亀田俊和『観応の擾乱』(6)

9月22日(金)曇り、今にも雨が降りそうな空模様である。

 観応の擾乱は室町幕府初代将軍足利尊氏および執事高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた足利直義が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。乱のはじまりは観応元年(1350)であるが、幕府内での確執は貞和4年(1348)ごろから始まっている。一時は直義軍が圧勝したが、最終的には尊氏軍が勝利し、観応3年(南朝正平7年、1352)に直義が鎌倉で死去したことで終結する。
 著者はこの戦乱を通じて、室町幕府の鎌倉幕府を模倣したような体制が変化し、この幕府独自の権力構造が生みだされたと考え、そうなった理由を戦乱の推移を追うことで探ろうとしている。

 第1章「初期室町幕府の体制」では、尊氏は将軍に就任したものの、その弟の「三条殿」直義が事実上の室町幕府最高指導者であり、尊氏は恩賞充行(あておこない)と守護の任命という2つの権限しか行使しなかったことが注目されている。しかし、この2つは、既存の所領秩序を変更し、新しい秩序を創造するという変革を担う機能を持っている。つまり、尊氏には変革(新しい秩序の創造)、直義には保全という役割の分担があったと考えられる。高師直は、尊氏だけでなく、直義の執事でもあったと考えられる。
 第2章「観応の擾乱への道」では、南朝方をほぼ抑え込んでいた室町幕府の優位が、楠木正行の挙兵によって揺らぎ、幕府は一時的にではあるが揺らぎ始めたこと、その正行を破り、南朝を吉野から賀名生まで追い落とした高師直の威信が高まり、不満を抱いた武士たちとの軋轢が激しくなったことが記されている。幕府内部での対立は、恩賞の配分をめぐる不満を反映するものであったと考えられる。

 今回から、第3章「観応の擾乱第1幕」に入る。貞和5年(1349)に土御門東洞院にあった将軍足利尊氏邸が火災にあい、その再建が終わるまで、尊氏は一条今出川にあった執事高師直邸に居住することとなった。と、簡単に書いてあるが、そもそも一条今出川というのがどうも不思議である。京都の市街はよく碁盤の目にたとえられ、土御門東洞院というふうに、東西に走る道路(この場合は土御門大路)と南北に走る道路(この場合は東洞院大路)の組み合わせでどこにあるかがわかる。ところが、一条今出川というと、両方とも東西に走る道路(今出川通りは一条通よりも北にある)なので、どこなのかがさっぱりわからない。まあ、たぶん、東の方の鴨川に沿ったあたりではないかと思われる。

 『太平記』には直義が高師直の暗殺を企てたという記事があり、著者は当時の信頼できる史料である『園大暦』に照らし合わせて貞和5年の閏6月初めのことであったと考えている。直義は兄には知らせずに近臣と謀議して師直を暗殺しようと考え、三条殿に師直を呼びつけたが、内応者の機転により師直は自宅に逃げ帰ることができた。その後、師直は病気を装って幕府への出仕をやめた。直義は三条殿周辺の住宅を破壊したり差し押さえたりして、信頼できる部下を配置し、防備を強化した。

 閏6月7日に、将軍尊氏が三条殿を訪問し、直義と相談し、同月15日に師直は執事を解任された。所領なども没収され、ともかく直義の攻勢が成功した。師直の後任に、直義はその兄の師泰を考えていた形跡もあるが、同月20日に実際に執事に就任したのは師泰のこの師世であった。
 同月30日、直義は自ら光厳上皇の御所(持明院殿)に参上し、師直を排除した件について報告した。その時に直義は大したことではないと言ったが、そもそも、報告に出かけるということ自体が異例で、直義の心中の不安を表しているのではないかというのが著者の推測である。

 師直の執事解任直後に、直義派の上杉朝房が内談頭人に就任する。さらに彼は小侍所頭人も務めた。このような朝房の抜擢は直義派の勢力伸長を示すと考えられるという。この時期、直義の花押が著しく巨大化したことが注目されるが、これは彼の自信の表れよりも不安の裏返しではないかと著者は論じている。

 やがて師直の反撃が始まる。7月21日に、高師泰が河内の国から大軍を率いて京都に向かった。弟の師直に協力して直義に軍事的圧力をかけ、政敵を排除するためである。直義は、師泰を執事に任命することで、彼を懐柔しようとした。8月9日に、師泰は入京する。
 一方、将軍尊氏は8月10日に丹波国篠村八幡宮(かつて反北条の旗幟を鮮明にして六波羅攻撃の起点とした地である)に参詣し、同日夜に修理が完了した土御門東洞院邸に入った。11日には、師直に味方するために赤松円心らが参上し、その日のうちに本拠地である播磨に下った。直義の養子で西国に派遣され、当時備後国に滞在していた足利直冬が養父直義の救援に登場するのを防ぐためである。
 8月12日の宵には、大勢の武将が直義と師直の邸宅にはせ参じ、それぞれの旗幟を鮮明にした。この時点では師直と尊氏・直義兄弟が対立する構図であった。しかし、両派の攻勢はかなり流動的で、それぞれの支持層には明確な相違は見られない。
 師泰が入京して、洛中がざわついている時に、都を離れて篠村八幡宮に参詣するという尊氏の神経は尋常なものではないと著者は言う。「こういうところが、いかにも政務に介入しなかった尊氏らしい」(59-60ページ)というのは客観的な評価なのか、誉め言葉なのか、微妙なところである。

 しかし、8月13日には、さすがの尊氏も直義に土御門東洞院邸に避難するように勧めた。直義はこの指示に従い、将軍邸へ移動した。これを見て師直に寝返る武士が続出し、将軍兄弟の軍勢は300騎にも満たなくなった。
 直義は光厳上皇へ使者を派遣し、師直を流罪にすることを申し入れた。〔上皇の御所である持明院という寺はいまはなくなってしまっているが、上京区にあったので、同じ上京区の土御門東洞院の尊氏の邸から近かった。〕 しかし、これは到底不可能な提案であった。
 8月14日早朝、師直は大軍を率いて法成寺河原に進出し、将軍御所の東北を厳重に包囲した。師泰も7000騎余りで西南からこれを囲んだ。法成寺というのは藤原道長が創建した寺で、現在の荒神口の北にあった。だから荒神橋の北の方の鴨川の西の河原に結集したと言えば、イメージがわく人もいるだろう。京都府立医科大学とその病院のあるあたりという方が分かりやすいか。もっとも、私も最近は京都にあまり出かけていないので、記憶と土地勘とが鈍っているかもしれない。
 師直軍が御所を焼き払うという風聞も飛び交い、付近の住民は大混乱のうちに避難した。将軍邸の北隣に位置する内裏に住む崇光天皇も、光厳上皇の御所(持明院殿)へ避難された。

 尊氏兄弟は最悪の場合は切腹も覚悟して、軽武装で待機した。師直もさすがに主君を攻撃することはできず、両軍はにらみ合いを続けた。やがて尊氏は須賀清秀を使者として、師直と交渉を開始した。
 交渉の次第と結果とは、次回に述べることにしたい。呉座勇一『応仁の乱』にも描かれているが、大名が将軍の邸を包囲して政治的な交渉を行うことを「御所巻」といって、鎌倉幕府にも、江戸幕府にもなかった室町幕府独自の風習である。高師直の尊氏邸包囲はその最初の例なのである。好むと好まざるとにかかわらず、世の中は新しい動きによって変化していく。その一例を我々はここに見るのである。
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ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(27-3)

9月21日(木)晴れ、暑し。

 ベアトリーチェに導かれて、ダンテは煉獄山頂の地上楽園から天上の世界へと飛び立つ。月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天で、土星天で、彼を出迎えた魂たちと対話を重ねて、彼はこれまで抱いてきた地上と天上のさまざまな事柄についての疑問に対する回答を得、自分が地上に戻った後に、死後の世界の遍歴で経験したことを人々に語ることこそ自分の使命であることを自覚する。至高天から土星天へと降りている<ヤコブの階段>を上って恒星天に達した彼は、そこで<信仰>、<希望>、<愛>という3つの対神徳についての試問を受け、彼が人知の及ぶ範囲を超えた世界を経験するのにふさわしい人間であるとの承認を得る。そして彼は恒星天から、不動の地球を取り巻いて全宇宙が回転する運動の起点となっている原動天に達する。この天空を包含するのは、神の光と愛である。この原動天から森羅万象の運動が開始されることから、運動、つまり変化を表現するために、物質的な世界である地上に住む人間の持つ時間もここにその根源をもつのである。

 地上の目に見える諸天空の動きは、目に見えない原動天の動きの結果であるとベアトリーチェは言う。
そして、時間がこのような素焼きの鉢にいかに
根を保ちながら他の天空に枝葉を伸ばしているか、
もはやあなたに明らかになってもよいでしょう。
(413ページ) ダンテはプトレマイオスの天動説によって宇宙の動きを説明しようとするから、かなり無理な議論を展開する。「根」は原動天の動き、「葉」は諸天空の回転である。地球の周りを諸天空が猛スピードで回っているとする天動説には明らかな無理があった(猛スピードで回っているだけでなく、周転円説に見られるように、かなり複雑な動きをしていると考えなければ、惑星の動きを説明することはできなかった)。

 ベアトリーチェは、人々が物質性への執着「貪欲」に邪魔されて、この非物質的な神の世界に精神の目を向けられないでいることを憤る。そして、人間は本来、善を求めて空に向かうべく生まれつくにもかかわらず、後に道を踏み外すことを嘆いた。
望みは人々の中に正しく花開きます。
しかし降り続く雨は熟れた李(すもも)を
悪しく腐乱した実へと変容させるのです。

信仰と純真無垢は幼児たちの中にしか
見つからないものですが、後になれば、どちらも
頬が髭で隠れる前に逃げ去ります。
(414ページ) 

このように、朝をもたらし夜を置き去りにする方の
美しい娘は、最初は白い肌に見えていても、
黒く変わるものです。
(414-415ページ) 神の「美しい娘」=人類は、最初は「白い肌」=純真無垢だが、後では「黒」く邪悪になるという。〔これは明らかに肌の色をめぐる偏見に基づく、人種差別である。〕

 ベアトリーチェは続けて、
おまえは、驚いたりしないですむよう、
地上に統治者が存在しないことを思いなさい。
それゆえに人類の一族はこれほどまでに道を踏み外しているのです。
(415ページ) 彼女が言う「統治者」はローマ皇帝である。世俗的な権力の持ち主である皇帝が地上に正義をもたらすと考える一方で、古代に存在した<民主制>や<共和制>には想像力が及んでいないことがダンテの限界であろう。

 そしていつか、神の意志を伝える天空の影響により、神の力が現われるという。
しかし下界で無視されている一日の百分の一ゆえに
一月がすっかり冬を脱することになる前に、
高みにあるこれらの諸天空は光を放ち、

その結果、長い間待ち望まれていた嵐が、
船首のある場所に船尾を回すでしょう。
こうして艦隊は正しく走り、

そして花の後に真実の実が続くことになるのです」。
(415-416ページ) ダンテの時代に使われていた「ユリウス暦」は1年を365日と6時間としていたため、実際の1年である365日と5時間48分との間に、「1日の(約)100分の1」約12分の誤差が生じる。これが積み重なると季節に対して暦が遅れ、春が来ても暦は1月であることが起きる(実際にはユリウス暦は4年に1度の閏日を設け、これを1582年に修正したグレゴリオ暦は400年に3度閏日を省略した)。1季節を3か月とすると、ダンテが述べている暦と季節とのずれは、彼の時代から約9000年後に起きることになる。「艦隊が正しく走り」、正義が実現する日を、ダンテが9千年後と考えていたのか、それとも比較的すぐにやって来ると考えていたのかをめぐっては議論が絶えないという。〔ここでは、ダンテがこのような暦学的な知識と思考力を備えていたことに、素直に脱帽しておこう。〕

 こうして、第27歌は終わるが、ダンテの原動天での見聞はまだまだ続く。いよいよ非物質的な世界にやってきた彼は、どのような経験を重ねることになるのであろうか。

『深夜の市長』、『醜聞』

9月20日(水)曇り

 9月19日、渋谷ヴェーラ渋谷で『名脇役列伝Ⅱ 安部徹生誕百年記念 悪い奴ら』の特集上映から『深夜の市長』(1947、松竹、川島雄三監督)と『醜聞(スキャンダル)』(1950、松竹、黒澤明監督)の2本を見た。この特集上映は安部徹の出演作品の他に、小沢栄太郎(1909-88)と河津清三郎(1908-83)の出演作品も取り上げており、彼らが悪役だけでなく、主役や印象深いわき役として出演した作品も含まれていて、興味深い内容となっている。今回の、安部が正義の主役を務めている『深夜の市長』は川島雄三の比較的初期の作品として、小沢が悪役を憎々しく演じる『醜聞』は黒澤流の重喜劇(だと思う)として、それぞれ注目すべき作品であり、あえて紹介する次第である。

『深夜の市長』
 1942年(昭和17年)に起きた銀行強盗事件で、社会主義者として活動していた男が犯人として挙げられ、処刑された。そのころ、戦地に赴いていた彼の弟(安部)は友人の新聞記者(山内明)から事件について聞き、不審を抱き、復員後、タクシーの運転手をしながら事件の真相を探り始める。と、”深夜の市長”(月形龍之介)と呼ばれる謎の男が現われ、危機に陥りかけた彼を助ける一方で、事件に深入りしないようにと助言する。しかし、彼は事件の真相を突き止めようとさらに調査を進める…。
 事件の真相の発覚を恐れる犯人たちの動きが映画の初めの方からずっと描き出されていて、真相はある程度まで観客に明らかにされており、犯人グループと捜索を進める側の両方に接触する”深夜の市長”は事件の輪郭をつかんでいることもわかる(むしろわからないのは、なぜ彼が”深夜の市長”と呼ばれているかである)。謎解きの要素は比較的少ないが、アメリカのギャング映画を見るような登場人物の服装やアクション、その一方で戦後間もない東京の下町の風俗の描写のミスマッチ感が何とも言えない。”深夜の市長”の正体と、彼が主人公を助ける理由の方がむしろ物語の中心となっていると考えていいのかもしれない。戦争中に映画監督としてデビューした川島の、自分の作風を模索する手探りの様子が感じられる。勝鬨橋をはじめ、隅田川の河口近くの風景が背景として多用されているが、これはその後の彼の映画にもみられるのも興味深い。

『醜聞(スキャンダル)』
 オートバイで雲取山の麓に絵画の製作に出かけた画家(三船敏郎)が、バスに乗り遅れたという声楽家(山口淑子)に出会い、彼女をオートバイに乗せて温泉場にまで同行する。湯上りに、彼女の部屋で歓談しているところを、彼らを見かけたカメラマンに盗撮される。写真にとられた場面だけをみれば、彼らは親密な関係にあるように見える。
 写真を持ち込まれたカストリ雑誌『アムール』(『シネマヴェーラ通信』186号の解説には、週刊誌とあるが、この時期、まだ週刊で発行されていた雑誌は『週刊朝日』『サンデー毎日』などごくわずかであった)の編集長(小沢栄、小沢栄太郎はこの時期、この芸名を使っていた)は、2人のロマンスをでっちあげて、スキャンダルとして大々的に売り出す。
 この記事を読んで怒った三船が、出版社に乗り込んで編集を殴るという事件がさらに起きて、騒ぎはますます大きくなる。名誉棄損による告訴を考えているという三船のもとに弁護士と称する男(志村喬)が訪れてくる。見るからに怪しげで、事務所はビルの屋上のあばらやで、机の上には競馬新聞が散乱している。しかし、結核でずっと寝たきりの彼の娘(桂木洋子)の心の美しさに討たれた三船は、この弁護士を信用することにする。とはいえ、この弁護士は見てわかるとおりの食わせ物で、原告、被告の両者から金を巻き上げようと暗躍する。競輪場で、ギャンブル好きの弁護士を編集長が次々に金を渡して篭絡する場面など面白い。
 なぜ、こんなことにことさら触れるかというと、森繁久彌について小津安二郎が「あの人は同じ芝居が二度できない」と文句を言ったのに対し、森繁が小津のロー・アングルでは「競輪の場面は撮れないだろう」といったという話を読んだことがあるからで(両者ともに、冗談めかしてはいるが、相当厳しいところをついている)、このやり取りは、この『醜聞』という映画が出来てから10年ほど過ぎてからの話ではあるが、この作品で黒澤は競輪の場面を楽々と映画の中に取り込んでいて、その映画作りの特徴を理解するのに役立ちそうだと思うのである。 
 両方から金を受け取っている弁護士は、編集長から連名の告訴でないと勝ち目はないからと行って来いといわれて、画家のところに出かけると、声楽家も居合わせて、連名での告訴に踏み切ることにしたといわれ、進退窮まってしまう。
 裁判が始まると、有能な弁護士を雇った被告・編集長側に対して、原告代理人の志村はしどろもどろの対応ぶりで裁判は被告側に圧倒的に有利に展開する…。

 三船は自分がヴラマンクの真似をしているといわれるが、そういうことを言っているような奴に限って、外国の絵の真似しかしていないというようなことを言い、これはおそらく絵の勉強をしたことのある黒澤の本心が覗いている部分であろう。裁判を通じて、三船と山口が次第に近づいているようにも見えるが、物語の焦点はそういうところにはない。単純に正義を振りかざす三船よりも、むしろ弁護士・志村喬の内面の葛藤と、それが表に出た娘の桂木洋子とのやり取りに目をむけるべきであろう。映画としての見どころは、志村の熱演である。熱演が熱演を通り越して、怪演としか言いようがなくなると、もっと喜劇性が増すのだが、それを望むことを悪趣味にしているのが娘とのやり取りであり、全体としては勧善懲悪の人間ドラマとしてのまとまりの中に納まっている。
 
 『深夜の市長』の上映は私が見た回で終わってしまったが、『醜聞』は9月22日も、『悪魔の接吻』(1959、東宝、丸山誠治監督、河津清三郎出演)と抱き合わせで上映されるので、ご関心の向きはご覧ください。

『太平記』(176)

9月19日(火)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、都を奪回した足利方は、勢いに乗って、後醍醐天皇とその側近、従う武士たちが都を捨てた後に頼りにした比叡山に東西から攻め寄せた。西坂では後醍醐天皇の寵臣で三木一草の1人に数えられた千種忠顕が、宮方は知性の有利さと、武士たちの勇敢な働きとで足利方の攻撃を何度も食い止めた。6月17には、足利方は山での戦いに慣れた熊野八庄司を先頭に攻撃を掛けたが、本間重氏と相馬忠重の弓勢に恐れをなして逃走した。そんな中、八王子権現の託宣があり、搦め手の大将高師久の敗北を予言した。果たして20日、宮方の急襲で寄せ手は総崩れとなり、高師久は捕えられて斬られた。

 6月5日から20日まで、比叡山での合戦が続き、多くの戦傷者を出したが、攻撃を仕掛けた足利方は東西の坂の両方で敗戦を重ね、退却せざるをえず、さらに臆病風に吹かれて京都市内にも留まることなく、あちこちに逃げていった。このため、京都市内は思ってもみなかったほどのがら空き状態になり、都を守っていた武士たちがどうしようかと驚き惑った。この時、もし比叡山から時間をおかずに都へと攻め寄せていれば、足利方が都を持ちこたえることはできそうもない状態であったが、比叡山の内部では意見の対立があり、10日以上も無為に過ごした。これは宮方と比叡山にとっては惜しい逸機であった。

 そうこうしているうちに都から離れた片田舎や郊外に逃げ隠れしていた武士たちが、気持ちを取り直してまた京都に戻ってきたので、京都を守護する軍勢はまた大ぜいになった。比叡山の方ではそんなこととは知らず、京都市内には大した軍勢はいないと聞いて、6月末日に、10万余騎を二手に分けて、今路、西坂から都へと押し寄せた。

 尊氏は、相手を油断させようと、わざと鴨の河原にわずかの軍勢しか置かず、矢を射かけただけで退却させた。そこへ宮方の千葉、宇都宮、土居、得能、仁科、高梨の軍勢が、勝ちに乗じて、追いかけて洛内に攻め入る。足利方は、敵が存分に近づいてきた時に、当時から準備していた50万の兵を出陣させ、今日の南北、東西の小道に魚鱗の陣を張り、東西南北から相手を押し込み切り離して、四方にあたり八方に囲んで、一人残らず切り捨てようと戦ったので、宮方の歴戦の武士たち1000人余りが戦死し、日が既に暮れてきたので、戦場を駆け巡って汗みどろのなった馬の脚を休めようとして、戦闘で劣勢であった宮方の兵たちは、なんとか士気を奮い起こして西坂をさして引き返したのである。

 これまでは数で勝る足利方の攻勢を比叡山の僧兵たちと宮方の武士たちの連合軍が受けて立つという展開であったのが、今回は攻守を変えて、宮方の方が都を攻めた。一端は多くの武士たちが逃亡して数的にも劣勢になった足利方であったが、逃げていた武士たちが戻ってきたことで勢いを取り戻し、宮方の攻撃を退けた。京勢=足利方は勢いに乗り、山方=比叡山・宮方は勢いを失い、両者互角の形成となった。

 こうしてまたしばらくは合戦もなかったが、北陸地方から二条帥大納言師基卿が敷地(石川県加賀市大聖寺)、山岸(福井県坂井市三国町山岸)、瓜生(越前市瓜生)、河島(大野市川嶋、深町(坂井市)の武士たち3千余騎を率いて、7月5日に東坂本に到着した。師基は摂政関白を務めた二条兼基の子で、道平の弟、この時代有数の文化人で連歌の名手として知られる良基の叔父である。良基がなぜか大覚寺統・南朝を裏切って、北朝に走ったのとは対照的に、終始大覚寺統・南朝に仕えた。帥は大宰府の權帥ということ(太宰府の帥は親王任官)である。
 比叡山はこれに力を得て、この月の18日に京都を襲撃した。「前には、京都中を経て東寺まで攻め寄せたので、小路を横切って出てきて前後左右から懸ってくる敵を防ぎかね、敵の包囲を破ることができなかった。今回は、(二手に分かれて)一方は二条を西へ内野(北野の南、平安京の大内裏の跡地が野原になっていた)へと駆け抜けて、大宮通から南下して、もう一方の軍勢は鴨川の河原を下って押し寄せ、東西から京都を中に挟んで、火攻めにしよう」と軍議が定まった。

 ところがこの謀が、裏切り者がいたために、京都の足利方に漏れてしまった。尊氏は、これを聞き知ったので、50万余騎の軍勢を3方に分け、20万騎を東山と七條河原(七條大路東端の鴨川の河原)に置いた。これは河原から押し寄せる敵を東西から挟み撃ちにして包囲しようとするためである。また20万騎を船岡山(大徳寺の南、京都市北区紫野船岡町にある小山。現在は織田信長を祀る建勲神社があるが、もちろん、この時代にはない)の麓と神祇官(の建物の跡地)の南に隠しておいた。これは、内野から大宮通を南下しようとする軍勢を南北から包囲するためである。残る10万余騎を、西八条(東寺の北の辺り)、東寺の辺に控えさせて、軍営の門の前に配置した。これは前線の兵が追い散らされた場合に、控えの新しい軍勢として補充するためである。

 そうこうするうちに、夜が明けて7月18日となり、卯の刻(午前6時ごろ)に比叡山から押し寄せてきた軍勢が、北白川のあたり、八瀬、藪里、降松(さがりまつ)、修学院の前に打ち寄せて、東西2陣に軍勢を分けた。新田一族5万余騎は、下鴨神社の森である糺の森を南に見て、紫野から内野へと駆け通る。二条帥大納言、千葉、宇都宮、仁科、高梨、春日部は、真如堂(左京区浄土寺真如町にある天台宗寺院)の西を通り過ぎて、鴨川の河原を下って押し寄せる。配下の足軽たちが散らばって、京都中の民家数百か所に火をかけたので、炎が高く上がり、黒い煙が四方に立ち込める。

 五条河原から戦闘が始まって、射る矢は雨のよう、剣戟は稲光を見るようであった。やがて内野でも合戦が始まり、右近の馬場の東(北野神社の東南の地)、神祇官の跡地の南北に、汗をかいた馬がすれ違いあいながら走り、双方の時の声が入り混じり、落雷が大地を揺るがすような様子である。
 激しい戦闘が続いたが、五条河原に攻め寄せた宮方が敗走したために、内野に派遣されていた足利方の大軍がいよいよ勢いを得て、新田義貞兄弟の軍勢を十重二十重に取り巻いて、大声をあげて攻め戦う。とはいえ、義貞の部下たちはもともと馬を操ることにはたけており、これまで何度も訓練を重ねて人馬一体となって戦うことができるようになっているので、一挙に敵の篤い包囲を破り、左右を護衛する兵の1人も戦死することなく、敵の攻撃に反撃を続けながら戦って、比叡山へと引き返した。

 七部の兵法書にこのようなことが出ている。「大将の謀が漏れると勝ち目がない。敵が味方に内通していると災いを防げない。」(これは七部の兵法書=『孫子』『呉子』『六韜(りくとう)』『三略』『司馬法』『尉繚子(うつりょうし)』『李衛公問対(りえいこうもんたい)』の中の『三略』に出てくる言葉だそうである。) 今回、洛中の合戦に、宮方の軍が敗北したのは、ただ敵に内通するものが味方の中にいたためであったと宮方の武士たちは警戒しあったのであった。

 足利方が比叡山を攻撃した際には、尊氏・直義兄弟はもちろんのこと、高師直も出陣せず、一族の武将たちが指揮を執っていたのだが、宮方が京都に攻め寄せるということになると、新田義貞が全軍を率いて出陣する。兵力だけでなく、統率する武将の頭数でも足利方が圧倒的に優勢であることが分かる。二条師基の3千余騎に喜んで都を再度攻撃するというのは慎重さを欠くといわれても仕方がなく、京都での2度目の戦が、師基軍の敗退によって帰趨が決まったのも、寄せ集めの軍勢の欠点が表面に出たといえよう。作戦が漏洩したというだけのことでもなさそうである。(義貞は互角に戦っているのに、他の武将が足を引っ張るというのは、これまでも見られた例である。)

ナポレオン

strong>9月18日(月)晴れ、気温上昇。雲に隠れてはいたが、わずかに富士山を見ることができた。

 ドイツの哲学者ヘーゲルの『歴史哲学講義』については、8月13日付の当ブログでも紹介したが、うーん、なるほどと思うところと、ここは違うんじゃないかというところが入り混じって、なかなか読み応えのある本である。その中で、彼が<歴史的人物>について書いている部分が特に目についた。

 「…世界史的個人は世界精神の事業遂行者たる使命を帯びていますが、彼らの運命に目をむけると、それはけっしてしあわせなものとはいえない。かれらはおだやかな満足を得ることがなく、生涯が労働と辛苦のつらなりであり、内面は情熱が吹きあれている。目的が実現されると、豆の莢(さや)にすぎないかれらは地面におちてしまう。アレクサンダー大王は早死にしたし、カエサルは殺されたし、ナポレオンはセントヘレナ島へ移送された。歴史的人物が幸福とよべるような境遇にはなく・・・」(60ページ)
 ここでヘーゲルが書いていることの詳しい意味はまた、機会を見つけて書いていくつもりであるが、とにかく、<世界史的個人>あるいは<歴史的人物>の例として、彼が古代のアレクサンダー大王やカエサルと並べて、彼自身の同時代人といってよいナポレオンを取り上げているのが目を引いたのである。

 ヘーゲルはドイツ人で、かつてナポレオンがドイツを攻撃した際に、「ドイツ国民に告ぐ」という一連の講演を行って愛国心の発揮を呼び掛けた哲学者のフィヒテが学長をしていたベルリン大学の学長にもなっているのだから、ナポレオンは<敵>だったはずである。そのヘーゲルが、ナポレオンの中に世界精神を実現していく人物としての一面も見ていたというのが注目される。偉大な人物は偉大な人物の偉大なところが分かるという理解もできるし、ヘーゲルがドイツとかフランスとかいう国の枠を超えて、ヨーロッパあるいは世界という枠の中で歴史をとらえていたという理解も可能であろう。

 以前にも書いたことだが、私はこの人は天才だ!と思えるような人物に出会ったことがない。さらに言えば、英雄だ!とか豪傑だ!とかいう人物にも出会ったことがない。人生とはそういう平凡と平凡の積み重なりであるといってしまえばそれまでだが、もしナポレオンに出会ったら、人生がどうなったのか?という空想も一興であるかもしれない。

 オランダ生まれで、アメリカにわたって著述家として成功したヘンドリック・ウィレム・ヴァン・ルーンの『人間の歴史の物語』(Story of Mankind)は小学校の高学年ごろに(翻訳で)読んで、成人してからも(英語で)何度も読み返した書物であるが、その中にナポレオンを取り上げた個所があって、その印象がずっと記憶に残っている。
Here I am sitting at a comfortable table loaded heavily with books, with one eye on my typewriter and the other on Licorice the cat, who has a great fondness for carbon paper, and I am telling you that the Emperor Napoleon was a most contemptible person.
(今、私は本を何冊も積み上げた使いやすい机の前に座って、一方の目で私のタイプライターを見て、もう一方の目でカーボン紙が大好きな猫のリコリスを見張っている。そして皇帝ナポレオンは大いに軽蔑に値する人物であったと君たちに告げている。)
But should I happen to look out of the window, down upon Seventh Avenue, and should the endless procession of trucks and carts come to a sudden halt, and should I hear the sound of the heavy drums and see the little man on his white horse in his old and much-worn green uniform, then I don't know, but I am afraid that I would leave my bokks and the kitten and my home and everything else to follow him wherever he cared to lead.
(しかし私がたまたま窓の外を眺め、七番街を見下ろしたとしよう。そしてトラックと荷馬車との終りのない行進が突然止まって、〔時代が逆戻りして〕私が重く響き渡る太鼓の音を聞き、古い、着古した緑色の軍服を着て白馬にまたがった小男をみたら、それからどうなるかを私は知らない。しかし、私は私が自分の本と子猫と家とその他のあらゆるものを放り出して、彼が連れて行こうとするところにはどこへでもついていくのではないかと心配になるのである。)
My own grandfather did this and Heaven knows he was not born to be a hero. Millions of other people's grandfathers did it. They received no reward, but they expected none. They cheerfully gave legs and arms and lives to serve this foreigner, who took them a thousand miles away from their homes and marched them into a barrage of Russian or English or Spanish or Italian or Austrian cannon and stared quietly into space while they were rolling in the agony of death.
(私自身の祖父がそうしたのであり、彼が英雄に生まれついていなかったのは誰もが知っている通りであった。他の数百万の人々の祖父が同じことをした。彼らは何の報いも受け取らなかったが、何も求めてはいなかったのである。彼らは喜んでこの外国人に彼らの手足と命とを捧げ、その外国人は彼らをその故郷から数千マイルも離れたところに連れて行って、ロシアやら英国やらスペインやらイタリアやらオーストリアやらの大砲の砲撃の中を行進させ、かれらが死の苦しみの中に転げ回っている時に静かに空を見つめていたのである。)

 ナポレオンの遠征に熱狂して従軍していく人々の姿というと、アンジェイ・ワイダの『パン・タデウシュ物語』の終りの方の画面を思い出す(ミツキェヴィッチの原作にはそういう部分はなくて、ワイダが映画化にあたって付け加えたのではないかと思う)。だからついていった人々には、彼らなりの自由や民族独立への想いがあったのだろうが、それとナポレオンの征服欲がどこまで交わっていたかというのがヴァン・ルーンの言いたいことではないかと思う。彼は、ナポレオンの没落と死について述べた後、次のように締めくくっている。
But if you want an explanation of this strange career, if you really wish to know how one man could possibly rule so many people for so many years by the sheer force of his will, do not read the books that have been written about him.Their authors either hated the Emperor or loved him. You will learn many facts, but it is more important to "feel history" than to know it.
(しかしもし君たちがこの奇妙な経歴の説明を求めるのならば、もし君たちが本当に、どのようにして一人の人間が彼の意志の力そのものによってきわめて長い間こんなにも多くの人々を支配できたのかを知りたいのならば、彼について書かれた書物を読んではいけない。そういう書物の著者は皇帝を憎んでいるか、愛しているかのどちらかである。君たちは多くの事実を学ぶだろうが、歴史を知ることよりも、「それを感じる」ことの方がより重要である。)
Don't read, but wait until you have a chance to hear a good artist sing the song called ”The Two Grenadiers." The words were written by Heine, the great German poet who lived through the Napoleonic era. The music was composed by Schumann, a German, who saw the Emperor, the enemy of his country , whenever he came to visit his imperial father-in-law. The song therefore is the work of two men who had every reason to hate the tyrant.
 Go and hear it. Then you will understand what a thousand volumes could not possibly tell you.
(本を読んではいけない、むしろ君たちが優れた芸術家が『二人の擲弾兵』という歌を歌うのを聞くチャンスを待つ方がいい。〔この歌の〕歌詞を書いたのはハイネであり、ナポレオン時代を生きた偉大なドイツの詩人である。音楽を作曲したのはシューマンであり、彼は彼の祖国の敵である皇帝が義理の父親である皇帝を訪問するためにやってきた時に彼を見た。それでこの歌は暴君を憎むべきあらゆる理由があった2人の人物の作品なのである。
 さあ、その歌を聞こう。そうすれば君たちは数千冊の書物が君たちに告げることのできなかったことを理解するだろう。)

 ヴァン・ルーンは英国の作家で歴史小説を得意としたサッカリーが好きで、彼の『ヘンリー・エズモンド』という小説を1年に1度は英語の勉強のために読んだという(私は、英語の勉強のためにヴァン・ルーンの『人間の歴史の物語』を1年に1度は読むことにしていたが、このところ中断している)。そのサッカリーの代表作『虚栄の市』の最初の方にワーテルローの戦いを描いた部分があり、この作品が英国人の『戦争と平和』と呼ばれているのを知っていたはずである。さらに言えば、スタンダールの『パルムの僧院』の初めの方で、主人公のファブリスがワーテルローの戦いにナポレオンを応援しようと出かける場面がある。19世紀の半ばあたりまでのヨーロッパの文学作品を読んでいると、ナポレオンという人物の存在が同時代のヨーロッパの人々、特に若い世代に強い影響力をもっていたことが分かる。特にドイツや、イタリア、ロシアの人々がナポレオンについて自由の拡大を図る人物という普遍的な側面への共感と、自分の祖国を侵略する人物という反感の二律背反的な感情をもっていたというよりも、今ももちつづけていることを理解すべきではないかと思う。〔ちなみに、ハイネとシューマンはともにユダヤ系で、ドイツ人としては正統的とはいいがたいアイデンティティーをもっていたことも付け加えておくべきであろう。〕

 ヘーゲルがナポレオンを<歴史的人物>の一例としているのは、理解できる部分と、理解できない部分とがいまだにあって、もう少し考えてみないといけないようである。ここで名前が出てきたハイネはヘーゲルの講義を聴いたことがあったはずで、ナポレオンについてのドイツ人の受け止め方についても書いた文章があったと記憶する。ヘーゲルだけでなく、(哲学史上は「ヘーゲル左派」の一員に数えられる)ハイネの書いたものも読んでいるとするか…。
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