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ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(17‐2)

5月17日(金)晴れ、気温上昇

 1300年の春分が過ぎ、復活祭を迎えようとする頃、語り手の「私」(≒ダンテ)は「暗い森」に迷いこみ、天国の貴婦人たちの願いを受けて遣わされたローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスのたましいによって救い出される。そして彼とともに地獄と煉獄、さらに「よりふさわしいたましい=ベアトリーチェ)に導かれて、天国を旅行する。そして見聞したことがこの叙事詩の内容として展開されることになる。
 「私」は「われを過ぎる者はみな、すべての希望を捨てよ」(第3歌第9行)と記された地獄の門をくぐり、さらに地獄の第1圏(洗礼を受けずに死んだ幼児たちと有徳の異教徒たちのたましいが静かに過ごしている)、第2圏(生前愛欲の罪を犯した人々のたましいがその罰を受けている)、第3圏(食悦の罪を犯した人々のたましい)、第4圏(貪欲の罪を犯した人々のたましいと浪費の罪を犯した人々のたましいが衝突を続けている)、第5圏(高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯した人々のたましいがスティクスの沼地に沈められている)の様子を見る。さらにディースの門をくぐり、地獄の第6圏であるディース城で異端の罪を犯した人々のたましいが業火に焼かれているさま、3つの冠状地にわかれた第7圏の第1冠状地で暴力によって人々を支配しようとした人々のたましい、第2冠状地では自殺した人々のたましいが毒々しい棘だらけの樹木になっていたり、その間を蕩尽者たちのたましいが地獄の狼の追跡を逃れて逃げ回っていたりする様子を、第3冠状地では瀆神者、男色者、高利貸たちのたましいが熱砂の上を火の雨に打たれて走り回っている様子を見た。地獄の第8圏へと進むために、ウェルギリウスは見るもおぞましい怪物であるゲーリュオーンを呼び寄せ、その背に乗って、私にも乗るように催促する。

 ゲーリュオーンのしっぽには毒があるため、その毒にあたらないように、ウェルギリウスは自分の前に座るよう、「私」に勧める。わたしはマラリアにかかったように悪寒を感じ、全身が震えたが、勇を鼓して怪物の背中に乗る。ウェルギリウスは「私」をしっかりとうしろからだき支えて、ゲーリュオーンに地獄の第8圏へと大きく旋回しながら降りてゆくように命令する。ゲーリュオーンはうなぎのようにその身をくならせながら、ゆっくりと下降しはじめる。

 下降しながら、私はこれまでに味わったことがないような恐怖に襲われる。
 周囲はみな空気ばかりとなり、
すべての景色は消え失せ、
見回せど、獣の体以外、何も見えなかった。

 獣は泳ぎながらゆっくりと進み、
ぐるぐると回りながら下降をつづけたが、私は
風に吹き寄せる風と同時に下から同時に下から吹き上げる風からそれがわかった。
(112‐117行、412‐413ページ)

 ゲーリュオーンはさらに下降をつづけ、地獄の第8圏が近づいてくる。
 やがて右のはるか下のほうに
谷の水が凄まじい轟きをたてて流れ落ちるのが聞こえてきた。
それで私は頭をつき出して下に眼を向けた。
 すると、落ちて行くのがいままで以上にこわくなった。
幾つもの火が見え、泣き叫ぶ声が聞こえたからである。
私はわなわなと震え、両脚で必死にしがみついた。
 いままでは見えなかったが、ようやく
旋回しながら降りて行くのが見え、大いなる責め苦が
四方八方から近づいてきた。
(118‐126行、413ページ) 地獄の第8圏に近づくにつれて、その様子が「私」の目に見えはじめる。すでに述べたように、地獄は憶測へと進めば進むほど重い罪を犯したたましいが置かれており、その罰はより厳しく、またたましいたちの苦しみはより激しいものになる。

 こうして、「私」はウェルギリウスのたましいとともに、地獄の奥深くの第8圏に降り立つ。
 ゲーリュオーンは降り立って、
私たちを谷底の切り立った崖の
際に下した。そして積み荷を厄介払いするや、
 弓弦(ゆづる)から飛び立つ矢筈[矢]のように消え去った。
(133‐136行、413‐414ページ)  悪の仲間であるゲーリュオーンは、天の意志に逆らうことはできないとはいうものの、この2人を運ぶことはその本来の性質から意に沿わない仕事のはずである。こうしていやいや仕事を終えた怪物は、即座にその場を去っていく。

 ここで、須賀敦子・藤谷道夫訳は終わるが、この後、「私」(≒ダンテ)とウェルギリウスは、地獄の第8圏と第9圏とを旅し、そして地球の裏側にある(とダンテが考えた)煉獄に達する。34歌からなる『地獄篇』の半分に当たる第18~第34歌が地獄の第8圏と第9圏との描写にあてられているのは、この2つの圏で罰されている罪は、欺瞞であり、ダンテが悪の本質を欺瞞に見ていたことがここからうかがわれると解説されている。

 以前に原基晶訳(講談社学術文庫)によって、『神曲』全体を読んだが、今回は、須賀敦子・藤谷道夫訳によって『地獄篇』の前半だけをその分、より丁寧に読むことができた。これ以外の翻訳や、英語訳などについても、いつか機会があれば読み進んでみたいと思う。 
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ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(17‐1)

5月10日(金)晴れのち曇り

 1300年4月、道を見失い、「暗い森」に迷いこんだ語り手である私(ダンテ)はローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスの霊によって救い出され、地獄(引き続き、煉獄、さらに「よりふさわしいたましい」=ベアトリーチェのたましいに導かれて天国)を旅することになる。「すべての希望を捨てよ」(第3歌9行、45ページ)と記された地獄の門を通り、9層からなる地獄の第1圏(リンボ、洗礼を受けずに死んだ幼児と正しく生きた異教徒たちのたましい)、第2圏(愛欲の罪を犯した人々のたましい)、第3圏(食悦の罪を犯した人々のたましい)、第4圏(貪欲・浪費の罪を犯した人々のたましい)、第5圏(高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯した人々のたましい)、第6圏(異端の罪を犯した人々のたましい)、第7圏第1冠状地(暴力の罪を犯した人々のたましい)、第7圏第2冠状地(自己破壊の罪を犯した人々≂自殺者、蕩尽者たちのたましい)を見て、第7圏第3冠状地にたどりつき、そこで瀆神者たち、さらに男色者たちが生前の罪の罰を受けているさまを見る。2人の行く道が行きどまりになり、第8圏へと進むために、ウェルギリウスは怪物を呼び寄せる。

 ウェルギリウスによって呼び出された怪物は次のような姿をしていた。
 その顔は正直な人間の顔で
見かけはまったくの善人であったが、
残りの胴体はすべて蛇であった。
(10‐12行、407ページ) 怪物の名がゲーリュオーンであることが、この第17歌の97行になってやっと明かされる。それまでは、その名はわからないままである。ウェルギリウスはこの怪物に、彼らを第8圏まで運ぶよう交渉しているあいだ、第7圏第3冠状地で罰を受けているもう1群の人々≂高利貸たちの様子を見るようにとダンテに勧める。

 言われるままに、ダンテは罰を受けている高利貸たちの様子を見る。
 こうして第7圏の境界の上を先へ
わたしはただ一人進み、
苦しむ人々が座っているところまで行った。
 彼らの目からは苦痛が迸(ほとばし)り、その手を
ある時は火炎に、ある時は焦土にと、せわしく
上へ下へと差し出していた。
(43‐48行、409ページ)

 苦しみの炎がはらはらと舞い落ちる
何人かの顔に私は目を向けた。
誰一人、誰だか判らなかったが、誰もかれも
 小さな金袋を一つ首からぶら下げているのに
気がついた。財嚢には一つ一つに特定の色と家紋がついていた。
みなその財嚢で目を養っているように見えた。
(52‐57行、409‐410ページ) 高利貸たちは生前、金儲けに生きがいを見出していたので、死後に地獄に落ちても、その金を入れていた財嚢を見ることでわずかに慰めを得ているので会う。財嚢は腰から下げるものであるが、地獄で彼らは牛が鈴をつけるように、首から財嚢をつるしているのである。
 たましいたちの顔を見分けることはできないが、財嚢の色とそこに記された家紋によってダンテは、彼らがどの家柄に属しているかを知ることができた。フィレンツェの高利貸たちがそこにいたのは言うまでもない。その中からパードヴァの高利貸であったレジナルド(またはリナルド)・デッリ・スクロヴェンニがダンテに声をかけ、何をしているのか知らないが、さっさと失せろと邪見な言葉をかける。これは第15歌、第16歌に登場したたましいたちとは対照的な態度である。

 この声を聴いてダンテはもはやその場にいる必要はないと思う。
 これ以上長く居ると、つい先ほど
私を諫めた師の気を揉ませるのではと思い、
この(苦患に)打ちひしがれたたましいたちを離れてもとへもどった。
(76‐78行、411ページ) 戻ってみると、ウェルギリウスはもう、怪物の背にまたがっていて、ダンテに彼も背の上に上るように促すのであった。

 ダンテは黙っているが、彼自身の祖父と父も高利貸であったという話である。だから、彼自身の内面で相当な葛藤があったと想像できる。かれは時代の矛盾を背負う人であった。高利貸たちのたましいが地獄の上から降ってくる火の粉と、足もとの熱砂に苦しんでいる様子の描写を読んでいると、私はドイツの社会主義者フリードリヒ・エンゲルスがマルクスとの共著である『共産党宣言』のイタリア語訳の序文として1893年に書いた「イタリアの読者に」という文の最後の段落を思い出す。そこで彼は、封建的な中世から資本主義的な近代への移行の道のりを最初にたどったのはイタリアであり、そこに現れた中世最後の、新しい最初の詩人がダンテであったと述べる。そして、資本主義から社会主義への変革期にあたって、イタリアから新しいダンテが生まれることを期待して文章を終えている。エンゲルスがこのように書く以前に、イタリアのナショナリズムの高まりの中で、マンゾーニの文学作品や、ヴェルディの歌劇が生まれていた。エンゲルスがこれらの芸術的成果をどのように評価していたかも知りたいところである。
 こうして、ダンテはウェルギリウスとともに、地獄の第7圏を離れ、第8圏に向かうのであるが、第17歌の後半はその下降する飛行の様子を歌っている。次回は、その第8圏への飛行を歌った第17歌の後半と、第18歌~第34歌の概略を紹介して、この連載を終えることにする。

ダンテ・アリギエーリ『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(16‐2)

5月3日(金・憲法記念日)午前中は晴れ、午後は薄曇りと言ったほうが適切に思われる空模様である。気温上昇。

 ウェルギリウスの助けで、「暗い森」から脱出したダンテは、彼に導かれて、地獄を遍歴する。(その後で、煉獄、さらに「よりふさわしい」たましい=ベアトリーチェに導かれて天国を旅するが、そこまでこの翻訳は進んでいない。) 地中にある地獄の奥深くに進むにつれて、そこで罰を受けるべき罪は重くなり、したがって罰も過酷なものとなる。2人は、全部で9層からなる地獄の第7圏に到達する。第7圏は3つの部分にわかれているが、彼らは生前に男色の罪を犯したたましいたちが、その罰を受けている地獄の第7圏第3冠状地にたどりつく。たましいたちは焼けるように熱い砂の上を走り回っているのである。2人がこの冠状地に接する堤の上を進んでいると、かつてフィレンツェの有力な政治家であった3人のたましいに出あう。かれらはダンテの旅の成功と、その名声が続くようにと祈願し、さらにフィレンツェの市が嘆かわしい状態にあるのではないかと彼に問う。彼らには遠い未来のことは見通せても、直近の現在のことはわからないのである。

 「新参者と俄か儲け[虚業]とが
おおフィレンツェよ、汝の中に傲慢と無節操を植え付けたため、
汝はすでにその結果に泣いている」と、
 私は面をあげて[地上に向けて]叫んだ。
(73‐76行、380‐381ページ) コンタードと呼ばれる都市を取り巻いて広がるその領地が拡大した結果として、従来は市外に住んでいた封建貴族が市内に住むようになった。また市内に住んでいたが、政治的発言力をもっていなかったブルジョワジーの力が強くなってきた。ダンテがここで「新参者」と呼んでいるのはそのような人々である。また投機的な商業活動や、高利貸で富を形成する人々が目立つようになった。「にわか儲け」はそのような人々を指している。

 ダンテのこの言葉を彼らの問いに対する答えと受け取った3人は、ダンテの率直な物の言い方を賞賛し、さらに心を込めて、ダンテが地上に生還することを願う。
「・・・
いつの日か《私は(地獄に)行った》というのが、君の悦びとなる、
 そのとき、どうかわれらのことを(地上の)人々に話してもらいたい」
(84‐85行、381ページ) こう言いおいて、3人のたましいはあまりにも素早く、走り去っていった。そのため、ダンテは何も声をかけることができなかった。
 「いつの日か…」(Quando ti gioverà dicere " I' fui.")という84行は、ホメーロスの『オデュッセイア』にある「きっとこの苦しみは、いつの日か、思い出のタネとなるだろう」(第12巻212行)に端を発し、その後ギリシア・ローマの文学者たちによってさまざまに表現された思いを、受け継ぐものである。そして他ならぬウェルギリウスの『アエネーイス』のなかに「きっといつの日か、これらの苦難を思い出すことが喜びとなる日が必ずやって来る」(第1巻203行、原文はForsan et haec olim meminisse juvabit.)という主人公の部下たちに向けての演説がある。それにしても、”I' fui”(私は行った)という簡潔な表現の意味の深さは凄味がある。

 ウェルギリウスとダンテは、小川が滝となって流れ落ち、激しい音を立てている場所へとたどり着く。ウェルギリウスは、ダンテが腰に巻いていた縄を解いて、自分に渡すように言う。縄を受け取ったウェルギリウスはそれを深い淵の中に投げ込む。その真剣な様子に、ダンテは何が起きるかわからないという気持ちにかられる。ウェルギリウスはダンテの心中を読み取り、これから奇怪な存在が出現するであろうと予告する。

 偽りの仮面を被った真実の前では、
できるだけ唇を閉ざしているべきである。
さもないと故なくして嘘つきと非難されるからだ。
 しかしここで私は口をつぐんでいることはできない。
それで、読者よ、この『喜劇』にかけて誓うが、
――どうかこの詩が末長く愛されんことを――
 私は見た、あの濃い暗黒の大気を通して
どんなに肝の据わった者をも
驚愕させずにはおかない一つの姿[ゲーリュオーン]が昇ってくるのを。
(124‐132行、383ページ) ここでダンテは自分の叙事詩が『喜劇』であると初めて述べている。彼自身は叙事詩に題名をつける意図はなかったようであるが、後世この叙事詩はLa Divina Commediaと呼ばれるようになる。翻訳では、怪物の正体を「ゲーリュオーン」と補記しているが、ダンテはどんな怪物であるかは記さず、その正体を述べることを先延ばししている。とにかく、彼が見たことがないような怪物が水中から現れてきた。

 ということで、第16歌は終わる。前回も触れたように、須賀敦子・藤谷道夫訳は全部で34歌からなる『地獄篇』のちょうど半分の17歌までの翻訳である。つまり、あと1歌ということである。
 この翻訳は須賀が遺したノートをもとに、藤谷がその欠けているところを補ったり、間違いを正したりして、できるだけ須賀の考えを尊重して進められたものであるが、須賀のノートは彼女の若いころの作業であるために、先に進むにつれて誤訳が多くなるということから、ここで打ち切っているという趣旨のことが藤谷さんによる「はじめに」に書かれていた。『神曲』にはすでに生田長江(英語からの重訳)、山川丙三郎、野上素一、壽岳文章、平川祐弘、原基晶らの翻訳があるが、さらに翻訳が増えても構わないので、この翻訳の巻末で池澤夏樹さんが書いているように、藤谷さんが全訳に取り組み、完成する日が訪れることを期待すること大なるものである。(野上素一先生の授業には出たことがあるが、文全体の統一を図るために、本文中では敬称を省いた。ご了承のほどを。) 
 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(16‐1)

4月26日(金)雨が降ったりやんだり、急にまた寒くなってきた。

 ローマ時代の大詩人ウェルギリウスのたましいによって、「暗い森」から助け出され、地獄(と煉獄、そして「よりふさわしい」たましいに導かれて天国)への道のりをたどることになったダンテは、まず地球の中にある地獄を訪問する。地獄は逆円錐形をしており、下に降りていけばいくほど円周(圏)は小さくなるが、そこで罰を受ける魂たちの苦しみは大きくなる。地獄の門をくぐり、地獄の第1圏(リンボ、洗礼を受けずに死んだ幼児たちと、信仰をもたないが正しく生きた人々のたましい)、第2圏(愛欲の罪を犯したたましいたちがその罰を受けている)、第3圏(食悦の罪)、第4圏(貪欲・浪費の罪)、第5圏(高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪)、第6圏(異端の罪)を見た後、彼らは第7圏に到達する。第7圏は3つの部分に分かれ、第1冠状地では暴力の罪、第2冠状地では自己破壊の罪(自殺者と、蕩尽者)を犯したたましいたちが罰を受けていた。第3冠状地では瀆神者たちのたましいを見た後、彼らとは別の罰を受けている男色者たちのたましいに出会う。その中の1人は、生前、ダンテの師であったブルネット・ラティーニであった。地獄に堕ちているブルネットではあったが、ダンテを励まし、その旅と詩業の成功を祈り、また自分の作品が地上の人々に読まれ続けることを望む言葉を残して去ってゆく。

 地獄の第7圏のたましいたちを苦しめている熱砂を避けて、ウェルギリウスとダンテは堤の上を進み、ブルネットと別れた後もさらに歩み続けたが、
 すでに私は、蜜蜂の巣が立てる羽音の呻(うな)りのように、
次の圏へと落ちゆく小川の立てる
ざわめきがきこえてくる地点にいた。
 そのとき三人のたましいが、あの苛烈な苦しみ[火]の
雨の中を通って行く隊列から
そろって離れ、駆けて来た。
 彼らは私たちに向かって来ると、ともに叫んだ。
「止まれ。君は着ているものからして
われらと同じ、背徳の地[フィレンツェ]のものと思えるが」
(1‐9行、377ページ) 中世の人々は、その服装でどこの市の市民であるかがわかったといわれる。3人のたましいは、同郷の人間が堤の上を歩いている(本来あり得ないことである)のを見かけて、懐かしさと驚きの気持ちから、ダンテに近づいてくる。

 3人のたましいが受けている罰は苛烈なもので、彼らの体の傷の惨たらしさは「思い出すだに、なおも心が痛む」(12行、377ページ)ほどであった。ウェルギリウスが、この3人が尊敬すべき人物で、ダンテが礼をもって接する必要があると注意を与える。3人は自分たちの生前の名望を知れば、ダンテも自分の名を明かすつもりになるだろうといい、自分たちの名を告げる。
 3人は賢明な政治家であり、軍人としても知られたグイード・グエッラ、有力なフィレンツェ市民であったテッギヤーヨ・アルドブランディ、政治家・外交官として活躍したヤーコポ・ルスティクッチであった。ルスティクッチは自分が男色に走ったのは、高慢な妻のせいだと(考えてみれば余計な)弁明をする。地獄に堕ちたたましいは、自分の非を認めず、自分の罪を他人のせいにするのである。

 彼らの上に火の雨が降りそそいでいなければ、ダンテは砂地に降りて、彼らを抱擁したいと思ったであろうが、「私の熱意も恐怖に負けてしまった。」(51行、379ページ) そして彼らに向かって、次のように述べる:
・・・ 「軽蔑どころか、あなた方の
お姿を見ると心に深い痛みが走ります。
この痛みが消え去るには長い時が必要でしょう。
・・・」
(52‐54行、379ページ) と語り、彼が敬意をもって、彼らの業績を記憶してきたという。そして、自分が使命をおびて、地獄、煉獄、天国を旅すること、天国に向かう前に、地獄の奥底(地球の中心にある)を見なければならないことを告げる。
 これを聞いて、3人のたましいは、ダンテの前途の成功を祈るのであった。

 繰り返しになるが、ダンテの『神曲』は全部で100歌からなり、『地獄篇』が34歌、『煉獄篇』が33歌、『天国篇』が33歌という構成である。須賀敦子・藤谷道夫訳はしたがって、『地獄篇』の半分(全体の6分の1)を訳していることになるが、第16歌までたどり着いたということは、後は第17歌を残すだけで、間もなく終わるということである。『徒然草』の「高名の木のぼり」の話もあるから、最後まで気は抜けないが、岡本かの子の「東海道五十三次」に出てくる作楽井老人の東海道五十三次の旅の終わりの方の宿場にたどりつくと、何となく寂しくなるという言葉の方が心に重くのしかかってくるように思う。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(15‐2)

4月19日(金)晴れ、気温上昇

 ローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスのたましいによって、ダンテは「暗い森」から助け出され、彼とともに地獄、煉獄という異界を、また「よりふさわしい」別のたましいに導かれて天国を訪問する旅へと出かける。この旅はダンテのたましいを救おうとする天国の貴婦人たちによって企図されたものである。
 こうして2人は地獄の第1圏から第7圏までを歩む。第7圏は3つの冠状地にわかれており、その第3冠状地では生前、男色の罪を犯した人々のたましいが熱砂の上を歩くという罰を受けていた。それらのたましいの中から、ダンテは彼のかつての師、ブルネット・ラティーニのたましいが、彼に声をかける。

 かつて自分が教えたダンテと地獄で再会することになったブルネット・ラティーニは、ダンテが特別の神聖な使命を帯びて異界を遍歴していることを見抜き、彼がその使命を果たすことができるように励ます。その一方で、彼に次のような警告を発する。
 しかし、古代にフィエーゾレから降りて来た
あの邪(よこしま)な忘恩の民は
いまも山と岩の性質を保ちつづけている。
 君が正しきことを行うがゆえに、君の敵となるだろう。
それも当然のことだ。すっぱいナナカマドの実のあいだに
甘いイチジクの実がなる道理はないからだ。
(61‐66行、349ページ) フィエーゾレはフィレンツェ近郊にある山上都市であるが、ローマ時代に反逆者カティリーナを支持したために、破壊された。その住民であったエトルーリア人たちは、ユリウス・カエサルがフィレンツェの町を建設した際に、山から下って、この町に移住したが、山の生活、すなわち、田舎くさく粗野で頑固な性格を保ちつづけたとされる。フィレンツェの道徳的な貴族階級はこの市に植民してきたローマ人の子孫であり、山から下りてきた人々と対立し続けたというのが、中世における伝説である。「以上の話が伝説であることはダンテ自身認めている」と、原基晶さんは注記している(原訳、『地獄篇』229ページ)

 なお、この個所を山川訳では、
されど古(いにしへ)、フィエソレを下りいまなほ山と岩とを含める恩を忘れしさがなき人々
汝の善き行ひの為に却つて汝の仇とならむ、是亦宜なり、そは酢きソルボに混りて甘き無花果の實を結ぶは適(ふさ)はしき事に非ざればなり
(山川訳、95ページ)
 また、原訳では
しかしあの邪悪な忘恩の市民どもは
古代ローマの時代にフィエゾレから降りてきたが、
今も山と岩の習俗を覚えていて、

おまえに対し、おまえの素晴らしき行いゆえに敵となろう。
それもまた道理で、渋いななかまどの実の間に
甘い無花果が実るのはふさわしくないからだ。
(原訳、228ページ) 原文で”li lazzi sorbi"を山川は「酢きソルボ」、原は「渋いななかまどの実」、須賀・藤谷は「すっぱいナナカマドの実」と訳している。わたしのもっている辞書にはlazzoも、sorboも探し出すことができなかったが、ナナカマドの実の成分からソルビン酸という酸が抽出されることを考えに入れると、まあ、たぶん、「すっぱいナナカマドの実」でいいのだろうと思う(日本に自生するナナカマドと西洋ナナカマドは別種だそうだが、そんなことまで付き合っていられない)。”il dolce fico"の方は「甘い無花果の実」で間違いない。

 ブルネットはフィレンツェ市に古の価値を実現しようとするダンテの努力が受け入れられず、彼が孤立するという運命を予言する。しかし、悪に染まったフィレンツェ市民たちから迫害されることは、かえって栄誉となるだろうという。ダンテはこの予言を受け止め、
私の良心が咎めない限り、運命の望む
いかなる巡り合わせも受ける覚悟ができています。
(92‐93行、350ページ)という。
 地獄にいる死者たちのたましいにとって、地上の人々が自分を記憶していることが唯一の慰めであるので、ブルネットはダンテに彼の著作『宝典』を広めるように依頼して、自分の仲間であるたましいたちのあとを追って走り去っていく。
その(走りゆく)姿は、ヴェローナの野で緑の優勝旗を
競って走る人たちのように見えた。その中でも、
 勝者のように見えた、敗者ではなく。
(122‐124ページ、352ページ) 『宝典』はオイル語(中世フランス語)で書かれた、百科全書的な著作だそうである。須賀・藤谷による中は、「勝者のように見えた、敗者ではなく」は、外見は勝者であるけれども、内実としては(地獄にいるのであるから)敗者であると解釈している。

 こうして、ダンテがかつての師と出会い、その師によって自分の運命を予言され、それを心に刻むというところで、第15歌が終わる。〔この詩を書いている時点で、ダンテは予言された、故郷からの追放という運命の渦中にあること、また『神曲』は旅を終えたダンテが書いているという設定になっていることをあらためて思い出してほしい。〕 彼はこの後さらに、第16歌で第3冠状地を移動している別の一群に遭遇することになる 
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