服部英雄『蒙古襲来と神風』(4)

1月8日(月)曇り、午後になって雨が降りはじめる

 1931(昭和6)年に東大教授であった東洋史家の池内宏が発表した『元寇の新研究』は、2度にわたる蒙古襲来、すなわち文永の役(1274)と弘安の役(1281)の2回ともに、「神風」が吹いて戦闘は短期に決着、蒙古軍は壊滅・退却したと述べて、その影響は今日まで及んでいる。そして日本は神の国であり、危機に陥った時には神風が吹くという非科学的な歴史観が国民によって支持され、戦争の終結を遅らせさえしたのであった。
 この書物は日本・中国・韓国に残された多くの史料を読むことで、この合戦の真相を国際的な文脈を踏まえて明らかにし、後半ではとりわけ貴重な史料である『蒙古襲来絵詞』の分析を行う。

 第1章 日宋貿易とクビライの構想
 文永の役の時点で、元は南方の宋を倒すことをその至上課題としていた。その宋に対して日本は火薬の原料となる硫黄を輸出し続けていた。このため、硫黄の直接調達を目指して襲来したのである。
 第2章 文永の役の推移
 蒙古軍(その主力は高麗軍)は対馬、壱岐を制圧し、九州北部に攻め寄せたが、陸上に拠点を築くことができず、10月24日には大宰府付近まで攻め寄せたが、日本側の抵抗で決定的な勝利を挙げることができず、悪天候を理由として撤退を決めた。嵐が吹いたことは事実と考えられるが、いつのことかをはっきり示す史料はない。
 第3章 弘安の役の推移
 蒙古軍は東路軍(高麗軍と江南軍(旧南宋軍)の2手に分れて来襲、先着した東路軍は志賀島に拠点を築き、戦闘を続けた。江南軍は五島列島から九州北岸へ向かい、閏7月1日(減暦では鷹島沖で台風に遭遇した。東路軍、日本軍も台風の被害を受けたが、江南軍の被害が最も大きかった。しかし、その後も戦闘は続き、7月5日、あるいは7日の海戦は激戦であったが、最終的に蒙古軍は撤退することになった。
 第4章 竹崎季長の背景
 『蒙古襲来絵詞』の発注者である竹崎季長は長門の国竹崎を本貫とし、肥後に移住した武士で、肥後の豪族である菊池氏と同族であり、菊池氏を介して金沢北条氏、また当時の幕府の有力者であった安達泰盛との結びつきをもっていた。高価な絵巻物を作成できるだけの財力を得たのは、日宋貿易を通じてのことであったと考えられる。〔以上前回まで〕

 第5章 『蒙古襲来絵詞』をよむ
 『蒙古襲来絵詞』は天草大矢野家に伝来し、1890(明治23)年宮内省に納められ、皇室財産(御物)となった。現在では宮内庁三の丸尚蔵館所蔵品である。〔三の丸尚蔵館には何度も出かけたが、『蒙古襲来絵詞』を見たかどうかの記憶は定かではない。その当時の関心から、『北野天神縁起絵巻』が複数あることに感心して、そのほかの展示物が記憶に残らなかったようである。〕
 竹崎季長は、文永11年10月20日の戦闘に参加して、重傷を負い、その後の合戦には参加できなかったので、『絵詞』にこの1日のことしか描かれていないが、2巻からなる『絵詞』の前巻の大半がこの戦闘の様子を描くものである。

 現状の『絵詞』は本来の姿ではなく、かなりの部分が失われたり、錯簡があったりする。その大部分が失われた元の『絵詞』の最初の方の詞書(絵の方は大部分が残っている)では、季長が箱崎から博多に向かう場面が記述されていたものと考えられる。騎馬で戦闘へと赴く武者たちを描いた絵から、竹崎季長は姉婿である三井資長の武士団の一員として参加しているという実態が推測できる。
 次に博多沖の浜で少弐景資の陣所で景資と対面する。季長は親族の江田秀家と行動をともにするつもりで、互いに戦功の上人になるときの便宜を考えて、兜の交換をしていたが、肥後の武士の中で真っ先に手柄をあげようと景資の率いる部隊から離れる決断をする。長門の武士である(九州の武士ではない)三井資長は遊軍的存在なので、その配下に入れば、少弐景資の軍命に従わなくてもよいという判断もあったのだろうと考えられるが、季長は自分の行動について釈明し、景資の了解を得たようである。景資は『絵詞』作成時には戦死していたが、『絵詞』を描いた絵師は死後に残された虎の皮の豪華な馬具足を自分の眼で見て、それを『絵詞』に描きこんでいる。
 景資との対面および釈明を終えて、季長は赤坂鳥飼方面に向かう。その道で戦果を挙げて戻ってきた菊池武房の配下の百余騎とすれ違う。2人は初対面であったので、互いに名乗りあう。『絵詞』では武房は最大限に賞賛されている。
 赤坂鳥飼浜における季長と蒙古兵の至近戦は『絵詞』の最大のハイライトである。この場面は異時同図法で描かれており、季長が蒙古兵を追い散らそうとしたが、踏みとどまって戦おうとした蒙古兵がいて、その目を季長は射る、ところがその後、至近の距離に3人の蒙古兵が現われ、音を嫌う馬がてつはう(鉄砲)の破裂に驚いて暴れ出したこともあり、季長は危地に陥る。そこを救出したのが、直後にいた肥後国御家人白石一族の百余騎の軍勢であった。

 前回(12月22日)から間隔が空いてしまったので、これまでの部分の紹介の量が多くなり、バランスの悪い構成になったがご容赦のほどをお願いする。また、『絵詞』の元の姿を復元しながら、それぞれの場面を説明していくのは難しい作業であり、このあたりの記述をわかりにくくしている。まあ、自分の理解できたかぎりで論旨を伝えようとしたつもりであるが、読み間違えた個所もあるかもしれない。次回は、『絵詞』がとらえた弘安の役の推移を辿ることにする。 
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服部英雄『蒙古襲来と神風』(3)

12月22日(金)曇りのち晴れ

 1274年(文永11)、1281年(弘安4)の2度にわたり、蒙古が日本に侵攻してきたが、2度とも日本側が防戦に勝利した。この勝利をめぐり、神風によって、蒙古が退散したという神風史観がいまだに影響をもちつづけている。「神風によって、蒙古が退散した。つまり、二度ともに神風が吹いて、元寇は決着がつく。文永の役では敵は一日で引き返し、弘安の役では嵐によって、肥前鷹島に集結していた敵船が沈み、全滅した。」(ⅰ-ⅱページ)
 ところが、事実はさまざまに違う。文永の役についてみると、1日で敵が帰国した原因とされる嵐は、その日には吹いてはいない。戦闘は1日では終わっていない。蒙古が来襲したのは、台風の襲来にはあまりにも遅い10月である(当時は太陰太陽暦が使われていたので、現在の暦に直すと晩秋か初冬である)。元軍は優勢に戦いを進めてはいたが、日本側の必死の抵抗で九州本土に拠点を確保できず、壱岐を補給拠点として戦っているうちに天候が悪化して戦闘持続が困難になったために、悪天候を理由として撤退したものと考えられる。
 弘安の役についてみると、確かに台風は来たし、沈没船も出たが、大きな被害を受けたのは鷹島に停泊していた後発の江南軍であり、先発の東路軍は博多湾にいてすでに本土に拠点を築いていた。嵐の後も2度の海戦があり、日本が勝利した結果、戦争継続を困難と判断した蒙古軍が退却したのである。

 こうした蒙古襲来の際の戦闘の実際の姿を知るための優れた史料が『蒙古襲来絵詞』である。この「『絵詞』は、合戦に参加した肥後国の竹崎季長が、戦後10年ほどを経て、絵師に描かせたものである。絵師が合戦の様子を聞きながら作成した。文字のみではなく、絵画があるところがすばらしい。700年も前、14世紀初頭という、世界にも例をみない合戦絵巻である。蒙古合戦を考えるうえで、これ以上に良質で情報豊かな史料はないといえる。」(117ページ)
 地方の御家人である竹崎季長がこのような絵巻を作成できたのか、考えてみる必要がある。絵巻は通常、高額なため、皇族、貴族あるいは大社寺しか発注できなかった。高額になった理由の一つは、墨も顔料も輸入品が使われたからである。

