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カラブリア州とカンパネッラ

11月7日(月)曇りのち晴れ間が広がる

 イタリアで出会った食べ物と人々の暮らしぶりについて描いた内田洋子『皿の中に、イタリア』(講談社文庫)を買って、読み進んでいるところなのだが、この書物は次のように書き出されている:
「イタリア南部に、カラブリアという州がある。この州のことを、誰も知らない。外国人だけではなく、イタリア人すら知らない。」(7ページ)

 ところが、私はカラブリア(Calabria)という地名をかなり早い時期(たぶん、高校時代)から知っていた。岩波文庫に入っているシラノ・ド・ベルジュラック(Cyrano de Bergerac, 1619-1655)の『日月両世界旅行記』(今、私が手にしているのは有永弘人訳だが、新しい訳が出ているはずである)の第二部「太陽諸国諸帝国」で、主人公兼語り手は、地球から飛び立って太陽に到着し、鳥たちにつかまって裁判を受けるというような様々な経験をしたのちに、一人の老人に出会う。彼は言う:
「わたしの名はカンパネッラといい、国からいえばカラブリヤ人です。太陽に来てからというもの、わたしはこの大きな球体の諸々の土地を訪れて、その奇観を発見することに時をつかいました。太陽は王国と共和国と州と公国に分れていることは地球と同じです。こうして四足獣も、鳥類も、植物も、石もそれぞれ、その国を持っています。そしてその中には異種族の動物、殊に鳥類が何よりも不倶戴天の敵として憎んでいる人間には入国を許さない者たちがいるにかかわらず、わたしは危険を冒すことなく旅行できます。というわけは、哲学者の魂は、人がそれを苦しめるために使用する道具よりもさらに繊細な部分から織りなされているからです。」(有永訳、153ページ)
 
 カラブリヤ(=空振り屋?)という地名が強く印象に残っただけでなく、大学進学後にユートピア思想に興味を抱き、このカンパネッラと名乗った老人が『太陽の都』(Civitas Solis)の著者トンマーゾ・カンパネッラ(Tommaso Campanella, 1568-1639)という実在の人物であること、カラブリアが長靴型のイタリア半島のつま先の部分、海を渡ればシチリアという場所にある州の名前であることを知るようになった。だから、シラノ・ド・ベルジュラックとトンマーゾ・カンパネッラのおかげで、カラブリアという名前とその場所だけは、記憶にとどめてきたのである。

 いろいろな要素がまじりあって複雑な展開を見せるこのかなり不思議な物語の中でカンパネッラが言うところによると、彼は死後、その魂が太陽にやってきたのだという。普通の人間が死ぬと、その魂は太陽と一体化するのだが、哲学者はそうならずに、太陽の世界の住人となる。自分はすでに述べたように、太陽帝国の各地域を旅行していたのだが、最近、到着した友人(=デカルト)に会うために旅行を中断して、哲学者の王国へと急いで戻る途中なのであった。

 有永を含む多くの研究者が、シラノのこの書物は、カンパネッラの『太陽の都』に大きな影響を受けていると考えている。実在のカンパネッラはガリレイと交わったりして最先端の科学知識を身につける一方で、独自の自然哲学を構想し、その一方で魔術に関心を寄せたり、宗教改革に同調したり、かなり揺れ幅のある人物であったようである。晩年、イタリアからフランスに亡命して、シラノの哲学の師であるといわれるピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi, 1592-1655)とも交流があったというから、シラノも生前の彼に会った可能性はある。ガッサンディはエピクロス哲学の復権に貢献したほか、「理性」を重んじるデカルトに対して、「経験」の重要性を主張して論争を展開した(スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の第3部第8章にこの論争に関連した箇所があるので、興味のある方はお読みください)。シラノの『太陽帝国』の最後には、デカルトが登場するのだが、この作品全体を通じて流れる考え方は、エピクロス的で、シラノはやはりガッサンディに近い思想をもっていたのではないかという気がする。

 『太陽の都』を読んだことはあるが、本がすぐには見つからない状態なので、詳しいことが書けないのは残念である。共産主義的な制度が支配する架空の都市を描いたこの書物はトマス・モアの『ユートピア』やフランシス・ベイコンの『新アトランティス』と並んで、ルネサンスのユートピア文学を代表する作品と考えられている。川端香男里『ユートピアの幻想』(講談社学術文庫)は、『太陽の都』に多くのページを割いていないが、宗教改革の影響がヨーロッパに広がる中で、この世の中の終わりが間もなくやってきてキリストが再臨するというような千年王国的な期待が高まり、そのような宗教的な期待の中で生み出された典型的なユートピアが『太陽の都』であったと論じられている。

 さらに川端さんは「アルフレート・ドーレンはこのカラブリアがピュタゴラスやエンペドクレースや、ジョアッキーノ・ダ・フィオーレの故郷であり、この後も黙示録的期待の発祥地であることを指摘した」(川端、講談社学術文庫、111ページ)と書き添えている。カラブリアには古くからギリシャ人の植民地が築かれていて、一種の精神的な伝統が形成されていたということらしい。学者の中にはカラブリア州の精神的な風土について注目する人もいたわけである。とともにカンパネッラが貧しいカラブリアの貧しい農家の出身であったことも忘れてはならないだろう。そして、(最初に戻るが)内田さんの本には、イタリア西北部のリグリア州にカラブリア州から移住する人が少なくないという話も記されている。都会で働くのではなく、漁師は漁師として、農民は農民として働く例が多いという。いろいろと考えさせられる。 

Côte du Poivre

10月3日(月)雨が降ったりやんだり

 梅棹忠夫の『東南アジア紀行』(中公文庫)を初めて読んだのは、おそらく30年以上昔のことであるが、その後、タイに出かける機会があり、帰国してからこの本を読み直して、旅行前にそうしなかったことを後悔した記憶がある。

 梅棹がタイを中心にカンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア諸国への学術旅行を行ったのは1957年から58年、今から60年近く前のことである(その後、1961年に。解説で石井米雄(外務省留学生としてタイに滞在中、梅棹の旅行の一部に同行した)が書いているように、これらの国々の状況はその後大きく変化した、「にもかかわらず、〔文庫本が刊行された1979年からさかのぼって〕ふた昔も前の旅行の噺が、いま読み返してみて、少しも古さを感じさせない。むしろ、特派員の報道以上に、新鮮な感覚を味わうことができるのはなぜだろうか。それは、梅棹さんが、揺れ動いて止まらない現象の背後にある、歴史の流れに視座を置き、透徹した歴史の目で、東南アジアの本質をとらえようロしているからだと私は思う」(309ページ)と書いている。この書物が、各国の変化にもかかわらず、価値を失わないというのは石井の評価するとおりである。それはなぜか、ということになると、私の書いていることも、石井の書いていることと本質的に変わらないのかもしれないが、その時点、その時点でのそれぞれの土地に住んでいる人々の姿をどんな家に住んで、何を食べて、何をして生計を立て、どんな服装をしているか…といった生活の具体相を克明に探り出し、描き出しているからではないかと思う。

 そういう梅棹の好奇心と観察眼、記録眼がよく出ている箇所が、カンボジアの数少ない港町であるカムポットからプノムペンに帰る途中で見かけた農家の様子をめぐる箇所である:
来るときから気がついているのだが、この付近の農家には、他と全く形の違うのがある。ずっと見慣れてきたカンボジア風の高床住宅ではなく、土間になっている。それから何かえたいの知れぬ作物がある。ワラで日よけ棚のようなものを作って、ひどく集約的な栽培をしている。これは何だろうか。
 本箱の中にE.H.DobbyのSoutheast Asiaがある。それを読んでいるうちに、カムポット付近が世界第2のコショウの生産地であり、しかも知れが中国人の農民によって栽培されている、という記述を発見する。「ははあ、これだなあ」とわたしは合点する。あの奇妙な作物は、コショウに違いない。それに、あの土間の家も、中国人だとすれば、納得がゆく。本箱にはまた、A Agardno, L'Union Indochinoise Française ou Indochine Orientaleの訳がある。それによると、コショウの栽培はカムポットおよびタケオの2州に限られ、海岸地方は別名をCôte du Poivre (コショウ海岸)という。そして、コショウに対する課税は、カンボジア政府の財源の中で、最も重要なもののひとつであると記してある。(以下略)」(下巻、65-66ページ)〔集約的な栽培をしているというのは、商品になるような作物を作っている可能性が高い。〕

 石井が解説で書いているように、ジープに乗って東南アジア諸国を歴訪中に梅棹は後部座席に寝転んで『移動図書館』と名付けた木箱の中の書物をかき回しては、自分の好奇心にこたえるものを見つけて、問題を一つ一つ探し当てていった。ここで、彼の探求の後追いをするのはやめて、もう少し先回りをすると、現在のカンボジアではコショウはどの程度生産されていて、それは世界のコショウ生産の中でどのような位置を占めるのか、コショウ生産の担い手は依然として中国系の農民であるのかという問題が残る。(コショウの生産と生産地の変遷は、世界史における重要な問題の一つなので、機会を見つけて調べていきたい。たぶん、この問題については包括的に論じた書物があるはずである)。梅棹はDobbyの書物により、カムポットおよびタケオ州の自然条件がコショウ生産に適していることを記し、中国人が商人ではなく、農民として海外に定住しているのは珍しい例であり、その理由については不明な点が大きいと述べている。

 肉食が主流で冷蔵技術が未発達であった西洋の中世ではコショウは料理に不可欠なだけでなく、肉類の長期保存のためにも大いに重視され、その主要な産地である南アジア・東南アジアへの海路による到達を目指すことが大航海時代の動因の1つであったとも考えられている。日本の正倉院御物にもコショウがあるよしだが、日本人はコショウを求めて海外に進出していこうとは考えなかった。

 さて、Cote du Poivreというのは初めて聞いたのだが、この種の地名で国家の正式名称として残ったのがCote d'Ivoire (コートジボアール、英語ではIvory Coastという方が普通である)。西アフリカのギニア湾北岸の地域をthe Gold Coast(黄金海岸)、その西側がすでに述べた象牙海岸(Ivory Coast)であるが、東側を奴隷海岸(Slave Coast)と呼んでいた。黄金海岸や奴隷海岸は今日地図に地図からその名を消し始めているが、黄金を収奪者や商人たちから強奪すること、奴隷貿易にかかわることに比べて、アフリカゾウを乱獲してその象牙を他の世界に持ち出したことが、歴史上の記憶に値する行為であったかどうかは疑問である。

宗教改革を自分に引き付けて考える

9月10日(土)晴れ

 中学・高校の6年間、カトリックの学校に通った。その6年間のうちにカトリックの信者になった同期生はかなりの数に及ぶ。それからもともとカトリックの信者だったというのが少数いた。入学した時から卒業するまで信者にならずじまいというのも少なかったはずである(私はその1人)。ごく少数だが、プロテスタントの信者というのがいた。その1人が、卒業後だいぶたってから会ったときに、宗教の時間で自分が述べた意見は、キリスト教の外部からではなく、内部からの批判なので、先生方が答えるのに苦労されたようだと、多少面白そうに話していた。

 一般的に言って、同じキリスト教信者でもカトリックとプロテスタントでは、あまり交流しないようである。だから、カトリックの学校にプロテスタントの生徒が入学したというのは、お互いにとって自分の意見を確認し、相手の意見を聞いて話し合う、よい機会となったのではないかと思う。
 あまり交流しないというのは、日本だけのことではないようである。家人は私と違ってカトリックの学校を卒業して、だいぶたってから信者になったのであるが、イングランドのある地方都市で、国教会の大聖堂(アガサ・クリスティーの小説に出てきたことがある)の前に、SPCK(Society for Promoting Christian Knowledge, キリスト教知識振興協会)のショップがあったので、そこで、カトリックの教会がどこにあるのか尋ねたところ、知らないといわれた。結局、私が地図で探して、連れて行ったのだが、キリスト教関係の図書やグッズを売っている店の従業員でも自分の宗派(イングランド国教会)以外の教会はどこにあるのか知らないのである。

 以前、このブログで紹介したことがあるHendrik Willem Van Loon, The Story of Mankindの”Reformation"の章に、こんな記述がある。昔、この本の翻訳が岩波の少年文庫に入っていた時に、読んだ時から、ずっと記憶に残っていた箇所で、今でも時々読み返している。
  Take my own case as an example. I grew up in the very Protestant centre of a very Protestant country. I never saw any Catholics until I was about twelve years old. Then I felt very uncomfortable when I met them. I was a little bit afraid. I knew the story of the many thousand people who had been burned and hanged and quartered by the Spanish Inquisition when the Duke of Alba tried to cure the Dutch people of their Lutheran and Calvinistic heresies. All tha was very real to me. It seemed to have happened only the day before. It might occur again. There might be another Saint Bartholomew's night, and  poor little me would be slaughtered in my nightie and my body would be thrown out of the window, as had happened to the noble Admiral de Coligny.
 (私自身の場合を例として取り上げよう。私はプロテスタントが極めて有力な国のそのまたプロテスタントの中心部で成長した。私は12歳ぐらいになるまでカトリックの人々とあったことがなかった。それで、私は彼らと会った時にとても居心地の悪い思いを感じた。私は少し怖かったのである。私はアルバ公がオランダの人々がルター派やカルヴァン派の異端であることをやめさせようとしたときに、スペインの異端審問によって火焙りにされたり、首をくくられたり、四つ裂きにされたりした何千人もの人々の物語を知っていた。そのすべてが私にとってとても現実的なものであった。それはつい前日に起きたことのように思われた。それはまた起きるかもしれなかった。もう一度聖バルトロメオの夜の(虐殺)が起きて、哀れな子どもの私は寝巻のまま虐殺され、私の死体は窓から投げ捨てられるかもしれないと思ったのである。あの高貴なコリニー提督の身に起きたように。) ルーンはオランダのロッテルダムの出身であり、この本の冒頭にあるロッテルダムの教会の塔に昇った経験のように、学校教育を通じてというよりも、塔の番人やその他自分の周辺にいる歴史に詳しい人々との交流を通じて、オランダの独立とその背景としての宗教改革の歴史を学び取ったのである。

 Much later I went to live for a number of years ina Catholic country. I found the people much plesanter and much more tolerant and quite as intelligent as my former countrymen. To my great surprise, I began to discover there was a Catholic side to the Reformation, quite as much as a Protestant.
(ずっと後になって、私は長い間、あるカトリックの国で暮らすことになった。私はその国の人々がはるかに楽しげで、はるかに寛容で、そして私のもとの国の人々と同じくらいに頭がいいことを発見した。大変驚いたことに、私はプロテスタントの場合とまったく同様に、宗教改革についてのカトリック側の見方というものがあることを発見し始めたのである。)

 Of course the good people of the sixteenth and seventeenth centuries, who actually lived through the Reformation, did not see things that way. They were always right and their enemy was always wrong. It was a question of hang or be hanged, and both sides preferred to do the hanging. Which was no more than human and for which they deserve no blame.
(もちろん、実際に宗教改革の中を生きていた16世紀と17世紀の善良な人々は、物事をそんな風には見なかった。彼らは常に正しく、かれらの敵は常に間違っていた。それは相手を絞首刑にするか、自分が絞首刑にされるかの問題であった。そして、どちらの側も相手を絞首刑にする方が好きだった。どちらが人間的かとか、それが当然のことであるのかというようなことは問題にならなかった。)

 ルーンは歴史の流れが、大きな振り子のように、前進と後退を繰り返していると、この前の方で述べているのだが、欧米の人々が問題にしている紛争の焦点がキリスト教の中のカトリックとプロテスタントの対立から、キリスト教(あるいは、のようなもの)と、イスラム教(あるいは、のようなもの)の対立に移っているということは言えるかもしれない。最近出版された祝田秀全『銀の世界史』(ちくま新書)には、江戸時代の初めごろの東アジアの情勢をめぐり、明はカトリックを受け入れて、スペイン、ポルトガルとの結びつきを強めようとしたのに対し、徳川家康はプロテスタントのイングランド、オランダとの貿易を推進しようとしたというようなことが書かれている。宗教改革は、ヨーロッパだけの出来事ではなく、グローバルな影響力を持っていた――日本にもその影響が及んだというのである。同じようなことは、現代にも言えそうだが、相互理解の努力なしに、自分たちは正しく、敵は常に間違っていると決めつける――思うだけならまだしも、行動に移す――ことが多くなってくると、振り子の揺れどころの話ではなくなってくるかもしれない。

京都の大仏

9月6日(月)晴れ、雲が多くなってきた。

 昔、奈良の大仏の目が落ちたことがあった。どうやってはめようかと相談していると、一人の男が私に任せろという。そして、大仏の目のところまで行って自分が中に入って目をはめた。目をはめたのはいいけれど、どうして出てくるのだろうかと、下で見ていた連中が気をもんでいると、鼻から出てきた。ここから頭のいい人のことを、目から鼻に抜ける人というようになったというのだが、あてにならない。

 落語の「大仏餠」はこの笑い話をまくらに使う。江戸の大店の前で、6歳になる子どもを連れた、目の不自由な乞食が膝から血を流している。聞けば新米の乞食で、縄張り荒らしだと大勢の乞食たちから袋だたきにされたという。同情した店の主人は手当てをしてやった上に、今日は自分の子どもの袴着の祝いだったが料理が残ったと、残り物を与えようとする。古事記が手にしている面桶(めんつう)を見ると、朝鮮鍬鑵(さわり)の水こぼしを使っている。
 「お前さんはお茶人だね」と家へ上げていろいろときいてみると、芝片門前でおかみの御用達をしていた神谷幸右衛門だという。「あなたが神幸さん。あなたのお数寄屋のお席開きに招かれたことのある河内屋金兵衛です」と、お薄を一服揚げ、菓子として大仏餠を出す。ところが、幸右衛門がこの大仏餠を喉につまらせて苦しんだので、河内屋が幸右衛門の背中をたたくと幸右衛門の目が開いた。
 「あれ、あなた目が開きなすった。」「は、はい、開きました。」「目が開いて、鼻が変になんなすったね。」「はァ、食べたのが大仏餠、目から鼻ィ抜けた。」

 この噺はもともと三題噺で、三遊亭圓朝がお客から出された「大仏餠」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」という3つ題から作ったという。3つの題をうまくこじつけて作り上げた、突っ込んでいくとかなり問題点がある噺をうまくまとめ、登場人物の様子をいかにもそれらしく演出していくのには、相当な技量が必要である。8代目の桂文楽と、同じく8代目の林家正蔵(彦六)が得意としていたが、文楽が高座でこの噺を口演中絶句して、「また勉強して、出直してまいります」と高座を降り、これが最後となったことで知られる。

 さて、問題の1つは噺の舞台が江戸であるのに、大仏餠が京都の名物であったことである。大仏餠が京都の名物であったということは、京都にも大仏があったということである。しかも上横手雅敬『日本史の快楽』(角川文庫)によると2つもあったというのである。有名なのは、豊臣秀吉が方広寺に造った大仏である。これは当時戦火で焼け失せていた東大寺の大仏に代わるものであった。その大仏造立にことよせ、秀吉は農民から武器を没収する刀狩令を出し、没収した刀や脇差は、大仏殿の釘やかすがいに充てると述べた。刀狩令にはこれは国土安全、万民快楽の基なのだと記されているという。全国の農民たちから取り上げた刀や脇差の量は、大仏殿の釘やかすがいに必要な量を上回るのではないかと思うが、当時の人々にとって大仏と仏縁を結んで救われたいという願いは大きかったので、これは説得力を持った説明であったと上横手さんは論じている。

 しかし、この大仏は不運であった。秀吉が造った大仏は地震で壊れ、秀吉の子の秀頼が再建した。この時に、鐘の銘に「国家安康」とあったのを、「家康」の名を2つに切り離したと、家康がクレームをつけ、それが大坂の陣の原因となった。その大仏も寛文2年(1662年)の震災で倒れ、鋳つぶされて銭貨となった(江戸幕府は奈良の大仏の再建の方に取り組んだ)。同7年に木像が造られたが後落雷で焼け、天保14年(1843年)に造られた木像も昭和48年(1973年)に焼けてしまった。「出来のよい仏像ではなかったが、大仏が完全に失われたのは惜しまれる。」(179ページ)と上横手さんは記している。
 方広寺は、現在南隣にある豊国神社、京都国立博物館から三十三間堂までも囲い込んだ広大な寺域を保っていた。「方広寺の門前には名物の大仏餠屋があった。300余年も続き、店の表構えは昭和32年まで残っていたという。」(同上、180ページ)

 方広寺の大仏が焼けたというニュースは大学院在学中に新聞で読んだ記憶がある。その後、跡地に出かけたこともあるが、どうしてまだ大仏があったときに行かなかったのかという後悔は大きい。それにしても、大坂の陣の原因となった銘文の刻まれた鐘の方はいまだに残っているのだから、歴史というのは不思議なものである。上横手さんも、昭和32年まで残っていたことについては確認できたはずなのに、していないらしいが、私は昭和32年の3月に京都に出かけて、三十三間堂も拝観しているので(わけのわからない小学生だったとはいえ)、ひょっとして大仏餠屋の店構えを見ていたかもしれないのだが、一向に記憶がない。

 京都にあったもう1つの大仏は、鎌倉時代に摂政であった九条道家が、東大寺、興福寺を合わせた壮大な東福寺の建立を思いつき、東大寺の大仏に倣って、その東福寺に造立したものである。ただし東大寺の盧舎那大仏に対して、東福寺は釈迦仏であった。(ちなみに方広寺は盧舎那仏、鎌倉は阿弥陀仏)
 こちらの大仏は明治14年(1881年)の火災で焼け失せ、わずかに左手だけが残って、今も保存されているという。「東京に都が移ったとたんに、おつとめを果たしたごとく、大仏殿も消失しました」という東福寺の僧侶の発言が上横手さんの著書に引用されている(106ページ)。

 京都の大仏をしのぶよすがというのは、現在でも京都銘菓として売られている大仏餠だけになっているらしい(写真で見たところ、のどに詰まるようなものではないと思う…というのも突っ込みどころの1つである)。

 文中、不適切な表現があったかもしれませんが、典拠とした資料をできるだけ忠実に再現しようとしたためなので、ご容赦ください。 

civil war

6月11日(土)晴れ、気温が高くなった

 NHKラジオ『攻略!英語リスニング』の時間では、”The American Civil War"(南北戦争)を話題として取り上げた。

In the early 19th century, slavery was part and parcel of American Society. (19世紀初頭、奴隷制度はアメリカ社会の屋台骨だった。) 奴隷たちは主に南部の農場やプランテーションで働いていたが、北部では奴隷制度に反対する運動が高まった。
Southern states began to think that the central government would abolish slavery altogether, so they separated from the North to form the Confederate States of America. (南部諸州は、中央政府が奴隷制度を完全に廃止すると考え、北部から分離して南部連合を組織した。これに加わったのは、サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサス、ヴァージニア、アーカンソー、ノースカロライナ、テネシーであった。1861年に北部の側が、南部にあったいくつかの砦を南部連合に引き渡すことを拒否したために戦争が起こり、4年間続いて、1865年にようやく終息、北部が勝利したことえ、憲法が修正され、奴隷は解放されて「法の下に等しい保護」を受けることになり、黒人の参政権が認められた。

 講師の柴原智幸さんが話していたが、奴隷制度を認めていても、北部の側に加わった州もあり、それぞれの州の内部で状況は複雑であった。とくに北部にとどまったメリーランド州と南部に加わったヴァージニア州では州内での対立が激しくなり、ヴァージニア州からウェストヴァージア州(北部)が分離独立することになった。アメリカの首都ワシントンはメリーランド州から割譲された場所にあるので、メリーランド州が北部にとどまったことは北部にとって歓迎すべきことであった。一方、ヴァージニア州出身のロバート・E・リー将軍は個人的には奴隷制度に反対であったが、郷土愛から南軍の司令官となる。柴原さんがテキストに書いているところでは:「北軍の兵士の数は南軍のほぼ倍、しかも工業生産や兵器の生産では北部が圧倒的に有利でした。どう考えても南部の惨敗となりそうなのですが、戦争開始から2年ほどは、北軍の苦戦が続きます。どうやら、軍の指揮官に関しては南軍に有能な人物がそろっていたせいだったようです。」ということである。

 私が昔、リヴァプールに滞在していたときに、大学の中で与えられた部屋というのが、南部連合の領事館だった建物の3階の多分、召使部屋だったのだろうけれども、天井が屋根の傾斜を反映して斜めになっている部屋であった。英国では19世紀どころか、もっと古い建造物が今でも使用されている例が数なくないが、南北戦争という歴史の本と、『風と共に去りぬ』のような映画でしか知らない出来事と、自分自身の経験とがかすかながら交錯した貴重な経験であった。

 さて、手元にあるLongman Active Study Dictionaryでは"civil war"はa war between groups of people from the same country (同国内の人々の集団間の戦争)とそっけなく説明されているが、『リーダーズ英和中辞典』には「内乱、内戦; AMERICAN [ENGLISH、SPANISH] Civil War」とあり、(内戦とか内乱というのは歴史上いくらでもあるはずだが)アメリカの南北戦争だけでなく、イングランドとスペインの内戦も歴史上の大きな出来事と考えられていることが分かる。

 ”The English Civil War” は1642年から1649年までクロムウェルの率いる議会軍とチャールズ1世が率いる国王軍が戦った戦争で、Englishというけれども、ウェールズ、スコットランド、アイルランドをまきこんだ戦闘が展開され、議会軍の勝利、チャールズ1世の処刑をもって終結する。1911年版のEncyclopedia Britanicaでは”Great Rebellion" (大いなる謀叛)と記されている一方で、クリストファー・ヒルのようなマルクス主義系の歴史家は”English Revolution"という言い方をしてきた。”Great Rebellion"というと、コナン・ドイルのThe Hound of the Baskervilles (バスカーヴィル家の犬)の中の、モーティモア医師がホームズのところに持ち込んだバスカーヴィル家に伝わる「犬」の伝説の起こりとなる事件を記した文書の中で、その時代について
in the time of the Great Rebellion (大いなる謀叛の時代に)
と書かれているのを思い出す。

 ”The Spanish Civil War"(スペイン語ではLa Guerra Civil Española)は1936年から1939年にかけて、スペインの人民戦線政府とフランコ将軍の反乱軍が戦った戦争で、ナチス・ドイツとファシスト・イタリアの支援するフランコ派が、コミンテルンの支援を受けた人民戦線政府に勝利して終結した。第二次世界大戦に際して、フランコはドイツ、イタリアの枢軸国に加わらず、中立を守った。なかなかしたたかである。人民戦線側には国際的に支援が寄せられ、作家のアーネスト・ヘミングウェー、ジョン・ドス・パソス、ジョージ・オーウェル、アンドレ・マルロー、写真家のロバート・キャパらが義勇軍に参加した。ヘミングウェーの『誰がために鐘はなる』や、オーウェルの『カタロニア賛歌』がこの時の経験をもとに書かれていることをご存知の方は少なくないはずである。

 このほか、ローマ共和制末期にユリウス・カエサルとグナエウス・ポンペイウスが戦ったBellum Civile Alterum (紀元前49-45)も歴史上注目すべき内乱であり、カエサルはこれについてCommentarii de Bello Civili (内乱記)という記録を残している。

 内乱に際しては地域や家族の中でも対立が生じる、あるいはもともとあった対立が露になる例が少なからずあり、その評価も歴史家が、出来事にどのようにかかわったかを反映して大きく分かれるのが常である。この点は歴史書を読む際に常に心掛けておくべきことの1つである。
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