ナポレオン

strong>9月18日(月)晴れ、気温上昇。雲に隠れてはいたが、わずかに富士山を見ることができた。

 ドイツの哲学者ヘーゲルの『歴史哲学講義』については、8月13日付の当ブログでも紹介したが、うーん、なるほどと思うところと、ここは違うんじゃないかというところが入り混じって、なかなか読み応えのある本である。その中で、彼が<歴史的人物>について書いている部分が特に目についた。

 「…世界史的個人は世界精神の事業遂行者たる使命を帯びていますが、彼らの運命に目をむけると、それはけっしてしあわせなものとはいえない。かれらはおだやかな満足を得ることがなく、生涯が労働と辛苦のつらなりであり、内面は情熱が吹きあれている。目的が実現されると、豆の莢(さや)にすぎないかれらは地面におちてしまう。アレクサンダー大王は早死にしたし、カエサルは殺されたし、ナポレオンはセントヘレナ島へ移送された。歴史的人物が幸福とよべるような境遇にはなく・・・」(60ページ)
 ここでヘーゲルが書いていることの詳しい意味はまた、機会を見つけて書いていくつもりであるが、とにかく、<世界史的個人>あるいは<歴史的人物>の例として、彼が古代のアレクサンダー大王やカエサルと並べて、彼自身の同時代人といってよいナポレオンを取り上げているのが目を引いたのである。

 ヘーゲルはドイツ人で、かつてナポレオンがドイツを攻撃した際に、「ドイツ国民に告ぐ」という一連の講演を行って愛国心の発揮を呼び掛けた哲学者のフィヒテが学長をしていたベルリン大学の学長にもなっているのだから、ナポレオンは<敵>だったはずである。そのヘーゲルが、ナポレオンの中に世界精神を実現していく人物としての一面も見ていたというのが注目される。偉大な人物は偉大な人物の偉大なところが分かるという理解もできるし、ヘーゲルがドイツとかフランスとかいう国の枠を超えて、ヨーロッパあるいは世界という枠の中で歴史をとらえていたという理解も可能であろう。

 以前にも書いたことだが、私はこの人は天才だ!と思えるような人物に出会ったことがない。さらに言えば、英雄だ!とか豪傑だ!とかいう人物にも出会ったことがない。人生とはそういう平凡と平凡の積み重なりであるといってしまえばそれまでだが、もしナポレオンに出会ったら、人生がどうなったのか?という空想も一興であるかもしれない。

 オランダ生まれで、アメリカにわたって著述家として成功したヘンドリック・ウィレム・ヴァン・ルーンの『人間の歴史の物語』(Story of Mankind)は小学校の高学年ごろに(翻訳で)読んで、成人してからも(英語で)何度も読み返した書物であるが、その中にナポレオンを取り上げた個所があって、その印象がずっと記憶に残っている。
Here I am sitting at a comfortable table loaded heavily with books, with one eye on my typewriter and the other on Licorice the cat, who has a great fondness for carbon paper, and I am telling you that the Emperor Napoleon was a most contemptible person.
(今、私は本を何冊も積み上げた使いやすい机の前に座って、一方の目で私のタイプライターを見て、もう一方の目でカーボン紙が大好きな猫のリコリスを見張っている。そして皇帝ナポレオンは大いに軽蔑に値する人物であったと君たちに告げている。)
But should I happen to look out of the window, down upon Seventh Avenue, and should the endless procession of trucks and carts come to a sudden halt, and should I hear the sound of the heavy drums and see the little man on his white horse in his old and much-worn green uniform, then I don't know, but I am afraid that I would leave my bokks and the kitten and my home and everything else to follow him wherever he cared to lead.
(しかし私がたまたま窓の外を眺め、七番街を見下ろしたとしよう。そしてトラックと荷馬車との終りのない行進が突然止まって、〔時代が逆戻りして〕私が重く響き渡る太鼓の音を聞き、古い、着古した緑色の軍服を着て白馬にまたがった小男をみたら、それからどうなるかを私は知らない。しかし、私は私が自分の本と子猫と家とその他のあらゆるものを放り出して、彼が連れて行こうとするところにはどこへでもついていくのではないかと心配になるのである。)
My own grandfather did this and Heaven knows he was not born to be a hero. Millions of other people's grandfathers did it. They received no reward, but they expected none. They cheerfully gave legs and arms and lives to serve this foreigner, who took them a thousand miles away from their homes and marched them into a barrage of Russian or English or Spanish or Italian or Austrian cannon and stared quietly into space while they were rolling in the agony of death.
(私自身の祖父がそうしたのであり、彼が英雄に生まれついていなかったのは誰もが知っている通りであった。他の数百万の人々の祖父が同じことをした。彼らは何の報いも受け取らなかったが、何も求めてはいなかったのである。彼らは喜んでこの外国人に彼らの手足と命とを捧げ、その外国人は彼らをその故郷から数千マイルも離れたところに連れて行って、ロシアやら英国やらスペインやらイタリアやらオーストリアやらの大砲の砲撃の中を行進させ、かれらが死の苦しみの中に転げ回っている時に静かに空を見つめていたのである。)

 ナポレオンの遠征に熱狂して従軍していく人々の姿というと、アンジェイ・ワイダの『パン・タデウシュ物語』の終りの方の画面を思い出す(ミツキェヴィッチの原作にはそういう部分はなくて、ワイダが映画化にあたって付け加えたのではないかと思う)。だからついていった人々には、彼らなりの自由や民族独立への想いがあったのだろうが、それとナポレオンの征服欲がどこまで交わっていたかというのがヴァン・ルーンの言いたいことではないかと思う。彼は、ナポレオンの没落と死について述べた後、次のように締めくくっている。
But if you want an explanation of this strange career, if you really wish to know how one man could possibly rule so many people for so many years by the sheer force of his will, do not read the books that have been written about him.Their authors either hated the Emperor or loved him. You will learn many facts, but it is more important to "feel history" than to know it.
(しかしもし君たちがこの奇妙な経歴の説明を求めるのならば、もし君たちが本当に、どのようにして一人の人間が彼の意志の力そのものによってきわめて長い間こんなにも多くの人々を支配できたのかを知りたいのならば、彼について書かれた書物を読んではいけない。そういう書物の著者は皇帝を憎んでいるか、愛しているかのどちらかである。君たちは多くの事実を学ぶだろうが、歴史を知ることよりも、「それを感じる」ことの方がより重要である。)
Don't read, but wait until you have a chance to hear a good artist sing the song called ”The Two Grenadiers." The words were written by Heine, the great German poet who lived through the Napoleonic era. The music was composed by Schumann, a German, who saw the Emperor, the enemy of his country , whenever he came to visit his imperial father-in-law. The song therefore is the work of two men who had every reason to hate the tyrant.
 Go and hear it. Then you will understand what a thousand volumes could not possibly tell you.
(本を読んではいけない、むしろ君たちが優れた芸術家が『二人の擲弾兵』という歌を歌うのを聞くチャンスを待つ方がいい。〔この歌の〕歌詞を書いたのはハイネであり、ナポレオン時代を生きた偉大なドイツの詩人である。音楽を作曲したのはシューマンであり、彼は彼の祖国の敵である皇帝が義理の父親である皇帝を訪問するためにやってきた時に彼を見た。それでこの歌は暴君を憎むべきあらゆる理由があった2人の人物の作品なのである。
 さあ、その歌を聞こう。そうすれば君たちは数千冊の書物が君たちに告げることのできなかったことを理解するだろう。)

 ヴァン・ルーンは英国の作家で歴史小説を得意としたサッカリーが好きで、彼の『ヘンリー・エズモンド』という小説を1年に1度は英語の勉強のために読んだという(私は、英語の勉強のためにヴァン・ルーンの『人間の歴史の物語』を1年に1度は読むことにしていたが、このところ中断している)。そのサッカリーの代表作『虚栄の市』の最初の方にワーテルローの戦いを描いた部分があり、この作品が英国人の『戦争と平和』と呼ばれているのを知っていたはずである。さらに言えば、スタンダールの『パルムの僧院』の初めの方で、主人公のファブリスがワーテルローの戦いにナポレオンを応援しようと出かける場面がある。19世紀の半ばあたりまでのヨーロッパの文学作品を読んでいると、ナポレオンという人物の存在が同時代のヨーロッパの人々、特に若い世代に強い影響力をもっていたことが分かる。特にドイツや、イタリア、ロシアの人々がナポレオンについて自由の拡大を図る人物という普遍的な側面への共感と、自分の祖国を侵略する人物という反感の二律背反的な感情をもっていたというよりも、今ももちつづけていることを理解すべきではないかと思う。〔ちなみに、ハイネとシューマンはともにユダヤ系で、ドイツ人としては正統的とはいいがたいアイデンティティーをもっていたことも付け加えておくべきであろう。〕

 ヘーゲルがナポレオンを<歴史的人物>の一例としているのは、理解できる部分と、理解できない部分とがいまだにあって、もう少し考えてみないといけないようである。ここで名前が出てきたハイネはヘーゲルの講義を聴いたことがあったはずで、ナポレオンについてのドイツ人の受け止め方についても書いた文章があったと記憶する。ヘーゲルだけでなく、(哲学史上は「ヘーゲル左派」の一員に数えられる)ハイネの書いたものも読んでいるとするか…。
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寛政の三奇人

6月26日(月)曇り、蒸し暑い

 寛政年間(1789~1800)は、その前半(1787~1793)に老中松平定信によって行われた「寛政の改革」で知られる。1789年にフランス革命が起きていることからもわかるように、この時代の世界は地球規模での変革期を迎えていた。鎖国(海禁)政策をとってきた日本(東アジア諸国)もそのような動きから無縁であることはできなかった。
 江戸時代の中期になると商品経済が発展し、明和4年~天明6(1767-1786)の田沼時代には問屋・株仲間を育成強化し商業資本との結託を図る「重商主義」的な政策がとられたが、その結果として農民の窮乏化と農村の荒廃が生じ、武士もまた困窮、その一方で幕政の腐敗も著しくなった。そこで登場したのが、享保の改革を推進した徳川吉宗の孫である松平定信で、農村の復興を目指す政策を中心に綱紀の粛正を図った。

 改革の効果が見られたのは一時的で、社会の根本的な問題を解決するには至らなかった。寛政2年に定信は朱子学を正統の学問として、この原則に基づく学制改革を行い、林家の私塾であった学問所を官学である昌平黌として再組織し、さらに朱子学によって官吏登用試験を行うとした。これは江戸時代には朱子学が幕府公認の学説であったが、実際には古学派・折衷学派が盛んであったために、教学の刷新を目指したものである。この時登用された3人の学者尾藤二洲(1745-1813)、古賀精里(1750-1817)、柴野栗山(1735-1807)を「寛政の三博士」と呼ぶ。もっとも口の悪い江戸っ子たちは、この3人の名前に助がついているところから、「三助」と呼んだという。(古学派、折衷学派の学者たちへの尊敬の念を失ってはいなかったのである。)

 その一方でこの時代は、安永3年(1774)の杉田玄白らによる『解体新書』の刊行によってその勢いを広げた蘭学、塙保己一らの『群書類従』の刊行作業や、寛政10年(1798)の本居宣長『古事記伝』の完成に見られるような国学の発展の時代でもあった。学問の新しい流れと、社会の現実を何とか打開しようとする情熱が出会ったときに、さらに新しい知的探求が始まる。「寛政の三奇人」と呼ばれる林子平(1738-1793)、高山彦九郎(1747-1793)、蒲生君平(1768-1813)がそれぞれ国学、あるいは蘭学を学び、またこれらの学者と交流していたことは重要に思われる。

 林子平は長崎に3度遊学し、また江戸に出て大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周など蘭学者と交友した。この間に得た海外事情についての知識をもとに、特に北辺からのロシアの脅威に備え蝦夷地の開拓を行う必要を説いた。彼の著書『海国兵談』は彼のこの主張を展開したもので、国防政策をめぐる批判を認めなかった幕府の弾圧を招き、著書の版木は没収され、子平は禁固処分を受けた。この時「親はなく 妻なく子なく 版木なし 金もなけれど 死にたくもなし」という狂歌を作って、六無斎と号したという話はよく知られている。彼が住んだ仙台には、子平町という地名がある。

 高山彦九郎は諸国を旅行して、民衆の窮乏した状態を見聞し、幕政へのひっはん意識を強める一方で、勤皇論の先駆けとなった。彼は上洛するたびに、三条大橋の東詰めで御所を拝んだそうである。東海道の西の終点である三条大橋のたもと(三条京阪駅前)には、彦九郎が御所の方角を伏し拝んでいる銅像が立っている。三条京阪から御所まではそんなに遠くはないし、もっと近くで拝んだ方がよいのではないかとよく思ったものであるが、近くには寄れない理由があったのかもしれない。あるいは人の大勢通交しているところで、このパフォーマンスをすることに意義を見出していたのかもしれない。
 なお、彦九郎は『解体新書』の翻訳者の1人で、刊行されたこの書物には名を連ねていない前野良沢(1723-1803)と仲が良かった。良沢は幼い時に孤児になって、伯父である淀藩の藩医宮田全沢に育てられたが、彼は「天性奇人にて、万事その好むところ常人に異なりしにより、その良沢を教育せしところもまた非常なりしとなり」(岩波文庫版『蘭学事始』14ページ)という。その教えは「人といふ者は、世に廃れんと思ふ芸能は習いおきて末々までも絶えざるやうにし、当時人の捨ててせぬことになりしをばこれをなして、世のために後にその事の残るやうにすべし」(同上)というものであった。玄白は「いかさまその教へに違はず、この良沢といへる男も天然の奇士にてありしなり」(同上)と評価する。良沢は市井に隠れて、蘭学に没頭していたので、世間に奇人としての名を広めることにはならなかったのである。

 蒲生君平も諸国を歴訪して多くの人々と交わり、子平とも交流があったと言われる。特に水戸学の影響を受け、荒廃した歴代天皇陵を調査して、文化5年(1808)に『山陵志』という書物を刊行する。これは幕末の尊王論の先駆けとなった書物である一方で、現代の考古学にも一定の影響を与えている。たとえば前方後円墳というのはこの書物で使われた言葉だそうである。

 「三奇人」はいち早く時代の変化に気付き、来るべき変化を世の中に訴えようとしたが、世間一般の理解を得ることができず、また官憲の弾圧にあって、奇人としか評価されなかった人々である。しかし、今日、「三奇人」の方は歴史の授業の中で雑談の種になる程度には記憶されているが、「三博士」の方はよほどの物知りでないと話題にしない。「寛政の三奇人」の方が「寛政の三博士」よりも知名度が高いということは、大いに留意すべきことではないかと思うのである。 

小野氏と横山党

3月8日(水)晴れたり曇ったり

 3月5日の『朝日』に「遣隋使」についての最近の研究成果を解説した記事が出ていた。厩戸王(聖徳太子)よりも小野妹子の役割を強調している点が興味深かった。小野妹子と華道の池坊との関係などについても記されていたが、関東に住んでいる人間である私にとっては、もっと気になることがある。

 小野氏は近江国滋賀郡小野を本拠地とする古代豪族で、一方で文人として知られる小野篁や能書家の小野道風、歌人の小野小町などを出した文化的な家柄であるとともに、鎮守将軍となった小野春風や藤原純友の乱の鎮圧にあたった小野好古など地方における治安の維持にあたった武人的な人物も出している。平安時代末期から南北朝時代にかけて南関東で活躍した同族的な武士団(=党)の中には小野氏の後裔であると自称するものがいた。その代表的な例が横山党と猪俣党である。

 安田元久は『武蔵の武士団――その成立と故地をさぐる』(有隣新書、1984)の中で、武蔵の武士たちが関東のほかの地域に比べると比較的小規模な武士団の結合体をつくっていたところに特徴があると指摘している。武蔵七党とよく言われるが、15世紀に編纂された辞書『節用集』には
 丹治・私市・児玉・猪俣・西野(西)・横山・村山
と記され、『武蔵七党系図』では
 野与・村山・横山・猪俣・児玉・丹・西
そのほかに、 
 横山・猪俣・児玉・丹(治)・西・私市・錣(しころ)
を七党とする説もあるという。(安田、前掲、153ページ) 安田が説くように、実際に7つの有力な武士団があったというよりも、「たんなる口調の良さから適当に作り出されたものと考えてよい」(154ページ)である。(ローマの七つの丘というが、実際には丘はもっとたくさんあるのと同じようなことらしい。) ただ、『吾妻鏡』における用例を見ると、このように「党」と表現されるのは武蔵の国の武士たちだけで(相模の「三浦党」が唯一例外をなす)あるという。

 剛勇の荒武者であるとともに、「もののあわれ」を知る心優しい武士であり、後に法然上人に帰依する熊谷二郎直実は私市党、熊谷と一の谷の先陣を争った平山武者所季重は西党、同じく一の谷の戦いで平家の武将平忠度の首級をあげた岡部六弥太忠澄は猪俣党というように、源平の合戦その他の戦いにおいて、武蔵七党の武士たちは党と呼ばれる小規模な部隊しか組織していなかったが、頼朝直属の武士として、すでに『平家物語』にその名を列挙され、あるものについてはその武勲を記されたのであった。

 横山党は武蔵国多摩郡、現在の八王子市の横山町辺りを本拠した武士団で、中央豪族である小野氏の後裔を称していたが、安田によると多摩川南側の多摩の横山と呼ばれる丘陵地に設けられていた小野牧と呼ばれる官営の牧場地の一部を開墾して開発私領とし、それを経済基盤として成長した在地領主であったと考えられるという。横山氏は次第に有力な同族的武士団に成長するとともに、他の武士団と姻戚関係を結び、影響力を広げていった。例えば、横山時重の姉妹は梶原景時の母であり、時重の子時広の姉妹は和田義盛の妻であった。

 「源頼朝が鎌倉幕府を創立した時、横山党の人々は、皆その下に参画した。横山権守時広、右馬允(じょう)時兼父子も御家人に列した。・・・ /また文治五年(1189)のの奥州征討に際しては、時広・時兼ともに従軍し、とくに頼朝の命令により、藤原泰衡の首を獄門にかける役を仰せつかったが、これは時広の曽祖父経兼が前九年の役で安倍貞任の首を懸ける役目をつとめた先例によるものであった。」(安田、162ページ)

 ところが、鎌倉幕府内で北条氏の勢力が強まるなか、建保元年(1213)5月の和田合戦で、横山時兼は和田義盛に加担し、一族数十人を率いて奮戦したが、ついに敗れて、横山氏は滅んでしまった。こうして本流は滅びたのだが、横山党を称する家はきわめて多く、小野・遠田・椚田(くぬぎだ)・井田・荻野・成田・中条・箱田・奈良・田谷・河上・玉井・別府・愛甲・海老名・山口以下数十におよぶという。そういうことで、この文章を読んでいる方の中にも、先祖は横山党の武士だったという方がいらっしゃるかもしれない。猪俣党も小野氏の後裔であると自称し、横山氏との系譜的なつながりを主張していたのだが、横山党が武蔵の南部、猪俣党が北部を本拠としていることを考えると、両者を同祖であると考えるのには無理があり、系図上の作為ではないかと安田は論じている。

 最後に、『小栗判官物語』の小栗の恋人である照手姫は、横山入道の娘ということになっていて(異説もある)、だとすると物語の語り手、あるいは、伝承者が照手姫を小野氏の血を引く存在として、小野小町に重ね合わせていたかもしれないとも思われる。ただし、男が通ってくるのを待っていた小野小町と、積極的に行動する照手姫ではかなり性格が異なることも、見逃すべきではないだろう。 

など品川といふやらん

2月22日(水)曇り、寒し

 海辺をばなどしな川といふやらん
というのは、『東海道中膝栗毛』の初編で北八とともに伊勢参りの旅に出かけた弥二郎兵衛が品川に通りかかって、海辺なのになぜ川というのだろうと、問いかけた前句である。これに対して、北八は
 さればさみづのあるにまかせて
と返す。真水(さみず)があるから川といっても不思議はないというのである。鮫洲(今の品川区大井鮫洲町)と真水とをかけている。

 弥次喜多の時代には忘れられていたようであるが、目黒川の河口付近を品川といった。河口には港が設けられていて、品物が運び込まれたり、出されたりした。だから品川というのである。

 江戸時代、江戸から地方に向かう五街道の最初の宿場が4か所に設けられていた。これを四宿といい、品川(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)である。中でも東海道の最初の宿場である品川はにぎわった。気を付けていいのは、現在のJR(と京浜急行)の品川駅は、本来の品川宿よりも北の、港区高輪に設けられていることである。だから、京浜急行の北品川の駅が、品川駅の南にあるという珍妙な事態が生じた。

 天正18年(1590)に江戸に移った徳川家康は、今川氏真の屋敷を品川に設けさせた。それまで家康がいた静岡では、氏真が家康のところにしょっちゅう押しかけてきて長々と昔話をするので、辟易していた家康が、千代田城から遠くに住まわせたという話である。それで、氏真の次男の高久は品川を姓として名乗るようになった。本家である今川氏と、分家の品川氏はともに江戸幕府の高家旗本の家柄となったのである。

 今川氏真は義元の嫡子で、桶狭間の戦いで義元が戦死したのち、武田、そして徳川の攻撃を受けて没落する。昔読んだ漫画のなかの織田信長と徳川家康の清州の会盟の場面で、家康が信長に「今川の家は氏真が後を継いだけど、この氏真がアホなの」といっているのを覚えているが、氏真がアホというのは結果論である。武田信玄を困らせようと甲州に塩を送らせないようにしたのは氏真であり、小和田哲男さんも書いているが、氏真はそれなりの政治的な手腕は持っていたようである。
 中村真一郎は、家康の正室であった築山殿と嫡男・信康が死に至る事件に巻き込まれて、家康のもとを去った武将である山内通綱の子孫であるということから、1971年に『旅』に連載した古寺探訪の中で、築山殿の墓所のある西来院(浜松市)と信康の廟がある清瀧寺(天竜市)を訪問している。その中で、築山殿について「この駿河御前と呼ばれた今川家の血を引く女性は、従兄の氏真同様、室町文明によって育った、自由奔放な女性で、教養も趣味もはるかに家康より高級だった」(中公文庫版『古寺発掘』、96ページ)と書いている。築山殿の本名が分かっていないのは一つの謎であり、そのことが彼女の不幸を際立たせている――というのはさておいて、氏真は和歌を能くし、蹴鞠にいたっては名人級で、蹴鞠の家柄である飛鳥井家の当主から武士にしておくのはもったいないとほめられたという。要するに室町的な教養人・趣味人であった氏真と現実的な戦国武将であった家康は性格的に合わなかったのであろう。しかし、家康は朝廷や貴族との交渉のための使節として氏真の才能を活かして使い、氏真はその使命を果たしながら生き延びたのである。そういう意味では、氏真はアホではない。

 今川氏真のおかげで話が横道にそれすぎた。こういう話ばかりしていたので氏真は家康に嫌がられたのであろうか⁉ 
 海近くして東海寺(遠かいじ)とはいかに
 大軍を率いて将軍(小軍)というがごとし
というのは、家康の孫である家光と、品川の東海寺の住職であった沢庵の間に交わされたという問答。
 現在は、埋め立てにより、海岸線が遠くなっているが、昔は街道と宿場のすぐ近くに海が広がっていたのである。
そうでないと、『膝栗毛』の弥二さん喜多さんの連句も、落語の「品川心中」の海に飛び込んで心中しようとする場面もわからない。もっとも、落語のその後を聴けばわかるとおり、品川の海は遠浅だったから、死のうとしても死ねないのである。

 明治時代の終わりごろに、出羽の海部屋に入門してきた新弟子が、巡業に出ていた力士衆に合流しようと先輩力士に付き添われて汽車に乗って品川までやってくる。そして、東京湾を見て(昔は汽車の窓から海が見えたのである)、ここはどこだと聞くと、品川だという答えに、大きな川だなぁと感嘆したという。この新弟子が後の大横綱栃木山(→春日野親方)であった。私が子どものころに、栃木山の春日野親方はまだ健在で、相撲雑誌の対談でこの話の真偽を尋ねられて、同行していた力士が言いふらした話で、彼は話がうまかったからなぁと受け流していたと記憶する。たぶん、それに類したことを言ったのが、尾ひれを着けて言いふらされたということらしい。

 栃木山の春日野親方、その弟子の栃錦の春日野親方はなくなり、その次の栃の海の春日野親方は健在だが親方を定年で退き、栃乃和歌の春日野親方の時代になっている。明治が遠くなっているように、品川の海岸線も遠くなっているようである。
 

神奈川という川が流れていた

2月8日(水)晴れ

 神奈川県の中に横浜市があり、横浜市の中に神奈川区がある。(ちなみに、現在の神奈川区役所は昔、横浜市役所だった。)

 安政5年(1858)日米修好通商条約が結ばれた折に、安政元年(1854)の日米和親条約(神奈川条約)で開港されていた下田・箱館(函館)に加えて、近い将来に神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港することが決められた。しかし、実際には東海道の宿場町であった神奈川ではなく、漁師村であった横浜が開港された。このため、諸外国は条約違反であると抗議をしたが、幕府は横浜は神奈川の一部であると押し切った。

 神奈川は江戸時代、品川、川崎に続く東海道の宿場町であった。その名は、さらに古く鎌倉幕府の執権であった北条時宗が家臣に宛てた手紙の中に「神奈河」として登場するのが初めだそうである。もっとも、この一帯の鎮守である洲崎大社は源頼朝が安房の国から勧請したものだと言い伝えられており、神奈川の地名である幸ヶ谷はさらに古く源義家が命名したといわれるから、このあたりを往来する人はもっと昔からいたのである。

 さて、その神奈川という地名は、この地を流れていた川に由来するものだそうである。神奈川県高校地理部会編『かながわの川(上)』(神奈川新聞社、1989)に比佐隆三という人が書いているところによると、「京浜急行線の仲木戸駅そばの横浜市立神奈川小学校とタクシー会社の間にある道は、何の変哲もない通りである。しかし、この道が昔は川であり、神奈川の地名の起こりとなった場所といる人は少ない。/・・・現在は埋めたてられて道となった神奈川は幅が約2間(約3.6メートル)で長さは約300メートルと短い川であった。京浜急行のガード下の道幅は、当時の神奈川の川幅を示している」(10ページ)という。

 神奈川という川の名の起こりとして、この書物では郷土史家・高田善之さんのこの川はあまり水が流れておらず、水源も定かではなかったので、上流が無い川という意味から「上無川(かみなしがわ)」と呼ばれていたという説明を採用している。「かみなしがわ」⇒「かんながわ」⇒「かながわ」であるという。実は、神奈川は「金川」であるという説明を聞いたことがあり、どちらが正しいかはわからない。

 しかしその「由緒ある神奈川も、昭和4年には関東大震災後の区画整理で障害となり、埋められて消えてしまった」(11ページ)のはまことに残念な話である。近くを流れている滝の川とか、入江川のような地元の人間以外は知らないような(地元の人間でもその名を知らない人が少なくない)川が、とにかくまだ流れを保っているだけに、神奈川という川が流れていたことをもっと多くの人に知ってほしいと思う。

 京浜急行の仲木戸駅は、JRの東神奈川駅の東の方100メートルばかりのところにある。両方の駅を結ぶ陸橋が設けられているので、知っていると便利である。(なお、東神奈川駅は、東急の東白楽駅から歩いていける距離にあるので、これも知っておいた方がいいと思う。) 駅の名前が違うので、すぐ近くにあることに気付かないという例はほかにも少なくない。

 神奈川と横浜と同じように、兵庫県に神戸市があり、神戸市に兵庫区があることも興味深いが、その間の経緯についてはどなたかご教示ください。
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