ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(31-2)

11月15日(水)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて地上楽園から天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、信仰と政治をめぐり抱いていた疑問への解答を得るとともに、この遍歴で見聞したことを地上の人々に知らせることが自分の使命であるという確信を得る。神のいる至高天から土星天へと降りてくる「ヤコブの階段」を上って、恒星天へと達した彼は、信仰、希望、愛の3つの対神徳についての試問に見事にこたえ、自分の見聞を地上の人々に語るにふさわしい人物であると認められる。彼はさらに天上の回転運動の起点であり、非物質的な世界への入口である原動天を経て、至高天に達した。そこでは祝福された魂たちが階段状に列を作って並び、天使たちが平和と情熱を分け与えていた。新たな質問をしようと、ダンテが振り返ると、そこにベアトリーチェの姿はなく、一人の古老が立っていた。彼はベアトリーチェは至高天における彼女の本来の席に戻ったと告げる。ダンテは、自分の席に戻ったベアトリーチェを見出す。

高き場所で雷鳴の轟くあの圏から、
誰であれ、必滅の者の目が遠く離れたことはない、
それがどれほど深く深海に潜ったとしても、

あの場所でのベアトリーチェから我が目までの隔たりほどには。
しかしそれは私にとって何ものでもなかった、というのも彼女の姿は
空気に搔き乱されて私まで降りてくるわけではなかったからだ。
(468-469ページ) 「雷鳴のとどろっくあの圏」というのは地上の最も高い場所である(とダンテが考えた)火天で、要するに、ベアトリーチェはダンテからはるかに離れた場所に移っていたということであるが、しかしそれでも、霊的な交感を行う至高天では、地上におけるように像が目に届くまでに乱されてしまうようなことはなく、彼女の姿がはっきり見えたということである。

 以下、ダンテのベアトリーチェに対する感謝の言葉が述べられる:
「おお、我が希望に力をお与えになり、
私をすくうために地獄に足跡を残すことも
ためらわれなかった貴婦人よ、

私がこれまで見てきた事物ですが、
それを見る恩寵と力を
あなたの力と恵みのおかげで得たことが私には分かっています。

あなたは全道程を通じて、あなたにでき得る
あらゆる手立てを尽くされて、
奴隷であった私を自由にまで導いてくださいました。

あなたが寛大にも与えてくださった我がうちの贈り物を護りたまえ。
あなたが正してくださった我が魂、
それが、あなたが望まれたままの姿で肉体から解き放たれるように」。
(469-470ページ)

 『神曲』におけるベアトリーチェは(『新生』におけるベアトリーチェと違って)神学のアレゴリーであるから、神を理知的に把握する明示的な知の役割を担ってきたが、ダンテが至高天に達したので、その役割を終えて、自らの席に戻ったのである。彼女はその席から、ダンテの祈りに答える。
こう私は祈った。するとあの方は、あれほど遠くに
姿を見せていたが、微笑んで、そして私を見つめた。
それから永遠の泉へと再び向いた。
(470ページ) 

 ダンテのかたわらにいる古老は、自分が神と対面するというダンテの旅の最後の案内者であるといい、ダンテがさらに高く上昇して神聖なものを見ることにより、神に近づくのにふさわしい視力を得るだろうという。また、聖母マリアが彼にあらゆる恩寵を与えるだろうとも告げ、自分が(クレルヴォーの)聖ベルナール(1090-1153)であると名乗る。彼はシトー会に属する神秘主義的神学者で、信仰の問題に対する哲学的な解明を展開したアリストテレス主義神学者のアベラールと対立した。(ダンテは、理性的な議論よりも神秘的な体験の方を優位に考えているということのようである。)
 彼の言葉を聞いて、ダンテの心は神を見たいという気持ちがいっぱいになる。ベルナールは、この階段状の輪の最上部に聖母マリアがいるという。
私は目を上げた。すると朝、
水平線の東の方角が
太陽の沈む側を圧倒する、

視線を谷から山頂まで歩ませるかの
ようにすると、それと同じように、最果ての一点が
光で取り囲む輪に勝利しているのが見えた。
(473ページ) 聖人たちと天使たちに囲まれた聖母マリアの姿がダンテの目に入った。

ベルナールは、彼の熱い情熱の向かっている先に
我が目が一心に注がれているのを見て、
心を込めて彼の目を彼女に向け、

それにより、彼女を見つめる私の眼差しをさらに燃え上がらせた。
(475ページ) こうして、聖ベルナールの導きにより、ダンテは聖母マリアの姿を見るに至った。聖母マリアは、神、また審判者キリストに人類をとりなす存在であり、ダンテのこの遍歴も、彼女が地獄に亡びようとしていた彼を救うように聖ルチーアに命じ、そしてルチーアがベアトリーチェをリンボに下したことから始まったという経緯があった。
 ここで第31歌は終わるが、翻訳者の原基晶さんによると、これまでと違って、文が途切れることなく、そのまま第32歌に続いているという。描かれている対象が詩の形式に収まりきらなくなってきたということであろうか。

 少し余談:ロバート・ポーグ・ハリスン『ベアトリーチェの身体(からだ)〕(法政大学出版局:叢書・ウニベルシタス487)という本を書架から見つけ出した。ダンテの『神曲』ではなく、『新生』を主として論じた本であるが、『煉獄篇』の地上楽園を描く最終部分で、「ベアトリーチェとマテルダが隣りあっていることはダンテの生涯で抒情的衝動と叙事的衝動の間にもっと深い偶然の一致か交差が起こっていることを指し示してはいないか」(同書、214ページ、ベアトリーチェが叙事性、マテルダが抒情性を表している)と述べているのが気になっている。うーん、そんなことは考えもせずに読み飛ばしてしまったなぁと恐れ入っているのである。
 原さんもこの『神曲』の翻訳で何度か言及しているように、この叙事詩にはダンテの親友でもあり、好敵手でもあった詩人グイド・カヴァルカンティの強い影響がうかがわれる。ハリスンの著書は、このカヴァルカンティとダンテ、さらにペトラルカの関係についても論じているので、見落としがたいと思いはじめている。
スポンサーサイト

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(31-1)

11月8日(水)雨、午後になって小降りになってきた

 ベアトリーチェに導かれて、地球の南半球にある煉獄山の頂上の地上楽園から天上の世界へと旅立ち、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪れ、至高天から彼を迎えにやってきた魂たちと会話し、彼が抱いていた政治や信仰をめぐる疑問の解決を得るとともに、この旅行で彼が見聞したことを地上の人々に知らせることが彼の使命であると知る。至高天から土星天へと降りてくる「ヤコブの階段」を昇って恒星天に達した彼は信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問を受け、これまでの見聞を地上の人々に語るにふさわしい存在であることを認められる。彼はさらに不動の存在である地球の周りを回転している(『神曲』の宇宙はプトレマイオスの天動説に従って描き出されている)天体の運動の起点である原動天を経て、至高天に入った。それは物理的宇宙とはまったく別個の、自然的法則から離れ、時間も空間も存在せず、ただ神から発する知性の光に満たされている位相である。ダンテはいったん視力を失うが、春の庭のような情景を目にし、それが至高天の真の姿の投影でしかないと知らされる。そして、彼が見ている庭をながれる川の水を目で飲んだことで、祝福された人々と天使たちが集まる至高天の真の姿を目にする。

それゆえ、純白に輝く薔薇の形をとって
キリストがその地によってご自身の花嫁となした
聖なる軍が、我が前に現れていたのだ。

しかし別の一群は、飛翔しながら
彼らを恋い焦がれさせる方の栄光と
彼らを美しく飾るその善を見て歌いつつ、

まるで一度花にもぐりこむと次には
その働きが蜜となって甘くなる巣に戻る
蜜蜂の列のように、

幾多の花びらに飾られていろ大いなる花の中に
降りては、そこから
彼らの愛が常に宿る場所に昇っていくのだった。
(462-463ページ) 「聖なる軍」は祝福された魂たち、「別の一軍」は天使たちのことである。祝福された魂たちは競技場の観客席のように段状になった列に席をしめ、彼らの取り囲む空間(空間は既に存在しないはずなのであるが…)を天使たちが飛び回りながら、魂たちに「平和と情熱」(463ページ)を分け与えていた。

 しかし、その荘厳な眺めを目にして喜びながらもダンテには気にかかることがあった。
おお、三位の光よ、ただ一つの星の中から
彼らの視線に向かって光を放ち、彼らの心を満たすものよ、
下界にいる我らを襲う嵐をご覧ください。
(464ページ) 

 嵐とはどのようなものか。北方から来た人々によってローマ帝国が滅ぼされたが、その皇帝の住まいであったラテラーノ宮殿の威容は征服者たちを仰天させたのであった。そして、ダンテの時代に、このラテラーノ宮殿は教皇の住まいとなっていた。市民達の堕落に加え、教会までもがキリスト教の正しい道から外れている世俗の世界を離れて、天国の「正しく健全なる民」の中に入った彼は、
どれほどの驚愕を覚えねばならなかったことか。
もちろんこの驚愕と喜びのただなかにあって
私は話を聞かずに沈黙していることを望んだ。

そして、願いをかけた寺院の中で
周囲を眺めなが休養をとり、
すでにその様子を後で語ろうと思っている巡礼者にも似て、

生命をもたらす光の上に目を走らせて
私は階段を眺めていった、
高く、また低く、さらには周囲を見回しながら。
(466ページ) 天国を目にした喜びとともに、それをどのように地上に伝えるかについて、ダンテは考えるのであった。彼は判断しかねることについて、ベアトリーチェにたずねようとして、ふりかえると、それまで彼を導いてきた彼女の姿が消えていることに気づく。
・・・私が見たのは
栄光に包まれた人々の服を着た一人の古老だった。
(467ページ) 地上楽園で別れの言葉を告げることもなく、彼を地獄と煉獄で案内したウェルギリウスは去っていったが、天国で彼を導いたベアトリーチェとも別れることになったのである。

そして「彼女はどこに」、すぐに私は言った。
するとその方は、「おまえの希望をかなえるために
ベアトリーチェはわしを我が座から呼び出したのだ。

そして最上の段から
三段目の円周を見れば、おまえは
その功績が割り当てた座に彼女を再び見るであろう」。

答えることなく私は目を上に向けた。
すると永遠の光線を反射して
自らの冠となしていた彼女が見えた。
(468ページ) ベアトリーチェは自分の任務を終わらせて、さらなる案内をこの古老に託し、至高天の彼女自身の座へと戻っていたのであった(リンボに戻っていったウェルギリウスとは大変な違いである)。そして、ダンテはその本来の座についているベアトリーチェを見ることができた。

 31歌の後半で、ダンテのベアトリーチェへの感謝の言葉が述べられ、また古老が何者であるかがわかるが、それはまた次回。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(30-2)

11月1日(水)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて、地上楽園から天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、至高天から彼を迎えにやってきた魂たちと会話して、人生や信仰についての疑問を解決し、彼がこの旅の中で見聞きしたことを、地上の人々に伝えることが彼の使命であることを自覚する。至高天から土星天に降りてきている「ヤコブの階段」を上って彼は恒星天に達し、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問を受け、彼が自分の見聞を広めるのにふさわしい人物であることを証明する。彼はさらに非物質的な神の世界の入口である原動天に達し、森羅万象の運動がここに根源をもっていることを知り、天使たちの姿を見る。そして、ベアトリーチェは彼を最終目的地である至高天に導く。
 至高天は物理的宇宙とはまったく別個の、自然的法則から離れ、時間も空間も存在せず、ただ神から発する知性の光に満たされている位相なのだる。ダンテにはベアトリーチェ以外の一切が見えなくなった。ダンテは神の叡知と接触したことで、光に照らされ、その強い光のために一度視覚を失った後で、美しい春の庭のような至高天の様子を見る。

 ベアトリーチェはダンテが目に見ているものが、至高天の真の姿の投影にすぎないという。
・・・「川も、入っては出る
黄玉も、草花の微笑みも、
かれらの真実が投影されただけの序唱です。

