呉座勇一『応仁の乱』(16)

3月30日(木)晴れ

 11年にわたる応仁の乱(応仁元年1467~文明9年1477)は「京都を焼け野原にしただけで、一人の勝者も生まなかった。しかも戦乱の火種は完全に消えたわけではなかったのだ。」(199ページ) 細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍とが戦端を開くきっかけになったのは畠山義就と政長の家督をめぐる争いであったが、乱の終結後もこの問題は決着がつかないままであった。
 応仁の乱までの時期に、室町幕府を支えてきたのは、複数国の守護を兼ねる在京大名たちであった。「ところが応仁の乱終結後、大名たちは次々と分国へ帰っていった。朝倉孝景に越前を乗っ取られた斯波義敏・義寛父子を見ればわかるように、守護が守護代などに分国統治を任せ京都に滞在することは、もはや百害あって一利なしだった。」(231ページ)
 こうして大名たちが京都にいなくなると、幕府内では将軍親衛隊である奉公衆と文書行政を扱う奉行人との勢力が増大する一方で、奉公衆と奉行人の対立が激しくなった。義政の後に将軍になった義尚は奉公衆の支持を集め、寺社本所領の回復という政策を掲げながら、その実、奉公衆たちが寺社領の代官としてその力を蓄えることを目指していた。長享3年(1489)、将軍足利義尚が死に、義政の妻、義尚の母である日野富子が、細川勝元の後継である政元の反対を押し切って、義政の弟である義視の嫡男の義材を将軍とした。ところが富子が将軍御所として使われていた小川殿を義材と将軍の座を争った清晃(義政の庶兄である政知の息子)に与えようとしたことから義視・義材父子と富子の関係が悪化、延徳3年(1491)に義視が死ぬと、義材はいよいよ孤立し、側近政治に走り、旧来の幕臣たちの支持をますます失ったのであった。

 長享3年(1489)7月にそのころはまだ生存していた足利義政は在京と寺社本所領の返還を条件に六角高頼を赦免したが、荘園現地を実効支配している高頼の家臣たちが返還命令に抵抗し、近江は依然として騒然としていた。延徳3年(1491)8月に、将軍義材は義尚が長享元年(1487)が行った企てに続く、第二次の近江遠征を試みた。義尚の場合と同様に、奉公衆との結束を強化し、かつ彼らに恩賞を与えるための遠征であったと考えられる。討伐軍は勝利を重ね、明応元年(1492)末に京都に戻った(ただし、六角高頼の首級をあげることはできなかった。)

 近江の次に河内に遠征すると決めていた義材は明応2年(1493)2月、京都を出発して、24日には正覚寺(現在の大阪市平野区加美正覚寺の旭神社境内にあった)に陣を構えた。畠山政長と畠山氏の家督を争ってきた義就は延徳2年12月に病没し、基家が後を継いでいたが、その基家の本拠地である高屋城(現在の大阪府羽曳野市にある)との距離は10キロメートルほどである。「数に勝る幕府軍は戦局を優位に進め、次第に包囲網を狭めながら高屋城に迫っていた。」(243ページ)

 ところが思いがけない事態が4月22日に起きる。その日の晩、京都に残留していた細川政元が日野富子・伊勢貞宗と示し合わせて挙兵し、清晃を将軍に擁立したのである(足利義逴=よしとお、後に義高、義澄と改名)。これを明応の政変という。
 反義材派の京都制圧を知ると、諸大名や奉公衆は次々と義材を見捨てて京都に帰還してしまった。義材のもとに最後まで留まった幕臣は畠山政長をはじめとするわずか40人ほどになってしまった。もともとさしたる大義名分もなく、戦勝によってもたらされる利益の薄い戦争であったために、幕府軍の戦意は低かった。
 政変に伊より河内の戦況は一挙に逆転し、足利義材と畠山政長・尚慶(ひさのり→尚順=ひさのぶ)父子は正覚寺に孤立した。閏4月25日、正覚寺は陥落し、政長は自害、尚慶は紀伊に逃亡、義材は捕縛されて京都に護送され、細川政元の重臣である上原元秀の邸に幽閉された。

 呉座さんの本から離れることになるが、政長の自害をめぐっては有名な説話がある。政長はもともと足利将軍家のものであったという粟田口の名工、藤四郎吉光の短刀で腹を切ろうとするのだが、腹に刀を突きたてても刃が通らない。それでこれは名刀だと言われているが、役に立たない道具だと言って投げ捨てると、そばにあった薬研(漢方の薬種を細粉とする金属製の器具)を裏まで突き通した。そばにいた家臣の丹下備前守が自分の差料である信国の脇差で自分の膝を2度切って試し、主君に渡し、それで政長は腹を切ったという。ここから、この刀は<薬研藤四郎>と呼ばれ、藤四郎吉光の短刀は切れ味は抜群であるが、主人の腹は切らないという言い伝えが生まれたという。<薬研藤四郎>はその後、室町幕府に戻り、さらに松永弾正から織田信長に献上され、本能寺の変を経て豊臣秀吉のものとなり、秀頼に伝えられたという。大坂城落城後に徳川家康に献上されたという話もあるが、刀の長さの記述が違うので、吉光の別の刀ではないかという説もある。とにかく、現在では所在不明の幻の名刀になっているそうである。

 政長自刃の後日談が幸田露伴の短編小説「雪たたき」である。明応2年12月の初めの堺の街はずれというわけではないが静かな一角。前日の夕方から降り出した雪が積もる中、田舎の方から町へと歩んできた一人の男が、下駄の刃の間に雪が詰まって歩きにくくなり、近くの家の小門の裾板に下駄をトントントンとぶつけて雪を落とした。と、門が開いて、男は家の中に迎え入れられた。家の中で思いがけない富貴を見せられた男であったが、彼が案内された部屋にあった笛を手に取って、姿を消した。
 題名になっている「雪たたき」は下駄の刃の間に詰まった雪を叩き落とすことであるが、家の中にいた女はそれを、かねてから決められていた合図と間違えて、間違った人物を迎え入れたのである。男が持ち去った笛は畠山家に伝わるゆかりの品であって、やがて男の住処を探し当てた畠山家の遺臣たちが男のもとに返還を迫りにやってくる。
 その後、遊佐河内守の率いる畠山の残党は平野城を攻め落とし、大和に潜んでいた尚慶を迎えて、河内の高屋城を本拠として畠山家(尾州家)を再興したのであった。
 なんとなく、わかりにくい話で、その後、海音寺潮五郎がさらにこの小説に着想を得て「剣と笛」という小説を書いているそうであるが、こちらは未読。

 閑話休題。いったん、京都に幽閉された義材は脱出して越中に逃れ、自分こそが正統の将軍であるとして、一部の大名や奉公衆・奉行人の支持を集めて失地回復の戦いを続ける。この後「二人の将軍」が常態化し、戦国時代の近畿地方の政治史は「二つの幕府」の抗争史という性格をもつことになるが、これは既に応仁の乱で見られた構図の延長線上にあるものだと呉座さんは説いている。
 細川政元、日野富子と結託して明応の政変を成功させた伊勢氏は、山城への支配を強化しようと企み、もともとは興福寺に仕える官符衆徒であった古市澄胤を守護代として起用、細川政元の消極的な姿勢も手伝って、山城国人の抵抗を排除していくことになる。クーデターにより政権の掌握を図った政元であったが、その後の畿内の情勢は彼の思惑通りには進まなかったのである。

 応仁の乱が終わり、明応の変を経て、いよいよ「京の将軍、鎌倉の副将、武威衰えて偏執し」という『八犬伝』の書き出しのような事態が展開することになる。尾張と越前の守護であった斯波氏は、越前を朝倉氏に乗っ取られ、やむなく尾張だけを自分の分国として、その支配を固めようとする。義材の第二次六角征伐に際して軍功を挙げた武士として名が挙げられている1人が斯波氏の尾張守護代である織田敏貞であるというふうに、守護代クラスの武士たちが大いに力をつけて、やがては守護に取って代わろうとしているのである。(既に書いたかもしれないが、織田氏は越前の二ノ宮である劒神社の社家であって、劒神社の所在地である織田をそのせいとしたのである。どうでもいいけれども、福井県の織田は「おた」と読む。)

 次回は「終章 応仁の乱が残したもの」について紹介・論評する。思いがけず、長い連載になってしまったが、こうやって読んでいくうちにずいぶん自分の知識を整理しなおすことができた。それでも露伴の「雪たたき」など、まだ十分に得心がいっていないところがあって、また機会を改めて読み直してみようと思う。
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ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(16-1)

3月29日(水)曇りのち晴れ

 ベアトリーチェに導かれて、地上から天空へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天を経て、火星天に到着する。そこで彼は、彼の玄祖父であるという魂に出会う。カッチャグイーダと名乗るその魂は、古き良き時代のフィレンツェの市民であり、神聖ローマ帝国皇帝であるコンラートによって騎士に叙任され、十字軍に参加して戦死(殉教)したのだという。

おお、芥のごとき、血統による我ら人の高貴さよ、
人の欲求が病むここ下界で、
おまえが人々を惑わしておまえのことを誇示させようとも

私にとって驚くべきことではない。
というのも欲望が歪むことない場所、
告白すれば、天空にあってでさえ、私は自分の血筋を誇らしく思ったからだ。
(238ページ) 『神曲』という作品は、ダンテが地獄、煉獄、天国への旅を終えて地上に戻った後で、その経験を思い出して書かれたという形式をとっている。それで、地上の人々が「芥のごとき、血統による我ら人の高貴さ」に惑わされていることについて触れ、自分自身も天国で先祖が騎士であったことを初めて知り、誇りを感じたと告白する。天国にあっては、血統はどうでもいいことである。

そう、お前はすぐに短くなる外套だ。
日々継ぎ足されねば、
時の鋏に切り落とされていく。
(同上) 血統などというものは時間の推移によって、価値を減じる可能性のあるものだという。そう言いながら、ダンテは自分の先祖に向かって「閣下」と呼びかけてしまう。これを聞いたベアトリーチェは、地上世界の悪弊を引きずったダンテの貴族崇拝が、天国とは関係のない、地上事物への愛着にまつわることであるとして否定的に苦笑した。

 ダンテはカッチャグイーダに4つの質問をする。①ダンテとカッチャグイーダの先祖は誰なのか? ②カッチャグイーダはいつ生まれたのか? ③カッチャグイーダの時代のフィレンツェの大きさと人口。④そのころの貴族にどんな人々がいたのか。

 カッチャグイーダは生まれた年を、聖母マリアの受胎が告知された日を紀元の始まりとする当時のフィレンツェの暦で、1091年であると述べた。先祖たちについては、その住まいをエリゼイ家が居を構えていた当時のフィレンツェ東端のコルソ通り沿いの西端と答え、エリゼイ家との関係を暗示したが、それ以上は語らなかった。
わしのご先祖達についてはこれを聞いて満足せよ。
彼らが誰であったのか、どこからここへ来たのか、
話すより黙っている方が適切である。
(242ページ)

 フィレンツェの大きさと人口についてカッチャグイーダは
その時代に軍神マルス像と聖ジョヴァンニ洗礼堂の間にいた
武装可能な市民の総数は、
今生きている者達の5分の1であった。
(同上)と答える。「軍神マルス像と聖ジョヴァンニ洗礼堂の間」という市の大きさはカール大帝時代に築かれた古い城壁に囲まれた市域に相当し、人口については解釈が分かれていて、定説がないそうである。
 カッチャグイーダは、彼の時代には周辺の地域からの人口流入はなく、市が拡張しなければ、商業都市であるフィレンツェ本来の交換の文化とは異質の、封建制戦士の<奪う>文化が持ち込まれることはなかっただろうという。
人々の混交はいつでも
都市の災厄のはじまりであった。
むやみに詰め込んだ食べ物がおまえたちに害となるように。
(244ページ) ダンテは周辺地域からの封建領主(職業戦士)と農民(領主に従う兵)の流入や、彼らと都市住民との混交が都市に分裂をもたらし、衰亡の原因となると考えた。中世において、混交は神の定めた秩序への壊乱であり、害をもたらすとされたからである。
…また五本の剣より一本の剣が
鋭くよく切れることはままある。
(同上) ここで「剣」はフィレンツェの市民軍を指す。剣が五倍に増えたダンテ当時のフィレンツェ軍よりも、剣が一つだったカッチャグイーダのころの軍の方が強いというのである。そしてさらにカッチャグイーダは、いくつかの例を挙げて、都市や家にも栄枯盛衰があると述べた。

 ダンテが、市の拡大の歴史を否定的にとらえているのは、彼をフィレンツェから追放することになる人々の先祖が、もともとフィレンツェの市域に属さなかった周辺の村の出身であったことも影響しているようである。ここでダンテは一方で商業都市の<交換の文化>が中世の騎士の<奪う>文化よりも優れたものであるという、初期資本主義を擁護する発言をし、他方で昔はよかったという保守主義的な議論を展開している。市域の拡大が、ほかならぬ<交換の文化>によって促進された商業の繁栄の結果であるとは考えていないのである。彼の社会哲学にはこのように2つの側面があり、だからこそ、彼は「中世最後の人」と呼ばれるのではないかと思う。 

ジェイン・オースティン『エマ』(6)

3月28日(火)晴れのち曇り

これまでのあらすじ
 19世紀の初めごろ、イングランド東南部のサリー州ハイベリーの村に住むエマ・ウッドハウスは、村一番の大地主の娘で、美人で頭がよく、村の女王様的な存在である。早く母を失い、姉は結婚してロンドンで暮らしている。母親代わりを務めていた家庭教師のミス・テイラーが村の地主の1人であるウェストン氏と結婚したので、善良だが病弱で、凡庸な精神の持ち主である父親と二人暮らしになった。父親の面倒を見なければならないので、本人は結婚する意志はないが、ウェストン夫妻の結婚に至る縁結びをしたのは自分だと信じている彼女は、さらに別の縁組をしようと考え、村の牧師で独身のエルトンに目をつける。
 物事が自分の思い通りになってきたために、自分の力を過大評価する傾向のあるエマに対して、その欠点を直言できるただ一人の人物が隣村であるドンウェルの大地主で、エマの姉のイザベラの夫ジョンの兄であるジョージ・ナイトリーであるが、彼はエマのそんな思い付きを余計なおせっかいであると止めようとする。
 村の寄宿学校の特別寄宿生であるハリエット・スミスと知り合いになったエマは、かわいくて気立ての良い彼女がすっかり気に入り、彼女とエルトンとを結びつけようとする。しかし、野心家のエルトンが結婚相手として念頭に置いていたのはエマの方であり、エマに求婚を断られたエルトンは、保養地であるバースに向かい、そこで知り合ったミス・ホーキンズと婚約する。
 村の元牧師の未亡人であるベイツ夫人にはジェイン・フェアファクスという孫娘がいて、陸軍士官だった死んだ父親の友人のキャンベル氏に引き取られてロンドンで暮らしていたが、キャンベル夫妻が結婚した娘の嫁ぎ先であるアイルランドを訪問している間ハイベリーに里帰りする。ジェインはエマと同じ年頃で、才芸に秀でた美人であるが、慎重な性格でエマは彼女が気に入らない。
 一方、ウェストン氏には死んだ前妻との間に儲けたフランクという息子がいて、ヨークシャーに住む前妻の実家のチャーチル家で養われている。養家の事情からハイベリーにやってくる事は無かったフランクがとうとう父親に会いに村を訪問する。エマは明るい性格のフランクが気に入り、すぐに打ち解ける。ウェストン夫妻はフランクとエマを結びつけようと考えている様子である。
 エマはフランクがロンドンに散髪に出かけると聞き、驚き、彼の軽薄さにあきれる。(実は、散髪は口実で別の用事があるのかもしれないが、なぜか彼女の想像力はそういう方向に働かない。) 村で2番目の金持ちである成り上がりのコール氏からのディナーの招待状を受け取ったエマは、出席を断るつもりであったが、周囲の人々の勧めもあって出かけることにする。(以上25章まで)

 エマの心中を知ってか、知らずにか、フランクは上機嫌でロンドンから戻ってくる。心ならずもコール家のディナーに出席することになったエマは、それでもフランクに会って、彼を観察するのを楽しみにしている。ハイベリーの主だった人々が皆招待されている会の中で、エマはジェインのもとにロンドンの楽器店からピアノが届けられたという話題を耳にする。贈り主が誰なのかというのがその関の話題の中心であった。ジェインの養い親であるキャンベル夫妻ではないかという意見が有力であったが、エマは夫妻の娘の嫁ぎ先のディクソン氏が送り主ではないかと想像する。ジェインとディクソン氏が人目を忍ぶ恋をしているのではないかとさらに想像を膨らませる。この話題を聴いてなぜかフランクはにこにこしている。
 お茶の時間にいつもは歩いているナイトリー氏がこの晩に限って馬車でやってきたのは、ミス・ベイツとジェインの送り迎えのために借りたのだという話題を持ち出したウェストン夫人は、ナイトリー氏はジェインとの結婚を考えているのではないかとエマに言う。エマはなぜかむきになって反対する。お茶の時間が終わって、音楽の時間になり、エマとジェインがピアノを弾く。「歌も演奏も、ミス・フェアファクスのほうがはるかに上手だということは、エマも認めざるをえない。」(中野訳、上巻、351ページ、「認めざるをえな」くても、相手の方が上手だと分かる程度には、エマの技量が進んでいるということも認めてよい。) ジェインとフランクはもともと知り合いだったようであるが、2人の様子を見ていると、以前に一緒に歌ったことがありそうである。その後、ダンスをすることになり、エマはフランクと先頭に立ってダンスを楽しむ。しかし、2曲踊ったところで、会はお開きになる。(第26章)

 翌朝、ハリエットの訪問を受けたエマは、ハリエットのお茶の会での経験を話す様子から、依然彼女に求婚し(エマがその申し出を断らせた)自営農民のロバート・マーティンのことをハリエットが完全には忘れていないことに気付き、彼女の買い物に同行しようと考える。買い物先でエマはウェストン夫人とフランクに会う。2人はベイツ夫人を訪ねてやってきたという。2人からエマのことを聞いたミス・ベイツ(ベイツ夫人の娘で、ジェインの伯母。彼女のおしゃべりにエマはいつも辟易している)が、エマたちも来てほしいと誘われて、ベイツ家を訪問することになる。ミス・ベイツの話ではナイトリー氏から一家は焼きリンゴにするリンゴをたくさんもらったそうで、フランクはベイツ夫人の眼鏡を修理中だという。(第27章)

 ベイツ家を訪問したエマは、話題のピアノの贈り主をめぐってフランク、ジェインと話をする。前夜、エマは贈り主がディクソン氏ではないかとフランクに言ってしまい、それを後悔していたのだが、フランクは気にしていない様子である。ジェインは慎重な態度を崩さない。しかし、エマはジェインがディクソン氏との道ならぬ恋を楽しんでいると考える。表通りをナイトリー氏が通りかかり、寄って行けというミス・ベイツの勧めにもかかわらず、キングストンに出かける用事があると言って、通り過ぎていく。(第28章)

 コール家でのダンスの楽しい思い出が忘れられないフランクは、ウェストン家でも舞踏会を開こうと計画する。開くこと自体に反対する者はいないのだが、会場の設営がむずかしく、計画は難航する。そうした中で自分の意見を通そうとするフランクの様子を見て、エマは彼とは単なる友達のままの方がいいと考えはじめる。フランクはウェストン家ではなく、村一番の宿屋であるクラウン亭(the Crown Inn)で開くことになったとエマに知らせに訪れたついでに、舞踏会での最初の2曲のダンスを申し込む。ウェストン氏はそれを聞いて喜ぶ。(第29章)

 フランクが養父母のチャーチル夫妻からサリー滞在を許されていたのは2週間であったが、舞踏会の準備を考えるとその期間を延長する必要が生じた。例によってナイトリー氏は、この舞踏会の計画には冷淡で、またもやエマと衝突する。ところが、チャーチル夫人の病状が悪化して、フランクは帰宅しなければならなくなり、計画は取りやめになる。別れのあいさつにエマを訪れたフランクは、何か言いかけてやめてしまう。フランクが去ると、毎日のように彼と会って過ごした楽しい時間のことが思い出されて、エマは虚脱感に陥る。ナイトリー氏とジェインはなぜか落ち着いた様子である。(第30章)

 エマは自分はやはりフランクに恋をしていたのだと思うようになるが、少しずつ考えが変わって、これはほんの軽い恋だと思いはじめる。フランクはウェストン夫人あてに手紙を何通もよこし、その中に「ミス・ウッドハウスの美しいお友達」と書かれていたので、あるいはハリエットが自分の代わりにフランクの相手にならないかなどと考える。
 フランクがハイベリーから去ると、結婚式が近づいたこともあり、エルトン氏が村の話題の中心になる。この結婚によって傷ついているハリエットを是が非でも幸福にしようとエマは考える。(第31章)

 物語の進行は、エマの視線に沿っていて、複数の可能性が考えられる出来事でも、エマの解釈が強調されるが、作者はところどころに伏線を張って、エマの想像力の暴走をそれとなく暗示している。フランクのロンドンでの散髪の件や、ピアノの贈り主は誰かという謎、さらにフランクがエマに言いかけたこととは何であったのかなど、さまざまに想像できる。本筋とは関係がないようなおしゃべりの中に、実は重要な内容が含まれているかもしれず、気の抜けないところがある。ちくま文庫版の解説に引用されているサマセット・モームの発言「オースティンはきわめて健全な良識と、はつらつとしたユーモアの精神を備えていたために、ロマンティックになることができなかった」(396ページ)は、『エマ』にもっともよく当てはまるのではないかと思う(『高慢と偏見』はもう少し「ロマンティック」である)。 

今野真二『北原白秋 言葉の魔術師』

3月27日(月)雨が降り続く

 今野真二『北原白秋 言葉の魔術師』(岩波新書)を読み終える。
 北原白秋(1885-1942)は、童謡、短歌、詩、民謡など様々な分野にわたって作品を発表し続けた、「日本の近代文学において巨大な存在の一人」(ⅱページ)であり、その全集は40巻におよぶという。しかし、個々の領域における白秋の業績に関心を抱く人は多いかもしれないが、彼の全体像を把握しようとする人は少ない(一部を理解しただけで全部を理解したつもりになっている人が多い)と今野さんは言う。ところが、それぞれが独立して理解されてきた白秋の様々な分野における作品は、互いに深くつながっているのである。例えば、民謡として作られた「城ヶ島の雨」(1913)は広く知られているが、この作品がつくられた翌年には「雨中小景」という同じイメージを念頭に置いた詩が発表され、さらにその翌年には「三崎風景」という7種の短歌の中に同じイメージが歌いこまれている。このように「短歌、詩、童謡とジャンルは異なっていても、一つの「イメージ」の言語化であり、時には重なり合う「パーツ」を用いながら、詩が短歌になり、短歌が詩になり、あるいは詩が童謡になり、と多様な展開を見せることがある」(ⅱページ)という。

 著者である今野さんは、国文学ではなく国語学畑の人で、とくに近代における日本語の変化や日本語の辞書の歴史などについての著作は、このブログでも紹介してきた。自分が味わった感動をさまざまな形式の中に、織り込んだ白秋と、言葉の変容についての研究を続けてきた今野さんとの接点になるのは、白秋がその作品の中で使った語彙であろう。「あわせて白秋は、推敲の人、彫琢の人でもあった」(同上)とも今野さんは言う。言葉を選んで、詩文を推敲する際に、白秋がどのような辞書を使っていたかというようなところに視線を定めていくところがいかにも今野さんらしい。

 この書物は白秋の創作者としての遍歴を編年的にたどる構成をとっており、
第1章 油屋のTONKA JOHN
第2章 『邪宗門』前夜
第3章 『邪宗門』――言葉のサラド
第4章 『桐の花』のころ――君かへす朝の舗石さくさくと
第5章 光を求めて――三浦三崎、小笠原への巡礼行
第6章 葛飾での生活
第7章 童謡の世界――雨が降ります。雨が降る
第8章 言葉の魔術師――詩集『海豹と雲』と歌集『白南風』
第9章 少国民詩集――この道を僕は行くのだ
と展開されてゆく。故郷柳川の風物と言語が白秋の業績の中でさまざまな姿をとって表れてくること、すでに述べたように彼の作品が様々な言葉を選択しながら作り上げられていること、また彼の作品が彼の実人生をきっかけとして形成されたものであるにせよ、それとは別の虚構であることなどが論じられている。研究者、評論家の発言に加えて、白秋の近親者の言葉が多く引用されているが、白秋の友人であり、妹のいゑ(家子)と結婚した山本鼎の子息である詩人の山本太郎(1925-88)の発言など特に興味深い。

 山本の名が登場したついでに書いておくと、山本鼎がそれまでの手本を模写するような図画の教育に反対し、自由画を進めようとしたことと、白秋が子どもの自由詩を推進しようとしたことはたぶん両者の共通性を物語るものであろう。その自由を愛したはずの白秋が晩年、「大東亜戦争」を支持する作品を発表していることについて、今野さんは三木卓の白秋が外界の出来事に常に関心を寄せており、「拒否することよりも肯定してそれを賛美し、受け入れることの方がはるかに多い」(243ページ)という意見を肯定的に引用している。中野重治は、白秋が「けはい」に敏感な詩人であったことを否定的に論じているが、その「けはい」こそが白秋の本領であったという指摘もされている。〔時代や場の「けはい」を読むことも大事ではあるが、その背後にある社会の動きに目を配ることの方が大事ではないかと、私は思っている。今野さんは「リアリズム」に対して懐疑的であるように見えるが、おそらくはその点で私と意見が違うのである。〕

 白秋がその詩の中に表現した思想をめぐっては、まだ議論の余地がありそうだが、今野さんのこの著書を読んでとりあえず感じることは、詩の実作に取り組んでいる人間にとって、これはさまざまな示唆を与える書物だということである。白秋の創作上の遍歴が、様々な作品からの陰陽をともなってたどられているだけでなく、詩と人生がどのような距離を持つべきかとか、詩はそもそも何を目指して、何を表現すべきかとか、詩の言葉としてどのような言葉を選ぶべきかとかいうことの手掛かりとなる議論がこの書物の中には盛り込まれている。今野さんとしては白秋の詩の言葉、とくに一つ一つの単語の選び方に関心があったのだろうが、それを超えて、多くのことを読み取ることができるというのが私の印象である。 

『太平記』(151)

3月26日(日)雨

 いったんは京都を占拠したものの、宮方の反攻を支えきれず、九州に落ち延びた足利尊氏・直義兄弟はわずかな軍勢で筑前多々良浜に上陸、宗像大宮司の館に迎え入れられた。宮方の菊池武俊が尊氏が頼りにしていた少弐貞経の城を攻め落とし、さらに多々良浜に押し寄せた。軍勢の多寡から見れば、圧倒的に宮方が有利であったが、時の運に恵まれたのであろうか、尊氏軍は百倍に余る菊池軍を退け、さらに菊池の居城を攻め落として、九国二島(九州の筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の9国と壱岐、対馬の2島)を制圧した。

 今回から第16巻に入る。建武3年(1336)2月、尊氏が九州へと落ちのびた時に、四国および中国地方、さらに九州の足利方の武士たちは、気勢をなくして慌て惑い、あるいは山林に隠れ、あるいは縁者のもとに身を寄せ、旗色をかえて新田義貞の命令書を受け取るものもあった。このときに、義貞がすぐさま足利方の武士たちの討伐に赴いていたら、一人として降参しないということは無かったはずであるが、このとき、もしすぐに各地の足利方の武士たちを討伐に出かけていれば、足利方の武士たちの中で降参せずに、宮方と戦い続けたものはいなかったはずであるが、これまで同様新田勢は長時間にわたる軍議に時間を使ってしまって、討伐の機会を失っていた。さらに義貞は、そのころ、世間に美人としての評価が高かった勾当内侍(後醍醐天皇の側近の一条行房の娘。行房の妹とする文献もあるそうである。「勾当内侍」というのは、天皇の身の回りのお世話をする女官たちの三等官の長であり、本名を呼ばずに職名で呼んでいる)を妻として天皇からいただき、尊び寵愛し始めた頃で、わずかな時間でも別々になってしまうのを嫌がり、建武3年3月の末まで、西国への遠征を延期していたが、このことこそ傾城傾国、つまり美女が城や国を傾けるという故事の通りであった。

 義貞がグズグズしているうちに、丹波では久下、中沢、荻野、波々伯部(ほうかべ)らの武士たちが、足利一族の仁木頼章を大将として、高山寺(兵庫県丹波市氷上町の弘波山上にあった)を山城として立てこもった。播磨では赤松入道円心が白旗山(兵庫県赤穂郡上郡町)に城を構えて、宮方の討伐軍の来襲に備えていた。
 美作では、この地に勢力を張っている菅原一族の江見、弘戸、その他の武士たちが奈義能山(岡山県勝田郡奈義町と鳥取県八頭郡智頭町との境にある)、その東南にある菩提寺(勝田郡奈義町高円)に城を築いて国中で無法を働いた。
 備前では土地の田井、飽浦(あくら)、内藤、頓宮(はやみ)、松田、福林寺などという武士たちが、足利一族の石橋和義という武士を大将として、甲斐川、三石(備前市三石)に城を構えて水陸両方からの宮方の来襲に備えようとしていた。
 備中では庄、真壁、陶山、成合(なりあい)、新見、多地部(たじめ)などの武士たちの一族が、勢山(せやま、倉敷市真備町の妹山)で防御を固めて、鳥も通えぬほど厳重に城柵を築いた。

 さらにこれから西の、備後、安芸、周防、長門は言うまでもなく、四国、九州の武士たちも、尊氏方に味方しないと立ち行かないので、本心がどうであれ、足利方に従いなびかないということはなかったのである。

 西日本の各地で城郭が築かれ、固められ、また諸国の武士たちの蜂起の情報がすべて京都へと伝えられたので、さらに東国で足利方の勢力が強大になってはかなわないと、北畠顕家卿を鎮守府将軍に任じて奥州へと派遣した。鎮守府は奥州平定のために置かれた軍府である。歴史的な事実としては、顕家が鎮守府将軍になったのは、これよりも早く建武2年11月、陸奥守になったのはさらに早く元弘3年8月のことだそうである。 

 新田義貞には、山陰道8か国(丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐)、山陽道8か国(播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門)、計16か国の管領(政務全体の管理)を許されて、尊氏追討の宣旨が下された。義貞は天皇のご命令を受けて、西国に旅立とうとしていたその矢先におこりの病を発病して、体を動かすことができなかったので、まず新田一族の江田行義、大館氏明の2人を播磨へと派遣したのであった。

 赤松円心はこれを聴いて、敵を踏みとどまらせるようなことがあってはいけないと思い、備前、播磨両国の武士たちを糾合して、書写山(兵庫県姫路市北西部)の麓の坂本に押し寄せたので、江田、大館を対象とする宮方の軍勢は室山(兵庫県たつの市御津町室山)で対戦した。宮方の兵が赤松軍を破り、江田、大館は、勢いを増して、この勢いならば西国の足利方を討伐することは容易であると京都に向けてしきりに文書を発送した。

 義貞は勾当内侍への愛情に溺れたり、病気になったりで、尊氏方攻略の機を逃す少し間抜けな武将として描かれている。それでも、江田、大館からの知らせを受け取って、いよいよ重い腰を上げることになる。宮方としてみれば、九州から大軍が押し寄せてくる前に、中国地方の尊氏方の武士たちを抑え込んでおきたいところであるが、果たしてどのような展開になるか。尊氏方の中心になるのは赤松円心であるが、九州から尊氏・直義兄弟が戻ってくるまで自分たちの勢力だけで宮方の攻勢に対抗できるかどうか、気になるところである。丹後の荻野のようにいつの間にか尊氏方になっている武士もいるので、本文を気を付けて読んでいく必要がある。
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