亀田俊和『観応の擾乱』(7)

10月10日(火)晴れ、気温上昇
 《観応の擾乱》は観応元年(南朝正平5年、1350)から観応3年(南朝正平7年、1352)にわたって展開された、室町幕府初代将軍足利尊氏および執事高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた足利直義とが対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。その初期において鎌倉幕府(と建武政権)を模倣したような体制をとっていた室町幕府が、この戦乱を通じて独自の権力構造をもつようになると著者は言う。
 初期室町幕府は将軍尊氏とその弟の直義の二頭政治であり、尊氏が章氏に対する恩賞の給付、守護・地頭職の任免などを行い、直義は土地関係の裁判を担当した、いわば尊氏が主従制的な支配権、直義が統治権的な支配権を分担したというのが通説である。しかし、著者は政務の実態を分析して、「初期室町幕府の体制は二頭政治ではなく、直義が事実上の最高権力者として主導する体制だった」(9ページ)と論じる。とはいえ、尊氏もわずかながら権限を有しており、それは創造的な要素をもつもので逢えあった。これは初期室町幕府の政権基盤が安定したものではなかったことを反映するものである。また高師直は将軍尊氏の執事であっただけでなく、直義の執事でもあったと考えられるという。師直も大きな権限を有していたが、室町幕府が安定に向かう中で、その権限は縮小される傾向にあった。この段階で師直と直義の間に意見の隔たりがあったとしても、修復不可能なほど大きなものではなかったと考えられる。
 貞和3年(1347)に楠木正成の子・正行が挙兵し、幕府軍を数次にわたって破り、政権首脳に大きな危機感を与えるが、高師直・師泰兄弟によって貞和4年に討伐され、勢いをかって師直は吉野の南朝の本拠を陥落させ、南朝の後村上天皇以下は奥地の賀名生に退いた。このことで師直と高一族の声望は大いに上がった。
 尊氏には後継者の義詮よりも年長の直冬という実子がいたが、父親に冷遇され、直義の養子になっていた。彼は貞和5年に「長門探題」として西国に赴く。その背後には西国に自派の勢力を拡大しようとする直義の意図があったと推測される。
 幕府内部では恩賞をめぐり不満を抱く武士たちが少なからずいて、彼らが直義の信任の篤い僧侶である妙吉を通じて師直に対する讒言を繰り返し、次第に直義がそれを信じるようになったことから幕府内部の亀裂が大きくなったと考えられる。
 貞和5年(1349)閏6月の初めごろ、足利直義は高師直の暗殺を企てるが未遂に終わる。この事件を機に師直は失脚し、幕府内部で直義を支持する勢力が強くなるが、8月に師直と彼を支持する大名たちが尊氏・直義兄弟のいる土御門東洞院邸を大軍をもって囲み(室町幕府独自の風習であった「御所巻」の最初の例)、直義が引退して、彼の腹心の上杉重能、畠山直宗を流罪とすることで決着した。さらに、当時関東地方を統治していた足利義詮を上京させ、それまで直義が占めていた三条殿の地位につけることが決定した。

 この事件の黒幕は尊氏であったという(佐藤進一らの)説もあるが、前後の状況から考えて信じがたい。「真に評価すべきは、尊氏が師直挙兵という不測の緊急事態にうまく対応し、嫡男義詮に直義の地位を継承させるという最大限の利益を得た点であろう。不運すらも幸運に変えていくのが、足利尊氏という将軍の不思議な魅力である」(62ページ)と亀田さんは論じている。

 この政変直後の8月19日ごろ、足利尊氏が政務に復帰し、高師直は執事に復帰した。これは、光厳上皇の命を受けた夢想疎石の仲介によるものであった。執事施行状の発給も復活した。25日には三条殿で評定が開催され、師直も出席した。ともかくも表面上は、両者は和解したことになるが、実際は直義派に対する圧迫が続いた。
 康永3年(1344)に、幕府はそれまでの五方制引付方を改め、三方制内談方を発足させた。この改革は直義の親裁権を強化する一方で、この内談方の頭人になったのは上杉朝定、上杉重能とともに高師直で、それまで縮小されがちであった彼の権限を復活させていると評価された(29ページ参照)。ここで再び五方制引付方が復活し、その5人の頭人になったのは、斯波家兼(尊氏―師直派)、石橋和義(中間派)、佐々木導誉(尊氏―師直派)、長井高広(直義派)、仁木義氏(これまで内談頭人、尊氏―師直派)となって、尊氏―師直派の進出が著しい。なお、将軍尊氏の政所執事も、直義派の二階堂行珍から佐々木導誉に交代し、侍所頭人も、御所巻の功で仁木頼章が就任した。さらに「寄合方」と呼ばれる機関が出現した。その詳細は不明な点が多いが、少なくとも師直の権限が増大していることは確実にいえる。
 一方、中国地方に滞在していた足利直冬は、九州に移る。これは高師直の追討計画に不意を突かれての転進という見方もあるが、むしろ当初からの計画通りの行動ではなかったかと考えられる。