 竹崎(藤原)季長の本貫地を探すと、肥後には玉名郡、益城郡、阿蘇郡に竹崎という地名があることがわかる。阿蘇神社の社家である阿蘇氏の中に竹崎を名乗るものがいるが、季長が阿蘇姓ではなく、藤原姓であったことを示す史料がある。『絵詞』の中で、菊池一族と遭遇した季長がその名乗りの中で「同じきうち」と言っていることから、藤原姓を名乗っている菊池氏の一族である可能性がある。〔菊池氏は刀伊の入寇の際に大宰府の権帥としてこれと戦って撃退した藤原隆家の子孫ということになっていたが、実はその際に隆家のもとで奮戦した藤原蔵規の子孫だそうである。〕 季長の身近で戦った武士たちの出身地を考えると、玉名郡の竹崎の可能性が高いと著者は考えている。
 しかし、著者によると、玉名郡竹崎は二次的な名字の地で、本来の出自は、実は長門国竹崎であったのではないかという。季長の烏帽子親は長門守護代の三井季成(すえしげ)であり、そのことから竹崎氏が長門の有力な武士であったことが推測できる。長門の竹崎は赤間関(下関)の一部であり、重要な港のひとつであった。
 長門国豊浦郡竹崎が苗字の地ならば、なぜ肥後国玉名郡に竹崎があるのか。これは地頭として竹崎氏が移り住んだためではないかと服部さんは推測して、いくつかの例を挙げる。〔ここでは挙げられていないが、いちばん目覚ましい例は、東京の渋谷である。相模国渋谷荘は、現在の大和市を中心とする広い地域であり、桓武平氏の秩父重綱の弟河崎基家の孫重国がこの地に住んで渋谷庄司と称した。彼は平治の乱で敗れて奥州に逃れようとした佐々木秀義を自分の館に匿い、秀義の子どもたちが頼朝に仕えて功績があったことから、石橋山の戦いの際には平家方に属していたにもかかわらず、許されてその地位を保つことができた。その一族の一部が東京の渋谷に住みついたので、渋谷という。渋谷の金王八幡神社では渋谷系図を伝えているというから、一度見に行こうと思っている。この神社の前はよく通ったのだが、参拝したことはないのである。〕

 しかし、蒙古との合戦の際に季長や同行した(義兄の)三井資長の兵力は家格のわりに少ない。本領を一族なり、北条氏なり、誰かに奪われていた可能性がある。長門が本貫地で庇護が新恩地だとすると、この移動は承久の乱後、あるいは宝治合戦による三浦氏滅亡後であろう。
 地名が新たに竹崎になった理由としては、玉名郡での季長、あるいはその父、または祖父にきわめて顕著で卓越した行動力があったからではないかと想定できる。高額な絵詞を作成できたのは、それだけの財力があったからであろう。そこで考えられるのは、この一族が日宋貿易にかかわっていた可能性である。
 菊池川の川床から表面採集された陶磁器には、博多から出土する中国陶磁と同じ、優品の青白磁、また墨書土器が大量にあるそうである。九州で有数の杉の産地である小国から切り出された杉の木が菊池川を下って海岸から宋へと輸出されたと思われる。小国には鎮西探題北条氏の拠点があった。さらに阿蘇・九重・雲仙では硫黄を産出した。日宋貿易を志向していた北条氏はこれらの産出地をその支配下におさめていた。

