「春を待つ雪」と「雪の瀬川」

2月20日(月)晴れのち曇り、風が強い

 蔵書の整理をしていたら、宇野信夫『江戸おとし咄 夜の客」(集英社文庫)という本を見つけた。昭和59年(1984)発行で定価を見ると300円とある。この30年余りの間にずいぶん本の値段が上がったことを改めて確認した(それにあの頃は、消費税などというものはなかった)…という話はさておいて。

 この本は、「序にかえて」で劇作家である著者が書いている通り、子どものころから親しんできた古典落語のいくつかを、自分なりに書きかえた。それもこれも「語られる落語を、書かれた落語として残しておきたい」(7ページ)という思いからであるという。

 ざっと目を通してみて、気づいたのは、この中に収められている「春を待つ雪」という咄が中公文庫の『圓生人情噺(中)』に収められている「雪の瀬川」と同じ話だということで、改めて書架を探して、『圓生人情噺(中)』を見つけ出した。(こんなことだから、蔵書はいつまでたっても片付かない。) こちらは昭和55年(1980)発行で定価は420円であった。以前、読んだ時には気づかなかったのだが、この本を監修しているのが宇野信夫で、解説も書いている。その解説にも記されているが、6代目の三遊亭圓生(1900-1979)はこれらの文庫本が出版されたころには世を去っていた。圓生が高座にかける際に凝らしていた工夫を知り抜いている宇野がどのように自分なりの物語を語ろうとしたか、両者を比べてみよう。(宇野の「春を待つ雪」の方が簡単なので、こちらを主にして、圓生の「雪の瀬川」とどこが違うかを見ていくことにする。)

 江戸は芝口一丁目の松屋という茶道具屋の若旦那の清三郎が吉原半蔵松葉の瀬川という花魁に熱を上げ、通い続けているので、父親が、親類のものを集めて相談のうえ、懲らしめのために勘当ということになり、家を追い出された。(「雪の瀬川」では、若旦那は古河の大金持ちの跡取りで善次郎といい、人間がまじめすぎるので少しは遊びを覚えてほしいと親の計らいで江戸に出されたという設定になっている。さらに、周囲の人間がいろいろと画策して、吉原へと連れ出し、瀬川と引き合わせる家庭も詳しく描き出されている。)

 はじめのうちは金もあったので、人の家の二階を借りて、毎晩のように松葉に通っていたが、松葉の主人がこの様子では勘当が赦されるわけはなく、本人のためにならない、また瀬川のためにもならないからといって、二人が会えないようにする。そのうち、若旦那は金もなくなり、ああ俺が悪かった、今更どこへ行くこともできず、いっそ死んだ方がいいと思い込んで、吾妻橋から身を投げようとするところを、店の使用人で、ふとした過ちから暇を出されて、本所松倉町に裏屋住まいをして紙屑買いを渡世にしている源六というものに助けられる。(「雪の瀬川」では勘当されてから松葉に通ったというくだりはなく、金がなくなって永代橋の上をうろうろしていると、元使用人の忠蔵という男に助けらる。忠蔵はやはり店で働いていたお勝という女といい仲になり、2人で江戸に逃げて麻布の谷町というところに住んで、神屑屋をやっている。)

 源六は、家へ連れてきて、女房にも話をして、その日稼ぎの貧乏人ではあるけれども、夫婦してよく若旦那の面倒を見る。そのうち、暮の20日、朝から雨が降るので、源六は商売に出かけることができない。清三郎は瀬川に手紙を届けてほしいという。直接手渡すわけにはいかないから、贔屓にしていた幇間の富本米太夫のところに行って手紙を預けてほしいというのである。
 源六が米太夫のところに行くと、借金取りと間違えられて初めのうちは居留守をつかわれるが、若旦那からの便りと聞いて飛び出してきて、手紙を預かり、瀬川のところに出かける。(「雪の瀬川」では、若旦那が瀬川に手紙を書くというと、忠蔵がそんなことはやめなさいと言って、瀬川の若旦那への想いを疑うが、それでも不承不承使いに出ることになっている。また、手紙の仲立ちをする幇間は五蝶という名になっている。使いのものを借金の取り立てと間違えて居留守を使うのは同じである。)

 米太夫が瀬川のところに出かけると、ちょうどお客が帰った後で、「花魁は床へ花を活けてお茶を点てて一服飲んでいる」(52ページ)。〔いかにも格式高い遊女という感じであるが、それまで取っていた客があまり気に入らないから、ここで気分を切り替えているという様子にも受け取れる。〕 米太夫から手紙を受け取った瀬川は、清三郎の窮状を知り、涙ぐむが、返事を書いて、お金を一両紙に包み、一両は使い賃だと言って米太夫から源六に渡してくれるように言う。(「雪の瀬川」では五蝶が博打で借金をこしらえて表に出られないので、さらに使いのものを頼むことになっている。手紙を読んだ瀬川が泣いてしまって、返事が書けず、「書き損じては破り、破っては書き、見てる間に屑かごへ三杯ばかり屑がたまる」(『圓生人情噺(中) 雪の瀬川』(67ページ)というありさまだったと伝える。)

 源六が家に帰って、清三郎に手紙を見せる。手紙には雪か雨の降る晩に必ず廓を抜け出して清三郎に会いに行くと書かれていた。清三郎どころか源六も悪天候の日を待っていると、米太夫が現われて、当座の小遣いにと15両を置いてゆく。そして26日、雪が降っているので、瀬川が来るに違いないと用意をして待っているとなかなか来ない。源六の女房はお産の手伝いに大家さんから呼び出されて家を空ける。源六は清三郎を二階にあげて、貸本屋から頼まれた義士伝の写字をはじめたがそのうち寝てしまう。(「雪の瀬川」でも五蝶が忠蔵のところに金を届けてくる。忠蔵は相変わらず瀬川の真意を疑っているし、廓を抜け出すことは不可能だと決め込んでいる。女房がお産の手伝いに出かけ、義士伝を写字するのは同じである。)

 深夜、源六の住む路地に駕籠が入ってきたかと思うと、宗十郎頭巾をかぶって合羽を着た一人の背の高い武士が家へ入ってくる。これはどうしたことだと源六が慌てていると、武士は合羽をとり、頭巾を外すと、中から現れたのは瀬川花魁である。大きな髷に結った頭に頭巾をかぶっていたから背が高く見えたということで、二階から降りてきた清三郎と手に手を取り合って何も言わず涙にくれる。よもやま話をした後、瀬川はその夜のうちにまたしてあった駕籠に乗って吉原へ帰り、彼女が持ってきた金をもって、源六が芝口の店に出かけ、一番番頭を通じて一部始終を大旦那に伝えてほしいと頼んだところ、その骨折りが功を奏して、清三郎の勘当も赦され、瀬川を落籍して、二人は夫婦になって、松屋の跡を継いだという。(「雪の瀬川」では、合羽をとり、頭巾を脱ぐところの描写がより詳しくなっているが、読んでのお楽しみ。瀬川は廓へ戻らず、忠蔵が翌日店へ行って話をすると、父親が大病を患っているということもあって、勘当は許され、松葉屋へは身代金を払って、二人は夫婦になるという。店が江戸から15里離れた古河にあるということを忘れたような結末になっている。)

 「紺屋高尾」(5代目の古今亭志ん生は「幾代餅」として演じていた)と同様「傾城に誠あり」という咄であるが、もちろん、例外的な話だから語り継がれたということも忘れてはならないのである。圓生の高座は、落語らしいくすぐりもあり、また瀬川の服装の描写に見られる艶麗さもあって、(まだ耳の奥に残っている彼の声を思い出しながら)活字を追っていくのが楽しい。とくに、上記の梗概では省いてしまったが、忠蔵が善次郎を引き取る際に、大家さんに断りを入れると、大家さんがいろいろと助言をするくだりが面白い。食べ物について「くさやの干物なんざいいね、うん。通人が『ああ、こりゃちょいと乙なもんですな』なてんで喜ぶ。それもね、丸焼きにしたやつをお皿の上へのっけてつき出すなんざ、野暮でいけませんよ、うん。干物というものは、ま、お前も知ってるだろうが、ありゃ背中の方から焼くもんだ。おなかの方はひっくり返して、ちょいっと火にかけりゃそれでいい。それから頭を取って、まん中の骨もとってね、しっぽの方の皮はこりゃ取らなくっちゃいけませんよ… 一口でもって食べられるように、頃あいの大きさにこいつをむしってね、うーん、醤油はやはりいいのを使わなくっちゃいけない。それに味醂なぞがあるといいな。それをほんの心もちたらして、醤油をかけるわけだ。それからやはり鰹節(かつぶし)をかけなくちゃいけないだろう。香の物だって、沢庵の輪切りを出しておくなんてのは、こいつもやっぱり野暮でいけないからこう、隔夜(かくや)に切ってね、水へ泳がせて、ここで塩気を抜いてこいつを絞って、醤油(したじ)をかけて、鰹節はまァ、あってもなくてもいいようなもんだがやっぱりかけた方がよかろう」(『雪の瀬川』、54-55ページ) 食べ物一つとっても、とうとうと意見を開陳する世話好きな大家さんの見識、いやはや、どうも恐れ入りました。まだまだ大家さんの助言は続き、忠蔵は最後には、大家さんから鰹節を借りて家に戻る。ということで、六代目三遊亭圓生という落語家と人情噺の魅力を改めて認識し、いつまでたっても蔵書の整理は進まないというお粗末である。 
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『太平記』(146)

2月19日(日)晴れ、温暖

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけ、細川定禅の率いる中国・四国の兵たちを寺に入れた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、足利軍は大敗したが、細川定禅の活躍で宮方を撤退させた。27日、宮方は再度京へ攻め入って勝利した。さらに楠正成の謀で比叡山を撤退するように見せかけた宮方は、30日、油断した足利方を京から攻め落とした。摂津へ落ちる途中、尊氏は、供をしていた薬師丸に、後醍醐天皇に対抗するため、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れるよう命じた。

 京都から丹波路を落ちていった尊氏であるが、味方の主だった軍勢が兵庫の湊川に集結しているという知らせを受けて、湊川に到着した。これまで規制を失っていた軍勢が、気力を取り戻して、あちこちから集まってきて、間もなくその軍勢は20万騎に達した。この軍勢ですぐに京都へと攻め上れが、宮方の軍勢は京都を支えることができないはずであったが、湊川の宿に特に何をすることもなく3日もとどまっていたために、抑えとして八幡に残しておいた甲斐源氏の武田信武は、敵の中に孤立して支えきることができず、宮方に降伏してしまった。もともと新田方に属していて、大渡・山崎の合戦で降伏して足利方になっていた宇都宮公綱も足利方の反攻を待ちきれずに、新田方に戻ったので、宮方の軍勢はますます大勢になって、龍や虎のような威勢をふるう様子であった。

 2月5日、顕家卿、義貞朝臣は10万余騎を率いて京都を出発し、その日、摂津の国の芥川に到着した。この知らせを聞いた尊氏は、そうであれば道中で迎え撃てと弟の足利直義に16万の軍勢を率いさせて、京都へと向かわせた。

 そうこうするうちに、両軍の軍勢は思いがけずも2月6日の巳の刻(午前10時ごろ)に、手島河原(箕面川の豊島河原)で遭遇した。互いに旗を進めて、東西に陣を張り、南北に軍勢を配置した。北畠顕家がまず2度攻め寄せ、有利に戦いを進められなかったので退却し、続いて宇都宮が、新田方への忠節の証を示そうと200余騎を率いて攻勢に出る。これまた戦死者を出して後退したので、入れ代わって義貞の弟の脇屋義助が2,000余騎で攻め寄せる。足利方では足利一族の仁木、細川、畠山の各氏と家老の高一族が、前日の敗北の恥をすすごうと、命を捨てて戦う。宮方では新田一族の江田、大館、里見、鳥山がここを突破されればもう後に引く場所はないと命を顧みずに防戦に努める。このようにお互いに必死に戦ったのであるが、ついに勝敗の決着がつかないまま、その日の戦闘は終わった。

 楠正成は、宮方の主力から遅れて京都を出発したのであるが、合戦の様子を観察して、ひそかに自分の率いる700余騎を神尾(かんのお、兵庫県西宮市甲山町の真言宗寺院神呪=かんのう寺、甲山大師)の北の山から回らせて、目を凝らしても見えないような暗闇の中で、夜襲をかけた。(他本は、「神尾」を「神崎」と記しているようである。だとすると尼崎市の神崎になる。) 直義の率いる足利方の軍勢は、昼間の合戦が一日中続いたので疲れているうえに、急に背後から夜襲をかけられ、慌てふためいて、一戦も戦わず、兵庫を目指して退却していく。義貞は、これを追って西宮に進み、直義は味方の軍勢を立て直しながら、湊川に戻って陣を構える。

 同じ2月7日の朝、凪いだ海を見渡すと、はるか沖の方から大きな船が500艘、追い風を帆に受けて近づいてきた。どちらに味方する軍勢であろうかとみているほどに、200余騎は、舵を取り直して、兵庫の島に漕ぎ入れた。残る300余艘は、帆を張ったままにして西宮に漕ぎ寄せた。これは豊後(大分県)の大友、長門(山口県西部)の厚東、周防(山口県東部)の大内らが足利方に加勢しようとしてやってきたのと、伊予(愛媛県)の土居、得能が宮方にはせ参じようとしてやってきたのと、これまでは方向が同じなので、一緒だったのが、今日は二手に分かれて、それぞれが味方しようとする方に向かったということである。

 両軍ともに、まだ戦っていない新しい軍勢が到着したので、お互いに兵を進めて、小清水(兵庫県西宮市越水町)で向かい合う。足利方は数において勝る大軍ではあったが、これまで戦ってきた兵は、新手の軍勢に戦わせようと、戦う様子を見せない。大友、厚東はまた、必ずしも自分たちだけの重要な合戦ではないと思っていたので、それほど勇み立つ様子もない。宮方はというと、比べてみるほどのこともない小勢であったが、これまで戦ってきた兵は、他人事の合戦ではない、我が身の存亡にかかわることだと思い、新たに加わった土井、得能は、今日の合戦でふがいない戦をしては、(土井・得能を含む)河野一族の名折れになると、競い立っている。ということで、両軍がまだ戦わないうちから、結果の兆しは両軍の気勢に現れ、勝敗は何となく見えているように思われた。

 そうはいっても、新手の軍勢の決まりとして、大友、厚東、大内らの軍勢2,000余騎が足利方の先頭で進んだ。土居、得能はこれを見て、彼らとの戦いは他に譲れない自分たちの仕事だと、3,000余騎の軍勢を前面に並べて、矢を1筋ずつ射交わす時間もないほど急に、一斉に刀を抜いて攻め入る。大友、厚東、大内は一太刀切り結ぶと、さっと左右へ分れてしまった。土居、得能はそのまま敵の後ろの方まで駆け抜けて、直義が控えていた湊川に迫っていく。「葉武者どもに目な懸けそ。大将に組め」(第2分冊、481ページ、雑兵どもを相手にするな。大将に取り組め)と指示して、風のごとく散り、雲のごとく集まり、鬨の声をあげて懸け入り、懸け入っては戦い、千騎が一騎になるまでも退却するなど、互いに声を交わして戦い続けたので、直義は、これでは敵わないと思ったのであろうか、また兵庫を指して退却していった。

 何度戦っても、味方の軍勢がはかばかしい戦果をあげないという様子を見て、これはどうもだめだと思ったのであろうか、尊氏も、気力が屈した様子であった。そこへ豊後からやってきた大友貞宗が現われ、現在の状態では有利な合戦ができるとは思われません。我々が昨日やってきたのは、そうなるべき(九州へといったん退却すべき)運だと思われます。幸いに船も多くありますので、九州へと退却なさいませ。九州の有力大名である少弐貞経が味方なので、九州の武士たちはそれに追随してくるでしょう。そうして軍勢を多く集めれば、すぐに大軍を動員して、京都を攻めて攻略するのは簡単になるでしょうといったので、尊氏も納得して、すぐに大友の船に乗り込んだ。

 書軍勢はこれを見て、将軍が船に乗り込んで落ち延びようとされていると騒ぎ立て、とるものもとりあえず、乗り遅れまいと慌てて船に駆け寄る。船はわずかに300余艘であり、乗ろうとする兵は20万騎を越えている。1艘に1,000人ばかりが乗り込んだ船はその重さで沈んでしまい、乗っていたものは1人も助からない。残った船は、これを見て、それほどは人を乗せまいと、纜を解いて舟をこぎだしてしまう。乗り遅れたる兵たちは、武具や衣装を脱ぎ捨てて泳いで船に乗り込もうとするが、船の上からそれを発ち、なあ義なたで切り殺し、払い落とす。結局、乗り込むことができず、浜辺に帰った者は、自害をして、その死骸が波に揺られることになった。

 尊氏は、かつて平家が一時都を築こうとした福原冴えも支えきれず、船の上から渚を照らす月と、海岸に寄せる波に涙を添えて傷心の想いにふけりながら、筑紫へと落ちてゆく。義貞は、勝利の手柄を立てて、降参した数万人の武士たちを引き連れ、都に帰っていく。悲しみと喜びがたちまち所を変えて、現実も夢のようである。

 楠正成が足利直義の軍勢を奇襲で破るところなど、義経が福原の平家を奇襲で破る場面を思い出させる。尊氏が福原を離れる場面の描写も、『平家』を意識した筆致である。
 とにかくこれまで、足利方は数の上では優勢なのだが、士気が上がらず、宮方は数においては劣勢だが、士気が高いという状態が続いている。しかし、それ以上にこの時代の特色を表しているのは、その時々で有利な方に従いながら、保身を図っていくそのほか大勢の武士たちではないかと思う。さて、足利方が去った後、京都はどうなっていくのか、それはまた次回。

日記抄(2月12日~18日)

2月18日(土)晴れ

 自分つくりのための読書とでもいおうか、月曜日・火曜日にはレーヴィットの『ヘーゲルからニーチェへ』、水曜日~金曜日には木庭一郎『ハイネとオルテガ』(自分の研究のための参考になる内容が記されている)、土曜日・日曜日には大野晋・丸谷才一『日本語で一番大事なもの』を読んでノートを作ることにしている。計画通りに進捗しているとはいいがたいのが問題である。この、読書が前回、書き洩らしたことと関連する:
 2月11日
 NHKラジオの「朗読の時間」で「芥川龍之介随筆集」を取り上げているのは既に書いたが、本日の放送分で「本所 深川」が終わって「澄江堂雑記」に入る。芥川の子ども時代の思い出の地の再訪録である「本所 深川」に比べて、いろいろなことを書き散らしている「澄江堂雑記」の方が面白くないのは、致し方のないことである。その「本所 深川」の最後のところで、昔住んでいたところを再訪した感想を芥川が家族のものに語る箇所があり、そこで、『方丈記』の一節が引用されている。家族のだれ一人として、『方丈記』を知らないというのが、教育史的な事実として興味深い。
 
 大野・丸谷『日本語で一番大事なもの』の中で、大野が次のような発言をしている:
「…昨年インドに行きましたとき、私の通訳として助けてくれたインドの若い女の人に、川の流れを見て、われわれは「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」というと、言ったんですね。また中国では「ゆくものはかくのごときか昼夜をおかず」と孔子が言ったという話をしたんです。そうしたら彼女曰く、「水は流れてゆくけれども、その本質において何の変りもない」と。これには私も驚きました。インドの人には、やはりサンスクリット的世界のとらえ方があって、時間によって物事が流動していくことを詠嘆しない、事の本質はなにかというようにだけ見るわけなんですね」(119ページ)。
 鴨長明が見ている水の流れは、小川だったかもしれないという説があり、孔子の感慨とは異質のものがあるのかもしれない。インドの若い女性の意見は、彼女だけのものであって、ほかのインド人が同じように考えているかどうかはわからない。また、「サンスクリット的」というレッテルの張り方が正しいとは思われない。とは言うものの、この話は考えさせられるねえ。

2月12日
 この日の当ブログで大隅和雄『中世の声』について取り上げたが、大隅さんは『平家物語』についてかなりの紙幅を割いて語っているけれども、その書き出しと『方丈記』の書き出しに通底するものがあるのではないかとは論じていない。実は、『太平記』と『徒然草』には、書き手の側では何とか話をまとめようとしているのだけれども、現実の方がまとまってくれないという共通点があり、それに比べると『平家』と『方丈記』はまだ現実の展開が著者にとってとらえやすいものであったのではないかと思っているのである。あるいは『太平記』+『徒然草』+『増鏡』と、『平家』+『方丈記』+『今鏡』という2対のトライアングルの比較をした方がいいのかもしれない。

 大隅さんの著書の中で、ヨーロッパの宗教改革と鎌倉新仏教についての対比の可能性について触れている箇所があるが、ヨーロッパの側から、あるいは日本とヨーロッパ以外の宗教史研究の中から、この問題について論じた例があるのであろうか。ヨーロッパの国々の中でも、宗教改革に類する動きがあった国もあるし、起きなかった国もある。中国や韓国で鎌倉の新仏教に類似した宗教的な動きはなかったのであろうか・・・という風に考えるべき問題はきわめて多い。

2月13日
 NHK「ラジオ英会話」の続き物語”The Secret Admirer"はいよいよ”Valentine's Day Dance"の日を迎える。クレアもヴェロニカもこの日を迎えて大いに興奮している。ヴェロニカが、クレアに言う:
Maybe your Prince Charming will be there. (あなたの夢の王子様がそこに来るかもしれないわ。)
 「プリンス・チャーミング」というのは、『白雪姫』の登場人物としてディズニーが創造した存在かと思っていたが、もっと古くからある言い回しのようである。

2月14日
 「ラジオ英会話」の”The Secret Admirer"の続き。Valentine's Day Danceに着ていくものがないがないというクレアに、ヴェロニカは手ごろな店を紹介する。その店で、クレアは彼女当てのValentine Messageが記されていたのと同じ便箋を見つける。店員によると、最近、若くてtall, dark and handsome (長身で色浅黒くハンサムで)という伝統的な美男3点セットの男性がこの便箋を買っていったという。うーん、私はこの3点セットのどれにも当てはまらないなぁ。

2月15日
 「ラジオ英会話」の”The Secret Admirer"の続き。クレアとヴェロニカはダンスの会場に到着、クレアはアダムに声をかけられ、
May I have this dance? (この曲、踊っていただけますか?)
と申し込まれる。と、すぐにクレアの本命であるジョンが現われて、
You look absolutely stunning tonight. (今夜はハッとするほど素晴らしいね!)と彼女を褒めて、
Save the next one for me. (次の曲、僕にとっておいて。)と頼む。
 ジョンの役を遠山先生が演じているのがなんとなく、可笑しい。

2月16日
 『朝日』朝刊に「繰り返し学習 やっぱり有効」という記事が出ていた。問題は、いつ、どのように繰り返すかということのようである。

 「ラジオ英会話」の”The Secret Admirer"の続き。アダムと踊っていたクレアは、アダムがヴェロニカに恋い焦がれていているが告白できないのだといわれる。
I just can't get up the courage to ask her to dance. (勇気を出してダンスを申し込むことがどうしてもできないのです。)
Veronica would dance with you in a heartbeat. (あなたとなら、ヴェロニカはすぐさま踊るわ!)
クレアとジョンの方は、どうなるのであろうか?

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
To invent, you need a good imagination and a pile of junk.
          ――Thomas A. Edison (U.S. inventor, 1847 -1931)
(発明するためには、優れた想像力とガラクタの山が必要だ。)
 失敗せずに、成功しようというのは虫が良すぎるという発言である。

 同じく「まいにちフランス語」応用編「ガストロノミー・フランセーズ 食を語り、愛を語る」は”Bistrot ou brasserie? (1)  La nouvelle cuisine française redéfinit les codes"(ビストロ、それともブラッスリー (1)規範を再定義する新しいフランス料理) という話題を取り上げた。ビストロは、飲み物を飲んだり、ちょっと気軽なものを食べたりするため、立ち寄る場所であり、ブラッスリーは手軽で家庭的な料理を出し、サービスもシンプルな店であるという。レストランは、特別な場所で、サービスは非の打ちどころのないもの、料理は手本となるほど立派なものでなくてはならないという。

2月17日
 「まいにちフランス語」は”Bistrot ou brasserie ? (2)"で、前回紹介した3種類の店の他に、1990年代以降、bistronomieと呼ばれる新しい種類の店が登場して、力関係を変えたという話になった。
Désormais, on peut goûter une cuisine savoureuse dans de petits établissements aux tarifs accessibles. (以来、小さな店で、手ごろな値段で、おいしい料理を食べることができる。) あなたもビストロノミーを試してみたら?と勧める内容であった。

2月18日
 パナホーム・ビューノプラザ大塚で開かれた「別府葉子シャンソンライブ2017」に出かける。ヴォーカル&ギターが別府さん、ピアノが鶴岡雅子さん、コントラバスが中村尚美さん、ヴァイオリンの会田桃子さんがゲストとして参加という顔ぶれは、昨年9月のコンサートと同じ。今回は会場がより小規模なので、観客との距離が近く、音楽とおしゃべりをより身近に楽しむことができた。「愛の讃歌」「百万本のバラ」などこれまでもコンサートで歌われてきたおなじみのシャンソンのほかに、中島みゆきさんの曲とか、別府さん自作の「バラ色のジュテーム」という新曲とか、私が学生時代に確か弘田三枝子さんが歌っていた「夢見るシャンソン人形」とかが歌われ、なかなか盛りだくさんな内容で、客席も大いに盛り上がった。
 最初に歌われた「白い恋人たち」を1970年代の歌と紹介していたが、正確には1968年のグルノーブル(冬季)オリンピックの記録映画の主題歌である(この頃は、夏と冬のオリンピックを同じ年に開催していた。冬がグルノーブルで夏がメキシコ・シティであった)。思い出を整理してみると、オリンピックの記録映画で私が見たことがあるのはこの作品だけである。市川崑監督による東京オリンピックの記録映画も、篠田正浩監督による札幌(冬季)オリンピックの記録映画も見ていない。
 別府さんも言っていたように、この映画の監督はクロード・ルルーシュで、『白い恋人たち』に取り組む一方で、ルルーシュは『ベトナムから遠く離れて』に参加したり、アメリカ資本で『パリのめぐり逢い』をとったりしていた(『パリのめぐり逢い』に出演していたキャンディス・バーゲンはトランプ大統領と同じころに、同じペンシルヴェニア大学に在学していたはずである)。そのあたりの事情を思い出してみると、結構面白い。映画を見た時のことを思い出し、セーヌ左岸派と『カイエ・デュ・シネマ』という戦後のフランス映画の2つの流れの中で、中立的であり、また観客が呼べる映画を作れる監督というとルルーシュとジャック・ドミーくらいしかいなかったのかななどと考えたりもした。(ジャック・ドミーがつくった記録映画『ロワール川の木靴づくり』はものすごく、いい映画であった。『ローラ』よりも、『シェルブールの雨傘』よりも、この作品の方が好きである。もし、ドミーがグルノーブル・オリンピックの記録映画を作っていたら、どんな作品になっただろうかなどと考えるのも楽しい。年をとった分、思い出すこと、考えることは多くなっているのである。) 
 今回、歌われた「バラ色の人生」はオードリー・ヘップバーンとゲーリー・クーパー(とモーリス・シュヴァリエ)が共演した『昼下がりの情事』を思い出させるし、そうした選曲に映画好きの別府さんの個性が反映しているのかなとも思った。

呉座勇一『応仁の乱』(10)

2月17日(金)晴れ、風が強い

 応仁の乱は応仁元年(1467)年から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱である。この書物は大乱の経緯を同時代に奈良の興福寺大乗院の院主であった経覚の『経覚私要鈔』と彼と入れ替わって院主を務めた尋尊の『大乗院寺社雑事記』の2人の高僧が残した2篇の日記を史料とし、この時代の僧侶・貴族・武士・民衆が大乱の渦中でどのように生き、何を考えていたかを探ろうとする。
 興福寺のある大和に隣接する河内の守護であった畠山氏では義就と政長とが家督を争っており、幕府の管領であった細川勝元の支持を得た政長が家督と認められ、管領の地位にも就いたが、河内に根強い支持基盤を持ち、大和の南部の大乗院方国民である越智氏の援助も受けていた義就が上洛、将軍義政に迫って家督を奪い返したことで、義就の背後にいる幕府の実力者山名宗全と、政長の背後にいるもう1人の実力者細川勝元との対立が深まり、応仁元年に戦闘が開始された。宗全と勝元とは、将軍義政の後継争いに巻き込まれた形ともなり、この当時に起きた戦法の変化と相まって、彼らの所期に反して戦闘は長期化し、初めは京都市内における市街戦であったのが、市内への補給路の確保・遮断をめぐる戦いへと拡散していった。
 このような戦乱の結果、地方の荘園からの年貢の納入が滞ることもあって興福寺の経営状態は困難になり、75歳の経覚に4度目の別当(寺務)への就任が要請された。経覚は朝倉孝景らの武士の協力を得ながら荘園支配の改革を進めようとするが、なかなかうまくいかなかった。

 呉座さんは経覚と尋尊が対照的な性格の持ち主だった、「一言で表すなら、経覚は能動的、尋尊は受動的である」(136ページ)という。従来の研究は早くから活字化されていた『大乗院寺社雑事記』を利用することが多く、その記主である尋尊に対しては貴族の出身で戦乱を傍観者的で冷ややかな目で見ているという批判的な見解が強かった。しかし、経覚の『経覚私要鈔』が活字化されてみると、同じく貴族の出身であった経覚が興福寺をめぐる様々な事態に積極的に取り組む姿勢を見せていること、にもかかわらずその結果が必ずしも良いものではなかったことがわかるとも論じられている。
 「経覚の判断は前例にとらわれない柔軟さを持っている。だが、その反面、長期的展望に欠け、その場しのぎのところがある。…興福寺や大乗院にしてみれば、武士たちに振り回されている不満はあっただろう。
 その点、尋尊は常に冷静沈着である。目の前で起こっている事象に対して軽々に判断を下さず、記録にあたり、過去の似た事例を調べたうえで方針を決定する。その態度はひどく消極的に見えるが、大乗院が曲がりなりにも大乱を切り抜けることができたのは、門主である尋尊の慎重さのおかげだろう」(138-139ページ)

 興福寺の経営をめぐってだけでなく、尋尊の後継者への教育をめぐっても、経覚と尋尊とは対立した。九条家出身の経覚、一条家出身の尋尊に続いて、大乗院は二条家から政覚を迎えることになる。政覚は尋尊の弟子ということになるので、その教育について経覚が口を出すのが不快であったようである。尋尊は自分の例に従って政覚が修学し、盛大な法会を催すことによってその権威を確立することを望み、そのために苦労に苦労を重ねて段銭を集めている。とにかく、興福寺の存在、その儀式や祭礼を滞りなく行うことへの執着が大和をこの戦乱にあまり巻き込まれることなしに乗り切らせたのであった。

 尋尊の父は学者としても有名な一条兼良であったが、彼は一条室町にある邸宅から、戦火を避けて息子の厳宝が門主を務めている九条の随心院に移っていた。また彼の家族は尋尊を頼って奈良に逃れていた。その後、一条室町の邸宅は、文庫桃華坊とともに焼けてしまい(貴族の書庫が焼けるということが文化遺産の継承の中で持つ意味を考えてほしい)、九条付近も安全とは言えなくなったので、応仁2年(1468)年8月に、彼は奈良に移り住むことになった。彼は関白であったから都を離れるわけにはいかないはずであるが、この頃になると朝廷も開店休業状態であったのである。

 「尋尊は兼良たちの住まいとして、大乗院配下の院家である成就院を提供した。兼良の一族・奉公人は大人数であり、しかも居候だからつつましい生活をするという発想は最上級貴族である兼良にはない。彼らの膨大な生活費を賄うために、尋尊は借金をしたり、大乗院領に段銭をかけたりした。」(144ページ) 「尋尊の経済力に支えられた兼良一家の疎開生活は、在京時の生活にひけをとらぬほど優雅で快適だった。」(145ページ) ほかの有力な貴族たちも奈良に疎開していたので、遊び相手に事欠かなかったのである。
 まず連歌で、当時随一の文学者でもある一条兼良は成就院で頻繁に連歌会を開いた。「応仁の乱が始まる前、京都で生活する摂関家の人々と奈良興福寺の僧侶たちが一緒に連歌を行う機会はめったになかっただろう。応仁の乱が期せずして生みだした文化交流は、双方に刺激を与えたと思われる。」(同上) 〔これは文学史の方から確かめてみる必要がありそうだ。〕
 さらに宴会、新猿楽の興行、林間(本来は「淋汗」で基本的に風呂饗応であるが、酒茶での接待などが伴う)など様々な趣向が紹介されている。「応仁の乱のまっただ中に、このような豪壮な遊びが行われていた事実には驚かされる」(149ページ)と著者は記している。これもまた、戦時の社会の一部ではあったが、大寺院の高僧や疎開してきた上級貴族はさておいて、大和の衆徒・国民はどのような日々を過ごしていたのか、それはまた次回で取り上げることになる。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(13-1)

2月16日(木)晴れ、温暖

 ベアトリーチェに導かれて天上界に旅立ったダンテは、月天で<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>にこだわった人々の魂に迎えられた。さらに太陽天に達した彼は神学者・哲学者たちの魂に出会う。生前ドメニコ会士であったトマス・アクィナスの魂は、フランシスコ会の創始者である聖フランシスコの生涯と業績について、フランシスコ会の総長であったボナヴェントゥーラ・ダ・バニョレージョの魂は聖ドメニコの生涯と業績について語る。この2人の聖者は教会を支えるために、神慮によって下されたのであるが、両修道会ともに清貧の教えから外れ、世俗化し堕落していることを嘆く。

 それぞれが12の輝く魂からできている二つの輪が、宇宙の調和を表現しながらダンテたちの周囲を喜びながら踊った。それに続いて魂たちは三位一体とその実現でもあるキリストの神性と人性を祝福する歌を歌った。

歌と回転がその舞踏を終わりまで導くと、
それら聖なる光は私達に注意を傾け、
喜びにあふれたまま、それまでの想いから別の想いへと向かった。
(196ページ)
 その後で、トマス・アクィナスの魂が再び口を開き、
こう言った。「一本の穂が脱穀された今、
その種が集められた今、
優しき愛は私に別の穂を叩くよう求める。
(197ページ) 「穂」は疑問のこと、「叩く」はその疑問を明らかにすることで、話は少し元に戻るが、第10歌でトマスは
その中には高い知性がいる。その賢知の
深いこと、真理の書が真実ならば、
彼に匹敵する洞察力を備えた人物が立ったことはない。
(160ページ)とイスラエルの王であったソロモンについて述べた。この言葉をめぐる疑問である。

君は信じている、味見をしたせいで全世界に代償を払わせている
美しい頬を作り上げるために、
かの肋骨が抜きとられた胸のうちにも、
(197ページ) 「美しい頬」は知恵の木の実を味わったために、人類の原罪の元凶となったエヴァ(『新共同訳 聖書』ではエバ)、「かの肋骨が抜きとられた胸」はアダムの胸を指す。旧約「創世記」3‐21と22には、神がアダムの胸からあばら骨を抜き取ってエヴァを造ったことが記されている(なお、同じ「創世記」の1-27には「神はご自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創造された。/男と女に創造された。」とある)。

槍に貫かれることで
それ以前とそれ以後の贖いをなし、
どのような罪と秤にかけてもそれに打ち勝つあの胸のうちにも、

人類が持つことを許される限りの
知性の光のすべてが、前者と後者を創造された
御力によって注がれたことを。
(198ページ) 十字架で槍に貫かれて人類の原罪を贖い、あらゆる罪からの救いを開いたキリストと、神によって直接作られたアダムが人類史上最高の知性を持つとダンテは信じてきた。

それゆえに君は、私が先ほど話したことに驚嘆している。
第五の光の中にいる善は
それに匹敵するものを持ったことはないと私が語った時のことだ。
(同上) トマスの魂が、ソロモン王に匹敵する知性の持ち主はいないと語ったことに、ダンテが驚き、真偽をただそうとしていることに気付いているのである。
さあ、私が君に答えることに目を開きたまえ。
さすれば、君の信じていることと私の言ったことが、
円とその中心の関係のごとく真理の中にあることを君は見るであろう。
(同上) ダンテの信じていることと、トマス・アクィナスの言葉は、円周上の2点が同一の中心点を持つように大いなる真理に対して、個別の真理としてどちらも正しいというのである。
 翻訳者である原さんは、アダムのあばらからその1本が抜かれ、その骨からつくられたエヴァの過ちにより人類が天国を追放され、今度はイエス・キリストがその胸に槍を受けたため、再び人類に天国が与えられた。イエス・キリストの胸に刺さる槍は、アダムから引き抜かれた骨を象徴していると、両者の関係に注目し、世界は調和・対称関係で作られているというダンテの思想をその中に見ている。(アダムとエヴァが追い出されたのは、地上楽園からであり、イエスによって天国の門が開かれたというのと、厳密には対応しないのではないかという気もする。)

 トマスは説明する:
不滅のものも必滅のものも、
我らの主が愛によって生み出した
イデアがきらめいた反射光以外の何物でもない。
(198-199ページ) 主<父>が、愛<精霊>を通じて、万物の原型であるイデア<子>により、万物を創造した。
 そして、宇宙を9層に形作る永遠なる天使たちは、神の叡知の光を反射して地上に伝えているが、その光は全体としては三位一体を維持している。
 地上の事物は、その天使たちが司る天空に応じた段階を経て伝えられる神の力によって形相を与えられるが、地上に届く力は減衰しているために、生物も非生物も含めて最後には滅ぶ偶有物(存在に必然的な理由がなく、必然の事物の「影響」で存在する、あるいは存在しなくてもよかったもの)と化す。そして、天空の状態は刻々と変化するので、地上の事物も多様性を持ち、同種の中でも出来、不出来が起こる。
このことから、種においては
同一の木が良い実や悪い実を結び、
君達が異なる性質を持って生まれてくるということが起きる。
(200ページ) ここでトマスが展開する説明は回りくどく、まだ、ダンテが心に抱いている疑問に対する最終的な回答はなされていないが、第13歌のだいたい半分のところまで来たので、今回はここまでとしておく。
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Author:tangmianlaoren
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