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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(8)

1月23日(木)雨

 1957年11月から58年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジアを訪問し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。旅行の後半で、彼は隊員の吉川公雄、外務省の留学生である石井米雄とともに、カンボジア、ベトナム、ラオスの3カ国を歴訪した。
 最初に訪問したのはカンボジアで、1958年2月13日に入国、21日まで滞在した。当時のカンボジアでは中国人の存在感が強く、2月17日から始まった春節の影響を受けながら、南部の海岸地方に足を延ばしたり、乾季で面積が縮小したトン・レ・サップ湖の周囲を(前年の旅行で訪問した分を加えて)一周、水上の集落を訪問したりした。

第14章 コーチシナ平原
 この第14章から第16章までの3章が当時の南ベトナムの訪問記となっている。梅棹一行の足跡は北ベトナム(当時)には及んでいないが、それでもカンボジア、ラオスに割り当てられているのが2章であることを考えると、旅行の中でのベトナム訪問の比重の重さが分かる。

 サイゴンへ
 2月21日午前11時に、梅棹一行はプノムペンを出発して、サイゴン(当時、現在はホーチミン市と改称されている)に向かった。バナムの渡し場でメコン川を渡り、スヴァイリエンを経て、5時半に国境に着いた。
 ベトナムについては、反日的である、警察や税関が官僚的で腐敗している、ベトコンのゲリラが出没するから(特に地方は)危険だなどの悪いうわさを聞いてきた。3カ国の中では一番治安が悪いようなので、多少の緊張を感じながら入国しようとした。

 国境の入国審査は、大したトラブルもなく通過することができた。「国境をすぎて、わたしたちは一路サイゴンに向って、コーチシナの大平原を走った。」(78ページ) 途中、交通違反で警官に注意されることはあったが、いくつかの町を通り抜けて、だんだん慣れてくる。人々の様子も別に反日的というわけではなさそうだ。
 「タイやカンボジアの、地味な風俗を見なれた目には、ベトナム風俗は、おどろくばかりあでやかで、都会的に見える。
 家もかわった。タイやカンボジアの高床式の住居は、ここでは影をひそめる。みんな土間である。私たちは、あきらかに違った文化圏に入ったことを知る。服装も、住居も、中国ふうに近いという印象をうける。わたしたちは、極東文化圏に入ったのだ。」(79ページ)
 次第に町が大きくなり、にぎやかになる。日没後、一行はサイゴンに到着する。

 大使公邸
 一行は夜のサイゴンを走って、大阪商船の駐在員である山下さんを訪問するが、山下さんは病気であった。それで大使館に回ったところ、すでに顔見知りであった代理大使の小川さんから公邸に泊まってはどうかという申し出がある。
 「それはまったく、夢のようなはなしだった。3人とも1つずつへやをあてがわれた。冷房つきである。それに、日本人の板前さんがいる。自動車旅行のつかれも、あやしげなシナめしの栄養失調も、これで一気にふっとんでしまうというものだ。」(80ページ)
 カンボジアのところでも書いておいたが、カンボジアでは「同文同種のよしみからではないけれど、わたしたちには、やっぱりシナめしの方が口にあう。」(60ページ)と言っておいて、君子豹変である。

 パリの昼寝
 「東洋のパリ」と呼ばれるサイゴンは美しい町であるが、梅棹は何となく親しめないものを感じる。彼は固有のベトナム的なものを求めているのである。しかし、街並みはフランス風、走っている自動車はシトロエンが多く、店の看板にもフランス語が多いし、商品もフランス製、本屋にならんでいるのもフランス語で書かれた学校の教科書のような本が多い。雑誌も新聞もフランス語である。

 それどころか、昼寝の時間もフランスの習慣そのままであるという。しかし、梅棹は、これはベトナム固有の習慣ではなくて、フランスからとりいれられたものではないかという。「ベトナムでも、地方へゆけばこんな習慣は存在しないにちがいない。ベトナム人は、もっと勤勉なはずである。」(82ページ)
 「サ[ン]ゴンは、長年にわたって、フランスのインドシナ経営の拠点だった。だから、フランスふうがしみこんでいるのもむりはないかもしれない。しかし、ベトナムは独立したのである。独立後のベトナムの人たちは、このフランス的な「美しさ」と生活習慣を、やはり誇りに思っているのだろうか。」(82ページ)

 ベトナムのことはよく知らないが、タイの人は、日本人に比べて早起きであり、おそらくは昼寝をする分、朝早くから体を動かしているのである。だから梅棹の、昼寝は勤勉ではない、アジア人はもともと勤勉である、だから昼寝はもともとの習慣ではないというような議論は疑ってかかる必要がある。梅棹は朝に弱かったから、自分自身の調子がようやく乗り始めた時間帯に昼寝というのは納得がいかなかったのであろうが、このあたりでの議論は少し乱暴である。

 サイゴン風俗
 もちろん、独立後のベトナム化が進行している側面のあることを梅棹は見落としてはいない。例えば道路の名前がベトナムふうに改められた。とはいうものの、市街地に、ベトナムふうの建築はまれである。「失われたものの、ある部分は、もはや、永久に失われたのである。」(83ページ)
 とはいえ、例えば女性の服装などは完全にベトナム化しているという(梅棹はアオザイという語を使っていないが、民族衣装の女性が多く、洋装姿の女性はまれであると書いている。ただ、アオザイがそれほど古い歴史を持つものではないことに、梅棹は気づかなかったようである。)

 「とにかく、ベトナム共和国は独立したのである。ゴ・ディン・ジェム総統はその政治的シンボルである。」(84ページ)
 梅棹が東南アジアを訪問していた1957~58年に私は小学校6年生だったから、自分の外の世界についてそれほどしっかりした知識はもっていなかったが、今調べ直してみると、第一次インドシナ戦争(1946~54)の終了後、南ベトナムにゴ・ディン・ジェム大統領のベトナム共和国が「成立」したのは1955年のことで、この時点では建国間もなかったのである。1975年にサイゴンが陥落して、ベトナム共和国は崩壊するから、ベトナム共和国=南ベトナムの歴史は約20年、第二次世界大戦後についてみても、ベトナムが南北に分裂していた期間よりも、統一国家としての期間の方が今でははるかに長くなっている。梅棹が垣間見た南ベトナムの姿もまた、「失われたもの」に数えられるように思われる。

 梅棹は、この後、近世から近代にかけてのベトナムの歴史をたどって、筆を走らせるが、それはまた次回に紹介するとしよう。
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ベーコン『ニュー・アトランティス』(11)

1月22日(水)晴れ

 フランシス・ベーコン(1561‐1626)はイングランドのエリザベスⅠ世とジェイムズⅠ世の治下で活躍した法律家、政治家であったが、今日では『ノヴム・オルガヌム(新機関)』などのその哲学的な著作によって知られている。この『ニュー・アトランティス』は北太平洋に想定された架空の島国を舞台として、科学が人々の豊かで道徳的な生活を支えているような社会を描こうとしたものだが、未完のままに終わっている。
 ペルーから太平洋を横断して中国・日本にむかおうとした語り手たちの船は、途中、強い南風に吹き流されて北太平洋の未知の島に漂着した。島の人々は彼らの上陸をいったんは拒否したが、彼らがキリスト教徒であり、海賊ではないこと、病人を抱えていることを考慮して、上陸を許可し、異人館と呼ばれる施設に入居させた。異人館の館長の説明によると、この島はかつては世界中の人々と交流してきたが、アメリカ大陸(プラトンの言うアトランティスはこの大陸のことだという)が大洪水に見舞われその文明が滅びた後に、鎖国政策に転じたのだという。しかし、「サロモンの家」と呼ばれる研究施設を作って地上のあらゆる知識を集め、生活を改善してきた。この島の人々はある奇蹟によってキリスト教を信じるようになり、家族を大事にし、一夫一妻制度を厳格に守っている。島に住むユダヤ人ジョアビンを介して、語り手たちは「サロモンの家」の長老が彼らの滞在している町を訪問する様子を見ることができた。

 いよいよその日が来て、長老が配下のものを従えて市中を行進した。彼は輿に乗って行進し、彼もまたその50人を越える部下たちも豪華な服装をしていた。〔前回も書いたが、ベーコンはその服装について事細かに描写している。〕 「彼(長老)は何も言わぬまま素手を挙げて人々を祝福しているようだった。通りの群衆は整然としていた。いかなる軍隊の隊列で汗も、これほど一糸乱れぬことはないであろう。通りに沿った家々の窓も同様に混みあってはおらず、人々は配置されたように窓辺に立っていた。」(川西訳、49‐50ページ)

 ジョアビンは長老の接待のために、語り手の一行から離れていったが、やがて戻ってきて、長老が彼ら全員と会い、そのなかの1人と詳しい話をするつもりで招待すると伝えた。その詳しい話をする相手としては、語り手が選ばれた。
 長老が彼らを迎えた部屋は豪華なもので、彼は一行に祝福を与え、語り手以外のものが退出すると、おもむろに口を開き、スペイン語で語り手に語り掛けた。彼は、「サロモンの家」の実情について、
 ①学院設立の目的
 ②学院の目的達成のために準備されている設備と器具
 ③学院の研究員に委ねられている業務と役割
 ④研究員たちが守る法令と儀礼
について語るという。

 まず「サロモンの家」の目的であるが、「諸原因(Causes)と万物の隠れたる動き(secret motions of things)に関する知識を探り、人間の君臨する領域(Human Empire)を広げ、可能なことをすべて実現させることにある。」(川西訳、51‐52ページ) つまり科学的な研究、それに基づいた技術の開発とその実地への応用ということである。ここで、ベーコンが人間が自然を支配する領域を広げるという考え方を述べているのは、いかにも近世的で、環境との共存・共生を目指すというより今日的な考え方からすれば批判も生まれるところであろうと思う。

 次に設備と器具についてであるが、最初に取り上げられているのは、彼らがあちこちに掘った洞窟である。もっとも深いものは600尋(fathoms, 1 fathomは1.83メートルなので、600尋は1.1キロほどとなる)もあり、そのほかに岡や山の下に掘られた洞窟もあって、丘の高さと洞窟とを合わせると3マイル(4.8キロ)の深さを持つことになる。このような洞窟を掘ることの目的は、太陽の光や空気から、特定の物質を遠ざけることにある。これらの洞窟を、彼らは「下層界」(the Lower Region)と呼んでいる。そして諸物体の凝固(coagulations)、硬化(indurations)、冷却(refrigerations)と保存(conservations)のために使用する。
 またこのような洞窟を天然の鉱山の坑道の代用として使い、彼らが使用する合成物と原料を長年貯蔵し、新しい人工金属を生産するのに役立てる。洞窟はまた、ある種の病気の治療のために、またこのような洞窟の中で生活することを選んだ隠者(hermits)のためにも利用される。どうもベーコンは洞窟の中に住んでいる方が寿命は延びると考えていたようである。そのような隠者は驚くほど長命であり、彼らから一般の人々は多くのことを学ぶのである。

 彼らはまた、さまざまな土質のところに穴を掘って埋蔵所を設けている。中国人が磁器を埋蔵しているように、様々な種類のセメントを埋めている。ここで、川西訳は「陶器」と訳しているが、原文のporcelainは「磁器」と訳すべきである。川西さんは、訳注の18でベーコンの「中国の磁器は地中に埋蔵されている沈積物で、時間の長い経過によって凝固し光沢を帯びてあのような精妙な物質と化す」(90ページ、これはもちろん、誤聞である)という文章を引用しており、本文で「陶器」と書いているのは一貫しない。
 セメントは磁器よりは種類も多く、上質のものもある。土地を肥沃にするための肥料、堆肥の類も豊富である。

 また高い塔も設けられている。「最も高いものは高さ約半マイル、高い山頂に建てられた塔もあり、山の高さを加えれば、最高3マイル以上の高さに達する。」(川西訳、53ページ) 半マイルは約800メートル。スカイツリーよりも高い。3マイルの高さということになると、アルプスの最高峰モンブランの高さに匹敵することになる。このような高所を彼らは「上層界」(the Upper Region)と呼んでおり、高地と低地の間の空間を「中層界」(a Middle Region)と呼ぶ。塔は、それぞれの高さと設置場所に応じて、日光乾燥、冷却、貯蔵のため、また風、雨、雪、雹(ひょう)、それに流星など気象・天文現象を観察するために用いられる。いくつかの塔にはこれまた隠者が住み、「サロモンの家」の人々はときどき彼らを訪ねて、何を観察すべきかの指示を与える。

 いよいよ「サロモンの家」がどのようなものであるか、その目的や活動の概要が語られ始める。ベーコンは社会の仕組みを語ることよりも、科学とその応用について語ることの方に関心があることが分かる。洞窟の深さとか塔の高さなど、彼の時代の技術では到底建設可能なものではないのであるが、ベーコンの想像の翼もなかなかのものであると感じさせられる。洞窟の中に新しい金属など特定の物質を保存するというのは、どうも使用済み核燃料の問題を思い出してしまう。地下の洞窟に住む隠者達は長生きを予期されているが、高い塔に住む隠者についてはその寿命について触れられていないのも注意してよいことかもしれない。「サロモンの家」についての長老の説明は続き、それを読むことで我々はベーコンが考えた学問の大革新の現実への応用の構想がどのようなものだったかを知ることができるのだが、それはまた次回以降に。

日記抄(1月15日~21日)

1月21日(火)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近からかすかに富士山が見えた。

 1月15日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

1月15日
 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』では「クッキーの裏と表」と題して、クッキー(cookie)にかかわる様々な表現が取り上げられた。
 この菓子は、cookie dough (クッキー生地)を伸ばし、cookie cutter (クッキーの抜型)で切り取り、cookie sheet (天板)に乗せて焼いてこしらえる。ふつう、多めに数日分を作り、cookie jarという入れ物に入れておく。そんなところから、さまざまなゲームや表現が生まれた。
 「うまくいくと思ったんだけれど邪魔が入って」という話を聞いて、
 That's the way the cookie crumbles.
(クッキーはそうやってボロボロになる)
というと、「世の中、そういうことなんだよね」「仕方ないよ」といったあきらめをこめた日常表現となる。
 このことわざとか、smart cookie (賢い奴)、、tough cookie (タフで侮れない奴)といった表現は『ロングマン英和辞典』(2007)には出ているが、『齋藤英和中辞典』(初版1933)には出ていないどころか、そもそもcookieという語が出てこないのだから、時代の変化というものを感じさせられる。

1月16日
 来年度から始まる大学入試における英語の4技能をめぐる新しい試験についての検討会議の記事が『朝日』、『日経』両紙に出ていた(他紙にも出ていたはずである)。民間試験の活用の問題などをめぐり、もう一度白紙の状態から出発するのか、これまでの議論を踏まえて(継承して)議論するのかというところで、すでに議論が分かれていたようである。そのあたりのことも含めて、徹底的に議論をしてもらいたいものだ。

 『日経』に吉野彰さんがノーベル賞を受賞されたことを祝う、同じく企業内の研究者でノーベル賞受賞者である田中耕一さん、それに池上彰さんと3人での座談の様子が掲載されていた。「問題意識を持ち続ける」など、当たり前のことでも大きな研究成果をあげた人の発言だと、説得力が増すから面白いものである。

1月17日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』では、1月8日から6回にわたって、”Overprotective Parents"(過保護な親たち)という話題を取り上げてきたのだが、アメリカで最近問題になったthe college bribery scandal (贈収賄スキャンダル)について意見を聞かれた番組パートナーのヘザー・ハワードさんが
I fumed. Ifumed and fumed and fumed. I mean, it just boils my blood to think of these wealthy parents trying to steal a place from kids like me and my high school friends We workd our butts off to get into college..(非常に腹が立ちましたね。怒り心頭に発しました。つまり、こうしたお金持ちの親たちが、私や私の高校の友人たちのような子供たちから席を奪おうとしていると考えるだけで、とても腹立たしいのです。私たちは大学に入るために猛勉強したのですから。)と怒りをあらわにする発言をしていたのが印象に残った。よく、アメリカでは大学に入学するのは容易だが、卒業するのは難しいといわれてきたが、実際のところ、入学するのが難しい大学も少なくないようである。〔ヘザーさんはアイヴィー・リーガーズに数えられるコーネル大学の卒業生である。〕

1月18日
 神楽坂のThe Gleeで別府葉子さんのシャンソン・ライヴを聴いた。今回は、「歌うピアニスト」江口純子さんがピアノを担当ということである。「花」を主題にした楽曲を中心に構成するということで、そのなかでも「百万本のバラ」をはじめ、バラを取り上げた歌が多いのが特色であった。そういえば、江口さんとのデュエットで歌った江口さんのオリジナル曲は「ここには バラが」と題されていたし、アンコール曲も、「バラはあこがれ」であった。
 当然のことながらヨーロッパの曲が多かったのだが、そのなかでアフリカで医療活動に従事する日本人を歌ったさだまさしさんの「風に立つライオン」は異色ではあったが、聞きごたえがあった。そういえば、今回取り上げられた別府さんのオリジナル曲「月虹」をめぐり、月虹がよくみられるのはエチオピアであること、エチオピアでは「アフリカの桜」と呼ばれるジャカランダという花が咲くことなどが語られた。霙交じりで寒い外とは対照的に明るく、温かい雰囲気で進んだライヴであった。

 『NHK高校講座 古典』は『枕草子』の4回目。「すさまじきもの」の2回目で、除目で地方官に任命されることを期待していたのに、選から外れた貴族の喜悲劇を描く章段。地方官に任命されれば、莫大な収入が期待されるのだが、それは裏を返せば、地方で過酷な収奪を行うということでもある。『今昔物語集』にはそういう収奪者としての地方官の姿を描いた説話がいくつもあって、物事をどちらの方向から見るかによって、描き方が違ってくる例として取り上げてもよいと思った。
 別府葉子さんのライヴを聴いたばかりのところなので、ちょっと書いておくと、平安時代から鎌倉時代にかけての地方政治のなかで、「別府」というのはどういう意味かをめぐって私の知る限り2説、郡衙の所在地という意味と、別符=国司などの特別の許可を得て私的領有が認められた土地という意味だとする見解とがあり、それぞれの場合に即して考えていくべき問題ではないかと思う。

 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑬ 麗しの上海楼』(双葉文庫)を読み終える。主人公の家頭清貴、その「ライバル」の円生(なんでこの名前を付けたのか不審に思うことがある)、探偵事務所の所長である小松の3人が今回は美術・工芸品の鑑定士として上海に出かけるが、そこで事件に巻き込まれる。作者はあとがきで、上海とニューヨークに行く機会があったので、その経験を盛り込ませていただきましたと書いているが、そういう張り切った感じがよく出ている作品である。

1月19日
 『朝日』朝刊の「日曜に想う」で福島申二さんが「無類の人間好きが潤した荒野」という文章を書いている。アフガニスタンで凶弾に倒れた医師の中村哲さんが「無類の人間好き」だったという話の一方で、抽象的には人類愛を説くけれども、実際には周囲の人間と折り合いが悪い「人類を愛する人間嫌い」(フェルナンド・ペソア)が少なくないという指摘が心に突き刺さった。
 昔、教えた(制度的にはそうなっていたけれども、こちらが教えようとすることは何一つ学ぼうとしなかったから、『教えた』とは言えないのが真相である)学生でシュヴァイツァーのようにアフリカで医療活動に従事したいという夢を手放さないのがいた。小学生や中学生がそういう夢を持つのはかまわないが、大学入学の時点で医学部に入れなかった人間はもっとほかのことを考えるほうが現実的である。それに開発途上国における医療支援の形態や内容もシュヴァイツァーの時代とは変わっている。何よりもご本人が医師になるための、外国に出かけるための準備らしいものを何一つしていない。やる気だけでは何も実現できないと、周囲の人間がもっと「身の丈にあった」将来の計画を立てるように言って聞かせても、考えを変えなかったことを思い出す。教師の方は、彼が医学部を受験するために大学をやめてくれれば大いに助かると思っていたが、たぶん、親が必死になって説得したのであろう、そうせずに教職に就いた。福島さんの文章を読んで気づいたのだが、彼は周囲の人間との折り合いがあまりよくなくて、そのために意地になって人類愛の夢にしがみついていたのではないかということである。
 さて、この文章で、福島さんがペソアのことを「ポルトガルの文人」と書いているのは、この人物について誤解しているなと思った。ペソアはビジネスマンとして勤務しながら、いくつもの人格を背負った筆名を使い分けて、文学活動を展開した人物である。そうやって多数の仮面の陰に自分を隠すような文筆活動の中には新しい文学の可能性が潜んでいたのではないかと思う。あるいは、そんなペソアの人物像について詳しく書いていたら、本題の中村さんのことがかすんでしまうと思ってわざと簡単に触れるだけで終わらせたのかもしれない。

1月20日
 『日経』の「月曜経済観察」でMITのデービッド・ホーター教授が「巨大ITが生む格差」がますます拡大し、商社が労働の成果を独り占めし、敗者は仕事には就くことができるものの、彼らに与えられる仕事は高齢者介護・製造・整備、交通、修理など、高度な技術を必要としない仕事に偏るだろうと予測している。「社会的に問題なのは仕事が不足することではなく、比較的スキルの低い仕事の割合が増えていることだ。」というのはあまり明るい見通しではない。

 同じく『日経』の文化欄で、「装いがまとう意 十選」という連載が始まり、第1回として中宮寺に伝わる(奈良国立博物館寄託)「天寿国曼荼羅繍帳」の一部の写真が掲載されていた。聖徳太子の没後、妃である橘大郎女は、太子のいる天寿国をこの目で見たいと願い、それを聞いた推古天皇が天寿国の有様を刺繍で描かせたと伝えられている。〔太子の最も古い伝記とされる『上宮聖徳法王帝説』によると、橘大郎女が作らせたとのことである。〕
 この写真の「中央右の男子像が目立つ。太子の姿ではないかと想像できよう。しかしこの人物は、われわれが一般的に思い起こす太子の姿とは、まったく異なる衣服を身につけている。」 ということは、いろいろなことを考えさせる。あるいは、この繍帳をめぐる由来から疑い直した方がいいのかもしれない。

 本間順治『日本刀』(岩波新書)を読んでいて、『日本書紀』の推古天皇のところに、「太刀ならば呉の真鋤(まさび)」という歌が記されていることから、古代中国南方、特に呉と呼ばれた地方の鉄剣と、その技術がわが国にも輸入されていたことが推測されているのが興味深かった。『太平記』にも登場する呉の「干将莫邪」の説話を思い出したからである。著者が日中両国の刀鍛冶をめぐる交流史の可能性を示唆しているのは当を得たことであろう。

1月21日
 『朝日』の朝刊の「揺れる大学入試」という連続記事に、英語民間試験活用の見直しに関連して、「高校生は英語で自己表現したいんです」という東進ハイスクール講師の安河内哲也さんのインタビューが掲載されていた。英語で自己表現したいと思う高校生は、安河内さんの周辺には多くいるかもしれないが、みんながみんなそう思っているわけでないだろう。どのくらいの割合の高校生がそのように思っているのかを実証的に提示しないと、議論は始まらないのである。

 このブログを書いている最中に、宍戸錠さんの訃報が飛び込んできた。86歳。長く日活映画で活躍され、『探偵事務所23』シリーズなど主演作もあるが、小林旭さんの『渡り鳥』シリーズに登場する「エースのジョー」など、悪役(と云い切れない、独特の役柄)での演技が印象に残る。ざっと数えたところで私が見たことのある出演作は20本をくだらない。それでもコアなファンの方から見れば少ないだろうと思う。確か『仁義なき戦い 完結編』であったかと思うが、東映映画の撮影を見学した際に、直接の姿に接したことがある。また、ラジオで私の中学の先輩である赤木圭一郎を偲ぶ番組に出演されて思い出を語っていたことを懐かしく思いだす。謹んでご冥福をお祈りする。 

『太平記』(298)

1月20日(月/大寒)晴れ

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)、京では南朝討伐に功のあった高師直・師泰兄弟が奢りを極めていたが、それを妬む上杉重能(足利尊氏・直義兄弟の母方の従兄弟)と畠山直宗(足利一族)は、高一族の排除を企てた。その頃、夢窓疎石の兄弟弟子で、足利直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟に軽んじられたのを憤り、直義に、高師直を秦の滅亡をもたらした趙高になぞらえ、高兄弟を討つように直義に進言した。
 直義はまず、尊氏の庶子で自分の養子となっていた足利直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。
 この年2月、清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者を出したが、それは天狗の仕業であると噂された。

 上杉、畠山はいよいよ讒言を連ね、妙吉侍者も高兄弟を取り除くことをしきりに勧めたので、直義は兄である尊氏には知らせることなく、上杉、畠山に加えて、高一族の大高重成、千葉一族の粟飯原清胤、利仁流藤原氏の斎藤五郎兵衛入道らを集めて、評定を行い、こっそりと高兄弟を討ち取ろうと相談した。中でも大高伊予守(重成)は大力である、宍戸安芸守は歴戦の勇士であるということで、この2人が討ち取ることと決められ、もしそれでも討ち取ることができないときの用意にと、武芸に秀でた武士たちを100人以上集めてそこここに潜ませた。そして何食わぬ顔で、師直を召し寄せた。
 大高重成は第9巻で尊氏が篠村から引き返して六波羅を攻めたときに、「足利殿の御内に大高次郎重成と云ふ者なり」(第2分冊、62ページ)と名乗りを上げた時が初登場で、その後も尊氏に従って足利軍の一角を占めてきた。しかし、貞和4年(1348)に足利尊氏の怒りを買って、若狭守護を解任され、所領をすべて没収された。その理由は不明である。なお、大高重成が失脚した際に、側杖を食っているのが粟飯原清胤である。(亀田俊和『観応の擾乱』43-44ページ参照)。ただ、今回取り上げた個所でもわかるように、師直とは違って直義と近く、この後から展開される観応の擾乱をうまく乗り切ることができた。武人ではあったが、夢窓疎石と足利直義との禅問答集『夢中問答』を出版したことで、文化史、宗教史にその名を残している。〔森茂暁『太平記の群像』、角川文庫、180‐181ページ参照〕 宍戸安芸守は、常陸国茨城郡宍戸荘)の武士だという。

 まさか直義が自分を討ち取ろうなどと考えているとは思わなかった師直は、騎馬の若党を3人連れて、安心しきった様子でやってきた。若党や中間は、皆侍の詰め所、主殿の前庭に控えており、中門(表門と主殿のあいだの門)に連なる白壁の塀で主殿からは隔てられていた。師直は1人で客間に通されて座っていた。彼の命はまさに風前の灯火ということになっていたが、彼を暗殺する謀議に加わっていた粟飯原下総守が、突然心変わりして、暗殺計画を師直に知らせた方がいいと思うようになり、ちょっと挨拶するような格好で、きっと目で挨拶をした。師直は、抜け目のない人物であったので、すぐにそれが何を意味するかを察して、ちょっとしばらく退出するようなふりをして、門前から馬に乗り、自分の宿所に帰ったのである。

 その夜が暮れると、すぐに夜の闇に紛れて粟飯原と斎藤が師直の邸にやってきた。そして直義の居館である三条殿では、上杉と畠山を中心に謀議が進められており、かくかくしかじかとこれまでの経緯を語った。師直は喜んで、2人に相当の引き出物を与え、これからも三条殿の様子を内内に知らせてほしいと頼んで、相原と斎藤を返した。師直は、これから用心を厳しくして、一族若党数万人(これは大げさ)を自邸の近くの民家に宿泊させ、出仕をとどめて、仮病を使って邸にこもっていた。

 前年の春から、師直の弟である師泰は、楠一族の中で最後に残っている正儀を討伐しようと河内国に下って、石川河原(大阪府富田林市の東部を流れる石川の河原)に楠一族に対する向かい城を構えて対峙していた。そこへ師直は使いを送って、事情を知らせたところ、師泰は紀伊の国の守護であった畠山国清に連絡を取り、彼の代わりに石川河原の城に入らせたうえで、急いで京都に戻ってきた。畠山国清は足利一族で、この後も登場することになる。

 直義は、師泰が大軍をひきいて上京してくるという噂を聞いて、この人物の起源をとらないと師直排除の計画は上手く行かない、だましてやろうと思ったので、飯尾修理入道(宏昭、幕府の引付衆)を使いに出し、「師直の政務ぶりは短才庸愚(才が無く凡庸で愚か)なので、しばらくの間政務への関与をとどめているところである。これからは、師泰を管領(執事、将軍の補佐役)に任じるものである。政所(幕府の財政・行政を司る役所)やその他の運営は、丁寧に行うべし」と管領職を委ねようとした。
 師泰は、この使いに対して、どうもありがたいお申し出ではあるけれども、枝を切った後で、根を断つという腹積もりではないのでしょうか(師直を倒した後で、今度は師泰を倒そうと画策している)。どのように入京して、お返事を申し上げればよいのでしょうか(わかりません)」と直義の目論見に反して返答をして、すぐにその日のうちに石川の館を引き払った。鎧兜で武装した兵3,000余騎に、7千人ほどの人夫たちに各種の盾を持たせ、今にも合戦に取り掛かるような様子で、しかも白昼に京都に入ってきた。京の人々は洛中でまた合戦が起きるのかと驚き、恐れおののいたのである。

 師泰は師直の宿所に入り、いよいよ三条殿(直義の居館、また直義のこと)との合戦が始まるといううわさが広がったので、8月11日の宵に、赤松入道円心とその子・則祐、氏範が700余騎を率いて、師直の邸に出かけた。
 師直は、赤松父子と急いで対面して、直義殿は理由もなく師直とその一族を滅ぼそうとされており、事態は切迫していると告げた。そして、彼は将軍≂尊氏にこの事情を説明したところ、尊氏は、直義がそのような企てをするのは穏やかではない。なんとかその企てをやめさせて、直義に師直の讒言を吹き込んだ者たちを重く処罰するべきである。もしその命令に従わずに、師直に討手を遣わすことがあれば、尊氏は必ず師直と一緒になって、安否を共にするつもりであると言われた。
 将軍のご意向がはっきりしたので、もし直義殿から討手が使わされば、反撃する所存である。京都のことは、内内に気脈を通じているものが多いので、安心である。しかし問題は、直冬殿が備後に居られることである。もし中国地方の兵を率いて京都を目指して攻め込んでこられると、厄介なことになる。今晩すぐに(赤松氏の本拠である)播磨におくだりになって、山陰道、山陽道から攻め上ってくる敵を杉坂、船坂の要害の地で食い止めてはくれないかと、依頼をする。赤松一族の武勇はこれまでの歴戦で明らかである。そして、藤原道長に仕えて勇武の士として知られた藤原保昌(伝説では源頼光、彼の四天王とともに大江山の鬼を退治した)のもっていた、代々受け継いで身辺から離さないできた護身用の懐剣を錦の袋に入れて、引き出物として与えた(大変な信頼ぶりである)。
 
 赤松父子3人はその夜ただちに都を発って播磨に下り、3千余騎の配下の兵を2手に分けて、備前の船坂、美作の杉坂、2つの道を封鎖したので、直冬は、備後から軍勢を率いて上京する心づもりであったのが、予定が狂ってしまった。

 いよいよ観応の擾乱と呼ばれる室町幕府の初期における最大の戦乱が始まろうとしている。今回、師直が打った布石のために、直冬は一応抑えられたが、この程度のことでは事態は収まらないはずである。
 亀田俊和さんによると、この擾乱によって室町幕府の権力構造が鎌倉幕府(と建武新政権)の単なる模倣から、室町幕府独自のものへと変化することになるという。それはさておき、ここでは人間関係に重点を置いて、事態の推移をみていきたいと思う。三条殿(直義)の下に、また高師直の下に、多くの武士たちが集まり、一触即発の危機が出現するというのは、また次回に。 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(27)

1月19日(日)晴れのち曇り

 フィッツウィリアム大佐の話を聞いて、姉ジェインとビングリーとの仲を裂いたのがダーシーであったと察したエリザベスは、彼に対する怒りを掻き立てたい衝動に駆られ、コリンズ夫妻とマライアがロウジングズ邸に出かけた後で、ケントに来てから届いたジェインの手紙を全部読み返すことにした。姉の手紙には具体的なことは何一つ書かれていなかったが、彼女の手紙の持ち味である陽気な明るさが欠けていた。エリザベスは姉を不幸な目に合わせただけでなく、仲を裂いたことを自分の功績として誇っているダーシーに対する怒りを募らせた。それでも、間もなくダーシーはロウジングズ邸を離れるし、自分自身が姉とまた一緒にロングボーンで暮らすようになるのだと思って心を慰めたのである。
 エリザベスはまた、ダーシーがロングボーンを去るということは、フィッツウィリアム大佐も一緒に行ってしまうことだと思った。しかし、大佐は財産のない女性との結婚の意志がないことをはっきり口にしたので、彼女は自分の気持ちを整理することができた。

 大佐のことは、はっきり忘れようと彼女が考えていると、突然玄関の呼鈴が鳴ったので、エリザベスははっとした。あるいはフィッツウィリアム大佐かも知れないと思うと、思わず軽い胸のときめきがした。以前にもそんなことがあったので、自分が気分が悪いと知って見舞いに来てくれたのかもしれないと思ったのである。
 しかしこの胸のときめきはすぐに、不吉な胸騒ぎに変わった。現われたのは大佐ではなくダーシーだったからである。
 彼は部屋に入るなり、せかせかした調子でエリザベスの健康状態について尋ねた。それに対し彼女は礼儀正しく、しかし冷ややかに答えた。ダーシーはほんのしばらく腰を下ろしたかと思うと、また部屋の中を歩き回り始めた。この奇妙な挙動にエリザベスは驚いたが、何も言わずに黙っていた。

 やがて、ダーシーは思いつめたような様子で、彼女にこう言った。
「もう駄目だ、何とか抑えようと努力したけれど、どうしても抑えきれない。この気持ちを抑え込むのは無理です。はっきり言います。僕はあなたのことが好きだ。心から愛している。」(大島訳、326ページ)
 エリザベスの驚きは形容のできないほどのものであった。〔つい今しがたまで、憎んでもあまりあると思っていた男性から、急に愛の告白を、それもかなり奇妙な仕方での告白をされたのだから、驚かない方がどうかしている。〕
 エリザベスが驚きのあまり、何も言えないでいるのを、承諾の意味を込めた沈黙だと誤解したダーシーは、それに勢いづいて彼が彼女をどれほど思っているか、それまでどれだけ思ってきたかを、とうとうと述べはじめたのだが、それ以外にも(彼の自尊心のゆえに)付け加えたいことがあって、話が長くなった。というよりも、彼女との結婚が自分の階級的な地位を下げることとか、家柄のちがいとか、自分の理性的判断とエリザベスに惹かれる感情の相克とかについて語り、それは彼がこのような障害があっても結婚したいという思いの表明であったかもしれないが、魅力的な結婚の申込とはいいがたいものであった。

 エリザベスが男から求愛される、あるいはされかけるのは物語が始まってからこれで4人目である。つまり、最初がコリンズ、次がウィッカム、それからフィッツウィリアム大佐、そしてダーシーである。正式に求愛したのはコリンズと、ダーシーの2人で、2人とも理屈っぽいというか、余計なことを並べすぎる求愛の言葉を連ねているのだが、自分の自尊心との戦いがそのまま出てしまっているダーシーの方が、少し誠実に思われるのではないかと思う。

 「エリザベスはダーシーを心底嫌ってはいたものの、これほどの男が自分を愛してくれているのかと思うと、さすがに冷淡にはなれなかった。自分の意志がぐらつくことは一瞬たりともなかったが、最初のうちは、相手が受けるであろう苦痛を思い遣って気の毒な気持ちになったほどであった。」(大島訳、328ページ) エリザベスは冷静にふるまっているが、それは求愛を拒否するつもりだったからである。そして、ダーシーの言葉を聞いているうちに、これまで抱いていた怒りがまた戻ってきて、相手に対する同情の気持ちなどなくしてしまった。それでも、ここは冷静に対応しようと決心して、相手の話が途切れるのを待っていた。
 一方、ダーシーの方は自分の申し出が拒否されることはないと確信している様子だったので、エリザベスはますます怒りを募らせていた。

 ダーシーが話をやめたときに、エリザベスは顔を紅潮させて、このような場合には、義理にでも礼を述べて、それから断るべきだと思うけれども、自分としてはそれもしたくない、彼からよく思われたいと思ったことは一度もないし、この件は忘れてほしいと答える。今度は驚き、怒りを感じたのはダーシーの方である。それでも、なんとか平静さを保ちながら、エリザベスがなぜそのように礼儀作法に反した拒絶をするのかと問い返す。
 エリザベスは自分の方から尋ねたいことがいくつもあると切り返す。そもそも、ダーシーが自分の理性に反して、身分や品性に反して、彼女のことが好きになったと述べたが、それは彼女を侮辱するような言い方ではないか。それから、自分の姉であるジェーンから、その恋人のビングリーを去らせるような真似をなぜしたのかというのである。
 これに対して、ダーシーはビングリーをジェーンと別れさせたのは、それなりの理由があって、友人を思い遣った結果であるという。エリザベスは、彼の言わんとすることが分かったが、分かったと思われるのが癪なので、わからないふりをして次の質問に取り掛かった。彼がウィッカムから聖職に就くという彼の希望を奪ったのはなぜかというのである。この質問に対しては、ダーシーはまともに答えない(それには、それだけの理由があるのであるが、それはあとからわかる)。

 こうして2人は、かなり激しいやりとりの後で、別れることになる。ダーシーが出て行った後、エリザベスは激しい動揺に見舞われた。一方で、彼が彼女について強い愛情を抱いていたことを知らされ、その一方で彼女が彼に対していだいていた怒りの感情の原因になったことを、彼は否定しなかったし、正当化しさえしたのである。そうして自分の心の興奮をなかなか鎮めることができなかったが、そのうち、ロウジングズ邸を訪問した一行が戻ってきた様子を察知して、自分の部屋に引き上げることにした。親友であるシャーロット(コリンズ夫人)の目をごまかして、自分の心の動揺を隠すことは難しいと思ったからである。

 今回も、これまでのあらすじを紹介するのをやめた。これからは何回か置きに紹介するということにしたいと考えている。
 物語の1つの山が来て、ダーシー(高慢)のエリザベス(偏見)に対する求愛は拒絶された。しかし、ここで話が終りになるわけではない。まだ物語は27章も残されており、これから物語の本格的な展開が始まると考えた方がいい。自尊心を克服しようとしながらも、まだまだ中途半端な態度でしてしまった、エリザベスへの愛の告白を拒絶されたダーシーの「高慢」がどうなっていくのか、エリザベスの怒りあるいは「偏見」は和らぐのか。前途に待ち構えているのは、どんな出来事であろうか。
 ところで、ダーシーはエリザベス以前に、求愛した女性がいたのだろうか。オースティンがそのあたりをどのように考えていたのかを想像してみるのも面白い。
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