森本公誠『東大寺のなりたち』(4)

7月20日(金)晴れ、暑さが続いている。

 東大寺の僧侶として70年近くを過ごす一方で、イスラム史家でもある著者による東大寺成立史の研究。これまでに紹介した第1章「東大寺前史を考える」では、東大寺の前身が聖武天皇の皇太子であった基親王の幼くしての死を悼んで建立された山房であったが、これはささやかなお堂というようなものではなく、一定規模の堂宇であり、その後金鍾山房と呼ばれる時代を経て、大和国分寺としての性格、また、総国分寺としての役割も持つようになった経緯が述べられている。
 第2章では聖武天皇の政治姿勢がもともと儒教的な徳治思想に基づくものであったのが、その治世のあいだに続いた災厄の経験を通じて、仏教、特に華厳経の教えに傾いていったこと、この経典に基づいて諸国に国分寺を建立し、また都の総国分寺に大仏を造立することを構想されるようになる。

 第3章「宗教共同体として」は、天平19年(747)に大仏の鋳造が開始された前後の政治の動きから書きはじめられている。作業が軌道に乗り始めた天平20年(748)に元正太上天皇が亡くなられた(聖武天皇にとっては伯母に当たり、聖武天皇の父である文武天皇の死後、聖武天皇の成人までの間の中継ぎとして天皇位につかれていた。律令制度の整備に貢献されるなど、その業績は無視しがたいものである)。聖武天皇はその冥福を願って、諸寺に誦経を命じるなどの措置を講じられた。さらに天平21年(749)に大仏造立においても大きな役割を果たしていた大僧正行基が遷化した。
 行基は長く民間布教に従事し、各地で土木工事を起こして人々の生活の向上に努めたが、その行為は僧尼令違反として官憲の弾圧を受けた。しかし、大仏造立事業に彼の力が欠かせないことで、彼の行動は公認され、大僧正の地位に起用されていたのであった。東大寺には「四聖の御絵」と言って、この寺の建立に貢献した4人の人物の姿を描いた絵が伝えられているが、その中に聖武天皇、良弁僧正、大仏開眼の際の開眼師であった婆羅門僧正(菩提僊那)とともに行基が描かれている。東大寺の歴史の中でその功績が高く評価されてきたことがわかる。 

 2人の死を悲しまれていた聖武天皇にそれを吹き払うような吉報がもたらされた。陸奥守百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)から陸奥の国で黄金が発見されたと知らせてきたのである。大仏の鋳造は順調に進んでいたが、廬舎那仏が光り輝く仏である以上、その仏像には鍍金するための黄金が必要である。しかし、それまで日本国内では黄金は産出されていなかった。天皇と国全体)が蒙ってきたこれまでの悲惨を考えると、天皇の喜びがいかばかり大きなものであったかが想像できよう。

 この年4月1日、天皇は文武百官を引き連れて東大寺に行幸され、まだ完成していなかった大仏像をご覧になる。この時の天皇の詔は自らを「三宝の奴」と位置づける画期的なものであった。(森本さんにとっては常識だが、このブログの読者にとっては必ずしも常識ではないと思うので、注記しておくが、「三宝」とは仏・法・僧である。ただし、仏のみを指して言う場合もあると『広辞苑』には記されている。) また詔とともに宣命を出されたが、その中で寺院に墾田地を許可したという点が注目される。僧侶や仏事が土地の所有者になるということは、仏教の本来の趣旨から外れたものだという批判もあるかもしれないが、教団を維持していくうえで、これは重要なことである。この後、寺院や神社が所有する荘園について詳しい記録を残し、それが日本史研究の重要な史料となってきたという点でもこの施策は重要である。

 4月のうちに、年号は天平感宝と改元された。さらに閏5月には大安・薬師・元興・興福・東大の五大寺を含む十二の有力寺院に施入を行い、それに願文を添えられた。この時の勅書のうち、おそらく大安寺に充てて交付されたものが現在まで残っており、当時の行政制度が文書の様式に至るまで中国の唐のそれに倣ったものであったこと、すべての経典の中で「華厳経」を最上位に置くという仏教観がみられることも重要であるが、さらに天皇が「太上天皇沙弥勝満」と自称されている点が注目されるという。実は聖武天皇の出家の時期や戎師をめぐっては議論があるからである。

 黄金の産出を機会にますます仏道への帰依を深められた天皇は、仏教研究を深めようと決心され、そのために出家の道を選ばれたと考えられる。おそらくは『華厳経』の最終章である「入法界品(にゅうほっかいぼン」に登場するある王が、如来の下で深遠な説法を聴いて菩提心を起こし、王位を太子に譲り、さらに在家のままでは法の真理を会得することは困難だとして出家するという逸話があるが、天皇はこれを規範とされたのであろう。もっとも出家といっても、天皇の場合は沙弥であって、大人の妻帯在家者の沙弥は正式の僧ではない。「現実問題としては太上天皇としての権力を保持しながら、表向きの儀式等の「まつりごと」を離れるだけで、政治から完全に身を引くわけではなかった。」(82ページ)
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ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(5)

7月19日(木)晴れ、暑さが続いている。

 「月長石」(the Moonstone)はインドのベナレスにあったヒンズー教寺院の月の神の額を飾っていた宝石であるが、数奇な運命を経て、イングランドに渡ってきた。この宝石に触れるものとその一族には恐ろしい災いが及ぶという言い伝えがあり、また3人のブラーフマンが次々にこの宝石を見守る役割を与えられているといわれてきた。ジョン・ハーンカスルから、姪であるレイチェル・ヴェリンダーに遺贈されたこの宝石は次々に奇怪な事件を呼び起こすことになったのである。

 1848年6月に起きた黄色いダイヤモンド<月長石>の紛失とその後に起きた事件をめぐる第1の証言はイングランドのヨークシャーに住むジュリア・ヴェリンダ―卿夫人の執事であったガブリエル・ベタレッジの手記である。
 1848年5月24日に、ベタレッジはヴェリンダー卿夫人から翌日、彼女の甥であるフランクリン・ブレークが彼女の娘であるレイチェルの誕生日を祝うために邸に到着すると知らされる。フランクリンはヴェリンダー卿夫人の長姉の子どもで、レイチェルには従兄に当たる。公爵の地位をめぐる訴訟に敗れた父親が、イングランドの社会を信用しなくなったために、フランクリンはドイツとフランスで教育を受け、ヨーロッパ大陸で気ままでいささか自堕落な生活を送っていたらしい。
 5月25日、フランクリンの到着は夕方になるだろうと予想したヴェリンダー卿夫人とレイチェルが外出した後に、邸をインド人の手品師の3人組が1人の少年をつれてあらわれる。彼らは邸で自分たちの芸を披露したいと申し出るが、ベタレッジは奥さまもお嬢さまもお留守だからと言って断る。彼らは街へと戻ってゆく。
 ところが、その後、ベタレッジの娘で、この屋敷でレイチェル付きの女中をしているペネロープが急いでやってきて、あのインド人たちはよからぬことを企んでいるようだから、警察に通報して逮捕してほしいという。彼らの姿を見て怪しいと思った彼女は、こっそり彼らの跡を付けて様子を窺ったのである。

 インド人たちは少年に手を差し出させ、その手のひらに黒いインクのような液をたらし、少年が石像のように体をこわばらせて立ったままでいるのを見て、少年に問いかけた。
「「外国から帰ったイギリス人の紳士が見えるか?」
「見えます」と少年は答えた。
「今日、その紳士が通るのは、この家にくる道か、それともほかの道か」とインド人が言った。
「今日、その紳士が通るのは、この家にくる道であって、他の道ではありません」と少年は言った。
 インド人はちょっと間をおいてから第二の質問をした。「その紳士は、あれを持っているか」(中村訳はでは「あれ」となっているが、原文はHas the English gentleman got It about him?となって、itではなくItと大文字で書かれていて、何か大事なものが話題になっているらしいことがわかる。)
 少年は、同じようにちょっと間をおいてから答えた。「はい」
 インド人は、第三の質問をした。「その紳士は、予定どおり、夕方ここへつくのか」
「それはわかりません」と、少年は言った。」(34‐35ページ)
 どうも彼らはフランクリンがヴェリンダー邸にやってくることをめぐって話をしていたらしい。ベタレッジはインド人たちがフランクリンがやってくるという予言を演じてみて、いくらかの金を屋敷の人々から引き出そうと考え、その練習をしていたものと推理する。そしてペネロープは騒ぎすぎで、父親の昼寝を邪魔しなければよかったのだと結論する。
 ところが、ペネロープは違う考えをしていた。彼女はインド人の言葉の中の「あれ」(It)に関心を示した。ベタレッジはフランクリンが到着してから、彼に直接聞いてみようといって、その場を収める。彼の頭の中には、あわて、心配している自分の娘を落ち着かせることしかなかったのであるが、その後、実際にフランクリンにあってこの話をすると、「あれ」というのは月長石のことだという答えが返ってきて、フランクリンもまたペネロープと同じように、問題を決して軽くは考えていないことがわかったと、ベタレッジは書いている(この時点ではまだフランクリンはヴェリンダー屋敷に到着していないのである)。

 ペネロープが行ってしまったので、ベタレッジはまた眠ろうとしたが、すでに夕食の準備が整い始めていて、食器類がガチャガチャいう音が聞こえはじめた。ここで夕食というのは、召使たちがとるもので、主人たちの前に夕食を摂っておいて、主人たちの食事の給仕をするわけである。ベタレッジは食事は自分の居間で摂ることにしているので、召使たちの食事には関係がない。ところが、一人の女性がベタレッジのもとにかけてきた。今度は彼の娘のペネロープではなくて、kitchen-maidのナンシーであった。(中村能三訳ではただ「女中」となっているが、原文は「台所係の女中」である。ヴェリンダー家は大勢の召使を抱えているだけでなく、その中での役割分担がかなりはっきりと決まっていることがわかる。ナンシーは、ちょうど彼女の通り道にいたベタレッジに向かって、通してくれと頼んで行き過ぎようとしたが、彼女がふくれっ面sulky faceをしていることに気づいたベタレッジは、召使の長として見過ごすことができないと、彼女に事情の説明をもとめなければならないと思った。〔この個所を見ても、ヴェリンダー卿夫人が目の行き届いた女主人で、ベタレッジがその信頼にこたえうる有能な執事であることがわかる。〕

 夕食の最中だというのにどこへ行くのか、何かあったのかというベタレッジの問いに答えずに、ナンシーが通り抜けようとするので、ベタレッジは立ち上がって彼女の耳を捕まえた。「女の子を心ひそかにひいきにしてやっていることを表わすのに、そういう態度をとるのが、私の習慣であった。ナンシーは、むっちりと肉づきのいい、かわいらしい娘なのである。」(中村訳、38ページ) ここは別の訳し方があるのかもしれないが、よくわからない。大筋において、中村訳は間違っていないと思われる。今日であれば、ベタレッジのしたことは問題があるかもしれないが、御当人同士は別に問題にしていない様子である。ナンシーは、下働きの女中second housemaidであるロザンナ・スピアマンが夕食の席に遅れてやってきていないので迎えに行くのだ、そういう厄介な仕事はみんな自分に押し付けられているという。
 不機嫌なナンシーが必要以上に荒々しい言葉で、ロザンナをつれてこようとするのを懸念して、ベタレッジは自分がロザンナをつれてきた方がいいだろうと考え、彼女に、ちゃんと時間を守るようにそれとなく言って聞かせるからと、ナンシーに言う。そして彼女に、ロザンナはどこにいるのだと尋ねる。ナンシーは、ロザンナが持病の発作を起こして、休んでいいという許可を得たので、浜辺で新しい空気を吸っていると答える。それでベタレッジは自分が呼んでくるという。それを聞いて食欲旺盛なナンシーは(夕食の席にすぐに戻れるので)嬉しそうな顔をし、そういう顔をするとなかなかかわいく見えるので、ベタレッジは彼女のあごの下をちょっとくすぐってやった。これは不道徳な気持からというよりも、単なる癖であるとベタレッジは弁解している。〔本当のところはどうだかわからない。〕

 この後、ベタレッジは海岸にロザンナを探しに出かける。ロザンナについては、次回にその詳しい身の上が語られることになるが、彼女はこの後の物語で重要な役割を演じることになる。彼女はsecond housemaidであるが、これはすでに述べたように「下働きの女中」という意味であって、「二番女中」などと訳すと間違いになる。中村さんは正しく訳しているが、シャーロック・ホームズの「マスグレイヴ家の儀式書の冒険」(The Adventure of the Musgraves Ritual)に出てくるマスグレイヴ家の使用人の一人レイチェル・ハウェルズについて「二番女中」と訳した翻訳者がいる。3人のインド人が少年に対して施した術は、説明が難しく、あるいはコリンズは一種の妖術として描いていたのかもしれない。このあたりが、この作品の近代的な探偵小説とは認めがたい特徴ではある。

トマス・モア『ユートピア』(10)

7月18日(水)晴れ、依然として暑い。
 1516年にルーヴァンで初版が発行されたこの書物は、著者であるモアが1515年にイングランドの外交使節団の一員としてフランドルを訪問し、その際にアントワープの人文主義者であるピーター・ヒレスの世話になったという事実に基づいている(ちなみに、ヒレスはモアの原稿をもとに、エラスムスと協力してこの『ユートピア』を出版した人物である)。
 物語はヒレスの紹介で、世界中を旅してまわった哲人であるというラファエル・ヒュトロダエウスという人物とモアがであったことから始まる。彼の経験と博識とに感心したヒレスとモアは、ラファエルにどこかの王侯の顧問としてその政治に協力してみてはどうかと勧める。しかし、王侯は戦争と蓄財にしか興味を持たず、その顧問たちも決してその意向に逆らわないということを知っているラファエルはこの勧めをはねつける。それでも国王の参事会員の一人として、自分の良心を貫こうとすれば、それが他の人々に良い影響を与えるのではないか(これはおそらく、モアの本心であろう)というモアの意見に対し、朱に交われば赤くなる、自分が堕落するだけだとすげなく答える。ユートピアという新大陸のまったく別の制度を持った国を訪問した彼は、ヨーロッパの国々の制度にはあまり期待を抱いていない様子である。

 ラファエルは自分の心の奥にあることを率直に言うと、「私有財産が存在し、すべての人がなんでもかでも金銭の尺度ではかるようなところでは、社会が正しく治められたり繁栄したりすることはほとんど不可能だと思えます」(110ページ)と、共産制の社会でなければ、正しい政治は行われえないという意見を述べる。
 「そういうわけで私は、ユートピア人たちの賢明しごくで尊崇にあたいする諸制度について心のなかで熟考するわけです。彼らのところではごくわずかの法で社会が書くもよく統治され、その結果、美徳に報酬が与えられながら、しかも物が平等に分配され、すべての人が何でも豊富に持つようになっています。」(110‐111ページ)
 それに引き換え、他の国々(つまりヨーロッパの国々)では、各人が自分の手に入れたものを自分の私有物と主張し、多くの法律がつくられているにもかかわらず、どれが誰の私有物であるのかわからない為に、訴訟が絶えないという現実があるとラファエルは言う。

 このようなことから、ラファエルは「公共福祉への唯一無二の道はすべてのものを平等な立場におくことだ」(111ページ)というプラトンのことばを再評価する気持ちになった。しかしそのような平等は、私有財産が認められている社会では実現されないだろう。そのような財産を守るための法律がつくられ、ある人々は多くの証書をかき集めてその財産をますます増やしている。しかも道徳的にみれば、つつましやかな生活をしている勤勉な貧乏人のほうが、貪欲で怠惰な金持ちよりも、多くの財産にあたいするはずだという。

 「ですから私は、私有財産制(プロプリエタス)がまず廃止されないかぎり、ものが、どんな意味においてであれ公正、正当に分配されることはなく、人間生活の全体が幸福になるということもないと確信しております。」(112ページ)  財産の所有に上限を設け足り、君主の権限を抑制したり、公職にある人々の腐敗を防ぐための手段を講じることによって、世の中は多少はよくなるかもしれない。「しかし各人のものが私有である限りは、そういう悪弊が快癒して、良好な状態に戻るという望みは皆無です。」(113ページ)とラファエルは世の中のすべての悪の根源であると彼が考える私有財産の廃止を強く訴える。

 それに対して、モアは反論する。すべてが共有の財産ということになれば、人々が自発的かつ勤勉に働くことはないのではないか。むしろそのことによって社会は貧しくなり、その混乱がひどくなるのではないか。
 これに対し、ラファエルはユートピアで数年を過ごしてみれば、そういう疑問はたちどころに溶けるという。それは信じがたい話だと、今度はピーターが反論する。我々の(つまりヨーロッパの)社会よりも優れた社会が新世界に存在するということは信じがたい。これは、この『ユートピア』という虚構の文学の世界だけの問題ではなく、「新大陸」を発見したスペインの為政者たちにとっても重大な問題であった。彼らがアステカやインカの文明に接して、どのような反応を示したかを思い出してほしい。〔大航海時代〕における「文明の衝突」は歴史の祖であるヘロドトスが取り組んだ衝突以上に深刻なものであり、現在のわれわれの世界が直面している問題も、この衝突の深刻さを引きずったものだといえるかもしれない。
 ピーターはさらに、ヨーロッパには「偶然のおかげで見つかった、人知のとうてい及びがたいような発見もいろいろあり、またほかに経験による発見がたくさんあるのです」(114ページ) 澤田さんはこれと同じような議論をアリストテレスが『政治学』第2巻第2章10の中で展開しているというが、これは澤田さんが実際にアリストテレスの原典に当たっていないことを証明するものである。『政治学』の第2巻の第1章から第5章でアリストテレスはプラトンの『国家』の思想に批判を加えている。とくに第5章でプラトンの「財産の共有」という考えに対して、徹底的に批判をしている。このあたり、Cambridge Texts in the History of Political Thought(ケンブリッジ政治思想史叢書)の中のGeorge M.Logan & Robert M.Adams (eds.)による『ユートピア』にはきちんと注記されているが、澤田さんは別のもっと当てにならない注釈書を信用したらしい。
 これに対してラファエルは、今を去ること1200年前に、数人のローマ人と1人のエジプト人とがユートピアに漂着したことがあり、ユートピア人たちは、彼らから当時のローマとエジプトのさまざまな学問・技術を学び取って、現在に至っているのだと答える。ユートピアにも、ヨーロッパ社会が経験したのと同じような偶然があったのだというのである。
 モアとピーターはますますユートピアについての興味をかきたてられ、ラファエルにそこがどのようなところなのかを詳しく語るように要請する。2人の懇願を受けて、彼らと夕食を共にした後、ラファエルはユートピアについて彼が経験し、知りえたことを詳しく語り始める。

 こうして、『ユートピア』第1巻は終わる。第1巻は、その当時のヨーロッパ社会、特にイングランドの社会の問題点や、その問題の解決をめぐる議論を概観していて、これはこれで読みでがある。とくに、プラトンの権威主義と財産共有の思想を引きずるラファエルと、アリストテレスの民主主義と私有財産の肯定を引き継いでいる人々の対立という構図もなんとなく明らかになってきたように思われる。中世のスコラ哲学やその影響下にあった政治思想が、アリストテレス的であったのに対し、ルネサンスはプラトンの再発見の時代であった。その中で、モアはこの2人の大哲学者の政治思想から何を学ぶべきかを悩んでいるようにも思われる。次回からは、いよいよ、ユートピアの地理や諸制度についての詳しい話が始まる。

『太平記』(219)

7月17日(火)晴れ、暑い。

 今回から『太平記』第20巻に入る。『太平記』は第1巻~第40巻から構成されているが、第22巻が欠けているので、全部で39巻ということになり、第20巻は折り返し点であるといってもいい。

 建武3年(南朝延元元年、1336)5月、九州から反攻に転じた足利尊氏・直義軍が兵庫で宮方の新田義貞の軍を破り、義貞を応援にやってきていた楠正成が戦死する。足利方が京都を奪回し、後醍醐帝は比叡山に遷幸され、京都への復帰を期して何度か攻撃を試みられるが、補給路を断たれて戦闘を継続できなくなり、京都に戻り、尊氏・直義兄弟によって花山院に幽閉される。しかし京都を脱出して、吉野の金峯山寺に落ち着かれた。一方、比叡山から恒良親王を奉じて北国に向かった新田義貞は、本拠としていた(現在の福井県敦賀市にあった)金ヶ崎城を攻略されたが、宮方の瓜生兄弟の拠る南越前の杣山城を足掛かりとして次第に勢力を挽回していた。建武4年(南朝延元2年、1337)8月に、奥州の北畠顕家が大軍を率いて都を目指し、利根川の合戦で足利方に勝利する。11月(史実は翌年8月)足利尊氏は北朝により征夷大将軍に任じられる。12月、北畠顕家の奥州勢が足利方の守っていた鎌倉を陥落させる。建武5年(この年、暦応と改元、南朝延元3年、1338)正月、北畠顕家の奥州軍が鎌倉を出発して西上、鎌倉から退却した足利方の武将たちがそれを追って西上、美濃の青野ヶ原で両軍が戦うが、数において勝る奥州軍が勝利を収めた。京都では、高師泰、佐々木(京極お)導誉らの軍勢を派遣、奥州軍はなぜか、対決を避けて伊勢方面へと迂回し、足利方が京都を守り抜くという結果となった。〔このあたり、当時の記録に即して、『太平記』の記述の信憑性の詳しい検討を必要とする。〕

 新田義貞は、暦応元年(南朝延元3年、1338)の正月のはじめ(実際は2月の中旬)に越前府(こう、現在の福井県越前市国府)の新善光寺城に拠る斯波高経との戦いに勝利し、その後、(越前)国内の城郭70余か所を攻め落として、その勢力をとり戻していた。比叡山からは、3000の衆徒が旧来のよしみをもってひそかに連絡してきていたので、まず比叡山に戻って衆徒たちと力を合わせ、都の南方の宮方の軍勢と呼応して京都を攻めれば、極めて容易なことと思われたのだが、義貞は、斯波高経がなお越前の黒丸城(福井市黒丸町にあった、小黒丸城ともいうようである)に踏みとどまって抗戦を続けていたので、これを打ち破ってから上洛するのでないと悔いを残すと、つまらない小事にとらわれて、大事を後回しにしたのは残念なことであった。
 『太平記』の中では義貞は、小さなことに意地を張って大局を見失うことの多い、武将として描かれているが、それはあくまで『太平記』の作者の描く義貞像であって、本物の義貞がどのような人物であったかについては別の意見があってもよいのではないかと思われる。それに、義貞にとって足利一族の中の重鎮である斯波高経は侮ることのできない強敵であったことも否定できない。

 5月2日に義貞は、自ら6千余騎の軍勢を率いて、国府(つまり越前市国府)へと進出、斯波高経が防御のために足羽川流域(越前国足羽郡・吉田郡)に築いていたいわゆる足羽七城のうちの波羅蜜(福井市原目町)、安居(あご、福井市金屋町)、河合(福井市川合鷲塚町の辺り)、春近(はるちか、堺市春江町)、江守(福井市南江守町)の5か所に5千余騎の兵を差し向け、足羽七城の攻略を目指す。
 まず一番に、義貞の妻である勾当内侍の兄弟である一条行実が500余騎で江守から押し寄せ、黒龍(くずれの)明神の前で戦闘を交える。行実の軍、劣勢で押し戻され、元の陣へ引き返す。
 一番の戦法にお公家さんを使うというのは、戦術的にまずいのではないか。案の定、戦闘を有利に展開できずに戻ってきている。黒龍明神というのは福井市西南部の足羽山東麓の毛谷黒龍(けやくろたつ)神社のことだそうである。実は私は、40年ほど昔、足羽山に登ったことがあるが、この神社については気づかなかった。その頃は、『太平記』には全く興味がなかったのである。

 二番目に、義貞の重臣である船田経政が、500余騎を率いて安居の渡りから押し寄せ、軍勢の半分ほどが川を渡っているときに、斯波高経の副将である細川出羽守が150騎で対岸にかけ向かい、高くそびえたった岸上に陣取って、矢を一斉に射かけたので、ただでさえ水量の多い川の水に難儀していたものだから、馬も人も足を取られ、溺れ、大勢の戦死者を出してしまい、これまた戦果を挙げることなく、引き返すことになる。
 安居の渡りというのは九頭竜川の大支流である足羽川と日野川が合流するあたりで、それほど急流ではないが、水量は多く、川も深いはずである。船田は一番手の一条行実と違って歴戦の武士ではあるが、かなり軽率な攻め方をしたといわざるを得ない。

 三番に新田一族の細屋秀国が、1000余騎を率いて河合の庄から押し寄せ、その北の端にある勝虎城(しょうとらがじょう、福井市舟橋町。九頭竜川西岸、北国街道の渡河地点にあった)を包囲し、一気に攻め落とそうと塀によじ登り、堀を渡ろうと攻撃をしているところへ、斯波の被官で越中の豪族である鹿草(ししくさ)兵庫助が300余騎で包囲軍の背後を突いて襲い掛かった。数においては劣勢であったが、必死の戦いぶりである。細屋の軍勢は、城を守っていた軍勢と、背後から襲い掛かってきた軍勢とに追い立てられ、これまた元の陣に引き返さざるを得なかった。

 このように足羽七城をめぐる攻防戦は、3回にわたり展開されたが、それぞれ新田勢は戦果を挙げることなく敗退した。この3人の大将は「皆、天下の人傑、武略の名将たりしかども」(第3分冊、349ページ)と『太平記』の作者は書いているが、これは贔屓目に見た記述であろう。それぞれ相手を見くびって、勝ちを急いだのが敗因だという。〔これは部分的にせよ、当たっている。〕 それで、後漢の光武帝が戦いに臨む際に、大敵を見ては侮り、小敵を見ては警戒したというのは、それなりに筋の通った意見であると思われたことである。〔この時代の知識人ならば、誰でも知っていたはずのことであるが、建武というのは後漢の光武帝時代の年号である。〕

 新田義貞は越前と北陸地方で力を増してきたが、まだまだ万全の体制を築いたとは言えない。義貞は武勇に秀でているが、軍略に優れているとは言えない(執事であり、有能な助言者であった船田義昌が戦死したのが痛い)。宮方全体に言えることであるが、どうも人材が不足している。さて、今後の展開はどうなるか? 足羽七城についてはインターネットで検索すると、その遺跡を探訪したという記事がいくつも見つかるので興味ある方は自分で調べてみてください。
 昨日(7月16日付の『朝日』朝刊に「『想定外』を考える 元気ない太陽 夏が消える」という記事が出ていた。この記事では触れられていなかったが、14世紀の初めのころというのは、地球の気温が異常に下がった時期だったのではないかという説がある(このために海面が後退し、新田義貞の稲村ケ崎での海岸線からの突破もこのことと関連があるのではないかといわれる)。比叡山から越前に向かう新田義貞の軍が途中で寒さに出会い、かなりの部分が凍死したというのもこのことと関連しているようである。

近藤史恵『スーツケースの半分は』

7月16日(月)晴れ、雲が多いが、それでも暑い。

 7月15日、青柳碧人『晴れ時々、食品サンプル』(創元推理文庫)を読み、さらに余勢をかって近藤史恵『スーツケースの半分は』(祥伝社文庫)を読み終える。

 「余勢をかって」などと書いては見たが、実はこの本を買ったのは5月13日のことで、読み終えるのに64日かかったことになる。私は読むのが早い方で、この手の本ならば、遅くとも4日あれば読み終えることができる。 それが64日かかったのは――途中で、本を投げ出して、また忘れることができずに手を取った――という経緯があるからである。

 ニューヨークでミュージカルを見るという夢をなかなか実現できないまま29歳を迎えてしまった主婦の山口真美は、大学時代の親友とあうために出かけたフリーマーケットで青いスーツケースを見かける。思い切ってそのスーツケースを手に入れた彼女は、いろいろと心配を並べる夫を振り切って、単身ニューヨークに旅立つことになる…という第一話「ウサギ、旅に出る」に始まって、この青いスーツケースにまつわる様々なエピソードが第九話まで並ぶ。当然、海外旅行の話が多いのだが、それだけではない。そして、さまざまな人間模様が展開される。「スーツケースの半分は空で行って、向こうでお土産を買って詰めて帰っておいでよ」(30ページ)というのは、真美の親友の一人で第四話の主人公になる悠子が真美に送ったメッセージである。お土産の品よりも、土産話のほうが心に残るものだが、品物が物語を思い出すきっかけになるかもしれない。
 
 第二話「三泊四日のシンデレラ」では真美の親友の一人でオフィスクリーニングの会社のマネージャーをしている中野花恵が(自分のスーツケースが壊れていたので)真美から青いスーツケースを借りて香港に旅立つ。第三話「星は笑う」では真美、花恵の親友で派遣社員をしながらあちこち海外旅行をしている舘原ゆり香が、真美の買ったスーツケースが「幸運を呼ぶ」のではないかという話を聞き、付き合っている彼氏の誘いでアブダビに出かけることになり、高級ホテルに泊まるということで、半信半疑の想いを抱きながらもスーツケースを借りることになる・・・。第四話「背伸びする街で」では大学時代の親友4人組の最後の1人、フリーライターの澤悠子が取材でパリに出かける。彼女はもちろん、自分のスーツケースを持っているが、他の3人がこれは「幸運を呼ぶスーツケースだ」というので、青いスーツケースを借りての旅である。第五話「愛よりも少し寂しい」は、その悠子にパリで会って話をした花恵の従妹で「留学生」の中野栞の話になる。悠子がホテルでチェック・アウトした後に青いスーツケースが行方不明になっているので、探してほしいと花恵に言われ、ホテルと交渉することになる…。

 映画好きであり、それだけになかなか詳しく、特にフランス映画に詳しい別府葉子さんが、コンサートの途中で『舞踏会の手帖』(Un carnet de bal, 1937)という映画についてしゃべったことがある。若くして未亡人になったクリスティーヌ(マリー・ベル)という女性が、20年前に16歳の時に経験した初めての舞踏会で踊った相手を手帳を手掛かりに探して、1人、1人訪ね歩くという話である。その作品を監督した名匠ジュリアン・デュヴィヴィエが第二次世界大戦中にアメリカにわたっていた時期に手掛けた『運命の饗宴』(1942、日本公開は1945)も同じように、さまざまな人生の転変が切り取られて描きこまれている作品で、フランスとハリウッドの違いはあるが、有名どころが名を連ねて出演しているのは共通している。ニューヨークで仕立てられた夜会服が、次々に様々な人物の手に渡って、それぞれの人生模様が展開される。この『スーツケースの半分は』を読んでいて、なぜかこの映画を思い出した。(もっとも、『運命の饗宴』という映画を私は、テレビで不完全な形でしか見ていない。) 

 このブログを書くというので、『運命の饗宴』について調べ直したのだが、『スーツケースの半分は』の青いスーツケースが「幸運を呼ぶ」のとは逆に、夜会服にはその服を作った職人の呪いが込められているという話であった。しかし、問題は、「幸運を呼ぶ」とか「呪いが込められている」とかいうことではなく、「幸運を呼ぶ」のも「呪いを呼び覚ます」のも結局はその持ち主の生き方だということではないだろうか。まじめに、一生懸命に生きているのだが、運の悪い人があるきっかけをつかんで人生を好転させるということがある。逆に、運がいいだけで生きていた人間の地金が、何かのきっかけで暴露されてしまうということもあるだろう。そのきっかけに目を奪われて、隠れていた生き方に目を向けないというのでは、人生の真実はつかめない。

 第六話「キッチンの椅子はふたつ」でスーツケースは元の持ち主のもとに返される。フリーマーケットでこのスーツケースを売ったのは離婚して娘と二人暮らしの獣医である星井優美である。スーツケースは彼女の義姉の形見分けだったのだが、そんなものはいらないと決め込んだ彼女はフリーマーケットで売りに出したのである。「私は幸運をちゃんともらったから、次からは自分で選んだスーツケースで行きます」(207ページ)。そういって、山口真美はスーツケースを元の持ち主である優美に返す。優美のほうにもスーツケースが必要になる事情が生じていた…。
 あと三話がどのような展開になるかは読んでのお楽しみということにしておこう。スーツケースを作った職人も登場するし、ほとんど旅行をしなかったはずの優美の義姉がなぜ目立つ青色のスーツケースを持っていたのか、それに、スーツケースの中に入っていた「あなたの旅に、幸多かれ」と書かれたメモは、だれがだれのために書いたものなのか…、さまざまな謎が解かれてゆく。

 スーツケースがらみで、次はどこで、どのようにして物語が展開するかを予想する楽しみを奪うような、かなりおせっかいな紹介になってしまった。自分なりの旅の思い出と重ね合わせて読んでもいいし、旅への夢を膨らませるために読んでもいいと思う。あと2つ余計なことを書いておくと、この文庫本の解説は大崎梢さんが書いていて、さすがに作家だから要点を捕まえて解説しているのだが、本文を読んでから解説を読む(それが当たり前だが)方が楽しみが多いだろうということと、235ページにベルギーの「ゲント」という地名が出てくるが、これは「ヘント」とオランダ語読みするのが普通ではないかということである(ある時、「ガン」とフランス語読みをしてしまったことをいまだに後悔しているといういわくがある)。あるいは、旅行歴豊富な近藤さんのこと、実際に現地で「ゲント」という発音に接したのかもしれず、そうであれば、こちらが余計な口をさしはさむ筋合いの問題ではない。
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