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木村茂光『平将門の乱を読み解く』(13)

3月27日(金)曇り

 承平5(935)年から天慶3(940)年まで続いた平将門の乱は、武士最初の乱とされる。この書物は乱の経緯ではなく、その歴史的な意義を読み解こうとするものである。特に将門が「新皇」即位を宣言して、坂東8か国の国司を任命したこと、その際に彼の即位を正当化する存在として八幡神と菅原道真の霊が持ち出されたこと、また朝廷がこの乱を鎮圧するために王土王民思想を持ち出したことなどが、書物の主題とかかわって掘り下げられてきた。

「冥界消息」と蘇生譚の世界
 『将門記』の「冥界消息」
  「冥界消息」と蘇生譚
 『将門記』の本文は、平将門の敗北と首の入京とを記した後、将門一代の評価、将門の残党の追捕、そして乱後の源経基・藤原秀郷・平貞盛らの賞罰を記して終わる。しかし、それだけでなく、その後に冥界に堕ちた将門からの手紙「冥界消息」が載せられている。
 木村さんは、この将門の乱の直後に、将門がらみでは『僧妙達蘇生注記』、天神信仰とのかかわりでは『道賢上人冥途記』(『日蔵夢記』と、複数の冥界譚、蘇生譚が残されていることに注目する。将門の「冥界消息」は冥界からの手紙であるが、妙達と道賢の場合は一度冥界に堕ちたものの、その後蘇生して冥界の様子を語っているというところに特徴がある。さらに将門の子孫の中に、冥界に堕ちた後に蘇生したという伝説や、救済されて極楽に赴いたという伝説をもつものがいることも注目される。したがって『将門記』における将門の「冥界消息」は、これらの性格の共通性のある文献との関係において考察されるべきだという。

  『日本霊異記』の冥界譚
 冥界譚・蘇生譚とは、さまざまな要因によって冥界、多くは地獄に堕ちた後、生前に仏や経典を供養した功徳によって数日後に蘇生し、冥界での経験を語って周囲の人々に信仰を勧めるとともに、本人もいっそう仏や仏教に帰依して供養した、という内容の仏教説話の一種である。
 中国の仏教説話集の影響を受けて、日本でも奈良時代になるとこの種の説話集があらわされるようになった。その代表が9世紀の前半に薬師寺の僧景戒によって、編纂された『日本国現報善悪霊異記』(『日本霊異記』)である。
 この書物には116話の仏教説話が掲載されているが、そのなかの14話が冥界譚に分類できる。とはいうものの、その内容は多様であった。このような冥界譚が10世紀に入り、浄土教が普及するようになった時期につくられたのが『将門記』における「冥界消息」である。

  平将門の「冥界消息」
  将門の「冥界消息」は2つの部分から構成されている。前半は「田舎人」が「中有(ちゅうう)の使」の便りとして伝えた冥界における平将門の消息であり、後半ではこの消息の異本などが紹介されているという。
 前半に記されているところでは、将門は前世に犯した悪行のおかげでその身を剣の林の中に置かれたり、鉄の囲いの中で肝を焼かれたりする責め苦にあっているが、生前に金光明経1部を誓願したおかげで、一時的に苦しみを逃れる時間があるという。
 『日本霊異記』に出てくる冥界譚の人物は、蘇生して冥界の様子を語るのだが、将門の場合には蘇生しない。これは、彼が実際に誅殺されたという事実によるだけでなく、犯した罪が重いということによると考えられる。
 しかし、彼は生前に金光明経を書写したことがあり、また兄弟妻子に善行を積むように勧めることによって彼らだけでなく、自分自身の救済の可能性を探っているようにも思われる。

  『僧妙達蘇生注記』の特徴
 これは出羽の国の龍華(りゅうげ)寺に住む法華経の侍者僧妙達が天暦5(9)年に突然入滅して閻魔庁に至り、閻魔王から日本国中の人々の善報と悪報を聞いて7日後に蘇生し、現世の人々にそのことを詳しく話して多くの信徒を得て、多大な善業を施した、という話である。
 この書物の特徴は、妙達が閻魔王から聞いた善報と悪報を受けた多くの人々(80~90人)の話が記載されているところにあるが、大石直正によると、善報を得た人物は俗人が多く、悪報を受けた人物には僧侶が多いこと、そのなかでも天台寺院の別当や座主という高い地位にある僧の行状が痛烈に批判され厳しい悪報を受けていることから、「既成の天台宗の教団の在り方をつよく批判し、法華経の信仰を広めようとしている」(190ページ)のだと考えられる。

