ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(24-1)

7月20日(木)晴れ、暑し

 ベアトリーチェに導かれて地上から天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪れ、土星天から至高天まで伸びている階段を登って恒星天に達する。恒星天は人間の目の届く限界であるとともに、人間的な世界と神の世界の境界となっている。恒星天で彼はキリストとマリアの天国への凱旋の様子を見た。

 第24歌の冒頭で、ベアトリーチェが、天国の住人たちは神の「子羊」イエス・キリストのあたえる精神の糧により満ち足りていると述べ、彼らと同じ精神の糧の一部だけでも味わわせてほしいと魂たちに頼む。
「・・・
この者の果てしない望みに注意を傾けて
雫を与え、飢えを癒したまえ。あなた方は
この者が思考し、知ろうとしているものが出る泉で喉を潤しているのですから」。
(358ページ) 「思考し、知ろうとしているもの」は「神智」のことである。

 魂たちは輝きながら、輪を作って
・・・それぞれ
異なって速く遅く踊り、
彼らの富を私に推し量らせた。
(359ページ) 「彼らの富」は神の「恩寵の豊かさ」のことである。そのような輪舞の中から、「その明るさを越えるものはそこには一つもない」(360ページ)魂が出てきて、ベアトリーチェの周囲を3度回った。それは十二使徒の1人であり、初代教皇であったペテロの
魂であった。ペテロの魂が神学の象徴であるベアトリーチェの周りを3度回ったことは、教会が神学に対して払うべき敬意を象徴していると考える人もいるそうである。

 ベアトリーチェは、ペテロの魂に向かって次のように語りかける:
・・・「おお、偉大なる傑物の永遠の光よ、
この奇蹟の喜びに至るための二つの鍵を
我らの主が地上にお運びになり委ねられた方よ、

あなたの心のままに、信仰についての
易問であれ難問であれ、この者に試問されよ。
あなたは信仰のために海の上を歩いたのですから。
・・・」
(361ページ) ダンテが天国にふさわしい人間かどうかはペテロの目には明らかなはずである。しかし、それでもダンテに「信仰について話をする機会」(362ページ)を与えてほしいという。ベアトリーチェがペテロに話しかけている間に、ダンテは
バカラリスが
結論を出すためではなく、弁証するために
師が論題を提示するまで頭の中で備え、話さずにいるように、
(362ページ) ダンテは試問に対して答える準備をしていた。バカラリスは中世の大学における教養諸学の教授資格であるマギステル学位を取得しようとする候補者のことである。彼らには論証を上手に表現する能力が求められた。当時すでにボローニャをはじめとしてイタリア各地に大学が設置されており、ダンテ自身は大学で勉強したわけではないが、大学での勉学については十分な知識をもっていたと思われる。

 「信仰とは何か」(363ページ)というペテロの問いに対して、ダンテは
「・・・
信仰とは希望される事柄の礎にして
目に見えぬことに対する証です。
そしてこれこそが私にはその本質に思えます」。
(364ページ)と答える。ペテロはこの回答を受け入れる。ダンテの答えは『新約聖書』の聖パオロによる「ヘブライ人への手紙」(11.1)そのままでああったのだが、さらに、そのように定義した理由についてペテロは問いかける。

 これに対してダンテは、地上からの視線は神に届かないので、知性によって神を直接認識することは不可能であり、そのため侵攻により神の存在が知られ、その礎の上に人類は天国を望むからというものであった。
・・・「ここにおいて
ありがたくも私に姿を現したまう深遠なる諸事物は、
下界にある目には隠されているため、
その存在は、そこではただ信じることの中にあり、
その上に崇高な希望が打ち立てられるのみです。
ゆえに信仰は礎の意味を持ちます。

この信じることから、私達はさらなる確証を見ることなしに、
論理的に演繹しなければなりません。
ゆえに信仰は証の意味を負います」。
(364-365ページ) そして堅い信仰をもち、神の記した聖書がその信仰をもたらしたと述べた。

 恒星天まで達したダンテは、さらに先へ進むために3つの対神徳(信仰、希望、愛)についての試問を受けることになる。今回はまず信仰についての試問であるが、その根拠が人知を超えたものであるというのがダンテの考えであった。それでもなお、神を信じようとするのはなぜか、そこには一種の飛躍があり、その飛躍こそ、多くの思想家たちが格闘した問題であった。飛躍を可能にするのは、『新約聖書』にまとめられたイエスの言葉、(聖霊の宿った)使徒たちの言葉を神の言葉として信じることである。ダンテはキリスト教の根幹にかかわる問題と取り組んでいる。 
スポンサーサイト

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(23-2)

7月13日(木)晴れたり曇ったり、風がかなりが強いが、それでも暑い

 ベアトリーチェに導かれて、天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を経て恒星天に達する。そこで彼は、キリストの凱旋の行進と神の恩寵のアレゴリーであるベアトリーチェの微笑を見ることができた。地上の人間が本来見ることのできないものを見るまでに成長を遂げたのである。ベアトリーチェはダンテにイエスの母であるマリア(薔薇)と十二使徒(百合)とを見るように告げる。

  ダンテは、彼女の勧めに従い、「乏しい視力で/戦いに再び身を投じた」(351ページ)。
これまでに、影に護られる我が目が、
切れ切れの雲間をぬう清らかな
太陽の光線に照らされた、花咲く野原を見てきたように、

光輝の源泉は見えないままに、
私は、燃え上がる光線に烈々と上から光を注がれる
群れ集う無数の輝きを見た。
(351-352ページ) ダンテの目は、魂たちの「無数の輝き」の中で「最も大きな火」(352ページ)である聖母マリアに向けられた。するとマリアの光の周囲に天使ガブリエルの光が輪になって降下し、周囲を回転しながら調和の音楽を奏でた。
そして我が光る両目が私に、地上で他に勝ったように
天上でも他に勝る、あの生命ある星の
輝きと大きさを映し出すやいなや、

その天空のなかへ一つの燃える松明が降下し、
王冠のように輪の形をなして
その星を取り巻くと周囲を回転した。

ここ下界でひときわ心地よく響き、
ひときわ魂を惹きつけるどの調べでさえ、
最も明るい空を飾る

美しい青玉の冠となっていた
あのリラが奏でる響きと比べれば、
雲が引き裂かれて雷鳴が轟いたかのように感じられる。
(352-353ページ) 「松明」は天使ガブリエルと考えられている。「青玉」は聖母マリアの譬えだそうである。6月23日に放送された「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」の第22回:ティエーポロ<マリアの教育>でも話題になっていたが、マリアはほとんどの絵画の中で青い衣を着ているという。天使ガブリエルが奏でるリラの響きにくらべると、地上のどんな音楽も雷鳴にしか聞こえてこないというのである。

 聖母マリアはイエスに続いて、本来の住処である至高天へと戻っていく。見送りながら魂たちは聖歌「レジーナ・チエーリ(空の王妃)」を歌う。この歌は、キリストが復活し、死に勝利したことをマリアに対して祝うものだが、その復活とは、キリストの贖罪により原罪が赦され、聖母の守る人類が死に勝利したことをも意味していた。実際にダンテも、マリアの恩寵によりこの死後の世界の旅に出たのであった。『地獄篇』第2歌でウェルギリウスは彼のもとを訪問したベアトリーチェが「空にあらせられる高貴な婦人」(『地』、48ページ)の意を受けて、ダンテに死後の世界を案内するように依頼したと述べたとおりである。

おお、何と豊かな貯えがあることか、
下界で善き種蒔く人であった、
それらのこの上なく豊かな収穫箱には。
(356ページ) 「収穫箱」は下界では信仰の「種蒔く人」であった十二使徒のことである。「種蒔く人」というと、ミレーとゴッホの絵を思い出す(そういえば、京都にミレー書房という本屋があって、そこで本を買うとミレーの絵をデザインしたカバーをつけてくれた)が、彼らの絵のキリスト教的な含意が日本では別の、もっと世俗的な意味にとられたようである。

 ダンテは地上を、堕落を象徴するバビロンと呼び、地上での生を天国からの追放と表現している。
ここで人々が糧にして生き、味わうのは、
バビロンへ追放されていた間に、涙を流して手に入れた
あの宝。黄金などは向こうに放ってきたのだ。
(同上) 天上の勝利した教会とは祝福された人類の共同体であり、地上「バビロン」で精神の「宝」を手に入れ、まがい物の幸福「黄金」は地上に捨ててきた人々からなる。そして、その「宝」を手に入れる指導を地上で行う地上の教会の長(歴代教皇は彼の代理でしかない)ペテロが最後に登場する。
これほどの栄光への二つの鍵を持つ方が。
(357ページ) 

 ダンテの描く世界の中で、恒星天までは物質的な世界であるが、さらにそこから非物質的な世界である原動天、至高天に進むために、彼は試問を受けることになる。その次第についてはまた次回。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(23-1)

7月6日(木)晴れてはいるが、雲が多い。暑い。

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、それぞれで彼を出迎えた歴史上の有名人や彼の知人の魂と会話し、心に抱いていた疑問への回答を得ていく。そして彼らは恒星天に達して、ダンテはベアトリーチェが勧めるままにこれまでたどってきた宇宙を振り返り、その構造を理解する。宇宙は広大であり、その中で地球が狭小な世界であることを改めて実感する。

 ダンテは第23歌を、闇夜に母鳥が木の中の巣にいる雛のそばで夜明けを待っているという情景から始める。それはベアトリーチェが何かを待っている姿をたとえたものである。彼女が待っていたのは「キリストの凱旋」であった。
…「ご覧なさい、
キリストの凱旋の行進を、そして諸天空の回転により
生じた収穫のすべての果実を」。
(346ページ)

 そして天上の太陽、神の恵みの光の光源が魂たちの光の上に現れ、ダンテはその光に圧倒される。ベアトリーチェはその激しい光がイエス・キリストであることを告げた。
・・・「あなたを打ち負かしたあれは、
それから身を護れるものなど何一つない御力です。

あの中に、空と地の間を結ぶ道を開いた
知と力がおわします。
かつてあれほど長きにわたって望まれていた方が」。
(347ページ) 

 ダンテはその光を見た時に、神の光を受けて神の恵み、つまり神的な知を享受し(ダンテはそれを「饗宴」と呼んでいる)、そのために、元来が神与のものである知性がダンテから抜け出し、「脱我」して、ダンテの知性はその神的知性と接触した。このことが、本来は上に向かう性質を備えている炎気が、性質に反して地上に落ちる現象である落雷に例えられている。
炎気がふくれ上がったために
雲の中に留まれずに噴出し、
生来の性質に反して地上に落雷するのと同様に、

わが知性もその饗宴の中で
常よりふくれ上がり、脱我したのだ。
そして知性は己がどうなったのかを今も思い出せないでいる。
(348ページ) 

 ダンテは「脱我」を覚えていない。が、この神的知性との接触で成長し、ついにベアトリーチェの微笑み、換言すれば神の恩寵を直接見た。翻訳者である原さんは解説で次のように書いている:「しかしここで神の片鱗のようなその微笑を書き切ってしまえば、神との出会いを目指している『神曲』の詩人としての旅が終わってしまうためであろうか、詩人ダンテは…言語の非全能性を理由にその微笑を描かなかった」(614ページ)。
彼女の聖なる微笑と、
その微笑が聖なる顔をどれほど輝かせていたか
歌ったとしても、真実の千分の一にも達しないであろう。
(349ページ)

 ダンテは神の子イエス・キリストと、神の恩寵のアレゴリーであるベアトリーチェの微笑を見た。この後ダンテは、直接目にした神的な出来事を、地上の事物を例えに使って読者に説明するようになる。ダンテが経験した事柄は、地上の人間の経験と想像力を越えた出来事であり、それをそのまま伝えることはできない。地上の人間の理解力に届くように、彼の見聞を表現するのは親征ではあるが、きわめて困難な仕事となる。
・・・この聖なる叙事詩は
天国を言葉で描き出しながらも飛躍せざるを得ない。
あたかもおのれの道が断ち切られているのに直面した者のように。

しかし、この困難な主題と
それを担う生身の肩について思い及ぶ人ならば、
その重みの下で肩が震えたとしても非難しないだろう。

勇敢な船首が水を掻き分けながら進んでいる水路は、
小舟にも、自分の力を出し惜しむ船頭にも
渡れるものではない。
(350ページ) ダンテは全力でこの仕事をやり遂げようと決心する。その彼に、ベアトリーチェは「薔薇」(=聖母マリア)と「百合」(=十二使徒」に目を向けるように勧める。恒星天で彼はさらに多くの物を見るのである。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(22-2)

6月29日(木)曇り

 ベアトリーチェの導きによって、地球の南半球にそびえる煉獄山の頂にある地上楽園から天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天を歴訪し、それぞれの天で彼を出迎えた天上の魂と会話を交わして自らを高め、神のいる至高天に近づいてきた。そして惑星の中で一番神の近くにある土星天に達し、土星天から恒星天に達する階段を見る。その階段を降りてきたペトルス・ドミアーヌスは当時の教会の腐敗を批判した。次に彼は聖ベネディクトぅスに話しかけられる。聖ベネディクトゥスも修道会が堕落している現状を非難する。

必滅の者達の肉体は甘言にあまりに弱く、
下界において、善きはじまりは
樫の木が生えてからどんぐりが実るまでも続かぬ。
(336ページ) 人間は弱く、堕落しやすい。肉体的な快楽の誘惑にすぐに屈する。「樫の木が生えてからどんぐりが実るまで」という表現が身近で面白い。

 聖ベネディクトゥスは使徒ペテロによる教会運動の開始、彼自身の感想修道会運動の怪死、聖フランシスコによる修道会運動の根本的な刷新、つまり托鉢修道会運動の開始という教会の歴史を辿る。
ペテロは金も銀も持たずに教会を興し、
我は祈りと断食により、
フランチェスコは己を卑しくしてその集いをはじめた。
(同上) そして、教会・修道会は堕落しているが、その再生のために神の奇跡があるだろうと告げて、仲間たちの魂のもとに戻り、彼らは階段を一つにまとまって「竜巻のように渦を巻いて一度に昇っていった。」(337ページ)

 これまでダンテは、天国の中で、歴史上の人物との出会いを重ねながら、ローマ帝国の歴史、フィレンツェのれ役し、教会の歴史を教えられてきた。しかし通常の意味での歴史的存在である人物との出会いはここで終わる。ダンテは、この後、神との出会いの準備のために、それらの出会いで学んできたことの確認を行うことになる。

 ベアトリーチェは身ぶりひとつで、現世の生きた人間として、肉体をもち、重さのあるダンテの体を押し上げ、階段を上らせた。ダンテは想像できないような速度で階段を上がっていった。そして恒星の世界の中に身を置いていた。
私は、あなたが火のなかへ置く前に指を引いたとて
かなわぬほどの一瞬、それだけの時間で、
牡牛座に続く星座を見るやその中にいた。

おお、栄光に満ちた星々よ、大いなる力をはらんだ
光よ。わが才能は、それがどれほどのものであれ、
すべてその力に由来することを私は認める。
(338ページ) 地球上から見える「星座」は見かけの上のものであるが、ダンテの時代には恒星天の中の区画と信じられていた。「牡牛座に続く星座」は「双子座」で、その光は文筆や学問、学芸の力を地上に伝え、知性を活性化すると考えられていた。ダンテは太陽が双子座の位置にある5月14日から6月14日までの間に生まれたことをほのめかし、自分の学問と文筆の才能がこのことに由来しているとも述べている。

「あなたは究極の救いにこれほどまでに近づきました。
――ベアトリーチェは話しはじめた――ですからあなたは
明晰で鋭い眼光をもっているはずなのです。

それゆえ、あなたがさらにその中に入っていく前に
下方を注視しなさい。そして私がすでに宇宙のどれだけを
あなたの足下に置かせてきたのか見るのです。

この球をなすエーテルへとうれしげにやって来る
凱旋の軍列の前に、あなたの心が
可能な限り喜ばしげに現れるよう」。
(340ページ) ベアトリーチェはダンテが神に近づいたことを確認するために、それまでに獲得した視力を尽くして宇宙を振り返るように勧める。こうして

私はこの目でそれまでの七つの天球を皆
再訪した。そして見えた、この地球が、
あのようになって。その卑小な姿に私は笑みを浮かべてしまった。
(340ページ) 月、水星、金星、太陽、木星、金星、土星はそれぞれ地球よりも優れた存在であるように思われた。彼は宇宙の構造をこうして確認することができた。そして再び彼は地球に目を向けた。

我ら人類を野獣のように争わせる小さな麦打ち場は、
私が永遠の双子座とともに回転している間に、
その山々の頂から河口や海峡に至るまでの全容を私に露にした。

その後で私は目を美しい目に合わせた。
(342ページ)

 恒星天は人間の目の届く限界、つまり人間的世界と、神的世界との境界をなしている。ダンテは彼の時代の天文学の知識に従い、恒星もまた惑星(や月)と同様に太陽の光を受けて光っていると考え、土星天からそれほど遠くないところに恒星天があると考えたのであるが、望遠鏡を使って天体を観測したガリレイによって、このような宇宙観は根本的に修正されることになるのである。現実問題として、太陽に一番近い恒星から見ても、おそらく地球の姿をとらえることはできないのではないか。現代の天文学は、我々の世界が広大な宇宙のほんの一部分であることを示している。もし、ダンテが宇宙の広大さと、太陽が莫大な数の恒星の中の1つにすぎないということを知っていたら、果たして『神曲』を構想したであろうかと、考えてしまう。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(22-1)

6月22日(木)曇り

 ベアトリーチェに導かれて、天上の世界へと飛び立ったダンテは月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天を経て、土星天に達した。そこではこれまでと違ってベアトリーチェは新しい世界に入ったことを知らせるように微笑んだりせず、魂たちの歌も聞こえなかった。ベアトリーチェが微笑まないのは、その美しさにダンテの視力が耐えられないからだと彼女は説明する。また土星天からはその頂が見えないほど高い階段が伸びており、無数の魂たちがその階段を伝って土星へと降りてくるのが見えた。その中の1人であるペトルス・ダミアーヌスの魂がダンテと会話し、魂たちの歌が聞こえないのは、ダンテの肉体の耳の聴力がその歌声に耐えられないからだという。しかし、ダミアーヌスと話すうち彼の耳に魂たちの声が聞こえるようになるが、ダンテにはその声の語る言葉の意味が分からない。

驚きに圧倒され、私は導き手を
振リ返った。まるで深く信頼を寄せる人のもとに
いつでも助けを求めてしまう幼児のように。

するとその方は、日ごろから落ち着かせるいつもの声で
真っ青になって怯える息子を
すぐに元気づける母親のように、
(328ページ) ダンテに向かって、彼が天空の世界にいることを思い出させ、彼の有限な力では理解できないことがあっても不思議はないと言いながら、教皇を取り巻く腐敗に対して神の怒りの鉄槌が下されることをほのめかす。
ここ天上の剣は性急に振り下ろされることも
遅れることもありません。それを恐れ、あるいは望んで
待っている者達がそう感じるだけなのです。
(329ページ) そして、別の魂たちと向き合うように勧める。彼の目には多くの輝く魂が見えたが、自分が出すぎた態度をとらないようにと、心のなかに湧き上がってくる質問を抑えて沈黙していた。

するとそれらの真珠のうちで
最大にして、最も光を放つものが前へと進んできた、
自らのことを伝えて私の願望を満たすために。
(330ページ) それはナポリ北方のカイロ山にモンテ・カッシーノ修道院を開いた聖ベネディクトゥス(?-543)の魂であった。ここでダンテは聖ベネディクトゥスに代表される教会刷新運動への共感を示しているようである。

 ダンテが聖ベネディクトゥスに、光の中にある本来の姿を見せてくれるように頼むと、聖人は、ダンテは至高天でその姿を見るであろうと答えた。
・・・「兄弟よ。おまえの高き望みは
究極の天輪の中でかなえられるであろう。
そこでは他の者達の望みも、我の望みもかなえられている。

あらゆる希望はその場所で
完全、完成、無欠となる。その中でだけは
あらゆる部分はそれが常にあった場所にある。
(334ページ)

なぜならそれは空間の中に存在せず、回転軸も持たぬからだ。
そして我らの階段ははるかそれに至るまで渡っていく。
それゆえにおまえの視線からは超越して飛翔しているのだ。

太祖ヤコブの前に天使たちを擁する階段が出現した時、
彼には、階段がそこに達するまで
最上部を伸ばすのが見えたのだ。
(334ページ) そして、土星天から至高天まで、観想を象徴する天の階段が述べていると述べた。それは『旧約聖書』「創世記」でヤコブが夢に見たはしごと同じものであるという。

 そして修道士たちが堕落し、神を思う観想生活をもはや送っていないことを非難した。
かつて修道院として使われていた壁は
もはや魔窟と成り果てた。
腐った小麦の詰まった袋なのだ。

だが、重い利息が神のお望みに逆らって
搾取されてはいるが、修道士たちの心をこれほど狂わせる
あの実入りによる搾取ほどではない。
(335ページ) 本来、教義上、教会は財産を所有することができず、ただ貧者の救済に役立てるためという名目で保持が許される教会財産や徴収が許される十分の一税等の課税を、実際には聖職者やその愛人や近親の者が私的に使っていることが非難されたのである。修道会の創設者に彼の後継者であるはずの修道士たちの堕落を批判させるというのはかなり効果的な手法である。
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR