『オズの魔法使』

5月19日(土)曇りのち晴れ

 5月16日、シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作」特集上映の第16回の中から『オズの魔法使』(The Wizard of Oz, 1939, MGM、ヴィクター・フレミング監督)とマルクス兄弟の第4作『御冗談デショ』(Horse Feathers, 1932, パラマウント、ノーマン・タウログ監督)を見る。この特集上映は昨日をもって終わり、本日から次の企画「.美しい女優・美しい衣装」の上映が始まっているが、この2作、特に『オズの魔法使』についてはいろいろと書きたいことがあり、というよりも、じつはL.フランク・ボーム(L.Frank Baum, 1856-1919) が1900年に発表した原作(The Wonderful Wizard of Oz, オズの素晴らしい魔法使い)とその後彼が書き続けた作品を含めたシリーズ全14作品、それらとこの映画をめぐっては本が1冊書けるくらいの知識と思索とを積み重ねてきているのであるが、とりあえず、ここでその一端だけでも書いておこうと思った次第である。

 カンザスの農家に住む少女ドロシーは、愛犬のトトとともに家ごと竜巻にのって不思議な世界にたどり着く。マンチキンと呼ばれる人々の住むこの地方を支配していた魔女の上に、彼女の家が落ちて彼女を殺したことで、彼女はマンチキンたちに英雄扱いをされるが、やはり彼女はカンザスに戻りたい。その方法を教えてくれるのは、マンチキンから黄色いレンガの道を西へと歩いたところにあるエメラルドの都に住む大魔法使いのオズだけだといわれ、彼女は黄色いレンガの道を歩み始める。途中、知恵をつけるために脳みそが欲しいというかかし、やさしい心が欲しいというブリキの木こり、勇気が欲しいという臆病者のライオンが、それぞれ自分たちの欲しいものをオズから授けてもらおうと一緒になる。
 エメラルドの都に着いた一行はオズの魔法使いに会うことができるが、もし願いをかなえてほしければ、ドロシーの家に押しつぶされて死んだ東の魔女と同様に悪い魔女である西の魔女のほうきをもって来いといわれる。一行は西の魔女の住処を目指すが、その途中で彼女に支配されている羽の生えたサルたちにドロシーとトトは捕まってしまう。残されたかかし、木こり、ライオンは、魔女の下から逃げてきたトトに案内されて魔女の城に向かう…。

 この映画は1930年代から1940年代にかけてのハリウッドの全盛期を代表する作品であり、その組織的な映画作りのすばらしさが最高度に発揮された作品の1つとなっている。例えばマンチキンたちは、原作で背の低い人々だと書かれているが、映画ではmidgetが起用され、見事な群舞を見せる。これだけの出演者を集め、群舞ができるように訓練をしたのは大変な労力が必要であっただろうと思う。羽の生えたサルのメーキャップや衣装、彼らの集団的な動きの描写もすごい。もう一つ、注意してよいことはこの映画の撮影が完了しないうちに、監督のヴィクター・フレミングが『風と共に去りぬ』を演出するためにいなくなってしまったということである。IBDbによると、ジョージ・キューカー、マーヴィン・ルロイ(製作者としてクレジット・タイトルに名前が出ている)、ノーマン・タウログ、キング・ヴィドア(カンザスの場面の撮影)の4人が監督を補ったとあり、それぞれが映画史に名前を残す監督である。逆に言えば、一人一人の監督の個性よりも、そういう個性を結集して傑作をまとめ上げていくことの方が重視されていた時代を代表する作品だといえる。

 ボームの原作と映画化との違いで特に目立つのは、東の魔女が履いていて、その後ドロシーが履いてエメラルドの都まで旅することになる靴が、原作では銀の靴であるのに対し、映画ではルビーの靴になっていることである。映画の中で西の魔女を演じているマーガレット・ハミルトンは出演者たちの間ではまとめ役の役割を果たす存在であったが、子どもの頃から『オズの魔法使』の愛読者であり、この点が気になったので、製作者のマーヴィン・ルロイに質問したところ、ルロイは、この方が見栄えがするだろうと答えたという。たしかにその通りには違いない。しかし、ドロシーの履いている魔法の靴が銀であったというのは、歴史的な含意があったと論じる人々もいる。
 ボームの研究者たちは、彼が1890年代に盛んに活動をしたアメリカ人民党(American Populist Party)の支持者であったことを指摘している。この政党の有力な指導者であったウィリアム・ジェニングズ・ブライアンは銀本位制の採用を政策として打ち出していて、銀の靴にはそのことが反映されているという。ついでにいうと、オズの魔法使いは実はもともとアメリカ中西部ネブラスカ州の州都オマハの出身ということになっている(映画ではドロシーと同じくカンザスの出身とされている。ネブラスカはカンザスのすぐ北の州である。ついでながら、『オズの魔法使い』を書いたときにボームは、ネブラスカのさらに北のダコタに住んでいた)が、アメリカ人民党がその最盛期に定めた綱領は、党大会の場所に因んで「オマハ綱領」と呼ばれる。さらに言えば、人民党運動が最も盛んだったのはカンザス州である。〔カンザスの一帯では、現在もしばしば竜巻が起きて、多くの被害をもたらしているのはご承知の通り。ボームは何度か事業に失敗したが、そのたびに再起した。困難な現実から、明るい想像を生み出す底力が、『オズ』の世界にも表れている。〕

 アメリカ人民党は、その後の社会党や共産党と違って、内部にも矛盾を抱え、その思想においても夾雑物の多い政党であったが、それゆえに民衆のエネルギーを吸い上げることに成功していたと考えることもできる。『オズの魔法使』の世界を、そのような思想や社会運動の文脈においてのみ解釈するのは短絡のそしりをまぬかれないだろうが、それぞれの人間は欠点の多い存在であるかもしれないが、力を合わせ、知恵を出し合えば、問題を解決できるという物語の展開には、ボームの人生哲学や社会観の表明を見ることができる。
 映画の魅力の大半は、カラー映画初期の作品らしい熱気や創意の感じられる色彩設計、ドロシーを演じているジュディ・ガーランドの少女らしい魅力と歌のすばらしさ、既に述べたような整然とした群舞場面の魅力などに見いだされるだろうが、映画の思想的な含意にも多少は眼を向けてみていただきたいと思う。
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2018年の2018を目指して(4)

4月30日(月・振替休日)晴れ

 4月に新しく出かけた場所はなく、足跡を記したのは1都1県、2市6特別区のままである。
 利用した鉄道は5社、9路線、12+1駅と変わらず。
 バスについては神奈中バスを新たに利用したので6社、新たに横浜市営の25,207、神奈中の港61、相鉄の浜5、浜1の4路線がが加わり、18路線、停留所も4か所が加わって20か所となった。 〔73+8=81〕

 このブログを含めて30件を投稿、内訳は日記が6、読書が19、『太平記』が4、推理小説が1ということである。1月からの累計は123となり、内訳は、日記が22、読書が77、詩が3、推理小説が2、未分類が1ということである。読者の方々から頂いたコメント、拍手コメントはなく、1月からの累計はコメントが10件、拍手コメントが1件ということである。拍手は637で、1月からの累計は2270ということである。〔104+30=134〕

 12冊の本を買い、1冊の贈呈を受けた。買った本・贈呈された本の1月からの累計はちょうど50冊である。読んだ本は10冊で、1月からの累計は37冊である。読んだ本を列挙すると:佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(星海社新書)、円居挽『京都なぞとき四季報』、司馬遼太郎『街道をゆく10 羽州街道 佐渡のみち』(朝日文庫)、トマス・モア『ユートピア』(中公文庫)、豊永聡美『天皇の音楽史 古代中世の帝王学」(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー)、三池純正・中田正光『竹中重門と百姓の関ヶ原合戦』(洋泉社:歴史新書)、武井弘一『茶と琉球人』(岩波新書)、円居挽『キングレオの冒険』(文春文庫)、兵藤裕己『後醍醐天皇』(岩波新書)ということである。〔30+10=40〕

 NHK『ラジオ英会話』を20回、『遠山顕の英会話楽習』を11回、『入門ビジネス英語』を8回、『高校生からはじめる現代英語』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。1月からの通算では『ラジオ英会話』を79回、『短期集中! 3か月英会話』を35回、『入門ビジネス英語』を32回、『遠山顕の英会話楽習』を11回、『高校生から始める現代英語』を33回、『実践ビジネス英語』を48回聴いていることになる。このほかに『英会話タイム・トライアル』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『世界へ発信! ニュースで英語術』もできるだけ聞いているが、数には入れていない。
 『まいにちフランス語』、『まいにちスペイン語』、『まいにちイタリア語』の入門編をそれぞれ12回ずつ聴いている。1月からの通算では、『まいにちフランス語』の入門編が48回、応用編が23回、『まいにちスペイン語』の入門編が48回、応用編が23回、『まいにちイタリア語』の入門編が48回、応用編が23回ということである。各言語番組の応用編は再放送なので、数には入れていない。また『ポルトガル語入門』を3回聴いた。〔357+98=455〕

 神保町シアターとシネマヴェーラ渋谷で4本の映画を見た。シネマヴェーラで映画を見たのは今年に入ってから初めてなので、1月からの通算では、映画館5館で10本の映画を見たことになる。見た映画を列挙すると:『雑兵物語』(1963、大映、池広一夫監督)、『秋日和』(1960、松竹大船、小津安二郎監督)、『ジョンソンにはうんざり』(1938、オーソン・ウェルズ監督)、『女たち』(1939、MGM、ジョージ・キューカー監督)である。10本の内訳は日本映画旧作6本、外国映画新作2本、外国映画旧作2本ということで、珍しく日本映画の新作を見ていない。この辺りが今後の克服課題になりそうである。〔11+5=16〕

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の試合を4試合、保土谷公園サッカー場でなでしこリーグ2部の試合を1試合見たので、1月からの通算は3か所の競技場で12試合を見たことになった。また、ミニtotoを2回あてた。〔11+6+2=19〕
 
 酒を口にしない日は3日であった。4月は予想以上に煩悶が多かったということであろうか。〔12+3=15〕

エラスムス『痴愚神礼賛』(10)

3月2日(金)晴れ、温暖

〔これまでのあらすじ〕
 鈴の房の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が、自賛の演説をします。世の中を明るく楽しいものにし、神々にも人々にも若さを保たせるのは自分だというのです。人生も、国家も、学芸も、実は痴愚が支配している、痴愚こそが人間を幸福にするものであり、その証拠に王侯は阿呆者を道化師として寵愛し、彼らは現世でも来世でも幸福に暮らすといいます。何かに夢中になるというのも痴愚の一種であるが、夢中になっているご本人は幸福なのだし、迷信や作り話に夢中になる人々は彼らの時間つぶしをしているのだし、僧侶たちもそれで儲けることができるといいます。〔ここでは痴愚の女神に人間の愚かな執着心や迷信を賛美させることで、それらを批判していると受け取ることができます。〕

〔41〕
 前回に引き続き、女神はキリスト教の聖人たちを巡る迷信の数々を列挙します。あちこちの寺院で願いがかなったということで、奉納された品物を見ても、痴愚が治ったとか、頭がよくなったから奉納されたというものは皆無だといいます。〔これで思い出すのは、日本でもある部位をさすると、その部分の病気が治るという言い伝えのある仏像が時々見かけられますが、頭をなでて、頭がよくなるようにと祈っている人が結構多いようで、この辺りは文化の違いかどうかは分かりません。〕
 それから、さまざまな運の良さを列挙します。「難破船から泳ぎ出て無事だったものもいれば、敵の一撃を体に浴びながら生き残った者、戦闘のさなか仲間たちがまだ戦っているのに、勇敢だったからというよりは運がよかったために逃れ出たもの、絞首台に吊るされながら、盗賊を庇護してくださるどこやらの聖人様のおかげで首吊り縄が切れて助かり、金をしこたま貯めこんだ誰ぞを見つけては重荷になっていては気の毒だと、その懐を軽くしてやることに精進するものもいます。牢破りをして逃げだした男もいれば、熱病から治ってしまい、医者を怒らせた男もいますし、毒を飲ませたのに、腹を下したためにそれが出てしまい、そのおかげで治って死なずに済み、そのため、苦労して大金を費やしたのが無駄になったと、かみさんが浮かぬ顔をしている者もおります。馬車がひっくり返ったのに、馬も無傷のまま家に馳せて帰った者もいれば、家がつぶれたのに生きながらえた者、間男を働いて相手の亭主にとっつかまりながらも、するりと逃げおおせた男もいます。」(167ページ) 転変する運命を巧みに切り抜けていく人々の姿がまるで近世のピカレスク(悪漢)小説のように描き出されています。そして女神は、痴愚から逃れたことを感謝するものなど、この中には一人もいないと断言します。「無知であるということは、何やらとても楽しいことなので、人はほかのすべてのものを断たれてもいいが、痴愚女神の手からだけは逃れたくないと願うのです。」(107‐108ページ) 大変な自信ですね。

 このように(当時の)キリスト教会は迷信話があふれ、「すべてのキリスト教徒の一生は狂気の沙汰で満ちあふれておりますが、司祭連中は唯々諾々とそれを許し、かえって助長している始末です。それも、そこからの利得があることをちゃんと知っているからなのです。」(108ページ) 迷信深い信徒たちから収奪することだけを考えている僧侶たちの腐敗した現状を是認するような言説を述べ、このような中で、まじめに正しい生活を送りなさいなどと賢者が解いたりすれば、それはかえって幸福に水を差すようなものになるだろうといいます。〔もちろん、エラスムスは迷信を退け、教会と信徒とが正しいキリスト教に戻ることを願っているわけです。〕 さらに女神は生前から自分の葬儀についてあれこれ手配する人間を自分の仲間に数え入れています〔現代日本の「終活」が連想されますが、教会が社会生活の大部分を支配していた当時のヨーロッパと、現在の日本とでは葬儀のあり方が違っていることを考える必要があります。〕

〔42〕
 次に女神は自分自身は大した存在でもないのに、貴族の肩書や、赫々たる先祖を持っていることを自慢する連中をやり玉にあげます。〔ここでののしられている中に、当時のイングランドの国王の属していたチューダー家が含まれているという説もあります。〕 そして、うぬぼれのために自己満足に陥っている人々、自分の召使たちが優れた能力を持っているために、自分自身も優れていると思ってしまっている主人、未熟なのに自分が名人の域に達していると思っている芸能人などを自分の仲間だといいます。「才芸が拙ければ拙いほど得々として傲慢な態度に出て、自慢して、偉そうに見せようとします。それでもよくしたもので、割れ鍋に閉じ蓋、芸が拙ければ拙いほど人気を博するという具合になっているのです。」(111ページ) さらには「未熟であればあるほど自分自身も大いに心楽しく、人からもより多く褒め上げられる」(112ページ)ので、だれが努力して芸を磨こうとするものかと問いかけます。〔身近にも同じような現象があるかもしれないと思ったりします。〕

〔43〕
 個人個人と同様に、それぞれの国民やそれぞれの都市にも、それぞれのうぬぼれがあるように思うと女神は続けます。「たとえばイングランド人は風采が優れ、音楽に長け、洗練された食事を楽しんでいると主張し、スコットランド人は生まれのよさとか、お受けとの血のつながりとか、精緻な議論に長けていることを自慢し、フランス人は洗練された生き方こそわが民のものと唱え、パリの先生たちは、(ほかの地のものなどは問題にもならぬとして)神学の名声は一人パリにのみありと傲慢にも称し、イタリア人は古典学と雄弁は我が国の独壇場だと主張し、人間界にあって唯一野蛮ではないのは自分たちだと、民を挙げて自慢しています。幸福という点にかけてはローマの住民が断然一位を占めておりまして、今に至るもなお、古代ローマの甘い夢にひたっています。
 ヴェネツィア人は、高貴な血筋の出であることを思って、幸福な気持ちでいます。数々の学問の創始者であるギリシア人は、その昔の英雄たちの輝かしい名を挙げて、それを売り物にしています。トルコ人とまことに下等な野蛮人どもの群れも、そのすべてが自分たちの宗教がすぐれていると主張し、キリスト教徒を迷信に囚われた奴らとして、あざ笑っています。いっそう愉快なのはユダヤ人で、今日もなお引き続きメシアの到来を待ち続け、頑強にモーセにしがみついています。スペイン人は武勇の誉れにかけては誰にも譲ろうとはしませんし、ドイツ人は背の高さと、魔術を心得ていることを鼻にかけています。」(112‐113ページ) これらの描写の中にはエラスムス自身の観察も交えられているとのことですが、類型的な決めつけが含まれていることも否定できません。それでもどのあたりは思い当たる節があるが、どのあたりは賛同できないなどと検討していくのも面白いかもしれません。たとえば、イングランド人について、「音楽に長け」とあるのは、その当時のイングランドでは音楽が盛んであったことの反映でしょうが、その後、イングランドからは大した音楽家は出現しなくなります(ドイツから移住したヘンデルのような作曲家が気を吐くくらいです)。「洗練された食事を楽しんでいる」というのも意見の分かれるところでしょう。

〔44〕
 自分の心をくすぐるのがうぬぼれだが、同じことを他人に対してするとそれが追従になると女神は言います。追従は恥ずべきことだという人がいるが、けだものを例にとってみても、「犬ほど媚びへつらう動物がいるでしょうか? それでいながら、これほど忠実なものがいるでしょうか?」(114ページ)と自分の議論を補強します。そして追従は、世の中で重んじられている雄弁術の根幹部分を占めているのであって、極めて重要な存在だと結論します。

〔45〕
 他人から本当でないことを言われてそれを信じてしまう。つまり騙されることは幸福ではないという議論に対して、女神は次のように反論します。「本当のことよりも、見せかけにずっと容易にとらえられてしまうようにできているのが、人間の心というものなのです。」(116ページ) 女神はプラトンの有名な洞窟の譬えなど引用しながら、自分は幸福だと思い込むことによって幸福を得る愚者の境遇を賛美するのです。

 女神は当時の世相の中で目に付くことを次々に取り上げていくのですが、その語り口は奔放で、その背後に隠れているエラスムスの意図が巧みに隠されているようです。つまり、ここは本心とは逆のことを言っていると思われる個所があり、本心が出ていると思う個所もあります。できるだけ私は、これは本心だと思う、これはそうではない…と書いていくつもりですが、私の読み間違いというのもあるかもしれません。間違いを犯すのは一方で、私が未熟であるためですが、もう一方でエラスムスの仕掛けに引っ掛けられたということで、それはそれとして読者として名誉なことではないかと考えております。
 

お詫び

2月5日(月)晴れ

 依然として自家用のパソコンが立ち上がらない状態で、業者のものを使って編集していたのですが、原稿が途中で消えてしまうという事故にあい、本日は後進を断念せざるを得ません。あしからず、ご了承ください。

『太平記』(193)

1月16日(火)晴れ、温暖、午前中はバスの車窓から富士山が見えたが、その後は見えなくなった。

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月10日、足利方の攻勢を受けて都から比叡山へと移られていた後醍醐天皇は、足利方に補給路を押さえられて困難な状態に陥り、足利尊氏の密書に応じて京都に還幸されようとした。それを思いとどまらせようとした堀口貞満の諫言を受けて、天皇は新田義貞に東宮・恒良親王を託し、北国で再起を期すよう命じられた。10月10日、天皇は京に還幸されたが、直義によって花山院に幽閉された。天皇に従っていた公家、僧侶、武士たちも処罰されたり、幽閉されたりした。しかし、北朝の天皇に神器を渡すように言われた天皇は、偽の神器を渡したのであった(恒良親王にも偽物の神器を与えたようである)。

 第17巻が終わって、今回から第18巻に入る。
 尊氏の密書の趣から、京に戻るということは再び帝位に就くということであろうと、天皇は頼りにされていた。しかし、もともと足利方の本心は天皇を騙して事態を自派に有利に運ぼうということであったから、還幸された天皇を花山院の古い御所に押し込め、天皇は日々を淋しく過ごされたのであった。
 後醍醐天皇は都から離れただけで、帝位を捨てたわけではないので、『太平記』のこのあたりの事情の記述はあまり性格であるとは思えない。花山院というのは清和天皇の皇子貞保親王の居館であり、その後花山上皇の御所となり、藤原道長の曽孫である家忠を祖とする花山院家が相続していた。現在の京都市上京区の京都御苑の西南の辺りだそうである。

 『太平記』の作者は例によって美辞麗句を並べ立てて、天皇の「蕭散寂莫(しょうさんせきばく)」(第3分冊、217ページ、静かで物寂しいさま)を描くが、どうも大仰である。小川剛生さんの『兼好法師』によると、この時代の天皇のお住まいは「里内裏」で現在の京都御苑に比べればかなり規模が小さいので、「三千の宮女」(同上)が天皇にお仕えするというようなことは無理なのである。軟禁状態なので、天皇を訪問するというものもいない状態であった。
 後醍醐天皇は、どのような前世の因果でこのような目に合うのかと嘆かれ、宇多天皇が退位の後に出家され(寛平法皇)、花山天皇も19歳で譲位・出家された後に諸国を巡礼された先例に倣おうかとまで思われたのであった(これも作者が勝手に天皇のお気持を想像しているだけではないかと思う)。

 そのように天皇が思い悩まれているところに、刑部大輔景繁というものが、足利氏の許しを得てただ1人天皇のおそばの用をしていたが、ある時、勾当内侍を通じて密かに天皇に次のようなことを申し上げた。「越前の金ヶ崎の城を根拠地といている宮方の軍勢を攻撃している足利方の兵は劣勢であるということで、加賀の国の金釼宮と白山比め〔偏が口、旁が羊〕の僧兵たちが、味方に加わり、加賀の守護である富樫高家がこもっている奈多の城(小松市奈谷町)を攻め落として、金ヶ崎攻防戦の後攻め(包囲軍を背後から攻撃すること)をしようと企てているということです。これを聞いて、比叡山から京への還幸の際にお供をして京都に出てきた菊池武俊や日吉加賀法眼らの武士たちが、みな自分の地元へと逃げ帰って義兵を起こし、それぞれの土地を制圧しているということです。足利から天皇の治世に戻る日も近いと、世間の噂がしきりでございます。近いうちに急いで、夜の闇に紛れて大和の方に臨幸あそばされ、吉野、十津川の辺りに皇居をさだめられ、諸国へ綸旨を下されて、義貞の忠義の心を助け、天皇の徳による政治を復活されますように」。
 勾当内侍というのは内侍司に仕える後宮女官の三等官の第一位で、天皇と外部との取次役を務める役柄である。新田義貞が後醍醐天皇から賜って、夢中になり、足利方追討の戦機を逸したとされる一条行房の娘(妹とも)も勾当内侍であった。景繁という武士の素性は不明であるが、彼が申しあげていることはすべて今後の見通しであって、これまでの経緯から見て、楽観的に過ぎると思われる。もっともそう思わなければ、軟禁状態から脱出するという勇気は出てこないだろう。

 天皇は、景繁の語るところをよくお聞きになって、さては天下の人々の中にはまだ帝徳を慕うものも多いようである。これは天照大神が、景繁の心に入り込んでお告げになっている言葉であろうと思われて、「明夜必ず、馬寮の馬を用意して、東の小門の辺りで待つようにと仰せられた。

 示し合わせた時刻になったので、天皇は三種の神器を新任の勾当内侍に持たせ、子どもが壊して踏み広げた土塀の壊れ目から、女装して脱出された。景繁は、あらかじめ用意したことなので、天皇を馬寮の馬にお乗せして、三種の神器を自分で持ち、まだ夜のうちに京の五条口から伏見・木津を経て奈良に通じる大和路を進み、梨間(なしま、京都府城陽市奈島)まで落ち延びさせた。昼間、奈良の町をこのような姿で通っていけば、怪しむものも出てくるだろうと、天皇を畳表で周囲を張った粗末な輿にお乗せし、お供してきた上北面(院の御所を警固する武士で、四位・五位のもの)に輿を担がせ、三種の神器を足を付けた行器(ほかい)に入れて、寺社に参詣しようとする人の、弁当などを入れて持っているような様子に見せかけて、景繁が雑兵のような姿でこれを持つ。それぞれ日ごろしつけていない仕事をすることになったので、気持ちは急ぐけれどもなかなか進むことができず。その日の暮方にやっと内山(奈良県天理市内にあった内山永久寺)に到着した。

 ここまで来ても、もし敵が追いかけてくることがあるかもしれないと安心できなかったので、今夜のうちに何としても、吉野の辺りまで進もうと、また馬で急ぐことにしたのではあるが、8月28日(岩波文庫版の脚注によると、日付に乱れがあり、12月21日が正しいということである。現在の暦では1月の終わりから2月の初めくらいではないかと思う)ということなので、道がひどく暗く、進みかねていたのだが、突然、奈良市街の東方の春日山の上から、吉野の金峯山寺一帯の山まで、光るものが現われて松明のように天を明るくし、地を照らしたので、道がはっきりと見えるようになり、ほどなくして明け方には、大和国賀名生(あのう、五條市西吉野町)に落ち着くことができた。
 しかしこの土地は人里離れて人家の煙もまばらで、山深く、鳥の声さえまれである。家の周囲を柴で囲い、山芋を掘って生計を立てているという様子なので、皇居と定めるべき場所もなく、天皇のお食事に提供するような食べ物の確保も難しい。

 どうしようかと考えた末に、吉野金峯山寺の僧兵を味方に引き寄せて、天皇をお入れ申し上げようと考えて、景繁が吉野へ出かけて、吉野の吉水院(現在の吉水神社)の住持で、吉野執行の宗信法印に事情を打ち明けたところ、山中の僧兵たちが、本堂である蔵王堂で会議を開いて協議し、「昔、この場所に天武天皇が天智天皇の子である大友皇子に追われて行幸されてきたが、間もなく(壬申の乱に勝利されて)天下を統一、平和を実現された。そのような先例があるので、今、当山に行幸されることに対しわれわれは何の異議を唱えることがあろうか。それだけでなく、昨夜天に光り物があって、臨幸の道を照らした。これは当山の鎮守である蔵王権現、小守、勝手明神が三種の神器を守り、天皇を守護されようとする瑞光である。しばらくの猶予もあってはならないということで、若い僧兵たちが300余人、みな甲冑を身に着けてお迎えに参上した。
 このほか、楠正成の子正行、その一族の和田次郎、大和の武士である真木定観、大神氏の三輪西阿、河内の武士で楠一族と行動をともにしてきた生地(おうち、恩地とも。大阪府八尾市恩智に住んだ武士)、紀州の武士である贄川、貴志、湯浅らが500騎、300騎と続々とはせ参じ、この大軍で天皇の輿の前後を固めて、吉野への臨幸を警固したのであった。
 春の嵐が一たび鳴ると、冬眠していた虫が一斉に動き出すような心地で、天皇のご運がたちまち開け、進化のものの功績が既に明らかになってきたと、ひとびとは喜び合ったのであった。

 ということで、後醍醐天皇は京から吉野へ脱出され、南朝が本格的に成立することになる。『太平記』の作者の筆致とは裏腹に、前途は多難に思われるのだが、さて、どうなるか。
 
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