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木田元『哲学散歩』(7)

11月10日(金)晴れ

 我が家のパソコンが不調で、せっかく書いた原稿を投稿しようとしてもできないので、町のレンタル・パソコンを使って投稿することにした。そのため、普段よりも量が少なくなると思う。

 第1回 エジプトを旅するプラトン
 第2回 エンペドクレスのサンダル
 第3回 ソクラテスの皮肉
 第4回 忘恩の徒? アリストテレス
 第5回 書物の運命 これもまた?
 第6回 哲学史の中のアレクサンドロス大王

 哲学はギリシアのポリス(都市国家)の中で、初めは自然(あるいは宇宙)の根源を探索する学問として発展した。これに対して、超自然的(形而上的)な思考様式を持ち込んで哲学の世界を一変させたのがプラトンであると木田さんは言う。そして、このような超自然的な思考が普及したおかげで、ヨーロッパ世界にキリスト教が入り込みやすくなったというのである。
 これに対しては異論異説がいろいろと申し立てられそうで、私自身も納得しているわけではないが、哲学の歴史を形成してきた人々がどんな人で、どんなことをして、どんなことを考えていたかをたどってゆくこのエッセーが、単純に歴史的な時間軸をたどらず、プラトンから書き起こされているのは、この本の成り立ちも影響しているとはいえ、ヘレニズム(ギリシア思想)と、ヘブライズム(ユダヤ教の源流とその背後にあるオリエントの様々な思想→キリスト教)の対立や融合への木田さんの関心がもとになっているからだとも推測できる。

 さて、第7回は「アウグスティヌスの謎」と題されている。木田さんがその「謎」として取り上げているのは、北アフリカ(現在のアルジェリア、チュニジアあたり)というローマ帝国のいわば辺境に生まれ、そしてそこで活動したアウグスティヌスが世界的な影響を持つ思想家としての自己形成を遂げたのはどういうことかというのと、木田さんの言葉を借りれば「下世話なところでは、北アフリカの先住民ベルベル人だったというアウグスティヌスは、…ローマ人社会で人種差別を受けるようなことはなかったのか』(58ページ)というあたりのことである。

 簡単に言ってしまえば、もともとカルタゴの勢力範囲であった北アフリカは、当時豊かな地域で、ローマ化が進んでおり、ゲルマン民族(この場合は西ゴート族)によるヨーロッパへの侵略を逃れてイタリア半島から多くの人々が逃れてきたこともあって、文化水準は高く、アウグスティヌス自身、家庭でもラテン語を使っていたというから、高い文化水準のもとで育ったと考えられる。彼が膨大な著作を残すことができたのは、北アフリカにも修道院の原型になるようなキリスト教の信仰組織が作られていて、そこには彼の執筆活動を支える条件が整っていたということらしい。ローマはもともと一定の要件を満たした人には市民権を与えるという国家であったので、差別はなかったといってよいのである。むしろ、重要なのは、彼がキリスト教徒の母を持ちながら、なかなかキリスト教を信じるに至らなかったという『告白』に記された思想遍歴であろう。そういう思想遍歴が、キリスト教を信じるに至った後の彼の思想的な強さを支えているともいえる。

 とにかく、彼はいったんはマニ教を信じていたのだが、その教義にも疑問を感じてイタリアに渡り、ミラノでアンブロシウスや、シンプリキアヌスといったキリスト教の僧侶たちの説教を聞いているうちに新プラトン主義やキリスト教に近づき、回心を経験したということである。心の迷いが解消したので北アフリカに帰った彼は、ヒッポという港町を訪ねた折に、そこの老司教に懇望されて司祭となり、やがて司教となる。そして、(彼が一時期には信じていた)マニ教のような異教や、その頃北アフリカで勢力を伸ばしていたドナトゥス派やペラギウス派といった(キリスト教内の)異端との論争に従事する。

 410年に西ゴート族によってローマが劫略されると、こうした大災厄が起きるのは古いローマの神々を忘れキリスト教を信奉したせいだという非難が異教徒の間に広がった。これに対しアウグスティヌスは413年から426年までの時間をかけて異教論破とキリスト教擁護の書『神の国』全22巻を著す。神の国(天の国)と悪魔の国(地の国)を対置して、天地創造から終末までの世界史の展開を描いてみせた西洋最初の歴史哲学の書である。

