小学校教師ウィトゲンシュタイン

3月7日(火)晴れたり曇ったり

 オーストリアのウィーンで生まれ、分析哲学の発展に大きく貢献したルトヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、ドイツ、英国で工学を勉強したのち、数学の基礎に興味を持ち始め、ケンブリッジ大学のラッセルのもとで研究をするようになる。第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア・ハンガリー軍に志願兵として加わり、その間に書き溜めた原稿が有名な『論理哲学論考』となった。

 戦後、彼はトラテンバッハという山村で小学校の教師となる。この間の事情を藤本隆志『ウィトゲンシュタイン』によってたどっていくと、彼は第一次世界大戦中にトルストイに心酔してロシアの農奴のように生きようと決意したこと、捕虜収容所でルトヴィヒ・ヘンゼルという教師と出会ったこと、さらに、第一次大戦後のオーストリアで展開されたオットー・グレッケルによる学校改革の動きに共鳴したことなどがその理由と考えられる。なお、グレッケルはルトヴィヒの姉マルガレーテの友人であったそうである。

 興味深いことに、1946年10月25日に真の哲学的問題はなにかという問題をめぐり、大喧嘩を演じることになった相手であるカール・ポパー(1902-1994)も小学校教師の資格を取得したり、グレッケルの改革に参加したりした一人だという。小河原誠『ポパー』によるとウィトゲンシュタインも、グレッケルの改革運動の理論的な支柱の1人であったカール・ビューラー(1879-1963)の心理学理論から大きな影響を受けていたという。
 ビューラーはカント哲学の影響を強く受けた心理学の一派であるヴュルツブルク学派に属し、フロイトの精神分析学と行動主義心理学の間の第三の道を、ゲシュタルト学説的な認知心理学あるいは発達心理学の方向に探ろうとしていた。
 彼の学説の中心にあるのは感覚印象よりも、それらを整え秩序づける考え/枠組みの方が優位にあるとの主張である。子どもが自分の周りにある対象、馬や人や蝶の絵を描くと、それはほとんどの場合実物とはかけ離れたものになる。ビューラーによると、それは子どもが対象を正確に観察する能力をもっていないからではなくて、自分がそうした対象についてもっている観念を紙面に実現したに過ぎないというのである。彼は「実は子どもは見えるものを描かないで、知っていることを描く」と定式化する。哲学的な言い方をすれば、感覚印象から出発して「観念」が構成されるのではなくて、「観念」(既に知っている事柄)が感覚印象を体系化しまとめ上げる原理となっているというのである。

 ビューラーはそこから子どもは規則的な繰り返しによって学ぶのではないと指摘する。「子どもを観察した人なら、規則正しくくりかえしておこることはたいてい子どもの思考をまったく刺激したり呼び起こしたりしないことを知っている。・・・知能は新しい、未聞の事態を解決するための道具」(原田茂訳『幼児の精神発達』協同出版、127ページ、小河原『ポパー』59ページに引用)であると彼は主張する。思考は反復的な事象から法則的なものを帰納するという形で生じているのではなく、積極的に、1回限りでしか生じないものであっても、ともかく問題状況にかかわり、テストに値する解を能動的に案出しようとする働きなのである。

 彼の学説では、観念は感覚的な印象から受動的かつ自動的につくられるのではなく、逆にそれらに先行するのである。そこで、この考え方楽甥苦に適用されると、子どもの知的な能動性を尊重せよという主張となり、ロック、ヒューム、ヘルバルト、そして当時流行の哲学であったマッハの学説とは対立することになる。
 この点を学校改革運動との関連でいえば、彼の心理学は、子どもの知的能動性を強調する心理学となる。ビューラーが描き出した「児童の精神発達」とそこから引き出される教育者への助言は、子どもをただ受け身の存在ととらえ、知的な能動性を認めない従来の心理学とそれに依存する教育学を根本的に批判するものであった。

 さて、それまでのオーストリアの教育制度は、1805年の勅令に基づいて敬虔にして善良かつ従順な労働者を育成するためのものであったと藤本氏は論じている。(グレッケルの改革を論じたE.パパネク『オーストリアの学校改革』によると、朝礼が出されたのは1804年のことである。) その理論的な支柱となっていたのは、ヘルバルトの教育哲学であり、「授業の方法はまず第一に記憶力を鍛錬するものでなくてはならず、…『学校授業法教本』に規定された説明以外の説明を行ってはならない」とされていた。
 これに対して第一次世界大戦後、児童生徒の自主的参加を促進する考えが一時的に取って代わる。ところが、この改革運動の実際の担い手となったのは当時の社会民主主義者たちであって、教育改革よりも旧体制改革の様相を呈することが多く、結局は農村地域からの反対に直面して、1934年以後改革は撤回されるに至るのである。

 1919年に30歳でウィーンの教員養成学校(Lehrerbildungsanstalt)に入学したウィトゲンシュタインは1920年に「小学校教師資格証明書」を取得、9月にトラテンバッハの小学校に臨時教員として着任する。その後、1922年に短期間ハスバッハ、その後1924年までプフベルク、1926年までオッタータールと各地の小学校で教えている。
 当時の学校改革のスローガンは「自主活動」(Selbsttatigkeit)であったが、自然観察や工場見学をさせて学習レポートを書かせるというような経験的な学習方法を奨励していた。ウィトゲンシュタインの教師としての指導方法は、これらのスローガンに準拠して工夫されたというよりも、むしろ彼自身の性格に合ったやり方だったと思われるが、結果的には当時の学校改革運動の意図に実にうまく適合するものであったと藤本氏は指摘している。

 彼がどのようにその教育を行ったか、その反響はどのようなものであったかは、また機会を見つけて書くことにする。この原稿のもとになった文章は19年前に書いたものであるが、今、読み直してみて、ビューラーの心理学の理論やウィトゲンシュタインの教育の方法など、子どもの認知発達と教育方法をめぐる興味深い問題を掘り下げていると思ったので、改めて発表する次第である。
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「春を待つ雪」と「雪の瀬川」

2月20日(月)晴れのち曇り、風が強い

 蔵書の整理をしていたら、宇野信夫『江戸おとし咄 夜の客」(集英社文庫)という本を見つけた。昭和59年(1984)発行で定価を見ると300円とある。この30年余りの間にずいぶん本の値段が上がったことを改めて確認した(それにあの頃は、消費税などというものはなかった)…という話はさておいて。

 この本は、「序にかえて」で劇作家である著者が書いている通り、子どものころから親しんできた古典落語のいくつかを、自分なりに書きかえた。それもこれも「語られる落語を、書かれた落語として残しておきたい」(7ページ)という思いからであるという。

 ざっと目を通してみて、気づいたのは、この中に収められている「春を待つ雪」という咄が中公文庫の『圓生人情噺(中)』に収められている「雪の瀬川」と同じ話だということで、改めて書架を探して、『圓生人情噺(中)』を見つけ出した。(こんなことだから、蔵書はいつまでたっても片付かない。) こちらは昭和55年(1980)発行で定価は420円であった。以前、読んだ時には気づかなかったのだが、この本を監修しているのが宇野信夫で、解説も書いている。その解説にも記されているが、6代目の三遊亭圓生(1900-1979)はこれらの文庫本が出版されたころには世を去っていた。圓生が高座にかける際に凝らしていた工夫を知り抜いている宇野がどのように自分なりの物語を語ろうとしたか、両者を比べてみよう。(宇野の「春を待つ雪」の方が簡単なので、こちらを主にして、圓生の「雪の瀬川」とどこが違うかを見ていくことにする。)

 江戸は芝口一丁目の松屋という茶道具屋の若旦那の清三郎が吉原半蔵松葉の瀬川という花魁に熱を上げ、通い続けているので、父親が、親類のものを集めて相談のうえ、懲らしめのために勘当ということになり、家を追い出された。(「雪の瀬川」では、若旦那は古河の大金持ちの跡取りで善次郎といい、人間がまじめすぎるので少しは遊びを覚えてほしいと親の計らいで江戸に出されたという設定になっている。さらに、周囲の人間がいろいろと画策して、吉原へと連れ出し、瀬川と引き合わせる家庭も詳しく描き出されている。)

 はじめのうちは金もあったので、人の家の二階を借りて、毎晩のように松葉に通っていたが、松葉の主人がこの様子では勘当が赦されるわけはなく、本人のためにならない、また瀬川のためにもならないからといって、二人が会えないようにする。そのうち、若旦那は金もなくなり、ああ俺が悪かった、今更どこへ行くこともできず、いっそ死んだ方がいいと思い込んで、吾妻橋から身を投げようとするところを、店の使用人で、ふとした過ちから暇を出されて、本所松倉町に裏屋住まいをして紙屑買いを渡世にしている源六というものに助けられる。(「雪の瀬川」では勘当されてから松葉に通ったというくだりはなく、金がなくなって永代橋の上をうろうろしていると、元使用人の忠蔵という男に助けらる。忠蔵はやはり店で働いていたお勝という女といい仲になり、2人で江戸に逃げて麻布の谷町というところに住んで、神屑屋をやっている。)

 源六は、家へ連れてきて、女房にも話をして、その日稼ぎの貧乏人ではあるけれども、夫婦してよく若旦那の面倒を見る。そのうち、暮の20日、朝から雨が降るので、源六は商売に出かけることができない。清三郎は瀬川に手紙を届けてほしいという。直接手渡すわけにはいかないから、贔屓にしていた幇間の富本米太夫のところに行って手紙を預けてほしいというのである。
 源六が米太夫のところに行くと、借金取りと間違えられて初めのうちは居留守をつかわれるが、若旦那からの便りと聞いて飛び出してきて、手紙を預かり、瀬川のところに出かける。(「雪の瀬川」では、若旦那が瀬川に手紙を書くというと、忠蔵がそんなことはやめなさいと言って、瀬川の若旦那への想いを疑うが、それでも不承不承使いに出ることになっている。また、手紙の仲立ちをする幇間は五蝶という名になっている。使いのものを借金の取り立てと間違えて居留守を使うのは同じである。)

 米太夫が瀬川のところに出かけると、ちょうどお客が帰った後で、「花魁は床へ花を活けてお茶を点てて一服飲んでいる」(52ページ)。〔いかにも格式高い遊女という感じであるが、それまで取っていた客があまり気に入らないから、ここで気分を切り替えているという様子にも受け取れる。〕 米太夫から手紙を受け取った瀬川は、清三郎の窮状を知り、涙ぐむが、返事を書いて、お金を一両紙に包み、一両は使い賃だと言って米太夫から源六に渡してくれるように言う。(「雪の瀬川」では五蝶が博打で借金をこしらえて表に出られないので、さらに使いのものを頼むことになっている。手紙を読んだ瀬川が泣いてしまって、返事が書けず、「書き損じては破り、破っては書き、見てる間に屑かごへ三杯ばかり屑がたまる」(『圓生人情噺(中) 雪の瀬川』(67ページ)というありさまだったと伝える。)

 源六が家に帰って、清三郎に手紙を見せる。手紙には雪か雨の降る晩に必ず廓を抜け出して清三郎に会いに行くと書かれていた。清三郎どころか源六も悪天候の日を待っていると、米太夫が現われて、当座の小遣いにと15両を置いてゆく。そして26日、雪が降っているので、瀬川が来るに違いないと用意をして待っているとなかなか来ない。源六の女房はお産の手伝いに大家さんから呼び出されて家を空ける。源六は清三郎を二階にあげて、貸本屋から頼まれた義士伝の写字をはじめたがそのうち寝てしまう。(「雪の瀬川」でも五蝶が忠蔵のところに金を届けてくる。忠蔵は相変わらず瀬川の真意を疑っているし、廓を抜け出すことは不可能だと決め込んでいる。女房がお産の手伝いに出かけ、義士伝を写字するのは同じである。)

 深夜、源六の住む路地に駕籠が入ってきたかと思うと、宗十郎頭巾をかぶって合羽を着た一人の背の高い武士が家へ入ってくる。これはどうしたことだと源六が慌てていると、武士は合羽をとり、頭巾を外すと、中から現れたのは瀬川花魁である。大きな髷に結った頭に頭巾をかぶっていたから背が高く見えたということで、二階から降りてきた清三郎と手に手を取り合って何も言わず涙にくれる。よもやま話をした後、瀬川はその夜のうちにまたしてあった駕籠に乗って吉原へ帰り、彼女が持ってきた金をもって、源六が芝口の店に出かけ、一番番頭を通じて一部始終を大旦那に伝えてほしいと頼んだところ、その骨折りが功を奏して、清三郎の勘当も赦され、瀬川を落籍して、二人は夫婦になって、松屋の跡を継いだという。(「雪の瀬川」では、合羽をとり、頭巾を脱ぐところの描写がより詳しくなっているが、読んでのお楽しみ。瀬川は廓へ戻らず、忠蔵が翌日店へ行って話をすると、父親が大病を患っているということもあって、勘当は許され、松葉屋へは身代金を払って、二人は夫婦になるという。店が江戸から15里離れた古河にあるということを忘れたような結末になっている。)

 「紺屋高尾」(5代目の古今亭志ん生は「幾代餅」として演じていた)と同様「傾城に誠あり」という咄であるが、もちろん、例外的な話だから語り継がれたということも忘れてはならないのである。圓生の高座は、落語らしいくすぐりもあり、また瀬川の服装の描写に見られる艶麗さもあって、(まだ耳の奥に残っている彼の声を思い出しながら)活字を追っていくのが楽しい。とくに、上記の梗概では省いてしまったが、忠蔵が善次郎を引き取る際に、大家さんに断りを入れると、大家さんがいろいろと助言をするくだりが面白い。食べ物について「くさやの干物なんざいいね、うん。通人が『ああ、こりゃちょいと乙なもんですな』なてんで喜ぶ。それもね、丸焼きにしたやつをお皿の上へのっけてつき出すなんざ、野暮でいけませんよ、うん。干物というものは、ま、お前も知ってるだろうが、ありゃ背中の方から焼くもんだ。おなかの方はひっくり返して、ちょいっと火にかけりゃそれでいい。それから頭を取って、まん中の骨もとってね、しっぽの方の皮はこりゃ取らなくっちゃいけませんよ… 一口でもって食べられるように、頃あいの大きさにこいつをむしってね、うーん、醤油はやはりいいのを使わなくっちゃいけない。それに味醂なぞがあるといいな。それをほんの心もちたらして、醤油をかけるわけだ。それからやはり鰹節(かつぶし)をかけなくちゃいけないだろう。香の物だって、沢庵の輪切りを出しておくなんてのは、こいつもやっぱり野暮でいけないからこう、隔夜(かくや)に切ってね、水へ泳がせて、ここで塩気を抜いてこいつを絞って、醤油(したじ)をかけて、鰹節はまァ、あってもなくてもいいようなもんだがやっぱりかけた方がよかろう」(『雪の瀬川』、54-55ページ) 食べ物一つとっても、とうとうと意見を開陳する世話好きな大家さんの見識、いやはや、どうも恐れ入りました。まだまだ大家さんの助言は続き、忠蔵は最後には、大家さんから鰹節を借りて家に戻る。ということで、六代目三遊亭圓生という落語家と人情噺の魅力を改めて認識し、いつまでたっても蔵書の整理は進まないというお粗末である。 

文字にかかわる神話・伝説

2月6日(月)曇りのち晴れ

 プラトンの対話篇『パイドロス』の終わりの方に、文字にかかわる次のような説話が紹介されている。エジプトのナウクラティス地方にテウトという神が住んでいて、「この神様は、はじめて算術と計算、幾何学と天文学、さらに将棋と双六などを発明した神であるが、とくに注目すべきは文字の発明である」(藤沢令夫訳、岩波文庫版、162ページ)という。テウトは自分の発明を、神々の王であるタモス(アンモン)のところにもっていって批評を仰いだのであるが、文字について、
「王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから」(163ページ)というと、タモスは文字は「記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ」(164ページ)といって、文字と人間の知性との関係について悲観的な見通しを述べる。
 確かに文字の発明によって、むかしむかしの遍歴する吟遊詩人のような記憶力の持ち主は必要がなくなり、超人的な記憶力は神話・伝説の世界に去っていったかもしれないが、文字で書かれた、いわば外部記憶装置である書物を持つことによって、全体としての人類の文化の蓄積はより豊かなものになったのではないかという気がする。

 しかし、神話・伝説の世界では文字の発明についての否定的もしくは懐疑的な意見はほかにも見出される。中国では、文字は蒼頡という人物によって発明されたと語り継がれてきた。伝説というよりも神話的な存在である中国古代の君主・黄帝の家臣に蒼頡という人物がいて、「生まれながらにして特徴があり、大きな竜顔で、四つの目が霊光を放っていた」(袁珂『中国の神話伝説』、238ページ)。彼は大きくなると、自分の周囲の事物を注意深く観察し、それら大自然の自然現象に基づいて文字を発明した。「この非凡な発明創造がなされるや、天でさえ驚いて雨のように粟を降らせ、鬼もびっくりして夜な夜な悲しそうに泣いたという」(同上)。
 この説話は『淮南子』「本経訓」に出てくるのだそうであるが、その注釈者である高誘の説によると、「人びとがそれ以後本末を転倒して、農耕という大業を放棄し、錐や刀で文字を彫るという小利をむさぼって飢えるかもしれないので、あらかじめ粟を降らせ、やがてやって来る飢饉から救うとともに、世人に対する警告ともしたのである。鬼はそれら恐るべき文字によって弾劾されるのを恐れ、夜な夜な泣いたのである」(同上)。この解釈が正しいかどうかは、さらに検討の余地があると思うが、文字の発明が人類にとって必ずしも幸福ばかりをもたらすものではないという見通しは、プラトンが『パイドロス』で述べたものと共通しているのではないかと思う。

 しかし、プラトンの場合と、『淮南子』の場合とでは議論の前提としての文字についての知識がかなり違っていたのではないかという気もしないではない。プラトンは、ギリシャ文字だけでなく、エジプトの話をしているのだから、エジプトの象形文字についても知っていたはずであり、さらにフェニキア文字についての知識もあったと思われる。それに対して、『淮南子』の著者は、漢字だけしか知らなかったのではないか。あるいは他の文字も知っていたのであろうか。

 日本の場合は、文字の発明ではなくて、文字が輸入された経緯が語られている。厳密にいえば、文字の輸入とは言えないかもしれないが、とにかく文字にかかわる神話の一種として取り上げてみたい。
 応神天皇の御代に百済から阿直岐という人物がやってきて、彼が儒教の経典に通じているので、天皇は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)という自分の皇子の師として学ばせたが、彼にお前よりも優れた学者がいるのかと尋ねると、王仁というものがおりますという話だったので、彼を日本に呼び寄せたところ、『論語』と『千字文』をもって来日したという話が『古事記』に出てくる。
 これは中国の学問が朝鮮半島を経由して日本に入ってきたという話で、漢字がどのようにして日本に入ってきたという話ではない。『日本書紀』の記す年代をそのまま信じれば、応神天皇の治世は270年から310年までである。それよりも古い時代から(使いこなせるかどうかは別の問題として)日本に漢字が入ってきていたことは、考古学的な知見から明らかである。だから、この説話については別の解釈を試みる必要がある。ここで、問題になるのは、『千字文』は中国の南北朝時代の梁の周興嗣という人物が撰んだということなので、6世紀前半の成立と考えられ、応神天皇とは年代が合わないということである。

 『日本書紀』の、とくに雄略紀あたりには「呉(くれ)」の国というのが盛んに出てきて、これは中国の歴史書に記されている「倭の五王」と中国の南朝の交流と対応する。だから南朝の梁から日本に『千字文』が渡ってきても不思議はないのである。『宋書』「倭国伝」に記載されている倭の武王(ふつう、雄略天皇のことと考えられている)の上表文「昔より祖禰躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。・・・」というのは、堂々たる漢文で、おそらくは宮廷につかえていた渡来人の手によって書かれたというのが通説である。

 話の重点が神話よりも歴史の方に移ってしまったが、倭の五王時代の日本は南朝寄りだったのが、中国を統一したのは北朝の隋だったので、話が違ってくる。大陸の文化が日本にわたってくる経路は朝鮮半島経由と、中国の南方から島伝いの複数の経路があるはずで、『古事記』や『日本書紀』における対外関係の記述を考えるときに、この問題は避けて通れない。百済から王仁がやってきて『千字文』を伝えたという記事には、『古事記』が成立した当時の、東アジアの政治情勢がいろいろと反映されていたと考えるべきなのである。

 それで、話を神話・伝説に戻すのだが、王仁は日本にやってきて、「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」という和歌を詠んだという。この歌は「安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」という歌と並んで、和歌の父母といわれ、手習いの教材として用いられた。「安積山」の方は奈良時代の高官であった橘諸兄と采女についての伝説に由来する。王仁は日本語を母語としない外国人なのに、立派な和歌を詠む凄い人で、日本文化にとっての恩人であったという伝説は、長く余韻を残したのである。どうも日本文化の伝統の中では、文字の効用は疑われなかったようである。

 世界の歴史を見渡して、他の文化の中で発展してきた文字を借用して自分たちの言語を記すというのはそれほど珍しいことではないので、文字を輸入したという神話はほかにも例があるかもしれない。このほかにも、なぜ、自分たちの民族には文字がないのかという神話の例もある。そのあたり、機会があれば論じてみたい。

柳田国男とニコライ・ネフスキー

1月25日(水)晴れ

 柳田国男『故郷七十年』の中に、柳田と交流のあった外国人についての思い出が記されている箇所があるが、その中で最も多くの紙幅を割いて、「日本の学問のためにいろいろ尽くしてくれたから、どうしてもここに追憶してやりたい」(304ページ)とまで評されているのが大正時代に帝政ロシアから留学生として来日し、一方で柳田や折口信夫と交流し、他方で日本各地さらには中国にまで足を延ばしてフィールド研究を進めたニコライ・ネフスキーである。1917年にロシアで革命が起きたのち、本国からの送金が途絶えて生活苦に陥ったが、小樽高商(現在の小樽商大)、その後大阪外語専門学校の教師となり、大正12年(1923)年ごろには京都大学の講師も兼任した。この時に彼の授業を聴講していたのが、後に東京大学で文化人類学の教授となる石田英一郎である。

 石田は旧制一高卒業後、京都大学経済学部に進学(経済学部の教授だった河上肇に憧れての進学であったが、この時代、東京の旧制一高から京都大学に進学するというのはかなり例外的なことであった。もっと早い時期に同じように、一高から京大に進んだ一人が後の首相近衛文麿であるが、近衛が京大で学んだ頃の河上はマルクス主義者にはなっていなかった)、その間、一高ではセツルメント活動に従事、京都大学では社会科学研究で活動するなど、マルクス主義(福本イズム)の思想的な影響を受けただけでなく、中国にわたって若き日の劉少奇とも交流したりした。活発に活動していた彼であるが、後に「その当時の私は、思想上の悩みにからんださまざまの幻滅や束縛の中で悶々の日を送っていた」(『桃太郎の母――ある文化史的研究――』「あとがき」、287ページ)と回想しているのは、彼がマルクス主義の思想と、社会主義的な運動から離れてから後の回想であるとはいえ、注目してよいことである。そしてそのような中で、「ただ一つ、…京大文学部のロシア語の講義だけが、私にとってはなにか憩いのオアシスのような親しみと魅力とをもちはじめたのである」(同上)と書いている。石田青年をとらえたのは、その授業を担当しているニコライ・ネフスキーという「若い学者の人柄と学識」(同上)であった。

 「生粋の大ロシア人だった先生の口をついて流れ出る、完全な日本語にこなされた数々の話題は、当時の私にとってはことごとく新鮮で香り高いものであった。初歩の文法的な手ほどきもそこそこに、私たちにはすぐゴーゴリやチェホフの短編があたえられた。「トゥルゲネフは古いですよ。いま読むと文章も古いし、思想も古い。そこへ行くとゴーゴリは、いつまでたっても新しいんです」」(『桃太郎の母』、287-288ページ)

 明治以来、日本の読者に親しまれてきたツルゲーネフを「古い」と言い切り、ゴーゴリを「いつまでたっても新しい」という文学観は、かなり風変わりなものではないかと思う。しかし、本物のロシア人、ロシアの学校と大学で学んで、ロシア的な教養を身に着けた教師の発言ということで、石田は比較的素直にネフスキーの意見を受け入れたのであろう。とはいうものの、ネフスキーは文学者ではないし、ソヴィエトにおける文学界の動向や、亡命ロシア人たちの文学的な動きのどちらからも距離を置いて文学に接していたはずであるから、その文学観には主観的な要素が強く紛れ込んでいたと考えた方がいいと思う。そして、彼がロシア革命後に花開いたさまざまな文学理論とも、例えばナボコフに見られる亡命ロシア人たちの文学創造とも無縁で、どちらの立場を取ろうともしなかったことは、日本におけるロシア文学研究にとってというよりも、彼自身にとって不幸な結果をもたらしたように思われる。

 石田は、さらに続けて、次のように書いている:「私は十一月革命前から日本に留学に来ていたというこのロシアの学者が、どういう思想的な立場にあるのかも知らなかったし、ネフさん――私たちは彼をそうした愛称で呼んでいた――をめぐる集まりでは、政治的な話題など、一度も出たこともなければ出したこともない。」(289ページ) ところが、1925年に石田は北京でばったりネフスキーに出会う。石田は政治的な目的で中国にわたっていたのだが、ネフスキーは言語研究のために中国を訪問していたのであった。その後、石田は学生運動に対する弾圧の結果として逮捕され、大学も退学するが、ロシア語の勉強を続けたくて、ネフスキーのもとを訪問する。どんな反応を示されるか多少の不安をもって出かけた石田をネフスキーは温かく迎える。
「日本もバカなことをしますねえ。なんてバカな話でしょう。こんなことをしていると今にロシアみたいになりますよ。私たちペテルブルク大学にいた頃ったら、まるで憲兵に護送されながら学校に通ったようなもんでしたからねえ。」(291ページ)

 「その後幾星霜、長い空白を隔てた後、私は初めて、学生時代にネフスキー先生から興味を呼び起こされた文化人類学的な研究に手を染めるようになった」(291ページ)と、石田は書いている。彼から柳田や折口の名を聞いていた石田は、その後、ウィーン大学に留学して「民族学」を研究し、戦後、民族学→文化人類学者として活躍する。石田は彼の研究をネフスキーに知らせようと思っていたのだが、彼がウィーンに留学した1937年ごろに、それ以前にソヴィエト・ロシアに期待を寄せて帰国していたネフスキーはスパイの容疑を受けて、処刑されていたのである。

 柳田の『故郷七十年』で回想されているもう1人のロシア人エリセーエフ(柳田は「エリセーフ」と書いている)は、ロシア革命後フランス、その後アメリカにわたり、とくにアメリカでは多くの日本研究者を育てた。転変はあるものの、実りのある人生を送ったのに対し、ネフスキーの人生は、少なくともその結末を見れば、悲惨極まりない。しかし、研究者としてみた場合には、ネフスキーの業績は決して小さいものではないのである。柳田は、彼の功績として、「オシラサマ」の研究、西夏文字の研究をはじめとする東アジア諸言語の研究、沖縄の言語の研究をあげている。西夏文字の研究は西田龍雄による解読がなされて、影が薄くなったかもしれないが、その他の研究は資料的な価値だけでも極めて大きなものではないかと思う。

 とはいえ、既に書いたことだが、ネフスキーが同時代のロシア人たちの思想的な動きに今一つ関心を寄せなかったように思われるのは残念なことである。ロシア革命直後のソヴィエトにおける学術研究の新しい動き、その中でもフォークロアの研究に新しい視角をもたらしたヴラディミール・プロップの研究などは、ネフスキーの視野に入っていなかったように思われるし、プロップがその研究の素材として用いたアファナシェフの民話集についても、石田の回想中には言及がなされていない。もし柳田がこの動きを知っていたら、どんな反応を示したかを想像してみるだけでも楽しい。

 もう一つ気になっているのは、鶴見太郎さんの著書『柳田国男とその弟子たち』を詳しく読めばわかることかもしれないが、戦前のマルクス主義の運動に参加した人々の中で、運動の退潮後、柳田国男と民俗学の研究に接近したのは、福本和夫とその影響を強く受けた人々(福本自身と石田を含む)であるということで、どうしてそうなったのかは、これから考えていきたいと思っている。 

志賀直哉と岩元禎

1月10日(火)晴れ

 昨年の末に、森鷗外の『青年』と夏目漱石の『三四郎』について書いた。この2つの作品はともに、明治の末に地方から東京に出てきた青年の出会う新しい経験を描いたもので、一種の<教養小説>と見ることができるが、主人公の成長の過程を描くという意味では、物語られている期間があまりにも短く、その短さをどのように解釈するかという問題が残る。またこの2つの作品を通じてうかがわれる鷗外と漱石のヨーロッパ文明に対する姿勢の違いにも注目する必要があるというようなことも書いておいた。簡単に言えば、鷗外は明治初期の啓蒙的な気分、ヨーロッパの新しい文物や思潮を取り入れて、日本をさらに開花させていこうという姿勢をもっていたのに対し、漱石はそれに対し懐疑的であり、19世紀から20世紀の転換期に現れてきたイプセンやニーチェに代表される思想に対する受け止め方にもそのことが現われているのではないかということである。

 しかしヨーロッパの文明に対する受け止め方は、啓蒙と懐疑という2つに尽きるわけではない。ヨーロッパの文明をその表面だけではなく、古典にまでさかのぼってとことん追求してみようという考え方をする人物もいた。旧制第一高等学校でドイツ語と哲学を教えていた岩元禎は、そういう人物であった。彼を『三四郎』に登場する<偉大なる暗闇>広田先生のモデルだというのは、一種の伝説にすぎないが、岩元が安定期を迎えた日本の教育の世界で、新たに出現し始めた教師の代表的な一例であったことは否定できないだろう。

 それでは、彼らに続く世代、特に『青年』の小泉純一や『三四郎』の小川三四郎とほぼ同世代の人々は、日本人としてどのようにヨーロッパの文明を受け止めるかという問題をどのように考えていたのか。その一例として、志賀直哉(1883-1971)を取り上げてみたい。
 柳田国男(1875-1962)は昭和32年(1957)12月から翌年3月にかけて『神戸新聞』に連載し、後に単行本としてまとめられた『故郷五十年』のなかで、明治39年の日記に「志賀直哉といふ人、ピネロの作全部を買ひたりと、如何なる人にや」(講談社学術文庫版、209ページ)と書いたと記している。柳田は30を過ぎたばかり、志賀は23歳か24歳で、東大の英文の学生であった。ピネロは、この時期人気のあった英国の劇作家で、志賀は英文科だから、彼の作品を読んでも不思議はない。ところが、高橋英夫による岩元禎の評伝『偉大なる暗闇』によると「この頃もしかすると志賀直哉は日本中の大学生で一番たくさん原書を買っていた一人ではなかろうか」(205ページ)という。そしてそう推測する理由として、柳田の回想を引き合いに出している。さらに推測を重ねて、そのような大購書家(大読書家ではない)としての志賀直哉(後年、書物とは縁のないような作家生活を送ることになる)の背後に岩元の影響を見るのである。
 高橋によると、岩元はある事情から、志賀直哉のドイツ語の家庭教師をしていたことがあって、学習院から東大に進学する時期の志賀の日記には岩元への直接・間接の言及がみられるという。そういう日記の一部が何個所か引用されているのだが、特に印象に残った個所を引用する。

○或る人が、近世文学だ、何んだアいつて、ギリシャ、ローマの文学にも精通せずに何がワカルものかといふ。
 此人の説だと、イプセンやトルストイなどを見る暇にホーマー、エシロスでも研究しろといふのだ。此人はホーマーと、エシロスさへよくワカれば、イプセンや、トルストイは自然にワカルものゝやうにいふ。
 絵についても同じ事をいつてる、
 イプセン劇の前編が、ホーマーに書いてあるのぢやあるまいし、ホーマーを知らなくて近世文学がワカルものかといふのからして可笑しな事だが、ホーマーやダンテさへ見てゐれば、今のものは直ぐワカルという理屈があるものか、殊に絵などは、左うである。
 人の命が千までも万までもあるものと思つてゐるのが誤りである。(高橋『偉大なる暗闇』(講談社文芸文庫版、209-210ページより重引、エシロスはアイスキュロスのことである。)

 近世(近代)文学について知るために、古典から学ぶ必要はないという志賀の議論はそれはそれで筋が通っている。ここで批判されている「或る人」は高橋が推測するように岩元であろう。近世は中世の批判、古代への回帰から始まるとすれば、近世を知るためには古典を知る必要があるという議論も成り立つ(ほかにも様々な議論が成立しうる)。要するに志賀が書いている「わかる」ということの内実をどのように考えるかによって議論が分かれる。
 人生は短い(だけでなく、時代の変化は激しい)からじっくり根源までさかのぼってヨーロッパの文明を理解しなくてもよいのだというのは、杉田玄白の『蘭学事始』に見られる「素意大略」の精神と通じるものを感じる。『解体新書』の翻訳作業から出版をめぐる玄白と前野良沢の対立を描く菊池寛の小説「蘭学事始」を思い出し、志賀と菊池の間にはこの点で共通する文明観があるのかもしれないなどと考えているのである。(前野良沢の方が岩元禎とつながっているところがある。)
 さらに他の作家の例を視野に入れながら、日本の近代文学におけるヨーロッパ文明の受容の問題について考えていくつもりである。
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Author:tangmianlaoren
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