森本公誠『東大寺のなりたち』(3)

7月13日(金)午前中は雲が多かったが、午後になって晴れ間が広がり、気温も高くなる

 著者は主にイブン=ハルドゥーンの著作の翻訳や研究で知られるイスラム史家であるが、1949年に入寺し、東大寺別当・華厳宗管長をつとめたこともある東大寺の僧侶でもある。これは、その著者が70年近く寺の中で修行を続け、その中での見聞を踏まえて書いた、東大寺の成立史である。書物は以下の6章から構成されている:
第1章 東大寺前史を考える
第2章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
第3章 宗教共同体として
第4章 廬舎那大仏を世界に
第5章 政争のはざまで
第6章 新たな天皇大権の確立
 東大寺の前身は、聖武天皇が幼くして亡くなったその子・基親王の菩提を追修するために建立した山房であり、この参謀は現在の法華堂(三月堂)の原型と考えられる。さらに他の堂宇を加え、やがて金鍾山寺という寺院となり、さらに大養徳(大和)国金光明寺として大和の国の国分寺であるだけでなく、全国の国分寺の総元締めとしての地位を与えられるようになった。
 聖武天皇はもともと中国の政治にならって、経史に基づく徳治主義的な統治を目指したが、相次ぐ天変地異と人々の苦しみを見て、その限界を感じ、仏教、特に華厳経の教えに近づくようになった。

 天平6年(734)に聖武天皇は干ばつによる不作の連続で飢饉が起こり、民が罪を犯してしまうような事態に至った。その全責任は自分1人にあるという詔を出し、罪人たちに大赦を与えられた。
 この時代、国家の繁栄の要諦を冨民に置くという国家観が支配的であり、それを制度的に支えていたのが班田収授法である。土地は国家のものであり、国家は農民に土地を分け与えて(班田)、耕作ができるようにする。ところが班田収授法が施行されて数十年もたつと、人口増のためであろうか、公民に班給すべき口分田が不足してきた。そこで土地の開墾を促すための施策として、養老7年(723)に「三世一身法」が出され、開墾事業がこれによって進んで問題はある程度解決されたかに見えたが、根本的な解決には至らなかった。このような土地問題に加え、自然災害や疫病の流行が人々を苦しめ、重大な政治的課題となったのである。
 天平7年(735)には天然痘が流行し、全国で死者が続出した。穀物も不作で、天皇は困窮者の救済を目指す詔を発して、社会的な弱者に手をさしのべられた。しかし、なお、不運は続き、翌天平8年(736)も凶作となり、諸国各地で逃亡者や浮浪人があふれた。律令では離村者は本籍地に連れ戻すのが原則であったが、中には連れ戻そうにも、戸籍から削除されている浮浪人もいた。聖武天皇は浮浪人について、この8年の2月に、公民籍に編附することを停止し、別途、現住地での名簿に登録してよいと改めた。公民とは別個に、浮浪人を一つの身分として公認したのである。ただそこで問題になるのは、彼らにどんな正業を用意するかであった。本籍地に編附されていなければ口分田を分け与えられないからである。

 しかし、それでも災厄は終わりを告げなかった。天平9年(737)に再び天然痘が流行し、4月に参議の藤原房前が没した(房前は、不比等の次男で、北家の祖である)。天皇は5月に詔を出されて、またも米穀支給と減税措置などの措置を講じられた。それでも災厄は続き、7月には参議藤原麻呂(不比等の四男で京家の祖である)、次いで右大臣藤原武智麻呂(不比等の長男で、南家の祖である)が亡くなった。8月には中宮大夫兼右兵衛率(かみ)で橘諸兄の弟である橘佐為、続いて参議藤原宇合(うまかい、不比等の三男で、式家の祖。『懐風藻』に最多の漢詩を残し、『常陸国風土記』の編纂者であったのではないかと論じる人もいるなかなかの文化人である)が亡くなった。高校の日本史で習ったことを記憶されている方もいらっしゃると思うが、藤原氏の4兄弟がすべて没したのである。聖武天皇は8月13日の詔でこの不幸は「まことに朕の不徳の致すところである。百姓の正業が成り立つように、天下の今年の田租と公私の出挙稲の滞納額を免除する」(61ページ)と指示された。現代に直して言うと、税金を取らないだけでなく、滞納分も追徴しないということである。

 餓死者や病死者が出れば田は荒れ、そうなれば田租も減少するし、農民に貸し付けた稲も戻ってこない。中央政府は天平6年に通達を出し、国家が所有している官稲を国司に無利息で貸し出し、国司はその稲を農民に出挙、すなわち利息付きで貸し付けてもよいとした。そのような官稲は、各国の郡ごとに設けられている正倉に備蓄されていた。農民からとる利息が国司の収入となることを認めたうえでの措置であった。このような政策は天災による痛手をいやすために、農民を督励するよう地方行政官である国司に奮起を促すことを目的としていたが、それが実際に効果を上げ、農民たちに利益を与えたかは疑問である。
 とにかく、聖武天皇は窮民救済の具体策を次々に推し進められる一方で、神仏に頼るために様々な宗教的な行事を行った。この年、10月26日には、大極殿において、『金光明最勝王経』の講説を元日朝賀の儀に準じて盛大に催し、それ以後、天然痘の流行は下火になったのである。

