お詫び

2月5日(月)晴れ

 依然として自家用のパソコンが立ち上がらない状態で、業者のものを使って編集していたのですが、原稿が途中で消えてしまうという事故にあい、本日は後進を断念せざるを得ません。あしからず、ご了承ください。
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『太平記』(193)

1月16日(火)晴れ、温暖、午前中はバスの車窓から富士山が見えたが、その後は見えなくなった。

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月10日、足利方の攻勢を受けて都から比叡山へと移られていた後醍醐天皇は、足利方に補給路を押さえられて困難な状態に陥り、足利尊氏の密書に応じて京都に還幸されようとした。それを思いとどまらせようとした堀口貞満の諫言を受けて、天皇は新田義貞に東宮・恒良親王を託し、北国で再起を期すよう命じられた。10月10日、天皇は京に還幸されたが、直義によって花山院に幽閉された。天皇に従っていた公家、僧侶、武士たちも処罰されたり、幽閉されたりした。しかし、北朝の天皇に神器を渡すように言われた天皇は、偽の神器を渡したのであった(恒良親王にも偽物の神器を与えたようである)。

 第17巻が終わって、今回から第18巻に入る。
 尊氏の密書の趣から、京に戻るということは再び帝位に就くということであろうと、天皇は頼りにされていた。しかし、もともと足利方の本心は天皇を騙して事態を自派に有利に運ぼうということであったから、還幸された天皇を花山院の古い御所に押し込め、天皇は日々を淋しく過ごされたのであった。
 後醍醐天皇は都から離れただけで、帝位を捨てたわけではないので、『太平記』のこのあたりの事情の記述はあまり性格であるとは思えない。花山院というのは清和天皇の皇子貞保親王の居館であり、その後花山上皇の御所となり、藤原道長の曽孫である家忠を祖とする花山院家が相続していた。現在の京都市上京区の京都御苑の西南の辺りだそうである。

 『太平記』の作者は例によって美辞麗句を並べ立てて、天皇の「蕭散寂莫(しょうさんせきばく)」(第3分冊、217ページ、静かで物寂しいさま)を描くが、どうも大仰である。小川剛生さんの『兼好法師』によると、この時代の天皇のお住まいは「里内裏」で現在の京都御苑に比べればかなり規模が小さいので、「三千の宮女」(同上)が天皇にお仕えするというようなことは無理なのである。軟禁状態なので、天皇を訪問するというものもいない状態であった。
 後醍醐天皇は、どのような前世の因果でこのような目に合うのかと嘆かれ、宇多天皇が退位の後に出家され(寛平法皇)、花山天皇も19歳で譲位・出家された後に諸国を巡礼された先例に倣おうかとまで思われたのであった(これも作者が勝手に天皇のお気持を想像しているだけではないかと思う)。

 そのように天皇が思い悩まれているところに、刑部大輔景繁というものが、足利氏の許しを得てただ1人天皇のおそばの用をしていたが、ある時、勾当内侍を通じて密かに天皇に次のようなことを申し上げた。「越前の金ヶ崎の城を根拠地といている宮方の軍勢を攻撃している足利方の兵は劣勢であるということで、加賀の国の金釼宮と白山比め〔偏が口、旁が羊〕の僧兵たちが、味方に加わり、加賀の守護である富樫高家がこもっている奈多の城(小松市奈谷町)を攻め落として、金ヶ崎攻防戦の後攻め(包囲軍を背後から攻撃すること)をしようと企てているということです。これを聞いて、比叡山から京への還幸の際にお供をして京都に出てきた菊池武俊や日吉加賀法眼らの武士たちが、みな自分の地元へと逃げ帰って義兵を起こし、それぞれの土地を制圧しているということです。足利から天皇の治世に戻る日も近いと、世間の噂がしきりでございます。近いうちに急いで、夜の闇に紛れて大和の方に臨幸あそばされ、吉野、十津川の辺りに皇居をさだめられ、諸国へ綸旨を下されて、義貞の忠義の心を助け、天皇の徳による政治を復活されますように」。
 勾当内侍というのは内侍司に仕える後宮女官の三等官の第一位で、天皇と外部との取次役を務める役柄である。新田義貞が後醍醐天皇から賜って、夢中になり、足利方追討の戦機を逸したとされる一条行房の娘(妹とも)も勾当内侍であった。景繁という武士の素性は不明であるが、彼が申しあげていることはすべて今後の見通しであって、これまでの経緯から見て、楽観的に過ぎると思われる。もっともそう思わなければ、軟禁状態から脱出するという勇気は出てこないだろう。

 天皇は、景繁の語るところをよくお聞きになって、さては天下の人々の中にはまだ帝徳を慕うものも多いようである。これは天照大神が、景繁の心に入り込んでお告げになっている言葉であろうと思われて、「明夜必ず、馬寮の馬を用意して、東の小門の辺りで待つようにと仰せられた。

 示し合わせた時刻になったので、天皇は三種の神器を新任の勾当内侍に持たせ、子どもが壊して踏み広げた土塀の壊れ目から、女装して脱出された。景繁は、あらかじめ用意したことなので、天皇を馬寮の馬にお乗せして、三種の神器を自分で持ち、まだ夜のうちに京の五条口から伏見・木津を経て奈良に通じる大和路を進み、梨間(なしま、京都府城陽市奈島)まで落ち延びさせた。昼間、奈良の町をこのような姿で通っていけば、怪しむものも出てくるだろうと、天皇を畳表で周囲を張った粗末な輿にお乗せし、お供してきた上北面(院の御所を警固する武士で、四位・五位のもの)に輿を担がせ、三種の神器を足を付けた行器(ほかい)に入れて、寺社に参詣しようとする人の、弁当などを入れて持っているような様子に見せかけて、景繁が雑兵のような姿でこれを持つ。それぞれ日ごろしつけていない仕事をすることになったので、気持ちは急ぐけれどもなかなか進むことができず。その日の暮方にやっと内山(奈良県天理市内にあった内山永久寺)に到着した。

 ここまで来ても、もし敵が追いかけてくることがあるかもしれないと安心できなかったので、今夜のうちに何としても、吉野の辺りまで進もうと、また馬で急ぐことにしたのではあるが、8月28日(岩波文庫版の脚注によると、日付に乱れがあり、12月21日が正しいということである。現在の暦では1月の終わりから2月の初めくらいではないかと思う)ということなので、道がひどく暗く、進みかねていたのだが、突然、奈良市街の東方の春日山の上から、吉野の金峯山寺一帯の山まで、光るものが現われて松明のように天を明るくし、地を照らしたので、道がはっきりと見えるようになり、ほどなくして明け方には、大和国賀名生(あのう、五條市西吉野町)に落ち着くことができた。
 しかしこの土地は人里離れて人家の煙もまばらで、山深く、鳥の声さえまれである。家の周囲を柴で囲い、山芋を掘って生計を立てているという様子なので、皇居と定めるべき場所もなく、天皇のお食事に提供するような食べ物の確保も難しい。

 どうしようかと考えた末に、吉野金峯山寺の僧兵を味方に引き寄せて、天皇をお入れ申し上げようと考えて、景繁が吉野へ出かけて、吉野の吉水院(現在の吉水神社)の住持で、吉野執行の宗信法印に事情を打ち明けたところ、山中の僧兵たちが、本堂である蔵王堂で会議を開いて協議し、「昔、この場所に天武天皇が天智天皇の子である大友皇子に追われて行幸されてきたが、間もなく(壬申の乱に勝利されて)天下を統一、平和を実現された。そのような先例があるので、今、当山に行幸されることに対しわれわれは何の異議を唱えることがあろうか。それだけでなく、昨夜天に光り物があって、臨幸の道を照らした。これは当山の鎮守である蔵王権現、小守、勝手明神が三種の神器を守り、天皇を守護されようとする瑞光である。しばらくの猶予もあってはならないということで、若い僧兵たちが300余人、みな甲冑を身に着けてお迎えに参上した。
 このほか、楠正成の子正行、その一族の和田次郎、大和の武士である真木定観、大神氏の三輪西阿、河内の武士で楠一族と行動をともにしてきた生地(おうち、恩地とも。大阪府八尾市恩智に住んだ武士)、紀州の武士である贄川、貴志、湯浅らが500騎、300騎と続々とはせ参じ、この大軍で天皇の輿の前後を固めて、吉野への臨幸を警固したのであった。
 春の嵐が一たび鳴ると、冬眠していた虫が一斉に動き出すような心地で、天皇のご運がたちまち開け、進化のものの功績が既に明らかになってきたと、ひとびとは喜び合ったのであった。

 ということで、後醍醐天皇は京から吉野へ脱出され、南朝が本格的に成立することになる。『太平記』の作者の筆致とは裏腹に、前途は多難に思われるのだが、さて、どうなるか。
 

小川剛生『兼好法師』(4)

12月30日(土)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 『徒然草』の作者について、同時代史料からできるだけ多くの情報を引き出すことで、従来信じられていた兼好の伝記を書き換えようとするのが、この書物の意図である。
 第1章「兼好法師とは誰か」では、勅撰和歌集における作者表記がすべて「兼好法師」となっていることから、彼が「諸大夫」ではなく、「侍」以下の身分の出身であると推測し、伊勢にゆかりのある卜部氏の一族で、都で生活していたが、彼の父親の代になって、伊勢に勢力を持つ金沢流北条氏に仕えるべく鎌倉に下向したものと考えている。
 第2章「「無位無官の「四郎太郎」――鎌倉の兼好」は、金沢文庫に残された古文書を手掛かりとして、在俗時代の兼好が卜部兼好、仮名を四郎太郎と言い、父親の死後、いったん京に戻ったが、その後、金沢貞顕に仕え、貞顕やその信認する僧である称名寺の劔阿のために京と鎌倉を往復する生活を送っていたと述べている。延慶2年(1309)から正和2年(1313)までの間に彼は遁世したが、宗教的な動機によるというよりも、そのことで身分秩序のくびきから脱し、権門に出入りしたり、市井に立ち交じったりして、貴顕のために様々な用を果たすことができるようにするためであった。
 第3章「出家、土地売買、歌壇デビュー――都の兼好(一)」では、貞顕が六波羅探題北方に任じられたころから、兼好が京に定住するようになり、六波羅周辺で活動していたこと、この地で活発に展開されていた経済活動にかかわり、土地を売買していたこと、貴顕からの恩顧を得るために自分の土地を寺院に寄進し、そのことで後宇多上皇から和歌を召され、歌壇へのデビューを果たすことになる。金沢流北条氏と堀川家の接近に伴い、堀川家とのつながりができ、また活動圏を次第に仁和寺の周辺に移すことになったことを述べている。

 今回は第4章「内裏を覗く遁世者――都の兼好(二)」についてみていく。この章は長いので、前半だけの紹介となる。
 『徒然草』の中で、兼好は「何事も古き世のみぞ慕はしき」と自分の価値観を表明したうえで、そのような過去のよき精神を最も遺す空間として内裏の有様を描写している。その描写は回顧ではなく、眼前の情景としてのものである。ではどうしてこのようなことを知り、書いたのか。
 先ず、兼好が目にしたのは内裏といっても、もともとの大内裏ではなく、里内裏(天皇がお住まいとして、洛中の廷臣の邸を借り受けられたもの)であり、具体的には花園天皇の里内裏である二条富小路殿であったという。文保2年(1318)に花園天皇は在位10年で退位され、後醍醐天皇が即位される。そのことを記したのが『徒然草』の27段である。〔小川さんは、読者が知っているだろうと思ったのか、書いていないが、この時、退位された花園天皇は22歳、新たに即位された後醍醐天皇は31歳であった。花園院はその日記の中で、「春宮は和漢の才を兼ね、年歯父の如し、誠に道理然るべし」(岩橋小弥太『花園天皇』、28ページ)と記されているそうである。〕

 ところで、花園天皇から後醍醐天皇への代替わりにはそれまでと違うことがあった。内裏(里内裏)を新帝が引き続き利用したことである。話がややこしくなるのだが、花園天皇は長らく、二条富小路殿を里内裏とされていた。ところが文保元年に鎌倉幕府の力で、冷泉富小路内裏がつくられ、そこに移られて、翌年、譲位されたということである。
 この新しい里内裏が竣工した際に、見物人が入り込んできたという記事に小川さんは目を留めている。花園院の日記にはその時「見物の女、小袖を着する者、悉く追ひだす」(文保元年4月20日条、105ページ)とある。
 「天皇の居住空間近くまで早くも見物人が入り込んでいるのである。
 この時代の内裏は、里内裏であるゆえ、四周が道路に直接面するわけで、必ずしも閉ざされてはいなかった。とりわけ政務朝議の行われる日は見物人で溢れていた。」(同上)
 憧れと野次馬根性が入り混じって、大勢の見物人が近づいてきたのであるが、「兼好の内裏へ抱いた憧憬は、この日に内裏に詰めかけた都市住民のそれと違いのあるものではなかった」(107ページ)と小川さんは論じる。

 「禁中奥深くまで無関係の観衆が闖入すること、常識では理解しがたい現象である。とはいえ中世の朝廷はこうした見物人を必ずしも排除しなかった。それは天皇以下自分たちが「見られる」身体であることを承知していたからであろう。」(107-108ページ) この記述は、ヨーロッパ、とくにフランスの国王の例と共通する事柄に触れていて、興味深い。
 先ほど引用した花園院の日記の中で「小袖を着するもの」が追い出されたというのは、わざと派手な格好をして内裏を見物する連中が非常に多かったということで、その一方で追い出されなかった見物人もいたのであると論じる。「その違いは、おそらく頭に衣をかぶる、「衣かづき」の姿になっていたことにあろう」(108ページ)という。「「衣をかづく」つまり衣をかぶって頭を隠すのは、自らの姿を隠す意思表示であった。…こうすれば天皇や廷臣たちにとっても、見えていても見えない存在となる」(108-109ページ)である。こうした存在が、意外に便利な役割を演じることがある。
 「男の場合、頭に頭巾などをかぶり目だけを出す姿、つまり「裹頭(かとう)」となる。…兼好は「裹頭」の姿となり、内裏へ自由自在に入り込むものの一人であった。」(109-110ページ)という。後半の推測は、『徒然草』の中の記事を根拠としているので、説得力に富む。

 以上のことから、兼好が『徒然草』で述べている宮廷への視線は、蔵人というような公家社会の正式の構成員のものではなかったと論じている。「確かに徒然草には数多くの廷臣が登場し、摂関・大臣の談話も記録されるが、しかしそれは多く伝聞や書承であり、師事した歌道師範を除いては、双方向的な対話はほとんど見られないのである」(116ページ)という。
 ということで、「内裏を覗く遁世者」という章題の意味は明らかであろう。遁世者だからこそ覗くことができる世界について、『徒然草』は語っているのである。

 さて、この書物の著者である小川剛生さんが、すでに読んだだけでなく、亀田俊和『観応の擾乱』の書評の中で言及した二条良基の仮名日記について論じた『南北朝の宮廷誌 二条良基の仮名日記』の著者であることを見落としていたことに気づいた。我ながら面目ない次第である。この『兼好法師』でも第6章に二条良基が登場する(良基は、兼好に会っているのである)。一方で関白という高い地位にあり、庶民的な連歌を能くし、南北朝の動乱の時代を泳ぎぬけた良基は、きわめて複雑で一筋縄でいかない人物という印象があるが、小川さんはそのような人物像と重なるものを兼好にも見ているのかもしれない。

 第4章の後半では、兼好と検非違使庁との関係が考察され、『徒然草』が都市の文学であるという議論へと進む。次回をお楽しみに。 

フローベール『感情教育』(4-3)

12月24日(日)曇りのち晴れ

これまでのあらすじ
〔1〕 1840年9月、大学入学を前に裕福な伯父のもとを訪問した帰り、パリからセーヌ川を遡上する汽船に乗ったフレデリック・モローは船の乗客の1人である共和主義者の画商アルヌーと知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。オーブ県の没落しかけている名家である彼の実家では、彼の前途に期待を託している母親が彼の帰りを待っている。帰宅した彼は、高校時代の親友であるシャルル・デローリエが会いたがっていると聞き、夜、遅くなっていたが、会いに出かける。
〔2〕 夢想家で芸術に関心のあるモローと、退役した軍人の息子で高校では半給費生であり、努力家で社会問題に関心が深いデローリエとは育った環境も性向もまったく違っていたが、二人は親友であった。デローリエはフレデリックよりも早く卒業してパリの法科大学に入学していたが、いったん学業を中断して、法科大学の学資を得るために県庁所在地の公証人役場の書記の仕事をしていた。久しぶりに再会したデローリエは、フレデリックに大学ではしっかり勉強して卒業するように忠告する。「とにかく、肩書は役に立つんだ。」(31ページ)
〔3〕 パリに出たフレデリックは地元の有力者であるダンブルーズ氏や、一度会っただけのアルヌーを訪問するが、上首尾にはいかない。大学の講義に出るようになったが、一向に興味がわかない。それでも、豪農の息子で美男子の勉強家マルチノン、あまり知性的ではない貴族のドゥ・シジーとの友達付き合いで時間を潰す。無為な生活を後悔して講義に出るようになっても、欠席が響いて内容が少しもわからず、それでも何とか試験に合格して2年生になる。
〔4〕 1841年12月、パリで暴動が起き、フレデリックは警官ともみ合って取り押さえられたデュサルディエという青年を助けようとして、同じ法科大学の学生であるユソネと知り合う。ユソネは演劇界で成功することを夢見ている青年で、フレデリックと意気投合する。しかも、アルヌーと知り合いだという。何度かすっぽかされたが、ユソネに連れられて、フレデリックはアルヌーの発行する「工芸美術」の事務所に出かける。そこでアルヌーとの交友を深めることができたが、夫人に逢うことはできない。フレデリックはさらに、アルヌーのところで知り合った画家のペルランからアルヌーの女性関係と、夫人が貞淑であることを聞く。

 次第にフレデリックはアルヌーの事務所に顔を出す常連になっていった。事務所にはルジャンバールという、何をしているのかよく分からない男が常連の一人として出入りしていた。フレデリックはアルヌーが金満家で、美術愛好家で実行家であるだけでなく、商売にかけてはかなり悪辣なこともしていることを知るようになる。
 ある日、アルヌー夫人とすれ違いになり、彼女が本宅にいて、事務所には時々顔を出すだけであるということを知る。久しぶりに出会ったペルランから、アルヌーの悪口を聞いたフレデリックは、思わず彼を弁護する。しかし、実際にアルヌーに逢ってみると、その人格の下劣さに愛想が尽きる思いである。

 その週、次の木曜日にパリに着くというデローリエの手紙が届く。「そこで、彼の心はより確実でより高貴な愛情の方にまた強く引き戻されていった。」(71ページ) デローリエとの友情は、パリで出会った友人たちとの友情に勝るものだと思ったフレデリックは、彼を迎えるための準備をすすめる。
 「そして、木曜日の朝、彼がデローリエを出迎えに行こうとしていると、入り口に呼び鈴が鳴って、アルヌーがぬっと入ってきた。」(同上) 夕食に招待しようというのである。そこで、彼は服屋と帽子屋と靴屋に連絡をとる。そうこうしているうちに、デローリエが到着して、門番が肩にトランクを担いで入ってくる。デローリエは、フレデリックが彼を迎えに来なかったことを不思議がっている。彼は法律についての知識を駆使して、父親が自分のものにしていた母親の遺産の7,000ポンドをとりもどし、パリに出てきたのである。

 フレデリックは久しぶりに再会した旧友を歓待する。「門番が炉のそばの卓上に仔牛肉、ギャランチーヌ、伊勢えび、菓子果物、それにボルドーぶどう酒を2本並べた。こうした歓待ぶりにデローリエは感動した。」(72ページ) 〔ギャランチーヌgalantineというのは鶏肉や仔牛肉にレバーなどを詰め、ゼリーで固めた冷製料理だそうである。あるいは私も食べたことがあるのかもしれないが、そういうことは気にかけない性分なので、食べたという記憶がなくなっている。〕
 そこへ、帽子、続いて服、さらに靴が届く。こうなると、フレデリックがどこかを訪問しに出かける約束があることがわかってしまう。フレデリックは事情を説明し、急なことで仕方がないのだと言い訳する。そして1人でアルヌーのところに出かける。〔このあたりで、フレデリックとデローリエの気持ちが微妙にすれ違っているのがわかる。〕

 「シナ風に装飾した控えの間には、天井に色提灯をつり、部屋の隅々には竹がおいてある。フレデリックは虎の皮につまずいた。燭台にまだ灯はついていないが、奥のブドアールに2つの灯火が輝いていた。」(74ページ) ブドアールboudoirというのは辞書によると女性の私室ということは、アルヌー夫人の部屋である。
 フレデリックは落ち着かない気分だったのが、迎えに出てきたアルヌーが地下室にぶどう酒をとりに出かけて、彼らの子どもと二人きりにし、その子どもの相手をしているうちにだんだん気持ちが落ち着いてくる。そしてアルヌーが戻ってきて、さらに別の方角からアルヌー夫人が現われる。
 「アルヌーはフレデリックを紹介した。
 「ええ、あたくしよく覚えておりましてよ」夫人はそうこたえた。」(76ページ)

 他の客たちがやって来る。それぞれ有名な画家、詩人、美術批評家、作曲家…である。ユソネも顔を出している。最後にペルランがやって来る。フレデリックは集まってきた客たちにも、提供されたご馳走にも満足する。さらに客たちがそこで交わす会話にも大いに関心を引かれた。気分よく過ごしていると、突然ペルランが思想のない芸術は意味がないなどと言い出したりする。その間、彼はアルヌー夫人を見ていた。「耳に入ってくる言葉が彼の心の中でるつぼに溶けている金属のように彼の情熱に溶けて、恋を作った。」(78ページ)

 アルヌー夫人に再会したフレデリックは、彼女に対する恋慕の気持ちを募らせる。アルヌー夫人の方でもフレデリックのことはよく覚えていたようである。二人の関係が今後どうなっていくのかも気になるところではあるが、この席にはユソネもいるし、フレデリックの部屋にはパリに出てきたばかりのデローリエが彼の帰りを待ち受けている。そして、青年たちを主な登場人物としながら、七月王政下のフランスとパリはさらに大きな変動の時代を迎えようとしている…。

2017年の2017を目指して(11)

11月30日(木)曇り

 11月はこれまで以上に早く、あわただしく過ぎていったような気がするが、まったくぼんやりしていたわけではない――と自分では思っている。

 都県別では神奈川県と東京都の1都1県、市区別では横浜市、川崎市、平塚市、千代田区、港区、品川区、渋谷区、新宿区、豊島区、文京区の3市7区に足を運んだ。
 利用した鉄道が6社(東急、東京メトロ、JR東日本、横浜市営、東京都営、京急)、13路線、22駅というのも変化なし。
 バスについては、新たに相鉄の「浜5」を利用し、また新たに1停留所を利用したので、6社(横浜市営、川崎市営、東急、神奈中、相鉄、京急)、25路線、28停留所を利用したということになる。【110+2=112】

 この記事を含めて30件のブログ記事を書いた。1月からの累計は339件となった。内訳は未分類0(18)、日記5(60)、読書9(112)、『太平記』4(47)、『神曲』5(49)、映画1(7)、詩0(17)、推理小説6(17)、その他0(12)ということである。コメントを2件頂いた。1月からの合計は45件、拍手コメントを1件頂き、こちらの累計は4件である。また拍手は457拍いただいていて、1月からの累計は6047拍ということになる。【355+33=388】

 本を17冊買い、13冊を読んだ。1月からの累計では137冊の本を買い、108冊を読んだことになる。読んだ本の内訳は、アントワーヌ・メイエ『ヨーロッパの言語』、円居挽『その絆は対角線』、森谷明子『花野に眠る 秋葉図書館の四季』、森谷明子『れんげ野原のまんなかで』、七河迦南『七つの海を照らす星』、デイヴィッド・J・ハンド『「偶然」の統計学』、円居挽『日曜は憧れの国』、前田速夫『「新しき村」の百年』、澤井繁男『ルネサンス再入門』、小川剛生『兼好法師』、A・E・W・メースン『矢の家』、司馬遼太郎『街道をゆく6 沖縄・先島への道』、エマ・ジェイムソン『第九代ウェルグレイヴ男爵の捜査録』。
 今月読んだ本の半数以上が推理小説であるが、言語学、数学、歴史など、推理小説以外の読書内容の多様さの方も見てほしい。すべて日本語の本であるが、英語からの翻訳が14冊、フランス語からが3冊、ギリシア語とイタリア語が各2冊、ロシア語とドイツ語が各1冊ずつということである。著者別では司馬遼太郎が6冊(すべて「街道をゆく」シリーズ)、ジェーン・オースティンが5冊、吉田健一、椎名誠、望月麻衣が3冊、プラトン、亀田俊和、芦辺拓、フローベール、森谷明子、円居挽が各2冊ということである。【97+13=110】

 『ラジオ英会話』の時間を19回、『高校生からはじめる現代英語』を6冊、『実践ビジネス英語』の時間を11回聴いている。
 『まいにちフランス語』の入門編を9回、応用編を7回、『まいにちイタリア語』の入門編を9回、応用編を7回、『まいにちスペイン語』の入門編を9回、応用編を7回、『まいにちドイツ語』の応用編を7回聴いている。(語学番組を聴いた回数の記録が混乱しているので、もう一度整理しなおすことにした。) 『まいにちイタリア語』応用編ではボッカッチョの『デカメロン』の中の1話とロレンツォ・デ・メディチの詩というルネサンス時代を代表する文学作品が、『まいにちスペイン語』応用編では19世紀スペインの作家フアン・バレーラの小説「ペピータ・ヒメネス」が、『まいにちドイツ語』応用編では主として1920年代のベルリンの都市文化が取り上げられていて、それぞれ興味深く聴いていた。(この際、言語についての関心よりも、文化への関心を優先させているのである。) 特に「ペピータ・ヒメネス」は、このところぼちぼちと読んでいるハーディーの初期の作品『緑の木陰』と(田園を舞台としていること、時代も似通っていること、恋愛が主題であることなど)似ている点があって、興味深い。 【+91】

 横浜駅西口ムービル5で『ミックス。』、神保町シアターで『起きて 転んで また 起きて』、シネマヴェーラ渋谷で『嫉妬』、『男の銘柄〕と4本の映画を見た。1月からの通算では4か所の映画館で51本の映画を見たことになる。古い日本映画ばかり見ているのがどうも気になるところである。【51+4=55】

 11月11日にすずらん通りの檜画廊で「佐藤ゆかり展」を見て、展覧会に出かけたのが7回となった。音楽会は3回と変わらず。【6+1=7】

 J2の第40節と第41節の試合、全国高校サッカー選手権の神奈川県二次予選の準決勝2試合、合計4試合を見た。1月からの累計では37試合を見たことになる。【38+4=42】
 970回のスポーツ振興くじのミニトトBが当たり、今年になってAを1回、Bを4回、合計5回当てたことになる。

 A4のノートを2冊、A5のノートを1冊、0.5ミリ(黒)のボールペン芯を3本、0.4ミリ(黒)のボールペン芯を1本、ビリジアンのボールペンを1本、万年筆の(黒)インクカートリッジを2本、修正液を1本使いきった。

 富士山を見たのが3日、酒を飲まなかったのも3日である。もう少し摂生に努めないといけない。
 
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