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ラブレー『ガルガンチュワ物語』(16)

9月13日(金)曇り、中秋の名月は見られそうもない

 フランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王と、その妃ガルガメルの間に生まれた王子ガルガンチュワは、生まれ落ちた時にオギャーオギャーとは鳴かずに、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだのでこの名前が付いた。もともと巨大な体躯の持主だった彼は牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、しかもなかなか聡明で、一時中だるみの時期はあったが、ポノクラートという良師に出あってパリで勉強をしたおかげで、学問にも武芸にも秀でた若者に成長した。
 グラングゥジェの領地の羊飼いたちと、隣の地方を治めるピクロコル王の領地の小麦煎餅売りたちがいざこざを起こし、事の次第をしっかり調べもせずに、ピクロコル王がグラングゥジェの領地に攻め入ってほしいままに略奪を行うという事件が起きた。ピクロコル王はそのまま、グラングゥジェの領地のなかのラ・ローシュ・クレルモーの城を占領し、彼の家臣である弥久座公爵、刺客伯爵、雲子弥郎隊長の勧めを受け入れて、世界征服の野望を抱き始めた。一方、グラングゥジェはパリで勉学中のガルガンチュワを呼び寄せて、問題の解決にあたらせることにした。

第34章 ガルガンチュワが故国を救うためにパリの町を去ったこと、ならびにジムナストが敵軍に遭遇したこと(ガルガンチュア、救国のためにパリを離れる。ジムナスト、敵に遭遇する)
 父親の手紙を受け取ったガルガンチュワは、すぐに帰国の決心をした。折よく、ビエールの森(フォンテーヌブローの森は古くはこのように呼ばれていた)で放し飼いにされていた、彼の乗馬である牝馬も戻ってきた。ガルガンチュワはパリを離れて、馬を急がせ、シノンから南下してヴィエンヌ川にかかる尼御前(ノンナン)橋を渡った。この橋は近くにあるフォントヴロー女子修道院が通行税をとっていたので、この名があるのだそうである。ガルガンチュワに随行するのは家庭教師のポノクラート、盾持ちで馬術の先生でもあるジムナスト、小姓に取り立てられていたユーデモンらで、宿場で馬を乗り換えては、急いで主君についていった。残る家来たちは書籍や理学研究器具などを一切合切まとめて持ち帰るため、普通の日程で後に続くことになった。

 パリイー(ラブレーはParilléと書いているが、現在ではParillyと書くそうである。シノンとラ・ドヴィニエール、さらにはレルネを結ぶ街道に面した街だというが、なぜか宮下訳の476ページの地図には記載がない)に到着したガルガンチュワは、顔見知りの農夫から、ピクロコルが、ラ・ローシュ・クレルモー城を占拠し、酒杯(トリペ)将軍の率いる大部隊を派遣して、この一帯を略奪させているということを聞く。
 どうすればよいのかガルガンチュワは思案に暮れるが、ポノクラートの勧めにしたがって、かねてから父王と同盟を結んできたラ・ヴォギーヨンの城主のもとに赴くことにした。
 一行を温かく迎えたラ・ヴォギーヨン城主は、彼らの味方をする気持ちであったが、その前に、誰か部下のものを派遣してあたりの様子を探り、敵情を偵察させ、それに基づいて作戦を練ろうという考えであった。そこで、ジムナストが偵察に出かけることを志願したが、念のため、この辺りの地理に詳しい案内人が必要だということで、ラ・ヴォギーヨンの盾持ちの粋山優之介(プルランガン)がついていくこととなった。その間にガルガンチュワとその部下たちは、のどを潤し、少々腹ごしらえをしただけでなく、牝馬にも飼い葉をあてがったのである。

 ジムナストたちは、馬を進めていくうちに、敵の兵たちが略奪強盗を働いている現場に行き当たった。かれらは2人からもとれるものをとろうと寄って来たので、ジムナストは一緒に酒を飲もうと言い出し、持参した酒筒のなかの葡萄酒を飲んで見せた。そこへ酒杯(トリぺ)隊長がやって来たので、ジムナストは彼に酒を飲むように勧める。怪しんだ隊長は、おまえは何者かとたずね、ジムナストが自分はあわれな悪魔だというと、悪魔にしてはいい馬に乗っているといって、馬を奪おうとする。

第35章 ジムナストが手際も鮮やかに酒杯(トリぺ)隊長および他のピクロコル軍の者どもを殺したこと(ジムナスト、身のこなしも軽く、トリぺ隊長やピクロコル軍の兵士を殺してしまう)
 この問答を聞いていたピクロコル軍の兵士たちのなかには、ジムナストを本当に悪魔が化けて出てきたのだと思い込んでしまい、そのなかの1人で民兵団の隊長であった人野善助という男は、祈祷書を取り出して、悪魔祓いの呪文を唱えたが、ジムナストは一向に立ち去らないので、ピクロコル軍の兵士たちのなかには気味悪がって戦列からはなれるものが出てきた。

 馬術の名人であるジムナストは、馬の上で体操競技のあん馬のような妙技を展開し、それを見ていた兵士たちのなかには、これは確かに人間ではないと思って、逃げ出すものがさらに多く出た。相手が浮足立っているのを見届けたジムナストは、彼の剣を抜いて切りかかり、多くの者を打倒した。それでも酒杯(トリぺ)隊長はジムナストの隙を見て切りつけたのだが、あっさりと切り捨てられてしまった。こうして相当な戦果を収めたが、ジムナストは深入りは禁物とラ・ヴォーギヨンを目指して帰途に就いた。

第36章 ガルガンチュワがヴェード浅瀬の城を壊したこと、ならびに一同が浅瀬を渡ったこと(ガルガンチュア、ヴェード浅瀬の城を壊し、一同は浅瀬を渡る)
 帰ってきたジムナストは、自分たちの偵察の一部始終を語り、相手は軍律をいっさい心得ない強盗追剥山賊の類に過ぎないし、そういう統制の取れない軍隊を破ることは容易であるから、敢然として進撃すべきだと主張した。
 そこでガルガンチュワは、すでに紹介した側近の面々を従え、その大牝馬にまたがって出陣した。途中、昔聖マルタンが、この地で休んだ時に立てた法杖がそのまま大木になったと信じられている聖マルタンの樹を見つけ、それをなんの苦も無く引き抜いて、枝葉を取り除き、使いやすいような形にしてしまった。
 その間に、ガルガンチュワの牝馬は放尿したが、それが大変な量だったので、ヴぇードの浅瀬をめがけて流れ下る洪水をひきおこし、ピクロクル軍の兵士の相当部分が逃げ切ることができずに溺死してしまった。ヴェードの浅瀬の城にはまだ少しばかり兵士が残っていたが、早く退却したほうが身のためだというガルガンチュワのことばを聞かずに、その巨体をめがけて大砲を始め、軽砲だの火縄銃だので弾丸を発射しまくった。一方、それが砲弾だとは知らず、蠅だと思ったガルガンチュワは、ポノクラートに教えられて初めて砲弾だと気付き、例の大木を使って、城を完全に破壊してしまった。こうして城の中に残っていたピクロコル軍も全滅してしまったのである。
 さて、グラングゥジェの居城に達するには、ヴェードの浅瀬を渡る必要があったが、先ほどの大牝馬の放尿の結果の洪水で、溺れ死んだピクロコル軍の兵士たちの死骸が転がっていて、馬を進めることが難しい。馬は死体を怖がるからである。しかし、ジムナストが先導して、一同は浅瀬を無事渡ることができた。

 こうしてガルガンチュワはパリから、父親の許に戻ることになるが、さて、父親との対面はどのようなことになるか、その後、戦いはどのように推移するかはまた次回に。 
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ラブレー『ガルガンチュワ物語』(15)

9月6日(木)
 フランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王と、その妃ガルガメルの間に生まれた赤ん坊は、生まれるとすぐ「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことで、「ガルガンチュワ」と名づけられた。もともと巨大な体躯の持主だった彼は、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、しかもなかなか聡明な生まれつきであった。一時期、詭弁学者の手に委ねられたことで、頭のめぐりが悪くなったこともあったが、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートのもとで、聡明かつ武芸に秀でた若者に成長してきた。
 ところが、隣の国の領民たちと、グラングゥジェの領民たちが紛争を起こし、その原因をしっかり調べることもなく隣国の王ピクロクルが、グラングゥジェの領地に侵入し、略奪をほしいままにした。グラングゥジェは相手に譲歩を示して平和を模索したが、ピクロクルは聞く耳を持たず、ラ・ローシュ・クレルモーの城を占領して交渉に応じようとしなかった。グラングゥジェはパリで勉強しているガルガンチュワを呼び戻すことにしたが、その一方でピクロコルの家来たちは、自分の主人に世界征服への野心を吹き込んでいた。

第33章 何人かの顧問官たちの早計浅慮がピクロコル王を最悪の危難に陥れたこと(司令官たちの速断が、ピクロコル王を最悪の危機におとしいれる)(続き)
 ピクロコル王の佞臣、弥久座公爵、刺客伯爵、雲子弥郎隊長らは、ラ・ローシュ・クレルモーに少数の兵を残して、その他の兵を2手に分け、一方はグラングゥジェとの戦いに向かわせ、もう一方はスペイン、ポルトガル、西地中海、イタリア、東地中海、さらにはメソポタミアまでも征服するというものである。
 一方の隊がメソポタミアまで遠征しているときに、グラングゥジェ討伐に向かったもう一方の隊は、何をしているのかとピクロコルが問う。こちらのほうは北フランスとフランドル地方を制圧した後、今度は南下してリヨンで、地中海の海上制覇を終えたもう一方の隊と合流し、さらに南ドイツからオーストリア、モラヴィアを経て、ボヘミアに終結することになるだろうという。さらに、リューベック。ノルウェー、スウェーデン、デンマークを制圧して氷海に出ると、また南に進んでスコットランド、イングランド、アイルランドを服従させ、今度はバルト海を渡って、北ドイツ、ポーランド、リトワニア、ロシア、ワラキヤ、トランシルヴァニヤ、ハンガリヤ、ブルガリヤ、トルコを撃破し、コンスタンティノープルに到着する(現在のイスタンブール、当時のオスマン・トルコの首都である)。なお、この世界征服の予定経路は宮下さんによると、当時の神聖ローマ帝国皇帝カール(カルロス)Ⅴ世の計画と重なるものだという。

 すっかりその気になっているピクロコルは、コンスタンティノープルに急いで出かけるという。トレビゾンドの皇帝にもなりたいからという理由である。トレビゾンドは、現在ではトラブゾンというが、トルコの東部・黒海沿岸の都市で、1204年に十字軍がコンスタンティノープルを占領した際に、この地に逃れたビザンティン(東ローマ)帝国の王子によってトレビゾンド帝国が創建された。領土は限定的であったが、通商で栄えた。しかし、1453年に東ローマ帝国が滅びた後、1461年にやはりオスマン・トルコによって亡ぼされた。渡辺・宮下ともにこの点については触れていないが、トレビゾンドの皇帝ということで、東ローマ帝国の皇帝を意味しているのではないかと思う。(神聖ローマ帝国皇帝が、東ローマ帝国の皇帝にもなれば、古代のローマ帝国の統一・再建がなされたことになる。)

 ピクロコルはさらに、トルコ人やマホメット教徒たちはそのままにしておいていいのかと問い、一同は「殺さで何の戦かな」(162ページ)などと言って、虐殺をそそのかす。「奴らを片づけたうえで、その財宝領土を、忠実(まめ)に仕えましたる者どもにお授けくださりませ。」(渡辺訳、162ページ) ピクロコルは鷹揚にこの申し出を受け入れ、かれらにカラマニヤ、シリヤ、パレスティナを与えると約束する。空約束だから景気がいいのかもしれない。

 それを聞いていたピクロコルの古参の家臣である用意肝腎(ニケフロン)卿という貴族が、捕らぬ狸の皮算用になりはしないだろうかと疑念を述べる。戦争の後凱旋してくつろぐことが目的であるのならば、戦争をせずにはじめからのんびり過ごしたほうがいいのではないかという。この忠言に対してピクロコルは聞く耳を持たず、出撃を命じる。
-- Sus, sus (dict Picrochole), qu'on despesche tout, et qui me ayme si me suyve! ⦆
――いざいざかかれ、(とピクロコルは言った、)万事取り急ぎ用意いたせい。者ども続けい、わしを思ってくれる者どもは!(渡辺訳、164ページ)
「突撃、突撃!」と、ピクロコルがかけ声をあげた。「用意万端ととのえよ。われのことを思う者よ、続け!」(宮下訳、268ページ)
 なお、宮下さんによると、このピクロコル王の言葉は、古代ペルシア、アケメネス朝のキュロス王が、小アジアのリディア王国との戦いで叫んだ言葉だそうである。キュロスはこの戦いに勝利して、リディアを滅ぼすことになる。勇壮で壮大な遠征計画と、実は極めて小規模な競り合いに過ぎない戦いの経緯の対比が見事な対照をなしている。ピクロコルの引き起こした戦争の結末はどのようなものと相成るか、次回以降をお待ちください。

 明日は東京まで出かけて、最終日になってしまった早川修さんの展覧会を見て、横浜に戻ってから横浜FC対ヴァンフォーレ甲府の試合を観戦、その間に別の用事も片付ける予定にしていて、皆様のブログを訪問する時間がとれるかどうか、おぼつきません。失礼があるかもしれませんので、あらかじめお断りしておきます。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(14)

8月29日(木)晴れ、暑さが戻ってきた。

 フランスの西の方の地方を治めていたグラングゥジェ王と、その妃ガルガメルの間に生まれたがルガンチュワは、生れ落ちるとすぐに、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と泣き喚いたために、この名がついた。生まれつき巨大な体躯を持っていたが、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、しかもなかなか利発な子どもだったので、父王は詭弁学者を家庭教師につけて勉強させたが、うまくいかなかったので、現代風の新しい教育方法で勉強させようとパリに送り出し、その師ポノクラートの薫陶よろしきを得て、賢明な若者に育っていった。
 ところが、グラングゥジェの領地の羊飼いたちと、その隣のレルネの町の小麦煎餅売りたちの間でいざこざがおこり、レルネの王であったピクロコルが詳しい事情を調べもしないで、グラングゥジェの領地に攻め入り、略奪をほしいままにするという騒ぎが起きた。グラングゥジェは何とか平和を回復しようとするが、ピクロコルは聞く耳を持たない。しかも、悪いことに、ピクロコルの家来である弥久座公爵、刺客伯爵、雲子弥郎隊長の3人が、ピクロコルに、これに乗じて世界征服に乗り出そうというとんでもない計画を持ち掛ける。
 ピクロコルの軍隊は、ラ・ローシュ・クレルモーの城(もともとグラングゥジェの領地にある)を占拠しているが、この城は要害の地にあるので、少数の守備隊をおいてこの城を守らせ、残りの兵を2隊に分けて、1隊はグラングゥジェのもとに向かわせ、彼が集めてきた財宝を略奪する、もう1隊は西に進んでスペイン・ポルトガルを征服し、さらに北アフリカに進出して地中海を制圧する…というものである(今回はその続き)。

第33章 何人かの顧問官たちの早計浅慮がピクロコル王を最悪の危難に陥れたこと(司令官たちの速断が、ピクロコルを最悪の危機におとしいれる)(続き)
 北アフリカのアルジェリア、チュニジアなどの国々を征服すると、また地中海を渡って、バレアレス諸島(つまり、マジョルカ島とメノルカ島)、(現在はイタリアに属している)サルデーニャ、リグリア地方を征服する。(現在はフランス領の)コルシカ島、(フランスの)プロヴァンス地方、(またイタリアに戻って)ジェノヴァ(リグリア地方に属しているはずである)、フィレンツェ、さらに「栄光に映ゆるローマを鎮定なさるのでござりまするぞ! 哀れや教皇殿は、すでに恐怖のために生色なしでござりますわい。」(渡辺訳、159ページ、宮下訳では260‐261ページ)

 こうして北イタリアを制圧すれば、南イタリアも容易に制圧できる。ナポリ王国、カラブリア地方、シチリア島(ここまではイタリア)、マルタ島も「悉く略奪の餌食と相成る」(渡辺訳、159ページ、宮下訳、262ページ)。さらにロドス島、キプロスなど東地中海の島々も手に入れ、エルサレムに到着する。「トルコ皇帝など、殿の御威勢の前では物の数でもござらぬからなぁ!」(同上)
-- Je (dist il) feray doncques bastir le Temple de Salomon.
 「ではわしは、(とピクロコルは言った。) ソロモンの寺を建立させようかな。」(渡辺訳、159ページ、宮下訳では「では、ソロモンの神殿なりとも建立いたそうか。」 262ページ) ここは、宮下訳の方が適切であろう。ソロモンの神殿は、ユダヤ王国の滅亡とともに破壊されたが、ヘロデが再建し、そのために「大王」と呼ばれるようになった。しかし、その再建された神殿も、ローマ帝国からの独立戦争の敗北とともに破壊される。ピクロコルには、信仰はないが、名誉欲はある。神殿をまた再建すれば「大王」と呼ばれることになるのを意識した発言である。 実際問題としてフランスの一地方の領主に過ぎないピクロコルが、トルコの皇帝と戦争をして勝てる見込みはほとんどないのである。

 3人は異口同音にピクロコルの意図を遮る。大事を行うに際しては、焦りは禁物だという。「オクタウィアヌス・アウグストゥスが何と申したか、御承知でいらせられますか? 「ゆるりと急げ(フェスティナ・レンテ)」でござりまするぞ」(渡辺訳、160ページ、宮下訳では「皇帝アウグストゥスが、なんと申したか、ご承知でしょうか。<急がば回れ>でございまするぞ。」262ページ) ソロモンの神殿を再建するのと、征服を続行するのと、どちらが焦りにみちた行為であるかは意見の分かれるところだろうし、そもそも、そうした机上の征服計画がうまくいく可能性はまったくないのである。3人は遠征を更に進めて小アジア(トルコからシリアの一帯)を制圧し、ユーフラテス川の川岸に到着することになるだろうという。
 ローマ帝国初代皇帝オクタウィアヌス・アウグストゥスと、田舎大名のピクロコルとでは、提灯に釣り鐘、まったく釣り合わない。

 ---- Voyrons nous (dist Picrochole) Babylone et le Mont Sinay?
 ----わしらは、(と、ピクロコルは言った、)バビロンもシナイ山も眺めることになるのじゃな? (渡辺訳、160ページ、宮下訳では263ページに相当) バビロンとシナイ山とではだいぶ位置がちがう。地理感覚が相当にくるっているが、これは、今までも同じことである。そもそもヨーロッパ、北アフリカ、中東の地理を正しく認識していない人間が世界征服を考えること自体が、笑える。
 3人は、これまで十分に暴れまわったのだから、そこまで欲張らなくてもいいという(だったら、はじめから暴れまわらない方がいいのである)。細かいことであるが、バビロンはユーフラテス川の岸にあり、チグリス川はユーフラテス川の東側を流れているから、チグリス川まで達するということは、バビロンを通過している可能性があるわけである。

 今度は逆にピクロコル王の方が待ったをかける。砂漠のなかを行軍するのだから、水分が補給できない。ローマ帝国末期の皇帝ユリアヌスとその軍勢は、砂漠のなかでのどの渇きのために命を失ったというではないかという。〔「背教者ユリアヌス」は、363年、ペルシア遠征で戦死」というのが宮下訳の263ページの割注。コンスタンティヌス大帝がキリスト教をローマ帝国の国教にした後、ユリアヌスがまたそれを廃止したので、「背教者」と呼ばれる。〕
 これに対する3人の答えが笑える。ここは、宮下訳で紹介しておこう:
 「しかと手はずは整えておきました。世界最高のワインを満載したる、9014艘もの大船が、シリア海経由で、ジャファ〔テルアビブの外港〕に到着いたしまする。そこにラクダが220万頭、ゾウが1600頭、控えておりまする。殿がリビア進軍に際しまして、シジルマッサ〔サハラ砂漠の町〕の周辺で狩猟をおこない、確保なさることになっております。加えましてメッカの隊商が総動員される手はずでございます。ワインの供給は十分ではございませんでしょうか。」(宮下訳、263‐264ページ、渡辺訳では160‐161ページ) 砂漠でワインを飲んだら、余計に喉が渇くのではないかと思う。

 「なるほど、そうかもしれぬ。だが、冷やして飲めなかったのだぞ。」(宮下訳、264ページ、「原文は単純過去形。ピクロコル王、すっかりその気になっている。」と265ページの傍注にある。渡辺訳では161ページ。)
 3人は、世界征服のためには、小さな快楽は捨てなければならないと説得に努める。「殿とその軍勢は、無事にティグリス河まで来られたのですから、何とも有難きこと、神に感謝せねばなりませんぞ。」(宮下訳、264ページ、渡辺訳、161ページ) 確かにローマ帝国はペルシア(パルティア)をその版図に含むことはなかったが、アレクサンドロス大王はペルシアも滅ぼして、今のアフガニスタンやパキスタンの一帯まで進出している。どうせ空想の世界であるから、さらに東に進んでもいいのである。

 ピクロコル王の妄想を煽り立てる3人の世界征服計画はまだまだ続く。どんなことになるかはまた次回に。

 朔日、病院に出かけたところ、予定していなかったホルター心電計の装着が加わったこともあり、たいへんに疲れてしまい、ブログの更新途中で眠り込んで、昨日分の原稿を完成できませんでした。これから、ゆっくりと完成させていきたいと考えておりますので、その旨ご了承ください。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(13)

8月23日(金)曇り、時々雨

 ガルガンチュワはグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれ、誕生後まもなく「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と泣き喚いたためにこの名がついた。もともと巨大な体躯の持主であったが、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、ますます大きく育った。しかもなかなか聡明な子どもだったので、父親は詭弁学者を家庭教師として勉強させたが、成果が上がらなかったので、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートという教師の下で勉強するために、パリに送り出された。今度は、彼はしっかりと勉強し心身ともにたくましく、知恵も豊かな王子に成長した。
 グラングゥジェの隣国はピクロコルという王が治めていたが、その領民であるレルネの町の小麦煎餅売りたちが、グラングゥジェの領内を通る時に、葡萄畑の番をしていた羊飼いたちと騒動を起こし、けがをした。小麦煎餅売りたちは、自分たちの非は一切隠したままでピクロコル王に自分たちの被害を述べたので、ピクロコル王は激怒し、軍隊を招集、グラングゥジェの領内に侵攻し、略奪をほしいままにした。突然の侵略に驚いたグラングゥジェは、ガルガンチュワを呼び戻す一方で、使者を派遣して、ピクロコルに和平・停戦を求めたが、ピクロコルは耳を傾けなかった。さらにグラングゥジェは小麦煎餅売りたちに対する補償の金品を送ろうとしたが、ピクロコル王はそれらを取り上げて、使者を追い返したのであった。

第33章 何人かの顧問官たちの早計浅慮がピクロコル王を最悪の危難に陥れたこと(司令官たちの速断が、ピクロコルを最悪の危機に陥れる)
 渡辺が「顧問官」、宮下が「司令官」と訳している語の原文はgouverneursで、辞書によれば、「司令官」であるが、Thomas Urquhart and Pierre Le Motteu による英訳ではstatesmen(特に指導的な「政治家」)と訳されており、前後の関係から見ても、ただの司令官ではないように思われる。「最悪の危難」がどのようなものかは、物語の展開を追っていけばわかる。

 なんとか和平をもたらそうと、グラングゥジェが送ってきた小麦煎餅を奪い取ってしまうと、ピクロコル王の前にduc de Menuail (渡辺訳では弥久座公爵、宮下訳ではムニュアーユ公、上記英訳ではthe duke of Small-trash)、comte Spadassin (渡辺訳 刺客伯爵、宮下訳 スパダサン伯、英訳 the Earle of Swash-buckler)、capitaine Merdaille (渡辺訳 雲子弥郎隊長、宮下訳 メルダーユ隊長、英訳 Captain Durtailleの3人がやって来た。
 彼らはピクロコルを、マケドニヤ王アレクサンデル(アレクサンドロス、アレクサンダー)以来の大征服者とする計画を立てたという。もともと小麦煎餅を売るか売らないかといういざこざから始まった村と村との間の対立であるが、この3人はそれをきっかけに大征服戦争を企画する。ここから彼らは「壮大」な世界征服の計画を展開する。それは古代の風刺文学作品を参考にして書かれたものであるが、トマス・モアの『ユートピア』のなかにある作戦会議中のフランス国王にいくら賢明な策を進言してもむだだというヒュトロダエウスの言葉に対する回答となっているという説もある由である。さらに、当時のフランス王=フランソワⅠ世の宿敵である神聖ローマ・ドイツ皇帝カールⅤ世の世界制覇政策をかなり具体的に風刺する内容ともなっているという。ばかばかしくもおかしい大計画であるので、できるだけ丁寧に紹介していくことにする。

 先ず隊長の1人に少数部隊をつけて、現在ピクロコル王の軍隊が占領しているラ・ローシュ・クレルモーの城を守備させる。それから全軍を2隊に分け、そのうち1隊をグラングゥジェの軍勢と戦わせる。攻撃を始めるや否や、グラングゥジェ軍は壊滅状態となるであろう。そして、グラングゥジェが集めてきた金銀財宝が手に入るだろうという。「かくして殿は、山と積まれたる金銀財宝を入手されまするが、何しろかの土百姓めは、現なまでざくざく持って居りまする。敢えて土百姓めと申しますしだいは、高潔なる君主は鐚(びた)一文も持たぬのが定法だからでござる。勤倹貯蓄などは土百姓のやることでござります。」(渡辺訳、158ページ) これは注目すべき発言である。念のために、宮下訳で同じ個所を引用すると:「金銀財宝が山ほど見つかりますぞ。/下人めは、現ナマをざくざっくと持っておりまするぞ。下人と申しますのも、君主は貴人にして、びた一文もたぬのが世の定め、蓄財などは、下人のなすことではござりませんか。」(宮下訳、258ページ) 
 渡辺が「土百姓」、宮下が「下人」と訳しているのは、vilainという語で、ふつう「見苦しい」とか「みっともない」とかいう形容詞として使うのだが、歴史上の用語として「(中世の農村に居住する)自由平民」という意味もあるそうである。なお、上記英訳ではClown (道化役者、ばか、古い意味として田舎者)と訳されている。
 ここで暗示されているのは、グラングゥジェが蓄財にはげんでいるのに対し、ピクロコルはそうではない、フランスの歴史の中では、蓄財によって裕福になった地方領主や商人がそれによって貴族にのし上がっていく(「法服貴族」とか「商人貴族」)現象がみられたが、そういう道を歩む地方人と、そうでない人々との対立があったということではないかと思う。

 さて、ピクロコル王の出兵のそもそもの目的はグラングゥジェの領民が自分の領民に加えた暴行に報復することであったのだから、グラングゥジェを討伐すればそれで話は済むはずであるが、3人の取り巻きたちは、勝つか負けるかわからないグラングゥジェとの戦いに勝ったつもりになって、それ以外にも、別の一隊を派遣して世界征服の戦いを始めさせようというのである。
 そのもう一方の別動隊は、フランス西南部の町村を侵略してまわる。そして海岸に出て船を徴発し、その船に乗って「海岸地方をば悉く攻略してリスボンヌに着き、征服者にふさわしき装備を更に整えるしだいと相成ります。笑止なる哉、イスパニヤの国は軍門に下ること必定でござるが、この国の奴どもは、たかが薄のろの土百姓どもにすぎませぬぞ!」(渡辺訳、158ページ)
 渡辺はなぜか「リスボンヌ」と記しているが、宮下はもちろん、「リスボン」と書いており、ポルトガルの首都である。この時期、「無敵艦隊」を擁して、世界に覇を唱えていたスペインを「たかが薄のろの土百姓」というのは、元気が良すぎる。

 そしてジブラルタル海峡を渡り、ヘラクレスの柱をしのぐような記念碑を立てることになるという。ヘラクレスの柱というのは、ギリシア・ローマ神話によれば、ジブラルタル海峡にそびえるアビラ山(アフリカ)とカルペ山(スペイン)はもともと1つの山だったのを強力の英雄ヘラクレスが2つに分けたといい、この2つの山を指す。さらにこの海峡を「ピクロコル海」と名付けることになるだろうという。ここまでくれば、当時アルジェを本拠として活躍していたオスマン・トルコの提督赤髯(Barberousse バルブルウース)太守も降参するだろうという。赤髯太守は、神聖ローマ帝国皇帝でスペイン・フランドル・オーストリア(とさらに多くの国・地方)の君主であったカールⅤ世と戦っていたが、1535年7月にカールⅤ世軍に敗れた。このあたり、この歴史的な事実を踏まえているという説もあるそうである。

 「とらぬ狸の皮算用」というのは、フランス語では何というのであろうか。(フランスにはタヌキはいない。) とにかく、戦争を始める前から、買った時の算段ばかりして妄想を膨らませていく。次回以降、さらに妄想が膨らんでいくので、行き先はどんなことになるのか、ご注目ください。 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(12)

8月16日(金)曇り、午後になり次第に晴れ間が広がる。風が強く、暑さがわずかながら和らぐ。

 ガルガンチュワは、フランス西部の一地方を治めていたグラングゥジェ王と、その妃であるガルガメルの間に生まれた。「おギャー、おギャー」という代わりに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と産声を上げ、それを聞いた父親が「やれやれお前のはでっかいわい!」(Que grand tu as!)と言ったために、このように命名された。
 もともと大きな赤ん坊であった彼は、葡萄酒と牛乳を飲んですくすくと育ち、巨大な体躯に加えて、なかなか賢い子どもに成長した。そこで、父王は詭弁学者を家庭教師として勉強させたが、効果がなかったので、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートを教師として、パリで勉強するように故郷から送り出した。ポノクラートのもとでガルガンチュワはギリシア・ローマの古典、キリスト教の福音書、そして自然科学と技術について学び、またスポーツと武芸で体を鍛えた。
 ある年の秋のはじめ、ブドウの収穫時に、グラングゥジェ王の領地の羊飼いたちが、通りがかった隣の国の小麦煎餅売りたちといざこざをおこし、暴力をふるった小麦煎餅売りを懲らしめて追い払ったが、それを逆恨みした小麦煎餅売りたちは、彼らの王であるピクロコルに隣国の羊飼いたちの無法について報告し、ピクロコル王は事実をよく確かめもしないで、軍隊を招集してグラングゥジェ王の領地に攻め入った。
 ピクロコル王の軍勢は、略奪のかぎりをつくしたが、スイイーの村にある修道院のブドウ畑は、修道士ジャンの働きによって無事であった。隣国の王の侵攻の報告を聞いたグラングゥジェは、事態を円満かつ平和裏に解決しようとする一方で、パリに伝令を送ってガルガンチュワを呼び戻そうとする。

第30章 ウルリック・ガレがピクロコルのもとへ派遣されたこと(ウルリック・ガレ、ピクロコルのもとに派遣される)
 グラングゥジェはガルガンチュワを呼び戻す手紙を持った使者を派遣した後、ウルリック・ガレという家来を特使に任じて、ピクロコル王との交渉にあたらせ、侵略行動の理由の究明と軍隊の撤兵の要求を行なうことになった。
 ガレはすぐに出発して、ピクロコル軍の立てこもるラ・ローシュ・クレルモーの城に近づいたが、付近の住民に敵兵は凶暴だから慎重に行動したほうがいいと忠告されて、とりあえず一泊した。
 翌朝早く、使者としての用向きを伝えたが、ピクロコル王は城門を開こうとせず、前哨稜堡(宮下訳では城塞の塁道)のところまで出てきて、そこで使者の申し立てを聞こうとした。
 ガレは、そこで次のように弁じた。

第31章 ガレがピクロコルに向ってした演説(ガレがピクロコルに対しておこなった演説)
 ガレはまず、ピクロコル王のはっきりとした理由の説明のない軍事行動によって、何人かの人命が失われたことを指摘し、事の重大性を認識するように(ズバズバとというより、やんわりと)いう。

 そして、ピクロコルの国と、グラングゥジェの国、さらに近隣の諸国は、長いあいだ友好関係を保ち、そのことを盟約として尊重してきたはずであるのに、なぜこのような軍事行動を起こしたのかと問う。
 しかも、この諸国間の友好関係は国際的に羨望を集めているものであり、他にも加わりたいと思っている国もあり、国際的な平和に役立っているのに、なぜ、この期に及んで破棄するような行動をとるのかという。
 グラングゥジェの側では、ピクロコルの側に対していかなる軍事的な挑発行為もしてこなかったのに、なぜこのような侵略行為に及ぶのかを説明してほしいと畳みかける。侵略行動は人道にも神の教えにも背く行為である。神の教えに背く行為は、必ずや神の裁きを受けるであろう。これが一種の宿命であるにしても、その結果はよくないことは明らかであるし、それに、他の国や国民とその財産を巻き込むのはやめてほしいという。
 また、仮にグラングゥジェの側に非があったとしても、事態について調査を行い、外交交渉を行ってから、軍事行動を起こすのが筋というものではないか。
 直ちに撤兵して、グラングゥジェの国に与えた被害について賠償し、またその支払いまでに人質をおいていただきたいというのが彼の演説の内容であった。

第32章 グラングゥジェが平和を購うために小麦煎餅を返させたこと(グラングジエ、平和を購うためにフーガスを返却する)
 以上のように述べてガレは口をつぐんだのだが、これに対して、ピクロコル王は悪態をつくだけで、「小麦煎餅でも粉にしてやるわい」(渡辺訳、152ページ、宮下訳、「フーガスだってすりつぶしてくれるわい」、250ページ)と言い捨てた。渡辺が注記しているが、せっかく煎餅にしたものを粉にしてしまってはしょうがない。

 回答らしい回答を得られなかったがれは、やむを得ず、グラングゥジェ王のもとへ戻る。グラングゥジェは神がピクロコルの激怒を和らげ、力に訴えなくても道理をわきまえられるようにしてほしいと祈っていたのである。
 戻ってきたガレの姿を見て、グラングゥジェは首尾を尋ねた。ガレは答える。
 「道理も糸瓜(へちま)もございません。あの男は全く常軌を逸し、神にも見離されて居ります。】(渡辺訳、153ページ、宮下訳、「うまくいきませんでした。あの男は完全に常軌を逸しておりますし、神にも見放されておりまする。」、250ページ) 原文は
-- Il n'y a (dist Gallet) ordre; cest homme est su hors du sens et delaisse de Dieu. (古いフランス語なんでわかりにくいが、宮下訳の方が原文の文脈に忠実なのではないかと思われる。)
 
 ピクロコル側の言い分は全くわからないが、どうも「小麦煎餅」(あるいはフーガス)というところに、事件の真相を解くカギがありそうだということになり、事件を調査してみると、ピクロコルの国の人々からグラングゥジェ側が無理やりに小麦煎餅を若干奪い取ったこと、小麦煎餅売りのマルケが脳天に丸太棒をぶつけられたという事実が判明した。しかし、小麦煎餅の代金は支払ったのだし、マルケのほうがフロジェに先に手を出したことも明らかなので、全力で防戦に当たるだけの理由はあるように思われた。
 戦争の多くは「自衛のための戦争」である。だから、グラングゥジェ側としてみれば、すでに侵略を受けているのであるし、交戦するだけの根拠は十分に整っていると思われるのだが、グラングゥジェはなおも交戦に踏み切らない。
 「たかが何枚かの小麦煎餅だけの問題ならば、向うの得心の行くようにしてやることにしよう。戦端を開くなどということは、気に染まぬこと、この上もない。」(渡辺訳、154ページ、宮下訳では251‐252ページに相当)

 そこで4ダースか5ダース分の小麦煎餅を奪い取ったということがわかると、5輌分の小麦煎餅を作らせ、そのうちの1輌分は特別製の物を作って、マルケに与えるものとしただけでなく、彼には多額の治療代と、賠償金を支払うことにした。そしてガレをふたたび交渉に赴かせ、これらをもって平和の条件としようとした。ガレの言い分を聞いた、ピクロコル王側のトゥクディヨン(渡辺訳では臆病山法螺之守)はピクロコル王に提案の骨子を伝えたが、グラングゥジェは臆病風に吹かれてこのような措置をとったのであり、ピクロコル王側の出方を与しやすしとみている、強硬な態度をとって思い知らせてやるべきだと、余計なことを付け加える。そして兵糧が不足している折、使者の持参した小麦煎餅は没収し、自分たちの食料とするように進言する。ピクロコル王はその言葉を受け入れて、ガレが持参した大金や小麦煎餅を奪い取り、使者たちを追い返す。ガレはやむなく、グラングゥジェの元に戻り、この際、戦闘以外に平和の手段はないと復命するのであった。

 ピクロコルの好戦的な姿勢は、この時代のヨーロッパの国王たちが一般的にとっていたものであり、これに対し、グラングゥジェのあくまでも平和を望む姿勢は、ラブレーが師と仰いだ人文主義者エラスムスの思想を反映するものであるといわれる。トマス・モアの『ユートピア』やトンマーゾ・カンパネッラの『太陽の都』でも戦争と平和の問題は大きく取り上げられているのは、別の所で論じたとおりである。戦争を無条件に肯定するか、自衛のための戦争のみを肯定するか、戦争全般を否定するか、意見は分かれるところであろう。ラブレーの考えは、自衛のための戦争は肯定するもののように思われるが、鎧を着こんだ上から僧侶の衣をきた平清盛を思い出させるところがないわけではない。
 ピクロコルは侵略を思いとどまろうとしないが、この結果はどうなるのだろうか。それはまた次回に。 

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