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白川静『漢字』(6)

3月20日(水)晴れ

これまでの概要
1 象形文字の論理
 漢字はもともと象形→表意文字であったが、仮借という表音的な方法を取り入れることによって文字体系として成立した。このような感じという文字体系は、殷王朝のもとで、もともと沿海族であった殷人たちによって作り出されたと考えられる。
2 神話と呪術
 漢字の文字の形象のなかには、それを作り出した古代の人々の神話的な世界観が遺されている。
3 神聖王朝の構造
 殷王朝は軍事と祭祀とを中心とした神聖王朝であった。中国の古代神話は国家神話として成立した。
4 秩序の原理
 殷王朝は神話と祭祀をその秩序の原理としていたが、それに代わった周王朝では天命という考え方が原理となった。裁判は証拠主義ではなく、神判によって行われていた。
5 社会と生活
 殷周の社会はすでに定着的な農耕社会であり、王室に服属する職能集団がその他の生産活動に従事していたが、そのような秩序が崩壊すると、商人として自活するものが現れてくる。

6 人の一生
出生について
 人間の誕生とともに、霊が宿ると考えられた。霊は鳥と関連付けて考えられることが多かった。
 『詩経』の小雅斯干には生まれるこの夢占屋、生まれたことの扱い方まで歌いこまれている。男子が生まれると、牀’しょう)の上に寝かせて裳(も)をつけ、璋(しょう)をもたせて祝う。女の子ならば地に臥せ、下衣を著せ、瓦器をもたせて、父母の厄介者になるなよと言い聞かせる。女子を地に臥せるのは、もともとは女子を地霊に接しさせて、その生成力を身につけさせるためであった。
 新しく生まれた霊の力は弱いので、生まれた子を後ろから保と呼ばれるもので包んで祖霊を継承し、その力が安定するようにした。

文身の俗
 生まれることを産といった。生まれるとすぐに、墨などで子どもの額にXを書いた。それは神が宿るという印であった(このように印を書き加えることが文身で、必ずしも刺青ではないようである)。このようなことは子どもが一定の年齢になるごとに行われた。「彦はおそらく成人のときの文身であろう。人生の新しい段階に達するたびに、新しい世界への加入式として文身が施されたのである。
 文身はもともと沿海民族、夷系の習俗であった。文献時代になると、その習俗は廃れるが、南方では多く残っており、苗系諸族はいまもない文身の俗をもっているという。さらに、古い中国の文献によれば、日本にも昔はこの俗があった。しかし、『日本書紀』景光紀には蝦夷の文身の俗を珍し気に報告した記述があり、この書物が編纂された奈良時代には文身の俗が絶えていたことがわかる。

 「文身は受霊のしるしとして、またその霊を守るためのものとしてかかれた身体装飾としての意味をもち、そのゆえに文は聖なるものであった。」(167ページ)
 文化伝統という意味をもつようになったのは、その後のことである。

成人と婚礼
 中国の古代には自分の名を名乗らない習俗があった(かなり最近までそうだった。日本でもそうだったから、『源氏物語』の登場人物のほとんどが本名がわからない。特に女子の名前はわからない。清少納言の本名はわからないし、徳川家康の最初の正室である築山殿の本名も不明である)。「名を知られることは、自己の人格が、相手に左右され、支配されることだと考えられた。」(167ページ)

 成人式は「冠」と呼ばれた。また元服ともいう。「婚」という字をめぐっては様々な解釈があるがそく、酒を酌み交わして制約をするということではないかと白川は言う。
 「婦」という字の「帚」はほうきであるが、神殿を清めるための束茅(そくぼう=かや)で、嫁入り先の氏族神に新しい加入の許可を得るために、神殿を清めたのである。「家廟につかえることは、婦の最も重要な任務であった。」(172ページ) 〔亡き母が、毎朝、仏壇を拝んでいたのを思い出す。〕

 「結婚が、異なる氏族間の氏族神の交流であり、連帯であり、和合であるという関係から、婦人のつとめは、宗廟の祭祀にいそしむにあるとされた。・・・婦人が宗廟をまもるという伝統は、あるいは古く母系制の時代に発するものかも知れない。」(174ページ)

家族の倫理
 「父」という字は斧をもつ姿を示し、家父長制度のもとでの父親の絶大なる権威を表わす。これに対し母は「たらちねの」母の姿で描かれる。「権威と慈愛とが、家族の倫理の基本であった。」(176ページ) 倫理の倫の旁である「侖は相対の上に全体の秩序が構成されるという、美しい関係を意味する字であった。倫・綸・輪・淪などが、これに従う字である。」(176ページ)

 「道徳の道は道路の修祓、徳は眼の呪力によって他者を支配することを意味した。」 そういう古い意味が失われて、それが道徳的な意味に転じていくのは、社会生活の変化に伴う意識の変化に本づくのである。社会生活の変化が、その意義内容や価値概念を改めてゆく。」(176‐177ページ)

死喪の礼
1 「出生によって新しい肉体に寄託した霊は、死によってまたその肉体を脱し、いずこかへ立ち去ってゆく。古代の人々は、実際にそのように考えたのである。霊の来たることが生であり、霊の去ることが死であった。・・・霊は永遠なるものであるから、霊には復活ということが可能であった。死喪の礼は、復活の儀礼からはじまる。」(180ページ) 

 「復活という概念からいえば、遺体は鄭重に保存すべきであると考えられた。死は新しい世界への出発であるというので、その胸には分身が加えられた。」(186ページ) 「復活に備えるために、その陵墓は地下深く作られた。」(同上) 
 「送葬ののち、また多くの儀礼を経て、死者の霊は宗廟に帰る。」「宗廟に帰った霊を、祀るものは子であった。」(187ページ)

 「霊の住むところは、鬼神の世界である。鬼は人鬼。神…は、・・・自然神をいう。鬼は畏るべきものであった。」(187‐188ページ)
 「霊は永遠なるものであった。循環してやまぬものであった。そこから神仙の思想が生まれる。・・・永世不死の仙の世界は、『荘子』においては精神の絶対自由を説く世界としてかかれたが、そこにはもはや、鬼神に対する恐れの感情がない。神の世界は終わり、現実の精神がそれに優位する。文字が神の世界から遠ざかり、思想の手段となったとき、古代文字の世界は終わったといえよう。文字は、その成立の当初においては、神とともにあり、神と交通するものであったからである。」(188ページ)

 つまり、漢字はもともとは神と交流するための手段として機能していたのが、人間の精神を表現する手段となったことで、新しい時代を迎えることになったというのである。しかし、そのような漢字の人間化は白川の関心の対象でないということであろう。『漢字』はこうして新しい局面を迎えたというところで、この書物は終わっている。

 これでどうやら、この書物の紹介を終えることになる。殷から周、西周から東周(春秋時代)という時代の変遷の中で、漢字の意味が、その時代の人々の考え方を反映して変化してきたということを理解できていただければ、わたしの紹介作業も徒労ではなかったということになる。
 個々の漢字の成立をめぐる白川の考えに対しては異論がある――というよりも、白川の学説は長く少数派であった――今でも本当のところはそうだろう――ということをめぐっては、これまでも触れてきた。実際、漢文や中国思想の専門家と白川についての話をする機会が少なからずあったが、「大好き」(好きということと、指示するということはまた意味が違う)という人から、「あれは妄想だ」という人まで、評価は極端にわかれている。ただ、有難いことに、私が白川を読んでいるということで、だいぶ彼らの私に対する評価が上がったことは否定できないので、関心のある方々は、ぜひ、白川の本を読んでいただきたいと思う。漢字にどんなドラマが潜んでいるか――私の論評では十分に紹介しきれなかったが――探ってみたいという方は、この書物をふくむ、白川の業績と取り組むことをお勧めしたいと思うのである。

 最後に一言。3月12日の『朝日』の”WEB RONZA"欄で紹介されていた酒井吉廣「日本から見えにくい中国経済の本質」は「発展度が違う5億人の沿岸部と9億人の内陸部を一国の経済として中央でコントロールすること自体が壮大な試みで、当面は深刻な事態には直面しないだろうが、先を見通すのは難しい」と論じているそうだ。沿岸部=殷、内陸部=周という白川の描いた図式をそのまま受け入れれば、「中国四千年の歴史」はその中でこの対立を抱え続けてきたということになる。知り合いの中国研究家は、中国の格差問題を見るにつけ、研究するのがいやになって仕方がないとこぼしていたが、研究というのはそういう感情に支配されるものではないのであって、まあ何とか研究を続けてほしいと思う。
 
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白川静『漢字』(5)

3月13日(水)晴れ

これまでの概要
1 象形文字の論理
 漢字は基本的には表意的な象形文字であるが、仮借という表音的な方法を取り入れることによって文字体系として成立した。このような漢字は、殷時代に、もともと沿海族であった殷人によって作り上げられたと考えられる。
2 神話と呪術
 漢字の文字の形象の中には、それらの文字を作り出した古代の人々の世界観が遺されている。
3 神聖王朝の構造
 殷王朝は祭祀と軍事とをその中心とした神聖王朝であった。中国の古代神話は国家神話として成立した。
4 秩序の原理
 殷王朝は神話と祭祀をその秩序の原理としていたが、それを倒した周王朝では天命という考え方が取って代わった。古代の裁判は今日のような証拠主義ではなく、神判が用いられていた。

 本日は「5 社会と生活」を見ていく。
5 社会と生活
 戦争と平和
 戦闘に関わる漢字には戈(ほこ)と斤(まさかり)のような武器・武具に関する要素が含まれていることが多い。戦は単(もと單=上に飾りをつけた丸い盾)と戈を組み合わせた字、兵は斤を振り上げる字、戒は戈を両手で差し上げている字である。
 軍をもって他邑を征することを「正」といった。甲骨文では囗(口=くちではなくて、囗=くにである)と止の形に書かれている。囗は城邑〔都市、城市」を表わし、その下に人の形を加えたものが邑、多数の人を並べたのが衆、邑を戈をもって衛(まも)るのが或で、これが国(國)の最初の形であるという。
 征服者はその征服した土地から、賦税を征取した。それを政という。「それを司るものが正であった。征取の権利は、征服者としてはきわめて正当なものとされた。ゆえにそれはまた、正義の意となる。正義とはおおむね、支配者の論理である。」(127ページ)
 戦争には瞽師(こし)や巫女が従った。戦争は呪力の戦いであり、氏族の奉じる神々の威霊の戦いであった。〔瞽師については、「2 神話と呪術」でも触れられている。盲目の音楽師で音や風によって戦いの吉凶を卜した人々である。ホメーロスの叙事詩に出てくる預言者を想起させるところがある。〕

 和という字には、禾が含まれている。和は古くは軍門、駐屯地の門のことであった。そこで門柱として立てられるのが禾=「上端がすこしくまがった木、あるいはそれにとまり木のような横の木をさし加えた形のもの」(128ページ)である。
 禾が軍門であることから和の意味も明らかになる。和は軍門の前で、講和を結ぶことである。
 和(か)は同音であるために桓ともいう。漢の時代には駅亭〔宿場〕の上にそういう木を立てて、これを桓といった。「亭は百歩四方の土を高く築いて、その上に建物を作り、屋上に高い柱を立てる。高さは一丈あまり、その上部に、柱を貫いて、四方に出る小さな横木をつけた。これを桓表とよんでいる。桓表はまた和表ともいった。のちの華表(我が国の鳥居)の原型をなすもので、鳥居の半分の形と考えればよい。鳥居はあるいは南方起源のものであろう。東南アジアのタイの北部にいるイコー族は、村の入口に鳥居を立て、神の使者としての鳥を、飾りにつけているという。北方の満蒙では、家門などの前に、ただ高い柱を一本立てて神桿(しんかん)とした。神桿と華表と鳥居とは、南北相異なるものであるが、同様の起源をもつものと考えてよい。」(129‐130ページ)
 ここで白川によっては触れられていない民俗も、他の民族のあいだで行われている可能性があり、ここで白川が述べていることは飽くまでも一説として受け止める必要がありそうである。

 歌謡について
 歌は人間が神と交渉をもつための手段と考えられていた。そのためには普段と違う抑揚やリズムで言葉を唱えるほうが効力があるとされた。そういう古代の表現が歌であった。
 歌は可を要素とする漢字で、金文では訶と書かれていた。可には自分の祈りを聞き届けるように要求する強い意味が含まれている。歌は『詩経』では、呪歌の意味で用いられることが多い。「ひとたび歌として表現が与えられると、それは動かすべからざる実在のものとなって、その呪能を発揮する。いかなる権力者も、その呪縛から脱しえない」(132‐133ページ)と考えられていた。
 「歌謡とは、ひとがことばの呪能を最高度に高め、神と交通する手段であったのである。したがって、歌謡の最も原始的なものは、祭祀や儀礼に用いるものであった。」(133ページ) 古代のわが国においても、歌謡が同じように受け取られていたことも記されている。

 舞楽の起源について
 舞はもともと雨乞いのまつりであったと白川は言う。舞という字の下部は両足を開いて舞う形、上部は衣の袖に呪物などをつけて、両手を広げている形であるというのである。舞の字はまた、雨の下に無を加えた字形を用いることもあり、舞が本来雨乞いのためであったことがわかるという。

 歌舞には、楽器がつきものであった。楽の本来の形は樂で、神楽舞のときに持つ鈴の形だという。
 殷代には祭祀は盛んであったが、楽器としては、素朴な打楽器類しかなかった。
 西周期になると、弦楽器なども登場してくるし、竹管の吹奏器も発達した。また音階を表わすことのできる鐘も現れ、七器一組というようなセットができあがった。
 楽には邪霊を祓う力があり、病気もこれで治すことができるとされた。〔手元の『新字源』(改訂版)では、楽は木に糸を張ったさまにより、弦楽器を意味すると記されていて、白川説とは異なる。最新版の『新字源』でどうなっているか、今度、調べてみようと思う。〕

 古代の医術
 医はもともと醫と書かれていたが、さらに古くは毉と書かれた。巫医ということばがあるように、医術はもともと巫のつかさどるところであったという。
 古くは一般に、病気は神的な原因によるものと考えられていた。それで病気になると、それが何者の祟りによるかを突き止めて、祭りをすることで病気を治そうとした。
 しかし『周礼』を見ると、医術がかなり専門分化していることが知られ、医師の治療成績による一種の勤務評定が行われ、季節によりどのような病気が流行するかについての観察が要求されるなど、医術は経験医学の段階に入っているようである。
 一般に動物供犠を用いる民族の間で、医術は早くから発達する可能性が大きく、また異民族と接触して、多くの戦争経験を持つところでは、外科的治療についての知識が豊富となるはずである。〔ということは、農耕的な殷王朝よりも、西北の牧畜族であったと白川が推測する周王朝のほうが医術が発達する可能性を持っていたわけである。〕

 巫医の分離は、春秋期になって初めて見られるようである。『説文解字』には病だれ部の文字が104字は言っており、疾病についての知識がかなり豊富であったことがわかる。おそらくは春秋期以来の医術の発達を示すものと考えられる。
 『史記』によると、春秋初期の名医扁鵲(へんじゃく)は巫医の分離を解き、巫術を攻撃して、これに代わる経験医学としての医術を主張した。神経性疾患や小児病については、特に卓越した技術を示したという。「もしかれの知見が記録されていたならば、前5世紀末のヒポクラテスよりも古い医術書を残すことができたであろう。中国の経験医学は、鍼灸術や本草学においてすぐれた集積を示し、今もその特殊な伝統を保ちつづけているのである。」(149ページ)

 経済について
 殷の時代には様々な職能氏族が存在し、それぞれの職能を果たしていたと考えられる。
 技術や生産は、必ずしも富や財宝と直結するものではなかった。財宝は、むしろ宗教的な理由で尊ばれ、権力がそれを略取することが可能だったからである。殷では貝(=宝貝)が財宝視されたが、これは東方の習俗であったと考えられる。西方では青銅や玉が用いられた。
  殷周の社会は、すでに定着的な農耕の段階にあった。したがって祭祀には農祭に関するものが多い。

 商の成立
 古代の生産者は、おおむね王室、あるいは諸侯帰属に隷属して、その職能を果たしていた。しかし王朝が解体し、古代的な貴族社会が崩壊すると、その一部は新たな列国諸侯のもとに吸収されるが、自活の道を歩まなければならなくなるものも出てくる。支配勢力から離れたこれらの集団のうちには、墨子の思想から推測されるようなギルド的性格をもつものや、(春秋時代の)鄭の商人たちのように、自営的な組織をもつものもあったようである。
 商は、おおきな辛(はり)を台座の上に立てて、その刑罰権を示す尊厳な字であったと白川は言う。それで別名を商という殷の子孫が商業者に転落したことから商という文字を商いの意味で使うようになったというのは俗説であって、賞(賞賜)と償から出ており、有償行為を意味する。鄭の商人たちの多くが、殷人の子孫であったことは確かであるが、春秋時代には「商はすでに商行為を示す償の義に転じていたのである」(158ページ)というのがこの章の結びである。〔中国の歴史書では、殷といわずに商と呼んでいる。〕

 白川の文章はあまり読者の都合を考えず、自分の考えでどんどん書き進んでいくところがあり、読みにくい。その点は、同じ中国研究者でも東洋史学者であった宮崎市定とは対照的に思える。宮崎はかなりサービス精神に富んでいる。たぶん、彼らの授業も同じように、白川はどんどん講義を進めていくし、宮崎は学生のツッコミにこたえながら進めていったのではなかろうか。しかし、ところどころ鋭い洞察が見られるのは両者に共通していて、どこがどう鋭いのかを判断するには、やはりほかの学者が書いた本もきちんと読みこなしていないといけない…というのがつらいところである。

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白川静『漢字』(4)

3月6日(水)曇り、午後になって時々小雨。

これまでの概要
1 象形文字の論理
 漢字は基本的には表意的な象形文字であるが、仮借という表音的な方法を取り入れることによって文字体系として確立された。この文字体系は殷時代に殷人によって作り上げられたと考えられる。
2 神話と呪術
 漢字の文字の形象のなかには、それらの文字を作り出した古代の人々の世界観が反映されている。
3 神聖王朝の構造
 漢字が生まれたと考えられる殷王朝の政治的な支配は祭祀を通して行われた。

 今回は「4 秩序の原理」を見ていく。
 この章では、まず、春秋末に江南の地で対立・抗争を繰り返した呉と越のそれぞれの重臣であった伍子胥と范蠡の物語が取り上げられる。伍子胥は呉王夫差を助けて越を破るのに功績があったが、讒言を受けて自裁を命じられ、彼の屍体は鴟夷(しい)という獣皮に包んで海中に捨てられた。他方、范蠡は越王勾践を助けて、伍子胥がいなくなった呉を滅ぼしたが、勾践が安楽を共にするのにふさわしい人物ではないとして、そのもとを去り、自ら鴟夷子皮と名前を改めて国外に出て、大富豪となって自適の生活を送ったという。

 白川さんは、この両者がともに鴟夷にゆかりをもつのはなぜかと問うのである。そして、この問題を考えて行くのには、古代の裁判の方法を調べていく必要があるという。
 「古代の裁判には、のちのような証拠主義がとられないで、神判が用いられた。証拠によるまでもなく、心証だけでものを決することができた時代である。神の前では、人は偽りを述べることはできなかった。神意に問うという方法によって、善悪は容易に定まるのである。」(94ページ) 

 このような神判として、わが国では「盟神探湯」(くがたち)という方法が用いられたことが知られている。中国ではほかにも、蛇神判や杯珓(はいこう)神判が行なわれた。杯珓神判は、蛤形の貝殻を投げて、その裏表で吉凶を判定するというものだそうである。しかし、もっとも一般的だったのは羊神判であったという。争いを起こしている当事者の正邪を(やり方はいろいろあるようだが)羊によって決するのである。
 この場合神羊は、羊ではなくて、解廌(かいたい)と呼ばれる神獣である。裁判の結果勝訴したものの解廌の胸には、その喜びを示すために「心」という字の形のしるしを加えた。これが「慶」という文字の起こりである。
 これに対し、敗れた者は解廌とともに皮袋すなわち鴟夷にくるまれて水上に投棄された。これは穢れのために追放されるということである。
 
 法という字の旁が去となっているのは、去には「祓う」という意味があるからである。
 裁判は族内のことは、祖霊の前で、族外のことは社、あるいは神聖な樹木の下で行われた。訴訟を行なうものは、束矢(そくし、矢の一種)と鈞金(おそらく保障金)を納めて、三日後に訴訟に臨む。期間を開けているのは和解のためであろう。
 裁判にあたっては、弁護人、代理人を立てることができた。「当時、裁判上の責任は、ただ当事者だけが負うべきものでなく、例えば初審に誤りがあれば、裁判官も罰を受けたものであった。」(102ページ) 〔もっとも、実際の裁判の事例を見ていくと、初審のほうが正しく、その判決を覆した上級審の方が間違っていたことが、再審で明らかになったという事例もある。〕

 西周期の金文には契約関係を内容とするものが数例あって、民事法の慣行が存在したことがわかる。この時代、すでにかなりの法秩序があり、慣行も重んじられていたようである。さらに春秋期になると、多くの法規定が成文化されたことが、歴史書である『左伝』や『国語』の記述から推測できる。戦国時代についても、『戦国策』『呂氏春秋』などに様々な法律についての記述がみられる。
 有罪のものには刑罰が加えられた。自由を奪って投獄するほかに、生命刑も(しばしば残酷な形で)行なわれた。これらは神に対する贖罪という意味をもっていた。このほか、宮刑や奴隷刑、刺青などの身体刑も行われた。「自由刑・身体刑の古い形式のものが、ほとんど神に対してのけがれの祓いであり、贖罪であり、犠牲であることは、原始法の問題を考えるうえに、重要な事実ではないかと思う。法の起源もまた、古くは神話によって基礎づけられていたのである。」(109ページ) 〔『古事記』に描かれている素戔嗚尊の高天原からの追放などもこのあたりの記述と関連付けて考えるべきであろう。〕

 次に白川さんは羌族、苗族のように中原に定住して、次第に中国文化に組み入れられていった諸族について考察している。典刑を作ったとされる伯夷あるいは皐陶(こうよう)という神話的な人物がこれらの民族に関係があるからである。
 『詩経』に言う「岳」は河南省西北部の嵩山と考えられるが、その岳神の子孫とされるものに姜姓の4国=斉・許・甫(呂)・申があったという。姜姓の諸国は、羌族が土着して中原諸族の一つとなったもので、羌という字形から見て牧羊人であり、辮髪をしており、チベット系の種族であったと白川さんは考えている。大体において温順な諸族ではあるが、かつては苗族とその地を接していて、激しい闘争を繰り返したことが、神話として伝えられている。

 『書経』の呂刑篇は堯典と並んで、神話的な伝承を多く含んでいると著者は論じる。当時、南人と呼ばれていた苗族は江北に進出し、河南の羌族と相接していたが、(神話の中の)皇帝の命令を聞かず、秩序を乱してほかの民族を苦しめるので、皇帝は重黎に命じて天地の交通を断ち、苗民を放逐したという。「こうして帝は伯夷に命じて五刑を作らしめ、秩序を回復させた。刑法の起源を、羌族と苗族との葛藤を通じて、神話的に説明したものである。天地の交通を隔てたという重黎の話は、いわゆる天地開闢説話である。」(111ページ) 〔袁珂の『中国古代神話伝説』第8章、第9章では、黄帝の曽孫である顓頊という天帝が孫の大神重と黎に命じて、天と地を結ぶ通路であった各地の天梯を断たせ、天と地の距離を広げたという話が語られている。〕

 苗族は古くは南人と呼ばれた。これはおそらく、彼らが南任という一種の銅鼓を用いていたことに基づくのであろうという。「銅鼓の最も古い形式のものは江西・湖南、主として洞庭湖附近から出土する。これはわが国の銅鐸のように、ていねいに埋葬されており、おそらくかれらが、中原諸族の圧迫を受け、その居住地を放棄して南下するときに、復帰を期して埋葬して去ったものであろう。」(112ページ) この指摘はきわめて興味深い。銅鐸に限らず、出雲(島根県)の荒神谷遺跡の銅剣などについても同じことが言えるかどうかは考えていい問題である。〔苗族はミャオ族、モン族などとも言い、中国や東南アジアに相当数の人口をもち、歌垣など古代の日本人と同じ風習があるということで注目される民族である。〕

 苗族の一系である渓(けい)族は現在も洞庭湖西方の武陵の山中に住んで、民族自治区を作っている。白川さんは陶淵明が描いた武陵山中の桃花源が、この渓族の生活を描いたものではないのかと疑い、さらに陶淵明には南人の血が流れていたのではないかともいう。なお、梅棹忠夫が『東南アジア紀行』の中で、タイのタイ族が住んでいる部落とは大森林で隔絶しているが、それほど遠くはないところに住んでいるカレン族の集落を訪問して、「桃源郷というのは、きっとこんなところだったのだろう。平原の漢民族とは別個の、南中国の山地民の村だったのかもしれない。」(『東南アジア紀行 上』中公文庫版、215‐216ページ)と書いている。この後、梅棹は苗族(梅棹はメオ族と表記している)の集落も訪問しているのだが、彼らがアヘン生産で結構豊かな暮らしをしているのを見たせいか、あまり好意的な書き方をしていない。

 以上述べたことからわかるように、「殷王朝の秩序の原理は、その神話であり、祭祀の体系であった。神話は古くからの諸氏族の信仰と伝承の上にきずかれてきたが、王朝はそれを王朝的な規模にまで拡大して、王朝存立の基盤として体系づけたのである。そこに国家神話が成立した。」(114ページ) 〔おそらく日本でも同じことが、かなり後の時代にあって起きた。〕
 すでに第1回で述べたことであるが、殷を打倒した周は「殷に代わりうる神話がな」(116ページ)かったので、その代わりに「天命」「民意」という考え方を発展させた。「これによって、周は古い神話と断絶した。神話の世界は滅んだ。そして理性的な天がこれに代わった。それは中国の精神史の上でも、最初の革命的な転換であった。」(117ページ) 殷から周への交代は歴史的に大きな出来事であった。

 内容が盛りだくさんで、その分、論旨をたどりにくいところがあるのだが、多くの示唆に富むことは疑いない。特に日本との関係で考えていくと面白い箇所があり、私が指摘した以外にもまだ多くの関連性のある事柄が含まれていそうである。

白川静『漢字』(3)

2月13日(水)晴れ

これまでの概要
1 象形文字の論理
 漢字は基本的に表意的な象形文字であるが、仮借という表音的な表記法を取り入れることによって文字体系として確立され、今日に至っている。漢字はおそらく殷時代に、殷の文化圏の人々によって発明されたと考えられる。
2 神話と呪術
 漢字の文字の形象の中には、それを作り出した古代の人々の世界観が反映されている。
3 神聖王朝の構造(前半)
 漢字が生まれたと考えられる殷王朝の政治的な支配は祭祀を通じて行われた。殷王朝の王は、自分たちの氏族だけでなく、他の氏族の祖神もまた支配することによってその支配を維持していた。

 「3 神聖王朝の構造」の後半は、人間と社会のあり方をめぐる様々な文字のもともとの意味を探り、そこから古代の人々の考え方をあぶりだそうとしている。
 「聖」は人間としての理想の姿と考えられるが、もともとの意味は耳さとき人、耳がよく、いろいろな音や声を聴き分けることのできる人、さらには「神の声を聴きうる人」(71ページ)であった。楽官(音楽に従事する役人)もまた「耳さときひと」であり、その職は「師」と呼ばれた。これらは障害をもった人々であることが多く、「神意によって世につかわされた」(同上)とされることもあった。
 「臣」は大きな目の形であらわされている。臣はもともと神に仕える人であった。目は人の心のあらわれるところであり、邪眼はすぐれた呪力をもつものとしておそれられた。
 殷周期に「小臣」と呼ばれる身分呼称が見られ、のちに官名となっている。大小は長幼の順序と理解すべきで、「小臣」は「相続順位からはなれて、祭祀や軍事など、王朝の重要な職務を担当したようである。」(72ページ) 巫祝王の祭祀をたすける近侍の臣で、王族中、末子の家のものが当たるとされていたようである。 〔古代イスラエルのレヴィ族を想起させるところがある。ただし、レヴィはヤコブの末子ではない。〕

 「聖」の次に完成された人間と考えられるようになった「賢哲」は儒教では理想の統治者とされたが、もともとの意味は神への犠牲、神への奉仕者であった。「その字形は、文字が成立した当時の観念を、そのままに示している。文字の意味は、社会生活の変化、その意識の推移に連れて、流動してやまないのである。」(75ページ)

 古代の王朝が祭政的な形態をとったとしても、王朝の成立には軍事的な優越が不可欠であり、その体制を維持するためにも強大な軍事力が必要であった。殷周の軍事力は、王室の直属軍のほかに、各地の氏族軍に依拠するところが多かった。殷の直属軍は左・中・右の三軍編成で、司令官は「師」と呼ばれた。殷の軍の相当部分は、周に継承され、いわば外人部隊として、周の監視を受けながら、軍事活動を行っていた。

 軍は出発の際にも凱旋の際にも、「学」と呼ばれる場所で儀礼を行なっている。「原始の学は、軍事と密接な関係をもっていたことが知られる。学には、かつての将軍たちが祀られていた。」(78ページ)
 「学(學)」はその字形から、「千木形式をもつ建物の形」と考えられる。「それはかつて、氏族の若者たちが収容され、一般と隔離されて、特別の教育を受けていた機関であった。」(79ページ) そこでは氏族の伝統と、種々の儀礼について、また氏族生活の知識について教習が行われ、厳しい戒律と訓練が要求された。地方には氏族の、王都には地方の貴族の子弟のための学が存在したと考えられる。そこで指導に当たるのは老将軍(師)たちであった。

 『周礼』などによると、学には小学と大学とがあった。小学は貴族の子弟が8歳で入学し、舞楽や書を読むことを学んだ。大学はその上の段階の機関で、礼楽の教習の場であった(詳しいことは記されていない)。

 「漢の武帝が太学(だいがく)を開設したとき、この古代の学制を参考にして、五経博士をおいたが、その教科は経学を偏重する傾向があった。後漢になると、太学はマスプロ化して、修了者の就職も容易でなく、そのうえ当時の宦官の腐敗政治を快しとしなかったかれらは、ときに数千人の集団行動をもって王宮に示威行進を試みたりした。」(82‐83ページ) さらに党錮の禁などの事件が起きている。

 「学生運動は、もっと古い時代からあった。春秋のとき、鄭の郷校の学生が盛んに国政を批判し、騒ぎは収まらず、郷校は閉鎖されようとした。このとき子産は、言論の自由を抑止するのは、河水を塞ぐのと同様に危険であると警告して、閉鎖に反対し、これを阻止した。紀元前542年のことである。子産は、孔子が「古の遺愛なり」と賞賛した名政治家である。」(83ページ) 白川はさらに2例をあげている。
 この書物が出版されたのは1970年で、大学闘争の余燼が消えていなかった時期であり、おそらくは執筆中は、全国の大学闘争の中でもっとも苛烈であったといわれる立命館大学の闘争のさなかであったと思われる。白川は「伝統を尚び、秩序が重んぜられている社会では、老年者は尊敬を受けていたのである」(81ページ)とも書いている。その当時はまさにその伝統や秩序が動揺していたのである。〔これらの記述が大学闘争を意識してのものだと書いたが、それ以前に(あるいは両者の間に連動性を見る人もいるだろうが)中国の文化大革命についても意識していたと思われる。)
 大学教育の専門家に意見を聞いたところでは、大学というのはヨーロッパの中世に起源を有する、学位授与権に代表される自治をもち、また学問の自由を掲げる機関であって、それ以前のギリシアの学堂とか、イスラームの学校とかとは区別されるべきものだということであった。(実際問題として、カイロにあるイスラームの最高学府であるアル・アズハル大学が「国際的に」大学として認められたのは20世紀にはいってだいぶたってからのことである。) もっともこのように考えると、日本の大学は、一応「国際的に」大学として認められてはいるが、本当にその名に値するかどうかは疑問に思われるところがある。白川がこのあたりのことをどのように考えていたかは、今となっては知る由もないが、興味ある問題である。

 この章の最後に、白川は「五等の爵」について取り上げている。中国の古代の王朝では諸侯に対し、公・侯・伯・子・男という五等の爵位を授けていたとされ、さらにその下に卿・大夫・士という階層があって、ここまでが治者階級を構成していたと考えられてきた(孫文の『三民主義』でも、封建的な身分秩序はそういうものだと書いていたと記憶する)。
 しかし、卜辞や金文には五等の爵を実証するようなものは見当たらないという。諸侯としての封建を受けたものに与えられるのは「侯」のみであって、他はもともと爵号とは関係のないものであった。五等の爵制は春秋期に入って作られ、実際に行われたという説を紹介して、だとすれば、「それは主として王室との関係において、諸国間の国際的な儀礼の必要から起こったものであろう。それならば、五等の爵は王朝的天下の秩序として生まれたものではなく、むしろ王朝的な天下が崩壊したのち、列国間の国際関係の秩序として生まれたのであろう。ただその原型が、殷周期にすでに諸侯の号として存していたことは、当時の資料によって知ることができるのである」(90ページ)という。最後の部分に関わる「当時の資料」については紹介を省いてしまったが、関心のある方は、この書物を手に取ってお読みください。また卿・大夫・士についてもそれぞれに説明しているので、それもお読みください。余計なことを一つだけ付け加えれば、孔子は士の階層出身だったとされるが、彼が尊敬した子産(既に述べた鄭の賢宰相)は卿、晏嬰(斉の名臣)は大夫の階層であったといわれる。

白川静『漢字』(2)

2月6日(水)雨、午後になってやむ。

 これまでの概要:
 1 象形文字の論理
 漢字は原始から現代までを一貫して生き続けてきた唯一の文字体系である。それは基本的には象形文字であるが、象形・指事・会意という表意的な方法にとどまらず、仮借という表音的な方法に表記法を拡大することによって、成立したのである。現在、見出しうる最古の漢字=甲骨文字は殷代の遺跡から発見されるものであるが、漢字の文字としての形象・構造を分析すると、それが元沿海族である殷人の手によって成立したと考えられるのである。
 2 神話と呪術
 古代の文字の形象の中には神話と呪術の面影がとどめられている。殷王朝の下での社会と文化がアニミズム的な世界観や、精霊の観念があったことは考古学的な発見から裏付けられるが、当時の文字の形象のなかにも、その痕跡が認められる。

 今回は、「3 神聖王朝の構造」の前半を見ていく。殷周期における宗教と政治の関係、それが漢字にどのように反映されているかを論じるこの章の全体を紹介しようと思ったのだが、日本の古代を考えるうえでも豊かな示唆に富む、この章の内容を乱暴に要約するのが憚れて、途中までの紹介にとどめるになった。

 3 神聖王朝の構造
 「地下のピラミッド」と呼ばれる殷代の陵墓の壮大な規模は、国王の絶大な権力を想起させる。このような国王の権力は、王の神聖性の結果として生じたものである。「王は自然の秩序を人間の生活に適応させるために、神につかえるものとしてえらばれた。」(59ページ) 王はもともと天災が起きたときにはその責任を負う巫祝王であったが、やがて儀礼に参加するだけで、権力を行使する司祭者となった。「殷代には、王は巫祝王であるよりも、むしろすでに司祭者であった。」(61ページ) しかし、政治は神意を反映するものという性格をもち続けたのである。

 殷王朝の下で、国の大事は祭祀と軍事であった。殷は農耕を基礎とする王朝であったので、祖霊の観念、祖先崇拝の祭祀化など、定着的な農耕社会の成立に伴って生じる宗教的な現象が拡大していった。社会の拡大に伴い、祭祀の規模も拡大していったのである。中央における王室の祭祀だけでなく、地方にも使者が派遣され、その祭祀を取り仕切った。このような祭祀の形式を通じて、政治的支配が行われていった。「古代の王朝が、祭政一致の形態をもつといわれるのは、具体的には祭祀権の掌握が政治的支配を意味するものであったからにほかならない。」(68ページ) 
 
 「古代にあっては、国を滅ぼすことは、その民人を滅ぼすことではなかった。その奉ずる神を支配し、その祖霊を支配することであった。神霊は滅ぼしうるものではない。それで滅亡した国の子孫を残し、その聖処の社には光をおおい、先祖の祭祀はつづけさせた。王朝のまつりのときには、その神霊にもまつりに参加させて、その威霊を新しい王朝のためにささげさせるのである。それで異族神は、王朝の祭祀に招かれ、舞楽などを献ずるのであった。」(69ページ) 白川は周の祭祀における客神としての殷の祖神=白鷺の参加と舞楽の献納の例、さらに我が国の古代における国栖の舞、隼人の舞の献上の例をあげている。
 
 「王朝は、まつりの使者を各地に派遣して、その祭祀を行なわせることによって、いわば空間的な支配を成就した。それは祭政的支配の体系の一環をなしている。また客神をそのまつりに参加させることによって、その支配を時間的にも遠くさかのぼらせ、すべての伝承の権威を、この祭儀に集約させる。いわば歴史的に、その支配を完成するのである。」(70ページ)

 「まつりの使者は、古くからの氏族が伝承するそれぞれの聖地に向かって派遣された。地方の信仰の中心である山岳や河川、あるいは森や泉、氏族神の祀られている聖処などで、王室の司祭する祭祀が行なわれた。古代王朝の子孫たちは、二王三恪(かく)とよばれる古帝王の後裔として、客神として王廷のまつりに招請されたが、他の群神に対してはまつりの使者が派遣され、その祭祀の執行を通じて支配が行なわれた。そして同時に、かれらのもつ神話伝承も、王室の祭政的支配の体系の中にくみこまれてゆく。そこに国家神話が生まれる。中国の古代神話は、わが国の神話と同様に、その本質において国家神話であった。」(70‐71ページ)
 「二王三恪」というのは、過去の王朝の子孫を礼遇するという思想であり、周王朝で言えば、その前代の殷王朝の子孫を「宋」、さらにその前の夏王朝の子孫を「杞」という諸侯に封じ(ここまでが二王)、その前の統治者である舜の子孫を「陳」、尭の子孫を「葪(けい)」、黄帝の子孫を「祝」というこれまた諸侯に封じた(三恪)といわれるのがこれにあたる。
 とはいうものの、漢文を少し勉強した人ならばご存知の通り、「宋人」というのはおろかもののたとえ(たとえば、「待ちぼうけ」の歌で知られる「守株」の故事)であり、「杞憂」という成句で知られるように杞の人々も評判は良くなかったようである。
 なお、この件を考えるうえで手掛かりとなる夏よりも前の中国の統治者である「三皇五帝」に誰を当てはめるかというのには諸説あり、興味のある方はご自分で調べてみてください。

 白川の言うように、日本の『古事記』、『日本書紀』等に展開される神話も氏族の伝承する神話、地方の神話などを統合して出来上がったものである。この意味で、中国の神話研究は日本の神話研究にとって重要な手掛かりを提供するものであり、漢字にはその関係の一端が潜んでいるというのも確かなことなのである。次回は神話と文字をめぐり、もう少し具体的な話を展開することになる。
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