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ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(37)

3月29日(日)雪

 叔父であるガードナー氏と、その妻とともに旅行に出かけたエリザベスは、叔母が昔住んでいたダービーシャーに滞在することになり、その間、この地方の名所であるペムバリー邸を訪問することになった。ペムバリー邸の当主は、少し前にエリザベスが結婚の申し出を断ったダーシーだったので、彼女は彼との鉢合わせを恐れて訪問したくなかったのだが、彼が不在であることを確認して出かけることにした。実際に邸を訪問してみると、その広壮な様子や家具・調度の趣味の良さなど当主の性格についての彼女の認識を改めさせるようなものであった上に、女中頭がダーシーの人となりを褒めちぎっていたので、ますます彼女の考えは変わり始めた。
 一行が邸内の見学を終え、庭園を見て回ろうとしたとき、エリザベスは予定を早めて帰館したダーシーに出会ってしまった。ダーシーは彼女と丁重に言葉を交わして別れたが、その後、再び彼女と会って、次の日に彼の妹(ミス・ダーシー、ジョージアナ)が戻って来るので、ぜひ、彼女と会ってほしいという。エリザベスは彼がなぜそんなことを言い出したのか思案する。〔ダーシーとその妹は12歳あまりの年齢差があり、兄妹といっても気持ちの通じないところがある。しかも、ジョージアナはすこし前に、スキャンダルになりかねない事件を起こしたことがあり、そのことをダーシーはエリザベスに打ち明けていた。そのことも含めて、ダーシーが兄妹の中間位の年齢のエリザベスを頼ろうとするところがあったと考えるべきであろう。〕

 第3巻第2章に入り、いよいよ、エリザベスとミス・ダーシー(ジョージアナ)が対面することになる。ミス・ダーシーはこれまでその人物像をめぐっていろいろと噂されてきたが、エリザベス(と読者)はここでようやくその実像に触れることになる。
 「エリザベスは、ミスター・ダーシーが妹を連れて訪ねて来るのは明後日だろう、妹のペムバリー到着が明日だから当然そうなるだろうと決込んでいた。それで明後日の昼間はずっと宿を離れずにいるつもりであった。しかしその思い込みはどうやら誤算であった。自分達がラムトンの宿に着いた翌日に、つまりミス・ダーシーがペムバリーに着いたその日のうちに二人は早速やって来たからである。」(大島訳、439ページ)
 エリザベスはその日の午前中、新たに知り合いになった人たちとラムトンの町を散歩して、彼らとの昼食のために宿に戻って着替えようとしていたのだが、ダーシー兄妹が馬車でやって来るのに気づいた。そして、叔父夫婦は、突然の来訪とエリザベスの落ち着かない様子とから、これはただならないことが起き始めていると察したのであった。
 一方、エリザベスはダーシーが自分の妹に、彼女のことをよく言いすぎているのではないかと思い、自分が彼女の予想を裏切ることが心配になりはじめていた。

 いよいよ、ダーシー兄妹が現われて「恐るべき初対面の挨拶が取交された」(大島訳、441ページ)。自分と同じように、ミス・ダーシーの方も戸惑っていることにエリザベスは気づいた。事前に思っていたのとは違って、ミス・ダーシーは内気なはにかみ屋であることがわかった。ミス・ダーシーは大柄で、身長はエリザベスよりも高く(第1巻第8章で、ダーシーは自分の妹の背丈がエリザベスと同じくらいか、それよりも少し高いくらいだと言っている。ダーシー自身もかなり背が高い男性として描かれている)、16歳という年齢のわりに体つきも大人びていたが、おっとりとして気取りのない態度に好感が持てた。兄のように他人を鋭く観察するというタイプではないらしいということが分かって、エリザベスはかなり気持ちが楽になった。

 一同が席について間もなく、ダーシーは、ビングリーも間もなくやって来ると告げた。エリザベスはこの知らせに喜んで、彼の訪問に備える準備をしていたが、十分な心の準備をする前に、ビングリーがやってきてしまった。ビングリーは以前と変わらぬ調子で、エリザベスの家族の安否を尋ねた。
 ガードナー夫妻にとってもビングリーは興味ある人物であった(ビングリーは、エリザベスの姉のジェインが慕っている男性であり、ジェインは少し前までガードナー夫妻のもとに滞在し、現在はベネット家に預けられている夫妻の子どもたちの面倒を見ているからである)。そして夫妻は、ダーシーとエリザベスの間の感情の動きにも注意を払う。そしてエリザベスの気持ちはわからないが、ダーシーが彼女に関心を寄せていることは確かだと観察する。

 一方エリザベスの方は、自分が相手をしている3人が自分にどんな気持ちをもっているのかが不安で仕方がなかったが、3人が三様のやり方で、彼女に好意をもっていることは明らかに思われた。ビングリーは以前ほど喋らないように思ったが、しかし彼が彼女を見て、彼女の姉を思いだそうとしているのではないかと思ったりする一方で、ミス・ビングリー(ビングリーの妹)が言うように、彼がミス・ダーシーと結婚しようと思っているというようなそぶりはまったく感じられなかったので、その点では安心した。ビングリーはジェインのことを話さなかったが、彼のネザーフィールドの邸で前年の11月26日に開いた舞踏会のことを口にした。日付をきちんと覚えているのは、ジェインのことを忘れていない証拠だとエリザベスは思った。
 エリザベスはミスター・ダーシーの方にはなかなか目が向けられなかったが、ときどき彼の方を見ると、彼が以前と比べて愛想のよい態度をとっていることに気づき、驚いた。そしてその変化が何を意味するのかを不思議に思いながら考えていた。

 一行は30分ほど話していたが、辞去するときにダーシーが妹に声をかけて、エリザベスと叔父夫婦を翌々日に招待したいが、お前の方からも招待するようにといい、ミス・ダーシーはそういうことには不慣れな様子であったが、兄の言葉に従った。そしてガードナー夫妻はこの招待を受け入れた。
 ビングリーはエリザベスとまた会えることを喜び、今度会うときはハートフォードシャーの人たちのことをもっとよく聞きたいといったが、これは自分の姉のことを意味しているのだとエリザベスは受けとめた。

 その夜、エリザベスはなかなか寝付くことができないまま、自分の気持ちをはっきりさせようとした。彼女が、求婚された際に、自分が持っていた偏見も手伝って厳しい態度で拒絶したにもかかわらず、ダーシーが偶然にあった後で、これからも交際を続ける意思を示し、しかも彼女に直接そう伝えるのではなく、叔父夫婦の好意をえようとしたり、自分の妹に彼女とその身内を招待させようとしているのはどういうことかと考えたのである。彼女のダーシーを嫌悪する気持ちは消えて、それは好意にかわっていたが、彼と結婚することが自分の幸福につながるかどうかに確信が持てなかったのである。
 その前に、彼女は叔母と話し合って、ダーシーが妹の到着の直後に自分たちを訪問した好意に答えるために、自分たちも1日訪問を早めることを決めていた。そして翌日の午前中に、ペムバリーを訪問することになった。

 ペムバリーへの訪問はどのようなことになるか、それはまた次回に。
 英国の推理作家で、ダルグリッシュ・シリーズで知られるP.D.(フィリス・ドロシー)ジェイムズ(1920‐2014)の『高慢と偏見、そして殺人』(Death Comes to Pemberley, 2011)はこの、『高慢と偏見』のパスティーシュであり、2012年にハヤカワ・ミステリーから羽田詩津子訳で翻訳・出版されている。この本を書架の整理をしていて見つけ出したので、読み返しているところである。「訳者あとがき」で羽田さんが述べているように、P.D.ジェイムズはオースティンを長年敬慕していたのではないか、そして晩年を迎えて「彼女なりの決着」(同書、345ページ)をつけたいと思ってこの小説を書いたのではないかと思われる。ジェイムズの『高慢と偏見』への解釈と、自分自身の解釈とを較べながら読むと、一層興趣が増すと思う。物語は、『高慢と偏見』の6年後の出来事ということになっており、ペムバリー邸の敷地内で殺人事件が起こる。その真相の解明とともに、今回、紹介した箇所との関連でいうと、成人年齢に達したミス・ダーシーの結婚問題が物語の進行に絡む。興味のある方はご一読ください。 
 
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ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(19)

3月28日(土)曇り、午前中、一時小雨

 ローマ白銀時代(14‐180)の詩人ルーカーヌス(39‐65)の『内乱――パルサリア――』は、作者が皇帝ネロの暗殺の陰謀に加わって自殺を命じられたために、未完に終わったが、紀元前1世紀にローマの支配権をめぐってポンペイウスとカエサルの間で戦われた内乱を描いた長編叙事詩である。
 紀元前60年にローマの3人の実力者、ポンペイウス、クラッスス、カエサルの間で結ばれた密約(第一次三頭政治)は混乱していたローマに安定をもたらしたが、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死すると、残った2人の間の対立が激しくなる。ポンペイウスはローマの元老院と結び、ガリア総督であったカエサルの職務を解き、軍隊の解散とローマへの帰還を命じるが、カエサルはこれに応じず、軍を率いたままガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、合流してきた元老院の大立者クリオの教唆もあってローマ進軍を企てる。カエサル進撃の報を聞いたローマは大混乱に陥り、ポンペイウスをはじめ、多くの元老院議員が脱出していく。(第1巻)
 ローマを脱出したポンペイウスは反撃を試みるが、彼を支持する軍勢は各地でカエサル軍に敗れ、ついに、イタリア半島南東のブルンディシウム(ブルンディジ)からギリシアの西の地方に向けて脱出していく。(第2巻)
 ローマに入城したカエサルは自分の立場を正当化したうえで、国庫から軍資金を略奪し、イベリア半島のポンペイウス派の軍勢の掃討に出発する。一方、ギリシアに逃れたポンペイウスは東方諸国から大軍を集め、反撃を企てる。カエサルは遠征の途中、両派の和睦を求めるマッシリア(マルセイユ)の抵抗を受けるが、一部の軍隊を残したままイベリア半島に向かう。マッシリアは海戦の末にカエサル派に降伏する。(第3巻)
 イベリア半島に進んだカエサルは、アフラニウスとペトレイウスが指揮し、イレルダを拠点とするポンペイウス軍を最終的に山間に封じ込め、降伏させる。その一方、イッリュリア(アドリア海東岸地域)の海戦ではカエサル派のアントニウス(第二次三頭政治家の弟)がポンペイウス派に包囲されて敗れ、またシキリアからリビュエ(北アフリカ)に渡ったクリオは、ヌミディア王ユバの軍勢の策略にはまって敗死する。(第4巻)

 今回から第5巻に入る(岩波文庫版の上巻に収められた最後の巻である)。
 かくして運命は、禍福ない交ぜ、二人の将に交々(こもごも)
戦の痛手を負わせて、なお伯仲する両雄として
マケドニア人の地まで温存した。すでに季節は、ハイモスが
雪を敷き、アトラスの娘たちが凍てつくオリュンポスを戴く空から
降ろうとする真冬。暦年に新たな元号を与え、日月を導く先駆けの
ヤヌスを祀る門出となる日が近づいていた。
(第5巻、1-6行、225ページ) 時は紀元前49年の暮れ、二人の将=ポンペイウスとカエサルの両雄がテッサリアのパルサルス(パルサリア)で対決することになるのは、紀元前48年の8月のことである。オリンピックというと思いだされるオリュンポスの山はギリシアの最高峰(2917メートル)であり、その北側がマケドニアであるが、テッサリアはアレクサンドロス大王の父ピリッポスⅡ世の時代からマケドニアに服属していた。ルーカーヌスがパルサルスがマケドニアの土地だとしているのは、このためであろう。ハイモスはバルカン山脈のこと。ギリシア最北東部から黒海まで連なる山脈である。「アトラスの娘たち」はプレイアデスのこと。ここでは彼女たちが変身したとされるおうし座の散開星団=プレイアデス星団のことを言う。日本ではスバルというが、冬の星座である。ローマの暦では各年は1年任期で交代する執政官の名前で呼ばれた。ここで「元号」というのはそのことを踏まえたものである。ヤヌスは前と後ろに2つの顔をもつ神で、行く年、来る年を見つめる。1年最初の月の神(英語のJanuaryの語源)である。その神殿の門扉は、戦時には開かれ、平時には閉ざされた(大体、いつも開かれていた)。まもなく新しい年が始まるが、ローマの公職は原則任期1年で、1月1日に任期が切れる。したがって、新しい人事を決めなければならないのである。

 そこで、執政官2人は元老院議員たちをエペイロス(ギリシア西部)へと招集した(岩波文庫版の注によると、これが歴史的な事実であるかどうかは不明だそうである)。執政官2人とローマの元老院議員の多くがポンペイウスと行動をともにしている、とはいうもののここで新しい人事を行わないと、政権の正統性が疑わしくなると考えたのである。
 多数の元老院議員が集まり、この集まりがポンペイウス派の集まりというよりも、ポンペイウスが元老院と共和政派の一員であることを示していたが、一同の表情は暗かった。
 (同じころローマでは、執政官2人が不在という事態の中、独裁官となったカエサルが選挙会を開き、彼自身とプブリウス・セルウィニウスが(紀元前48年の)執政官に選ばれた。)

 執政官である(ルキウス・コルネリウス・)レントゥルスが立ち上がり、語りかけた。自分たちはローマを追われ、異郷をさまよっているが、「国政の枢機は我らに付き従い、最高指揮権は我らとともにあろう。」(第5巻、27行、227ページ)。ローマを占拠しているカエサルの政権には正統性はなく、彼らの軍勢はイッリュリアの海戦で敗れ、リビュエでクリオは戦死した。大義に基づく反撃のために、ポンペイウスを将帥に選出しようと彼は提案する。この提案は可決され、次に参集した諸国、諸王を賞賛する名誉決議が採択される。
 例えば、ギリシア人の植民都市であるマッシリアがカエサル軍と戦った武勇を賞賛され、その母市であるポキスには自由が与えられ、クリオを敗死させたヌミディア王ユバはリュビエの支配権を認められた。問題は、その次に登場する人物である。
…ああ、定めの何という無情。汝にも、
プトレマイオス、背信の民の王国にこの上なく似つかわしい者よ、
フォルトゥナの恥辱、神々の咎よ、汝にもその髪を絞める、ペッラの
王冠をかむることが許された。少年の彼は、民に向かって振るう狂暴な
刃を受け取った――望むらくはその刃が偏に民に向かっていたなら――。
かくして少年にラグスの王宮が授けられ、マグヌスの喉頸(のどくび)が
これに加わることになった。姉からは王権が、舅からは(婿殺しの)
非道の罪の機会が奪われたのだ。
(第5巻、57‐64行、229ページ) ここでプトレマイオスとよばれているのは、クレオパトラ(Ⅶ世)の弟のプトレマイオスXⅢ世である。ここで記されているのは一種の事後予言であるが、パルサリアの戦いで敗北したポンペイウス(マグヌス)はエジプトに逃れ、プトレマイオスを頼るが、彼に暗殺されてしまう。ペッラはマケドニアの古都でアレクサンドロス大王の誕生の地であるが、ここで「ペッラの王冠」はアエギュプトス(エジプト)の王冠を指している。「ラグスの王宮」のラグスはプトレマイオス王家の先祖の名であるが、「ラグスの王宮」はエジプトの王宮を指している。「姉」はクレオパトラ(Ⅶ世)で、(王家のしきたりにより)弟と姉弟婚をして王位にあったが、仲たがいをしていた。ここでルーカーヌスが書いていることがすべて史実に即しているとはいいがたいのであるが、彼はプトレマイオスがエジプト王になった後に、ポンペイウスを殺し、カエサルが自分の婿(娘の夫)であるポンペイウスを殺す機会が失われたことを憤っているのである。

・・・やがて集会は解かれ、
一群の元老院議員たちは兵戈を目指して散っていった。
(第5巻、64‐65行、229ページ) 彼らのだれも、自分の今後の運命はわからなかったが、それでも戦地に赴いていったのであるが、名門クラウディウス家の血を引くアッピウス(・クラウディウス・プルケル)は今後のなりゆきに対する不安から、将来の運命を知ろうとしていた。彼が知ることになる運命とは…それはまた次回に。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(13)

3月27日(金)曇り

 承平5(935)年から天慶3(940)年まで続いた平将門の乱は、武士最初の乱とされる。この書物は乱の経緯ではなく、その歴史的な意義を読み解こうとするものである。特に将門が「新皇」即位を宣言して、坂東8か国の国司を任命したこと、その際に彼の即位を正当化する存在として八幡神と菅原道真の霊が持ち出されたこと、また朝廷がこの乱を鎮圧するために王土王民思想を持ち出したことなどが、書物の主題とかかわって掘り下げられてきた。

「冥界消息」と蘇生譚の世界
 『将門記』の「冥界消息」
  「冥界消息」と蘇生譚
 『将門記』の本文は、平将門の敗北と首の入京とを記した後、将門一代の評価、将門の残党の追捕、そして乱後の源経基・藤原秀郷・平貞盛らの賞罰を記して終わる。しかし、それだけでなく、その後に冥界に堕ちた将門からの手紙「冥界消息」が載せられている。
 木村さんは、この将門の乱の直後に、将門がらみでは『僧妙達蘇生注記』、天神信仰とのかかわりでは『道賢上人冥途記』(『日蔵夢記』と、複数の冥界譚、蘇生譚が残されていることに注目する。将門の「冥界消息」は冥界からの手紙であるが、妙達と道賢の場合は一度冥界に堕ちたものの、その後蘇生して冥界の様子を語っているというところに特徴がある。さらに将門の子孫の中に、冥界に堕ちた後に蘇生したという伝説や、救済されて極楽に赴いたという伝説をもつものがいることも注目される。したがって『将門記』における将門の「冥界消息」は、これらの性格の共通性のある文献との関係において考察されるべきだという。

  『日本霊異記』の冥界譚
 冥界譚・蘇生譚とは、さまざまな要因によって冥界、多くは地獄に堕ちた後、生前に仏や経典を供養した功徳によって数日後に蘇生し、冥界での経験を語って周囲の人々に信仰を勧めるとともに、本人もいっそう仏や仏教に帰依して供養した、という内容の仏教説話の一種である。
 中国の仏教説話集の影響を受けて、日本でも奈良時代になるとこの種の説話集があらわされるようになった。その代表が9世紀の前半に薬師寺の僧景戒によって、編纂された『日本国現報善悪霊異記』(『日本霊異記』)である。
 この書物には116話の仏教説話が掲載されているが、そのなかの14話が冥界譚に分類できる。とはいうものの、その内容は多様であった。このような冥界譚が10世紀に入り、浄土教が普及するようになった時期につくられたのが『将門記』における「冥界消息」である。

  平将門の「冥界消息」
  将門の「冥界消息」は2つの部分から構成されている。前半は「田舎人」が「中有(ちゅうう)の使」の便りとして伝えた冥界における平将門の消息であり、後半ではこの消息の異本などが紹介されているという。
 前半に記されているところでは、将門は前世に犯した悪行のおかげでその身を剣の林の中に置かれたり、鉄の囲いの中で肝を焼かれたりする責め苦にあっているが、生前に金光明経1部を誓願したおかげで、一時的に苦しみを逃れる時間があるという。
 『日本霊異記』に出てくる冥界譚の人物は、蘇生して冥界の様子を語るのだが、将門の場合には蘇生しない。これは、彼が実際に誅殺されたという事実によるだけでなく、犯した罪が重いということによると考えられる。
 しかし、彼は生前に金光明経を書写したことがあり、また兄弟妻子に善行を積むように勧めることによって彼らだけでなく、自分自身の救済の可能性を探っているようにも思われる。

  『僧妙達蘇生注記』の特徴
 これは出羽の国の龍華(りゅうげ)寺に住む法華経の侍者僧妙達が天暦5(9)年に突然入滅して閻魔庁に至り、閻魔王から日本国中の人々の善報と悪報を聞いて7日後に蘇生し、現世の人々にそのことを詳しく話して多くの信徒を得て、多大な善業を施した、という話である。
 この書物の特徴は、妙達が閻魔王から聞いた善報と悪報を受けた多くの人々(80~90人)の話が記載されているところにあるが、大石直正によると、善報を得た人物は俗人が多く、悪報を受けた人物には僧侶が多いこと、そのなかでも天台寺院の別当や座主という高い地位にある僧の行状が痛烈に批判され厳しい悪報を受けていることから、「既成の天台宗の教団の在り方をつよく批判し、法華経の信仰を広めようとしている」(190ページ)のだと考えられる。

  『僧妙達蘇生注記』の具体例
 具体例を見ていくと、上野の国の三村正則という人物は『大般若経』の書写、橋の架橋、井戸の開削などの善業によって、天帝釈の宮に生まれ変わったという。これに対し、信濃の国のある僧侶は、寺物である米やもち、油を私用に用いたため、悪報を受けて顔八面の大蛇に生まれ変わったという。

  藤原忠平・平将門・天台座主尊意
 『僧妙達蘇生注記」に登場する人物は出所不明な例が多いが、歴史上知られた人物も登場する。
 まず、太政大臣忠平(菅原道真を失脚させた時平の弟で、将門の主人でもある)は人事を勝手に行った罪により頭九の龍になってしまったという。「何を根拠にしているかは不明だが、当時の最高権力者に対する厳しい批判といえよう。」(182ページ)
 次に将門であるが、彼は東国の「悪人之王」であったが、前世に功徳を積んだ善報により天王となったという。ここでは将門は救済される対象になっている。
 最後に天台座主である尊意は天皇の命によって「悪法」を修して、将門を死に至らしめた報いによって「十一劫」というきわめて長い時間、人間の身に戻ることができず、将門とずっと合戦をし続けなければならないという。
 当時の権力者たちが強い批判の対象となっている一方で、その権力者たちに対して戦いを起こした将門は「悪しき人間」と認識されながらも、救済の対象とされる存在だったのである。木村さんは「ここに『将門伝説』の端緒を見出すこともできよう」(194ページ)と論じている。

 「平将門の乱」の歴史的な意義ということになると、同時代および後世の人々がどのように将門と彼の行為を評価したかということが問題になるが、ここで木村さんは冥界譚・蘇生譚という仏教説話の世界における将門の消息を探り当てながら、彼を「悪人」歳ながらも、当時の権力者に対して反抗したことの意義を評価する人々がいて、それが後世における将門伝説の形成・伝播へとつながっているとの見解を展開している。では『道賢上人冥途記』の場合はどうか。この史料については、『太平記』の中でも触れたことがあるが、次回、また取り上げることとしよう。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(15)

3月26日(木)晴れ

 1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけて梅棹忠夫(1920‐2010)は当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジア諸国を訪問し、熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌を調査した。この旅行記はその際の、彼の個人的な記録をまとめたものであり、下巻で彼は主としてカンボジア、(南)ベトナム、ラオス3カ国の旅行の際の見聞を記している。
 1958年2月12日、梅棹は隊員の吉川公雄(昆虫学者で医師)とともにバンコクを出発した。外務省留学生の石井米雄(1928‐2010、後に東南アジア研究家として京都大学・上智大学教授、神田外語大学学長)が通訳として随行、13日にカンボジアに入国し、バッタンバン、プノムペン、海岸の都市カムポットを訪問し、トン・レ・サップ湖の周辺を踏査した。2月21日にはプノムペンを出発して、ベトナムに入国、当時の南ベトナムの首都であったサイゴンに到着した。サイゴンではベトナムの民族宗教の1つであるカオダイ教の本部(タイ・ニン)を訪問したり、コーチシナにおける華僑の進出と開拓の歴史をたどったりした。
 2月28日にサイゴンを出発して北上、このときからサイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックが通訳として参加。海岸の町ファン・ランに到着したあたりから、ベトナム族と激しい対立・抗争を続けた歴史を持つチャム(パ)の遺跡に何度も遭遇することになる。北上を続けて、ニャチャンを経て、3月2日にトゥイ・ホア(綏和)に到着した。

 ゴ総統万歳!
 3月3日にトゥイ・ホアを出発。トゥイ・ホアは地図で見たところでは小さな町であるが、実際には大きく、新興都市という感じであると梅棹は観察した。これに対して農村は日本のいなかに似ているというのが彼の感想である。とりいれの季節で、脱穀作業をしているのが見える。タイやカンボジアでは二輪車を使って収穫物を運ぶのだが、ここでは全部人力で運んでいる。
 「小さな峠を越え、川をいくつも渡る。川は、橋がない。渡し船で渡るのである。海が見える。景色は美しい。」(132ページ)
 途中の海中に軍艦が沈んでいるのを見かける。かなり古いもののようで、ディックによると日露戦争の時のロシアの軍艦だというが、真偽のほどは定かではない。「いずれにせよ、戦争のあとを見るのは、いたましいものである。」(132ページ) この発言は戦争体験のある梅棹らしいものだと言えよう(戦争中、梅棹は戦車隊の小隊長として軍務につくはずだった=司馬遼太郎と同僚になるはずだったが、免除されてモンゴルに渡ったという経歴の持ち主である)。

 通りすぎる村の様子は平和だが、あちこちに煉瓦づみのツイタテのようなものがあって、そこに「ベトナム共和国万歳!」とか、「ゴ総統万歳!」というような標語が書かれている。戦時中の日本の標語政治を思い出して、梅棹は空しさを感じるのだが、南ベトナムの政府としてはやはり必要を感じているのだろうと気を取り直す。

 ベトナム料理
 この日の2時半、クイニョン(歸仁)に到着する。クイニョンは小ざっぱりした、いい町であるという感想を梅棹は述べている。しかし、この町はインドシナ戦争で破壊され、その後復興したのだという。〔クイニョンを省都とするビンディン省は、かつてはチャムパ王国の首都であったことがある。現在のクイニョン市は人口50万人近くなっており、小ざっぱりした街だという感想があてはまるかどうかは疑問である。〕

 クイニョンの町の男子は兵隊として強いという評判があり、女子は賢くてしっかりしているという。町を一通り走って、満足できそうな料理店を見つけて昼食をとる。
 梅棹はベトナム料理が好きだという。中国料理ほど油こくないし、良質の魚醤を使えば大変においしいという。〔私は渋谷にあるベトナム料理店で一度か二度、ベトナム料理を食べただけだから、この感想については何とも言えない。〕
 ディックの言うところだと、ベトナムでは人生の理想として「日本人の妻、フランス風の家、そしてベトナム料理」と言われているそうだ。似たような言葉は、あちこちで聞かれるが、国がちがっていたような気がすると梅棹は記す。
 同じような国民性を示す小話で、こんなのもあるそうである。ある学校で中国人と日本人とベトナム人が一緒に勉強をした。成績は中国人が「算数」で、日本人が「科学」で、ベトナム人は「文学」でトップをとったという。ベトナム人が、自分たち、それから中国人や日本人についてそういうことを考えているというのが興味深いと梅棹は記す。〔読者の皆様も、私同様に、異論を唱えたいところだと思うが、それはご自分でご自由におっしゃってください。〕

 ベトナムの国民性
 食事をしながら石井が、ベトナム人はえらいものだと賞賛の言葉を口にする。梅棹も同感である。タイやカンボジアでは食堂は皆中国人の経営である。ところがベトナムではベトナム人がベトナム料理の店を出している。旅館にしても経営者はベトナム人である。東南アジアのほかの国では、経済を中国系の人々に握られている例が大半であるのに対し、ベトナムではベトナム人が商業の主導権を握っている。一行が見たところでは、ベトナム人はきわめて勤勉である。現在のところは南北の分断が、国民のエネルギーを吸い取っているが、もし、南北が統一されれば、南の農産物、北の鉱産資源、それに水力、石炭などにもめぐまれたベトナムは大いに発展するだろうと、一行は思ったのである。

 風俗ノート
 クイニョンの周辺は昔のチャムパ王国の中心地であったので、多くの遺跡が残っている。どれがどれだかわからないほどである。
 生産力が高いらしく、村が多く、人口も稠密である。一行は雨に出会う。これまで雨に会うことが少なかったので、気持が一新する。北からの避難民であるディックによると、このあたりはトンキン・デルタと同様、一年中雨季なのだという。
 この一帯では男女を問わず、腰まで切れ上がった長い上衣とゆったりしたズボンからなるアンナン服を着ている。男女ともに同じ笠をかぶっているから、ちょっと見ただけでは見分けがつかない。
 農民は襟なしの短いシャツを着て、前のまんなかで合わせてきちんとボタンで留めている。ズボンは緩やかで足首の上の辺りまである。この労働服がまた男女同一である。こういう例はあまりよそでは見かけられないと梅棹は言う。頭に被っているのは菅笠が多いが、男性の中には昔のアンナン帽(幅の狭い角帯をターバン風に巻き付けたようなもの)を被っている人も見られる。
 タイではどんな田舎に行ってもパーマ屋があったが、ベトナムの女性はほとんどパーマをかけず、長い髪のはしを切りそろえて、さらりととき流している。
 若い女性は伝統的な衣装に固執しているが、男性の方はズボンにカッター・シャツという姿が多い。またヘルメットがはやっていて、小学生はほとんどヘルメットをかぶっている。

 まだ北への旅は続くが、ここで第15章は終わり、次回から第16章「大官道路」に入る。「大官道路」(Mandarin Road)はアンナン帝国の官吏たちが駕籠に乗って旅行するために設けられた道路である。そして第16章の最後のところで、ディックと別れた梅棹たちはラオスに入国する。 

日記抄(3月22日~25日)

3月25日(水)晴れ

 3月22日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

3月17日
 この日の参院予算委員会の出来事:
「検察官逃げた」 ゆう子が雅子を問い詰める
(両方とも森という姓である。)

3月19日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』応用編「フランスで『世界と出会う』」の19日、20日の放送では、人手不足に悩むフランスの教会で、更新可能な3年契約で司祭をしている西アフリカのベナン出身の黒人神父のことが取り上げられていた。番組の終りの方の「Florenceに訊いてみよう」のコーナーでは、講師の1人であるフロランス・メルメ・オガワさんが番組の内容と関連した話をしているが、今回は、フランスにおけるカトリック信仰をめぐり、
Environ 65% des français sont catholiques, mais les pratiquants qui vont à l'eglise rélgulièment ne seraient plus que 7%.
(約65%のフランス人がカトリック信者ですが、実践している人、つまり規則的に教会に通っている人は、もう7%程度しかいないでしょう。)
と語っていた。

3月20日
 『朝日』朝刊に「高級食材 コロナ余波で値崩れ」という記事が出ていた。「大トロ在庫の山、越前ガニ半額」 だからと言って、こちらの食卓まで回ってくるわけでもなさそうだ。

3月22日
 『朝日』の朝刊に3月20日から公開されている映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』が紹介されている。1969年5月13日に東大の駒場キャンパスで行われた討論会の様子は、これまでもテープや本では知られてきたが、TBSだけが映像として収録していた。その75分の映像に新たに関係者へのインタビュー映像を加えて制作された映画だという。監督である豊島圭介さんは、この討論会の後に生まれた世代だそうだが、「体温や汗を感じる対話 重要だと感じる」と語っている。
 それはそうかもしれないが、一つ気になるのは、三島が自分の母校である東大の全共闘とは話し合ったけれども、他の大学の全共闘の学生とか、あるいはその他の学生と話し合おうとはしなかったのではないかということである。私の知人に(三島のもう1つの母校である)学習院の元全共闘というのがいるので、余計そのことが気になるのである。

 対話と言えば、同じ『朝日』の「社説余滴」で藤生京子記者が「『対話のレッスン』始めては」と書いているのも印象に残った。特に言葉のキャッチボールによって対話が必ずしも深まらなくてもいいという平田オリザさんの言葉、また「たとえ共感できなくても、相手の存在を認めあう関係こそが対話」というロバート・キャンベルさんの言葉を噛み締めるべきではないかと思った。無理に話し相手と同化する必要はないのである。

3月23日
 歌手・女優で肢体不自由児の療護施設「ねむの木学園」の創設者として知られる宮城まり子さんが3月21日に亡くなられたことが分かった。宮城さんというと、思いだされるのは1955(昭和30)年に大ヒットした「ガード下の靴みがき」である(ということで、弔意を表してこの歌をYouTubeで検索して、聴いた。西田佐知子さんの「アカシアの雨が止む時」、三池炭鉱労組の「炭掘る仲間」とならんで、私の好きな歌である)。それから1974(昭和49)年に公開された映画『ねむの木の詩』も思いだされる。大学院生だった私はまだまだ生意気盛りを脱していなかったので、「美しい映画であることに限界がある」などという批評を書いた記憶がある。そのくせ非常勤講師として教えに行った学校で、最近見た映画でよかったのはと質問されて、この映画を挙げたりした。もう一つ思いだされるのは、川島雄三監督の映画『グラマ島の誘惑』で森繁久彌と共演していることで、両者ともに即興的な演技が得意だったので、なかなか面白い組み合わせであったと思う。もう一度機会あがったら見てみたいと思っている。謹んでご冥福をお祈りします。

 本日の朝刊に載っていた週刊誌の広告の中の気になる記事:
『週刊現代』3月21日/28日号
 「医者がためらいながらも出している薬」として列挙されているなかで、降圧剤のアムロジピンをわたしも服用している。今度、医者と相談してみよう。
『週刊ポスト』4月3日号
 作家の百田尚樹氏が「安倍さんには失望したわ」と激白しているそうである。今年の正月休みに、安倍首相は百田氏の著書を読んだはずだが、あるいは著者の意図を読み違えているようなことがあったのかもしれない。

 わたしの社会科学の知識がその程度のものだと言ってしまえばそれで終わりになるが、『NHK高校講座』の『政治経済』、『現代社会』の放送はいろいろと参考になる。とはいうものの、気になるような内容の授業がないわけではない。
 本日の『現代社会』で、講師がアダム・スミスは経済を自由に放任していても、神の見えざる手が働いて、市場原理によって経済活動はうまくいくと説いたと語っていたが、これはかなり乱暴な解釈である。根井雅弘さんの『英語原典で読む 経済学史」に次のような指摘がある:
 スミスの『道徳感情論』や『国富論』を精読したことがなくても、「見えざる手」という言葉だけは知っている人が世の中に多いようです。高校の政治経済の教科書や、大学でも経済学入門のような教科書では、「見えざる手」という言葉を使って自由放任主義や予定調和論を正当化した「経済学の父」としてスミスは登場します。このような理解の問題点は、すでに何人ものスミス研究者たちが指摘してきましたが、ここでは、次の点を指摘するにとどめます。――スミスは確かに人々の「利己心」を肯定したが、市民社会のルールを平気で破るような勝手な行動を容認したわけでは決してなく、その行動は「公平な観察者」の「同感」が得られる範囲内でなければならないと考えていた。それゆえ、「見えざる手」という言葉を自由放任主義と結びつけて理解するのは問題を含んでいると。(根井、56‐57ページ) そもそも、この言葉の起こりとなった旧約聖書の『ダニエル書』を読んで、「見えざる手」(実は見えている)がどこで登場するかを考えればわかることではないかと思う。
 それから、「自由放任」(レッセ・フェール)ということを初めて唱えたのは、スミスではなく、この言葉がフランス語であることから分かるように、同時代のフランス重農学派のテュルゴーである。

3月24日
 『朝日』の朝刊に掲載されていた「Youth川柳」の中で「6年にさよならいえずはるやすみ」という神奈川県の藤川竜樹くん(7歳)の句が子どもらしくてよかった。

 『日経』朝刊1面のコラム「春秋」で、1940年に開催予定だった東京五輪を1938年になって返上した時の木戸幸一厚相の「挙国一致、物心両方面の総動員を行ひ」などという「ずいぶん物々しい」声明が引用されていた。木戸幸一(1889-1977)は昭和天皇の側近の1人で、日米開戦の前後には内大臣を務めていた。映画『トラ・トラ・トラ』で芥川比呂志が扮する木戸内大臣が山村聰の扮する山本五十六海軍大将に話しかける場面が印象に残っていて、後で『木戸幸一日記』を読んで調べてみたところ、この会話がおそらくは(もともとの脚本を書いた黒澤明の)作り話であったと気付いたことを思い出す。今、思うと、この映画が上映されたときにはまだ木戸は生きていたのである。

 週刊誌の広告で見かけた気になる見出し:
女性自身 4月7日号
 コロナ不況 株価暴落で年金支給月額 4割減も
週刊女性 4月7日号
 テレワークもマスク支給も 社員だけ! 非正規いじめの悲鳴

3月25日
 「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」を推進しようということで、新しい学習指導要領に基づく中学校教科書の検定結果が発表された。学校現場がどのように変わっていくのか、あるいはあまり変わらないのか、あるいはただ混乱するだけなのか、慎重に見守ることにしたい。というのも、「アクティブ・ラーニング」と「主体的・対話的で深い学び」がどのようにかかわるのか、理論的に整理することはかなり難しいのではないかと思われるからである。

 東京オリンピック2020の開催が1年延期されることになった。各紙の紙面に載っていた「東京オリンピックまであと〇〇日」、「パラリンピックまであと〇〇日」という数字が、だんだん消えていたので、それほど強い衝撃を受けたというわけではない(『日経』は昨日までこの数字を示していた)。それよりも、『毎日』に掲載されたバッハIOC会長との会見に臨む安倍首相と小池都知事の今にも泣きだしそうな表情の方が心配だ。

 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』の”A Song 4(for) u(you)"のコーナーでは、”You'll Never Walk Alone"を取り上げた。もともとはミュージカル『回転木馬』の中で歌われたというで、アメリカの歌なのだが、英国のマージー川を航行する船を歌った歌として、また英国プレミア・リーグの強豪として知られるリヴァプールFCのアンセムとして英国で親しまれることになった。もう20年以上前になるが、リヴァプールで生活したときに、向こう岸がかすかに見えるくらいに広いマージー川の流れを時々眺めていたことが思い出される。私はこの歌は、ジュディ・ガーランドの歌唱で親しんでいて、『ジュディ 虹のかなたに』を見に出かけようかと思っているところなのである。 
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