  『僧妙達蘇生注記』の具体例
 具体例を見ていくと、上野の国の三村正則という人物は『大般若経』の書写、橋の架橋、井戸の開削などの善業によって、天帝釈の宮に生まれ変わったという。これに対し、信濃の国のある僧侶は、寺物である米やもち、油を私用に用いたため、悪報を受けて顔八面の大蛇に生まれ変わったという。

  藤原忠平・平将門・天台座主尊意
 『僧妙達蘇生注記」に登場する人物は出所不明な例が多いが、歴史上知られた人物も登場する。
 まず、太政大臣忠平(菅原道真を失脚させた時平の弟で、将門の主人でもある)は人事を勝手に行った罪により頭九の龍になってしまったという。「何を根拠にしているかは不明だが、当時の最高権力者に対する厳しい批判といえよう。」(182ページ)
 次に将門であるが、彼は東国の「悪人之王」であったが、前世に功徳を積んだ善報により天王となったという。ここでは将門は救済される対象になっている。
 最後に天台座主である尊意は天皇の命によって「悪法」を修して、将門を死に至らしめた報いによって「十一劫」というきわめて長い時間、人間の身に戻ることができず、将門とずっと合戦をし続けなければならないという。
 当時の権力者たちが強い批判の対象となっている一方で、その権力者たちに対して戦いを起こした将門は「悪しき人間」と認識されながらも、救済の対象とされる存在だったのである。木村さんは「ここに『将門伝説』の端緒を見出すこともできよう」(194ページ)と論じている。

 「平将門の乱」の歴史的な意義ということになると、同時代および後世の人々がどのように将門と彼の行為を評価したかということが問題になるが、ここで木村さんは冥界譚・蘇生譚という仏教説話の世界における将門の消息を探り当てながら、彼を「悪人」歳ながらも、当時の権力者に対して反抗したことの意義を評価する人々がいて、それが後世における将門伝説の形成・伝播へとつながっているとの見解を展開している。では『道賢上人冥途記』の場合はどうか。この史料については、『太平記』の中でも触れたことがあるが、次回、また取り上げることとしよう。 
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細川重男『執権』(13)

3月20日(金/春分/休日)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。気温上昇。

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権を築き上げ、維持しようとした悪戦苦闘の歴史であり、著者である細川さんの言葉を借りれば、「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。通説では、鎌倉幕府の政治体制は「将軍独裁」、「執権政治」、「得宗専制」の3つの段階に分けている。その一方で、将軍の座も「源氏将軍」、「摂家将軍」、「親王将軍」と変遷する。しかし、執権の座には一貫して北条一族の誰かが座っていた。この書物は、その悪戦苦闘の中心にいた北条氏代々の得宗たちが、どのように権力を把握・保持し、どのような政治的な成果を残し、そして後世にどのような影響を及ぼしたかを、承久の乱に勝利した北条義時、元寇を退けた北条時宗の2人の得宗=執権を取り上げて掘り下げていくものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府創設以前の北条氏が伊豆の小土豪に過ぎなかったことが明らかにされる。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、北条氏の事実上の初代:北条時政の庶子に生まれた義時が、頼朝死後の権力闘争の中で幸運にも生き延び、しだいに権力を握るに至った過程をたどっている。そして、『古今著聞集』に記されている、彼が武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説と、それが後代に及ぼした意義が考察される。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では、時宗が異母兄である時輔や、名越氏など一族・一門の有力者を排除してその独裁的な権力を固めた過程が辿られている。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、時宗が将軍として頂いていた惟康親王が、じつは源維康と名乗っていた時期がいちばん長いこと、これがきわめて異例であることが記される〔それがこの書物の趣旨とどのようにかかわるのか、いまひとつ腑に落ちないところがある。〕 
 文永5年(1268)に蒙古からもとらされた通交を求める国書が、幕府によって侵攻の予告と受け取られ、臨戦態勢の中で独裁政治が強化された。

 第4章 辺境の独裁者(続き)
  将軍権力代行者
 「内々御計ひ」
 時宗がその権力を絶対的なものにした「二月騒動」(文永9年、西暦1272)後の、彼の政治活動をもっともよく知らせてくれる史料は、問注所執事太田康有の日記『建治三年記』である。〔鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』は文永3年(1266)に将軍であった宗尊親王が上洛し、六波羅探題邸に入るところで終わっている。その後は、確実な記録が乏しくなるので、1年分しか残っていないこの記録『建治三年記』や、康有の子である時連の書いた『永仁三年記』が貴重な史料となるそうである。)

