久野収 鶴見俊輔『現代日本の思想――その五つの渦――』(4)

8月16日(水)雨が降ったりやんだり

 この書物は「五つの渦」の最初のものとして、<白樺派>の思想(運動)を取り上げている。この思想(集団)は明治の末に『白樺』という雑誌を発行して以来、大正・昭和を通じてそのよりどころとなる雑誌は変わったものの、運動としてのまとまりをもちつづけ、活動を継続してきている。著者(ここでは鶴見)は、<白樺派>の人々が、「宇宙の意志が、人間の幸福を計ってくれるという信仰をもつ」(4ページ)と指摘している。そしてこの派の代表的な人物の1人である志賀直哉の小説『暗夜行路』の一節を引用しながら、「宇宙の意志と自分の意志との調和を、実感によって知る。この実感が認識方法の根本になっている点こそは、日本に土着の観念論としての、白樺派の特色である」(5ページ)と言い切る。
 「宇宙の意志があるという世界観、その宇宙の意志を実感によって感じとるという認識論、宇宙の意志に沿うて事故を生かすことだけを考えればよいのだという倫理、したがっていろいろな宗教の道すじができるので、どれにたいしても敬意と親しみをもつのがよいという寛容な宗教観、それらが白樺派の哲学の背骨である」(8ページ)という。

 では、そのような哲学に基づいて、<白樺派>の人々はどんな仕事をしたのか。著者は<白樺派>について「実りの多い観念論」という特徴づけをした。「観念論といえば、それだけでもう完全に実りなき思想ときめてしまう分類法を訂正することが、この本の一つの眼目だからだ」(8ページ)という。この書物が書かれたころ、そしてそれからだいぶたってからでも観念論(×)、唯物論(○)という単純な二分法を振り回す連中が少なくなかった。私自身もそういう考えに囚われていた時代があったのだが、それから抜け出してしばらく経ってのこと、依然として唯物論(○)と考えていた知人が、川端康成が自殺した際に、「それ見ろ、観念論者は自殺するのだ」とわたしに向かっていったのを覚えている。この発言にどれだけ論理の飛躍が含まれているか(川端康成は哲学的に見て観念論者なのか? 観念論者は自殺するという必然的な理由があるのか? 自殺するのは思想的な破たんの結果なのか? それは道徳的に嫌悪されるべきことなのか?…)をご本人が真剣に考える間もなく、病死してしまったのは彼のために誠に惜しまれることである。

 「白樺派の実りの第一は、お互いの成長を助けるグループをつくることに成功したことである。このことは、近代の日本の歴史にめずらしい」(8ページ)。これは既に繰り返されてきたことであるが、鶴見自身が、『思想の科学』のグループの一員であっただけに、そのグループを持続させようという一念から、<白樺派>に特別に関心を向けたことは容易に推測できる。「このことは、近代の日本の歴史に珍しい。大正、昭和の数多くの同人雑誌のグループは、たがいに傷つけあい、最後は、売り出したものの分派と売り出し得なかった分派とにわれておわるのがつねであった」(8ページ)という。
 理想と向上心とに燃えるグループにおいては厳しい相互批判がかわされることが少なくない。惟は戦後の話になるが、谷沢永一が開高健らと発行していた同人誌『鉛筆』において、合評会は盛んになったが、同人が批判を恐れて萎縮してしまい、創作活動が沈滞して結局休刊(廃刊)のやむなきに至ったと回想し、適当な仲間ぼめの必要性を説いているのは説得力に富む。同人といっても赤の他人である。彼らがその後、参加した同人雑誌『文学室』では議論はほとんどおきなかった代わりに、けっこう創作活動は進んだという。『白樺』の成功は、同人の大部分が学習院という特権的な学校の卒業者であり、恵まれた境遇にあったので、夫々の文学館や生活観をとげとげしくぶつけ合うようなことをしなかったということがあるだろう。環境が似ていることは相互理解のための有利な条件である。
 戦後に発足した『近代文学』の特に第一次の同人など長くその結合を保ち、お互いの成長を助けるグループをつくることに成功した例はないわけではない。彼らの場合には、戦争や左翼運動からの「転向」などをめぐって共有できる経験と感情があったことが大きいのではないか(同人を無原則的に拡大したため異質な分子が入り込んで文学運動としての純粋性が乱れたというその後の経緯もある)。
 海外に目を向ければ、英国のブルームズベリー・グループのような例もある。エドワード・モーガン・フォスターやリットン・ストレーチーらの文学者をはじめ、経済学者のケインズや哲学者のラッセルを含んで、先行するヴィクトリア時代の文化や精神を批判したこのグループの場合は、メンバーがケンブリッジ大学の卒業生であること、先輩である批評家のレスリー・スティーヴンのもとに集まったというような集合の核が合った(スティーヴンの2人の美しい娘、ヴァネッサ・ベルとヴァージニア・ウルフがお目当てで集まっていたという説もある)。<白樺派>のグループが長く続いたのは、経験とそこから生じた勘定の共有、更にそこから生まれたお互いを尊重する気持ちが続いたからであろうが、それがなぜかに踏み込むのは難しいらしく、あまり具体的な考察は展開されていない。

 川端康成の名前を出したが、この本のⅢ「日本のプラグマティズム――生活綴り方運動」には、明治末年の唯美主義者、芸術至上主義者であった鈴木三重吉、永井荷風、木下杢太郎、谷崎潤一郎らが芸術についての潔癖性を保つことで、「ある一線以上に政治に屈服することなく生きた」(81ページ)ことを、川端の属した<新感覚派>を含む昭和の芸術至上主義者と対比させている箇所がある。

 自宅のパソコンの調子が悪く、外の機械を借りて、どうやら入力を完成させている状態である。そろそろ買い替えを考えているのだが、いまひとつきっかけがつかめない。
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司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(3)

8月15日(火)雨が降ったりやんだり

 1971年に司馬さんは韓国を訪れる。大阪で生まれ育ち、子どものころから朝鮮人とその文化(遺産)に接してきたために、韓国(朝鮮)は強い興味を抱き続けた国である。さらに、終戦直前に、戦車隊の小隊長として、この国を鉄道で通過した記憶もある。
 5月15日に伊丹空港を出発して、空路釜山に向かい、そこでガイドの任(イム)さんに迎えられる。彼女は有能な女性であるが、司馬さんが選んだ旅先が異例のものばかりなので、大いに当惑している。近世に対馬藩が築いていたという倭館の痕跡を見るのが目的の一つであったが、壬辰倭乱(秀吉の朝鮮の陣)の際に毛利秀元が築いた城の後(倭城)に案内される。城跡は一時動物園になっていたのだが、今はそれも廃園になっている。釜山の街を歩いていると見覚えのある通りがあり、どうも戦車隊の小隊長だった時に通った道路のようである。方向音痴の司馬さんは他の戦車にはぐれて、通行人に道をききながら目的地に達したために、上官から文句を言われた記憶もよみがえる。

 司馬さんが李舜臣(イ・スンシン)の銅像を見たいというので、任さんは竜頭山(ヨンドウサン)公園へと案内する。李舜臣は壬辰倭乱の際に朝鮮の水軍を率いて日本と戦い、「物理的には八割方の制海権を確立して、全般の戦局に重大な影響を与えた人物である」(52ページ)。「李朝500年の間、韓国官界の大官というのはいわばろくでもない連中が多い。が、武科出身の武臣ながら、李舜臣ばかりはきわだって高雅清潔で、しかも死に至るまでこの民族の大難のために挺身し、さらにその業績をみても文章を読んでもその功を少しも誇るところがない」(同上)。家人は韓流の時代劇が好きでよくお付き合いさせられて見たものであるが、確かに朝鮮時代の官僚というのはろくでもない連中が多かったというのはよくわかる(それに比べると、在野の学者の方にましなのが多いという印象もある)。

 日本人は昔から水戦が不得意で、その代わり陸上に上がると、その強さは明や朝鮮側の手に負えなかった。朝鮮の役における豊臣軍も同様であった。戦争の初めのころ、朝鮮の水軍は実に弱かった。このため、この大難に対処するには李舜臣の出馬を請うしかないと考えた元均という将軍が数度使いを出したが、朝鮮の官界の複雑な事情を知っている李舜臣はなかなか首を縦に振らなかった。しかし、国難ということでついに立ち上がり、艦隊を率いてさまざまに作戦し、玉浦(オクポ)の海戦で藤堂高虎の水軍を覆滅した。
 引き続き釜山付近の唐浦(タンポ)の海戦でも勝利を収めたが、玉浦でも唐浦でも彼は被弾して軽傷を負っている――ということは、自ら先頭に立って指揮したのであろうと司馬さんは推測する。ところが、その後、別に功を賞せられることなく、牢に入れられてしまう。「まことに李朝の官界というのは苛烈で反目嫉視が多く、やることがじつにめめしい。」(54ページ)
 再度の役(日本でいう慶長の役)の時には李舜臣は牢にいた。朝鮮の水軍が瞬くうちに惨敗したために、彼は牢から出されて戦うことになる。明からは陳璘という男が大規模な水軍を率いて応援にやってきていたが、舜臣はこの男と対立せず、「戦功はみなあなたの名前にしますから、指揮は私にゆだねてほしい」と申し入れた。舜臣の力を知っていた陳璘は喜んでこの取引に応じ、自分の明艦隊も李舜臣の指揮下にゆだねた。これによって李舜臣は露梁津(ノリャンジン)の海戦を戦い、大いに日本水軍を破ったが、戦闘中に、銃弾によって左脇を射抜かれ、戦死した。

 「明治後、海軍を創設してまだ自信のなかったころの日本海軍は、東洋が出した唯一の海の名将として李舜臣が存在することに気づき、これを研究し、これを研究し、元来が敵将であった彼を大いに尊敬した。」(55ページ) 司馬さんはその一例として、日本海海戦の際に李舜臣将軍の霊に祈ったという川田功という少佐の文章を引用している。
 むろん、韓国が独立してから、民族的英雄として李舜臣が大きくとりあげられ、ソウルにも釜山にも銅像が建てられた。「帰国してから調べていると、うかつなことにこの竜頭山はなんと対馬藩の倭館の構内だったことを知った。李舜臣の銅像がそびえている場所に、対馬藩が屋敷神としてたてた金比羅宮があったようで、それはむろんいまはないが、金比羅権現もインド渡来の海の守護神であることをおもえば、縁がないことでもない」(56ページ)。

 舜臣の「舜」というのは堯舜と併称される中国古代の伝説的な帝王の治世に生まれて、その家来になりたかったという思いのこもった名前であるというようなことを、亡くなった作家の陳舜臣さんが書かれていた。陳さんが韓国の人と話していると、あなたの名前は我が国の李舜臣と同じですねとよく言われたそうである。(実は私も、中国の人と話していると、中国の偉い人と同じ名前だといわれることがある。漢字文化圏に共通する名前というのもあるのである。)

 むかし、同僚のちゃんぽんさんと(佐世保出身だったので、バーガーさんとでも呼んでおけばいいかなとも思ったのだが、漢字の歴史を研究している人なので、ちゃんぽんさんと呼んでおく)話していて、私が「景徳鎮からの贈りもの」など陳舜臣さんの小説を読んでいると話したら、ぼくは司馬遼太郎の方が好きですねと言われたのを思い出した。陳さんも司馬さんも同じ学校(大阪外事専門学校=現在の大阪大学外国語学部)の出身なのである。その後、私が転勤したので、音信が途絶えてしまったのだが、別の元同僚からの便りで、彼が急死したことを知ったのが数年前の話である。『街道をゆく』を読み進みながら、司馬さんの愛読者だったちゃんぽんさんのことを思い出し、もう少し、仕事とは関係のない読書の話もしておけばよかったなと思いながら、ちゃんぽんさんの冥福を祈っているのである。

ヘーゲル『歴史哲学講義』

8月13日(日)曇り

 19世紀ドイツの哲学者であるG.W.F.ヘーゲルの『歴史哲学講義』(Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte)の長谷川博さんによる翻訳(岩波文庫)を手掛かりに歴史について考えていることを書き連ねていこうと思う。ヘーゲルの歴史観はいかにも観念論哲学者らしく、理性が世界史を支配し続け、自由を実現していく過程であるというものである。私はそんなことを信じてはいないが、自分で勝手に歴史について書き散らすよりも、体系としてまとめられた歴史論を論評するという形で議論を進めたほうが自分の考えをまとめやすいと思い、あえてこの本に取り組んでみる次第である。それにこの本は、ヘーゲルが大学で学生を相手に講義した内容をまとめたものなので、わかりやすく書かれており、さらに翻訳者もこのことを理解してかなりわかりやすい日本語に移し替えている。

序論
 序論は歴史的についてのヘーゲルのとらえ方と、これから展開される内容の予告を述べている部分であり、A「歴史のとらえ方」、B「歴史における理性とはなにか」、C「世界史のあゆみ」、D「世界史の地理的基礎」、E「世界史の時代区分」という5つの分から構成されている。

A 歴史のとらえかた
 初めに講義の狙いが、哲学的な世界史、つまり世界史そのものを対象とする哲学であるとかたられる。哲学的な世界史のとらえかたとはどういうものかを知るためには、そうではない世界史との比較対象が必要だというところから議論が始まる。
 歴史の見方には一般に以下の3種類の方法があるという。
 (a) 事実そのままの歴史
 (b) 反省を加えた歴史
 (c) 哲学的な歴史

(a) 事実そのままの歴史
 <事実そのままの歴史>というのは、記者が、「自分たちが目のあたりにし、自分たちがその同じ精神を共有できる行為や事件や時代状況を記述し、もって外界の事実を精神の王国へとうつしかえた」(11ページ)歴史であるという。ご本人はわかっているつもりなのかもしれないが、どうもわかりにくい。これを「歴史的記録」たとえば、日記や手記のようなものと考えればわかりやすく、ヘーゲルがそう考えている節も見受けられるが、そうでもないようなことも書いていて、はっきりしない。

 このような歴史の例として、ヘーゲルはヘロドトスや、トゥキュディデスの例を挙げているのだが、彼らの歴史はむしろ、ヘーゲルの分類でいう「反省を加えた歴史」に属するのではないか。ヘロドトスはその『歴史』の初めのところで、ペルシャ戦争がなぜ起きたかの原因を調べたのがこの書物であるというようなことを書いている。ただ、彼が自分で旅行して調べた部分については歴史的な事実と考えて差し支えないが、旅行中に伝聞した伝承や説話には信頼のおけないものが少なからずあるというのが一般的な評価である。そういうことも考えると、ヘーゲルがヘロドトスの歴史を<事実そのままの歴史>に分類したのは、かなり乱暴に思われる。
 次にトゥキュディデスの場合であるが、彼はアテナイとスパルタの間のペロポネソス戦争が起きた時に、これは重大な事件で、恒星また同じようなことが起きた場合に(歴史は繰り返す)、参考になるようにとその詳しい記録を残そうとした。同時代の記録という意味では、確かにヘーゲルの言うような<事実そのままの歴史>といえるのかもしれないが、後世の参考になるようにという姿勢はむしろ、<反省を加えた歴史>の方に属するのではないか。

 トゥキュディデスについて考える時に、凄いなぁと思ってしまうのは、彼がペロポネソス戦争が重大な出来事だと認識したことである。彼の同時代に大勢の人々がいて、戦争の時代を過ごしていたのだけれども、その記録を残そうとした人はほかにどれだけいたのだろうか。私自身の人生をふりかえっていると、いちばん大きな出来事というのは、おそらく、高等教育の大衆化(さらにはユニバーサル化)ということで、自分自身がその間、一時は学生として、また大学・短大の教師としてそれにかかわっていたのだけれども、事態を一向に重大なものだと考えてこなかったように思う。それが重大なことだと思うようになったのはごく最近のことである。

 それから、もう一つ考えていいのは、日本における歴史記述の推移を辿ってみると、<六国史>があり、その後、貴族や寺社の「日記」が一方で、もう一方で「鏡物」などの歴史物語が現われている。正史の方が先に来て、私的な記述の方が後から発生しているというのは、どういうことか考えてみる必要がありそうである。

 以上、書いてきたことから、ヘーゲルの議論は歴史を門外漢の目で見ている議論で、ヨーロッパ中心に偏った見方をしており、具体性を欠く部分も少なくないのだが、それでも歴史とは何かを考える上での手掛かりとしてはなかなか役に立つものであることがわかると思う。これから、ゆっくり、のんびりと彼の議論を辿っていくつもりなので、お付き合いのほどをよろしくお願いしたい。

 このブログを始めてから、読者の皆さんからいただいた拍手が25,000を越えました。お礼申し上げるとともに、今後ともご愛読のほどをよろしくお願いします。

司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(2)

8月7日(火)晴れ、台風は日本海岸の方を北上中とのことである。被害が出ないことを願う。

 1971年5月15日、司馬さんは伊丹を発って、空路、釜山に到着した。大阪育ちの司馬さんは、子どものころから韓国の人々やその文化遺産に触れてきたので、日本文化との共通性や異質性を考えながら、この国と文化についての関心を深めてきた。そして、両国の交流や対立の歴史の痕跡を訪ねるべく韓国を訪問したのである。

 釜山空港で入国手続きを済ませた司馬さんは、ガイドの任(イム)さんに迎えられる。彼女は少し前に、日本の実業界の要人たちの韓国旅行のガイドを務め、彼女の人柄に感動した彼らが東京に彼女を招待するという経験をしたばかりのところである。司馬さんが考えた旅行先は「あまり人のゆかない農村ばかり」(29ページ)ばかりだったので、旅行会社の社員が普通のガイドでは無理だと判断して彼女に依頼することになったようである。しかし、そのイムさんも、日程を知った時には驚いて、逃げ出そうかと思ったという。上品で底抜けに明るい性格の持ち主である彼女は、上海の日本租界の日本人女学校を卒業し、結婚後、少し遅れてソウルの名門梨花女子大学の英文科に入学した経歴の持ち主である。朝鮮動乱の時はまだ学生だったのだが、家族とともに釜山に逃れてきたが、その途中、北方軍の人の殺し方を何度も見て、その残忍さが今でも心に残っているという。

 宿舎に荷物を置いて、2人は韓国でいう壬辰倭乱(イムジンウエラン、秀吉の朝鮮の陣)のときに、朝鮮の勇将鄭撥(チョンバル)将軍が優先むなしく戦死した城跡を訪問し、さらに坂を上って、日本風の石垣が残っているところに出る。イムさんの説明ではここは倭城(ウェソン)といって、秀吉の派遣した毛利勢がここに城を築いたという。「なるほどそう言われてみると、本丸、二の丸、出丸などの跡らしい地形をなしている」(34ページ)。この本丸跡に、動物園が出来ていたが、それも廃止になってしまった。司馬さんはここで、50人ばかりの子どもたちに取り囲まれていた。彼らはここが倭城の跡であることは知らず、動物園の跡であることだけを知っている。
 「慶長の再役の時の毛利軍の大将は輝元の養子で安芸宰相と呼ばれた秀元であったが、秀吉の命令とはいえ、無名の師に従軍し、他人の国に攻めこみ、この海岸の山に大汗かいて大きな城を築き、結局は撤退し、その後が今は城跡というよりも「動物園」の呼び名で通っているというのは、何となくおかしくもあり、空しくもあり、ひるがえって考えれば、倭兵の居住跡が動物園などとは変なユーモアのようにも思える。」(35ページ)
 司馬さんは本当は、対馬藩(宗氏)が釜山に設けた倭館の跡を訪問したかったのだが、どうもうまく通じなかったが、それはそれでいいと考える。「それに対馬藩の倭館というのは釜山駅の近所だともきいたが、いずれにしてもあとかたもなく消えているもので、今は繁華な市街になっているのである。」(36ページ)

 それから司馬さんは対馬藩(宗氏)が日韓両国の板挟みになって苦労した歴史を振り返る。さらに近世から近代にかけての日韓中の国際関係についても触れる。旅行中でもそうした歴史的な知識の整理は続いているのである。文明開化の日本から洋服を着てやってきた人々を見て「…その形を変じ、俗を易(か)えたり・・・これすなわち、日本人と謂うべからず」(46ページ)と論難する。司馬さんが訪問したころの釜山の人々は、その多くが伝統的な服装をしていたという。「偉とすべきであろう」(47ページ)と司馬さんが敬意を払っているのも興味深い。(これは40年以上も昔の話で、今はそんなことはないはずである。私も10年ほど前にソウルを訪問したが、たいていの人が洋服を着ていたという記憶がある。)

 釜山の通りを歩いていて、司馬さんは戦争中の記憶がよみがえってきたように感じる。戦車隊の小隊長であった司馬さんは4両の中戦車とともに釜山駅を出発し、日本軍の演習用の廠舎に向かった。他の小隊の後をついていけばいいはずなのだが、貨車から戦車を下すのに手間取って他の小隊はみな出発してしまってから出かけることになった。ひどい方角オンチである司馬さんはどこをどうやって行けばいいのかわからず、仕方なく、時々車を止めて飛び降りては、道をゆく韓服の老若男女に、道をきいたりした。それで奇跡的に目的地に到達したのだが、「どうもあいつは防諜ということを知らん」と上官から苦情が出たらしい。

 「防諜もくそもないもので、この当時日本軍部そのものが暗号をアメリカに全部読み取られてしまっていて、しかも知らずに太平楽に戦争をしていたくせに、最末端のチンピラが道をきいたぐらいで叱ることもない」(50ページ)と司馬さんは、日本軍部の不合理性をここでも批判している。「当時の英軍幕僚のあいだで、「日本軍の中で一番馬鹿が参謀で、いちばん利口なのは現場現場の下士官ではなかろうか」という話が出たらしいが、真実をうがっているかもしれない」(同上)との意見も付け加えている。

 さらに下級士官以下に対しては、「すべての兵士はのろまで臆病だという前提から」(51ページ)、できるだけ兵士の安全を確保した装備を与え、丁寧にわかりやすく指示を出して、諸君の命は安全であるといい続けたアメリカ陸軍と、一兵に至るまでことごとく名人に仕立て上げようとした日本陸軍との違いを論じているのは、戦争体験のある人ならではの議論である。(司馬さんが学徒上がりの下級士官だったことも忘れてはならない。) 

 「韓(から)のくに紀行」という触れ込みで、むかしむかしの加羅、新羅、百済の旧跡を見て回るのかと思うと、近世から近代にかけての日韓の平和な時代と戦争の時代の交流史が前面に出てきている。司馬さんが戦車から降りて道をきくと、韓国の人々はみな親切に道を教えてくれたというところに何となくほのぼのとしたものが感じられるのだが、もちろん、戦争も戦車もないほうがいいのであって、平和な交流にはどのような可能性があるのかを考える方がいいわけである。

片平孝『サハラ砂漠 塩の道をゆく』(4)

8月2日(水)曇り

 2003年12月にパリ、マリ共和国の首都バマコからかつての”黄金の都”トンブクトゥに到着した著者は、12月8日、地元のガイドであるアブドラを通訳兼コック、アジィをラクダ使いとして、3頭のラクダとともに砂漠の旅に出発する。目指すは16世紀末から岩塩の産地として採掘がおこなわれているタウデニ鉱山である。途中で岩塩を運ぶキャラバンであるアザライと合流し、タウデニ鉱山との往復の記録を残そうというのである。
 砂漠の旅の途中で、アジィの知り合いのムスターファが率いるアザライに出会い、交渉の末合流することができる。このアザライに加わっているムスターファ、モハメッド、ラミィ、イブラヒムはみな親戚縁者で、それぞれラクダを借り集め、合計して52頭のラクダからなるキャラバンを構成している。
 トンブクトゥを発って19日目にタウデニ鉱山に到着すると、岩塩の採掘や掘り出した原石を「バー」と呼ばれる塩の板に加工する作業を見る。5月から10月までの炎暑の期間に、他の人々がトンブクトゥに引き上げた後も1人だけこの地にとどまって、10年間を過ごしてきたというアルバという男に出会い、彼の「巌窟王」のような優しさに感動する。
 ムスターファの一行の岩塩の調達が手間取り、2日の滞在予定を4日に引き伸ばして、ようやくトンブクトゥへの帰りの旅を始めることができた。イブラヒムがタウデニに残って働くことになり、代わりにアルファという男が加わる。ラクダに塩を積んでの帰り道は、人間にとっても、ラクダにとってもつらい道のりである。寒暖の差が激しい砂漠の旅の中で著者は体力を消耗し、栄養失調で普段なら気づくことのない尻の骨が飛び出しているのに気づくほどやせ細ってしまった。

 トゥアレグ族(黒人)のアブドラとベラビッシュ族(アラブ系)のアジィは本来ならばいっしょに仕事をしないはずの関係であるが、これまでの経緯や、アブドラが優柔不断で気が弱いために、何とか折り合って旅を続けることができた。アジィがムスターファのアザライに様々な気遣いを重ねてきたことも効果的であった。

 一行はこの砂漠の旅の中での最大のオアシスであるアラワンに戻ってくる。往路で見送ってくれた男たちが、大分痩せましたねと驚きながらも、口々に声をかけてくる。ラクダに思う存分水を飲ませて、昼食抜きで出発。
 大きな砂丘を越えると、サバンナの景観に変わる。目的地が近づいて油断したのか、疲労のためか、著者は右手の親指を骨折してしまう。歩くことに支障がないのが不幸中の幸いである。
 アカシアの木が見えるようになり、ムスターファたちのアザライの本拠地に到着する。ラミィが15頭のラクダを連れて南西の方角に離れていった。次にモハメッドとアルファが18頭のラクダを連れて家路についた。残ったのは著者たちとムスターファ、26頭のキャラバンになった。ムスターファも自分の家に戻るが、別れのあいさつを兼ねて彼の家族の写真を撮らせてもらうことにする。ムスターファに応分の礼金を払って、彼がトンブクトゥの<塩の家>に塩の板を運ぶところを撮影させてもらうことになる。

 37日目、トンブクトゥに向けて出発。出迎えるのは派手だけれども、見送るのはそっと。それがサハラの流儀である。アジィの家族のテントの近くで野営。ところが豪雨に出会い、岩塩が影響を受ける。岩塩が乾くのを待つために、行程が遅れる。ムスターファと一緒に塩を運ぶつもりでいたラミィが事情を知って追いついてくるが、彼も4分の1のバーを割るなど被害を受けていた。
 奇蹟的に岩塩は1枚も割れず、40日目にムスターファは出発する。トンブクトゥが近づくにつれてメッカに向かって祈る祈り方が変わってくる。
 
 42日目、最後の行進。マリ第2の街もプティに飛び立つ、飛行機のエンジン音が聞こえる。翌日、同じ飛行機に著者が乗ることになるのだが、まだ実感がわかない。トンブクトゥの町が近づき、昼近く、町の入口に到達した。「ムスターファが14頭のラクダを引き連れて、西の通りから町に入る。アジィはラクダと直進して自分の家に向かった。」(216ページ) 著者とアブドラはムスターファについていく。「通りを10分近く行くと、左側の角に日干し煉瓦の雑貨屋があった。/出迎えたソンガイ族の中年の男がムスターファと挨拶を交わした。彼が店の主だった。彼が出てこなかったら、この雑貨屋が「塩の家」だとは気づかない。挨拶もそこそこに、若い男を手伝わせて店先にバーを下した。すぐそばのトタンを張ったせまい扉の奥が塩の保管場所だ。」(216-217ページ) こうして著者は「塩の家」を写真に収め、取引の様子を目撃することができた。

 迎えに来たアジィの家で荷物をまとめ、ホテルで一泊、翌日、モプティに飛ぶことが決まった。モプティは塩の集散地なのである。そこで著者は約3000円でバーを1枚買う。大きすぎて運べないので3分の2にカットして日本に持ち帰り、現在は「たばこと塩の博物館」に展示されているそうである(この博物館は昔、渋谷にあったころに出かけたことがあるが、現在は墨田区にあるという)。
 骨と皮になった体は1か月で元に戻り、33年抱いていた夢を成し遂げたというのにご本人以外の人はあまり興味を示さなかった。次の旅は、アザライの一員になって、タウデニから塩を運ぼうと思ったのだが、マリの治安は再び悪化、武装闘争が起きていて、自由に旅行できない状態が続いている。

 砂漠の中、岩塩を運ぶキャラバンは8世紀ごろからずっと続いてきたというが、マリでもより安価に海の塩が手に入る時代を迎えようとしていると著者は言う。人々の暮らしは楽になるかもしれないが、歴史的に積み重ねられてきた砂漠の中の旅の知恵がこれで失われるかもしれない。現実に、著者たちは砂漠を車で走り回っている欧米人たちの姿を何度も見ているのである。
 前回も書いたが、日付など、旅の詳細がはっきりしない部分がある。さまざまな撮影器具を身につけて移動していた著者はアブドラから「アルカイダだ」といわれて笑われたそうであるが、過酷な条件や危険のために、落ち着いて記録が整理できない部分があったのかもしれない。砂漠の中で塩を運ぶ人々が作り上げてきた文化や歴史についても触れられているが、それ以上に、人々の心情に分け入って旅の記録をまとめている点を評価すべきであろう。つねに盗賊や反乱分子からの攻撃の危険にさらされ、部族間の反目も絶えず、不安が絶えない中で暮らしている彼らであるが、家族や仲間、旅人にやさしい配慮を忘れない側面もある。そういう砂漠に生きる人々の生活の内側に入って、ごく一部であるかもしれないが、その心情をさぐりだした書物として、この書物は意義があると思う。
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