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本郷和人/門井慶喜『日本を変えた八人の将軍』

5月15日(金)晴れたり曇ったり

 3月30日、本郷和人/門井慶喜『日本史を変えた八人の将軍』(祥伝社新書)を読み終える。中世政治史の専門家で東京大学史料編纂所の教授である本郷和人さんと、推理小説を書く一方で歴史小説も手掛け、『銀河鉄道の父』で直木賞を受賞した門井慶喜さんによる歴史対話。坂上田村麻呂、源頼朝、足利尊氏、足利義満、徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜、西郷隆盛という8人の将軍と、将軍にならなかった2人の英傑=織田信長、豊臣秀吉を取り上げ、対談者2人のそれぞれの知識と想像力を傾け、最前線の研究成果から楽屋話まで出て縦横に語っている。
 面白くない訳がない書物であるが、ブログで取り上げることは遠慮してきた。日本史をめぐる啓蒙活動に尽力するという志はわからないわけではないが、本郷さんは少し本を書きすぎている(門井さんも同様)という印象があるので、自重を促したい気分もあるからである。

 この書物の「はじめに」で門井さんはこんなことを書いている。(推理作家であり、歴史にも豊かな知見をもっていたという点で、門井さんの先輩筋の)松本清張が、歴史学者(日本史学者)には読ませるような文章を書く人がいないと言っていたが、最近では小和田哲男さんをはじめ、専門研究家としても、啓蒙的な解説書の書き手としても、一流の書き手であるような歴史学者が見られるようになった。そしてそのような人物の代表的な存在が、本郷さんであるという。そして、その本郷さんと語る機会を得たのは、じつに楽しい経験であったと記す。

 文学(あるいは文章)と歴史とをどのように関連付けて考えるかというのは難しい問題である。夏目漱石は『文学論』の「序」において、「余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短きにも関らず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり」(岩波文庫版、上巻、18ページ)と書いている。「左」は『左伝』(『春秋左氏伝』)、「国」は『国語』、「史」は『史記』、「漢」は『漢書』のことで、それぞれ中国の歴史書である。
 よく言われることであるが、歴史は過去の戦いの勝者の記録であり、文学にはその戦いの敗者の気持ちが述べられているものが多い。だから、漱石が中国の歴史書を読んで、文学についての漠然とした定義を感じ取ったというのはどういうことか、考えてみる必要がある。
 漱石は彼が漠然と考えていた「文学」と、英国で言われている<文学>の違いに苦しんだというのだが、彼の留学先であった英国には、『ローマ帝国衰亡史』を書いたギボンとか、「イングランド史」を書いたマコーリーのように、歴史家であり名文家といわれた人がいるし、サッカリーのような歴史小説の名手もいた。考えるべきことはますます、たくさんあるのである。

序 将軍とは何か
 地位か人か
 ここでは「地位」と「人」をめぐる日本的な伝統を踏まえて「将軍」の性格が論じられる。ヨーロッパでは国王が生前退位することはごく普通に行われており〔2013年にオランダのベアトリクス女王がウィレム・アレクサンダーに、ベルギーのアルベールⅡ世がフィリップに、2014年にスペイン国王ファン・カルロスⅠ世がフェリペⅥ世に譲位している〕が、それぞれ退位後は普通の人になる。ところが、日本では歴史的に天皇が退位すると上皇となり、天皇以上の権力をふるうことが少なくなかった。
 門井さんは、将軍についても同じことで、足利義満や徳川家康はその職を退いても「大御所」として権力をふるった、平清盛も〔豊臣秀吉も〕将軍にはならなかったが、同じように職を退いてからも権力を維持したという。「将軍という地位に価値がないわけでは」ないが「人間に箔をつける装置」(17ページ)だったのではないかといい、本郷さんもその認識で間違っていない、少なくとも初期においてはそうだったのではないかと同意している。

 将軍は征夷大将軍だけではない
 前項の門井さんの発言に続ける形で、本郷さんは将軍は征夷大将軍だけではない、鎮東将軍、征西将軍など、いろいろある〔なぜか鎮守府将軍を取り上げていない〕、「実はその地位に実態があるわけではない、むしろ、その人物の実力を表わすために名称をつけている節があ」(17ページ)るという。
 門井さんは、源頼朝が征夷大将軍と右近衛大将に任じられているが、征夷大将軍の方が上位の地位かと尋ねたのに対し、本郷さんは、どちらが上位とは言えないと答える。近衛大将は常置の職であるが、征夷大将軍はそうではない。大将は大納言のうち2人が兼ねる職で、大臣に欠員ができた場合、大臣に昇任するという重要な地位である。征夷大将軍は別立ての職と考えるほうがいいという。門井さんは、とすると、貴族の側では近衛大将の方が上位だと考えただろうと納得する。
 平清盛は太政大臣になったが、(源頼朝は征夷大将軍と近衛大将)、足利尊氏と義詮は大納言で征夷大将軍、頼朝はなろうと思えば大臣になれたけれども、なろうとしなかったのではないかというのが本郷さんの推測である。これを受けて、門井さんが大臣をとったのが清盛、将軍をとったのが頼朝、尊氏、義詮、それに対し大臣と将軍という両方をとったのが義詮の子の義満という分類ができるという。

 言葉の意味から探る
 「将軍」の「将」は、「ひきいる」、「もちいる」という意味であるが、同じ意味の語として「帥」もある。中国では「将」も「帥」も同じくらいに使われているが、日本では「将」の方が圧倒的に多い。これは「将」が「勝」に通じると受け取られたからである。武家政治を否定した明治維新後は、「帥」を使い、天皇を「大元帥」とした。
 国土の広い中国では、将軍にもさまざまな格があり、それが重要な意味をもったが、日本では地位より人が優先されるので、そんな名称の格式にこだわる必要がなかった。
 最初に征夷大将軍になった坂上田村麻呂の場合は、まさに「将軍」であり、日露戦争の乃木将軍と同じように軍を率いて敵を倒すというイメージで考えていい存在であった。それが、源頼朝に始まる将軍との違いであった。

 将軍の権限
 坂上田村麻呂が征夷大将軍として東北に遠征した際に、蝦夷の軍事指導者アテルイ(阿弖流為)を捕虜として連れてくる。田村麻呂は朝廷に彼の助命を願い出るが、聞き入れられずにアテルイは処刑される。軍事常識として、処刑するにしても、助命するにしてもわざわざ都に連れてくる必要はない。それなのに連れてきたのは、田村麻呂にはそれだけの権限が与えられていなかったのではないかと門井さんが問う。
 7世紀の後半、天武天皇の時代に日本全国に「国」が置かれた。その後、都の東側に北陸道の愛発関(あらちのせき、越前、現在の敦賀市内にあったと考えられている)、東山道の不破関(美濃、現在の岐阜県関ケ原町にあったことが確認されている)、東海道の鈴鹿関(伊勢、現在の三重県亀山市内か)が置かれた。ということは、そこから東(関東)は中央政府の支配の及ばない、未開の地と考えられていたということである。そういう場所に遠征するのだから、指揮官の権限等も詳しく定められていなかったと考えるべきであると本郷さんは答えている。

 将軍に求められたもの
 将軍は多数の兵士を率いて軍事行動をとり、勝利を収めなければならない。兵士たちの規律を守り、かれらが脱走するのを防がなければならない。兵士たちの先頭に立って戦う必要はないが、かといって後ろで兵士たちの戦いぶりを眺めているだけでもいけない。「将軍には何よりも、兵士たちを戦う気にさせる、かれらの士気を上げることが求められた」(25ページ)と本郷さんは言う。

 幕府とは何か
 将軍の居所を「幕府」とよぶが、これはどういう言葉なのかと門井さんが問う。
 鎌倉幕府の御家人たち、あるいは江戸幕府の幕閣にとって、「幕府」は聞きなれない言葉であった。江戸時代の幕閣であれば、「柳営」という言葉を使ったであろうと本郷さんが答える。〔余計な話だが、徳川幕府の幕臣で構成する「柳営会」という親睦団体がある。小和田哲男さんがゲストとして出かけたところ、三河譜代ではなくて、もともと今川、武田の家臣だったという人の子孫が多かったので驚いたと、そのブログに書かれている。〕
 「幕府」は明治時代に学者たちが考えた学術用語だという。この言葉はもともと中国で、将軍が出征中に幕を張って軍務を執り行った陣営のことを呼ぶものであった。この場合、皇帝に伺いをたてなくても、一切を自分で決裁することができた。明治時代の学者はこの例を想起して、「幕府」という言葉を使ったのだろうと本郷さんは言う。

 門井さんの次の発言が面白いので全文引用する:
 「確かに、江戸時代の史料に眼を通していて、幕府という言葉は見たことがありません。「公儀」という言葉はけっこう出てきます。公儀は江戸幕府を指す固有名詞のようになりましたが、もともとは普通名詞でオフィスぐらいの意味ですね。
 幕府という語は、言葉としては矛盾を孕んでいます。本郷さんが述べたように、幕府の「幕」はいわゆる陣幕を指します。そして統率機能を持ち、移動性が高いという特徴があります。いっぽう、幕府の「府」は役所ですから、固定されて移動性がない。この矛盾した語がピタッとくっついているところにおもしろさがあると同時に、日本史における幕府の本質と変遷を表わしているように思います」(27ページ)。

 このあと、本郷さんが自著『承久の乱』(文春新書)とほぼ同時期に出版された、坂井孝一『承久の乱』(中公新書)が「後鳥羽上皇には幕府を倒す意思がなく、義時あるいは北条一族を倒すことを命じた」(28ページ)と論じていることについて文句を言っているが、これは本筋とは別に議論されるべき問題であろう。

 「序」で将軍とか、幕府とかいう言葉についての理解を整理したので、次回は第1章「坂上田村麻呂――すべてはここから始まった」に入る。すでに述べたように、同じ征夷大将軍でも田村麻呂の場合と、源頼朝の場合ではその性格はかなり違っている。その違いを明らかにするためにも、田村麻呂についてもっと詳しく知ることは必要であろう。 

 もう50年くらい昔になるが、大学の図書館で中国の歴史書(の和訳)に読みふけっていたことがあり、その時、『後漢書』の中に大樹将軍(馮異)とか、伏波将軍(後漢の水軍の将軍であるが、特に馬援を指す)とか、跋扈将軍(梁冀)とか、やたら「将軍」という言葉が出てきたことを思い出す。  
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黒田俊雄『王法と仏法 中世史の構図』

5月14日(木)晴れたり曇ったり

 今年3月に法蔵館文庫の1冊として刊行されたこの書物は、黒田俊雄(1926‐93)が1983年にまとめた論文集の増補新版(2001)に基づくものであり、実はまだ読み終えていないのだが、2001年版は読み終えたはずであり、著者による『太平記』論など見逃しがたい内容が含まれているので、改めて読み進めながら論評していくことにする。

 全体は4部に分けられ、13編の論文が収められている。それぞれの表題を紹介すると、次のようなものである:
  Ⅰ
顕密体制論の立場――中世思想史研究の一視点
王法と仏法
愚管抄における政治と歴史認識
日本宗教史上の「神道」
  Ⅱ
「院政期」の表象
軍記物語と武士団
太平記の人間形象
  Ⅲ
楠木正成の死
歴史への悪党の登場
変革期の意識と思想
中世における武勇と安穏
  Ⅳ
「中世」の意味――社会構成史的考察を中心に
思想史の方法――研究史から何を学ぶか

 それでは巻頭の論文である「顕密体制論の立場――中世思想史研究の一視点」から見ていくことにしよう。黒田は、1975年に発表された『日本中世の国家と宗教』のなかの論文「中世における顕密体制の展開」において、彼自身も含めてそれまでの中世史研究を支配していた武士中心主義、鎌倉仏教重視の考え方に異論を唱え、武士だけでなく公家や寺社の活動についても重視すべきこと、また天台・真言や南都の諸宗からなる顕密仏教こそが中世において支配的な仏教であったことを強調した。これには当然、異論や反論が寄せられ、それらの論評に対してこたえていくものとして、改めて書かれたのがこの論稿である。1977年に刊行された『現実のなかの歴史学』に収められたものであり、『王法と仏法』の1983年には収められていなかったが、黒田の死後、2001年の増補新版で付け加えられた。黒田の業績の特徴を理解するために、最も適した論文であると編集者が判断したためであろう。

 黒田は自説が思想史研究において従来見逃されてきた視点から中世の思想状況を見直すべく問題提起を行うものであるという。そして、宗教思想が中世思想のすべてではないとはいうものの、中世の日本において仏教と儒教〔儒教が宗教であるとする意見に対し疑問がないわけではない〕以外には体系化された思想がなかったことも無視すべきではないと主張する。そして中世の日本の社会と思想を見ていくうえで、宗教を中心に考えていくことは有効な方法であると論じるのである。

  1 中世顕密仏教研究の意味
 高校の『日本史』や『倫理』の授業を思い出してみればわかることであるが、中世日本の仏教は法然・親鸞・道元・日蓮らの新宗教を中心として論じられ、「顕密仏教は中世思想史ではむしろその旧時代性について指摘されるのが常である」(11ページ)。〔旧仏教の僧侶で言及されるのは明恵くらいであろうか。〕

 しかしながら、中世では顕密仏教こそが時代を通じて宗教の世界における支配的地位を保持していたことは疑いのないことであると黒田は指摘する。「鎌倉時代に新仏教が起こって宗教が一変したようにいうのはある程度は当たっているが、『旧仏教』なる顕密仏教の影が薄れたかのような理解があるとすれば、それは一面的に単純化され定式化された教科書によって普及された虚像でしかない。」(11‐12ページ) 
 黒田は、この時代の史料の多くが公武支配層や顕密仏教の僧侶によって残されたものであるという事実を指摘し、だから彼らに有利な記録が多いことは否定できないが、人々の生活の大半を支配していたのがこれらの人々の影響力であったことも確かだと論じている。思いだしていいのは、呉座勇一さんの『応仁の乱』が同時代の興福寺の高僧の日記を史料として書かれていることである。興福寺が顕密仏教の寺院であることは言うまでもない。また細川重男さんの『執権』には、「出家」と「遁世」は中世では意味が違っていて、「出家」というのは顕密仏教の僧侶になること、「遁世」は新仏教の教団の構成員になることであると記されていた〔つまり、佐々木四郎高綱は「出家」し、熊谷次郎直実は「遁世」したということである〕。

 また、顕密仏教は国家権力と緊密に結びつき、というよりもその一翼を形成するものですらあった。この後、この書物に登場する『愚管抄』の著者慈円は何度も天台座主になった高僧であるが、関白にもなった九条兼実の弟である。また『太平記』を読めばわかるが、持明院統と大覚寺統の両方の皇統がそれぞれ自分たちの陣営から法親王を送り込んで、天台座主に就任させていたこともこのことを裏書きするものである。
 したがって顕密仏教の内容と性格を明らかにすることは、中世の国家の特質とその支配イデオロギーを知るうえで不可欠であり、顕密仏教についての理解なしには公武支配層の思想を理解することは難しい。新仏教の祖師たちの教説はこの点をめぐってはほとんど必要ない(黒田は「禅宗を除いては」と書いているが、禅宗でも夢窓疎石のように権力と結びついた僧もいるし、道元のように権力や金持ちに近づいてはならないといった僧もいる)。

 顕密仏教の教理は精巧で難解なものであり、当時の民衆の生活とは無縁なものであるという議論もある。また思想史は民衆の思想史でなければならないという主張もある。しかし、当時の民衆の思考や論理だけを辿ろうとしても、わかることは少ない。「民衆にとっての思想史の真実は、むしろその上におおいかぶさっていた壮大な思想体系の重圧とのたたかいであったはずである」(13ページ)。その戦いの過程の全容を理解することなしに、中世の思想史を理解することはできないと黒田は考えている。

 顕密仏教の中世宗教史における中心的な役割を認めないのは、新仏教系の思想にこそ「中世的なもの」が典型的に見られるという判断があるからであろう。たしかに、新仏教系に「中世的なもの」が見られることは認められるが、同時代の顕密仏教がなおも「古代的」であったという論証はなされてきただろうか、また「中世的なもの」の発現を新仏教系の枠内にのみ留める論拠はどこにあるのだろうかと黒田は問う。

 顕密仏教体制が中世においてきわめて重要な支配的地位を占めていた事実を無視して、中世思想史を研究することはできないというのがこの書物の出発点である。

 今回は、最初の論文のそのまた最初の部分しか紹介できなかったが、次回以降できるだけ速度を上げて内容の紹介と論評に取り組んでいきたいと思う。 次回は、そもそも「顕密」というのはどういうことかをはじめ、より具体的な内容に入っていく。
  

細川重男『執権』(19)

5月1日(金/メーデー)晴れ

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権を築き、維持しようとした試行錯誤の(それゆえ悪戦苦闘の)歴史であり、著者の言葉を借りれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。
 「北条氏と鎌倉幕府」という副題をもつこの書物はそのような悪戦苦闘の中心にいた(鎌倉)北条氏がどのようにして権力を掌握し、直面せざるをえなかった政治課題に対処したか、その権力支配を正当化するためにどのような論拠を用いたかを、頼朝死後の権力闘争を勝ち抜いて幕府の最大の実力者になっただけでなく、承久の乱に勝利して、幕府の基礎をさらに固めることになった北条義時と、蒙古帝国という外敵との戦いを切り抜けた北条時宗という2人の得宗=執権の生涯と事績、その後世への影響を取り上げて分析しながら、解き明かそうとするものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府誕生前の北条氏が伊豆の平凡な一土豪に過ぎなかったことが明らかにされている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、北条氏の事実上の初代・時政の次男で、北条氏の庶流である江間氏を継ぐはずであった義時が、幕府の成立と頼朝死後の権力闘争で勝ち抜いて、最高指導者の地位に就き、さらに朝廷との戦い(承久の乱)にも勝利して支配体制を固める過程をたどる。そして、彼が八幡神の命を受けて再誕した、神話的な賢臣である武内宿禰であったという伝説を掘り起こし、これが鎌倉幕府における北条氏の地位を支える論拠となったと考えている。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では時宗がその権力を確立した「二月騒動」の分析を通じて、時宗の政権の性格を検討する。幕府内のこの謎の多い内紛を通じて、時宗は一門の有力者であった名越時章・教時兄弟と、自身の異母兄である時輔を取り除き、独裁的な権力を手中にした。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍の意味するもの」では、鎌倉七代将軍維康がその将軍在任期間のほとんどを源維康として過ごしていたことをめぐり、将軍の下で執権であった時宗が自らを義時、維康を頼朝に擬し(そのために王であった維康に源氏姓を名乗らせ)、蒙古帝国の来襲という危機を乗り切るための精神的支柱としていたと論じている。時宗の政権はごく少数の側近だけを集めて開かれる秘密の寄合によってすべてが決定される独裁的な恐怖政権であったというのが著者の見解である。
 第5章「カリスマ去って後」では、時宗死後の鎌倉幕府の政治の混乱とその中での権力争いをたどり、「先祖たちがそれぞれの人生を懸けて築いた論理も理想も見失い」(231ページ)、元弘3年(1333)に滅亡に至ったことが記されている。

おわりに――胎蔵せしもの
 「おわりに」はこれまでの内容のまとめである(したがって、これまで書いてきた要約の繰り返しになるかもしれない)。
 伊豆の小土豪であった北条氏は、当主である時政の娘・政子の婿源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いたことにより、武家政権の権力の座を目指すレースへの参加資格を得た。
 もともと時政の庶子であった義時は頼朝没後の権力闘争の中、身に降りかかる危難を振り払うために戦い続け、結果的に最終的な勝利者となり、それだけでなく、承久の乱にも勝利した。その結果、彼は後鳥羽上皇以下3上皇を配流し、天皇を廃位するという空前絶後の処置を断行する。このことによって彼は、頼朝と並ぶ武家政権の創始者という評価を与えられ、武内宿禰の再誕であるという伝説が生まれることとなった。「そして、この神話は、義時の直系である北条氏得宗を鎌倉幕府の支配者たらしむる正統性の源泉となった」(232ページ)。

 また、頼朝没後の幕府内の内部抗争は、源氏将軍家断絶という結果も生み出した。この結果、鎌倉将軍は摂関家藤原氏(現実には九条家、いわゆる摂家将軍)、さらに皇族(親王将軍)から迎えられることになったが、それは将軍に替わって幕府の政務をとる執権という役職の比重を重くし、また将軍と執権との幕府の権力をめぐる対立を生むことになった(藤原頼経については寛元4年≂1246の「宮騒動」、宗尊親王については文永3年≂1266の突然の解任・上洛など)。やがて執権を世襲する北条氏の家督=「得宗」が将軍を装飾的存在に祭り上げ、幕府の実権を握るに至る。将軍が存在しながら、北条氏得宗が実権を握っているという分かりにくい政治構造は、頼朝没後の幕府内の混乱と迷走の中で、なし崩し的に出来上ったものである。

 この奇妙な政治体制が論理化され、正統性を付与されたのは義時の玄孫時宗の時代の事であった。時宗は蒙古帝国との対決という難局に際して、自らの独裁体制を固めながら、
 ①鎌倉将軍は、武家政権創始者源頼朝の後継者である。
 ②北条氏得宗は、八幡神の加護を受けし武内宿禰の再誕北条義時の子孫である。
 ③義時の後継者である北条氏得宗は、鎌倉将軍の「御後見」として鎌倉幕府と天下を支配する。
という論理を固めた。「この論理によって、北条氏得宗は、将軍支配の下での鎌倉幕府支配の正統性を獲得したのであった。」(233ページ)
 「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか?」という問いに対する答えは、北条氏得宗は将軍の「御後見」であるから、将軍になる必要がないというものであったと、著者は理解している。

 「だが、時宗において完成され頂点に達した得宗権力は、時宗自身の卒去と同時に形骸化の道を歩みだし、以後の鎌倉幕府は迷走と混乱の果てに沈滞に陥り、瓦解の時を迎えた」(234ページ)。

 ある政治権力を打倒しようとする場合、反対勢力は、その政治権力がよって立つ正統性の論理そのものを否定するか、政治権力が変質し、正統性の論理から逸脱した存在となった点を攻撃する。鎌倉幕府と得宗権力に対し、後醍醐天皇や護良親王は得宗権力の論理そのものを否定し、足利尊氏・直義たちは、得宗を「先代」とよび、鎌倉幕府がその末期に至って変質した点を攻撃し、あるべき鎌倉幕府の復活を標榜した(『建武式目』)。
 このあたりは相対的に理解していいと著者は論じ、私も同感である(ただ、どっちかというと、尊氏・直義の方に共感を寄せるところがあり、あるいは石母田正以来の武士を新興勢力と見なす歴史観が私にも継承されているということかもしれない)。

 「八幡神・応神天皇・武内宿禰など、日本神話に起源を求める得宗権力の論理は、しょせん王朝の論理の亜流に過ぎない」(235ページ)。実際問題として足利幕府は、自らが執権ではなく将軍に就任し(ただし、高師直や細川頼之が政権の中心にいた時期はある)、鎌倉ではなく京都に幕府を置いた(ただし、鎌倉に副将府を置いた。やはり足利政権にも手探りの部分はある)。「しかし、頼朝と義時、特に帝王を倒した義時に、神格化ともいうべき権威を付与した得宗権力の論理は、王朝からの思想的自立の方向性をたしかに胎蔵していたとうことができる」(235ページ)。

 足利幕府の『建武式目』では義時を、武家政治の創始者として頼朝と並べて讃えている。将軍としての足利尊氏の下で、同母弟の直義が政務をとった足利幕府初期の「二頭政治」は、頼朝と義時(これは歴史的な事実ではなく、理念的なものである)、維康と時宗の関係をなぞったものであり、鎌倉幕府の理念の復活であったと考えられなくもない〔ちょっと無理があると感じる人もいるのではないかと思われる〕。著者は、頼朝と義時が義理の兄弟であり、尊氏・直義が「紛れもなく義時の子孫であった」(235‐236ページ)ことに、読者の注意を向けさせる(尊氏と直義がどのように北条家の血筋を継承しているかをめぐっては、この書物の122ページ、123ページに掲載されている系図が参考になる。なお、『太平記』で書いてきたように、尊氏の妻は北条氏庶流の赤橋家の出身であり、北条氏と足利氏の間には、幾重にも婚姻関係が結ばれていたのであった)。

 「鎌倉幕府の歴史は、迷走と混乱の連続であった。政権運営の知識も経験もなかった東国武士たちが作った鎌倉幕府は、王朝以外に手本らしい手本も持たず、試行錯誤を繰り返した。その手探りの中で、あきれるほど多くの血が無駄に流されていった」(236ページ)。その歴史をどのように評価するかは読者の自由であるが、その時代を生きた武士たちが、「それでも今日よりよい明日を築こうと、文字通りの悪戦苦闘を続けた」(236ページ)ことを忘れてはならないと、著者はこの書物を結んでいる。

 北条氏の得宗2人に焦点を絞っているために、鎌倉幕府の血みどろの歴史の流血のすごさが、多少割引されているという感じはあるが、それでも泰時・時頼の代における「道理」や「撫民」を前面に出す政治ではなく、時宗の独裁・恐怖政治が強調されているために、読者にとっての鎌倉時代のイメージはかなり変わってくるはずである。将軍の「御後見」としての執権という考えは、摂関政治における摂関の天皇に対する態度に似ているところもあるが、摂関政治が貴族の外戚としての立場に基礎をおいていたのに対し、執権の場合は武力が前面に出ているところが違う。武家政治の歴史を考えていくうえで重要な問題提起をしている書物であるが、著者の議論をめぐってはさらに論証が積み重ねられる必要があるだろう。

細川重男『執権』(18)

4月24日(金)晴れ

 最初の武士政権である鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権を築き、維持しようとした試行錯誤(または悪戦苦闘)の歴史、著者の言葉を借りれば、「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。
 この書物はそのような悪戦苦闘の中心であった北条氏がどのようにして権力を掌握し、政治的な課題に対処したか、さらにその権力支配の正当性を主張するためにどのような論拠を用いたかを、承久の乱に勝利して幕府とその中での北条氏の地位を固めた北条義時と、元寇に対処した北条時宗の2人の得宗・執権を取り上げ、かれらの生涯と事績、後世への影響を考えながら、あきらかにしようとするものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府成立以前の北条氏が、伊豆の小土豪に過ぎなかったことを明らかにする。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、時政の次男で、もともと北条氏の庶流である江間氏を嗣ぐことになっていた義時が、どのようにして頼朝死後の幕府の権力争いに勝利し、最高指導者の地位に就き、さらには朝廷との戦い(承久の乱)に勝利するに至ったかをたどる。そして彼が八幡神の命令によって再誕した、古代の神話的賢臣である武内宿禰であったという伝説に言及し、これが幕府における北条氏の権力を支える論拠となったという。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では、北条時宗が権力を確立した「二月騒動」の再検討を通じて、時宗とその政権についての考察する。「二月騒動」は文永7年(1272)に起きた謎の多い事件である(それ以前の文永3年≂1266年7月をもって『吾妻鏡』の記述は終了している)が、著者は時宗が北条一門のなかの実力者であった名越時章・教時兄弟、六波羅南方探題であった異母兄・時輔を取り除いて独裁的な権力を固めた事件であると評価する。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、鎌倉七代将軍維康親王が時宗時代のほとんどを源維康として将軍の地位にあったことをめぐり、時宗が自らを義時、維康を源頼朝に擬することによって蒙古襲来という事態に対処しようとしていたと論じている。蒙古襲来を退けた後の時宗は幕府の御家人以外の武士たちを含む、全国の武士たちの支配を目指し、その意図は彼の死後幕府の中心人物となった安達泰盛によって継承され、「弘安の徳政」として実施されようとするが、平頼綱を中心とする守旧派との衝突=「霜月騒動」で、頼綱派が勝利したことにより改革は失敗する。(以上前回まで)

第5章 カリスマ去って後
 平頼綱の政治
 「弘安7年(1284)7月7日、時宗卒去の4カ月後、弘安徳政の開始の1か月半後、時宗の嫡子貞時は14歳で即座に執権に就任した。時宗が14歳でまず連署に就任し、18歳で執権に昇ったことと比べると、その形式主義・家格偏重主義がよくわかる。しかし、絶対的な権力者であった時宗の急逝に直面した幕府は、それによる動揺を抑えるため、取り敢えず形だけでも整えようとしたと考えられる」(225ページ)。
 しかし14歳の貞時が34歳で死んだ時宗と同じ実力を備えているわけはない。それで、時宗時代からの寄合が、執権の権力を代行することになった。寄合のなかの実力者である安達泰盛と平頼綱は仲が悪く、お互いを貞時に讒言しあったという。最終的に貞時は、頼綱に泰盛討伐を命じることになった(「霜月騒動)。

 頼綱は泰盛が時宗の意志をゆがめた形で実行しているとして、泰盛を倒したのであり、その後、彼なりの幕政改革を行っている。そのことは維康を右大将に任官させた(頼朝の再現)ことにあらわれている。
 「しかし、頼綱には時宗や泰盛のような幕府の未来についてのビジョンがなかった」(226ページ)。彼を支持した人々も、泰盛に反発しただけで、共通する理念のようなものは持ち合わせていなかったのである。
 頼綱はその後、自身の権力基盤の強化のみを考えるようになる。右大将に任官した4か月足らず後に、維康はその職を辞任し、親王に復する。臣籍降下した皇孫への親王宣下は前例のない事態であった。
 さらにその直後、かつて時宗の尽力により皇太子となった後深草の皇子煕仁親王が即位した(→伏見天皇)。これも頼綱の強制によるものであったが、このために皇統は後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統に完全に分裂するのである。
 「頼綱は、自身の権力基盤強化という矮小な目的のために皇統への介入という伝家の宝刀まで振り回したのであった。」(226ページ)。
 そして正応2年(1289)には維康が将軍を辞して上洛、替わって、後深草の皇子(伏見の弟)久明親王が将軍となる。頼綱は大覚寺統に比して劣勢であった持明院統を露骨にバックアップしたのである。
 また頼綱の下で、同じ正応2年に北条時村(時宗時代のナンバー・ツーであった政村の嫡子)が寄合衆に任命されている。つまりこれまでは非制度的な存在だった寄合衆が、幕府の正式な役職となり、それだけでなく、評定に替わって幕府の最高議決機関となったのである。

 貞時の幕政改革
 永仁元年(1293)に今度は平頼綱が、北条貞時の命によって討たれる(平禅門の乱)。かつて父親時宗の補佐役であり、自らにとっても最も身近な存在であった2人を殺害して、貞時は権力を手中にした。この時、貞時は23歳、「二月騒動」の時の時宗は22歳であったから、ほぼ同年齢である。
 「頼綱を滅ぼした貞時は猛然と幕政改革に乗り出す」(227ページ)。乱の半年後には、引付を廃止し、幕府に持ち込まれた訴訟をすべて自身で裁決することとした〔寄合をどうしたのかは、語られていない〕。しかし、これは個人的な事務処理能力を超えており、1年後の永仁元年には引付が復活している。それでもなお、貞時は、得宗専制政治への意欲を失わなかった。

 独裁者の挫折とその後
 「幕府の政治制度改革においては、貞時は時宗よりもむしろ多くのことをおこなっている。貞時期を得宗専制の最盛期とする評価があるゆえんである。しかし、貞時の独裁は表面的なことであった。実は改革は幕府支配層の抵抗によって順調には進まなかったのである」(228ページ)。
 引付衆・評定衆などの鎌倉幕府の中枢の役職に就任できる家柄が、時宗時代ごろから決まってきたという事情があった。幕府を支える各家の間には、就任できる役職をめぐっての家格秩序が生まれていたのである〔これは朝廷・貴族社会においても同じことであった。また、その後の室町幕府・江戸幕府の場合にも家格と役職との関係は初めから決められていた部分が少なくないことを見落としてはならない〕。

 貞時の幕政改革は守旧派と対立しながら進められたが、それはいわば「コップの中の嵐」に過ぎなかった。貞時は、父親・時宗が猶子とした従兄弟の師時・宗方の助けを借りながら、さらなる改革に取り組み、嘉元3年(1305)には宗方に命じて、守旧派の総帥と目された連署・時村を滅ぼさせた(嘉元の乱)。しかし、この事件に対する守旧派の反発は強く、ついに宗方討伐を切り捨てざるをえなくなる。この事件により、貞時の努力は水泡に帰し、彼は応長元年(1311)に41歳で卒去するまで、酒浸りの生活を送ることになる。

 そしてその貞時の後を継いだのは、貞時卒去の時たった9歳、「物心ついた時にはすでに自暴自棄だった父だけを見て育った最後の得宗、高時である」(230ページ)。高時には何の実権もなく、彼の政権期の鎌倉幕府支配層は、時宗時代をまねた構造をもちながら、それとは似ても似つかぬものとなった。
 「時宗没後の半世紀、鎌倉幕府は迷走と混乱の果てに停滞に至った」(231ページ)。高時政権は「不徳」の政権として、先祖たちがそれぞれの人生を懸けて築いた論理も理想も見失い、日本中の武士たちの総攻撃を受けて滅亡するのである。

 今回で、この書物の論評を終えるつもりだったのだが、記述の量が少ない割に、書かれている内容が重大なので、意外に手間取り、結論部分である「おわりに」まで進むことができなかった。その内容については、次回に紹介することとしたい。
 これまでに書き落としたことを2件ほど付け加えておく。
 第1章「北条氏という家」で、著者は北条時政が清盛流平氏の近臣である牧氏に接近していた(結果的に、牧宗親の娘、藤原宗兼の孫である牧方を妻に迎えることになった)と書いているが、平忠盛の後妻で、清盛の継母にあたり、源頼朝の助命を清盛に乞うたとされる池禅尼は宗親の妹であり、この一族は藤原道長との政争に敗れて失意の人生を送った藤原伊周の弟・隆家の子孫である。時政と牧方の間に生まれた北条政範は時政により後継者と考えられていたが、16歳で夭折し、その子孫を残していない。刀伊の入寇に際し、太宰府の権帥として九州の武士たちを率いて撃退に貢献した藤原隆家のDNAが北条氏に伝わっていれば、元寇への対応も違っていたかもしれないなどと思ってしまう。
 なお、池禅尼と平忠盛の間に生まれた頼盛は、大納言に至り、母親の遺産を継承して六波羅の池殿に住んだため、池大納言と呼ばれたが、平家一門の都落ちに同行せず、生き延びた。新潟県には池という姓の人がいるが、頼盛の子孫だと称しているそうである。
 頼山陽の『日本外史』の中に、時宗の幼年時代、将軍・宗尊親王の前で「小笠懸」を試みて成功する場面を描いた箇所があると書いたが、山陽の漢文が優れている中で、この個所には難があるということを吉川幸次郎が『漢文の話』(ちくま学芸文庫)の中に書いている。関心のある方は、読んでいただきたい。

細川重男『執権』(17)

4月23日(木)晴れているが、雲も少なくない。

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権をつくり、維持しようとした試行錯誤(言い方を変えれば悪戦苦闘)の歴史、著者の言葉を借りれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。鎌倉幕府の特徴は、将軍ではなくて執権が前面に出ているところである〔考えてみると、室町幕府も初期には将軍ではなくて、執事の高師直や、管領の細川頼之が前面に出ていた時代があった…〕。
 この書物は、最初の武士政権であった〔平氏政権を最初の武士政権と見なす見方もある〕鎌倉幕府の悪戦苦闘ぶりを、その中心的な存在であった北条氏の得宗であり、幕府の執権をつとめた人々のなかから、承久の乱に勝利した義時、元寇を切り抜けた時宗の2人に焦点を当てて、2人がどのように自分の権力を確立し、幕府の直面している問題と取り組んだかをたどり、その後世への影響、歴史的な意義について考える。
 第1章「北条氏という家」では、幕府成立以前の北条氏が伊豆の小土豪に過ぎなかったことが明らかにされる。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの――」では、もともと北条氏の庶流である江間氏を継ぐはずだった次男・義時が幕府内の権力闘争を生き延びただけでなく、幕府の最高指導者となり、承久の乱にも勝利した軌跡、さらに、後世彼が八幡神の命令によって再誕した神話的賢臣である武内宿禰であるという伝説が生じたことが語られている。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では、時宗が一族の有力者である名越流の人々や異母兄である時輔を除いて、独裁的な権力を確立したことが記されている。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、鎌倉幕府7代将軍である維康親王が長期にわたり源氏を称したことの意味を、時宗が自らを義時、維康を頼朝になぞらえて、元寇という国難を乗り切ろうとしていたためであると説明している。

第4章 辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの(続き)
  代償と最期
 すべてを捨てた理由は
 現代では「出家」と「遁世」は混同されることが多いが、中世においてその意味は違っていたと著者は論じる。すなわち、「出家」とは真言宗・天台宗など古代以来の既成仏教の宗派の僧となることであり、遁世は念仏宗・禅宗・時宗など当時の新興宗派の僧となることであったという。〔例えば、天台座主など高僧の地位が皇族や貴族たちによる争奪戦の対象となったことに示されるように〕既成仏教は第二の俗界というべき状態にあったから、そこからも離れた遁世者は、文字通りの世捨て人であった。〔既成宗派の寺院は荘園領主でもあったけれども、新興宗派の方はそういうことがなかったということも影響しているのかもしれない。〕 「遁世とは、それまで築いたキャリアをすべて捨てることを意味したのである」(215ページ)。

 そのように「遁世」した例として、時宗の義理の兄であった安達時盛が、出家後も幕府の評定衆を務めていたのが、建治2年(1276)に突然、亀谷山寿福寺(栄西が開基となった禅寺で、現存)に入ったため、所帯没収処分を受けた事例、また時宗の(母方の)叔父で幕府の連署であった塩田義政が建治3年(1277)、信濃の定額山善光寺(日本の仏教が宗派に分かれる前から存在してきた寺院なので、無宗派である)に入り、時宗が使者を派遣して思いとどまらせようとしたが本意せず、やはり所帯没収処分となった事例が挙げられる。

 偽文書の伝えた恐怖
 弘安8年(1285)に「霜月騒動」に縁座して配流処分を受けた金沢顕時が金沢山稱名寺の住職に宛てて出したとされる書状は今日では、14世紀後半に作成された偽文書であるとされているが、時宗の下での十余年間は「薄氷を踏むがごときにさうらひき」と記している。これは100年ほどの年月を経ても、時宗の政権下での強権的な政治姿勢への恐怖が記憶されていたことを示すのではないかと著者は推測する。
 時盛・義政の遁世は時宗への消極的な抵抗、あるいは時宗からの逃避であったと考えられるというのである。

 誠実な独裁者
 「義政の遁世以後、時宗は弘安6年(1283)4月16日に義政の弟普恩寺(北条)業時(なりとき)を任命するまで連署を置かず、6年にわたって執権単独の体制を敷く。
 兄すらも容赦なく殺す権力者を恐れ、へつらう者はあっても、誰が彼を心から信頼しようか――誰よりも時宗自身がそう思っていたのではないか。独裁者は孤独であった。」(219ページ)

 彼が最後にすがり、信じ、将来を託そうとしたのは、息子=貞時と、甥=(弟・宗政の子)師時と、(もう1人の弟・宗頼の子)兼時と宗方、それに姪=宗政の娘であった。彼は師時、兼時、宗方を自分の猶子とし、貞時の正室に宗政の娘を選んでいる。

 「弘安の役を退けた3年後、弘安7年4月4日、時宗は34歳で卒した。蒙古帝国との戦いに生命を燃焼させた過労死とも戦死ともいうべき最期であった。
 『誠実な独裁者』は戦うべき戦いを戦い終えると、足早に去って行ったのである」(219‐220ページ)。

  やり残したこと
 すべての武士を幕府の下へ
 時宗の没後、彼の権力を代行することになったのは、時宗の諮問機関であった寄合(既に述べたように安達泰盛、平頼綱、諏訪盛経、太田康有、佐藤業連の5名から構成されていたが、太田・佐藤は書記役であったと考えられる)であった。特に安達泰盛と平頼綱が二大実力者となったが、まず主導権を握ったのは泰盛である。

 時宗の死後に、現在「弘安新御式目」とよばれている38か条からなる法令群が発布された。この発布から、弘安8年11月の霜月騒動までの1年半の間行なわれたのが「弘安徳政」と呼ばれる一大幕政改革である。その内容は多岐にわたるが、究極の目標はそれまで正式には幕府の支配下になかった本所一円地住人(非御家人)を新たに御家人として幕府に取り込むことであった。つまり「全武士階級を幕府の支配下に組み入れ、もって幕府を真の全国政権へと成長させようとしたのである」(221 ページ)。
 この方向性はまず蒙古との戦いに動員された鎮西(九州)の武士たちを対象として法文化されたが、さらには西国、そして全国へと拡大されることは目に見えていた。
 このような非御家人の御家人化は鎌倉幕府の根幹にかかわるきわめて過激な政策であった。そのため、既得権の侵害を恐れた守旧派は平頼綱を中心に結集し、泰盛ら改革派に対抗した。
 両派の対立は、弘安8年11月17日、全面的な軍事衝突となる。「霜月騒動」である。

 潰えた遺志
 「霜月騒動」については直接史料が極めて少なく、詳しいことが分からない(書中、出典として『保暦間記』が挙げられているが、これは14世紀の半ばに成立したと考えられているので、直接史料とはいいがたい。なお、「保暦」というのは元から後醍醐帝が亡くなられた応までの歴史を記すという意味だそうである)。残されたわずかな手掛かりをたぐると、和田合戦、宝治合戦と同じく、正規軍同士が正面衝突した内戦であったとしか考えられないと著者は論じる。そして頼綱一派が勝利したことにより、安達泰盛と弘安徳政は葬られることとなった。

 徳政を推進した中心人物は安達泰盛であったが、時宗死後の早い時期にこの改革が実施されたことから考えて、もともと時宗の在世中に企画・準備され、実行に移されようとしていたと考えるほうが妥当である。だからこそ、改革の当初において頼綱らも泰盛の動きを承認したのであり、かれらの反対の理由は、改革の方向性がねじ曲げられたという点にあったと考えられる。実際に、頼綱らも、「霜月騒動」の後、彼らなりの改革を試みているのである。この頼綱の政権下で、源維康は(頼朝と同じ)右大将に就任し、時宗の思い描いていた「源頼朝の後継者たる鎌倉将軍と北条義時の後継者たる北条氏得宗が全武士階級の上に君臨する」(223ページ)という構想が、彼の死後に実現したのである。しかし、間もなくこの路線は放棄され、維康は親王に復帰し、鎌倉幕府は親王将軍を戴いたまま、終わりを迎える。そもそも、頼朝の下では義時は執権ではなかったことを考えると、歴史の皮肉を感じざるを得ない。

 今回で第4章を終り、次回は第5章「カリスマ去って後」で、貞時による幕政改革の試みと挫折、そして高時と幕府の滅亡を見ていくことになる(たぶん、その後の「おわりに」も取り上げて、この論考を締めくくることになるだろうと思う)。
 幾つか、思いついたことを書き添えておくと、伊藤整の小説『鳴海仙吉』の中に仙吉が書いたことになっている「出家遁世の志」という評論文が含まれているという。実は私もこの小説はよんだ(岩波文庫に入っている)が、そんな箇所があったということをすっかり忘れていた。
 今回紹介した部分に登場する寺院のうち、寿福寺は何度も前を通ったことがある(中に入ったことはない)、善光寺は数回参拝したことがある。寺そのものよりも、門前町をうろうろするのが好きである。
 また稱名寺は横浜市内の寺なので、何度も出かけた。庭を楽しんだり、金沢文庫の展示を見たりしたのである。
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