遠近法画家、数学者、詩人、雄弁家、画家、彫刻家などがいる。〔英訳によると、文法学者、論理学者、物理学、医学、天文学、幾何学、宇宙学、音楽、遠近法画家、算術、詩、修辞学、絵画、彫刻となっている。〕
 「愛」の部下には、生殖、教育、衣服、農業、食糧、牧畜、家畜、調理などの指導者がいる。
 「権力」の部下には戦術家、鍛冶屋、武器製造家、銀細工師、造幣技師、技術家、隠密頭、馬術頭、闘技家、砲術家、投石術家、裁判官などがいる。

 坂本訳では、ジェノヴァ人は引き続き、かれらの間での裁判について語るのに対し、英訳では、マルタ騎士団員の裁判についての問いに答えて、この問題を取り上げるという体裁になっている。
 「太陽の都」の住民たちは、それぞれの仕事の頭の支配に服していて、かれらの間で起きた問題は、裁判官でもある仕事の頭によって取り扱われるという。もっとも重い罰は死刑であり、追放刑、笞刑、譴責、共同食堂での食事禁止、神殿への立ち入り禁止、婦女との交際禁止、また計画的な犯罪の場合、目には目をというように自分の犯した犯罪と同じ罰を受けることもあり、喧嘩のような計画的でない犯罪の場合は軽い罰が与えられる。3人の高官はこれらの刑を軽減することができ、「太陽」は裁判には関与しないが、恩赦の申請を受け、恩赦を行うことができる。これは彼だけの権限である。

 「太陽の都」には謀反を起こした敵をとじこめる塔以外に、牢獄はない。裁判は記録されず、裁判官と「権力」の前で被告に有利な事実と不利な事実が述べられ、裁判官により直ちに判決が下される。裁判が記録されないというのは、現在の眼から見ると、おかしいように思われる。裁判官が、職掌としての裁判官なのか、先にいう組頭が兼ねているものなのか、詳しいことが説明されていないので、わかりにくい。
 もし、判決を不服として上告されれば、翌日、「権力」によりもう一度判決が下され、さらに上告されれば、その翌日、つまり3日目に「太陽」が判決を下すが、この場合、恩赦が下されることがある。しかし、それは市民の合意を得てからのことで、ずっと後のことになるという。〔「太陽」は裁判に関わらないと書いておいて、結局最後には裁判が「太陽」のもとに持ち込まれるようになると書いているのは、首尾一貫しない。〕
 死刑執行人という職掌はないので、死刑は市民全員の手で行われることになる(この時代、死刑執行にあたる人々は差別の対象であったことを認識する必要があるだろう)。市民が犯罪者に石を投げて殺したり、火あぶりの刑にしたりする(カンパネッラの同時代人のジョルダノ・ブルーノが異端として火あぶりにされたことは有名である。石を投げて殺す処刑は現在でも一部のイスラーム教圏の土地では行われている。カンパネッラが自分も火あぶりにされるかもしれない身の上で、こんなことを書いているのは理解できないところがある)。

 まだまだ裁判についてのジェノヴァ人の話は続くが、書いているカンパネッラが獄中にあって、しかも死刑を宣告されている身であることが手伝ってか、どうも記述が首尾一貫しない。この後、社会の犯罪者に対する取扱いの問題、自主とか今日の司法取引にかかわるような問題、裁判の手続きや、訴訟に関わる法律の問題などが語られている。法律家であったトマス・モアよりも囚人であったカンパネッラの方が裁判について詳しく書いているのは、立場のちがいとはいえ、いろいろと考えさせる問題である。

椎名誠 目黒考二『本人に訊く <壱> よろしく懐旧篇』

9月11日(水)晴れのち曇りのち雨

 椎名誠 目黒考二『本人に訊く <壱> よろしく懐旧篇』(集英社文庫)を読み終える。

 「椎名誠旅する文学館」がネット上で開設されることになり、椎名さんと古くから(『本の雑誌』の創刊・運営や、「怪しい探検隊」など)つきあいのある目黒さんに初代の名誉館長になってほしいという話が持ち込まれたのだそうだ。その際に、椎名誠の全著作を現在の段階ですべて読み、その裏側の事情、作者の意図などについてインタビューすることが提案されたという。椎名さんとの古くからの付き合いということで言えば、『哀愁の街に霧が降るのだ』に描かれたアパートの共同生活の仲間、木村晋介さんや、沢野仁さんのほうが古いのだが、全著作を読んで論評するというような作業に一番向いているのが本好きをもって鳴らす目黒さんであることは明らかである。