 建治3年、27歳の時宗は、ほとんど鎌倉郊外の別荘である山内殿(現在の北鎌倉の一部)で生活しており、そこで重要な政務の決定を行い、指示を出している。鎌倉と六波羅における人事のすべてが時宗によって決定され、事細かな指示まで時宗が主催する山内殿での寄合(秘密会議)で決定されている。
 朝廷との交渉も時宗が直接行っており、院宣(上皇の命令書)への返事の執筆者まで時宗が指定している。
 鎌倉幕府では頼朝以来、御家人の位階・官職への叙位・任官はすべて幕府が王朝に推挙することになっていた。この場合、推挙するのは将軍であったのを、時宗は執権が行うことに改めた。つまり時宗は将軍ではないのに、本来将軍に属する権力を手に入れてしまったのである。
 「時宗は執権であるが、将軍権力を行使する彼は、もはや執権の職権を越えた何者かである。…一言で言えば、「将軍権力代行者」ということになるだろう。そしてこの「将軍権力代行者」の権力こそ、これまで「得宗権力」とよばれてきたものの正体であると私は思うのである。」(177ページ) この権力は、時宗の死後、貞時・高時に引き継がれる。それが「得宗専制」とよばれてきた後期鎌倉幕府の政治体制となるのだという。
 「時政・義時以来、営々と幕府で権力の階段を上ってきた北条氏家督は、時宗に至って頂点と言うべき「将軍権力代行者」、すなわち鎌倉幕府の独裁者の地位に至ったのである。」(177ページ)

 秘密会議のメンバーと機能
 それでは時宗はどのようにして意思決定を行っていたのか。彼が大小事を決める際に催していたのが、「寄合」と呼ばれる秘密会議である。このメンバーを「寄合衆」というが、そのなかに選ばれたのはわずか5人、安達泰盛、平頼綱、諏訪盛経、太田康有、佐藤業連(なりつら)である。
 〇安達泰盛
 時宗の妻の兄で養父、さらに時宗の外祖母である(『徒然草』に登場する)松下禅尼の甥でもある。五番引付頭人。評定衆。泰盛以外の1~4番引付頭人は全員北条氏であり、したがって、泰盛は当時の幕閣において非北条氏の最高位であった。
 〇平頼綱
 身内人(得宗の家臣となった御家人)。得宗家の家政機関である得宗家公文所の執事。一般には「内管領」と呼ばれる(私も、高校の日本史でそう習った)。時宗の最側近という立場にあり、彼の家柄は得宗家累代の家人である。
 〇諏訪盛経
 身内人。得宗家公文所の執事として頼綱の前任者。身内人諏訪氏は信濃の諏訪大社大祝(おおほうり)家である諏訪市の分家である〔全国に諏訪神社が散在しているのは、このようにして鎌倉幕府の中で諏訪氏の力が大きくなったためであるという説がある。また、鎌倉幕府滅亡後、北条高時の次男・時行を諏訪氏が擁して短期間だが、鎌倉を回復した=中先代の乱も重要な事件である〕。
 〇太田康有
 文士(法曹官僚)。第6代問注所執事。評定衆。源頼朝の乳母の妹の子で初代問注所執事となった三善康信の孫。〔すでに出てきた『建治三年記』の筆者である。問注所の執事は、三善→太田氏が大体世襲していたようである。太田氏にはいくつかの流れがあり、源三位頼政の子孫と称し太田道灌や徳川家康の側室・英勝院を出して江戸時代には大名となった太田氏が有名であるが、ここで出て来る太田氏は、三善氏の子孫であるのは、すぐにわかることである。〕
 〇佐藤業連
 文士。評定衆。引付衆を経ず評定衆に補任されるという異例の登用をされた人物で、一族でも突出した出世を遂げた。時宗の恣意的な人事で登用されたと考えられるが、そのような先例や家格秩序を超えた人事がなされているところに時宗の政治の専断的な性格がうかがわれるという。

 「このように、外戚や累代の家臣、秘書ともいうべき実務官僚をメンバーとしておこなわれる寄合は、独裁者時宗の執政を円滑ならしめるための補助機関、強いて言えば諮問機関であるが、ようするに五人の寄合衆は時宗の手足であった。」(180ページ)
 もともと「寄合」は北条氏家督の私的会議であったが、時頼時代には北条氏一門の大物が顔を出しているのに対し、時宗の時代になると、一人もいなくなって、わずかな側近たちだけが話し相手というように変化している。〔重臣との打ち合わせから、側近との会合に変化しているということである。〕

