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ラブレー『ガルガンチュワ物語』(27)

11月29日(金)晴れ、やっと青い空を見ることができたかという感じである。

 ガルガンチュワはフランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれ、誕生後すぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだので、このように名づけられた。もともと巨大な体躯の持主であった上に、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートという先生のもとでパリで勉強して、学芸と武勇の両方に秀でた若者となった。
 グラングゥジェ王の領地の住民たちが、隣の国のピクロコル王の領地の住民たちと些細な衝突を起こしたことから、激怒したピクロコル王がグラングゥジェ王の領地を侵略するという出来事が起きた。グラングゥジェ王は事態を平和に解決しようとしたが、これを機会に世界征服に乗出そうと思っているピクロコル王は交渉に応じず、やむなく、グラングゥジェはガルガンチュワを呼び寄せて、侵略軍を排除することにする。故郷に戻ったガルガンチュワはポノクラートや、自分と父王の家臣たち、侵略軍から修道院のブドウ畑を守ったジャン修道士らの助けを借りて、ピクロコル軍を撃破する。
 戦いに勝ったガルガンチュワは、功績のあった家臣たちにそれぞれ莫大な褒賞を与えるが、そのなかでジャン修道士は、これまでになかったような新しい修道院を建てたいと願い出る。この申し出はガルガンチュワの気に入り、ロワール川沿いのテレームという場所に大修道院が建設されることになる。六角形をしたその建物は男女の寮舎に割り当てられる区画のほかに、図書館が設けられ、建物の外にはスポーツや武術を鍛錬する場所や劇場が設けられていた。女性は貴婦人らしい、男性は貴公子らしい服装が定められていた。

第57章 テレミートたちの生活はどのように定められていたか
 「彼らの生活はすべて、法令や定款あるいは規則に従って送られたのではなく、皆の希望と自由意志とによって行なわれた。起きるのがよかろうおと思われた時に、起床したし、そうしたいと思ったときに、飲み、喰い、働き、眠った。誰に眼を醒まされるということもなく、飲むにせよ食べるにせよ、またその他何事を行なうにつけても、誰かに強いられるということはなかった。そのように、ガルガンチュワが決めたのである。一同の規則は、ただ次の一項目だけだった。
欲することをなせ。
FAY CE QUE VOUDRAS,

 
(渡辺訳、248ページ) そのように定められたのは、正しい血統に生まれ、十分な教養を身につけ、よい友人たちと付き合ってきた自由な人間にはもともと良知(honneur)というものが備わっているので、外から余計な干渉や圧迫を加えるべきではないと考えられたからである。〔すべての人間ではなくて、恵まれた環境に生まれ育った人間に限定された<性善説>が唱えられているのが特徴的である。〕 外から押さえつけたり、禁じたりしようとする人々は、人間には禁じられたことをしてみたい、拒否されたことを求めてみたいという性向があることを忘れてはならないのである。

 修道院の雰囲気は自由だったから、各個人の意志と集団の意志とが食い違うことはなかった〔実際にそんなことが実現するかどうかは疑問である〕。「彼らは、高貴な教養を受けていたから、読むこと、書くこと、歌うこと、楽器を奏でること、5つ6つの国語を操ること、またそれらの言葉で詩歌や散文を綴ることのできない者は一人としていなかった。」(渡辺訳、249ページ) 〔修道院に入る前から、このような教養を身につけていたのか、入ってから身につけたのかがはっきり書いていないところが問題である。〕 また修道院の男子たちは騎士としてふさわしい勇敢さと武芸の腕を持っていたし、女性たちは貞潔で、手仕事に秀でていた。
 このようなことから、修道院の男子が自分の意志で、あるいは親の意向に沿って、修道院を去る際に修道院の女性と結婚することはよくあることであったという。

 ところで、この修道院を建てている際に、その土台下から一枚の銅板が発見され、そこには一篇の謎歌が記されていた。物語の最後に、この謎歌を紹介することを忘れてはならないだろう。

第58章 後世(のちのよ)照らす謎歌
 幸(さち)待ち侘ぶる哀れなる人々よ、
 勇を鼓して、我が言葉を聞き給え。
(渡辺訳、250ページ)で始まるこの詩は、やがて冬を迎えようとする季節に、一群の人々が現れ、世間を惑わそうとする。その結果、争いが起きて世の中は乱れる。この戦いの中で力を得るのは、真理を奉ずる人々ではなく、信仰をもたない人々である。そして大きな洪水が起きて、人々は苦しむ。騒ぎの中で球体はどのような安息を得るというのか。しかし、やがては平和と安息の日々が訪れるだろうというような内容である。

 これを読んだガルガンチュワは溜息をもらす。「福音書の御教えを信ずるに至った人々が迫害を蒙るということは、何も今の世だけとは限らぬものと見えるな。」(渡辺訳、257ページ)
 ジャン修道士は、これに対して、殿のお考えではこの詩はどのようなものかと質問する。
 ガルガンチュワは「神の真理の進みゆく姿と、その有様(ありよう)に外ならぬではないか。」(渡辺訳、257ページ)というが、ジャン修道士は、これは打球戯(ジュ・ド・ポーム)の様子をわかりにくい言葉で表現しただけのものだという。洪水は流れる汗のこと、球体は打球戯のボールのことだという。試合が終われば勝ったものにとって楽しい時間が待っているだろう。「されば、これより大盤振る舞い!」(Et grand chere!、渡辺訳、258ページ)

 こうして、『ガルガンチュワ物語』は終わる。多少の謎を残して終わるというのが正直な感想であろう。謎歌の本当の意味は、ガルガンチュワの解釈したようなものかも知れず、それは、この物語が書かれたのがフランス国内でカトリックと新教徒との戦いが次第に激しさを増している時期であり、しかも、ラブレーは、彼がその師と仰ぐエラスムスと同様に、カトリック教会の腐敗に対しては批判的であったが、宗教改革の排他的・狂信的な傾向にもついていけず、理想と現実とをどのように釣り合わせていくかに腐心していたところだったからである。最近、講談社の文芸文庫から出版された渡辺一夫『ヒューマニズム考』は、このあたりの事情をより深く理解するのによい書物だと思うので、ぜひご一読ください。しばらくお休みを頂いて、次は『第二之書 パンタグリュエル物語』の内容を紹介していきたいと考えている。それではまた。


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ラブレー『ガルガンチュワ物語』(26)

11月22日(金)雨

 ガルガンチュワはフランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれ、生まれるとすぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことからこの名を得た。もともと大きな体の赤ん坊だったが、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと成長し、またもともと明敏な頭の持ち主であったが、新しい学問と教育法を身に着けたポノクラートという先生についてパリで勉強した結果、学芸と武勇の両方に秀でた若者となった。
 グラングゥジェ王と隣国のピクロコル王との間に些細なことから戦争が起き、ピクロコル王の軍隊が国内に侵入してきたので、グランぐぅじぇはがルガンチュワを呼び戻す。故郷に戻ったがルガンチュワは、ポノクラートやその他の家臣たち、父親の家臣たち、それに自分の修道院のブドウ畑を一人で守ったジャン修道士らの助けを借りて、ピクロコル軍を壊滅させる。勝利を得て、平和を取り戻したがルガンチュワは、功労のあったものに領地を与えたが、ジャン修道士はこれまでになかったような新しい修道院の建設を願い出て、許される。そして、ロワール川沿いのテレームという場所に大修道院が建設される。

第55章 テレミートたちの館はいかなるものであったか(テレームの住人の館について)
 テレームの修道院は6角形の建物であることは前回に述べたが、その中庭の中央には噴水が設けられ、三美神の像が水を噴き出していた。中庭に面した建物には、回廊が設けられ、珍しい動物の絵や、その角、牙などが飾り付けられていた。
 男女がともに居住する修道院ではあったが、両者は別の建物で寝起きすることになっており、女子の寮舎の前には、スポーツや遊戯を楽しむ空間や円形劇場が設けられていた。
 川(ということはロワール川であろう)のすぐそばには美しい遊園地があり、その中央には見事な迷路が設計されていた。また打球戯(ジュ・ド・ポーム、宮下さんは「テニス」と訳しているが、今日のテニスとスカッシュの両方のもとになる球技である)と蹴鞠(渡辺訳、宮下訳ではボール遊び、サッカーとラグビー、その他が分離していくのは19世紀に入ってからのことである)をする場所があった。

 さらに火縄銃や弓や弩(いしゆみ)の射的場、厩、鷹狩のための鷹の飼育場、猟犬小屋などが設けられていた。また婦人たちの宿舎の広間の出口には、香料係や結髪係が控えており、女性たちを訪ねる男性たちの取次役も務めていた。

 つまり、テレームの大修道院の住人たちは生産労働に従事せず、遊び暮らしていたのである。修道院と言いながら、その内実は宮廷や騎士の居館に近い。マリー=ルイズ・ベルネリは、「テレームの修道院」をその『ユートピアの思想史』の中に含めて論じたが、そこで描かれている生活は、ルネサンス時代の王侯貴族の理想像であって、モアやカンパネッラの描くすべての人々が生産労働に従事する世界とは縁遠いことも注目しておく必要があるだろう。テレームの修道院には修道者たちのほかに、彼らに奉仕する召使の存在が描かれていることも見落としてはならない。

第56章 テレームの僧院の男女の修道者たちはいかなる衣装を身に着けたか(テレームの修道院の男女の服装について)
 修道院がはじめられたころには、女性たちは、それぞれ思い思いの衣装を着けていたが、その後、「一同の自由な意志によって」(渡辺訳、244ページ)制服のようなものが決められた。ここでは詳しく書かないが、それは極めて豪華なもので、流行に従って仕立てられ、決められた枠の中で自由に着こなすことができた。男子も同様に豪華な服装をしていた。
 修道士・修道女たちの衣服や装身具を提供するために巨大な工場が設けられ、そこで職人たちが腕を振るっていた。そして材料はある帰属によって海外から提供されたのである。

 この物語は58章からなり、本日のうちに最終章まで進めるつもりだったが、パソコンの調子があまりよくないので、紹介はここまでにしておく。ラブレーはエラスムスとともに、モアの著作にも親しんでいたはずであるが、彼の描く人間模様は、モアとは大きく異なることが理解していただければ幸いである。
 パソコンの調子がいまいちよくわからないこと、明日、明後日は外出の予定があることで、皆様のブログへの訪問が粗略になるかもしれませんが、悪しからずご了承ください。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(25)

11月15日(金)晴れ

 ガルガンチュワは、フランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの子で、生まれ落ちてすぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことから、この名がついた。もともと大きな体躯の持主であった上に、牛乳と葡萄酒をたくさん飲んでますます大きく成長し、パリに出て、新しい学問と教育方法を身につけたポノクラートという先生について勉強したおかげで、学芸にも武勇にも秀でた若者となった。
 グラングゥジェ王と、隣国のピクロコル王との間に些細なことから戦争がおこり、グラングゥジェ王は平和に事態を解決しようとしたが、うまくいかないので、ガルガンチュワを呼び寄せた。帰郷したガルガンチュワは、ポノクラートや自分の修道院のブドウ畑をピクロコル王の軍隊から守ったジャン修道士たちの助けを借りて、ピクロコル軍を破り、平和を取り戻す。
 この戦争で手柄を立てた部下たちに、ガルガンチュワは恩賞を与え、最後にジャン修道士への褒賞が残ったが、ジャン修道士はこれまでになかったような種類の修道院を建ててほしいという。そこで、ガルガンチュワはロワール川沿いのテレームという場所に大修道院を建設することにする。

第53章 テレミートたちの僧院はどのように建てられ、いかなる財源を与えられたか(テレーム修道院は、どのように建築され、どのような財源があてられたか)
 この章の章題はComment feust bastie et dotée la abbaye des Thelemitesであるので、渡辺のように「テレミート(テレームの僧院人々)たちの僧院」と訳すのが、字義通りということになるだろうが、宮下訳の方がわかりやすいことも否定できない。

 ガルガンチュワはこの大修道院に莫大な額の寄進をしたうえに、近くの川の航行税や土地の地代によって、その維持を容易にした。
 修道院の建物は6角形をしていて、その隅に当るところに円塔が築かれていた。〔『旧約聖書』「創世記」には神が6日間で世界を創造したとあり、また、6は完全数の一つである(完全数とは、それ自身を除く約数の和に等しくなる自然数のことを言い、6のほかに28、496、8108、33550336…などがそうである)。いま、思い出したのだが、フランス本土のことをhexagone(六角形)という。〕
 またそれぞれの塔は、地下の酒蔵(cave)も含めて6層であった。

 「この建物は、ボニヴェ城、シャンボール城、シャンチイー城よりも、はるかに壮麗だった…」(渡辺訳、234ページ)、「それはボニヴェ城、シャンボール城、シャンティー城よりもはるかに壮麗な建物だった」(宮下訳、378ページ)。宮下訳における訳注によると、「テレームの修道院」は当時のフランス王フランソワⅠ世が建造させたシャンボール城と、ブーローニュの森にあった通称マドリッド城であるという。シャンボール城は現在でもロワール川の流域の城巡りの中心地となっており、読者の皆様の中には、あぁあの城かと思われる方もいらっしゃると思う。

 建物の北側には大図書館が設置され、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、フランス語、イタリア語、イスパニヤ語の書籍を収めていた。宮下さんは、ここでも収蔵されている書籍が6言語で書かれており、6の原理が貫かれていることに注目している。なお、渡辺訳、宮下訳共に「イタリア語」としているが、原文はTuscanであって、「トスカーナ語」という方が、より正確である。イタリア語の「標準語」の歴史に即していえば、イタリア語がダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョの言語であるトスカーナ方言を中心に発展してきたことは確かだが、ここで、ラブレーがイタリア語という言い方をしていないことは気にしておいてよい。それをいえば、イスパニヤ語(渡辺訳、宮下訳では「スペイン語」)というのも同じような事情があり、日本ではふつうスペイン語というが、上智大学の外国語学部では「イスパニア語」学科といっているくらいで、スペインの言語事情も複雑である(スペイン語といわずに、カスティーリャ語といえばいいのだが、そういうと、なんのことだかわからないという人が多い・・・私も多少はスペイン語をかじったので、イスパニアではなくてエスパーニャという方が性格ではないかなどと言い出すときりがなくなる…)。

 そして大修道院の東の塔から南の塔にかけての間の廊殿には「古代の武勲の数々、様々の物語、山川の有様などが、あらゆるところに描かれていた」(渡辺訳、235ページ)。これはカンパネッラの「太陽の都」の神殿の壁や、城壁に書かれた万物の絵に先行する例といえるのかもしれない。そして正門には、次章に記すような銘文が記されていた。

第54章 テレームの僧院の正門に記された銘文(テレーム修道院の大きな扉に記された碑文)
 銘文(あるいは碑文)には、まず、この修道院の門内に入ってほしくない人々が列挙されている:
 入ってほしくないといわれているのは、偽善的な僧侶、法律家、高利貸し、詭弁学者たちであり、
 次に歓迎する人々が列挙されているが、それは:
 高貴な騎士たち、福音を説く人々、高貴な家柄の女性たちであって、
 「聖なる福音」と「深い信仰」が好ましい属性として強調されているところが印象的であると宮下さんは注記している。

 さて、テレームの大修道院の様子がこれから第55章、56章と続いて描き出されて、57章で大団円となる。『ユートピアの思想史』の著者であるベルネリは、テレームの大修道院を一種の「ユートピア」として、彼女の著書の中に加えたが、これまで見てきたように、グラングゥジェ王とその王子ガルガンチュワによって統治されているフランス西部地方こそがラブレーにとって「ユートピア」なのであり(この時代のフランス王であったフランソワⅠ世がシャンボール城を築いたことでもわかるように、ロワール川流域地方はフランスの中心的な地方であった)、それはモアがイングランドとウェールズとを彼の『ユートピア』のモデルとした以上に確かなことである。だから、テレームの修道院は、ユートピアという理想空間(モアにおける「ユートピア」は必ずしも理想空間ではない)では、修道院もどのような姿をとるかという思考実験として読むべきであると思う。テレームの大修道院の現実化、あるいはその後継者となるような施設があるのか、ないのかを、探ってみることも、必要なことではないかと思うのである。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(24)

11月7日(木)曇り

 ガルガンチュワはフランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルとの間に生まれ、誕生後すぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことから、この名前が付いた。もともと巨大な体躯の持主であった上に、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、一時、詭弁学者を家庭教師として勉強したために勉学が停滞したとはいうものの、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートという学者を師としてパリで勉強するようになってからは、学芸にも武勇にも秀でた若者となった。
 グラングゥジェの領民たちが、隣国のピクロコル王の領民たちといざこざを起こし、かんしゃくもちのピクロコル王が事態を確かめもせずにグラングゥジェの領内に攻め入って来て、略奪をほしいままにするという事件が起きた。それで、グラングゥジェは平和裏に解決しようとするが、ピクロコルは耳を貸さなかったので、やむなくパリからガルガンチュワを呼び寄せて、ピクロコルの軍隊と対決させる。ガルガンチュワはポノクラートやその他の近臣たち、ピクロコルの侵略から自分の修道院の葡萄園を守ったジャン修道士らの助けを得て、ピクロコルの軍隊を打ち破り、平和を回復する。そして、グラングゥジェとガルガンチュワは、平和の回復に功績のあった部下の者たちに恩賞を与える。

第52章 ガルガンチュワが修道士ジャン・デ・ザントムールのためにテレームの僧院を建立させたこと(ガルガンチュア、ジャン修道士のために、テレームの修道院を建立させる)
 気になるので、もとのフランス語と、英訳とで章題を記しておく:
Comment Gargantua feist bastir pour le moyne l'abbaye de Theleme.
How Gargantua caused to be built for the Monk the Abbey of Theleme
 渡辺訳でも宮下訳でもジャン(・デ・ザンドムール)という名前を入れているが、フランス語原文、英訳共に名前はない。
 ジャンの身分であるが、修道士(仏moine, 上にmoyneとあるのは古い表記、英monk)である。
 渡辺訳は「僧院」、宮下訳は「修道院」と訳しているが、フランス語原文のabbaye,英語のabbeyは正しくは「大修道院」である。〔余計なことを付け加えると、スタンダールの”Chartreuse de Parme"は「パルムの僧院」と普通訳されているが、chartreuseはカトリックの修道会の一つであるシャルトル―会の修道院を指す語だそうである。〕

 功績のあった人々には褒賞が与えられ、残ったのはジャン修道士だけになった。そこで、彼をもともと彼が所属していたスイイーの修道院長にしようと思った。ところが、彼はそれを拒絶した。そこで、ガルガンチュワはスイイーの修道院よりも大きい、ブゥルグイの修道院、あるいはサン・フロランの修道院、本人が希望するならばその両方の修道院長にしようと提案した。しかし、ジャン修道士は修道士たちの世話をしたり、取り締まったりするのはまっぴらだと、きっぱり拒絶したのであった。

「――なぜかと申しますに、(と彼は言った、)己が身のことすら取り締まれませぬ拙者に、どうして他人様を取り締まれましょうかい?」(渡辺訳、230ページ) 宮下訳では
「と申しますのも」と、彼は述べた。「自分自身もまともに管理できないこのわたし、他人さまを管理できるはずもありません。」(宮下訳、371ページ)となっている。原文を示すと:
Car comment (disoit il ) pourroy je gouvener aultruy, qui mois mesmes gouvener ne sçaurois?
英訳では
For how shall I be able (said he) to rule over others, that have not full power and command of my self:...
 まったくだ!と思い、組合の委員長のような仕事を押し付けられそうになった時など、この言葉を思い出し、断ろうとしたことがよくあるが、うまくいったことはあまりない。なお、渡辺訳で、ジャン修道士は「拙者」と自称しているが、修道士であることを考えると「拙僧」とか「愚僧」あるいは「貧道」などという訳語も考えられる。ただ、ジャン修道士のこれまでの描かれ方からいうと、「拙者」というのがふさわしいという気もする。

 ジャン修道士は、それでも自分に多少の功績があってそれに報いようと考えるのであれば、自分の考えているとおりの(第)修道院(abbaye)を建ててほしいという。この願いが気に入ったので、ガルガンチュワはロワール川の河岸にあるテレームという国の全土を提供した。渡辺一夫は、場所に注目して「大体、アンドル川、シェール川、ロワール河に灌漑されて、良種の牝牛を産する豊かな牧場地帯(ラ・シャペルとブレエモンとの間)を指すもののようである」(渡辺訳、369ページ)と注記し、宮下志朗は名称に注目して、ギリシア語の「意志(テレーメ)」という語、またこの作品に影響を与えたとされる『ポリフィルスの夢』で主人公の案内役を務める2人の女性のうちの1人:テレミアという存在(これも意志を象徴する存在である)との関連に読者の注意を向けようとしている(宮下訳、373ページ参照)。人間の行為における善と悪を考える際に、当事者の自由意思を強調するのが、エラスムスの立場であったことを想起すべきであるのかもしれない。

 ジャン修道士はガルガンチュワのこの申し出に対して、「他の一切の僧院とは裏腹な修道院を設立してもらいたい」と請願した(渡辺訳、231ページ、宮下訳、372ページ、「ほかの修道院とは正反対の修道院」)。
 ジャンの言い分はガルガンチュワを大いに喜ばせた。と、すると、まず修道院には塀をめぐらさないことになるのだなという。それから女性が修道院に入ってきたら、あとを掃き清めるというのもおかしい習慣なので、むしろ修道士や修道女が入ってきたら後を掃き清めることにしたいという〔この辺りで、この修道院の構想が現実の裏返し、夢想であることがわかってくるはずである〕。
 それから一般の修道院では総てのことが自国どおりにおこなわれる仕来りになっているので、修道院には日時計の類は一切設けず、何事も、その時その時の潮時に従って行うこととした。
 「何が無駄になると申して、時刻を数えることくらい、ほんとうの時間の浪費になるものはない」(渡辺訳、232ページ)とガルガンチュワもこの方針には乗り気である。

 さらにまた、この修道院に入ることができるのは、外見も心の中身も優れている男女であると決めれらた。またこの修道院では一般の修道院とは違って、男女の区別を設けず、両者が一緒にいなければならないと決めることにした。さらにこの時代の修道院では、1年間の修練期間を減ると、あとは一生涯その修道院にとどまらなければならないことになっていたが、それもやめることにした。加えて、世の修道士(女)たちは、純潔、清貧、服従の3つの誓約をしなければならないのに対し、この修道院では結婚もできるし、各自が財産を蓄え、自由に生活ができるものとした。それから女子は10歳から15歳まで、男子は12歳から18歳までがこの修道院に入ることのできる年齢とされた。

 こうして、ガルガンチュワとジャン修道士によって、新しい種類の修道院を建てることが構想された。さて、この構想はどのように展開していくのであろうか。それはまた次回。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(23)

11月1日(金)晴れ、気温上昇

 ガルガンチュワはフランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの王子として生まれ、生まれ落ちてすぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだためにこの名がついた。生まれつき巨大な体躯の持主であった上に、葡萄酒と牛乳を飲んですくすくと育ち、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートという先生のもとで勉強した結果、学芸と武勇の両方に秀でた若者になった。
 グラングゥジェの領民たちが、ピクロコル王の治めている隣国の領民たちと些細な衝突を起こし、それをきっかけにピクロコル王が軍隊を率いてグラングゥジェの領内に侵入し、略奪をほしいままにするという事件が起きた。グラングゥジェは平和的に問題を解決しようとしたが、ピクロコルが一行に応じないので、やむなく、パリで勉学中のガルガンチュワを呼び戻して事態の解決にあたらせることになる。急いでパリから故郷に戻ったガルガンチュワは、先生のポノクラートや、武芸の師匠であるジムナスト、それにピクロコル王の侵略から自分の修道院のブドウ畑を守ったジャン修道士らの協力を得て、ピクロコル王の軍隊を戦闘の末に壊滅させる。

第49章 逃走したピクロコルが不運に襲われたこと、ならびに戦後ガルガンチュワがしたこと(闘争したピクロコル、不運におそわれる。そしてガルガンチュアが戦後におこなったこと)
 戦いに敗れたピクロコル王はシノンの町の東の方にあるリール=ブーシャール方面に逃げていったが、途中で馬が躓いたので怒って馬を切り殺してしまい、そうなると自分の乗馬が無くなったので、近くの水車小屋から驢馬を拝借に及ぼうとして、粉屋たちから袋叩きにされた上にみぐるみはがれて、代わりにこれでも着ろとぼろぼろの仕事着を渡されたのであった。
 宮下訳の476ページにピクロコル戦争関係の地図が掲載されているのを見るとわかるが、彼の居城は戦争中立てこもっていたラ・ロッシュ=クレルモーの城の西側にあり、逃げるのであれば、西の方に逃げるのが普通だと思うが、東の方に逃げていったのは頭の中が混乱していたためと解釈しておこう。

 こうしてあわれなかんしゃくもちの落人は逃れていった。そして(ヴィエンヌ川と同じくロワール川の支流である)アンドル川を、ポール・ユオーの村で渡る時に、自分の身の不運を語ったところ、年取った魔法使いの女に飛んでくるはずはないが、ニワトリヅル(コクシグリュcocquecigrues、英訳ではCocklicranes)がもしも飛んできたら、彼の王国は戻って来るだろうと告げられた。その後、彼の消息は途絶えている。
 しかしながら、作者が聞いたところでは、ピクロコルはリヨンの町で日雇い人足かなにかになっていて、外国人とみると、ニワトリヅルが飛んできたという噂を聞いたことはないかなどとたずねまわっているとのことである。

 さて、ガルガンチュワの方は自分たちの部隊の人数を調べたが、戦死者はごく少数であることが分かった。そして兵士たちに食費を支給して食事をとらせ、ラ・ロッシュ=クレルモーにおける一切の略奪行為を禁止するとともに、食後、城の前の広場に集まれば、半年分の給与を支払うと伝えさせた。
 以上の手はずを整えたガルガンチュワは、ピクロコル軍の敗残の兵士たちをすべて広場に集合させて、演説を行うこととした。

第50章 敗残軍の兵士に向ってなされたガルガンチュワの告諭(ガルガンチュア、敗軍の兵に演説する)
 原文ではLa contion que feist Gargantua es vaincus で古いフランス語なので、辞書に載っていない単語があったりして、わかりにくい。英訳ではGargantua's speech to the vanquishedとなっている。
 ガルガンチュワは、ピクロコル軍の兵士たちに向って、敗残の兵たちに寛仁を施すことが、自分たちの父祖のやり方であったし、自分もその方針を踏襲するという。そしてピクロコル軍の兵士たちは、ガルガンチュワ軍の兵士たちの護送のもとに、郷里に戻ることとし、その費用として各自に3か月分の手当を支給するという(自軍の兵士たちには半年分で、ピクロコル軍の兵士たちには3か月分というところが戦争の結果を反映しているように思われる)。

 王国はピクロコル王の年少の王子が継承することにするが、国内の王族・貴族の後見が必要であろう。また、行政官が横暴をきわめる恐れもあるので、それらの行政官の監督としてポノクラートをその任に当たらせることにする。そして王子が自分で王国を統治できるところまで成長するまで、この監督は続くものとする。
 今回の戦争に関わった人々にたいしての処罰を望まないが、その端緒となる事件の当事者である小麦煎餅売りたち、特に事件の首謀者であるマルケはガルガンチュワ軍に引き渡すべきである。また、ピクロコル王に世界征服の野望を吹き込んだ側近の人々も引き渡すことを望むという。

第51章 戦終って勝利者たるガルガンチュワ軍の人々の論功行賞が行なわれたこと(戦後、勝利したガルガンチュア軍の論功行賞がおこなわれる)
 こうしてガルガンチュワの演説が終わると、要求通りに謀反人たちseditieuxが引き渡されたが、第33章でピクロコル王に世界征服の野心を吹き込んだ弥久座(ムニュアイ)公爵、刺客(スパダン)伯爵、雲子弥郎(メルダイユ)隊長の3人は戦闘開始前に逃亡しており〔悪いだけではなく、要領のいい奴らである〕、小麦煎餅売りたちの中でも2人が戦死していたので、この中には含まれていなかった。
 引き渡された捕虜たちに対して、ガルガンチュワは危害を及ぼすようなことはせず、彼が新たに設けた印刷所で印刷プレスのレバーを引っ張る役割を申しつけたのであった。

 それから戦死者を手厚く葬り、負傷者を病院で療養させた。また戦争の結果生じた町や家屋の損害を然るべき手続きを経て補償した。さらに占領地に城塞を建設し、軍隊の一部を駐留させた〔城塞の建設に誰が駆り出されたのかというのが問題であるし、占領地の治安を維持するためと称して、戦勝者側がその軍隊の一部を駐留させるのはよくあることである〕。
 それから自軍の兵士たちはもとの駐屯地に戻したが、特に戦功のあった隊長たちは、グラングゥジェのもとへ自ら伴っていった。戦勝を喜んだグラングウジェ王は大宴会を開き、多大な褒賞を与えた。そしてポノクラート以下の特に功績のあった面々にはそれぞれの領地をあたえた。

 さて、論功行賞がまだ行われていないのが、ジャン修道士で、彼に対してはどのような褒賞が与えられるのかは、また次回。
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