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故旧忘れ得べき

12月30日(日)晴れ、昨日同様、雲は多いが一応晴れている。三ツ沢グランドの陸橋付近から、雲を被った富士山を見ることができた。

 12月28日に聴いたNHKラジオの『高校生からはじめる「現代英語」』では、”Songs of the Season”の第2弾として、前日放送した”The Water Is Wide"(水辺は広く)と同じくスコットランドの歌である”Auld Lang Syne"(懐かしい昔)を番組パートナーであるハンナ・グレースさんの歌唱で聴いた。
 この歌は40を超える言語に翻訳され、日本では(もともとの歌詞とは関係なく)「蛍の光」として歌われる。現在伝わる歌詞の原形は、スコットランドの国民的な詩人であるロバート・バーンズ(Robert Burns, 1759 - 96)が1788年にまとめたもので、古いノスタルジックな民謡のメロディーで歌われる。
 バーンズは「スコットランド語」で歌詞を書いたが、現在は一般的な英語に置き換えられていると解説されていたが、スコットランドでは、スコットランド英語もしくは英語のスコットランド方言のほかに、スコットランド・ゲール語(Scottish Gaelic)も話されているので、「スコットランド英語」という方が誤解を招かないだろう。

 日本では「蛍の光」というと「別れ」のイメージが強く、紅白歌合戦の締めくくりとして行く年を送る歌として歌われるが、英語圏では、新年を迎える歌として歌われるそうである。ニューヨークでは大晦日のカウントダウンの際に、the ball dropと言って、ビルの上に設置した巨大なボールを国旗のように降ろしていく毎年恒例の行事がある。ボールが落ちて、新年を迎えた瞬間にこの歌を一斉に合唱するのだという。〔新年を迎えて”Auld Lang Syne"を歌うというと、私はポール・ギャリコの小説の映画化『ポセイドン・アドベンチャー』を思い出す。そのくせ、映画の細部は忘れてしまっていて、歌を歌っている最中にカタストロフィが起きたのか、歌い終えてから起きたのかさえ、思い出せない。〕

 ほかにも『遠山顕の英会話楽習』の12月25日放送の回で紹介していたが、カウントダウンから、次のような流れになる(新年を迎えてすぐに歌うのではなくて、その前に「新年おめでとう!」を言う):
Three, two, one.
Happy new year!

Should auld acquaintance be forgot,
and never broght to mind?
Should auld acquaintnce be forgot,
and (days of) auld lang syne?

◆CHORUS
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
We'll take a cup of kindness yet,
for (the sake of) auld lang syne.

(古い友だちは 忘れられるべきか、
そしてもう決して心へ運ばれずに?
古い友だちは 忘れられるべきか
むかしの日々も?
◆コーラス
(懐かしい)昔のために 君
昔のために
飲もう 友の一杯を今 
昔のよしみで)

 どこかのパブで、子ども時代の友だちに再会した主人公が、昔を懐かしみ「友情」に乾杯するというのが歌の趣旨である。syneは普通「ザイン」と発音されているが、もともとのスコットランドの発音では「サイン」だそうである。

 ところで、この歌の最初の行を目にしたときに、私は高見順(1907‐65)の小説『故旧忘れ得べき』を思い出した。この小説の最後の場面で、登場人物たちが「故旧忘れ得べき⇒蛍の光」を歌うのである。
 時は昭和10年(1935)ごろ。昭和の初めに左翼運動に参加して弾圧を受け、転向した、あるいはさせられた元学生たちは、惨憺たる日々を過ごした挙句、少しばかり落ち着いた生活を送るようになる。そんな時に、むかしの仲間の一人が自殺したという知らせが届く。むかしの仲間たちが集まって、ささやかな偲ぶ会を開く。その席上、一人が「故旧忘れ得べき」を歌おうと言い出す。そんな歌は知らないぞ…「蛍の光」か…ということで、なぜ、この歌を歌うのか、わからぬまま一同はこの歌を歌う…。「歌うというより口を開けて胸のモダモダを吐き出すような侘しいヤケな歌声であった。」
 転向小説の代表作とされる作品の一つで、第1回の芥川賞候補に挙げられている(受賞したのは石川達三の「蒼茫」である)。

 この”Auld Lang Syne"という歌が使われている文学作品でもう一つ印象に残っているのが、スコットランド出身の作家ミュリエル・スパーク(Muriel Spark, 1918 - 2006) のLoitering with Intent である。ブッカー賞の候補にも挙げられた彼女の代表作の一つであるが、この表題は翻訳しにくい。河出書房新社から出ている木村政則さんによる翻訳は『あなたの自伝、お書きします』になっている(実は翻訳の方は読んでいない)。
 語り手でもあるヒロインは作家志望で、自伝協会(the Autobiographical Association)という団体の事務員に雇われる。ここの関係者には自分が書いている小説の参考になりそうな人物が何人もいるので、彼女はひそかにそのことを喜ぶ。ところが、協会のメンバーの言動が彼女の小説の内容通りになってきただけでなく、彼女の原稿が紛失してしまった…という話であるが、ヒロインの友人の一人がなにかというと”Auld Lang Syne"を歌うという設定になっていた。で、これも小説の最後の方で、パリに住んでいる語り手の住処まで押しかけてきて、夜中にこの歌を歌う…。

 この2つの小説の展開から読み取れることは、”Auld Lang Syne"という歌は<友情>の光と影とを歌いこんだ歌だということである。<友情>というのは、讃えるべきものであるだけでなく、暗いもの、否定的な側面も含んでいるということである。そして、そういう否定的な側面を含んだうえで、むかしからの友情を懐かしむ歌だということである。
 だから、この歌は行く年を送る歌としても、くる年を歓迎する歌としても理解し、歌うことができる。新しい年と仲良くしたいと思うのは当然のことだが、警戒の念を怠ってはならないというのも付け加えるべきだと思うのである。
 


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高田の冬は霏々として

12月29日(土)昼過ぎ頃までは、三ツ沢グランドの陸橋付近から、雲に半分ぐらい隠れながらも富士山が見えるという程度に晴れていたのが、時が経つにつれて曇り空が広がってきた。

 「日記抄」で触れるつもりで、書きそびれてしまったのだが、12月23日の『朝日』朝刊に掲載された「しつもん! ドラえもん 3177 にいがた編」に「日本のスキーは新潟が発祥。スキーを伝えた外国の人はだれかな?」という問題が掲載されていた。
 日本に本格的なスキー技術を伝えたのは、アルペン・スキーの創始者であるマティアス・ツダルスキーの門下で、オーストリア≂ハンガリー帝国の陸軍将校だったテオドール・エードラー・フォン・レルヒ(1869‐1945)である。彼はオーストリア陸軍でスキーを採用することに尽力した人物であったが、日露戦争に勝利した日本の陸軍の事情を知りたいと考えるようになった。また、明治35年(1902)に八甲田雪中行軍遭難事件を起こした日本陸軍の側でもスキーに着目しはじめたという事情があり、交換将校として明治43(1910)年に来日、新潟県中頸城郡高田(現在の上越市)に置かれていた第13師団歩兵第58連隊(第13師団長:長岡外史、歩兵第58連隊長:堀内文次郎)で、スキーを指導することになった。翌明治44(1911)年1月12日に歩兵第58連隊の営庭を利用し、鶴見宜信大尉ら14名のスキー専修員を指導したのが、日本におけるスキーの発祥とされ、1月12日は「スキーの日」となっているそうである。なお、レルヒは来日時には少佐であったが、来日中に中佐に昇進したため、高田ではレルヒ少佐という呼び方が一般的であるが、その後、彼が指導にまわったところではレルヒ中佐と呼ぶところもあるそうである(帰国後、最終的には少将にまで昇進した)。また、彼はドイツ語圏では名門中の名門校と言えるウィーナー・ノイシュタットのテレジアーヌムの卒業生であるが、この学校についてはいずれ書くことがあるだろうと思う。

 ところで、レルヒが伝えたスキーはストックというか杖1本で滑るもので、『朝日』紙面に描かれていた漫画のドラえもんが2本のストックで滑っていたのは、この点から見るとおかしい。さらに言えば、「新潟」には大ざっぱに言って、①新潟県、②新潟市、③新潟市の中心部(旧新潟町)という3つの意味があり、「にいがた編」というよりも、「にいがた県編」というべきではないかと思う。

 さて、レルヒは歩兵第58連隊の営庭(昔の高田城の城内であろう)のほか、町のはずれの金谷山でもスキーの訓練を行った。旧制高田中学⇒新制高田高校の関係者の間で歌い継がれ、また市民の間にも広がった「高田の四季」という歌の4番に「金谷山頭 スキーに暮れて」と歌われているように、スキーは連隊の将兵だけでなく、市民の間にも広がり、親しまれるようになった。

 ところで、この「高田の四季」の4番の歌い出しは、この記事の見出しとして掲げたように「高田の冬は霏々(ひひ)として」というものである。ある時、宴席で何か新潟関係の歌を歌った方がいいということになって、然るべき人物に頼んだのだが、彼が「高田の四季」を歌うといって、一生懸命に歌詞を書いている。それで「ひひとして」の「ひ」というのはどういう字かというので、時間がたってしまったのを覚えている。「雨かんむり」に「非」と覚えてしまえば簡単なのだが、なかなか覚える気になれないところがある。なお、高田高校の校友会のホーム・ページを見ると「ひひとして」とひらがなで記されている。漢和辞典を見ると、「霏霏」は「雨や雪がはなはだしく降るさま」を言うそうである。それで思い出したのだが、高田で暮らしていたころに、雪の日に傘をさして歩いていて、傘が急に重くなったのでびっくりして雪を払い落としたことを思い出す。傘でなく、フード付きのコートを着て歩く方が賢明である。 

 さて、レルヒ来日中の第13師団長であった長岡外史(1858‐1933)は、それ以前の日清戦争中に大島混成旅団の参謀をしていたが、部下であった二宮忠八(1866‐1936)による偵察用飛行機の研究開発に予算を出してほしいという申し出を一蹴したことがあった。その後、彼は飛行機の軍事的な重要性を認識するようになり、退役後のことではあるが、二宮を直接訪問して謝罪したという。また日本における航空分野の初期の発展に尽力した。自分に非がある場合にはそれを認めて反省し、また必要な時には謝罪、態度を改めるというのは立派なことではないかと思う。
 その一方、彼はプロペラ髭と呼ばれる長大な髭を蓄えていたことでも知られる。法政大学の航空研究会の顧問をしていた内田百閒はこのことから、晩年の長岡と接触することがあったが、長岡が写真撮影に応じるときには、髭を撮影用にしっかり整えてから望んでいたと記しているそうである。そのあたりに内田独特の観察眼が働いているようである。そのような写真をもとに、製作されたのであろうか、上越市の高田公園内には、髭をぴんと伸ばした彼の銅像が立っている。

心学三題噺

10月26日(金)曇り

 10月26日は、1977年にこの世を去った私の父の誕生日である。61歳でまだ会社勤めをしていたが、昼食休み中に倒れて死んだ。生きていれば103歳である。その父の姉である私の伯母は100歳を超えて生きていたが、晩年は認知症で、施設に入っていた。現在の私は73歳で、両者の中間の年齢である。いろいろと複雑な思いが胸中を去来している(何を書いていいのかわからないから、難しい言葉を使ってごまかしている⁉)・・・。

 10月25日、愛川昭『黄金餅殺人事件――昭和稲荷町らくご探偵』(中公文庫)を読み終えた。
 本日(10月26日)の『日経』に心学明誠舎理事長である堀井良殷(よしたね)さんが「心学が説く商人の道」という文章を寄稿されていた。その中に、心学明誠舎の理事で近畿大学教授であった竹中靖一(1906‐86)氏について触れられていた。実は竹中氏は非常勤講師として京都大学でも講義をされており、その授業に途中まで出席していた記憶がある。ついでに言うと、竹中氏はその講義の中で、江戸時代の心学者である柴田鳩翁(1783‐1839)の曽孫である日本史学者・京都大学(名誉)教授であった柴田実(1906‐97)先生についても言及していたが、その柴田先生の授業も2つほど聴講して、優と良を頂いた。
 同じ『日経』のスポーツ欄に、横浜FCの三浦知良選手が書いている「サッカー人として」というコラムにちょっと気になることが書いてあった。(『日経』のスポーツ欄のコラム、特に権藤博さんと三浦選手が担当する回は、注目すべき発言が見られることが多いので、見逃せないのである。)
 この3つを材料にして三題噺をでっちあげようというのが今回のたくらみである。

 教師と学生(生徒)の年齢差は20~30歳くらい開いているのが一番適切であると外山滋比古さんが書いているのを読んだことがある。つまり一世代、親子くらいの年齢差である。これには異論もあるし、この範囲外の年齢差であっても実際に教育活動は行われているのだから、絶対視するわけにはいかないが、私自身の経験から言っても、50代前半くらいまでは大学生の興味をつなぎとめる講義はできたが、60代になると難しくなったのを実感したという経験がある。なぜ、こんなことを書いたのかというと、親子以上に年が離れている柴田先生や竹中氏の授業はつまらなかったという印象がいまだに残っているからである。

 お二人が、立派な研究者であったことは、その業績が現在も記憶されていることからも明らかである。柴田先生は心学の研究や民間信仰の研究で知られ、先生の書かれた御霊信仰についての本は私の本棚にも収まっている。しかし、柴田先生が担当された『史学概論』の内容は一つも覚えていない。また、柴田(日本)→西田太一郎(中国)→西村(インドネシア)→望田幸男(ヨーロッパ)のリレー式で行われた「世界史」の授業では、柴田先生の担当部分だけが記憶から完全に欠落している。先生のご研究の一端の原稿を棒読みしたって、少しは面白いはずなのだが、どうも講義は先生ご自身の研究とは別物だったような気がする。

 竹中氏の授業を途中でやめたのは、その頑固さに辟易したというのが主な理由である。もっともこっちもかなり生意気な学生だったのかもしれないと、今にして思う。氏の授業は雑談が多く、そのこと自体は悪いことではない。私も大学の教師になってから、雑談をよくやったし、学生から授業の本筋よりも雑談の方が面白いといわれたことが何度かある。竹中氏の場合は、授業の本筋の方が雑談よりもはるかに面白かったから悲劇である。
 竹中氏は心学の研究をしているくらいだから、庶民の心性史のようなことに関心があり、落語の話とか、歌謡曲の話とかいうのを授業にさしはさむ。そういうことに私も興味があるから聞き耳を立てるのだが、そこで開陳される意見というのが私の考えていることと逆なのである。例えば、上方落語の方が東京の落語よりも断然面白いという。1960年代の後半、昭和40年代の初めごろの話だから、これは客観的にみてかなり偏見に満ちた意見である。(現在の時点で言えば、「断然面白い」とは言えないが、上方落語の勢いは無視できないものがある。) 教師と学生の意見が違うことは悪いことではなく、むしろそこから新しい知見が導き出されるかもしれないから、いいことである。しかし、どうも反論を許さないような独断的な態度が目立つ。また、自分の大学に学生を集めるために、高校の先生たちを接待して酒を飲ませて…というような話を自慢そうに喋る(学生を相手に喋るような話ではない)。それやこれやで、私は授業の聴講をやめてしまったが、心学についての関心は残った(そこが竹中氏の学者としての徳のなせる業かもしれない)。

 心学というと、まず思い出すのは、6代目春風亭柳橋(1899-1979)などが得意としていた落語の「天災」に登場する、「何事も天災と思ってあきらめなさい」という「心学者」の紅羅坊菜丸(この字でいいのかな?)。この「訓え」が心学の趣旨に沿ったものかどうかは疑問ではあるが、江戸時代の特に後半に、心学が庶民の間にいかに普及していたかということを知る手掛かりにはなるだろう。
 心学は石田梅巌(1685‐1744)を開祖とする(したがって石門心学ともいう)、庶民向けの平易な道徳思想で、梅巌自身は儒学を基本としていたようであるが、仏教やその他の教えも取り入れてわかりやすく、実践しやすい形で広められた。

 堀井さんの文章は企業の経営において心学の精神の果たしうる役割を強調するものである。当然、竹中氏の『石門心学の経済思想』は読んでいると思うのだが、その内容についての紹介はない。私が聴講をやめてから、本題に入ったのかもしれないが、竹中氏が、近・現代の日本の経営思想と心学の関係をどのように考えていたのかは知らずじまいになっている。
 日本の近代化の過程で、心学が果たした社会的な役割に注目したのが、アメリカの社会学者ロバート・二ーリー・ベラ―(Robert Neelly Bellah, 1927-2013)で、彼の『徳川時代の宗教』(Tokugawa Religion, 1957)である。「非西欧諸国の中で日本だけが、近代産業国家として自らを変革するために、西欧文化から必要とするものを全く急速に摂取した。この成功は…前近代の時代において、すでに後の発展の基礎を準備したいくつかの要素によるもの」(ベラー『徳川時代の宗教』、35ページ)だと考える学者が増えている。ベラーはマックス・ヴェーバーに倣って、宗教と近代の経済の関係についての考察を試みる。そこで問題になるのは「日本の宗教のうちで、何がプロテスタントの倫理と機能的に類似しているのかということである」(同上)という。

 ベラーは心学について、「経済的には勤勉と倹約を強化し、生産を評価し、消費を小さく見た。さらにそれは、正直の普遍主義的な水準と契約の尊重を主張し、これらを宗教的に強めた。このようにして、それは、都市階級の間において、世俗の仕事に対し規律を持ち、実践的、持続的な態度の成長するのに寄与すると考えられたに違いなく、経済が産業化の過程に入るにあたって、企業家と労働者の両方にとって重要であった。」(ベラー、331-332ページ)という。このような機能は西欧社会におけるプロテスタンティズムに相応すると言いたいようである。

 日本の近代化の過程もその背景をなした思想・精神も複雑であったことをベラーは知っていたし、また彼の議論もそれほど単純なものではないが、議論をわかりやすくするためには無理にでも単純化しないといけない。ベラーは心学を通俗化・平易化された儒教の変種とみているようである。そして、中国や韓国では儒教が官僚になることのできる社会層にのみ行き渡っていたのに対し、日本では商人や農民にまで普及していたところに違いを見ている。その結果、日本の方が識字率が高くなり、勤勉に働き、節度ある生活を心がける人々も日本の方が多くなる。中国や韓国は儒教が普及しているから駄目だという議論をする外国人がいたが、話は逆である。日本の方が儒教が浸透していたから、近代化が早まったのである。(儒教といっても、中国と日本とではその内実が違い、どう違うかも問題ではあるのだが、この点についてもベラーはかなり詳しい議論を展開している。)

 心学に中国思想のより具体的な影響を見る研究者もいる。中国の明代、特に万暦帝時代に三教(儒教・道教・仏教)合一の思想が盛んになり、この思想に基づいて多くの(勧)善書(善行を進め、悪行を戒める書物)が書かれ、日本にも輸入され、広く読まれた。とくによく知られているのが袁黄(了凡)の『陰隲録』である。この本には盛んに「陰徳」という言葉が出てくる。陰徳を積んだ人にはよい報いがあるという議論が展開される。
 昔、講談社から出ていた『明治大正落語集成』は、明治・大正時代の雑誌『百花園』に掲載された落語の速記を集めたものであるが、その中に、人をほめる言葉として「陰徳家」という言葉が盛んに出てくる。陰徳とは、人の目につかないように善行をすることであるから、他人に「陰徳家」だといわれるようではまだ修行が足りないのではないかといいたくもなるが、このことは、明治・大正時代の日本に陰徳思想がかなり普及していたことを証拠立てるものではないかと思っている。陰徳思想と心学とは近い距離にあり、相互の影響関係を見ていくと面白いかもしれないと思う。

 ということで落語の話に戻り、心学者の紅羅坊菜丸は架空の人物であるが、稲荷町の師匠と呼ばれた8代目林家正蔵が演じていた「紫檀楼古木」は実在の人物であるという説もある。狂歌の宗匠でもともとは、煙管の羅宇(らお)問屋の主人だったのが零落して羅宇のすげ替えをして生計を立てている古木が、ある日羅宇のすげ替えをした家の御新造さんと狂歌のやりとりをするという噺で、もっと詳しい内容を知りたい方はご自分で検索してください。話の内容が内容であるだけに、名人級の落語家が演じないと面白くもなんともない。正蔵のライバルだった6代目三遊亭圓生もこの噺を手掛けているので聞き比べるのも面白いかもしれない。

 8代目林家正蔵の大ファン「正蔵オタク」を自任する愛川晶さんの『黄金餅殺人事件』は、その正蔵が安楽椅子探偵ならぬ座布団探偵として難事件を解決するという趣向の物語である。この本についてもっと詳しく書かないと「三題噺」にならないが、機会があったら独立で書くことにして、もう一つの話に移ることにする。

 私が柴田先生や竹中氏の授業がつまらないと思ったというのは、一種の生意気さの反映で学生時代というのはそういうことの繰り返しではないかと思う。それで最後に、三浦知良さんの話だが、大宮アルディージャと1‐1で引き分けた10月21日の試合について「サッカー通でない知人でも『見ていて面白かった』と言ってくれた。互いに譲れない、負けられないという緊迫感が伝わったんだろうな。」と書いている。この試合を私も見ていて、まったく「知人」の意見に同感なのだが、私の近くにいた中学生らしい男女の一団は、試合そっちのけでおしゃべりをしたり、スタジアム内を歩き回ったりでまったく試合を見ていなかった。三浦選手の「知人」が緊迫感を感じたのは、その「知人」の人生経験がモノを言ったのだろうが、まだ人生経験の浅い中学生たちはそういう緊迫感を感じることがなかったのであろう。そういう態度を叱っても暖簾に腕押しになるのは眼に見えている。彼らが自分たちの目先の気楽さに心を奪われて好試合を見る機会を逃したことを後悔するとは思われない。若さとはそういうものである。だが、ひょっとすると何かのはずみでそれまでは気づかなかった自分の失策に気づいて、後悔するかもしれない…それも若さの一面である。むしろそちらの方を期待したいのである。

 三題噺というのは3つの題材をうまく組み合わせて1つの話にまとめるものだが、なにか3つの話を書き連ねただけに終わってしまった。まだまだ修行が足りない。 

日記抄(10月15日~21日)

10月21日(日)晴れ

 10月15日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など:

10月15日
 NHK『ラジオ英会話』は今週から「動詞ing形」を取り上げることになった。この番組の講師である大西泰斗さんは「主語位置と目的語位置の動詞‐ing形を『動名詞』と呼ぶことがあります。主語・目的語は名詞が使われる典型的な場所だからです。また…就職後として使われる-ing形は「現在分詞』と呼ばれます。もちろん、用語に神経質になる必要はありません。「動詞-ing形も場所により機能が決まる」それで十分ですよ。」と述べている。
 動名詞と現在分詞を「動詞ing形」とひとまとめにして考える人もいるというのは文法書で読んだことがあるが、実際にそのような議論が展開されるのに出会ったのはこれが初めてである。
 個人的な意見としては、両者は区別されるべきではないかという気がする。中学時代に、dancing girl は「踊っている少女」で、この場合は現在分詞であるが、dancing-girl は「踊り子」という意味で、この場合は動名詞と考えられると習った。dancing shoesという場合も、これは「舞踏靴」であって、「踊っている靴」ではなく、動名詞と考えるほうがいいのではないか。
 ただ、教育の場で、文法上このように決まっているというように教えるのではなくて、こういう考え方とこういう考え方があるということを教えて、学習者に自分で考えさせるというやり方をとることがもっと採用されていいのではないかと思う。

10月17日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
One of the greatest pains to human nature is the pain of a new idea. (from Physics and Politics)
     ―― Walter Bagehot (british writer and economist, 1826-77)
(人間性にとっての最大の苦痛の一つは、新しい考えを受け入れる苦痛である。)
 考えだけの問題ではなく、制度や方法についても同じことが言えそうである。
 ウォルター・バジョットは19世紀英国のジャーナリスト、評論家、経済学者、思想家で、雑誌『エコノミスト』の編集長を長く務め、英国社会の特徴を的確にとらえた『英国憲政論』、『ロンバード街』などの著書で知られる。

10月18日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編『イタリアで劇場に行こう!(Andiamo a teatro in Italia)はイタリア語を勉強中の日本人女性アキが、ミラノに住むイタリア人の友人夫婦、シルヴィアとパオロに勧められて、イタリアで初めて劇場に行くことになるという物語を扱う。シルヴィアとパオロは、ヴェルディの出世作であるオペラ『ナブッコ』のチケットを確保する。平土間で三つ並びの席が取れなかったから、2階のボックス席にしたという。もし、オペラを気に入ってまた行こうと思ったら、天井桟敷(の安い席)に行けばいいと続けて、自分たちの昔話をする。
Quando Paolo ed io eravamo giovani andavamo spesso in galleria.
(私とパオロが若かったころは、よく天井桟敷に通ったものよ。)
 ある時代、若い2人が金をかけずに長い時間を過ごすことができたのは、劇場の天井桟敷だったというのである。手元の『プリーモ伊和辞典』には、galleriaは「ギャラリー席(劇場の階段状の2階席・3階席)」とある。(19日の放送によると、galleriaはloggioneともよばれ、常連の熱心なオペラファンを指してloggionistaということもあるという。そのほか、balconataあるいは皮肉を込めてpiccionariaという別名もあるそうである。『プリーモ伊和』を見ると、loggioneには「天井桟敷」という訳語が記されていた。)
 ご存知の方も多いはずであるが、フランス語で「天井桟敷」はparadisという。ジャック・プレヴェールの脚本に基づき、マルセル・カルネ監督が1945年に発表した映画『天井桟敷の人々』(Les enfants du paradis)はあまりにも有名である。(この映画を『天国の子どもたち』と訳した人がいた!) この映画の中で、「犯罪大通り」にある劇場<フェルナンビュル座>に入ろうとやってきた青年フレデリック(・ルメートル、実在の名優である)に向かって、座長が言う。「それに、客がいい。彼らは貧乏だが、わしにとっては黄金の客だ。…ほら、見たまえあそこを、あの上の奥の方を、あれが天井桟敷だ。」(ジャック・プレヴェール『天井桟敷の人々』、38ページ) 天井桟敷の観客たちに鍛えられて、俳優たちは成長してゆく。そして彼らを見ながら、観客たちもその目を肥やしていく。
 アンデルセンの『自伝』には彼が子ども時代、演劇を舞台の真上の文字通りの「天井桟敷」からみた思い出が記されている。これも印象に残る話である。

10月19日
 「朝日」の地方欄に、1988年10月19日に川崎球場で行われたプロ野球ロッテ対近鉄のダブル・ヘッダーはその後、「10・19 川崎劇場」として一部のプロ野球ファンの間で語り継がれることになったが、30年が経過したのを記念してミニツアーなどの行事が行われるという記事が出ていた。そういえば、この試合をラジオで聴いていた記憶がある。

10月20日
 『東京新聞』の朝刊の「あの人に迫る」という欄に、ニュートリノに重さがあることを発見して2015年にノーベル物理学賞を受賞した東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章さんのインタビュー記事が掲載されている。
 「日本の研究環境は今、非常に疲弊していて、これをそのままにしていては絶対にいけないと思います。」という意見がもっと多くの人びとに共有される必要がある。また
 「基礎科学は、何が出るのかわからないところに水をあげるということです。」という言葉の奥深さをもっと多くの人びとに味わってほしいし、それがもっと大きな声になることを望む。むかし、といってもそれほどむかしではないが、朝永振一郎は「学問のだいご味は時に大きなものが釣れるところにある」といった。いつも、大きなものを釣ることを考えてはいけないのである。(なお、朝永さんは洒落で、「だいご味」を「大ゴミ」と書いたらしい。)
 
10月21日
 『朝日』の朝刊に新しい「大学入学共通テスト」で利用されることになる英語の民間試験を、同社の記者が受けてみたという記事が出ていた。業者によって試験のやり方が違い(料金も違い)、「相性いい試験選ぶ力大事?」との見出しも掲げられている。A記者がB1レベル、B記者がA2レベルという判定だったが、特に受験勉強をしたというのでなければまずまずの成績であろう。NHKの放送番組で言うと、B1は『ラジオ英会話』、『入門ビジネス英語』のレベル、A2は『基礎英語3』、『英会話タイム・トライアル』のレベルである。『高校生からはじめる「現代英語」』は「比較的やさしい」と言いながら、B1とB2の間くらいのレベルに設定されているので、実はかなり難しいのである。なお、東京大学はA2程度の能力が証明できれば、民間試験を受験しなくてもいいという方針を打ち出している。また、NHKラジオで放送されている英語番組で一番高レベルであるのはC1相当の『実践ビジネス英語』である。C2相当の番組はないが、ぜひ設けてほしい。自分がC2レベルの実力があるとは思わないが、やはりどのくらいのレベルなのかということを知っておきたいからである。もっとも、それよりも国際会議できちんと自分の意見を言ってこいと言われればそれまでであるが…。

 『日経』の朝刊に無声映画→トーキー初期の日本映画で活躍し、若くして戦病死した山中貞雄のことが取り上げられていた(2回連載のうちの上)。山中の作品で完全な形で残っているのは3本しかないそうで、だとすると、私はそのうちの2本を見ていることになる。まだ大学生だったころ(ということは50年ほど前)に知り合った映画好きの老人が、山中の『磯の源太 抱寝の長脇差』のすばらしさについて語るのを耳にしたことがある。この記事では触れられていない(下で触れられるかもしれない)が、山中は東映時代劇・仁侠映画などを中心に活躍した加藤泰の叔父にあたる。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第38節:横浜FC対大宮アルディージャの対戦を観戦する。一進一退の攻防が続き、後半に1点を先行されたが、その後北爪選手のゴールで追いつき、1-1で引き分け。これで順位を一つ落として7位に後退した。
 この試合に先立って日産小机フィールドで行われた横浜FCシーガルズ対ASハリマアルビオンの試合でシーガルズは1-0で勝利し、なでしこ2部での2位を保ち、1部昇格への希望をつないでいる。

浦島伝説の変遷

8月21日(火)晴れ、暑さが戻ってきた

 本日(8月21日)の『日本経済新聞』の文化欄に、苫小牧駒澤大学教授である林晃平さんの「浦島伝説 壮大な変遷」という興味深い論稿が掲載されている。浦島太郎の伝説をめぐっては、かなり多くの研究が積み重ねられていて、林さん自身も既に『浦島伝説の研究』(おうふう、2001)という著書を発表されている。この度、新たに『浦島伝説の展開』(おうふう)という書物を上梓されたそうで、600ページを超える大著だというから、年金生活者の私には手が出るような値段の書物ではなさそうで、この新聞記事の概要を見ていくことで我慢しておこう。

 浦島太郎はもともとは、亀ではなく、船に乗って竜宮に出かけていた。そもそも浦島太郎という名前になったのは、室町時代の御伽草子からで、古代の伝説の世界では水江(みずのえ)の浦島子であった。また行き先も竜宮ではなくて、常世の国あるいは蓬莱であった。その竜宮城も海底ではなくて、海上にあったという話もある。浦島太郎が開けた玉手箱から上がるのは白い煙ではなくて、五色の煙だったりする(『水鏡』では紫の煙である)。とにかく古代から現代にいたるまで浦島太郎の伝説は様々に語り伝えられてきた。

 そのような伝説の変遷を、主として御伽草子以後の展開に焦点を当てて研究してきたのが林さんであり、各種の絵巻物や絵本など、国内だけでなく海外に収蔵されるものまで探しながら、変化の様相をさぐり続けてきた。この論稿の中で強調されているのは、次の3点である:
 浦島太郎が亀にのって竜宮城に行くことになるのは、資料に基づく限り18世紀の初頭からである。同じ時期に「蓑亀」という長寿の象徴である亀の図像が流行したことと関係があるらしい。
 竜宮城は蜃気楼と関係が深い。北海道の小樽には以前、「竜宮閣」という遊園地があったが、このあたりから蜃気楼が見えることによる命名であったそうである。また幕末の錦絵には、当時蜃気楼の名所として知られていた四日市、桑名のあたりの伊勢湾と竜宮城を背景に浦島と乙姫を描いたものがあるそうである。
 浦島伝説は近・現代になっても語り継がれ、変容を続けている。太宰治が1945年に執筆した「浦島さん」などは、空襲にあった竜宮城を描いており、そうした変容ぶりの一例である。

 林さんとは別の角度から浦島太郎伝説に取り組んだ研究成果として、三舟隆之『浦島太郎の日本史』(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー、2009)があるが、そこでも林さんの浦島が亀にのるようになったのは18世紀の初頭の文献からであるという見解が紹介されている。ただし、「蓑亀」の話は取り上げられていないから、「蓑亀」との関連は、その後の研究によって抱かれるようになった見解ということであろう。
 蜃気楼というと、むかしは大ハマグリ=蜃が気を吐いて、楼閣を描いたものと信じられていた。林さんが取り上げている伊勢湾岸の桑名はハマグリで有名な土地である。そこまで書いていないのは、話が荒唐無稽になるからかもしれないが、お伽草子には「蛤の草紙」という話もあって、浦島太郎と似ている点があるのが気になる。

 林さんはこの物語の多様な変遷ぶりを強調しているが、その点は三舟さんの研究も同様である。浦島についての情報(?)もしたがって錯綜しているが、ところどころ奇妙に詳しい。その結果として、ツッコミどころの多い物語になっている。たとえば、『日本書紀』によると、雄略天皇22年(478)に蓬莱国へ出かけたことになっており、奈良時代に『日本書紀』が成立した時点で彼が故郷に戻ってきたことも暗示されてはいる。『万葉集』の高橋虫麻呂の長歌も同様。ところがこれらよりも後に成立した『水鏡』では同じく雄略天皇22年の浦嶋子の蓬莱への出発を記すだけでなく、淳和天皇の天長2年(825)に浦嶋子が還ってきて、玉の箱を開けたところたちまち翁になったという話が出てくる。347年ぶりに帰って来たと記されていて、数字は合っている。『日本書紀』に浦嶋子のことが記されている理由については、神仙の記事を掲載することで史書としての体裁を整えようとした(現代の目から見れば、かえって歴史書としての価値が損なわれている)ものと言われるが、年代が詳しく記されているというのはどうも不思議である。
 また、浦島を迎えるのが乙姫であることも気になるところではある。乙姫というのは竜王の娘であるが、弟姫であって、兄姫(えひめ)はどうしたのだというツッコミが入ってよさそうである。竜宮というのは必ずしも一か所ではなく、俵藤太藤原秀郷の説話では琵琶湖の湖底にも竜宮があることになっていて、その家族構成も一様ではないかもしれない。

 林さんはかなり多くの絵画資料を収集し、また閲覧して研究をつづけたようで、図像の解析を通じて得られた知見も少なくないと思われる。私が突っ込んだところについても、著書の中で論じている可能性があるので、本屋で立ち読みをしてもう少し詳しく要点だけでもつかんでおきたいところである。
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