 時宗の個人独裁
 『建治三年記』に記された以外の出来事を拾い上げても、幕府が寺社に依頼した異国降伏祈祷実施の手続きもすべて時宗が行っており、将軍維康には形式的に巻数(かんず=読誦した教典の明細書)が上呈されるにすぎない。さらに弘安年間に起きた興福寺と石清水八幡宮の荘園の境争論(境界争い)の過程をたどると、最終的な意思決定者がやはり時宗だったことがわかるという。それは評定―引付という実務的な政治制度に支えられた個人独裁制であったと考えられるのである。

  太守・副将軍
 「ただ者ではない」という認識
 時宗・貞時・高時という後期得宗三代が単なる執権ではなく、何か特別な存在であるという認識は当時の人々にもあり、それは彼らに対する呼称にあらわれているという。
 そうした呼称のひとつが「大守」(「太守」とも書く)である。
 「大守」を国守の唐名(中国風の呼び方)とすれば、相模守を「相大守」といっても問題はなさそうだが、王朝官制では「大守」は親王任国(親王だけが国守に任命される国)である上総(千葉県南部)・常陸(茨城県)・上野(群馬県)3か国の国守の称号で、しかもこの3か国はすべて大国(国の最高等級。国には大国・上国・中国・下国の4等級があった)である。だから、得宗が「大守」を名乗るのは僭上の沙汰であるが、そこに「ただ者ではないのだ」という認識が表れているという。

 もう一つは「副将軍」。鎌倉末の資料には貞時や高時を「副将軍」と記した例がみられるという。時宗についてはこの種の資料はまだ見つかっていないが、あっても不思議はないと木村さんは論じている。
 時宗政権期は、幕府は蒙古との戦闘を理由にして御家人ではない武士までも動員することになり、その権力が絶頂に達した時期であったともいえるのである。この絶大な権力を行使して、時宗は蒙古との戦いを続けることになるが、それはまた次回以降に。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(12)

3月19日(木)晴れ

 武士最初の反乱と言われる平将門の乱は承平5(935)年から天慶3(940)年まで続いたが、その間の天慶2(939)年に将門が「新皇」を宣言したことが、前例のない事件として注目される。この乱は、9世紀の後半から続いていた王権の動揺と対外政策の変化の中に位置づけられるべきものであり、そのような動揺を背景として将門が天命による新しい皇統の成立を宣言したのに対し、朝廷の側が王土王民思想をもって対抗している点が重要である。

「新皇」即位と王土王民思想(続き)
 「朱雀院平賊後秘修法会願文」の王土王民思想
 王土王民思想は国家の重大な転換期にあたって表明されたものであるが、土地制度を軸とした支配体制の転換・強化を意図した「延喜新制」「保元新制」の場合はそれまでの法令を根拠として主張されているのとはちがって、平将門の乱の場合は、「皇天」・「神明」と王権を超越した絶対的な意志が根拠とされており、それだけに支配層の強い危機意識を読み取ることができるという。
 ところで、平将門の乱と藤原純友の乱が終息した天慶10年には別の形で王土王民思想が表明された例があって、注目される。

 それは天慶10年に朱雀院が延暦寺で行った「東西凶乱」によって命を落とした法会の際のことで、ここでの王土王民思想の意味するところは、これまでの「延喜新制」、「保元新制」あるいは「将門追討の官符」の場合とは大きな隔たりを見せている。「追討官符では、「王土」に住む「王民」なのだから「憂国の士」だけでなく「田夫野叟」(庶民の意)まで将門を討滅するために決起すべきであると、人民を動員=使役する根拠として使用されていたが、この天慶10年の供養願文では、官軍であっても逆賊であってもみな「率土」に住む「王民」なのだから、平等に救済されなければならないという救済の根拠として使用されている。」(171ページ)

 さらに注目すべきことは、このような平等な救済を主張する根拠として、隋の高祖や唐の太宗が死亡した兵士たちを供養し救済した事績を引用していることである。木村さんは、「延喜新制」、「保元新制」、「将門追討官符」は日本的な王土王民思想の発現、この「巌門」の方は中国的な王土王民思想の発現であるといえるかもしれないと書いているが、そこまで結論を急ぐこともなかろう。むしろ、短期間のうちにまったく別の意味をもつ王土王民思想の発現がなされているところに、平将門の乱の衝撃の大きさを見るべきであるとも論じていて、こちらの方が説得力がある。

 源頼朝追討官符の王土王民思想
 実は、これまでそれほど注目されてこなかったが、将門の乱のような軍事的・国家的な危機に際して王土王民思想が発現されたもう一つの事例があると木村さんは言う。それは治承4(1180)年の源頼朝の挙兵である。平安時代末期の公家・吉田恒房(1142‐1200)の日記『吉記』には源頼朝「追討宣旨」が記されている。そこには「率土は皆皇民也、普天は悉く王の者也、絲綸(いりん・天皇のご命令)の旨誰か随順せざらんや」(174ページ)として、やや文意の通りにくい部分はあるにしても、王土王民思想に基づく武士たちへの動員令が発せられていると考えられる。「支配層は頼朝の挙兵を平将門の挙兵に匹敵する大事件である、と認識していたに違いないのである。将門の乱は、それほど平安時代後期の貴族社会に刻印された大事件であった。」(175ページ、それをいうならば、頼朝の挙兵は将門の乱以上の社会の変革をもたらした大事件であったということも書き落とすべきではないだろう。)

「新皇」即位の歴史的意義
 「中世皇統譜」の形成
 中央政権の動揺の中で、将門は「天命」思想を掲げて「新皇」を自称し、新政権を樹立しようとしたが、これに対応して貴族層は「王土王民思想」を持ち出して、乱の鎮圧への協力を呼び掛け、平貞盛や藤原秀郷の協力を得て、乱を平定できた。とはいうものの、将門の提起した「天命」思想は、貴族層に国王支配の新たな根拠を求めさせることになったと主張したのが、上島享(2010)『日本中世社会の形成と王権』である。その結果、考え出されたのが中世的な神祇秩序の形成と「中世皇統譜」の形成である。

 二十二社体制と中世的な『国内神名帳』に代表される中世的な神祇秩序については、すでに述べたので、ここでは上島による「中世皇統譜」をめぐる議論を検討する。上島によれば、「中世皇統譜」の形成にとって『先代旧事本紀』が果たした役割が大きいという。『先代旧事本紀』は平安時代の初期に成立したと考えられている史書で、天地開闢から推古天皇までの歴史が記されている。序文に聖徳太子・蘇我馬子らが書いた歴史であると記されていることから、偽書だと考えられた時代もあったが、序文だけが後世に付け足された偽作であり、物部氏に関する情報を多く載せているところから、それなりに価値をもつ書物であると考えられるようになっている。
 とにかく、偽書説が出てくるのは江戸時代の話であり、それまでは最古の史書として重んじられていたのである。ここでは、神話のスサノオの子孫が「地祇」とされ、降臨した天神のうち饒速日の子孫は「天孫」、ニニギの子孫は「皇孫」とされて、三者が明確に区別され、「皇孫」だけが王家の正統な系譜であることが示されている。

 「新皇」即位の歴史的意義
 将門が「新皇」即位を宣言したのは、彼が「皇孫」であることと、天命を受けたことの2つが根拠となっていた。この主張は京都の朝廷の人々にとって極めて衝撃的なものであった。将門の主張を論駁するために持ち出されたのが「王土王民思想」であり、そこに将門とは別の意味で中国の歴史思想を取り入れて、自分たちの立場を正当化しようとする意図があったのではないかというのが著者の主張らしい。著者自身もあまりはっきりした見解を記していないのだが、興味深い議論であり、今後の研究の発展が期待される。

 さて、将門の乱の経緯を記した『将門記』は乱の終息後、関係者の賞罰について触れて終わるが、その後さらに冥界に堕ちた将門からの手紙が付録されている。この奇怪な手紙は、後世の人々による将門と将門の乱の評価とかかわるものであり、次回に詳しく取り上げてみることにしたい。

細川重男『執権』(12)

3月13日(金)曇り

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが、自分たちの政権を築き上げ、維持しようとした悪戦苦闘の歴史であり、著者である細川さんの言葉を借りれば、「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。この書物は、その悪戦苦闘の中心にいた北条氏の代々の得宗がどのように生き、どのように戦い、後世に何を残したかを、承久の乱に勝利した北条義時と、元寇を退けた北条時宗の2人の得宗・執権に焦点を当てて考察するものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府成立以前の北条氏が、伊豆の小土豪に過ぎなかったことが論じられている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」では、もともと北条時政の嫡男ではなかった義時が、頼朝死後の鎌倉幕府の権力闘争の中で運に恵まれて勝ち残り、権力を固めていった過程が辿られる。
 第3章「相模太郎時宗の自画像」では、蒙古襲来という危機的な状況の中で、時宗が異母兄の時輔や一門の中の有力者である名越氏を取り除いて、その独裁的な権力を固めていった過程が辿られている。そして義時が、景行から仁徳までの5代の天皇に仕えたという神話的な賢臣である武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説が、当時、かなりの範囲で信じられていたことに触れる(この伝説は、もう少し後で、意味をもつことになる)。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、執権時宗が頂いていた将軍・維康の変則的な経歴をたどり、維康の父・宗尊親王の京都送還をもって幕府の権力が執権に一元化したことが明らかにされている。

第4章 辺境の独裁者(続き)
  蒙古国書の到来
 使者到来、戦時体制へ
 文永5年(1268)閏正月8日、当時、事実上唯一の対外窓口であった大宰府を管轄する筑前(福岡県北西部)守護少弐資能(すけよし)によって、蒙古の国書が鎌倉にもたらされた。
 この国書は1か月後の翌2月7日、幕府より正式に朝廷に奏上される。京都の方が鎌倉よりも大宰府から見れば近いのに、こういうことになった理由を細川さんは次のように説明している。古代から日本の海外通交の窓口であった大宰府は、鎌倉時代になると、その次官である太宰少弐の官職を世襲し、それを苗字とすることになった九州有数の御家人少弐氏(もともとは武藤氏)を通じて幕府の支配下にあったので、国書はこのようなルートをたどって伝達されることになったのである。
 〔もう少し説明しておくと、大宰府の長官(かみ)は帥(そち)であり、9世紀以降は親王任官が通例(例外もある)となったが、現地に赴くことはなく、実権は権帥(ごんのそち)および次官(すけ)の大弐・少弐に移った。さらに権帥や大弐に任じられた都の貴族も現地に行かなくなったために、現地にいる少弐氏が実際の仕事を取り仕切るようになったということである。少弐氏とならぶ九州の有力御家人としては、大友氏と島津氏があげられる。〕

 国書をもたらしたのは高麗の人潘阜であったが、前年11月に対馬に到着、この年の正月に大宰府に至っている。国書が大宰府から鎌倉に届けられるまで約1か月、それから京都に送られるまでまた約1か月かかっているが、これは事態の重大性のために少弐氏および幕府が苦慮した結果であろうと思われる。
 国書は表面的には平和的な通交を求めるものであったが、「軍事力を行使するのは、だれが望むところだろうか」などと、脅すような文面もあり、日本側には蒙古の侵攻必至と受け取られた。

 2月から3月にかけて、京都では連日のように会議が開かれ、返事を出すかどうかが議論されたが、結局無視することに決まった。大宰府に留まっていた蒙古・高麗の使者たちは、要領を得ないまま7月に帰国した。その間、日本側は未知の外国との戦闘にすでに突入していたのである。
 もちろん、国書到来時点で日本側が蒙古についての情報をもっていなかったわけではない。商船や渡来禅僧などを通じて海外情報は伝えられていた。〔1279年に来日した禅僧無学祖元は鎌倉の建長寺の住持、また円覚寺の開山となったことで知られる。〕しかし、日本に伝えられていた情報は限られていたし、「さらに辺境の東国」(173ページ)にあった鎌倉幕府の対外認識はきわめて貧しく、「蒙古国書の到来は強敵襲来の予兆としか認識されなかったであろう」(同上)という。
 〔細川さんは触れていないが、当時の日本の主要な交易の相手は南宋であり、南宋軍が蒙古を苦しめていた火薬の原料となる硫黄が主に九州から産出・輸出されていたという事情もある。また渡来禅僧のほとんどが元の圧迫を逃れてきたということも視野に入れるべきであろう。〕

 潘阜らの使節一行がまだ滞在中の2月25日に、朝廷は二十二社への奉幣を行い、蒙古の難を報告、併せて祈願を行った。当時の朝廷は承久の乱以来、独自の軍事力を持っていなかったので、蒙古に対してはもっぱら寺社への「異国降伏」の祈願を繰り返すことになる。
 一方、実際の戦闘を担当する幕府は2月27日に、西国各国の守護に対し管国御家人を動員して侵攻に備えることを命じ、戦闘態勢の構築に入る。このような戦時体制下にあっては、権力が一点に集中し、強力な指導力が発揮されることが望ましい。〔もっともその権力が正常な判断ができることが前提になっている。〕

 蒙古国書の鎌倉到来から2か月たった3月5日、それまで連署だった時宗が執権に、執権だった政村が連署になるという前例のない執権・連署の交替が行われた。「幕政中枢は大切にその成長を見守ってきた時宗を、未曽有の国難に際し、ついに幕府政治の頂点に正式に位置づけたのであった。時宗、時に18歳。」(174ページ) 〔18歳というが、数え年で、満年齢では16歳である。今でいえば高校生に日本の政治の最高決定権を委ねているわけで、それが権力の実態であったのか、あるいは別に黒幕がいたのかなどと想像力を働かせてもいい場面ではないかと思う。なお、執権と連署の交替をめぐってはプーチン氏とメドヴェージェフ氏の例が参考になるかとも思ったのだが、ロシアの最近の政局は別の方向に進み始めたらしい。〕
 そして4年後に、すでに触れた二月騒動が起きる。これによって時宗は、彼に対抗する力をもった、あるいは持つ可能性のあった潜在的な勢力を一掃し、独裁的な権力を固めた。

 「時宗10歳の文応元年(1260)7月16日、北条時頼に上呈された『立正安国論』に日蓮が記した2つの予言のうち「自界叛逆難(じかいはんぎゃくのなん)」(=内乱)は12年後、果たして現実のものとなった。そして、いま一つの予言「他国侵逼難(たこくしんぴつのなん)」(=外冦)は、わずか2年後に迫っていた。蒙古帝国と対峙しなければならない時宗への権力集中は、ギリギリのところで間にあったと言えよう。実兄と一家一門、そして家臣たちの犠牲のうえに確立された絶対的な権力をもって、時宗はその生涯を賭して蒙古との戦いを続けることになる」(174ページ)。〔戦いを回避する方策がなかったのかという問題は残る。この点は次回以降に持ち越すが、細川さんも問題にしている。日蓮上人が独自の情報網をもっていたことについてはすでにいくつかの研究がある。上人が持っていた情報網を、幕府が共有できなかったことも問題ではある。すでに述べたように、時宗にも無学祖元のような情報網があったわけで、それらを総合してより賢明な判断ができなかったかという問題は残るのである。〕

 では、このような事態に直面して、幕府における意志決定がどのようになされていたのかというのは、次回に持ち越すことにする。 
 

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(11)

3月12日(木)晴れたり曇ったり

 武士最初の反乱とされる平将門の乱は承平5(935)年から天慶3(940)年まで続いたが、そのなかで天慶2(939)年に将門が「新皇」即位を宣言したことが注目される。この乱の起きた10世紀前半は、9世紀後半から続く政治体制・対外関係の動揺の時代であり、それまでの天皇が皇統の論理だけを根拠としてその位を継承してきたのに対し、将門の宣言はそれだけでなく、天命思想をも根拠としているという点で、新しさと危険性をもつものであった。

「新皇」即位と王土王民思想
 平将門追討官符以前の対応
 では、新しい論理をもって「新皇」への即位を宣言した将門に対し、京都の支配層の側はどのような論理をもって対応したか。9世紀後半から10世紀前半にかけての王権の揺らぎがこの乱によって決定的なものとなっただけに、支配層の危機感は並大抵のものではなかったことは十分想像できる。
 そのような危機に対応するために、朝廷がとった積極策が天慶3(940)年正月11日の太政官符の発布である。その内容については、後で詳しく取り上げるが、王土王民思想に基づいて、武士や民衆に対し将門追討に参加することを要請するものであった。
 この官符の意義を明らかにするためには、将門の乱に対する朝廷のそれまでの対応について検討しておく必要があると木村さんは言う。

 天慶2年、源経基によって将門の反乱の情報がもたらされたときに、朝廷がとった対策は大きく分けて2つあり、1つは乱鎮圧のための諸社への祈祷命令で、もう一つは東国の治安維持である。これらの方策は軍事力によって反乱を鎮圧するというような強硬な性格をもつものではなく、いわば「神仏頼み」をしながら、反乱についての情報を収集するというような対応であった。

 将門追討官符の発布
 しかし、天慶3年正月からその対応は一変し、強硬策が採用される。
 先ず正月6日に「五畿七道の各社」に乱平定の祈祷に対し神位一階を授けることが命じられた。また伊勢神宮にも奉幣が異例の形で行われた。
 将門の追討官符は、このように朝廷が危機感を募らせている中で、東海・東山道の諸国司に宛てて発布された。

 官符はまず、将門の反乱行為を指摘したうえで、「開闢(かいびゃく)以来、本朝の間、叛逆の甚だしきこと、いまだこの比にあらず」(163ページ)とその重大性を指摘する。そして、その重大さゆえに「皇天自ら天誅を施すべし、神明なんぞ神兵を秘(かく)すことあらんや」(同上)と、将門を討つことが「皇天」=天帝や「神明」≂神の意志であることを確認したうえで、次のように主張する。
 抑(そもそ)も一天下の下、寧(いずく)んぞ王土に非ざらん。九州のうち、誰か公民に非ざらん。官軍黠虜(かつりょ)の間、豈(あ)に憂国の士無からんや。田夫(でんふ)野叟(やそう)の中、豈に忘身の民無からんや。(同上、「天下の下」は「王土」であり、「九州=ここでは日本全土という意味」のうちに住むものはすべて「公民」なのだから、官軍が平定に苦慮している時に、「憂国の士」や「田夫野叟(庶民)」までもが将門討滅に決起するのは当然である)。明らかに王土王民思想に基づいた動員命令であると木村さんは論じる。

 これまでの研究では、左大臣藤原仲平(時平の弟、忠平の兄)が勅を受けて作成した反乱者を討伐したものに対しては恩賞を与えるという文言が、平貞盛や藤原秀郷の参加の誘因となり、彼らがその勲功に応じて受けた恩賞が武士として発展するもととなったことに注目してきた。しかし、ここでは、王土王民思想が持ち出されていることの意義の方に注目するという。朝廷が明確な形で王土王民思想を述べたのは、この官符を除くと、延喜荘園整理令と保元荘園整理令の2例があるだけであり、この思想が強調されるのが政治的な変革期であったことを物語ると、著者は論じている。それではこの2つの事例において、王土王民思想はどのように述べられているのであろうか。

 延喜新制・保元新制の王土王民思想
 延喜荘園整理令(延喜2=902年)の4月に発布された太政官符は、様々な理由をつけて国家的な公役(力役)に従わない人々に、従うよう命じたものである。そこでは天下の国土はすべて王土であるから、そこに住む民は王民であり、公役=国家が賦課する課役を拒むことはできないということで、強い意志をもって王土王民思想を述べ、政治体制の一新を宣言している。
 保元新制は保元の乱(保元元≂1156年)の3か月後に後白河天皇が発したもので、後白河の即位(久寿2=1155年)以後に宣旨による承認のないまま立てられた荘園はすべて停止することを命じたものであり、ここでも朝廷の強い意志が発現されている。
 これら2例はともに、時代の転換点を迎えて朝廷や院の強い意志に基づいて発令されたものであり、将門の乱の場合にも同じような意識が働いていたが、2例が土地制度に焦点を当てて支配体制の転換・強化を図る意図をこめていたのに対し、政治的・軍事的な危機意識に基づいていた点が異なるという。

 将門追討官符の意義
 これらのことから王土王民思想は国家や王権に関わる重大事件に際して発現されていたことがわかる。将門の乱はそのような国家や王権に関わる重大な事件であった。では、王土王民思想は何を根拠にして主張されているのであろうか。
 先ず延喜新制の場合は、「貞観以来の諸国の例」であり、保元新制の場合は「朝章に論ずるに」とあるようにわが国の法令であった。つまりわが国のこれまでの法令や制度を根拠として王土王民思想が発現されたといえる。
 ところが将門の乱の場合は、「皇天」(=天を主宰する神)と「神明」(=超自然的な神の意志)に基づいて王土王民思想が発現されていた。しかも王土王民思想の単なる根拠としてではなく、「皇天が自ら」将門に「天誅」を下し、「神明が神兵を隠さずに派遣して」将門を討つと、「皇天」と「神明」の将門追討への主体的な行動が前提として語られていることが注目される。それらは、具体性のない観念的な根拠であるように見えるが、現実の国家を越えたより高度な見地から発想されているところに、将門の乱への貴族層・支配層の強い危機感を読み取ることができるのではないかと著者は論じる。「まさに将門の乱は王権を覆すような重大な危機であったのである。」(169‐170ページ)

 王土王民思想は国家や王権の危機に際して発現されるが、その根拠に着目すると、土地所有・荘園に関わって発現された場合がそれまでの法制を根拠としているのに対し、将門の乱の場合には天や神々の意志が根拠となっており、より深刻な危機意識の表れではないかというのが著者の考えである。王土王民思想にはもう少し別の発現の例もあり、また将門の乱と同じような危機意識をもって現れた例もあるが、それらについては次回とりあげることにする。もっと後の時代になってもこの問題は続くが、古代の社会にあっては政治と宗教とが結びつき、我々の常識では考えられないような行動を呼び起こすところがある。そんな点に注意しながら、さらに読み進めていきたい。
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