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ラブレー『ガルガンチュワ物語』(22)

10月25日(金)雨

 ガルガンチュワは、フランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの息子で、生まれた時に「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことからこの名がついた。牛乳と葡萄酒を飲んで、生まれつき大きかった体はますます大きくなり、ポノクラートという先生についてパリで勉強したことで、武芸と学芸の両方に秀でた王子となった。
 グラングゥジェ王とその隣国のピクロコル王との間に小さないざこざがおこり、それをきっかけとしてピクロコル王の軍勢がグラングゥジェ王の領内に侵入し、略奪をほしいままにした。グラングゥジェ王は平和に事態を収拾しようとしたが、ピクロコル王が聞く耳を持たなかったので、やむなくガルガンチュワを呼び戻して事態の解決にあたらせることにした。
 ガルガンチュワはポノクラートや自分の近習の者たちを連れて帰国、自分の属する修道院のブドウ畑をピクロコル軍の略奪から守ったジャン修道士を呼び寄せ、とりあえず偵察隊を率いて敵情を探ることにした。ピクロコル軍側も偵察隊を派遣したので、両者は衝突、ガルガンチュワ側が勝利して、敵の隊長の1人であった臆病山法螺之守(トゥクディ―ヨン)を捕虜にした。グラングゥジェはピクロコル側の非を説き、臆病山法螺之守を情け深く扱い、ピクロコル王を説得するために帰国させる。

第47章 グラングゥジェがその諸軍団を招集させたこと、ならびに臆病山法螺之守が青葡萄苗之介を殺し、次いで自らもピクロコル王の命によって殺されたこと(グラングジエ、軍団を動員する。トゥクディヨンはアスティヴォーを殺すも、ピクロコル王の命令により殺される)
 平素からグラングゥジェの国と同盟関係にあった国々(実際は村々)から、戦争による被害の復興のための金と、ピクロコル王の軍勢と戦うための援軍の申し出があり、多額の金銭と大軍が実際に集められた。
 しかし、ガルガンチュワはその申し出に感謝はしたものの、この度の戦闘は出来るだけ知略を働かせて、戦わずして勝つように心がけるつもりだと言った。ただ、領内の各地に駐屯していた軍団を呼び戻して、戦闘の準備をさせた。〔前後の状況から判断して、グラングゥジェ王の方が、ピクロコル王よりも動員力において勝るので、ピクロコル王に多少の分別があれば、この戦争ははじめから起こらなかったと考えるべきである。旧日本陸軍では基本的な組織である連隊の上に師団が編成され(戦時になると連隊と師団の間に旅団が編成されることもあった)、その師団の上に軍団が組織されていた時期があったが、その後廃止された。現在の自衛隊では師団の上に、方面隊が組織されていて、これが軍団に対応するものであろう(その一方で、「〇〇軍団」などとわりに安易に軍団という言葉を使う傾向があることも否定できないが…)。渡辺、宮下の翻訳がともに「軍団」という言葉を使っているが、兵員規模を考えると、あまり適切であるとは思えない。「部隊」くらいが適当であろう。

 さて、臆病山法螺之守はピクロコル王のもとに戻って、これまでの経緯を語り、グラングゥジェは立派な人物で戦闘を継続する理由はないし、味方の戦力はそれほど強大なので戦闘を続けても勝つ見込みがない(前哨戦に悉く敗れているというこれまでの経緯から見ても明らかである)から戦争は止めた方がいいと述べようとする。ところがその話の途中で青葡萄苗之介(アスチヴォー)が話を遮り、敵にたぶらかされてのそのような発言は裏切り行為だと叫ぶ。怒った臆病山法螺之守は青葡萄苗之介を殺し、それを見たピクロコル王の命令によって殺される。そしてピクロコル王は青葡萄苗之介の死骸を手厚く葬らせ、臆病山法螺之守の死骸を堀に捨ててしまった。この事件は、ピクロコル軍の内部に大きな動揺をもたらした。
 ピクロコル王の家臣の酒壺摑郎(グリップピノ―)は、自軍の士気は高いとは言えず、兵糧も軍中に行き渡っているとはいえず、これまでの戦闘で兵員もかなり減少しているので、心配である。そのうえ、敵には強大な援軍が到着しているので、城を包囲された場合の勝利はおぼつかないと諌言する。
 しかし、ピクロコル王は「貴様らは、ムランの鰻のような奴じゃ。皮をひん剥かれる前に、きいきい叫び居るわい。」(渡辺訳、218ページ、宮下訳、349‐50ページ、ムランはパリの東南、セーヌ川沿いの町で、何もないのにぎゃーすか騒ぐことを「ムランの鰻」といったそうである。ここでは何もないどころではなく、騒いで当然な場面であるので、ピクロコル王の発言はその非常識を際立たせるものになっている。)

第48章 ガルガンチュワがラ・ローシュ・クレルモー城中にピクロコルを襲い、右ピクロコルの軍勢を壊滅させたこと(ガルガンチュア、ラ・ロッシュ・クレルモーに籠城するピクロコルを襲撃して、その軍勢を打ち破る)
 ガルガンチュワは、父王から軍の全権を委ねられて出陣することになった。グラングゥジェは居城にとどまり、一族郎党を激励したうえで、勇敢に戦ったものには莫大な恩賞を与えると約束した。
 ピクロコル軍が占領しているラ・ローシュ・クレルモーの城は高いところにあり、守りも堅固であるので、どのように攻略すべきかと協議したところ、ジムナスト(ガルガンチュワに乗馬や武術を教えている青年貴族)が最初の攻撃に際してもっとも勇敢に戦うのがフランス人の特徴であるので、準備が出来たらすぐに攻撃を開始するのがいいと進言した。
 ガルガンチュワは全軍を原野に展開させ、予備兵団は丘の裾に待機させた。ジャン修道士は歩兵6個中隊、武装兵200名を率いて、沼地を渡り、城の南方に回った。

 ガルガンチュワ軍の攻撃に対して、城内のピクロコル軍は城を出て戦うか、籠城するか、どちらの策をとるかを決めることができなかった。しかし、ピクロコル王は前後の見境もなく、配下の武士数隊を率いて(城を出て)突撃しようとした。そのため丘をめがけて行われたガルガンチュワ軍の砲撃にさらされることになる。ガルガンチュワ軍は窪地に身を隠し、そのまま砲兵隊に思う存分活躍させた。城内のピクロコル軍の兵士たちは、盛んに矢を放ったが、ガルガンチュワ軍は身を隠していたので、矢はその頭上を越えた。場外に突撃した兵士たちは、砲火を浴び、それを生き延びてもガルガンチュワ軍と正面衝突して倒され、退却しようとするとジャン修道士たちに退路を阻まれたので、壊滅状態になっていった。

 敵の動きが止まったので、修道士は城の左手の丘陵を占領して敵の退路を断つように進言、ガルガンチュワは4軍団を派遣した。とはいうものの、いかにその数が減ったとはいえ、ピクロコル軍の主力と正面衝突しない限り、城は占領できなかったので、激しい戦闘が続き、ガルガンチュワ自身が砲兵隊とともに城壁の一角に赴いたので、城内の主力はここで集中的に防御にあたることになった。
 そのすきをついて、背後からジャン修道士が他の兵士たちとともに城壁をのぼり、手薄になった敵陣を破ってピクロコル軍に背後から襲いかかった。そして混乱した城内の兵士たちが降伏した後、城外に出てガルガンチュワ軍と合流しようとした。 城外で戦っていたピクロコル王は、背後からもガルガンチュワ軍が攻めてきたことに気づいて、部下ともどもちりぢりに逃げ出していった。こうして戦闘は終結した。

 グラングゥジェの平和主義も、ガルガンチュワが友好国に向かって言明したような知略もどこかへ行ったような激しい戦闘の結果、ガルガンチュワ軍が勝利を収めることになった。激しい砲撃をあびても、梅の実かブドウの粒をぶつけられたとしか感じなかったガルガンチュワの巨体と、その巨体に見合った怪力からすれば、それほどの兵力も必要としなかったのではないかという気がしないでもない(つまりラブレーは、かなりご都合主義的に物語を展開している)。
 些細な理由から始まった戦争だが、どうも大きな結果をもたらしてしまった。第49章以下では、その戦後処理の次第が語られることになる。さて、どのようなことになるのか。それはまた次回に。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(21)

10月18日(金)雨が降ったりやんだり

 フランス西部を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれたガルガンチュワは、生まれた際に「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだのでこの名がついた。生まれつき巨大な体躯の持主であったが、葡萄酒と牛乳を飲んですくすくと育ち、いったんは誤った教育のおかげでうすのろになりかけたが、ポノクラートを師としてパリで勉学に励み、学問と武芸の両方に秀でた若者に成長した。
 グラングゥジェの領民たちと、隣国のピクロコル王の領民たちのあいだで起きた些細ないざこざから、それを口実としてピクロコル王の軍隊がグラングゥジェの所領に攻め入り、略奪をほしいままにするという出来事が起きた。グラングゥジェは何とか事態を平和に収拾しようとするが、ピクロコル王は聞く耳を持たず、やむなくパリからガルガンチュワを呼び戻して、侵略に対抗することにした。
 帰国したガルガンチュワは、自分の所属する修道院のブドウ畑をピクロコル軍の侵略から守ったジャン修道士を呼び寄せ、自分の家臣たちや、父王の家臣のうちで腕の立つものを率いて偵察に出かける。ピクロコル軍も偵察部隊を派遣し、両者が衝突したが、ガルガンチュワ軍が勝利し、ジャン修道士の活躍で敵の指揮官の一人であった臆病山法螺之守(トゥクディ―ヨン)を捕虜にした。

第46章 グラングゥジェが捕虜の臆病山法螺之守(トゥクディ―ヨン)を情け深く取り扱ったこと(グラングジエ、捕虜となったトゥクディヨンを人道的(ユメーヌマン)に扱う)
 捕虜になった臆病山法螺之守はグラングゥジェの前に引き出され、ピクロコル王がどのような意図目的をもって、何のためにこういう思いもかけないような戦乱を起こしたのかと訊ねられた。これに対し、ピクロコルの目標と計画とは、臣下の小麦煎餅売りに加えられた危害に報いるために、できれば全国土を征服することであると捕虜は答えた。〔第33章でピクロコル王の側近である弥久座公爵たちが広げた大風呂敷は、フランス全土などというものではなく、キリスト教世界とイスラム教世界の全体を対象とする巨大なものであった。〕

 これに対し、グラングゥジェはあきれ顔でいう。「これは望みが大きすぎるな。二兎を追うものは一兎をも得られぬものじゃ。」(渡辺訳、210ページ、宮下訳、339ページ)
 異教が支配していた古代ならばともかく、キリスト教のもとで国々が平和に共存するようになった時代にあってこのような侵略行為は許されないものであるという。この発言は16世紀というこの小説が書かれた時代を考えると、かなり微妙な意味を持つ。フランスをはじめ、スペイン、イングランドなどで絶対王権がその地位を固め、国王の支配する領域を拡大していた。とはいうものの、フランスとスペインの間には、後にフランスに合併されるナバラ王国があるという風に、まだまだ当時の国境は現在のものと同じではなかった。そして、イタリアやドイツではヴェネツィア共和国とかミラノ公国とか、ハンブルク自由市だとかいう諸領邦がまだ併存していた。もっとも領邦絶対主義という言い方もあって、それぞれの領邦の内部ではやはり権力が集中し、新しい秩序が築かれてきたことも否定できない。〕
 ピクロコル王にしても、グラングゥジェの国を侵略するよりも、自分の国をよく統治して強力にすることの方が利益は大きいはずだという。「己が家をよく治めれば、その繁栄を招くに相違なく、わが国を攻略などいたしては、みずから破滅に陥るを免れないことになるからじゃ。」(渡辺訳、211ページ、宮下訳、340ページ) 〔そういえば、現在日本政府はイエメン沖に自衛隊を派遣することを考えているとのことである。そんなことよりもまず、先に台風の被害からの復旧に全力を傾注すべきではないかと思われる。自分の家の嫁姑問題も解決できない政治家が外国のことに口を出すというのはどういう神経だろうか?〕

 グラングゥジェは、したがって、臆病山法螺之守には自国に戻って、国王に正しい道を進言してほしい、それで身代金は取らないし、武具や乗馬の類もそのまま返却することにしたいという。
 そもそも今回の騒ぎは「戦争」というよりも「騒擾」といったほうが適切な仲間同士のいざこざに過ぎない。その短所も水に流してしまえばよいというような性質のものであった。
 とにかく、何事も穏便に済ませるべきだ、済ませようというのがグラングゥジェの考えであり、やり方であった。

 そして、ジャン修道士を呼び出して、臆病山法螺之守を捕らえたのはジャンであるかどうかを尋ねる。ジャンは憶病山法螺之守から聞いたほうがいいといい、臆病山法螺之守はジャン修道士が彼を捕らえたという。
 グラングゥジェは捕虜の身代金が欲しいかと問い、ジャン修道士はそんなものはいらないという。そこで、敵の体調を捕虜にした褒賞として、ジャン修道士に6万2千枚の祝詞(サリュ)貨幣(百年戦争の時代、フランス王シャルルⅥ世治下の終わりごろから、イングランド王ヘンリーⅤ世・Ⅵ世がパリ地方を支配した時代に、英・仏両国に流用された貨幣だそうである。片面に聖母マリアが天使祝詞(Salut)を受ける姿が刻まれていた。Salut d'orは、約12フランに該当すると渡辺訳の略注に記されている。〔ヘンリーⅤ世というと、シェイクスピアの戯曲に基づいたローレンス・オリヴィエの映画が思い出される。第二次世界大戦中に作られたのに、カラー映画であるというところに、彼我の実力差を思い知らされる。日本映画も同じ時期に多くの傑作を生みだしてはいるが、『ヘンリーⅤ世』や『風と共に去りぬ』は作り出せなかったのである。ソ連の『イヴァン雷帝』第2部は部分的にカラーという変則的な作品だが、やはり、すごい傑作である。小津安二郎が日本占領下のシンガポールで『風と共に去りぬ』を見て、あかん、戦争は負けやといったという有名な話の意味を考えてほしいところである。〕

 グラングゥジェは、臆病山法螺之守にこのまま自分のもとにとどまりたいか、ピクロコル王のもとに戻りたいかを訪ね、臆病山法螺之守は、グラングゥジェの言う通りにしたいと答える。そこで、グラングゥジェは、ピクロコル王のもとに戻るように言い、豪華な引き出物を与え、ジムナストを隊長とする警固の武士たちを付き添わせて送り届けることにした。
 彼らが出発した後、ジャン修道士は自分に与えられた6万2千枚の祝詞貨幣を、グラングゥジェに返上した。これから何が起きるかわからず、先立つものはまだまだとっておいた方がいいというのがその理由である。グラングゥジェはその申し出を受け入れ、戦争が終わった後に、またジャン修道士と、戦功をあげた人々に然るべき褒賞を与えるつもりであるという。

 第47章まで取り上げていくつもりだったが、あまり調子がよくないので、ここで切り上げておく。あと12章というところまで来たので、今年中にはこの物語を紹介しきれるのではないかと思う。グラングゥジェとピクロコルとの争いもいよいよ、終わり近くなってきた。ここで問題なのは、この争い、あるいはその結果を通じて、ラブレーが何を言いたいのかということであるが、それはもう少し後まで読んで行かないと、見えてこないのである。 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(20)

10月10日(木)曇り、日暮れとともに雨が降りだす。

 巨人ガルガンチュワは、フランス西部(ロワール川の大支流ヴィエンヌ川の流域)を治めていたグラングゥジェとその妃ガルガメルの間に生まれ、誕生に際して「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことから、この名を得た。牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、一時詭弁学者の手で教育されたためにうすのろになりかけたが、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートのもとでパリで勉強してからは、学問にも武芸にも秀でた若者に成長した。
 グラングゥジェの領民たちが、隣国のピクロコル王の領民たちといざこざを起こし、ピクロコル王の軍隊がグラングゥジェの領内に侵入し、略奪をほしいままにしたが、そんな中、ジャン修道士が奮闘して彼の修道院のブドウ畑だけは無事であった。平和のために働きかけが無駄に終わったので、グラングゥジェはガルガンチュワを呼び戻し、ピクロコル王との戦いに臨むことになった。父王の城に戻ったガルガンチュワはジャン修道士を呼びよせ、自ら敵情視察の偵察隊を率いて出陣した。偵察隊はピクロコル王の派遣した先遣隊と遭遇し、その隊長を討ち取ったが、慎重を期して待機の体制をとり、敵の動向を見守ることにした。しかし、ジャン修道士は敵を深追いしたために、捕虜になってしまった。

第44章 修道士が見張りの敵兵を倒したこと、ならびにピクロコル軍の分遣隊が打ち負かされたこと(修道士が見張りの兵士を倒し、ピクロコル軍の先遣隊は敗北する)
 ピクロコル軍の先遣隊は、ガルガンチュワの偵察隊と遭遇して隊長を失い、いったん退却したが、修道士を捕虜にした後、彼に2人の見張りをつけて、反撃のために前進を始めた。それを見て、ジャン修道士は自分が捕虜になったため、ガルガンチュワに加勢できないのを歯がゆく思っていたが、見張りの2人の兵士が戦争のしきたりをまったく心得ない様子なのを見てとり、敵に取り上げられなかった短剣を使って1人を倒し、それに気づいて命乞いをするもう1人の敵兵の首も刎ねてしまった。
 見張りの敵兵を倒した修道士は、馬に乗って、反撃のために前進していった敵兵の後を追った。すると、敵兵たちがガルガンチュワたちとの戦いに敗れて、逃走を始めているのに出会い、大多数のものは切り殺したが、敗北の報せを持ち帰らせる人数も必要だと、残りの兵たちは武器を取り上げたうえで命を助けてやったのである。
 そして、敵兵たちがスパイだと思って間違えて捕虜にした巡礼たちは、自由の身にしてやり、敵の指揮官の1人であった臆病山法螺之守(トウクディーヨン)は捕虜にして、引き立てたのであった。

第45章 修道士が巡礼たちを連れ戻したこと、ならびにグラングゥジェが懇(ねんごろ)な言葉をかけてやったこと(修道士、巡礼たちを連れ帰り、グラングジエが親切な言葉をかける)
 この前哨戦に決着がつくと、ガルガンチュワの一行は(ジャン修道士を除いて)明け方までにグラングゥジェのもとに戻った。一同が無事であったのを見てグラングゥジェは喜ぶが、ジャン修道士がいないので、どうしているかとたずねた。ガルガンチュワは、修道士が敵兵と一緒だといったので、グラングゥジェはそれでは敵の方がひどい目にあうだろうといったが、実際その通りの結果になったのはこれまでも述べたとおりである。

 グラングゥジェは一同をねぎらうために、朝食を準備させた。準備ができたので、ガルガンチュワを読んだが、ガルガンチュワはジャン修道士のことが気になって食べ物がのどを通らない。〔お姫様をさらわれた殿様が、「心配でわしゃ飯ものどを通らんよ」といっていると、家来が「だからお菓子を召し上がるんですね」と答えている昔の杉浦茂の漫画を思い出す。〕 
 そこへ突然、ジャン修道士が5人の巡礼と捕虜の臆病山法螺之守を従えて戻ってきて、冷たいワインをよこせと叫ぶ。そしてグラングゥジェの問いに答えて、これまでのいきさつを話し、一同は大いに安心して、飲み食いにはげんだのであった。

 グラングゥジェは5人の巡礼たちに、彼らは何者で、なんのためにこのようなところをうろうろしているのかとたずねた。巡礼たちを代表して旅野疲郎(ラスダレ)という巡礼が、自分たちは黒死病にかからぬようにサン=セバスチャン(ナントの近く、ロワール川の左岸にある巡礼地)にお参りしてきたのだという。グラングゥジェは巡礼たちが怪しげな説教師の言うことを信じて、迷信にとらわれ、巡礼などという余計なことをしていることをたしなめる。自分の住んでいる町でしっかり仕事にはげみ、子どもたちを教え育てれば、必ず良い報いがあるはずだと教え聴かせる。
 そして巡礼たちは、ガルガンチュワにつれられて広間に行き、腹ごしらえをさせられたが、グラングゥジェの説諭にいたく感心して、あのようなりっぱな殿様に治められる領民は幸せだという。いいかげんな説教師の説教よりも、グラングゥジェの言葉の方が自分たちの信仰を固めるのに役立ったというのである。
「――プラトンも、その『国家』第5巻でこう申して居る。王者が哲理に則るか、あるいは哲人が政事(まつりごと)を執るかいたす時には、国家は福楽を得るものだ。(とガルガンチュワは言った。)」(渡辺訳、210ページ、宮下訳、338ページ)

 それから、巡礼たちに食料と葡萄酒を十分なだけ与え、さらに馬をあてがい、カロルス銀貨を何枚かを生活費として渡して家郷に戻らせたのであった。ここでカロルス銀貨というのは、1488年にシャルルⅧ世によって鋳造された銀貨だそうであるが、宮下さんによると、当時の神聖ローマ帝国皇帝(スペイン、フランドル、ドイツの国王)であったカルロスⅤ世への当てつけとなっているそうである(「カロルス」というのはたぶんラテン語で、「カルロス」はスペイン語で、まちがえたわけではありません、念のため)。

 キリスト教的な徳と、ギリシアの哲人政治の理想を共に体現しているような王者としてグラングゥジェ、そしてガルガンチュワは描かれているのであるが、これはラブレーが師と仰いだエラスムスの「キリスト教的君主の教育」の理想を反映したものと考えられる。マリー=ルイズ・ベルネリは、ラブレーのこの作品の最終部分で描かれる「テレームの僧院」をそのユートピアの系譜の中に位置づけているが、ラブレーの政治思想はこのエラスムス的な哲人政治を根幹とするものであり、そのような支配のもとで、ブリューゲルの絵画に描かれているような民衆のユートピアが実現すると考えたようである(ということは、モアやカンパネッラの民衆自身が支配者となるユートピアとはどうも違う方向の政治思想が抱かれていたように思うのである。
  

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(19)

10月4日(金)朝のうちは雨が残っていたが、その後晴れ間が広がる。気温上昇。

 ガルガンチュワはフランスの西の方を支配していたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれ、誕生の折に「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことから、この名がついた。生まれつき巨大な体躯の持主であり、牛乳と葡萄酒を飲んでますます大きく育ち、しかもなかなか賢い頭脳の持ち主であった。家庭教師の選択を誤って、勉学が停滞したこともあったが、パリでポノクラートについて勉強したことで、学問にも武芸にも秀でた人物として成長してきた。
 グラングゥジェの領民たちが、隣国の住民たちと起こした紛争の結果、隣国のピクロコル王がグラングゥジェの領地に攻め入り、略奪をほしいままにするという出来事が起きた。そのなかで、ジャン修道士が自分の修道院のブドウ畑を守る活躍を見せた。グラングゥジェは平和を求めて、ピクロコルと交渉を行おうとしたが、ピクロコルは聞く耳を持たなかった。そこで、グラングゥジェはパリからガルガンチュワを呼び寄せた。ガルガンチュワは、ポノクラートやその他の家臣とともに故郷に向かったが、その間に遭遇したピクロコル軍に大きな被害を与えた。
 父王の城についたガルガンチュワは、ジャン修道士を呼び寄せ、本格的な攻撃に取り掛かる前に、手勢を率いて偵察を行うことにした。

第42章 修道士が戦友たちを激励したこと、ならびに立木へ吊りさげられてしまったこと(ジャン修道士、仲間を激励するも、木にぶらさがってしまう)
 約30名の偵察隊は、夜中のうちに出動したのであるが、ジャン修道士は仲間たちを激励して、まっさきに飛び出していく。
 ところが、途中に立っていた一本の胡桃(くるみ)の木の下を通ったところ、この木の太い枝の折れ口に、兜のひさしをひっかけてしまった。それにも構わずに、威勢よく馬に拍車を入れたところが、馬の方はやたら元気よく前の方に飛び出し、修道士の方は、まがった枝から廂をはずそうとして手綱を話し、片方の手で枝葉にぶら下がっていたが、馬が走り去ってしまったので、胡桃の樹からぶら下がったまま取り残されたのである。

 この有様を最初に見つけたガルガンチュワの従者のユーデモンが、旧約聖書に出てくるアブサロムそっくりだというと、ガルガンチュワは、アブサロムは頭髪をひっかけられたのだが、ジャン修道士は耳をひっかけたのだなどという⦅アブサロムはダヴィデの王子で、父王に反逆を企てて敗北、逃げる途中で頭髪を気に引っ掛けて身動きできなくなったのである)。
 ジャン修道士がそんなことをいっていないで、早く助けてくれというと、ガルガンチュワの馬術や武芸の師匠であるジムナストが助けに行ってやるぞと言いながら、それにしても言いぶら下がり方だなどと、さらに修道士を揶揄う。そして胡桃の樹に登って修道士を助け出す。

 無事、地上に降り戻った修道士は鎧兜を脱ぎ捨てて法衣だけになり(もともと鎧兜は、他のものにいやいや身につけさせられていたのである)、ユーデモンが捕まえてくれていた自分の馬に乗って、一行の他の人々とともに、先を急ぐのであった。〔ジャン修道士はかっこいいことを言って仲間を激励したのはいいが、自分が醜態を演じてしまった。そういうことはよくあることだが、それでもあまりめげない様子なのが、この人物のいいところである。〕

第43章 ガルガンチュワがピクロコル軍の小部隊と遭遇したこと、ならびに修道士が一路邁進之介(チラヴァン)隊長を殺し、次いで自ら敵兵に捕らえられたこと(ガルガンチュア、ピクロコルの小部隊に遭遇する。修道士はティラヴァン隊長を殺すも、敵兵に捕らえられる)

 ピクロコル王は酒杯(トリぺ)隊長が偵察にやってきたジムナストに切り殺された際に、逃げ帰ってきた兵士たちの話で、悪魔どもが味方の軍兵を襲ったということを聞き、激怒した。そして一晩中会議を開いたが、その折、青葡萄苗之助(アスチヴォー)と臆病山法螺之守(トゥクディ―ヨン)とは、ピクロコル王の軍勢の威勢は強大なので、悪魔は恐れるに足りないと結論した。ピクロコル王はそんな話をまったく信じはしなかったが、かといって、全く信用ができないと思うわけでもなかった。〔どっちつかずである。この王様がその時その時で、目先のことだけにとらわれて判断していることがわかる。〕

 それで一路邁進之介伯爵の引率のもとに1600騎を派遣して、土地の情勢を偵察させることにした〔ガルガンチュワの率いる偵察隊が30人というのと大変な違いである〕。それぞれが敏捷な馬に乗り、悪魔に出会っても大丈夫なようにと聖水をたっぷり浴びて出てきた。あちこち走り回って茂木らしい相手を見つけることができなかったが、羊小屋に隠れていた5人の巡礼がいたのを見つけて、彼らがいくら違うといっても、敵のスパイだろうと縛って引き立てていった。この巡礼たちというのは、第38章でサラダと一緒にガルガンチュワに食べられた5人の巡礼である。
 それからこの一隊はスイイ―のほうへと移動したが、その物音がガルガンチュワの耳に入ったので、彼は部下のものに次のように言った。
「 ――皆の者、いよいよ一合戦だが、相手の数はわれらの10倍以上だ。こっちから討って出るべきだろうなあ?
 ――情なや、(と修道士は言った、)ではどうすればよいと言われるのじゃ? 殿は、勇武剛毅によらずして、員数で人間を量られるのでござるかな?
 それから、こう叫んだ。
 ――突っこめ、突っこめ、阿修羅のごとくに、と。」(渡辺訳、199ページ、宮下訳321-322ページ)

 渡辺が「阿修羅のごとくに」と訳しているところを、宮下さんは「悪魔にかけて」と訳している。このほうが後のピクロコル軍の行動との関係で分かりやすい。彼らは、この叫びを聞いて、これはてっきり本物の悪魔だと考え違いをして、逃げ出し始めた。その中で一路邁進之介隊長だけは、長屋利をしっかりと抱えて、修道士の胸元めがけて突きかかった。ところが、不思議なことに、修道士の魔力の法衣に触れると、槍の穂先がこぼれてしまった。そこをすかさず修道士が棍棒で殴り掛かる。隊長は落馬して、あえない最期を遂げる。ジャン修道士はさらに、逃げる敵を追って、逃げ遅れた連中をとらえては打ちのめしていった。

 ジムナストは、このまますぐに敵を追跡すべきかどうかとガルガンチュワに問う。
 ガルガンチュワは、敵が退路を断たれるところまで追いつめるのは得策ではないと、それ以上の追跡をやめるように言う。敵をとことん追いつめず、むしろ退却の道を確保してやることの方が兵法の常道なのだという。
 ジムナストはこの言葉に納得はするが、ジャン修道士が敵を追いかけてそのまま行ってしまったと知らせる。
 それを聞いたガルガンチュワはひどい目にあうのは敵の方だといって、不慮の事態に備えて、現在地にそのままとどまることを命じる。

 さて、ジャン修道士は敵兵を打倒しながら、前進を続けていったのだが、一人の騎馬武者に追いつき、彼はその馬の知りに例の巡礼の一人を乗せていて、その巡礼が助けを求めて叫んだために、逃げていた敵兵たちは後ろを振り向き、追いかけてきたのがジャン修道士1人であることに気づいて、彼に打ちかかり、捕虜にした。とはいうものの、法衣の力で修道士は痛いともかゆいとも思わなかったのである。
 ガルガンチュワたちが追いかけてこないのは、彼らが退却したからだと判断した敵兵たちは、修道士を2人の兵士たちに見張らせて、反撃に向おうとした。

 ガルガンチュワは、敵が反撃に転じたことを察知して、迎撃の準備をすることを命じる。
 今回は、失敗もあるが、ジャン修道士の活躍が目立つ。捕虜になっても、ガルガンチュワの言うように、そのままではいないのがジャン修道士である。それはさておき、両方の偵察隊が再び正面衝突することになるが、さて、どうなるか、それはまた次回。 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(18)

9月26日(木)曇りのち晴れ

 フランスの西の方の地方を治めていたグラングゥジェ王の子として生まれたガルガンチュワは、生まれた時に、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と泣き喚いたことからこの名がついた。もともと巨大な体躯の持主だったうえに、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、一時期は詭弁学者の教育の結果、うすぼんやりとした若者になりかけたが、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートのもと、パリで勉強を続けた結果、学問にも武勇にも秀でるようになった。
 ある年のブドウの収穫の季節に、隣の地方を治めているピクロコル王の領民たちと、グラングゥジェの領民たちとの間でいざこざがおこり、短気なピクロコル王はその真相を突き止めようともせずにグラングゥジェの領内に軍隊を送り、略奪をほしいままにした。その中でスイイーの修道院のジャン修道士が一人で奮戦し、ピクロコル王の軍隊を撃退するという出来事もあった。
 グラングゥジェはピクロコルに使者を送り、平和を求めたが、ピクロコルが応じなかったので、パリからガルガンチュワを呼び寄せることにした。ガルガンチュワは帰還の途中で、ヴェード川の近くにあった敵の要塞を粉砕するなどの戦果を挙げて、父王の居城に戻ってきた。喜んだグラングゥジェは帰還を祝う大宴会を開いた。

 第39章 ジャン修道士がガルガンチュワに歓待されたこと、ならびに晩飯を食べながら談論風発に及んだこと(ガルガンチュアに歓待されたジャン修道士、夕食のさいに熱弁をふるう)
 いよいよ宴会が始まり、ガルガンチュワが料理を食べ始めると、グラングゥジェはピクロコルとの間に起きた戦争の一部始終を語り、その中でジャン修道士が修道院のブドウ畑をいかにして守ったかという話をして、彼の手柄を賞賛した。ガルガンチュワは今後の方策についても彼と相談してみたいと思い、彼を呼びにやったが、間もなくしてジャン修道士はグラングゥジェがさしつかわしたラバに乗り、十字架をつけた棍棒を携えて、やって来た。

 一同は大いにこの修道士を歓迎し、またジャン修道士の方も大喜びであった。「これくらいやさしい、また愛嬌のある人間はまたといなかった。」(渡辺訳、182ページ、宮下訳、295ページ)
 修道服を脱いでくつろいだらどうだという一同の勧めに対し、ジャンはこの修道服を着ていてこそ、酒もうまいし、体調もいいのだと拒否する。すでに夕食を済ませてきたが、だからといって、これ以上は食べないというわけでもないと、ジャンは料理を口にしながら、あれこれと喋り捲る。

第40章 何が故に修道士は世間から疎まれるのか、また何が故にその或る者どもは他人よりも大きな鼻を持っているのか(修道士は、なぜ世間から遠ざけられているのか、またなぜ、あるものは、鼻がみんなより大きいのか)
 ガルガンチュワの従者であるユーデモンは、世間一般の修道士は人々から嫌がられ疎まれているのに、ジャン修道士はそうではないのはなぜだろうという。
 これに対しジャン修道士は、修道士というのは、「浮世の糞便、すなわち罪業を種にして喰っているからだ」(187ページ)そして、人目忍所(隠れ家)として、修道院に閉じこもり、社会生活からは遠くへだてられた暮らしをしている。世間のために役立つ労働をするわけではなく(すべての修道士がそうであるわけではない)ために世間の人々から疎んじられるのだという。

 だが、全く世間の役に立たないわけではなく、人々のために祈っているのではないかと、グラングゥジェは言う。
「――とんでもないこと、(とガルガンチュワは答えた、)釣鐘を無闇矢鱈に打ち鳴らして、四隣界隈を悉く悩ますというのが本当のところでございましょう。
――まことに左様、(と修道士は言った、)弥撒(ミサ)も朝の祈禱も夕べの祈禱も、鐘の音で景気をつければ、半ばすんだのと同然でござりますて。」(渡辺訳、188ページ、宮下訳、304ページ)
 これは修道院の活動の形骸化を風刺した個所として知られている。渡辺の友人でもあったカナダ人の外交官で、歴史研究家であったE・H・ノーマンが安藤昌益についての研究書『忘れられた思想家』の中でこの個所を引用していたと記憶する(記憶だけだからあてにならない)。
 ガルガンチュワは、修道士たちが自分ではわかっていない聖人伝や聖歌の類を無闇にたくさん唱え立てるが、意味も何も分かっていないのだから、祈禱でなく茶番と呼ばれるべきだろうと、同時代の修道会の活動の批判を続ける。身分の上下にかかわらず、真のキリスト教徒たるものは、神に祈ることにおいて分け隔てがあるわけではない。ジャン修道士は偽信の徒ではないがゆえに、自分たちの仲間なのだという。〔この個所は、解釈が乱れるところで、大筋だけを紹介しておいた。詳しいことが気になる方は、本文をお読みください。宮下訳の注など、ジャン修道士の性格を考えるうえで役に立つはずである。〕 ジャン修道士は、よく働き、ブドウ園を守る。
 すると、ジャン修道士はそれだけでなく、猟をしてウサギを捕まえたりするという。

 それにしても、ジャンの鼻はなぜそのように大きいのかということが問題になる。グラングゥジェは、神様の御心によるものだといい、ポノクラートは、鼻の市に真っ先に駆け付けたからだろうといい、ジャン自身は乳母の乳房が柔らかかったからだという。(要するに結論らしいものは出ていない。ジャン修道士の華が大きいことだけを記憶すればよい。) そしてジャン修道士は、ぶどう酒と、ぶどう酒に浸して食べる焼きパンとを頼む。

第41章 修道士がガルガンチュワを眠らせてしまったこと、ならびにその時禱日禱について(修道士、ガルガンチュアを眠らせてしまう。また彼の時禱書と聖務日課書について)
 一同は晩飯を済ませてから、当面の事態に対してどう対処するかを話し合ったが、夜中に少人数で偵察を行い、敵軍がどのような防御態勢を敷いているかを探ることにし、それまでは休息して更に英気を養うことにした。しかし、ガルガンチュワは、どうやっても寝付かれなかった。
 そこで、ジャン修道士が、自分は説教を聞いているときか、祈祷をしている時でないと眠れないのだといって、『旧約聖書』の「詩編」のなかの改悛の7編(6番、32番、37番、51番、101番、129番、142番)を2人で朗誦することを提案する。この思い付きはガルガンチュワの気に入ったので、さっそく2人は朗誦を始めたが、(32番の)「・・・・スルモノハ幸イナリ」のところへくると、2にんともねむりこんでしまった。しかし、ジャン修道士は修道院で夜明け前の祈りになれていたから、その時になると目を覚まし、他のものを起こしたのであった。そして、気付けにまた葡萄酒を飲もうというので、ガルガンチュワは、それは健康によくないという(ポノクラートに師事する前は、ガルガンチュワも朝起きぬけに一杯やっていたことはご記憶だと思う)。ジャン修道士はさらに、自分の日禱書をひもとけば、気分も晴れてくるという(この日禱書というのは本の形をした酒びんだという説もあるし、祈祷をしたり聖歌を歌ったりすると喉が渇くという意味でいわれているという説もあるそうである)。

 結局、炭焼き肉が山のように、またこってりしたスープとパンも用意されたので、修道士は大いに葡萄酒を飲み、何人かの物はその相手をしたが、何人かはこれを控えた。
 それが済むと、一同は武装を整え、嫌がる修道士にも鎧兜で身を固めさせたが、修道士としては修道服と棒以外の物は欲しくなかったのである。出撃するのはガルガンチュワ、ポノクラート、ジムナスト、ユーデモン、グラングゥジェの家の子郎等のなかでも勇猛果敢なもの25人、それにジャン修道士で30人ということになる。それぞれ鎧兜に身を固め、馬に乗り、長槍を持ち、馬の尻には火縄場を一挺ずつ載せていた。

 ガルガンチュワ一同にジャン修道士が合流してピクロコル王の軍勢との決戦の時が近づいている。ジャン修道士のおしゃべりのかなりの部分は物語の進行と関係がないので省略したが、彼がどのような人物であるかを知るのに役立つはずである。ここで展開されている修道院批判は、さらに物語の終わりの方で再び取り上げられるだけでなく、新しい修道院の建設という結果をもたらす。さて、次回に続く問題はジャン修道士本人は望んでいないのに、みんなが鎧兜を着用させたことであるが、その結果はどうなるか…? 

 一昨日から風邪をひいてしまい、そのため昨日の記事は不十分なままに終わってしまいました。またみなさまのブログを訪問できず、失礼いたしました。体調の方はどうやら快方に向かっており、(明日は病院に出かけるので、時間がとれませんが)明後日以降は、記事の方も訪問もいつも通りに続けられそうですので、ご安心ください。 
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