 イタリアでは5世紀の初めから西ゴート族侵入による混乱が始まっていたが、それが北アフリカにも波及し、430年にはアウグスティヌスの暮らすヒッポの町も包囲された。その中でアウグスティヌスは熱病にかかり、8月28日に没した。「西ローマ帝国の滅亡つまり古代の終焉は、形の上では476年とされているが、アウグスティヌスの歿した日こそがその日だったとみてよさそうである」(63-64ページ)と木田さんは記す。

 つまりアウグスティヌスは歴史哲学という領域を切り開いた最初の人物であるとともに、古代最後の人であったというのが木田さんの評価であるが、彼の死後半世紀ほど後に生まれ、『哲学の慰め』という有名な書物を書いたローマの哲学者ボエティウスこそ、古代最後の人だという評価もあって、この辺りは意見の分かれるところだろう。ちなみに「中世最後の人」と呼ばれるダンテはボエティウスを愛読し、「ルネサンス最初の人」と呼ばれるペトラルカはアウグスティヌスを愛読していたらしい。木田さんは多分、アウグスティヌスが北アフリカで活動した人で、さまざまな文化的な伝統、特にギリシア由来のプラトニズムとオリエントに起源をもつキリスト教とを自分のものとしながら彼の思想を形成したことを評価したものと思われるが、その点の説明が不足しているようである。そしてそのことをご自身も自覚していたらしく、次の回に「プラトニズムとユダヤ思想」という話題を取り上げているのである。

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木田元『哲学散歩』(6)

11月3日(金)晴れ

 哲学の歴史を辿るこのエッセー集は、もともと、この書物の「第1回」として収録されている「エジプトを旅するプラトン」というエッセーが好評だったために、別の雑誌に連載をもつことになったという経緯があって、別々に書かれた第1回と第2回以降とが1冊の本にまとめられている。(さらにまた別の雑誌に連載されたエッセーが「間奏」として挿入されているが、それはその時に。) その結果として第1回ではプラトン、第2回では「ソクラテス以前の哲学者」であるエンペドクレス、第3回ではソクラテス、第4回と第5回ではアリストテレスが取り上げられていて、哲学史的な順序とは違った配列になってしまっているが、そんなことを気にする読者はいないだろう。今回は、そのアリストテレスの教え子であるアレクサンドロス大王が、哲学者たちとどのようにかかわったかという、哲学史の流れから見れば「余談」になるような話である。

哲学散歩 第6回 哲学史の中のアレクサンドロス大王
 アレクサンドロス大王(前356-323)がアリストテレスの教え子であったことは、『哲学散歩』の紹介記事の第4回で触れたはずである。この2人の出会いをめぐっては、次のような挿話がある。
 「アレクサンドロスが14歳のとき、テッサリアの商人がブーケファラス(「牛の顔をした馬」)という名のみごとな馬を売りにきたが、誰も乗りこなすことができなかった。アレクサンドロス少年は、この馬が自分の影を恐れて暴れるのだということを見抜き、理づめでみごとにこれを乗りこなしてみせた。それを見た父親のフィリッポスⅡ世は、その馬を買い与えた上、この子は強制に対しては反抗するが、道理には服するし、なすべきことは心得ているということに気づき、個々の学問や技術の教師にではなく、当代の最高の知性であるアリストテレスに、それにふさわしい報酬を払って、この子の教育を委ねた。・・・ブーケファラスはアレクサンドロスの愛馬となって、ついには遠くインドまで遠征する彼を運ぶことになる。」(49-50ページ) (アレクサンドロスが馬の性癖を見抜いたこと、それを見た父王がこの息子の聡明さに気づき、アリストテレスに師事させたことは有名な逸話で、ラブレーの『第一の書 ガルガンチュア物語』で、グラングージェが息子のガルガンチュアの聡明さに気づく場面で引き合いに出されている。ところが、ガルガンチュアの場合には、招かれた先生がろくなものではなかったので、話が混乱してくるのである。)

 アリストテレスがアレクサンドロスの教育の場として選んだのは、マケドニアの首都ペラの南西の町ミエザであった。私は長いこと、アリストテレスがフィリッポスの居城にやってきて、アレクサンドロスを1対1で教えたのだとばかり思っていたのだが、実際は違っていたらしい。昭和天皇は初等教育を終えられた後、学習院の中等科に進学されずに、杉浦重剛を御用掛とする東宮御学問所で学友とともに教育をお受けになったそうだが、それと同じでミエザに王太子用の学問所をつくり、やはり学友とともに教育を受けたということのようである。

 この教育は7年続き、アレクサンドロスが20歳になった時に、父王フィリッポスが暗殺されたため、アレクサンドロスが王位に就いたことで終わる。アリストテレスはアテナイに戻って、彼自身の学園リュケイオンを開くが、アレクサンドロスを中心とするマケドニア政権とこのリュケイオンの結びつきは深く、ローマの知識人であった大プリニウスの伝えるところでは、アレクサンドロスは師の学園創設にあたって800タレント前後(現在の貨幣価値にして400万ドル以上という説もある➡第4回)の資金援助を行っただけでなく、遠征先から動植物の資料を師のもとに送らせたので、アリストテレスの知らない生物はなかったという。

 アレクサンドロス大王の死後、その広大な帝国は分裂するが、その中のエジプトを継承し、大王の意志で建設された年であるアレクサンドリアを首都にして王朝を開いたプトレマイオスは、アリストテレスのミエザの学園でアレクサンドロスの学友としてともに学んだ一人だそうである。そこでプトレマイオスは、自分の王子の家庭教師として、アリストテレスの弟子のテオフラストスの後継者であるストラトンを招いたという。

 アレクサンドロスに縁のあるもう1人の哲人といえば、シノぺのディオゲネス(前412-323)であろう。無欲無所有を旨とする禁欲主義を貫いたために、「キュニコス(犬儒)」派の一人に数えられる。彼はどこにでも野宿し、何でも食べる簡素な生活をし、「おまえはどこの市民だ」と聞かれると、「世界市民(コスモポリテース)だ」と答えたという。アレクサンドロス大王によって世界(コスモス)を一丸として国家(ポリス)、つまり世界国家が実現され、それにふさわしい思想が求められていたところだった。(プラトンにしてもアリストテレスにしても、都市国家をいかに経営するかという政治論を展開していた。)

 そのアレクサンドロスがギリシアを征服してコリントスに滞在していたとき、当時この町にいたディオゲネスの噂を聞いて興味を抱き、呼び出そうとしたが応じない。そこで大王が自ら出かけてゆくと、ディオゲネスは酒造り用の大甕(樽というのは誤りらしい)の中に横になっていた。あれこれ問答をした後アレクサンドロスが何かほしいものがあるかというと、ディオゲネスは大王にうるさそうに片手を振って、あなたがいると日陰になるから、そこをどいてくれといった。家臣たちは立腹したが、アレクサンドロスは、「余がもしアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスでありたいと望んだろう」(52ページ)といったという。
 この話は、私も木田さん同様、子ども向けの読み物で読んで知っていたが、そこでディオゲネスが暮らしていたのは樽の中であったと記憶する。漱石の『吾輩は猫である』の第11回で、苦沙弥がタマス・ナッシ(Thomas Nashe, 1567-1601) という英国の風刺作家が古来の女性の悪口を集めた本の内容を紹介する中で、
「次にはダイオジニスが出て居る。或る人問う、妻を娶るいずれの時においてすべきか。ダイオジニス答えて曰く青年は未だし、老年は既に遅し。とある」
「先生樽の中で考えたね」(講談社文庫版、467ページ) 漱石も、ディオゲネスは樽の中で暮らしていたと思っていたようである。ディオゲネスはどうも逸話だけで知られている哲学者であるが、その逸話がいかにも哲学者らしいと思う人が少なくないのであろう。なお、漱石は探偵が嫌いで、探偵小説も嫌いだったようだが、シャーロック・ホームズの兄のマイクロフトが根城にしているのが、ダイオジニス(ディオゲネス)・クラブであるというのを知っていただろうか。

 さらにもう一人、アレクサンドロスにかかわりのあった哲学者として、木田さんは懐疑主義の元祖エリスのピュロン(前360頃-270頃)を取り上げている。彼は原子論の提唱者であるデモクリトスの系譜を引くアナクサルコスという哲学者の弟子で、その師とともにアレクサンドロスの遠征に同行してインドまで出かけた。彼らはインドの森に生きる裸の行者や、ペルシアのゾロアスター教の神官階級(マゴス)たちと交わりを結んだという。こうして当時としては異例の多様で広い経験を重ね、見聞を積んだ彼は、すべてのものの見方は相対的であって、物事の真理は把握しえないものであり、物事を決定するような判断は保留(エポケー)すべきであるという懐疑主義思想に到達した。(木田さんは書いていないが、世界市民の時代を迎えた地中海世界で有力になった哲学は、この懐疑主義と、ストア派とエピクロス派の3つである。それぞれ、大きな状況よりも、自分という個人を大事にするというところが共通しているのはかなり皮肉な移り行きであった。)

 「だが、アレクサンドロス大王の学問への最大の寄与といえば、何といってもエジプトの大学術都市アレクサンドリアの建設を企画したことであろう。」(54ページ) それは青少年の教育施設「ギュムナシオン」、総合学術研究所である「ムーセイオン」、さらに大図書館を擁する学術都市であっただけでなく、その当時世界最大の都市でもあったらしい(人口90万人のローマが世界第2位だったという)。ここでは、アレクサンドリアで学問研究のための外面的な枠組みが整備されたことについてだけ触れて、そこでどのような思想が育まれていったかについては触れていない。その点については、次回(第7回)で触れるというつもりなのであろう。

木田元『哲学散歩』(5)

10月27日(金)晴れ、気温上昇

 9月10日 第1回 エジプトを旅するプラトン
 9月17日 第2回 エンペドクレスのサンダル
 9月25日、10月4日、10月12日 第3回 ソクラテスの皮肉
 10月19日 第4回 忘恩の徒? アリストテレス

 今回は第5回「書物の運命 これもまた?」を取り上げる。前回(第4回)に引き続き、アリストテレスが主人公で、彼の著作がたどった運命について記されている。

 アリストテレスは他の哲学者同様に、生前数多くの著作を発表した(当時のことだから、誰かの手によって書き写されることで流布したのである)。紀元3世紀前半ごろのディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』には、アリストテレスのものとされる143(一説には146)篇の彼の著作の書名が記されているが、そこに含まれているのは、彼がまだアカデメイアでプラトンの指導下にあったころに、師に倣って書いた対話形式のものや、書簡体のもの、それに自分の学園リュケイオンを開いてからの研究記録の類だったらしい。らしいというのはその大部分が今日すでに失われているからであるが、紀元3世紀になってからでさえ、一般に読まれていたのがこれらの旧来の著作だったことだけは、ラエルティオスの書物からわかるのである。

 一方、こんにち『アリストテレス全集』を構成している彼の著作は、ラエルティオスによって記されたものとはほとんど重なっていない。ラエルティオスが書き留めたのが、いわゆる「一般公開用(エクソテリカ)」とみられる著作だったのに対して、今日残っているのは「専門聴講者用の講義ノートやその草稿(エソテリカあるいはアクロマティカ)」と言われるものであったようである。要するに、アリストテレスの著作として今日読まれているものは、彼の講義ノートの類なのであるが、それが広く一般に読まれるようになったのには長い時間がかかった。

 アリストテレスは彼の晩年に保護者であったアレクサンドロス大王の死後、アテナイで起きた反マケドニア運動による迫害を逃れて、母の郷里であるエウボイア島に逃れた。このとき彼は自分の学園リュケイオンの資産と手元にあった草稿を、親友で彼の後継者となったテオフラストス(前372-286)にゆだねた。テオフラストスもその死に際して、アリストテレスの草稿を自分の草稿とともに、友人のネレウスに託したが、ネレウスはそれらの草稿を自分の故郷である小アジアの町スケプシスに持ち帰った。ところがネレウスの死後、彼の遺族がそれらの草稿を地下の穴倉に隠したまま忘れてしまい、150年が過ぎた。紀元前1世紀ごろに、その穴倉からかなり傷んだ状態で、これらの草稿が偶然発見され、小アジアのテオスの出身で、愛書家でもあった実業家のアぺリコンが買い求めて、ふたたびアテナイに持ち帰った。

 ところが、紀元前86年にアテナイはローマとの戦いに敗れ、ローマの将軍スラ(前138-78)の軍隊に劫略される。政治家でもありすぐれた文人でもあったこの将軍は、紀元前84年にアぺリコンの蔵書やその草稿類をローマに運んだ。その中のアリストテレスの草稿は、当時ローマを訪れていた(アリストテレスの学統を継ぐ)ペリパトス学派の大蔵書家てゅらに恩によってまず整理され、さらにそれがリュケイオンの最後の学頭となったろどす党出身のアンドロニコス(前1世紀)によって編纂されて、紀元前40-30年ごろには、現在伝えられているものに近い著作集としてローマで公刊されたと推定されている。

 当然、しばらくの間はそれまで読まれていた著作と、この新しい著作集とがともに読まれていたのであろうが、次第に「専門聴講者用」の著作に関心が集まって、こちらばかりが読まれ、以前の著作はほとんど散逸してしまったということのようである。「プラトンのように芸術的才能に恵まれていたわけではないアリストテレスが、先生の真似をして書いた対話形式の作品より、推論を積み重ねてゆく理論的著作、例えば『形而上学』などの方が彼の本領であったに違いない。」(44ページ)

 これがアリストテレスの著作の新旧交替をめぐる通説であったのだが、近頃異論が出てきたと木田さんは付け加えている。まず、リュケイオンの後継者たちがアリストテレスの講義ノートをまったく知らなかったとは考えられないということ。さらに、ラエルティオスの『哲学者列伝』の伝える著作目録の中には、現行の著作の別名や部分だと推定されるものもないではないという。だから埋もれた草稿発見という劇的な物語は疑わしく、アンドロニコスによる新著作集編纂とともにすべてが一変したというわけではなさそうである。「だが、なるほど全面的入れ替えという話しは成り立たないかもしれないが、対話篇を含む初期の著作の大半が失われていることは確かだし、この時点で新しい資料がふんだんに発見されたことも認めてよいのではなかろうかl。」(46ページ)

 ただ、紀元3世紀ごろまで読まれていたアリストテレスの一般向けの著作が消えてもしかたのないような凡庸なものであったという木田さんの推測も当たっていなかったらしい。ディオゲネス・ラエルティオスの残したアリストテレスの著作目録のうち、今日その内容をある程度知りうるのは『エウデモス――霊魂について――』と『哲学について』という2篇の対話篇、それに『プロトレプティコス(哲学のすすめ)』の3篇らしい。この『プロトレプティコス』の影響を受けたことをローマの文人であるキケロ(前106-43)と、古代末期のアウグスティヌス(354-430)が認めているという。そのキケロがアリストテレスの文体に触れた『アカデミカ』の断章が残っていて、このローマ一流の雄弁家がアリストテレスの「黄金の輝きをもった雄弁の流れ」(47ページ)について語っているという。つまり、いわゆる交換所においても、アリストテレスはけっして凡庸だったわけではないということらしい。

 とはいえ、この頃のアリストテレスはあくまでプラトン学徒として評価されていて、彼が独自の学問体系をもった哲学者としての評価を得るにはもう1,000年ほどの時間が必要であったと木田さんは結んでいる。

 昨日(10月26日)のNHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編でペトラルカについて取り上げた際の「こぼれ話」として、講師の白崎容子さんは「対話」による論の展開は、人文主義が重視した方法のひとつであると述べていたが、そこには(かなり外面的なものであったかもしれないが)プラトンの影響を認めてよいのではないか。プラトンはその対話篇が残り、アリストテレスは講義ノートが残ったというのは、哲学、それに教育というものの本質を考えていくうえで重要な問いかけを投げかけているのではないかと思う。

 

木田元『哲学散歩』(4)

10月19日(木)雨

 第1回 エジプトを旅するプラトン
 第2回 エンペドクレスのサンダル
 第3回 ソクラテスの皮肉

 第4回 忘恩の徒? アリストテレス
 第3回の「ソクラテスの皮肉」がなかなか難しく、3回かけて検討を加えたが、今回は、ソクラテスの弟子のプラトンの弟子のアリストテレスを取り上げる。学統を辿れば、プラトンの順番であるが、プラトンは第1回に登場しているので、アリストテレスに順番が回ってきたのであろう。ただし、ここではアリストテレスが主人公となってはいるものの、プラトンとの師弟関係が重要な内容になっている。

 「アリストテレス(前384-322)ほど時代によって評価の変わる哲学者も珍しい」(33ページ)と木田さんはこの回を書き起こしている。13世紀以降、特にカトリック系の思想圏では、「かの哲学者」(イレ・フィロソフス)といえばアリストテレスを意味するほどに評価が定まったし、ルネサンス期には、ラファエロの有名な「アテナイの学園」に描かれているように、堂々たるプラトンと並んでひけをとらない精悍な姿でイメージされるようになった。木田さんは書いていないが、この絵でプラトンは天を指さし、アリストテレスは地に注意を向けさせようとしている。プラトンのイデア論と、アリストテレスの博物誌的な哲学の広がりとを象徴的に表す手つきである。そういえば、14世紀の初めに完成したダンテの『神曲』<地獄篇>第4歌130-135行は次のように書かれている:
顔を少し上げると、
私は見た、哲人たちの師が
知を愛する一族に囲まれ座っているのを。

皆が敬意のこもった視線を向け、皆がほめたたえていた。
さらに私はここに見た、ソクラテスとプラトンを
二人とも他の誰より前に進み、あの方のすぐそばにいた。
(原基晶訳、80ページ) アリストテレスの師であるプラトンと、その師であるソクラテスとはその名を呼ばれているのに、アリストテレスは「哲人たちの師」、「あの方」と呼ばれ、この2人以上の扱いを受けている。

 ところが、それ以前、特に古代の伝承の中ではアリストテレスはあまり評判がよくなかったという。哲学者の逸話を集めた古代の書物によると、「アリストテレスは小柄で下半身もひょろひょろと貧弱なら眼も小さく、貧相なくせに派手好み、おしゃべりではあるが声に力がなく、時どき舌もつれまでして、それほど講義がうまいわけでもないと思われていたらしい。」(34ページ) それ以上に問題になるのは、そのころアリストテレスは「忘恩の徒」だとまで考えられていたらしいという。それはどうしたことだったのであろうか。

 アリストテレスはイオニア系のギリシア人であったが、彼の出生地のスタゲイロスはマケドニアの支配地にあり、彼の父はそのマケドニアの王アミュンタスⅢ世(アレクサンドロス大王の祖父)の侍医であった。そのため彼は、幼いころマケドニアの首都ペラで育ったが、早く両親を亡くし、義兄に引き取られて小アジアのアタルネウスで暮らしていたようであるという。17歳になると、彼はプラトンがアテナイに開いた学園アカデメイアに遊学する。プラトンはもう60歳を超えていた。経済的に余裕があったアリストテレスは「思う存分本(むろん写本である)を手に入れることもできたし、おしゃれもできたのであろう。プラトンは、弟子のその読書家であるところは評価したが、おしゃれは気に入らなかったということらしい。」(35ページ、プラトンがアリストテレスについてそう発言したと古代の著作家であるアイリアノスが書き留めているそうである)。

 アリストテレスは、前347年にプラトンが没するまで20年間このアカデメイアで学び、師によって「学園の知性(ヌース)と」と呼ばれるまでになったという伝承もあるが、一方には、師の存命中にアカデメイアを去り、最晩年の既に衰えを見せていたプラトンのところに仲間の一団を引き連れて押しかけ、質問を浴びせかけて苦しめたという(逸話をこれまたアイリアノスが書き残している)。アテナイではプラトンの開いたアカデメイアと、アリストテレスの開いたリュけイオンという2つの学園が長く対立関係を続けた(他にも学園はあった)からアカデメイアの人々は、アリストテレスの悪口を言い伝えたと思われ、アリストテレスの悪評はその分割り引いて考える必要がありそうである。

 とはいうものの、アリストテレスはその著作の中で、プラトンのイデア論を批判しており、その一方で自分の先生や友人の学説に批判を加えるのはつらい仕事になるということを書いている。ある程度、自分の評判が悪くなることは覚悟のうえであったというのである。

 アリストテレスの悪評には、プラトンから離反したという理由の他に、アテナイに根強くわだかまっていた反マケドニア感情も影響していたと木田さんは言う。何よりも、彼はマケドニアの王となって大征服帝国を現出させたアレクサンドロスの家庭教師だったのである。アレクサンドロスが国王になると、アリストテレスは当時マケドニアの占領下にあったアテナイに戻り、おそらくはアレクサンドロスから経済的支援を受けて、自らの学園であるリュケイオンを開き、ここを拠点として教育研究活動を行う。彼はその構内の散歩道(ペリパトス)を散歩(ぺリパテイン)しながら議論をすることが多かったので、彼の学派はペリパトス学派と呼ばれていた(逍遥学派と呼ぶ人もいる。私はこちらの呼び方の方が好きである)。

 「ここに収蔵されていた書物や資料は、後年エジプトのアレクサンドリアにプトレマイオス王家によって建設される壮大な図書館や博物館の模範にされるほど、見事に整理されていたそうである。」(38ページ) このあたりいかにもアリストテレスらしい。

 ところが、前323年にアレクサンドロスが急死すると、アテナイでは反マケドニア運動が高まり、マケドニア勢力と親交のあったアリストテレスにも追及の手が及ぶ。
 「アテナイ市民はかつてソクラテスを死刑に処して、哲学に罪を犯したことがある。その「アテナイ市民にふたたび哲学を冒瀆する罪を犯させないために」と体裁のいいことを言って、アリストテレスは、母方の屋敷のあったエウボイア島のカルキスへ逃れたが、翌年宿痾であった胃病のために62歳で世を去る。」(39ページ)
 とにかく、プラトンに比べてアリストテレスは、アテナイ市民から見て異国人ということもあって、あまり評判がよくなかったらしい。しかし、と木田さんは言う(ここが大事なところである)「西洋の哲学者は東洋の儒学者などと違って、必ずしも身近にいるすべての人に愛され尊敬されるような魅力的な人柄を、つまり知行合一(ちぎょうごういつ)といったことを要求されることはなさそうだ。私は長年ハイデガーを読んできて、この思想家の性格の悪さにほとほと困惑させられてきたが、だからと言ってテキストを読んで感じる彼の思索の強靭さや深遠さを疑ったことはない。」(39ページ) そして最後にこう付け加える:「私は近頃、ハイデガーの人柄を種にその思想を非難する人には、高煩悶することにしている。身近にいる誰からも愛され、いつもニコニコしている人柄のいい思想家が、世界をくつがえすような思想を提起する、ということの方がありそうにもないと思わないか、と。アリストテレスについても同じ弁護が成り立ちそうな気がするが、どうであろうか。」(39-40ページ)

 この結びを読んで思い出すのはハイネがカントについて『ドイツの宗教と哲学の歴史によせて』(岩波文庫では『ドイツ古典哲学の本質』という表題になっていた)で触れている次の箇所である。
「この人の外面の生活と、世界をうち砕く破壊的な思想との間には実に奇妙なコントラストがある。事実、もしケーニヒスベルクの市民たちが彼の思想の意義全体を予感していたなら、普通の首斬り役人、人間の頭しか刎ねない首切り役人に対するより、はるかにすさまじい怖気をこの男に感じたことだろう――しかしこの善良な人たちは、カントを哲学教授としか見なかった。いつもの散歩の時間に彼が通りかかると、愛想よく挨拶して、例えば懐中時計を合わせてみたりするのだった。」(木庭一郎訳『ハイネ散文作品集』第4巻、99ページ)
 人柄のいい思想家も、人柄の悪い思想家も、同じ程度に世の中を揺るがすような思想を考え出すことはある(それ以上に、人畜無害な思想を生み出していることの方が多いのではないか)とわたしは思うのである。 

木田元『哲学散歩』(3-3)

10月12日(木)晴れ、次第に雲が多くなってきたが、依然として暑い。

ソクラテスの皮肉(3)
 ソクラテスは知識人(ソフィスト)たちとの論争において、自分は無知であるからその欠けている知識(ソフィア)を愛し求める(フィレイン)という愛知(フィロソフィア)の立場をとった。〔哲学のことを英語でphilosphieというのはこれが起源であるのはご存知の方も多いはずである。〕 しかしそこで彼が取った態度は、論敵や世間の人々から「知っているのに知らないふりをする」(エイローネイア)と呼ばれたのである。近代の諸言語における「皮肉」(英語であればアイロニーironyの語源である。)
 皮肉には、心の中で思っていることと、口に出された言葉とが反対である(矛盾している)という特徴がある。これは嘘と同じことであるが、嘘はばれてしまえばおしまいであるのに対し、皮肉は相手がその皮肉に気づくことに意味がある。したがって皮肉には教育的な効果が期待できる。

 木田さんは皮肉(イロニー、これはドイツ語である)についてそれが教師の側からの教育手段として有効であると論じるニーチェの言葉を引用している。
「皮肉(イローニッシュ)な教師は無知を装う。しかもきわめて巧みにそれをやってのけるので、彼と話し合っている弟子はすっかりだまされて、自分の学識の方が先生より優れていると思い込んで大胆になり、自分の弱点をありったけさらけ出してしまう。彼らは警戒心を失い、ありのままの自分を見せてしまう――ところが一瞬、彼らが教師の顔に差し向けていた光が、その光芒を突如転じて彼ら自身を照らし出し、その慢心をくじくのである。教師と弟子の間に見られるようなこうした関係がない場合には、皮肉(イロニー)は一種の無礼であり、低俗な気どりである。」(『人間的な、あまりに人間的な』、第6章第372節)(29-30ページ)

 ソクラテスの皮肉(イロニー)もまた、知識人(ソフィスト)に対するこうした教育的手段だったと考えてよい。彼もまた無知を装って知識人(ソフィスト)たちに問答を仕掛け、彼らの誇示する知識を吟味してそこに矛盾を見出し、彼らに己の無知を自覚させて、真の知への愛に目覚めさせた――ということで一応の決着がつくが、木田さんはそこから先を問題にする。
 ソクラテスが無知を装っているとするのであれば、当然彼には語るべき知識があるはずである。しかし、プラトンの初期の対話篇を読むと、ソクラテスがそのような真の知を語ったという形跡はない。だとすると、ソクラテスは自分で言っているように、本当に無知だったということになる。ヘーゲルの『哲学史講義』はそのような立場をとっているそうである(それで、読んでみたくなった)。本当に無知な人間が、自分は無知だと表明することは、皮肉でも何でもない。「だが、無知な人間に、いったいどうして吟味ができるのか。」(31ページ)

 「彼がその内面においても無知でありながら、なおかつ彼の言動が皮肉(イロニー)である可能性がありうるだろうか。
 …皮肉(イロニー)とは外なる現象を仮象として否定し、真の本質に立ち返ろうとする運動であった。もしそうして立ちかえった本質をさえもさらに仮象として否定していくといったふうに、その否定が無限に繰りかえされるとしたらどうであろうか。」(同上)

 ソクラテスの皮肉によって、自己の真の内面に立ち戻らされたソクラテスの論敵は、それと同時jにソクラテスの偽装された外面をもつ紀破り、彼の真の姿をとらえたと思うに違いない。だが、その時訴kルアテスがその姿をさえも仮象として脱ぎ捨て、無限に後退を続けていくとしたらどうであろうか。おそらく相手は果てしなく自己のうちへ突き戻され、これまでの信念や知識の一切を奪われて、無の不安にさらされるであろうと木田さんは言う。〔しかし、不安は古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分に移る際の、一時的な現象であればよいが、それが続くということになると危険を招くかもしれない。〕

 「ソクラテスの皮肉(イロニー)の真のねらいは、どうやらこうした無限否定、つまり単なる否定のための否定にあったのではないかと思われる。おそらく自分が歴史の大きな転換点に立たされているという予感があったのだろう。」(31-32ページ)
 「だが、こうした否定の運動は、一度止まってしまうと、それまでのすべてが嘘になる。どこまでも走り続けねばならないのだ。そんなことは、ソクラテスのような巨人にしかできそうにない」(32ページ)。そして、皮肉屋として生きようとしたフリードリッヒ・シュレーゲルや太宰治の挫折の例を引き合いに出して、「皮肉屋として生きるのは大変なことなのだ」(32ページ)と結ぶ。〔しかし、ソクラテスが自分では発見できないけれども、新しい時代を切り開く真理を誰かに発見してほしいと考えて、既存の真理に対して否定的な態度をとり続けていたとみることもできるだろう。モンテーニュの見たソクラテスの姿はこのようなものではなかったかと私は勝手に考えている。批判とか、懐疑とかいう姿勢は、いくつか数えられる程度の、自分にとって重要な問題をめぐるものにとどめておいて、後は常識に任せて、思考を停止するという方針を私はモンテーニュから学んだと、これも勝手に思っている。〕

 皮肉は使う側にも、使われる側にも、それなりの知性が要求されるのであって、むやみに使うべきではない、それに皮肉を言う側の善意が言われる側に通じない場合も考えるべきであるということを、私の教師としての経験から付け加えることができる(多少の皮肉が通じるような師弟関係の方が楽しいが、なかなかそれは成立しにくくなっているのではないかと思う)。
 
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