木田元『哲学散歩』(4)

10月19日(木)雨

 第1回 エジプトを旅するプラトン
 第2回 エンペドクレスのサンダル
 第3回 ソクラテスの皮肉

 第4回 忘恩の徒? アリストテレス
 第3回の「ソクラテスの皮肉」がなかなか難しく、3回かけて検討を加えたが、今回は、ソクラテスの弟子のプラトンの弟子のアリストテレスを取り上げる。学統を辿れば、プラトンの順番であるが、プラトンは第1回に登場しているので、アリストテレスに順番が回ってきたのであろう。ただし、ここではアリストテレスが主人公となってはいるものの、プラトンとの師弟関係が重要な内容になっている。

 「アリストテレス(前384-322)ほど時代によって評価の変わる哲学者も珍しい」(33ページ)と木田さんはこの回を書き起こしている。13世紀以降、特にカトリック系の思想圏では、「かの哲学者」(イレ・フィロソフス)といえばアリストテレスを意味するほどに評価が定まったし、ルネサンス期には、ラファエロの有名な「アテナイの学園」に描かれているように、堂々たるプラトンと並んでひけをとらない精悍な姿でイメージされるようになった。木田さんは書いていないが、この絵でプラトンは天を指さし、アリストテレスは地に注意を向けさせようとしている。プラトンのイデア論と、アリストテレスの博物誌的な哲学の広がりとを象徴的に表す手つきである。そういえば、14世紀の初めに完成したダンテの『神曲』<地獄篇>第4歌130-135行は次のように書かれている:
顔を少し上げると、
私は見た、哲人たちの師が
知を愛する一族に囲まれ座っているのを。

皆が敬意のこもった視線を向け、皆がほめたたえていた。
さらに私はここに見た、ソクラテスとプラトンを
二人とも他の誰より前に進み、あの方のすぐそばにいた。
(原基晶訳、80ページ) アリストテレスの師であるプラトンと、その師であるソクラテスとはその名を呼ばれているのに、アリストテレスは「哲人たちの師」、「あの方」と呼ばれ、この2人以上の扱いを受けている。

 ところが、それ以前、特に古代の伝承の中ではアリストテレスはあまり評判がよくなかったという。哲学者の逸話を集めた古代の書物によると、「アリストテレスは小柄で下半身もひょろひょろと貧弱なら眼も小さく、貧相なくせに派手好み、おしゃべりではあるが声に力がなく、時どき舌もつれまでして、それほど講義がうまいわけでもないと思われていたらしい。」(34ページ) それ以上に問題になるのは、そのころアリストテレスは「忘恩の徒」だとまで考えられていたらしいという。それはどうしたことだったのであろうか。

 アリストテレスはイオニア系のギリシア人であったが、彼の出生地のスタゲイロスはマケドニアの支配地にあり、彼の父はそのマケドニアの王アミュンタスⅢ世(アレクサンドロス大王の祖父)の侍医であった。そのため彼は、幼いころマケドニアの首都ペラで育ったが、早く両親を亡くし、義兄に引き取られて小アジアのアタルネウスで暮らしていたようであるという。17歳になると、彼はプラトンがアテナイに開いた学園アカデメイアに遊学する。プラトンはもう60歳を超えていた。経済的に余裕があったアリストテレスは「思う存分本(むろん写本である)を手に入れることもできたし、おしゃれもできたのであろう。プラトンは、弟子のその読書家であるところは評価したが、おしゃれは気に入らなかったということらしい。」(35ページ、プラトンがアリストテレスについてそう発言したと古代の著作家であるアイリアノスが書き留めているそうである)。

 アリストテレスは、前347年にプラトンが没するまで20年間このアカデメイアで学び、師によって「学園の知性(ヌース)と」と呼ばれるまでになったという伝承もあるが、一方には、師の存命中にアカデメイアを去り、最晩年の既に衰えを見せていたプラトンのところに仲間の一団を引き連れて押しかけ、質問を浴びせかけて苦しめたという(逸話をこれまたアイリアノスが書き残している)。アテナイではプラトンの開いたアカデメイアと、アリストテレスの開いたリュけイオンという2つの学園が長く対立関係を続けた(他にも学園はあった)からアカデメイアの人々は、アリストテレスの悪口を言い伝えたと思われ、アリストテレスの悪評はその分割り引いて考える必要がありそうである。

 とはいうものの、アリストテレスはその著作の中で、プラトンのイデア論を批判しており、その一方で自分の先生や友人の学説に批判を加えるのはつらい仕事になるということを書いている。ある程度、自分の評判が悪くなることは覚悟のうえであったというのである。

 アリストテレスの悪評には、プラトンから離反したという理由の他に、アテナイに根強くわだかまっていた反マケドニア感情も影響していたと木田さんは言う。何よりも、彼はマケドニアの王となって大征服帝国を現出させたアレクサンドロスの家庭教師だったのである。アレクサンドロスが国王になると、アリストテレスは当時マケドニアの占領下にあったアテナイに戻り、おそらくはアレクサンドロスから経済的支援を受けて、自らの学園であるリュケイオンを開き、ここを拠点として教育研究活動を行う。彼はその構内の散歩道(ペリパトス)を散歩(ぺリパテイン)しながら議論をすることが多かったので、彼の学派はペリパトス学派と呼ばれていた(逍遥学派と呼ぶ人もいる。私はこちらの呼び方の方が好きである)。

 「ここに収蔵されていた書物や資料は、後年エジプトのアレクサンドリアにプトレマイオス王家によって建設される壮大な図書館や博物館の模範にされるほど、見事に整理されていたそうである。」(38ページ) このあたりいかにもアリストテレスらしい。

 ところが、前323年にアレクサンドロスが急死すると、アテナイでは反マケドニア運動が高まり、マケドニア勢力と親交のあったアリストテレスにも追及の手が及ぶ。
 「アテナイ市民はかつてソクラテスを死刑に処して、哲学に罪を犯したことがある。その「アテナイ市民にふたたび哲学を冒瀆する罪を犯させないために」と体裁のいいことを言って、アリストテレスは、母方の屋敷のあったエウボイア島のカルキスへ逃れたが、翌年宿痾であった胃病のために62歳で世を去る。」(39ページ)
 とにかく、プラトンに比べてアリストテレスは、アテナイ市民から見て異国人ということもあって、あまり評判がよくなかったらしい。しかし、と木田さんは言う(ここが大事なところである)「西洋の哲学者は東洋の儒学者などと違って、必ずしも身近にいるすべての人に愛され尊敬されるような魅力的な人柄を、つまり知行合一(ちぎょうごういつ)といったことを要求されることはなさそうだ。私は長年ハイデガーを読んできて、この思想家の性格の悪さにほとほと困惑させられてきたが、だからと言ってテキストを読んで感じる彼の思索の強靭さや深遠さを疑ったことはない。」(39ページ) そして最後にこう付け加える:「私は近頃、ハイデガーの人柄を種にその思想を非難する人には、高煩悶することにしている。身近にいる誰からも愛され、いつもニコニコしている人柄のいい思想家が、世界をくつがえすような思想を提起する、ということの方がありそうにもないと思わないか、と。アリストテレスについても同じ弁護が成り立ちそうな気がするが、どうであろうか。」(39-40ページ)

 この結びを読んで思い出すのはハイネがカントについて『ドイツの宗教と哲学の歴史によせて』(岩波文庫では『ドイツ古典哲学の本質』という表題になっていた)で触れている次の箇所である。
「この人の外面の生活と、世界をうち砕く破壊的な思想との間には実に奇妙なコントラストがある。事実、もしケーニヒスベルクの市民たちが彼の思想の意義全体を予感していたなら、普通の首斬り役人、人間の頭しか刎ねない首切り役人に対するより、はるかにすさまじい怖気をこの男に感じたことだろう――しかしこの善良な人たちは、カントを哲学教授としか見なかった。いつもの散歩の時間に彼が通りかかると、愛想よく挨拶して、例えば懐中時計を合わせてみたりするのだった。」(木庭一郎訳『ハイネ散文作品集』第4巻、99ページ)
 人柄のいい思想家も、人柄の悪い思想家も、同じ程度に世の中を揺るがすような思想を考え出すことはある(それ以上に、人畜無害な思想を生み出していることの方が多いのではないか)とわたしは思うのである。 
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ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(29-2)

10月18日(水)晴れのち曇り

 ベアトリーチェに導かれてダンテは地上楽園から天上の世界へと旅立つ。天上の中でも人間の目に見える世界である月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪ねた彼は、至高天からやってきて彼を迎えた魂と対話し、彼が地上で抱いていたさまざまな疑問への回答を得るとともに、彼がこの遍歴の中で見聞したことを地上に伝えることが彼の任務であることの自覚を固める。至高天から土星天へと降りてくる「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰・希望・愛という3つの対神徳についての試問に合格し、目に見える世界から目に見えない世界へと歩を進める。原動天でベアトリーチェは天使たちとその働きについての説明をする。

 天使たちをめぐる地上の学者たちの説が的外れなものであることを指摘したベアトリーチェは、次のように言葉を続ける。
こうしてみると下界には、覚醒しているはずなのに、夢幻に迷いながら
信じて、あるいは信じていないのに真理が語られることさえあり、
後者はより罪深く、より恥ずべき行為です。

あなた達は下界において哲学的思弁をする中で
あるべきただ一つの道を進んではいません。もてはやされることを愛して
評価を気にするために道を踏み外してしまうからなのです。
(440ページ) 天使についての様々な学説とそれらの学説間の論争は、正しい道から外れたものであると彼女は言う。

しかしこのことでさえ、ここ天上では寛容にも
それほどの怒りは買わないことでしょう、聖書がないがしろにされ、
あるいは捻じ曲げられるのに比べれば。

聖書の教えを世界中に種蒔くために
どれほどの血が流されたのか、自らを低くして聖書に寄り添う者が
どれほど御意にかなうのか、地上では考えもしません。
(同上) 天使をめぐる学説の違いなど、聖書からの逸脱に較べればたいしたことではないという。ただし、ここでダンテが述べている聖書を重視する考えが、ルネサンスの人文主義者たちによる聖書重視の考え方とは違うことにも注意しておく必要がある。ダンテは、この29歌でヒエロニムスの考えを批判しているが、その一方で、彼が『神曲』で引用している聖書は、ヒエロニムスがラテン語に翻訳したウルガータ版であり、これはカトリック教会が採用してきた聖書である。ルネサンスの人文主義者たちは、ヘブライ語の旧約聖書と、ギリシア語の新約聖書を典拠とすべきであると論じたのであった。ベアトリーチェは続いて、聖書に勝手な解釈を施している人々を非難する。そして、そのような虚言や戯言がキリストの教えに沿うものではないという。

キリストは最初の教団にお告げになりはしませんでした、
『行って、戯れ言を述べ伝えなさい』などとは。
弟子たちには真理の礎を授けたのです。

そして教団はそれだけを頼りに言葉を発し、
信仰の火をともす戦いに
聖書を盾とし、槍として臨みました。
(442ページ) 「マルコによる福音書」が伝えるキリストの言葉は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16.15)である。しかし、時間の経過とともに教団も、伝道者も変化した。

今では人は説教をするのに
機知と漫談をたずさえていき、ただ笑いが取れただけで
その僧帽の中身はうぬぼれにふくれ、それ以上は求めません。
(442-443ページ) 受け狙いが幅を利かす説教の現状を嘆く。そして、ベアトリーチェはその200年以上後に、ルターによる宗教改革の引き金になった教皇庁、あるいは最低でも司教によって発行される贖宥符の発行を非難する。〔カトリック教会では贖宥符という言葉を使うが、一般には免罪符という言葉の方が使われているのではないか。〕
これを信じるがために地上では愚行が広くはびこり、
その結果、大衆は何らかの効力を証(あか)す証明もないのに、
どのような約束にも飛びついてしまいかねません。
(443ページ) さらに彼女は、地上の腐敗した修道会を非難する。

 しかし、彼女は自分の発言が本筋から遠く離れてしまったことを認め、改めて天使についての説明を続ける。天使たちの神との愛の結びつきは、神への理解に応じて多様であり、神の光はその多様性の中でさまざまに分裂し、散り散りに拡散しながらも全体は一を保っているという。
愛は理解という行為に従うゆえ、
このことから、愛の甘美も
彼らの中では様々に白熱し、あるいは温(ぬる)むのです。

今やあなたは永遠の御力がもつ超越した偉大さを、寛容を
理解しています。なぜならそれは、自らのために
多数の鏡をお造りになり、その中で散り散りに分裂しつつ、

創世前と同様にご自身を同じく一つに保っていらっしゃるのですから。
(445ページ) こうして、天使と神についての理解をさらに進めたダンテは、本来の天国である至高天に昇っていくのにふさわしい存在となったことが語られる。

 第29歌が終わり、第30歌でダンテはいよいよ至高天に達することになる。そこはどのような世界で、その様子をダンテがいかに描き出すかは、次回以降のお楽しみということにしよう。

バスを待っていると

10月18日(水)晴れのち曇り

バスを待っていると

バスを待っていると
反対方向から
バスの中でよく見かける人が
坂道を上ってきた

何日か雨が降り続いていたが
今日は久しぶりの青空で
日差しを楽しむように
ゆっくりと坂道を上ってきた

声を掛けようかと思ったが
たぶん、向こうはこちらの顔を知らない
唐突に声を掛けられて
びっくりするだけだろう

バス停でそんなことを考えている
私には気づかずに
その人はゆっくりと
盲導犬と一緒に
その人はゆっくりと
前を通り過ぎていった

フローベール『感情教育』

10月17日(火)雨のち曇り

 19世紀フランスを代表する作家の1人であるギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert, 1821-80)の『感情教育』(L'Éducation sentimentale)を読んでいるところである。上下2冊に分れて岩波文庫に入っている生島遼一の訳で、上巻を8月16日に読み終え、下巻に取り掛かっているが、なかなか終わりまでたどり着かない。まだ途中までしか読んではいないが、これまで読んだ限りでも気になることが多いので、紹介作業を開始することにした。

 第1部 1
 1840年9月15日、朝の6時頃、出帆間際のヴィル=ドゥ=モントロー号がサン=ベルナール河岸の前で、もくもく煙のうずを上げていた。(上巻、7ページ)
 パリからセーヌ川を上っていくこの蒸気船に、1人の青年が乗っている。フレデリック・モローと言い、この小説の主人公である。18歳で、最近バシュリエ(大学入学資格者)試験に合格したばかり、郷里であるオーブ県の小都市のジャン=スュル=セーヌに帰省するところであった。本当はもっとパリにいたかったのだが、母親の言いつけでル・アーヴルに住む(その遺産が相続できるかもしれない)伯父のところを訪問したのち、2か月ばかりを郷里で過ごすことになっていたのである。彼は演劇や絵画に興味がある夢想家気質の青年で、郷里のことよりもこれからのパリの暮らしのことばかり考えている。

 船の中でフレデリックは「四十くらいの、髪のちぢれた元気そうな男」(9ページ)を見かけて、何か気になり、話をするようになる。「この男は共和主義者だった。ほうぼう旅行して劇場でも料理屋でも、新聞でもあらゆることの内幕を知っており、有名な芸術家とはみな懇意で、親しそうに家族名で呼んだ。フレデリックもつい自分の計画など打ち明ける。相手はそれはいいと励ました。」(10ページ) 男はジャック・アルヌーといい、モンマルトル大通りにある美術新聞発行と画商を兼ねた工芸美術という店の主人であった。
 
 フレデリックがアルヌーと別れて、自分の船室に戻ろうとすると、彼はひとりの美しい女性を見かける。
「と、それは一つの幻のようであった。
 彼女は腰掛けのまんなかに一人かけていた。少なくとも、青年の眼をうったまぶしさに、ほかの人間の姿は見わけられなかったのだ。彼が通るとき、女はひょいと顔を上げた。彼はもう無意識に肩をかがめた。そして、少し離れて、同じ側にいってから、はじめて女の方に目をそそいだ。」(12ページ)
 すぐに分かったことだが、彼女はアルヌーの夫人であった。フレデリックは彼女に何か話しかけようとするが、そうする前に彼の下船する船着き場に到着してしまう。

 船着場から、フレデリックは、彼を迎えに来た下男のイシドールと馬車で母親の住む家に向かう。家では若旦那のお帰りを皆が待ち構えているという。フレデリックの母親のモロー夫人は息子の将来に大きな期待を寄せている。彼が高等学校で名誉賞をもらうほどの立派な成績を収め、パリの大学で法学の勉強をすることになったのだから、これは当然のことである。母親のところに集まっていた知り合いの人々は、それぞれにフレデリックに話しかけたが、「誰もかも自分にかかわりのあることだけを知りたがった」(21ページ)。フレデリックはアルヌー夫人のことばかり考えている。そこへ旧友のデローリエから会いたいという連絡があるので、息子が彼とつきあうことを快く思っていない母親は制止するのだが、彼に会うために外出する。
 最後に名前が出てきたデローリエのほか、これまでのところでは名前だけしか出てこなかった隣家のロック老人、彼の娘であるルイズ、ロック老人が管理人をしている貴族出身の実業家で国会議員でもあるダンブルーズ氏などが、まだ登場しない人物とともに、これから重要な役割を果たすことになる。

 『感情教育』は『ボヴァリー夫人』、『サランボー』に続く、フローベールの3作目の長編小説で、翻訳者の解説によると、1864年に書きはじめられ、1869年に完成した。この作品は1840年代からナポレオンⅢ世の第二帝政に至る時代を背景とし、その中でフレデリック、そして副主人公となるデローリエをはじめとする青年たちがフランス社会と彼ら自身の未来をどのように築くかをめぐり夢見たり、活動したりする姿をた描いている。特に、反目したり、お互いに裏切ったりすることはあっても、結局のところ親友であるフレデリックとでローリエの2人が、それぞれの人生修業を通じて、それによって教育されていく過程が、フローベール自身の言葉を借りれば、彼の世代の精神史(histoire morale)、それ以上に感情の(sentimentale)歴史として描きこまれている。実際問題として、フレデリックとフローベール自身はほぼ同世代であるし、この作品にはフローベールの自伝的な要素が含まれているという。
 その一方で、この時代から20年近い年月を経て作品を執筆したフローベールは、改めてこの時代の社会と政治の動きを調べなおして、取り組んだといわれるし、虚構としての体裁をとっていることでかえって七月王政から第二帝政に至る激動のフランスの精神史を探るうえで貴重な証言たりえているのではないかと思う。この小説には、さまざまな方面からのさまざまな評価があるが、私自身について言うと、大学院時代に、「空想社会主義」の思想史的な研究に取り組んでいたころ、この小説に出会い、当時の人々にサン⁼シモンやフーリエ(特に後者)の思想がどのように受け取られていたかを知る手掛かりとして、この小説が貴重な意義をもっていることに気づいたことを思い出す。

 フローベールは彼が同時代人として経験したフランスの政治と社会の激動の様相とその中での青年の夢や恋愛をこの小説に描き出したのだが、この小説を読み返すことで、私自身も自分の青年時代のことを思い出し、見つめなおすということになるのかもしれない。

『太平記』(180)

10月16日(月)雨

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、足利方は比叡山に立て籠もった後醍醐天皇方に対する攻撃を行ったが、後醍醐天皇方は地の利を生かし、よくこれを防いだ。比叡山が奈良の興福寺に加勢を求め、興福寺が応諾したことで西国の武士たちの中に後醍醐天皇方に味方するものが増え、都の四方を囲んで補給路を断ち、足利方を苦しめた。7月13日に、比叡山の後醍醐天皇方は都への攻撃を開始したが、北白川の火事を戦闘の開始と間違えて鳥羽の作道から足利方の本拠である東寺へと迫った四条隆資の率いる八幡の軍は、足利方の土岐頼直の奮戦により撃退され、八幡へ引き返した。

 南西から攻め寄せるはずだった八幡の軍勢が既に敗走したとも知らず、かねてから決められていた合図の時間になったというので、大手の大将である新田義貞は弟の脇屋義助とともに、2万余騎を率いて、今路、西坂から比叡山を下り、軍勢を三手に分けて押し寄せた。その一手は、義貞、義助、新田一族の江田、大館、関東の武士である千葉、宇都宮合わせて1万余騎、新田の紋である大中黒、千葉の紋である月に星、これも関東の豪族である結城の紋である左巴、宇都宮の紋である右巴、武蔵七党のうちの丹党と児玉党の内輪を組み合わせた図柄の紋、それぞれの紋を印した旗3千流れ(旗は~流れと数える)をさし連ねて、下鴨の糺の森を東から西へと抜け、大宮通を下って押し寄せる。
 もう一手は名和長年をはじめ、仁科、高梨、土居、得能、春日部以下、諸国の武士たちを集めて5千余騎、大将義貞の旗を守って、その陣形を変化させながら、猪熊通り(東大宮大路の東側の小路)を南下した。
 さらに一手は、二条師基(摂政関白二条兼基の子、道平の弟、北朝に寝返った良基の叔父にあたり、北陸の武士たちを集めて比叡山に応援にやってきていた)、洞院実世の2人の公家を大将として5千余騎、摂関家の紋章である牡丹の旗と、扇の旗(何の旗か不詳であるという)のただ2流れの旗だけをあげて、敵に道を遮断されないようにと、四条通を東の方に引き渡して、それから南の方にはわざと進まなかった(あまり戦力として期待されず、敵の攻撃の妨害を任されていたということらしい)。

 以前から東山の阿弥陀峯に陣を構えていた諸国の兵、阿波、淡路の兵千余騎は、まだ市中には入らず、泉湧寺(京都市東山区泉湧寺三内町にある真言宗寺院)の前、今比叡(東山区妙法院前側帖にある新日吉=いまひえ神社)のあたりまで下って、合図の狼煙を挙げた。そこで北区鷹峯の西北の長坂の大覚寺宮を大将とする額田右馬介の軍勢800余騎が、嵯峨、仁和寺の辺りに散開して、あちこちに火をかけた。

 足利方は数においては勝っていたが、後醍醐天皇方の武士たちに補給路を遮断され、人も馬も疲れて弱っていたうえに、朝の戦闘で矢をほとんど射尽していた(東寺の戦闘に参加したのは、足利方の一部の軍勢だけだったことが、これまでの記述でわかるので、これはおかしい)。対する新田勢は小勢ではあったが、名だたる名将新田義貞が指揮を執り、しかもこれまで何度も戦闘で敗北を喫ししていたので、今度こそは雪辱を果たそうと敵意を燃やし、この一戦に自分の名誉を掛けようという覚悟を決めて臨んでいた。それで、これまで対立してきた大覚寺統・持明院統の治世のご運も、新田足利多年の対立抗争も、この一戦によって決着を迎えるはずだと、新田方の武士たちはみな気を張り詰めていた。

 そうこうするうちに六条大宮から軍が始まって、足利方の20万騎と新田方の1万余騎とが、入り乱れて戦った。(兵力に差がありすぎるが、一つには数が誇張されていること、もう一つは、全員が一度に戦うのではなく、両軍とも先頭に立って戦う武士たちを入れ替えながら戦っているということである。) 「射違ふる矢は、夕立の軒端を過ぐる音よりもなほしげく、打ち合ふ太刀の鍔音は、そらに答古山彦の鳴り止む隙(ひま)もなかりけり」(第3分冊、162ページ)と、相変わらず作者の描写は大げさである。
 足利方は、都を碁盤の目のように通っている小路小路をふさいで、敵を東西から包囲し、敵が進んでくれば前を遮り、左右に分れれば中を突破するなど陣形を変化させ、相手の出方に応じて戦闘を続けたが、義貞の兵はそれにかく乱されることなく、中を突破されることもなく、時に退却することがあっても後ろから陣営を乱されることなく、向かってくる敵を次第に圧倒して、大宮通を下ってまっすぐ進んで行った。足利一族の仁木、細川、今川、荒川、足利方の土岐、佐々木(道誉)、甲斐源氏の逸見、武田、小笠原、安芸の小早川らの軍勢は、新田勢に追いまくられて、あちこちに敗走していったので、義貞の率いる1万余騎は、東寺の小門の前に押し寄せて、一度に鬨の声をどっと上げる。(東寺は京都駅の南側にあるのはご存知の方も多いと思う。京都駅は七条通と八条通の間にあるから、新田勢がどの程度足利勢を押しまくったかは想像できるはずである。)

 義貞は坂本から出陣してくるときに、後醍醐天皇の御前に参上して、「天下の落ち着く先は、天皇のご運にお任せする。今度の戦においては何としても、尊氏が立て籠もっている東寺の中に矢の一本も射かけなければ、戻ってこないつもりです」と申し上げた、その言葉の通りに、矢の届く範囲までに敵を追い詰めたので、今はついに尊氏を追い詰めたと大いに喜び勇んで、旗の下に馬の足をとどめ、城(東寺)をにらみ、弓を杖の代わりにして立ちながら高らかに呼びかけた。「天下の乱がやむことなく、罪のない人民が安心して暮らすことのできない日々がずっと続いている。この戦乱のもとは2つの皇統の争いとは申しても、ひとえに義貞と尊氏卿の対立がその原因である。自分だけの功業を立てるために、多くの人々を苦しめるよりも、大将同士が一騎打ちをして戦争の決着をつけたいと思うので、義貞自らこの軍門に罷り越したのである。この言葉が偽りかどうか、矢を一本受けてみたまえ。」と、強弓に矢をつがえ、十分に狙いを定めて、弦音高く切って放つ。その矢は遠く飛んで、尊氏が座っていた陣幕の中、本堂の南西の柱に、突き刺さった。

 尊氏はこれを見て、「自分がこの軍を起こして、鎌倉を出発してから、主上(後醍醐天皇)を滅ぼし妄想とは全く思っていない。ただ義貞にあって、自分の怒りを鎮めようとするためだけである。したがって、義貞と自分とで一騎打ちをして戦いの勝敗を決めるというのは、もとより願うところである。その木戸を開け、打って出るぞ」というのを、尊氏の母方の従兄弟である上杉重能が「これはどうしたことでしょうか。楚の項羽が漢の高祖に向かって、一騎打ちをしようと持ち掛けたのに対して、高祖があざ笑いながら、「おまえを討つのには、刑に服した罪人がふさわしい」といったではありませんか。義貞の奴は軽率に敵陣に深入りして、退却のしようがないために、やけになってたけり狂っているにすぎません。ここで軽々しく姿を現すべきではありません、とんでもないことです」と鎧の袖を引っ張って止めたので、尊氏もやむなくこの忠義から出た諫言に従い、怒りを抑えて座りなおしたのである。

 義貞は勇猛な武将であり、その率いる士卒も士気旺盛ではあるが、いかんせん軍勢が少ないうえに、兵力がある程度そろっても、それを率いる指揮官が不足している。衆徒はともかく、戦闘に慣れないお公家さんまで動員しているというのでは、勝ち目は少ないのである。足利方は軍勢が多いから、一時的にある程度劣勢になっても、持ちこたえていれば、やがて新田勢が疲れてきた時に反撃すれば勝てるという見通しを立てている。それだけの見通しを持った部将が配下にそろっているというのが強みである。あと一歩のところまで尊氏を追い詰めた義貞であったが、東寺に籠っている尊氏の陣を崩すことはできない。この後、足利方の反攻が始まる。それはまた次回。

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