野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』(10)

5月23日(水)曇り、昼頃から雨が降り出す

 この書物は平安時代の後半から鎌倉時代にかけての九州における豪族的武士(と武士団)の形成を2つの波に整理して考察を加えたものである。第1の波を形成するのは、京都や東国から移動して大宰府を拠点に活動した軍事貴族たちであった。それに続いて第2の波を形成したのは、鎌倉幕府の成立に伴い、やはり京都や東国から地頭・惣地頭として移住してきた鎌倉御家人たちだった。
 第二の波を構成した御家人たちの中で代表的な存在は千葉常胤と島津忠久であり、摂関家に仕える京侍であった惟宗氏の出である忠久は、南との頼朝との結びつきを利用して鎌倉幕府の要人となり、薩摩の守護となっただけでなく、西遷御家人たちの統合に成功し、南九州最大の勢力を築く礎石を据えるのである。

 これまでこの書物は主として九州における武士たちの動きを追っていたが、武士たちのネットワークの形成ということで、京都に目を向ける。それも職人や商人たちも集住する下京の七条一帯が関心の焦点となる:
 「中世成立期の武士は、その戦闘者としての職能を発動するために優秀な武器・武具、それに駿馬や兵船を備える必要があった。したがって、生産・流通、そして都市の機能に依存しなければ存立をはかれず、また、国家・王権を守護することによって、その身分の保証がなされるため、父子・兄弟での分業という形をとりながら、長期間の在京活動を行う必要があった。そして、その過程で中央の文化を享受するとともに、お互いに地域を超えたネットワークを構築したのである。治承・寿永の内乱に際して東国の武士たちが遠く鎮西まで進攻して軍政を敷くことができたのは、そのような前提があったからこそであり、その上に鎌倉幕府による全国支配の実現が達成されたといえるのである。」(152‐153ページ)

 こうして、列島各地の武士たちは都との結びつきを維持し、その結果として彼らの本拠地の周辺に京都の文物をもたらすのである。彼らは自分たちの権力を示すものとして京都風の邸宅・寺院・庭園を建造したが、平泉はその代表的な例である。
 そのような全国的な文化の伝播、商品の流通の要となったのが、当時、金属製品を中心にして、京都における生産と流通の拠点となっていた七条町(現在のJR京都駅北側の一帯)であった。
 平安京が造営されたとき、左京七条二坊には官設市場である「東市」が設置された。平安中期以降、東市周辺には、太刀をはじめとする金属製品の生産者が集住するようになる。この地域にはまた、院御所や有力貴族たちの邸宅が次々と立てられるようになった。まず、白河院の御所として中院・六条殿がおかれ、その周辺には院近臣だけでなく河内源氏・摂津源氏など、武士の亭も構えられた。さらにその周辺には彼らに仕えた郎等たちも居住していた。この一帯に住むことにより、院御所の警護という職務を果たすことが容易であったことに加え、武器・武具が容易に入手できたということがその理由として考えられる。
 河内源氏というのは源満仲の三男頼信に始まり、頼義、義家と続く系統、摂津源氏は満仲の長男頼光に始まる系統である(次男、頼親の系統は大和源氏と呼ばれるが、有力な武士を輩出しなかった)。

 12世紀後半に王家領を集積して日本最大の荘園領主となった八条院暲子内親王が、八条三坊に御所・院庁・御倉町をおいたことから七条町はいっそう繁栄した。さらに七条大路を東に鴨川を越えたところに八条院の異母兄である後白河院の院御所法住寺殿が造営され、西の八条一坊には平家の西八条邸が壮大華麗に営まれた(現在の梅小路公園がその遺趾にあたる)。また賀茂川の東岸、法住寺の北には平家の本拠地六波羅があった。
 当時、優れた技術を持つ手工業者は、下級の官人としての地位を占めるとともに有力権門の家産機構に従属しながら生活していた。摂関家の邸宅や院御所には倉庫・宿舎・台所を兼ねる御倉町が敷設され、職人たちはその中の細工所で活動していたのである。12世紀の後半、七条町は八条院・後白河院・平家などの有力権門に伺候する優れた手工業者の集住する空間として発展を遂げていたのである。
 八条院は鳥羽院の娘で、二条天皇の養母であったことから、天皇の后妃ではないが女院の尊号を得た初めての女性となった。女院は上皇に準ずる存在で、院庁を設けることができ、院司が任命された。また彼女のもとに以仁王が身を寄せ、その所領に諸国の源氏に蜂起を促す令旨が伝達されたのは歴史的事実であるが、彼女自身の政治的な意思がどの程度関係していたかはわからない。
 七条町は金属加工品の生産地として発展してきたが、河内源氏、続いて平氏の進出、さらに平氏政権の成立によりその繁栄は一層顕著なものとなる。

 このように「七条町広域流通を前提とした金属加工製品の集中生産を行う空間であったが、その広域流通の背景にあったのが、摂関家・院、および平家の政治権力に基づく列島規模のネットワークであった。」(159ページ) 
 平泉の中尊寺金色堂の螺鈿細工は南島産の夜光貝を材料としており、南島→島津庄→京都(院・摂関家)→平泉というネットワークを通じた物流を示すものである。島津庄が摂関家の手から、平家の支配下に組み込まれるようになると、このネットワークは平家のために機能することになる。
 平泉の藤原秀衡は嘉応2年(1170)に従五位下鎮守府将軍に叙任されるという厚遇を受けているが、これは院・平家との良好な関係を示すものである。その一方で、平泉は一種のアジールとしての役割も果たし、秀衡は平家と対立した源義朝の遺子・義経を匿うというような行動もとっている。〔義経か、秀衡の子息の泰衡のどちらかがこの秀衡の政治力を学び取っていたら、日本の歴史も少しは変わったのではないかと残念である。〕
 一方、保元・平治の乱がきっかけとなって、地方武士が京都で様々な役割を演じることがより多くなってくる。既に紹介した千葉胤頼のように、東国の武士でも滝口や女院の侍所に出仕して五位の位を得るようなものもあらわれる。〔芥川の短編小説のもととなった『今昔物語集』の説話が語っているように、「五位の侍」というのは一般の武士の最終目標になるような地位であった。〕

 このような全国的な人間の流れに対応して、京都文化の地方への伝播も顕著なものとなる。近年の考古学的研究の発展の結果、関東各地においても浄土庭園を伴う寺院意向が発見されるなど、地方文化の再考が迫られている。源頼朝挙兵以前にすでに、東国にも有力な在地勢力によって造営された浄土庭園を伴う寺院の遺構が掘り起こされている。東国を京都と平泉の間の単なる通路と考えるような見方は修正される必要があると野口さんは説く。

 今回でこの連載も10回と切りのいいところに達したので、これで終わりにしようかと思ったが、まだ紹介していない部分が少し残っているので、もう1回書き続けることにする。今回は京都駅周辺のことが取り上げられているので、読んでいて身近な感じがした。浄土庭園といえば、金沢文庫・稱名寺の庭園も浄土庭園で、いったんは荒廃していたのを復元されたものだと記憶する。
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『太平記』(211)

5月22日(火)晴れ、気温上昇

 建武3年(南朝延元元年、1336)京都の花山院に幽閉されていた後醍醐帝は脱出に成功、吉野金峯山寺で兵を集め、楠正行以下の軍勢が参集した。帝と分かれて再起を期そうと、東宮恒良親王らを奉じて北国に向かった新田義貞は越前の金ヶ崎城で圧倒的な敵の包囲を受け、建武4年(南朝延元2年、1337)2月に弟の脇屋義助らと城を脱出して、越前の杣山城に入った。3月6日、金ヶ崎城は足利方の総攻撃を受けて落城し、後醍醐帝の長男である尊良親王、義貞の子の義顕は自害、城兵たちもほぼ全滅した。いったんは城を脱出した恒良親王も足利方に捕らえられた。
 6月、北朝では光厳上皇が重祚した(そういう歴史的事実はないが、『梅松論』にも同様の記述があり、あるいは院政の本格的な開始を「重祚」ととらえたのであろうかともいう)。10月に暦応(りゃくおう)と改元され(史実は翌年8月)、11月に足利尊氏は征夷大将軍、直義も「日本の将軍」になった(この呼称がどのような意味をもつのか不明)。兄弟が一時にならんで将軍と呼ばれるのは類例のないことであると人々はうわさしあった。尊氏・直義兄弟だけでなく、足利一族の人はそれぞれ高い地位に就き、権勢をふるったのであった。
 さて、新田義貞・脇屋義助兄弟は杣山の城で息をひそめていたが、これまでの劣勢で戦列を離れていた武士たちを呼び寄せ、その勢力を拡大し始めた。その噂を聞いた尊氏は、斯波高経とその弟の家兼に北陸道の6千余騎の兵を添えて討伐に向かわせたが、杣山は要害の地でなかなか陥落しなかった。その間に北陸の各地で宮方に心を寄せる武士たちが蜂起し、特に平泉寺の州都の半数あまりが鯖江の三峯山に立てこもり、大将として脇屋義助を迎えて勢いを増した。しかし冬を迎えて両軍は大きな動きを止めて小競り合いを続けるだけであった。
 建武5年(8月に暦応と改元、南朝延元3年、1338)2月中旬ごろ、脇屋義助が砦を築くのによい場所を探して平地に降りてきたところを、国府(福井県越前市)を本拠としていた斯波高経の副将の細川出羽守が500騎を率いて急襲、数で劣る義助たちは必死に戦って日野川の東岸で烽火をあげて味方を集め、杣山からは新田義貞が加わり、その一方足利方は国府の高経たちも駆け付けて、川を挟んで両軍が対峙した。

 日野川は九頭竜川の大支流の1つで、もう一つの大支流である足羽川と合流して九頭竜川にそそぐ。『太平記』の作者は「さしもの大河にてはなけれども」(岩波文庫版、第3分冊、312ページ)と書いているが、越前市を含む丹南地方のあたりでは武生盆地の平坦な土地を流れているために川幅がかなり広い。さらに山の雪解け水が盛んに流れ込んできているので、水量も多く、川の流れも速くなっている。それで両軍ともに川を渡りかねてにらみ合いを続けていたが、義貞の重臣である船田経政の若党(若くて身分の低い侍)で葛葉新左衛門というものがいて、この川はいったん増水すると、急に新しい洲ができたりして、勝手を知らない人はいつも失敗する川だから、自分が試しにわたってみよう」とただ1騎、瀬枕(せまくら)と言って、早瀬の流れが石などにあたって盛り上がったところを目印に馬を乗り入れて、渡り始めた。それを見た宮方の武士たち3000余騎は、これに続いて一斉に馬を川に入れる。前後のものが弓の両端を互いに(命綱のように)もち、馬の脚が立つところでは、手綱を緩めてゆっくりと歩ませ、足の立たないところでは馬の頭を立たせて泳がせて、一文字に流れを切って向かいの岸へ駆けあがった。
 新田義貞は上野の武士であり、北陸地方も多くの川が流れているので、武士たちはこの種の渡河には馴れているはずである。以仁王の乱のときに宇治川を先陣で渡る功績を立てた足利忠綱(尊氏・直義の源姓足利氏ではない、鎮守府将軍藤原秀郷を先祖とする藤姓足利氏の武士である)は下野の武士で、北関東の出身であった。余談であるが、日野川の水源は泉鏡花の戯曲で知られる夜叉が池である。

 葛葉新左衛門は、味方の軍勢から2町(200メートル強)も先行して渡河したので、敵に馬の両ひざを払い切りにされて、徒立(かちだち)になり、敵6騎に取り囲まれて、あわや討たれようとしたところ、宇都宮の郎等である清為直が駆けつけて敵を2騎切り落とし、3機を負傷させて、葛葉新左衛門を付けたのであった。
 両軍ともに兵力は3,000余騎、それぞれの軍勢を率いているのは源氏の同じ流れの一族の中の武士である。さらに馬の駆け引きが容易な場所なので、敵味方6,000余騎が前後左右に入り乱れて、一進一退の攻防を約1時間余り続けた。このようすではもう命尽きるまでの戦いとなり、いつ勝負が決着するかわからないという様子であったが、日野川を上流へと辿って帆山河原(越前市帆山町)から回って駆けつけた三峯の軍勢(義助が出ていったあと残っていた兵たち)と大塩から降りてきた僧兵たちが入れ替わって敵の陣の後ろに回り、府中の一帯に火をかけた。これを見た斯波高経の配下の武士たち2000余騎は、敵に国府の新善光寺城(越前市京町の正覚寺)を奪われては大変だと府中を目指して退却する。

 義貞の率いる3,000余騎は、退却していく敵を隙間ができるほどもなく厳しく追いかけていったので、新善光寺城に逃げ込もうとする足利方の兵たちは、自分たちが防御用に築いていた木戸や逆茂木にさえぎられて、城に入る時間的な余裕ができず、新善光寺の前を通り過ぎて西のほうに向かい、そこから斯波家兼は若狭に、高経は織田(丹生郡越前町織田)、大虫(越前市大虫町)を過ぎて、北のほうに向かい、足羽川流域=越前国足羽郡・吉田郡にあった7か所の城砦に逃げ込んだのであった。
 織田は、越前二宮剣神社の所在地で、後に斯波氏の被官として世に出て、下克上して戦国大名となった織田氏はこの剣神社の社家であった。なお、岩波文庫版では「おだ」とルビが降られているが、地元では「おた」と言っていたと記憶する。

 斯波高経・家兼兄弟が本拠としていた国府の新善光寺城が落城したという知らせは越前の各地に伝わり、足利方は浮足立って、新田勢が攻め寄せないうちから落城する城砦が73か所に及んだという。

 越前における新田義貞・脇屋義助兄弟の再起と、足利勢撃破の報せは京都にも伝えられ、足利尊氏・直義兄弟はこれというのも、金ヶ崎が落城した際に義貞・義助兄弟は自殺して、死体は火葬したと恒良親王が嘘をついたからだ、あの時すぐに杣山城を攻めていればこんなことにはならなかったと腹を立てた。その矛先は恒良親王に向けられ、このまま生かしておくと、またどんな悪だくみをするかもしれない、この際、毒をもって殺してしまおうと千葉一族の粟飯原(あいばら)氏光という武士に命じて、親王に薬だと偽って毒薬を勧めさせた。恒良親王は子どもながらも聡明な性質だったので、氏光の嘘を見破ったが、もはや自分は逃れられない運命にあると悟って、まいにち法華経を唱えて、毒薬を飲み続け、ついに亡くなられたのであった。同じ場所に幽閉されていた同母弟の将軍宮成良親王も運命を共にした。後醍醐帝の子息の中ではすでに護良親王が鎌倉で殺害され、尊良親王が金ヶ崎で自害されていたが、また2人の命が失われたのである。

 今回、2親王の運命をめぐるくだりなど、かなり省略し、先を急ぐ形になったのは、この後、宮方の大反攻が開始されるので、それを見込んでのことである。このあたりの『太平記』の記述は、歴史的な事実から離れている部分が多く、その意味では慎重に読み進む必要があるが、今回の新田軍の日野川渡河の描写など、軍記物語としては面白く読める個所ではないかと思う。

フローベール『感情教育』(8‐6)

5月21日(月)晴れ

第1部のあらすじ
 1840年の秋、大学で法律を学ぶためにパリに出た18歳の青年フレデリック・モローはアルヌーという画商に出会い、彼の美しい夫人に思いを寄せる。もともと夢想家であるフレデリックに法律の勉強はふさわしくないものであったが、何とか大学を卒業し、地元の有力者であるダンブルーズとのつながりも確保したので、将来の見通しが開けたように思われた。しかし、実家の経済的な危機から、郷里で就職しなければならず、不本意な暮らしを続けた。ところが、1845年の末に裕福な叔父が死んでその遺産を継ぐことになり、再びパリに出かけて官途に就こうと思う。

第2部のこれまでのあらすじ
 パリに戻ったフレデリックは、アルヌーが画商をやめ陶器業者に転業していたことを知る。アルヌー夫人が再会の時に示した様子から、彼女の気持ちが離れたと思ったフレデリックは社交界に入ろうとダンブルーズ邸を訪れ、上流階級の社交への足掛かりを得る。その一方でアルヌーに誘われて高級娼婦のロザネット(マレシャル)の家にも出入りするようになる。
 大学時代に知り合い、議論を交わした友人たちに自分の近況を知らせようと、彼は転居披露の昼食会を開く。友人たちは、当時の政治情勢に関心を示し、フレデリックが期待したような方向には議論が進まない。それぞれが勝手なことを喋りまくるが、アルヌーが経済的に困難な状況にあるといううわさがフレデリックには気にかかる。うんざりした気分のフレデリックをおいて、一同は帰っていく。

第2部の2――続き
 フレデリックの新居を辞去した彼の旧友たちは、しばらくの間無言で並んで歩いていたが、〔デローリエがフレデリックのもてなしはよかった、といった。皆もそれに同意した。
 ユソネは料理が少しごてごてしすぎたといい、セネカルは部屋のようすが浮薄な趣味だと批評した。シジーも同じ考えだった。あれじゃ、《特色》がない。
 「ぼくはね」ペルランは言う。「ぼくに絵を一枚、頼んだってよさそうなものと思うよ」
 デローリエは、ズボンのかくしの中で、紙幣をにぎりながら、黙っていた。
 フレデリックは一人、家に残された。友人のことを思うと、彼らと自分のあいだに、へだてている真っ暗な大きな溝のようなものを感じた。こちらから手をさしのべたのだ。が、向うではこちらの率直な心にこたえてくれなかった。」(岩波文庫版、226ページ、光文社古典新訳文庫版、331‐332ページ) 「フレデリックのもてなしはよかった」といったのは、岩波文庫版ではデローリエであるが、光文社古典新訳文庫版ではデュサルディエである。これは確認する必要がある。ということで、原文を確認したところデュサルディエが言ったというのが正しいことが分かった。《特色》というところの原文はcachetで光文社古典新訳文庫版では「個性」と訳されている。<持ち主の個性がわかるような特色>ということで、どちらの訳も間違ってはいないと思われる。ここでは社会主義者のセネカルと、王党派の貴族であるシジーが同じ意見をもったというところに面白さがある。フレデリックの新居は家具や調度はそれなりに考えてあつらえたのだろうが、書斎の蔵書などは慌てて買い集めたので、持ち主の精神の浅薄さが出てしまったということであろう。(もともとフレデリックには知的好奇心の対象とし続けている事柄はないのである。)

 ペルランとデュサルディエが話していたアルヌーの経済状態をめぐるうわさが気になっていたフレデリックは、翌日アルヌーの家を訪ねる。アルヌー夫人にどのように話を持ち出していいのか迷ったが、遠回しに聞いているうちに、夫人のほうが彼の心配そうな様子を察して、自分も実は夫の事業の展開について心配しているという。
 「事実、アルヌーはうまい投機をねらって、地所をなかなか売ろうとせず、それでたくさん借金をしたが、さて買い手が見つからぬので、工場をつくって回復するつもりだった。費用は見積もりを超過した。夫人はそれ以上には知らない。アルヌーはきかれてもいつも器用に逃げ、《うまくいっている》とくり返すばかりだ。」(岩波文庫版、227‐228ページ、光文社古典新訳文庫版、333ページ)
 フレデリックは夫人を安心させようといろいろなことを言い、夫人は感謝の表情を見せる。そのことがフレデリックを喜ばせる。
 と、そこへアルヌーが戻ってきて、その日は帰宅が遅くなるという。そしてフレデリックとともに、ロザネットの家に出かける。ウードリー老人と用事があると妻にはうそを言って、老人が世話をしているロザネットの家に出かけたのである。フレデリックは何がなんだかわけがわからなくなる。

 この日以来、アルヌーはフレデリックに愛想がよくなり、フレデリックはアルヌーの家とロザネットの家の両方に頻繁に出かけるようになる。フレデリックはロザネットとアルヌー夫人という2人の女性の対照的な魅力に惹きつけられる。ロザネットは気まぐれで、陽気で移り気であった。「途方もなくはしゃいだ後、子供のようにすねた。かと思うと、暖炉の前の床に座り、うなだれ、膝を抱いて、凍えた蛇よりも無気力に、じっと考えこんでいた。少しもかまわず、青年の前で着物を更え、絹の靴下をゆっくりぬぎ、ふるえる水の精のようにからだをそらしつつ、ざぶざぶ顔を洗った。その笑う白い歯、目のかがやき、美しさ、快活さはフレデリックの目にまぶしいほどで、神経を刺激した。」(岩波文庫版、229‐230ページ、光文社古典新訳文庫版、336ページ)
 アルヌー夫人は落ちついた気品のある家庭婦人として描写されている:
 「アルヌー夫人は、ほとんどいつも、子供に読み方をおしえ、またはピアノにむかって音階をさらっているマルトのうしろにいた。針仕事をしているときは、ときどき鋏を拾ったりするのが彼には大きな幸福だった。夫人の動作すべてに物静かな気品があった。その小さな手は施しをするため、涙をぬぐうためにできているかと思われた。生まれつき少し低い声は愛撫するような抑揚と、風のような軽さがあった。」(岩波文庫版、230ページ、光文社古典新訳文庫版、336‐337ページ)

 「二人の女性、ロザネットとアルヌー夫人とのつきあいは、フレデリックの生活に二種類の音楽をかなでるように思われた。いっぽうは快活で、激しやすく、気晴らしになる。もういっぽうはおごそかで、ほとんど敬虔な雰囲気をたたえている。」(光文社古典新訳文庫版、337ページ、岩波文庫版、230ページ) 両方の家には共通点があることも手伝って、フレデリックには両者が少しずつ溶け合ってくるように思われた。その一方で、フレデリックはロザネットとアルヌーの悪口を言ったりして、次第に2人は打ち解け始めた。

 フレデリックは財産を手に入れたのはいいが、就職運動をするなり、なにか勉強を続けるなり、有意義なことをしないと、せっかくの財産を無駄遣いしてしまいそうな様子である。アルヌー夫人は人妻であるし、ロザネットは娼婦だから、それぞれ別の意味で深入りしない方がいいのだが、どうもそういう歯止めがききそうもない。学生時代はデローリエが同居していたから、それなりに歯止めになったのだが、そういう生活に戻るつもりは全くなさそうである。アルヌーは夫人と違って、フレデリックによからぬことを教えることに熱心である。1840年代の後半はすでに何度も書いたように、フランスの歴史が七月王政から、第二共和政、さらに第二帝政へと移っていく重大な転換期なのだが、今のところフレデリックは極楽とんぼを決め込んでいて、世の中の動きに無関心な様子である(だから友人たちから、皇位を向けられないのである)。しかし、このままでは終わりそうにもない…。
 

日記抄(5月14日~20日)

5月20日(日)晴れ、風強し。

 5月14日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回以前の記事の補遺・訂正など:
5月11日
 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の毎週金曜日は日本文学の名作を英語で放送していて、5月は芥川龍之介の「鼻」が取り上げられている(4月は太宰治の「走れメロス」だった。この放送で気になったのは主人公の長い滑稽な鼻の持ち主である曾の名をNaiguとしていたことである。原作では僧は禅智内供、その原話となった今昔物語の説話では禅珍内供と呼ばれていて、物語の中では内供という呼び方がされているが、内供(内供奉の略)というのは「禁中の内道場に奉仕し、御斎会(ごさいえ)の時に読師(とうし)となり、また、夜居の僧となった知徳兼備の僧」のことで、固有名詞ではない。古い日本のならわしでは、人名をみだりに口にせず、通称、あだ名や職名で呼ぶのが一般的だった。だから芥川もそれに引きずられて内供と書いているので、禅智というのが本来の名前である。

5月13日
 バスの中で相模原SCのサポーターらしい一群の人たちと乗り合わせたので、今日はニッパツ三ツ沢でJ3の試合があるのかと思ったら、そうではなくて天皇杯の神奈川県大会の決勝戦であった。翌日の新聞によるとYSCCと相模原SCのJ3のチーム同士の対戦で2-1でYSCCが勝利した。YSCCは今年はJ3の上位にいるのだが、J2昇格に必要なほかの条件は満たしているかどうか、気になっているところである。

5月14日
 病院に出かける。

 『朝日』朝刊の「フォーラム」欄で、「性教育」について読者の意見が紹介されている中で、性知識の教育も重要だが「問題は、お互いを尊重することや、人間の尊厳といった抽象的概念を伝えること」という意見があり、それはもっともな主張なのだが、頭では理解していても、体のほうが言うことを聞いてくれないというのが若さではないかと思った。知識教育も必要だし、理念の伝達も必要だろうが、もっと大事なのは基本的な生活指導ではないだろうか。

 同じく連載インタビュー「語る――人生の贈りもの」で樹木希林さんが文学座の研究生時代にTVドラマで森繁久彌と一緒になり、大いに影響を受けたと語られていて、何となく納得した。前回、小津安二郎監督の演出に納得がいかなくなったという話があったが、舞台的、即興的な演技を持ち味とする森繁と、絵になる動きをさせようと執念を燃やす小津の相性は悪かったというから、樹木さんの演技論・演出論は森繁に近いということであろう。

5月15日
 奈良県桜井市の纏向遺跡で2800個という大量の桃の種が出土し、放射性炭素年代測定の結果、西暦135~230年のものと判明したと報道された。248年ごろに没したのではないかといわれる邪馬台国の女王卑弥呼と年代が近いということで注目されている。大量の桃の種(ということは、芽を出さずにそのままだった)がなぜ地中に埋められたのか、モモはどのような種類のものなのかなど、調べてほしいことは少なくない。

 東川篤哉『館島』(創元推理文庫)を読み終える。面白かった。この作品については、機会を見て詳しく論じてみるつもりである。

5月16日
 シネマヴェーラ渋谷で『オズの魔法使』とマルクス兄弟の『御冗談デショ』を見る。『オズ』については昨日の当ブログで取り上げたので、『御冗談デショ』だけを取り上げる。この作品は、グラウチョ、ハーポ、チコだけでなく、3人の弟のゼッポも登場しているが、3人とは違って自分の見せ場を作ることなく終わっている。
 ハクスリー・カレッジという大学の学長にグラウチョが就任、その動機はこの大学で万年学生を続けている息子のゼッポを捕まえて家に戻すことだという。ゼッポがいつまでも大学に残っている理由は、カレッジ・ウィドウ(元教授の未亡人)に恋をしているからで、この未亡人を囲む恋愛騒動が映画の筋立ての1つ。
 大学の知名度を上げるのには、アメリカン・フットボールの強豪チームを作ることだと入れ知恵をされたグラウチョは、選手の引き抜きを図るが、間違えて秘密酒場に酒を売っている(禁酒法時代という設定らしい)氷屋のチコと、野犬の捕獲人のハーポを連れてきてしまう。このアメラグのチーム作りがもう一つの筋立てで、その試合が最後の見せ場になる。
 なお、対戦相手の大学名がダーウィン・カレッジで進化論で有名な2人の人物の名前が大学名に使われているのはどういう趣向であるのかがもうひとつわからない。

5月17日
 西城秀樹さんの訃報を聞く。歌手であるとともに、映画にも出演していて、何本か出演作品を見ている。田中絹代の最後の出演作となった『おれの行く道』(1975、松竹、山根成之監督)もその1本である。ご冥福を祈る。

 吉田友和『北京でいただきます 四川でごちそうさま』(幻冬舎文庫)を読み終える。各種中国料理の食べ歩き紀行であり、LCCを利用した短期旅行の実践の記録でもあり、自分の目で確かめた中国の姿が描き出されているという点でも貴重である。

5月18日
 『朝日』の朝刊に高大連携歴史教育研究会の会長である油井大三郎さんが歴史教科書の用語を減らすことには、思考力を育てる狙いがあるということを書いていたが、取り上げる項目を減らすことが思考力を鍛えるというのは誤った思い込みではなかろうか。歴史の場合、様々な事項を関連付けて記憶していくことに思考の起点があるのであって、記憶すべき事項を減らすことはむしろ、それらを関連させていく思考力の減退をもたらすのではなかろうか。

 女優の星由里子さんの訃報を聞く。あまり出演作を見ていないので、強い印象はないが、星さんが花登筐さんと一緒だったころに、私の従兄が同じマンションに住んでいたことがあった。ご冥福を祈る。

5月19日
 『朝日』の朝刊の地方欄に6月1日をもって伊勢佐木町のニュー・テアトルが閉館するという記事が出ていた。最近は出かけていないが、『幕末太陽伝』(デジタルリマスター版)、『中華学校の子どもたち』、『津軽百年食堂』などここで見た映画の題名を順不同に思い出す。映画鑑賞中に地震にあったこともあった。閉館は惜しまれるが、そう書くよりも1度でも多く映画を見に出かけるべきであった。

5月20日
 『朝日』の「折々のことば」は「建物が壮大であればあるほど、それを支える礎石の重みも増す」という良知力『マルクスと批判者群像』の中の言葉を引用している。
 マルクス(に限ったことではないが)の思想体系の成立の背景には、前時代、あるいは同時代の多くの思想的な営為や社会運動の積み重ねが隠れている。「歴史の陰に葬り去られた同時代の思想家たちや運動を支えた名もなき人々の営為」と「そこから生まれたかもしれぬ別の可能性」に目を向けることについて鷲田誠一さんは言及している。初期社会主義者としてサン=シモンやフーリエといった名前はよく知られているが、画家ゴーギャンの祖母にあたるフロラ・トリスタン(1803‐1844)のように掘り起こされるべき人々は少なくない。

 朝丘雪路さんの訃報が伝えられた。宝塚出身で、歌手、俳優などとして活躍された。出演映画では野坂昭如原作、千野皓司監督、フランキー堺主演の『極道ペテン師』(1969、日活)を見ている。野坂さん、千野監督、フランキー、みんな故人になっている。まだ生きている出演者は当時まだ若手だった梶芽衣子さんくらいだろうか。朝丘さんの夫君である津川雅彦さんの兄の故・長門裕之さんの夫人の故・南田洋子さんと同じく、晩年は認知症を患っていたというのは残酷なめぐりあわせであった。ご冥福を祈る。

 『日経』の朝刊に中国が2035年までに北京市の近郊に雄安新区という「自動運転の新都市」を建設しようとしているという記事が出ていた。その年では、個人用の自家用車はすべて自動運転となるという。車の動き、それを通じて人の動きがすべて管理されるような社会が出現するのであろうか。そのころまで、こちらが生きているかどうかはわからないが、どうも不気味な感じである。

 同じく『日経』に鳥取県三朝の三徳山三仏寺の「投入堂」と、千葉県長南町の笠森寺「観音堂」という2つの岩壁に建てられたお堂が北緯35度23分というほぼ同じ緯度にあるという話が出ていて、偶然の符合かもしれないが、だとしても面白い偶然だなぁと思った。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第15節横浜FC対ジェフ千葉の対戦を観戦した。横浜が終盤まで3-2とリードを保ったのだが、後半のアディショナルタイムに1点を失い、3-3で引き分けた。誠に残念。 

『オズの魔法使』

5月19日(土)曇りのち晴れ

 5月16日、シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作」特集上映の第16回の中から『オズの魔法使』(The Wizard of Oz, 1939, MGM、ヴィクター・フレミング監督)とマルクス兄弟の第4作『御冗談デショ』(Horse Feathers, 1932, パラマウント、ノーマン・タウログ監督)を見る。この特集上映は昨日をもって終わり、本日から次の企画「.美しい女優・美しい衣装」の上映が始まっているが、この2作、特に『オズの魔法使』についてはいろいろと書きたいことがあり、というよりも、じつはL.フランク・ボーム(L.Frank Baum, 1856-1919) が1900年に発表した原作(The Wonderful Wizard of Oz, オズの素晴らしい魔法使い)とその後彼が書き続けた作品を含めたシリーズ全14作品、それらとこの映画をめぐっては本が1冊書けるくらいの知識と思索とを積み重ねてきているのであるが、とりあえず、ここでその一端だけでも書いておこうと思った次第である。

 カンザスの農家に住む少女ドロシーは、愛犬のトトとともに家ごと竜巻にのって不思議な世界にたどり着く。マンチキンと呼ばれる人々の住むこの地方を支配していた魔女の上に、彼女の家が落ちて彼女を殺したことで、彼女はマンチキンたちに英雄扱いをされるが、やはり彼女はカンザスに戻りたい。その方法を教えてくれるのは、マンチキンから黄色いレンガの道を西へと歩いたところにあるエメラルドの都に住む大魔法使いのオズだけだといわれ、彼女は黄色いレンガの道を歩み始める。途中、知恵をつけるために脳みそが欲しいというかかし、やさしい心が欲しいというブリキの木こり、勇気が欲しいという臆病者のライオンが、それぞれ自分たちの欲しいものをオズから授けてもらおうと一緒になる。
 エメラルドの都に着いた一行はオズの魔法使いに会うことができるが、もし願いをかなえてほしければ、ドロシーの家に押しつぶされて死んだ東の魔女と同様に悪い魔女である西の魔女のほうきをもって来いといわれる。一行は西の魔女の住処を目指すが、その途中で彼女に支配されている羽の生えたサルたちにドロシーとトトは捕まってしまう。残されたかかし、木こり、ライオンは、魔女の下から逃げてきたトトに案内されて魔女の城に向かう…。

 この映画は1930年代から1940年代にかけてのハリウッドの全盛期を代表する作品であり、その組織的な映画作りのすばらしさが最高度に発揮された作品の1つとなっている。例えばマンチキンたちは、原作で背の低い人々だと書かれているが、映画ではmidgetが起用され、見事な群舞を見せる。これだけの出演者を集め、群舞ができるように訓練をしたのは大変な労力が必要であっただろうと思う。羽の生えたサルのメーキャップや衣装、彼らの集団的な動きの描写もすごい。もう一つ、注意してよいことはこの映画の撮影が完了しないうちに、監督のヴィクター・フレミングが『風と共に去りぬ』を演出するためにいなくなってしまったということである。IBDbによると、ジョージ・キューカー、マーヴィン・ルロイ(製作者としてクレジット・タイトルに名前が出ている)、ノーマン・タウログ、キング・ヴィドア(カンザスの場面の撮影)の4人が監督を補ったとあり、それぞれが映画史に名前を残す監督である。逆に言えば、一人一人の監督の個性よりも、そういう個性を結集して傑作をまとめ上げていくことの方が重視されていた時代を代表する作品だといえる。

 ボームの原作と映画化との違いで特に目立つのは、東の魔女が履いていて、その後ドロシーが履いてエメラルドの都まで旅することになる靴が、原作では銀の靴であるのに対し、映画ではルビーの靴になっていることである。映画の中で西の魔女を演じているマーガレット・ハミルトンは出演者たちの間ではまとめ役の役割を果たす存在であったが、子どもの頃から『オズの魔法使』の愛読者であり、この点が気になったので、製作者のマーヴィン・ルロイに質問したところ、ルロイは、この方が見栄えがするだろうと答えたという。たしかにその通りには違いない。しかし、ドロシーの履いている魔法の靴が銀であったというのは、歴史的な含意があったと論じる人々もいる。
 ボームの研究者たちは、彼が1890年代に盛んに活動をしたアメリカ人民党(American Populist Party)の支持者であったことを指摘している。この政党の有力な指導者であったウィリアム・ジェニングズ・ブライアンは銀本位制の採用を政策として打ち出していて、銀の靴にはそのことが反映されているという。ついでにいうと、オズの魔法使いは実はもともとアメリカ中西部ネブラスカ州の州都オマハの出身ということになっている(映画ではドロシーと同じくカンザスの出身とされている。ネブラスカはカンザスのすぐ北の州である。ついでながら、『オズの魔法使い』を書いたときにボームは、ネブラスカのさらに北のダコタに住んでいた)が、アメリカ人民党がその最盛期に定めた綱領は、党大会の場所に因んで「オマハ綱領」と呼ばれる。さらに言えば、人民党運動が最も盛んだったのはカンザス州である。〔カンザスの一帯では、現在もしばしば竜巻が起きて、多くの被害をもたらしているのはご承知の通り。ボームは何度か事業に失敗したが、そのたびに再起した。困難な現実から、明るい想像を生み出す底力が、『オズ』の世界にも表れている。〕

 アメリカ人民党は、その後の社会党や共産党と違って、内部にも矛盾を抱え、その思想においても夾雑物の多い政党であったが、それゆえに民衆のエネルギーを吸い上げることに成功していたと考えることもできる。『オズの魔法使』の世界を、そのような思想や社会運動の文脈においてのみ解釈するのは短絡のそしりをまぬかれないだろうが、それぞれの人間は欠点の多い存在であるかもしれないが、力を合わせ、知恵を出し合えば、問題を解決できるという物語の展開には、ボームの人生哲学や社会観の表明を見ることができる。
 映画の魅力の大半は、カラー映画初期の作品らしい熱気や創意の感じられる色彩設計、ドロシーを演じているジュディ・ガーランドの少女らしい魅力と歌のすばらしさ、既に述べたような整然とした群舞場面の魅力などに見いだされるだろうが、映画の思想的な含意にも多少は眼を向けてみていただきたいと思う。
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