 話を持ち掛けられて目黒さんは条件を出した。一つは、もしつまらなかったらそれを正直に言うことにするがそれでもいいかということである。実際に、この対談の中で、読み返してみたらつまらなかったと面と向かって言っている場面が何度かある。椎名さんのほうでは、インタビューの日は、その後、新宿に出て池林房で軽く飲んでから麻雀をするという条件を出した。この2つの約束のもとに2011年8月から2013年4月まで「椎名誠の仕事 聞き手 目黒考二」が配信されることとなった。その結果は、2016年10月に単行本として椎名誠旅する文学館から刊行された。その単行本化されたものに加筆・修正して今回、文庫本として発行されたものである。

 取り上げられているのは『さらば国分寺書店のオババ』(1979)から「はるさきのへび」(1994)までの77冊で、この調子で続けていくと確実に4巻までは続くことになり、そこで椎名さんの出版ペースに追いついているのだが、さらに彼が本を書きつづければ、5巻目以降も出版されることになるだろうという。目黒さんによると、彼の厳しい批評についても椎名さんがじっと聞いたことにより、彼をえらいと思ったという(椎名さんのことだから、逆上してこの野郎…ということにならなかったのは、たしかにえらい)。

 こうやって列挙されてみると、椎名さんの本は(特にエッセー・旅行記類は)たいてい読んでいるつもりだが、けっこうよ見落としがあることに気づく。目黒さんが「もしも未読の作品があったら、お読みいただきたい」(8ページ)と言っている言葉に、素直に従うことにしたいし、また私と目黒さんとで意見の違う個所も洗い出していきたいと思う。

 ということで、今回、ざっと読んで印象に残った箇所を取り上げておく。
 『わしらは怪しい探検隊』が初期の傑作であり、初期東ケト会(東日本何でもケトばす会)の活動がもっと書かれてもよかったという目黒さんの意見には大賛成。自分ではたいしたことがないと思っていても、他人から見ると傑作だという作品があるものだが、、この本もその1つだったのかもしれない。「椎名と沢野とニゴリ眼高橋と、それとデパートニューズ社の先輩である山森さんの4人。これが最初のメンバーなんだけど、ニゴリ眼高橋とはその後、会ってるの?」「いや、あってないなあ」(55ページ)というのは、探検隊および椎名さんの性格を解明する鍵となるような対話であるかもしれない。

 『哀愁の町に霧が降るのだ』(1981~82)に描かれた小岩でのアパート共同生活の時代に、椎名さんは夫人である渡辺一枝さんと会っているのだが、そのことが書かれていない(『新橋烏森口青春篇』には描かれている)。作中でも指摘されているし、この対談でも言われているが、主人公の恋愛を入れるのはどうも物語の雰囲気に合わないような気がしたというのは半分くらい本当で、もう半分くらいはテレもあるのではないかと思う。

 『新橋烏森口青春篇』(1987)では、椎名と木村と沢野が実名であるのに対し、菊池や菊入、小安など、『銀座のカラス』では実名で登場する人物が仮名になっているのはどういうことだという目黒さんの問いに対して、椎名さんは「覚えていない」と政治家みたいな答え方をしている。椎名さんの描く菊入君というのはなかなか個性的で、椎名さんの文章を紹介した私の文章を読んで、菊入君が好きになったという知人がいるほどである(残念ながら故人になってしまった…)。

 『風の国へ・駱駝狩り』(1989)では世界で最も暑い村に出かけたことが書かれていて、目黒さんが「椎名は世界で一番寒い村にもいったから、一番寒いところと暑いところへ行ってるんだ。すごいね。」(256ページ)と感心している。たしかにすごい。
 ネットでノルウェーの大学について調べていて、トロンハイム大学というのが世界で一番北にある大学だということを知って吹聴していたら、じゃあ、一番南にある大学はどこかと聞かれて、答えられなかった(今でも知らない)記憶がある。知っているのではなくて、出かけたことがあるというのははるかにすごい。〔調べてみたら、世界で一番南に本部のある大学はアルゼンチンのティエラ・デラ・フエゴ大学だそうである。〕

