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日記抄(9月17日~23日)

9月23日(日)
 9月17日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など。今日は墓参りに出かけるつもりなので、ブログを早めに書きはじめることにする。

9月17日
 15日に女優の樹木希林(本名:内田啓子)さんが亡くなられた。75歳。東京の人であるが、実家が桜木町駅の近くの叶屋という大衆割烹の経営者であることは比較的よく知られている。テレビの特別番組に出演中に、悠木千帆という芸名を売りに出して、樹木希林に改名すると言い出した場面を見ていた記憶がある。実は若いころの出演作はよく見ているのだが、演技に対する評価が高まってきた後期の作品はほとんど見ていないのであまり言うことがないのである。ただ、星由里子さんが亡くなり、今度は樹木さんが亡くなり、私とほぼ同年代の方々がひとり・ふたりと亡くなられているのはさびしい。ご冥福をお祈りする。

 ニッパツ三ツ沢球技場でなでしこリーグ2部第12節:横浜FCシーガルズとバニーズ京都FCの対戦を観戦する。書き忘れていたが、メイン・スタンドだけを開放して行われる無料の対戦である。試合開始早々、横浜が左サイドからボールを運んでセンタリングしたのを、ゴール前にいた中村みづき選手が決めて先制、これが結局決勝点となり、横浜が勝ち点3をあげた。序盤で得点したものの、追加点をあげられなかったのは問題であるが、これまで得点を挙げていなかった中村選手がゴールを決めたのは大きい。今後の活躍に期待しよう。

 NHKラジオ第二放送の文化講演会は静岡大学名誉教授の小和田哲男さんによる「徳川家康の戦略:関ケ原の戦いと大坂冬の陣・夏の陣」というもので、福島県の平市で行われたので、磐城平藩の藩祖である鳥居忠政の父親で関ケ原の戦いの前に伏見城を護って戦死を遂げた鳥居元忠の話が織り込まれていた。家康が 府での人質時代に、臨済僧で今川の軍師である太原雪斎に教育を受けたという話は山岡荘八の小説に描かれているが、歴史家の中には疑う人もいる。この点について小和田さんは肯定的であったこと、それから大坂の陣の際に、大阪城は堀を埋めれば陥落させることができると秀吉が言ったのを家康が覚えていて実行したという話は『徳川実紀』に書かれているという話が興味深かった。何度も聞いているような話でも、どこかに初めて聞くことや、話している人の意見がわかる部分があるので、注意深く聴く方がいいという例である。

 下川裕治『鉄路2万キロ』(新潮文庫)を読み終える。インド(ディブラガル⇒カンニャクスリ)、中国(広州⇒ラサ)、ロシア(ウラジオストク⇒モスクワ)、カナダ(バンクーバー⇒トロント)、アメリカ(シカゴ⇒ロサンゼルス)の長距離鉄道を完乗したという記録で、鉄道旅行の決死隊という悲壮感さえ漂う。最初の方は元気がいいが、最後のカナダ、アメリカになると、かなり元気がなくなっているのが読んでいて伝わってくる。下川さんは旅行社に問い合わせて、平壌⇒モスクワ間の列車に乗ろうとしたが、旅行社の方で手配できないといわれたそうである。それでも、むかしは私も夜行列車が好きでよく載っていたことを思い出し、何となく懐かしい気分になった。

9月18日
 眼科の検査を受ける予約をしていたのをすっかり忘れていて、夜になって眼科の検診を受けたというブログの記事を見てやっと思い出した。この種の物忘れは私の場合、結構起きることなので、これはボケの始まりだ…とは思わないことにする。

 藤岡換太郎『フォッサマグナ』(講談社ブルーバックス)を読み終える。いろいろと勉強になった。ただ、「フォッサ=大きい」、「マグナ=地溝」と説明しているのは、逆なので、訂正してほしい。あとがきで著者がこの本を書く上でお世話になった方々の名が列挙されている中に、私の中学・高校の同期生の名があったので、その顔を思い出したりした。

9月19日
 眼下に出かけて事情を説明したところ、1日遅れで検査をしてくれた。めでたしめでたしと言っていいのかどうか?
 
 
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和田裕弘『信長公記――戦国覇者の一級史料』(3)

9月22日(土)朝のうちは雨が残っていたが、午前中に病み、午後は晴れ間が広がった。

 『信長公記』は織田信長の側近であった太田牛一が自身の日記と記録とをもとに編纂したもので、その成立事情から信憑性の高い史料とされてきた。
 織田氏はもともと越前の織田の劔神社の神職の家柄であったが、越前・尾張の守護であった斯波氏の被官となり、斯波氏に従って尾張に移り、一族の織田伊勢守と織田大和守が両守護代として勢力を張ったほか、藤左衛門尉家、因幡守家、弾正忠家の三奉行の織田家など多くの家系に分かれた。
 弾正忠家の信秀は優れた武将で、尾張の中で頭角を現し、盟主的な存在にのし上がったが、美濃の斎藤道三との戦いに敗れて苦境に陥り、息子の信長の正室に道三の娘を迎えることでこの危機を凌いだ。信秀の死後、信長は同母弟の信勝との熾烈な跡目争いに勝利して、織田家の当主の地位を獲得した。しかし、舅である道三は実子の義龍によって亡ぼされ、その義龍や、駿河の今川などの強敵に囲まれて、信長の前途は明るいものではなかった。

 『信長公記』はその首巻で信長の元服とその後の動きを描いており、若き日の信長の行状描いた箇所は首巻における最も興味深い部分となっている。
 信長は幼名を吉法師と言ったが天文15年(1546)、13歳の時に、林佐渡守、平手政秀ら4人の家老を伴って、父信秀の居城である古渡城に赴き、ここで元服して織田三郎信長と名乗った。傅役である平手政秀の菩提寺の記録『政秀寺古記』によると、沢彦宗恩が「信長」の名前を選んだという。(沢彦宗恩は臨済宗妙心寺派の僧で、平手政秀の依頼を受けて信長の教育係を務め、その後は信長の参謀として働いたという。信長が平手政秀の慰霊のために建立した政秀寺の開山ともなった。もっとも、沢彦については『政秀寺古記』以外にあまり史料がないということで、どこまで信じていいのかはわからない。なお、「岐阜」の名付け親も沢彦だといわれる。)
 元服の翌年には初陣を果たし、今川方となっている三河の吉良大浜に侵攻して、周辺を放火し、一泊して帰陣している。この初陣も平手政秀が準備を整えたものだという。

 若いころの信長は風変わりな服装をしていたといわれるが、その出典となっているのが『信長公記』の「首巻」である。
 元服後16歳から18歳までは、朝夕馬術を稽古し、また3月から9月までは川で泳ぎ、水泳に長じていたという。竹槍の模擬合戦を見て、長柄の槍が有利と判断し、実際にそのような槍をつくらせている。〔武将にふさわしい生活態度だったといえる。〕 しかし、髪を茶筅髷にゆったり、奇抜な服装で出歩いたりしていた。
 乗馬と水泳だけでなく、弓、鉄砲、兵法を習い、さらに鷹狩りを好んでいた。鷹狩りは軍事演習を兼ねているほかに、民情視察や領内の地理を知悉する効用もあったと考えられる。だから決してバカ殿ではなかったのだが、どうも行儀が悪かった。立ち食いをしたり、人に寄りかかって歩いたりした。決して凡庸な人物ではなかったが、大名にふさわしいと思わない家臣たちも少なくなかったのである。
 この時代から、合理主義者としての一面と、激しい気性の一端をのぞかせる出来事もあった。

 永禄2年(1559)に信長は上洛して室町幕府第13代将軍足利義輝に挨拶した。『信長公記』「首巻」には80人の御伴衆を同行したとあるが、同時代の山科言継の日記には500人ばかりとある。
 この時、斎藤義龍が6人の刺客を差し向けて暗殺を図った。しかし、その存在を知って通報したものがいて、信長の家臣の金森長近が彼らの宿舎に乗り込んで恫喝、それだけでなく翌日、京見物をしていた信長一行と刺客の一団が遭遇、今度は信長がお前たちが自分を襲うのは「蟷螂が斧」であると脅しつけて、刺客たちの面目を丸つぶしにした。そのうえで、この一団が必死になって追いかけてくるのは必定と、急いで帰国したという。 

 次回は、桶狭間の戦いと信長について取り上げる。最後に、今回見てきた個所についてのコメントをいくつか書いておく。信長が尾張を平定し、天下人へと歩み始めるようになると、それまでの織田一族は、津田・柘植・中川・藤懸・島などに改姓していく。織田を名乗り続けるのは信長と、その弟の長益(有楽)の系統だけである。
 名古屋には何度も出かけているが、そのうち2回、政秀寺の前を通っている。もっとも、現在の寺は太平洋戦争後に名古屋市が再開発を行った際に移転してきたものだそうである。余談となるが、江戸時代の大学者太宰春台は平手政秀の子孫を自称していたという。
 沢彦について詳しいことはわからないというのはすでに書いたが、武田信玄と親しかった快川紹喜と兄弟の契りを結んでいたとされる。このような僧侶間の関係も、戦国大名の取引の中で利用されたことは十分に想像できる。
 山科言継はその克明な日記で知られる戦国時代の公卿で、西口克己の小説で映画化もされた『祇園祭』に主人公たちの相談相手として登場する。映画では下元勉が演じていた。
 金森長近は織田信秀、信長、柴田勝家、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠に仕えた武将である。彼の息子の長則は本能寺の変で戦死しており、彼自身は賤ケ岳の戦いの際に柴田軍に属して戦い、降伏した経緯がある。それでも何とか生き延びて大名になったのは、それだけの能力があったということであろう。

坂口安吾『不連続殺人事件』(2)

9月21日(金)雨が降ったりやんだり

〔前回のあらまし:「1 俗悪千万な人間関係〕
 昭和22年6月の末に、語り手である作家の矢代寸兵は、友人である詩人・歌川一馬から、自分の周辺で何か恐ろしい事件が起きそうだから、歌川家に来てほしいという依頼を受ける。一馬の父親は多門と言って政治家で、戦後、追放処分を受けて地方で生活しているが、好色漢で、その結果として歌川家をめぐる人間関係は入り組んでいる。しかし、地方の金持ちであるか戦争中は一馬の文学仲間が大勢疎開していた。一馬の異母妹の珠緒が、そのときに疎開していた望月王仁、丹後弓彦、内海明という面々を呼び寄せ、彼らはこの夏をまたもや歌川家で過ごそうとしているという。一馬は彼の元妻である宇津木秋子と、その現在の夫である三宅木兵衛、劇作家の人見小六とその妻の明石胡蝶にも声をかけて、一緒に過ごそうとしているという。一馬は異母妹である佳代子が自分に寄せる思いを何とか振りほどこうと、彼女と仲のいい矢代の妻の京子の手を借りようとしている。しかしその京子は、多門の妾であったのが、寸兵と駆け落ちしてその妻となったという経緯があるので、歌川家の客になりたくはない。それで矢代夫妻は一馬からの招待を断る。

〔2 意外な奴ばかり〕
 7月に入って、一馬から矢代のもとに手紙が届いて、矢代夫妻と巨勢博士にぜひ来てほしい。切符を手配したから頼むという。
代夫妻は重ねての頼みなので、巨勢とともに出かけることにする。巨勢は名探偵として知られ、その腕前から仲間内で「博士」と「尊称」されている。だが、彼は1日遅れて出かけるという。
 矢代夫妻が手紙の指定通り、7月15日に夜行列車で出かけ、翌朝、歌川家のあるN町に到着すると、思いがけない人物に出会う。歌川多門の秘書をしていた弁護士の神山東洋と、その妻の木曽乃がその第一である。さらに、一馬の現夫人であるあやかの元の同棲相手であった土居光一(ピカいち)に出会う。彼も歌川家に滞在するという。
 歌川家に近づくと、歌川あやかと宇津木秋子が迎えに来る。光一はあやかになれなれしく近づき、抱きしめようとするが、あやかは拒絶する。
 歌川家に到着すると、来客たちは滝つぼに水浴に出かけたとのことで、一馬と内海だけが彼らの到着を待っていた。
 前夜の列車の中で立ち通しだった矢代は疲れ切っていて、昼食をとると、すぐに寝込んでしまう。目を覚ますと、もう夕方になっていた。一同はみなそろって、階下で酒を飲んでいるという。

〔3 招かれざる客〕
 酒を飲んでいる一同の中には文壇随一の嫌われ者の流行作家である望月王仁と、画壇の鼻つまみである土居光一がいて、社は「なるほど、こいつは趣向である」(45ページ)と思う。ところがなぜか、2人が角突き合わせてけんかをするという場面にならない。2人は競って、胡蝶や珠緒に言い寄り、騒ぎが続くが、夜も更けて騒ぎも静まり、それぞれ寝室に引き取る。
 ところが、一馬が矢代の寝室にやってきて、神山東洋夫妻にも、土居光一にも、さらに巨勢博士にも招待状は出していないという。矢代が念のために持ってきた手紙を改めてみると、一馬の手紙に何者かが書き足して、手紙を送ったようである。書き足された部分には犯罪の予告と、巨勢博士をつれてきてほしいという文言が記されている。事態は一馬の予測を越えて深刻なものになっているようである。

〔4 第一の殺人〕
 7月17日の早朝、一同は散歩に出かける。7時半の朝食のために戻ってくると、海老塚医師が庭で体操している。この医者は、前回にも紹介したが、歌川家の遠縁で、多門の二番目の妻の梶子(昭和21年8月9日に病死しているが、その死をめぐってとかくのうわさがある)が自分のために呼び寄せて開業させたという人物である。
 海老塚医師も交えて朝食が始まるが、王仁が顔を見せない。珠緒が様子を見に行木、彼が死んでいると蒼い顔で報告する。一馬と矢代、海老塚医師が確認に出かけると、王仁は裸体で、心臓を一突きにやられている。血はほとんど見られない。 
 廊下へ出て、腕時計を見ると8時22分であった。村の駐在に電話をかける。
 食堂で王仁が死んでいて、他殺だという報告を聞き、珠緒は秋子が犯人にちがいないと言い張る。王仁の枕元にはダンヒルのライターがあり、ダンヒルを使うのは宇津木秋子以外にはいないというのがその理由である。
 「駐在の巡査が駈けつけた。この南川友一郎巡査は探偵小説は愛読しているがほんものの事件にめぐり合ったのが始めてだから、全身緊張そのものにハリキッて、いと物々しく現場の扉にペッタリと封印の紙をはりつける。一同に向って現場を乱さないように心得をおごそかに申し渡して本署へ電話で連絡する。」(64ページ) 前回も書いたが、この巡査の名前は安吾の周辺にいた小説家の南川潤と井上友一郎の名を組み合わせて命名されている。井上友一郎という名にはかすかな記憶があるが、南川潤というのは全く知らない作家である。

 「5 猫の鈴」ではいよいよ本署から刑事たちが到着して捜索が始まる。その前に名探偵の巨勢博士も到着するが、真相の解明はまだまだ先のことになりそうである。とにかくこの5が長いので、今回はここで打ち切ることにする。
 終戦直後の昭和22年という時代背景を、坂口はできるだけ排除して、本格的な探偵小説の舞台を組み立てようとしている。地方の名士の邸宅で、物資には不自由しない生活を送る人々の間で起きる事件が描き出されている。そうはいっても、夜行列車で矢代が眠れなかったというように、できるだけ省かれているとは言うものの、この時代の様相が顔をのぞかせているのが、かえって面白い。その一方で、すでに書いたことだが、登場人物が多く、その関係が入り組んでいるので、分りにくいのと、やたら殺人事件が多いのが(なぜ、『不連続殺人事件』なのかというなぞは、篇中で巨勢によって解き明かされるので、そのときまでお待ちを――もっとも、そこまでこの連載を続けるかどうかはわからない)欠点と言えば欠点である。 

森本公誠『東大寺のなりたち』(13)

9月20日(木)雨が降ったりやんだり

 第6章「新たな天皇大権の確立」は、光仁天皇の後を継いで即位された桓武天皇の姿勢を、仏教に対する政策を中心に検討する内容である。
 第2章「責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観」で概観されたように、聖武天皇ははじめ「経史」を根拠とする律令政治を推進されようとしたが、天災地変が続いたことから、仏教、特に華厳経への傾倒を深められ、仏教思想に基づく政治を志向されるようになった。諸国における国分寺の建立、平城京における廬舎那大仏像の造立などはその表れであり、建設事業を通じて土地を失って流浪している人々の救済を図ろうという意図があったことは、一連の仏教推進策とともに、墾田の私有をめぐる法令がこれと並行して出されていることからも理解できる。

 しかし、仏教重視の政策の結果、道鏡のような怪僧が現れて政治が混乱する事態も生じた。道鏡の追放後、政府の仏教政策は以前の律令制重視、律令に定められたように仏教を治部省の管轄の下に置き、締め付けを強めようとするものであった。現実に、政府としても仏教を全面的に否定することは難しかったが、厳しい態度をとるようになったのである。

 宝亀4年(773)閏11月、良弁僧正が遷化した。『続日本紀』には彼の卒去が記載されているにもかかわらず、本来ならばそれに付記されるはずの卒伝がない。「良弁に関する記録の少なさは異常と思えるほどで、僧正への補任の記録も含めて、『続日本紀』編纂時に恣意的に抹消された可能性が高い。/いずれにしても良弁を失った東大寺は、代わりが務まるような存在感のある人物を見出せず、苦境への道をたどることになる。」(172ページ) 
 孝謙上皇が藤原仲麻呂・淳仁天皇に対するクーデターを実行された際に、東大寺の僧侶が上皇方に属して活躍したことは既に述べたが、上皇が重祚されて称徳天皇となられた後、さらにその後任をめぐる道鏡の登場、光仁天皇→桓武天皇の即位に至る政争の中で、東大寺は政界の主流から排除されていったようである。森本さんはそのあたりの経緯を詳しく(書こうにも史料がないので書けないから)書いていない。しかし道鏡が良弁僧正の弟子であったことは書いているから、その関係での嫌がらせはあったかもしれない。良弁に代わりうる人物というと、お水取りを始めた実忠や、孝謙上皇のクーデターの際に活躍した安寛などがいるではないかと思うのだが、森本さんはそのようには書いていない。大先輩に対する遠慮があるのかもしれないが、なぜふさわしくないと判断するのかも書いてほしいところである。

 光仁天皇の下で、政府=太政官の仏教界への統制は、具体的には治部省を通じての僧尼籍の確認調査、さらに国分寺から東大寺に派遣されたまま既定の年限を過ぎても帰還しない僧尼の本国への送還、僧綱の綱紀粛清などの措置によって推進された。

 天応元年(781)光仁天皇は皇太子である山部親王に譲位、桓武天皇(←山部親王)が即位された。新天皇は同母弟の早良(さわら)親王を皇太子とした。この年の12月に光仁上皇が崩御された。その服喪期間をめぐって混乱が生じている中、塩焼王の子の氷上川継の謀反が発覚し、関係者が徹底的に処罰された。
 塩焼王についての詳しい説明はされていないが、天武天皇の皇子新田部親王の子で、一時期、孝謙天皇の皇太子であった道祖王の兄であり、その後、藤原仲麻呂に接近して仲麻呂によって淳仁天皇の代わりの天皇として担がれたが、敗死した人物である。塩焼王の妃で川継の母である不破内親王は聖武天皇の皇女であり、森本さんが紹介しているように「川継の謀反は桓武天皇側から仕掛けられた罠であるとする説」(177ページ)があるのも不思議なことではない。こうしてなお隠然たる力を保持していた天武天皇一族はしだいにその力をそがれていったが、逆にいえば、そうしなければならないほど桓武天皇にはまだ権威が備わっていなかったということでもある。

 天応2年(782)7月、服喪期間をめぐる問題は天皇の勝利に終わり、元号は延暦と改められた。(この元号は25年まで続き、歴代では昭和、明治、応永、平成に続いて史上第5位に相当する長い期間使用された。)
 「天皇としての権力を確実なものとしたとはいえ、それでこれまでの天皇が持っていたような権威も身に付いたかと言えばそうではない。桓武天皇はこの権威を獲得するために新たな手段を模索しなければならなかった。天智系皇統による新王朝の確立、母方の百済王氏族の称揚、交野(かたの)における中国式天帝祭祀、平城京廃都、と次々に新たな手段を講じていった。だがもっとも重視したのは、聖武天皇が培ってきた仏教勢力を政治から排除することであった。」(177ページ)

 桓武天皇による仏教勢力排除の政策は、光仁天皇時代から始まっていた仏教界の綱紀粛正の流れを引き継ぎ、さらには一層強化するものであった。仏教界の不正を弾劾することで、国家経費の削減が意図されていたという側面もある。しかも仏教界の不正や堕落は、中央地方を問わず、官僚たちの不正にもかかわることだと考えられた。さらに諸寺の利殖行為は厳禁された。そしてこれらの措置に違反する僧侶や官僚には厳しい処罰を行った。

 東アジア全体を見渡しても、仏教に対する政府の姿勢は必ずしも一貫していない。仏教が外来の宗教であること以外に、どのような問題があるのか、この辺りはさらに研究を深めてもいい問題であるかもしれない。

トマス・モア『ユートピア』(19)

9月19日(水)晴れ、気温上昇

 1515年にイングランド国王ヘンリーⅧ世が派遣した外交使節団の一員としてフランドルを訪問した法律家のトマス・モアは、外交交渉の中断中にアントワープを訪れ、その市民であるピーター・ヒレスと親しく付き合う。ある日、モアはそのピーターからラファエル・ヒュトロダエウスという世界を広く旅して様々な土地と人々の風習や制度を見聞したという人物を紹介される。
 彼の経験と知識とに感心したピーターとモアは、彼がどこかの王侯に顧問として仕え、その政治を助けるように勧めるが、王侯たちは彼の機嫌を取ろうとする取り巻きたちに囲まれて、外国と戦争し、民衆から収奪することだけを考えている。そんな王侯や取り巻きの仲間入りはしたくないとラファエルは拒否する。
 ヨーロッパの諸国は戦争や貧富の格差に苦しんでいるが、その解決策はないのか。その一つの手がかりが、ラファエルが5年間ほど滞在していた新世界のユートピアという島の制度にあると彼は言う。そこで、ピーターとモアの求めに応じて、ラファエルはユートピアの社会の概要を語りはじめる。
 ユートピアは54の都市からなる島国で、もともとは大陸と地続きだったのが、ユートプスという指導者が現れて掘削工事を行い、大陸から切り離された。この国の第一の関心事は農業で、人々はみな(少なくとも一定期間は)農業に従事する。農業以外の仕事に取り組む人もいるが、すべての人々が協力して働き、私有財産というものはない。衣服は簡素で、都市では食事は一か所に集まって共同で行われる。住まいは10年ごとにくじ引きで取り換えられる。

 すでに繰り返し述べてきたように、ユートピアでは全員が働く上に、無駄や贅沢は避けられているので、あらゆる物資が豊富に行き渡っている。またその物資は公正に分配されるので、貧しい人々、乞食をするような人は出てこないのである。しかも、アマウロートゥムの長老会議で、各都市の物資の量をめぐる情報を交換・討議して、もし不足があれば余っている地方から直ちに補足均分するようにされている。「こういうぐあいで、全島は単一家族のようなもおのになっています。」(153ページ)

 都市によって収穫の出来不出来があることを考えて、彼らは2年分の補給が完了しなければ十分だとは考えず、それが果たされて初めて、余ったものを外部に輸出する。それらはたとえば、「穀物、蜂蜜、羊毛、亜麻、木材、茜と緋の染料、毛皮、蝋、獣脂、皮革、それに家畜類である。
 これらの物資の7分の1を彼らは輸出地域の貧乏人たちに贈り物として与え、残ったものは安く売る。この取引で彼らは自分のところにないものだけでなく、多量の銀と金とを自国に輸入する。自国にないものというのは鉄以外にはあまりないということで、これはこの時代のイングランドの状況と一致しているという。こうして多量の金銀や貴金属を彼らは保有しているという。「その結果、彼らにとっては物を売る場合に支払金を直ちに現金で受け取るか一定の期日までに受け取るかはどうでもよいことになり、支払金の大部分を彼らは信用証書の形でもっています」(153ページ)という。
 余った生産物を安く売ることで莫大な富が築けるかどうかは疑問(このあたりモアの考えは理想主義に走りすぎているかもしれない)。国庫に金銀を集めるというのは、既にマキャヴェッリの『君主論』の中に見られる発想だそうだが、のちに重商主義の時代になる盛んに採用されるようになる政策である。しかし、モアの主張は重商主義の初めの頃に見られる重金主義主義とは一線を画するものである。

 信用証書は、私人の信用によらず、相手方の都会が正式に発行する保証書であり、都会が債務者である私人から負債額を徴収して会計金庫に収め、(債権者の)ユートピア人たちが取り立てにくるまではその利子を自分のものにする。ところが、ユートピア人はそのような債権の大部分を請求しないままにしている。自分たちにとって必要ではないもので、他人にとっては役立つものであれば、他人のものにしておいた方がいいと考えるからである。

 しかし、危急の場合、例えば戦争が起きるかもしれないという場合の防衛手段として、この財宝や債権をやくだてるのである。このような多額の金を使って、外人部隊を雇ったり、敵を買収したり、敵の一部を買収することによって内部から崩壊させたりして、自分たちの犠牲を少なくしようとするのである。ユートピア人の戦争への対処の仕方についてはまた後の方で触れられる。「外人部隊」について、平井訳では「外国傭兵」、ロビンソン訳ではstrange soldiers (異国人の兵隊たち), ターナー訳とローガン&アダムズ訳ではforeign mercenaries (外国人の傭兵たち)となっている。金銀で兵隊を雇うという発想は、モアよりも四半世紀ばかり遅れた日本で、関ケ原の戦いのときに九州で黒田如水が、それまでため込んだ金銀を放出して浪人たちを集めたという逸話を思い出させる。モアの時代には「傭兵」と「外人部隊」の区別などなかったが、現代の国際法では「傭兵」は禁止され、「外人部隊」は認められている。傭兵は<金でやとわれて、欲得ずくで戦う兵隊>であり、外人部隊は正規の軍隊機構の中に組み込まれた外国人たちによって編成された部隊である。第1巻でラファエルは、王侯の取り巻きが、王侯に向かって傭兵を使うことの得失を説く場面を否定的に描いているが、この個所、およびこの後で戦争について語られる場面では傭兵の使用について特に否定的なことは言っていない。この問題については、ユートピア人と戦争について論じた個所でより詳しく見ていくことにしよう。

 モアの考え方が重商主義とは一線を画するというのは、ユートピアでは貨幣が重んじられないとしていることである。「彼らは自分では貨幣を用いないで、起こるかもしれないしけっして起こらないかもしれないような事態のためにそれを貯めているのであって、そういう時まで〔貨幣の原料である〕金銀を、それらが自然本来もっている価値以上に尊重するような人はひとりもいません。こういう見かたからすれば、金銀が鉄に比べてはるかに劣っているということをわからない人がいるでしょうか。人間は鉄がなければ火や水がないのと同様に生きてゆけません。ところが、人間はその愚かさゆえに希少なものは価値あるものだと決めたから話は別ですが、自然は金銀に対して、我々が容易に無視できぬような大切な用途を与えはしませんでした。」(155‐156ページ) つまり、金銀よりも鉄の方が人間の生活に役立つから尊いのだとユートピア人は考えているというのである。この時代、すなわち大航海時代は、金銀と香料を求めてスペインやポルトガルの船が新世界やインドを探検し、略奪していた時代である。モアがこのような主張をラファエルの口を借りて語っているのは興味深い。さらに言えば、金や銀も現代人にとっては、それなりに役立つ金属であることも忘れてはならない。とにかく、ユートピア人たちは日常の生活に貨幣を使わず(日用品はただで手に入るので、使う必要がない)、鉄の方を金銀より大事にするということを記憶しておこう。これは経済学史的にどのように評価される思想なのか、今すぐにはわからないので、おいおい調べていくことにしたい。

 さて、ユートピアでは馬車よりも牛車の方が多く用いられるということを以前に紹介したのをご記憶であろうか。どうも不思議な感じがしたのだが、ヘスス・マロト/粕谷てる子『スペイン語で読む やさしいドン・キホーテ』(NHK出版)という本を読んでいたら、原作の全編の最後の方にあたる箇所で、ドン・キホーテを村に戻そうと追いかけてきた村の司祭と床屋が寝ているドン・キホーテを取り押さえて檻の中に閉じ込め、牛車(carreta)に乗せて運ぶという個所が出てきた。『ドン・キホーテ』は『ユートピア』よりも約100年ほど後の作品であるが、この時代のヨーロッパでは牛車が使われていたことを知ることができる。
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