ジョン・スチュアート・ミル『自由論』の周辺(2)

5月17日(水)曇り

 ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-73)は1859年に出版された『自由論』(On Liberty)の中で、大衆民主主義が実現していく過程で、多数者が自分と意見の違う少数者を圧迫する「多数者の専制」(The tyranny of the majority)現象が起きることを警告し、個人が自分自身について決定し実行することは、基本的にその個人当人の自由なのであって、他人が多数意見だからといってそれに反することを強制したり統制したりすることはできないはずだと論じた。唯一、干渉してよいのは、他者が自分に暴力をっくわえようとしている時に、それを阻止するという正当防衛と見なされる場合だけであるという徹底した自由主義、個人主義の立場を主張している。

 彼はこの主張に続いて、この書物の第2章で思想と言論の自由(the liberty of thought and discussion)について考察する。ミルは思想と言論の自由が認められなければならない4つの理由を述べている。
 ① ある主張を権威として認める多数の人々が、異論を唱える少数の人々を抑圧しようとしているが、実は少数者の異論の方が正しい場合があるということである。権威が常に無謬であるということはあり得ない。アテナイの市民によるソクラテスの裁判やローマ帝国によるキリスト教の弾圧などの例を想起すればよいという。(日本では徳川幕府と勤王の志士の関係を思いうかべるのがよいだろう。)
 ② 大体において間違っている意見であっても、部分的に真理を含んでいる可能性がある。そして衝突しあう意見の片方が真理であるということはまれであるから、両方の意見を戦わせることによって、それぞれの意見から真理を引き出してより良い意見を作っていくことが望ましい。
 ③ 支配的な意見が真理であっても、それに対する反論がなされ、議論が展開される方がその真理性についての理解が深まるはずである。ミルは政治を健全な状態に置くためには、「秩序あるいは安定の党」(a party of order or stability)と「前進あるいは改革の党」(a party of progress or reform)とが存在することが必要であるという。「二つの考え方のいずれにも、理性を失わせず常軌を逸させないものは、主として相手方の反対というものなのである。」 
 ④ ある意見を支持する立場が、特に異論もなくそのまま継承されていくことは硬直化や形骸化に導く恐れがある。
 そして、反対派に対して敬意をもち続けることが公共の議論における最大の道徳であると述べてこの章を締めくくっている。
 真理が人知からきわめて遠いところにあって、自分たちは真理への道の途上にあるという意識が強く感じられ、社会で権威をもって主張されている意見の無謬性が疑われていることが特徴的である。この書物が発行された1859年はダーウィンの『種の起源』が出版された年であることも付け加えておく必要があるだろう。

 第3章は個性(individuality)について取り上げ、伝統や習慣に基づいてではなく、個人個人が自分の責任において行動することが重要であると述べる。そして大衆的な民主主義が発展する中で、個人個人が他人の思惑を気にして日常生活に埋没し、世の中が凡庸化していることを憂慮し、そのような社会の改革に向けて「天才」が指導的な役割を演じることを期待している(自分自身をどのように考えていたかも気になるところである)。さらに凡庸化する社会の中でむしろ奇矯な行動が容認される必要があると論じているのも興味深い意見である。

 第4章では「個人を支配する社会の権威の限界」(the Limits to the Authority of Society over the Individual)について論じられ、ある個人の自分自身だけに関係のある事柄と、他人に関係のある部分とを区別して、後者については社会の支配は及びうるが、前者は放任すべきであるという。ミルの個人主義の特徴が強く出た議論で、<愚行権>(例えば、大酒を飲むのは健康によくないからといって止めるのは不必要な干渉で、本人の損になるような愚行であると思っても止めるべきではない)の問題もここから出てくる。(しかし「受動喫煙」というような問題もある。)

 以上、ミルはかなり徹底した個人主義を掲げて、自由の問題について議論している。彼の議論の根底にあるのは、各個人は社会の中でいわば原子のようなものとして独立に存在しているという考えであるが、彼の時代の様々な社会問題をこの考え方で解決することは難しいことにもミルは気づいていた。彼が社会主義に関心を寄せたのもこのことと関連すると思われる。 
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ジョン・スチュアート・ミル『自由論』の周辺

5月16日(火)晴れのち曇り

 明日(5月17日)にある研究会でジョン・スチュアート・ミル『自由論』(On Liberty, 1859)についての発表をすることになり、準備中である。その準備の中で考えたことを、いくつか書き連ねていこうと思う。

 ミル(John Stuart Mill, 1806-73) は英国の功利主義(utilitarianism)を代表する哲学者・論理学者の1人であり、古典学派に属する経済学者でもあった。哲学者としては、『論理学体系』(System of Logic, 1843)、『功利主義』(Utilitarianism)など、経済学者としては『経済学原理』(Principles of Political Economy, 1848)などの著作があり、このほか彼の時代の政治・社会問題について発言する多くの論説を残した。その中でこの『自由論』はもっとも有名で、よく読まれてきた著作である。日本では中村敬宇が『自由之理』として明治5年(1872)に翻訳を発表しているが、著者の意図を十分に反映したものではなかったようである。(小泉仰によると明治7年に西周が『明六雑誌』に発表した西周の「人生三宝説」は、ミルの功利主義を十分に理解した上に、さらにその学説を発展させた独創的な論文だそうであるが、今、ここでそのことにこだわっている余裕はない。)

 ミルでよく知られているのは、彼が父親であるジェイムズ(James Mill, 1777-1836)によって3歳からギリシア語、8歳からラテン語、12歳から論理学の教育を受けるという大変な英才教育を施されたことである。このことをめぐり小泉仰が次のように述べているのはおおむね賛同できる意見である:「ジェイムズの徹底した合理主義的教育は、ミルの天才的素質があったからこそ有効に働いたということができるが、一方で、いろいろな問題を含んでいる。その一つは、ジェイムズが自分の教育方針を徹底させるために、ミルが他の少年たちと遊ぶことを禁じてしまったことである。このために、学校教育の重要な教育的意義の一つでもある社会教育や実践的な教育を、ミルに与えない結果になった。つまり、ミルを実験室の中に閉じ込めてしまうような不自然さをともなうことになった。言い換えると、ミルは、社会生活に役立つ実践的訓練を受けられず、実際的人間であるよりは、知る人間としての教育だけを受けることになった。こうした隔離教育の面だけから見ると、彼の受けた教育は、「人造人間」の教育であるという批評は、ある程度当てはまりかもしれない。」(小泉(1997)『イギリス思想叢書10 J.S.ミル』研究社出版、15⁻16ページ)
 ここで小泉がいう「社会教育」というのは学校外で行われる組織的な教育という意味ではなくて、子どもの社会性の発達を促す教育というような意味であろう。長じてミルは東インド会社に35年勤務し、1865⁻68年には下院議員を務め、女性の権利の擁護など、当時の社会的な問題の多くに関心を寄せ、改革運動に積極的に関与した。だから、社会的関心や行動能力が父親の教育によって育たなかったとは考えられないが、彼の著作の中から感じられる孤独の悲哀のようなものはその結果であったかもしれない。

 『自由論』は1859年に発表された。チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版したのと同じ年である。ミルはこの書物が意思の自由という哲学的(神学的)問題ではなくて、「市民的、あるいは社会的自由」(civil, or social liberty)を主題としていると最初に断っている。人間は社会的な存在であり、もし社会の中で各人がそれぞれ勝手に行動すれば混乱が起きる。そこで法律なり規則なり、あるいは慣行なりによってそれぞれの自由を制限する必要がある。だから社会的自由の問題は、言い換えると社会はどのような理由でどこまで個人の自由を制限できるのかという問題になる。

 歴史的にみると自由と権威の問題は民衆(その全部あるいは一部)と政府の問題として展開されてきた。しかし、民主主義の流れが強まると、民衆の選挙によって政府が選ばれるようになり、問題は変質した。民衆の間の利害は同一ではないし、それゆえに彼らの意思も一つにまとめられるわけではない。選挙によって政府を選ぶということは結果的に、「人民の意志は、実際には人民の最多数の部分または最も活動的な部分の意志」(ミル、塩尻公明・木村健康訳『自由論』、岩波文庫、14ページ)ということである。その多数者が自分と意見の違うものを圧迫するという「多数者の専制」(the tyranny of the majority、塩尻・木村はtyrannyを「暴虐」と訳している)が彼の時代における政治的害悪の最大のものの一つとなっているとミルは説く。一ノ瀬正樹はこの点について「多数決によって何かを決定していく、という一見民主主義の基本的なプロセスの中に宿る、ある種の不当性、暴力性をミルは見取っていたのであった」(一ノ瀬『英米哲学史講義』、ちくま文庫、148ページ)と指摘している。また、一ノ瀬がフランスの哲学者コンドルセの「投票のパラドックス」を引き合いに出して、多数決が必ずしも正確に民意を反映するものではないと述べているのも見逃せないところである。(一ノ瀬、前掲、155ページを参照のこと)

 一ノ瀬によると、ミルには個人が自分自身について決定し実行することは、基本的に、その個人当人の自由なのであって、他人が多数意見だからといってそれに反することを強制したり統制することはできないはずだという徹底した自律的個人観があった。個人もしくは集団は、万人に自明な原理によってこそ、個人の行動の自由に正当に干渉できるというのがミルの意見である。そして、そのような原理は「他人に対する危害の防止」(他者危害原則)であるという。つまり、他者の行動に干渉できるのは、他者が自分に暴力を加えようとしているときに自分がそれを阻止しようとして相手に手出しをするというような場合、つまり正当防衛の場合だけで、それ以外の場合は他人に害を加えないのだから本人の自由に任せてほうっておくべきだというということである。(一ノ瀬がこの後で論じているように、ミルの議論の中にもおかしい部分があって、それをどのように補ったり修正していくべきかということも問題となる。)

 そういえば、午前中、スーパーマーケットの弁当売り場にいたら、近くにいた老人が売り物の弁当のパックを勝手に開けて中身をむしゃむしゃ食べているのを見かけた。この人がその後で代金を払えば問題はないとは思うが、どうも気になることであった。ミルは、他者危害原則は精神の未発達な人間には適用されないと述べているが、彼の時代には認知症の老人というような存在は問題にならなかったようである。

 この後、「言論と思想の自由」、さらに一ノ瀬さんが注目している「愚行権」をめぐる議論についても取り上げたかったのだが、考えをまとめることができないままでいる。明日は研究会の準備をして、ブログの更新は帰宅後ということにするつもりなので、明日中には無理かもしれない。また、皆さんのブログへの訪問もできそうもないので、悪しからずご了承ください。 

学校教育のなすべきこと

5月11日(木)晴れのち曇り

 5月9日の『朝日新聞』のコラム「経済気象台」は遼という執筆者による「天才・異能の戦略的育成」を提言していた。日本のこれまでの教育は、全体の学力を上げるということでは成果を上げてきたが、少数の天才や異能の人物の才能を伸ばすという点では後れを取ってきた。国家の教育政策として、もっと英才教育に力を入れるべきだというような議論である。反対ではないが、慎重であるべきだというのが私の意見である。わが横浜市では市立のサイエンス・フロンティア高校を設立するなど、英才教育の取り組みをしているが、その一方で原発事故の自主避難者の子どもに対するいじめ事件などが起きている。どちらを重視すべきかといえば、後者ではないかと思うのである。

 まず、天才とか、英才とかいうことの定義をはっきりさせる必要がある。さらにそれが教育や学校とどのようにかかわっているのかも問題である。
 学生時代に、尾崎雄二郎先生の中国語中級の授業の受講者一同が、先生を囲んでコンパをしたことがある(要するに単位をくださいとお願いしたのである)。そのときに、先生が、「大学の教授なんてものに天才はいないものですよ」というようなことを言われたのを記憶している。そのときは、理解できなかったが、今になると、先生が言われたことの意味が分かるような気がする。
 個人的な経験を押し広げて議論するのは危険ではあるが、私がこの世に生を受けて70余年。幸か不幸か天才といえるような人物に出会ったことはない。生まれつき優秀で、努力を重ねて、優れた業績を挙げた、あるいは社会的に高い地位に就いたというような友人・知人は少なからずいて、なかにはノーベル賞の候補だというのさえ含まれるが、天才だとは思わない。偉大な人物でも、身近に接していると、却ってその偉大さが分かりにくいものだと言われるが、それとも違う。偉大なのはわかっているが、その偉大さは天才ではなくて、大部分が努力だと思うからである。

 もちろん、努力は無限ではない。生まれつきの素質というものがある。英語ではgifted and talentedという言い方をして、giftedというのは生まれつき知性の点で優れていること、talentedというのは生まれつきその他の点で優れていることだそうである。遼さんが「天才・異能」というのはたぶん、このことを念頭に置いているのであろう。しかし、以上に述べた私の実感からすると、遼さんが言っているのは、秀才にその秀才ぶりにふさわしい環境を与えろという程度のことでしかない。天才というのはそういう尺度を超えた人間である。天才というのは、生まれつきのものである。大学は学校の一種であり、学校というのは多かれ少なかれ、規格品としての人材を生み出すところである。天才は規格品ではない。だから大学を含む学校に天才を生み出すという役割を期待すべきではない。その先生にしても然りである。(かのビル・ゲイツはハーヴァード大学を中退したではないか!!)

 だからと言って、青少年に潜在する素質を発掘し、それを伸ばそうとする努力が無駄だというつもりはない。しかし、ことは慎重を要する。英才と英才教育の概念をどのように考えるかという問題につづいて、ジョン・スチュアート・ミルとか、ノーバート・ウィーナーとか、子どものころから英才教育を受けたという個人の実例は少なからずあるし、アメリカの国家防衛教育法(1958)における英才教育の強調とか、旧ソ連や社会主義国における英才教育の実践の歴史などの先例もあるから、そういう例をもっと学ぶということが必要であろう。手元に詳しい資料がないから確かな事は言えないのだが、ウィーナーはあまりにも年少で大学に入学したために、大学での同輩とパーティーに出かけるというようなことはできず、家に帰って自分と同年齢の子どもと遊んで過ごしたという話を読んだことがある。大学(学校)は勉強するだけのところではなく、大学における社会生活も大事なのである。(遼さんは「飛び級」をもっと認めろという議論であり、私はそれに反対ではないが、あまり極端に強調するのはよくないという例を述べたつもりである。)

 学問研究にしても、芸術創造にしても社会的なものである。非ユークリッド幾何学の創始者の1人であるロシアのロバチェフスキー(1792-1856)は、カザン大学の教授どころか学長にまでなったが、「かんじんの三十数年を費やした非ユークリッド幾何学の方では完全に無視されて、ときには満場の失笑を買って、一生を終えてしまった」(足立恒雄『無限の果てに何があるか 現代数学への招待』、91ページ)という。1人のロバチェフスキーを生み出すことも大事だが、彼の業績を理解できる大学人を育てることも大事ではなかったのか。

 と、書いたところで、昔読んだ本の中からの次のような抜書きを見つけた。フランソワ・ヴィエト(1540-1603)は二次方程式の解の公式を見出したのであるが:
ヴィエトのような人がいると、普通の人の能力が上がります。国民の知的なレベルが上がれば、もちろん、国力も上がります。そのようなことを成し遂げた人を天才といいます。何かの能力があるだけで、人の能力を上げられない人は、ただの優れた人で天才ではありません。(柳谷晃『数学はなぜ生まれたのか?』、62ページ)
 天才についてのこのような定義もある。

 ということで、英才教育の教育政策における優先順位を引き上げるべきだという主張にはあまり賛同できない理由を述べたつもりである。それよりもっといじめ問題の解決に取り組むべきである。

 

 

北村季吟と松尾芭蕉

4月20日(木)晴れ、気温上昇

 『太平記』を批評した2つの俳句がある。
 平家なり 太平記には 月も見ず 其角
 歌書よりも 軍書に悲し 吉野山 支考

 前者は『平家物語』には月見のような王朝の優雅な生活の姿が描かれているが、『太平記』は殺伐としている。『平家』の方がいいというもので、後者は花の名所として知られる吉野山ではあるが、歌集を読むよりも、『太平記』に描かれた吉野朝の苦難の姿の方が悲しく思われるというものである。『太平記』を殺伐とした戦闘の記録の連続として読むか、吉野朝の苦難と朝廷に忠義を尽くした武士たちの悲愴な姿を描いた文学として読むかは読み手の自由である。そのどちらを選ぶ、あるいは別の読み方を選ぶというのも自由である。

 興味深いのは、この2つの対照的な句の作者がともに芭蕉の有力な弟子だったということである。芭蕉の作品を読んでいると、彼が国文学の古典についてなみなみならない素養をもっていたということに気付かされる。それもそのはず、彼は俳諧を北村季吟(1624-1705)に学んだのであるが、季吟は『源氏物語湖月抄』などの著書を表した古典研究者でもあった。このことをめぐっては、『広辞苑』の編纂者であり、季吟の顕彰に努めた新村出が
 芭蕉には和学の恩師たりしこと先づ憶(おも)ひつつ大人(うし)を敬まふ
と歌っているそうである。

 季吟と芭蕉の師弟関係は、芭蕉が蕉風と呼ばれる俳諧の流派を形成したのちも続いていた。少なくとも季吟の方ではそう思っていたようである。元禄7年(1694)、芭蕉が没した時に、まだ健在であった季吟は芭蕉が葬られた義仲寺に
 氷(こお)るらむ足も濡らさで渡る川
と詠んで送った。季吟の長男である湖春も、追悼句を詠んだ
 また誰(た)そやああこの道の木の葉掻き
 湖春の友人で、柳沢吉保の家臣であった柏木素龍が、この句に
 一羽さびしき霜の朝鳥
と付けた。芭蕉の霊は、旧師からのこの追悼の句と、親友であった湖春の句をどのように受け止めただろうか。なお、素人の勝手な感想であるが、素龍の付け句が一番よくできているような気がする。

 徳川綱吉の寵臣であった柳沢吉保の名が出てきたが、季吟は元禄2年(1689)に歌学方として幕府に召し抱えられ、将軍綱吉に『古今和歌集』の切紙を献上したりしている。また自らが受けていた古今伝授を柳沢吉保に授けたりしている。漂泊の旅に生きた芭蕉とは対照的に、権力に親近する生き方をしたのである。このことをめぐって島内景二『北村季吟』に興味深い考察が展開されている(これまで書いてきたことも、大部分、島内さんの著書に書いてあったことである)。

 季吟は宗祇や細川幽斎らが抱いていた「正しい世の中をこの世に実現させる」という「政道のための文学」の伝統を継承していた。「応仁の乱で荒廃した日本文化を、もう一度正しい秩序に回復させ、為政者と被治者が君臣相和する社会を構築するためには、それらが理想的に行われていた王朝盛時の和歌や物語を学ぶ必要がある。そして、その研究成果は、現在の政治に役立てられねば何の意味もない。」(島内、103ページ) だからこそ、彼は柳沢吉保に古今伝授を行ったのである。平和と繁栄は、平和と繁栄の時代の文化を学ぶことによって、より具体的には一条天皇と藤原道長の時代の和歌と物語とを学ぶことによって実現できると考えたのである。

 芭蕉は権力とは無関係に生きようとした。このことを含め、「季吟から芭蕉への流れは、受け継がれた側面と、変容した側面との両方がある。季吟は、集大成の人であり、芭蕉は変革の人だった。ただし、「不易流行」をモットーとする芭蕉にとっての「不易」は、季吟から受け継いだわが国の古典的伝統と深くかかわっている。」(島内、104ページ)
 其角と支考という芭蕉の2人の弟子が、『太平記』をめぐって違った意見を抱いたのは、たぶん、芭蕉が弟子たちに古典文学を学ぶことを奨励はしたものの、あまり自分の意見を押しつけようとはしなかったからであろう。その点にも季吟と対比しての芭蕉の新しさが現われているように思うのだが、どうだろうか。  

迷亭の伯父さん

4月14日(金)晴れ、温暖

 夏目漱石の『吾輩は猫である』の3で、猫が住みついている苦沙弥先生のところに、親友の迷亭がやってきて世間話をしていると、女性の客がある。近くに住む成金の金田の妻、鼻子で苦沙弥の元教え子で、大学院で学んでいる今も旧師のところにしょっちゅう顔を出している水島寒月と、自分の娘の間の縁談を進めたいので、寒月の性向を知りたいというのである。何にでも口を出す迷亭が、自分の伯父の牧山男爵と金田は友達だなどといって話をまぜっかえす。

 鼻子が帰った後、苦沙弥が迷亭に男爵の伯父がいるとは知らなかったというと、「その伯父が馬鹿に頑物でねえ――やはりその19世紀から連綿と今日まで生き延びて居るんだがね」と、その人となりを話しはじめる。静岡に住んでいる、頭にちょん髷をのせている、年をとったので早起きになったのを修業の結果だと勘違いして喜んでいる、いつも鉄扇を持ち歩いている、体の寸法を測らないままに山高帽とフロックコートを買って送れと迷亭に命令したなどとその逸話を語り、男爵というのは嘘で、若いころ湯島聖堂で朱子学を勉強した漢学者であるという。

 9で苦沙弥が自分のところに届いた手紙、とくに天道公平なる人物から届いた手紙を読んで考え込んでいると、迷亭が以前に噂をした伯父さんを連れてやってくる。赤十字の会合があったので上京したというのである。例によって鉄扇を持ち歩いているが、これは「甲割」といって鉄扇とは違うと言い張る。この鉄扇のおかげで、寒月の研究室にある磁力の機械が狂って大騒ぎになったと迷亭がいうと、「これは建武時代の鉄で、性のいい鉄だから決してそんな虞はない」などという。それからひとくさり収容論をぶって、古い友達のところを訪ねると出て行ってしまう。

 村山吉廣『漢学者はいかに生きたか』は明治以後の近代化の過程の中で欧米の学芸が優勢になる中、伝統的な漢学者たちがいかに自分の学問と取り組み、世の中を渡っていったかを8人の漢学者の人生をたどりながら描き出した書物であるが、その中に紹介されている根本通明(1822-1906)に、迷亭の伯父さんと重なる逸話があるという。
 根本は秋田の人で、帝国大学(今の東京大学)の教授であったが、常に和服を着用、鉄扇を持ち歩いた。そのため磁器を測定する機械を狂わせたことがあったという。さらに体の寸法を測らせずに洋服を作らせたという逸話もあるという。
 渡部昇一の孫引きであるが、漱石が敬愛した外国人教師ケーベルの随筆の中に、帝大の教師には尊敬に値する人物は少ないが、3人だけいる浜尾新と、根本、それにもう一人名前のわからない人物である(渡部の推測では物集高見)であると述べられているようである。ただ、ケーベルは根本が鉄扇を持ち歩いている理由がどうもわからなかったという。これは別にわからなくてもいいのである。

 ところが、漱石の友人の1人であった狩野亨吉(1865-1942)も秋田の人で、子どものころ根本の塾に通ったことがあり、1897年にある席で根本にあって丁寧に挨拶をしたところ、彼を見下すような発言をしただけでなく、だれかれとなく周りの人物に狩野の悪口を言いふらした――「自分が子どものころからこの人間が嫌いで塾へは行かずほとんどその時間を途中で友達と遊んですごした。それ以後二十何年も往来しなかったが、今見てもやはり実に固陋卑劣な男だ。しかも彼は実際はまことに小心者で、それを隠すためにこのように、恫喝的態度で武装している」(青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』、中公文庫、216ページ)と怒り心頭に発したという。
 自身も秋田市の出身であった青江は、「根本通明のこのハッタリは、平田篤胤・佐藤信淵などに共通する性癖で、秋田市(旧久保田)及びその南方の地域に著しく、狩野父子・内藤湖南などの北方的柔和と鋭い対応をなしている。いったいどのような風土のちがいであろうか。」(同上)と記している。青江の意見をすべて信じてよいかどうかはさておくにしても、このように根本について否定的な評価をする意見もあることは注目しておいてよい。

 狩野亨吉の父親である良知は、漱石をはじめとする自分の息子の友達の若い世代と談話を楽しむ人物であり、『猫』の迷亭の伯父さんや、『虞美人草』の宗近の父親にその姿が描かれているともいわれる。迷亭の伯父さんのモデルが根本通明であるか、狩野良知であるかという問題は、それだけで終わるものではなく、日本の近代化と伝統的な学問の問題をはじめとするかなり複雑な問題と絡み合っているように思われる。
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