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『太平記』(236)

11月12日(月)曇り

 南朝の勢力が衰え、武家は公家を軽んじたため、北朝の朝儀も廃れた。とくに佐々木導誉は、些細ないさかいから延暦寺の門跡寺院である妙法院を焼き討ちするという暴挙に及んだ。延暦寺の強訴によって、道誉は上総へ流されたが、その配流の道行きは、物見遊山にでも行くような言語道断なものだった。そのころ、朝廷の祈願所である法勝寺が炎上するという不吉な前兆があった。果たして康永3年(南朝興国5年、1344)8月、後醍醐帝が病気に倒れられ、16日、八宮義良親王への譲位などを遺言して崩御された。〔歴史的事実としては、後醍醐帝の崩御は暦応2年(南朝延元4年、1339)のことで、康永元年(南朝興国3年、1342)に起きた法勝寺炎上よりも前の出来事である。〕 南朝の公家の落胆は大きかったが、吉野執行宗信が、諸国に宮方が少なくないことを説いて公家を励ました。12月、吉野では八宮が即位された(後村上帝)。

 即位に先立って11月5日に、先帝に尊号を奉った。在位されていた時の政治姿勢として、多分に醍醐帝の聖代を先例とされていらしたので、おくり名としてそれが最もふさわしいということで後醍醐天皇と諡し奉った。
 新しく即位された帝はまだ御幼少であった上に、先帝が崩御された後は、3年間の服喪期間中は政務をすべて摂政に委ねられ、自らは政務をとられない習わしであるので、天下の政務はすべて源大納言北畠親房が統率することとなり、洞院実世と四条隆資が執奏として帝と親房の連絡係を務めることとなった。〔実際のところ、北畠親房は常陸の小田城にあって東国の経営に専念していた。康永2年(南朝興国4年、1343)に彼は南朝による東北経営が失敗に終わったことで吉野に戻り、森茂暁『太平記の群像』によれば、しばらくは表面に姿をあらわさなかったようである。〕

 同年、12月27日に諸国の南朝に心を寄せる武士たちの手始めとして、新田義貞の弟である脇屋義助に綸旨を下されて、後醍醐帝の御遺勅が格別のものであったので、義貞の場合と同様に、南朝方の武士たちの恩賞その他のことについては、まず義助が差配してのちに帝に奏上するようにとの思召しが伝えられた。そのほか九州にあった征西将軍の懐良(かねよし)親王、遠江の国の井伊谷にあった妙法院(宗良親王)、兄である顕家の死後その仕事を継いで奥州の国司となった北畠顯信にも先帝の御遺勅にたがわず、引き続き忠義の戦いを進めるようにとの宣旨が伝えられた。

 越前にあった脇屋義助は、兄である新田義貞の戦死後、勢いが衰えていたとはいえ、各地の城郭にそれなりの数の将兵を配置しており、まだ勢力を保っていたので、「いつまでもこうしてはいられない。それぞれの城に分遣されている軍勢集めて、黒丸城(福井県福井市黒丸町)に立てこもっている斯波高経を攻めよう」と集まって軍議を開いていたところに、先帝崩御の報せが届き、茫然として、暗闇で松明を取り落としたような気分になった。そうはいっても、御遺勅に、諸国の他の武士に先んじて新田一族を頼りにするといわれていることのかたじけなさに奮い立ち、忠義の心をいよいよ心肝に刻み、何とかして斯波との戦いに勝利を得て、吉野の官軍の士気を高めたいと先帝の服喪期間の四十九日が過ぎるのを待ち受けたのであった。

 この2,3年というもの越前では、敵味方の城が30余か所あちこちに入り乱れて存在し、合戦の止むことがなかった。なかでも湊城(福井県坂井市三国町の三國湊にあった)は加賀、能登、越中、越前の4カ国の足利方の武士たちが攻めあぐねて引き上げたことがある城で、義助の家臣で剛勇で知られる畑六郎左衛門時能(ときよし)がわずか23人で立てこもっていた二町(200余メートル)仕法足らずの平地の城であった。「新しい帝が即位あそばされたはじめであり、天運が味方するときであるはずだ。みな早く城を出て各地で集合し、当国の敵を平らげて、他国へと打って出よう」と、大将である義助の方から連絡がされたので、7月3日、畑時能は、300余騎で湊城を出て、金津(あわら市北金津、南金津)、長崎(坂井市丸岡町長崎)、河合(福井市川合鷲塚町、足羽七城の一つ)、川口(あわら市指中)にあった12か所の城を陥落させ、首を切ること800余人、女性や3歳の嬰児まで残さずみな刺殺した。〔岩波文庫版の脚注にあるように、後醍醐帝の崩御が8月であるのに、越前では義助方の兵が7月に行動を起こしているのは矛盾している。吉野からの報せで発奮したというよりも、独自行動と考えるほうが無理がない。〕

 同じ月の5日に、新田の家臣で上野の武士由良光氏(群馬県太田市由良町に住んだ武士)が500余騎を率いて西方寺城(坂井市春江町木部西方寺)から出て、和田(福井市和田中町)、江守(福井市南江守町、足羽七城の一つ)、波羅蜜(福井市原目町、足羽七城の一つ)、深町(あわら市後山)、安居(あご、福井市金屋町、足羽七城の一つで、日野川と足羽川との合流点をのぞむ)の庄のうちに、足利方が築いていた6か所の城を2日間の間に攻め落とし、それぞれ入れ替わりに味方の兵を配置して守らせた。

 後村上帝の即位後の吉野の動きと関係があるかどうかはさておき、越前の宮方の武士たちが、脇屋義助を中心に再起をはかって動き出した。さらに呼応する動きも出そうな勢いである。これに対し斯波高経が、あるいは京都の尊氏・直義兄弟がどのように対応するかも注目されるが、それはまた次回以降に。
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日記抄(11月5日~11日)

11月11日(日)
 11月5日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど。
 全国高校サッカー選手権の神奈川県大会の決勝を見に行く予定なので、書けることを早めに書いておく。

11月5日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」は「いかにしてわれわれが自分を幸福にすべきかではなく、いかにしてわれわれが幸福に値いするものとなるべきかという教え」というカントの『実践理性批判』のなかの言葉を取り上げている。
 このコラムを担当している鷲田清一さんは、樫山欽四郎の翻訳を採用しているが、私の元同僚の1人が樫山の指導を受けたことがあり、臨終の床に就いていた樫山が「カントが…ヘーゲルが…」とうわごとを言っていた、自分たちはその域に到達できそうもないという話をしていたのを覚えている。樫山自身がカントの言う幸福に値いすべく努力を重ねていたということでもあろう。

 哲学といえば、この日の『NHK高校講座 現代社会』は「哲学と人間」という題目の話であったが、まことに浅薄な内容で、ソクラテスは当時の権力者たちによって裁判にかけられ、死刑となったなどと述べていたので、半ば以上呆れて聞いていた。2日の『倫理』で講師がソクラテスについて話した内容の方が、まだましであった。しかし、講師によって話の内容が違う…ということが聴講者が自分の頭で考えるきっかけになるかもしれない…と思ったりもしている。
 高校から大学の前半の段階の授業では、むかしの哲学者がどのようなことをいったかを教えるよりも、自分の頭をどのように使って自分が直面する問題を解決していくか…というようなことに取り組んでいくべきであろう。むかしの哲学者がどんなことをいったかは、興味のある生徒・学生が自分で(先生の指導を受けることも必要かもしれないが)本を読んだり、文章を書いたりして取り組めばいいのである。

11月6日
 『朝日』『日経』の両紙が、東京国際映画祭について総括する記事を載せていて、映画祭としての性格があいまいで、後発の釜山映画祭に比べて人気・知名度などの点で引けを取っていること、コンペの出品作の質において日本映画が見劣りがすることなど、同方向の指摘をしていたのが気になるところである。

 昨日、今日と『NHK高校講座 現代文』では「マジ?』という「若者言葉」について考察した文章を読んでいるのだが、この問題と関連して、荻生徂徠の「なるべし」と、伊勢貞丈の「あるまじ」という江戸時代の学者の書いた2編の書物が紹介されていたのが興味深かった。現代文を読み解くにも、古典の素養が必要だということであろうか。

 同じく『NHK高校講座 英語表現Ⅰ』の”You know what"のコーナーでアメリカの高校の部活の話が出てきた。アメリカではシーズンごとに違う部活を選べること、スポーツの場合レギュラーと準レギュラーのそれぞれのチームが、それぞれ対校試合を行うことなどが日本と違うという話だった。ブラジル出身のセルジオ越後さんが『補欠廃止論』(ポプラ新書)という本を書いているが、試合に出られない部員がスタンドから応援するというのではなくて、彼らも何らかの形(たとえば2種のリーグ戦を拡大する)で試合に出られるようにした方がいいという議論には賛成する人が少なくないのではないかと思う。もっともそうなると、日程の組み方が難しくなるし、指導者の負担が大きくなるという問題もあるが…。

11月7日
 『日経』の文化欄に植月佐広さんという人が「角土俵 ノコッタノコッタ」という文章を書いている。岡山県の勝央町の植月地区に室町時代後期に造られた四角い形の土俵が残っており、日吉神社の秋祭りの余興として奉納相撲が行われているという。
 四角い土俵というと、南部の角土俵というのが有名で、私が子どものころに、8代目の春日野親方(大正時代の強豪横綱栃木山守也。春日野は9代目が栃錦、10代目が栃の海と元横綱の親方が継承したが、現在の栃の和歌は関脇どまりであった)が相撲雑誌で、南部の角土俵で相撲を取ったという話をしているのを読んだことがあり、そのころまでは残っていたようであるが、現在は廃れているらしい。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
And what is a weed? A plant whose virtues have not been discoverd. (from Fortune of the Republic)
      ―― Ralph Waldo Emerson
(U.S. philosopher, poet and essayist, 1803- 82)
(それでは雑草とは何か。そのよさをまだ発見してもらっていない植物のことである。)

11月8日
 『朝日』の朝刊の「記者有論」という欄に真鍋弘樹記者が「在住外国人250万人 やさしい日本語 社会のため」という文章を書いている。相手が外国人であろうと、日本人であろうと「やさしい日本語」を使う方がいいのは当然である。しかし、真鍋さんが言うように「主語を略さず、難しい文法は使わない」ように心がけることが、「やさしい日本語」につながるかどうかについては疑問がある。そもそも、日本語文法には「主語」というものがないのではないかという人が少なくないのである。たしかに、私が学校で習った文部省文法には主語=述語の関係というのがあったが、『日本語が亡びるとき』で水村美苗さんは日本語には主語がないということを繰り返し主張している。

11月9日
 『日経』の文化欄では新しく『大航海時代の絵画 十選」という連載が始まった。第1回目に取り上げられたのは茨木市の千提寺(せんだいじ)に伝えられた聖フランシスコ・ザビエルの画像である。千提寺のある地域はキリシタン大名だった高山右近の領地であったために、住民たちの間でキリシタンの遺物が保存されていたとのことである。現在はキリシタン遺物史料館が建てられているらしい。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
The best preparation for good work tomorrow is to do good work today.
      ―― Elbert Hubbard (U.S.author, 1856-1915)
(明日もいい仕事をするための最良の準備は、今日いい仕事をすることだ。)

 『NHK高校講座 倫理』では「プラトン 永遠なるもの」という主題を取り上げた。主としてイデア論と哲人政治についての説明。ソクラテスとプラトンがデモクラシー(民主政治)の批判者であったということをもう少し詳しく説明してもよかったのではないか。彼らの批判に真剣に向き合ってこそ、デモクラシーはより輝かしいものになるはずである。

11月10日
 『日経』の土曜日の版に本郷和人さんが連載している「日本史ひと模様」では、このところ幕末明治期の人物を取り上げていたのが、今回は加賀百万石の礎を築いた前田利家について論じている。利家は織田信長と出会わなかったら、頭角を現すことがなかった、運のいい人物だという評価に対して、佐々成政のように信長に取り立てられて大名になったが、その後没落した人物と比べて、利家は自分がつかんだ運をさらに引き寄せていったところに見るべき点があると論じている。そういえば、松本清張が利家と成政を対比的に描いた小説を書いていたのを読んだことがある。

 同じく『日経』に「第4回東アジア文学フォーラム」で日中韓の作家たちが討議した内容が紹介されていた。その中で魯迅に対する評価に違いが見えたという郷原信之さんによる記事があったが、違いは郷原さんが書いているように国情の違いによる部分もあるだろうが、それ以上に魯迅の作品をどの程度読み込んでいるかということも関係しているのではないか。中国からの参加者である甫躍輝さんが述べているように魯迅は「読解が難しい」ということを、日本側の参加者がどれだけ理解していたかということも問題ではないか。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第41節の横浜FC対ファジアーノ岡山の対戦を観戦する。開始早々の前半3分に相手ゴール前に迫った横浜のレアンドロドミンゲス選手が絶妙のシュートを決めて1点を先行。その後も追加点の好機はあったが、そのまま1‐0で前半は終わる。後半49分にまたもレアンドロドミンゲス選手がゴールを決めて点差を広げた。その後、岡山の猛反撃にあってあわや引き分けという場面もあったが、GK南選手の好セーヴもあり、2‐1で勝利し、勝ち点3をあげて暫定3位へと順位を上げた。

11月11日
 スイスに本部のある国際語学教育機関「EFエデュケーション・ファースト」が実施した英語力測定テストによると、日本の英語力は英語を母語としない88カ国中49位で、5段階の下から2番目の「低い」という水準であり、「日本と他国との差は相対的に開きつつある」との指摘を受けているという。(『朝日』の藤原学思記者による記事) 任意の試験であり、試験の性格も受験者の中身もわからないから、確定的なことは言えないが、会話中心に重点を移しているはずの日本の英語教育改革がこれまでのところ、奏功していないという議論に勢いを与える結果であろう。

 予告通り、ニッパツ三ツ沢球技場で平成30年度(第97回)全国高校サッカー選手権の神奈川県予選の決勝を観戦した。三浦学苑と桐光学園の対戦である。既に10回全国大会に出場している桐光と、2度目の決勝進出(全国大会出場なし)の三浦であるが、高校総体の神奈川県予選では三浦が1‐0で勝って第一代表、桐光が第二代表ということであった。とにかく第一シード、第二シードとして二次予選の3回戦から出場した学校同士の対戦で、好試合となることを期待していたのだが、開始早々に桐光で2年生ながら背番号10をつけているFW西川選手がシュートを決めて先制、その後も桐光が得点を重ね、3‐0とかなり一方的な試合展開で三浦を下したのは、ちょっと期待外れだった。桐光がチームとして試合を進めていたのに対し、三浦はどうもバラバラな感じで、そのあたりに点差が開いた原因があるように思った。それにしても、会場が満員になるというわけでもないのに、入場者が長い列を作って並ぶということが毎年繰り返されているのは、どういうことか。主催者の工夫努力を促したい点である。

あの頃

11月10日(土)晴れのち曇りのち雨

あの頃

私鉄の駅と
国鉄の駅とを
(まだあの頃は国鉄だった)
つなぐ
狭い通路の
そのまた先の
階段を
毎朝
昇っていた
会社勤めを
始めたばかりだった
昇ってゆく流れと
下ってゆく流れ
人の流れは
あわただしく
活気に満ちていた

向こう側を
急いで歩いている
人たちの中に
ときどき
見覚えのある顔を見かけた
大学時代に
一緒にデモ行進をしたり
アルバイトで
一緒に荷物を運んだりした
そんな見覚えのある顔を
見かけた

みんな急ぎ足だった
私も急ぎ足だった
一緒に過ごした時と
経験とが
思い出したくない過去であったかのように
お互いに見知らぬ同士のような
顔をして通り過ぎた

そんな時代もあっという間に
過ぎてしまった
何年
十何年
何十年という
年月が過ぎた
急ぎ足で歩いていたころのことは
むかし話で
今は痛む足を引きずり
ゆっくりと歩く
過去
そのまた過去
そのそのまた過去のことを
様々に思い出しながら

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(4)

11月9日(金)曇り後雨

 小学校の学習指導要領の改訂により、2020年から小学校でも英語の授業が教科としての扱いを受けるようになる。それどころか、幼児教育の段階でも英語学習を導入するところが現れている。そのような新しい動向に対し、期待を抱く一方で、不安を感じる保護者は少なくない。この本は、そのような保護者の方々に対してこの新しい動向にどう向かい合っていくべきかを語りかけようとしている。

 「第2章 英語教育史から探る」は、江戸時代から現代にいたる日本人の英語と英語教育への取り組みをたどり、英語教育が伝統的に抱えてきた問題点とそれに対するこれまでの対策を概観している。第1章が外国語学習における母語での思考力の果たす役割の重要性、そのためには「読む力」の支えが不可欠であること、学習における動機づけの大切さなどを論じていたのとガラッと様子が変わった感じであるが、外国語学習に限らず教育が経験に基づく活動である以上、これまでの英語をめぐる膨大な学習経験を無視していいということはないのである。今回は江戸時代における英語圏諸国の人々との出会いと英語学習の歴史を扱った部分を見ていくことにする。

 英国船がオランダ国旗を掲げて長崎に入港して奉行所と長崎の町を威嚇した、1808(文化5)年のフェートン号事件に危機感を覚えた江戸幕府は長崎のオランダ通詞に英語とロシア語の習得を命じる。これが日本における英語学習の始まりと言われる。
 翌1809(文化6)年に長崎のオランダ商館にアイルランドの英国軍に4年間勤務したことがあるというブロムホフというオランダ人が赴任してきたので、彼を英語教育係として通詞たちの英語学習が始まった。はじめは大人数での授業を行っていたので、学習効率が悪く、のちには生徒を6人に絞っての教育に切り替えられた。1811(文化8)年には学習者たちの中で最年長であった大通詞本木庄左衛門正栄によって『諳厄利亜興学小筌(あんげりあこうがくしょうせん)』全10巻がまとめられて奉行所に献納された。日本で作成された最初の英語の手引書である。ここで示されている英単語の発音にはオランダ語の影響が強くみられるが、英語の本を読んだり訳したりするには差支えのない内容であった。わずかの年月でこれほどの事業が達成されたのはおどろくべきことである。

 1848(嘉永元)年にはラナルド・マクドナルドという米国人が非公式に来日している。スコットランド人の父とネイティブ・アメリカンの母の間に生まれた彼は日本を父祖の国だと考えて、入国を試み、北海道に漂着し、長崎に送られた。この時取り調べの通訳をしたのが、オランダ通詞の森山栄之助であった。彼は既に1845(弘化2)年にアメリカの捕鯨船マンハッタン号が浦賀に入港してきたときに、通訳を務めた経験があった。マンハッタン号の船長は、森山がはなはだジェスチャーに巧みであったと記している。森山はこのマクドナルドから英語を学ぶことを思いつき、仲間の通詞たちとともに、学習を開始した。この時の目付け役となったのが、本木庄左衛門正栄の息子の本木庄左衛門久美であったという。〔日本における活版印刷の開祖とされる本木昌造は久美の養子である〕.マクドナルドは在日わずか10か月でアメリカに送還されるが、その間に通詞たちが学び取った成果が発揮される場面がやってくる。

 1853(嘉永6)年、ペリー提督の率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀に来航、外交交渉に向かった日本の船はペリーの乗った旗艦サスケハナ号をしっかり見分けただけでなく、通詞の堀達之助がI can speak Dutch.といったのをアメリカ側は聞き取り、記録に残している。もっとも、堀が発した英語はこれだけで、あとの外交交渉ではオランダ語を使った(ただし非公式の場では英語を使うこともあったようである)。ペリーの一行はこの訪日では開港を要求しただけであったが、翌年の来日の際にはいよいよ条約の締結を迫る。この緊迫した場面では堀以外にも何人かの通詞が起用され、その中には森山栄之助も含まれていた。ペリーの通訳者であるサミュエル・ウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』では「ほかの通訳がいらなくなるほど英語が達者で、おかげでわれわれの交渉は大助かりだ。」(69ページに引用)とその能力を高く評価されている。
 森山が首席通訳を、堀達之助が補佐を務めた外交交渉の結果、1854年3月に日米和親条約が締結される。「その英語力でアメリカ人を驚かせた森山も、正式な交渉に際してはオランダ語で綿密なやりとりを行いました。より自信のある言語を使うことの重要性を言語の専門家として熟知していたのでしょう。」(70ページ) その後の諸外国との交渉においても通詞の果たした役割は大きい。「外交の場において通訳者の役割が重要であるのは現代でも同じです。プロの通訳者を介さなければ、国益を著しく損なうことすらありえるのです。」(71ページ)

 ほぼ同時期に、別の形で英語を学び、身に着けた日本人がいる。漁師として乗り込んでいた漁船が難破して、アメリカ船に救助され、その船長に見込まれてアメリカで7年を過ごし、1851(嘉永4)年に帰国したジョン万次郎こと中浜万次郎である。彼は帰国後、土佐藩や幕府に出仕するなどした後、明治政府に招かれて開成学校で英語を教える。しかし、彼の手紙を見ると、高度な内容を伝えることはできていないように思われる。「英語を話したり聞いたりする環境に身を置くだけでは、外交や学問など公式の場で使えるようにならず、読み書きを意識的に学ぶ必要があるのです」(72ページ)と鳥飼さんは論じている。

 長崎の通詞たちがアメリカ人たちをうならせるほどの英語を話すことができたのは、日ごろ「読み書き」の勉強を営々と積み重ねてきたからではないかと鳥飼さんは言う。このような勉強はオランダ語の勉強方法を継承したものであったから特に目新しいものではない(福沢諭吉の『福翁自伝』などを読むとわかるが、蘭学塾の勉強方法は漢学塾とそれほど変わるものではなかったということも知っておく必要がある。福沢の師である緒方洪庵は、蘭学を学ぶ前に必ず漢学を学べと言っていたそうである)。

 現代の日本では、相変わらず「日本人が英語を話せないのは、英語教育が読み書き・文法に偏っているからだ」(74ページ)という批判が渦巻いている。実際のところは、1989年の学習指導要領改訂から、学校英語教育は「会話」中心へと方向転換しており、「オーラル・コミュニケーション」に大きく時間を割いている。現在の英語教育は「読む」「書く」よりも「話す」「聞く」の方に比重を置いているのである。ところが、この現状を認識せずに、学校現場では「文法訳読」の授業が続いているという思い込みが強く、オーラル・コミュニケーション偏重の傾向がますます強まっているという。

 このあたり、私としては、実際に中学や高校の英語の授業がどのようなものか知らないので、何とも言えないし、実際の授業も学校や先生の個性によって千差万別ではあるだろう。ただ、会話の学校や教室に出かけるとわかることだが、会話の前提として、かなり作文に習熟することが必要である。そこのところをあまり問題にせずに、ただ日常のあいさつだけを練習していても実用性は低い。そもそもどういう場合に英語で会話する必要が生じるかということを考えずに、ただ、英語、英語といっても仕方がないのである。会話が必要になる場面というと、主として観光とビジネスであって、それぞれに会話の内容についての工夫を迫られる(ビジネスの方が工夫の必要性は大きい)ことも忘れてはならない。
 ラジオの英語番組を聞いている限り、確かに著者の言うような傾向は否定できないが、『ラジオ英会話』、『遠山顕の英会話楽習』などの番組を聞いていれば、文法もなおざりにせずに番組が構成されていることに気づくはずで、教育の現場では、コミュニケーション偏重に対する自覚的な反省も生まれているようにも思われる。また、『NHK高校講座』の『コミュニケーション英語Ⅱ』、『コミュニケーション英語Ⅲ』を聴いていると、英語のコミュニケーション教育の実態や問題点がある程度把握できると思うので、英語教育の政策に関わっている人もせめてこのあたりの番組くらいには耳を傾けていただきたいという気がするのである。

 「江戸時代の英語教育史を振り返ると、外国語、とくに英語のように日本語と言語体系がまったく異なる習得するためには、読み書きが不可欠であることを、あらためて思い知らされます。」(75ページ)と著者はこの項を結んでいる。それはそうだが、漢学や蘭学など、異言語に取り組む学問の蓄積があったことが、日本人の英語学習をかなり迅速に進めることに貢献したことも否定できないのではないか。次回は明治時代における英語教育の問題を取り上げるが、現代の英語教育の直面する問題のほとんどがこの時代に出尽くしているのではないかという思いにとらわれるような内容となる…ということを予告しておく。

 m.k.masaさんのブログ「幼児教育あれこれ」で、当ブログによる鳥飼さんのこの本の紹介のことに触れていただいた。m.k.masaさんもこの本を読まれて、英語学習に限らず「動機づけ」の重要性を感じられたようである。英語のことはさておいても、ご自分の幼稚園での教育実践にこの読書の経験が何らかの形で生かされていくことを期待したい。

井伏鱒二『七つの街道』

11月8日(木)晴れのち曇り

 11月6日、井伏鱒二『七つの街道』(中公文庫)を読み終える。1956年6月号から1957年4月号までの『別冊文藝春秋』(隔月刊)に掲載された「篠山街道」、「久慈街道」、「甲斐わかひこ路」、「備前街道」、「天城山麓を巡る道」、「近江路」の6編に、それらより早く同誌の1952年12月号に掲載された「『奥の細道』の杖の跡」を加えた7編で構成されている紀行文集である。執筆時の井伏は50代で、「新潮文庫版あとがき」の中で、「自分としては旅に出たかったから・・・旅行記を書くために旅に出たのでなくて、旅に出たいために旅行記を書くことにしたのであった」(252ページ)とこの本のなりたちを語っている。旅が好き、釣りが好き、骨董が好き、文学が好き…の井伏がそれらの楽しみを盛り込んだ紀行文を集めたものであり、その中にあまり好きでないものがある読者にとっても面白く読ませるだけの腕が存分に発揮されている。ここでは最初の2編:「篠山街道」と「久慈街道」を取り上げる。

 「篠山街道」は「その昔、一の谷へ駆けつけた源九郎義経の足どりの跡を巡る旅」(10ページ)である。古い軍記物語に京を出発した義経は「二日路を一日に打たせ」て丹波路を進み、一の谷に迫ったと記されていることをめぐり、井伏はこれは急行軍を形容した表現だと書いたことがあるが、その際に読者から義経の行軍を実際に書きとめたものだと反論の手紙をもらったという。どちらが正しいのかを自分で篠山街道を歩いてみて、地元の人の意見を聞き確かめようという。丹波路の中でも篠山街道は武将たちが大急ぎで通って行った道だから、篠山街道を選ぶというのがこの道を選ぶ理由である。ところが途中で、篠山街道をそれて園部まで行き、釣りをしたり、園部城址を訪問したりして一泊する。福知山街道を北に進んで「和泉式部の墓」を見て、古墳、キリシタン大名内藤ジョアンの八木城址、亀岡の出雲神社(『徒然草』に登場する、丹波一宮である。宮司とは大学時代の友人だったというが、会わずじまいになってしまう)を訪れ、亀岡城址は素通りして、保津川を舟で下る、西国二十一番の穴太寺に立ち寄る。ここの住職が子どものころ出口王仁三郎と一緒に勉強したと思い出を語る。住職が本尊を拝観するように勧めるのを断って、寺を辞してから弁当を食べる。食べたあとは思い出したように篠山街道を西へ急ぐ。

 思い出したように義経の行軍をめぐる記録と推測を交えた記述が展開される。この時、義経に見いだされたという鷲尾三郎経春について、彼が修験者であったろうという推測など、興味深いものである。急いだといいながら、丹波立杭焼の窯元の窯場によって陶芸談義にふける。地元の人の話を聞いたところでは、幕末のころ立杭村から京都まで徳利を運ぶのに2日かかったが、そのことから考えると騎馬であれば、1日でやってくるのは不可能ではない。だから、井伏と読者の論争は読者の方の勝ちということになるはずであるが、そのことには触れずに、義経の軍は夕日を浴びながら行軍したという自分の推測が正しかったということだけを述べているのも井伏らしいといえそうである。

 篠山で泊まった旅館の近くに猪料理を出す店があるのを話題にしたところ、その料理店から猪の牙をもらう。「私の貰ったのは三十貫の猪の牙で、先はにすんぐらいだが根は長さがその三倍近くもある。牙は歯ぐきに深く頑丈に根をおろしていたようだ。こんなに歯の根が深くては、猪でも病気になることがあるから、歯槽膿漏の時大変だろうと気になった。」(33ページ)というのも井伏らしい気のまわし方である(それをいうのであれば、人間に鉄砲で撃たれて、料理されて、食べられることの方がよほど気の毒である。)
 その後、デカンショ節をめぐる考察、篠山城についての議論が展開される。井伏が城づくりについていろいろと勉強していたことが、のちの『武州鉢形城』などにつながっていくのだなと興味深く読み進んだ。

 「青森県に帰省中の三浦哲郎君から、都合がついたら久慈街道を見物に来ないかと云って来た。」(40ページ)と「久慈街道」は書き出されている。1961年に「忍ぶ川」で芥川賞を受賞する三浦哲郎はこの時期まだ、井伏のもとに出入りしている文学青年であった(三浦はもともと、同じ青森県――といっても津軽の出身である太宰治に師事していたのだが、太宰の死後、いわば大師匠である井伏のもとに出入りするようになったということらしい。早稲田大学の仏文に学んだという点でも三浦は井伏の後輩である)。この紀行文が版を重ねているうちに、三浦はしだいに文学者として独り立ちしていく。この文庫本の巻末に三浦自身の「久慈街道同行記」というエッセーが掲載されていて、影で「推敲魔」と言われていたという井伏がこの書き出しをどのように書き換えていったかをはじめとして、「久慈街道」取材の舞台裏が語られているのも興味深い。

 実際は、旅行先を探していた井伏の方から、三浦にどこかおまえの郷里にめぼしいところはないかと問い合わせてこの紀行が成立したのだが、そんなことはおくびにも出さない。冒頭の文に続いて「久慈街道は青森県の八戸から岩手県の久慈に至る往還で、江戸時代の名物である百姓一揆がたびたび八戸の城下に向って進んだ道路だそうだ。」(同上)と三浦から聞いたであろうこの街道の特徴について簡潔に語る。

 八戸では石田家という旅館に泊まる。三浦が書いているが、ここの主人というのは慶応の仏文に学んだという知識人である。そこで中里さんという郷土史家を紹介され、彼が持ってきた資料の中から幕末(天保年間)に八戸藩で起きた百姓一揆の始終を記した『野沢ほたる』と、その少し前に東北を旅行した『高山彦九郎日記』その他を借りる。『高山彦九郎日記』は寛政2年(1790)の旅行の記録であるが、その以前の天明の飢饉のあとの東北の農村の荒廃した様子が記されている。天明の飢饉の後でも東北地方では凶作が続き、人々の暮らしは困窮するが、文政年間に八戸藩が野村軍記という人物を登用して強行した仕法改革はそれに追い打ちをかけるもので、ついに天保5年に一揆が勃発する。一揆はまず久慈の代官所を包囲し、外出先から慌てて駆け戻った代官の説得に応じずにさらに北上、別の代官が差し向けた一隊も蹴散らして八戸城下にたどりつき、城を包囲する。大手門の目付け役が対応して、一揆の要求の大部分を受け入れ、ようやく沈静化に成功する。野村軍記は解任されて謹慎を命じられ、それが解けたという知らせが届いた時には自殺していたという。野村について、『野沢ほたる』には<奥州一の馬鹿侍>としてその苛斂誅求ぶりを批判している一方で、『八戸見聞録』という別の本にはその人物を絶賛する記述があるという。井伏は「人の伝記や藩の歴史は信用できない場合が多い。」(60ページ)と言い切っている。一揆の要求項目を三浦に頼んで、久慈一帯の方言に直してもらっていることから見ると、井伏は一揆の方により多く同情しているように思われるが、野村軍記や八戸藩の武士たちを憎んでいるわけでもないようである。

 丹波篠山街道は、司馬遼太郎も訪れて、その『街道をゆく 4』に旅の様子が記されている。また「久慈街道」についても『街道をゆく 3」で取り上げている。おそらく、司馬は井伏のこの紀行を読んで参考にしているはずであるが、そんなことは少しも匂わせていない。18世紀の終わりごろに凶作が続いたのは、浅間山の大噴火のせいだという話を聞いたことがある。人によっては、フランス革命の原因の一つとなった凶作も、この大噴火のせいだと主張するくらいである。ここでは司馬遼太郎の例を挙げたが、他にも篠山街道や久慈街道を歩いて紀行文を残した人は多いはずで、そうした紀行をできるだけ読み比べたうえで、自分でも実地を踏査してみるのもいいだろう。読まずに旅行してもいいとは思うが、そうすると見逃しが多くなるはずである。

 東北地方には三浦という姓の一族が少なくなく、それは頼朝の挙兵に従って鎌倉幕府の草創に貢献したが、北条一族のために追われた相模の名門三浦氏の後裔であるといわれる。三浦哲郎の来歴もそのあたりにあって、周辺に追いやられた人々に興味を持ち続けた作家である井伏が三浦に目をかけていたのもそのためかもしれないとも思う。野村軍記が江戸の四ヶ峯という力士を八戸藩のお抱え力士にしたという話を井伏は書きとめているが、この件をめぐっては別の機会に詳しく書くかもしれない。
 
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