シェルブールの雨傘

8月9日(水)晴れ、依然として暑し

 8月6日に、中区真砂町のミュージック・スタージ・イライザで行われた別府葉子シャンソントリオ(ヴォーカル&ギター:別府葉子、ピアノ:鶴岡雅子、ベース:中村尚美)の「サマー・ツアー2017」に出かけた。第1部では7曲、第2部では6曲、アンコールを含めて15曲が歌われた。これまでのコンサートで聞いた歌が多かった中で、第2部の最初に「シェルブールの雨傘」(作詞:ジャック・ドミー、作曲:ミシェル・ルグラン、訳詞:あらかわ・ひろし)が歌われたのが印象に残った。いうまでもなく、ジャック・ドミー監督の代表作である映画『シェルブールの雨傘』の主題歌である。

 別府さんのブログを読んでいて気づくのは彼女が映画が好きだということである。それもフランス映画が好きで、映画の字幕の翻訳者になろうと思ってフランス語の勉強できる大学に入ったという話も読んだ。今回のコンサートでも、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『舞踏会の手帳』という映画の話が出てきた。私は不幸にしてこの映画は見ていないのだが(「不幸にして」というのは単なる修辞で、実はそれほど不幸だとは思っていない)、昔のヨーロッパの(アメリカも多分同じ)社交界にはいろいろなしきたりがあって、舞踏会で踊る予約をした相手の名前を手帳に控えておくのもその一つである。ある女性が、年をとってから、その手帳に名前が記された男性を一人一人訪問してみるという話だそうである。別府さんは、それから先を話すとネタバレになってしまいますから…ということで話を打ち切った。ジャック・フェデー、ルネ・クレール、ジャン・ルノワール、そしてデュヴィヴィエを(私の亡父が慶応ボーイだった)昭和10年代の日本の映画ファンたちは「フランス四大巨匠」と呼んでいた。私の父親が親しんでいたような古い映画にまで興味があるというのは相当なものである。

 さて『シェルブールの雨傘』は私が大学に入学した1964年に日本で公開された映画で、私の世代にとって懐かしい映画である。この映画は北フランス(ノルマンディー地方)の港町であるシェルブールを舞台に、愛し合う若い男女の男性の方がアルジェリア戦争のために兵役に取られてその中を引き裂かれて、それぞれ別の人生を歩むことになるが、偶然のことに再会し、それぞれの立場を理解して別れていくという話である。
 この映画を私はスクリーンで3回、TVで1回見ている。いつだったか、ラジオの『まいにちフランス語』で清岡智比古さんとレナ・ジュンタさんがこの映画を話題として取り上げたことがあって、爆笑コンビと称されるお二人がこの時はいやにまじめに話しているなと思った記憶が残っている。

 別府さんの歌を聴いて、映画の記憶がよみがえったのだが、特に気になったことが2つある。1つは既に書いたことだが、この映画がアルジェリア戦争を背景にしているということである。登場人物の運命に、アルジェリア戦争が何らかのかかわりをもっている映画として、アラン・レネ監督の『ミュリエル』とか、ロベール・アンリコ監督の『美しき人生』など、かなりの数の作品を取り上げることができる。先ほど触れたジュリアン・デュヴィヴィエ監督の最後の作品である『悪魔のようなあなた』で、主人公のアラン・ドロンが記憶喪失になったのも、どうもアルジェリアでの戦争のためらしいというように、この戦争の影はかなり大きかったのである。つまり、日本と違ってフランスは第二次世界大戦終了後も、インドシナの独立戦争、アルジェリアの独立戦争という植民地の人々の独立を求める要求を抑圧する戦争を戦ったということであり、そのような戦争はその時代の若者にとって<過去>ではなく、<現在>の問題だったのである。フランス映画における<戦争>の問題を考える時に、このことは無視できないと思った。

 もう一つは、シェルブールの駅で出征していくニーノ・カステルヌオーヴォをカトリーヌ・ドヌーヴが見送るシーン。これはこの映画の中で一番印象に残る場面だと思うのだが、日本で出征兵士を賑々しく送り出す(NHKの朝ドラなどの戦争中の描写でよく出てくる)のと大変な違いである。見送るほうも、見送られる方も一人だけ。フランスは個人主義の国だといってしまえばそれまでだが、哀切さが心にしみる。
 『シェルブールの雨傘』はセリフを歌にするなどの実験的な工夫が施されているとはいえ、わかりやすい映画である。南と北の違いはあるが、同じ港町を舞台にしたマルセル・パニョルのマルセイユ三部作を思い出させるような物語の展開部分もある。その意味では、伝統的な<人情>が踏まえられている。これにくらべると、イプセンの劇を思い出させるようなアラン・レネの『ミュリエル』はきわめて難解である。『シェルブールの雨傘』のヒロインの母娘が金がないと騒いでいる一方で、ディオールの衣装を着ていることの非現実性を、アンナ・カリーナが批判したという記事を読んだことがあるが、本当のところ、アンナ・カリーナはこういう分かりやすい映画に出演したかったということではないかと私は勝手に想像している。(なお、私はアンナ・カリーナの方がカトリーヌ・ドヌーヴよりも好きである。念のため。)

 別府さんが8月6日に歌う歌の1つとしてこの歌を選んだことで、映画について、あるいはその社会的な背景について、いろいろと考えるきっかけになったと思う。そのことを私が8月9日に書き記していることの意味もくみ取っていただければ幸いである。
 
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金明竹

6月27日(火)曇り、雨が降りそうで降らない

 「金明竹」は「寿限無」と並んで、前座の口慣らしに使われる噺だそうである。道具屋をしている親戚のもとで働いている与太郎が、主人の外出中に店番をしていると、同業者である中橋の加賀屋佐吉のところから使いがやってくる。そして
「わて中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度仲買の弥市の取り次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所物、ならびに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗珉小柄付の脇差、あの柄前は旦那はんが古鉄刀木(たがやさん)いやはってたが、埋木じゃそうにな、木ィが違うォとりますさかい、念のためちょとおことわり申します。次はのんこの茶碗、黄檗山金明竹、寸胴の花活、『古池や蛙飛び込む水の音』あれは風羅坊正筆の掛物で、沢庵、木庵、隠元禅師張交ぜの小屏風、あの屏風はなァもし、わての檀那寺の檀那寺が兵庫におまして、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって兵庫へやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますとなァ、かようお伝言(ことづけ)願います」
と早口にまくしたてた。頼まれた道具七品を受け取ったが、そのうち横谷宗珉の脇差は道具屋の主人の見込みと違って古鉄刀木(たがやさん)ではなく埋木で使われている木の種類が違う、さらに沢庵・木庵・隠元の張り交ぜの小屏風は佐吉(わてといっているが、使いの者ではなくて、その主人と考えた方がよかろう)の檀那寺の和尚が気に入ってしまった自分のものにしたという伝言である。後で書くように、多少怪しげなところもあるのだが、刀剣類と茶碗に掛物(風羅坊というのは松尾芭蕉のこと)と屏風など、一応もっともらしい品物が並べられている。骨董に興味のある人ならばわかるはずの内容であるが、使いの者が現在と違って江戸→東京の人にとって耳なれていなかった上方の言葉を使い、しかも早口でまくし立てた(伝言にやってきた使いの者にも、この点で聞き手への配慮が欠けている。あるいは相手が道具屋の身内だから、自分と同じ程度の骨董品についての知識があると思ってまくし立てたのかもしれない)。わるいことに応対に出た与太郎は、頭が悪いうえに、仕事を覚えようという意欲がないから、専門的な言葉が連ねられているこの口上が全く理解できない。それどころか、耳慣れないことばかり話すので、「おばさん、よくしゃべる馬鹿が来たよ(バカは自分である)」とおもしろがってばかりいる。

 道具屋のおかみさんが出てきて相手になったのだが、やはり口上の意味が全く分からない。一応丁寧には応対するのだが、何度も同じことを話しさせられたもので、使いの人はすっかり怒って、店へ帰ってしまう。その後から道具屋の主人が戻ってきて、何と言ってきたのかおかみさんから聴こうとするのだが、さっぱり要領を得ない。「仲買の弥市が気が違って、遊女を買って、その遊女が孝女で、千艘や万艘と遊んで、掃除が好きで、隠元豆に沢庵ばっかり食べて…」といった調子である。「はっきりしたとこが一つくらいないかい」「古池へ飛び込みました」「え、あいつには道具七品を預けてあるんだが、買ってかなあ」、「いいえ買わずでございます」。

 コミュニケーションということからいうと、この道具屋はまったく内部におけるコミュニケーションが取れていない。道具屋と加賀屋佐吉の間には「道具七品」の取引があり、加賀屋からの使いもその旨一番初めに「道具七品」と言っているのに、与太郎も、おかみさんもそれを聞き逃している。加賀屋佐吉(あるいは仲買の弥市)と道具七品がすぐに思い出されて結びつくようになっていなかったのが、間違いのもとである。ということは、実はこの事件の最大の元凶は店の大事な用件について何も言い置かずに外出して、事態を混乱させた道具屋の主人であるといってよかろう。

 さて、細かいことであるが沢庵は臨済宗の僧侶で、木庵と隠元は黄檗宗である。昭和の名人6代目三遊亭圓生は次のように述べている:「張交ぜの屏風のくだりを、私は『沢庵禅師の一行物、隠元、木庵、即非張交ぜの小屏風』と改めました。沢庵、木庵、隠元禅師の物は張交ぜにしないと、ある骨董商のお客様からうかがったからです。」(矢野誠一『落語手帳』、81ページ) なお、隠元、木庵、即非を黄檗宗の三筆という。
 さらに言えば、金明竹という竹があって、マダケの第一層が突然変異を起こして黄色くなったもので、黄色の中に緑色の筋が入っている竹だそうである。日本での最古の記録は1795年に京都で発見されたものだそうで、国や各府県の天然記念物として全国5か所で保存されているという。また銀明竹というものもあるらしい。

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』の周辺(3)

6月6日(火)曇り

(5月18日、19日に掲載した記事に続く)
 市民的、あるいは社会的自由の問題は、社会が個人に対してどのように、またどこまで干渉しうるかという問題に言い換えられるとミルは考えている。政治の主導権が人民に移った社会においては、人民の多数派が政府を形成することになる。では、多数派は少数派の思考や行為をどこまで規制できるのか。この問題について、ミルは、多数派と言えども、自分たちに直接的に危害が及ぶ場合に正当防衛権を行使できるだけである、問題が個人に属する限り、その結果がどのように予測されようと個人の自由は尊重されるべきであるという。そこから彼は、思想および言論の自由、個性の尊重、そして個人を支配する社会の権威の限界について論じてきた。さらに第5章では、これまでの議論の例証として自由の原則の応用について論じている。

 当初の予定では、第5章の中での<教育の自由>に関連する箇所について取り上げようと思った(5月18日に研究会で発表した際にはそうしている)、その前に展開されている議論についても省略せずに見ていくことにしたい。

 ミルは自分の議論が2つの格率に基づいて構成されており、この両者の意味と限界とがそれらの応用を通じて明らかになる、あるいは両者の間の平衡を保つのに役立つと述べる。
 格率の第一は、個人は彼の行為が彼自身の何者の利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていないということである。第二は、他人の利益を害する行為については、個人は責任があり、また社会が、その防衛のために社会的刑罰または法律的刑罰を必要とする意見である場合には、個人はそのどちらかに服さなければならないということである。

 他人の利益を害する行為に対して社会が干渉を加え、これを処罰することがあるといっても、社会の干渉は常に是認されるわけではないとミルは言う。自由な市場経済においては、競争が行われ、その結果として勝者と敗者が生まれる。勝者は敗者の利益を害したわけであるが、勝敗が人類全体の利益に合致するものである限り、社会が敗者を支持して競争結果を覆そうとすべきではない。干渉が正当なものとなるのは、詐欺・違約・暴力などの不正行為が競争の結果を左右した場合に限られる。
 さらにまた商業の場合、生産者と販売者に完全な自由を与えることが、品質がよく安価な商品の流通の条件であるともいう。混ぜ物をして商品の品質を落としたり、危険な仕事に労働者を従事させたりするということは、むしろこれらを統制することの方が社会全体の利益が大きいのであるから、自由の議論の対象外となるともいう。

 次に問題となるのは、犯罪や災害を予防するために、自由を侵害することはどの程度まで正当でありうるのかということである。ミルはここで毒薬の販売を例として取り上げているが、現在のアメリカで問題になっている銃砲の販売・所持を思い出してもよいかもしれない。毒薬は使い方によっては社会の害悪を取り除くのに役立つので、全面的に禁止することはできない。そこで、ベンサムの言う<予定的証拠>(preappointed evidence)を用意することが必要となる。これは物品の売買についての詳しい記録を残しておくことによって可能になるという。(今の日本では、毒薬ではない一般の処方薬についても薬局が記録を残しているし、患者の側でも薬手帳を持つことが勧められている。しかし、どうもそれだけでは十分ではなさそうである。)
 
 社会が事前の予防策を講じることで犯罪や災害を防止しようとすることは正当であると(ただし、すでにみたように防止手段にはかなり厳しい条件を付けている)論じ、さらに他人の迷惑にならない限り、何をしてもいいかという議論について、何をしてもいいということにはならないと答える。大酒を飲んで他人に迷惑をかけた人間を処罰するだけでなく、大酒を飲んでばかりいる人間をアルコール中毒患者の収容施設に入れることも正しい措置だという。ある人間が怠惰の結果貧しく暮らしているのは、放置しておいてよいが、その結果として扶養すべき自分の子どもを放置しているというような場合には、強制労働を課しても構わないと論じる。自分の子どもと言えども、他人であるから、放置は他人に危害を加えることであるというのである。

 次に直接には行為者自身にとってのみ有害であって、従って法律によって禁止すべきではないが、しかしそれが公然となされるならば良俗を害することになるという種類の行為がある。公序良俗を害するということになると他人に対する犯罪と見なして社会はこれを禁止できる。不倫は黙認されるが、公然たる売春あっせんは処罰の対象となる。個人個人が賭けをすることは大目に見られるべきであるが、賭博場の経営は自由に放任されてはならないものである。このあたり、<最大多数の最大幸福>という功利主義的な原理で議論が貫かれている。

 <教育の自由>について論じるまで、まだ時間がかかりそうである。社会の組織が複雑になり、個人個人の利害が複雑に影響しあい相互に依存しあう社会にあっては、ミルの議論の有効性はかなり限られたものとなるだろうが、彼の古典的な自由主義について知っておくことは、現代の「新自由主義」について理解するためにも必要ではないかと思われる。
 賭博で思い出したのは、英国にはbookmakerという看板を掲げた店舗があり、競馬などの賭けを引き受けて配当金を支払う業者であるが、初めて見た時、何のことかわからず、中に入りかけてやっと気づいたことがある。ホガース(William Hogarth, 1697-1764)が版画「ジン横丁」で描いたような飲酒の極端な弊害は、ミルの時代にはかなり改善されていたように思うが、それでも20世紀に入っても、ロンドンの街を歩いていると、アルコール中毒と思しき老人をよく見かけたのを思い出す。

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』の周辺(2)

5月17日(水)曇り

 ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-73)は1859年に出版された『自由論』(On Liberty)の中で、大衆民主主義が実現していく過程で、多数者が自分と意見の違う少数者を圧迫する「多数者の専制」(The tyranny of the majority)現象が起きることを警告し、個人が自分自身について決定し実行することは、基本的にその個人当人の自由なのであって、他人が多数意見だからといってそれに反することを強制したり統制したりすることはできないはずだと論じた。唯一、干渉してよいのは、他者が自分に暴力をっくわえようとしている時に、それを阻止するという正当防衛と見なされる場合だけであるという徹底した自由主義、個人主義の立場を主張している。

 彼はこの主張に続いて、この書物の第2章で思想と言論の自由(the liberty of thought and discussion)について考察する。ミルは思想と言論の自由が認められなければならない4つの理由を述べている。
 ① ある主張を権威として認める多数の人々が、異論を唱える少数の人々を抑圧しようとしているが、実は少数者の異論の方が正しい場合があるということである。権威が常に無謬であるということはあり得ない。アテナイの市民によるソクラテスの裁判やローマ帝国によるキリスト教の弾圧などの例を想起すればよいという。(日本では徳川幕府と勤王の志士の関係を思いうかべるのがよいだろう。)
 ② 大体において間違っている意見であっても、部分的に真理を含んでいる可能性がある。そして衝突しあう意見の片方が真理であるということはまれであるから、両方の意見を戦わせることによって、それぞれの意見から真理を引き出してより良い意見を作っていくことが望ましい。
 ③ 支配的な意見が真理であっても、それに対する反論がなされ、議論が展開される方がその真理性についての理解が深まるはずである。ミルは政治を健全な状態に置くためには、「秩序あるいは安定の党」(a party of order or stability)と「前進あるいは改革の党」(a party of progress or reform)とが存在することが必要であるという。「二つの考え方のいずれにも、理性を失わせず常軌を逸させないものは、主として相手方の反対というものなのである。」 
 ④ ある意見を支持する立場が、特に異論もなくそのまま継承されていくことは硬直化や形骸化に導く恐れがある。
 そして、反対派に対して敬意をもち続けることが公共の議論における最大の道徳であると述べてこの章を締めくくっている。
 真理が人知からきわめて遠いところにあって、自分たちは真理への道の途上にあるという意識が強く感じられ、社会で権威をもって主張されている意見の無謬性が疑われていることが特徴的である。この書物が発行された1859年はダーウィンの『種の起源』が出版された年であることも付け加えておく必要があるだろう。

 第3章は個性(individuality)について取り上げ、伝統や習慣に基づいてではなく、個人個人が自分の責任において行動することが重要であると述べる。そして大衆的な民主主義が発展する中で、個人個人が他人の思惑を気にして日常生活に埋没し、世の中が凡庸化していることを憂慮し、そのような社会の改革に向けて「天才」が指導的な役割を演じることを期待している(自分自身をどのように考えていたかも気になるところである)。さらに凡庸化する社会の中でむしろ奇矯な行動が容認される必要があると論じているのも興味深い意見である。

 第4章では「個人を支配する社会の権威の限界」(the Limits to the Authority of Society over the Individual)について論じられ、ある個人の自分自身だけに関係のある事柄と、他人に関係のある部分とを区別して、後者については社会の支配は及びうるが、前者は放任すべきであるという。ミルの個人主義の特徴が強く出た議論で、<愚行権>(例えば、大酒を飲むのは健康によくないからといって止めるのは不必要な干渉で、本人の損になるような愚行であると思っても止めるべきではない)の問題もここから出てくる。(しかし「受動喫煙」というような問題もある。)

 以上、ミルはかなり徹底した個人主義を掲げて、自由の問題について議論している。彼の議論の根底にあるのは、各個人は社会の中でいわば原子のようなものとして独立に存在しているという考えであるが、彼の時代の様々な社会問題をこの考え方で解決することは難しいことにもミルは気づいていた。彼が社会主義に関心を寄せたのもこのことと関連すると思われる。 

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』の周辺

5月16日(火)晴れのち曇り

 明日(5月17日)にある研究会でジョン・スチュアート・ミル『自由論』(On Liberty, 1859)についての発表をすることになり、準備中である。その準備の中で考えたことを、いくつか書き連ねていこうと思う。

 ミル(John Stuart Mill, 1806-73) は英国の功利主義(utilitarianism)を代表する哲学者・論理学者の1人であり、古典学派に属する経済学者でもあった。哲学者としては、『論理学体系』(System of Logic, 1843)、『功利主義』(Utilitarianism)など、経済学者としては『経済学原理』(Principles of Political Economy, 1848)などの著作があり、このほか彼の時代の政治・社会問題について発言する多くの論説を残した。その中でこの『自由論』はもっとも有名で、よく読まれてきた著作である。日本では中村敬宇が『自由之理』として明治5年(1872)に翻訳を発表しているが、著者の意図を十分に反映したものではなかったようである。(小泉仰によると明治7年に西周が『明六雑誌』に発表した西周の「人生三宝説」は、ミルの功利主義を十分に理解した上に、さらにその学説を発展させた独創的な論文だそうであるが、今、ここでそのことにこだわっている余裕はない。)

 ミルでよく知られているのは、彼が父親であるジェイムズ(James Mill, 1777-1836)によって3歳からギリシア語、8歳からラテン語、12歳から論理学の教育を受けるという大変な英才教育を施されたことである。このことをめぐり小泉仰が次のように述べているのはおおむね賛同できる意見である:「ジェイムズの徹底した合理主義的教育は、ミルの天才的素質があったからこそ有効に働いたということができるが、一方で、いろいろな問題を含んでいる。その一つは、ジェイムズが自分の教育方針を徹底させるために、ミルが他の少年たちと遊ぶことを禁じてしまったことである。このために、学校教育の重要な教育的意義の一つでもある社会教育や実践的な教育を、ミルに与えない結果になった。つまり、ミルを実験室の中に閉じ込めてしまうような不自然さをともなうことになった。言い換えると、ミルは、社会生活に役立つ実践的訓練を受けられず、実際的人間であるよりは、知る人間としての教育だけを受けることになった。こうした隔離教育の面だけから見ると、彼の受けた教育は、「人造人間」の教育であるという批評は、ある程度当てはまりかもしれない。」(小泉(1997)『イギリス思想叢書10 J.S.ミル』研究社出版、15⁻16ページ)
 ここで小泉がいう「社会教育」というのは学校外で行われる組織的な教育という意味ではなくて、子どもの社会性の発達を促す教育というような意味であろう。長じてミルは東インド会社に35年勤務し、1865⁻68年には下院議員を務め、女性の権利の擁護など、当時の社会的な問題の多くに関心を寄せ、改革運動に積極的に関与した。だから、社会的関心や行動能力が父親の教育によって育たなかったとは考えられないが、彼の著作の中から感じられる孤独の悲哀のようなものはその結果であったかもしれない。

 『自由論』は1859年に発表された。チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版したのと同じ年である。ミルはこの書物が意思の自由という哲学的(神学的)問題ではなくて、「市民的、あるいは社会的自由」(civil, or social liberty)を主題としていると最初に断っている。人間は社会的な存在であり、もし社会の中で各人がそれぞれ勝手に行動すれば混乱が起きる。そこで法律なり規則なり、あるいは慣行なりによってそれぞれの自由を制限する必要がある。だから社会的自由の問題は、言い換えると社会はどのような理由でどこまで個人の自由を制限できるのかという問題になる。

 歴史的にみると自由と権威の問題は民衆(その全部あるいは一部)と政府の問題として展開されてきた。しかし、民主主義の流れが強まると、民衆の選挙によって政府が選ばれるようになり、問題は変質した。民衆の間の利害は同一ではないし、それゆえに彼らの意思も一つにまとめられるわけではない。選挙によって政府を選ぶということは結果的に、「人民の意志は、実際には人民の最多数の部分または最も活動的な部分の意志」(ミル、塩尻公明・木村健康訳『自由論』、岩波文庫、14ページ)ということである。その多数者が自分と意見の違うものを圧迫するという「多数者の専制」(the tyranny of the majority、塩尻・木村はtyrannyを「暴虐」と訳している)が彼の時代における政治的害悪の最大のものの一つとなっているとミルは説く。一ノ瀬正樹はこの点について「多数決によって何かを決定していく、という一見民主主義の基本的なプロセスの中に宿る、ある種の不当性、暴力性をミルは見取っていたのであった」(一ノ瀬『英米哲学史講義』、ちくま文庫、148ページ)と指摘している。また、一ノ瀬がフランスの哲学者コンドルセの「投票のパラドックス」を引き合いに出して、多数決が必ずしも正確に民意を反映するものではないと述べているのも見逃せないところである。(一ノ瀬、前掲、155ページを参照のこと)

 一ノ瀬によると、ミルには個人が自分自身について決定し実行することは、基本的に、その個人当人の自由なのであって、他人が多数意見だからといってそれに反することを強制したり統制することはできないはずだという徹底した自律的個人観があった。個人もしくは集団は、万人に自明な原理によってこそ、個人の行動の自由に正当に干渉できるというのがミルの意見である。そして、そのような原理は「他人に対する危害の防止」(他者危害原則)であるという。つまり、他者の行動に干渉できるのは、他者が自分に暴力を加えようとしているときに自分がそれを阻止しようとして相手に手出しをするというような場合、つまり正当防衛の場合だけで、それ以外の場合は他人に害を加えないのだから本人の自由に任せてほうっておくべきだというということである。(一ノ瀬がこの後で論じているように、ミルの議論の中にもおかしい部分があって、それをどのように補ったり修正していくべきかということも問題となる。)

 そういえば、午前中、スーパーマーケットの弁当売り場にいたら、近くにいた老人が売り物の弁当のパックを勝手に開けて中身をむしゃむしゃ食べているのを見かけた。この人がその後で代金を払えば問題はないとは思うが、どうも気になることであった。ミルは、他者危害原則は精神の未発達な人間には適用されないと述べているが、彼の時代には認知症の老人というような存在は問題にならなかったようである。

 この後、「言論と思想の自由」、さらに一ノ瀬さんが注目している「愚行権」をめぐる議論についても取り上げたかったのだが、考えをまとめることができないままでいる。明日は研究会の準備をして、ブログの更新は帰宅後ということにするつもりなので、明日中には無理かもしれない。また、皆さんのブログへの訪問もできそうもないので、悪しからずご了承ください。 
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