 全体として目黒さんのツッコミはなかなか鋭くて、椎名さんが書き落としたところや、わざとはぐらかしたところをあからさまにしているところが少なくない(それでも、友人だから、多少の手加減はあるのかもしれない)。この書物には、椎名さんの初期の習作や、息子さんの岳さんの手記なども掲載されていて、創作者としての椎名誠の成長の過程や、内部の事情などもうかがい知ることができる。ただ読んで楽しんでいるだけの読者の好奇心を満たすというだけに終わらず、実は新しい文学的な創造の機会をうかがう人たちに読んでもらって、自分の才能を伸ばすための踏切台として利用してほしい書物である。

 昨日予告したとおり、本日は病院に出かけ、待っている時間が長く(その間に、本日取り上げたこの本を読み終えたのであるが)、疲れたので、皆様のブログへの訪問を省かせていただきます。また明日お目にかかりましょう。)

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(15)

9月5日(木)曇り

 新大陸への旅からさらに西に向かい、地球を1周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員に向って、旅の途中で訪問した「太陽の都」の文物について語る。
 それはタプロバーナ島(スマトラ島と考えられている)の中央に広がる平原のなかに建設された都市で、7重の城壁を同心円状にめぐらせて建造されている。都市の支配者は「太陽」と呼ばれる神官君主で、形而上学者であり、軍事を司る「権力」、科学を司る「智慧」、生殖・教育・医療を司る「愛」の3人の高官によって補佐されている。かれらを始め、都市の役人はすべて子供のころからの教育を通じて、その能力・適性を見出された人物が選ばれている。
 「太陽の都」の住民たちは高い水準の科学的な知識と技術を有し、それらがすべての市民に教育を通じて普及されている。都市の中心にある神殿の外壁と、城壁には様々な事物が図や模型によって展示され、教育に役立てられている。
 すべての住民たちが働き、私有財産というものはないので、人々の暮らしは質素であるが、都市全体としては豊かである。衣類は配給制で、食事は共同で行われ、住まいは割り当て制である。住民全体が家族と考えられ、生殖は男女の相性に基づく計画的な結合により行われる。
 貨幣は存在するがまれにしか使われず、物々交換が主流である。農業は様々な新しい技術を導入して改良されており、農繁期には都市からも人が派遣されて、すべての市民が参加して作業が行われる。牧畜も盛んである。

 マルタ騎士団員は次に彼らの食生活について尋ねる。また彼らの寿命はどのくらいなのかともきく。
 これに対するジェノヴァ人の答えは最初は謎めいている。太陽の都の住民たちは、一人一人の寿命よりも、全体の命を大事にしていて、「太陽の都」は占星学的によい組み合わせを選んで設計されているという。
 「太陽の都」の住民たちは、もともと草食であり、以前は残酷だという理由で動物を殺したがらなかったが、「感覚と生命をもつ植物を殺すことも同じく残酷であることに気づいてからは、無智なものは高貴なもののために作られているのだと考えるようになり、今では何でも食べます」(坂本訳、49ページ)。しかし、牛や馬のような生産活動に役立つ家畜は殺したがらない。
 食物も体に役立つものと役立たないものをはっきり区別し、医学的な知識にしたがって摂取する。「一度肉を食べると、次は魚、それから野菜、それから再び肉へ戻るという具合に順ぐりに食べ、胃腸に負担をかけたり弱めることはしません。」(坂本訳、49‐50ページ)
 老人は消化のよいものを1日に3度、子どもは1日に4度、一般の人々は2度食べる。

 人々は少なくとも100歳までは生き、まれには170歳、さらには200歳まで生きるものもいるという。
 飲酒は大へん控えめで、葡萄酒も特に必要以外は19歳未満のものには与えられず、それ以上の年齢の人々も水で割って飲む。男性も女性もこの通りにするという。
 カンパネッラはヨーロッパの読者を想定してこの物語を書いているのであり、実際問題としてこの時代に東南アジアの熱帯地方でワインが飲まれていたとは考えにくい(そもそも熱帯ではワイン製造用のブドウが栽培できない)。
 人々は季節に応じて、担当の医者の処方にしたがって最も体に適したものを食べる。かれらはまた多くの香料を使うという(インド亜大陸や東南アジアは中世から、香料の産地であったことが念頭に置かれているのであろう。また、実際に東南アジアの料理はスパイスを多く使っているように思う)。