 この年の年末に天皇は大倭国を大養徳国と改称した。基金や疫病の流行とともに、聖武天皇の気がかりであったのは人心であったと著者は推測する。この改称には、「災異に打ちひしがれ、あるいは生きる気力を失った天下の民をいかにして救えばよいかという天皇の苦悩が滲み出ている」(64ページ)という。天皇は物心両面を視野に入れた国家的事業を模索されてきたが、その結果として2つのプロジェクトを構想された。一つは、全国に釈迦を本尊とする国分寺を建立して、民に仏教思想を啓もうすることであり、もう一つは、新たな都を作り、その都の国分寺に廬舎那大仏を造立することであった。
 「天皇は胸中の構想を具現化するために遷都を決断した。莫大な費用を覚悟しなければならないが、人々は動かす12月ことができる。国力の疲弊した直後での遷都が無理な計画であり、失政だったことは、天皇がのちに自覚するところである。」(64‐65ページ)
 しかし、疫病が流行した後で、都を移そうとするのは、比較的理解しやすい発想である。むしろ巨大金銅仏を造立することのほうが問題ではないかと思うのだが、著者は東大寺の内部の人であるから、そういう風に考えないということであろうか。

 恭仁宮に遷都した天平13年(741)2月14日に、聖武天皇は国分寺・国分尼寺建立の詔を出された。その趣旨は、①天平7~9年の干ばつ・飢饉・疫病による極度に疲弊した天下万民の精神的支柱になることを目指して、国ごとに国分寺・国分尼寺を建立する。②立地は人々が集まりやすい勝地を択ぶ。③国分寺は寺号を「金光明四天王護国之寺」とし、20人の僧侶を置く。国分尼寺は寺号を「法華滅罪之寺」とし、10人の尼僧を置く。④毎月の六斎日は海も山も禁猟とする。
 国分寺の建立をめぐっては最近、須田勉さんの研究が出ているので興味のある方は、そちらをご覧ください(この書物の巻末の参考文献には挙げられていないので、注意を要する)。森本さんが重視しているのは、国分寺・国分尼寺が地域住民が参集しやすい場所を選んで建てられていること、国分寺の僧侶の定員が決まっているので、それらの僧侶の教育が必要となるはずであることの2店である。六斎日というのは1か月の中の8・14・15・23・29・30の6か日のことでこの日は、潔斎して心身を清浄に保つことが求められる。「国分寺建立は単に国家鎮護のためばかりでなく、一般の人々に対して、仏教思想を啓蒙する役割があった。つまり天皇は国分寺を人間教育の場にしようとしたのであった。」(68ページ) 人々が参集しやすい場所を選んで建てられたことの理由の一つがこの点に求められる。

 国分寺・国分尼寺の創設とともに聖武天皇が構想したもう一つのプロジェクトは、新都を建設して、そこに廬舎那大仏を造立するというものである。しかし、それ以前に処理しなければならない問題があった。それは口分田と墾田が混在する中で、墾田が荒廃しているという事実で、改めて国家が土地問題に取り組む必要があることを認識させるものであった。そこで、天平15年(743)に聖武天皇は墾田永年私財法を発布した。これにより公地公民という律令の定めた原則が崩され、墾田の私有権が認められたのである。この結果、公民籍を持たない浮浪人が墾田の所有者となる道が開けたことを森本さんは強調している。

 その後、聖武天皇は近江の紫香楽宮に行幸され、天平15年10月15日に廬舎那大仏造立の詔を出された。仏法の威霊の力をもって国家を平穏に保とうというのである。国分寺の本尊が釈迦仏であるのに対し、総国分寺の本尊は廬舎那仏であるのは、聖武天皇の仏教観に基づくものだと説明されていて、それはその通りなのだが、なぜそうなのかは、もう一つはっきりと説明されていない。聖武天皇が華厳経における菩薩に自らをなぞらえていて、その菩薩を導く廬舎那仏にすがろうとしているのだということのようであるが、今一つすっきりしないところがある。
 もちろん、天平(745)4月27日に、大規模地震が発生し、このため、聖武天皇は周囲の勧めに従って都を平城京に戻した。しかし、それでも大仏の造立はあきらめず、平城京の東山麓にある大倭国金光明寺→東大寺において造立事始めの儀を行ったのである。
 森本さんは東大寺の大仏造立には浮浪人対策の大規模事業という意義があるとしているが、国分寺・国分尼寺の建立についての同様の意義があるはずである。それにしても、多くの国分寺が場所や建物が変わっても、現在まで続いているのに、国分尼寺のほうはほとんど廃絶しているということは、考えさせる問題ではないかと思う。
 華厳経というのは、日本よりも、(特に新羅時代の)朝鮮で重んじられた経典で、それが大仏造立の理論的な根拠になっているというのは興味深い問題である。(日本の仏教信仰の中で、一般にもっとも重んじられてきた経典は法華経である。) この問題、大仏と新羅の関係については、この本のもっと後のほうで考察されているので、その時にまた触れることにしよう。

 
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山内譲『海賊の日本史』

7月7日(土)曇り

 6月30日、山内譲『海賊の日本史』(講談社現代新書)を読み終える。表題が示すように、またこの本の一番最初のところに書かれているように「日本史上に現れる海賊の歴史をたどっ」(3ページ)た書物である。「海賊」という特定主題に対象を限定しているので、取り上げる時代がかなり広がっていても、このような取り組みは簡単そうに思われるがそうではないと、著者は言う。「海賊」と聞いて浮かぶイメージが人によって異なるからである。

 荒っぽくまとめると、現在使われている海賊という言葉には2つの意味がある。日本史上に実在した海上勢力についての呼び名というのが一つ、もう一つは、パイレーツを含めて世界各地に幅広く存在した、あるいは今なお存在する、海上で非法行為をなす武装勢力の総称である。後者を除外してしまっても、まだ問題は残る。なぜならば、日本の歴史の中で海賊と呼ばれた人々の行為は時代と地方によって異なるし、同じ人物あるいは集団がある時は法律の枠内で活動し、別の時には無法者となるという例もあるからである。

 そういうわけで、この書物の序章では、彼らの活動が最も活発であった戦国時代の瀬戸内海の様相が検討される。そして著者が海賊について把握しているおおよその姿を示したうえで、『海賊の日本史』がたどられることになる。目次を紹介してみよう:
はじめに――海賊とはなにか
序章   海賊との遭遇
第1章  藤原純友の実像
      1 純友以前
      2 承平の海賊
      3 天慶の乱
第2章  松浦党と倭寇
      1 平氏をささえた海上勢力
      2 「党」と一揆契諾
      3 海賊と倭寇
      4 海での生活
第3章  熊野海賊と南朝の海上ネットワーク
      1 薩摩の城を攻める海賊
      2 熊野灘の海賊
      3 熊野山と海賊
第4章  戦国大名と海賊――西国と東国
      1 瀬戸内の海賊
      2 北条氏・武田氏の海賊
      3 海賊から見る西と東
      4 海賊たちの転身
終章   海賊の時代
      1 海賊像の変遷
      2 『海賊』のニュアンス
      3 海賊たちの遺したもの

 今回は、以上のうち、第2章までを取り上げていくことにしよう。
 序章についてはすでに簡単に触れたが、海賊が船舶や旅人を襲って金品を強奪したという記録はあまり残されていないという。そういうことがなかった、あるいは少なかったというのではなくて、「あまりに当たり前すぎて、逆に記録に残されないから」(16ページ)であるという。その乏しい史料からわかることの1つは、瀬戸内海の海賊には狭い海域で活動し、通行料の徴収をこととする小規模で土着的なものと、瀬戸内海を広範囲に活動し、船舶に上乗りなどの行為によって警護料を徴収する有力海賊という2種類があったということである。上乗りはもともと、有力海賊の関係者が実際に船に乗り込むという形で行われていたが、後にはその代わりに「免符」「切手」など様々な名称で呼ばれる通行許可証のようなものを渡すという方法が出来上がったらしい。「免符」や「切手」を航行者に与えるに際しては、警固料が徴収され、それらは帆別料、駄別料、関役、津公事など様々な名称で呼ばれた。また、これらの通行許可証の代わりに、村上氏の家紋の入った旗を渡すようなこともあったという。このような旗はいくつか現存しているそうである。

 第1章では、平将門と東西呼応して中央政府に対する反乱=承平・天慶の乱を起こしたとされる藤原純友をめぐる近年の研究を踏まえて、彼がある時期までは海賊を取り締まる側に属していたことを明らかにし、その彼がなぜ海賊の側に身を投じたか、さらに彼の中央政府に対する姿勢などが論じられる。純友は承平海賊の鎮圧に功績をあげたが、その軍功が認められなかったために、反乱に至ったこと、関白になった藤原基経は純友の大叔父であり、その出自から政府との妥協をはかろうとしたのであるが、部下の暴走に引きずられて反乱に突き進んだと述べられている。
 著者は瀬戸内海とその周辺を主な研究対象としており、純友の活動した範囲についての考察など現地の事情をよく踏まえて取り組まれている。ところで、野口実『列島を翔ける平安武士たち』では、平将門の乱の平定に活躍した桓武平氏に属する坂東武士たちが<水軍>的な性格をもっていたとされること、彼らの一部は九州に移って活動したとされている。このような<水軍>的な性格は、ほかならぬ平将門にもみられたのではないか、とすると、著者のように将門と純友を対比的にとらえるのではなく、両者の共通点を掘り下げるほうが面白いのではないかという感想も出てくる。

 第2章では、鎌倉~南北朝時代の西海(九州西方海上)における松浦党の活動が主な関心事になる。松浦党の名が最初に現れるのは『平家物語』であるという。平清盛は瀬戸内海の航路の整備に意を注ぐなど盛んな海上活動を展開したが、それを支えたのは北九州の山鹿(山賀)秀遠、備後国鞆(広島県福山市)を拠点とする額(ぬか、史料によっては奴賀)入道西寂、阿波の有力者民部大夫重能ら各地の海上勢力であった。京都を追われた平氏が意外に長期間にわたって抵抗を続けることができたのも、瀬戸内海や九州の武士たちとその水軍力の支えがあってのことと考えられる。松浦党もそのような海上勢力の一つと考えられるが、必ずしも平氏一辺倒というわけではなかったらしい。最終的にこの戦いは源氏の勝利に終わるが、阿波の重能の裏切りとともに、伊予の河野氏を中心とする源氏方の海上勢力が次第に力を伸ばしていったことも大きな要因である。これらの海上勢力が「海賊」と呼んでよいような活動をしていたという証拠は見当たらない。海辺部に拠点を持ち、そこでの活動によって水軍力を蓄えてきた在地領主というのが妥当であろう。

 松浦党というのは、九州の西北部に位置する松浦地方を主たる活動の場とした中小武士団の総称である。松浦党の歴史は平安時代から戦国時代までに及ぶが、特に注目されているのは平安・鎌倉時代に見られた党という特異な武士集団の成立とその活動、南北朝時代に結ばれた広範な一族構成員による一揆契諾、さらに前時代を通じて見られた、漁業や交易など海に関わる活動である。
 そのように書いているが、この書物では「党」という独特の武士団の定義や性格についてはほとんど触れていない。「党」について、手元の角川日本史辞典は惣領の統制力のもとに結合した武士団で、例外的に松浦党のように共和的連合の例もあったと記している(私の持っているのは古い版なので、現行版では書き改められているかもしれない)が、安田元久は『武蔵の武士団』で、惣領・庶子の関係も明らかでない共和的結合を保っている武士団という定義をしている。安田は「党」は武蔵七党というように、武蔵にしか見られないとしているが、角川日本史辞典には紀州の湯浅党、隅田党の例を挙げている。このように「党」と呼ばれる武士団が散在しているのには何か理由があるかもしれず、しかもその理由が武士(団)の海上活動と関係するかもしれないので、さらにこの問題を掘り下げてほしいという気がする。
 詳しいのは一揆契諾の方である。「一揆契諾というのは、一族のものが共通の利益を守るために(後には松浦党以外のものも松浦一族を名乗るようになるが)、寄り集まって契約を結ぶことで、南北朝時代を中心に何回にもわたってこの契約が結ばれたことが知られている。」(78ページ) 意思決定に際して「談合」を行い、多数決によって行動の統一を図るという内容は共和的と言えるが、近年ではこのような性格は松浦党の本質にかかわるものではなく、鎌倉時代から南北朝時代にかけての松浦党の変質の中で出現したものだという説が有力なようである。このあたり、さらに研究の深化が望まれるところであろう。

 さて、松浦党は海賊かというと、そのように呼んだ例はあまり見当たらないが、海上での非法行為を働いた形跡はあるという。漂泊船やその積み荷を持ち主に返さずに私物化するのは非法行為とされたが、実際には漂泊地の住民が私物化する例は多かったと推測される。これは瀬戸内海を航行する船から通行料を徴収することが非法とされたのと似通う事例であるという。
 また松浦党は倭寇かというと、日本国内での所領の確保に全力を挙げていた松浦党が倭寇になったとは考えにくく、村井章介さんが論じているように「松浦党のもとにある住民層が戦乱や飢饉などによる社会的混乱時に、松浦党のくびきから離れて「境界人」としての特性を発揮したとみるべきだろう」(94ページ)という。
 それでは松浦党の人々は日常的にはどのようなことを生業としていたかというと、松浦党の一派であった青方氏の残した『青方文書』によると漁業と製塩、さらに船材を供給するための船木山を所有し、場合によっては造船も行っていたようである。

 以上、初めの方の部分だけしか紹介・検討できなかったが、新たに得た知見が多く、日本史を海から見直していくことの意義を教えられた一方で、まだまだ解明できていないように思われる謎も見いだされ、両方の意味で読みごたえのある書物ではないかと思う。

森本公誠『東大寺のなりたち』(2)

7月6日(金)雨が降ったりやんだり

 この書物は東大寺の僧として、この寺院の歴史を内側から知り、探索するようになった著者の体験と関心を語る「はじめに」の後、次の6章から構成されている:
第1章 東大寺前史を考える
第2章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
第3章 宗教共同体として
第4章 廬舎那大仏を世界に
第5章 政争のはざまで
第6章 新たな天皇大権の確立
 前回は、第1章の内容を見た。そこでは、聖武天皇が幼くして世を去った基親王の菩提を追修するために建立した山房がさらに国家平安を祈るための寺院となり、大養徳(大和)国の国分寺である金光明寺に発展した経緯が語られていた。今回は第2章を取り上げる。

 第2章「責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観」は、まず聖武天皇が巨大な廬舎那仏像の造立を発願されたことの理由の探索からはじめられている
 日本の古代国家は、天智称制3年(663)に白村江の戦で敗戦して以来、中国(唐)にならって律令体制を採用しようとした。壬申の乱(672)の勝利者である天武天皇は日本独自の律令の制定に取り組むとともに、皇位継承をめぐる権力闘争を回避する手段として天皇の神格化を図った。この2つの流れは、その後も継承され、天武天皇の孫である文武天皇の時代に「大宝律令」が制定された。当時の宣命には天皇の統治権の由来は皇祖神にあり(いわば王権神授説である)、統治の責任を皇祖神に対して負うという考えが盛り込まれている。
 律令制の思想的な基盤をなしているのは「経史」である。「経」は儒教の経典、「史」とは中国古代の歴史書である。これらは中国の権力者たちが長年にわたり培ってきた統治のための哲学と経験則であり、これらを古代の日本は受け継ぎ、帝王学の内容としたのであった。
 聖武天皇は即位後、次々と新しい政策を出しているが、その内容は帝王学として学んだことを実際の政治に生かそうとするものであった。これらの政策は、罪人たちの刑罰を軽減したり、病人に医療を施したりという徳治主義的なもので、その背後には国家を家族になぞらえ、君主は父母として民の面倒を見るべきであるという擬制的家族国家観があった。これは中国の影響によるものである。
 さらに天皇は官人の綱紀粛正と官僚制度の改革を断行し、その過程で保守派の長屋王らを排除していった。このように聖武天皇は儒教的な徳治主義の政治を推進したが、その一方で「釈教」と総称されていた仏教についても一定の配慮を怠らなかった。
天皇は即位2年の神亀2年(725)に社寺の境内が穢臭に満ちているようでは神仏を敬う心は生まれないとして、国司の長官に社寺の境内の清掃を命じた。その際に、寺院については清掃に加えて『金光明経』を読誦して国家平安を祈らせるように、この経典がなければ新訳の『金光明最勝王経』でも構わないと明示した。『金光明経』には君主がその主権を神から与えられているという仏教による王権神授説的な政治思想が含まれているという。聖武天皇はこの考えに深く心を動かされたようである。

 基親王がなくなった翌年、神亀6年(729)は、2月に長屋王の変が起こり、8月には年号が天平と改元され、藤原光明子が皇后となった。〔藤原氏による権力の掌握が進んだと理解することもできる。〕 その一方で、班田収授法に基づく口分田班給が全面的に見直され、経済と国民生活に直接影響の及ぶ改革も進められた。
 このように多忙を極めたはずの時期に、聖武天皇は学習することを怠らず、中国文化の学習に励んでいる。すなわち、天皇31歳の天平3年(731年)には、六朝時代から唐代にかけての詩文集から145編を選んで書写している。正倉院に現存する『雑集』がこれで、2万余字に及ぶ長大なものだという。
 『雑集』に書写された詩文は仏教関係のものが多いが、その中で唐代の僧釈霊実の作品が30首収められていることが注目される。30首の中には開元5年(養老元年、717)と年紀が記されたものがあり、ほぼ同時代の作品といってもよい。森本さんは養老2年(718)に帰国した遣唐使一行に加わっており、大安寺造営の責任者に任じられていた僧侶の道慈が、釈霊実の詩文集を日本に持ち帰り、また聖武天皇に様々な新知識を伝えたのではないかと推測している。「『雑集』の中に、最新の中国仏教思想が盛り込まれている詩文を採録したことは、仏教思想を中国と同時代的に受容しようとした聖武天皇の意思を感じさせる。」(50ページ) しかも、この『雑集』の中には華厳経と廬舎那仏信仰に関わる釈霊実の詩文が含まれているという。既にこの時期に、聖武天皇は華厳経についてのかなりの知識を持ち、廬舎那仏の本質についての認識を深めていたことが知られるという。

 聖武天皇は、このような自身の研鑽と治世の実績で自信を得たのか、天平4年(732)正月の朝賀の儀に当たって、冕服(べんぷく)という中国の皇帝が身につけるのと同様の冕冠と礼服を着て臣下の拝礼を受けた。〔52ページに図が示されているが、横山光輝の漫画で中国の皇帝が着ているのと同じ服装だというのがわかりやすいのではないか。〕
 ところが、この年、干ばつが起き、それを自らの不徳の結果だと認識した聖武天皇は天神地祇をまつり、また罪人に減刑を行うなどの措置を講じるが、干ばつの結果としてその翌年に起きた飢饉を防ぐことはできず、天平6年(734)には大地震が起きた。これらのことから、天皇の気持ちはますます「相手の立場に寄り添って考える」という仏教の思想に近づいて行ったのではないかと著者は論じている。
 「かならずしもこれまでの律令政治の指針を捨てるということではないが、天平6年に至って、仏教を最上のものとして選択し、政治の基軸を仏教に移すと決断したのである。ときに34歳であった。これがその後に苛烈を極めた天災と疫病、そして何よりもそうした天変地異は為政者の政治が悪いからだとする災異思想の呪縛との戦いで、天皇の心の支えとなるのである。」(55‐56ページ)

〔もう少し、先まで紹介したほうがいいのだが、明日(=7日)に、腸の内視鏡検査を受けることになっていて、バタバタしているので、今回はここでやめておくことにする。 それで、明日はこのブログの更新ができるかどうかわからないし、また出来ても、皆様のブログを訪問する余裕ができそうもない。失礼をあらかじめお詫びする次第である。〕
 

森本公誠『東大寺のなりたち』

6月29日(金)晴れ、風が強い

 6月25日、森本公誠『東大寺のなりたち』(岩波新書)を読み終える。著者はイブン・ハルドゥーンの研究・翻訳で知られるイスラム史家であり、2004年から2007年にかけて東大寺大218世別当・華厳宗管長をつとめた僧侶でもある。イスラム史研究家による仏教寺院の歴史研究というのは、少し戸惑いを感じさせるところがあるが、正倉院御物の中には西域に由来するものもあり、東大寺の大仏造立はアジアの広い地域に根を下ろしていた仏教界の一大事業であったのであり、また著者が昭和24(1949)年以来70年近く東大寺の一員として過ごしてきたことから言えば、東大寺のなりたちについて語るのにこれ以上にふさわしい著者を見出すことは難しいともいえる。

 その著者が入寺して以来の僧侶としての修行の次第について触れながら、日本の歴史の中で東大寺が担ってきた役割を語る「はじめに」が読みごたえがある。とくに東大寺の建立や復興に尽力した人物の名を記した東大寺上院修中過去帳の紹介と、それを読み上げる役を果たした経験が語られているのが印象的である。この文書の初めの方の写真がⅳページに掲載されているのが、いかにも東大寺の内部の人間の著書らしく感じられる。〔東急東横線の駅名で知られる祐天寺にその名を遺した祐天上人も江戸時代の東大寺再建に尽力した僧侶であるが、その名もこの過去帳に記されているのであろうと思うと、印象がより深くなる。〕

 以下に紹介するこの書物の目次から明らかになるように、著者は『東大寺のなりたち』をかなり長い時間枠の中でとらえようとしており、この時間枠の中で東大寺はその性格を変化させ続けた。このためこの書物は(相当量の情報を省略していることも明らかではあるが)かなり多くの内容を含んでいる:
第1章 東大寺前史を考える
 1 山房の時代
 2 金鍾・福寿寺の時代
 3 大養徳金光明寺の時代
第2章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
 1 学習の時代
 2 政治の真価とは何か
 3 仏教思想による民心の救い
第3章 宗教共同体として
 1 天皇の出家と譲位
 2 寺院と墾田地
 3 寺院形態への模索
 4 国分寺と東大寺
第4章 廬舎那大仏を世界に
 1 開眼供養会へ向けて
 2 大仏開眼会の盛儀
 3 新羅はなぜ大使節団を派遣したか
 4 聖武太上天皇の晩年
第5章 政争のはざまで
 1 権謀術数をめぐらす仲麻呂
 2 仲麻呂の排除
 3 称徳天皇重祚
 4 政争ふたたび
第6章 新たな天皇大権の確立
 1 仏教界の綱紀粛正
 2 仏教勢力の排除
 3 藤原種継暗殺事件
 4 平安京で構想新たに

 第1章ではまず、東大寺の前身となる山房が、聖武天皇の皇太子の1歳にも満たない年齢での死後、その冥福を祈るために建立されたものであることが語られる。この山房がその後発展して東大寺の前身寺院である金鐘寺、さらに金光明寺になったと主張したのは家永三郎(1913‐2002)であるが、平安時代後期に編纂された『東大寺要録』のなかの記述から、山房→金鐘寺→東大寺という展開が東大寺の内部では言い伝えられていたのではないかと推測する。『要録』には、天平5年(733)に聖武天皇が良弁のために羂索院を創立し、この堂舎が古くは金鐘寺と呼ばれ、東大寺最古の建物であることが記されている。

 羂策院は後に法華堂(三月堂)と呼ばれることになったが、平成22年(2010)年度から24年度にかけて行われた法華堂須弥壇の解体修理の際に行われた調査の結果、この堂舎が730年ごろに創建されたという可能性が高くなってきた。また、もともとの「山房」がささやかなお堂ではなく、複数の堂舎をもつ寺院として創設されたことも別の資料から確認できるという。さらに「山房」と呼ばれていた寺院には、後に香山寺として知られることになる薬師信仰の寺も含まれていたという。

 天平8(736)年ごろまでは山房は聖武天皇にとっては観音信仰の、光明皇后にとっては薬師信仰の、さらに2人にとっては阿弥陀信仰の、それぞれ亡き皇太子を偲ぶ霊場であったことが確認できる。ところが、その後、その考えに変化が起きたようだという。正倉院文書の中に、福寿寺と金鍾山房とが皇后宮職に関連することを示すものがあり、山房のおそらく一角が解消されるような事件が起きたことを推測させる。光明皇后はその政治的な立場との関係で深く仏教を信仰されていたが、天平10(738)年には皇后宮職内に「写経司」が成立する。これは阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)の立太子という政治的な危機を招きかねない事態に際して、写経という形で国家の安定を図った結果と考えることができる。一方、天平10年の立太子直後には、金鍾山房と近接して福寿寺が造営されたという記録が正倉院文書に残るが、他にこの寺にかかわる文書はなく、なぞの寺である。
 さて、この書物では(それを反してこのブログでも)金鍾寺、金鐘寺という2通りの書き方がされてきたが、この2時は同音だが、意味は異なる。聖武天皇も光明皇后も自ら経典を筆写されるなど仏教を深く信仰されていたので、命名の根拠は経典にあると考えられ、その点からみると金鍾寺の方が正しいというのが著者の考えである。金鍾は黄金の瓶であり、旧訳の華厳経に現れる(『大正新脩大蔵経』では「鐘」になっているというからややこしい)。いずれにしても、金鍾山寺という命名には聖武天皇の華厳経理解の深化がうかがわれるという。

 さて聖武天皇は天平12(740)年に恭仁宮に入り、ここを新都と定める。〔この書物には記されていないが、山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)にある。〕 『続日本紀』によると、天平13(741)年には藤原不比等家が一族の広嗣の謀反(天平12年)を詫びて、食封(じきふ)5000戸を天皇に返上すると申し出る。しかし天皇はそのうち2000戸は旧来通り藤原家にとどめ、残り3000戸は諸国の国分寺に施入して、天平9年3月の詔で指示した丈六釈迦仏の造像費用に充てることとした。〔恭仁京は当時の右大臣橘諸兄の本拠地であったといわれ、このあたり、藤原氏と橘氏の激しい対立が推測される。〕 丈六釈迦仏は、各国分寺の本尊となるべき仏像である。この時代、全国は約60国に分けられていたので、それぞれの国分寺に50戸ずつを支給すると3000戸となって勘定が合うのである。

 天平9年に大倭国を大養徳(やまと)国と改めさせ、同12年には諸国に『法華経』の書写と七重塔の建立を命じた。これらは疫病大流行ののちの諸国の安定を図り、また藤原広嗣の乱の鎮定を祈るものでもあったが、現実には諸国国分寺の建立は遅々として進まなかった。〔それでも最終的には何とか形がつくのだから、大したものと言わなければならない。〕 しかし、天皇の直轄地ともいうべき大養徳国(大和国)の場合は事情が違い、しかも諸国国分寺が新築を原則としたのに対し、大養徳国混交名字の場合には、既存の福寿寺と金鍾寺を転用することにした。しかもこの寺は大養徳国一国のための国分寺ではなくて、天皇家が係わる特別な寺院と位置付けられた。しかし国分寺であるからその金堂には前記のように丈六釈迦像が置かれていたはずで、そのことは正倉院文書から確認できるという。ところがその丈六堂の痕跡は全く知られていない。著者も書いているように、現在の大仏殿のあたりしか適当と思われる場所は見つからない。

 うち続く天変地異に生きる気力を失った天下の民を救う手段として、聖武天皇は全国に国分寺を建立するとともに、新たに都と定めた恭仁京に盧遮那大仏を造立することを計画された。〔疲弊と不安とで仕事どころではないという人も少なくなかっただろうが、巨大プロジェクトを起こすことによって人々に仕事を与え、一時的にせよ生計が立つように計らったということである。〕 当初、恭仁京で大仏造立を企てられたが、計画を変更され、近江国甲賀郡紫香楽宮で大仏造立を発願された。天平15年10月15日のことである。天平17年正月には紫香楽宮を新京と宣言、この年4月には、のちに東大寺大仏の大仏師として活躍する国君麻呂を6階級特進させて、従五位下に叙した。「おそらく原型となる塑造の大仏造立に功績ありと認められたからであろう」(32ページ、著者は「国君麻呂」と表記しているが、「公麻呂」という表記のほうが一般的である。当初、無姓であったが、後に国中連となる)。

 ところが突如大地震が起きて、人々は紫香楽宮から恭仁京へ、さらに平城京へと去っていき、聖武天皇は周囲の人々の勧めもあり、平城京に都を戻さざるを得なかった。それでも天皇は大仏造立を諦めることなく、最終的に現在の東大寺大仏殿の地に盧遮那仏像を本尊とする堂宇を建てることになったと考えられる。盧舎那仏を本尊とするということであれば、金鍾寺には、華厳経講説の伝統が根付いていた。
 この辺りは、記録の裏付けのない、たぶん、こうだったのだろうという推測の世界であるが、丈六堂の本尊の金銅仏は大量の銅が必要となる盧遮那大仏像の材料にされ、他の脇侍菩薩像については、羂索堂に移されることとなった。天平17年8月23日に大仏土座築造始めの儀式が行われ、造立工事が再開される。天平18(746)年には大仏像の原型となる塑造の廬舎那仏像の燃灯供養が行われた。天平19(747)年に大養徳国はもとの大倭国に改まった。東大寺という字名が分権の上に現れるのはこの年の12月からであるという。いよいよ本格的な東大寺の歴史が始まることになる。

 結局、今回は東大寺の「前史」について述べた第1章の紹介で終わることになってしまった。東大寺には多少なりとも縁があるので、細かいところに興味が集中してしまって、余計なことを書きすぎたかもしれない。言い訳のようになるが、この本はどちらかというと、後半のほうがおもしろいので、前半は退屈だと思われても、そこは我慢してお付き合いいただきたいと思っているところである。 


 

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(11)

6月15日(金)雨

 秦の始皇帝は統一後に5回、全国の巡幸を行っている。その姿を見て、項羽が「彼取って代わるべし」(あいつに取って代わりたい)と言い、劉邦は都の咸陽で始皇帝の行列を目にして「嗟乎(ああ)、大丈夫当(まさ)に此(か)くの如くなるべきなり」(ああ、男とはあのようであるべきだ)と嘆息したという。秦の時代に地方役人をしていた喜という人物の墓から出土した木簡には秦国の歴史と被葬者である喜の履歴とを併記した『編年記』が記されていたが、そこには始皇帝28年(前219年)の項に皇帝の2度目の巡幸が喜の務めていた地方を訪問したことが記されている。このような出土史料によって、伝世史料に記された人物伝の背後の事情について何か知ることができないだろうか。

 始皇帝が没したのは、5度目の巡幸の最中であった。『史記』始皇本紀によると、始皇帝37年(前210年)、始皇帝は黄河の渡し場である平原津(今の山東省平原県の南)で病を発し、次第に重態となった。死期を悟った彼は、長子の扶蘇にあてた遺詔を用意させた。次期皇帝と定めたのである。その遺詔は巡幸に随行していた側近の宦官である趙高の手元に留め置かれた。
 そして七月丙寅の日に、始皇帝は沙丘平台(さきゅうへいだい、今の河北省広宗県太平台)で没した。しかし、丞相(総理大臣)であった李斯はこの死を秘密にすることとし、彼が生きているかのように装わせて巡幸を続けさせた。暑さで遺体が腐臭を放つようになると、塩漬けにした魚介類を車に積み込み、臭いを紛らわせた。〔どの程度まで秘密にできたのかとか、塩漬けの魚をどこでどうやって手に入れたのかとか、疑っていくときりがない。要するにこれは説話であって、歴史的な事実かどうかには疑いが残る。〕 
 趙高は自分が書や法律のことなどを教えた始皇帝の末子胡亥を後継に立てようとし、李斯・胡亥と共謀し、もとの遺詔を破棄した。そして新たに遺詔を偽造して胡亥を太子に据え、本来皇帝となるはずだった扶蘇を自殺させた。都の咸陽に戻ると胡亥は父帝の喪を発して二世皇帝となり、以後趙高を重用した。

 始皇帝の死や胡亥の即位については、北京大学に所蔵されている漢時代の木簡文書『趙正書』にも記述がある。この書は5度目の巡幸の際の始皇帝の発病から胡亥と趙高の死までの話をまとめたものである。「趙正」とは始皇帝のことで、この書では彼を「秦王趙正」と呼んでいる。皇帝として認めていないのである。始皇帝の姓名は嬴政(えいせい)とされることが多いが、始皇本紀には、彼の名は政、姓は趙氏とあり、楚世家にも彼のことを「秦王趙政」と表記する。これは始皇帝が趙国で生まれたことによる呼称であるなどと解釈されている。名の「政」と「正」の違いは同じ音に別の字を当てたということであろうか。

 『趙正書』は、『史記』の始皇本紀・李斯列伝・蒙恬列伝の記載と似通っている部分もあるが、大きく異なっている部分もある。そのうちの一つが、胡亥が後継者となった事情である。
 始皇帝は柏人の地(今の河北省隆堯県)で発病する。この点でも、始皇本紀と違いがあるというのはさておいて、病が重くなり死期を悟った始皇帝は、丞相の李斯を呼んで後継者について議論させようとする。ここでは李斯と馮去疾が始皇帝に胡亥を後継とするよう求め、始皇帝がそれを認めたということになっていて、『史記』の記述とは大きく異なる。
 その後の展開は、胡亥の意によって扶蘇と、その後ろ盾であった将軍蒙恬が死に追いやられ、胡亥を擁立した李斯も殺害されたこと、その胡亥も丞相・御史となった趙高に殺されたことなど、おおむね『史記』と一致する。ただ、趙高が張邯(秦の将軍で項羽に降った章邯を指す)によって誅殺された点は、『史記』とは異なっている。『史記』では趙高は、胡亥の後に擁立された子嬰らによって殺害されたことになっているのである。

 北京大学の漢簡は前漢の武帝の時代の後期から宣帝の時代にかけてのものと見られるので、時期を早く見積もれば、武帝期に書かれたとされる『史記』と同時代の文献ということになる。
 この両者のどちらが正しいか、あるいはどちらも間違っているのかを明らかにするのは現在のところでは困難である。研究者の関心は、むしろこの両者の記述の違いから当時の「歴史認識」の様相を読み取ることにある。
 例えば陳侃理(ちんかんり)は、始皇帝の本来の後継者が扶蘇であり、胡亥ではなかったというのは、秦に対して立ち向かった元の楚の人々の「歴史認識」であったとする。また、『趙正書』に見える胡亥への王位継承の事情も、『史記』に見えるものとは別の「歴史記憶」であり、漢書に秦初の歴史をめぐって多種多様な「歴史記憶」が混在し、競合しあっていたとし、これを「歴史記憶の戦争」と呼んでいる。〔戦争というのは穏やかな表現とは言えないだろう。多種多様な「歴史記憶」「歴史認識」が混在するのは当たり前であり、それを無理に一つにまとめようとするから、混乱が起きるのである。〕
 また工藤卓司は『趙正書』に描かれる構図が、漢の武帝の死の前後の状況に酷似すると指摘している。武帝は病となって死期を悟ると、まだ子供であった昭帝を太子に立て、武帝の没後は権臣霍光がこの幼帝を補佐した。一方で臣下の間で対立が生じ、先帝に重用された桑弘羊が誅殺されたりした。始皇帝と武帝、胡亥と昭帝、趙高と霍光、李斯と桑弘羊の立場が重ね合わせになっているというわけである。やはり『趙正書』がある種の「歴史認識」を反映したものであるというのである。

 このように『趙正書』は『史記』の記述を相対化するような視点を与えてくれる文献である。これまでの出土文献の研究の成果として『史記』の記述の正確さを強調する論調が強かったが、今後は『史記』の記述、特にここで取り上げたような説話に対しては少し距離を置く研究が求められるのではないだろうかという。

 「終章」で佐藤さんは「本書の目的は、中国古代史に興味を持った著者に、夏・殷の時代から、西周・春秋・戦国と始皇帝の秦を経て、『史記』が著述された前漢の武帝期のころまでの基礎的な知識や、新たな発見・研究の成果を紹介していくというものであった」(264ページ)と改めてこの書物の目的を確認する。まだまだ書き足りないこともあったようだが、予定された紙幅を使い尽くしたということで、最後にさらに最近の重要な考古学上の発見と、古代史をめぐる疑古と釈古の論争の問題についての最近の動きに触れている。

 武帝の死後、昭帝が即位するが、21歳で子がないまま没する。そこで霍光は武帝の孫である昌邑王劉賀を即位させるが、不行跡を理由として即位後わずか27日で帝位を剥奪される。西嶋定生は、廃位の本当の理由は昌邑王の直臣たちが権臣霍光を排除し、実権を自分たちの手中に収めようとクーデターを画策していたところ、それを察知した霍光が先手を打って新帝の廃位という手段に及んだということではないかと推測しているという。霍光は次いで民間で養育されていた武帝の曽孫病已(へいい)を宮廷に迎え入れて即位させた。これが前漢の中興の祖として知られる宣帝である。一方、劉賀は海昏侯に降格され、宣帝治下の神爵3年(前59年)に没した。
 その海昏侯劉賀の墓が、2011年に江西省南昌市新建区東北部で発見された。出土物には、被葬者の身分・来歴を示す文字資料が多く含まれていたほかに、「竹簡による書籍も多く出土しており、医書や方術書のほか、『論語』『易経』『礼記』『孝経』といった儒家の書が多く含まれて」(266ページ)いた。その中には『論語』の「知道篇」という現行本には含まれていない篇の一部が見える。このように儒家や孔子に関する文物・資料が多く出土し、中には今日知られているものとは違う情報を含むものもあるというのは、劉賀の廃位には何か別の事情があったのではないかという議論をよぶものである。さらに少し古い時代の出土文献と比べてみると、『老子』から『論語』への流行の移り変わりを読み取ることができるといえるかもしれないという。

 このように新しい史料の出土により、伝世文献に批判的な疑古派の主張が否定的にみられるようになってきたが、その一方で疑古派の厳格な史料批判を捨て去ることは危険であるという主張もなされるようになってきている。また釈古派の研究の基礎理論となっている二重証拠法についてもその反証不可能性をめぐる議論をはじめとして様々な問題点が指摘されているという。この書物では中国における中国古代史研究が文献史的な傾向が強く、その実証性において日本に後れを取っているように見える現状があることを述べてきたわけであるが、中国と日本の研究の傾向が将来において逆転する可能性もあることを説いて、終わっているのは、かなり強い印象を残す。将来の不可知性を示していることで、著者は自らの「歴史認識」のあり方を語ろうとしているようにも思われる。

 予定を超過する時間と紙幅を費やしてしまったのは、この書物がそれだけの魅力をもっているからであるが、そうはいっても難しく読みにくかったことも否定できない。自己評価はしばしば独善的なものであるとはいえ、中国の古代史についての私の知識と興味は、高校の授業で言うと「漢文」のレベルにとどまっており、「世界史」の域に達していないことを改めて実感させられた。「三星堆」をめぐる議論で少し取り上げられてはいるのだが、そもそも中国の歴史という場合の「中国」の範囲とその中での漢民族以外の民族の位置づけについて、もう少し掘り下げてみてもよかったのではないかという気がする。中国の王朝のほとんどが異民族による征服王朝であるといわれるだけにこの点は重要である。 
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