嵐山光三郎『猫のほそ道 ノラ猫俳句旅』

9月24日(日)晴れのち曇り

 「とつぜん姿を消してしまうノラ猫がいる。
  そういう猫は、じつは俳句の旅に出かけているのです。」
(8ページ)と、この物語は書きだされている。

 15歳になる雌猫のノラはむかしむかし飼い猫だったころに、飼い主が引っ越し、自分の生んだ3匹の子猫と離れ離れになってしまった。そこで、もといた家に戻ってきたが、子猫と会うことはできず、近所の人の人気猫になって、ノラの暮らしを続けてきた。飼っていたウサギを殺したことで怒りを買ったアラシさんの怒りが静まったのを見計らって、その家の縁の下を住処にして、トカゲなどを食べてのらりくらりと暮らすうちに、アラシさんが根負けしてサバの水煮缶をくれるようになった。そして、そのうちアラシさんの家に入り込むようになり、アラシさんもキャットフードを買ってくるようになった。

 アラシさんの隣にはアサオさんというイラストレーターの女性が住んでいて、彼女の家にはトーちゃんという家猫がいる。ある日、トーちゃんを連れ出したノラは、トーちゃんが
 ぴかぴかのトカゲ穴からでてきたね
という俳句を詠んだことから、俳句をめぐって意気投合、猫俳句という分野を開拓しようということになる。そして花見に出かけ、花見客から焼き鳥をもらったりして浮かれた気分になる。

 その後、猫句誌『猫じゃらし』の猫たちとの出会い、トーちゃんのけがという出来事があり、ノラは旅に出たくなる。『猫じゃらし』の一員であったシャムノラ猫のボイシーがけがをしたのを助ける。『猫じゃらし』を主宰していたトラ茶が死んだ後、跡目争いに敗れて追い出されたのだという。ボイシーが『猫じゃらし』に加わる前にお世話になっていたというトラック食堂に出かけてごちそうになるうち、『猫じゃらし』に対抗して、新風俳句の旗を掲げる『ねこやなぎ』の同猫たちに出会う。トーちゃん、ぼいしー、ノラはこの猫たちと句合わせを行い、「わが町の銀河は悲し子はいずこ」というノラの句が評価されて、ノラたちの勝ちになる。

 もともとマツシマで生まれたボイシーはマツシマに戻る旅に出たいと思い、ノラを誘う。朝雄さんの家に戻りたいというトーちゃんを送り届けたのらは、まだ旅に出ようかどうしようかと迷っていたのだが、『ねこやなぎ』の面々が送別句会を開いたりしたので、出かけざるをえなくなり、タローさんの運転する長距離トラックに乗って、マツシマに向かう。マツシマで、二匹はタローさんの姉リエ子さんが住職未亡人として住んでいる貴紀寺(ききでら)に身を寄せることになる。霊感商法を営んでいるリエ子さんとともにノラとボイシーは平泉や山寺を旅したりする…。

 童話風のとつとつと優しい語り口で物語は展開される。さまざまな猫俳句を織り込み、ダジャレたっぷりだが、離れ離れになった我が子を探す母猫の旅という筋立てに加え、何匹かの猫との別れも記されている。我が子とどのような形で対面するかは読んでのお楽しみだが、荒唐無稽で、かなり意外な出会いが待ち受けている。物語全体に、愛別離苦の経験を経て老境に達した著者ならではの、猫に対する思いが詰まっている。人間同士だけでなく、人間と猫の間にも愛別離苦があるのである。

 ネコの寿命は人間に比べて短いけれども、年をとってくると、自分よりもネコの方が長生きするのではないかと思われて、猫を飼うのを躊躇するようになる。ネコ好きだった母は、飼い猫や餌をもらいにやってくるノラ猫との別れを何回か経験したのであるが、年をとってからはネコを飼うことに反対するようになった。私も年をとって、その気持ちがなんとなくわかってきたような気がする。

 ネコが時々寄り合いのような集会を開くことは知られてきた。集まっているなんとなく真面目くさったネコの表情を見ていると、句会をやっているのではないかという嵐山さんの想像もなるほどと思われる。むかし、2度建て替える前の我が家の縁の下には雌猫が住んでいて、その猫を目当てにほかの猫がやってきて、にぎやかだったことを思い出す。夜になるとトタン屋根の上を何匹ものネコが歩いて、何事かと思ったりしたものである。あれは、嵐山流に言えば、句会の吟行であったのかもしれない。最後に、この物語に出てくる中で、いちばん印象に残った句を一つ紹介する。

 離れてもひとつの年を惜しみゆく  トーちゃん
もちろん、嵐山さんがつくった句であろう。浅尾ハルミンによるイラストもほのぼのと楽しい雰囲気を醸し出している。
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木田元『哲学散歩』

9月10日(日)晴れ

 9月8日、木田元『哲学散歩』(文春文庫)を読む。奥付によるとこの書物の発行日は9月10日であり、それ以前にこの本を読んでしまったということになる。奥付に記される発行日以前に本が店頭に並び、読まれているというのは当たり前になってしまっていることではあるが、なんとなくおかしい。もっとも、発行日の日付でこの本を取り上げたのは成り行きであって、特に深い意図があるわけではない。

 哲学者が哲学とはどういうものかという説明の仕方はいろいろある。それに対して、哲学者以外の人々が哲学はこういうものだと理解している中身もいろいろある。哲学者の描き出す理想の人間は<自由な>人間だという人もいるだろうし、<幸福な>人間だという人もいるだろうし、その他の考えもある。ただ、いろいろあるということを微苦笑とともに認めるということが大事で、こういうものでなければならないと決めつけることが一番よくない。

 この書物は、著者(木田元 1928‐2014)の最晩年の著作であり、療養生活の気晴らしにと気軽に書いた、ご本人の言葉を借りれば、[たまには言葉の森に分け入って、『哲学』と呼ばれてきた散歩道にまぎれこみ、往年の哲人たちの面影を偲んでみるのも一興」(4ページ)ではないかと書き進めたもので、ギリシア以来の哲学者の逸話集といっていい内容である。様々な逸話の中から、哲学者たちの人間像と、彼らの思索の具体的なありようが浮かび上がる。物語的な哲学史の本として、楽しんで読む人もいるだろうし、哲学者たちの取り上げ方から著者の興味のあり方を探り当てて研究のヒントを得る人もいるだろう。

 第1回は「エジプトを旅するプラトン」と題されたエッセーで、プラトンの<イデア>論が、「自然」をその主な関心の対象としてきたギリシアの思想とはかなり異質なものであり、ピュタゴラス教団の影響に加えて、彼がエジプトに旅行するなどした遍歴の中で、ユダヤ思想と接触したことによって形成されたのではないかと論じている。そしてプラトンの思想とキリスト教とのなじみやすさについても論じている。

 これだけでも刺激的な議論には違いないのだが、私はギリシアの本来の思想について論じた次の箇所が気になった。
「万物を「葦牙(あしかび)の如(ごと)萌え騰(あが)る物に因りて成る」とみて、その生成の原理を、神名にも表われる『ムスヒ(草ムス・苔ムス+霊力(ヒ))」と呼んでいた、『古事記』の最古層に残る古代日本人の自然観にも似た、すべてのものを生きて「なる」ものと見る有機体論的な自然観を、古代のギリシア人もいだいていたのであろう。」(11ページ)
 この箇所は、本居宣長の『玉くしげ』の「此天地も諸神も萬物も、皆ことごとく其本は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)神皇産霊神(かみむすびのかみ)と申す二神の産霊(むすび)のみたまと申す物によりて、成出来たるものにして、世々に人類の生れ出、萬物萬事の成出るも、みな此御霊にあらずといふことなし」(岩波文庫版、13-14ページ)という個所を思い出させる。たぶん木田さんは本居宣長も読んでいたに違いないと思うのである。そして、この考えが本当に日本人の考えの「最古層」をなすものかということも、考えてみていい問題ではないかと思う。

 私は、<イデア>の世界よりも<自然>のほうに興味があり、プラトンは長い間敬遠してきたのだが、最近、プラトンの著作を読むようになってきているのはご案内の通り。このエッセーを読んで、さらに、プラトンを読みたくなったことを付け加えておこう。(第2回以降の紹介と論評は、またの機会に。) 

司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(4)

9月8日(金)晴れたり曇ったり

 前回(司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(3))が8月15日付だったから20日以上間隔をあけてしまった。1971年に『週刊朝日』の連載エッセーの取材のために、司馬さんは韓国へと旅立つ。大阪で育った司馬さんは子どものころから朝鮮人とその文化を見聞してきたし、古代から現代にいたる日本と朝鮮との交流の歴史にも関心がある。さらに戦争中は戦車小隊の隊長として釜山の街をうろうろした経験もある。釜山の街には一種の既視感があるらしい。竜頭山の李舜臣の銅像を見て、実はこの地が対馬藩の倭館の構内であったことを旅行後に知ったりする。

 加羅の旅(正確にいえば、昔加羅と呼ばれていた地方の旅)は続く。任那ではなくて、加羅と書いているところに、司馬さんの朝鮮史(韓国史)についての知識の厚みを読み取るべきであろう。1970年代になっても「朝鮮語というのは、中国語ですか」と質問されることがあったという。ラジオ・テレビのハングル講座が始まったのが1970年代の半ば辺りであったと記憶するが、両者が別の系統に属する言語であることがこのため広く知られるようになった(はずである)。司馬さんは大阪外事専門学校で蒙古語を勉強したという経歴の持ち主であるから、このような問いに対してはかなり饒舌に答えることになる。

 「むろん朝鮮語は中国語の一派ではない。大ざっぱな分類法としてウラル・アルタイ語族というシメククリ方法があるが、その仲間の本家がモンゴル語であるとすれば、その姉妹関係にあるのがいまは滅びたも同然の固有満州語であり、その固有満州語の縁族が朝鮮語であり、日本語も文法の上ではその仲間に入る。ネコガ、ヤネノウエヲアルイテイマスという語順に朝鮮語もなる。要するに日本語と同様、動詞が最後に来て、テニヲハ(助詞)がある。さらにいえば、人種も漢民族ではない。」(57ページ)
 現在の言語学研究では、ウラル・アルタイ語族という考え方はかなり疑わしいとされている。朝鮮語と日本語(ついでに言うと、アイヌ語とニヴフ語)は言語系統的には孤立語であるという意見の方が一般的である。

 しかし、朝鮮(韓国)では金とか宋とか張とか中国と同じ姓名を付けているではないかと反論する向きもある。「朝鮮人のヤヤコシサはそういうところにもある」(58ページ)と司馬さんは多少の譲歩をする。いつごろから、こうなったのかについてはどうもよくわからない。〔それをいうと、日本では昔「…子」というのは男性の名前だった(例えば小野妹子)のが、奈良時代ごろから女性の名前になった。いつ、いかなる理由でこの転換が起きたのかという説明を聞いたことがない。誰かご存知ならば教えてください。]

 東莱(トンネ、釜山広域市の一部)で一泊。金海(キムヘ)に向かう。韓国人のガイドであるイムさんは不思議がる。観光客が誰一人としていこうとしないような大田舎であるというのである。なぜ、出かけるかといえば、古代の日本との結びつきが強かった土地であるということである。
 「朝鮮の上代史は系譜的にのべることはむずかしい」(61ページ)と司馬さんは語り起こす。「古代」ではなく、「上代」という言い方をしているのが特徴的である。「四捨五入してごく図式的にいえば、初めに三韓(サムハン)(馬韓(マハン)、辰韓(チンハン)、弁韓(ピョンハン))時代があり、次いで三国(高句麗(コグリョ)、百済、新羅)時代が来て、やがて新羅が統一をするということがいえる」(同上)と、本当にごく簡単にまとめる。
 三国のうち、高句麗は北の方にあり、民族的にも違っていたとされているが、南の新羅と百済は韓族の国であった。その新羅と百済に挟まれて加羅という小さな国があった。〔もともと三韓時代の馬韓、弁韓、辰韓はそれぞれ小さな国の集合体であったが、馬韓が百済、辰韓が新羅によって統一された。弁韓(弁辰とも)は統一されずに小国の集合体として残ったのであるが、司馬さんは加羅という国に統一されたと理解している。〕 加羅にはいくつもの別名があったと記されているが、そうではなくて、それぞれがこの地方に存在していた極小国の名前であったと理解する方が一般的な受け取り方である。
 ただ、このあたりの経緯についての司馬さんの書き方は、慎み深く謙虚であり、「学問の世界での席があたえられていないのは、おもしろすぎるからである」(65ページ)と自説に不備があるかもしれないことをきちんと記している。
 金海の穀倉地帯を走りながら、司馬さんは神話・伝説の世界に思いをはせる。かと思うと任さんと、目の前に広がる水郷の風景を見て、湖か入江かと議論する(オチは、司馬さん自身がつけている)。司馬さんが風景よりも、人間の方に興味を抱く人であったことが察せられる。風景から読み取るべきことも多いのではないかとその点が少し残念である。
 
 一行を乗せた自動車がまだ金海を走っているのに、「加羅の旅」は終わってしまい、「新羅の旅」が始まる。それだけでなく、読者にとってのいくつかの驚きが待ち受けている。それはまた次回のお楽しみに。

 一つ、気になったことを書き留めておくと、加羅=駕洛を朝鮮音で読むとKalakになり、日本語では子音が落ちて、カラと発音されるようになったと記されている。その一方で、「ラク」と聞きとった人々もいたのではないか。日本の地名には京都の相楽郡とか、群馬の甘楽郡とか、「ラク」あるいは「ラ」で終わるものがあることについて柳田国男が注意を促していたことが想起される。実は、横浜市の一部を構成している旧「久良岐郡」の「クラキ」というのもこれと関係がないかと考えているのである(このあたりの海にクラゲが多いからだという説もあって、これはこれで奇妙に実感をもって納得させられるところがあるのだが…)。

 40年以上昔に書かれた文章だけに、その後の研究や、社会の変化によって修正を余儀なくされる部分が少なくないが、司馬さんが取り上げている問題自体は、依然としてその意味を失っていない例が少なくない。
 

金子光晴『マレーの感傷 金子光晴初期紀行拾遺』

9月3日(日)曇りのち晴れ

 8月31日、金子光晴『マレーの感傷 金子光晴初期紀行拾遺』(中公文庫)を読み終える。金子光晴(1895-1975)が1928年(昭和3)から1932年(昭和7)まで足掛け5年にわたり、妻の森三千代(1901-77)と一緒になったり、離れたりしながら中国、フランス(主としてパリ)、ベルギー、シンガポールとマレー半島、オランダ領東インド(今のインドネシア)を放浪した際に記していたノートを中心に、雑誌等に掲載された全集未収録のエッセイを加えてまとめられた書物である。
 
 金子光晴の伝記を見ていて気づくのは、彼が早稲田大学、東京美術学校、そして慶應義塾大学と3つの大学を中退していることである。さらに、森三千代は東京女子高等師範学校を中退しているから、夫婦で4つの学校を中退したことになる。そこから感じとれるのは、この夫婦が2人ともに一定の枠にはまらない、型破りでスケールの大きい人間であったということである。
 「奔馳、放浪、……そして反逆のための反逆、アジアからヨーロッパに、さらにどこへ放されてゆくのかあてどもない私の現在とのあいだの生きかたのちがいはまたどうであろう。」(71-2ページ) 

 この本の「解説」で鈴村一成さんは「光晴の紀行文には、あらかじめ物語への種子が仕込まれている」(202ページ)と書いている。「言葉は綾」という詩人の言語観により構築された虚構の世界があり、それが妻の三千代という実在の女性との関係を通じて、「実人生の深い味わい」(同上)を加えることになったのだという。興味のある方には、この「解説」や関連する書物を読んでいただきたいのだが、光晴と三千代の関係は一筋縄でいくものではなかった。と、同時に三千代が『金色の伝説』(中公文庫)というベトナム民話集を著して、東南アジアへの興味を示しているように、この2人には重なる世界もあったことも否定できない。

 放浪がその後の創作活動の材料となっているのはたしかであるが、放浪の中での出会い自体にも意味のあるものが少なくない。例えば、上海滞在中に彼は本間久雄、国木田虎雄(1902-1970)とともに、魯迅および郁達夫と会ったと記している。
 「現代の支那の文学者は、おおむね日本語を通じての他の先進国の模倣に終始しているといってもいい。日本の文壇ほど品質下等なものはない。といえば「それでも日本には文壇があるが、支那にはまだありません」と。」(27ページ)
 郁達夫が問う。
「「日本では今、マルセル・プルーストは多く、読まれているのですか?」
「どうですか。二三の専門語学者は知らずまだ、決して一般にわかられてはいますまい。」
「でも、ポール・モーランは盛んなんでしょう?」
 車のうちでのそんな会話によって、私は、この若い支那の文学者(郁。)の、識らんとする、極めんとする盛んな情熱に膚触れることができたように思った。そしてモーランから直ちにプルーストへさかのぼる体系的な観照態度に較べて、いつもながら我文壇のゆきあたりばったりの流行中心主義をはじる。」(27-28ページ)
 郁達夫の新しい文学に触れよう、それを摂取しようという意欲が感じとれる一方で、それをきちんと評価している金子の方も相手をよく見ていることが分かる。
 一方、先に分れた魯迅について、「どこか、魯迅の風貌は、室生犀星に似ているところがある。彼は支那文壇最初の口語党で、進歩的な頭脳の所有者である。」(32ページ) 魯迅が室生犀星に似ているという観察がきわめて興味深い。魯迅には「故郷」という(日本と中国の)教科書に載るような名作があり、犀星には「故郷は、遠きにありて思うもの」という詩がある。
 もちろん、古い中国への関心を抱き続ける人々が多い日本と、新しい日本への関心を抱き続けている中国の認識のずれも的確に指摘されている。
 そういえば、浙江湖畔にある「雷峰塔」とその倒壊についてのエッセイも書かれているが、同じ主題をめぐって魯迅もエッセイを書いている。これまた対比してみると面白そうである。
(国木田虎雄は国木田独歩の長男で、詩人、映画作家として活躍した。)

 パリ、ベルギーではベルギーの根付収集家であるルパージュという人物の世話になる。画家のなりそこないと、美術収集家の交流である。「私と氏との会話は、徹頭徹尾、西洋と日本との比較(コンパレーゾン)につきている」(78ページ)という生活の中、それを通じて「私は、西洋をしることができたかもしれない。現在の西洋を切り離してではなく、歴史からうけついできた感情の深い源泉を‥…。」(同上) その一方でヨーロッパの風景の一端を見る:「斑ら雪ののこる午後ばれの森の木立は、千条の香煙、無数の香檀を焚くように、崩れずのぼっているようである。」(80ページ) 「樹の脂のにおいのあいだから山峡をみはらすようなそば道を下り、坊主柳の湿地に下り、さらに、レールを一つくぐると、ビールセルの古城が漣のなかに、赤い紙の円筒を三つ四つ並べてのせたように、しずかに浮いている。」(88ページ) 絵に描けないものが、美しい言葉で再現されている。詩人としての修業が積まれてゆく。

 ヨーロッパからすぐに日本を目指すのではなく、東南アジアで記者として働いてからにしようというのが金子流かもしれない。彼はさらにマレー半島を放浪し、オランダ領東インド(蘭印、現在のインドネシア)にたどり着く。マジャパイト王朝の歴史や、ボロブドールの遺跡、影絵芝居であるワヤンについて触れているなど、ただの放浪者の域を超えた知識を披露している。インドネシアにおける女性解放をめざしたラーデン・カルチニーについても取り上げているのだから放浪者というよりも、フィールド・ワーカーといった方がいいのかもしれない。そしてそれは「ジャバ人は、光栄ある過去の歴史をもった立派な民族である」(170ページ)が、ヨーロッパの民族の侵略のためにその息の根を止められているのであるというような現地の人々への同情に満ちた洞察と結びつくのである(もっとも、だから、彼らのために米英と戦ってアジアに新しい秩序を作り出そう・・・という議論につながる恐れがないわけではない)。
 ワヤンの研究家として知られる松本亮さんは金子光晴の弟子である。ある時、インドネシア大使館の人と話していて、松本亮という名前を出したら、たんめんさんは松本先生とお知り合いなのですかと態度が変わって、尊敬のまなざしで見られはじめたので、慌てて、家、私は金子光晴の詩が好きで、その関係で松本先生とそのお仕事を尊敬しているだけですと答えておいた。

 この紀行文集は、詩人、作家としての金子の出発点となる経験や思索に満ちた作品であるとともに、それ自体の価値においても大いに読まれてよいものであると思う。

トルストイ『コサック 1852年のコーカサス物語』

8月29日(火)晴れ

 8月28日、トルストイ『コサック 1852年のコーカサス物語』(光文社古典新訳文庫)を読み終える。

 1852年の春、24歳のドミートリー・オレーニンはモスクワを発って、コーカサスへと向かう。「オレーニンは、学校も出ていなければ、勤めの経験もない若者で・・・浪費のあげくに財産を半減させ、24のこの歳までいかなる進路も選ばず、なにひとつ成し遂げたためしがなかった。」 (19ページ) 「彼は、社交生活や勤め、領地経営、音楽などに手を染めて、音楽には一時、わが身をささげようとも考えた。信じていないはずの、女性への藍にも手を染めた。人間の一生で二度とないこの若さという力をなにに注いだものか、彼は考えあぐねていた――芸術か、学問か、女性への愛か、実業か。」(20ページ) 結局、借金だらけになった彼は、コーカサス連隊の士官補として、コサックたちの中で生活し、人生をやり直そうと考えたのである。

 任地に着いたオレーニンは、コサック村の学校で教師をしているイリヤ・ワシーリエヴィチ少尉宅の家屋を借りることになった。少尉には妻のウリュートカ婆さんと美しい娘のマリヤーナがいる。村の人々からは浮いた存在であったオレーニンではあったが、古強者のコサックであるエローシカ爺さんと親しくなり、土地のこと、狩りのことなどを教えてもらう。マリヤーナの恋人であるコサックの青年ルカーシカとも知り合うが、オレーニンが考えているほどに、ルカーシカが彼に心を許しているわけではない。

 「訳者あとがき」で乗松亨平さんは「『コサック』は私に夏目漱石の『それから』を思い出させます。どちらもどこか、いびつなのです」(371ページ)と書いている。漱石の「虞美人草」についてこのブログで取り上げた次に、(『三四郎』は既に取り上げたので)『それから』に取り掛かろうと思ってなかなか弾みがつかないでいる私に、この指摘はなかなか刺激的であった。オレーニンは実はマリヤーナに恋し始めているのだが、それを押し隠してルカーシカと彼女の恋を祝福しようとしている。ところが、彼がモスクワの社交界に出没していた頃の友人であるベレツキー公爵が出現し、コサック村の若い娘たちと遊び戯れ始めたことで、彼の心が乱れ始める。・・・

 オレーニンの姿と行動には自身コーカサスで軍人として暮らしたトルストイの経験が投影されているが、はじめ、作者はこの主人公をかなり距離を置いて描こうとしている。ところが、乗松さんが指摘しているように、コサックの中で暮らし、マリヤーナへの恋に夢中になり始めると、この距離が変化してくるのである。それが、『それから』の作者と代助の距離の置き方と似ているという。

 もう一つ注目すべきことは、これもうっすらと乗松さんが触れているが、この作品を(英訳から)初めて日本語に翻訳したのが、自然主義の作家として知られる田山花袋だということである。作者自身をモデルとする人物との距離の置き方を、花袋がトルストイから学んだか、学び得なかったかは、議論の余地があるのではないかと思う。

 それ以上に、コサックの生活ぶりについてのトルストイの克明な描写は、民俗誌としての興味が持てるし、コサックの生活を理想化するオレーニンの一種の「片想い」がマリヤーナへの「片想い」と重なる点も注目される。「トルストイという人は、青春を過ぎてからも、独りよがりな夢を愚直に追い続けました。彼にとってコーカサスの山岳民以上に「自然人」を体現した、農民との関係はその最たるものです」(361ページ)という解説の一箇所が、改めてトルストイという作家、思想家について考え直す、更に19世紀における文学と社会生活の関係について考え直す手がかりになりそうだと考えているところである。
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