ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(26-1)

8月17日(木)曇り

 ベアトリーチェに導かれて、天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、それぞれで彼を迎えた魂と会話することによって、心の中の迷いを解き、自分の信仰を固め、自分が見聞きしたことを地上に戻って叙事詩として世に問うことを決意するようになる。至高天から土星天に降りている「ヤコブの階段」を上って、恒星天に達した彼はキリストとマリアの天国への凱旋を見、さらにペテロから3つの対神徳の中の「信仰」について、大ヤコブから「希望」についての試問を受け、夫々の答えを賞賛される。すると第3の試問者となるはずの(福音書・黙示録の書き手とされる)ヨハネが現れ、先の2人の試問者に近づく。ダンテは(一時的に)視力を失う。

視力が失われたことで私が不安を感じていた間に、
その視力を消失させた燦然と光を発する炎から、
私の注意を引きつける言霊が発せられた、
(388ページ) 「炎」はヨハネの魂である。彼はダンテに次のように問いかける:
「・・・
・・・汝の魂はどこに
突き刺さっているのか。つけ加えるが、理解しておくがよい、
視覚は汝の中で見失われているだけで死んではおらぬことを。
(同上) ヨハネは、愛とは何かではなくて、彼が何を愛しているかから、その試問を始めている。
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久野収 鶴見俊輔『現代日本の思想――その五つの渦――』(4)

8月16日(水)雨が降ったりやんだり

 この書物は「五つの渦」の最初のものとして、<白樺派>の思想(運動)を取り上げている。この思想(集団)は明治の末に『白樺』という雑誌を発行して以来、大正・昭和を通じてそのよりどころとなる雑誌は変わったものの、運動としてのまとまりをもちつづけ、活動を継続してきている。著者(ここでは鶴見)は、<白樺派>の人々が、「宇宙の意志が、人間の幸福を計ってくれるという信仰をもつ」(4ページ)と指摘している。そしてこの派の代表的な人物の1人である志賀直哉の小説『暗夜行路』の一節を引用しながら、「宇宙の意志と自分の意志との調和を、実感によって知る。この実感が認識方法の根本になっている点こそは、日本に土着の観念論としての、白樺派の特色である」(5ページ)と言い切る。
 「宇宙の意志があるという世界観、その宇宙の意志を実感によって感じとるという認識論、宇宙の意志に沿うて事故を生かすことだけを考えればよいのだという倫理、したがっていろいろな宗教の道すじができるので、どれにたいしても敬意と親しみをもつのがよいという寛容な宗教観、それらが白樺派の哲学の背骨である」(8ページ)という。

 では、そのような哲学に基づいて、<白樺派>の人々はどんな仕事をしたのか。著者は<白樺派>について「実りの多い観念論」という特徴づけをした。「観念論といえば、それだけでもう完全に実りなき思想ときめてしまう分類法を訂正することが、この本の一つの眼目だからだ」(8ページ)という。この書物が書かれたころ、そしてそれからだいぶたってからでも観念論(×)、唯物論(○)という単純な二分法を振り回す連中が少なくなかった。私自身もそういう考えに囚われていた時代があったのだが、それから抜け出してしばらく経ってのこと、依然として唯物論(○)と考えていた知人が、川端康成が自殺した際に、「それ見ろ、観念論者は自殺するのだ」とわたしに向かっていったのを覚えている。この発言にどれだけ論理の飛躍が含まれているか(川端康成は哲学的に見て観念論者なのか? 観念論者は自殺するという必然的な理由があるのか? 自殺するのは思想的な破たんの結果なのか? それは道徳的に嫌悪されるべきことなのか?…)をご本人が真剣に考える間もなく、病死してしまったのは彼のために誠に惜しまれることである。

 「白樺派の実りの第一は、お互いの成長を助けるグループをつくることに成功したことである。このことは、近代の日本の歴史にめずらしい」(8ページ)。これは既に繰り返されてきたことであるが、鶴見自身が、『思想の科学』のグループの一員であっただけに、そのグループを持続させようという一念から、<白樺派>に特別に関心を向けたことは容易に推測できる。「このことは、近代の日本の歴史に珍しい。大正、昭和の数多くの同人雑誌のグループは、たがいに傷つけあい、最後は、売り出したものの分派と売り出し得なかった分派とにわれておわるのがつねであった」(8ページ)という。
 理想と向上心とに燃えるグループにおいては厳しい相互批判がかわされることが少なくない。惟は戦後の話になるが、谷沢永一が開高健らと発行していた同人誌『鉛筆』において、合評会は盛んになったが、同人が批判を恐れて萎縮してしまい、創作活動が沈滞して結局休刊(廃刊)のやむなきに至ったと回想し、適当な仲間ぼめの必要性を説いているのは説得力に富む。同人といっても赤の他人である。彼らがその後、参加した同人雑誌『文学室』では議論はほとんどおきなかった代わりに、けっこう創作活動は進んだという。『白樺』の成功は、同人の大部分が学習院という特権的な学校の卒業者であり、恵まれた境遇にあったので、夫々の文学館や生活観をとげとげしくぶつけ合うようなことをしなかったということがあるだろう。環境が似ていることは相互理解のための有利な条件である。
 戦後に発足した『近代文学』の特に第一次の同人など長くその結合を保ち、お互いの成長を助けるグループをつくることに成功した例はないわけではない。彼らの場合には、戦争や左翼運動からの「転向」などをめぐって共有できる経験と感情があったことが大きいのではないか(同人を無原則的に拡大したため異質な分子が入り込んで文学運動としての純粋性が乱れたというその後の経緯もある)。
 海外に目を向ければ、英国のブルームズベリー・グループのような例もある。エドワード・モーガン・フォスターやリットン・ストレーチーらの文学者をはじめ、経済学者のケインズや哲学者のラッセルを含んで、先行するヴィクトリア時代の文化や精神を批判したこのグループの場合は、メンバーがケンブリッジ大学の卒業生であること、先輩である批評家のレスリー・スティーヴンのもとに集まったというような集合の核が合った(スティーヴンの2人の美しい娘、ヴァネッサ・ベルとヴァージニア・ウルフがお目当てで集まっていたという説もある)。<白樺派>のグループが長く続いたのは、経験とそこから生じた勘定の共有、更にそこから生まれたお互いを尊重する気持ちが続いたからであろうが、それがなぜかに踏み込むのは難しいらしく、あまり具体的な考察は展開されていない。

 川端康成の名前を出したが、この本のⅢ「日本のプラグマティズム――生活綴り方運動」には、明治末年の唯美主義者、芸術至上主義者であった鈴木三重吉、永井荷風、木下杢太郎、谷崎潤一郎らが芸術についての潔癖性を保つことで、「ある一線以上に政治に屈服することなく生きた」(81ページ)ことを、川端の属した<新感覚派>を含む昭和の芸術至上主義者と対比させている箇所がある。

 自宅のパソコンの調子が悪く、外の機械を借りて、どうやら入力を完成させている状態である。そろそろ買い替えを考えているのだが、いまひとつきっかけがつかめない。

司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(3)

8月15日(火)雨が降ったりやんだり

 1971年に司馬さんは韓国を訪れる。大阪で生まれ育ち、子どものころから朝鮮人とその文化(遺産)に接してきたために、韓国(朝鮮)は強い興味を抱き続けた国である。さらに、終戦直前に、戦車隊の小隊長として、この国を鉄道で通過した記憶もある。
 5月15日に伊丹空港を出発して、空路釜山に向かい、そこでガイドの任(イム)さんに迎えられる。彼女は有能な女性であるが、司馬さんが選んだ旅先が異例のものばかりなので、大いに当惑している。近世に対馬藩が築いていたという倭館の痕跡を見るのが目的の一つであったが、壬辰倭乱(秀吉の朝鮮の陣)の際に毛利秀元が築いた城の後(倭城)に案内される。城跡は一時動物園になっていたのだが、今はそれも廃園になっている。釜山の街を歩いていると見覚えのある通りがあり、どうも戦車隊の小隊長だった時に通った道路のようである。方向音痴の司馬さんは他の戦車にはぐれて、通行人に道をききながら目的地に達したために、上官から文句を言われた記憶もよみがえる。

 司馬さんが李舜臣(イ・スンシン)の銅像を見たいというので、任さんは竜頭山(ヨンドウサン)公園へと案内する。李舜臣は壬辰倭乱の際に朝鮮の水軍を率いて日本と戦い、「物理的には八割方の制海権を確立して、全般の戦局に重大な影響を与えた人物である」(52ページ)。「李朝500年の間、韓国官界の大官というのはいわばろくでもない連中が多い。が、武科出身の武臣ながら、李舜臣ばかりはきわだって高雅清潔で、しかも死に至るまでこの民族の大難のために挺身し、さらにその業績をみても文章を読んでもその功を少しも誇るところがない」(同上)。家人は韓流の時代劇が好きでよくお付き合いさせられて見たものであるが、確かに朝鮮時代の官僚というのはろくでもない連中が多かったというのはよくわかる(それに比べると、在野の学者の方にましなのが多いという印象もある)。

 日本人は昔から水戦が不得意で、その代わり陸上に上がると、その強さは明や朝鮮側の手に負えなかった。朝鮮の役における豊臣軍も同様であった。戦争の初めのころ、朝鮮の水軍は実に弱かった。このため、この大難に対処するには李舜臣の出馬を請うしかないと考えた元均という将軍が数度使いを出したが、朝鮮の官界の複雑な事情を知っている李舜臣はなかなか首を縦に振らなかった。しかし、国難ということでついに立ち上がり、艦隊を率いてさまざまに作戦し、玉浦(オクポ)の海戦で藤堂高虎の水軍を覆滅した。
 引き続き釜山付近の唐浦(タンポ)の海戦でも勝利を収めたが、玉浦でも唐浦でも彼は被弾して軽傷を負っている――ということは、自ら先頭に立って指揮したのであろうと司馬さんは推測する。ところが、その後、別に功を賞せられることなく、牢に入れられてしまう。「まことに李朝の官界というのは苛烈で反目嫉視が多く、やることがじつにめめしい。」(54ページ)
 再度の役(日本でいう慶長の役)の時には李舜臣は牢にいた。朝鮮の水軍が瞬くうちに惨敗したために、彼は牢から出されて戦うことになる。明からは陳璘という男が大規模な水軍を率いて応援にやってきていたが、舜臣はこの男と対立せず、「戦功はみなあなたの名前にしますから、指揮は私にゆだねてほしい」と申し入れた。舜臣の力を知っていた陳璘は喜んでこの取引に応じ、自分の明艦隊も李舜臣の指揮下にゆだねた。これによって李舜臣は露梁津(ノリャンジン)の海戦を戦い、大いに日本水軍を破ったが、戦闘中に、銃弾によって左脇を射抜かれ、戦死した。

 「明治後、海軍を創設してまだ自信のなかったころの日本海軍は、東洋が出した唯一の海の名将として李舜臣が存在することに気づき、これを研究し、これを研究し、元来が敵将であった彼を大いに尊敬した。」(55ページ) 司馬さんはその一例として、日本海海戦の際に李舜臣将軍の霊に祈ったという川田功という少佐の文章を引用している。
 むろん、韓国が独立してから、民族的英雄として李舜臣が大きくとりあげられ、ソウルにも釜山にも銅像が建てられた。「帰国してから調べていると、うかつなことにこの竜頭山はなんと対馬藩の倭館の構内だったことを知った。李舜臣の銅像がそびえている場所に、対馬藩が屋敷神としてたてた金比羅宮があったようで、それはむろんいまはないが、金比羅権現もインド渡来の海の守護神であることをおもえば、縁がないことでもない」(56ページ)。

 舜臣の「舜」というのは堯舜と併称される中国古代の伝説的な帝王の治世に生まれて、その家来になりたかったという思いのこもった名前であるというようなことを、亡くなった作家の陳舜臣さんが書かれていた。陳さんが韓国の人と話していると、あなたの名前は我が国の李舜臣と同じですねとよく言われたそうである。(実は私も、中国の人と話していると、中国の偉い人と同じ名前だといわれることがある。漢字文化圏に共通する名前というのもあるのである。)

 むかし、同僚のちゃんぽんさんと(佐世保出身だったので、バーガーさんとでも呼んでおけばいいかなとも思ったのだが、漢字の歴史を研究している人なので、ちゃんぽんさんと呼んでおく)話していて、私が「景徳鎮からの贈りもの」など陳舜臣さんの小説を読んでいると話したら、ぼくは司馬遼太郎の方が好きですねと言われたのを思い出した。陳さんも司馬さんも同じ学校(大阪外事専門学校=現在の大阪大学外国語学部)の出身なのである。その後、私が転勤したので、音信が途絶えてしまったのだが、別の元同僚からの便りで、彼が急死したことを知ったのが数年前の話である。『街道をゆく』を読み進みながら、司馬さんの愛読者だったちゃんぽんさんのことを思い出し、もう少し、仕事とは関係のない読書の話もしておけばよかったなと思いながら、ちゃんぽんさんの冥福を祈っているのである。

『太平記』(171)

8月14日(月)雨が降ったりやんだり

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬に都を奪回した足利方は、後醍醐天皇方の武士たちが立て籠もる比叡山に攻め寄せた。にらみ合いが長引くと、北陸、東北地方から宮方に加勢する大軍が到着する恐れがあるので、早めに攻め滅ぼそうとの意図からである。大手の軍勢は琵琶湖の湖岸に兵を進め、搦め手の軍勢は比叡山を西から昇って押し寄せた。主だった武将は東の方面を固めていると見た足利方は、西の方面から攻勢をかけるように連絡し、高師久の率いる軍勢が西から攻勢をかけ、後醍醐天皇の寵臣であった千種忠顕が戦死した。足利方は比叡山の主峰である大比叡のあたりまで攻め寄せた。

 ここに足利方の数十万の軍勢の中から備後の国の住人、江田源八泰武と名乗る武士が現われ、洗皮の大鎧(あらいがわ=鹿のなめし皮で縅した大鎧、略式の胴丸・腹巻などに対して正式の鎧)に五枚甲(錣=しころ、鉢から垂らす首おおいの板が五段からなる兜)の緒をしめ、4尺6寸の太刀に血をつけて、まっしぐらに打ってかかる。これを見て杉本の山神大夫定範という悪僧が、黒糸で縅した鎧に、竜頭の細工を正面の飾りとして付けた兜をかぶって、大きな臑(すね)あてをして3尺8寸の長刀を両手でしっかり握り、激しい足づかいをして、他人を交えずに立ち向かう。(互いに物々しいいでたちをしているだけあって、なみなみならない武勇の持ち主ではあったが)源八は長い間坂を上り、これまで何度も敵と切り結んできたので、腕の動きも鈍り気力も失われていたのであろうか、ややもすると受け太刀になっていったのを、定範はしてやったりと、長刀の柄をとり延べて、源八の兜の鉢を割れよ砕けよと、重ねうちに打った。源八は兜の吹き替えしを目の上まで切り下げられて、兜をかぶりなおそうと顔を上げたところに、定範が長刀を投げ捨て、走りかかってむずと組む。2人が力を込めて踏んだ足に押されて、山の斜面の土が崩れ、二人ともそこで踏ん張ることができず、組み合いながら、山腹を覆う笹薮の中を上になり下になり転げ落ちていったが、途中から離れ離れになって、それぞれ別の方角の谷底へと落ちていった。

 このほかの僧兵たちや、一般の僧侶までもが袈裟の袖を結んで肩にかけた動きやすいいでたちで、武器を手にして向かってくる敵に走りかかり、命を塵よりも軽いものとする勇敢さで防戦に努めたので、足利方の軍勢は数では勝っていたのに進みかねて、四明岳から雲母坂への降り口のあたりで、上を見上げて、一息休めて待機していた。〔防戦する比叡山の僧侶たちは必死であるが、寄せ手の足利方はあまりやる気がない。よく見られるパターンがここでもみられる。江田源八がそうだったように、足利軍は重い武具を身につけて山を登ってきたうえに、戦闘を重ねてきたので、疲れているということもある。〕

 この間、大講堂の鐘を鳴らして事態が急であることを知らせたので、横川(よかわ)の西の篠(ささ)峰の防御を固めようと前日に横川に向かっていた宇都宮勢の500余騎が、全速力で西谷口に駆け付けてきた。皇居を守護して東坂本に陣を構えていた新田義貞が、6千余騎を率いて四明の上に駆け上り、宇都宮配下の紀氏・清原氏の2つの党の武士団を進ませ、新田一族の江田、大館を魚鱗(先頭を細くして敵陣を突破する魚の鱗型)の陣形で四明岳の上から下へ一気に攻め立てたので、寄せ手の20万騎の兵は、水飲(雲母坂の中途にあった比叡山に登る人のために湯水を提供した場所)の南北の谷へ追い落とされて、人馬ともに重なり落ち、深い谷が死者で埋まって平地になるほどであった(これは誇張であろう)。

 寄せ手は、この日の合戦に、大手の軍勢から言ってきたように簡単に勝つどころか、負けて押し戻されてしまったので、目算が狂い、水飲からさらに下がったところに陣を取って、敵の隙を窺った。義貞は、東坂本よりも、西坂の方が大事だと考えて、比叡山の主峰である大比叡に陣を取り、終日戦い続けたので、両軍ともに自陣を破られず、西坂の合戦は、にらみ合いのまま休止状態となった。

 その翌日(6月7日)、西坂の戦いが思うように展開しなかったので、高師久は大津の大手の軍勢に向けて使者を出し、「敵の主だった武将たちは、皆大比叡に向かった様子です。急いで大手の合戦を始められて、東坂本を攻め破り、神社、仏閣、僧房、民家に至るまで、一軒残らず焼き払い、敵を山上に追い上げ、東塔と西塔(延暦寺は東塔・西塔・横川の3つの部分からなる)の両塔の間に攻め上って狼煙を上げられれば、大比叡に陣を貼っている敵も心乱れて、進退窮まり必ずや取り乱すだろうと思われます。そのとき、西坂より同じように攻め上るので、(お互いに力を合わせて)戦いの雌雄を一挙に決めましょう」と申し送った。
 足利一族の吉良、石塔、仁木、細川の人々は、これを聴いて、「昨日は既に、大手の勧めによって、搦め手の高家の一族が、烈しく攻め寄せた。今日はまた、搦め手の方からこの陣の合戦を勧められるのは当然のことだろう。黙って捨ておくべきではない」ということで、18万騎を三方面に分けて、他の中の道、湖岸の道、山際の道から、敵が夕日を受けて戦うようにしようと考えて、東坂の方面に攻め寄せた。(西の方に回り込んだということであろうと思われる。)

 義貞は自分の弟の脇屋義助を大将として東坂本の城に残していた。義助は東国、西国の強い弓の射手と、弓矢の名手を選び出して、土狭間(土塀にあけた矢を射る小窓)、櫓の上に配置し、土居、得能、仁科氏重、春日部時賢、名和長年以下の四国、北陸地方の勇猛な武士たちを2万余騎、比叡山の東の斜面の無動寺南の白鳥山のあたりに置き、水軍に慣れた地方の兵たちに、琵琶湖岸の和仁(大津市和邇)、堅田(大津市堅田)の住民たちをつけて5千余人を兵船700余艘に掻楯を付けて防備を固めたのを、琵琶湖の水面に浮かべた。
 これを見た足利方は、敵の構えが厳しくて、簡単には近づけないとは思ったものの、戦わなければ敵が退くわけがないということで、三方の寄せ手18万余騎が、敵の城砦に近づいて鬨の声を上げれば、城中の軍勢6万余騎も城の塀にあけられた狭間の板を叩いて、負けじと鬨の声を上げる。「大地もこれがために裂(わ)れ、太山もこの時に崩れやすらんとおびただし」(第3分冊、121ページ)と依然として大げさな表現を続けている。

 寄せ手はすでに東坂本の城の堀の前まで楯を差しかざして押し寄せ、雑草を引き抜いてそれで堀を埋めようとし、さらに枯れ草を積み上げて城の櫓を焼き落とそうとした。すると、城の側では300余個所の櫓、土狭間、出塀(だしべい=射撃や物見のために、城の塀の一部を外に突き出したもの)の中から、矢を雨が降るように射かけた。選びすぐった射手ぞろいなので、無駄な矢は一本もなく、寄せ手は楯の端や旗の下に矢にあたって倒れるものが多く、生死の境をさまようものが3千人を超えた。あまりにおオックのものが射殺されたので、携帯用の楯の陰に隠れて、少し浮足立ち始めた。そこを見澄まして、城の中から新田一族の脇屋、堀口、江田、大館の人々が6千余騎、3つの木戸を開かせて、一気に敵の中にかけ入る。
 白鳥山に配置されていた土居、得能、仁科、名和の勢の中から2千余騎が駆け下って、足利勢を横合いから攻め立てる。琵琶湖に浮かんでいた諸国の塀を載せた舟が、唐崎の有名な一本松のあたりに漕ぎ寄せ、差矢(さしや=矢継ぎ早に射る矢) や遠矢を絶えず、矢種を惜しまず射かけてくる。
 数の上で勝る足利方であるが、山と湖の両方から横矢を射かけられ、敵の軍勢の勢いにのまれて、敵わないと思ったのであろうか、また元の陣に引き返した。

 その後は、毎日兵を出して、矢軍(やいくさ)は仕掛けるものの(合戦を始めるという合図はするものの)、寄せ手は遠巻きに構えて近づこうとせず、宮方の兵は城を落とされないことをもって勝利と考えて、これといった合戦は行わないまま、時が過ぎていった。

 西坂の防備が手薄とみて、搦め手から攻勢をかけた足利方であったが、比叡山側の必死の守りと新田義貞の迅速な対応で所期の戦果を挙げることはできなかった。そこで大手から攻勢をかけるが、脇屋義助がしっかりとした防御態勢を築いていたためにこれまた失敗して、戦いは長期化する様相を見せてきた。義貞・義助兄弟の名将ぶりと、宮方の武士の勇敢さが、数において優勢な足利方を退けている。このまま、東北地方と北陸の武士たちを糾合して北畠顕家が救援に駆け付ければ、反攻の可能性も生まれようというものである。(こうなってくると、楠正成の献策を受け入れずに、彼を湊川で戦死させたのが惜しまれるところである。) 足利方は、長期戦になると裏切り者や、脱落者を出すおそれがある一方で、敵の消耗を待つことで戦局を有利に導くことができるかもしれない。両者ともに危ない橋を渡っている。膠着状態に陥りかけている戦局は、今後、どのように動いていくのか。

ヘーゲル『歴史哲学講義』

8月13日(日)曇り

 19世紀ドイツの哲学者であるG.W.F.ヘーゲルの『歴史哲学講義』(Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte)の長谷川博さんによる翻訳(岩波文庫)を手掛かりに歴史について考えていることを書き連ねていこうと思う。ヘーゲルの歴史観はいかにも観念論哲学者らしく、理性が世界史を支配し続け、自由を実現していく過程であるというものである。私はそんなことを信じてはいないが、自分で勝手に歴史について書き散らすよりも、体系としてまとめられた歴史論を論評するという形で議論を進めたほうが自分の考えをまとめやすいと思い、あえてこの本に取り組んでみる次第である。それにこの本は、ヘーゲルが大学で学生を相手に講義した内容をまとめたものなので、わかりやすく書かれており、さらに翻訳者もこのことを理解してかなりわかりやすい日本語に移し替えている。

序論
 序論は歴史的についてのヘーゲルのとらえ方と、これから展開される内容の予告を述べている部分であり、A「歴史のとらえ方」、B「歴史における理性とはなにか」、C「世界史のあゆみ」、D「世界史の地理的基礎」、E「世界史の時代区分」という5つの分から構成されている。

A 歴史のとらえかた
 初めに講義の狙いが、哲学的な世界史、つまり世界史そのものを対象とする哲学であるとかたられる。哲学的な世界史のとらえかたとはどういうものかを知るためには、そうではない世界史との比較対象が必要だというところから議論が始まる。
 歴史の見方には一般に以下の3種類の方法があるという。
 (a) 事実そのままの歴史
 (b) 反省を加えた歴史
 (c) 哲学的な歴史

(a) 事実そのままの歴史
 <事実そのままの歴史>というのは、記者が、「自分たちが目のあたりにし、自分たちがその同じ精神を共有できる行為や事件や時代状況を記述し、もって外界の事実を精神の王国へとうつしかえた」(11ページ)歴史であるという。ご本人はわかっているつもりなのかもしれないが、どうもわかりにくい。これを「歴史的記録」たとえば、日記や手記のようなものと考えればわかりやすく、ヘーゲルがそう考えている節も見受けられるが、そうでもないようなことも書いていて、はっきりしない。

 このような歴史の例として、ヘーゲルはヘロドトスや、トゥキュディデスの例を挙げているのだが、彼らの歴史はむしろ、ヘーゲルの分類でいう「反省を加えた歴史」に属するのではないか。ヘロドトスはその『歴史』の初めのところで、ペルシャ戦争がなぜ起きたかの原因を調べたのがこの書物であるというようなことを書いている。ただ、彼が自分で旅行して調べた部分については歴史的な事実と考えて差し支えないが、旅行中に伝聞した伝承や説話には信頼のおけないものが少なからずあるというのが一般的な評価である。そういうことも考えると、ヘーゲルがヘロドトスの歴史を<事実そのままの歴史>に分類したのは、かなり乱暴に思われる。
 次にトゥキュディデスの場合であるが、彼はアテナイとスパルタの間のペロポネソス戦争が起きた時に、これは重大な事件で、恒星また同じようなことが起きた場合に(歴史は繰り返す)、参考になるようにとその詳しい記録を残そうとした。同時代の記録という意味では、確かにヘーゲルの言うような<事実そのままの歴史>といえるのかもしれないが、後世の参考になるようにという姿勢はむしろ、<反省を加えた歴史>の方に属するのではないか。

 トゥキュディデスについて考える時に、凄いなぁと思ってしまうのは、彼がペロポネソス戦争が重大な出来事だと認識したことである。彼の同時代に大勢の人々がいて、戦争の時代を過ごしていたのだけれども、その記録を残そうとした人はほかにどれだけいたのだろうか。私自身の人生をふりかえっていると、いちばん大きな出来事というのは、おそらく、高等教育の大衆化(さらにはユニバーサル化)ということで、自分自身がその間、一時は学生として、また大学・短大の教師としてそれにかかわっていたのだけれども、事態を一向に重大なものだと考えてこなかったように思う。それが重大なことだと思うようになったのはごく最近のことである。

 それから、もう一つ考えていいのは、日本における歴史記述の推移を辿ってみると、<六国史>があり、その後、貴族や寺社の「日記」が一方で、もう一方で「鏡物」などの歴史物語が現われている。正史の方が先に来て、私的な記述の方が後から発生しているというのは、どういうことか考えてみる必要がありそうである。

 以上、書いてきたことから、ヘーゲルの議論は歴史を門外漢の目で見ている議論で、ヨーロッパ中心に偏った見方をしており、具体性を欠く部分も少なくないのだが、それでも歴史とは何かを考える上での手掛かりとしてはなかなか役に立つものであることがわかると思う。これから、ゆっくり、のんびりと彼の議論を辿っていくつもりなので、お付き合いのほどをよろしくお願いしたい。

 このブログを始めてから、読者の皆さんからいただいた拍手が25,000を越えました。お礼申し上げるとともに、今後ともご愛読のほどをよろしくお願いします。
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