FC2ブログ

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(22)

5月13日(水)晴れ、気温上昇

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊を率いて、東南アジア諸国を歴訪、熱帯地方における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。この旅行の後半、1958年2月から3月にかけて、梅棹は隊員である吉川公雄(医師・昆虫学者)とともに、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスのインドシナ3国を訪問した。通訳を兼ねて、当時外務省留学生としてタイの日本大使館にいた石井米雄(1928‐2010)が同行した。
 3人は2月12日にバンコクを出発、13日にカンボジアに入国し、農村やゴムのプランテーション、バッタンバン、首都プノムペン、港町カムポットなどの都市を訪れ、前年のアンコール・ワット訪問の旅と合わせて、トンレ・サップ湖の一周を完成させ、湖上の集落を訪問したりした。
 2月21日にプノムペンを出発し、その日のうちに(南)ベトナム(当時)の首都であったサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。28日にサイゴンを出発、3月5日にアンナン帝国の首都であったフエに到着した。7日にフエを出発、国境を越えてラオスに入国した。
 3月8日にラオス第2の都市であるサワナケートに到着、その日のうちにターケークにたどりつき、一泊、3月9日に大森林の中の道なき道を進み、ナム・カディンという渡し場に到着して一泊、3月10日に首都ヴィエンチャンに到着した。

 今回から第18章「高原の朝」に入る。ラオスはASEAN加盟国の中で唯一の内陸国、つまり海に面する部分がない国である。国土の70%が高原や山岳地帯だという。なお、ASEANが結成されたのは1961年、ラオスがASEANに加盟したのは1997年のことである。

第18章 高原の朝
 旅行許可証
 ヴィエンチャンはラオスを北部、中部、南部にわけると中部に属する〔この旅行では、梅棹たちはなぜかラオスの南部を旅行していない〕。ヴィエンチャンから北への旅行は困難であることが予想された。北部にある王都ルアン・プラバンならジープで行けないこともない。しかし、時間がかかりそうである。そこで飛行機で旅行することになった。ウェーハー・アカートという北ラオス専門の航空会社があるということなので、さっそく様子を聞きに出かけた。
 前回も触れたように、ラオスはこの時期、中央政府とパテト・ラオの間に協定が結ばれ、国内に平和が戻り、自由に旅行することができた。それでパテト・ラオの拠点となっているサムヌア、ポーンサリーの2州にもいくことができたが、時間と費用を考えて行き先を、シエン・クワーン(ポーン・サワン)、ルアンプラバン、ナム・ターの3か所に絞った。〔いずれも北部の都市である。〕 飛行機代は格安であったが、それでも払ってしまうと、一行の手許に残る金はほとんどなくなってしまった。
 3月11日の午前中をかけて、北部への旅行の準備をした。北部に旅行するためには政府発行の旅行許可証が必要であるが、これは日本大使館の尽力で簡単に取得できた。さらにジープを整備に出した。

 小さな飛行機
 3月12日の朝10時、飛行場に出かけた。〔現在のワットタイ国際空港とは別の空港のようである。〕 「簡素なあけっぴろげの待合室があった」(189ページ)。眼に入ったのはタイ航空の双発機、ラーオ航空の20人乗りくらいの双発機であるが、3人が搭乗するのはそれらではない。「ひとつ、格納庫の前に、豆飛行機がいた。タイ航空の双発機に比べると、大型バスの前の自転車みたいだった。それが、わたしたちの乗るシェン・クワーン行きの飛行機だった」(190ページ) これは相当なものだと、3人は覚悟を決めて飛行機に乗り込む。
 
 10時35分に飛行機は飛び立った。お客は3人だけで、そもそも座席が3人分しかなく、3人のうち1人は操縦士の隣に座るのである。操縦士はフランス人で、パイプをくわえたまま、気軽な調子で機械を操っている。目の前でたった一つしかないプロペラが回っている。下を見ると、脚の大きなゴム・タイヤが、ニョッキリつき出している。引き込み脚などという上等なものではないのである。〔この時代は、プロペラ機が一般的で、ジェット機はまれであった。現在のラオスでは、近距離の航行にはヘリコプターが使われているらしい。〕

 梅棹が、もし墜落しても新聞に載らないだろうというと、石井がそもそも載るべき新聞がないと答える。「まもなく、ヴィエンチャン平原の水田地帯は終り、山の中に入った。村も、町も、なにも見えなかった。深い森林の連続だった。ところどころ、山陵に森を切りひらいて集落が見え、森の中のひびわれのように、細い小道が見えた。メオ族の住まいであろうか」(190ページ)。
 メオ族と梅棹は書いているが、ミャオ族という方が一般的のようである。中国の少数民族である苗族で、東南アジアへと南下してきた人々も少なくなく、すでにこの書物のタイの部分にも登場した。

 飛行機は文明の第一歩である
 ちょうど1時間でシェン・クワーンの飛行場に到着した。
 飛行機はいろいろな荷物を下ろす。何のことはない、一行は雑貨運搬用の飛行機に便乗させてもらったというだけのことだったのである。
 「アマゾンの奥地あたりでも、テコテコという小型飛行機が、唯一の交通機関になっているということである。ここも同じだ。世界中どこでも、一番不便な未開発地域というものは、鉄道や自動車の段階をとびこえて、まず飛行機から交通がはじまるのである」(181ページ)。「ここでは飛行機は文明の第一歩であり、自動車が未来の目標なのである」(191‐192ページ)。
 飛行場には6,7人のメオ族が来ていた。男も女も盛装していたが、ハダシだった。「きっと山の部落から盛装で出てきて、飛行機を見に来たのだろう」(192ページ)。

 ジャール平原
 シェン・クワーン飛行場というが、ここはポンサワンというところだった。「見すぼらしいわら屋根の店が並んだ、ほこりっぽい田舎町だった。航空会社の事務所というのは、タバコ屋の店先みたいなところだったが、そこで事務員にきくと、シェン・クワーンまでは20キロ以上もあるという。バスはない」(192ページ)。その辺にいるジープを捕まえて乗ってくれというのである。
 ジープは乗り合いで、メオ族の若い夫婦が乗っていた。乳飲み子を抱えた妻の方は梅棹の家の近所に住んでいる若い女性にそっくりだと彼は思う。「まったく、メオは顔だけからいえば、日本人とそっくりだ」(192ページ)。

 道は素晴らしく、高原の眺めも晴れやかだった。地図を見ると、このあたりはチャンニン高原(Plateau du Tran Ninh)というのだが、これはベトナム語による呼び方である。「また、この附近には、先史時代の巨石文化といわれる石のカメがごろごろ転がっているところがあって、ジャール平原Plaine des Jarresなどとよばれているのであるが、これもフランス語である。ラーオ人は高原などというものには名をつけないのかもしれない」(193ページ)。〔高原に住んでいるラーオ人にとっては、高原は当たり前すぎるから名前を付けないということらしい。ジャール平原の巨石文化は、2019年にユネスコの世界文化遺産に指定された。日本からもツアーが組まれているようである。なお、1961年に、元陸軍大佐で戦後は政治家になっていた辻政信がジャール平原で謎の失踪を遂げるという事件があった。〕

 「やがて、高原の中心『都市』、シェン・クワーンについた」(193ページ)。 この後再開され、1970年代に激しくなったラオス内戦で、シエン・クワーンの町は徹底的に破壊され、ポンサワンの方がこの県の県庁所在地(郡)となったのだから、先のことを予見するのは難しいものである。

 総督閣下
 シェン・クワーンの町はずれの丘に登って町を一望する。真ん中に1本通りがあって、その両側に建物が散在しているだけで終わりである。歴史的に名高い(といっても、私は知らない)待ちにしてはあまりにもあっけない眺めである。
 シェン・クワーンは、ラーオ族がタイ族から分かれるよりずっと前からの、広い意味でのタイ族の、もっとも古い拠点の1つである。8世紀にタイ族が雲南でナンチャオ(南詔)王国を称していたころから、シェン・クワーンは伝説的なタイ族の七侯国の1つであったと考えられている。〔梅棹は「七侯国」と書いているが、どことどこがその中に数えられていたかは記していない。〕

 メコン河谷を中心に展開したラーオ系諸侯国は、チャオプラヤー川流域に進出したタイと密接な関係をもち続けるが、その中でシェン・クワーンはトンキン地方に近いという地理的な位置から、しばしばベトナムの方に密接な関係を結んでいた。タイとベトナムという、二大勢力にはさまれてしばしば紛争の地にもなった。
 1826年、ヴィエンチャン侯アーヌは、宗主国のタイに対して反乱を企てるが失敗し、ベトナムに逃げ込む。フエのミン・マン(明命)帝の支援を得て再挙を図るが成功せず、シェン・クワーンに逃げ込む。シェン・クワーン侯国のチャオ・ノーイはつらい立場に置かれるが、結局アーヌをタイに引き渡してしまう。その結果はたちまちシェン・クワーンにはねかえり、ベトナム軍の来襲を受けてシェン・クワーン侯国は滅亡、アンナン帝国に併合される。〔ヴィエンチャン侯国も滅びていたので、残るラオスの侯国はルアン・プラバンとチャムパ―サックの2つになった。〕

 インドシナを支配するようになったフランスも、この地方をアンナンと結びつけようとしてヴィン(永)からソン・カ川に沿って、バルテルミー峠を越え、シェン・クワーンに達する険しい道路を開いた。アストリッド女王道路といわれる。〔ベトナムにおける交通の要衝の1つであるヴィンは当時(北)ベトナムに属していたので、梅棹はこの道路を通ることができなかった。〕

 一行は総督閣下に会いに出かけた〔県の代表者だったら、知事のはずだが、「総督」と書いているのは、当時のラオスは現在と地方行政制度が違っていたのであろうか〕。総督は、一行のために宿舎を手配するように取り計らってくれた。
 「シェン・クワーンの町は、役所と、学校と、警察と、要するに公共施設を除くと何もないような町だった。それでも、ほんの少しばかり店があって、かごを下げた黒タイ族の娘が買物に来ている姿も見られた」(195ページ)。

 ラオスの北部に到着して、一行はこの国の少数民族を目にすることになった。新興国ラオスの直面し、解決すべき多様性を見ることになるのであるが、詳しいことはまた次回に。
 
スポンサーサイト



梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(21)

5月6日(水/振替休日)曇り、11時ごろから雨が降り出し、降ったりやんだりの空模様が続く。雨が降るだけならいいが、雷雨になる時があった。

 1958年の2月から3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊による東南アジアの学術調査の一環として、吉川公雄(医師・昆虫学者)とともにカンボジア・(南)ベトナム(当時)・ラオス3カ国を歴訪した。通訳として、外務省留学生(当時)の石井米雄(1928‐2010)が同行した。『東南アジア紀行』下巻の大部分はこの旅行の(私的な)記録である。
 一行は2月12日、ワゴン型のジープでバンコクを出発、13日にカンボジアに入国、農村やゴムのプランテーション、バッタンバン、首都プノムペン、カムポットなどの都会を訪れた。また前年のアンコール・ワット旅行と合わせ、トン・レ・サップ湖の周囲を回りきり、湖上の集落に出かけたりした。コンポン・チュナンという町では夕方の国旗掲揚式に出会い、独立国家であることの意義について考えさせられた。しかし、都市では華僑が前面に出ていて、経済活動も彼らに握られているようであった。
 2月21日にプノムペンを出発、その日のうちに(南)ベトナムの首都であったサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。東寺の(南)ベトナムは北に対抗し、アメリカに支援されたゴ・ディン・ジェム政権が支配していた。一行はサイゴン大学の協力を得て、海岸沿いに北上、かつてアンナン地方を支配していたチャム(パ)族の遺跡、16世紀末・17世紀初めに日本との貿易交流でにぎわったホイ・アンの町や、ベトナム人の阮朝の首都であったフエの宮城と皇帝の陵墓を見たりした。ベトナムの文化が中国の影響をうけながら、政治的には独立性を保とうとしてきたこと、経済活動においては他の東南アジア諸国とちがって華僑ではなく、ベトナム人が前面に出ていることに強い印象をうけた。また第二次世界大戦、インドシナ内戦の影響が各地に残っていることも感じられた。
 3月7日にフエを出発、国境を越えてラオスに入国、この日はパラーンという村で一泊、8日にラオス第2の都会であるサワナケートに到着して、入国手続きをした。この日のうちにターケークに到着。9日にターケークを出発して密林の中の道なき道を進み、11日に首都ヴィエンチャンに到着した。この時期のラオスは中央政府とパテト・ラオとの協定が結ばれて政治的な小康状態にあったのは一行にとって幸運であった。

第17章 大森林をゆく(続き)
 新聞のない都
 ヴィエンチャンではまず大使館と日ラオ商会に出かけた。駐ラオス大使は、バンコクの駐タイ大使が兼任している〔1955年から1959年までのことで、その後は現在に至るまで専任の駐ラオス大使が赴任している。歴代の駐ラオス大使の顔ぶれを眺めていたら、私の中・高校の2年後輩の名があった〕。
 日ラオ商会というのは、日本の商社がいくつか合同して作った貿易会社である。ヴィエンチャンの中央市場の前に店と宿舎があり、商会側の好意で空き部屋に宿泊させてもらうことになった。

 「ヴィエンチャンは小ぢんまりした町である。人口はどれくらいあるだろうか。どんどんふえているらしいが、5万くらいではないかしら。アジア諸国のなかでも、一国の首都としては、最小の部類に属するであろう」(180ページ)。〔ヴィエンチャンの人口は2005年の推計で70万人くらいということであるから、梅棹の訪問後50年ほどで10倍以上に膨れ上がったことになるが、それでも「一国の首都」としては大きいとは言えない。ある観光案内に「世界一何もない首都などと言われる、ゆるさが魅力」とあるほどである。〕

 ヴィエンチャンは街路は整然としているし、外見的にはいい町だが、都市として不足しているものがかなりある。上水道がなく、水売りが水を売って歩いている。電話がない。サワナケートの役所には電話があったのに、首都にはないとはどういうことかと思う。それから新聞がない。少なくとも日刊紙がない。英語やフランス語の新聞がないだけでなく、ラーオ語の新聞もない。電灯はあるが、夜はあまり明るくならず、役に立たないという代物である〔これらの「不足」は現在では解消されている。現在ではラオス政府発行の英語とフランス語の新聞があり、ラーオ語の新聞も発行されている〕。

 さらに、ラオスには鉄道がない。アジアの国々で、鉄道がないのは他にアフガニスタンとブータンくらいである。〔ラオスにはフランス植民地時代に鉄道が敷設されたが、第二次世界大戦中に廃止されたのである。その後、2009年にタイのノーンカーイとラオスのターナレーンを結ぶ鉄道が開通、その後ヴィエンチャンまでの延伸も計画されたが、今のところ実現していないようである。この書物の215ページの地図を見たところでは、ノーンカーイとヴィエンチャンは間にメコン川が流れているだけで、きわめて近いはずだが、実現していないのはどういうことであろうか。なお、この東南アジア旅行に先立って1955年に梅棹は京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊の一員としてアフガニスタンを訪問している〕。

 それでも、街を歩いているうちに、ちょっと気の利いたレストランを見つけた。フランス料理店だが、一行が食べたいのは(前回述べたように)カレー・ライスである。その日はできないというので、翌日に予約を入れて、ようやく食べることができた。なかなかうまいカレー・ライスで、吉川がおかわりをしたほどである。

 まんなか通行
 自動車はあまり多くないが、市内には一方通行の標識が多い。これはフランスの影響らしい。タイは日本と同じように左側通行、ベトナムはフランスと同様に右側通行であるが、ラオスはまんなか通行だという冗談がある。向こう側から車が来ることはほとんどないからだというのである。
 ラオスではガソリンは統制になっているが、闇で手に入れることもできる。しかしひじょうに高い。
 ラオスの経済はどうも奇妙なことになっているらしい。東南アジアで唯一の内陸国なので物資の大部分はタイから入ってくるのだが、密輸も相当盛んなようである。何しろ、メコン川は小舟でも渡れるのである。自動車などもカンボジアから運んでくればそうとうに儲かるという。なぜかラオスにはベンツが多く、特にヴィエンチャンの街で見かけるタクシーはやたらにベンツが多い。

 「通貨の単位はキップという。ドルに対して35キップというのが公定レートだが、実際ははるかに弱い。3分の1くらいではないだろうか。要するに、この国の経済はめちゃくちゃな状態に陥りつつあって、もしアメリカの経済援助がなければ、どうにもならぬというのが実情のようだ」(183ページ)。〔現在でもラオスの通貨はキップであり、100キップが約1.3円、1ドルが8571キップというのだから、梅棹が訪問した時期よりもさらに弱くなっているようだ。この後、ラオスは米国の影響下から旧ソ連の影響下に移り、現在では中国との関係が強くなっているようである。〕

 「政府」という名の建物
 「新生ラオス王国は、大急ぎで国家の体裁をととのえつつあるようだ。あちこちに、新しい建物をたてている」(183ページ)。国会議事堂もできた。中央政府とパテト・ラオの間に休戦協定が成立して、補欠選挙が行われるという。国会議員の「定員がふえて、このかわいらしい議事堂に入りきれるだろうか」(183ページ)。 
 議事堂の向かい側には「政府」という名の建物が建っている。たいして大きくもない2階建ての建物であるが、この中に政府諸機関がすべて収まっているのだという。この国では、何かというとすぐに大臣が出て来る。まだ訓練のできた官僚が少ないのである。

 「この国は、まったく小国の代表みたいなものである」(184ページ)と梅棹は観察する〔老子は「小国寡民」を理想としたが、そういう発想は梅棹にはない〕。ハンディキャップは多いが、それでも国連に加盟し、国際社会の一員として活動している。梅棹はベトナムで、通訳を務めてくれたディック君がラオスが国連に加盟しているのに、どうして(南)ベトナムが加盟できないのかと悔しがっていたのを思い出す〔ベトナムは当時、分断国家で両者の合意が成立しなかったから加盟できなかったのである。現在はもちろん、加盟国になっている〕。

 日本人は東南アジアの国々を、いわばドングリの背比べくらいに思っている人が多いが、たいへんな間違いである。国力に大変な差があると梅棹は観察する。国力を何で測定するのかは意見が分かれるところであろうが、この一帯でもっとも強大なのはタイである。「これは、ひじょうに内容の充実した近代国家である」(184ページ)と梅棹は評価している〔現在の眼で見ると、やや過大評価の感がある〕。「ベトナムは、もし南北が一体となれば、あるいはタイ以上に実力をもつようになるかもしれない」(同上)。カンボジアは1ケタ下がり、ラオスはさらに低いところにある。「小国をあなどるわけでは決してないが、現実の力と比重とは、つねに正確に知っておく必要がある」(同上)という。

 ラオス王国の紋章は傘の下に3頭の象を配したものである。国旗もこれを白抜きにしたもので、「白傘万象の国」というのがラオスの愛称である。一行はサワナケートでラオスの国旗を買って、ジープに取り付けてここまでやってきた。「かわいい図案である」(同上)と梅棹は思う〔『ひらめきをのがさない! 梅棹忠夫、世界のあるきかた』(勉誠出版、2011)の73ページにこの紋章の写真が掲載されている。1975年に王政が廃止され、人民民主共和国になった現在では紋章も国旗も変わっている〕。

 ラオス国家
 メコンの岸を歩いていると、黒帯を締めたフランス人の先生が柔道を教えているのが見えた。梅棹はプノムペンでも柔道教室の看板を見たことを思い出す。「柔道は、いまや完全に国際スポーツである」(185ページ)。〔前掲『世界のあるきかた』の74‐75ページにこの場面の記事が写真とともに掲載されている。梅棹は別のところで、「柔道の起源は日本に発するが、今や世界人類の共有するスポーツであって、日本人の独占物ではない」(『実戦・世界言語紀行』、217ページ)と書いている。〕。

 柔道の広場の近くに、オーギュスト・パヴィの銅像が立っていた。「ラオス強奪の張本人である」(185ページ)。
 ラオスはもともと一つのまとまりのある国ではなく、ルアン・プラバン、ヴィエンチャン、チャムパ―サックとそれぞれ別の3つの王国であった。そして、それぞれがタイの従属国だったのである。

 フランス人は、コーチシナ(ベトナムの南圻地方)を手に入れると、メコン流域において活発な探検活動を開始する。1866年に始まるドゥダール・ド・ラグレーの探検隊は、メコンをさかのぼって中国の雲南省に達した。フランスが目指していたのは、コーチシナから中国奥地に至る水路を発見することであった。しかし、メコン川には滝や急流がいくつもあって、船で遡上することは不可能であることが分かった。
 オーギュスト・パヴィのラオス探検はこのラグレーの探検のあとをうけて、1879年から15年間にわたりつづけられたものであり、ラオスが植民地として有望であることが分かると、フランス政府はタイ政府に向けて軍事的な圧力をかけて、ラオスの3王国の支配に成功するのである。

 フランス領となってからも、なおラオスがまとまった一単位となったわけではなく、ルアン・プラバン国王領は保護領で、ほかの地域は植民地であった(らしい)。ルアン・プラバン王国のシーサワンウォン王(1885‐1959)を、ラオス国王として扱ったのは、実は1945年の日本軍にýる「仏印処理」が初めてのことであったと梅棹は記す。戦後、フランスもそれに倣って、ルアン・プラバン国王の下に統一ラオス国家の成立を認めたのであった。〔ヴィエンチャン王国の王統は途絶えていたが、チャンパーサック王国の継承者=ブン・ウム殿下がいたので、その処遇が問題となった。〕

 「ラオスは、フランスがタイからいわば強奪して、むりやりインドシナ連邦に編入した地域である。そもそもインドシナという概念が、フランス製なのだ。もともとそういう実体があったわけではない。フランスは、領有時代にその実体を作りあげようと努力したが、成功したとはいえない。ラオスはもともと、ベトナムやカンボジアとよりも、タイとこそむすびついているのである。メコンの流れは、ラオスとタイをへだてるよりも、むしろ両者をむすびつける役割りを果たして来たのであった」(187ページ)。

 これで第17章「大森林をゆく」は終わり、次回から第18章「高原の朝」に入る。一行は、首都ヴィエンチャンからかつて半独立王国の首都であったシエンクワーン、王都ルアン・プラバン、雲南国境に近いナム・ターの3都市に足を延ばす(飛行機での旅行となる)。「高原の朝」という章題は牧歌的に聞こえるが、シエンクワーンの周囲のジャール平原はラオス内戦の主戦場の一つであり、内戦休止期間の貴重な探訪であった。
 私の中学・高校時代はベトナムよりもラオスの内戦の方が世界の注目を集めているところがあった。梅棹の訪問の直前である1957年7月に中立派のスワンナ・プーマ殿下(1901‐1984、シーサワン・ウォン王の一族で、ルアン・プラバン副王の家系の出身)が首相に復帰、異母弟であるスパーヌウォン殿下(1909‐1995)の率いるパテト・ラオとの和平が成立、11月に「国民連合政府」が成立した。梅棹の訪問はラオスがこの政権の下にあった時代のことである。ところが、この旅行記でも触れられているように1958年の5月に行われた補欠選挙で左派が躍進、これに危機感を抱いた右派と中立派の一部の動きにより、6月に「国民連合政府」は解体して、ラオスはまた内戦状態となる。右派の指導者であったブン・ウム殿下(1911‐1980)は旧チャンパーサック王家の末裔であり、このあたりなかなか複雑である。このあたりのことは、またさらに詳しく触れることになるかもしれない。 

 私の友人・知人、あるいはそのまた友人・知人でラオスに出かけたという人は少なくないし、ラオス人の知り合いもいないわけではない。ということで、私の後輩が駐ラオス大使だった時に、ラオスに出かけておかなかったのは失敗だったと思っても、今となっては遅い。そんなことも考えながら、書き進めていたので、少し冗長になったかもしれない。以上述べたような書き手の都合をご理解の上、ご容赦ください。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(20)

4月29日(水/休日)晴れ

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年11月から1958年3月にかけて、当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、5人の隊員とともに東南アジアを訪問、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌の調査を行った。この旅行の後半、1958年2月から3月にかけて、彼は隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)とともに、カンボジア、(南)ベトナム、ラオス3カ国を自動車旅行した。外務省留学生としてバンコクに滞在していた石井米雄(1928‐2010)が通訳を兼ねて同行した。この書物の下巻の大部分は、この旅行の個人的な記録である。
 一行は2月12日にバンコクを出発、13日にカンボジアに入国し、農村やゴムのプランテーション、バッタンバン、プノムペン、カムポットのような都会を訪問し、トン・レ・サップ湖の周囲を回っただけでなく、湖上の部落を訪問したりした。2月21日にプノムペンを出発し、その日のうちに、(南)ベトナムのサイゴンに到着、コーチシナの文化と歴史を実地に見聞した。28日にサイゴンを出発、サイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックが通訳・案内係として(フエまで)同行した。ベトナムの中圻(アンナン)地方ではベトナム民族とチャム(パ)民族との抗争の歴史をたどり、アンナン帝国の首都であったフエでは、ベトナム文明が中国から受けた影響と、独自のものをめぐり日本との比較を試みたりした。
 3月7日、フエを出発、西に進んで、ラオスに入国する。アンナン山脈の東側=ベトナム領内では雨季で青々としていた森林が、西側=ラオス領内では乾季で、森の木が黄葉し、落葉しているのを見る。途中で一泊し、8日、ようやくメコン河岸の都市サワナケートに到着する。ここで態勢を整えて、ターケックを経て、ヴィエンチャンに向かう。ヴィエンチャンへは大森林のなかの道なき道を進まなければならない。

第17章 大森林をゆく(続き)
 輸送特攻隊
 「道はいよいよものすごい。ほんとにこれは、道路といえるしろものではない。森林の中の、地表のこまかな波を、一つ一つ、そのまま上ったり下ったりして越えてゆくのである。一ばん閉口するのは、谷を越えるときだ。まるで、ひよどり越えの逆おとしだ。急転直下で谷底まで下りて、そしてまた、むこう側は40度くらいの傾斜をかけのぼる。こんなことを、なんべんくりかえしたことだろう。ギヤはそのたびに、前輪・低速である」(175ページ)。

 自分たちがジープを使用しているのは正解であったと梅棹は思う。しかし、この道を普通の乗用車で通る人々もいるという。何台もの自動車が隊列を組んで出かけるというのが秘訣だそうである。「まったくいい度胸である。まるで輸送特攻隊だな」(175ページ)。谷底には丸太を何本か並べただけの橋がかかっている。たよりないが、その橋を渡る以外に手段はない。3人のうち2人が車を降りて、橋脚など調べてから車を誘導する。こういう状態では、たしかに雨季の旅行は無理である。

 おとし穴からの脱出
 日が暮れてから差し掛かった丸太橋は、これまでの橋よりもさらに頼りなかった。案の定車を乗せると、丸太の一本が折れて、跳ね上がり、ジープの後輪が丸太の間に落ち込んで、車体が傾いた。なんとか後退しようとするが、うまくいかない。野営することも考えられるが、吉川も石井も反対する。喉が渇いていては、野営どころではない。やってみれば何とかなるという石井の言葉を受けて、丸太を何本も車体の下に突っ込み、全速でバックしたところうまく脱出できた。辺りはもう真っ暗闇である。

 経済飯店
 橋を渡らずに、横を迂回する。暗闇の中をゆっくり前進する。道ばたの森の中で野獣の眼がきらりと光るのが見えた。やがて人家の明かりが見えた。それは渡し場だった。ホーンを鳴らすと、対岸から丸木舟がやってきた。車は翌日に渡すというので、そのままにして、丸木舟で対岸に渡る。この渡し場はナム・カディンと言い、いくらか人家もあり、めし屋もあった。そのめし屋で泊まることにする。経済飯店というのが若い中国人が経営するその店の名前である。

 主人は、一行が日本人だと知ると、急に態度を改めて好意的になった。戦争中、日本軍の兵士たちに世話になり、いろいろなことを教えてもらったことが忘れられないらしい。主人は一行の遭遇した災難に同情し、一行が難渋した丸太橋の辺りは、トラや狼が出る恐ろしい場所だと言った。〔トラというのはインドシナトラで、ミャンマーからマレー半島にかけて生息する。近年は絶滅危惧種になっているようである。オオカミについては、どうもよくわからない。〕
 一行はやたらとジュースを飲み、こんなに飲んでおかしいだろうというと、主人は、もっとすごいのが来たことがあると答える。
 二人連れの白人で、それぞれがオレンジジュース4本とビール2本を飲み、うどん2杯を平らげて、それから「さあ、めしだ」と叫んだそうだ。2日間、飲まず食わずで森林を走り抜けてきたのである。〔それよりも、ラオスにうどんがあるということの方が気になる。〕
 この経済飯店には相客がいた。こちらはアメリカ人3人とラーオ人1人のグループで、USOMの職員で農業顧問だという。かれらはラオスの南部の町パークセーまで行くことになっている(つまりこれから森林に突入するのである)。〔USOMはthe United States Operations Missionの略称で、これはUSAID(United States Agency for International Development)の前身となる機関らしい。アメリカの対外援助のための機関である。パークセーはサワナケートと並んで、ラオス第2の都市とされ、人口は87,000人ほどである。サワナケートよりも、さらに南の方にある。〕

 ヴィエンチャンへ
 翌朝、一行は6時に起きる〔梅棹は朝に弱いから、たいへんだったろう〕。渡し舟はUSOMの車を対岸に渡し、その帰りに一行の車を運んできた。
 ナム・カディンからの道はよく整備されていた。やがてはこのような道がターケークまで通じることになり、梅棹一行の苦闘は昔語りとなるであろうと彼は予想する(その通りになった
 
 もう一つ渡し場を渡り、パークサンの町に入る〔同じような名前の町が多くて大変である〕。「ターケーク以来最初の町である」(179ページ)と梅棹は書いているが、パークサンは現在でも人口3万に満たないようので、日本の基準に照らしても「町」である〕。
 「パークサンはお寺のお祭りでにぎわっていた。ラーオ人の娘たちが、片肌脱ぎのきらびやかな盛装で、通りを歩いていた。わたしたちは、目をみはってながめた」(179ページ)。

 街道から少し離れて、メコン川の本流を身に出かけたところ、この土地で37年間、教育事業を続けているフランス人の神父から話しかけられる。先生が11人、生徒が120人ほどだというが、立派な建物の学校である。〔ほかにもこのような学校があるのかどうか、気になるところではある。ラオスの人と何度か話したことがあるが、この種の学校の卒業生である可能性もある。〕 

 ラオスの首都であるヴィエンチャンまでの最後の行程に入る。「しだいに平野がひらけ、村があらわれてくる。文明に近づいてきたようだ」(180ページ。梅棹は文化と文明を独特のやり方で区別しており、ここで「文明」と言っていることに注意が必要である)。梅棹、吉川、石井の3人が3人とも、ヴィエンチャンにたどりついたらライス・カレーを食べようなどと言いながら、車を走らせる。昼過ぎにヴィエンチャン市街に入る〔次回に詳しい話を読んでいくことになるが、この当時のヴィエンチャンの人口について、梅棹は5万人くらいではないかと書いている。現在は80万人を超える人口があるから、この60年ほどの間に急速に人口が増加したのである。〕

 第22章でふれられることになるが、梅棹が通過したサワナケートや、ナム・カディンの渡し場はその後のラオス内戦で激戦地となる。ラオス国内で対立していた勢力の間で和平が成立していた時期に旅行したのは幸運であったということである。この時代、ラオスはまだ王制を敷いていて、政府はヴィエンチャンにあるが、国王はルアンパバーン(当時はルアンプラバンという呼び方が一般的だった)にいた。梅棹はルアンプラバンも訪問することになるが、それは第18章に入ってのことである。次回はまだ第17章の残りを見ていくことになる。
 昨夜は、夕食後眠ってしまい、皆様のブログを訪問できませんでした。あしからず、ご了承ください。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(19)

4月22日(水)曇り、夕方一時雨

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は、当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊を率いて、東南アジア諸国で熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌の調査を行った。その後半、梅棹と隊員の吉川公雄(医師・昆虫学)は、それまで主な調査を行ったタイを離れて、インドシナ諸国を自動車に乗って歴訪した。外務省の留学生であった石井米雄(1928‐2010)が通訳として同行した。
 3人は1958年2月12日にバンコクを出発、13日にカンボジアに入り、カンボジアの農村部やプランテーションのほか、バッタンバン、(首都)プノムペン、カムポットなどの都市、トンレ・サップ湖の周囲と湖上の集落を訪問した。農村部ではクメール人の姿をよく見かけたが、都市では中国人の姿が目につき、クメール人はほとんど見かけなかった。
 2月21日、プノムペンを出発して、その日のうちに南ベトナム(当時)の首都であったサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。2月28日にサイゴンを出発、北ベトナムとの境界近くのフエを目指して北上した。北に進むにつれてフランス植民地時代の影響が薄れ、伝統的なベトナムの特徴があらわれてきた。また、この国では東南アジアのほかの国々とちがって華僑の影響力が強くないことも目についた。かつてベトナム民族と激しく対立・抗争したチャム(パ)族や、ベトナムの独立王朝であったアンナン帝国(阮朝)の遺跡を見て、3月7日に国境を越えてラオスに入った。

 今回から、ラオスを舞台とする第17章「大森林をゆく」に入る。

第17章 大森林をゆく
 国境守備の屯田兵
 「まったく、こんなへんてこな国境越えは、はじめてである。わたしたちは、知らぬまによその国に入ってしまったのだ。」(166ページ) 一行の到着を知って、はだしの兵士たちが大勢集まってきた。その中から将校らしいのが出てきて、旅券を見せろという。ラオスでは石井のタイ語が通じるので、お互いの話は分かる。正式の入国手続きは、サワナケートでしなければならない。しかし、その前にいちおう旅券のチェックをしておくというのである。しかし、本当のところ、かれらには手続きのことはわからず、「小学生の雑記帳みたいなノートに、ゆっくりゆっくり名まえを書きうつすだけである。」(166ページ)

 彼らはラオス国軍の兵士であるが、国境警備の屯田兵である。家族とともに、その辺で田んぼをつくり、川で魚を取って自給生活をしている。なかなか親切で、かれらのアンペラ小屋に連れて行って、いろいろともてなしてくれた。
 旅券の検査が終わり、旅券を一行に返してから、将校はあなた方はどこの国の人ですかとたずねた。一行のジープには日章旗が取り付けてあるし、旅券は日本政府の発行したものである。が、日本の国旗がどのようなものかも知らないし、旅券の字が読めないのである。
 「しかし、かれらの無知を笑うことはない。かれらは、忠実にラオス王国の国境守備の任務を遂行した。しかも旅行者には親切で、善意にみちていた。そして、これからの道を、ていねいにおしえてくれた。」(167ページ)

 雨季から乾季への一時間
 ラオス国内に入ってから、道は格段に悪くなった。自動車1台がやっと通るだけの幅しかない、叢林の中のただの小道が続く。「まるで、自動車にのってヤブくぐりをしているようだ」(167ページ)。フランス領時代につくられて以来、補修されなかったらしく、荒れ放題である。
 ベトナム領内を走っていた時には、雨の中を走っていたのが、ラオスに入ってからは空はからりと晴れている。ベトナム領内のアンナン山脈の東斜面は雨季で、常緑の森におおわれていたのが、山を越えたラオス領内の西斜面は、乾季で、森の木は黄葉し、落葉している。「わたしたちは、雨季から乾季へ、わずか1時間ばかりでとび移ったのである。」(168ページ)

 チェポンの村では、黄色い衣の坊さんがあらわれてきた。一行は小乗仏教の世界に戻ってきたことを実感する。
 6時過ぎ、パラーンという村に着いた。少し大きな村で、時間的にサワナケートまで行きつくことは、とうてい無理だと判断してこの村で泊まることにする。村の駐在所の巡査に相談すると、雑貨屋ならばとめてくれるかもしれないといわれる。
 雑貨屋の主人である太った老人によると、戦争中は日本人の兵隊がここまでよく来たという。日本兵のくれた薬は、とてもよく効いたという。そして、一行を2回に泊めてくれた。
 一行は巡査と一緒に雑貨屋の向かいの中国人の店で食事をした。彼はいろいろと料理を注文してくれ、先に帰っていった。勘定はこっちもちで、石井によると、これはラオスでは普通の習慣だという。

 メコン河岸に達す
 翌朝早く、起きてみると、一行が泊まっていた2階は、清潔できちんとした部屋だった。さらに、主人である老人の言いつけで、子どもたちがジープをきれいに洗っておいてくれた。新設に感謝し、お礼にキニーネの小瓶を進呈して出発する。
 はじめのうちは乾燥した落葉樹林を走っていたのが、山を下ると緑の木立がふえてくる。雨緑林から常緑広葉樹林に変わってきたようである。ということは、メコンの河谷に近づいてきたということでもある。

 サワナケートに向かう途中のセノにはフランスの駐留軍基地があった。ラオス独立の際のジュネーブ協定によってラオスにはまだフランス軍が駐留していることは承知していたが、それでもぎょっとしたと梅棹は記している。〔この当時、日本国内には現在よりもはるかに多い米軍の基地があったことについて、何も言及していないのは、どういうことであろうか。〕

11時前、メコン河ぞいの都会、サワナケートに着いた。梅棹が「都会」と書いているように、ラオスでは現在第2の人口(ウィキペディアによると12万人)を有し、町の中心部の写真を見ても都市としての風格を備えている。なお、この都市は2005年にラオス人民民主共和国(1975年に王国から移行)初代首相であったカイソーン・ポムウイハーン(1920‐92)の生誕85年を記念してカイソーン・ポムウィハーンと改称された。彼がここで生まれたのを記念した命名であるが、依然としてサワナケートの方が通りがいいようである。
 到着すると、すぐにバンガロウを訪れる。汗を流すと、すぐに市内に散歩に出かけた。バンガロウの裏はすぐにメコン河が流れている。おそらく、戦後、日本人として初めてのベトナムからラオスへの山越えに成功したという実感を噛み締める。乾季で水量が少ないといわれていても、メコン河は満々と水を湛えてゆったりと流れ、対岸のタイの国土もかすかに見えた。

 厚生大臣候補
 大阪市大の調査団に先立って東南アジアを訪問した稲作調査団もサワナケートを訪問していたので、その際に通訳として同行していた石井は、バンガロウのおやじと顔なじみである。バンガロウのおやじさんは一行のためにいろいろと奔走してくれた。
 入国手続きは警察で簡単に済んだ。いちばんの問題はガソリンの入手である。(南)ベトナムではガソリンは自由に買えたので、フエで予備タンクにまでいっぱいに詰めて、ここまで走ってきたのである。ラオスでは油は統制されている。役所でクーポンをもらわなければ買えないのである。クーポンをもらうのはかなり難しいという。
 バンガロウのおやじに連れられて役所に出かけ、心配しながら待っていたが、役人は一行が日本人だというのでヴィエンチャンまでの分として100リットルくれるという。一行は大型のジープに乗っているので、本当は120リットルくれるとありがたいと言ったところ、そういう半端なクーポンは出せないといって、200リットル分のクーポンを出してくれた。
 早速ガソリン配給所に出かけ、予備タンクまでいっぱいにして、まだ足りないので、空き缶を2缶買って詰め込んだ。

 バンガロウに戻って昼食を食べながら雑談していると、吉川が医学博士だということを聞いたバンガロウのおやじがぜひラオスに残ってほしいと言い出す。フランス人の医者はラオス人を診察してくれない。サワナケートからヴィエンチャンの間には1人も医者がいない。ラオスには1人しか医学博士はおらず、その1人は現在の厚生大臣だという。吉川がラオスに残れば厚生大臣になれる。とはいえ、一行は先を急いでいる。この日のうちにメコンのさらに上流にあるターケークまで行きたいと考えている。
 ターケークまでは約100キロ。5時に到着。バンガロウに入る。久しぶりに洋食を食べ、ぶどう酒を飲んだ。〔ターケークも一応都市としての体裁をもつ町のようであるが、サワナケートよりも人口は少なく、ウィキペディアによれば85,000人ほどである。〕

 大森林をゆく
 3月9日、ターケークの郵便局に行って、サイゴンの日本大使館あてに、無事国境を通過したという電報を打つ。
 ターケークからヴィエンチャンの間は音に聞こえた悪路である――というよりも、道路に予定されているところを強引に車で通過しているというだけのことである。稲作調査団の一行はやむなく、タイ領内に入って北上したということである。その時は雨季で、その時よりも乾いているから何とかなるだろうけれども、途中何が起きるかわからないということで、キャンプを覚悟してクラッカーと清涼飲料水を買い込んだ。

 バーン・ポーンという村まではまずまずの道だったが、それから先はすごいことになってきた。「大森林のなかを、ほそぼそとわだちがつづいている、という感じだ。」(173ページ) 
 しかし、「ほんとうの原始林のなかを走っている」(174ページ)ということで、一行の心は楽しい。黄褐色の落葉樹林と巨大な常緑樹林とが交互に現れ、ときどき小さな村や、小さな流れに出会う。車をとめて昼食をとると、一面にたくさんの蝶が舞っている。一行の昆虫採集箱はたちまちいっぱいになる。

 フランス人とインド人を乗せたジープと、その後、ラオス人を乗せた車に出会った。その後は何にも出あわず、森のなかをよたよたと走り続ける。
 「まったく、ラオスという国は立派な国だ。パテト・ラオのゲリラ戦は、ラオス全土を戦いにまきこんだというが、こんなところで、一たいどういう戦争をしたのだろうか。森を相手に戦争したのだろうか。」(174ページ) 梅棹が東南アジアでの戦争体験をしていたならば、別の感想があったかもしれない。

 梅棹一行のラオス旅行は今から60年以上も昔の話であり、今ではヴィエンチャンとサワナケートの間には立派な道路ができて、バスも通っている(サワナケートには空港もある)ということである。それだけに、この旅行の価値は計り知れないものがあるともいえよう。一行はヴィエンチャンを目指して森の中を進むが、この後どういう事件が起きるかというのはまた次回に。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(18)

4月15日(水)晴れのち曇り

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年から1958年にかけて、当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、東南アジア諸国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。旅の後半、彼は隊員の吉川公雄(医師で昆虫学者)とともにカンボジア、(南)ベトナム、ラオスの3カ国を探訪する自動車旅行を試みた。当時外務省留学生としてバンコクに滞在していた石井米雄(1928‐2010)が通訳を兼ねて同行した。
 一行は1958年2月12日にバンコクを出発、2月13日にカンボジアに入国、内陸部のバッタンバン、首都プノムペン、海岸部のカムポットなどの都市のほか、トン・レ・サップ湖周辺の農村、湖上の集落などを訪問した。21日にプノムペンを出発して、(南)ベトナムに入国、コーチシナ地方の中心であり、当時のベトナム共和国の首都であったサイゴンに到着した。サイゴン大学の協力を得て滞在期間の延長に成功した一行は、サイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックの通訳としての動向を得て、フエまで北上、南ベトナムを縦断した後に、西へと進路を変えてラオスにむかおうとする。各地でベトナム族と抗争したチャム族の遺跡に出会ったほか、ホイ・アンでは17世紀の初めに日本人が貿易にこの港までやってきた痕跡を訪ねることができた。一行は「雲の峠」(コル・デ・ニュアージュ」という難所を越えて、旧アンナン帝国の首都であったフエに到着した。

第16章 大官道路
 ベトナム人の悪口をいうやつに、のろいあれ!
 3月6日、フエの町の中をドライブしようとしていたところ、モーターバイクとの衝突事故が起きた。巡査がやってきた取り調べが始まった。被害者は、そばにいた爺さんと口論を始め、何が起きているのか全く分からない(ディックは知り合いの家にとまっていたので、この場にいなかった)一同は不安になる。
 そこへ巡査を従えて中年の恰幅のいい紳士がやってきた。警察のえらい人らしいと思った梅棹は、フランス語で話しかけるが、彼は鈴木という日本人であった。この地で警察に勤めているという。彼のおかげで事態を掌握することができた。被害者は自己は自分の落ち度であることを認めているのだが、そのわりに態度が横柄だと目撃していた爺さんにいわれて口論になったのだという。  梅棹は胸をなでおろす。ベトナム人は反日的で向うが悪くても日本人に罪を着せると聞いていたが、まるで反対である。「かれらは公平で善意にみちている。ベトナム人の悪口を言うやつに、のろいあれ!」(157ページ)

 脱走兵鈴木曹長
 聞くところによると鈴木は保安局で柔道を教えている。終戦の時に脱走してこの地にたどりつき、もう17年になるという〔終戦は1945年で、この時点で1958年であるから数が合わない〕。ベトナムの夫人と結婚して子どもも3人でき、すっかりこの土地になじんでもう日本に帰るつもりはないようである。北部管区の警察官は皆、彼に柔道を教わっているので、何かあったら、警察で彼の名前を出せば役に立てるだろうという。
 一行は前日にコル・デ・ニュアージュで出会った陸軍大尉に昼食に招待されていたが、鈴木はその人物も知っているという。大尉の家でベトナム料理のもてなしを受ける。「出されたヌォック・マムは、今まで経験したうちで、いちばん上等だと思った」(159ページ)。〔ヌォック・マムは東南アジア諸国で調味料として用いられている魚醤で、梅棹は「しょっつる」と同系統のものとしている。後に一時期梅棹の助手をつとめ、学術調査において「料理長」として才能を発揮した石毛直道に魚醤についての研究がある。〕

 フエの宮城
 フエはフランスふうにユエと発音されることもある(ベトナム戦争が盛んだったころはユエの方が通りがよかった)が、アンナン帝国の首都であった。「静かな、落ち着きのある、北京や京都とどこか一脈通ずるところをもった、いかにも旧都らしい都市である」(159ページ)。市の中央部を流れる川は、「香河」(香江、梅棹はよみ方が分からないと記しているが、フオン川である)と言い、その名にふさわしい清らかな流れだが、水量が多く、ゆったりと流れている。川には屋形船が浮かんでいて、そういう情緒のある流れである。〔北京や京都というのが梅棹らしい感想である。貝塚茂樹は、京都と西安(昔の長安)が似ていると書いていたと記憶する。屋形船というのは、梅棹の短絡的な観察で、この川には船上生活をしている人々がいるのである――屋形船は彼らの金を稼ぐための手段なのである。〕

 ここにはグェン(阮)朝150年〔正確には1802年から1945年まで〕の宮城と歴代皇帝の陵墓がある。宮城内に入るには、政府の観光局の許可がいるが、その許可は簡単に下りた。一行は鈴木に案内されて中を見て回った。宮城は内戦でだいぶ破壊されたというが、それでもまだ多くの建物が残っていて、昔のアンナン帝国の栄華をしのばせるのに十分である〔現在ではユネスコの世界遺産に指定されている〕。
 「宮城の建物は、どれを見ても美しく、芸術的にほんものである。・・・それはアンナン帝国の歴代皇帝たちの芸術的なセンスの高さと、帝国そのものの充実した文明をものがたっているようである。」(160ページ)

 梅棹はこれらの建物を見て、惹きつけられるのは、日本の文化もベトナム同様に中国の影響を受けてきたからであり、中国の影響という点で日本とベトナムには共通するものがあると考える。それだけではない。「古代以来、両者とも、中国文明圏の縁辺部に位置して、政治的には強く中華帝国に反発を示しながらも、文化的にはその深刻な影響をうけざるをえなかった、一種の周辺国家なのである。しかし、全体としていえば、日本よりこの国の方がはるかに強く中国的である」(160‐161ページ)というのが彼の下した結論である。

 皇帝の陵墓
 一行は郊外に車を走らせて、歴代皇帝の陵墓を訪問した。最初に見たのは、第11代カイ・ディン(啓定)帝(在位1916‐1925)の陵墓である。基本的には中国ふうであるが、洋風の部分もある。陵墓に飾られていた皇帝の写真を見て、(切手収集家でもある)梅棹はその肖像を昔のインドシナの切手で見たことを思い出す。カイ・ディン帝の時代、ベトナムはフランスの保護領だったのだが、このように壮大な陵墓が建造されていたことは、文化的に見てなかなか面白いことだと思う。次にトゥー・ドック(嗣徳)帝(在位1847‐83)の陵墓を見るが、こちらはまったく東洋風であった。
 夕暮れが迫ってきたので、一行は他の陵墓を見学するのをあきらめて宿舎に引き上げる。

 ささげ、銃!
 3月7日、いよいよラオスに入国する予定の日である。
 朝食後、一行の案内役として多くの情報を与えてくれたディックと別れる。彼は飛行機でサイゴンに戻ることになる。
 9時半出発。一路北へ走る。11時、クヮン・チー(廣治)着。11時半にドン・ハー(東河)に着く。(ベトナムが南北に分断されていた時代には、このあたりが南ベトナムの最北端であった。ドン・ハーには米軍基地がおかれていた。)
 「北へゆくほど次第に緊張した空気が感ぜられる。監視哨があちこちに立ち、兵隊が右往左往する。北ベトナムの境界線、17度線はもうすぐである。
 道は、ドン・ハーでわかれる。まっすぐゆけば北ベトナムだ。わたしたちは左へ折れて、山越えにかかる」(162ページ)。

 舗装はされていなかったが、道路はよく手入れの行き届いたラテライト道で、運転に支障はない。行く手に監視哨があって、遮断機が下りている。哨兵にとまれと合図されるのを予期して車を進めていくと、意外にも遮断機がするすると上がった。堂々たるジープに乗っていたので、国連の監視委員会か何かの一行と勘違いしたらしい。こういう時は落ちついてそのまま車を勧めるほうがいいという石井の意見に従って、そのまま進む。
 また、監視哨があり、今度はだめかなと思ったら、兵隊が整列して「ささげ、銃」をやった。
 監視哨はいくつもあったが、そんな調子でどんどん進んだ。

 国境
 人気のない山の中の道が続き、小さな橋を渡ると、その左手に何だか大きな白い道標が経っていた。気になって、戻ってたしかめてみると、左側にはVIET NAM、右側にはLAOと書いてあった。「どう考えても、これは国境である。税関も、移民局も、監視哨も、なにもない。・・・わたしたちは、本当に国境を越えたのだろうか。そうだとすれば、わたしたちは手続きもしないで、不法出国をしたことになるのだろうか。」(165ページ)

 しばらくいくと広場があって、「大きなアンペラ小屋が立っていた。竹の棒が道路を遮断していた。見すぼらしい歩哨小屋から、はだしの兵隊がとび出してきて、銃剣をかまえながら、大声でわめいた」。(165ページ)
 「ラーオか」と、ラーオ語ができる石井が尋ねた。「ラーオだ」と兵隊が答えた。一行は本当に国境を越えたのである。

 こうして第16章は終わり、次回からラオスでの経験を記す第17章「大森林をゆく」に入る。国境を越える道のりでの描写の中で、その当時の(南)ベトナムと、ラオスの経済格差のようなものがしっかりとらえられているところが今回は特に興味深かった。たとえば、遮断機と竹の棒も(おそらくは梅棹の)印象そのままの、それ故に強く記憶に残る対比であるが、ベトナムの兵士は靴を履いているのであろうが、ラオスの兵士ははだしである。フエの文化遺産については、インターネットで検索を掛ければその姿を知ることができるので、興味のある方は試してみてください。
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR