5月18日(月)曇り、雨が降りそうで、降らない。 観応元年(南朝正平5年、西暦1350年)12月、足利直冬(尊氏の庶子で、直義の養子。直義の命で九州に赴き、勢力を拡大していた)討伐のために西国へ向かった尊氏は、都を脱出した直義が南朝と手を結んだことを知って、備前から引き返した。翌年正月、直義は、石清水八幡宮に陣を置き、それに呼応して、越中守護で足利一族の桃井直常(もものいただつね)が上洛した。尊氏の留守中、都を預かっていた足利義詮(尊氏の嫡子、直冬の弟)は形勢不利と見て、京を退いた。正月15日、尊氏と高師直は義詮と合流し、京一帯で直常軍と戦った。この時、師直の家臣の阿保忠実と桃井軍の秋山光政が四条河原で華やかな一騎打ちを演じ、人々が絵に描いてもてあそぶほどの評判となった。 桃井との合戦に勝利したにもかかわらず、離反者が続出した将軍方は、丹波路を西へ落ち、義詮は丹波井原の石龕寺に留まった。石見の三角兼連の三角城を攻めていた高師泰(師直の弟)は、知らせを受けて京へ向かう途中、備中で上杉朝定の軍を破り、高師夏(師直の子)とともに、播磨の書写坂本で尊氏、師直の軍と合流した。 『観応の擾乱』(中公新書)の中で亀田俊和さんが書いているが、尊氏が戦闘に勝ったにもかかわらず離反者が続出したのは、それまでの戦いの戦功に対する恩賞が少ないことに不満をもった武士が多かったことが影響しているようである。ところが、味方に加わるものが多かったにもかかわらず、直義が積極的に動こうとしていないことも気になるところである。 さて、石清水八幡宮に陣を構える直義は、足利一族の石塔頼房を大将とし、愛曽伊賀守(三重県度会郡大紀町阿曽に住んだ武田一族の武士)、矢野遠江守(三重県一志郡矢野の武士)以下5千余騎を書写坂本の尊氏・師直攻略のために派遣したが、書写坂本には師泰が多数の軍勢を率いて合流したという情報を得て、播磨国光明寺(兵庫県加東市光明寺にある真言宗寺院)に陣をとり、八幡へ増援を要請した。 尊氏の方ではこの情報を聞いて、増援の兵が光明寺に到着しないうちに、まずこれを攻め落としてしまえと考え、観応2年2月3日、書写坂本を出発し、1万余騎の兵で光明寺の四方を包囲した。石塔は城を固め、山に籠ったので、尊氏は曳尾(ひきお=引尾。光明寺の西、加西市方面への道)に陣をとり、師直は啼尾(なきお=鳴尾。小明時の北、西脇市方面への道)に陣を構えた。仏教の言葉で名詮自性(みょうせんじしょう、物の名はその本性を表わす)というが、尊氏も師直も実に縁起の悪い地名の場所に陣を構えたものである。 2月4日に戦闘開始の儀礼である矢合わせ(双方が鏑矢を射合わす)が行われ、寄せ手は高倉の尾から攻め寄せたが、愛曽は仁王堂(寺の仁王門)の前で待ち構えて戦う。城内で守っていたのは命知らずの無頼の武士たちであり、この戦いが勝敗の分かれ目になると決死の覚悟を決めて戦いに臨んでいる。これに対して、寄せ手の方は名を知られ、大禄の大名たちがそろっていたが、味方が多数であることだけをあてにして、この戦いに勝って自分の未来を切り開こうなどという意気込みはまったくもってなかったから、いざ戦闘ということになると守る側の方が優勢になるのは当然のことであった。 寄せ手に加わっていた赤松円心の三男の則祐は700余騎を率いていたが、遠くから城の様子をうかがって、「敵は無勢なりけるぞ。一攻め攻めて見よ」(第4分冊、408ページ)と下知を下した。そこで配下の浦上行景と五郎兵衛(ともに揖保郡浦上郷=たつの市に住んだ武士)、吉田盛清、長田資真(加古川市に住んだ武士)、菅野五郎左衛門(相生市に住んだ武士)らが急な啼尾の坂を攻め上って、城の垣のように並べた楯の下にまで到着した。この時に、他の道を包囲していた武士たちもこれに呼応して攻め上れば白を一気に攻め落とすことができたかも知れなかったのに、ほかの武士たちは何をしなくても、今晩か明日のうちには城内の武士たちは戦意をなくして落城するだろう、そんな城をむりに骨を折って攻めても何になるだろうと傍観していた。そのため、浦上以下の武士たちは掻楯の上から矢を射かけられて進むことができなくなり、もとの陣へと戻ったのであった。 城内の兵たちは手合わせの合戦で寄せ手を退け、多少明るい気分になったとはいうものの、寄せ手は大軍であり、城内の防御の構えは十分に整っておらず、最後にはどんな結果が待ち構えているのかと、石塔頼房、それに備後から師泰軍に追われて逃げてきた上杉朝定らは安心できない様子であった。 そんな時に、伊勢からやってきた愛曽の召し使っている童が神がかりをして、和が軍には二所大神宮(伊勢神宮の内宮と外宮)の神々がついており、この城の三本杉の上に鎮座されている。寄せ手がいかに大勢でも、この城が落城することはない。それだけではなく、高兄弟はその悪行の報いで七日以内に滅亡するだろうと言い、竜神が苦しめられている熱を冷ますと言って寺の中の閼伽井に飛び込んだところ、井戸の水が熱湯になるという出来事が起きた。城内のひとびとは、自分たちには神のご加護があると確信して、勇気を得たのである。 この奇瑞の噂は寄せ手の赤松則祐のところにまで伝わってきて、どうもこの様子ではこの戦いははかばかしいことになりそうもないなと気にしはじめていた。そこへ、彼の兄範資の子で、則祐の猶子になっていた朝範が、兜を枕にして転寝をしていた時の夢で、寄せ手1万余騎が同時に掻楯の真下に攻め寄せ、同時に火をつけたところ、石清水八幡宮のある男山(京都府八幡市)、金峯山寺のある吉野の山々の方から数千羽の山鳩(鳩は八幡神の使いである)が飛んできて、翼を水に浸し、櫓、掻楯に燃えついた火を消してしまった。朝範はこの夢を則祐に語り、則祐は、これを聞いて、思っていた通りだ、この城を攻め落とすことは難しいのはなぜかと思っていたが、果たして神明のご加護があったのだ。これは事態が難しくなる前に、自分たちの本拠に帰った方がよさそうだなどと思い始めた。ちょうどそこへ、美作から敵が攻めてきて、一族の本拠地である赤松(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)に来襲したという情報が入ったので、則祐は光明寺の麓に構えていた陣を解いて、白旗城(赤穂郡上郡町の白旗山に城址がある。赤松氏の本城であったが、1441年に嘉吉の乱の際に落城した)へと帰っていった。 赤松が本拠へ帰っていったことで戦いの様相はますます不透明になった。どうもやる気のなさそうな直義ではあるが、それでも石塔・上杉に援軍を送るくらいのことはするだろう。この先、何が起きるか、特に童子の予言のように師直・師泰兄弟が滅びるかどうか、気になるところではあるが、それはまた次回以降に。 光明寺という寺は鎌倉をはじめ、あちこちにあるようであるが、ここに出てくる光明寺は播磨の真言宗の寺だということで、私の知り合いの1人がやはり兵庫県(播磨)の真言宗の寺の住職をしているので、気になって調べてみたところである。光明寺ではないが、やはり由緒ある名刹のようで、大学時代に勝手なことを言って揶揄ったりしてどうも済まないことをしたと反省しているところである。
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5月17日(日)晴れ、気温上昇 ベネット家の住むロングボーン(架空の地名)一帯の中心的な町であるメリトン(架空の地名)に駐在していた義勇軍の連隊がブライトン(イングランド南東部の海岸に面したリゾート地で、18世紀の終りから19世紀の初めにかけて後にジョージⅣ世となる王太子が離宮を建てるなど、この地を愛したこともあり、当時の文化の中心の1つであった)に移動するのに伴い、義勇軍のフォースター大佐の夫人の招待でブライトンに赴いた末娘のリディアが、連隊の中尉であるウィッカムと駆け落ちをするという事件が起きた。しばらく行方の分からなかったリディアとウィッカムであったが、ベネット夫人の弟であるガードナー氏から、ウィッカムの失踪の原因となった賭博による多額の借金返済の見通しが付けば、2人を結婚させることができるとの連絡があった。ベネット氏は急いで2人の結婚に同意する手紙を書いたが、義弟に思わぬ負担を強いてしまったことを気に病むのだった。その一方で、5人の娘の誰か1人でもいいから、金持の紳士と結婚させることを夢見ていたベネット夫人は、お気に入りの末娘が結婚するという知らせに舞い上がり、それまで臥せっていた病の床から跳ね起きて、ウィッカムが借金に追われている身であることも気にせずに、2人の結婚式と新生活について夢想を繰り広げるのであった。 今回は、第3巻第8章(第50章)の後半を取り上げる。 ベネット氏は、正餐の席でベネット夫人があれこれとしゃべるのを聞き、召使たちがいる間は黙っていたが、彼らが引き下がると、彼女には同意しないという自分の意見を述べはじめた。先ずロングボーンの近くに2人を住まわせるつもりはないし、この邸内に2人を迎え入れることはしないつもりだということ。さらに、ベネット氏が娘の結婚を祝福せず、結婚衣装に1銭も出そうとしないことをめぐっても夫妻の間で口論がつづいた。「ベネット夫人にしてみれば、娘がウィッカムと駈落して、結婚する2週間も前から同棲していたことよりも、娘が婚礼衣装も新調せずに結婚式に臨むことの方が、遥かに恥しいことだったのである」(大島訳、524ページ)。 エリザベスはダービーシャーのラムトン(架空の地名)で、ダーシーに動顛のあまり妹についての心配事を話してしまったことを後悔していた。2人の結婚という形で駈落ち事件が解決することが分かっていたら、駆落ちという家族の秘密を打ち明けないほうがよかったと思ったのである。彼がこの事件のことを黙っていて、誰にも漏らさないだろうということは信じることができたが、その一方で、このようなスキャンダルを起こした妹をもつ姉と結婚しようとは思わないだろうとも考えたのである。そして、彼とは二度と会うことがないだろうと思う一方で、彼に会いたいという気持ちが募るのを押さえられなかった。 「エリザベスは今になって、ミスター・ダーシーが気質的にも能力的にも自分にぴったり合った人だということが分り始めた。頭の働きも気性も、自分とは違っているが、自分の望みには充分叶っていそうであった。2人が結ばれていればどちらのためにもなったにちがいない。自分の気さくで陽気な性質によって、あの人の生真面目な性分は多少和らぎ、堅苦しい態度も少しは柔軟な、愛想のよいものになったかも知れない。そしてあの人の判断力と知識と幅広い世間智から、自分はそれ以上の大事な恩恵を受けたに違いない」(大島訳、526ページ。「気質的にも能力的にも」と訳されている個所は、原文ではin disposition and talents、「頭の働き」はunderstanding、気性はtemper、「気さくで陽気な性質」というのはher ease and liveliness、「判断力と知識と幅広い世間智」はhis judgment, information, and knowledge of the worldである。光文社古典新訳文庫の小尾訳では「性格といい、頭脳といい彼こそが自分にもっともふさわしいひとだということが、エリザベスにもようやくわかってきた。彼の知性も性格も、自分とは性質の違うものだが、自分の望みにすべて叶っていたと思う。これはふたりを引き立て合うむすびつきだったはずである。エリザベスの気どらず、活発なところは彼の心を和ませ、態度を改めさせていただろう。そして彼の判断力や該博な知識や人生経験などによって、エリザベスは多大な恩恵を受けていただろう」(小尾訳、下巻、186ページ)となっている)。〔正確さという点では大島訳の方に軍配が上がるが、読みやすさという点では小尾訳の方がまさると思う。〕 彼女がようやく理想的な組み合わせだと信じることができるようになった結婚の可能性が、それとは全く異質なリディアとウィッカムとの縁組によって絶たれようとしているのだと彼女は思った。そして、一時的な情熱が、2人で自立して生計を立てていく見通しに勝って成立した妹たちの結婚生活がこの先どうなるのかを予測することはできないものの、永続的な幸福とは無縁なものになりそうだと思ったのである。 ガードナー氏から、ベネット氏に宛てて折り返し返信があり、自分の金銭的な尽力をめぐる貸し借りについては気にしなくてもいいという文面が記され、それよりもウィッカムが今後どうすることになるかということの方が詳しく記されていた。 結婚式が済み次第、ウィッカムは義勇軍ではなく正規軍の北部に駐屯している連隊に入り、連隊旗手(ensigncy)を務める話がまとまっているという。〔東南部にいたのでは悪い友だちとの縁が切れないということであろう。なお、ensigncyは歩兵連隊の最下級の士官で少尉second lieutenantということになるが、この時代にはまだsecond lieutenantという階級はなかったようである。〕 新しい環境をえれば、ウィッカムも気分を一新して生活態度も変えるのではないかというのである。彼がブライトンで作った借金についてはガードナー氏がフォースター氏に事情を説明して、返済の手はずを整えたので、メリトンで作った借金についての事情説明はベネット氏にお願いしたいとのことである。返済の手続きは、ハガーストン弁護士(事務弁護士)の手を煩わすことになっている〔原文には弁護士にあたる語はなく、大島さんが補って入れている。ガードナー氏(とベネット夫人)の姉の夫のフィリップス氏も事務弁護士なのだが、遠くの親戚よりも近くの他人ということであろうか〕。結婚式後、もしロングボーンから招待があれば、新婚夫婦は花嫁の実家を訪問することになるが、そうでなければすぐに北部に旅立つことになるだろう。リディアは両親に会っておきたいという気持ちが強いようである。 ベネット氏と娘たち(とオースティンは書いているが、ジェインとエリザベスであろう)は、ウィッカムが義勇軍の連隊を離れることに賛成であったが、ベネット夫人はお気に入りのリディアが遠く離れたところに行ってしまうことに不満であった。彼女はフォースター大佐の夫人と仲が良かったし、義勇軍のなかには彼女と仲のいい士官たちが大勢いたというのである〔そういう環境から引き離したほうが、本人たちのためだということが、ベネット夫人には理解できない〕。 ベネット氏は、結婚式のあと実家を訪問したいというリディアの要求を受け入れるつもりはなかったが、世間体を考えれば、この結婚に両親が同意していることを示すためにも、訪問を認めた方がいいというジェインとエリザベスの説得に渋々応じることになった。とはいうものの、エリザベスは本心では、自分がかつて結婚の相手と考えたこともあるウィッカムと顔を合わせたくはなかった。 こうして第3巻第8章は終り、第9章では結婚したリディアとウィッカムがベネット家を訪問する。果たしてどんな人間模様が展開されるかは、また次回に。今回の個所では、エリザベスの心理の描写を通して、作者であるジェイン・オースティンの結婚観、一時的な情熱よりも、経済的な基盤を考えた縁組が必要であるが、そうだとしても男女の性格的な適合性と、両者がお互いに敬愛できるような関係が望ましいということが語られているのが注目される。リディアとウィッカムは一時的な情熱による縁組であり、シャーロットとコリンズ牧師の場合は経済的な条件だけが考えられている。ジェインとビングリー、そしてエリザベスとダーシーの恋の行方はどうなるのであろうか。
5月16日(土)雨 紀元1世紀、ローマ皇帝ネロに気に入られて厚遇を受けるが、やがて生じた確執のために執筆活動を禁じられ、皇帝暗殺を企てたピーソの陰謀(65)に加わったことにより、自殺を命じられたルーカーヌス(39‐65)の現存する唯一の作品であるこの叙事詩:『内乱』は紀元前1世紀、ローマが共和政から帝政へと移り変わる大きな節目となった、ポンペイウスとカエサルの間の戦い<内乱>を題材とするものである。この内乱は紀元前49年にカエサルがガリアからイタリアに侵攻して始まり、紀元前46年のアフリカでの小カトーの死をもって終わるが、叙事詩『内乱』は作者の死によりそこまでを語ることなく、紀元前48年にエジプトでポンペイウスが暗殺されるまでで終わっている。 カエサル軍の侵攻に対抗できずにイタリアを追われたポンペイウスは、ギリシア西部のエペイロスに渡り、そこで東方の諸勢力から援軍を募り、カエサルに対する反撃を試みようとする。紀元前48年にカエサルもエペイロスに渡り、遅れて到着したアントニウスと合流、要衝デュラッキウムに本拠を置くポンペイウス軍を包囲する。しかし、ポンペイウスはその包囲を突破、さらに攻撃してきたカエサル軍を破る。カエサル軍はテッサリアに移動、ポンペイウスもまたカエサル軍を追ってテッサリアへと進軍する。テッサリア(パルサリア)での決戦が近づいてきた。 運命に呪われたこの地に二人の将が陣を構えた時、来たるべき 戦を予見する心は、誰しもを動揺させた。雌雄を決する存亡の 秋(とき)が近づき、定めがすでに間近に迫るのは明らかであった。 惰弱な心の持主は怯え、巡らす思いはますます暗くなっていった。 予め心を強く持ち、定かならぬ成り行きに、恐れともども 希望をも抱いたものはわずか。 (第6巻、405‐410行、44ページ) 決戦の行方に不安を抱き、恐れていた大多数の人々の中に、ポンペイウスの次男であるセクストゥスがいた。ルーカーヌスは、彼が不肖の息子であり、この後、海賊にまで身を落としたことを附け加えている。 セクストゥスは恐怖のあまり、戦の帰趨をあらかじめ知ろうと、未来の予言に頼ろうとした。彼が予言を聞こうとしたのは「デロスの鼎」(第6巻、417行、45ページ:アポロンの生地とされるデロス島のアポロンの神託所を指す)、「ピュトの洞」(同上:デルポイのアポロンの神託所、第5巻でポンペイウス派のアッピウスがここで神託を聞こうとしている)、「樫の実みのるドドネなるユピテルの銅釜が/響かせる音」(第6巻、418‐419行、45ページ:エペイロスにあるゼウス=ユピテルの神託所)、「内臓で定めを占える者」(第6巻、419行、45ページ:第1巻でエトルリア人の占い師アッルンスがこの占いをしている)、「鳥の兆しを解き明かせる者」(第6巻、420行、45ページ:ホメロスの『イーリアス』にこの例がある)、「アッシュリアの(天文の)知識で星の動きを究める者」(第6巻、421行、45ページ)でもなかった。〔ここに列挙されているのは、神々による予言を知る手だてであり、セクストゥスがもっと邪なやり方によって未来を知ろうとしたことが示されている。〕 彼には、天上の神々に忌み嫌われる、残酷な魔術師の秘術と、 死の儀式で陰鬱な祭壇の知識があり、霊たちと冥府の王 ディスの真実を、また、天上の神々の無知を、哀れにも、固く 信じていたのだ。空しく凶悪なその狂熱を、陣営に間近い、 ハイモニアの魔女らの住む集落と土地そのものが助長した。 (第6巻、423‐427行、45ページ) ディスはギリシア神話のプルートーにあたる、ローマ神話の冥府の主神である。セクストゥスは天上の神託ではなく、地下の死者の世界の声を聞いて、未来を知ろうとし、その術を知っている魔女たちに頼ろうとした。テッサリアの地にはそのような魔女たちが住んでいたのである。ハイモニアと呼ばれるこの土地で、魔女たちは毒草や魔草を育てていた。コルキスの王女で魔女でもあり、イアーソンとともにギリシアにやってきたメデイアがこの土地で草を集めたともいわれる。この魔女たちの威力は大変なもので、気象を意のままに操り、天体の運行さえも左右したという〔いくらなんでも大げさすぎる〕。 エリクトという名の魔女は、このような魔術に飽き足らず、さらに禍々しい世界に踏み込もうとして、「亡霊たちを追い払って墓地を占拠し、人気ない墓場を/住処としていた」(第6巻、501‐502行、50ページ)。天上の神々でさえ、その魔術を恐れ、彼女の非道な行為を容認していた。彼女は人々の生死を支配し、死者の体の一部を集め、冥界と連絡を取りながら、秘儀を行っていた。 土地の人々の噂で彼女のことを知ったセクストゥスは夜の闇に紛れ、わずかな従者たちとともに、エリクトの住処を探した。エリクトは、ポンペイウスとカエサルの戦いによって、新たに多くの死者が出ることを予見して、将来の計画に耽っていた。 エリクトを見つけたセクストゥスは、自分がポンペイウスの息子であることを告げ、来るべき戦いで、だれが死すべき運命にあるのか、死の神に打ち明けさせてほしいと頼む。 自分の名が噂となって広がっているのを喜んだエリクトは、セクストゥスの申し出を承諾する。魔女たちには人間の生死を動かすことはできるが、人類の大事をめぐっては運命(フォルトゥナ)にその力は及ばない。「だが、禍を予め知ることで/満足というのであれば、真実に近づく数多の容易な道が/開かれていよう」(第6巻、601‐603行、57ページ)という。そして、戦場に転がっている死体の1つを選んで蘇らせ、今後のことを予言させようという。 おそらくどちらも歴史的な事実ではなく、ルーカーヌスの創作であろうが、第5巻に登場したアッピウスがデルポイの予言に頼ったのに対し、こちらは魔女の魔術に頼っている(『旧約』に出て来るヘブライ人たちの王サウル、あるいは『マクベス』を思い出すかもしれない)。臆病というだけではなく、邪悪なものの力を信じているというように、その人間性が描き出されている。それにしても、どうも気味の悪い話であるが、セクストゥスはどのような予言を聞くことになるのであろうか。それはまた次回に。
5月15日(金)晴れたり曇ったり 3月30日、本郷和人/門井慶喜『日本史を変えた八人の将軍』(祥伝社新書)を読み終える。中世政治史の専門家で東京大学史料編纂所の教授である本郷和人さんと、推理小説を書く一方で歴史小説も手掛け、『銀河鉄道の父』で直木賞を受賞した門井慶喜さんによる歴史対話。坂上田村麻呂、源頼朝、足利尊氏、足利義満、徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜、西郷隆盛という8人の将軍と、将軍にならなかった2人の英傑=織田信長、豊臣秀吉を取り上げ、対談者2人のそれぞれの知識と想像力を傾け、最前線の研究成果から楽屋話まで出て縦横に語っている。 面白くない訳がない書物であるが、ブログで取り上げることは遠慮してきた。日本史をめぐる啓蒙活動に尽力するという志はわからないわけではないが、本郷さんは少し本を書きすぎている(門井さんも同様)という印象があるので、自重を促したい気分もあるからである。 この書物の「はじめに」で門井さんはこんなことを書いている。(推理作家であり、歴史にも豊かな知見をもっていたという点で、門井さんの先輩筋の)松本清張が、歴史学者(日本史学者)には読ませるような文章を書く人がいないと言っていたが、最近では小和田哲男さんをはじめ、専門研究家としても、啓蒙的な解説書の書き手としても、一流の書き手であるような歴史学者が見られるようになった。そしてそのような人物の代表的な存在が、本郷さんであるという。そして、その本郷さんと語る機会を得たのは、じつに楽しい経験であったと記す。 文学(あるいは文章)と歴史とをどのように関連付けて考えるかというのは難しい問題である。夏目漱石は『文学論』の「序」において、「余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短きにも関らず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり」(岩波文庫版、上巻、18ページ)と書いている。「左」は『左伝』(『春秋左氏伝』)、「国」は『国語』、「史」は『史記』、「漢」は『漢書』のことで、それぞれ中国の歴史書である。 よく言われることであるが、歴史は過去の戦いの勝者の記録であり、文学にはその戦いの敗者の気持ちが述べられているものが多い。だから、漱石が中国の歴史書を読んで、文学についての漠然とした定義を感じ取ったというのはどういうことか、考えてみる必要がある。 漱石は彼が漠然と考えていた「文学」と、英国で言われている<文学>の違いに苦しんだというのだが、彼の留学先であった英国には、『ローマ帝国衰亡史』を書いたギボンとか、「イングランド史」を書いたマコーリーのように、歴史家であり名文家といわれた人がいるし、サッカリーのような歴史小説の名手もいた。考えるべきことはますます、たくさんあるのである。 序 将軍とは何か 地位か人か ここでは「地位」と「人」をめぐる日本的な伝統を踏まえて「将軍」の性格が論じられる。ヨーロッパでは国王が生前退位することはごく普通に行われており〔2013年にオランダのベアトリクス女王がウィレム・アレクサンダーに、ベルギーのアルベールⅡ世がフィリップに、2014年にスペイン国王ファン・カルロスⅠ世がフェリペⅥ世に譲位している〕が、それぞれ退位後は普通の人になる。ところが、日本では歴史的に天皇が退位すると上皇となり、天皇以上の権力をふるうことが少なくなかった。 門井さんは、将軍についても同じことで、足利義満や徳川家康はその職を退いても「大御所」として権力をふるった、平清盛も〔豊臣秀吉も〕将軍にはならなかったが、同じように職を退いてからも権力を維持したという。「将軍という地位に価値がないわけでは」ないが「人間に箔をつける装置」(17ページ)だったのではないかといい、本郷さんもその認識で間違っていない、少なくとも初期においてはそうだったのではないかと同意している。 将軍は征夷大将軍だけではない 前項の門井さんの発言に続ける形で、本郷さんは将軍は征夷大将軍だけではない、鎮東将軍、征西将軍など、いろいろある〔なぜか鎮守府将軍を取り上げていない〕、「実はその地位に実態があるわけではない、むしろ、その人物の実力を表わすために名称をつけている節があ」(17ページ)るという。 門井さんは、源頼朝が征夷大将軍と右近衛大将に任じられているが、征夷大将軍の方が上位の地位かと尋ねたのに対し、本郷さんは、どちらが上位とは言えないと答える。近衛大将は常置の職であるが、征夷大将軍はそうではない。大将は大納言のうち2人が兼ねる職で、大臣に欠員ができた場合、大臣に昇任するという重要な地位である。征夷大将軍は別立ての職と考えるほうがいいという。門井さんは、とすると、貴族の側では近衛大将の方が上位だと考えただろうと納得する。 平清盛は太政大臣になったが、(源頼朝は征夷大将軍と近衛大将)、足利尊氏と義詮は大納言で征夷大将軍、頼朝はなろうと思えば大臣になれたけれども、なろうとしなかったのではないかというのが本郷さんの推測である。これを受けて、門井さんが大臣をとったのが清盛、将軍をとったのが頼朝、尊氏、義詮、それに対し大臣と将軍という両方をとったのが義詮の子の義満という分類ができるという。 言葉の意味から探る 「将軍」の「将」は、「ひきいる」、「もちいる」という意味であるが、同じ意味の語として「帥」もある。中国では「将」も「帥」も同じくらいに使われているが、日本では「将」の方が圧倒的に多い。これは「将」が「勝」に通じると受け取られたからである。武家政治を否定した明治維新後は、「帥」を使い、天皇を「大元帥」とした。 国土の広い中国では、将軍にもさまざまな格があり、それが重要な意味をもったが、日本では地位より人が優先されるので、そんな名称の格式にこだわる必要がなかった。 最初に征夷大将軍になった坂上田村麻呂の場合は、まさに「将軍」であり、日露戦争の乃木将軍と同じように軍を率いて敵を倒すというイメージで考えていい存在であった。それが、源頼朝に始まる将軍との違いであった。 将軍の権限 坂上田村麻呂が征夷大将軍として東北に遠征した際に、蝦夷の軍事指導者アテルイ(阿弖流為)を捕虜として連れてくる。田村麻呂は朝廷に彼の助命を願い出るが、聞き入れられずにアテルイは処刑される。軍事常識として、処刑するにしても、助命するにしてもわざわざ都に連れてくる必要はない。それなのに連れてきたのは、田村麻呂にはそれだけの権限が与えられていなかったのではないかと門井さんが問う。 7世紀の後半、天武天皇の時代に日本全国に「国」が置かれた。その後、都の東側に北陸道の愛発関(あらちのせき、越前、現在の敦賀市内にあったと考えられている)、東山道の不破関(美濃、現在の岐阜県関ケ原町にあったことが確認されている)、東海道の鈴鹿関(伊勢、現在の三重県亀山市内か)が置かれた。ということは、そこから東(関東)は中央政府の支配の及ばない、未開の地と考えられていたということである。そういう場所に遠征するのだから、指揮官の権限等も詳しく定められていなかったと考えるべきであると本郷さんは答えている。 将軍に求められたもの 将軍は多数の兵士を率いて軍事行動をとり、勝利を収めなければならない。兵士たちの規律を守り、かれらが脱走するのを防がなければならない。兵士たちの先頭に立って戦う必要はないが、かといって後ろで兵士たちの戦いぶりを眺めているだけでもいけない。「将軍には何よりも、兵士たちを戦う気にさせる、かれらの士気を上げることが求められた」(25ページ)と本郷さんは言う。 幕府とは何か 将軍の居所を「幕府」とよぶが、これはどういう言葉なのかと門井さんが問う。 鎌倉幕府の御家人たち、あるいは江戸幕府の幕閣にとって、「幕府」は聞きなれない言葉であった。江戸時代の幕閣であれば、「柳営」という言葉を使ったであろうと本郷さんが答える。〔余計な話だが、徳川幕府の幕臣で構成する「柳営会」という親睦団体がある。小和田哲男さんがゲストとして出かけたところ、三河譜代ではなくて、もともと今川、武田の家臣だったという人の子孫が多かったので驚いたと、そのブログに書かれている。〕 「幕府」は明治時代に学者たちが考えた学術用語だという。この言葉はもともと中国で、将軍が出征中に幕を張って軍務を執り行った陣営のことを呼ぶものであった。この場合、皇帝に伺いをたてなくても、一切を自分で決裁することができた。明治時代の学者はこの例を想起して、「幕府」という言葉を使ったのだろうと本郷さんは言う。 門井さんの次の発言が面白いので全文引用する: 「確かに、江戸時代の史料に眼を通していて、幕府という言葉は見たことがありません。「公儀」という言葉はけっこう出てきます。公儀は江戸幕府を指す固有名詞のようになりましたが、もともとは普通名詞でオフィスぐらいの意味ですね。 幕府という語は、言葉としては矛盾を孕んでいます。本郷さんが述べたように、幕府の「幕」はいわゆる陣幕を指します。そして統率機能を持ち、移動性が高いという特徴があります。いっぽう、幕府の「府」は役所ですから、固定されて移動性がない。この矛盾した語がピタッとくっついているところにおもしろさがあると同時に、日本史における幕府の本質と変遷を表わしているように思います」(27ページ)。 このあと、本郷さんが自著『承久の乱』(文春新書)とほぼ同時期に出版された、坂井孝一『承久の乱』(中公新書)が「後鳥羽上皇には幕府を倒す意思がなく、義時あるいは北条一族を倒すことを命じた」(28ページ)と論じていることについて文句を言っているが、これは本筋とは別に議論されるべき問題であろう。 「序」で将軍とか、幕府とかいう言葉についての理解を整理したので、次回は第1章「坂上田村麻呂――すべてはここから始まった」に入る。すでに述べたように、同じ征夷大将軍でも田村麻呂の場合と、源頼朝の場合ではその性格はかなり違っている。その違いを明らかにするためにも、田村麻呂についてもっと詳しく知ることは必要であろう。 もう50年くらい昔になるが、大学の図書館で中国の歴史書(の和訳)に読みふけっていたことがあり、その時、『後漢書』の中に大樹将軍(馮異)とか、伏波将軍(後漢の水軍の将軍であるが、特に馬援を指す)とか、跋扈将軍(梁冀)とか、やたら「将軍」という言葉が出てきたことを思い出す。
5月14日(木)晴れたり曇ったり 今年3月に法蔵館文庫の1冊として刊行されたこの書物は、黒田俊雄(1926‐93)が1983年にまとめた論文集の増補新版(2001)に基づくものであり、実はまだ読み終えていないのだが、2001年版は読み終えたはずであり、著者による『太平記』論など見逃しがたい内容が含まれているので、改めて読み進めながら論評していくことにする。 全体は4部に分けられ、13編の論文が収められている。それぞれの表題を紹介すると、次のようなものである: Ⅰ 顕密体制論の立場――中世思想史研究の一視点 王法と仏法 愚管抄における政治と歴史認識 日本宗教史上の「神道」 Ⅱ 「院政期」の表象 軍記物語と武士団 太平記の人間形象 Ⅲ 楠木正成の死 歴史への悪党の登場 変革期の意識と思想 中世における武勇と安穏 Ⅳ 「中世」の意味――社会構成史的考察を中心に 思想史の方法――研究史から何を学ぶか それでは巻頭の論文である「顕密体制論の立場――中世思想史研究の一視点」から見ていくことにしよう。黒田は、1975年に発表された『日本中世の国家と宗教』のなかの論文「中世における顕密体制の展開」において、彼自身も含めてそれまでの中世史研究を支配していた武士中心主義、鎌倉仏教重視の考え方に異論を唱え、武士だけでなく公家や寺社の活動についても重視すべきこと、また天台・真言や南都の諸宗からなる顕密仏教こそが中世において支配的な仏教であったことを強調した。これには当然、異論や反論が寄せられ、それらの論評に対してこたえていくものとして、改めて書かれたのがこの論稿である。1977年に刊行された『現実のなかの歴史学』に収められたものであり、『王法と仏法』の1983年には収められていなかったが、黒田の死後、2001年の増補新版で付け加えられた。黒田の業績の特徴を理解するために、最も適した論文であると編集者が判断したためであろう。 黒田は自説が思想史研究において従来見逃されてきた視点から中世の思想状況を見直すべく問題提起を行うものであるという。そして、宗教思想が中世思想のすべてではないとはいうものの、中世の日本において仏教と儒教〔儒教が宗教であるとする意見に対し疑問がないわけではない〕以外には体系化された思想がなかったことも無視すべきではないと主張する。そして中世の日本の社会と思想を見ていくうえで、宗教を中心に考えていくことは有効な方法であると論じるのである。 1 中世顕密仏教研究の意味 高校の『日本史』や『倫理』の授業を思い出してみればわかることであるが、中世日本の仏教は法然・親鸞・道元・日蓮らの新宗教を中心として論じられ、「顕密仏教は中世思想史ではむしろその旧時代性について指摘されるのが常である」(11ページ)。〔旧仏教の僧侶で言及されるのは明恵くらいであろうか。〕 しかしながら、中世では顕密仏教こそが時代を通じて宗教の世界における支配的地位を保持していたことは疑いのないことであると黒田は指摘する。「鎌倉時代に新仏教が起こって宗教が一変したようにいうのはある程度は当たっているが、『旧仏教』なる顕密仏教の影が薄れたかのような理解があるとすれば、それは一面的に単純化され定式化された教科書によって普及された虚像でしかない。」(11‐12ページ) 黒田は、この時代の史料の多くが公武支配層や顕密仏教の僧侶によって残されたものであるという事実を指摘し、だから彼らに有利な記録が多いことは否定できないが、人々の生活の大半を支配していたのがこれらの人々の影響力であったことも確かだと論じている。思いだしていいのは、呉座勇一さんの『応仁の乱』が同時代の興福寺の高僧の日記を史料として書かれていることである。興福寺が顕密仏教の寺院であることは言うまでもない。また細川重男さんの『執権』には、「出家」と「遁世」は中世では意味が違っていて、「出家」というのは顕密仏教の僧侶になること、「遁世」は新仏教の教団の構成員になることであると記されていた〔つまり、佐々木四郎高綱は「出家」し、熊谷次郎直実は「遁世」したということである〕。 また、顕密仏教は国家権力と緊密に結びつき、というよりもその一翼を形成するものですらあった。この後、この書物に登場する『愚管抄』の著者慈円は何度も天台座主になった高僧であるが、関白にもなった九条兼実の弟である。また『太平記』を読めばわかるが、持明院統と大覚寺統の両方の皇統がそれぞれ自分たちの陣営から法親王を送り込んで、天台座主に就任させていたこともこのことを裏書きするものである。 したがって顕密仏教の内容と性格を明らかにすることは、中世の国家の特質とその支配イデオロギーを知るうえで不可欠であり、顕密仏教についての理解なしには公武支配層の思想を理解することは難しい。新仏教の祖師たちの教説はこの点をめぐってはほとんど必要ない(黒田は「禅宗を除いては」と書いているが、禅宗でも夢窓疎石のように権力と結びついた僧もいるし、道元のように権力や金持ちに近づいてはならないといった僧もいる)。 顕密仏教の教理は精巧で難解なものであり、当時の民衆の生活とは無縁なものであるという議論もある。また思想史は民衆の思想史でなければならないという主張もある。しかし、当時の民衆の思考や論理だけを辿ろうとしても、わかることは少ない。「民衆にとっての思想史の真実は、むしろその上におおいかぶさっていた壮大な思想体系の重圧とのたたかいであったはずである」(13ページ)。その戦いの過程の全容を理解することなしに、中世の思想史を理解することはできないと黒田は考えている。 顕密仏教の中世宗教史における中心的な役割を認めないのは、新仏教系の思想にこそ「中世的なもの」が典型的に見られるという判断があるからであろう。たしかに、新仏教系に「中世的なもの」が見られることは認められるが、同時代の顕密仏教がなおも「古代的」であったという論証はなされてきただろうか、また「中世的なもの」の発現を新仏教系の枠内にのみ留める論拠はどこにあるのだろうかと黒田は問う。 顕密仏教体制が中世においてきわめて重要な支配的地位を占めていた事実を無視して、中世思想史を研究することはできないというのがこの書物の出発点である。 今回は、最初の論文のそのまた最初の部分しか紹介できなかったが、次回以降できるだけ速度を上げて内容の紹介と論評に取り組んでいきたいと思う。 次回は、そもそも「顕密」というのはどういうことかをはじめ、より具体的な内容に入っていく。