これら自体が不完全であるせいではなく、
むしろあなたの方が至らぬからなのです。
あなたにはまだそれだけの優れた視力が備わっていないのですから」。
(453ページ) 「黄玉」というのはトパーズのことだそうである。天使や祝福された人々は存在自体が神への賛歌となっている。ここではまだその真の姿を現していないので、その露払いとしての「序唱」と表現されている。

 ダンテは川の流れのように見えていた神から発する真理の光を、水を飲むように目の中に入れた。すると、「目の前に/水平の広がりが円へと姿を変えて現れた。」(454ページ)
さらに続いて、まるで仮面を被っていた人々が、
隠れ蓑にしていた見せかけを
かなぐり捨てたならば前とは違う姿を現すように、

私の前で花々と火花は
ひときわ盛大なる祝祭に変じ、こうして私は
空の二つの宮廷が姿を現すのを目撃した。
(454-455ページ) 春の庭のように見えていたものが、人々の群れに姿を変えたのである。かれらは一つの光源の周囲を取り囲み、幾千段にもなって上の方に伸びながらその姿を現していた。この荘厳な様子を見て、ダンテはまた疑問を抱くが、黙っていると、ベアトリーチェがそれを察して、次のようにいう。
・・・「ご覧なさい、
純白の長衣を着た集まりがどれほど盛大か。

観なさい、我らの都市がどれほど広大な円を描くか。
観なさい、我らの祈りの座が満席に近づき、
もはやわずかな人々しかそこに望まれてはいないのを。
・・・」(458ページ) 至高天に迎えられた魂の数は膨大であるが、「満席に近づ」いている、つまり世界の終末はちかづいているという。そして、地上世界でのローマ帝国(神聖ローマ帝国)の使命の称揚と、教皇への厳しい糾弾がなされる。当時の皇帝が至高天に迎えられ、教皇たちが地獄に堕ちることが予言されて第30歌は終わる。

 昨日、10月31日は1517年にマルティン・ルターが有名な95か条の論題を提起してから500年の記念日であった。キリスト教会の分裂をもたらした事件であったが、カトリック、ルター派の両方の教会が合同でこの出来事を記念する行事を行ったのは慶賀すべきことであろう。ルターが問題にした聖職売買や、贖宥状の発行はダンテもこの『神曲』の中で烈しく批判しているのは既にこのブログで紹介してきたとおりであるが、ダンテが「神聖ローマ帝国」とか、「カトリック教会」という国際的な枠の中で物事を考えているのに対し、ルターはドイツあるいはドイツ語という民族・言語の枠の中で自分の主張を展開しようとしたというのが違いではないかと思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(30-1)

10月25日(水)雨が降ったりやんだり

 ベアトリーチェに導かれてダンテは地上楽園から天上の世界へと飛び立ち、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、これらを越えた世界である至高天から彼を迎えにやってきたた天上の魂たちと会話を交わし、彼が遍歴の中で見聞きしたことを地上の人々に伝える(この『神曲』という叙事詩を書くこと)が彼に課せられた使命であることを知る。至高天から土星天に降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問に合格し、人間の眼に届かない世界である原動天に進む。そこは天使たちの世界であり、天体全体の運行の起点になっている。

おそらくは六千里の遠く彼方で
第6時の太陽が我ら人類を燃やし、この地球は
影をほとんど水平近くにまで傾けている、

その時に空の中心は、私たちの真上に高くあって
明るくなりはじめ、星が幾つか
この宇宙の底にあっても見えなくなる。

その少し後になって一段と明るい太陽の
侍女が来ると、空は見えていた光を次々と、
最も美しいものまで閉じ込めていく。
(446ページ) 夜明けの空の様子が宇宙論を交えて描き出されているが、これはダンテの心中の譬えである。原基晶さんの翻訳の傍注には、ダンテの宇宙論の一端が紹介されているが、ダンテは地球の半周を12,000里としたとある。1里の長さが記されていないので、何とも言えないのだが、当時の一般の人々にとって、ダンテが『神曲』で展開している数字は、十分に納得できるほど大きなものであったと思われる。しかし、現代の天文学が扱っている宇宙の規模に較べれば、はるかに小さい。「太陽の侍女」は曙のことである。
 太陽の朝の光がそれまで見えていた星を消してしまうように、神の叡知に近づいたダンテの眼から天使たちの輪が消えていく。
そのために何も見えなくなると愛ゆえに
私はベアトリーチェをふりかえり目で見ようとした。
(447ページ) ベアトリーチェはあらゆる賞賛を越えて美しく見えた。

この人生で私が彼女の目を見た
その最初の日からこの一瞥まで、
彼女を詩に歌おうとして妨げられたことはなかった。

だが、今や私は、詩に歌いながら彼女の美しさを
追うのは諦めなければならなくなった。
あらゆる芸術家が力の限界でそうするように。
(448-449ページ)

 ベアトリーチェはダンテを導くという任務から解放されたという話し方と身ぶりで、2人が原動天から至高天に移ったと告げる。
・・・「私たちは最も大きな星体から
外に抜け出して純粋な光でできた空に入ったのです。

それは叡智の光であり、愛に満ちています、
それは真実の善の愛であり、喜びに満ちています、
その歓びはあらゆる甘美を超越しています。

ここにあなたは天国に備わる
二手の軍をともに見るでしょう。そして一つは
あなたが最後の審判の時に見る姿をしています」。
(449-450ページ) 「最も大きな星体」は原動天のこと、「純粋な光でできた空」は至高天のことである。通常の物理的な光ではなく、叡智である神の恵みそのものが光なので、「純粋な光」と表現されている。「二手の軍」の一方は、天使たちの群れ、もう一方は祝福された魂たちの群れである。

 このとき、ダンテは再び視力を失う。
あたかも、突然の光が視覚の能力を霧散させたために
外の対象を映像にすることが極めて困難になり、
目からその力が奪われてしまうように、

生命の光が私を囲んで燦然と輝き、
そして私をその大いなる輝く覆いによって
包むと、私には何もかもが見えなくなった。
(450ページ)

 至高天にはいる魂を照らす神の光は、ろうそくは一度火をつけてからそれを消して、改めて点火するとよく灯るといわれるように、この点に入るものの目をいったん見えなくしてから新しい視力を与えるのだという声がする。
そして私の中に新たな視力が灯ったが、
その強さは、どのような烈しい光であれ、
我が目に耐えられないものはないほどだった。
(451ページ)

 すると、ダンテの目の前には美しい光景が広がる。
すると私には、川の姿をした光が
赤みがかった黄金に輝き、驚くべき春の情景に
彩られた両岸に挟まれているのが見えた。

この川から生命の火花が飛び散り、
そして両岸で花々の中に飛び込むと、
さながら黄金に囲まれた紅玉のようだった。

その後で、まるで香りに酔わされてしまったかのように、
驚嘆すべき渦の流れの中に再び沈み込んでいく。
しかも、あるものが中に入っていっては別のものが外へと飛び出していく。
(452ページ) 「生命の火花」は天使たちのこと、「花々」は祝福された人々のことをさす。ダンテの目に至高天は彼が『煉獄篇』の終わりの方で訪れた地上楽園と同じような春の庭のように見えた。しかし地上楽園と天国は違うもののはずである。

 いよいよダンテは至高天に足を踏み入れた。彼の旅の最終目的、そしてこの叙事詩の終わりが近づいてきている。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(29-2)

10月18日(水)晴れのち曇り

 ベアトリーチェに導かれてダンテは地上楽園から天上の世界へと旅立つ。天上の中でも人間の目に見える世界である月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪ねた彼は、至高天からやってきて彼を迎えた魂と対話し、彼が地上で抱いていたさまざまな疑問への回答を得るとともに、彼がこの遍歴の中で見聞したことを地上に伝えることが彼の任務であることの自覚を固める。至高天から土星天へと降りてくる「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰・希望・愛という3つの対神徳についての試問に合格し、目に見える世界から目に見えない世界へと歩を進める。原動天でベアトリーチェは天使たちとその働きについての説明をする。

 天使たちをめぐる地上の学者たちの説が的外れなものであることを指摘したベアトリーチェは、次のように言葉を続ける。
こうしてみると下界には、覚醒しているはずなのに、夢幻に迷いながら
信じて、あるいは信じていないのに真理が語られることさえあり、
後者はより罪深く、より恥ずべき行為です。

あなた達は下界において哲学的思弁をする中で
あるべきただ一つの道を進んではいません。もてはやされることを愛して
評価を気にするために道を踏み外してしまうからなのです。
(440ページ) 天使についての様々な学説とそれらの学説間の論争は、正しい道から外れたものであると彼女は言う。

しかしこのことでさえ、ここ天上では寛容にも
それほどの怒りは買わないことでしょう、聖書がないがしろにされ、
あるいは捻じ曲げられるのに比べれば。

聖書の教えを世界中に種蒔くために
どれほどの血が流されたのか、自らを低くして聖書に寄り添う者が
どれほど御意にかなうのか、地上では考えもしません。
(同上) 天使をめぐる学説の違いなど、聖書からの逸脱に較べればたいしたことではないという。ただし、ここでダンテが述べている聖書を重視する考えが、ルネサンスの人文主義者たちによる聖書重視の考え方とは違うことにも注意しておく必要がある。ダンテは、この29歌でヒエロニムスの考えを批判しているが、その一方で、彼が『神曲』で引用している聖書は、ヒエロニムスがラテン語に翻訳したウルガータ版であり、これはカトリック教会が採用してきた聖書である。ルネサンスの人文主義者たちは、ヘブライ語の旧約聖書と、ギリシア語の新約聖書を典拠とすべきであると論じたのであった。ベアトリーチェは続いて、聖書に勝手な解釈を施している人々を非難する。そして、そのような虚言や戯言がキリストの教えに沿うものではないという。

キリストは最初の教団にお告げになりはしませんでした、
『行って、戯れ言を述べ伝えなさい』などとは。
弟子たちには真理の礎を授けたのです。

そして教団はそれだけを頼りに言葉を発し、
信仰の火をともす戦いに
聖書を盾とし、槍として臨みました。
(442ページ) 「マルコによる福音書」が伝えるキリストの言葉は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16.15)である。しかし、時間の経過とともに教団も、伝道者も変化した。

今では人は説教をするのに
機知と漫談をたずさえていき、ただ笑いが取れただけで
その僧帽の中身はうぬぼれにふくれ、それ以上は求めません。
(442-443ページ) 受け狙いが幅を利かす説教の現状を嘆く。そして、ベアトリーチェはその200年以上後に、ルターによる宗教改革の引き金になった教皇庁、あるいは最低でも司教によって発行される贖宥符の発行を非難する。〔カトリック教会では贖宥符という言葉を使うが、一般には免罪符という言葉の方が使われているのではないか。〕
これを信じるがために地上では愚行が広くはびこり、
その結果、大衆は何らかの効力を証(あか)す証明もないのに、
どのような約束にも飛びついてしまいかねません。
(443ページ) さらに彼女は、地上の腐敗した修道会を非難する。

 しかし、彼女は自分の発言が本筋から遠く離れてしまったことを認め、改めて天使についての説明を続ける。天使たちの神との愛の結びつきは、神への理解に応じて多様であり、神の光はその多様性の中でさまざまに分裂し、散り散りに拡散しながらも全体は一を保っているという。
愛は理解という行為に従うゆえ、
このことから、愛の甘美も
彼らの中では様々に白熱し、あるいは温(ぬる)むのです。

今やあなたは永遠の御力がもつ超越した偉大さを、寛容を
理解しています。なぜならそれは、自らのために
多数の鏡をお造りになり、その中で散り散りに分裂しつつ、

創世前と同様にご自身を同じく一つに保っていらっしゃるのですから。
(445ページ) こうして、天使と神についての理解をさらに進めたダンテは、本来の天国である至高天に昇っていくのにふさわしい存在となったことが語られる。

 第29歌が終わり、第30歌でダンテはいよいよ至高天に達することになる。そこはどのような世界で、その様子をダンテがいかに描き出すかは、次回以降のお楽しみということにしよう。
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR