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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(10)

2月14日(金)曇り、夕方になって雨が降り出す

 1958年2月、梅棹忠夫(1920‐2010)は東南アジアでの調査研究の後半部分として、インドシナ3カ国の歴訪に旅立った。同行するのは彼が体調であった大阪市立大学学術調査隊の隊員で昆虫学者(兼医師)の吉川公雄と、外務省留学生の石井米雄である。
 3人は2月12日にバンコクを出発し、13日にカンボジアに入国、バッタンバンからトン・レ・サップ湖の南西岸を通ってプノムペンに到着、その後、海岸部の漁港カムポットや、トン・レ・サップ湖の東北岸を旅行した。2月21日にプノムペンを出発し、その日のうちにサイゴンに到着した。「東洋のパリ」と呼ばれるサイゴンは美しい町であったが、そのフランス風の町の様子に梅棹は親しめないものを感じる。

第14章 コーチシナ平原(続き)
 カオダイ教徒の乱
 サイゴンから70キロほど離れたところに、タイ・ニンの町があり、カオダイ教の本部があることを知っていた梅棹は、この地を訪ねてみようとする。カオダイ教は、宗教団体ではあるが、強大な私兵団を擁していて、ゴ≂ディン・ジェム政権(当時)に反抗し、新しいベトナム共和国建設に敵対する「封建勢力」と見なされているとの報道もあった。しかし、この当時は政府との間に妥協が成立して、武装解除し、平和な宗教活動を行っているとのことで、訪問に支障はなかった。

 カオダイ教の本部はタイ・ニンにあるが、発祥の地は台湾にある離れ島、フークォック島である。カンボジア訪問の際に立ち寄った漁港カムポットの沖に浮かぶ島であるが、ベトナム領になっている。ヌォック・マム(魚醤)の産地として名高く、一種の観光地になっている。
 フランス支配下のコーチシナ政府の官吏であったゴ・ヴァン・チェウ(呉明釗 1878‐1932)が1919年に突如、カオダイ(高台)すなわち玉皇上帝の啓示を受けたことから、カオダイ教は始まる。ゴ・ヴァン・チェウは周囲の人々にカオダイの啓示を告げ、しだいに信徒を集め、やがて彼はベトナム本土に帰って新しい教団の組織に着手する。1925年(26年説もある)新興宗教カオダイ教が成立した。

 カオダイ教はサイゴンを中心にコーチシナ一帯に広がり、さらに影響力を拡大して、10年後には中部(アンナン)および北部ベトナム(トンキン)にまでのびはじめる。そしてしだいに民族主義的な傾向をもつようになり、反仏、親日の政治的な姿勢を示す。独立の方策としては、アンナン王族出身の独立運動家で日本に亡命していたクォン・デ侯(1882‐1951)を支持した。〔アンナン王族出身という書き方はあまり適切ではない。阮朝ベトナム帝国初代皇帝の嘉隆帝の直系の子孫という方がいいのではないかと思う。〕

 教団の反仏的な傾向は当然、フランスからの弾圧を招き、教会は閉鎖され、信者は投獄される。1940年、彼らはついにサイゴン付近で武装反乱を起こす。「カオダイ教徒の乱」である。その結果、教主のファム・コン・タク(范公則 1890‐1959)以下の幹部たちは捕らえられてマダガスカル島に流された。彼らは日本軍の仏印進駐とともにベトナムに帰った。〔前記クォン・デが仏印進駐に協力していた。ファム・コン・タクは現在のカオダイ教の教会では大きな存在とされているそうである。〕 

 「封建勢力」の討伐
 戦後のインドシナ戦争の中で、フランスはホー・チ・ミンに対抗するために香港に亡命していた旧アンナン帝国(というよりも阮朝の「ラスト・エンペラー」という方が適切だろう)バオダイ(保大、1913‐97)を連れてきて、1949年に新政権を成立させた〔ベトナム国〕。この時点で、カオダイ教徒の再武装は進んでいて、強大な武装勢力となっていたが、バオダイと結びついて新政府の武力の中心となった。
 フランス軍は、北部方面におけるホー・チ・ミン軍との戦闘にかかりきりになり、コーチシナ方面は、カオダイ教、ホアハオ教、ビンスエン派という3つの私兵団に任されたという事情もあった。ホアハオ教は、やはり一種の新興宗教である。〔1939年にフイン・フー・ソー 黄富楚 1919‐47)がメコン・デルタのホアハオ村で創立したためにこの名がある。仏教系の新興宗教であるが、儒教の影響もあるということである。〕 ビンスエン派というのはチョーロン(サイゴンの南にある都市で、「東洋のヴェニス」と呼ばれる)に巣くう暴力団の大きくなったものである。

 「民族主義者としては、カオダイ教とはいささか判断を誤ったようだ。バオダイは、フランスの操り人形にすぎず、その政府はとうてい事態を収拾することができない。そこで、ゴ・ディン・ジェム首相(1901‐63)が登場してくる。彼は、反フランスの民族主義者であるとともに、反共であり、しかも反バオダイである。彼は、首相に就任するとともに、バオダイの支柱となっていた諸団体の一掃にとりかかる。『封建勢力』というのは、「民主的」ゴ・ディン・ジェム政権の当面の敵としてのバオダイ支持勢力ということであろう。」(93ページ) 〔ゴ・ティン・ジェム政権がカトリック信者を支持基盤にしたことが、カオダイ教徒の対立の原因ではなかったか。彼は仏教も弾圧したのである。〕

 ゴ・ディン・ジェムは、アメリカの強力な支援の下に国軍による作戦を展開し、まずサイゴンでビンスエン軍の討伐に成功し、続いてホアハオ軍を下した。そしてカオダイ教は1955年にゴ・ディン・ジェム政権支持に転向し、武装解除して新政府に協力することになった。

 大道三期普度
 さて、いよいよ梅棹たちはカオダイ教の本部に到着する。広大な敷地のずっと端の方に、塔のある建物が見えたが、それがこの宗教の中央神殿とでもいうべきものらしかった。「これは不思議な建築である。全体は奥行きの長い長方形で、三層の上に塔の列がある。」(94ページ、どんな建物かは、ネットで検索してみてください。たしかに奇妙に思われる建物である。) 「様式は、カトリック教会のようでもあり、イスラムのモスクをも思わせるし、仏教寺院的なところもある。それはちょうど、この宗教が世界の大宗教のいわば『合成』によってできあがっていることのあらわれかもしれない」(同上)。

 カオダイ教の教義によると、神はかつて各地の人類にそれぞれの「大道」を与えた。すなわち、儒道(儒教)、神道(精霊崇拝的固有信仰)、聖道(キリスト教)、仙道(道教)、仏道(仏教)である。そして、カオダイ教は、そのすべてを超えた最高の教えであるという。〔タイに出かけた時に、精霊を祀る祠があちこちに設けられているのを見かけた記憶がある。ベトナムでも精霊信仰は生きているらしい。〕
 建物の玄関の上のバルコニーから、大きな三色旗が垂れ下がっていて、その旗には巨大な眼が描かれ、「大道三期普土」という漢字が記されている。眼は「天眼」であり、至高の神を象徴する。それは教祖であるゴ・ヴァン・チェウが初めて天啓を受けたときに、見た神の姿であった。「大道三期普土(ダイダオタムキフオード)」は、カオダイ教が人類における第3回目の、そして最後の救済であることを宣言している。キリスト教も、儒教も、仏教も色あせて、それらを統一する真の宗教が現れたというのである。「宗教というものは、つねに確かな自信と自己主張にみちているものである」(95ページ)と梅棹は感想を述べている。

 「天上天下、博愛公平」
 梅棹一行は、遠慮がちに玄関を入ったが、カオダイ教徒は彼ら異教徒に寛容な態度を示す。
 玄関に3人の人物が立っている油絵が掲げられていた。1人はヴィクトル・ユーゴー、もう1人は孫逸仙(孫文)、もう一人はベトナムの予言者チャン・チンだという。〔この組み合わせは、なかなか興味深い。ゴ・ヴァン・チェウがどのような思想的環境にあったかということをも語っているように思われる。〕 チャン・チンは筆を持って「天上天下、博愛公平」と記している。ユーゴーは、羽ペンで”Dieu et Humanité, Amour et Justice"と書いている。〔フランス語のdieuは「(多神教の)神」を意味するそうである。梅棹はフランス語ができたはずだが、言葉の詳しい詮索をせずにユーゴーの言葉は「天上天下…」と同じだろうと書いている。ここでしゃくし定規に訳しておくと「神と人道、愛と正義」である。そういうことよりも、カオダイ教が多神教であることを認識するほうが重要かもしれない。
 堂内の様子を見て、梅棹はカオダイ教が穏やかな宗教だという印象を受ける。また高度に精神的な宗教だという印象も受ける。それらが正しい判断であるかどうかは、なんともいえない。

  メコン・デルタ
 梅棹はコーチシナではもう1か所、メコン・デルタの開拓時代の中心都市であったみーとーを訪問したいという願望を実現させる。サイゴンから西南へ約70キロ、これまた2時間ほどの行程である。2月23日、朝から出かける。交通量は相当に多いが道路は整備されているとはいえず、橋は1車線でしかも鉄道との共有、真ん中を鉄道の線路が走っている。これがフランスの植民地政府による開発の主な成果だというのか、と梅棹は考える。
 鉄道は、橋以外のところでは、街道にずっと並行して走っている。ときどき小さな列車がやってくる。ディーゼル・カーがやってくることもある(ということは、まだ電化されていないということである。もっともこの時期、日本の鉄道でも電化されていない路線はたくさんあった)。サイゴン・ミートー間70キロのこの路線は、1885年にインドシナで初めて敷設された路線だというのに、それからほとんど変わっていないように思われる〔戦争の影響で鉄道が改善されなかったということらしい。現状については下川裕治さんの本でも読んで確かめることにしよう〕。
 1時半ごろにミート―につき、メコン川の岸に張り出した食堂で昼食をとる。ミートーは4本に分流するメコン川の一番北の流れに面した、豊かな穀倉地帯であるメコン・デルタの米の集散地として発達した都市である。

 サイゴンの市街にフランスの植民地時代の名残を強く感じて、親しみをもてなかったという梅棹がカオダイ教の本部を訪問するというのが興味深い。ベトナム人の精神の内奥を探ろうというつもりであったのだろうか。だとすれば、彼がホアハオ教の本部を訪ねたり、仏教の寺院やカトリックの教会を訪問してベトナム人の信仰生活のありかを突き止めようとしていないのはどういうことだろうかという疑問もわくのである。

 昨晩は夕食後、眠り込んでしまい皆様のブログを訪問する時間的な余裕がなくなり、失礼いたしました。
 横浜駅の西口JOINUSの地下道では毎年バレンタイン・デーのチョコレートを売るワゴンがならぶのですが、今年はそれが見られず、これもコロナウィルスの影響だろうかと、心配を募らせております。皆様もご自愛ください。
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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(9)

2月6日(木)晴れ

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、東南アジア諸国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌の現地研究を行った。『東南アジア紀行』はその調査旅行の個人的な記録である。下巻はこの旅行の後半部分と、1961年12月から1962年2月にかけてタイを再訪した際の経験が記されている。
 第一次の旅行の後半部分で、梅棹は隊員の医師で昆虫学者の吉川公雄、外務省留学生で後に東南アジア研究者となった石井米雄とともに、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスを歴訪している。2月12日にバンコクを出発した一行は、翌日カンボジア領内に入り、バッタンバン、プノムペン、カムポットなどの都市、農村やトン・レ・サップ湖上の集落などを訪問した。2月21日には当時は南北に分断されていた南ベトナムの首都であるサイゴンに入った。成立間もないベトナム共和国(南ベトナム)はフランスの影響を脱しえていないように見えた。

第14章 コーチシナ平原(続き)
 皇帝と司教
 梅棹はフランス化する前のベトナムの姿を知ろうとするが、そもそもサイゴンがベトナム人の都市として発展したのはここ2世紀ほどのことでしかないことに気づく。サイゴンはもともとカンボジアの町でコーチシナにおけるクメール人の政治的・商業的中心地であった。ところが17世紀後半ごろから北方のベトナム民族のコーチシナ流入が盛んになり、その統治のために1698年にサイゴンのすぐ北にジァー・ディン(嘉定)府がおかれる。軍隊が駐屯し、18世紀以後グエン王朝(阮朝)のベトナム統一の最大の拠点となった。
 17世紀から18世紀にかけてのベトナムの歴史は、北方トンキンの支配者チン(鄭)氏と、南方コーチシナの支配者グエン(阮)氏との対立・抗争の歴史である。ところが1771年にクィ・ニョン(帰仁)を中心として、タイソン(西山)の乱がおきて、グエン、チン両氏は滅ぼされ、ベトナム全土は混乱に陥った。
 グェン一族の中でただ一人生き残ったグェン・フック・アン(阮福映)は逃亡中に、旧知のフランス人アドラン司教に出会う。アドランは王子を説いて、フランスの援助を求めさせた。彼はフランスに帰り、グェン救援の遠征軍を組織した。グェン軍は、名将レ・ヴァン・ズェット(黎文悦)らの奮戦と、フランス艦隊の強力な支援によって、タイソン一派を打ち破って次第に北進し、1802年についにハノイに入城する。1806年にはグェン・フック・アンは安南帝国の皇帝{→ジァー・ロン(嘉隆)帝}を名乗り、インドシナ半島におけるベトナム人居住地域の大統一を完成した。「その統一が、しかし、異邦人であるフランス人の協力のもとにはじめて成功したという事実は、なかなか象徴的である。その後のベトナムの運命は、じつはすでにこのときに用意されていたとみることもできる。」(86ページ)
 この間、1779年にアドラン司教は没する。1789年にグェン・フック・アンはサイゴンを占領し、フランス人の将校に依頼して城を築かせる。

 「友情」のゆくえ
 ジァー・ロン皇帝は、帝国の統一を完成した後、国内の乱れた秩序を回復し、「嘉隆の治」と呼ばれる黄金時代を作り上げたが、在位18年で1820年に世を去った。彼は、フランス人およびキリスト教に対して、友好的であり、その宮廷に、多くの有能なフランス人が仕えていた。
 しかし、その後継者である第2代皇帝ミン・マン(明命)はフランス人を退け、キリスト教を迫害した。嘉隆帝に仕えて国家統一につくしたレ・ヴァン・ズェットは、コーチシナ太守としてジァー・ディン城にいたが、フランス人が統一事業に貢献したことを皇帝に思いださせて、迫害を緩めようとした。しかし、1833年に彼が死ぬと、皇帝は彼の墓を破壊し、キリスト教徒の迫害を強めたのである。〔梅棹は書いていないが、彼の養子のレ・ヴァン・コイが皇帝の中央集権化政策に対する反乱を起こしたことも関係しているようである。〕 梅棹はレ・ヴァン・ズェットの墓というよりも廟を訪問し、この建国の功臣が後世の人々の尊崇を集めているさまを目撃している。

 「全外国人を死刑にせよ」
 フランス人の宣教師たちが、アンナン帝国の皇帝たちの迫害にあって命を落とすのを怒ったフランスの皇帝(国王)たちはフランスの艦隊を派遣、艦隊はツーラン(ダナン)港に侵入し、皇帝を脅かしはじめる。フランスの脅迫に憤慨した第3代皇帝ティェウ・チ(紹治)帝は、「全外国人を死刑にせよ」との遺言を残して死ぬ。
 4代トゥー・ドゥック(嗣徳)帝は、宣教師を斬首の刑に処し、その結果、フランス皇帝ナポレオンⅢ世は遠征軍の出動を命じる。1859年2月、フランス艦隊はサイゴン川をさかのぼり、わずか2日間の戦闘で、サイゴンは占領されてしまう。1862年に条約が結ばれ、コーチシナ東部3省は、フランスの領土とされた。フランス領インドシナの始まりである。

 その後、サイゴンを拠点として、フランスのインドシナ攻略は着々と進む。1863年にはカンボジア王国を保護国とし、数年後(1867年)にはコーチシナ西部3省をとる〔89ページに「東部3省」とあるのは誤り。東部3省はすでに1862年に仏領となっている〕。1884年の条約ではトンキン、アンナンが保護領となる。最後に、ラオス保護領が加わり、フランス領インドシナが成立する。

 この個所を読んでいてちょっと背筋が寒くなってきたのだが、フランスがインドシナを植民地化していくこの過程は、日本の明治維新と時間的に重なっている。幕末・維新の変動期に英国が薩長を支援したのに対し、フランスが幕府を支援しようとしたことは知られていて、もし、そのフランスの支援がより積極的なものであったら、どんなことになったかということを考えないわけにはいかなかったのである。

 インドシナ連邦
 インドシナ連邦、あるいは「仏印」は5つの邦(pays):カンボジア、ラオス、トンキン、アンナン、コーチシナからなる連邦であった。トンキン、アンナン、コーチシナは、ベトナムが伝統的に北圻、中圻、南圻の3つの地方にわけて考えられていたのに対応するものであるが、フランスの統治下で、トンキンとアンナンが保護領であるのに対し〔したがって、阮朝の君主が形式的にせよ統治していた〕、コーチシナは直轄植民地だった。『歴史的な因縁からも、フランス人はコーチシナを、インドシナの中でも特別な地域と考えていたらしい。」(90ページ)
 フランスは何としてもコーチシナだけは失いたくないと考えていたようで、1946年にフランス政府は当時のベトナムの唯一の政府であったホー・チ・ミン政権〔1945年の「八月革命」により阮朝が倒れてベトナム民主共和国が成立した〕と和平交渉を進めて、フランス連合の枠内でベトナム民主共和国の独立を認めるという暫定協約を結ぶ寸前までいったのだが、その際のベトナム民主共和国にはコーチシナが含まれていないことが分かって決裂、泥沼のインドシナ戦争が続き、結局、フランスはすべてを失うことになったのである。

 今回取り上げた個所では、ベトナムの歴史が概観されていて、サイゴンやその市民の様子の観察記事はほとんどない。梅棹は日中戦争を経験しているし、前回も書いたようにベトナム共和国(南ベトナム)は成立間もない時期でもあったから、歴史の動きを、今日の読者である我々よりも、より生々しく感じていたことも考慮しなければならない。
 このあと、梅棹一行は、南ベトナムにおける有力な宗教勢力であったカオダイ教の本部を訪問することになるが、それはまた次回に。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(8)

1月23日(木)雨

 1957年11月から58年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジアを訪問し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。旅行の後半で、彼は隊員の吉川公雄、外務省の留学生である石井米雄とともに、カンボジア、ベトナム、ラオスの3カ国を歴訪した。
 最初に訪問したのはカンボジアで、1958年2月13日に入国、21日まで滞在した。当時のカンボジアでは中国人の存在感が強く、2月17日から始まった春節の影響を受けながら、南部の海岸地方に足を延ばしたり、乾季で面積が縮小したトン・レ・サップ湖の周囲を(前年の旅行で訪問した分を加えて)一周、水上の集落を訪問したりした。

第14章 コーチシナ平原
 この第14章から第16章までの3章が当時の南ベトナムの訪問記となっている。梅棹一行の足跡は北ベトナム(当時)には及んでいないが、それでもカンボジア、ラオスに割り当てられているのが2章であることを考えると、旅行の中でのベトナム訪問の比重の重さが分かる。

 サイゴンへ
 2月21日午前11時に、梅棹一行はプノムペンを出発して、サイゴン(当時、現在はホーチミン市と改称されている)に向かった。バナムの渡し場でメコン川を渡り、スヴァイリエンを経て、5時半に国境に着いた。
 ベトナムについては、反日的である、警察や税関が官僚的で腐敗している、ベトコンのゲリラが出没するから(特に地方は)危険だなどの悪いうわさを聞いてきた。3カ国の中では一番治安が悪いようなので、多少の緊張を感じながら入国しようとした。

 国境の入国審査は、大したトラブルもなく通過することができた。「国境をすぎて、わたしたちは一路サイゴンに向って、コーチシナの大平原を走った。」(78ページ) 途中、交通違反で警官に注意されることはあったが、いくつかの町を通り抜けて、だんだん慣れてくる。人々の様子も別に反日的というわけではなさそうだ。
 「タイやカンボジアの、地味な風俗を見なれた目には、ベトナム風俗は、おどろくばかりあでやかで、都会的に見える。
 家もかわった。タイやカンボジアの高床式の住居は、ここでは影をひそめる。みんな土間である。私たちは、あきらかに違った文化圏に入ったことを知る。服装も、住居も、中国ふうに近いという印象をうける。わたしたちは、極東文化圏に入ったのだ。」(79ページ)
 次第に町が大きくなり、にぎやかになる。日没後、一行はサイゴンに到着する。

 大使公邸
 一行は夜のサイゴンを走って、大阪商船の駐在員である山下さんを訪問するが、山下さんは病気であった。それで大使館に回ったところ、すでに顔見知りであった代理大使の小川さんから公邸に泊まってはどうかという申し出がある。
 「それはまったく、夢のようなはなしだった。3人とも1つずつへやをあてがわれた。冷房つきである。それに、日本人の板前さんがいる。自動車旅行のつかれも、あやしげなシナめしの栄養失調も、これで一気にふっとんでしまうというものだ。」(80ページ)
 カンボジアのところでも書いておいたが、カンボジアでは「同文同種のよしみからではないけれど、わたしたちには、やっぱりシナめしの方が口にあう。」(60ページ)と言っておいて、君子豹変である。

 パリの昼寝
 「東洋のパリ」と呼ばれるサイゴンは美しい町であるが、梅棹は何となく親しめないものを感じる。彼は固有のベトナム的なものを求めているのである。しかし、街並みはフランス風、走っている自動車はシトロエンが多く、店の看板にもフランス語が多いし、商品もフランス製、本屋にならんでいるのもフランス語で書かれた学校の教科書のような本が多い。雑誌も新聞もフランス語である。

 それどころか、昼寝の時間もフランスの習慣そのままであるという。しかし、梅棹は、これはベトナム固有の習慣ではなくて、フランスからとりいれられたものではないかという。「ベトナムでも、地方へゆけばこんな習慣は存在しないにちがいない。ベトナム人は、もっと勤勉なはずである。」(82ページ)
 「サ[ン]ゴンは、長年にわたって、フランスのインドシナ経営の拠点だった。だから、フランスふうがしみこんでいるのもむりはないかもしれない。しかし、ベトナムは独立したのである。独立後のベトナムの人たちは、このフランス的な「美しさ」と生活習慣を、やはり誇りに思っているのだろうか。」(82ページ)

 ベトナムのことはよく知らないが、タイの人は、日本人に比べて早起きであり、おそらくは昼寝をする分、朝早くから体を動かしているのである。だから梅棹の、昼寝は勤勉ではない、アジア人はもともと勤勉である、だから昼寝はもともとの習慣ではないというような議論は疑ってかかる必要がある。梅棹は朝に弱かったから、自分自身の調子がようやく乗り始めた時間帯に昼寝というのは納得がいかなかったのであろうが、このあたりでの議論は少し乱暴である。

 サイゴン風俗
 もちろん、独立後のベトナム化が進行している側面のあることを梅棹は見落としてはいない。例えば道路の名前がベトナムふうに改められた。とはいうものの、市街地に、ベトナムふうの建築はまれである。「失われたものの、ある部分は、もはや、永久に失われたのである。」(83ページ)
 とはいえ、例えば女性の服装などは完全にベトナム化しているという(梅棹はアオザイという語を使っていないが、民族衣装の女性が多く、洋装姿の女性はまれであると書いている。ただ、アオザイがそれほど古い歴史を持つものではないことに、梅棹は気づかなかったようである。)

 「とにかく、ベトナム共和国は独立したのである。ゴ・ディン・ジェム総統はその政治的シンボルである。」(84ページ)
 梅棹が東南アジアを訪問していた1957~58年に私は小学校6年生だったから、自分の外の世界についてそれほどしっかりした知識はもっていなかったが、今調べ直してみると、第一次インドシナ戦争(1946~54)の終了後、南ベトナムにゴ・ディン・ジェム大統領のベトナム共和国が「成立」したのは1955年のことで、この時点では建国間もなかったのである。1975年にサイゴンが陥落して、ベトナム共和国は崩壊するから、ベトナム共和国=南ベトナムの歴史は約20年、第二次世界大戦後についてみても、ベトナムが南北に分裂していた期間よりも、統一国家としての期間の方が今でははるかに長くなっている。梅棹が垣間見た南ベトナムの姿もまた、「失われたもの」に数えられるように思われる。

 梅棹は、この後、近世から近代にかけてのベトナムの歴史をたどって、筆を走らせるが、それはまた次回に紹介するとしよう。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(7)

1月10日(金)晴れ、午後、次第に雲が多くなってきた。

 1957年11月から58年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市大の学術調査隊の隊長として、熱帯地方における動植物の生態と人々の生活誌を調査するために東南アジアを旅行した。調査も後半となり、梅棹は昆虫学者で医師である吉川公雄とともに、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスを歴訪する自動車旅行に出かけた。外務省留学生で、後にタイを中心とする東南アジア研究家として活躍することになる石井米雄が通訳として同行した。一行は2月12日にバンコクを出発、13日に国境を越えてバッタンバンに到着、さらにトンレ・サップ湖の南側を進んで、14日に首都プノムペンに到着した。
 プノムペンは近代都市として設計されている一方で、他の東南アジアの都市と同様に町の中心に市場があり、いわば妥協的な形態をとっていた。プノムペン滞在中に、カンボジアの数少ない海港であるカンポットや、ケップの海水浴場も訪問したが、目につくのは白人と中国人ばかりで、カンボジア人の姿が見えないことが奇異に思われた。自動車の運転をしない時には、梅棹は後部座席で読書に耽り、東南アジアの歴史と社会についての研究を進めた。

第13章 ゾウと王さま(続き)
 洪水林
 2月18日、プノムペンからトンレ・サップ湖の北側を見るために、シエム・レアップまで出かける。シエム・レアップまでは前年にアンコール・ワットを訪問した際に足跡を記していたのである。プレク・クダムでトンレ・サップ川を渡る(トンレ・サップ川から流れ出て、メコン川へと注ぐ川である)。1時過ぎにコンポン・トムを通過。道はよかったという。途中、クメール橋と呼ばれる古代の石橋を渡る。5時過ぎにシエム・レアップに到着する。ところが、旧正月の休暇を利用してアンコール・ワット見物にやって来たお客のために、宿がとれない。それでもやっと宿を見つけて泊る。

 翌日、トンレ・サップ湖を見に出かける。「大きな水車のならぶ川に沿うて、ビンロウの林につつまれた村々の中をぬけてゆくと、広い、明るい灌木原に出た。道はその灌木原をつっきって、堤防のように、まっすぐ南にのびていた。」(67ページ、「大きな水車」とあるだけで具体的な記述はない。水車の研究家として知られる室田武さんならば、大いにツッコミを入れたくなるだろうなあと思う個所である。)

 「トンレ・サップは奇怪な湖である。」(68ページ) というのは、季節によって大きくなったり、小さくなったりするからである。梅棹が訪れた時は乾季であったから、小さくなっていたが、雨季になると周辺の川の水を集め、さらにメコン川の水が逆流して来て、乾季の3倍くらいの大きさに膨れ上がる。周りの灌木林はすべて水につかる。「この広大な洪水林は、魚にかくれ場と餌とを供給して、この上ない養魚池となっている。」(68ページ) というようなことは本で読んで知っていたが、実際に来てみてみると、灌木林の広大なこと、驚くばかりである。道路はずいぶん高いのだが、進んで行ってもなかなか湖が見えない。
 ようやく、道ばたに干網のならぶ漁村に到着する。道はここで途切れ、そこから先は洪水林の中の水路である。前進をあきらめて引き返そうとすると、男が出てきて、何か言う。言葉は通じないのだが、どうやら舟に乗れということらしい。一行は、車を路上において、彼の漕ぐ小舟に乗り込んだ。

 湖上の部落
 灌木林の中をゆるやかにうねっている水路をぬけていくと、湖に出る。湖は広大で、水平線のかなたには何も見えない。〔乾季で小さくなっているとはいえ、琵琶湖の4倍くらいの面積があるという。私は琵琶湖の湖畔で生まれたので、琵琶湖よりも広いというと過剰反応するところがあるが、その代わり、琵琶湖の方が深いことは確かである。〕 男はどんどん湖の沖の方へ舟を漕ぎ進め、ささほど大きくない舟は荒波に揺られ始める。一行は気が気ではないが、男は微笑むばかりで、どんどんと舟を漕ぎ進めつづける。

 「そのうちに、沖に何か見えてきた。点々とならんでいる。漁船の群れであろうか。ところがちがった。接近してみると、おどろいたことには、それは家だった。それも、2軒や3軒ではない。数十戸はあろうと思われる水上の大集落であった。1つの集落をすぎて、しばらくゆくと、もう1つの集落があらわれてきた。これは100戸ではきかない。大きな村だった。湖上の,しかもこんな沖合いに、これほどの大集落が存在しようとは、だれが想像し得るだろうか。」(69ページ)

 湖上の家というのは、湖の底に木の棒杭を立てて、その上に床を並べ、屋根を結んだものである。できあがった家には壁を張り、屋根を葺き、竹垣をめぐらせて、それなりに落ち着きのある家屋ができあがる。よく見ると、竹垣で囲まれた裏庭はいけすになっていた。彼らは湖の中の漁場に、自分たちの家を建てて暮らしているのである。湖の中に立っている男がいるところを見ると、この広大な湖の深さは1メートルくらいしかないらしい。

 ところが、増水期になると、シエム・レアップまで汽船が入るという。水深は10メートルくらいになるらしい。その時は、この水上の村の人々はすみかを分解して、陸上に帰るのであろう。水上の家屋のほかに、家船も見られるが、その多くがベトナム人たちのものである。メコン川をさかのぼってここまでやってきて、魚を取っているのである。

 2時半、シエム・レアップを出て、5時、コンポン・トムを通過。夜道を走って、7:40、コンポン・チャムに着いた。例によって中国人経営の安宿をさがして宿泊する。

 大いなる河
 コンポン・チャムはメコン本流に面した町である。
 コンポン・チャムは「チャㇺの渡し場」という意味で、チャムは、ベトナム南部を中心に大文明を築き上げた民族であるが、今は山の中にわずかにその後裔が生き延びているだけである。〔この後、ベトナムに入ってからの個所で、チャムについては詳しく論じられる。〕
 宿に戻る。宿の前の空き地にヴィシュヌらしい古い神像があった。〔ヴィシュヌというのはヒンドゥー教で、ブラフマー、シヴァとともに最も主要な神とされる。〕 アンコール時代のものであろうか、チャムの遺物かもしれないと梅棹は考える。アンコールは廃棄され、チャムは亡んだけれども、このヴィシュヌはまだまだ人々の信仰を集めていて、その前には線香の煙が立ち昇っている。
 ここでも目立つのは中国人で、旧正月がまだ続いているらしく、賑やかというよりも騒々しい。

 プランテーション
 コンポン・チャムから西にむかい、スクーンというところで、コンポン・トムからまっすぐ南下してくる道(梅棹一行がシエム・レアップに向かう際に利用した道のはずである)と合流する。
 コンポン・チャム州はカンボジア国内において最もプランテーション(熱帯の植民地における大規模農場)農業の盛んな土地である。植民地にやってきたヨーロッパ人たちは、広大な土地を買い占めて、そこを農地化し、輸出向きの単一作物を作った。自分たちは経営者となり、現住民やよそから連れてきた人々を労働者として安い賃金で働かせるのである。
 一行が通過している赤土地帯はゴム栽培に適しているとされ、実際にゴム園が続いている。やがて、ゴム林が終わって、ゴムの苗木の林がつづき、さらに、原始林を切り開いたばかりに見える場所が広がる。原始林のプランテーション化はまだ進行中なのであった。

 と、今度はバナナのプランテーションが始まった。こんな大量のバナナがどこへいくのだろうかと、梅棹は不思議に思う。牛の引く荷車にバナナを積み込んでいる男女がいたので、ビスケットの箱を取り出して、手まねで交換を申し出たところ、大きな房を3つもくれた。青いままであった。〔日本でもバナナは青いままで輸入して、国内で黄色く熟成させるのである。青いバナナを食べた梅棹の感想は記されていない。〕
 現在でも天然ゴムはカンボジアの農業の重要な産品らしいが、バナナについては盛んではないようである。

 顔の文化
 一行はプレク・クダムの渡しを渡り、ウドーンの遺跡を訪ねた。
 日本語の「うどん」はこのウドーンに由来するという説があるが、真偽のほどは定かではないという。〔カンボジアを含む東南アジアは全体として米食主体であり、うどんは小麦粉で作られることを考えると、たぶん、違うだろう。〕 
 うドーンの町が造られたのは、17世紀の初めのころである。栄華を誇ったアンコールの都は、タイ軍の侵入を受けて、15世紀にはついに放棄されてしまう。その後、クメールの王たちは、国内のあちこちに都を移し、1620年にようやくこのウドーンを都として、1866年にプノムペンに移るまで、ずっと留まっていた。17世紀には日本人町も作られていたという。

 梅棹の一行は、古い都の遺跡を探しまわるが、案内人もいないので、なかなか見つからない。しかし、
「森の中に丘があって、上まで石段が通じていた。わたしたちは、石段の下に車をおいて、丘にのぼった。
 丘の上には、巨大な塔があった。稜線の上に、すこし間隔をおいて、塔は何本もあった。歴代のクメールの王の陵墓である。塔は印象的であった。しげみの中からそびえ立って、するどく天を指していた。石としっくいの、黒い灰色の重々しい造形であった。とりわけ印象を与えるのは、塔にきざまれた『顔』である。塔の上部3分の1のあたりのところにくびれがあって、そこに、四方を向いて顔があった。何者の顔であろうか。この陵墓にねむるクメールの王の顔であろうか。」(75ページ)
 顔が何を意味しているのか、正確なところはわからないが、梅棹は、クメールの他の遺跡の「顔」を思い出す。そしてカンボジアにおける「顔の文化」というものについて考える。それは他にあまり例を見ないものではないかと思う。「不気味な、強い力が、しだいにわたしを暗い歴史の深みのなかにひきずりこんでゆく。」(76ページ)

 物思いにふけっていた梅棹は、子どもたちの声によって現在に引き戻される。彼らはいろいろと話しかけてくるのだが、何を言っているのかは全く分からない。子どもたちと一緒に石段を下りて、小さな屋台でヤシの実を買う。「ナイフが殻をやぶると、冷えた果汁がほとばしって、顔にかかった。」(76ページ) 〔何も書いてないが、子どもたちと一緒にヤシの実を味わったのだろう。〕
 夕方、プノムペンに帰りついた。
 こうして、梅棹一行はカンボジア訪問を終えて、次の訪問先であるベトナムに向かうことになる。さて、どのような出来事が待ち受けているだろうか。それはまた次回に。

 トンレ・サップ湖とその周辺で生活する人々については、カンボジアを旅行した人々がいろいろと書いているので、詳しく知ることができる。しかし、カンボジアの社会は全体としてみると、かなり大きく変化しているのではないかと思う。

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