 10月22日に、鎌倉から足利義詮が東国の大名を多数率いて入京した。25日には義詮は当時錦小路堀川の細川顕氏邸に住んでいた直義と面会した。この時も師直以下が付き従った。翌26日、それまで直義が住んでいた三条殿に移住し、政務をとりはじめた。それまで直義が発給していた所務沙汰の裁許下知状も、義詮が発給するようになった。また上皇や天皇と直接政治交渉を行う役割も、義詮が務めた。義詮は幕政統括者としての直義の権限を完全に吸収したのである。これらのことから、師直が尊氏だけでなく(直義とともに)義詮の執事でもあり、主君尊氏の意を承けて、義詮を次の将軍にすべく彼の権威確立に奔走していたことが知られる。
 鎌倉には9月9日に義詮の弟の基氏が下向した。基氏は義詮の同母弟である。しかし直義の養子となっていた。わずか10歳であり、供奉の人数も少なく、元服以前の下向には疑問を感じる人もいたようである。(田辺久子『関東公方足利氏四代』には「政務を義詮に移譲することが決まっての直義は、義詮を補佐するとはいえ、かなり弱い立場になったといえよう。基氏を手放すことはさらに痛手であったかもしれない。ただしこの時期まで基氏が直義の元に居たか否かは詳らかではない」(18ページ)と記されている。)

 さて、直義は9月に左兵衛督を辞任、三条殿を出て、細川顕氏の宿所に移り、12月8日に夢想疎石を受戒師として出家する。その後は、顕氏の邸内の粗末な閑居に住み、ほぼ誰も彼を訪問しなかった、わずかに玄恵法印だけが師直の許可を得てたまに訪れていたが、やがて高齢と病気のために訪問できなくなったというが、完全に孤立していたわけでもなさそうだと著者は推測している。その推測の根拠は、次回以降明らかになるはずである。 
スポンサーサイト

五味文彦『日本の歴史を旅する』

9月27日(水)曇り

 9月26日、五味文彦『日本の歴史を旅する』(岩波新書)を読んだ。日本中世史の研究者として知られる著者は、各地で講演をする機会も多く、そうした講演をもとに、雑誌『UP』の連載「地域の力を歴史に探る」(2009~2011)のなかで、それぞれの地域がもっている独自の力を歴史的に探ろうとした。この書物は、その連載にさらに手を加えてまとめられたものである。
 書物の中で特に注目されているのは、地域に特有な人・山・食・道であり、この4つが構成の柱になっている。著者の言葉を借りると:
「「人」とはその地域で活躍した人、「山」とは地域に愛された山々、「食」とは地域で生まれた食事や生産物、「道」とは地域を結び文化を運ぶ山野の道、河海の道であって、これらをキーワードに地域の力を私の歴史への旅とともに見てゆく。」(ⅲページ)ということである。地域といっても大都市圏は除かれているが、できるだけ広い視野を持って取り組まれているという。
 それで「Ⅰ 人 ひと」、「Ⅱ 山 やま」、「Ⅲ 食 しょく」、「Ⅳ 道 みち」の4部から構成され、それぞれ4編ずつの文章から構成されているが、今回はⅠだけを取り上げることにする。

 目次に従ってみていくと
Ⅰ 人 ひと
 1 芭蕉 大津に蓄積された情報力 (滋賀県大津市)
 2 連歌師宗長 伊勢湾岸を襲った災害を越えて(三重県東部)
 3 菅江真澄 津軽の開発史を伝える(青森県津軽地方)
 4 若山牧水 故郷日向を離れて思う(宮崎県東部)
と4人の人物が取り上げられている。

 芭蕉と近江のつながりについては、これまでも様々な指摘がなされてきたが、ここで著者が芭蕉の文学的な活動と絡めて、交通の要衝としての大津の位置に着目し、<情報史>という観点からその意義を掘り下げているのが注目される。芭蕉の文学活動のかなりの部分が大津で展開され、芭蕉の門人のかなりの部分が近江の人であった。また、芭蕉の墓所のある義仲寺の近くの龍岡(たつがおか)には芭蕉の門人たちの墓が並んでいるという。〔書中で触れられていないが、芭蕉の俳諧の師である北村季吟は近江の人であった。〕 文学だけではなく、政治、商工業にかかわる情報も大津を経て都に入り、また都から出ていくものが多かったのである。「大都市に集中しがちな情報ではあるが、その近くにある土地にこそ情報は集積されたのであり、新たな発信力をもつところとなった。早くから情報の先端にあった大津の今後の情報力に期待しよう」(17ページ)という結びが、この都市の未来を予見するものとなるかどうかも注目されるところである。
 五味さんが、瀬田川の西にある義仲寺について触れていて、東にある建部神社について触れていないのはどういうことか考えてみるのも面白いかもしれない。『平治物語』の終りには、伊豆に配流されることになった頼朝がこの神社で将来を予言する夢を見て、考えを変えるという話が出てくる。これも興味深い話ではないかと思うのである。

 連歌師宗長に触れた文章では、戦国時代の駿河の大名今川氏に仕えた連歌師の宗長がその日記に記した見聞の中から、彼が津波に襲われて荒廃した伊勢の安濃津に立ち寄り、途方に暮れたという記事を取り上げている。しかし、著者の視線は、そのような災害(天災だけでなく、戦災のような人災もある)の恐ろしさよりも、そこから復興する伊勢商人たちのたくましい姿の方に向けられており、連歌は彼らの結束を固める手段であったとも記されている。そのような中で台頭したのが松坂商人であり、「江戸時代に入って松坂が紀州藩の支配地になったこともあって、松坂商人は江戸に大挙進出した。早くは三井俊次が、続く延宝年間頃までには長谷川・小津・中川・小野田などの諸家がそれぞれ江戸店を出し、後に三井財閥として発展したのが三井家である」(30ページ)。〔ついでに、小津家の末裔の一人が小津安二郎であるということも書いておいてほしかった。〕 室町から戦国時代にかけて、大名たちの庇護を求めて全国を旅行して歩いたのは、連歌師だけでなく、万里集九などの漢詩人もいたということも、五味さんが触れていないこととして指摘しておきたい。五味さんが訪問したという松阪市の本居宣長記念館は私も出かけたことがあるので、懐かしく思った。最後に、伊勢出身の松浦武四郎の例を引いて、外に向かって活躍したのは商人だけではなかったとも説き、「伊勢湾地域では開発が早くから進んでいた分、災害にも多く襲われてきたのだが、その災害を乗り越えてゆく力が常に生まれ克服してきた。この復興する力が伊勢湾岸にはあったわけで、これがこの地の人々をさらなる冒険や飛躍に駆り立てたのである」(32ページ)と結んでいる。

 菅江真澄は江戸時代の東北・北海道旅行者として知られるが、特に寛政7(1795)年の津軽周遊の際の紀行には見るべきものが多いという。翌寛政8(1796)年に彼は青森市郊外の三内の桜を見ようと出かけ、掘り出されていた縄文土器などを見たことを書き留めているが、これが三内丸山遺跡の最初の紹介記事となったとのことである。この項では、縄文時代から続く、地域の農地、海、森林などを開発してきた開発力の系譜がたどられている。

 最後に日向(宮崎県)東部を故郷とする若山牧水の望郷の念と旅に明け暮れた生活が取り上げられ、日向出身の人物を見ていくとこの地を飛び出して活躍した人々が多いのに気づかされると述べている。その系譜をたどると、天正遣欧少年使節の1人であった伊東マンショ、日本で最初に孤児院を創設し「児童福祉の父」と称された石井十次、飫肥藩出身の儒者である安井息軒、飫肥藩の藩校である振徳堂出身の外交官小村寿太郎などの名が列挙されている(どうも思い付きを並べているという感じがしないでもない)。

 風土の中で育まれた伝統と、その中で成長した人々の関係を考察しようとしたのであろうが、書物中心というわけでもなく、実地踏査に重点を置いたというわけでもなく、両者ともに中途半端な感じは否定できないが、それでも読んでいく中で多くの興味ある事実や事実を見ていく視角に出会うことができ、興味深い書物であった。また、機会を見付けてⅡ以下についても紹介していくつもりである。

 

亀田俊和『観応の擾乱』(6)

9月22日(金)曇り、今にも雨が降りそうな空模様である。

 観応の擾乱は室町幕府初代将軍足利尊氏および執事高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた足利直義が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。乱のはじまりは観応元年(1350)であるが、幕府内での確執は貞和4年(1348)ごろから始まっている。一時は直義軍が圧勝したが、最終的には尊氏軍が勝利し、観応3年(南朝正平7年、1352)に直義が鎌倉で死去したことで終結する。
 著者はこの戦乱を通じて、室町幕府の鎌倉幕府を模倣したような体制が変化し、この幕府独自の権力構造が生みだされたと考え、そうなった理由を戦乱の推移を追うことで探ろうとしている。

 第1章「初期室町幕府の体制」では、尊氏は将軍に就任したものの、その弟の「三条殿」直義が事実上の室町幕府最高指導者であり、尊氏は恩賞充行(あておこない)と守護の任命という2つの権限しか行使しなかったことが注目されている。しかし、この2つは、既存の所領秩序を変更し、新しい秩序を創造するという変革を担う機能を持っている。つまり、尊氏には変革(新しい秩序の創造)、直義には保全という役割の分担があったと考えられる。高師直は、尊氏だけでなく、直義の執事でもあったと考えられる。
 第2章「観応の擾乱への道」では、南朝方をほぼ抑え込んでいた室町幕府の優位が、楠木正行の挙兵によって揺らぎ、幕府は一時的にではあるが揺らぎ始めたこと、その正行を破り、南朝を吉野から賀名生まで追い落とした高師直の威信が高まり、不満を抱いた武士たちとの軋轢が激しくなったことが記されている。幕府内部での対立は、恩賞の配分をめぐる不満を反映するものであったと考えられる。

 今回から、第3章「観応の擾乱第1幕」に入る。貞和5年(1349)に土御門東洞院にあった将軍足利尊氏邸が火災にあい、その再建が終わるまで、尊氏は一条今出川にあった執事高師直邸に居住することとなった。と、簡単に書いてあるが、そもそも一条今出川というのがどうも不思議である。京都の市街はよく碁盤の目にたとえられ、土御門東洞院というふうに、東西に走る道路(この場合は土御門大路)と南北に走る道路(この場合は東洞院大路)の組み合わせでどこにあるかがわかる。ところが、一条今出川というと、両方とも東西に走る道路(今出川通りは一条通よりも北にある)なので、どこなのかがさっぱりわからない。まあ、たぶん、東の方の鴨川に沿ったあたりではないかと思われる。

 『太平記』には直義が高師直の暗殺を企てたという記事があり、著者は当時の信頼できる史料である『園大暦』に照らし合わせて貞和5年の閏6月初めのことであったと考えている。直義は兄には知らせずに近臣と謀議して師直を暗殺しようと考え、三条殿に師直を呼びつけたが、内応者の機転により師直は自宅に逃げ帰ることができた。その後、師直は病気を装って幕府への出仕をやめた。直義は三条殿周辺の住宅を破壊したり差し押さえたりして、信頼できる部下を配置し、防備を強化した。

 閏6月7日に、将軍尊氏が三条殿を訪問し、直義と相談し、同月15日に師直は執事を解任された。所領なども没収され、ともかく直義の攻勢が成功した。師直の後任に、直義はその兄の師泰を考えていた形跡もあるが、同月20日に実際に執事に就任したのは師泰のこの師世であった。
 同月30日、直義は自ら光厳上皇の御所(持明院殿)に参上し、師直を排除した件について報告した。その時に直義は大したことではないと言ったが、そもそも、報告に出かけるということ自体が異例で、直義の心中の不安を表しているのではないかというのが著者の推測である。

 師直の執事解任直後に、直義派の上杉朝房が内談頭人に就任する。さらに彼は小侍所頭人も務めた。このような朝房の抜擢は直義派の勢力伸長を示すと考えられるという。この時期、直義の花押が著しく巨大化したことが注目されるが、これは彼の自信の表れよりも不安の裏返しではないかと著者は論じている。

 やがて師直の反撃が始まる。7月21日に、高師泰が河内の国から大軍を率いて京都に向かった。弟の師直に協力して直義に軍事的圧力をかけ、政敵を排除するためである。直義は、師泰を執事に任命することで、彼を懐柔しようとした。8月9日に、師泰は入京する。
 一方、将軍尊氏は8月10日に丹波国篠村八幡宮(かつて反北条の旗幟を鮮明にして六波羅攻撃の起点とした地である)に参詣し、同日夜に修理が完了した土御門東洞院邸に入った。11日には、師直に味方するために赤松円心らが参上し、その日のうちに本拠地である播磨に下った。直義の養子で西国に派遣され、当時備後国に滞在していた足利直冬が養父直義の救援に登場するのを防ぐためである。
 8月12日の宵には、大勢の武将が直義と師直の邸宅にはせ参じ、それぞれの旗幟を鮮明にした。この時点では師直と尊氏・直義兄弟が対立する構図であった。しかし、両派の攻勢はかなり流動的で、それぞれの支持層には明確な相違は見られない。
 師泰が入京して、洛中がざわついている時に、都を離れて篠村八幡宮に参詣するという尊氏の神経は尋常なものではないと著者は言う。「こういうところが、いかにも政務に介入しなかった尊氏らしい」(59-60ページ)というのは客観的な評価なのか、誉め言葉なのか、微妙なところである。

 しかし、8月13日には、さすがの尊氏も直義に土御門東洞院邸に避難するように勧めた。直義はこの指示に従い、将軍邸へ移動した。これを見て師直に寝返る武士が続出し、将軍兄弟の軍勢は300騎にも満たなくなった。
 直義は光厳上皇へ使者を派遣し、師直を流罪にすることを申し入れた。〔上皇の御所である持明院という寺はいまはなくなってしまっているが、上京区にあったので、同じ上京区の土御門東洞院の尊氏の邸から近かった。〕 しかし、これは到底不可能な提案であった。
 8月14日早朝、師直は大軍を率いて法成寺河原に進出し、将軍御所の東北を厳重に包囲した。師泰も7000騎余りで西南からこれを囲んだ。法成寺というのは藤原道長が創建した寺で、現在の荒神口の北にあった。だから荒神橋の北の方の鴨川の西の河原に結集したと言えば、イメージがわく人もいるだろう。京都府立医科大学とその病院のあるあたりという方が分かりやすいか。もっとも、私も最近は京都にあまり出かけていないので、記憶と土地勘とが鈍っているかもしれない。
 師直軍が御所を焼き払うという風聞も飛び交い、付近の住民は大混乱のうちに避難した。将軍邸の北隣に位置する内裏に住む崇光天皇も、光厳上皇の御所(持明院殿)へ避難された。

 尊氏兄弟は最悪の場合は切腹も覚悟して、軽武装で待機した。師直もさすがに主君を攻撃することはできず、両軍はにらみ合いを続けた。やがて尊氏は須賀清秀を使者として、師直と交渉を開始した。
 交渉の次第と結果とは、次回に述べることにしたい。呉座勇一『応仁の乱』にも描かれているが、大名が将軍の邸を包囲して政治的な交渉を行うことを「御所巻」といって、鎌倉幕府にも、江戸幕府にもなかった室町幕府独自の風習である。高師直の尊氏邸包囲はその最初の例なのである。好むと好まざるとにかかわらず、世の中は新しい動きによって変化していく。その一例を我々はここに見るのである。

亀田俊和『観応の擾乱』(5)

9月14日(木)晴れ、気温上昇

 第1回(8月7日)、第2回(8月14日)、第3回(8月21日)、第4回(9月7日)
 「観応の擾乱」は、観応元年(南朝正平5年、1350)から観応3年(南朝正平7年、1352)まで続いた室町幕府初代将軍足利尊氏(1305-58)および執事高師直(?-1351)と、尊氏弟で幕政を主導していた足利直義(1306-52)が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。この内戦を通じて、鎌倉幕府の影響を大きく受けていた体制が変化し、時代の変化に対応した室町幕府独自の権力構造が生みだされることになったというのが著者の考えである。その意味で「観応の擾乱」の意義は大きいという。
 初期室町幕府は、将軍足利尊氏と、その弟の直義による二頭政治で運営されており、尊氏が「主従制的支配権」を、直義が「統治権的支配権」を行使していたというのが通説であるが、実際にはほとんどの政務は直義が行っていた。ただ、尊氏は恩賞充行(あておこない)と守護の任命だけを担当していた。亀田さんは2人の役割の分析から、尊氏は新しい秩序を創造する変革の役割を、直義は古い秩序を維持する保全の役割を果たしていたと論じる。その中で、高師直は尊氏の執事であっただけでなく、直義の執事でもあり、戦時における将軍の非常手段としての決定を取り次ぐことが多かったのだが、幕府の安定に伴って彼の権限は次第に縮小されていた。この段階では直義と師直の対立は修復不可能なほどのものではなかった。(以上、第1章「初期室町幕府の体制」より)

 第2章「観応の擾乱への道」は、貞和4年(南朝正平3年、1348)ごろから顕著になる室町幕府内での対立の深まりを追っている。その発端になったのは、高師直と楠木正行の戦闘である。
 貞和3年(1347)8月、楠木正成の遺児正行が河内国で、南朝方として挙兵し、摂津国へ進出して焼き討ちなどを敢行した。これに対して幕府は、河内・和泉・讃岐守護細川顕氏を大将とする討伐軍を派遣した。ところが、9月17日に河内国藤井寺合戦などの戦闘で、顕氏軍は大敗する。そこで幕府は丹波・丹後・伯耆・隠岐守護山名時氏の軍勢を援軍として送ったが、11月26日、幕府軍はわずか1日の戦いで、摂津国瓜生野・阿倍野・渡辺橋と連戦連敗した。
 ここまで南北朝の戦乱はほぼ終息し、幕府は安定した政治を行うことができるようになっていたので、この敗戦は大変な衝撃を与えた。細川氏も山名氏も足利氏と血縁的に近く、幕府の有力な武将であった。それが敗北したのであるから、幕府首脳陣の抱いた危機感は相当なものであったと考えられる。

 そこで幕府は細川顕氏に代えて、高師直の兄弟である高師泰を起用した。さらに12月16日には総大将として高師直が出陣した。師泰は7年ぶり、師直は9年ぶりの出陣である。師直軍は山城国石清水八幡宮に滞留し、ここで越年した。貞和4年正月2日、淀を出発した師泰軍は和泉国堺浦に布陣、師直軍は河内国四条畷に本陣を敷いた。正月5日早朝、楠軍は師直本陣を吸収する作戦を敢行し、師直本陣を大混乱に陥れたが、大局的には兵力の差が出て、わずか1日の戦闘で正行は敗死した。

 勝利した師直軍は、その勢いで南朝の本拠地である吉野に向かい、その結果南朝の後村上天皇は吉野の防衛を放棄し、奥地の賀名生に退いた。無人の吉野に入城した師直軍は南朝の施設をすべて焼き払い、2月13日に京都に凱旋した。幕府を危機に陥れた楠木正行を短期間で滅ぼし、南朝の本拠地を壊滅させた師直の勲功が多大であったことは間違いない。

 次に著者は、観応の擾乱の「キーパーソン」となる足利直冬の経歴を簡単に紹介している。彼は尊氏の子であるが、幼少時には鎌倉の東勝寺(鎌倉幕府滅亡時に北条高時以下1000人以上が自害した場所)で僧をしていたが、成長したのち還俗して上京し、尊氏に子として認知してもらおうとした。しかし、尊氏はこれを認めず、仕方なく独清軒玄恵という僧侶のもとに身を寄せた。玄恵は『建武式目』の起草者の1人であり、『太平記』の改訂作業にも携わったとされる直義のブレーンの1人である。玄恵の紹介で直義にあった後、子どものいなかった直義はこの甥を養子として「直」の一字を与えて直冬と名乗らせた。おそらく貞和年間(1345~50)の前半のことであったろうという。

 四条畷の戦いが高師直の圧勝で終わった後、紀伊国で南朝軍が蜂起した。これに対して、直義は養子直冬を紀伊に遠征させ、反乱を鎮圧させることにした。貞和4年(1348)5月28日に直冬は出陣、直義の支援もあり、戦略目標を一応達成して9月28日に帰京した。しかし、実父尊氏はまったく喜ばず、ようやく尊氏邸への出仕を許したのみであった。高師直も直冬を冷遇したようである。師直は、尊氏の嫡子である義詮を後継者にすることに晩年の政治生命をかけていた気配があると著者は言う。尊氏が何故、直冬を嫌ったのか、その理由を示唆する史料はないようである。貞和5年(1349)4月11日に、直冬は「長門探題」として西国へ向かって出発した。観応の擾乱の展開における直冬の西国下向の意味は大きいものであったが、それについてはその時に述べるということである。

 幕府を危機から救ったことで、高師直・師泰兄弟の威信が大きくなり、その結果専横が激しくなったとして、『太平記』にはその悪行が列挙されているが、とるに足りないという。しかし、四条畷以後、当時の公家や僧侶が書いt日記の中に兄弟への言及が増えてくること、また幕府内部の不協和音が目立ち始めることは否定できないという。

 まず、貞和4年(1348)6月ごろに、大高重成が将軍尊氏の怒りを買い、所領をすべて没収された。重成は高一族では珍しい直義派の武士であった。さらに10月ごろには、従来直義の所領安堵下文には施行状が発給されなかったのが、内談頭人であった上杉重能が施行状を発給した。さらに同じころに、高師直・上杉朝貞・同重能が務めていた内談頭人のうち、師直と朝貞が辞任し、仁木義氏と石橋和義に交代した。義氏は尊氏派、和義は中間派であると考えられる。直義派の上杉重能は留任しており、このあたりで双方の激しい駆け引きがあったのではないかと著者は推測している。

 『太平記』によると、上杉重能と畠山直宗が師直兄弟の悪行を讒言したと記されているが、尊氏・直義兄弟が彼らの讒言を全く信用しなかったとも述べている。そこで2人は夢想疎石と同門の妙吉侍者という僧と結託した。妙吉は貴族や武士の尊敬も多く集めたが、師直・師泰兄弟だけはなぜか妙吉を全く尊重しなかった。そのこともあり、重能・直宗と結託した妙吉は師直兄弟の悪行を3か条にわたり、密告させた。
 ①恩賞地が狭いと文句を言ってきた武士に対して、周辺の寺社本所領を侵略することを推奨した。
 ②罪を犯して所領を没収された人に対して、命令を無視して知行を継続するようにそそのかした。
 ③「木か金で天皇の人形を作り、生身の上皇や天皇は遠くに流してしまえ」と放言した。
 特に③は有名だが、これを記した『太平記』自体が<讒言>である、つまり嘘だと書いているので、史実として認められない。しかし、3つのうち2つが所領に関する問題であり、当時の幕府が配下の武士全員が納得できる恩賞を配分できていない状況を反映していることは否定できないという。そして、観応の擾乱の原因を考えるうえで重要な問題であるとも述べている。
 とにかく、直義がこの讒言に騙されて、師直排除を決断したことから、直義と師直の戦いが始まることになるという。

 亀田さんには『高師直』という著書もあるようで、彼の実像の復元に努めているのがよくわかる。忠臣蔵では、高師直が塩冶高貞の美人妻に横恋慕して高貞を滅ぼしたという『太平記』の中の逸話が利用されているのだが、これは作り話らしい。勇猛な武士で有能な政治家でもあった師直と、儀式における礼儀作法をめぐり空威張りしている吉良義央とでは、その実像はかなり違うはずだと、考えてくださるとありがたい(とまでは、著者は書いていないが、私はそう思う)。
 

亀田俊和『観応の擾乱』(4)

9月7日(木)曇り

第1回 8月4日
第2回 8月11日
第3回 8月18日
 「観応の擾乱」は初期の室町幕府を二つに割いた将軍・足利尊氏と、三条殿・直義の兄弟の戦いである。この戦乱を経て、室町幕府はその独自の性格を発展させていったというのが著者の考えである。
 初期の幕府は尊氏と直義の二頭政治であったと理解されているが、著者は大部分の権限が直義によって行使されていたと考えている。日本中世政治史の枠組みを作った歴史家・佐藤進一は尊氏と直義の二頭政治において、尊氏は武家の棟梁として主従制的支配権を行使し、直義は政務を統括する統治権的支配権を行使していたと理解した。しかし、彼らが実際に行使した権限はこの枠組みでは理解できない。尊氏が行使したのは恩賞の充行(あておこない)と守護の任命だけであり、これは既存の所領秩序を変更し、新しい秩序を創造する――変革を担う役割をもっていたと考えられる。これに対し、直義の担っていた役割は、既存の秩序を保全し、復元するというものであった。つまり、初期の室町幕府において、尊氏は創造、直義は保全の役割を担っており、これは建武政権の役割分担に示唆を得ているが、幕府の政治と制度は大筋としては鎌倉幕府のやり方を模倣していたと考えられる。

 第1章「初期室町幕府の体制」 3 高師直の役割――尊氏・直義共通の執事
 高師直は初期の室町幕府について論じる際に、尊氏・直義とともに、欠くことのできない存在である。高一族は、古くから清和源氏に従ってきた譜代の臣であり、鎌倉時代後期の高一族嫡流は、足利氏執事として同氏の家政機関を管轄し、文筆官僚として活躍した。南氏・大高氏などの庶流も栄え、鎌倉末期には数の上では主君の足利一門をしのいでいたようである師直は元弘3年(1333)ごろに、父師重から執事職を譲り受けたと推測される。建武政権下では雑訴決断所、さらには窪所に職員として参加している。

 師直は中先代の乱や、主君である足利尊氏の建武政権との戦争でも、主君に従って全国各地を転戦し、室町幕府樹立に貢献した。幕府発足後は、執事として広範な権限を行使する。
 ①恩賞方の頭人として、尊氏の恩賞充行袖判下文の発給に携わった。
 ②引付方の頭人も兼任した。
 ③北朝との交渉を担当し院宣の執行にかかわった。
 ④後醍醐天皇の冥福を祈るために建立された天竜寺の造営事業の奉行人の1人であった。
 ⑤軍事面では、南朝方の北畠顕家に勝利し、彼を打ち取った。
 彼の行使した権限は多岐にわたり、師直は尊氏の執事であっただけでなく、おそらくは三条殿足利直義の執事でもあったのではないかと著者は推測している。直義は兄の将軍尊氏から政務を委任されていたので、執事である師直が直義に仕えていなかったとする方が不自然ではないかという。

 執事高師直にとって最も重要であった権限は、執事施行状の発給であった。これは将軍尊氏の恩賞充行袖判下文の沙汰付を諸国の守護に命じる文書であり、現存する師直発給文書の中で最も多く残っている。このような文書は鎌倉幕府時代にはなく、その点で鎌倉幕府時代と最も違っていた文書であり、制度であったといえる。
 これは建武政権の雑訴決断所による後醍醐天皇綸旨の施行状に倣ったものと考えられる。綸旨が乱発され、偽物も横行したために、決断所が「牃」と呼ばれる形式の文書を発給してその効力を確認するようになった。この文書が果たした役割の大きさは、庶民向けの初等教科書である『庭訓往来』の中にも取り上げられていることからわかる。

 さらに、それ以外にも師直は執事奉書を発給した。「当時、あくまでも建前は直義が一元的に政務を取り仕切り、恩賞充行と守護職補任を例外として尊氏は介入しない体制であった。しかし、現実には恩賞充行以外にも将軍である尊氏が登場せざるを得ない場面も出てくる。
 そうした場合、執事師直が将軍尊氏の意思を承けて奉書を発給した。それを審議した場も恩賞方であったわけだが、「将軍がわざわざ執事を介して意思を表明するのは、めったにないめぐみ深い新しい政治である」という意味で、その場を特別に仁政方と称したのだと考える。」(23-24ページ)というのが、著者の考えであり、さらに裏付けとなる研究が求められるところである。

 ところが、その師直であるが、北畠顕家を打倒したあたりから、大した失策もないのになぜか権限が縮小しはじめるという。鎌倉幕府の政治を理想とする直義が、室町幕府の安定を機に、一時しのぎのやり方を改めて、鎌倉時代のやり方に戻そうと考えたのではないかと推測される。しかし、この段階において、直義と師直の対立はそれほど深刻な小野ではなく、一定の妥協は成立しており、初期の幕政も安定して軌道に乗ったと評価できる。康永3年(1344)に直義は従三位に昇進し、公卿に列し、兄尊氏とほぼ同格の存在になった。翌年には天龍寺の落慶供養が盛大に開催され、戦乱が終結し、政策の重点は戦没者慰霊や訴訟による所領の整理といった戦後処理に移行したかに思われた。

 貞和3年(1347)に、直義に男児が誕生して如意王と命名された。この男児の誕生を契機として彼が兄を除こうと野心を抱き始めたのではないかという説もある。「しかし、当時の直義は三条殿として幕政を安定的に主導しており、わざわざこれ以上の冒険を行う必然性はまったく存在しなかった。」(32ページ) さらに直義は尊氏に対しては一貫して無気力な態度に終始しており、如意王の誕生が観応の擾乱の引き金になったとする考えには従えないという。
 とすると、直義と師直の間に修復しがたい対立が生じたのがいつ頃で、なぜかという問題が出てくるのだが、それはまた次回に。
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR