司馬遼太郎『街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか』

7月19日(水)晴れ、関東地方の梅雨が明ける

 7月18日、司馬遼太郎『街道をゆく 〈新装版〉 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか』(朝日文庫)を読む。『週刊朝日』の1971年(昭和46)1月号から7月9日号に連載され、同じ年の9月に単行本として発行されたものの文庫化の新装版である。司馬はこの後も、『街道をゆく』のシリーズを書き続け、朝日文庫には全部で43冊を収める。日本国内だけでなく、その足跡は韓国、ロシア、モンゴル、中国、フランス、フランス領バスク、スペイン領バスク、スペイン、ポルトガル、英国、アイルランド、オランダ、アメリカ、台湾など外国にも及んでいる(それぞれ日本との関連を求めて旅されているのではあるが…)。

 「街道」というが、この言葉の使い方には司馬独特の意味が込められているように思われる。というのは、彼が歩き回っているのが、ある目的のために整備された街道ではなく、古くから人々が行き来していたらしい道であることが多いからである。歴史的な事件の跡を探索した紀行として日本史家である今谷明さんの『歴史の道をゆく』(中公新書)、あるいは近世以降の代表的な紀行の道のりを辿りなおす社会学者の加藤秀俊さんの『紀行を旅する』(中公文庫)などの著作があるが、これらと『街道をゆく』の大きな違いは、何といってもその膨大な量であろう。さらにいえば、記述の精粗、あるいは濃淡のばらつきがめだつのも特徴的である。作家である司馬さんは自分の興味のあることは詳しく、そうでないことは省いたり、簡単に記すだけにしたりしている。今谷さんは徳川家康の<伊賀越え>の道のりを歩く途中で怪我をしたそうであるが、出来るだけ忠実に行程を辿ろうとした結果である。司馬さんの場合は、街道を起点から終点まで歩くという発想がそもそもない、自分の興味の向うところを歩いている。

 『紀行を旅する』「久々子から京都へ――『川渡甚太夫一代記』」では、著者は若狭の三方五湖の沿岸の久々子から京都までウナギを運んだ江戸時代の商人の足跡を負って、若狭街道を車で踏破する。『街道をゆく』の最初に収められている「湖西のみち」はこれと逆方向であるが、滋賀県内、それも琵琶湖の西の方(つまり湖西)をうろうろしていて、その次第とか織田信長の元亀元年(1570)における退却の話、その際に信長を助けた土豪朽木一族のこと、将軍足利義晴ゆかりの庭園を残す曹洞宗興聖寺のことなど、興味の向いたことしか書いていない(それがたいていは面白いことばかりなのが、作家の人気のゆえんであろう)。

 「湖西のみち」に続く「竹内(たけのうち)街道」は、司馬の母親が奈良県の人だったという関係で、子どものころから見知った土地を歩いているので、描写にも精彩がある。日本語学者であるという若い英国人が同行して、日本語をめぐる議論を展開したり、古代と現代のつながりを考察したり、内容も変化に富む。その後の「甲州街道」は八王子近辺を歩き、小仏峠に登るだけで、甲州の話はあまり出てこないし、出てくるのは八王子千人同心の話とか、将軍慶喜、勝海舟、新選組の話であるが、それでも読むものを飽きさせないのは、なかなかの筆力である。

 「葛城みち」では再び奈良県に戻り、古代の葛城氏と一言主命、雄略天皇がこの神を土佐に流した話、葛城地方に住んでいた宗教的集団である鴨氏のこと、役小角と一言主命の戦いなどが語られる。なお、「高知市の東北4キロ一宮(いっくう)という在所にある都佐神社(土佐神社)・・・『延喜式』の古社であり、武蔵国の一宮が府中の大國魂神社であるように、土佐国にあっては一宮はこの神社であり、社格は古来土佐でもっとも高い」(179ページ)とあるのは間違いで、大國魂神社は武蔵国の総社であって、一宮ではない(一宮は小野神社だという説と、大宮氷川神社だという説がある)。

「長州路」は「この稿ではかりに長州路ととなえておくが、要するに旧長州藩領のあちこちをあるきたい」(205ページ)と、維新期に焦点を絞りながら山口県(と島根県の一部)を歩き回っている。壇ノ浦を訪れても、まずこの地を坂本龍馬が訪れた時の逸話から書き始めている(その内容が面白い)のだからかなり徹底している。人物評風の部分が多く、それも司馬の個性を示すものであるが、赤間宮の初代の宮司になった白石正一郎とか、池田屋事変の際に沖田総司に斬られた吉田稔麿(としまろ)というようなあまり歴史上注目されてこなかった人物に関心と同情を寄せているのもこれまた司馬の個性であろう。

 几帳面に体裁を整えた研究書ではなく、興の赴くままに綴られた随想風の紀行文集であり、読む方も自分の興味や気分に従って自由に読んでよい書物ではないかと思う。その中で、歴史について、あるいは人間やその心理について考えるためのヒントを拾い上げることが出来れば、それは著者よりも読者にとってのより大きな仕合せというべきであろう。
 あと42冊、著者がかなり気ままに書いている本だから、こちらも順序を辿らずに読んでもいいのかもしれないが、今のところの予定では順序を辿って読んでいくつもりである。さて、どんな書物と、あるいはどんな旅の記憶と重なる記事に出会うだろうか。 
スポンサーサイト

片平孝『サハラ砂漠 塩の道をゆく』(2)

7月18日(火)曇り、午後になって雨が降り出す

 2003年12月、写真家である著者は、トゥアレグ族のガイドであるアブドラをコック兼通訳、ベラビッシュ族のガイドであるアジィをラクダ使いとしてキャラバンを組み、マリ共和国のかつての”黄金の都〟トンブクトゥを出発し、岩塩の産出地であるタウデニ鉱山へと向かう。途中で運よくアジィの知り合いである同じベラビッシュ族のムスタアーファが率いるアザライ(トゥアレグ語で「塩を運ぶキャラバン」という意味)に出会う。親族だけで構成されているこのアザライのリーダーであるムスターファは見知らぬ旅人との同行を嫌がるのだが、とにかく同行することができ、19日目にタウデニに到着することができた。750キロ余りの砂漠の旅の末のことである。

 タウデニはサハラ砂漠の中にある太古の塩湖が干上がった後の盆地で、「金鉱のように一獲千金を夢見る生臭い場所だ。さまざまな事情を抱えた男たちや犯罪者が国中から集まり、身を寄せる場所でもあった」(92ページ)。人々は「アゴルコット」と呼ばれる集落に住み、採掘が盛んな(比較的涼しい)時期には400人近い男たちが生活すると言われる。住居は塩の混じったブロックを積み上げてラクダの皮をかぶせて屋根にしたもので、室内は150センチくらいの高さしかなく、立ち居ができないという。女性が1人もいない、男たちだけの世界である。

 物騒なので一人歩きをするなと固く戒められていた著者はアブドラとともに、岩塩の採掘場を訪問する。約3メートルほどの縦穴を掘って、そこで岩塩層を見付けてそこから岩塩を採掘しているのである。
 5月から10月までタウデニで働く人々はみなトンブクトゥに引き上げるのだが、その中でアルバという中年の男だけは居残り続けるという。彼は借金を返すために、10年間の年季奉公を続けてきたとのことである。その彼が、まったくの外国人として労働者たちの間で孤立している著者を守ろうとするやさしさに、著者は大いに感動する。

 縦穴の中では小型のツルハシを使って岩塩をはがしていく。岩塩の大きさは手と足で測る。重さ100キロ前後ある原石が職人たちによって削られて、重さ30から35キロの「バー」と呼ばれる塩の板になる。
 足と手が物差しになって塩を掘り出す採掘法は、タウデニよりも前に塩の供給地であったタガザの岩塩鉱山における採掘と同じ方法といわれ、古代の岩塩鉱山の採掘法を知る手掛かりになっている。
 タガザの町はタウデニの160キロほど北にあり、8世紀から16世紀まで塩を供給し続けた。当初はガーナ王国、14世紀前半からはマリ帝国に管理され、15世紀末からはソンガイ帝国の支配下にあった。1580年代にサード朝のモロッコ軍に占領されたが、当時すでに岩塩鉱山は枯渇しかかっていて、塩を掘りつくした後は廃墟となってしまった。その後、キャラバンの宿営地としてわずかに利用されていたが、今はアルカイダ系テロ集団の隠れ家となって近寄れない。

 タウデニ鉱山はソンガイ帝国がタガザの代わりに16世紀末から採掘を開始して、それ以後ずっと同じ方法で塩を掘り続けている。現在、土地を管理しているのは、トンブクトゥやアラワンのベルベル系とアラブ系の塩商人で、毎年自分たちの採掘場に契約した労働者を送り込んでいる。また彼ら自身も数か月間タウデニに滞在して、塩の掘り出しと出荷状況を管理している。

 採掘場で働く黒人の労働者たちは、召し使い、フリー、見習いの3つの階級に分けられている。召使は給金はないが、7日間で掘り出した塩の2日分がもらえて、家族の面倒も見てもらえる。フリーの大半は借金のために働いている出稼ぎ労働者で、2日分の塩を手にする権利と給金をもらえるが、家族の面倒は見てもらえない。見習いは寝る場所と食べ物を与えられるだけで何ももらえないが、いずれは塩の切り出しの作業に着くことができる。
 岩塩の原石を「バー」と呼ばれる塩の板にするアラブ人とトゥアレグ族の職人たちは、給金はなく家族の面倒も見てもらえないが、塩の板4枚につき1枚の権利をもっている。

 タウデニでは、「バー」がお金の役目を果たしている。労働者と食料を乗せてやってくるトラックが、町から様々な物資をいっしょに運んでくる。タバコやお茶、コーヒーのほか、ヤギやニワトリ、毛布や衣類などありとあらゆる物資がバーで手に入る。まるで古代のようである。

 ムスターファたちのキャラバンでは、モハメッドが自分のラクダ12棟分の岩塩を確保できたが、他の連中はまだ手に入れていない。イブラヒムは急に鉱山で働くと言い出し、ムスターファとラミィのグループは34頭のラクダに積むべきバーの半分しか確保していない。しかもムスターファが左手を化膿させていて、出発もおぼつかない様子である。
 それでも出発を延ばして、タウデニに予定していた以上の日数滞在して、アブドラが食料と金を「使い込む」という事件も起きたが、どうやらムスターファのアザライもバーが確保できて、出発ができる状態になった。

 今はまた足を踏み入れることができなくなってしまったというタウデニ鉱山と岩塩の採掘の様子が貴重な報告となっている。足と手を物差しにして岩塩の大きさを測るというやり方が昔から続いているというところに、歴史の流れによっても失われない、人間の知恵を感じることができた。この後、砂漠の炎暑の中でのトンブクトゥへのきわめて過酷な帰還の旅が始まる。それがどんなものであったかは、また次回に譲ることにしよう。アブドラは頼りにならないし、アジィは英語ができないので細かい意志の疎通がむずかしい。ムスターファはけがをしている。帰り道も前途多難である。

久野収 鶴見俊輔『現代日本の思想 ――その五つの渦――』

7月14日(金)晴れ、暑し

 この本を初めて読んだのは、もう30年くらい昔のことではないかと思う。しかし、それでも本の発行から30年余りたってからのことである。昭和31(1956)年に岩波新書の1冊として刊行されたこの本の「まえがき」に記されている2人の著者の趣意は、私にとってかなり新鮮なものであったし、幸か不幸か未だに、その新鮮さは薄れていない。

 「日本では、これまで現代思想を扱った書物といえば、ほとんど外国の思想流派の紹介、それもそのときどきの流行のトップモードを批判的に紹介する仕事にかぎられていた。日本の現代思想が論じられても、せいぜいつけたりに過ぎなかった。
 本書は、これとは逆に、日本の代表的思想流派を正面から扱った思想入門である。現実に働きかけ、現実を動かした日本の代表的思想流派の仕事をちゃんと評価しなければ、日本の思想の足どりをしっかりさせることはできない。これまでの日本の思想は、フラフラしたちどり足をまぬかれていない。私たちは、そう信じたので、最初の試みといて本書を書いた。」(ⅰページ)

 今日では、外見的には様相はかなり違っている。本屋の「哲学」だの「思想」だののコーナーに出かけると、この時代にくらべると、「外国の思想流派の紹介」にかかわる本はかなり少なくなっている。その分、日本や東洋の思想に関する本が増えているように思われる。しかし「フラフラした千鳥足」は依然として続いていると(ひどくなっているかもしれない)とおもわれる。さらに、「現実に働きかけ、現実を動かした」というところにどこまで視線が向けられているかも問題にすべきであろう。著者たちは次のように続けている。

 「現実の問題状況へのはたらきかけというすがたで、思想をつかむとすれば、思想をせまい意味の哲学だけにかぎるわけにはゆかない。本書で扱われた諸流派が、せまい意味の専門的哲学者の仕事からではなく、文学、政治、教育、叛乱、世相など、生活のさまざまな分野からえらばれたのは、思想が最も具体的な活動をとおしてのみ、現実を動かす力になると信じるからである。」(ⅰ-ⅱページ)

 興味深いのは、「19世紀ドイツの精神史」として「ヘーゲルによる完成とニーチェによる新たなはじまりとのあいだの決定的な転換点を示」そうとしてまとめられたレーヴィットの『ヘーゲルからニーチェへ――十九世紀思想における革命的断絶――』(岩波文庫)が、専門的哲学者の仕事を中心に取り組まれながらも、ゲーテ、フローベールのような文学者、トクヴィルのような政治思想家、ブルクハルトのような歴史家の仕事にも言及していること、そしてこの書物が、1930年代の日本(仙台)で書かれていることである。近現代の思想に取り組む際に、総合的な視点が必要であることを戦前の日本における社会と思想の展開は示しているのではないかと思うのである。

 『現代日本の思想』は
Ⅰ 日本の観念論――白樺派――
Ⅱ 日本の唯物論――日本共産党の思想――
Ⅲ 日本のプラグマティズム――生活綴り方運動――
Ⅳ 日本の超国家主義――昭和維新の思想――
Ⅴ 日本の実存主義――戦後の世相――
の5章からなる。昭和(多少、大正に食い込むが)期に社会的な影響力を持った運動を、ある思想の枠組みのもとで整理しているが、これらの整理のすべてが妥当なものかをめぐってはかなり議論の余地があるのではないかと思う。それにこの5つを選んだ根拠というのも今ひとつはっきりしないところがある(他は哲学的な区分であるが、「超国家主義」は政治的な思想区分ではないか)。

 個人的には、ⅠとⅢに興味があるので、次回以降、このあたりに注目しながら、論じていくつもりである。特に、私の友人・知人のうち2人も、父君が白樺派に共鳴する学校教師だったというのがいるので、そのことが久野・鶴見の見通しの鋭さを示しているのではないかと思っているところなのである。(単に影響力があったというだけではなく、その影響が身近に及んでいるということである。) それに私自身も日本民芸館や河合寛次郎記念館に出かけたり、「新しき村」についての資料を集めていたりしたのだから、まあ影響を受けているということなのであろう。 

開高健「円の破れ目」

7月11日(火)晴れ、暑し

 1991年に新潮社から刊行された『開高健全集』第1巻には、開高の出世作である「パニック」と、この作品に至るまでに彼が発表した11編の短・中編小説が収められている。この「円の破れ目」は『近代文学』の昭和31年(1956)2月号に発表された作品で、この後開高は約1年の沈黙を続け、その後「パニック」を発表する。全集の月報で向井敏が書いているように、この「円の破れ目」は完成度の高い作品ではあるが、習作の域を出ない。とはいうものの、その後の開高の作品にみられるいくつかの特徴が既に現れているように思われるので、ここで取り上げることにする(本当のことを言うと、「パニック」を取り上げようと思ったのだが、気分が乗らないので、より短いこの作品で間に合わせようということである)。

 釣り好きであることから作者の分身と想像できる語り手は、戦争中であった中学時代に動員されて火薬庫を作っていた山奥を再訪する。彼は山奥での作業が終わると、釣りに出かけて自分の孤独を紛らわし、そのエネルギーを発散させていた。「私にとってこの谷は性の象徴だった」(458ページ)と彼は回想する。
 大学を中退して役所に勤めている彼は、その「砂を嚙むような、わびしい生活」(460ページ)、「多くの人々とおなじように閉じた円」(同上)から逃れようと、この思い出の場所に釣りにやってきたのである。
 
 しかし、時がたって、おりしも朝鮮戦争のさなか、山奥には米軍の基地が出来ていた。駅前は「けばけばしいくせに泥くさく安っぽい、どこにでもみかけられる基地の町」(454ページ)に変貌し、米兵相手の娼婦たちが狭い道を固まって歩いていた。基地に続く道を作るため、また戦後の山村の窮乏のために、山は姿を変え、語り手は谷に何物も発見することはできなかった。
 駅前に戻った語り手は、オートバイにまたがった一人の若い米兵が駅前の広場でその真ん中にある街灯めがけて全速力で車を走らせ、衝突の寸前にハンドルを立て直すという曲芸を演じているのを人々が眺めている場面に出会う。ところが、その米兵を一人の娼婦が必死になって止めようとしている。しかし、誰も取り合わない。「女の取り乱しぶりはばかげてわびしいものに私には思えた」(463ページ)。

 帰りの汽車に乗った語り手は、2人の商人風の男たちの会話を耳にする。最近、米軍の交代が激しいのは朝鮮での戦況が思わしくなく、最近は脱走する米兵が多いという話である。脱走して終身懲役になっても、戦死するよりはましだと考えているのではないかともいう。彼らが下車した後、語り手はある思いにとらわれる。駅前でオートバイを乗り回していた米兵は自殺しようとしていたのだ。「あれだけの速度がないと円は破れないのだ」(465ページ)。彼を止めようとしていた娼婦だけが、その事に気付いていたに違いないと彼は考える。

 語り手の見聞が語られるという体裁ではあるが、「パニック」になるとはっきりした形で現れるルポルタージュ風の語り口はまだ完成されておらず、そこが習作といわれるゆえんであろう。開高はその文学生活の初期に参加していた同人誌『えんぴつ』の紙面で、ジョン・ドス・パソスの『USA』を目指すという発言をしている(はじめ、左翼で、後に右翼に転向したという点でも、開高はドス・パソスと重なる軌跡を歩んだ)。おそらく彼の沈黙は、ルポルタージュ風の文体を獲得するための努力の時間であったはずである。

 あるきまった生活を強要する「円」の中に人々は暮らしているが、死力を尽くしてその「円」を破ろうとしている人間もいる。語り手は、駅前でオートバイの曲乗りをやっていた米兵を見かけ、その姿に自分と共通するものを見出す一方で、彼の孤独さにも気づく。誰からも理解されているとは思えない米兵の孤独は、語り手自身の孤独でもある。このような人々を拘束する「円」としての環境と、それに対する反抗というテーマは、その後の開高の作品で何度も繰り返されることになる。「円」はいろいろな形をとるし、それを破ろうとする企ても色々な形をとる。「流亡記」は「円」から脱出して砂漠の民の中に入っていこうとする主人公を描いて終わり、「玉、砕ける」は「円」に押しつぶされた中国の文学者の姿を描いている。「円」と反抗をめぐる彼の作品群の中には希望もあるし、失意もある。そういう彼の作品の特色が既にこの作品に認められることは記憶に値するのである。 

片平孝『サハラ砂漠 塩の道をゆく』

7月7日(金)晴れ、気温上昇

 片平孝『サハラ砂漠 塩の道をゆく』(集英社新書ヴィジュアル版)を読み終える。サハラ砂漠に見せられ、砂漠の旅を続けてきた写真家である著者は、長年、サハラ砂漠の先住民であるトゥアレグ族の言葉で「塩を運ぶキャラバン」を意味するアザライとともに主要な岩塩の産地であるタウデニ鉱山までラクダの旅をする機会を待ち受けていた。
 「アフリカの政情は、空模様のように変わる。たまたま治安が良くなった年があった。2002年、世界遺産の撮影で28年ぶりにトンブクトゥを訪ねた時、外国人でもタウデニ鉱山に行けるようになったことを知った。翌2003年12月、早速、アザライと旅をするという夢を実現させるために、4度目のマリに飛んだ。初めてアザライを目にしてから、すでに33年の時が流れていた。本書はこの時の記録である。」(6-7ページ)
 第1章はタウデニ岩塩鉱山を目指す砂漠の旅の次第を記す。幸いに著者は砂漠の途中でアザライと同行して旅することができた。第2章ではタウデニ岩塩鉱山における採鉱と生活の様相が描かれる。第3章では行きと同じアザライと同行しての帰り道の始終がたどられる。アザライの仲間たちとの別れが続く。第4章では旅の終わりに著者が出会った試練が語られる。現在では、タウデニはアルカイダ系テロ集団とトゥアレグ族の武装蜂起の拠点になっているという。旅から十数年を経て、この書物が世に出るのは、この旅の経験が依然として貴重さを失わず、当分、再現が不可能に思われるからである。
 このブログでは第1章の内容を紹介する。

 パリ経由でマリ共和国の首都バマコに着いた著者は、飛行機が予約できず、自称観光ガイドのハッサンという男の手配した自動車でトンブクトゥに向かう。「どうせ今回は最後まで安全の保証などない無謀な旅だ」(15ページ)ということで、最初から波乱含みである。マリ第二の都市モプティで一泊して翌日の夕方にサハラ砂漠とアフリカ第3の大河であるニジェール川が交わる伝説の交易都市トンブクトゥに到着する。〔著者はニジェール川をアフリカ第3の大河と書いているのだが、第1はわかるけれども、第2が分らない。調べてみたら、コンゴ川であった。〕
 その夜、顔見知りのガイド・アブドラが突然ホテルを訪ねてきた。彼はトゥアレグ族の貴族(支配者階級)出身で27歳。「日本の砂漠緑化団体が始めた植林事業で2年間働き、片言の英語と日本語を覚えたのがガイドの仕事をするきっかけとなった。その時の仲間にソンガイ族のガイド・イッサとラクダ使いのアジィもいた」(23-24ページ)。「アジィは35歳のアラブ系ベラビッシュ族で、以前は岩塩を運ぶキャラバン「アザライ」に従事していた」(25ページ)。経験は十分だが、英語が話せない。英語のできるアブドラを窓口にして、3人でキャラバンを組むことにする。そのアブドラは、通訳兼コックという役回りだが、どうもあてにならず、頼りない。4頭を予定していたラクダのうち1頭の状態がよくなく、3頭で出発することになり、荷物を大幅に減らさざるを得ない。

 12月8日に出発。「サハラを北上する旅は、3時間歩いて、1,2時間ラクダに乗る繰り返しを続けながら、次々と立ちはだかる砂の壁を越えては深い窪地に下りていく。」(32ページ) ずっとラクダに乗り続けているわけではない。炎暑の中3時間も歩くのは大変な難行苦行である。
 昼近く、アゴネギファルと呼ばれる最初の井戸に到着する。ここでアジィの妻(の1人)がキャンプを張ってヤギの放牧生活をしている。翌朝、出発。アジィが家族と別れを惜しむ姿を見る。その夕方、砂丘の影からラクダに逃げられたというアジィの知り合いの男が180キロ先のアラワンのオアシスまで同行させてくれと泣きついてくる。予備のラクダが必要なので、遊牧生活をしているアジィの親戚から借りることにする。ヤギとラクダを放牧する遊牧民の生活の描写は簡単だが興味深い。幸い、2頭のラクダを連れていくことになり、キャラバンの形が整う。

 8日目にトンブクトゥから270キロ地点にあるアラワンのオアシスに到着する。「アラワンは、トンブクトゥより古いベラビッシュ族の故郷だ。同時に塩商人の村でもある。丘の麓にある水量の豊富な2つの井戸は、タウデニから塩を運ぶアザライにとって欠かせない水の補給地になっている。」(45ページ) この村はアジィの故郷でもある。アジィの姉の家に厄介になった後、一行はラクダの骨や、人間の頭蓋骨が野ざらしに連なっている砂漠の中の道を進む。

 10日目に、タウデニに向かう50頭ほどのアザライに遭遇する。幸いに、4人のアザライのリーダーであるムスターファはアジィの顔見知りであった。親戚縁者だけで構成されているこのアザライは異分子の参入を好まない様子であったが、どうやら同行を続けることができた。途中、砂漠の草を刈ってラクダの食料を確保したりする。タウデニまで5日という距離にあるアラワンから数えて2番目の井戸で、水を補給し(1番目の井戸は水が腐っていて使えない)、帰り道のために2束の草を置いた。さらに3番目の水場であるビル・オウナンに到着、さらに旅を続けるうち、アジィが2年前に失くした2頭のラクダを見付け、とりもどす。タウデニでは塩が不足しているという情報を得て、岩塩の確保のためにアザライの1人が先行することになる。

 そして19日目にタウデニに到着する。

 旅の外面を辿っただけでは分らない、アブドラやアジィ、ムスターファの性格や行動様式、さらには砂漠で暮らす人々、トゥアレグ族、ベラビッシュ族、ソンカイ族(黒人)の歴史とそれぞれの特色、砂漠の旅の苦労など、現実の体験を記しているだけに興味深い要素が詰まっている。マリ共和国の西隣のモーリタニア(この書物にもモーリタニアからやってきた遊牧民が登場する)における経験を描いた前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』も面白かったが、それとは別の情熱と観察眼から描かれたアフリカ見聞記として貴重な記録となっている。

補足:7月2日付けの当ブログの記事:前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』
について、後藤貞郎さんから「ティムブクトゥ」ではなく「トンブクトゥ」が一般的ではないかとのご指摘を頂きました。手元にあった研究社の『リーダーズ英和中辞典』にはTimbuktu,-buctoo(ティンブクトゥ)とあるので、「ン」を「ム」として、そのように書いたのですが、確かにご指摘のようにフランス語式にTombouctou(トンブクトゥ)と書く方が一般的だと思います(マリの公用語はフランス語)ので、今回は「トンブクトゥ」を採用しております。 
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR