亀田俊和『観応の擾乱』(3)

8月18日(金)曇り一時小雨、午後になって晴れ間が広がる

 観応の擾乱は、室町幕府初代将軍足利尊氏とその執事高師直が、尊氏の弟で幕政を主導していた足利忠義と対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の騒乱である。
 鎌倉幕府の体制を大部分踏襲していた(建武政権の影響も多少はみられるが)室町幕府の体制が変化し、この幕府独自の権力構造が生み出される契機となったのがこの戦乱であり、室町幕府にとって、観応の擾乱が持つ政治史的・制度史的な意義は極めて大きい。
 この戦乱を理解する前提として、初期室町幕府の体制や歴史を理解することが必要である。この書物の第1章『初期室町幕府の体制』では、幕府の大部分の権限を直義が行使し、尊氏は恩賞充行と守護職補任の2つの権限だけしか行使しなかったことを述べる。その一方で、それが尊氏と直義の「二頭政治」であったという佐藤進一の説(→通説)を、幕府初期の両者の権限の分担の実情に即して批判し、両者の政治機能の分担について新しい見方を提案している。
 第1章の2「創造と保全――将軍足利尊氏と三条殿直義の政治機能の分担」は佐藤進一の説を批判し、新しい見方を提案する箇所である。

 佐藤進一の二頭政治論は、単純に尊氏と直義が権限を分割していたとするのではなく、両者の権限には質的な差異があったと考えるものである。佐藤によると、尊氏の権限は武士を家来としてしたがえる武家の棟梁の機能であり、主従制的支配権と呼ぶことができる。これに対し直義の権限は、全国を統治する政務の統括者としての機能であり、統治権的支配権と呼ぶことができるという。言い換えると、主従制的支配権は人を支配する機能であり、統治権的支配権は領域を支配する機能である。
 逆に、尊氏の恩賞充行も統治権の要素を十分に含むという問題がある。少なくとも理論的には、所領安堵と同様に領域を支配する権限である。「何より、軍勢催促状と感状を直義が一元的に発給し、侍所まで管轄していることは看過できない。こうした軍事や警察の権限は、武家の棟梁の行為そのものなのではないか。」(11ページ)

 しかし、この主従制的支配権と統治権的支配権の定義は、室町幕府初期における尊氏と直義の実際に行使した権限に即して検討すると、必ずしも当てはまるものではない。例えば、武士の土地領有を承認する所領安堵は、主従関係を構築する機能ともみなせる。確かに、研究の蓄積と複雑な議論の結果、所領安堵は現在では一応統治権的支配権に属すると理解されているが、それでも、所領安堵に主従制的要素が存在することを”完全に”否定することは困難である。

 すでに述べたように、尊氏は直義に政務をほぼ全面的に譲り、ほとんど介入することはしなかったと『梅松論』には記されている。〔実務には携わりたくないので、権限を譲ったふりをして、結果だけは思い通りになるように口出しばかりするという人間が多いことを痛感してきたので、尊氏の態度はきわめて立派だと思う.〕 とはいうものの、「なぜ尊氏は直義に政務の大半を委譲しながらも、一部の権限を依然保持したのであろうか。また、それが恩賞充行・守護職補任であった理由は何だったのだろうか」(12ページ)という問題は残る。

 尊氏が行政機能の一部を保持した理由については、やはり南朝との戦争が継続している状況が大きかったと考えられる。充行・安堵・裁許などの膨大な業務を直義一人ですべてこなすのは不可能であった。それとともに、このような「権限分割」が建武政権が試みた「実験」を参考にしているとも考えられるという。建武政権は初期においてはすべての命令を後醍醐天皇の綸旨によって伝達していたが、後期になると、武士に対する所領安堵の権限は、天皇から雑訴決断所に移行した。さらに決断所はそれ以外にも、刑事訴訟や動産訴訟なども行うことになった。講師t後期の建武政権の体制は、初期室町幕府の体制と酷似している。すなわち、後醍醐≒尊氏、雑訴決断所=直義と見なせるというのである。「初期室町幕府の三条殿体制が、建武政権での試行錯誤を経て完成した権限分掌体制の影響を強く受けていたのは間違いない」(13ページ)と著者は論じている。

 それではなぜ、建武政権では後醍醐が恩賞充行を担当し、決断所がそれ以外のすべての権限を行使したのであろうか。後醍醐→尊氏が行使した恩賞充行権は、既存の所領秩序を変更し、新しい秩序を創造する機能と見なせる。つまり変革を担う役割である。一方、雑訴決断所→直義が行使した所領安堵や所務沙汰などの権限は、既存の所領秩序を維持する機能、言わば保全である。軍事指揮や警察活動も、保全の機能に含めることができる。さらに官途推挙や、祈願寺の指定、院宣一見状も多くは寺社・公家領の安堵であったから、保全に分類してよいのではないか。

 「創造と保全はすべての政治権力が必ず持つ要素である。味方からの広範な支持を必要とする新政権においては、創造の要素が特に重視される。他方、政権基盤が確立した政権では、保全の要素が重要となってくる。建武政権と初期室町幕府は、創造機能と保全機能がかなり明確に分離した政権だったのである。」(14ページ) これは議論としては面白いが、もう少し説明を要する議論であるように思われる。

 初期室町幕府はこのように建武政権の影響を強く受けていたが、その一方で、鎌倉幕府、特にその西国統治機関であった六波羅探題の体制を踏襲している性格も強く持っていた。特に、直義が行使した所領安堵や所務沙汰などの手続きは、鎌倉幕府の体制をそのまま継承している。評定・引付方などの諸機構も、鎌倉幕府の模倣である。寺社本所の権益擁護や伝統的な御家人体制の維持といった政策も共通している。
 全体として、やはり初期の室町幕府は先代鎌倉幕府の体制を模倣したものであり、室町幕府独自の政治構造が創出されるところまでは進んでいなかったと亀田さんは論じている。通説では、このような保守性は直義の性格と結びつけて考えられており、それに対して、尊氏と高師直は新しい秩序を創造しようとする個性の持ち主とされているのだが、亀田さんはもう少し制度的な側面の影響を重んじているようである。
 次回は、いよいよ、もう一人の重要人物、高師直について述べた個所を取り上げて論じることにする。 
 
 
スポンサーサイト

亀田俊和『観応の擾乱』(2)

8月11日(金)雨が降ったりやんだり

 《観応の擾乱》は、室町幕府初代将軍足利尊氏と、その執事であった高師直と、尊氏の弟で幕政を主導していた足利直義が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。この戦乱は観応元年(南朝正平5,1350、この本は基本的に北朝の年号を使っているが、両方の年号を併記した方が便利だと思うので、ここでは両方を併記する)10月から、南朝正平7年(北朝観応3,1352、ここでは珍しく南朝年号を採用しているが、そのことが両者の力関係の変化を示している)に終わったと考えられているが、戦乱で明らかになる室町幕府内での確執は貞和4年(南朝正平3、1348)ごろから始まっており、戦乱の一部とみなすことのできる戦闘は文和4年(南朝正平10、1355)ごろまで続いている。
 この戦乱のために南北朝の対立は長期化し、皇統の合一を遅らせたという側面もあるとはいうものの、初期の室町幕府の珂アm鞍幕府を模倣した体制が変化し、室町幕府独自の権力構造が生みだされたのは、この戦乱の結果であったと著者は論じる。室町幕府にとって、観応の擾乱が持つ政治史的・制度史的意義は計り知れないというのが著者の評価である。

 第1章「初期室町幕府の体制」で、著者は観応の擾乱を理解する前提として、室町幕府の成立の経緯とその中での政治の様相を、足利尊氏、足利直義、高師直がその中で果たした役割に焦点を当てながら描き出している。今回は、室町幕府の成立の経緯と、その初期の体制が尊氏・直義の「二頭政治」であったという通説に対し、直義こそ「事実上の最高指導者であった」と亀田さんが主張している部分を取り上げる。

 1 「三条殿」足利直義――事実上の室町幕府最高指導者
 室町幕府発足の大きなきっかけとなったのは、建武2年(1335)に勃発した中先代の乱である。鎌倉幕府最後の得宗であった北条高時の遺児時行が信濃国で挙兵して建武政権に対して起こした反乱である。鎌倉幕府を「先代」、室町幕府を「当代」と称した場合、時行は「中先代」ということになるので、この名称がある。
 当時、建武政権は関東地方に鎌倉将軍府と呼ばれる地方統治機関を設置しており、後醍醐天皇の皇子である成良(なりよし)親王を名目上の首長として、足利直義が執権として東国を統治していた。ところが関東地方に侵入した時行軍は直義軍に連戦連勝し、7月25日には鎌倉を占領してしまう。そこで弟の危機を救うべく、足利尊氏が8月2日に出陣、今度は足利軍の連戦連勝で、同月19日に鎌倉を奪回し、時行は敗走する。

 尊氏は後醍醐の帰京命令に従わず、旧鎌倉幕府将軍邸に邸を新築して居住し、反乱鎮圧に功績があった武士に対し建武政権には無断で恩賞として所領を給付した。これは尊氏側から見れば、中先代の乱の戦後処理を進め、北条氏残党を完全に鎮圧するための必然的な措置であったが、後醍醐側は、それを建武政権に対する謀叛と解釈し、11月19日に尊氏・直義兄弟を朝敵と認定し、新田義貞を大将とする官軍を出動させる。当初尊氏は、後醍醐天皇と戦う意思はまったくなく、寺にこもって恭順の意志を表明していたため、直義が主将として官軍と戦おうとした。ところが直義は官軍に連敗を続け、見かねた尊氏がついに挙兵、12月11日に箱根・竹ノ下の戦いで建武政権軍を破る。今度は形勢が逆転して、尊氏軍が東海道を攻め上り、建武3年(1336)正月に京都に侵入した。後醍醐天皇は比叡山延暦寺に籠城して足利軍に対抗、両軍の激闘は続いたが、奥州から北畠顕家の援軍が到着したために建武政権軍が優勢となり、童月30日に足利軍は京都を撤退して九州まで落ち延びた。

 しかし3月2日の筑前国多々良浜の戦いで後醍醐方の菊池武敏軍に奇跡的な勝利を収めた足利軍は、4月3日に再び京都を目指して東上を開始する。5月25日の摂津国湊川の戦いでは名将楠木正成を敗死させ、29日に直義隊が先鋒として入京した。後醍醐天皇は正月に続いて2度目の正月に続いて2度目の比叡山籠城を行い、足利軍との熾烈な戦闘を続けた〔当ブログで連載している『太平記』は目下、このあたりの戦闘の記述に差し掛かっている。〕 この間、8月15日に持明院統の光厳上皇の院政が始まり、弟の豊仁親王が即位して光明天皇となった。〔厳密にいうと、光明という諡号が贈られたのは崩御後の話である。〕 こうして後に北朝と呼ばれる朝廷が発足した〔発足時点では、光明天皇の方が後醍醐天皇よりも南に皇居を構えられていたわけである。〕

 その後、戦局は次第に足利軍に有利になり、追い込まれた後醍醐天皇は10月10日に、足利尊氏と講和し、比叡山を下りた。11月2日には、後醍醐が光明へ三種の神器を授ける儀式が行われた。同月7日、新しい武家政権の基本法典である『建武式目』が制定された。これをもって室町幕府が発足したとみなすのが定説である。
 ところが12月21日、後醍醐天皇は大和国吉野へ亡命し、自分こそが正統の天皇であると主張した。〔「三種の神器」を持たずに逃げ出しているので、この主張は弱い。〕 南朝の登場であり、これから60年間にわたり南北朝の内乱時代が続く。
 建武5年閏7月2日(南朝延元3年、この年に北朝は改元して暦応元年、1338)、後醍醐の皇子恒良(つねよし)親王を奉じて越前国へ下向し、幕府軍に抵抗していた新田義貞が、同国藤島の戦いで戦死した。これが大きな契機となって、8月11日、北朝から尊氏は征夷大将軍、直義も左兵衛督(さひょうえのかみ)に任命された。その直後から、直義の幕政にかかわる活動が開始される。これをもって、室町幕府は一応完成したのである。

 「幕府が成立する頃、尊氏は直義に政務を譲ろうとした。直義はこれを再三辞退したが、尊氏の強い要望に断り切れずに受諾した。以降、政務に関して尊氏が介入することはまったくなかったという。」(4ページ) これは尊氏側近の武将が貞和5年(南朝正平4年、1349)ごろに完成したと考えられる『梅松論』に記された逸話である。著者は、『太平記』よりもこちらの方が史料的な信頼性は高いという評価も付け加えている。
 室町幕府発足の経緯からもうかがわれるように、観応の擾乱に至るまでの尊氏の政治に対する姿勢は、基本的に消極的であった。「実際、『梅松論』の記述を裏付けるように発足当初の室町幕府の権限の大半は直義が行使している』(5ページ)。
 そのような権限の第1は、所領安堵である。所領安堵とは、武士が先祖代々相伝し、実効支配を継続する所領の領有を承認する皇位である。所領安堵の手続き・審査は安堵方という機関で行われ、直義自らが出席する評定という機関で最終的に承認されて、下文(くだしぶみ)と呼ばれる文書が発給された。
 表情は、鎌倉幕府の時代に執権・連署が主催した最高意思決定機関で、特定の日付で定期的に開催され、それら特定の日付を「式日」と称した。
 直義主導下の幕府を最も象徴すると言っても過言ではないのが、直義が管轄した所務沙汰(荘園・諸職の紛争を調停する訴訟)の判決文である裁許下知状で、これまで93通発見されているという。
 多数現存する直義の裁許下知状を検討すると、武士に荘園を侵略された寺社や公家による提訴の事例が非常に多く、訴人(原告)の多くは、係争地を正統な根拠によって代々領有していることが一般的で、そのために訴人が勝訴する確率が非常に高かった。所領安堵・所務沙汰裁許に顕著にみられるように、直義の政治は基本的に現状維持を最優先する特徴があった。
 また、全国の武士に戦争への動員を命じる軍勢催促状は、幕府が発足すると直義が一元的に発給した。また合戦で手柄を挙げた武士に、その功を感謝する感状を発給したのも直義であり、彼は武家の棟梁に必須である軍事指揮権も掌握したのである。 しかも直義は、御家人の統制機関で京都市中の警察も担当した侍所も管轄した。
 さらに直義は、将軍家の安泰を祈祷する祈願寺の指定、北朝の光厳上皇が発給した院宣を承認する院宣一見状、武士が希望する官職を北朝に推薦する官途推挙状の発給など広範な権限を行使したのである。

 このように尊氏は、直義に政務を譲ったのだが、完全に隠居したわけではなかった。
 尊氏が行使した数少ない権限に、恩賞充行(おんしょうあておこない)がある。これは、合戦で軍忠を挙げた武士に、褒美として敵から没収した所領を給付する行為である。恩賞充行の手続き・審査を行ったのは恩賞方という機関で、これは尊氏が管轄したが、その開催は不定期であった。一方、尊氏の下文は直義のものよりも尊大な形式で記されており、彼の立場が直義よりも上であることが示されていた。
 また尊氏は守護の任命も行った。この時期に尊氏が行使した権限は恩賞充行と守護職補任の2つだけだったのである。

 初期室町幕府の体制は尊氏・直義の二頭政治であったという佐藤進一の説がこれまで定説となってきた。しかし、尊氏と直義が権限を均等に二分したのではなく、直義に大きく偏重している状況は「二頭政治」とは言いにくい。むしろ『梅松論』の記事をそのまま受け取って、初期室町幕府は直義が事実上の最高権力者として主導する体制であったと考えるべきではないかと著者は主張する。ではこの体制をどのように表現すべきか。
 桃崎有一郎の研究によると、この時期の直義は「三条殿」あるいは「三条坊門」と呼ばれることが最も多かった。後年の室町幕府では、首長の邸宅所在地である「室町殿」がその地位を表す名称として使用された。それを踏まえると、直義の地位を三条殿とするのは当然のことで、三条殿体制は、必ずしも将軍とは限らない人物が最高権力者として幕政を主導し、住居の名称で呼ばれる点で、足利義満以降の室町殿体制の先駆的な形態であったと評価できると論じている。

 以上、亀田さんは、室町幕府の初期における体制は、通説が主張してきたような尊氏・直義の二頭政治ではなくて、直義が実質的な最高権力者である体制であったことを強調しているのである。

亀田俊和『観応の擾乱』

8月4日(金)曇り(一時雨が降ったかもしれない)

 8月2日、亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書)を読み終える。
 「観応の擾乱とは、室町幕府初代将軍足利尊氏および執事高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた足利直義が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である」(ⅱページ)。この内戦は、観応元年(1350)10月から始まり、正平7年(北朝観応3,1352)2月まで続いたとされているが、著者はさらにその背景や影響についても視野に入れて、貞和4年(1348)正月から、文和4年(1355)3月までの時期における戦乱を対象としている。
 観応の擾乱は高校日本史の教科書に必ず掲載されるので、学んだことがあるはずの人は多いが、記憶している人はきわめて少ないのではないかと著者は言う。この戦乱が南北朝の内乱を長期化させ、合一を遅らせたという側面もあって、あまりイメージはよくないとも述べる(もっともイメージのいい戦乱というのがあるほうがおかしいのだが…)。
 しかし、初期においては鎌倉幕府の体制を大部分踏襲していた室町幕府が、独自の制度を作り出すきっかけになったのが、観応の擾乱であり、そのことに意義が求められると著者は論じる。さらに、建武期と比べて観応期は信頼できる史料が豊富で、その点からも研究を深める価値があるともいう(いかにも歴史学者らしい意見である。「あとがき」にその資料の主なものが列挙されているが、何といっても一番頼りにされているのは洞院公賢の『園太暦』である)。
 観応の擾乱という試練を克服したことで、室町幕府は政権担当能力を身につけ、足利尊氏も名実ともに征夷大将軍にふさわしい存在になったというのがこの書物の結論であると予告される。

 この書物の目次は次のようなものである。
第1章 初期室町幕府の体制
 1 「三条殿」足利直義――事実上の室町幕府最高指導者
 2 創造と保全――将軍足利尊氏と三条殿直義の政治機能の分担
 3 高師直の役割――尊氏・直義共通の執事
第2章 観応の擾乱への道
 1 四条畷の戦い――師直と小楠公楠木正行の死闘
 2 足利直冬の登場
 3 幕府内部の不協和音
第3章 観応の擾乱第一幕
 1 師直のクーデター――将軍尊氏邸を大軍で包囲
 2 直義の挙兵と南朝降伏
 3 地方における観応の擾乱――東北・関東など
 4 打出浜の戦いと師直の滅亡
第4章 束の間の平和
 1 尊氏・直義講和期における政治体制
 2 直義による南朝との講和交渉
 3 足利義詮の御前沙汰――訴訟制度の大胆な改革
第5章 観応の擾乱第二幕
 1 落日の直義――関東への撤退
 2 正平の一統――尊氏、南朝方に転じる
 3 薩埵山の戦いと直義の死
第6章 新体制の胎動
 1 尊氏―義詮父子による東西分割統治体制
 2 正平一統の破綻と武蔵野合戦
 3 尊氏と直冬、父子骨肉の争い
終章  観応の擾乱とは何だったのか?
 1 勃発の原因――直冬の処遇と恩賞充行問題
 2 観応の擾乱と災害
 3 その後の室町幕府――努力が報われる政権へ

 内容の詳しい紹介と論評は次回以降に回すことにして、今回は、私がこの書物と、「観応の擾乱」という歴史的な事件に注目する理由を書いておこう。このブログですでに169回にわたり紹介してきた『太平記』という書物の中で、この戦乱が大きな意味をもっているというのが大まかな理由である。『太平記』は鎌倉時代の末の後醍醐天皇の討幕の企てから始まって、貞治6年(1367)に室町幕府の二代将軍足利義詮が死去し、まだ幼かった足利義満を管領として細川頼之が補佐することになって平和がもたらされた(実際はそうでもない)というところで終わる。しかし、吉川英治の『私本太平記』が足利尊氏の死(延文3年=1358)で終り、山岡荘八の『新太平記』が新田義貞の死(暦応元年=1338)で終わっているように、多くの人々の興味は『太平記』の初めの方の部分に集中しているように思われる。しかし、『太平記』の面白さは、建武の新政が失敗したのちの混沌とした状況の叙述にあるのではないか、そして「観応の擾乱」こそはそのような混とんとした状況の最たるものではないかと思うからである。

 ついでに言うと、すでに『太平記』のブログでも登場した(豊仁親王がその邸で即位された)二条良基(1320-88)という人物に興味がある。当時の革新的な文学運動であった連歌の推進者である一方で、和歌を頓阿に学んで平安町時代以来の文学的な伝統を守ろうとした、転換期を体現する人物であった。頓阿、兼好、浄弁、慶運を和歌四天王というのだが、この中では兼好が多少劣るという評価をしたのが、良基ではなかったかと記憶する。その兼好の『徒然草』が今では良基の著作のすべてを合わせたよりも多くの読者を集めているというのは皮肉である。(もっとも、『増鏡』の作者が良基であるということになると、話が少し違ってくる。)
 残念ながら、この亀田さんの著書に良基の名前は出てこないのだが、文和2年(1353)に南朝軍が京都に侵攻し、足利義詮が後光厳天皇を奉じて美濃まで逃げたことは、当然記されている(202-204ページ)。この時、比叡山までは同行したが、いったん京都に戻った良基は北朝派の公卿の張本として邸宅没収という厳罰を受けて、嵯峨にあった別邸に引きこもった。しかし、京都にいてもしかたがないので、後光厳天皇のお召しに応じて美濃へと旅立つ。(『園太暦』によると、摂関家の当主にすべて声をかけて、一番早く美濃に到着したものを関白とするという内容だったそうで、良基のほかに、近衛道嗣も美濃に向かっており、最終的に良基が関白になった。) 美濃で天皇とともに過ごした後、尊氏を迎えて天皇の遷幸に従って京都に戻った次第を『小島のすさみ』という仮名日記に残している。この日記は、ドナルド・キーンが「室町時代に成立したすべての日記の中で、最も感動的な作品の一つである」(小川剛生『南北朝の宮廷誌 二条良基の仮名日記』78ページに引用)と評価しているだけあって、なかなか面白い。そしてこの『小島のすさみ』は、史料の1つとして、204ページに注記されている。

 自分の好みに任せて勝手なことを書いて、本筋から離れてしまったが、次回からまじめに紹介・論評に取り組むことにする。

倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(8)

7月12日(水)晴れ、暑し

 白村江の戦における敗北は、律令体制形成という日本史上の一大画期のきっかけの一つとなった事件であるが、韓国、あるいは中国の歴史家たちはこの出来事をそれほど大きく評価していないことを倉本さんは紹介する。盧泰敦『古代朝鮮 三国統一戦争史』によると、白村江の戦は唐にとっては特に大きな意味を持つ戦闘ではなく、『旧唐書』の本紀には記事がなく、『新唐書』の本紀にわずかな記事があるだけで、それも倭国は登場していないという扱いである。「唐にとっては、そもそも主要な戦争相手は高句麗だったのであり、百済は金春秋の要請によって滅ぼしたに過ぎない。白村江の戦というのは、すでに滅ぼした百済の残存勢力に荷担して出兵してきた倭国軍を苦もなく壊滅させたに過ぎないのであって、戦略的にもさほど重要な戦闘ではなかったのである」(153ページ)。韓国でも学校では白村江の戦を教えていないというくらいで、「百済は現代の韓国にとっては滅んでしまった地方政権にすぎず、その復興のための戦闘などどうでもいい」(152ページ)というのが一般的な見解のようである。

 しかし、倭国にとっては、これは大きな意義をもつ戦闘であった。倉本さんは、中大兄皇子と藤原鎌足がなぜこの戦争に踏み切ったかについての4通りの推測を列挙している。①援軍の派遣を要請してきた百済遺臣の使者たちの報告を信じて、本気で勝つつもりでいた。②兵力や兵器、それに指揮系統の整備レベルから考えて、負けるかもしれないが、負けたとしても唐がさらに倭国に侵攻してくる可能性は低く、対外戦争によって国内を統一することが容易になるのではないかと考えていた。③敗北はあらかじめ予想できていたが、勝敗を度外視した、戦争を起こすこと自体が目的で、それによって国内の支配者層を結集させ、中央集権国家の完成をより効果的に行うことをもくろんでいた。④中央集権国家の建設に反対していた豪族層を戦争に動員することにより、取り除いて、その後の改革を容易にしようとした。
 一方で、勝敗を全く度外視した派兵ではなかったことは明らかであり、その一方で、負けても構わない、戦争を起こすこと自体が目的だったという側面も否定できないという。「そしてこの敗戦以降、倭国は新たな段階の政治制度の整備に向かうことになる」(158ページ)。
 他方、新羅にとっては、三国統一戦争の結果「時代降臨」(小国が大国に事(つか)え、隣国とは対等に交わること)という朝鮮半島王朝の対外政策の基本的枠組みを形成することに大きな影響を与えた戦争であった。

 天智2年(663)8月27日における白村江の戦によって、百済再興の望みを絶たれ、9月7日に国(百済の故地)を去る決心をした人々は、25日に船を発して、倭国へと向かった。その数は、当時の倭国の人口からすれば、とんでもない数に上ったと推測される。彼らは近江や東国に配され、農地の開発にあたった。その中で、百済の王族は、倭国で優遇され、それなりに高い地位を保つ。枚方市には、彼らの建立した百済寺や百済王神社が残る。貴族たちもそれなりに厚遇されたが、その事が倭国豪族層の反感を生み、天智大王に対する批判や不満につながったという皮肉な結果ももたらした。〔8世紀に活躍した万葉歌人の山上憶良や、東大寺の大仏の造立の指揮を執った国中公麻呂など、百済亡命者の孫、曽孫の世代に当たる人々については、倉本さんは触れていない。そこまで時間がたってしまうと、もはやその由来を問題にすべきではないという考えかもしれない。〕

 百済の遺臣たちを応援すべく海を渡ったものの惨敗を喫し、かろうじて生き残った兵士たちも帰国していたはずである。『日本霊異記』にはそのような地方豪族の説話が記載されている。倉本さんが引き合いに出している記事はこれだけで、他にあまり記録が見いだされないようである。〔記録がないからと言って、そういう兵士たちがいなかったわけではなさそうである。都合の悪い記録は残さないというのは昔から、変わらない権力の体質のようにも思われる。〕
 その一方で、「さらに苛烈な運命」(162ページ)にさらされたのは、唐や新羅軍の捕虜となってしまった兵士たちである。「無事に帰還できた稀有な例のみ、日本側の史料に記録されているが、異国で命を終えた者も、膨大な数にのぼったことであろう」(162ページ)という。この書物にはそういった例がいくつか紹介されているが、驚くべきことに白村江の戦から44年も経た景雲4年(707)5月に唐から帰国し、「その勤苦を憐れんで」(166ページ)を賜り物を頂いた人物の例さえみられるという。

 当時の倭国の指導者にとって、白村江での惨敗は、戦争の終結ではなく、それに続く唐と新羅の倭国侵攻の可能性を大きくするものと認識されていたと倉本さんは論じている。「663年8月28日以降の日々は、彼らにとっては「戦後」だったのではなく、いつ果てるとも知れない「戦中」だったのである。・・・戦中、しかもいつ終わるかもわからない戦中であって、異様な緊張が高まっていたものと考えるべきである。」(167ページ)

 そこで講じられたのが、西日本の各地に防衛施設を建造し、また防人を配置するという施策である。天智6年(667)3月には都が近江大津宮に遷された。「「いかさまに思ほせしめか(どのようにお考えになったものか)」と称された(『万葉集』)畿外(トツクニ=外国(げこく))への遷都であったが、万一、唐・新羅連合軍が倭国に侵攻してきた場合に備えてのものであったことは間違いのないところである(大津から琵琶湖を北上して北陸にでも逃避するつもりだったのであろう)」(169ページ)。

 天智7年(668)正月に中大兄皇子は正式に即位し(ということは、これまでは称制)、一方で海外勢力の侵攻の危機感をあおり、他方で国内改革を推進して、支配者層の再編成と地方支配の徹底を目指した。紆余曲折はあったが、その後の倭国は中央集権的な国家建設への道を歩むことになる。その一方で唐・新羅との外交関係の修復などの努力も行われるが、それは国内における政治的な変化とも連動するものであったということについてはまた次回。

倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(7)

7月5日(水)晴れたり曇ったり、台風一過、気温上昇

 隋、その後を受けた唐王朝という中国を統一した政権の出現は北東アジアの高句麗、新羅、百済および倭国に対して重大な影響を及ぼした。新羅は唐に依存することで他の諸国と対抗しようとしたのに対し、他の3国は連携して唐・新羅に対抗しようとした。
 660年に百済が滅亡するが、その遺臣たちが復興を目指して挙兵し、倭国に対し百済最後の王であった義慈王の弟の余豊璋の帰国と援軍とを求めてきた。これに応じた斉明大王以下の倭国首脳は、斉明7年(661)に近畿地方を離れて西に向かい、3月には九州に達して戦いの準備を進めたが、7月に斉明が崩御する(それに先立つ6月に新羅の武烈王がなくなり、文武王が即位している)。後を継いだ中大兄皇子(→天智大王)は8月に第一次の遠征軍を組織し、9月に5千余人の軍兵に護衛させて豊璋を送り返した。この第一次の遠征軍はその大部分が帰還したが、一部は百済に留まっていたと考えられる。
 天智2年(663)3月に中大兄は第2次の百済救援軍を編成、2万7千という倭国の全力を傾けた兵力が海を渡り、百済ではなく、新羅を目指して侵攻した。一方、唐から派遣されていた劉仁軌は本国に兵の増員を要請し、おそらくは海軍を主力した援軍を得て、百済軍を破りながら南下してきた。そのころ、百済では倭国から帰国して王位に着いた豊璋と、復興運動の指導者であった鬼室福信の間で対立が生じ、豊璋が福信を殺害するという内紛が起きてますます政権は弱体化していた。
 唐・新羅連合軍は水陸両面からの侵攻計画を立て、水軍は白村江で陸軍と合流して、百済の本拠地である周留城を攻撃するという作戦を取り上げた。

 その白村江がどこにあるかをめぐって諸説入り乱れている。通説では錦江河口付近とあれるが、東津江河口という全榮來の説がだというではないかと著者は論じている。この東津江河口とその付近の海岸の現状をめぐる著者の報告はこの書物の中でも特に興味深い箇所である。
 8月に倭国は、駿河の地方豪族である廬原(いおはら)臣を将軍とする1万余人の第三次派兵を行った。この軍勢は直接百済に向かったもので、当初から旧百済領に駐留する唐軍、あるいは東本国から新たに派遣されてきた水軍との対決を目的とした出兵であるとみられている。8月13日に周留城にいた豊璋王は倭軍を迎えに行くと称して、白村」に赴き、残った将兵たちの士気を阻喪させた。問題は既に派兵されていた第二次百済救援軍の行方で、8月の白村江の戦に間に合って第三次派兵軍と合流して唐・新羅連合軍と戦ったのか、間に合わなかったのかは分からない。いずれにしても、この第二次派兵軍の将軍たちの名はその後の歴史には登場していないという。もし、第三次救援軍が第二次救援軍と合流できず、単独で唐・新羅連合軍と戦ったとすれば勝敗は戦う前から明らかであった。

 8月17日、唐・新羅連合軍の陸上軍は周留城に至り、これを包囲した。一方、水軍は軍船170艘を率いて白村江に戦列を構えた。倭国の水軍の戦闘がようやく白村江に到着したのはそれから10日を経た8月27日のことであった。その水軍は『旧唐書』劉仁軌電によると、「舟400艘」、『三国史記』新羅本紀・文武王11年に引かれた新羅の文武王が唐の総管に送った答書によると「倭船千隻」とある。
 「数は唐の船よりも多いのであるが、その大きさや装備は、とても比較できるものではなかったことであろう。」(145ページ)と考えられる。唐の戦艦は、鉄甲で装備された巨大な要塞であるのに対し、倭国の「舟」は文字どおり小型の準構造船(竜骨をもたず、刳船の両舷に舷側板を組み合わせたもの)だったと倉本さんは推測している。
 多数の小舟が長距離の外洋を進軍するとなると、当然のことながら速度に時間が生じることになる。この27日、長い帯のような倭国の水軍の先頭が戦列を構えて待ち構えている唐の水軍のただなかに達したのである。『日本書紀』が
 日本の軍船の先着したものと大唐の軍船とが会戦した。日本は敗退し、大唐は戦列を固めて守った。
と記しているように、勝敗以前の問題であった。倭国軍は先着順に唐軍の餌食となってしまったのである。

 27日から28日にかけて、倭国の水軍が続々と白村江に到着したものと思われる。普通であれば、前日に敗戦していた場合、その原因を分析して、次の決戦の作戦を練るものであろうが、倭国軍にはそういった形跡が見られない。
 この理由として倉本さんは、対外戦争の経験の不足から、「ろくな戦略も戦法も考えずに、やみくもに突撃を繰り返す、そのうちに英雄的な人物が現われて戦闘に一気に決着をつける」(146ページ)というような戦いしかできない倭国→日本の軍事的な問題点を挙げている。基本的な議論としては、日本にはまともな軍事理論は育っていなかったという乃至政彦『戦国の陣形』(講談社現代新書)に共通する認識が示されている。
 ただ、次のようなことも考えてよかろう。倉本さんも論じられているように、将軍たちの間には上下関係がなく、軍隊の軍令・指揮系統が出来ていない。だから、先に到着した前軍の経験は中軍・後軍に伝わりにくいし、おそらくは前軍の将軍はすでに戦死していたので、前日のことなど構わずに後から来た軍隊は突撃を行ったのであろう。

 28日、倭国軍は唐の水軍と決戦を行った。統制もなくただやみくもに突進する倭国軍に対し、唐軍は陣を固め、倭国の舟を包囲して攻撃した。『旧唐書』の劉仁軌伝によれば、唐軍は火攻めを行ったという。また海水の干満の差が利用されたという考えもある。満潮の時に白村江に攻め込んだ倭国軍が、干潮で立ち往生してしまい、火攻めを受けたというのである。落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書)によると、中国の北方では陸上の戦い、南方では水上の戦いがたくみであったというが、統一政権ができたことで、両方の長所を備えた軍隊が組織されるようになっていた。軍船の装備については既に触れられていたが、武器においても中国の方が優れたものを備えていたことは容易に推測できる。

 白村江の敗戦から10日後の9月7日、周留城もついに陥落した。北方の任存城で最後まで抗戦していた遅受信もついに投降し、「百済の余燼はことごとく平定された」(150ページ)。こうして百済は完全に滅亡したのである。

 白村江の戦の敗因として、小出しに兵を送るという戦略の欠陥、豪族軍と国造軍の寄せ集めにすぎないという軍事編成の未熟さ、いたずらに突撃を繰り返すという作戦の愚かさ、そして百済復興軍の内部分裂などが指摘されている。それはこれまでの内戦の経験の身に依存し、中国王朝の直接介入という今回の状況の重大さを十分に考慮していないことからくる認識不足の結果であった。
 倉本さんはこれらの通説を受け入れつつ、倭国の政権が5世紀の初頭に高句麗に惨敗した記憶を忘れ去っていたことが影響していると述べる。「自己に都合のいい経験だけを記憶し、都合の悪い経験は忘却するという、人間が誰しも陥りがちな思考回路に、今回もまんまと嵌まってしまったということになる」(152ページ)。

 白村江の戦の敗戦は古代の倭国→日本最大の敗戦であり、軍事的な失敗であった。(次回に述べるように、東アジアの歴史ということになると、局地的な小事件にすぎないという認識が一般的だそうである。) その倭国→日本の政治と社会に及ぼした影響は甚大なものとなるが、それらについてはまた次回触れるつもりである。 
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR