ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(33-2)

12月13日(水)晴れ

 1300年4月7日の夜、35歳のダンテは暗い森の中をさまよっていた。彼が野獣たちに行く手を阻まれて進退に窮している時に、ローマ黄金時代の詩人ウェルギリウスの霊が現われて、彼を異界への旅へと連れて行くという。4月8日(復活祭の前の聖金曜日であった)に出発した彼らは(地球の内部に想定されている)地獄をめぐって、すべての罪とその罰を見た後、(地球の南半球に山として聳えている)煉獄で決定的に罪を犯したことがない人々がその罪を清めるさまを見、また自分の罪を清める。煉獄山の頂上にある地上楽園で、ウェルギリウスは去り、案内者としてベアトリーチェが現われる。彼女に導かれて、ダンテは天上の月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天をめぐり、至高天から彼を迎えにやってきた魂と対話して、現世で抱いていた信仰や政治をめぐる疑問への回答を得、彼がこの旅で見聞したことを地上の人々に伝えることが彼の使命であることを自覚する。至高天から土星天に降りてきている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達したダンテは、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問に合格し、彼がその見聞を人々に伝えるのにふさわしい存在であることを証明する。彼は物質的な世界を離れて、天球のすべての運動の始源である原動天を経て、至高天に至る。時間も空間も超越した世界である至高天で彼は祝福された魂が百合の花のように並んでいる姿と、天使たちが飛んでいる姿を見る。ベアトリーチェは天国の彼女本来の場所に戻り、神秘主義者のベルナールが最後の案内者となる。彼は聖母マリアの恩寵を得て神に近づくように指示する。神の光の中に入っていった彼は、彼の見たものを言葉の限界のために表現することができず、ただ、見たという記憶が残るだけであった。彼は見たものを言葉で表現できるように神に祈る。

私は思っている、私が受けた生命みなぎる光線の
激しさゆえに、もしも目を逸らしていたならば、
眼が眩んだままになってしまっただろうと。
(499ページ) ダンテは神こそが救いであり、神から目を逸らしてはならないことを知っていた。
私は覚えている、こうならぬよう
私がさらなる勇気をふりしぼって持ちこたえ、我が視線を
永遠の御力にまで到達させたことを。
(同上) そこで、神の光を必死になって正面から見つめた。
おお、あふれるほどの恩寵よ、そのおかげで私は尊大にも
永遠の光の中に視線を打ち込んだのだ、
そこで我が視力の限りを尽くしきるまで。
(500ページ) 神の恩寵のおかげで極限まで高まった知性の眼の力を限界まで尽くして、ダンテは光源、すなわち神を見つめた。

 彼の眼に最初に見えたのは、全宇宙が1冊の書物、天使をも含んだ諸事物が紙片となり、それを三位一体の宇宙の創造原理で繋ぐ愛が本の綴じとなった、全宇宙を表す一冊の書物の姿だった。

 その後もダンテは同じ神を見ているはずなのだが、ダンテの知性の眼の視力が強くなると、見えてくるものが変わってきた。
むしろ、見ているうちにさらにさらに力をみなぎらせていった
我がうちの視力ゆえに、ただ一つである御姿は、
私が変わっていくにつれ、私にとっては変容していったからなのだ。

至高なる光源の深淵にして光に満ちた実体の中に
同一の大きさをした、三色の
三つの輪が私に姿を表していた。

そして一輪は、まるで虹から虹が生じるように別の一輪に
反射されている姿をしていた。第三輪は
両者が等しく燃え吹き上がらせている火の姿をしていた。
(502-503ページ) そして神秘の深淵でダンテが次に目にしたのは同一の大きさの「三色の/三つの輪」だった。これは、神が円で象徴されることから三位一体の神秘を体現している。それゆえ父である第一輪から、子である第二輪が反射されている姿があり、聖霊、すなわち愛である第三輪は両者からの愛の炎で現出する火の姿をしていた。

おお、永遠の光よ、ただご自身の中にのみあらせられ、
ご自身だけが自らのすべてを知るあなたは、自らに知られ、
自らを知りつつ愛を微笑まれる。

あなたのうちに、反射した光として
生み出されたかのように見えていたその輪、
その全体をしばらく我が目が観想していると、

その中に、その輪と同じ色彩で、
私たち人類の肖像が描かれているのが私に現れ、
そのために我が視線はただそれへと集中した。
(504ページ) そしてダンテは次にこの3つの円のうち、第二の位格、この中に「人間の像が円と両立し」ているのをおみた。ダンテはこの神秘を理解できなかったが、理解を強く求め続ける。


どうしてその人間の像が円と両立し、どうして
その場所にありえたのか、私は理解することを望み続けたが、

私自身の持つ翼はそれに及ばなかった。
だが、我が知性は激しい閃光に撃ち抜かれ、
その中で望んだ神秘が知性に到来した。
(504-505ページ) ダンテが理解しようとしていると、ついに神から発する「激しい戦功」恩寵が彼の知性を打ち抜き、そのなかで、ついにそれを成り立たせている神秘、つまり神、あるいは神の第一位格に知性が触れ、神と合一を果たして三位一体の神秘を直感した。

ついに高く飛翔した我が表象力はここに尽きた。
しかし、すでに中心から等距離で回る輪のように
我が望みと輪が意志を回していた、

太陽と星々をめぐらす愛が。
(505ページ) こうして『天国篇』第1歌で歌われた「超人化」はすべて終わり、ダンテの希望と意志とは、神の意志と一体化し、叙事詩は終わる。

 ついにダンテの『神曲』の全編を読み通すことができた。象徴的表現や寓喩に満ちたこの作品はそう簡単に理解できるものではないし、私はキリスト者ではないので、その神学的な考え方についていけず、理解できなかった部分も少なくないが、それでも一応、全部読み通すことができたことを喜びたい。ダンテの中の中世的、宗教的、神学的な部分と、近代的、世俗的、政治的な部分の両方をこの叙事詩から読み取ることができたのは幸いであった。分かりやすい訳文と、丁寧な注釈、解説を提供してくださった原基晶さんには心からお礼を申し上げたい。また、機会があれば原さんの翻訳、あるいは山川丙三郎、壽岳文章などの方々による他の翻訳を読み返してみたいし、たぶん、夢に終わるだろうが、原文で読むことも目指していきたいと思っている。
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ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(33-1)

12月6日(水)晴れ

 1300年4月7日の夜、「人生のなかば」(35歳)にあったダンテは「暗い森をさまよっている」自分に気づく。夜明けで明るくなってきた方向に歩こうとしていると、豹、獅子、狼に行く手を遮られる。そこにローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスの霊が現われて彼を助ける。そして、ウェルギリウスの霊に導かれて、ダンテは地獄と煉獄とを旅する。
 煉獄の高い山の頂上にある地上楽園でダンテはウェルギリウスと別れ、かつて彼がその想いを『新生』の中で謳いあげたっベアトリーチェの魂に出会う。彼女に導かれて、ダンテは天上の世界へと旅立つ。4月13日の正午のことである。
 地球を取り囲んで回転している天上の世界は、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天、恒星天からなり、それらの運動を非物質的な世界の入口である原動天の天使たちが司り、さらに神のいる至高天が広がる。至高天は非物質的で時間も空間も超越した世界である。
 月天から土星天までの世界で、至高天から彼を迎えるためにやってきた祝福された魂たちと彼は信仰と教会について、政治とローマ帝国について、会話を続ける。魂たちの多くは歴史上の有名人であり、このことからダンテは、自分が地上に戻った際に、異界での見聞を詳しく報告することが旅の目的であることを自覚する。そして、信仰、希望、愛の3つの対神徳についての試問に合格して、そのような報告者として自分がふさわしいことを証明する。
 至高天に達したダンテは、さらに自分を高め、より神聖なものを自分の眼で見ることができるようになる。それを見届けて、ベアトリーチェは至高天の自分の元の位置に戻り、最後の案内人として、神秘主義的な神学者のベルナールが現われる。そして、ダンテを神と人間たちの仲立ちをする存在である聖母マリアの元に導き、マリアをたたえる歌を歌いはじめる。

「処女であり母、あなたの息子の娘、
あらゆる被造物より身を卑しくし、かつ崇高、
永遠の御心の定まれる的、

あなたこそは人類を
この上なく高貴にされた方、それゆえに創造主は
自らを人の被造物とされることを厭わなかった。
(492ページ) マリアは、処女懐胎をして、母として息子キリストを生んだ。キリストは神であるが、マリアは、その神の造った人類の子孫、つまり娘であった。彼女は、身を低くし僕として神に仕えたが、神の母として被造物の中で最も崇高な存在でもあった。そして彼女の存在は、創世から最後の審判に至る永遠の神の計画の中に必然として定められていたという。

あなたの胎内で再び愛が燃え上がったのだ、
その暖かさにより、永遠の平和のうちに
この花はこのように双葉を開いた。
(同上) アダムの原罪のうちに消えていた神の愛が再び燃え上がった。「この花」は、至高天に集まった至福者たちの作り出している白薔薇である。

 そしてベルナールはダンテを紹介して、彼にいっそうの力を与えるように願う。
今、この者、宇宙の奈落の底から
ここまで、霊を備える魂を
一人一人見ながら至り、

恩寵にかけてあなたに願う、究極の至福に向かって
さらなる高みへと目を開きながら昇っていけるほどの
大いなる力が与えられんことを。
(494ページ) そして、ダンテがマリアの保護により、神を見た後も高慢の衝動を抑えて、健全な心で過ごすように至高天の魂が祈っていることを言い添える。

 ベルナールの祈りを聞いて喜んだマリアは、ベルナールとダンテに視線を向けて歓びの気持ちを伝えた後、神の方をまっすぐに見た。
そして私はあらゆる希望が目指す目標へと
近づきつつあり、私がなすべきように、
希望の炎を我がうちで極限までに燃え上がらせた。

ベルナールは私に微笑みながら目配せをして
私が上を見つめるよう誘った。しかし私は
彼が望んだようにすでに自らそうしていた。
(496ページ) ベルナールに指示されなくても、ダンテが自発的に上の方をみようとしたのは、それだけの力が彼の中にみなぎってきていることを感じたからである。

というのも我が視力はさらに澄んでいき、
ただそれ自体で真理として在る高き光に発する光線に沿って
さらにさらに入り込んでいったからだ。
(496-497ページ)

これ以降、我が視力は私が語って表すところを
超越した。言葉には私の見たそのような光景を表す力はなく、
記憶にもこれほどの途方もない壮挙を覚える力はない。
(497ページ) 地上に戻ってからでは、自分の言葉で表現できないだけでなく、記憶力さえも超越した経験をしたという。

 そうはいっても、ダンテは言葉の限りを通して、また残っている記憶のありったけのものを動員して、この経験を語ることで、叙事詩を終えようとする。そうする力を与えられるよう、神に祈る。
おお、至高の光、必滅の者達の理解から、
隔絶して昇る方よ、我が知性に
あなたの顕わした姿の幾許(いくばく)かを与えたまえ。

そして我が言葉の技にあふれる力を授け、
あなたの栄光から発する閃光の一筋だけでも
未来の人々に残すことをお許しあれ。

なぜなら、それが少しでも我が記憶に戻ってくれば、
そしてこの詩がいくらかでもそれを声に出せれば、
あなたの勝利についてひとびとはさらに理解を深めるであろうがゆえ。
(498-499ページ) ダンテが思い出し、表現できるものは神の栄光のごく一部の、わずかなものであっても、ひとびとに希望を与えることができるはずだという。そして、ダンテは自分の経験を語ろうとする。

 『天国篇』第33歌は、全部で100歌からなるこの叙事詩の最後の詩行である。神に近づいたダンテは、この後どのような経験をするのか、そして叙事詩はどのような形で終わるのか、それはまた次回。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(32-2)

11月29日(水)晴れ、温暖

 ベアトリーチェに導かれて、地上楽園から天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を次々に訪れ、そこで彼を迎えた彼の知り合いや歴史上の有名人の魂との会話を通じて信仰や政治をめぐる様々な彼の疑問の解決を得る。そしてここで見聞したことを地上の人々に知らせることが彼の使命であると自覚する。至高天から土星天に降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は信仰、希望、愛という3つの対神徳をめぐる試問に合格して、異界での体験を地上で語るのにふさわしい人物であると認められる。非物質的な世界への入口であり、天界の運動の起点でもある原動天を経て、ついに彼は至高天に達する。自分自身の眼で至高天の様子を見ることができるようになったダンテと別れて、ベアトリーチェは天上の世界の自分自身の座に戻り、シトー会の修道士で神秘主義者であったベルナールが彼の最後の案内者として現れる。ベルナールは花びらのような形に群れ集まっている祝福された魂が、何者であったかを説明する。

 天国の魂たちについての説明を終えて、ベルナールはダンテに聖母マリアを見るようにという。
さあ、それではキリストに最もよく似た
お顔を見つめるがよい。なぜならその方の輝き、
それだけがキリストと会えるようおまえに備えさせるからだ」。
(484ページ) その指示に従って、ダンテは聖母マリアを見る。

私は見た、あの至高の中を縦横に飛翔するべく創造された
聖なる知性たちに運ばれた
喜びが、溢れるほどに彼女の上に降り注ぐのを。

それ以前に私が見たあらゆる事物の中で、
それと同じほどの驚異で私の心を奪ったものはなく、
それと同じほど神に似て見えたものもなかった。
(484ページ) 神をまだ見ていない人間が、神に似ているというのはおかしな話である。
 かつて受胎告知の使者であった天使ガブリエルがマリアの前で翼を広げ、あらゆるところから聖なる歌が聞こえた。

 マリアのすぐ左隣には人祖アダムが、右隣には教会の始祖である聖ぺトロが座っていた。ペトロの隣には福音書と黙示録の著者である聖ヨハネが、アダムの隣にはモーセが座っていた。さらにペテロの向かいにはマリアの母のアンナが、アダムの向かいには西ルチーアが座っていた。ルチーアこそは、ダンテの旅のきっかけをつくった聖者の1人であった。

 説明を中断して、ベルナールは
だが、お前を眠らせている時間は尽きようとしているがゆえ、
ここで話に終止符を打とう。あたかも腕のよい仕立て屋が
手持ちの生地に合わせて服を仕立てるのと同じに。
(489ページ)という。ダンテはいま時間と空間を超越した至高天にいるが、地上の世界に属しているので彼に与えられた時間は過ぎようとしているので、話を打ち切るというのである。ここまで来ても仕立て屋が服を仕立てる際の腕前という世俗的な形容が用いられているのも興味深い。
 そして、ダンテに「第一の愛」であるマリアをまっすぐ見るように言う。
それを見つめながら、おまえが
放たれた光をさかのぼってでき得る限り深く入っていくために。
(同上) マリアを見つめ、その恩寵を祈ることこそ、神に近づく道だというのである。

 こうして第32歌は終わる。残るのは第33歌だけである。第32歌の特に後半部分を読んでいて、私はゲーテの『ファウスト』の幕切れを思い出した。私が読んだのは、『ファウスト』の方が早いが、実際に作品が書かれたのはもちろん、『神曲』の方が先である。だから、ゲーテの方が『ファウスト』の天上の場面を描くにあたって、ダンテから多くの着想を得ているということであろう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(31-2)

11月15日(水)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて地上楽園から天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、信仰と政治をめぐり抱いていた疑問への解答を得るとともに、この遍歴で見聞したことを地上の人々に知らせることが自分の使命であるという確信を得る。神のいる至高天から土星天へと降りてくる「ヤコブの階段」を上って、恒星天へと達した彼は、信仰、希望、愛の3つの対神徳についての試問に見事にこたえ、自分の見聞を地上の人々に語るにふさわしい人物であると認められる。彼はさらに天上の回転運動の起点であり、非物質的な世界への入口である原動天を経て、至高天に達した。そこでは祝福された魂たちが階段状に列を作って並び、天使たちが平和と情熱を分け与えていた。新たな質問をしようと、ダンテが振り返ると、そこにベアトリーチェの姿はなく、一人の古老が立っていた。彼はベアトリーチェは至高天における彼女の本来の席に戻ったと告げる。ダンテは、自分の席に戻ったベアトリーチェを見出す。

高き場所で雷鳴の轟くあの圏から、
誰であれ、必滅の者の目が遠く離れたことはない、
それがどれほど深く深海に潜ったとしても、

あの場所でのベアトリーチェから我が目までの隔たりほどには。
しかしそれは私にとって何ものでもなかった、というのも彼女の姿は
空気に搔き乱されて私まで降りてくるわけではなかったからだ。
(468-469ページ) 「雷鳴のとどろっくあの圏」というのは地上の最も高い場所である(とダンテが考えた)火天で、要するに、ベアトリーチェはダンテからはるかに離れた場所に移っていたということであるが、しかしそれでも、霊的な交感を行う至高天では、地上におけるように像が目に届くまでに乱されてしまうようなことはなく、彼女の姿がはっきり見えたということである。

 以下、ダンテのベアトリーチェに対する感謝の言葉が述べられる:
「おお、我が希望に力をお与えになり、
私をすくうために地獄に足跡を残すことも
ためらわれなかった貴婦人よ、

私がこれまで見てきた事物ですが、
それを見る恩寵と力を
あなたの力と恵みのおかげで得たことが私には分かっています。

あなたは全道程を通じて、あなたにでき得る
あらゆる手立てを尽くされて、
奴隷であった私を自由にまで導いてくださいました。

あなたが寛大にも与えてくださった我がうちの贈り物を護りたまえ。
あなたが正してくださった我が魂、
それが、あなたが望まれたままの姿で肉体から解き放たれるように」。
(469-470ページ)

 『神曲』におけるベアトリーチェは(『新生』におけるベアトリーチェと違って)神学のアレゴリーであるから、神を理知的に把握する明示的な知の役割を担ってきたが、ダンテが至高天に達したので、その役割を終えて、自らの席に戻ったのである。彼女はその席から、ダンテの祈りに答える。
こう私は祈った。するとあの方は、あれほど遠くに
姿を見せていたが、微笑んで、そして私を見つめた。
それから永遠の泉へと再び向いた。
(470ページ) 

 ダンテのかたわらにいる古老は、自分が神と対面するというダンテの旅の最後の案内者であるといい、ダンテがさらに高く上昇して神聖なものを見ることにより、神に近づくのにふさわしい視力を得るだろうという。また、聖母マリアが彼にあらゆる恩寵を与えるだろうとも告げ、自分が(クレルヴォーの)聖ベルナール(1090-1153)であると名乗る。彼はシトー会に属する神秘主義的神学者で、信仰の問題に対する哲学的な解明を展開したアリストテレス主義神学者のアベラールと対立した。(ダンテは、理性的な議論よりも神秘的な体験の方を優位に考えているということのようである。)
 彼の言葉を聞いて、ダンテの心は神を見たいという気持ちがいっぱいになる。ベルナールは、この階段状の輪の最上部に聖母マリアがいるという。
私は目を上げた。すると朝、
水平線の東の方角が
太陽の沈む側を圧倒する、

視線を谷から山頂まで歩ませるかの
ようにすると、それと同じように、最果ての一点が
光で取り囲む輪に勝利しているのが見えた。
(473ページ) 聖人たちと天使たちに囲まれた聖母マリアの姿がダンテの目に入った。

ベルナールは、彼の熱い情熱の向かっている先に
我が目が一心に注がれているのを見て、
心を込めて彼の目を彼女に向け、

それにより、彼女を見つめる私の眼差しをさらに燃え上がらせた。
(475ページ) こうして、聖ベルナールの導きにより、ダンテは聖母マリアの姿を見るに至った。聖母マリアは、神、また審判者キリストに人類をとりなす存在であり、ダンテのこの遍歴も、彼女が地獄に亡びようとしていた彼を救うように聖ルチーアに命じ、そしてルチーアがベアトリーチェをリンボに下したことから始まったという経緯があった。
 ここで第31歌は終わるが、翻訳者の原基晶さんによると、これまでと違って、文が途切れることなく、そのまま第32歌に続いているという。描かれている対象が詩の形式に収まりきらなくなってきたということであろうか。

 少し余談:ロバート・ポーグ・ハリスン『ベアトリーチェの身体(からだ)〕(法政大学出版局:叢書・ウニベルシタス487)という本を書架から見つけ出した。ダンテの『神曲』ではなく、『新生』を主として論じた本であるが、『煉獄篇』の地上楽園を描く最終部分で、「ベアトリーチェとマテルダが隣りあっていることはダンテの生涯で抒情的衝動と叙事的衝動の間にもっと深い偶然の一致か交差が起こっていることを指し示してはいないか」(同書、214ページ、ベアトリーチェが叙事性、マテルダが抒情性を表している)と述べているのが気になっている。うーん、そんなことは考えもせずに読み飛ばしてしまったなぁと恐れ入っているのである。
 原さんもこの『神曲』の翻訳で何度か言及しているように、この叙事詩にはダンテの親友でもあり、好敵手でもあった詩人グイド・カヴァルカンティの強い影響がうかがわれる。ハリスンの著書は、このカヴァルカンティとダンテ、さらにペトラルカの関係についても論じているので、見落としがたいと思いはじめている。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(31-1)

11月8日(水)雨、午後になって小降りになってきた

 ベアトリーチェに導かれて、地球の南半球にある煉獄山の頂上の地上楽園から天上の世界へと旅立ち、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪れ、至高天から彼を迎えにやってきた魂たちと会話し、彼が抱いていた政治や信仰をめぐる疑問の解決を得るとともに、この旅行で彼が見聞したことを地上の人々に知らせることが彼の使命であると知る。至高天から土星天へと降りてくる「ヤコブの階段」を昇って恒星天に達した彼は信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問を受け、これまでの見聞を地上の人々に語るにふさわしい存在であることを認められる。彼はさらに不動の存在である地球の周りを回転している(『神曲』の宇宙はプトレマイオスの天動説に従って描き出されている)天体の運動の起点である原動天を経て、至高天に入った。それは物理的宇宙とはまったく別個の、自然的法則から離れ、時間も空間も存在せず、ただ神から発する知性の光に満たされている位相である。ダンテはいったん視力を失うが、春の庭のような情景を目にし、それが至高天の真の姿の投影でしかないと知らされる。そして、彼が見ている庭をながれる川の水を目で飲んだことで、祝福された人々と天使たちが集まる至高天の真の姿を目にする。

それゆえ、純白に輝く薔薇の形をとって
キリストがその地によってご自身の花嫁となした
聖なる軍が、我が前に現れていたのだ。

しかし別の一群は、飛翔しながら
彼らを恋い焦がれさせる方の栄光と
彼らを美しく飾るその善を見て歌いつつ、

まるで一度花にもぐりこむと次には
その働きが蜜となって甘くなる巣に戻る
蜜蜂の列のように、

幾多の花びらに飾られていろ大いなる花の中に
降りては、そこから
彼らの愛が常に宿る場所に昇っていくのだった。
(462-463ページ) 「聖なる軍」は祝福された魂たち、「別の一軍」は天使たちのことである。祝福された魂たちは競技場の観客席のように段状になった列に席をしめ、彼らの取り囲む空間(空間は既に存在しないはずなのであるが…)を天使たちが飛び回りながら、魂たちに「平和と情熱」(463ページ)を分け与えていた。

 しかし、その荘厳な眺めを目にして喜びながらもダンテには気にかかることがあった。
おお、三位の光よ、ただ一つの星の中から
彼らの視線に向かって光を放ち、彼らの心を満たすものよ、
下界にいる我らを襲う嵐をご覧ください。
(464ページ) 

 嵐とはどのようなものか。北方から来た人々によってローマ帝国が滅ぼされたが、その皇帝の住まいであったラテラーノ宮殿の威容は征服者たちを仰天させたのであった。そして、ダンテの時代に、このラテラーノ宮殿は教皇の住まいとなっていた。市民達の堕落に加え、教会までもがキリスト教の正しい道から外れている世俗の世界を離れて、天国の「正しく健全なる民」の中に入った彼は、
どれほどの驚愕を覚えねばならなかったことか。
もちろんこの驚愕と喜びのただなかにあって
私は話を聞かずに沈黙していることを望んだ。

そして、願いをかけた寺院の中で
周囲を眺めなが休養をとり、
すでにその様子を後で語ろうと思っている巡礼者にも似て、

生命をもたらす光の上に目を走らせて
私は階段を眺めていった、
高く、また低く、さらには周囲を見回しながら。
(466ページ) 天国を目にした喜びとともに、それをどのように地上に伝えるかについて、ダンテは考えるのであった。彼は判断しかねることについて、ベアトリーチェにたずねようとして、ふりかえると、それまで彼を導いてきた彼女の姿が消えていることに気づく。
・・・私が見たのは
栄光に包まれた人々の服を着た一人の古老だった。
(467ページ) 地上楽園で別れの言葉を告げることもなく、彼を地獄と煉獄で案内したウェルギリウスは去っていったが、天国で彼を導いたベアトリーチェとも別れることになったのである。

そして「彼女はどこに」、すぐに私は言った。
するとその方は、「おまえの希望をかなえるために
ベアトリーチェはわしを我が座から呼び出したのだ。

そして最上の段から
三段目の円周を見れば、おまえは
その功績が割り当てた座に彼女を再び見るであろう」。

答えることなく私は目を上に向けた。
すると永遠の光線を反射して
自らの冠となしていた彼女が見えた。
(468ページ) ベアトリーチェは自分の任務を終わらせて、さらなる案内をこの古老に託し、至高天の彼女自身の座へと戻っていたのであった(リンボに戻っていったウェルギリウスとは大変な違いである)。そして、ダンテはその本来の座についているベアトリーチェを見ることができた。

 31歌の後半で、ダンテのベアトリーチェへの感謝の言葉が述べられ、また古老が何者であるかがわかるが、それはまた次回。
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