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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(15)

3月26日(木)晴れ

 1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけて梅棹忠夫(1920‐2010)は当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジア諸国を訪問し、熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌を調査した。この旅行記はその際の、彼の個人的な記録をまとめたものであり、下巻で彼は主としてカンボジア、(南)ベトナム、ラオス3カ国の旅行の際の見聞を記している。
 1958年2月12日、梅棹は隊員の吉川公雄(昆虫学者で医師)とともにバンコクを出発した。外務省留学生の石井米雄(1928‐2010、後に東南アジア研究家として京都大学・上智大学教授、神田外語大学学長)が通訳として随行、13日にカンボジアに入国し、バッタンバン、プノムペン、海岸の都市カムポットを訪問し、トン・レ・サップ湖の周辺を踏査した。2月21日にはプノムペンを出発して、ベトナムに入国、当時の南ベトナムの首都であったサイゴンに到着した。サイゴンではベトナムの民族宗教の1つであるカオダイ教の本部(タイ・ニン)を訪問したり、コーチシナにおける華僑の進出と開拓の歴史をたどったりした。
 2月28日にサイゴンを出発して北上、このときからサイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックが通訳として参加。海岸の町ファン・ランに到着したあたりから、ベトナム族と激しい対立・抗争を続けた歴史を持つチャム(パ)の遺跡に何度も遭遇することになる。北上を続けて、ニャチャンを経て、3月2日にトゥイ・ホア(綏和)に到着した。

 ゴ総統万歳!
 3月3日にトゥイ・ホアを出発。トゥイ・ホアは地図で見たところでは小さな町であるが、実際には大きく、新興都市という感じであると梅棹は観察した。これに対して農村は日本のいなかに似ているというのが彼の感想である。とりいれの季節で、脱穀作業をしているのが見える。タイやカンボジアでは二輪車を使って収穫物を運ぶのだが、ここでは全部人力で運んでいる。
 「小さな峠を越え、川をいくつも渡る。川は、橋がない。渡し船で渡るのである。海が見える。景色は美しい。」(132ページ)
 途中の海中に軍艦が沈んでいるのを見かける。かなり古いもののようで、ディックによると日露戦争の時のロシアの軍艦だというが、真偽のほどは定かではない。「いずれにせよ、戦争のあとを見るのは、いたましいものである。」(132ページ) この発言は戦争体験のある梅棹らしいものだと言えよう(戦争中、梅棹は戦車隊の小隊長として軍務につくはずだった=司馬遼太郎と同僚になるはずだったが、免除されてモンゴルに渡ったという経歴の持ち主である)。

 通りすぎる村の様子は平和だが、あちこちに煉瓦づみのツイタテのようなものがあって、そこに「ベトナム共和国万歳!」とか、「ゴ総統万歳!」というような標語が書かれている。戦時中の日本の標語政治を思い出して、梅棹は空しさを感じるのだが、南ベトナムの政府としてはやはり必要を感じているのだろうと気を取り直す。

 ベトナム料理
 この日の2時半、クイニョン(歸仁)に到着する。クイニョンは小ざっぱりした、いい町であるという感想を梅棹は述べている。しかし、この町はインドシナ戦争で破壊され、その後復興したのだという。〔クイニョンを省都とするビンディン省は、かつてはチャムパ王国の首都であったことがある。現在のクイニョン市は人口50万人近くなっており、小ざっぱりした街だという感想があてはまるかどうかは疑問である。〕

 クイニョンの町の男子は兵隊として強いという評判があり、女子は賢くてしっかりしているという。町を一通り走って、満足できそうな料理店を見つけて昼食をとる。
 梅棹はベトナム料理が好きだという。中国料理ほど油こくないし、良質の魚醤を使えば大変においしいという。〔私は渋谷にあるベトナム料理店で一度か二度、ベトナム料理を食べただけだから、この感想については何とも言えない。〕
 ディックの言うところだと、ベトナムでは人生の理想として「日本人の妻、フランス風の家、そしてベトナム料理」と言われているそうだ。似たような言葉は、あちこちで聞かれるが、国がちがっていたような気がすると梅棹は記す。
 同じような国民性を示す小話で、こんなのもあるそうである。ある学校で中国人と日本人とベトナム人が一緒に勉強をした。成績は中国人が「算数」で、日本人が「科学」で、ベトナム人は「文学」でトップをとったという。ベトナム人が、自分たち、それから中国人や日本人についてそういうことを考えているというのが興味深いと梅棹は記す。〔読者の皆様も、私同様に、異論を唱えたいところだと思うが、それはご自分でご自由におっしゃってください。〕

 ベトナムの国民性
 食事をしながら石井が、ベトナム人はえらいものだと賞賛の言葉を口にする。梅棹も同感である。タイやカンボジアでは食堂は皆中国人の経営である。ところがベトナムではベトナム人がベトナム料理の店を出している。旅館にしても経営者はベトナム人である。東南アジアのほかの国では、経済を中国系の人々に握られている例が大半であるのに対し、ベトナムではベトナム人が商業の主導権を握っている。一行が見たところでは、ベトナム人はきわめて勤勉である。現在のところは南北の分断が、国民のエネルギーを吸い取っているが、もし、南北が統一されれば、南の農産物、北の鉱産資源、それに水力、石炭などにもめぐまれたベトナムは大いに発展するだろうと、一行は思ったのである。

 風俗ノート
 クイニョンの周辺は昔のチャムパ王国の中心地であったので、多くの遺跡が残っている。どれがどれだかわからないほどである。
 生産力が高いらしく、村が多く、人口も稠密である。一行は雨に出会う。これまで雨に会うことが少なかったので、気持が一新する。北からの避難民であるディックによると、このあたりはトンキン・デルタと同様、一年中雨季なのだという。
 この一帯では男女を問わず、腰まで切れ上がった長い上衣とゆったりしたズボンからなるアンナン服を着ている。男女ともに同じ笠をかぶっているから、ちょっと見ただけでは見分けがつかない。
 農民は襟なしの短いシャツを着て、前のまんなかで合わせてきちんとボタンで留めている。ズボンは緩やかで足首の上の辺りまである。この労働服がまた男女同一である。こういう例はあまりよそでは見かけられないと梅棹は言う。頭に被っているのは菅笠が多いが、男性の中には昔のアンナン帽(幅の狭い角帯をターバン風に巻き付けたようなもの)を被っている人も見られる。
 タイではどんな田舎に行ってもパーマ屋があったが、ベトナムの女性はほとんどパーマをかけず、長い髪のはしを切りそろえて、さらりととき流している。
 若い女性は伝統的な衣装に固執しているが、男性の方はズボンにカッター・シャツという姿が多い。またヘルメットがはやっていて、小学生はほとんどヘルメットをかぶっている。

 まだ北への旅は続くが、ここで第15章は終わり、次回から第16章「大官道路」に入る。「大官道路」(Mandarin Road)はアンナン帝国の官吏たちが駕籠に乗って旅行するために設けられた道路である。そして第16章の最後のところで、ディックと別れた梅棹たちはラオスに入国する。 
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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(14)

3月18日(水)晴れ

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年から1958年にかけて大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、東南アジアを自動車で回り、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。『東南アジア紀行』はその際の彼による私的な旅行記であり、この下巻ではタイを出発して、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスを歴訪した旅の様子が記されている。
 梅棹は1958年2月12日に、隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)、外務省留学生の石井米雄(1928‐2010、後に東南アジア研究家、京都大学・上智大学教授、神田外語大学学長)とともに、タイのバンコクを出発、2月13日にカンボジアに入国し、2月21日にはベトナムのサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。サイゴンからタイ・ニンに出かけてベトナムの民族的な宗教であるカオダイ教の本部を訪問したり、華僑によるコーチシナ開発の歴史をたどったりする。2月28日に、サイゴンを出発、北ベトナムとの国境付近まで北上し、そこからラオスへと越境する計画をもっている。サイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックが通訳として同行した。各地に残っているチャムパの遺跡に、チャム族とベトナム族の長い戦いの歴史の跡を見たりした。

第15章 チャムの塔(続き)
 日本人はベトナム語を習うべし
 梅棹はこの旅行のために買い集めた東南アジア関係の書籍を「移動図書室」と称して自動車の後部座席で読んでいる。D.G.E.Hall, A History of South-East Asiaはなんでも書いてあるが、平板で、R.L.May, The Culture of South-East Asiaの方が面白い。分らないことがあると、通訳として同行しているディックに質問する。彼は歴史学専攻の学生なので、こういう時に便利である。
 それにしても日本人はベトナムの歴史について知らなさすぎる。〔梅棹がこのように書いてから60年以上たった今日でも事情はそれほど変わっていない。また東南アジアのほかの国にしても似たようなものである。〕
 ディックはベトナムの学校でもっと日本語と日本について教える必要があるという。そしてまた、日本でもベトナム語とベトナムについて教える必要があるともいう。
 その主張はもっともなことだと、梅棹は思う。

 ヴィェット・ナムとニュッ・バン
 梅棹も吉川もベトナム語はできない。勉強してみる気はあるのだが、日本で買った入門書が訳が分からなくて、投げ出してしまった。今回は、石井という言語研究の専門家が同行しているので、サイゴンでフランス語で書かれたベトナム語文典を見つけ、2人で研究した。サイゴンの日本大使館のベトナム人職員から繰り返し発音を教えてもらった。

 ベトナム語はどの言語系統に属するかをめぐっては定説がない。モン・クメール語の系統だという説と、タイ語に近いという説がある(梅棹が1992年に出した『実戦・世界言語紀行』では「クメール語と同じくオーストロアジア語族」(110ページ)と書いている。近年の研究ではオーストロアジア語族説が有力になっているようである。)。中国語やタイ語と同じく孤立語で、複雑な声の上げ下げ――声調がある。(中国標準語は四声)、タイ語は五声であったが、ベトナム語は六声ある。
 本来の言語系統がどのようなものであれ、ベトナム語には多くの漢語が流入していること、日本語(および韓国語)と同様である。だからベトナム語の中には、日本人が意味を判断できるものが少なくない。例えば、街角に《Quõc gia kiên thiêt》とあるのは、「国家建設」にちがいない。また道ばたの交通標識で、《Chú-ý>とあるのは「注意」である。サイゴンで公演していた日本歌舞団は、
Doan Ca Vu Nhât Ban (団・歌・舞・日・本)である。ベトナム語では修飾語は後からくる。
 日本はNhât Banである。ベトナムはViêt Namで漢字に直すと「越南」である。共に漢字による表記がもとになっている。

 表記法は今ではすべてローマ字である。昔は日本や朝鮮と同じく漢文が用いられた。そのほかに、「漢字かな交じり」ふうのベトナム語の文献もある。「かな」にあたるのは、チュー・ノム(字喃)といって、漢字を変形して作られた特殊な文字である。
 「ローマ字書きベトナム語の綴字は、フランス式というよりはポルトガル式である。16世紀以後、宣教師たちがこの国にやってきて、つくりあげた方式である。この書き方を、quôc nguつまり、「国語」とよんでいる。複雑な母音の区別のために、数種類の字母符号を用い、さらに5種類の声調符号をつけるので、印刷面はひじょうに複雑に見える。」(125ページ)

 ローマ字化を推進したのは植民者であるフランスの文化政策であり、その結果としてベトナム人は彼らの歴史と民族の伝統精神を失ったという説があるが、逆にローマ字化によって教育が著しく普及し、ナショナリズムが盛んになったという説もある。一行に同行しているディックにきいても、ローマ字の方が便利だから普及したのだという。〔梅棹がここで、ローマ字化によってタイプライターが使えるようになったという事情を見落としているのが、気になるところである。昔々、対フランス独立戦争を戦っていたベトミン軍の幹部がタイプライターで文章を起草していた場面を見ているので、フィールドでの観察をローマ字タイプで記録していた梅棹がそのことに共感しなかったわけではないと思うのである。〕 ベトナム語のローマ字化は、近代における文字改革の優れた成功例の一つだろうと梅棹は評価する。今後、ベトナムのナショナリズムがどんなに強くなろうとも、もとの漢字・字喃に戻そうという動きは起こらないだろうという(しかし、字喃が読めない歴史研究者ばかりになって、日本から応援に出かけているという話も聞いたことがある)。〔ベトナムの例と対比して検討する必要があるのは、モンゴルとトルコにおける文字改革であろう。〕
 日本語の表記をできるだけやさしいものにしようという意見の持主であった梅棹は、ベトナムにおける文字改革が日本にとっても有益な参考例となるであろうと論じている。もっとも、日本の現実を踏まえて、日本語のローマ字化や、かな文字化がそう簡単に成功しないだろうという見通しも述べているのである。

 ベトナム語の表記については、表記不可能な文字もあるので、できるだけ原文に近づけることにした。興味のある方は、図書館か古本屋で、梅棹のこの本を探し出して、もともとの表記を突き止めてください。そういう努力を通じて、ベトナム語を勉強しようという方が現われてくれれば、あの世の梅棹も喜ぶだろうし、また私にとってもうれしいことです。

 ヴェリ・ヴェリ・ヴェリ・ビューティフル
 一行は海岸の道を走っていくが、目のまえに拡がる景色は、大陸の赤褐色の道路を走ってきた人間にとっては美しく見える。しかし、そんな美意識を信用しすぎてはならない。風景に感動して写真を撮っても、その写真を日本に帰ってから見れば、ありふれた海岸の景色に過ぎない――と思うかもしれない(というほどに、梅棹の精神は覚めている。) ディックがヴェリ・ヴェリ・ヴェリ・ビューティフルという海岸の風景にしても、その言葉を信じない方がいいようである。

 生きている女神
 一行はニャチャンの近くにある、チャムの聖地ポー・ナガルの遺跡に到着する。ボー・ナガルは天に生まれた女神で97人の夫を持っていたという。(このような例を梅棹は何度か経験しているはずだが)その遺跡は過去のものではなく、信仰の場としてまだ生きているのである。「なかには、供えものがあり、線香がもえている。」(129ページ) それどころではない、奥から出てきた老婆に、一行は出て行けと追い払われる。チャム族に代わって、ベトナム族がこの地を聖地として維持している。実際、見ていると参詣客が絶えない様子である。境内には占いの店がいくつも出ていて、ひげを伸ばした老人が参拝客たちの運勢を占っている。

 自動式無料脱穀機
 「アンナン山脈の支脈が、海岸近くまでせまってきている。山と海とのあいだの、せまい平野に、美しい水田がつづく。あるものは青く、あるものはすでに黄金色である。」(129ページ)
 一行は、道路の上に稲束がならべてあるのに気づく。踏まないで通りすぎようとするが、上を通らずに通り抜けるのは難しい。ところが、サイゴンのロータリー・クラブで発行している観光案内書によると、道路に稲束を並べておき、自動車に踏ませて、脱穀作業にするのはこのあたりの習慣なのだそうである。
 梅棹は、この奇妙な習慣とともに、こんなことを観光案内書に書くことにも感心する。よほど書くことがないのだなという思いからである。

 永東亜旅店
 ヴァレラ岬の峠を越え、夕暮れにトゥイ・ホアの手前の川〔ダーラン川=沱浪江〕の岸に出た。橋はなかったが、渡し船で川を渡る。舟の中で一緒になったトゥイ・ホアの教会のアメリカ人の宣教師に教えられて、永東亜旅店というはたご屋に泊まることにする。
 はたご屋の中庭で、娘たちの歌を聞く。「甘い発声法、哀調をたたえたメロディー。わたしは、そのいくつかを録音する。なかに、「チャムは亡んだ」というのがある。チャムのことは、ベトナム人にとってはすでに現実の問題ではない。彼らは、亡んでいった民族の運命を歌いあげるだけの余裕をもっている。」(131ページ) この観察が正しいかどうかは議論の余地があるだろう。この後のベトナム戦争の中で、アメリカはチャム人たちを解放戦線に敵対する勢力として利用しようとしたからである。
 同じ宿に泊まっていたアメリカの若い軍人が話しかけていた。山岳地帯で軍事顧問をしているらしい若い少尉である。一人ぼっちで寂しそうであると、梅棹は観察している。

 近代における文字改革という大きな枠組みの中でのベトナムの文字改革と、その日本との関連性というような梅棹にとって(私にとっても)重大な問題が語られたかと思うと、旅行の現実の進行に話題が戻る。チャムの文明は過去のものか、なおも生き続けているのか、この問題は、梅棹がうすうすと感じているベトナム戦争の深刻化と結びついてそう簡単には片づけられそうもない。

 トゥイホアは北緯13度あたりに位置する都市〔現在の人口は20万人程度で、フ―イェン州の州都である〕なので、一行はまだかなりの道を北上しなければならない。その旅程でどのような出来事に遭遇することになるかはまた次回に。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(13)

3月11日(水)晴れ、気温上昇

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジア諸国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を実地調査した。旅行の後半、1958年2月から3月にかけては、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスの3カ国を旅行した。
 梅棹は、隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)、外務省留学生の石井米雄(後に東南アジア研究者、1929‐2010)とともに、2月12日にバンコクを出発、13日にカンボジアに入国し、バッタンバンを経てプノムペンに到着、これらの都市のほか、海岸部やトン・レ・サップ湖の周辺を探索、21日にベトナムに入国し、サイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。サイゴンから足を延ばして、タイ・ニンにあるカオダイ教(ベトナムの民族的宗教)の本部や、華僑によるコーチシナ開拓の中心地であったミートー、ベトナムにおける華僑の中心地であるチョーロン(現在はホーチミン市の一部)を訪問した。サイゴン大学関係者の協力を得て、ビザを延長し、またサイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックに通訳として同行してもらうことになった。28日、サイゴンを出発し、高原の避暑地であるダラットに向かうが、到着できず、途中の小さな町ジリンで一泊、3月1日にダラットに到着、特に見るべきものもないのですぐに退散して海岸のファンランの町に入る。

第15章 チャムの塔(続き)
 チャムの塔
 3月2日にファンランを出発して、さらに北に向かうが、その前に町の近くにあるチャムの遺跡らしい塔を見に出かけた。
 「わたしたちはいよいよ、チャムパの地域に入ってきたようだ。チャムパというのは、チャム族の国の名である。むかし、ベトナム族がトンキン・デルタの本拠から南下してくる前は、アンナン地方一帯には、チャム族がいて、チャムパという王国をつくっていたのである。」(119ページ)
 このチャンパ王国はインド文明の影響を強く受けた高度の文明国家であった。同じようにインド文明の影響を受けたクメールやモンの文明と姉妹関係になるといってもよいと梅棹は記す。彼らの宗教はバラモン教であった。そして、シヴァ神を信仰して、国内各地にその神殿をつくった。一行が訪問したのは、そのような神殿の一つの遺跡である。
 チャムパは、むしろ「チャンパ」と表記されることのほうが多いようである。占婆とか、占城と漢字で表記されることもある(林邑という呼び方がされることもある。バラモン教というのは、ヒンズー教の原型である。

 チャムパの建国は3世紀の末といわれる。当時北部のトンキン・デルタを本拠とするベトナム族は中国の支配下にあったが、中部のアンナン地方のチャム族は中国軍との間に何度も交戦を繰り返していた。その後チャムパはますます国力を蓄え、6~10世紀には最盛期を迎える。一方、ベトナムは10世紀以降、中国の支配を脱し、独立王朝〔1009~1225、リー(李)朝;1225~1400、チャン(陳)朝;1428~1527、レー(黎)朝(大越国)以下略〕の時代となるが、ベトナムとチャムパとの間に支配領域の争奪をめぐって激しい戦いが続いたのである。

 15世紀に入り、当時のレー(黎)朝の王タントン(聖宗)はチャムパ追討の大遠征軍を組織し、1471年にクヮン・ガイにおいてチャム軍を破った。続いてチャムパの首都チャバンが陥落する。〔チャムパの首都をヴィジャヤとする文献もある。〕 この敗戦で、チャム軍は6万が戦死し、王族以下3万が捕虜となって北方へ連れ去られた。この後、チャムパは衰亡の一途をたどることとなるが、その遺跡は南ベトナムのほとんど全域にわたって発見され、彼らの高度の文明生活を物語っているのである。

 チャムの末路
 「チャㇺとの闘争は、ながいベトナムの歴史をつらぬく、一本の太い糸である。世界の歴史のなかには、しばしば、となり同士でありながら、ついに一方が亡び去るまで相い争わなければならなかった民族の運命が語られているが、ベトナムとチャムパとはまさにそれであった。」(120‐121ページ)
 それから梅棹は、大和民族と蝦夷の例を引き合いに出して対比を試みているが、このあたりの歴史認識には問題が多いと思うので、省略する。
 むしろ「ベトナムとチャムパとの戦いは、ある意味では、中国文明とインド文明という、アジアにおける二大文明の、その接壌地帯インドシナ半島における決戦であったとも見ることができる」(121ページ)という指摘の方が的を射ているのではないかと思われる。

 1471年の敗戦の結果、チャムパの領土は、ヴァレラ岬以南に限定され、数世紀のあいだは、小王国として存続を許された。1720年、チャムの最後の王は、ベトナム人の圧力に耐えかねて、カンボジア領内に逃げ込んだ。その王統の子孫は、今世紀に至るまで続いていたという。「げんに、いまなおカンボジア領内には、そうとう多数のチャム族が住んでいるのである。かれらは、どういうわけかイスラム教徒になってしまっている。」(122ページ)〔このあたりの記述については、ベトナムおよびインドシナ半島の歴史についての最新の研究を参照して、点検する必要がありそうである。なおWikipediaで調べたところでは、カンボジア国内に317,000人、ベトナムに100,000人程度のチャム族が住んでいるようである。〕

 「ベトナム領にのこったものは、依然としてバラモン教を奉じているという。このファンランから南へ、ファンリ、ファンチェトとつづく海岸地方の3州には、かれらの部落がある。わたしははじめ、生きているチャム族を見るために、海岸ルートをとりたいと思ったのだが、歴史学研究所の人たちは、この道は橋がおちていて通れるかどうか疑問だといった。それで、ダラットまわりにしたのだった。」(122ページ) 〔歴史学研究所の人たちは、外国人が少数民族と接触するのを好まなかったために、嘘をついたのかもしれないという気もする。〕

 ベトナムとチャムパとの抗争をめぐる記述はここで終わり、次はベトナムの文化や言語をめぐる考察が展開される。それはまた次回に。
 この旅行に同行した石井は東南アジア、特にタイの言語、文化の専門家であったが、京都大学の東南アジア研究センター(現在は東南アジア研究所)に長く務めたのち、上智大学を経て、神田外語大学の学長を務めた。その神田外語大学に勤めていた友人・知人が少なからずいて、先日その1人の夢を見たその日に、書店で石井の『語源の楽しみ』(角川ソフィア文庫から『英語の語源』として再刊)を見かけたので、偶然とはいえ面白いと思った(こじつけっぽいかもしれない)。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(12)

3月4日(水)雨が降ったりやんだり

 1957年11月から1958年3月にかけて、著者・梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の派遣した学術調査隊の隊長として、東南アジア諸国を歴訪し、熱帯地方における動植物の生態と、人々の生活誌の実地調査を行った。この書物はその際の梅棹による個人的な記録である。この下巻では、まず、彼が隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)、通訳して同行した石井米雄(外務省留学生、後に東南アジア研究家)とともに、インドシナ3国(カンボジア、ベトナム、ラオス)を歴訪した次第が記されている。
 一行は1958年2月12日にバンコクを出発し、13日にカンボジアに入国し、バッタンバンを経てプノムペンに到着、海岸部やトン・レ・サップ湖の周辺の地域も探索して、2月21日にベトナムに入国、サイゴンに到着した。「東洋のパリ」と呼ばれるサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)には植民地時代の残影を感じて、もっとベトナムの本来の姿を見たいと思った梅棹は、民族主義的な傾向の強い宗教であるカオダイ教の本部を訪たりする。その一方で、コーチシナにおける華僑の活動の歴史をたどったりもする。

 今回から第15章に入る。「チャㇺの塔」の「チャㇺ」は、アンナン地方(ベトナム中部)の先住民族であるチャム族を指している。

第15章 チャムの塔
 「やってみることだ」
 梅棹一行は、サイゴンまでやってきたが、これからどうやって旅を続けてラオスに入国するかということについての目算は立っていなかった。「一ばん望ましいのは、南ベトナムを縦断してフエまで行き、17度線の近くでアンナン山脈を西に越えてラオスに入ることである。」(109ページ) しかし、そのルートをたどってラオスまで行けるかどうかは不確実である。北ベトナムとの国境地帯の治安は、道路の良しあしとともに、旅の行く末を左右する問題である。ゲリラが出没するという噂もある。
 大使館の人々もそれを心配したが、小川大使(当時)はゲリラにつかまればそれも一つの経験だと笑っていい、梅棹の企図を後押しした。とにかく、やってみることだ。となると、問題は、ベトナム滞在のビザを延長することである。

 サイゴン大学総長
 彼らの旅行の意義を理解し、ビザ延長に力を貸してくれそうな人物というと学術関係者であり、そのなかでも影響力のありそうな人物ということになれば、サイゴン大学の総長ということになる。梅棹はこの旅行のためにバンコクに向かう途中、サイゴンまで大阪商船のしどにい丸で旅行していたが、その際にサイゴン大学のグェン・クァン・チン総長にあっていた。さらにその後、バンコクのチュラーロンコーン大学で開かれた太平洋学術会議の際にもあっていた。それでこの地球物理学者とは3度目の対面ということになり、そのためできるだけの支援を約束しただけでなく、旅行の便宜のためにサイゴン大学の学生を1人同行させることも約束した。

 それから、文部省の文化局長にあった。この人はひじょうな親日家だということだった。それから歴史学研究所を訪れた。まだ若い感じの所長は、梅棹の顔に見覚えがあるという。昨年、アンコール・トムにジープ3台で来ていたのを見かけたというのである。「乗用車で、白人の老人と少女を案内している若い人がいた。わたしたちは名乗り合わなかったけれど、あいさつは交した。あれがこの人だったのだ。そして、驚いたことには、あの年とった白人は、ウィーンのハイネ・ゲルデルン博士だったのだ。東南アジアの民族学では、最高の権威といわれている人である。」(112ページ)
 世の中には、こういう出会いが起きるものである。ハイネ・ゲルデルン(Robert von Heine-Geldern, 1885‐1968)は、民族学、古代史、考古学者としてインドおよび東南アジアについての研究を行ったが、彼の祖父であるグスタフの兄が有名な詩人のハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, 1797 - 1856)である。そういえば、ハイネの作品の中にはアジア・東方への関心をうかがわせるものがあったような記憶がある。

 「歴史学研究所では、特にチャムの文化について語り合った。チャムの遺跡の詳しい分布図を見せてもらった。北へ旅行するなら、途中でぜひミ・ソンの遺跡を見るようにアドヴァイスを受けた。」(112ページ)

 阮?笛
 2月26日、総長に指名されたサイゴン大学文学部歴史学科の学生グェン・ニェン・ディックが一行に同行するためにやってきた。彼はフランス語を話すが、英語もよくわかるという。ベトナム人の名には、それぞれに対応する漢字がある。例えば、ゴ・ディン・ジェムは呉廷琰であり、ホー・チ・ミンは胡志明である。ところがローマ字化の浸透した世代であるディック君はグエン=阮、ディック=笛は思いだせたが、ニェンにあたる漢字はとうとう思い出せなかった。
 ラオス大使館で、山越えルートの情報が分かる。半月ほど前に、30台ほどの自動車の編隊がヴィエンチャンまで行ったという。それからビザの延長も認められた。ベトナム旅行も、ラオス行きも準備が整ったのである。

 北からの避難民
 2月28日、10時、一行はサイゴンを出発してダラットに向かう。ディック君が加わったので、総勢は4人になった。
 ディック君はハノイで生まれ、そこで育ったが、停戦協定によりベトナムが南北に分離されたときに、船に乗ってサイゴンに移ってきた。多くの人々が北から南に移ったのだが、特に知識層が多かったようであるという。ベトナムでは南ベトナムにおいてさえ、ゴ・ディン・ジェムよりもホー・チ・ミンの方が人気があるという。では、なぜ北から南に逃げてくる人が多いのだろうか。
 ビエン・ホアで昼食をとる。前回に触れたように、アンナン帝国によってコーチ・シナに土地を与えられ、その開拓に従事した明の遺臣たちが作り上げた都市の1つである。ただ、そのことについてはここでは触れられておらず、一行がこの町の郊外で見かけた北からの避難民たちの部落のことが記されている。避難民たちの住まいのみすぼらしさと対照的に、立派なカトリックの教会が見える。避難民たちは、主として宗教的な理由によって南に逃げてきたのである。梅棹はカトリックと共産主義との相容れなさに、改めて感嘆する。フランス統治下において、カトリック教会がいかに成功を収めていたかを実感する。「ベトナムの宗教事情は、日本にやや似た点もあって、ひじょうにおもしろいのだが、カトリックの浸透という点では、まるでちがっている。その点ではむしろ、朝鮮に似ている。」(115ページ)

 日本には王様がいるか?
 ビエン・ホアからダラットに向かう道はよく舗装されていた。しかし、交通量は少ない。
 途中、ディン・クァンというところで、一休みしたが、そのちかくにモイ族の部落があった。「モイ族というのは、カンボジアでプノム族とよばれ、ラオスでカー族とよばれているのと同じ民族だが、インドシナ半島における古い住民である。言語の系統からいえば、モンやクメールとともに、南アジア語族に属している。かれらの家は、ベトナム式の土間ではなくて、高床である。村には、傾斜の強い草ぶきの屋根の、小さな家がたてこんでいた。」(116ページ) 彼らの様子は「不気味な野性味をもっている」(同上)と書く一方で、彼らが「車の中のわれわれに、機嫌よく微笑んでみせる」ことも書き留めている。

 その日のうちにダラットに着くつもりだったが、その見込みがないことが分かったので、ジリンで泊まることにする。ジリンは小さな町で、付近には茶畑が多い。その外側は深い密林で、ベトナムにおける狩猟の本場だということであった。フランス人の狩猟客を対象にしていたらしい、小さなフランス宿があり、そこで「日本には王様がいるのか」、「タイは共産国ではないのか」という一種の宿泊試験を受ける。植民地の独立と共産主義の浸透の中で、旧支配国の庶民がどのように生き延びていくかの智慧のようなものを彼は感じ取る。

 高原の避暑地
 翌朝、9時に出発、ダラットには11時に着いた。ダラットはもともとサイゴンの避暑地として発達した街で、1600メートルの標高の場所にある。熱帯アジアの国々を植民地化した白人たちは、それぞれの国に経営拠点としての都市を建設するとともに、それに付属する避暑都市を、その比較的近いところの高地につくった。インドのカルカッタに対してはダージリン、ビルマのラングーンに対してはメイミョウ、インドネシアのバタビアに対してはボゴール、そしてインドシナのサイゴンに対してはダラットがそれにあたるという。「日本は植民地ではないけれど、軽井沢は、その起源においては、やはり同じように、東京在住の白人たちによって開かれたものであると聞いている。」(118ページ) 植民地であるかどうかよりも、東京は熱帯の都市ではないというところのほうが問題ではないかと思う。〔ダラットはラムドン省の省都であり、人口20万人あまりというから、軽井沢と比較するのは少し無理がありそうである。〕 
 ダラットを「発見」したのは、スイス人の医師で、フランスの植民地軍の軍医として東洋にやってきたイェルサンだといわれる。彼は有名な細菌学者であり、モイ族の調査をしたり、インドシナにゴムの栽培を導入したり、いろいろの功績を残したという。イェルサン(Alexandre Yelsin, 1863 -1943)はもともとパストゥール研究所に勤め、北里柴三郎とほぼ同時にペスト菌を発見した人物である。

 ダラットの町は、建物と道路はヨーロッパ風であるが、自然はむしろ日本に似ていて、一行は「日本に帰ったみたいだな」と言い合った。しかし、体を休めるのにはよくても、精神を刺激するようなもののないこの地には退屈さを感じ、昼食後、3時に車を出発させる。東からは鉄道が入ってきている。線路はアプト式である。「小さな汽車が、急坂をあえぎあえぎのぼってくる。1600メートルを一気にかけおりて、6時半、海岸のファンランの町に入る。明珠旅飯店というのに泊まる。」(119ぺージ)
 
 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(11)

2月26日(水)雨が降ったりやんだり

 1958年2月から3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学が派遣した東南アジア学術調査隊による研究調査の後半部分として、インドシナ3カ国を自動車で踏破する調査旅行を行った。隊員であり、昆虫学者・医師の吉川公雄と、外務省留学生の石井米雄が同行した。
 3人は2月12日にバンコクを出発し、13日にカンボジアに入り、バッタンバンからトン・レ・サップ湖の南西岸を南下してプノムペンに至り、その後、海岸部の漁港カムポットを訪問したり、トン・レ・サップ湖の北東岸を踏査したりした。そして2月21日にプノムペンを出発して、その日のうちにサイゴン(現在はチョロンとともにホーチミン市の一部になっている)に到着した。当時のベトナムは南北に分断され、南はアメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジェム政権が支配していた。梅棹たちは、サイゴンの西北にあるタイニンにあるカオダイ教の本部を見に行った。民族主義的な傾向が強く、反仏独立闘争の一勢力であったが、ゴ・ディン・ジエム政権とは対立が続き、1955年に和解が成立したところであった。そのような歴史とは裏腹に、実際に訪問した印象では、寛容で穏やかな宗教に思われた。一行はまた、メコン・デルタ開拓時代の中心都市であったミートーも訪問した。

第14章 コーチシナ平原(続き)
 明の遺臣たち
 「ベトナムの歴史からいえば、コーチシナは新しい土地である。17世紀までは、クメール人の居住地であった。いまでも、この平原の一部には、30万人くらいのクメール人がのこっているのである。」(98ページ) Wikipediaによると、現在のベトナムには約170万人のクメール人がいるそうである。
 コーチシナ平原の開拓においては、中国人が果たした役割が大きい。1680年ごろに、約3000人の中国人の武装集団がアンナン帝国の首都に近いダ・ナン(ツーラン)に入港してきた。清朝に追われた明の遺臣たちである。彼らはアンナン皇帝によってコーチシナに居住することを認められ、この新しい移住地において、自治をみとめられ、先住者のクメール人を排除しながら、この地方の開拓に従事した。またベトナム人との間に、明郷(ミンフォン)と呼ばれる混血の集団を作り出したのであった。

 中国人(梅棹はシナ人と書いているし、私は華人もしくは漢人と書く方がしっくりくるが、わかりやすくするためにこの表記を続ける)はコーチシナにビエン・ホア(邊和)とミートー(美湫)という2つの都市を作り上げた。ビエン・ホアはサイゴンの東北にあり、現在では人口100万人を超える都市である。梅棹一行はこの後、この都市を通過するが、その際の見聞はたぶん次回に述べることになる。1771年のタイソン(西山)の乱の際に、ビエン・ホアの華僑たちは、戦禍を避けて南に移り住みショロン(チョーロン、現在ではホーチミン市の一部となっている)の町を築いた。チョーロンはベトナム語では大市場という意味だそうである。
 ミートー市は静かな、美しい、落ち着いた町で、梅棹は時間が経てば中国人の町もこのように変化するのであろうかという感想を持った。

 チョーロンと華僑 → 東洋の汚いヴェニス
 「サイゴンの夜は静かである。店はみんな閉まっているし、人通りも少い。夜の都心は、サイゴンを離れてチョーロンに移る。」(100ページ) チョーロンは夜の歓楽郷であるが、日本の大都市の繁華街を見慣れたものの目から見ると、つまらないところである。もちろん、興味のある人には注目すべき観察対象であるのかもしれないが、梅棹は昼のチョーロンの方に注目する。この町の人口のほとんどが華僑である。「ベトナムにおける華僑の分布は、非常にかたよっている。全ベトナム在住華僑の90パーセント、約70万人がコーチシナにいる。そのまた約60パーセント、40万人がチョーロンにかたまっているのである。」(100ページ) その後、ベトナム在住の中国人の多くが海外に「ボート・ピープル」となって流出した時代があったが、現在でもチョーロン地区には40万人くらいの華僑が住んでいるようである(他の地域に住んでいた華僑がほとんどいなくなったということらしい)。

 「あらゆる種類の商店がここにはある。そして、この町の重要な産業の一つは、精米所である。東南アジア諸国の例にもれず、ベトナムにおいても、華僑の経済活動はまことに目ざましい。」(101ページ) しかし、ゴ・ディン・ジエム政権は華僑に対して厳しい政策をとっており、行き過ぎだという批判もあることを梅棹は書きとめている。

 サイゴン滞在中に梅棹はチョーロンに何度も出かけたと記している。陸からも言ったし、水上からも出かけた。サイゴンからチョーロンまではアロヨ・シノワ(arroyo chinois)と呼ばれるクリークを伝って、舟で出かけることができる〔arroyoというのは、インドシナで見られる自然または人工の水路のことを言う〕。チョーロンの町に出かければ縦横にクリークが走っているので、陸上に上らなくても、見物ができる。クリークの上を進む大きなジャンクも、小さなサンパンも、舟はその舳先の両側に眼玉が描いてあった。梅棹の眼前に展開したのは、エキゾチックではあるが、汚い眺めであり、チョーロンを「東洋のヴェニス」というということは、ヴェニスも同じようにエキゾチックで汚い町なのかなどと、想像をめぐらせるのであった。

 チョーロンの表通りの歓楽郷と、裏通りのクリークとを結びつけていたのが、一種の水上暴力団であるビンスエン派であったが、彼らはゴ・ディン・ジエム政権によって掃討されて、今のチョーロンは平和で安全であると梅棹は記している。

 日本東京大歌舞団
 日曜日に植物園に出かけたが、家族連れや、カメラを肩から下げた青年たちでにぎわう様子は日本と変わりないように思われた。植物園の中には興行場があって、「日本東京大歌舞団」の公演が行われていた。サイゴンでは大々的に宣伝されていたのだが、どうも聞きなれない名前の歌舞団であった(今、調べてみたのだが、1957年の12月から松竹歌劇団が東南アジア公演を行っているので、それかも知れない)。
 歌舞団に興味のない梅棹たちは植物園の中を歩き回ったが、そっちへ行ってはだめですなどと日本語で話しかけられてびっくりする。話しかけてきたのは、戦争中はまだ赤ん坊であったような青年であり、日本への関心がベトナムでは意外に高いことを彼は知るのである。

 日越同祖論
 入国する前は、ベトナムは反日的だという噂を聞いて不安だった梅棹であるが、実際に入国してみると、ベトナムは日本を見習うべきであるというような意見に接する機会が多かった。
 その理由として、日本とベトナムの人種的・文化的な近さがあるだろうと梅棹は考える。体格は日本人よりも華奢に見えるが、顔つきはよく似ている。東南アジアの人々の中ではベトナム人がいちばん日本人に似ている〔これは私もそう思う〕。
 日本人はいろいろの系統の人々の混合であるが、そのなかの有力な流れは中国の揚子江以南の「越」の地域に住んでいた人々であろうと考えられる。そして、そこから東に移住したのが日本人であり、西(南)に移住したのがベトナム人となったのかもしれない。日本とベトナムは言語的にはまったくちがうが、人種的には似ていることは否定できない。
 文化的には両方とも中国の影響を受けている。東南アジアのほかの国々はインドの影響の方が強いが、ベトナムは東南アジアの国々では唯一、漢字を使っていた。「今はローマ字を常用するようになっているが、もともとは漢字の国なのである。そして儒教の国なのである。そういう点から見ると、日本とベトナムは、同じ中国文化圏の中で育った兄弟なのである。」(106ページ)

 このあたりのことは、もう少し慎重に論じたほうがよいだろうと思う。日本人とベトナム人が似ていることは否定できないが、のちに人類学の看板を掲げることになる梅棹としては、論を組み立てるための材料を何か探すべきであったのではないかと思う。

 日本映画の夕べ
 このように日本人とベトナム人の類似性に興味を持った梅棹であったが、ある経験を通じて、今度は両者の違いのほうに気づきはじめる。それは大使公邸の庭で開かれた日本映画の会であった。観客は在留日本人会の人々で、ニュースと日本紹介の短編映画が上映された。
 その中の、日本の製薬会社で働く人々を描いた作品に登場している若い女性たちの表情や挙動、彼女たちの化粧など、どれをとっても、ベトナムで目にする同じ年代の女性たちに比べて生き生きとしていると梅棹は感じる。「何が違うのか。私のみよくわからないのだが、化粧、表情、動作のちがいのほかに、それの背景をなす、生活体系全体の性質のちがいのようなものがある。サイゴンのベトナム娘は、美しく、優雅である。しかし、映画の日本娘は、個性的で、活動的である。」(107ページ) そして日本の町屋工場の様子はベトナムの街とは似ても似つかぬものであると思った。日本は動いているが、ベトナムは静止しているというのが梅棹の見立てである。だから、ベトナムが日本をまねして、追いつこうと考えても、かなりの距離があることが感じられるし、うまくいくかどうかはわからないとも思う。こうして、梅棹は、同祖論から、両者のちがいのほうに引き戻されるのだが、海外在住の日本人が日本PR映画を見て、日本の現状を再認識することは、やはり必要なことではないかと、その経験を通じて思ったというのである。

 この箇所は、書物全体と通じても印象の強い部分であるのだが、今を去ること60年以上昔に、梅棹が観察したことが、現在の日本とベトナムの関係に当てはまるかどうかは極めて疑問である。ベトナムからの留学生を教えていた友人と、この箇所について話したことがあったが、今の日本人学生とベトナム人学生とでは、ベトナム人学生のほうがはるかに生き生きとした表情をしているし、生活にまじめに取り組んでいるという。もちろん、そういう学生が、あるいは若者がすべてだとは言えないだろうが、日本の社会もベトナムの社会も60年昔からは大きく変化していることも認めなければならないだろう。

 今回で第14章「コーチシナ平原」を終わり、次回からは第15章「チャムの塔」に入る。一行は、サイゴンから海岸線伝いにベトナムを北上し、クイ・ニョンに至る(第16章ではさらに北上してフエ、クヮン・チー、ドン・ハーから西に向かい、ラオスとの国境を超える)。梅棹はベトナムの社会と人々のどのような姿をとらえるだろうか。それはまた次回に。
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