ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(27-3)

9月21日(木)晴れ、暑し。

 ベアトリーチェに導かれて、ダンテは煉獄山頂の地上楽園から天上の世界へと飛び立つ。月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天で、土星天で、彼を出迎えた魂たちと対話を重ねて、彼はこれまで抱いてきた地上と天上のさまざまな事柄についての疑問に対する回答を得、自分が地上に戻った後に、死後の世界の遍歴で経験したことを人々に語ることこそ自分の使命であることを自覚する。至高天から土星天へと降りている<ヤコブの階段>を上って恒星天に達した彼は、そこで<信仰>、<希望>、<愛>という3つの対神徳についての試問を受け、彼が人知の及ぶ範囲を超えた世界を経験するのにふさわしい人間であるとの承認を得る。そして彼は恒星天から、不動の地球を取り巻いて全宇宙が回転する運動の起点となっている原動天に達する。この天空を包含するのは、神の光と愛である。この原動天から森羅万象の運動が開始されることから、運動、つまり変化を表現するために、物質的な世界である地上に住む人間の持つ時間もここにその根源をもつのである。

 地上の目に見える諸天空の動きは、目に見えない原動天の動きの結果であるとベアトリーチェは言う。
そして、時間がこのような素焼きの鉢にいかに
根を保ちながら他の天空に枝葉を伸ばしているか、
もはやあなたに明らかになってもよいでしょう。
(413ページ) ダンテはプトレマイオスの天動説によって宇宙の動きを説明しようとするから、かなり無理な議論を展開する。「根」は原動天の動き、「葉」は諸天空の回転である。地球の周りを諸天空が猛スピードで回っているとする天動説には明らかな無理があった(猛スピードで回っているだけでなく、周転円説に見られるように、かなり複雑な動きをしていると考えなければ、惑星の動きを説明することはできなかった)。

 ベアトリーチェは、人々が物質性への執着「貪欲」に邪魔されて、この非物質的な神の世界に精神の目を向けられないでいることを憤る。そして、人間は本来、善を求めて空に向かうべく生まれつくにもかかわらず、後に道を踏み外すことを嘆いた。
望みは人々の中に正しく花開きます。
しかし降り続く雨は熟れた李(すもも)を
悪しく腐乱した実へと変容させるのです。

信仰と純真無垢は幼児たちの中にしか
見つからないものですが、後になれば、どちらも
頬が髭で隠れる前に逃げ去ります。
(414ページ) 

このように、朝をもたらし夜を置き去りにする方の
美しい娘は、最初は白い肌に見えていても、
黒く変わるものです。
(414-415ページ) 神の「美しい娘」=人類は、最初は「白い肌」=純真無垢だが、後では「黒」く邪悪になるという。〔これは明らかに肌の色をめぐる偏見に基づく、人種差別である。〕

 ベアトリーチェは続けて、
おまえは、驚いたりしないですむよう、
地上に統治者が存在しないことを思いなさい。
それゆえに人類の一族はこれほどまでに道を踏み外しているのです。
(415ページ) 彼女が言う「統治者」はローマ皇帝である。世俗的な権力の持ち主である皇帝が地上に正義をもたらすと考える一方で、古代に存在した<民主制>や<共和制>には想像力が及んでいないことがダンテの限界であろう。

 そしていつか、神の意志を伝える天空の影響により、神の力が現われるという。
しかし下界で無視されている一日の百分の一ゆえに
一月がすっかり冬を脱することになる前に、
高みにあるこれらの諸天空は光を放ち、

その結果、長い間待ち望まれていた嵐が、
船首のある場所に船尾を回すでしょう。
こうして艦隊は正しく走り、

そして花の後に真実の実が続くことになるのです」。
(415-416ページ) ダンテの時代に使われていた「ユリウス暦」は1年を365日と6時間としていたため、実際の1年である365日と5時間48分との間に、「1日の(約)100分の1」約12分の誤差が生じる。これが積み重なると季節に対して暦が遅れ、春が来ても暦は1月であることが起きる(実際にはユリウス暦は4年に1度の閏日を設け、これを1582年に修正したグレゴリオ暦は400年に3度閏日を省略した)。1季節を3か月とすると、ダンテが述べている暦と季節とのずれは、彼の時代から約9000年後に起きることになる。「艦隊が正しく走り」、正義が実現する日を、ダンテが9千年後と考えていたのか、それとも比較的すぐにやって来ると考えていたのかをめぐっては議論が絶えないという。〔ここでは、ダンテがこのような暦学的な知識と思考力を備えていたことに、素直に脱帽しておこう。〕

 こうして、第27歌は終わるが、ダンテの原動天での見聞はまだまだ続く。いよいよ非物質的な世界にやってきた彼は、どのような経験を重ねることになるのであろうか。
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ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(27-2)

9月13日(水)晴れのち曇り

 ベアトリーチェに導かれて、ダンテは煉獄山の山頂にある地上楽園から、天上の世界に飛び立った。月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪ねた彼は、それぞれで彼を迎えた魂たちと会話を交わし、地上で疑問に思っていたことへの回答を得ただけでなく、この旅の中で見聞したことを地上の人々に知らせることが彼の任務なのだと示唆される。至高天から土星天へと降りてくる<ヤコブの階段>を上って、彼は恒星天に達し、キリストとマリアの凱旋を見た後に、ペテロ、大ヤコブ、ヨハネの3人の使徒たちから3つの対神徳:信仰、希望、愛についての試問を受ける。彼はこれらの試問に合格し、魂たちからの賞賛を得る。そして、最初の人間であるアダムの魂からも彼が3つの対神徳を備えた人間であると認められる。ペテロは、彼の後継者であるはずの教会が世俗の悪にまみれて腐敗堕落していることを嘆き、しかし、未来には神慮が地上に平和をもたらす人物を送るだろうと述べて、至高天へと戻っていった。

 ペテロの去っていったあとをずっと見送っていたダンテに、ベアトリーチェは地球を見るように言う。するとダンテには、地球の陸地の東端近くから西端のスペインのカディス、その先の大西洋、そしておそらく煉獄山までが見えた。彼はこの後、人間の世界に直接影響を与えている物理的宇宙空間を離れて、純粋に神的な非物質的世界に入っていくことになるのである。〔現代の天文学的な知識からすれば、恒星の世界はダンテ(と彼の同時代人)が考えていたよりもはるかに広く、太陽系から最も近い厚生からでも、地球は見えないはずである。ダンテが考えていたよりも、宇宙ははるかに巨大であるが、だからといって『神曲』の価値が減じるというわけでもない。〕

 地球を見たダンテは、神の光の反射である人智を超えたベアトリーチェの微笑を見ることを熱望する。
愛に導かれた我が知性、いかなる時も
我が貴婦人を憧れて見つめていたそれは、
かつてなく視線を彼女へと戻すことに熱く燃え上がった。
(410ページ)
 自然の美も芸術の美も、それら全てを集めたとしても
彼女の微笑む眼差しを私が振り返った時、
私に向かって輝きを放った神のような美しさに比すれば、
それは無価値の表れでしかないであろう。
(410-411ページ)

 ベアトリーチェはダンテに微笑を向けながら、彼を恒星天から、原動天へと押し上げた。そこは一様に出来ていて星などは無く、最も早く回り、地上から最も遠くにある第九天空なのである。ベアトリーチェは、この天空について知りたいというダンテの望みを察して、説明を始める。
「全宇宙のあり方、すなわちその中心を
不動にして周囲に他の全天空を回転させるというもの、
それはこの場所を起点にはじまっています。
(412ページ) 宇宙の最も外側の「この場所」原動天から漸次、宇宙の回転運動が伝わり、中心の地球は不動であるという。

そしてこの天空は神の知性のほかに
在所を持ちません。神の知性の中にはこれを回転させている
愛と、これの降らせる力が燃え輝いています。
(同上) 物理的宇宙空間が始まる「この天空」原動天は、時空を越えた神の知性である「至高天」の中に存在する。「神の知性」至高天には原動天を動かす「愛」と、漸次下位の天空に伝える「力」があるという。

光と愛が一つの輪でこの天空を包含しているのです。
この天空が他の天空にしているのと同様に。そしてその輪のことは、
それに宇宙を取り巻かせている方だけが理解していらっしゃいます。
(同上) 物理的な空間の外にある「光」神の力と「愛」からなる至高天は輪のように原動天を包含している。「その輪」至高天に物理的宇宙空間を包含させている神だけが、至高天の性質を理解している。天体の運行をめぐり、ダンテは神の力やその愛がその背後にあるのだと考えている。ニュートンまでの距離は遠い(ニュートン力学に基づく宇宙観もその後修正されることになるのではあるが・・・)。

この天空の回転は他の天空によって規定されることはなく、
他の天空こそがこの天空により計られます。
あたかも十がその二分の一と五分の一から規定されるように。
(412-413ページ) 原動天が起点になって、他の天空に時間で数えられる周期を与えている。10はその2分の1である5と5分の1である2の積である。2は運動を、5は宇宙を作っている第5元素エーテルを表しているとされる。このように数字に棟別な神秘的意味を与えて、世界を解釈するのはヨーロッパの中世に顕著な考え方である。

 第27歌は2回で紹介を済ませるつもりだったが、原動天についてのベアトリーチェの説明が難解で、さらに1回分を使ってみていく必要がありそうだと判断した。なかなか予定通りに行かないものである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(27-1)

9月6日(水)雨が降ったりやんだり

 ベアトリーチェに導かれて、煉獄山頂の地上楽園から天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、彼を出迎えた知人や歴史上の有名人の魂と対話して、自分の疑問への解答を得るとともに、この遍歴で見聞したことを地上に伝えることが彼の使命であることを自覚する。至高天から土星天へと降りているヤコブの階段を上って恒星天に達したダンテは、キリストとマリアの天国への凱旋を見た後、ペテロ、大ヤコブ、ヨハネの3使徒から3つの対神徳である信仰、希望、愛についての試問を受け、その回答への承認と称賛を得る。そして彼は人祖アダムの魂と対話することができた。

「父に、子に、聖霊に、
――全天国が――栄光あれ」と歌いはじめた。
その甘美な歌は私を酔わせた。
(402ページ) 翻訳者である原さんの「解説」によると:「神が直接創造したアダムは3つの対神徳をすべて備えた完成した人間だった。そしてダンテはそのアダムから、三徳すべてを備えた人間として認められ、「父」の存在を信仰し、「子」の復活に希望を託し、「聖霊」つまり神からの愛に応えて神を愛し、そのために至高天へと「栄光」の凱旋を飾ることになる。「栄光あれ」の歌は、天国から彼に与えられた祝福だった」。(628-629ページ) その歌は私を「酔わせた」というのは「忘我の状態になった」ということである。

 ダンテはその喜びについて謳いあげる。
私が見ていたものは、まるで
宇宙の微笑みのようだった。だからこそ、私の陶酔は
聴覚と視覚を通じて入り込んできたのだった。

おお、喜びよ。おお、えも言われぬ歓喜よ。
おお、愛と平和の全き生よ。
おお、邪欲を引き起こさぬ揺るぎない富よ。
(同上) 彼が経験した「歓喜」「愛と平和の全き生」「邪欲を引き起こさぬ揺るぎない富」は、地獄のような地上と対照をなすものである。

 彼の目の前に4本の松明が現われ、その中の最初に現れた松明(ペテロの魂)が公正と温和を表すユピテル、すなわち木星の白から、闘志を示すマルス、すなわち火星の赤へと変色した。このあたりの描写は異様であり、そのことにこの叙事詩の世界が地上の摂理を離れた場所にいることを物語っているのだと原さんは解説している。

 ペテロは教皇の地位にそれにふさわしくない人物がついていること、そのために彼の墓(=聖ピエトロ大聖堂)が「血と悪臭の溜まる/下水溝」(404ページ)になってしまったと嘆く。
・・・ために、ここ天上から
堕落したかの邪悪は下界で満足しておる」。
(同上) 「血」は戦争で流された血、「悪臭」は聖職売買という腐敗の放つ悪臭である。「かの邪悪」=魔王ルシフェルが満足しているということは、ローマ教皇は悪魔の手先だというのと同然である(このような非難のために、『神曲』はダンテの死後もなかなか公刊を許されなかった)。この言葉に、天国には一瞬、悲しみの色が広がる。

 ペテロは言葉を続ける:
「キリストの花嫁は、
黄金の獲得に利用されるため
我が血やリヌス、クレトゥスの血で育まれたわけではない。
(406ページ) 「キリストの花嫁」は教会をさす。初代の教皇とされるペテロ、2代目の教皇リヌス、3代目のクレトゥスは、ローマ帝国の迫害により殉教したが、それは「黄金の獲得」=地上の富の追求のためではなかった。
 そして現教皇(1300年当時の教皇は教皇皇帝主義を極限にまで推し進めたボニファティウスⅧ世)がキリスト教信者を分裂させ、私的利益のために同じキリスト教信者に対して自分の名ペテロとその職権を象徴する鍵を利用して十字軍を起こし、傭兵を操って戦争を仕掛け、印璽により自分の顔を聖職売買のための書類に捺していることを怒る。
 当時はフランスのアヴィニョンにもフランス王に後押しされた教皇庁があって、分裂状態が続いていたが、アヴィニョンの教皇たち、クレメンスⅤ世とヨハンネスXXⅡ世が教会自体を餌食にしようとしていると予言した。
・・・おお善良なる源よ、
何たる愚劣な終わりへとおまえは堕すことになるのか。
(407ページ)

 しかし、希望を捨ててはいけない。
だが、高きにある神慮は、ローマにおいてはスキピオを使い
世界の栄光をお護りになったが、
我が理解している通り、すぐにも助けに来るであろう。

そして息子よ、おまえは必滅の重さを持つがゆえに
再び下界に帰ることになるが、口を開け。
我が隠してはいないことを隠してはならぬ」。
(408ページ) ダンテはローマが世界に平和と秩序をもたらす存在であると考えていたから、スキピオ・大アフリカ―ヌスが紀元前202年のザマの戦いでカルタゴのハンニバル軍を破り、ローマを救ったことを神慮の表れと解釈している。スキピオの名は、イタリアの国歌の中にも出てくるが、ハンニバルの方が好きだという人も少なくない。
 スキピオがハンニバルを破ったことにより、ローマは地中海に覇を唱え、帝政ローマへの道を開いたが、同じように、神慮は地上に平和をもたらす人物を送るだろうという。このことを地上に伝えるのがダンテの任務だという。ダンテの歴史観では帝政ローマは神慮により地上に平和をもたらした。だとすると、ここで想定されている人物は、平和を再建する神聖ローマ帝国の皇帝と解釈される。このように言い置いて、ペテロは他の魂たちとともに至高天へと戻っていった。
我が視線は彼らの姿を追っていき
そして間にある空間が大きく開き、
視線がさらに先へと進めなくなるまで追った。
(408-409ページ) ダンテの天国での旅の中で、この恒星天までが物理的宇宙的な、地上の人間が認知することができる世界であるのに対し、ここから先は神的な非物質的な世界になる。落語の『浮世根問』の「そこから先はもうもうとしたところだ」というのをなぜか思い出す。(『神曲』は神学的な論争の書とも、地上に平和をもたらす政権の樹立について考えた政治的な書物とも、俗語によって高尚な主題を歌うことにより文学の革新を目指す書とも考えられる――これ以外の解釈を含めて、受け取り方は自由である――が、私はどちらかというと宇宙論の書として読んでいると自分では思っている。)
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(26‐3)

8月30日(水)晴れ、暑し

 ベアトリーチェに導かれて、ダンテは煉獄山の山頂にある地上楽園から天上の世界へと飛び立つ。1300年4月13日のことである。月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪した彼は、それぞれの世界で彼を迎えた魂たちと会話し、彼自身の迷いを解くとともに、彼の帰還後の使命が、彼が死後の世界を歴訪して見聞したことを地上の人々に知らせることであるという自覚を高める。至高天から土星天まで下りているヤコブの階段を上って、恒星天に達したダンテは、キリストとマリアの天国への外線を見た後、十二使徒の一人であるペテロから<信仰>について、同じく大ヤコブから<希望>について、同じくヨハネから<愛>についての試問を受ける。試問の途中でいったん視力を失ったダンテであったが、3つの問いに見事にこたえきった時に、これまで以上の視力が備わる。その目に、人祖アダムの魂の光が見える。ダンテは、彼に自分の疑問に答えてほしいと呼び掛け、アダムの魂は快く応じる。ダンテが口に出すまでもなく、アダムは彼が問おうとしていることが分かっているという。

 アダムはダンテが心の中に抱いている質問を察して、次のようにまとめる:
君が聞きたがっているのは、最も高い場所にある庭園に
神が私を置かれた時からどれだけたったのか、つまり彼女が君に
これほど長い階段への準備をさせた場所のことだが、

またその庭園がどれほどの間にわたり我が目を喜ばせたのか、
そして大いなる怒りの本当の理由と、
さらに私が創造して使っていた言語についてだ。
(398ページ) 「最も高い場所にある庭園」は煉獄山の山頂にある楽園、つまりエデンの園のことである。アダム(とその後に創造されたエヴァ)はこの楽園で生活していたが、罪を犯して追放された。またこの楽園は、ダンテの地獄と煉獄の旅を案内してきたローマ黄金時代の詩人ウェルギリウスの魂が姿を消し、これからの旅を導くべくベアトリーチェが登場した場所である。
 ダンテの問いは、アダムが創造されてからダンテと会うまでにどれだけの時間が経過したのか、彼はどのくらいの時間エデンの園にいたのか、「大いなる怒り」=エデンの園からの追放を結果としてもたらした神の怒りの本当の理由はなんであったのか、これらの歴史的、倫理的な問いに加えて、アダムが使っていた(つまり人類の最初の)言語はどのような言葉であったのかという言語にかかわる問いが発せられている。ダンテには『俗語論』という著作があることを思い浮かべると、彼の興味の広がりがわかる。

 アダムは、これらの問いに順を追わずに答えていく。
さあ、聞け、我が息子よ。木の実を味わったこと、
それ自体があれほどの追放の原因であったのではなく、
境を越えたことだけが原因であった。
(398-399ページ) 「境」すなわち神の定めを超えるという高慢の罪を犯したことが楽園からの追放の真の理由であるという。

 次にアダムは彼が楽園から追放されてから、天国に迎えられるまでの時間について語る:
君の貴婦人がウェルギリウスを動かしたその場所で、
四千三百二回太陽が回る間
私はこの集まりに来ることを望んだ。

また地上にいた間、
私は太陽が黄道にあるすべての星座を
九百三十回めぐるのを見た。
(399ページ) 「君の貴婦人がウェルギリウスを動かしたその場所」というのは、地獄の第一圏であるリンボを指す。ダンテはプトレマイオスの天動説に従って、地球の周りを太陽が1年間かけて回っていると考えていた。それで、アダムは死後リンボに4302年、その前に地上に930年いたというのである。復活したキリストは、リンボからアダム、その子アベル、ノア、モーゼらの旧約聖書に登場する義人たちを天国に連れて行ったとされる。ダンテが使っていたフィレンツェの暦で、それは紀元32年のこととされていたので、それまでに5232年が過ぎ、西暦1300年現在では6500年たっていたという計算になるそうである(626ページの解説をご覧ください)。人類の歴史がいったいどのくらいの古さを持つのかというのは、長い間議論されていたことであった。近世に入って、ヨーロッパ世界が中国と交流を持つようになると、中国人たちが自分たちよりも古い歴史を持つということが知られ、多くの議論を呼び起こした。現在では、神が人間を創造したということを含めて、人類の歴史は大きく書き換えられている。

 次にアダムは、彼が話していた言語について語る:
私の話した言語は、ニムロド王率いる民が
未完に終わった事業に従事する前に
一切が消え去っていた。

というのも人間理性の生み出したものは、
天空の影響を追って新たに変わる人類の嗜好ゆえ、
これまで何一つ永久に続いたことはなかったからだ。

人が話すのは自然のなせる業である。
だが次に自然は、君たちの望むところに従って
あれこれの言語で話すよう君たちの選択に任せる。
(400ページ) 「未完に終わった事業」というのは旧約聖書の『創世記』に登場するバベルの塔の建設である。『創世記』を丹念に読むとわかるのだが、ニムロド王とバベルの塔は関係がない。ところがかなり多くの人々がバベルの塔の建設を指揮したのはニムロド王であったと思っているのは不思議なことである(例えば、ジョン・ヒューストン監督の映画『天地創造』ではニムロド王がバベルの塔の上から、天に向かって弓を引いて放つ場面があった→神を侮る不遜な行為である)。バベルの塔を建てるという人類の高慢さを神が罰して、地上の言語を混乱させ、その結果、建設作業が混乱し、結局未完に終わる。それ以前からアダムの言語葉消滅していたという。その理由として、人間の理性が創造したものは不滅ではなく、言語自体は人間の生まれつきのものだが、どのような言語を話すかは人間の欲するところに従って変化すると述べている。このあたりに、ダンテの言語観の一端を認めてもよいのではないかと思う。

 最後にアダムは
波打ち際から最も高く聳える山の上に
私がいたのは、純真無垢な生から罪を犯すまで、
すなわち最初の時刻から、四分円を太陽が変える

第六時の、その次の時刻まで」。
(401ページ)という。「最も高く聳える山」は煉獄山で、その「上」というのは山頂のエデンの園、「純真無垢な生から罪を犯すまで」というのはエデンの園に置かれてから、知恵の木の実を食べて罪を犯し、神により地上へと追放されるまでを言う。「最初の時刻」は春分の頃の日の出の時刻、午前6時であり、「第六時の、その次の時刻」は「第七時」、現在の時刻で午後1時である。「最初の時刻」→「第七時」、午前6時~午後1時、どちらの計算をしてもアダムがエデンの園にいたのはわずか7時間ということになる。これは短すぎるという気がするのだが、ダンテはそう考えていたということである。〔ミルトンの『失楽園』を読めば、彼がアダムとエヴァが楽園で暮らした時間をもっと長く想定していたことがわかる。〕 なお、この第26歌ではアダムのことばかり語られていて、エヴァが登場しないのを気にしている方がいらっしゃるかもしれないので付け加えておくと、第32歌に登場する「美しい女性」がエヴァだと考えられる――ということは、彼女も天国にいることになっているので、ご安心ください。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(26-2)

8月24日(木)晴れ(雲が多い)、暑し

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪れ、それぞれで彼を迎えにやってきた魂たちと対話し、信仰と世俗の生活をめぐる彼の迷いから解き放たれていく。至高天から土星天まで降りている「ヤコブの階段」を伝って、恒星天に達した彼は、イエス・キリストとマリアの天国への凱旋を見た後、十二使徒のペテロによって「信仰」、大ヤコブによって「希望」、ヨハネによって「愛」についての試問を受ける。「信仰」、「希望」、「愛」は3つの対神徳である。「希望」について答えた後で、ダンテは目が見えなくなる。「愛」について答えると、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という歌が歌われる。

目の網膜を通ってやって来る輝きへと
向かう視覚の霊により、
鋭い光を浴びて人は眠りから覚めるが、

目覚めさせられたものには、見えるものが何か分からない、
そのために判断力が助けに来るまでは
突然に目覚めたことを理解できないでいる、

それと同様に、ベアトリーチェは
千里を越えた遠くからでも燦然と輝く彼女の光線により
我が目のあらゆる濁りを消散させた。

そのために後では前よりよく見えるようになった。
そしてほとんど唖然としながらも
私達の間に見た第4の光について私はたずねた。
(394-395ページ) ベアトリーチェは、神の光を反射する彼女の目から発する光線でダンテの視力を回復させ、以前にもましてその力を強めた。すると、驚いたことに、三使徒のほかにもう1つの輝きが彼の前に見えた。この第4の光が何者であるかをダンテはたずねる。

するとわが貴婦人は、「第一の御力がかつて創造された
第一の魂がその光線の中から
自らの創造主を憧れ見つめています」。
(396ページ) 「第一の御力」は神、「第一の魂」はアダムである。

風が吹きわたっていく時に
木が頂をかがめ、その後で、
頂を押し上げる自身の力により起き上がる、

彼女が話している間、私は驚嘆して
そのようになり、それから話したい希望に燃え上がり、
再び落ち着きをとりもどした。
(同上) 第4の光が神が肉体をも含めて直接想像した「第一の魂」人類の祖であるアダムだと知り、驚き、敬意から頭を下げたが、この「第一の魂」に尋ねたい多くの事柄があることを思い出して、落ち着きをとりもどした。

 ダンテはアダムに、ダンテの心を読んで自分の疑問に答えてほしいと頼んだ。
そのあとで彼は言霊を発した。「君から話しかけられずとも、
君にとってひときわ確かと思われるあらゆる事物よりも
はっきりと、私には君の望みが分かっている。

なぜなら私はそれを、自身にそれ以外の事物の似姿を映し出すが、
どのような事物もその似姿を映し出せはせぬ
真実の鏡の中に見ているからだ。
(398ページ) 「真実の鏡」は神であり、アダムは神を見ているがゆえに、ダンテの心の中は見通しているのである。無限の神はあらゆる事物の似姿であるが、有限の事物は神の似姿になることはないのである。

 この後、アダムはダンテの問いに答え始める。このアダムの発言には注目すべき内容が多く含まれているので、次回に詳しく取り上げることにする。『天国篇』に入ってからはずっと、1歌を2回に分けて取り上げてきたが、今回は3回に分けて取り上げることにしたい。アダムが、ダンテのどのような問いにどのように答えるかは、したがって次回のお楽しみということにしてほしい。
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