 人々は朝、起きると髪をとかし(ラブレーの『ガルガンチュワ』の主人公は指で髪を梳いていたのが、その後櫛で髪を梳かすようになる。ここでは、どちらかは触れられていない)、冷水で顔を洗い、それから花薄荷(ハッカ)やパセリや薄荷を噛み、それを手の中にこすりこむ(インドあるいは東南アジアの習俗の伝聞が影響しているのかもしれない)。老人は香を用いる。
 人々は東に向かってキリスト教徒の主の祈りのような短い祈りを唱え、それから家を出て、老人の世話や、会議や、公共の仕事をしに出掛ける。それから最初の勉強に赴き、次に神殿に出かけ、運動に出かけ、それから少し座って休息をとり、その後食事をとる。ずいぶんいろいろなことをすると思うのだが、それというのも朝、早起きだからであろう。カンパネッラは修道士であったから朝は早く、そのことが反映していると思われるが、実際に東南アジアの人たちは早起きのようである(日中は暑いから早起きをする必要がある)。

 このように医学的な知識を生かした食生活を送り、規則正しく暮らし、よく運動しているので、「太陽の都」の人々は痛風や坐骨神経痛などにはならないという。かれらの間にみられる病気や、その療法については、詳しいことは省く。かれらは体を清潔に保ち、病気の治療には薬草のほか、占星学の知識も利用するという。
 彼らは料理は得意であるが、ナポリ人のように氷で冷やしたものを飲まないし、また逆に中国人のように熱いものも飲まないという。「なぜならば、自然の体温を保つため、濃い体液を防ぐ必要はなく、夏や疲れた時には、にんにくの潰したもの、酢、いぶきじゃこう、薄荷、めぼうきなどで自然の体温に元気をつけますが、これらの香料を食べて体が熱くなっても別段どうといったことはしません。何故なら、香料を食べすぎることはありませんからね。」(坂本訳、62ページ) 
 彼らは7年ごとに、「何の苦痛も伴わない素晴らしい方法で、若返りの秘法」(坂本訳、同上)を行うという。
 自然の治癒力を信じるかと思うと、伝統的な民間療法も使われており(そのいくつかは今日でも行われている)、占星学が仄めかされているかと思うと、秘法があるともいう。まことに雑多であるが、この雑然としているところがカンパネッラの特色であろう。前回も書いたが、秘法というのが本当に存在したのか、それともカンパネッラのただのハッタリだったのか、今となってはわからない。

 次に騎士団員の質問に答えて、ジェノヴァ人は学問と役人について詳しく述べるが、その内容はまた次回ということにしよう。
 

マルセー・ルドゥレダ『ダイヤモンド広場』

9月4日(水)曇り

 9月2日、マルセー・ルドゥレダ『ダイヤモンド広場』(岩波文庫)を読み終える。カタルーニャ語で書かれた文学作品の翻訳を読むのは、これが初めてのことである。
 マルセー・ルドゥレダ(Marcè Rodoreda, 1908 - 1983)はバルセロナ生まれで、スペイン内戦後、フランス、さらにスイス(ジュネーヴ)で執筆活動を続けた作家である(晩年はカタルーニャに戻っている)。ジョージ・オーウェルの『カタロニア賛歌』あるいは、チェリストのパブロ・カザルスの伝記を読めばわかることであるが、スペイン内戦のなかでカタルーニャは人民戦線の拠点となった地方であった。この作品はスペイン内戦を描いたジュアン・サラスの『不確かな栄光』とともに、現代カタルーニャ文学の傑作とみなされている。
 物語はヒロイン(ナタリア=クルメタ)の一人称の語りで展開されている。内戦の影響を受けながら揺れ動くバルセロナ市民の生活を女性作家ならではの視点で、描き出している。

 1930年代初めごろ(スペイン第二共和政の初期)のバルセロナ、グラシア街のケーキ屋で働く十代の少女ナタリアは、友人のジュリエタに誘われて、ダイヤモンド広場で開かれるくじ引き大会に出かけ、そこで「お猿さんみたいな目を」(11ページ)したキメットという若い男に一緒に踊ろうといわれる。彼は彼女をクルメタ(小鳩ちゃん)と呼び、それ以外に彼女の呼び方はないと決めつける。何でも自分の思い通りにしようとする彼から、彼女は逃げだそうとするが、うまく逃げきれない。

 ナタリアはそれまで付き合っていたペラと別れて、キメットと付き合うことにしたのだが、そんな彼女の事情はまったく察しようとせずに、キメータは自分の意見を彼女に押し付けようとする。「俺がいいと思うものをいいいと思えるようになるんだ、…好きにならなきゃならないんだ。お前はなにもわかっちゃいないからだ」(19ページ) どっちがものがわかっていないかは、物語を読めばわかる…というよりも、読んでいくうちに読者の意見が分かれてくるはずである。(2人の意見の違いは、なかなか興味深い。例えば、キメットは彼の父親がガウディーが市電にはねられたときに病院に担ぎ込んだ1人だということもあって、その建築を絶賛しているが、ナタリアはサグラダ・ファミリアは「カーブや尖(とんが)りが多すぎる」(同上)と思っている。それで、キメットが上記の発言をするわけである。) 二人が通りがかりに足をとめる食料品店が後で意味を持つことになる。

 母親は早く死に、父が再婚したために家のなかでは孤立しているナタリアには、それでもアンリケタおばさんといういい相談相手がいた。彼女は街角で冬は焼き栗と焼き芋、夏はピーナッツと茹で豆を売っているのである(焼き芋の芋が、ジャガイモなのか、サツマイモなのか、ひどく気になる)。おばさんはキメットは(家具づくりの)店を持っているが、ペラは雇われ(コック)だし、キメットの方が生活力があるから、結婚するなら彼の方だという。ただ、あとになって(二人が結婚してから)、キメットの母親には気をつけた方がいい、また自分の考えていることをキメットに悟られないようにした方がいいとも助言する。

 二人は結婚し、キメットの呼ぶように、みんながナタリアではなくて、彼女をクルメタとよぶようになる。そしてアントニという男の子、次にリタという女の子が生まれる。
 ところが、ある日、二人の住むアパートにけがをしたハトが迷い込んでくる。それがきっかけでキメットは鳩を飼い始める。鳩を増やして、売りつけて、儲けようというのである。鳩はどんどん増えて、二人のアパートまで次第に鳩に侵入されるようになった。国内の対立が激しくなり、金持は家具を飼ったり、修理したりしなくなって、キメットの仕事は立ち行かなくなる。鳩も売れない。

 クルメタはアンリケタおばさんの紹介してくれた邸にお手伝いとして働きに出かけることになる。ある時、その屋敷の奥様に頼まれた買い物をするために食料品店に出かけるが、彼女を迎えに来ていたキメットは、その店が正直ないい店だといい、自分たちの鳩のための豆をここで買うように言う。
 鳩は増え続け、キメットは鳩をもっと増やして儲けることを考え、夢を膨らませているが、クルメタは働き続けて疲れ切っている。
 アンリケタおばさんは言う:「キメットは三つがい鳩がいたら、そのうち二つをだれかにあげちゃってるじゃないか、ただ何かあげるのが好きだからって理由で…それなのにお人よしのあんたはこんなに一生懸命働いて……」(129ページ)

 スペイン内戦が次第に激化して、キメットはその友人たちとともに民兵隊に志願すると言い出す。クルメタは必至で止めようとするが、キメットは聞く耳を持たない。クルメタは家のことで、手伝っててほしいことがいくらでもあるのに、キメットは自分の仕事を手伝えと命じるだけである。我慢の限界に達したクルメタは、鳩たちの産卵を邪魔し、鳩たちを追い出そうとし始める…。
 内戦の激化のために、生活物資やサービスが次第に途切れ始める。キメットは前線に動員され、クルメタは屋敷の仕事を解雇される。邸の方にお手伝いを傭う金がなくなってしまったのである。クルメタとアンリケタおばさんは市役所の清掃婦の仕事を見つける。その一方で、鳩は次第にいなくなり、残った鳩も野生化していった。

 久しぶりに会ったジュリエタは民兵になっている。艦砲射撃でクルメタの父親が死ぬ。アンリケタおばさん、アパートの下の部屋の食料店主、ジュリエタ、みんながばらばらのことを言う。ある日、キメットとその友人がアラゴン戦線で戦死したという知らせと、遺品の腕時計を受け取る。アパートの屋上に登ったクルメタは、昔飼っていた鳩が屋上で死んでいるのを見つける。

 内戦が終わり、キメットの友人だった男性も銃殺されたりする。2人の子どもを抱えて生きていく当てのないクルメタは自殺を考えるが、以前に豆を買った食料店の店主に家政婦として雇われる。そしてやがて、彼と二度目の結婚をする。2人の子どもたちは新しい父親になつき、それから時間がたって…長男のトニは兵役に就き、長女のリタは近所のバルの主人と結婚する。リタの結婚式があった日の夜…クルメタは思い出に誘われるように昔住んでいたアパートやダイヤモンド広場を訪れる…。

 クルメタは2回結婚し、何かに熱中するとほかのことが見えなくなる最初の夫は、家族を捨てて内戦に参加、戦死するが、2人の子どもを残す。仲のいい友人たちは一緒に戦いに参加したが、彼のもとで働いていた徒弟はフランコ将軍側で戦い、生き延びる。裕福で温厚で誠実な2度目の夫のほうが似合いの伴侶のようにも思われるが、彼は戦争の影響で子どもを作ることができなくなっている。2度の結婚にはなにがしかの寓意が込められているようにも思われるが、それを読み取るだけの文学的素養は私にはない。〔アンリケタおばさんは、キメットの方が甲斐性があるから夫としていいといったが、あるいはペラの方がよかったかもしれないという思いは最後まで残っているように思う。二度目の夫はペラに似ていると、ヒロイン自身がみとめている。〕

 作者はこの作品が恋愛小説であるという。また、カフカ的な小説であるともいう。この本の原題はLa plaça del Diamant (スペイン語ではLa plaza del Diamante)であるが、英語ではThe Time of the Doves (鳩たちがいた時代)となっており、作者自身ももともと「クルメタ」という題名でこの小説を書きはじめたということで、作中での「鳩」の存在は大きい。鳩は平和の象徴だといわれるし、離れて見ていればかわいい鳥である。しかし、実際に鳩が増えてその匂いや、特に糞になやまされている人も多い。むかし、英国の町で過ごした時に、鳩に餌をやっていたが、餌をやるひとと、鳩に餌をやるなという人との対立があったことを思い出す。語り手が勝手にクルメタ(小鳩ちゃん)と名付けられ、それが一般的な呼び名になってしまったり、彼女の暮らしの中に鳩が入りこんでくる状況は、カフカ的であるといえるかもしれない。

 ただ、この作品の特徴としてすぐに気づくことは、一方で幻想的でありながら、豊かな現実の断片を取り込んでいること、さまざまな色彩、音、においを描き込んでいることである。例えば市場に買い物に出かける場面:
「肉、魚、花、野菜、いろんなものの臭いが入り混じって漂ってくる。私に目がなくっても、市場に近づいているってことはすぐにわかっただろう。・・・私は市場の臭いの中に入っていく。市場の叫び声の中に入っていく。そして買い物籠と女の人たちの押し合いへしあいの流れのなかを目指して。青の腕カバーと胸まである前掛けをつけた行きつけのムール貝屋のおばさんがすくっては何杯も何杯も袋に入れていくムール貝やそのほかの貝は、真水でなんども洗ってあるのに、まだ抜けきらない海の香りをあたりにふりまいている。」(87‐88ページ)
 あるいはこの個所に続く、「空気」の描写:
「私はまだあの日の冷たい空気を覚えている。あの空気は思い出しこそするけれど、二度と味わうことのできない空気だった。二度と。やわらかい葉っぱのにおいや花のつぼみのにおいと混ざり合った空気、逃げて行ってしまった空気、そのあとやってきたどの空気とも全然違っていたあの日の空気。」(89ページ)
 おそらく作者にとってそうであったのとは違う意味で、ヒロインにとってもスペイン内戦は心の傷を残したのである。ジュリエッタやペラのように物語の途中で姿を消し、その後の消息も語られないまま二度と姿を現さない人物もいる。それがスペイン内戦の真実であったのかもしれない。解説で語られているように、キメットはアナーキストの民兵に身を投じたらしいが、アンリケタおばさんは王党派である。あまり裕福だとは言えない生活のなかで、思想のちがう人々がお互いを支えながら生きている…しかしそれにも限度がある。

 「解説」で翻訳者の田澤耕さんが書いているところによると、コロンビア出身のノーベル賞作家であるガブリエル・ガルシア=マルケスはこの作品を高く評価していたそうである。昔、ガルシア=マルケスがインタビューの中で、あなたの小説には幻想的な場面が多いのはどういうことかという問いに、中南米ではそれが現実なのだと答えていたことを記憶しているが、スペイン内戦というのも同じように幻想的であり現実的であったのかもしれない。幻想にしても、現実にしても、美しくもあり、醜くもある。庶民的なグラシア街に「ダイヤモンド広場」というのは奇妙だが、このあたりの土地を買って開発した宝石商が、自分の商売にちなんで命名したからだという。しかし、その名の華やかさと物語の展開=ヒロインとバルセロナの民衆の運命の変転とは巧みにバランスをとっているようにも思われるのである。
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR