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梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(14)

6月15日(土)雨

 1957年11月から58年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア4カ国の動植物の生態、人々の生活誌に関わる調査を行った。この書物はその私的な記録である。
 今回から、この本の第7章「ゆううつよ、さようなら」(「ゆううつ」と書いて、「憂鬱」と書かないのが梅棹流である。そういえば、サガンの『悲しみよこんにちは』が出版され、日本に紹介されたのは1954年のことで、その題名が梅棹の脳裏をちらとかすめたのかもしれない)に入る。その前に、例によって、これまでの内容を紹介しておく:
 第1章 バンコクの目ざめ
 第2章 チュラ―ロコーン大学
 第3章 太平洋学術会議
 第4章 アンコール・ワットの死と生
 第5章 熱帯のクリスマス
 第6章 謙虚に学ぶべし
 この学術調査に参加したのは梅棹のほかに、霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学の吉川公雄(医師でもある)、文化人類学の藤岡喜愛の5人で、チュラーロンコーン大学の動物学の先生であるクルーム教授の協力を得、彼の助手であるヌパースパットが北タイでの調査に参加することになった。また、チュラーロンコーン大学に留学中の葉山陽一郎が通訳として研究を手伝うことになり、植物分類学者の津山尚が現地での参加を申し出た。
 一行はバンコクで開かれた第9回太平洋学術会議に参加して、それぞれの研究発表を行い、その後、調査研究のための自動車運転の練習を兼ねて、カンボジアのアンコール・ワットを訪問した。その後バンコクに戻った一行は、北タイにおける研究調査の準備を進めるが、さまざまな障害に手間取る。しかし、大使館やチュラーロンコーン大学の協力もあって、準備は整っていく。

 ゆううつよ、さようなら
 1957年12月24日、「なにがなんでも、きょうは発つ」(160ページ)と決めたその日、午前7時に出発予定が、備品の不備が見つかって、なかなか出発できない。それは解決したが、荷物の積みすぎで、ハシゴ車(川村と依田が乗車)のスプリングがのびてしまっている。自動車会社の人に聞いたところ、「そろそろ行けば、なんとかもつでしょう」ということなので、2時20分に宿舎を出発する。
 「さあ、走るのだ。『バンコクのゆううつ』よ、さようなら。いよいよこれから始まるのだ、わたしたちの仕事が。楽しい自然との語らいが。」(161ページ) トップをハシゴ車が走り、2番はJ3(一番、小型のジープ、藤岡と小川が乗車)、ラストはワゴン(梅棹と吉川が乗車)。ところが、ハシゴ車はそろそろどころか、大変なスピードを出して走っていく。ついていくのがやっとである。

 「ウワバミです」
 5時、ヒンカンの茶店で休憩をとる。ヒンカンは第4章にも登場する地名で、北タイへ向かう道路と、カンボジア方面に向かう道路とか分岐するところである。
 6時、サラブリーに到着する。ここで夕食を取り、宿を探して泊まろうかと考えていると、一行に同行しているヌパースパット君の大学時代の同級生がジープに乗って現れ、さらに北のロッブリーまで行くことを勧める。道はいいし、宿もいいのがあるというのである。日は暮れて、月は出ていない。暗闇のなかを走る。
 突然、先頭の車が止まり、依田が下りて、懐中電灯を持って辺りを調べている。事情を聞くと、大蛇が道を横断しているのを見たのだという。どうも大蛇を轢いたらしい。しかし、何も見つからない。ウワバミは逃げたようである。
 9時15分に、ロッブリーに着く。中国人の経営する宿に宿泊する。

 丘の上で歴史をながめる
 どうも荷物が重すぎるようなので、不急のものをまとめて鉄道便でバンコクに送り返す。
 「ロッブリーは、ちょっとした都会である。軍都として、最近に発展した町だということであった。」(163ページ) ウィキペディアで調べてみたところ、ロッブリーは県・郡の名前で、市街地についてはテーサバ―ムアン・ロッブリーというのだそうだ。ムアンロッブリー郡の人口は20万人を超えているというから、たしかにちょっとしたものである。

 最近発展したと書いておいて、実はロッブリーには古い歴史があることを、梅棹は付け加えている。市の真ん中には小高い丘があるが、その丘は砂岩を積んで築いた人工の丘である。丘の上には榕樹が生い茂り、その榕樹の枝にはたくさんのサルが腰かけていて、人間たちを見ている(最近では、ロッブリーはサルの町として知られるようになり、毎年11月にサル祭が開かれるそうである)。
 丘の上には寺というよりも、神殿と言ったほうがぴったりくるような建物がある。参拝人がいて、線香が立てられているが、本尊を見ていると、これは仏さまではなく、ヒンドゥーのヴィシュヌ神のように思われるという(既にもともと大乗仏教の寺院であったアンコール・ワットに、南方仏教の信者である現代のカンボジアの人々がお参りしている例を見ている)。 
 「丘の南に、巨大な石造の塔が3つ、堂々とならんでいるのが見える。クメールの遺跡である。・・・
 この町は、もともと10世紀末までは、先住民族モンの帝国の中心地だったのだ。その頃、クメール王の征服を受け、ロッブリーはクメールの町となった。クメールの都はもちろんアンコールだが、ここ、ロッブリーは、東北タイからメナム平原にかけてうちたてられたクメールの覇権の、西の拠点だったようだ。当時、タイ族はまだはるか北のかなた、雲南山地にいた。タイ族が、この地方からクメールを追っぱらうのは、ずっと時代が下って、15世紀も半ばをすぎてからである。」(164‐165ページ)

 山賊地帯
 ロッブリーからメナム(チャオプラヤー)本流に沿って北上する道路はまだ建設されていないので、一行は東の丘陵地帯の間を遠回りして北タイへの道をたどることになる。しばらくは立派な舗装道路が続いていたが、間もなく相当な悪路をゆくことになる。一行は物見高く、何か珍しいものがあるとすぐに車を停めるので、行程は一向にはかどらない。このあたりには山賊がいて、定期バスさえ、襲われることがあるという。どうも物騒な話である。

 この後、話が脱線して「全員免許証をとれ」「四度目の合格」「激突!」「午前中はハンドルを握らない」とタイに赴く以前に、隊員たちがいかにして自動車の運転免許証(それも小型車ではなく普通車の免許である)を短期に取得したか、その中で、梅棹がもっとも免許取得が遅れたこと、大阪で事故を起こし、三菱から提供された自動車を破損し、代わりの自動車の提供を受けたこと、朝が苦手の梅棹は午前中はハンドルを握らないことにしたことなどが、記されている。

 丘陵地帯の迂回路を抜けて、一行はまたチャオプラヤーの平原に出た。タクリーの町の警察の派出所で道を聞いたところ、夜道は危ない、途中で誰かが手を挙げても無視して通り過ぎるようにと注意された。やはり山賊は出るらしい。しかし、幸いに無事に通り抜けて、チャオプラヤー河を渡り、ナコーン・サワンに着いた。

 ナコーン・サワンはすでに北タイに属する町で、ピン川とナン川が合流してチャオプラヤーになる地点にあり、古くから交易の拠点として栄えたというが、そういうことは次回に詳しく書くことにする。一行が目指すのは、北タイの中心都市チェンマイであるが、そこまではまだまだ時間がかかりそうである。梅棹のタイ調査旅行はいまから60年以上昔の話であり、その頃と現在とでは、地名の呼び方が変化している例があるので、そういう点にも気をつけながら、読み進んで行くつもりである。
 私がタイに出かけたのは2003年のことで、ついこの間のことのように思っていたが、もう15年以上も昔のことになってしまった。その頃、バンコクに地下鉄は開通していなかったが、道路は非常に立派になっていた。現在では、さらにインフラは整備されてきているはずである。 
 
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ラブレー『ガルガンチュワ物語』(3)

6月14日(金)午前中は晴れていたが、午後になって曇り空になった。

 昔々(ということにしてあるが、作者が生きていた16世紀のことと考えて構わない)、あるところに(ということにしてあるが、主な舞台は作者が暮らしていたフランスのことと考えて構わない)グラングウジェという王様がいて、陽気で、塩辛いものを肴にして葡萄酒を飲むことが好きな人物であった。彼は、ガルガメルというお妃を迎え、やがてお妃は子どもを身ごもったが、その子どもは11か月間も母親の胎内にいた挙句、母親の左の耳から生まれ出るという不思議な生まれかたをした。そして生まれてすぐに、おぎゃーおぎゃーではなくて、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と大声で叫び、これを聞いた父親のグラングウジェは、「やれやれお前のはでっかいわい!」(Que grand tu as!)といったので、人々は、この子どもを「ガルガンチュワ」と命名しなければならないといった。
 並外れた巨大な体躯の持ち主であったガルガンチュワは、17913頭というたくさんの乳牛の乳を飲み、また葡萄酒を飲んですくすくと育っていった。(以上第10章までの大まかなあらすじ)

第11章 ガルガンチュワの幼年時代(ガルガンチュアの幼年時代)
 「ガルガンチュワが3歳から5歳になるまでは、その父親の命令通りに、あらゆる適当な規律に従って養育されたが、この時期は、その国の幼い子供たちと同じようにして送られた。つまり、飲んだり・食べたり眠ったり、食べたり・眠ったり・飲んだり、眠ったり・飲んだり・食べたりしていたことになる。」(渡辺訳、69ページ;宮下訳、99ページ)
 それだけでなく、ガルガンチュワは表に出て、ときには泥だらけになって遊んでいた。子どもの遊びの世界は大人には理解しにくいものであるが、ラブレーはそれを描き出すために、「昔から民間で用いられ、今日でもそのいくつかは通用しているような慣用句や俚諺格言の類を故意に羅列したものである」(渡辺訳:訳者略註、293ページ)という技法を使っている。また渡辺が「本章の描写は、特に、ブリューゲルの「格言」と題する群像画を思わしめる」(同上)と記しているのも注目されるところである。
 そして、人々は、ガルガンチュワが、「その国の幼い子供たちと同じように遊ぶようにと、皆は、ミルバレーの風車の翼(はね)できれいな風車の玩具を作ってさしあげた。」(渡辺訳、72ページ;宮下訳、104ページ)
 Myrbalayesを宮下さんは「ミルボー」と呼んでいる。ヴィエンヌ県のポワティエの北の方にある町で、こういうことが書かれているということは、この当時風車で有名だったようである。ラブレーが生まれたのはアンドレ≂エ≂ロワール県のシノンの北にあるラ・ドヴィニエールと推定されているというが、アンドレ≂エ≂ロワール県はヴィエンヌ県の東北に隣接している。この物語の舞台になっているのはフランスの西側のロワール川とその支流の流域の一帯であるのは、作者がこの地方になじみが深かったからであろう。

第12章 ガルガンチュワの玩具の馬(ガルガンチュワの木馬)
 人々はまた、ガルガンチュワが乗馬の名手になるようにと、見事な大木馬をつくってやったが、ガルガンチュワは喜んでその木馬に乗って遊んだのである。それだけでなく、他にも丸太棒や木材車を馬に見立てて、自分のそばにおいて寝かせていた。そこが自分の厩のつもりである。
 ある時、2人のあまり裕福でない貴族がグラングウジェを訪ねてきたが、他にもお客がたくさんいたので、馬をつなぐ厩を見つけることができず、ガルガンチュワに厩はほかにないかと聞いたところ、彼の木馬の厩につれていかれて、大笑いの仕儀となった。

第13章 尻を拭く妙法を考え出したガルガンチュワの優れた頭の働きをグラングウジェが認めたこと(グラングジェ、ある尻ふき方法を考案したガルガンチュアのすばらしいひらめきを知る)
 さて、ガルガンチュワが5歳の終わりに近づく(つまり、間もなく6歳になろうかという)頃、父親のグラングウジェはカナール人との戦争に勝利して凱旋したその足で、ガルガンチュワに会いに来た。カナール人というのは、中世伝説中に時折現れる空想国の住民である。この書物の第50章に、この国の国王が他国の領域を侵犯したので、グラングウジェが懲罰のために戦闘を開始したしだいが語られることになる。
 親子が喜びの体面をした後、盃を傾けながらよもやま話にふけったのであるが、その際に、父親は侍女たちに、自分の息子を小綺麗にまた清潔にしておいたかと、念を入れて質問したのであるが、ガルガンチュワ自身が、そういうことには特に気をつけたので、自分くらい清潔な男の子はいないと答えた。
 そして父親の質問に答えながら、自分が用便の後の様々な尻の拭き方を工夫・実験してみた次第を詳しく語り、さらに、その際の感想を韻文で表現したので、グラングウジェは自分の息子の聡明さに感心してしまった。
 この章について(特にガルガンチュワがひねり出す「詩」について)渡辺は「翻訳不能」を繰り返しながら、巧みな「戯訳」を示している。宮下は自分自身の翻訳を示しながら、先行する渡辺訳の巧みさについての解説を加えるというなかなか凝った訳業を展開しているので、ぜひ、渡辺訳と宮下訳を読み比べて楽しみながら読んでみてください。

 わが子がいかに聡明であるかを知ったグラングウジェは、早速家庭教師をやとって彼の教育に当たらせるが、その効果は…子どもらしく生き生きと遊び暮らしていたガルガンチュワがどのような生徒に変貌するかという第14章以下の内容については、次回に取り上げていくことにする。

E.H.カー『歴史とは何か』(19)

6月13日(木)晴れ、暑し。

 今回から「Ⅴ 進歩としての歴史」に入る。結論的なことを先取りして書いてしまえば、人間には未来に向かって進歩する能力が備わっているというのがカーの確信であって、だからこの章題が設けられているのである。ソ連の歴史の研究家であったカーの見解を、ソ連の崩壊後の世界に生きているわれわれがどのように見ていくかを考えながら、この章を読んでいくつもりである。が、その前に、これまでの内容をまとめておこう。
Ⅰ 歴史家と事実
 歴史研究は現在を生きている歴史家と、過去の諸事実との絶え間のない対話である。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人との関係は相互的なものであり、歴史家も特定の時代の特定の社会の一員であるから、歴史には現在の社会と過去の社会の対話という性格があることになる。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史研究は、環境と人間の関係についての探求という点で、(自然)科学と共通する性格と目的をもっている。歴史について超歴史的な道徳的な価値を持ち込んで判断してはいけない。
Ⅳ 歴史における因果関係
 歴史研究はある事実がなぜ起きたかという因果関係の探求を忘れてはならず、その中で、さまざまな事実がどのような未来に向かって起きているものであるのかを明らかにすることが重要である。

Ⅴ 進歩としての歴史
過去に対する建設的な見解
 この章をカーは、パウィック(Frederick Maurice Powicke, 1879- 1963) がオックスフォード大学の近代史欽定講座の教授に就任した際に、もしわれわれが過去に対してある建設的な見解をもたなければ、ミスティシズムかシニシズムのどちらかに陥ってしまうだろうと語ったことから始めている。〔どうでもいいことかもしれないが、パウィックはオックスフォード大学の近代史講座の教授であった一方で、彼の本業は中世史であり、有名なラシュドールの『中世の大学』の著述における協力者でもあった。)

 この言葉をめぐり、カーは「ミスティシズム」というのは歴史の意味は歴史の外にある、神学や終末観の領域に属するものであるという考え方で、ベルジャーエフやニーバーヤトインビーのような著述家の著作を指しているのだと思われるという。翻訳者である清水幾太郎が、なぜ「ミスティシズム」という語を用い、「神秘主義」と訳さなかったのかはわからないが、終末観を神秘主義の中に含めることに抵抗があったからかもしれない。ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ベルジャーエフ(1874-1948)はロシアの哲学者(神学者、歴史哲学者、政治哲学者)で、もともとマルクス主義者であったのが、十月革命を経て反共主義に転向、パリに亡命して、神秘主義に基づいて文化や歴史を研究した。二ーバー(Reinhold Niebuhr, 1892‐1971)はアメリカの神学者で、自由主義的な立場から社会問題についての発言をつづけた。トインビー(Arnold Joseph Toynvee,1889‐1975)は英国の歴史学者で、第一次世界大戦の経験を通じて「われわれは歴史の中にある」という実感に目覚め、文明国の歴史をまとめた『歴史の研究』(1934‐61)という大著を著した。3人とも、私が学生だった頃は影響力のある思想家だったが、現在ではそれほどでもないような気がする。とにかく、ここではカーが、この3人を「ミスティシズム」とひとくくりにしていることだけに注目しておく。
 もう一つの「シニシズム」は「ミスティシズム」に比べると日本語として定着しているように思うが、「犬儒主義」とか「冷笑主義」とか訳すよりも、たしかにこちらの方がわかりやすいかもしれない。カーはこの立場を、「歴史は何の意味も持っていない、あるいはどれも甲乙のないたくさんの意味を持っている、あるいは、何でも好きな意味を歴史に与えることができるという見方」(161ページ)と説明している。
 今日における最も人気のある歴史観は、この2つであるかもしれないが、歴史研究家としてはこの2つの見解を受け入れるわけにはいかず、残るのは「過去に対する建設的な見解」ということになる。パウィックの真意はわからない(カーがこの講演を行った時点でパウィックは生存していたので、確かめることは可能だったはずであるが)ので、カーは自分なりの解釈を述べるという。

 アジアの古代文明同様、ギリシア・ローマの古典的な文明は歴史について無関心であったとカーは言う。確かに(既に述べたように)ヘロドトスはペルシア戦争の原因を探るという形で、正しい歴史研究の方向性を示したが、彼の後に続く歴史家はいなかった。トゥキュディデスは「自分が述べる事件より以前の時代には何一つ重要なことは起こらなかったし、今後もなにひとつ重要なことは起こらないであろう、と信じて」いた(162ページ)。古代の詩人たちは過去に黄金時代があり、その後の時代を経て、また未来において黄金時代が復活するという循環史観を信じていたので、過去から現在を通じて未来に至る歴史という意識はなかったとカーは論じる。以上の考えには、アジアの古代文明、例えば中国における歴史記述をどのように評価するかとか、旧約聖書の歴史記述の位置づけ(この点をめぐっては、この後の節で、カー自身が議論している)とか、あるいは古代の歴史観は循環史観ではなくて、衰退史観であったのではないかとか、いろいろな異論が提出されそうであるが、ここでは指摘だけにとどめる。
 ただ、例外をなすのはウェルギリウスであると、カーは言う。ウェルギリウスは『牧歌』第4篇では黄金時代への復帰という古典的な姿を見せているが、『アエネイス』では、循環的な見方を突き破りそうな気配を見せているという。「われ果てしなき領土を与えぬ」(163ページ)というのは、非古典的な発想で、そのために、彼はキリスト教の予言者と見なされるようになったのだという。『アエネイス』はギリシア軍によって亡ぼされたトロイアの王子であるアエネーアスが漂泊の果てにイタリア半島にたどりつき、のちにローマへと発展することになる国の礎石を築くという叙事詩であるが、その中で、ローマが帝国へと発展していく過程が予言されている。「われ果てしなき領土を与えぬ」というのは、『アエネイス』第1歌の第279行に出てくる表現で、神々の王者であるユーピテルが、自分の娘である女神ウェーヌス⦅アエネーアスの母親でもある⦆に、アエネーアスの子孫の運命として語る言葉である。世界に平和と正義をもたらすローマの使命という考えは、ウェルギリウスからダンテに引き継がれていくことになるのは、『神曲』を読めばわかることである。

歴史における進歩の概念
 歴史的な過程が進んで行く前方に一つのゴールを仮定することによって新しい要素=目的論的歴史観を導き入れたのは、『旧約聖書』であり、それを継承したキリスト教徒たちであった。(カーは「ユダヤ教徒」という表現を使っているが、旧約の民がユダヤ教という教団を形成する以前から『旧約聖書』は複数の著者によって書き進められてきたはずで、その最初から、目的論的な考えがあったわけではないことも注意しておく必要がある。)
 「こうして、歴史は意味と目的とを持つことになったのですが、その代わり、現世的性格を失うことになってしまいました。歴史のゴールに到達するというのは、おのずから、歴史の終りを意味します。すなわち、歴史そのものが弁神論になったのです。これが中世的歴史観でした。」(163ページ) 「歴史の終り」などというとフランシス・フクヤマを思い出すが、最後の審判によって神の意志が最終的に実現するというのが<歴史の終り>である。〔フランシス・フクヤマが言っている「歴史の終わり」は、冷戦が自由主義陣営の勝利によって終結したことで、社会制度の発展が終り(社会制度の最高の形態である自由な制度が世界を支配することで)、その意味での歴史が終わるというものである。しかし、最近では、彼は自説を修正しているようである。〕 
 
 ルネサンスは人間中心とか、理性優先というような古典的な見方を復興し、その一方で、ユダヤ教からキリスト教に継承された神の国の実現という未来についてのオプティミスティックな見方をとった。このため、時間についての考え方が一変して、それが親切で創造的なものと考えられるようになったという。それを示すものとして、ローマの詩人ホラチウス(ホラーティウス)の「時の流れとともに減ぜざるものあらんや」という詩句と、フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)の「真理は時間の娘である」という言葉が対比されている。

 この書物の前の方でその名前をあげたモンテスキューやヴォルテールのようなフランスの啓蒙思想家たちは、合理主義者であるとともに、ユダヤ教的キリスト教的目的論は依然として保持していた。歴史はある一方に向かって前進していると考えたが、その一方でその方向に現世的な性格を与えた。「歴史は、地上における人間の状態の完成というゴールに向かう進歩である」(164ページ)と考えられるようになった。
 英国でも、ギボンは「世界の各時代は、人類の真の富、幸福、知識、美徳さえも増してきたし、今も増しつつあるという快い結論」(164ページ)を拒否していない(ギボンが『ローマ帝国衰亡史』の西ローマ帝国の滅亡について扱った第38章でこのように書いていることをめぐって、彼の真意を疑う人もいるが、カーはこれがギボンの本心から出た発言であると考えていると注記している)。
 この流れを受けて、進歩への信仰が最高潮に達したのは、英国の繁栄期においてであったとカーは論じる。(いわゆる「ホイッグ史観」と進歩への信仰の関係については、「Ⅰ 歴史家と事実」ですでに述べられている。) 19世紀の英国の歴史家たちの多くは、科学技術の無限の進歩が人類の幸福を増進すると信じてやまなかった。そういう楽観主義が第一次世界大戦によって打ち破られたのは既にみたとおりである。
 第一次世界大戦後の傾向としては、西洋の没落(シュペングラーの書物の題名)というのはなじみ深い言葉となった。バートランド・ラッセルは(でさえも、という方がいいかもしれない)「全体として、百年前に比べると、今日の世界はかなり自由が少ない」(166ページ)と発言したが、これは貴族の生まれであるラッセルの階級的偏見を映し出したものであるとカーは言う。そして文明の没落に関するすべての議論は、「昔の大学教授は女中を使い慣れていたのに、今では自分で食後の洗い物をしている、ということを意味するにすぎない。」(166ページ)という意見に賛意を表する。ある人々にとっては進歩であるものが、他の人々にとっては没落であったり、堕落であったりするかもしれない。そういうことからすると、もう少し問題を掘り下げて、納得のいく進歩についての見方を探し出す努力をすべきであろうという。

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(3)

6月12日(水)曇り、夜になって雨

 南イタリアのカラブリア地方出身の修道士であったトンマーゾ・カンパネッラが書いた『太陽の都』は、トマス・モアの『ユートピア』、ヴァレンティン・アンドレアエの『クリスティアノポリス』、フランシス・ベーコンの『ニュー・アトランティス』と並び、近世ヨーロッパにおけるユートピア文学の代表作の一つと考えられてきた。
 この作品は、コロンブスの新世界への航海に参加したジェノヴァ出身の船乗りの一人が、その後、世界を一周してヨーロッパに戻り、その際に訪れた(現在のスマトラ島の中に設定されているらしい)「太陽の都」の制度について、マルタ騎士団の団員の質問に答えて語るという形で展開されている。
 語り手の一行は、航海の途中、「太陽の都」につれていかれたが、それは広い平原の中にある丘の上に建設された円形の都市であり、城壁で囲まれ、その頂上には神殿があった。

 ジェノヴァ人の話によると、神殿は完全な円形で、周囲には壁がなく、その代わりに太くて非常に美しい円柱に囲まれているという。神殿の中央には祭壇が置かれ、その祭壇には巨大な天球儀と地球儀が置かれている。また円天井には、空の主な星がすべて描かれ、それぞれ名前が記されているとともに、地上の物体との関係が3行の韻文で書かれている。天球儀と地球儀とが宇宙の仕組みと、それが地上の出来事にどのようなかかわりをもっているかについて示しているというのである。そして神殿には40人ほどの神官が住んでいるという。また屋根の上には風の方向を示す風見があって、36の風を区別することができ、それぞれの風がどのような天候をもたらすかを知らせる。また、非常に大切なことを金文字で書いた本が収納されているという。

 騎士団員は次に、この国がどのように統治されているかを説明してほしいという。
 ジェノヴァ人は、彼らには1人の神官であり君主である人物がいるが、それはヨーロッパで「形而上学者」と呼ばれる存在であるという(一種の哲人政治が考えられているらしい)。彼は「太陽」(Sole)と呼ばれている。
 彼は全市民の精神的・政治的指導者で、あらゆることがかれによって決定されるという。(つまり、独裁制である。)

 『太陽』には3人の補佐役的高官がいる。この3人は「ポン(Pon)」、「シン(Sin)」、「モル(Mor)」と呼ばれている。それぞれが「権力」(Power)、「知識」(Wisdom)、「愛」(Love)を意味している。

 「権力」は、戦争、平和、軍事一般を司り、戦時には最高権力者となるが、「太陽」を凌ぐ存在ではない。「権力」は将校、戦士、兵士、弾薬・糧秣、築城、攻略などを監督する。
 「知識」はすべての学問、文芸、工芸の博士や教師を監督し、学問と同じ数の責任者を部下に従えている。つまり、占星学者、宇宙学者、幾何学者、論理学者、修辞学者、文法学者、医学者、博物学者、道徳学者などである。「知識」はすべての学問について記したただ1冊の本をもち、これをピュタゴラスとその弟子たちのような方法で全市民に読んで聞かせる。また、城壁のない外壁全部と、砦の上にもあらゆる学問を絵で描かせている。

 ピュタゴラスはギリシアの数学者、哲学者で、南イタリアのクロトンにあったギリシア人の植民地で学園をひらいた。カンパネッラの故郷の近くであったので、カンパネッラはピュタゴラスを同郷の先人として尊敬していたようである。1冊の本にすべての知識が集約されているというのは、知の体系を閉じた、すべてを知ることが可能であると考える発想で、現代の科学観とは異なるものである。現在のようにさまざまな学問領域が提唱され、学会が乱立している状況をカンパネッラは想像していなかったと思われる。また、彼が列挙している学問領域はまだまだ中世の七自由学芸という区分を脱していないようである。

 モアの『ユートピア』と比べると、社会の現実についての観察や批判があまり見られず、理想社会の描き方も観念的で具体性に乏しいという印象をもつことは、前回にも書いたが、その代わり、カンパネッラにも独創的な発想が見られることも言っておかないと不公平であろう。彼の独創的な発想の一つである、あらゆる学問を絵で描かせて、市民にそれを知らせるというのは、今日の視聴覚教育の先駆的な発想といえよう。具体的にどのような絵が描かれているのかについては、次回に紹介することにする。また、もう1人の高官である「愛」の仕事についても次回以降に紹介することにする。

 今日は、病院に出かけたので、更新が遅れ、またみなさまのブログを訪問する時間的余裕がとれませんでした。あしからず、ご了承ください。

『太平記』(266)

6月11日(火)朝のうちは晴れていたが、次第に雲が多くなる。

 康永元年(この年4月までは暦応5年、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国・中国地方で抵抗していた宮方の軍勢がほとんど滅亡し、武家方の時代となったが、人々が願っていたような平和は訪れず、依然として不穏な情勢が続き、荘園からの収入が得難くなった公家は衰え、朝廷の諸行事も行われなくなった。

 衰微したとして列挙されている朝廷の諸行事のうち、前回は1月と2月の行事を紹介したので、今回はその後の月に行われていた行事を見ていくことにする。

 3月には
 3日の御燈(ごとう)
 これは帝が北斗七星に燈明を捧げる儀と岩波文庫版の脚注で説明されている。ところがWikipediaによると、捧げる対象は「北辰」であり、北辰は北極生のことを指すが、北斗七星とも混同されるという。北辰信仰はもともとは中国の民間行事であるが、仏教と結びついて日本に伝来し、仏教の行事として執り行われたようである。燈明を捧げるというのは、帝が北辰菩薩をまつる寺に行幸されて行なわれたのである。この行事は3月と9月に行われていたようである。今では廃絶しているが、民間の星まつりなどは、この影響を受けた行事だとも考えられるという。

 曲水(ごくすい)の宴、
 これは普通は「きょくすい」とよんでいる。これも中国から伝わったもので、屈曲して流れる小川の流れに盃を浮かべ、詩をつくり酒を飲む宴会であるが、日本ではわざわざ人工の川をつくって行う例が多かったようである。

 薬師寺の最勝会(さいしょうえ)
 金光明最勝王経を読誦して、教学の興隆、国家の安泰、帝の無事息災を祈って行われる法会であり、1月に宮中の大極殿で行われる御斎会(前回取り上げた)をはじめ、各寺院で行われたが、薬師寺のものは特に大規模であった。長く中絶していたが、2003(平成15)年に復活し、今日に至っている。現在では5月に行われている(暦が違うということもある)。

 石清水の臨時の祭
 石清水は石清水八幡宮のこと。「臨時の祭」であれば、年中行事の中に列挙する必要はないと思うのだが、なぜかここに記されている。

 東大寺の授戒
 この時代、僧侶になるためには三戒壇と言われる東大寺の戒壇院、筑紫・大宰府の観世音寺、下野の薬師寺で僧侶としての戒律を授けられなければならなかった。その後、そのほかにも戒壇ができた。) ここで授戒は3月の行事となっているが、現在、東大寺では6月に一般の授戒(結縁授戒)、10月に僧侶のための授戒を行なっているそうである。

 同日、鎮花(はなしずめ)の祭を行る。
 鎮花祭(ちんかさい)と呼ぶ方が一般的である。陰暦3月は落花の時期であり、それと時を合わせるかのように疫病が流行することが少なくなかったので、これを鎮めるために宮中で行疫神(ぎょうやくじん)である大神・狭井(さい)の二神を祭った神事であり、神社でも行う。大神・狭井両神社では現在は4月18日に行われている。調べてみたところでは、武蔵一宮の大宮氷川神社では4月5日、6日、7日に行われているそうである。ここで花というのは桜の花のことである。

 同日、東大寺の華厳会。
 周知のとおり、東大寺は南都六宗の一派である華厳宗の大本山であるが、この行事は現在では行われていないようである。

 4月は、朔日の告朔。
 これは1月のところですでにふれた。百官の勤怠を記した文を帝が閲覧される行事である。

 同日、掃部寮(かもんりょう)、冬の御座を徹して、夏の御座を供(くう)ず。
 これは説明の必要がないだろう。この時代の暦(陰暦)では4月から夏になる。

 主殿司(とのもつかさ)、始めて氷(ひ)を貢じ、兵衛府、御扇(みおうぎ)を進(たてまつ)る。
 これも説明の必要はなさそうである。帝のご生活も夏向きになっていくということである。

 山科、平野、松尾(まつのお)、杜本(もりもと)、当麻(たいま)、当宗(まさむね)、梅宮(うめのみや)、大神(おおみわ)の祭、広瀬、龍田の祭。
 山科神社は京都市山科区にある神社で、4月と11月の上巳に祭礼が行なわれていたそうである。
 平野神社は京都市北区にある神社で、二十二社の一社であり、4月と11月の上申の日に祭礼が行なわれていたという。現在では4月2日に1回だけ例大祭が行なわれている。
 松尾神社は全国にあるが、その総本社で、二十二社の一社である京都市西京区の松尾大社のことであろう。松尾祭はかつては3月中卯日に出御、4月上酉日に還幸ということであったのが、現在は4月から5月にかけての日曜日を選んで行われているそうである。
 杜本神社は大阪府羽曳野市と、柏原市にあるが、羽曳野市の方と考える説が有力のようである。この神社の祭礼については延喜式に記載があるというが、その後衰微したという。
 奈良県葛城市にある当麻寺は神社ではないが、4月14日に(明治期から2018年までは5月14日だった)当麻曼荼羅と中将姫に関する練供養会式が行われているそうである。
 当宗神社は、大阪府羽曳野市にある誉田(こんだ)八幡宮の境内社で、もとは独立の神社だったのが、明治時代に現在地に移ったのだそうである。誉田八幡宮は誉田御廟山古墳(伝・応神天皇陵)のすぐ南に位置している。祭礼についてはわからない。
 梅宮神社は京都市右京区にある梅宮大社のことで、二十二社の一社であり、また橘氏の氏神としても知られる。梅宮祭は四月の上酉の日に行われていたが、現在では5月3日に行われているそうである。
 大神神社についてはすでに出てきているが、奈良県桜井市にあり、二十二社の一つであり、また大和一宮でもある由緒ある古社である。この神社のホームページを見てみたところ、大変にお祭りの多い神社であることがわかった。鎮花祭が4月18日に行われていることも確認できた。
 広瀬大社は奈良県北葛城郡河合町川合にある神社で、二十二社の一社に数えられ、大和盆地を流れる多くの川の合流点にあることから水の神として、後述の龍田大社が風の神とされるのと並んで、信仰を集めてきた。2月11日のお田植え祭が有名であるが、4月と7月にも大忌祭が行なわれているそうである。
 龍田大社は奈良県生駒市にある神社で、二十二社の一社であり、風の神とされ、古くから信仰を集めてきた。4月3日に滝祭が行なわれるそうである。
 ということで、ここまで出てきた寺や神社は、古くからの由緒があり、祭礼や行事のために朝廷から使いが派遣されることになっていた(が、戦乱のためにそれも途切れてしまったということが言いたいのであろう)。

 5日は、中務(なかつかさ)省、妃(ひ)、夫人、嬪、女御の夏の衣服の紋を申す。
 妃、夫人、嬪、女御は女官なので中務省に属すと岩波文庫版の脚注で説明されている。「夏の衣服の紋を申す」の意味がよくわからないのだが、要するに衣替えをする際に、自分の紋を申告するということであろうか。
 同日の準蔭(じゅおん)の位記。
 先祖に準じ位を賜る儀と岩波文庫版の脚注に記されている。

 7日、擬階奏す。
 地下官人の名簿を上奏する儀。
 地下というのは御所の清涼殿の南面の殿上の間に昇ることを許されない官人、家格の人々をいう。大体は5位とか、6位とかいう身分の人々であった。

 8日、灌仏。
 釈迦生誕像に香水をそそぐ法会。これは朝廷の行事ではなくなったが、寺院などで現在も行われている。そそぎかけるのは香水ではなく、甘茶に代わっている。

 10日は、女官、春夏の時の飾り物の紋を奏す。
 5日にも同じような行事があったが、こちらはその時よりも身分の低い女官たちが飾り物=衣服の文様について報告するということらしい。

 内の弓場(ゆば)の埒、
 御所の中の弓場に競馬の埒をつくる。

 斎内親王(いつきのひめみこ)の御禊(みそぎ)。
 賀茂の齋院が禊をされる。

 酉の日、賀茂の祭、
 これは現在の葵祭である。

 男女(なんにょ)の飾り馬、
 男女官人が飾り馬を見る儀。

 東大寺授戒の使い、
 東大寺の授戒は3月に行われたはずなので、ここで使いが派遣されるのは奇妙である。

 牽駒(こまひき)、
 5月の節句に供する馬を帝が見る儀。

 神衣(かんみそ)、
 伊勢神宮の神服を奉納する儀、

 三枝(さいぐさ)の祭あり。
 率川(いさがわ)神社の祭である。これはすでに出てきたが、奈良市内にある率川神社の三枝祭は国家の祭として大宝律令にも記載されているそうで、ゆりまつりとも呼ばれ、現在では6月17日に固定されているそうである。なお、率川神社では「さいくさのまつり」と呼んでいる。

 中申日(なかのさるのひ)、日吉の祭礼、二つの時は後。
 中旬の申の日に日吉大社の祭礼がある。10日間のうちに2度申の日がある場合には、後の方の日程を選ぶ。
 賀茂も同じ。
 賀茂神社の祭礼は中酉日に行われるが、同じように日程を選んでいるということである。

 前回は1,2月の行事を検討したのに続き、今回は3月と4月を検討した。現在は廃れてしまったものがある一方で、今でも続いているもの、形を変えてつづいているだけでなく、我々の身近な行事となっているものなど、いろいろであることは同じ。もう少し速度を速めたいとは思うが、なかなか思うようにいかない。とにかく数が多く、いちいち調べているだけで疲れる。すべての行事に出席されるわけではないが、勅使を派遣されるなど、それに付随する用務がある。現在とは形が違うとはいえ、帝の関わられる行事が多いのは同じであって、上皇が譲位を決意されたのも無理のない話であると、改めて思うのである。
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