 菊池氏は蒙古襲来前後には鎌倉・北条実時家と深い交流があった。北条実時は金沢北条氏で、一族の中でも特に日宋貿易に積極的な家であった。金沢北条氏の顕時は安達泰盛の娘を妻にしており、両者は連携関係にあった。竹崎氏の財力と、並びに同族で中央政界とも結びついていた菊池氏の財力の由来は、大陸に至近の九州西部に基盤があること、木材、場合によっては硫黄をも宋に輸出できたことにあったと著者は考えている。
 竹崎氏は海洋性を特色とする武士団であったことがわかる。交易に依存する場合と違って、収入の変化が大きかったと思われる。おそらくは、思わぬ臨時収入があったことが絵詞作成の直接の動機であったと考えられる。絵詞では菊池一族の存在が強調されているが、あるいは菊池一族からも作成のための費用を出してもらっていたのかもしれないという。

 このあたり、鎌倉時代の武士たちの経済的基盤の一端が明らかにされていて興味深い。菊池氏はこの少し後の南北朝時代には後醍醐天皇方として活躍することになるが、もともと1285年(弘安8)の霜月騒動で殺害された安達泰盛派であったというのは納得のいくところである。海洋性の武士団ということから、同じく後醍醐天皇方として活躍した名和氏が山陰の海上交易に携わった武士ではないかと言われていることを思い出した。安達泰盛は、この後の第5章で詳しく内容が検討される『蒙古襲来絵詞』にも登場するので、ご期待ください。

服部英雄『蒙古襲来と神風』(2)

12月15日(金)曇り、一時晴れ

 文永11年(1274)冬と、弘安4年(1281)夏から秋の2回にわたって、クビライの支配する蒙古(元)が日本を攻撃した(元寇:文永の役、弘安の役)。この時2度とも「神風」が吹いて日本は勝利することができたという人々がいる。この考えは池内宏(1931)『元寇の新研究』以来定説化してきたが、この研究は史料を洗いなおすことでこの通説を批判している。
 元が日本を攻撃したのは、当時の日本が火薬の原料となる硫黄の産出国であり、その硫黄が元と敵対する南宋に輸出していたからで、その主な産地である九州を確保するために、地方の政治的な中心である大宰府を目指して、九州北部に来寇したと考えられる。
 文永の役に動員されたのは主として高麗の兵であり、その数は通説が主張してきた数よりは少なかったと推測されるが、日本側に比べて数においては勝っていた。しかし、陸上に拠点を築くことができず、兵站・補給の問題点を克服できなかった。10月20日の激戦の後、蒙古軍は10日余り日本に滞在し、作戦を継続、24日には大宰府まで攻め寄せたが、日本軍の反撃のために決定的な勝利を挙げることができず、天候の悪化という条件も加わって退却したものと考えられる(季節から見て、台風ではなく冬の低気圧の影響である。嵐の到来が作戦継続中のことか、撤退中のことかについてはたしかな判断材料がない)。したがって暴風のため一日で退却したわけではない。

 以上が第2章までの概要で、今回は弘安の役の経過を述べる第3章についてみていく。服部さんは弘安の役に関しても、定説には不自然な点が多いという。
 弘安の役において元軍は、東路軍(高麗軍)と江南軍(旧南宋軍)の2手に分れて来襲したが、まず東路軍は5月3日に朝鮮半島南海岸の合浦を出発、通説では19日かかって対馬についたとなっているが、これはいかにも不自然でその日のうちに対馬に到着し、8日ごろまでに対馬全島を掌握したと考えている。その前後の例をみても、朝鮮半島から対馬に渡るのには必ず1日で渡海している。
 さらに池内説では7月に鷹島(長崎県)に全軍が終結したとしているが、服部さんは東路軍は既に5月に志賀島(福岡県)に拠点を築いていたとみている。それは高麗側の記録にある「日本世界村大明浦」をどこに否定するかの問題で、池内は対馬の佐賀であるというかなり根拠薄弱な説を採用しているが、既に江戸時代に松下見林が志賀島であると説いているし、大宰府に近い志賀島を高麗軍が占拠・死守したのは戦略上も合理的であるというのである。

 5月26日、蒙古・高麗軍は志賀島に上陸し、ここに陣地を築く。陣地を築いていたことは『蒙古襲来絵詞』の描写によって確認できる。日本側は直ちに奪回行動に移ることはできず、動き出したのは6月初旬になってからのことであり、6月8日には両軍の間で烈しい戦闘が展開された。日本側は圧倒的に有利な蒙古・高麗軍に対抗するためにゲリラ戦、夜襲を多用した。
 蒙古・高麗軍はさらに長門にも押し寄せた。志賀島を占拠したとはいうものの、九州本土に上陸できなかったために、対馬・壱岐から補給を受ける必要があったので、日本側は息を攻略して相手の補給路を断つ作戦に出た。6月末から7月初めにかけてのことである。この戦闘は日本側も元の側も自分たちが勝ったように記録しているので、真相はわからない。

 ところがこれまでの東路軍に加えて、西方から江南軍が日本に来襲した。こちらは6月18日に舟山(中国の東海岸にある寧波の沖にある島)を出発し、25日ごろには日本の五島列島に到着、7月初めに平戸島、15日ごろに鷹島に到着したものと考えられる。ここで、東路軍が鷹島に移動して江南軍に合流したとするのが通説であるが、大宰府に近く、有利な根拠地である志賀島を東路軍が捨てて西に向かうというのは合理的な選択とは思われないという。

 ここで日本の暦では閏7月1日、元の暦では8月1日に台風が来て、鷹島沖に停泊していた艦船が沈没した。志賀島の東路軍も高島の江南軍も被害を受け、都の貴族たちは神のおかげであると喜んだが、日本でも民衆に大きな被害が出たことを日蓮のような人は見落とさなかった。1日の暴風を受けて、日本側は5日に博多湾総攻撃、7日に鷹島総攻撃を行った。激しい戦闘が続いたが、元軍は退却した。東路軍の被害は少なかったが、老朽船が多かった江南軍の被害は大きかった。捕虜となった高麗人体で殺されたものは少なく、むしろその技能を評価されて日本に留まり、活躍した者もいた。さらに弘安の役が終了して11年が経過した正応5年(1292)には高麗国王から捕虜の待遇に対して感謝する内容を含む国書が「日本国王殿下」あてに届いている(本題に関係がないから、服部さんは深く掘り下げていないけれども、この時点で、日本の最高権力者が「治天の君」(政治を行っている天皇または上皇)であると考えられていたことは重要である)。

 「弘安の役」の過程については、最後の方の戦闘の記述があまり具体的でないという問題がある。これは信頼すべき史料が乏しいということもあるのだろうが、やや残念である。第4章では、服部さんが最も重要な史料であるという『蒙古襲来絵詞』の「主人公」である竹崎季長について語られ、第5章では『蒙古襲来絵詞の』具体的な分析が展開されるので、そこでどこまで戦闘の実際がたどられているかを見ることにしよう。 

服部英雄『蒙古襲来と神風』

12月7日(木)晴れ

 12月6日、服部英雄『蒙古襲来と神風』(中公新書)を読み終える。

 鎌倉時代の中期に元(蒙古)の軍隊が日本に来寇したが、2度とも「神風」が吹いて決着がついたと、かなりの人々が理解しており、一部の(検定済み)教科書にもそう書かれ、学校で教えられている。この「通説」により形成された「神風史観」は近代日本の動静に大きな影響を与えた。

 確かに多くの歴史家もこの「通説を信じていて」そのように書いた一般向けの著作は多い。しかし、その根拠となる史料はない。文永の役の際に、1日で敵が帰国した原因となったといわれる嵐は文永11年(1274)10月20日夜に吹いてはいない。九州本土における戦闘はこの日だけであったと記すのは『八幡愚童訓』だけで、そこに書かれているのは筥崎宮が焼かれたことで怒った八幡神が追い返したと記されている。

 続く弘安の役では、確かに台風が来たし、実際に鷹島沖に船は沈んでいる。蒙古は手痛い打撃を受けて不利になった。ただし、鷹島に停泊していたのは元の艦隊の全部ではなく、旧南宋軍である江南軍であった。朝鮮半島の高麗を中心とする先遣部隊(東路軍)は、太宰府付近の博多湾にいた。台風通過は弘安4年(1281)閏7月1日。その4日後の7月5日に博多湾・志賀島沖海戦、さらに2日後の7月7日に鷹島沖海戦があり、ともに日本が勝利した。嵐・台風が決着をつけた訳ではなく、その後にも合戦は継続されていた。2つの海戦の結果、戦争継続は困難と判断した蒙古軍は、江南軍・東路軍ともに、鷹島・志賀島からの退却を決めた。台風は蒙古の舟だけでなく、日本の舟も鎮めて甚大な被害を与えているので、「神風」とはいえそうもない。中国や高麗に戻った将兵は、大風雨の被害を誇張することで、敗戦の責任を逃れようとした。史料を読み直すことで戦闘と「神風」の実態は「通説」と違った形であることがわかる。

 クビライが日本を攻略した理由は、日本が宋を支援し続けていることであった。日本はそうと長く友好関係を続け、それ以外の国は戎夷としか認識していなかった。また日本が宋に輸出している硫黄は火薬の重要な原料であった。その供給を阻止することは、宋を滅ぼすためにも必要であった。

 このような国際関係が背景となっているので、合戦の推移を読み解く手がかりとなる資料は日本・中国・韓国に多く残されている。それらとともに、いやそれよりもさらに貴重なのは、合戦に参加した武士竹崎季長が自らの経験を踏まえて、自ら指揮して絵師に描かせた絵巻『蒙古襲来絵詞』である(なお、この絵巻には、台風(神風)の場面はまったく描かれていない)。この書物は、こうした資料の分析をとおして、戦闘と「神風」の実態を明らかにしようとするものである。

 この書物の目次は次のようなものである。
序 章 神風と近代史
第一章 日宋貿易とクビライの構想
第二章 文永の役の推移
     第一節 蒙古・高麗軍の規模
     第二節 合浦・対馬・壱岐
第三章 弘安の役の推移
     第一節 東路軍の侵攻、世界村はどこか
     第二節 東路軍拠点・志賀島の攻防
     第三節 江南軍、鷹島へ
     第四節 閏七月一日の暴風
     第五節 台風後の死闘
     第六節 海底遺跡が語ること
     第七節 終戦、その後
第四章 竹崎季長の背景
第五章 『蒙古襲来絵詞』をよむ
     第一節 『絵詞』に描かれた文永の役の推移
     第二節 『絵詞』に描かれた弘安の役の推移
     第三節 鎌倉・安達泰盛邸でのできごとの意味
第六章 その後の日元関係
第七章 遺跡から見た蒙古襲来
     第一節 石築地
     第二節 鷹島神崎沖・海底遺跡と沈没船
終 章 再び神風と近代へ

 既に著者の主張の主な部分は示してあるので、各章ごとの紹介・論評は簡単なものにとどめておく。今回は、第二章までを取り上げ、以下はまたの機会に紹介・論評することにする。
 序章では、侵攻してきた蒙古が神風によって撃退したという「神話」が、近代になると民衆の間に浸透し、特に学校教育によって子どもたちの心の中に植え付けられたことが語られている。大戦中、学徒兵であった人たちの記憶によると、上官が「ちっとも神風が吹かんなぁ」と言っているのを聞いたそうである。

 第一章では(すでに述べたように)日宋貿易における日本側からの輸出品の主なものが木材と硫黄であったこと、兵器製造用である硫黄が日本から輸出されているのを阻止し、自分たちのものとしようとする物質戦争であったことが述べられている。そしてそのために、独立性の強い行政機関である大宰府を攻略することが目的であったので、九州北岸に侵攻してきたと論じている。

 第二章では文永の役の際の蒙古・高麗軍の規模として、『高麗史』に記す「900艘」の実態は「大船300艘+ボート600艘」であり、ボートは大船に装備されているから、規模はかなり小さくなること、これは元から出動を命じられた数で当時の高麗の国力では動員できる数ではなく、実際に日本に赴いたのは126艘以下であったことが考察されている。しかも、当時の朝鮮半島には元に反旗を翻している三別抄という勢力が南部で抵抗を続けていて高麗王朝が一枚岩ではなかったことも注記されている。軍の規模をめぐる歴史書の記述にはかなり誇張があることが、兵船の大きさなどを考慮して論じられている。
 蒙古(実質的には高麗)軍は対馬、壱岐を占領し、九州の北岸、博多付近に上陸して拠点を築こうとした。これに対し、太宰少弐で筑前守護であった少弐経資を総帥とする日本の武士たちは、後に福岡城が築かれる赤坂山(警固山)に拠点を築いて対抗、戦いは蒙古側がやや優勢であったが、陸地に拠点を築くことができず、戦局が停滞しているうちに異常気象のために被害を受けた蒙古側がこれ以上の戦闘の継続を望まずに撤退したと考えられる。当時の暦で10月、現在の暦で11月のことなので、台風というよりも寒冷前線の通過に伴う暴風であったとみるべきではないかというのが著者の意見である。

 弘安の役を取り上げている第3章を読むとさらにはっきりするが、蒙古側の軍勢の方が数は多かったが、兵站・補給の点で難があり、士気も高くなかったので、必死の防戦に努める日本の武士たちの反撃を打ち破ることができなかったという側面の方が、天候の影響よりも大きいことが読み取れる。特に文永の役の場合には、九州の陸地に拠点を築くことができなかったというのが、いちばん大きな蒙古側の敗因であるということであろう。
 この書物の中に登場する武士たちの中には、その後、南北朝時代に活躍する武士と同じ姓の人物が少なからずいて、それぞれの系譜関係なども気にしながら読んでいた。これまで通説とされていた池内宏(1931)『元寇の新研究』の議論をしっかり読み込んで問題点を考え直していく手際はなかなか小気味がいい。

澤井繁男『ルネサンス再入門 複数形の文化』

11月23日(木)午前中は雨が降っていたが、昼頃に晴れ、その後また雲が多くなる。変わりやすい天気である。

 11月20日、澤井繁男『ルネサンス再入門 複数形の文化』(平凡社新書)を読み終える。「再入門」という題名通り、ルネサンスについて一応の知識をもっている人が、自分の知識や理解を整理しなおし、考え直すきっかけになることを意図した書物である。ルネサンスという時代がどのような時代であったのか、先行する<中世>という時代、後続の<近代>という時代とどのような境界によってわけ隔てられているか(あるいはいないか)、その内実はどのようなものであったのかを、次のような構成で考察している。

    まえがき
序章 歴史の<境界>
 1 時代区分
 2 ルネサンス観の変遷
 3 ルネサンス文化の担い手たち
第1章 「術」と「学」
 1 錬金術と化学
 2 占星術と天文学
第2章 中世からルネサンスへ
 1 『イル・ノヴェッリーノ』の意義
 2 「三つの指輪」の変遷
 3 都市の心象
 『イル・ノヴェッリーノ』の構成
第3章 ルネサンスから近代へ
 1 カンパネッラ『事物の感覚と魔術について』
 2 カンパネッラ『哲学詩集』
    参考文献
    あとがきにかえて

 「あとがきにかえて」ではフランスの歴史家であるジャック・ル=ゴフの『時代区分は本当に必要か?――連続性と不連続性を再考する』(菅沼潤訳、藤原書店、2016)を読んでの著者の感想が、付け加えられている。
 序章で、ルネサンス期に生きた人々の同時代観や、その後の人々のルネサンスへの評価、さらにルネサンスをめぐる古典的な名著の内容が論評される。第1章では科学革命の中世における「学知・学問」との連続性及び不連続性が考察されている。ここまではかなり大きく構えて議論が展開されているのだが、第2章は「中世からルネサンスへ」という看板を掲げながら、13世紀のフィレンツェで書かれた物語集である『イル・ノヴェッリーノ』と後続の文学作品、特にボッカッチョの『デカメロン』の内容の比較、これらの物語集に含まれている「三つの指輪」(3人兄弟の間での相続をめぐる説話なのだが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教のうちどれが真正の宗教であるかという問題と絡んでくる)の説話の変遷をめぐる考察に議論が限定されてきている。第3章も同様に「ルネサンスから近代へ」という表題を掲げながら、南イタリア出身の<自然魔術師>トンマーゾ・カンパネッラ(1568-1639)についての考察に終わっている。第2章、第3章とも、興味深い問題が考察されてはいるのだが、それぞれの掲げた表題と内容との間の溝は深い。「あとがき」によると著者はイタリア文学出身であり、また、ルネサンスの発祥地の地であり、中心地であったのはイタリアである(そのくせルネサンスという言葉はフランス語である)から当然のことともいえるのだが、内容がイタリア(もちろん、イタリアといっても、その中での地域的な多様性があるとはいえ)に偏りすぎているのは、残念に思われる。

 この書物についての詳しい考察は、今後に機会を見付けて展開するつもりであるが、著者が「まえがき」の中で、議論の出発点となるような「ルネサンス文化の特徴」について紹介して、それらをめぐる私の若干の感想を述べて今回の紹介を終えることにする。
 1 ルネサンス文化は地中海の風土によって育まれたもので、ラテン民族の復興であること。
 2 ルネサンス文化運動は都市を中軸とした、大学からではなく在野(例えば、フィレンツェのプラトン・アカデミー、ナポリの自然秘密学院などの知識人のサロン)から起こったものであること。
 3 ヘブライズム(神の啓示による正義と愛を基調とするキリスト教精神)の中に、ヘレニズムの地(人間中心、ギリシア精神)が頻繁に顔を出す文化現象であったこと。
 4 天上界(マクロコスモス)と地上界(ミクロコスモス)の照応、感応という理念が信じられていたこと。
 5 「頭脳」と「手技」――「地」と「技」の一体化が生じて、経験主義への趨勢が顕著だったこと。たとえば、ルネサンス期以前で、「解剖」を担当したのが「理髪外科医」という専門家であって、知識人(教授)はそれを黙ってみていたのだが、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1451-1519)の例でもわかるように、一人の人物が「知」と「技」を用いてメスを握るようになっていった点があげられよう。
 6 古い時代や考え、それに制度などをよしとする尚古的な傾向が強くみられたこと。
 7 「聖的・来世肯定」ではなく「世俗的・現世肯定」であったこと。
 8 戦争が続いた戦乱の世であったこと。
 9 宗教的融和が求められて、ひとびとは(宗教上の)平和を切望したこと。
 10 一部の上層階級が主導した文化運動であったこと。
 (8-9ページ) さらに、「この時期オスマン帝国に代表される東方世界と西方世界には断絶がなく、その交流が活況を呈していた」(9ページ)という背景の事情が付け加えられている。
 この時代の特徴として著者は、三大発明(羅針盤、活版印刷、火薬)、特に羅針盤の発明と普及による大航海時代の到来と、それらに誘発されたパラダイムの転換→科学革命についても触れている。

 ここで著者が概観していることは、イタリアだけでなく、西ヨーロッパに広く当てはまるわけであるが、領主の館にはルネサンスが到来したけれども、農民の生活はルネサンスとは無関係だったというようなことも言えるので、問題はかなり複雑である。おそらく著者が「複数形」というのはそういうことと関係してくるのであろうと思う。しかし、ルネサンスに伴って起きた科学技術の革新は次第に農民の生活にも影響を及ぼしてくるというのもたしかである。

 ルネサンスの特徴として、特に印象に残るのは、それが大学とは無関係であったということで、フランス・ルネサンスを代表する作家ラブレ-の『ガルガンチュアとパンタグリュエル』でも、大学の先生方というのはルネサンスの精神とは無関係の中世風の哲学に凝り固まった連中として戯画的に描かれている。フランソワⅠ世が今日のコレージュ・ド・フランスの前身となる王立教授団を創設したのも、イタリアにおける知識人のサロンの例に倣ってのことなのであろうが、それが制度として発展したというところにフランス独自の伝統の形成を認めてよいのだろう。
 これは以前にも書いたが、シラノ・ド・ベルジュラックの『日月両世界旅行記』の第2部「太陽諸国諸帝国」に「太陽の都」の著者であるカンパネッラと、シラノの年長の同時代人であるデカルトが登場する。そこまで行くと近代ということなのであろう。
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