北村季吟と松尾芭蕉

4月20日(木)晴れ、気温上昇

 『太平記』を批評した2つの俳句がある。
 平家なり 太平記には 月も見ず 其角
 歌書よりも 軍書に悲し 吉野山 支考

 前者は『平家物語』には月見のような王朝の優雅な生活の姿が描かれているが、『太平記』は殺伐としている。『平家』の方がいいというもので、後者は花の名所として知られる吉野山ではあるが、歌集を読むよりも、『太平記』に描かれた吉野朝の苦難の姿の方が悲しく思われるというものである。『太平記』を殺伐とした戦闘の記録の連続として読むか、吉野朝の苦難と朝廷に忠義を尽くした武士たちの悲愴な姿を描いた文学として読むかは読み手の自由である。そのどちらを選ぶ、あるいは別の読み方を選ぶというのも自由である。

 興味深いのは、この2つの対照的な句の作者がともに芭蕉の有力な弟子だったということである。芭蕉の作品を読んでいると、彼が国文学の古典についてなみなみならない素養をもっていたということに気付かされる。それもそのはず、彼は俳諧を北村季吟(1624-1705)に学んだのであるが、季吟は『源氏物語湖月抄』などの著書を表した古典研究者でもあった。このことをめぐっては、『広辞苑』の編纂者であり、季吟の顕彰に努めた新村出が
 芭蕉には和学の恩師たりしこと先づ憶(おも)ひつつ大人(うし)を敬まふ
と歌っているそうである。

 季吟と芭蕉の師弟関係は、芭蕉が蕉風と呼ばれる俳諧の流派を形成したのちも続いていた。少なくとも季吟の方ではそう思っていたようである。元禄7年(1694)、芭蕉が没した時に、まだ健在であった季吟は芭蕉が葬られた義仲寺に
 氷(こお)るらむ足も濡らさで渡る川
と詠んで送った。季吟の長男である湖春も、追悼句を詠んだ
 また誰(た)そやああこの道の木の葉掻き
 湖春の友人で、柳沢吉保の家臣であった柏木素龍が、この句に
 一羽さびしき霜の朝鳥
と付けた。芭蕉の霊は、旧師からのこの追悼の句と、親友であった湖春の句をどのように受け止めただろうか。なお、素人の勝手な感想であるが、素龍の付け句が一番よくできているような気がする。

 徳川綱吉の寵臣であった柳沢吉保の名が出てきたが、季吟は元禄2年(1689)に歌学方として幕府に召し抱えられ、将軍綱吉に『古今和歌集』の切紙を献上したりしている。また自らが受けていた古今伝授を柳沢吉保に授けたりしている。漂泊の旅に生きた芭蕉とは対照的に、権力に親近する生き方をしたのである。このことをめぐって島内景二『北村季吟』に興味深い考察が展開されている(これまで書いてきたことも、大部分、島内さんの著書に書いてあったことである)。

 季吟は宗祇や細川幽斎らが抱いていた「正しい世の中をこの世に実現させる」という「政道のための文学」の伝統を継承していた。「応仁の乱で荒廃した日本文化を、もう一度正しい秩序に回復させ、為政者と被治者が君臣相和する社会を構築するためには、それらが理想的に行われていた王朝盛時の和歌や物語を学ぶ必要がある。そして、その研究成果は、現在の政治に役立てられねば何の意味もない。」(島内、103ページ) だからこそ、彼は柳沢吉保に古今伝授を行ったのである。平和と繁栄は、平和と繁栄の時代の文化を学ぶことによって、より具体的には一条天皇と藤原道長の時代の和歌と物語とを学ぶことによって実現できると考えたのである。

 芭蕉は権力とは無関係に生きようとした。このことを含め、「季吟から芭蕉への流れは、受け継がれた側面と、変容した側面との両方がある。季吟は、集大成の人であり、芭蕉は変革の人だった。ただし、「不易流行」をモットーとする芭蕉にとっての「不易」は、季吟から受け継いだわが国の古典的伝統と深くかかわっている。」(島内、104ページ)
 其角と支考という芭蕉の2人の弟子が、『太平記』をめぐって違った意見を抱いたのは、たぶん、芭蕉が弟子たちに古典文学を学ぶことを奨励はしたものの、あまり自分の意見を押しつけようとはしなかったからであろう。その点にも季吟と対比しての芭蕉の新しさが現われているように思うのだが、どうだろうか。  
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迷亭の伯父さん

4月14日(金)晴れ、温暖

 夏目漱石の『吾輩は猫である』の3で、猫が住みついている苦沙弥先生のところに、親友の迷亭がやってきて世間話をしていると、女性の客がある。近くに住む成金の金田の妻、鼻子で苦沙弥の元教え子で、大学院で学んでいる今も旧師のところにしょっちゅう顔を出している水島寒月と、自分の娘の間の縁談を進めたいので、寒月の性向を知りたいというのである。何にでも口を出す迷亭が、自分の伯父の牧山男爵と金田は友達だなどといって話をまぜっかえす。

 鼻子が帰った後、苦沙弥が迷亭に男爵の伯父がいるとは知らなかったというと、「その伯父が馬鹿に頑物でねえ――やはりその19世紀から連綿と今日まで生き延びて居るんだがね」と、その人となりを話しはじめる。静岡に住んでいる、頭にちょん髷をのせている、年をとったので早起きになったのを修業の結果だと勘違いして喜んでいる、いつも鉄扇を持ち歩いている、体の寸法を測らないままに山高帽とフロックコートを買って送れと迷亭に命令したなどとその逸話を語り、男爵というのは嘘で、若いころ湯島聖堂で朱子学を勉強した漢学者であるという。

 9で苦沙弥が自分のところに届いた手紙、とくに天道公平なる人物から届いた手紙を読んで考え込んでいると、迷亭が以前に噂をした伯父さんを連れてやってくる。赤十字の会合があったので上京したというのである。例によって鉄扇を持ち歩いているが、これは「甲割」といって鉄扇とは違うと言い張る。この鉄扇のおかげで、寒月の研究室にある磁力の機械が狂って大騒ぎになったと迷亭がいうと、「これは建武時代の鉄で、性のいい鉄だから決してそんな虞はない」などという。それからひとくさり収容論をぶって、古い友達のところを訪ねると出て行ってしまう。

 村山吉廣『漢学者はいかに生きたか』は明治以後の近代化の過程の中で欧米の学芸が優勢になる中、伝統的な漢学者たちがいかに自分の学問と取り組み、世の中を渡っていったかを8人の漢学者の人生をたどりながら描き出した書物であるが、その中に紹介されている根本通明(1822-1906)に、迷亭の伯父さんと重なる逸話があるという。
 根本は秋田の人で、帝国大学(今の東京大学)の教授であったが、常に和服を着用、鉄扇を持ち歩いた。そのため磁器を測定する機械を狂わせたことがあったという。さらに体の寸法を測らせずに洋服を作らせたという逸話もあるという。
 渡部昇一の孫引きであるが、漱石が敬愛した外国人教師ケーベルの随筆の中に、帝大の教師には尊敬に値する人物は少ないが、3人だけいる浜尾新と、根本、それにもう一人名前のわからない人物である(渡部の推測では物集高見)であると述べられているようである。ただ、ケーベルは根本が鉄扇を持ち歩いている理由がどうもわからなかったという。これは別にわからなくてもいいのである。

 ところが、漱石の友人の1人であった狩野亨吉(1865-1942)も秋田の人で、子どものころ根本の塾に通ったことがあり、1897年にある席で根本にあって丁寧に挨拶をしたところ、彼を見下すような発言をしただけでなく、だれかれとなく周りの人物に狩野の悪口を言いふらした――「自分が子どものころからこの人間が嫌いで塾へは行かずほとんどその時間を途中で友達と遊んですごした。それ以後二十何年も往来しなかったが、今見てもやはり実に固陋卑劣な男だ。しかも彼は実際はまことに小心者で、それを隠すためにこのように、恫喝的態度で武装している」(青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』、中公文庫、216ページ)と怒り心頭に発したという。
 自身も秋田市の出身であった青江は、「根本通明のこのハッタリは、平田篤胤・佐藤信淵などに共通する性癖で、秋田市(旧久保田)及びその南方の地域に著しく、狩野父子・内藤湖南などの北方的柔和と鋭い対応をなしている。いったいどのような風土のちがいであろうか。」(同上)と記している。青江の意見をすべて信じてよいかどうかはさておくにしても、このように根本について否定的な評価をする意見もあることは注目しておいてよい。

 狩野亨吉の父親である良知は、漱石をはじめとする自分の息子の友達の若い世代と談話を楽しむ人物であり、『猫』の迷亭の伯父さんや、『虞美人草』の宗近の父親にその姿が描かれているともいわれる。迷亭の伯父さんのモデルが根本通明であるか、狩野良知であるかという問題は、それだけで終わるものではなく、日本の近代化と伝統的な学問の問題をはじめとするかなり複雑な問題と絡み合っているように思われる。

小学校教師ウィトゲンシュタイン

3月7日(火)晴れたり曇ったり

 オーストリアのウィーンで生まれ、分析哲学の発展に大きく貢献したルトヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、ドイツ、英国で工学を勉強したのち、数学の基礎に興味を持ち始め、ケンブリッジ大学のラッセルのもとで研究をするようになる。第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア・ハンガリー軍に志願兵として加わり、その間に書き溜めた原稿が有名な『論理哲学論考』となった。

 戦後、彼はトラテンバッハという山村で小学校の教師となる。この間の事情を藤本隆志『ウィトゲンシュタイン』によってたどっていくと、彼は第一次世界大戦中にトルストイに心酔してロシアの農奴のように生きようと決意したこと、捕虜収容所でルトヴィヒ・ヘンゼルという教師と出会ったこと、さらに、第一次大戦後のオーストリアで展開されたオットー・グレッケルによる学校改革の動きに共鳴したことなどがその理由と考えられる。なお、グレッケルはルトヴィヒの姉マルガレーテの友人であったそうである。

 興味深いことに、1946年10月25日に真の哲学的問題はなにかという問題をめぐり、大喧嘩を演じることになった相手であるカール・ポパー(1902-1994)も小学校教師の資格を取得したり、グレッケルの改革に参加したりした一人だという。小河原誠『ポパー』によるとウィトゲンシュタインも、グレッケルの改革運動の理論的な支柱の1人であったカール・ビューラー(1879-1963)の心理学理論から大きな影響を受けていたという。
 ビューラーはカント哲学の影響を強く受けた心理学の一派であるヴュルツブルク学派に属し、フロイトの精神分析学と行動主義心理学の間の第三の道を、ゲシュタルト学説的な認知心理学あるいは発達心理学の方向に探ろうとしていた。
 彼の学説の中心にあるのは感覚印象よりも、それらを整え秩序づける考え/枠組みの方が優位にあるとの主張である。子どもが自分の周りにある対象、馬や人や蝶の絵を描くと、それはほとんどの場合実物とはかけ離れたものになる。ビューラーによると、それは子どもが対象を正確に観察する能力をもっていないからではなくて、自分がそうした対象についてもっている観念を紙面に実現したに過ぎないというのである。彼は「実は子どもは見えるものを描かないで、知っていることを描く」と定式化する。哲学的な言い方をすれば、感覚印象から出発して「観念」が構成されるのではなくて、「観念」(既に知っている事柄)が感覚印象を体系化しまとめ上げる原理となっているというのである。

 ビューラーはそこから子どもは規則的な繰り返しによって学ぶのではないと指摘する。「子どもを観察した人なら、規則正しくくりかえしておこることはたいてい子どもの思考をまったく刺激したり呼び起こしたりしないことを知っている。・・・知能は新しい、未聞の事態を解決するための道具」(原田茂訳『幼児の精神発達』協同出版、127ページ、小河原『ポパー』59ページに引用)であると彼は主張する。思考は反復的な事象から法則的なものを帰納するという形で生じているのではなく、積極的に、1回限りでしか生じないものであっても、ともかく問題状況にかかわり、テストに値する解を能動的に案出しようとする働きなのである。

 彼の学説では、観念は感覚的な印象から受動的かつ自動的につくられるのではなく、逆にそれらに先行するのである。そこで、この考え方楽甥苦に適用されると、子どもの知的な能動性を尊重せよという主張となり、ロック、ヒューム、ヘルバルト、そして当時流行の哲学であったマッハの学説とは対立することになる。
 この点を学校改革運動との関連でいえば、彼の心理学は、子どもの知的能動性を強調する心理学となる。ビューラーが描き出した「児童の精神発達」とそこから引き出される教育者への助言は、子どもをただ受け身の存在ととらえ、知的な能動性を認めない従来の心理学とそれに依存する教育学を根本的に批判するものであった。

 さて、それまでのオーストリアの教育制度は、1805年の勅令に基づいて敬虔にして善良かつ従順な労働者を育成するためのものであったと藤本氏は論じている。(グレッケルの改革を論じたE.パパネク『オーストリアの学校改革』によると、朝礼が出されたのは1804年のことである。) その理論的な支柱となっていたのは、ヘルバルトの教育哲学であり、「授業の方法はまず第一に記憶力を鍛錬するものでなくてはならず、…『学校授業法教本』に規定された説明以外の説明を行ってはならない」とされていた。
 これに対して第一次世界大戦後、児童生徒の自主的参加を促進する考えが一時的に取って代わる。ところが、この改革運動の実際の担い手となったのは当時の社会民主主義者たちであって、教育改革よりも旧体制改革の様相を呈することが多く、結局は農村地域からの反対に直面して、1934年以後改革は撤回されるに至るのである。

 1919年に30歳でウィーンの教員養成学校(Lehrerbildungsanstalt)に入学したウィトゲンシュタインは1920年に「小学校教師資格証明書」を取得、9月にトラテンバッハの小学校に臨時教員として着任する。その後、1922年に短期間ハスバッハ、その後1924年までプフベルク、1926年までオッタータールと各地の小学校で教えている。
 当時の学校改革のスローガンは「自主活動」(Selbsttatigkeit)であったが、自然観察や工場見学をさせて学習レポートを書かせるというような経験的な学習方法を奨励していた。ウィトゲンシュタインの教師としての指導方法は、これらのスローガンに準拠して工夫されたというよりも、むしろ彼自身の性格に合ったやり方だったと思われるが、結果的には当時の学校改革運動の意図に実にうまく適合するものであったと藤本氏は指摘している。

 彼がどのようにその教育を行ったか、その反響はどのようなものであったかは、また機会を見つけて書くことにする。この原稿のもとになった文章は19年前に書いたものであるが、今、読み直してみて、ビューラーの心理学の理論やウィトゲンシュタインの教育の方法など、子どもの認知発達と教育方法をめぐる興味深い問題を掘り下げていると思ったので、改めて発表する次第である。

「春を待つ雪」と「雪の瀬川」

2月20日(月)晴れのち曇り、風が強い

 蔵書の整理をしていたら、宇野信夫『江戸おとし咄 夜の客」(集英社文庫)という本を見つけた。昭和59年(1984)発行で定価を見ると300円とある。この30年余りの間にずいぶん本の値段が上がったことを改めて確認した(それにあの頃は、消費税などというものはなかった)…という話はさておいて。

 この本は、「序にかえて」で劇作家である著者が書いている通り、子どものころから親しんできた古典落語のいくつかを、自分なりに書きかえた。それもこれも「語られる落語を、書かれた落語として残しておきたい」(7ページ)という思いからであるという。

 ざっと目を通してみて、気づいたのは、この中に収められている「春を待つ雪」という咄が中公文庫の『圓生人情噺(中)』に収められている「雪の瀬川」と同じ話だということで、改めて書架を探して、『圓生人情噺(中)』を見つけ出した。(こんなことだから、蔵書はいつまでたっても片付かない。) こちらは昭和55年(1980)発行で定価は420円であった。以前、読んだ時には気づかなかったのだが、この本を監修しているのが宇野信夫で、解説も書いている。その解説にも記されているが、6代目の三遊亭圓生(1900-1979)はこれらの文庫本が出版されたころには世を去っていた。圓生が高座にかける際に凝らしていた工夫を知り抜いている宇野がどのように自分なりの物語を語ろうとしたか、両者を比べてみよう。(宇野の「春を待つ雪」の方が簡単なので、こちらを主にして、圓生の「雪の瀬川」とどこが違うかを見ていくことにする。)

 江戸は芝口一丁目の松屋という茶道具屋の若旦那の清三郎が吉原半蔵松葉の瀬川という花魁に熱を上げ、通い続けているので、父親が、親類のものを集めて相談のうえ、懲らしめのために勘当ということになり、家を追い出された。(「雪の瀬川」では、若旦那は古河の大金持ちの跡取りで善次郎といい、人間がまじめすぎるので少しは遊びを覚えてほしいと親の計らいで江戸に出されたという設定になっている。さらに、周囲の人間がいろいろと画策して、吉原へと連れ出し、瀬川と引き合わせる家庭も詳しく描き出されている。)

 はじめのうちは金もあったので、人の家の二階を借りて、毎晩のように松葉に通っていたが、松葉の主人がこの様子では勘当が赦されるわけはなく、本人のためにならない、また瀬川のためにもならないからといって、二人が会えないようにする。そのうち、若旦那は金もなくなり、ああ俺が悪かった、今更どこへ行くこともできず、いっそ死んだ方がいいと思い込んで、吾妻橋から身を投げようとするところを、店の使用人で、ふとした過ちから暇を出されて、本所松倉町に裏屋住まいをして紙屑買いを渡世にしている源六というものに助けられる。(「雪の瀬川」では勘当されてから松葉に通ったというくだりはなく、金がなくなって永代橋の上をうろうろしていると、元使用人の忠蔵という男に助けらる。忠蔵はやはり店で働いていたお勝という女といい仲になり、2人で江戸に逃げて麻布の谷町というところに住んで、神屑屋をやっている。)

 源六は、家へ連れてきて、女房にも話をして、その日稼ぎの貧乏人ではあるけれども、夫婦してよく若旦那の面倒を見る。そのうち、暮の20日、朝から雨が降るので、源六は商売に出かけることができない。清三郎は瀬川に手紙を届けてほしいという。直接手渡すわけにはいかないから、贔屓にしていた幇間の富本米太夫のところに行って手紙を預けてほしいというのである。
 源六が米太夫のところに行くと、借金取りと間違えられて初めのうちは居留守をつかわれるが、若旦那からの便りと聞いて飛び出してきて、手紙を預かり、瀬川のところに出かける。(「雪の瀬川」では、若旦那が瀬川に手紙を書くというと、忠蔵がそんなことはやめなさいと言って、瀬川の若旦那への想いを疑うが、それでも不承不承使いに出ることになっている。また、手紙の仲立ちをする幇間は五蝶という名になっている。使いのものを借金の取り立てと間違えて居留守を使うのは同じである。)

 米太夫が瀬川のところに出かけると、ちょうどお客が帰った後で、「花魁は床へ花を活けてお茶を点てて一服飲んでいる」(52ページ)。〔いかにも格式高い遊女という感じであるが、それまで取っていた客があまり気に入らないから、ここで気分を切り替えているという様子にも受け取れる。〕 米太夫から手紙を受け取った瀬川は、清三郎の窮状を知り、涙ぐむが、返事を書いて、お金を一両紙に包み、一両は使い賃だと言って米太夫から源六に渡してくれるように言う。(「雪の瀬川」では五蝶が博打で借金をこしらえて表に出られないので、さらに使いのものを頼むことになっている。手紙を読んだ瀬川が泣いてしまって、返事が書けず、「書き損じては破り、破っては書き、見てる間に屑かごへ三杯ばかり屑がたまる」(『圓生人情噺(中) 雪の瀬川』(67ページ)というありさまだったと伝える。)

 源六が家に帰って、清三郎に手紙を見せる。手紙には雪か雨の降る晩に必ず廓を抜け出して清三郎に会いに行くと書かれていた。清三郎どころか源六も悪天候の日を待っていると、米太夫が現われて、当座の小遣いにと15両を置いてゆく。そして26日、雪が降っているので、瀬川が来るに違いないと用意をして待っているとなかなか来ない。源六の女房はお産の手伝いに大家さんから呼び出されて家を空ける。源六は清三郎を二階にあげて、貸本屋から頼まれた義士伝の写字をはじめたがそのうち寝てしまう。(「雪の瀬川」でも五蝶が忠蔵のところに金を届けてくる。忠蔵は相変わらず瀬川の真意を疑っているし、廓を抜け出すことは不可能だと決め込んでいる。女房がお産の手伝いに出かけ、義士伝を写字するのは同じである。)

 深夜、源六の住む路地に駕籠が入ってきたかと思うと、宗十郎頭巾をかぶって合羽を着た一人の背の高い武士が家へ入ってくる。これはどうしたことだと源六が慌てていると、武士は合羽をとり、頭巾を外すと、中から現れたのは瀬川花魁である。大きな髷に結った頭に頭巾をかぶっていたから背が高く見えたということで、二階から降りてきた清三郎と手に手を取り合って何も言わず涙にくれる。よもやま話をした後、瀬川はその夜のうちにまたしてあった駕籠に乗って吉原へ帰り、彼女が持ってきた金をもって、源六が芝口の店に出かけ、一番番頭を通じて一部始終を大旦那に伝えてほしいと頼んだところ、その骨折りが功を奏して、清三郎の勘当も赦され、瀬川を落籍して、二人は夫婦になって、松屋の跡を継いだという。(「雪の瀬川」では、合羽をとり、頭巾を脱ぐところの描写がより詳しくなっているが、読んでのお楽しみ。瀬川は廓へ戻らず、忠蔵が翌日店へ行って話をすると、父親が大病を患っているということもあって、勘当は許され、松葉屋へは身代金を払って、二人は夫婦になるという。店が江戸から15里離れた古河にあるということを忘れたような結末になっている。)

 「紺屋高尾」(5代目の古今亭志ん生は「幾代餅」として演じていた)と同様「傾城に誠あり」という咄であるが、もちろん、例外的な話だから語り継がれたということも忘れてはならないのである。圓生の高座は、落語らしいくすぐりもあり、また瀬川の服装の描写に見られる艶麗さもあって、(まだ耳の奥に残っている彼の声を思い出しながら)活字を追っていくのが楽しい。とくに、上記の梗概では省いてしまったが、忠蔵が善次郎を引き取る際に、大家さんに断りを入れると、大家さんがいろいろと助言をするくだりが面白い。食べ物について「くさやの干物なんざいいね、うん。通人が『ああ、こりゃちょいと乙なもんですな』なてんで喜ぶ。それもね、丸焼きにしたやつをお皿の上へのっけてつき出すなんざ、野暮でいけませんよ、うん。干物というものは、ま、お前も知ってるだろうが、ありゃ背中の方から焼くもんだ。おなかの方はひっくり返して、ちょいっと火にかけりゃそれでいい。それから頭を取って、まん中の骨もとってね、しっぽの方の皮はこりゃ取らなくっちゃいけませんよ… 一口でもって食べられるように、頃あいの大きさにこいつをむしってね、うーん、醤油はやはりいいのを使わなくっちゃいけない。それに味醂なぞがあるといいな。それをほんの心もちたらして、醤油をかけるわけだ。それからやはり鰹節(かつぶし)をかけなくちゃいけないだろう。香の物だって、沢庵の輪切りを出しておくなんてのは、こいつもやっぱり野暮でいけないからこう、隔夜(かくや)に切ってね、水へ泳がせて、ここで塩気を抜いてこいつを絞って、醤油(したじ)をかけて、鰹節はまァ、あってもなくてもいいようなもんだがやっぱりかけた方がよかろう」(『雪の瀬川』、54-55ページ) 食べ物一つとっても、とうとうと意見を開陳する世話好きな大家さんの見識、いやはや、どうも恐れ入りました。まだまだ大家さんの助言は続き、忠蔵は最後には、大家さんから鰹節を借りて家に戻る。ということで、六代目三遊亭圓生という落語家と人情噺の魅力を改めて認識し、いつまでたっても蔵書の整理は進まないというお粗末である。 

文字にかかわる神話・伝説

2月6日(月)曇りのち晴れ

 プラトンの対話篇『パイドロス』の終わりの方に、文字にかかわる次のような説話が紹介されている。エジプトのナウクラティス地方にテウトという神が住んでいて、「この神様は、はじめて算術と計算、幾何学と天文学、さらに将棋と双六などを発明した神であるが、とくに注目すべきは文字の発明である」(藤沢令夫訳、岩波文庫版、162ページ)という。テウトは自分の発明を、神々の王であるタモス(アンモン)のところにもっていって批評を仰いだのであるが、文字について、
「王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから」(163ページ)というと、タモスは文字は「記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ」(164ページ)といって、文字と人間の知性との関係について悲観的な見通しを述べる。
 確かに文字の発明によって、むかしむかしの遍歴する吟遊詩人のような記憶力の持ち主は必要がなくなり、超人的な記憶力は神話・伝説の世界に去っていったかもしれないが、文字で書かれた、いわば外部記憶装置である書物を持つことによって、全体としての人類の文化の蓄積はより豊かなものになったのではないかという気がする。

 しかし、神話・伝説の世界では文字の発明についての否定的もしくは懐疑的な意見はほかにも見出される。中国では、文字は蒼頡という人物によって発明されたと語り継がれてきた。伝説というよりも神話的な存在である中国古代の君主・黄帝の家臣に蒼頡という人物がいて、「生まれながらにして特徴があり、大きな竜顔で、四つの目が霊光を放っていた」(袁珂『中国の神話伝説』、238ページ)。彼は大きくなると、自分の周囲の事物を注意深く観察し、それら大自然の自然現象に基づいて文字を発明した。「この非凡な発明創造がなされるや、天でさえ驚いて雨のように粟を降らせ、鬼もびっくりして夜な夜な悲しそうに泣いたという」(同上)。
 この説話は『淮南子』「本経訓」に出てくるのだそうであるが、その注釈者である高誘の説によると、「人びとがそれ以後本末を転倒して、農耕という大業を放棄し、錐や刀で文字を彫るという小利をむさぼって飢えるかもしれないので、あらかじめ粟を降らせ、やがてやって来る飢饉から救うとともに、世人に対する警告ともしたのである。鬼はそれら恐るべき文字によって弾劾されるのを恐れ、夜な夜な泣いたのである」(同上)。この解釈が正しいかどうかは、さらに検討の余地があると思うが、文字の発明が人類にとって必ずしも幸福ばかりをもたらすものではないという見通しは、プラトンが『パイドロス』で述べたものと共通しているのではないかと思う。

 しかし、プラトンの場合と、『淮南子』の場合とでは議論の前提としての文字についての知識がかなり違っていたのではないかという気もしないではない。プラトンは、ギリシャ文字だけでなく、エジプトの話をしているのだから、エジプトの象形文字についても知っていたはずであり、さらにフェニキア文字についての知識もあったと思われる。それに対して、『淮南子』の著者は、漢字だけしか知らなかったのではないか。あるいは他の文字も知っていたのであろうか。

 日本の場合は、文字の発明ではなくて、文字が輸入された経緯が語られている。厳密にいえば、文字の輸入とは言えないかもしれないが、とにかく文字にかかわる神話の一種として取り上げてみたい。
 応神天皇の御代に百済から阿直岐という人物がやってきて、彼が儒教の経典に通じているので、天皇は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)という自分の皇子の師として学ばせたが、彼にお前よりも優れた学者がいるのかと尋ねると、王仁というものがおりますという話だったので、彼を日本に呼び寄せたところ、『論語』と『千字文』をもって来日したという話が『古事記』に出てくる。
 これは中国の学問が朝鮮半島を経由して日本に入ってきたという話で、漢字がどのようにして日本に入ってきたという話ではない。『日本書紀』の記す年代をそのまま信じれば、応神天皇の治世は270年から310年までである。それよりも古い時代から(使いこなせるかどうかは別の問題として)日本に漢字が入ってきていたことは、考古学的な知見から明らかである。だから、この説話については別の解釈を試みる必要がある。ここで、問題になるのは、『千字文』は中国の南北朝時代の梁の周興嗣という人物が撰んだということなので、6世紀前半の成立と考えられ、応神天皇とは年代が合わないということである。

 『日本書紀』の、とくに雄略紀あたりには「呉(くれ)」の国というのが盛んに出てきて、これは中国の歴史書に記されている「倭の五王」と中国の南朝の交流と対応する。だから南朝の梁から日本に『千字文』が渡ってきても不思議はないのである。『宋書』「倭国伝」に記載されている倭の武王(ふつう、雄略天皇のことと考えられている)の上表文「昔より祖禰躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。・・・」というのは、堂々たる漢文で、おそらくは宮廷につかえていた渡来人の手によって書かれたというのが通説である。

 話の重点が神話よりも歴史の方に移ってしまったが、倭の五王時代の日本は南朝寄りだったのが、中国を統一したのは北朝の隋だったので、話が違ってくる。大陸の文化が日本にわたってくる経路は朝鮮半島経由と、中国の南方から島伝いの複数の経路があるはずで、『古事記』や『日本書紀』における対外関係の記述を考えるときに、この問題は避けて通れない。百済から王仁がやってきて『千字文』を伝えたという記事には、『古事記』が成立した当時の、東アジアの政治情勢がいろいろと反映されていたと考えるべきなのである。

 それで、話を神話・伝説に戻すのだが、王仁は日本にやってきて、「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」という和歌を詠んだという。この歌は「安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」という歌と並んで、和歌の父母といわれ、手習いの教材として用いられた。「安積山」の方は奈良時代の高官であった橘諸兄と采女についての伝説に由来する。王仁は日本語を母語としない外国人なのに、立派な和歌を詠む凄い人で、日本文化にとっての恩人であったという伝説は、長く余韻を残したのである。どうも日本文化の伝統の中では、文字の効用は疑われなかったようである。

 世界の歴史を見渡して、他の文化の中で発展してきた文字を借用して自分たちの言語を記すというのはそれほど珍しいことではないので、文字を輸入したという神話はほかにも例があるかもしれない。このほかにも、なぜ、自分たちの民族には文字がないのかという神話の例もある。そのあたり、機会があれば論じてみたい。
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