小野氏と横山党

3月8日(水)晴れたり曇ったり

 3月5日の『朝日』に「遣隋使」についての最近の研究成果を解説した記事が出ていた。厩戸王(聖徳太子)よりも小野妹子の役割を強調している点が興味深かった。小野妹子と華道の池坊との関係などについても記されていたが、関東に住んでいる人間である私にとっては、もっと気になることがある。

 小野氏は近江国滋賀郡小野を本拠地とする古代豪族で、一方で文人として知られる小野篁や能書家の小野道風、歌人の小野小町などを出した文化的な家柄であるとともに、鎮守将軍となった小野春風や藤原純友の乱の鎮圧にあたった小野好古など地方における治安の維持にあたった武人的な人物も出している。平安時代末期から南北朝時代にかけて南関東で活躍した同族的な武士団(=党)の中には小野氏の後裔であると自称するものがいた。その代表的な例が横山党と猪俣党である。

 安田元久は『武蔵の武士団――その成立と故地をさぐる』(有隣新書、1984)の中で、武蔵の武士たちが関東のほかの地域に比べると比較的小規模な武士団の結合体をつくっていたところに特徴があると指摘している。武蔵七党とよく言われるが、15世紀に編纂された辞書『節用集』には
 丹治・私市・児玉・猪俣・西野(西)・横山・村山
と記され、『武蔵七党系図』では
 野与・村山・横山・猪俣・児玉・丹・西
そのほかに、 
 横山・猪俣・児玉・丹(治)・西・私市・錣(しころ)
を七党とする説もあるという。(安田、前掲、153ページ) 安田が説くように、実際に7つの有力な武士団があったというよりも、「たんなる口調の良さから適当に作り出されたものと考えてよい」(154ページ)である。(ローマの七つの丘というが、実際には丘はもっとたくさんあるのと同じようなことらしい。) ただ、『吾妻鏡』における用例を見ると、このように「党」と表現されるのは武蔵の国の武士たちだけで(相模の「三浦党」が唯一例外をなす)あるという。

 剛勇の荒武者であるとともに、「もののあわれ」を知る心優しい武士であり、後に法然上人に帰依する熊谷二郎直実は私市党、熊谷と一の谷の先陣を争った平山武者所季重は西党、同じく一の谷の戦いで平家の武将平忠度の首級をあげた岡部六弥太忠澄は猪俣党というように、源平の合戦その他の戦いにおいて、武蔵七党の武士たちは党と呼ばれる小規模な部隊しか組織していなかったが、頼朝直属の武士として、すでに『平家物語』にその名を列挙され、あるものについてはその武勲を記されたのであった。

 横山党は武蔵国多摩郡、現在の八王子市の横山町辺りを本拠した武士団で、中央豪族である小野氏の後裔を称していたが、安田によると多摩川南側の多摩の横山と呼ばれる丘陵地に設けられていた小野牧と呼ばれる官営の牧場地の一部を開墾して開発私領とし、それを経済基盤として成長した在地領主であったと考えられるという。横山氏は次第に有力な同族的武士団に成長するとともに、他の武士団と姻戚関係を結び、影響力を広げていった。例えば、横山時重の姉妹は梶原景時の母であり、時重の子時広の姉妹は和田義盛の妻であった。

 「源頼朝が鎌倉幕府を創立した時、横山党の人々は、皆その下に参画した。横山権守時広、右馬允(じょう)時兼父子も御家人に列した。・・・ /また文治五年(1189)のの奥州征討に際しては、時広・時兼ともに従軍し、とくに頼朝の命令により、藤原泰衡の首を獄門にかける役を仰せつかったが、これは時広の曽祖父経兼が前九年の役で安倍貞任の首を懸ける役目をつとめた先例によるものであった。」(安田、162ページ)

 ところが、鎌倉幕府内で北条氏の勢力が強まるなか、建保元年(1213)5月の和田合戦で、横山時兼は和田義盛に加担し、一族数十人を率いて奮戦したが、ついに敗れて、横山氏は滅んでしまった。こうして本流は滅びたのだが、横山党を称する家はきわめて多く、小野・遠田・椚田(くぬぎだ)・井田・荻野・成田・中条・箱田・奈良・田谷・河上・玉井・別府・愛甲・海老名・山口以下数十におよぶという。そういうことで、この文章を読んでいる方の中にも、先祖は横山党の武士だったという方がいらっしゃるかもしれない。猪俣党も小野氏の後裔であると自称し、横山氏との系譜的なつながりを主張していたのだが、横山党が武蔵の南部、猪俣党が北部を本拠としていることを考えると、両者を同祖であると考えるのには無理があり、系図上の作為ではないかと安田は論じている。

 最後に、『小栗判官物語』の小栗の恋人である照手姫は、横山入道の娘ということになっていて(異説もある)、だとすると物語の語り手、あるいは、伝承者が照手姫を小野氏の血を引く存在として、小野小町に重ね合わせていたかもしれないとも思われる。ただし、男が通ってくるのを待っていた小野小町と、積極的に行動する照手姫ではかなり性格が異なることも、見逃すべきではないだろう。 
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など品川といふやらん

2月22日(水)曇り、寒し

 海辺をばなどしな川といふやらん
というのは、『東海道中膝栗毛』の初編で北八とともに伊勢参りの旅に出かけた弥二郎兵衛が品川に通りかかって、海辺なのになぜ川というのだろうと、問いかけた前句である。これに対して、北八は
 さればさみづのあるにまかせて
と返す。真水(さみず)があるから川といっても不思議はないというのである。鮫洲(今の品川区大井鮫洲町)と真水とをかけている。

 弥次喜多の時代には忘れられていたようであるが、目黒川の河口付近を品川といった。河口には港が設けられていて、品物が運び込まれたり、出されたりした。だから品川というのである。

 江戸時代、江戸から地方に向かう五街道の最初の宿場が4か所に設けられていた。これを四宿といい、品川(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)である。中でも東海道の最初の宿場である品川はにぎわった。気を付けていいのは、現在のJR(と京浜急行)の品川駅は、本来の品川宿よりも北の、港区高輪に設けられていることである。だから、京浜急行の北品川の駅が、品川駅の南にあるという珍妙な事態が生じた。

 天正18年(1590)に江戸に移った徳川家康は、今川氏真の屋敷を品川に設けさせた。それまで家康がいた静岡では、氏真が家康のところにしょっちゅう押しかけてきて長々と昔話をするので、辟易していた家康が、千代田城から遠くに住まわせたという話である。それで、氏真の次男の高久は品川を姓として名乗るようになった。本家である今川氏と、分家の品川氏はともに江戸幕府の高家旗本の家柄となったのである。

 今川氏真は義元の嫡子で、桶狭間の戦いで義元が戦死したのち、武田、そして徳川の攻撃を受けて没落する。昔読んだ漫画のなかの織田信長と徳川家康の清州の会盟の場面で、家康が信長に「今川の家は氏真が後を継いだけど、この氏真がアホなの」といっているのを覚えているが、氏真がアホというのは結果論である。武田信玄を困らせようと甲州に塩を送らせないようにしたのは氏真であり、小和田哲男さんも書いているが、氏真はそれなりの政治的な手腕は持っていたようである。
 中村真一郎は、家康の正室であった築山殿と嫡男・信康が死に至る事件に巻き込まれて、家康のもとを去った武将である山内通綱の子孫であるということから、1971年に『旅』に連載した古寺探訪の中で、築山殿の墓所のある西来院(浜松市)と信康の廟がある清瀧寺(天竜市)を訪問している。その中で、築山殿について「この駿河御前と呼ばれた今川家の血を引く女性は、従兄の氏真同様、室町文明によって育った、自由奔放な女性で、教養も趣味もはるかに家康より高級だった」(中公文庫版『古寺発掘』、96ページ)と書いている。築山殿の本名が分かっていないのは一つの謎であり、そのことが彼女の不幸を際立たせている――というのはさておいて、氏真は和歌を能くし、蹴鞠にいたっては名人級で、蹴鞠の家柄である飛鳥井家の当主から武士にしておくのはもったいないとほめられたという。要するに室町的な教養人・趣味人であった氏真と現実的な戦国武将であった家康は性格的に合わなかったのであろう。しかし、家康は朝廷や貴族との交渉のための使節として氏真の才能を活かして使い、氏真はその使命を果たしながら生き延びたのである。そういう意味では、氏真はアホではない。

 今川氏真のおかげで話が横道にそれすぎた。こういう話ばかりしていたので氏真は家康に嫌がられたのであろうか⁉ 
 海近くして東海寺(遠かいじ)とはいかに
 大軍を率いて将軍(小軍)というがごとし
というのは、家康の孫である家光と、品川の東海寺の住職であった沢庵の間に交わされたという問答。
 現在は、埋め立てにより、海岸線が遠くなっているが、昔は街道と宿場のすぐ近くに海が広がっていたのである。
そうでないと、『膝栗毛』の弥二さん喜多さんの連句も、落語の「品川心中」の海に飛び込んで心中しようとする場面もわからない。もっとも、落語のその後を聴けばわかるとおり、品川の海は遠浅だったから、死のうとしても死ねないのである。

 明治時代の終わりごろに、出羽の海部屋に入門してきた新弟子が、巡業に出ていた力士衆に合流しようと先輩力士に付き添われて汽車に乗って品川までやってくる。そして、東京湾を見て(昔は汽車の窓から海が見えたのである)、ここはどこだと聞くと、品川だという答えに、大きな川だなぁと感嘆したという。この新弟子が後の大横綱栃木山(→春日野親方)であった。私が子どものころに、栃木山の春日野親方はまだ健在で、相撲雑誌の対談でこの話の真偽を尋ねられて、同行していた力士が言いふらした話で、彼は話がうまかったからなぁと受け流していたと記憶する。たぶん、それに類したことを言ったのが、尾ひれを着けて言いふらされたということらしい。

 栃木山の春日野親方、その弟子の栃錦の春日野親方はなくなり、その次の栃の海の春日野親方は健在だが親方を定年で退き、栃乃和歌の春日野親方の時代になっている。明治が遠くなっているように、品川の海岸線も遠くなっているようである。
 

神奈川という川が流れていた

2月8日(水)晴れ

 神奈川県の中に横浜市があり、横浜市の中に神奈川区がある。(ちなみに、現在の神奈川区役所は昔、横浜市役所だった。)

 安政5年(1858)日米修好通商条約が結ばれた折に、安政元年(1854)の日米和親条約(神奈川条約)で開港されていた下田・箱館(函館)に加えて、近い将来に神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港することが決められた。しかし、実際には東海道の宿場町であった神奈川ではなく、漁師村であった横浜が開港された。このため、諸外国は条約違反であると抗議をしたが、幕府は横浜は神奈川の一部であると押し切った。

 神奈川は江戸時代、品川、川崎に続く東海道の宿場町であった。その名は、さらに古く鎌倉幕府の執権であった北条時宗が家臣に宛てた手紙の中に「神奈河」として登場するのが初めだそうである。もっとも、この一帯の鎮守である洲崎大社は源頼朝が安房の国から勧請したものだと言い伝えられており、神奈川の地名である幸ヶ谷はさらに古く源義家が命名したといわれるから、このあたりを往来する人はもっと昔からいたのである。

 さて、その神奈川という地名は、この地を流れていた川に由来するものだそうである。神奈川県高校地理部会編『かながわの川(上)』(神奈川新聞社、1989)に比佐隆三という人が書いているところによると、「京浜急行線の仲木戸駅そばの横浜市立神奈川小学校とタクシー会社の間にある道は、何の変哲もない通りである。しかし、この道が昔は川であり、神奈川の地名の起こりとなった場所といる人は少ない。/・・・現在は埋めたてられて道となった神奈川は幅が約2間(約3.6メートル)で長さは約300メートルと短い川であった。京浜急行のガード下の道幅は、当時の神奈川の川幅を示している」(10ページ)という。

 神奈川という川の名の起こりとして、この書物では郷土史家・高田善之さんのこの川はあまり水が流れておらず、水源も定かではなかったので、上流が無い川という意味から「上無川(かみなしがわ)」と呼ばれていたという説明を採用している。「かみなしがわ」⇒「かんながわ」⇒「かながわ」であるという。実は、神奈川は「金川」であるという説明を聞いたことがあり、どちらが正しいかはわからない。

 しかしその「由緒ある神奈川も、昭和4年には関東大震災後の区画整理で障害となり、埋められて消えてしまった」(11ページ)のはまことに残念な話である。近くを流れている滝の川とか、入江川のような地元の人間以外は知らないような(地元の人間でもその名を知らない人が少なくない)川が、とにかくまだ流れを保っているだけに、神奈川という川が流れていたことをもっと多くの人に知ってほしいと思う。

 京浜急行の仲木戸駅は、JRの東神奈川駅の東の方100メートルばかりのところにある。両方の駅を結ぶ陸橋が設けられているので、知っていると便利である。(なお、東神奈川駅は、東急の東白楽駅から歩いていける距離にあるので、これも知っておいた方がいいと思う。) 駅の名前が違うので、すぐ近くにあることに気付かないという例はほかにも少なくない。

 神奈川と横浜と同じように、兵庫県に神戸市があり、神戸市に兵庫区があることも興味深いが、その間の経緯についてはどなたかご教示ください。

カラブリア州とカンパネッラ

11月7日(月)曇りのち晴れ間が広がる

 イタリアで出会った食べ物と人々の暮らしぶりについて描いた内田洋子『皿の中に、イタリア』(講談社文庫)を買って、読み進んでいるところなのだが、この書物は次のように書き出されている:
「イタリア南部に、カラブリアという州がある。この州のことを、誰も知らない。外国人だけではなく、イタリア人すら知らない。」(7ページ)

 ところが、私はカラブリア(Calabria)という地名をかなり早い時期(たぶん、高校時代)から知っていた。岩波文庫に入っているシラノ・ド・ベルジュラック(Cyrano de Bergerac, 1619-1655)の『日月両世界旅行記』(今、私が手にしているのは有永弘人訳だが、新しい訳が出ているはずである)の第二部「太陽諸国諸帝国」で、主人公兼語り手は、地球から飛び立って太陽に到着し、鳥たちにつかまって裁判を受けるというような様々な経験をしたのちに、一人の老人に出会う。彼は言う:
「わたしの名はカンパネッラといい、国からいえばカラブリヤ人です。太陽に来てからというもの、わたしはこの大きな球体の諸々の土地を訪れて、その奇観を発見することに時をつかいました。太陽は王国と共和国と州と公国に分れていることは地球と同じです。こうして四足獣も、鳥類も、植物も、石もそれぞれ、その国を持っています。そしてその中には異種族の動物、殊に鳥類が何よりも不倶戴天の敵として憎んでいる人間には入国を許さない者たちがいるにかかわらず、わたしは危険を冒すことなく旅行できます。というわけは、哲学者の魂は、人がそれを苦しめるために使用する道具よりもさらに繊細な部分から織りなされているからです。」(有永訳、153ページ)
 
 カラブリヤ(=空振り屋?)という地名が強く印象に残っただけでなく、大学進学後にユートピア思想に興味を抱き、このカンパネッラと名乗った老人が『太陽の都』(Civitas Solis)の著者トンマーゾ・カンパネッラ(Tommaso Campanella, 1568-1639)という実在の人物であること、カラブリアが長靴型のイタリア半島のつま先の部分、海を渡ればシチリアという場所にある州の名前であることを知るようになった。だから、シラノ・ド・ベルジュラックとトンマーゾ・カンパネッラのおかげで、カラブリアという名前とその場所だけは、記憶にとどめてきたのである。

 いろいろな要素がまじりあって複雑な展開を見せるこのかなり不思議な物語の中でカンパネッラが言うところによると、彼は死後、その魂が太陽にやってきたのだという。普通の人間が死ぬと、その魂は太陽と一体化するのだが、哲学者はそうならずに、太陽の世界の住人となる。自分はすでに述べたように、太陽帝国の各地域を旅行していたのだが、最近、到着した友人(=デカルト)に会うために旅行を中断して、哲学者の王国へと急いで戻る途中なのであった。

 有永を含む多くの研究者が、シラノのこの書物は、カンパネッラの『太陽の都』に大きな影響を受けていると考えている。実在のカンパネッラはガリレイと交わったりして最先端の科学知識を身につける一方で、独自の自然哲学を構想し、その一方で魔術に関心を寄せたり、宗教改革に同調したり、かなり揺れ幅のある人物であったようである。晩年、イタリアからフランスに亡命して、シラノの哲学の師であるといわれるピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi, 1592-1655)とも交流があったというから、シラノも生前の彼に会った可能性はある。ガッサンディはエピクロス哲学の復権に貢献したほか、「理性」を重んじるデカルトに対して、「経験」の重要性を主張して論争を展開した(スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の第3部第8章にこの論争に関連した箇所があるので、興味のある方はお読みください)。シラノの『太陽帝国』の最後には、デカルトが登場するのだが、この作品全体を通じて流れる考え方は、エピクロス的で、シラノはやはりガッサンディに近い思想をもっていたのではないかという気がする。

 『太陽の都』を読んだことはあるが、本がすぐには見つからない状態なので、詳しいことが書けないのは残念である。共産主義的な制度が支配する架空の都市を描いたこの書物はトマス・モアの『ユートピア』やフランシス・ベイコンの『新アトランティス』と並んで、ルネサンスのユートピア文学を代表する作品と考えられている。川端香男里『ユートピアの幻想』(講談社学術文庫)は、『太陽の都』に多くのページを割いていないが、宗教改革の影響がヨーロッパに広がる中で、この世の中の終わりが間もなくやってきてキリストが再臨するというような千年王国的な期待が高まり、そのような宗教的な期待の中で生み出された典型的なユートピアが『太陽の都』であったと論じられている。

 さらに川端さんは「アルフレート・ドーレンはこのカラブリアがピュタゴラスやエンペドクレースや、ジョアッキーノ・ダ・フィオーレの故郷であり、この後も黙示録的期待の発祥地であることを指摘した」(川端、講談社学術文庫、111ページ)と書き添えている。カラブリアには古くからギリシャ人の植民地が築かれていて、一種の精神的な伝統が形成されていたということらしい。学者の中にはカラブリア州の精神的な風土について注目する人もいたわけである。とともにカンパネッラが貧しいカラブリアの貧しい農家の出身であったことも忘れてはならないだろう。そして、(最初に戻るが)内田さんの本には、イタリア西北部のリグリア州にカラブリア州から移住する人が少なくないという話も記されている。都会で働くのではなく、漁師は漁師として、農民は農民として働く例が多いという。いろいろと考えさせられる。 

Côte du Poivre

10月3日(月)雨が降ったりやんだり

 梅棹忠夫の『東南アジア紀行』(中公文庫)を初めて読んだのは、おそらく30年以上昔のことであるが、その後、タイに出かける機会があり、帰国してからこの本を読み直して、旅行前にそうしなかったことを後悔した記憶がある。

 梅棹がタイを中心にカンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア諸国への学術旅行を行ったのは1957年から58年、今から60年近く前のことである(その後、1961年に。解説で石井米雄(外務省留学生としてタイに滞在中、梅棹の旅行の一部に同行した)が書いているように、これらの国々の状況はその後大きく変化した、「にもかかわらず、〔文庫本が刊行された1979年からさかのぼって〕ふた昔も前の旅行の噺が、いま読み返してみて、少しも古さを感じさせない。むしろ、特派員の報道以上に、新鮮な感覚を味わうことができるのはなぜだろうか。それは、梅棹さんが、揺れ動いて止まらない現象の背後にある、歴史の流れに視座を置き、透徹した歴史の目で、東南アジアの本質をとらえようロしているからだと私は思う」(309ページ)と書いている。この書物が、各国の変化にもかかわらず、価値を失わないというのは石井の評価するとおりである。それはなぜか、ということになると、私の書いていることも、石井の書いていることと本質的に変わらないのかもしれないが、その時点、その時点でのそれぞれの土地に住んでいる人々の姿をどんな家に住んで、何を食べて、何をして生計を立て、どんな服装をしているか…といった生活の具体相を克明に探り出し、描き出しているからではないかと思う。

 そういう梅棹の好奇心と観察眼、記録眼がよく出ている箇所が、カンボジアの数少ない港町であるカムポットからプノムペンに帰る途中で見かけた農家の様子をめぐる箇所である:
来るときから気がついているのだが、この付近の農家には、他と全く形の違うのがある。ずっと見慣れてきたカンボジア風の高床住宅ではなく、土間になっている。それから何かえたいの知れぬ作物がある。ワラで日よけ棚のようなものを作って、ひどく集約的な栽培をしている。これは何だろうか。
 本箱の中にE.H.DobbyのSoutheast Asiaがある。それを読んでいるうちに、カムポット付近が世界第2のコショウの生産地であり、しかも知れが中国人の農民によって栽培されている、という記述を発見する。「ははあ、これだなあ」とわたしは合点する。あの奇妙な作物は、コショウに違いない。それに、あの土間の家も、中国人だとすれば、納得がゆく。本箱にはまた、A Agardno, L'Union Indochinoise Française ou Indochine Orientaleの訳がある。それによると、コショウの栽培はカムポットおよびタケオの2州に限られ、海岸地方は別名をCôte du Poivre (コショウ海岸)という。そして、コショウに対する課税は、カンボジア政府の財源の中で、最も重要なもののひとつであると記してある。(以下略)」(下巻、65-66ページ)〔集約的な栽培をしているというのは、商品になるような作物を作っている可能性が高い。〕

 石井が解説で書いているように、ジープに乗って東南アジア諸国を歴訪中に梅棹は後部座席に寝転んで『移動図書館』と名付けた木箱の中の書物をかき回しては、自分の好奇心にこたえるものを見つけて、問題を一つ一つ探し当てていった。ここで、彼の探求の後追いをするのはやめて、もう少し先回りをすると、現在のカンボジアではコショウはどの程度生産されていて、それは世界のコショウ生産の中でどのような位置を占めるのか、コショウ生産の担い手は依然として中国系の農民であるのかという問題が残る。(コショウの生産と生産地の変遷は、世界史における重要な問題の一つなので、機会を見つけて調べていきたい。たぶん、この問題については包括的に論じた書物があるはずである)。梅棹はDobbyの書物により、カムポットおよびタケオ州の自然条件がコショウ生産に適していることを記し、中国人が商人ではなく、農民として海外に定住しているのは珍しい例であり、その理由については不明な点が大きいと述べている。

 肉食が主流で冷蔵技術が未発達であった西洋の中世ではコショウは料理に不可欠なだけでなく、肉類の長期保存のためにも大いに重視され、その主要な産地である南アジア・東南アジアへの海路による到達を目指すことが大航海時代の動因の1つであったとも考えられている。日本の正倉院御物にもコショウがあるよしだが、日本人はコショウを求めて海外に進出していこうとは考えなかった。

 さて、Cote du Poivreというのは初めて聞いたのだが、この種の地名で国家の正式名称として残ったのがCote d'Ivoire (コートジボアール、英語ではIvory Coastという方が普通である)。西アフリカのギニア湾北岸の地域をthe Gold Coast(黄金海岸)、その西側がすでに述べた象牙海岸(Ivory Coast)であるが、東側を奴隷海岸(Slave Coast)と呼んでいた。黄金海岸や奴隷海岸は今日地図に地図からその名を消し始めているが、黄金を収奪者や商人たちから強奪すること、奴隷貿易にかかわることに比べて、アフリカゾウを乱獲してその象牙を他の世界に持ち出したことが、歴史上の記憶に値する行為であったかどうかは疑問である。
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