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細川重男『執権』(6)

1月17日(金)曇り

 この書物は北条氏は将軍位に就かなかったのに、なぜ鎌倉幕府を支配し続けることができたのかを、執権であり得宗でもあった2人の人物、北条義時と時宗のそれぞれの人生と政権、影響について考察することにより、あきらかにしようとするものである。
 これまで見てきたところでは、伊豆の小豪族であった北条氏が一族の娘・政子が頼朝の妻になることによって幕府の中で重要な地位を占めるようになり、つぎつぎと政敵を倒して権力を築く過程、そのなかで北条義時が積極的に役割を果たすというよりも、事態に消極的に対応しながら、しだいにその地位を固めていったことが明らかにされている。ところで、注目すべきは鎌倉時代に成立した説話集である『古今著聞集』に義時は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えた武内宿禰の生まれ変わりであるという説話が収められていることで、少なくとも朝廷や鎌倉幕府に関係する知識層の中では、これが信じられていたように思われる。義時が八幡神の命により再誕した武内宿禰であるという説話は、その子孫である北条氏得宗家の正当性を裏書きするものとなった。

 得宗とは何か
義時と「得宗」の謎
 しかし、それでは、「得宗」とはいったい何を意味する語なのであろうか。北条氏嫡流の家系は「得宗家」、北条氏家督に権力の集中した鎌倉幕府政治の第3段階は「得宗専制政治」、北条氏家督の家政機関は「得宗家公文所」、北条氏家督の所領は「得宗領」、鎌倉時代当時には「御内人」と呼ばれていた北条氏家督の家臣は学術用語で「得宗被官」と呼ばれ、後期鎌倉幕府を「得宗政権」と呼ぶことすらある。ところで、「得宗」は、北条義時に関係する何かだと理解されているが、その「何か」があまりはっきりしない。
 そもそも、得宗が義時と結びつく語であるということを示す史料がほとんどないのである。わずかに、鎌倉幕府滅亡26年後の延文4年(1359)に記された「石清水社務嚢清注進状」に義時が得宗と号す(義時には得宗という別名があった)という割注が加えられているのが見られるだけである。細川さんは、この史料は、信用していいのではないかと論じる。しかし、義時が出家して名乗った法名は「観海」である。だから「得宗」が義時の法名であった可能性は否定される。

時頼と得宗
 史料を調べると、「得宗」は「徳宗」または「徳崇」と書く場合があったことが分かる。あるいは、得宗は「徳崇」の当て字、略字なのではないかと、細川さんは推測する。というのは、時頼以後の北条得宗の歴代の法名には「崇」路を用いる例が多いのである。つまり、時頼が道崇、貞時が崇暁、後に崇演、高時が崇鑑であり、他にも得宗に近かった有力者で崇を法名に用いた例があるという。そして、この「崇」というのは禅宗系の法名に用いられているので、得宗家が禅宗に帰依するようになった時頼の時代に、義時に対して改めて「徳崇」という法名を贈った可能性があると推測している。

 というのは時頼には義時に対して共感を覚えるような事情があったからだと推測は続く。もともと時頼には経時という兄がいたが、病弱なために執権職を譲られたという経緯があり、一族の中にはこの継承に異議を唱えるものがあって、それが一族の有力者である名越光時の反抗(宮騒動)となって現れたという。さらに宝治合戦によって三浦氏、毛利氏などの敵対する勢力を滅ぼして執権職を守ることになる。さらには彼にとって大叔父となる重時を六波羅から鎌倉に呼び戻し、連署の地位に据えることによって自分の権力を固め、その娘を妻に迎えさえしている。このように自分の地位の正統性に欠けるところがあるという自覚を持っていた時頼には、同じような立場ながら家督を継承した義時に共感するだけでなく、その共通性を強調することによって、かえって自分の地位を強化できると考えたのではないか。それが義時への追号となって現れたのであろうというのである。

 神話と実像の間
 子孫やその周辺の人々によって武内宿禰の生まれ変わりというような神話的な存在に祭り上げられたのであるが、義時の実像はそのような存在とは程遠いものであったと細川さんは考えている。
 「有象無象の東国武士団北条氏の庶子に生まれた江間小四郎義時は、18歳の治承4年(1180)8月17日までは、父時政より北条の西隣江間郷を割き与えられただけの存在であり、兄宗時の家子として生きる以外の将来はなかった。源頼朝挙兵後の運命は、義時自身の予想だにもしなかったことの連続であったであろう。
 義時の人生を鳥瞰してみると、本人の意志とは無関係に次々に押し寄せる災難に振り回され続けであったとしか思えない。姉政子が流人頼朝と結ばれることなく、また頼朝が鎌倉幕府の創始者とならなければ、良いときは無名の東国節として生きたはずである。」(104ページ)
 頼朝挙兵、鎌倉幕府の創設、頼朝死後の幕府の内部抗争という激動の中で、義時は自分自身と周囲の人々を守るために戦い、結果的に勝利し続けただけに過ぎないのではないかと細川さんは言う。「勝利のたびに義時の地位は向上し、それはさらに大きな災難を呼んだ。その果てに承久の乱の勝利がある。」(同上)
 
 神格化されていった義時であるが、彼の実像は次のような挿話から窺い知るべきなのではなかろうか。
 承久の乱の最中に、義時邸の台所に落雷があり、下働きの男1人が犠牲になった。義時は恐れおのの生き、大江博元を呼んでこれは幕府の運命もこれまでという前兆ではないかと訴えた。
 すると広元はこれは凶兆ではない。頼朝が奥州合戦に赴こうとした時も落雷に見舞われたが、合戦には勝利を収めた。もし心配ならば占いでもしてみればいい。
 そこで陰陽師を呼んで占わせたところ、結果は最吉と出たと『吾妻鏡』は記しているという。〔細川さんはそこまで書いていないけれども、占いなんてものは、いくらでもごまかしが可能である。〕 義時にしても、院に戦いを挑むことは怖かったのである。彼もまた天皇と王朝を素朴に尊崇する中世人の一人であったのだという〔というのはいいけれども、そうなるとずっと強硬な意見を主張し続けている大江広元はどうかという問題が出てくるはずである〕。

 しかし、その義時が、彼の子孫やその取り巻きたちにとって、北条氏には鎌倉幕府を支えていく歴史的使命があるという一種の「王権神授説」の理論的根拠を与えることになったのは、歴史の皮肉というべきであろうか。
 ということで、第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」を終る。歴史よりも、伝説の方に興味がある私にとっては、後半の方が面白いと思うのだが、読者の皆さんはどうお考えであろうか。次回からは、第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」を取り上げることになる。さて、細川さんは時宗の実像をどのようなものと把握しているのであろうか。それはまたこれからのお楽しみ。
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木村茂光『平将門の乱を読み解く』(5)

1月16日(木)曇り

 平将門の乱は承平5年(935)から天慶3年(940)までのあいだ北関東を中心に展開された<武士の最初の反乱>であるが、この書物はその事態の推移よりも、その「時代的特徴」に焦点を当てて、八幡神や道真の霊魂の出現に見られる国家的な神祇体系の変化、および王土王民思想に代表される国家的イデオロギーの発現など、当時の国家支配の性格との関連に留意して、その性格を明らかにしようとするものである。
 この反乱の誘因となったのは関東地方の治安維持のために派遣された「一種の辺境軍事貴族」であった平氏一族の内紛であるが、将門が一族を相手に争乱を起こしたのは東北と京の中間に位置し、東北の富を都に運ぶ際の要路であった筑波山西麓の支配権をめぐる対立がもとであったと著者は考えている。
 将門の乱の第2段階は、将門による武蔵国府における紛争への介入、常陸国府、下野・上野国府襲撃であるが、その際に将門が国府における紛争に介入できる地位にあったことが重要であり、この間、将門と国府のあいだに「移牒」と呼ばれる文書が交わされていることから、将門は軍事貴族として国衙から独立し、対等に交渉し得る地位にあったと著者は考えている。〔以上これまでの要約〕

 将門の政治的地位(二)――「営所」の性格を中心に
「営所」をめぐる諸説
 「『移牒』とならんで、将門の在地社会における政治的地位を示すと考えられるのが『営所』である。将門の本拠地の石井(いわい)が『営所』と呼ばれているのがそれである。」(89ページ) 
 「営所」をめぐっては、「軍事的拠点」と理解する見解が有力であるが、それが郡をまたいで複数存在することから、単なる「軍事的拠点」ではなかったと考える意見もある。

水守営所と石井営所
 著者は『将門記』を検討して、書中に「営所」は3か所(平良兼の水守営所、将門の石井営所、源経基が籠った武蔵国比企郡狭服山の営所)しか登場せず、1人の武将が複数の「営所」を行き来していたとは考えにくいとするが、その性格について、「軍事的拠点」であるだけでなく、「政治的拠点」の機能も持っていたと考えている。

武蔵国狭服山の営所
 著者は『将門記』における武蔵国府の内紛への将門の介入をめぐる記述の分析から、「営所」は国府による国内支配に関連した公的、あるいは準公的な施設であったと考えている。

「営所」の準公的な性格
 将門は移牒を石井の営所で受け取っており、その際、宛名として本来役所を意味する「衙」という文字が添えられていることから、将門の石井営所も、擬似官司化した存在であり、準公的な性格をもっていたのではなかったかと考えている。 

 将門と平氏一族の政治的地位
将門の自立性
 これまで展開してきた分析をまとめると、次のようになる。
 「武蔵国府から始まる国府襲撃事件は、それぞれ性格に違いがあり一括して議論することはできない。」(102ページ) この場合は、将門が調停者として登場していること、にもかかわらず経基の上奏によって将門に「反乱」の意図があるという汚名が着せられてしまったことに注目すべきであろう。
 常陸国の場合は、調停者であった将門が、ここで反乱者に姿を変えている点が重要であり、彼は自分が皇統に連なることから、反乱を起こすことを自ら宣言している。さらに、下野・上野両国府の場合は、反乱の完成にむかおうとしている。

 将門は軍事貴族としての自立性を持っており、律令制における官司としての地位はもっていなかったが、地方の軍事貴族として自らを「擬似官司化」した存在であった。彼のこのような存在を支えたのは、関東において辺境軍事貴族としての平氏が築き上げてきた政治的地位があったと考えられる。

10世紀前半、平氏一族の政治的地位
 以上のことから、平将門の関東地方における政治的な地位は国司と「移牒」のやりとりができる「擬似官司化」したものであり、それに加えて「営所」という準公的な施設=政治拠点を持つことのできるほどのものであったことが分かる。
 しかし、このような地位は、将門だけでなく、平氏一族の他の人物も持っていたものと考えられる。それは10世紀前半の平氏一族が共通して持つことの出来るものであったと考えられる。したがって、そのなかで将門を反乱に踏み切らせたのは、一族として保持していた関東諸国に対する広域的な支配権と奥羽・蝦夷の富に対する利権であって、私的な原因に基づくものではなかったと考えられる。

 その後の将門の行動と、その背景の事情についてはまた次回に。

細川重男『執権』(5)

1月9日(木)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。夕方になって雲が多くなってきた。

 鎌倉幕府の歴史は、東国の武士たちが自分たちによる支配機構を築こうと悪戦苦闘した歴史であり、細川さんによるとそのための「ムダな流血の連続」(14ページ)が見られた。この書物は、その最終的な勝者である北条氏が権力を手にしながらなぜ将軍にならなかったのかという問題をはじめとして、その権力とのかかわり、権力についての考え方を、北条義時と時宗という2人の執権の生き方と仕事ぶりをたどりながら、あきらかにしていく。
 第1章「北条氏という家」では、もともと伊豆の小土豪に過ぎなかった北条氏が、時政の娘の政子の夫である源頼朝が鎌倉幕府を開いたことにより、その地位を急上昇させたことが述べられている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」のこれまで見てきた部分では、時政の庶子であった義時が、鎌倉幕府の様々な内紛の中で、あまり積極的に動こうとしなかったことがかえって幸いして、その地位を上昇させ、ついに幕府への権力集中をはかる。その過程で御家人たちの抵抗を受けるが、和田合戦(建保元年、1213)に勝利して、その地位を確固たるものとする。さらに、3代将軍実朝の死(承久元年、1219)、承久の乱(承久3年、1221)という危機を乗り切って御家人たちの不動の信頼を得ることになる。

  関東武内宿禰伝説
 武家政権の創始者
 一般に鎌倉北条氏の始祖は時政と考えられている。例えば『太平記』巻5の「時政参籠榎嶋事」では、北条氏の繁栄は時政の前世における善行のためであるとする説話を語っている。〔この話は、『太平記』を読む前から知っていたし、このブログにおける『太平記』の紹介の中でも取り上げた。〕
 鎌倉幕府ができたころ、時政は江ノ島に参篭して、子孫の繁昌を祈願した。すると、21日目の夜に美しい女房が彼の眼前に現れ、時政の前世は箱根権現の法師であったが、66部の法華経を映して日本66か所の霊場に奉納した善行により、再びこの伊豆の地に生まれることができたのであり、時政の子孫は長く日本を支配するだろう。しかし、正しい行いをしなければ、その支配は7代をすぎることはない。もしこの言葉が嘘だと思ったら、諸国の霊地を調べてみればよい。
 というと、女房はたちまち体長20丈(60メートル!)の大蛇となって、海中に姿を消した。大蛇は江ノ島弁財天の使いであったのである。
 そこで、時政は各地の霊場に人を遣わして調べさせてみたところ、奉納筒に「大法師時政」と記した法華経が発見された。
 女房が立っていた場所には大きな3枚の鱗が落ちていた。時政はその鱗を拾い、それが北条氏の三鱗紋の起源となったという。この話では北条氏の始祖は時政と考えられている。

 しかし、『太平記』の中には、義時の功績を高く評価している個所もある〔巻1に見られるという。読んだはずだが、読み落とした。問題意識をもって読んでいないと、読み落とす箇所が多くなるという一例である〕と細川さんは指摘している。また、足利尊氏の室町幕府樹立宣言『建武式目』には「承久、義時朝臣天下を并吞(のみこむ)す」(90ページに引用)と、義時を高く評価する文言が見られるという。

 「武内宿禰再誕」伝説
 時政の江の島参籠の説話よりも、さらに奇妙な説話が義時をめぐってあるという。建長6年(1254)成立の『古今著聞集』の中に、ある人が八幡神社参籠した夜に、夢を見て、義時が八幡神の命を受けた武内宿禰の生まれ変わりであることを知ったという説話が収められている。実は義時が武内宿禰の生まれ変わりであるという認識が鎌倉時代末期の幕府の知識層の間にあったことを示す文書が他にもある。この時代の人々には「生まれ変わり」や「夢のお告げ」がリアルな説得力を持っていたことを考えると、これは無視できない事柄である。

 中世神話創出の構造
 ではなぜ、義時が武内宿禰の生まれ変わりであるといされるのか、またこの奇妙な伝説はどうして生まれたのかを考えてみよう。まず、両者の共通点として、数代の主君(武内宿禰の場合は天皇、義時の場合は将軍)に仕えたことが挙げられる。数字があわない点はあるが、複数の主君に仕えた点が重要である。
 次に、武内宿禰の場合は神功皇后、義時の場合には政子という重要な役割を果たした女性の存在も共通する。同じように神功皇后の子である応神天皇に対応するのは、鎌倉4代将軍藤原頼経である。
 また武内宿禰は応神天皇の即位に反対して起こった応神の異母兄である香坂(かごさか)・忍熊(おしくま)両王の乱を神功皇后とともに平定し、義時は承久の乱を政子を奉じて勝利に導いた。

 さらに、『日本書紀』その他によると、武内宿禰は弟である甘美内(うましうち)宿禰の讒言により、応神天皇から追討命令を出されたが、弟と盟神探湯で対決して無実を証明し、赦免されたという。これは義時が後鳥羽院から追討宣旨を蒙りながら、承久の乱に勝利したことに対応するものである。おそらく承久の乱における義時の勝利は、あってはならない驚天動地の事態であると感じた貴族たちが、必死で先例をさがしたのではないか、その結果として武内宿禰が発見されたと細川さんは推測している。
 ここで、『古今著聞集』は、ある人が夢を見る舞台をただ「八幡」とだけ記していて、どこの八幡かは記していない。だが、京都(府)の石清水八幡宮の社務田中氏は、武内宿禰の子孫である紀氏の系譜につながっているとされているので、このあたりで鎌倉幕府との関係強化のために作成されたのではないかとの推測もされている。「しかし、この伝説が石清水社の作成であったとしても、九条家・西園寺家などに仕えた王朝貴族橘成季によって義時没の30年後である建長6年(1254)に編纂された『古今著聞集』に記録されたことは、この話が王朝貴族の間に急速に広まったことを示している」(96ページ)と細川さんは記す。〔九条家も西園寺家も鎌倉幕府と縁の深い貴族の家柄であることにも注目したほうがいいのではないかという気もする。〕

 そして、この神話が北条得宗家にとって、得宗家が鎌倉将軍の「御後見」の「正統」の家であること、つまり北条氏得宗の鎌倉幕府支配の理論的な根拠を提供するものであるという。しからば、「得宗」とはなんであるのかという問いが残る。これもこの書物の取り組む重要な問題の一つであるが、それについては、また次回に取り組むことにしよう。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(4)

1月2日(木)曇りのち晴れ

 平将門の乱は承平5年(西暦935年)から天慶3年(西暦940)にかけて北関東を中心に起こった<武士の最初の反乱>であるが、ただ単に東国で起こった反乱とか、武士の発生を示す反乱という評価に押しとどめておくことはできない重大な意味をもっていた。この事件は①皇統に関わる事件だったこと、国家の高度な支配イデオロギーであった王土王民思想が発言された数少ない事件の1つであったことで重要な意味をもつと著者は考えている。
 この書物の中で、著者は次の5点に注目しながら、議論を進めようとしている。
① 将門の乱の誘因となった坂東平氏一族の内紛の原因は何であったのか。
② 将門が国府を襲撃した際の彼の政治的な地位はどのようなものであったのか。
③ 将門が「新皇」に即位した際に八幡神と菅原道真の霊魂が登場したとされるのは、どのような歴史的文脈においてであったのか
④ 将門が「新皇」即位を宣言したことの歴史的韋な意義はどういうものなのか。
⑤ 将門の「冥界消息」が語られたのは、どういう文脈においてであったのか。

 著者は将門の乱の誘因となった平氏一族の内紛は、東北と京の途中に位置し、東北の富を都に運ぶ際の要路であった筑波山西麓の地域の支配権をめぐる争いであったと考えている。〔以上、前回まで紹介した内容〕 将門の父である良望は鎮守府将軍として、東北地方の富を(もちろん部分的に)自分のものとしていたが、無官である将門はそのような利権に与ることができず、そのことが乱の誘因であったと著者は考えている。〔前回、紹介するつもりで紹介できなかった部分の概要。〕

国府襲撃と平将門の政治的地位 「移牒」と「営所」の評価を中心に
 「国府襲撃」事件の経過
  「移牒」と「営所」
 将門の乱の第二段階は、平氏一族の内紛にとどまらず、将門が武蔵国府から始まって常陸国府、下野国府、上野国府を襲い、最後は上野国府で「新皇」宣言に至る過程である。
 この書物では、将門の政治的な位置を解明するために、国府襲撃事件の家庭で、国司と将門との間でたびたびやりとりされた「移牒」「牒」の性格と、『将門記』で将門らの拠点として記されている「営所」の性格とを検討している。

  武蔵国府での事件
 最初は武蔵国府の事件である。将門が武蔵国府に介入するきっかけとなったのは、新任の権守興世王・介源経基と足立郡司武蔵武芝との紛争である。この紛争は『将門記』の記述に従う限り、国衙支配体制の変化に伴う受領と任用国司・郡司との矛盾・対立の構図である。ここで、将門は紛争の当事者としてではなく、調停者として登場している。将門の朝廷の結果として、興世王と武芝との和睦は成立したのだから、これを国府襲撃事件とすることはできない。ただ、この後に起きる事件の導入という役割を持っているかもしれないとは言える。また、ここで(清和源氏の祖とされる)源経基が怖気づいて京に逃げ帰っただけでなく、将門が犯らを起こすかもしれないと密告したことをめぐり、「未だ兵の道に練れずして」(71ページ)と『将門記』の著者に評されていることは注目してよいことである。

  常陸国府襲撃事件
 次の事件の舞台は常陸国府である。武蔵国府での事件で将門の介入により難局を乗り切った興世王が新任の武蔵国守百済貞連と不和になり、下総国の将門のところに「寄宿」するという事態になっていた。
 そこへ、常陸国の豪族である藤原玄明(はるあき)と、常陸介藤原維幾(これちか)が官物の弁済をめぐって対立するという事件が起き、維幾の追及をかわし切れなくなった玄明が将門を頼って下総国豊田軍に逃げ込んだ。維幾は玄明を追捕するよう将門に「移牒(書状)」を送ったが、将門は応えなかった。ここでも、国司と在地土豪との対立に将門が介入するという構図になっていることが注目される。

 将門と常陸国府軍との間に激しい戦闘が展開されたが、将門の勝利に終わる。将門は常陸国守の「印鎰(いんやく)」を奪い、維幾や詔使(天皇の詔によって任命・派遣された使者)を引き連れて豊田郡の鎌輪宿に戻った。「印鎰」{「印」は国司が発給する文書に押す国の印、「鎰」は国衙の財源を納めた国倉の鎰(鍵)のことである}を奪ったこと、「詔使」を連れ去り、監禁したことは、中央政府に対する反乱と見なされても仕方のない行為である。
 このとき、鎌輪宿に寄宿していた興世王が、常陸国だけを討っただけでもその罪は軽くないのだから、この際、坂東全体をかすめ取って、朝廷の出方をうかがう方がいいのではないかと反乱の拡大をそそのかし、将門も自分は桓武天皇の末裔なので、坂東8か国を領有したうえに、京都の朝廷も掠め取っていいはずだとその気になる。いよいよ本格的な反乱の開始である。

  下野・上野国府襲撃事件 → 国府襲撃事件の性格
 大軍をひきいて下野、次に上野の国府に向かった将門に下野、上野の国守は対抗することができず、印鎰を奪われたうえに、京都に追い返されてしまった。

 武蔵国の場合は、将門は国司と地方豪族の間の紛争の調停に乗出しただけで、調停は成功したものの、その際に逃げ出した経基の猜疑心によって反乱者というレッテルを貼られてしまった。とはいえ実際には反乱の意図はなかったと考えられる。次に、常陸の国の場合には国司と地方豪族の間の紛争の調停に失敗するが、その結果、国府軍との交戦にいたり、さらにその結果興世王の扇動もあって、反乱の第一歩が記されることになる。さらに、下野、上野国府襲撃の場合には、介入するような紛争もなく、常陸国府襲撃の延長としての戦闘であって、その性格はかなり異なったものであると考えることができる。

 そこで、このような調停、さらには反乱という動きを見せるに至った将門の地方における政治的な地位はどのようなものであったのかということが問題になるが、それはまた次回ということにする。すでにお気づきかもしれないが、そこで「移牒」と「営所」が問題になるのである。

 

細川重男『執権』(5)

12月20日(金)晴れのち曇り

 鎌倉幕府の歴史は東国の武士たちが自分たちによる支配機構を築こうと悪戦苦闘した歴史であり、著者によれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。その中で勝ち残った北条氏がなぜ将軍位につかなかったのかという問題を中心として、北条氏の権力とのかかわり方、また権力についての考え方を、北条義時と時宗という2人の執権の処世とその後の時代への影響を考察するというのがこの書物の課題である。
 第1章「北条氏という家」では、北条氏がもともと伊豆の小規模な一土豪に過ぎなかったが、時政の娘政子が頼朝の正室となり、頼朝が源氏の棟梁として将軍になることで大きくその地位を上昇させたことが述べられている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」のこれまで扱った箇所では、田舎土豪の庶子であった江間(北条)義時が「何もしない」ことによって頼朝死後の幕府内の権力闘争を生き延び、父親である時政の失脚後、政所別当に就任する。彼の幕府中枢に権力を集中させる政策は、多くの御家人の反発を呼び、侍所の別当であった和田義盛との武力衝突(和田合戦)を起こすが、これに勝利して侍所の長官を兼ねることにより、「執権」としての地位を固めることになった。

第2章 江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの
 覇権への道(続き)
  実朝と義時
 和田合戦以後、将軍実朝のもとで6年弱の平和な期間が過ぎる。細川さんは、これ以前に起きた事件と、この間に起きた事件との2つの事件を取り上げて、実朝と義時の関係を描き出す。これら2つの事件は、実朝の激怒の対象となった人物を、義時がとりなしたという共通性をもち、実朝が結構短気でこわい人物であり、幕府の将軍としての自覚を持っていたこと、実朝と義時との間にはしっかりした信頼関係が出来ていたこと、また義時が結構親切なところがあったことなどを物語っているという。
 「実朝が長寿を保ち、子孫を残していれば、鎌倉幕府の歴史、そして北条氏の運命は、かなり違ったものになったはずである。」(82ページ)

 承久の乱
  代打の将軍
 和田合戦から6年後の承久元年(1219)正月27日、実朝が兄・頼家の遺児である公暁に鶴岡八幡宮の社頭で暗殺されるという事件が起きた。源氏将軍家は三代で滅亡した。
 この事件の黒幕が義時であったという説もあるが、細川さんは北条氏と対立していた比企氏に取り込まれていた頼家と違い、実朝と北条氏の関係は濃密であり、義時の側に彼を暗殺する理由はないと考えている。
 将軍がいなければ幕府は成立しないので、やむを得ず朝廷の最高権力者であった後鳥羽院に皇子の関東下向を願い出る。しかし頼朝没後20年間余りの混乱とその帰結としての将軍家断絶を鎌倉幕府の弱体化と判断した後鳥羽院は皇子下向を拒否、さらに自分の寵愛する舞女亀菊の所領である摂津国(大阪府)長江荘・倉橋荘の地頭罷免を命じる院宣(上皇の命令書)と宣旨(天皇の命令を伝達する文書の一種)を発給した。

 ここはあまりわかりやすくない箇所なので、細川さんの文章をそのまま引用しながら、説明を加えていきたい。
 「古代・中世の日本には『土地そのものを与える・奪う』という発想が、そもそもなかった。であるから、『所領(土地)を与える』ということは、実際には『その土地における権益を与える』ということであった。地頭とは、わかりやすく言えば、私有地(荘園など)の管理人の役職の一つである。頼朝は自分の家臣である御家人に『所領を与える』時、その土地の地頭職に補任(任命)するという形をとったのである。」(83-84ページ) 〔「管理人の役職の一つである」というところに意味があって、地頭は荘園から上がる収入のごく一部だけを自分のものにしていたのであって、領主はもちろんのこと、それ以外の様々な管理人がその収入を奪い合っていたのである。頼朝のやったことは、荘園の管理に武士が割り込む権利を与えたということだといってもいいのかもしれない。〕

 後鳥羽院は頼朝から長江荘・倉橋荘の地頭に任命されていた御家人を首にしろということで、鎌倉幕府(義時)がどのように出るか、その出方をうかがった。義時は、頼朝公が恩賞として任命された地頭の職は大した罪もないのに解任することはできないといってこれを拒否し、義時の率いる1,000騎の兵が京都に入って、頼朝の姉の曽孫にあたる摂関家九条家の子三寅{みとら、後の藤原(九条)頼経}が将来の将軍として鎌倉に迎え入れられた。三寅の後見には政子が当たることになり、事実上の将軍の役割を果たすことになる。世にいう「尼将軍」である。
 ここまでの経過は、鎌倉のほうに不利である。三寅はしょせん「代打の将軍」であった。〔「世界の代打男」と呼ばれた高井保弘さんが亡くなった直後なので、そう「代打」を馬鹿にしてもいいのかなぁという気がしないでもない。〕 
 一方、今こそ討幕の好機と見た後鳥羽院は、北面の武士に加えて、新たな院の武力として西面の武士を創設するなど武力増強に努めて、実力で鎌倉幕府を打倒しようとした。

 御家人の守護者として
 こうして承久3年(1221)5月15日、たった4歳の仲恭天皇(後鳥羽院の皇孫)の命を奉じる形で北条義時追悼の宣旨が発給された。承久の乱の始まりである。
 後鳥羽院は倒幕といわず、義時追討だけを命じていた。この宣旨によって幕府に従う御家人たちが義時派と反義時派に分裂して内戦を起こし自壊することを狙ったのである。宣旨を発給するとともに、後鳥羽院は軍勢を2人いた京都守護のうち鎌倉に忠実な伊賀光季に差し向けた。もう1人の京都守護である源(大江、広元の子である)親広は京都方についていたのである。衆寡敵せず、光季は敗死した。

 宣旨発給・京方挙兵の報は、5月19日に鎌倉に達し、早速、政子・義時らによって対策会議が開かれた。このとき、政子が声涙下る熱烈な演説をしたというが、実際には政子の発言を安達景盛が伝えたというのが真相である。政子の意見は武蔵の軍勢が終結してから京都に攻め上ろうという侵攻策であった。
 ところがそのうちにまた、京都からの軍勢を迎撃するという意見が有力になりはじめた。そこで、21日にまたもや政子・義時らによる対策会議が開かれた。ここで幕府長老の大江広元がすぐに(義時の嫡子の)泰時だけでも出陣すべきであるという過激な積極論を述べた。自身の案までも否定された政子は面白くないので、もう1人の長老である三善康信を出席させた(康信は老病で祈祷状態だったのである)が、康信も泰時一人でも出陣すべきだという。長老2人の意見が示し合わせたわけでもないのに、一致したのを「冥助(神仏の助言)」であるとして義時は積極的に侵攻する方策に舵を切り、泰時に出陣を命じた。
 わずか20騎で出発した泰時の軍勢は、瞬く間に膨れ上がり19万騎となって各地で京方を撃破し、これを制圧した。6月15日には、京になだれ込み、後鳥羽院は今回の事件は防振が勝手にやったことであると、義時追討の宣旨をあっさりと撤回したが、時すでに遅く、仲恭天皇は廃位され、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇が配流された。
 義時は、上皇の自分の寵姫の所領を守ろうという恣意的な命令に対抗して、朝敵の汚名を着てでも御家人たちの利益を守ろうとしたために、その御家人たちからの強い支持を得ることができた。こうして御家人たちの義時に対する信頼はゆるぎないものとなったのである。〔義時の(少なくとも味方には)親切だという性格が、多くの御家人たちに共有されていたということであろう。〕

 承久の乱をめぐっては、坂井孝一さんと本郷和人さんの著書が最近出版されていて、それぞれ補い合うような内容であるので、併せ読むことをお勧めする。この『執権』という書物の趣旨からいうと、この乱の経緯よりも、義時をめぐる(現在ではほとんど忘れられてしまった)伝説の方が重要らしく、それはこの後、また次回に紹介することになる。

 昨夜は、私のパソコンがインターネットにつながらなくなったため、ブログを完成できず、また皆様のブログを訪問することもかないませんでした。幸い、修復いたしましたので、またよろしくお願いします。
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