倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』

5月24日(水)晴れのち曇り

 5月21日、倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)を読む。

 倉本さんは、その著書をこのブログでも取り上げたことがあるが、藤原道長の日記『御堂関白記』や、道長時代に天皇と公卿たちの間の連絡調整の任を果たした能吏にして能書家の藤原行成の日記『権記』、道長の権勢に阿らず是々非々の態度を貫いて『賢右府』と呼ばれた藤原(小野宮)実資の日記『小右記』の口語訳や、これらの史料に基づいた研究で知られる日本古代政治史、子機六額の研究家である。壬申の乱についての研究業績があるとはいえ、倭国が成立した時代から平安時代の末までの対外戦争を概観する書物を書いたことには、意外な気持ちを抱かされた。

 「はじめに 倭国日本と対外戦争」という書き出しの部分で強調され、その後本文でも何度か繰り返されているのは(倭国→日本は戦争を(ほとんど)しなかった国」であり、戦争の経験は乏しく、もっとはっきり言えば下手であるという主張である。しかしその一方で倭国と朝鮮半島の諸国の関係以来、蓄積されてきた帝国観念が近代におけるアジア侵略に影響を及ぼしていることも間違いないという。倭国が成立して以来、刀伊の入寇に至る対外紛争の歴史を実証的にたどることで、これらの問題に取り組むというのが著者の意図である。

 この書物の構成は次のようになっている:
 はじめに 倭国・日本と対外戦争
第1章 高句麗好太王との戦い 4~5世紀
 1 北東アジア世界と朝鮮三国
 2 百済からの救援要請
 3 高句麗との戦い
 4 倭の五王の要求
第2章 『任那』をめぐる争い 6~7世紀
 1 百済の伽耶進出
 2 新羅の伽耶侵攻
 3 「任那の調」の要求
第3章 白村江の戦 対唐・新羅戦争 7世紀
 1 激動の北東アジア情勢
 2 新羅との角逐と遣隋使
 3 唐帝国の成立と「内乱の周期」
 4 白村江の戦
 5 「戦後」処理と律令国家の成立
第4章 藤原仲麻呂の新羅出兵計画 8世紀
 1 「新羅の調」と律令国家
 2 新羅出兵計画
第5章 「敵国」としての新羅・高麗 9~10世紀
 1 「敵国」新羅
 2 新羅の入寇
 3 高麗来寇の噂
第6章 刀伊の入寇 11世紀
 1 刀伊の入寇
 2 京都の公卿の対応
終章  戦争の日本史
 1 蒙古襲来 13世紀
 2 秀吉の朝鮮侵攻 16世紀
 3 戦争の日本史――近代日本の奥底に流れるもの
 おわりに

 一見して分かるように、最も重点を置いて論じられているのは白村江の戦いである。著者が繰り返し強調しているように、前近代の倭国→日本が実施に海外に派兵して戦争した例は5世紀の対高句麗戦、7世紀の白村江の戦、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮侵攻の3回だけであり、特に中国と戦争した経験は後の2回だけである(秀吉の侵攻は、この書物の主な関心の外にある)。その後の北東アジアの勢力関係が白村江の戦によって決まったといっても過言ではないので、これは当然のことであろう。

 第1章では初期倭王権の対外関係を、石上神宮(奈良県天理市)に伝わる七支刀の銘と高句麗好太王碑(中国吉林省集安市に現存)の銘から推定している。
 北東アジア世界で最初に政治的成長を遂げたのは中国の東北地方から朝鮮半島北部に影響力を持つ高句麗で、北方のツングース系民族である貊(はく)族を主体としていた。中国から朝鮮半島に進出してきた勢力と戦いつつ、半島の南にある百済との抗争に注力するようになった。その百済は4世紀に馬韓を統一して成立し、4世紀後半の近肖古王の時代に勢力を拡大し、高句麗との抗争を続けた。高句麗に対抗するために中国の南朝の東晋に朝貢して冊封を受け、一歩上伽耶諸国と結び、さらに倭国に接近した。356年には朝鮮半島南東部の辰韓を新羅が統一した。朝鮮半島南東部は農業などの生産性が低く、地理的にも中国との交渉に不便で、高句麗に従属せざるをえなかった。なお、朝鮮半島南部の弁韓(弁辰)は統一されないまま、伽耶ショックとして小国が分立市た。それは小盆地がそれぞれ独立した地形を形成しているという地理的理由とともに、この地域が鉄資源に恵まれていたからである。朝鮮半島や倭国はこの地域の鉄生産に依拠していただけでなく、倭国の対半島交渉の中継地でもあった。
 4世紀の後半に倭国と百済との間に王権レベルでの通交が生じる。そのことを示すのが七支刀の銘である。高句麗に対して軍事的に劣勢にあった百済は倭国に軍事援助を求めて接近したと考えられる。「これまで本格的に国家間の交渉というものを知らなかった倭王権は、百済からの誘いに一も二もなく乗せられてしまった…。そしてそれが、今日まで続く半島と我が国との関係の出発点となったのである。」(28ページ)
 好太王碑の碑文を解読すると、391年以来、百済の要請を受けて倭国の軍は都会し、共同の軍事行動をとって新羅に攻め入り、400年には新羅・伽耶戦線で、404年には百済北部の帯方界戦線で、いずれも高句麗と戦って大敗したことが推定できる。敗戦の原因は重装歩兵を中心とした倭国軍に対し、組織的な騎兵を繰り出した高句麗が戦力的に勝っていたことによるものと考えられる。またこの敗戦を機に百済との同盟意識、新羅への敵対意識が生まれたこともその後の展開に大きな影響を及ぼした。

 5世紀の倭の五王時代になると、倭国は中国に朝貢して冊封を受けるとともに、新羅や伽耶諸国に対する軍事指揮権を獲得し、実際には軍隊は派遣しなかったものの、自分たちの「天下」の中に朝鮮半島諸国が含まれるという意識が後世まで残ることになったのである。
 次回は第2章、第3章の内容を検討することにしたい。
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カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』

5月23日(火)晴れ、気温が上昇した一方で、風もかなり強く吹いている。

 5月19日、カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(岩波文庫)を読み終える。20世紀後半のイタリアを代表する作家のひとりであるイタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino,1923-86)が1952年に発表した、彼自身にとっての第2作。第二次世界大戦中に自らが参加したレジスタンスの経験をもとに書き上げた「くもの巣の小道」(1946、出版は1947)の後、冷戦時代を迎える中で新しい文学を模索していた彼が、ほんの手すさびのつもりで書き始めたという寓話的・幻想的な小説である。

 むかしむかし、イタリアのテッラルバ(夜明けの土地という意味だそうである)の貴族であるメダルド子爵はキリスト教徒の皇帝の軍に加わってトルコ人と戦うためにボヘミアの平原に馬を進めていた。不吉な予兆があちこちに見られたにもかかわらず、子爵はまだ若く
「あらゆる感情が一度に噴き出して、善悪の区別も定かにつかない年ごろだった。そして死の影に満ちたむごい経験であっても、そのひとつひとつがみな新しく、人生の愛に熱くおののいて見える年ごろだった。」(8ページ)

 トルコ軍との戦闘の中で、(無知も手伝って)勇敢にも大砲の真正面に立ちはだかっためどるとは、砲弾を浴びて、空中に吹き飛んだ。戦闘が終わって、死傷者の体が収容され、選別されたが、メダルド子爵の体は負傷者の車に収容された。しかし病院で調べてみると、彼の体は「右半分だけしか助からなかった。ただし助かった部分は完全に無傷な状態を保っていた。」(22ページ) 軍医たちの手術の結果、「まっぷたつになりながら、彼はいま生き返った。」(23ページ)

 戦場から帰ってきたメダルド子爵を迎えたテッラルバの人々は、彼が右半分だけの体になって戻ってきたことを知る。メダルド子爵は、息子の帰還を待ち受けていた父親のアイオルフォ子爵に挨拶もせずに自室に引きこもった。息子が悲しくも野蛮な性質になって戻ってきたことを予測していたのであろうか、父親歯芸を仕込んでいた小鳥を息子の部屋に使いに出すが、その小鳥は片翼をもがれ、片足をむしりとられ、片目を抉り取られたむごい死骸となって窓の外に投げ捨てられていた。父親は床に臥せり、まもなく息を引き取った。

 父の死後、メダルドは城を出るようになった。見るもの、触れるものをすべてまっぷたつに切り落として歩き回っていたので、従僕たちが彼の後を追うのは容易であった。メダルドのおいで、物語の語り手である少年はかごに入った半分のきのこを与えられるが、それは毒キノコであった。メダルドの乳母であったセバスティアーナは、「メダルドの悪い半分が返ってきたのだ。今日の裁判もどうなることやら」(35ページ)と心配した。
 領地で起きた事件を裁くのは領主である子爵の権限であった。子爵は被告である山賊たちに強盗の罪で、山賊たちが密猟者だといった被害者のトスカーナの騎士たちを、密猟の罪で、そして密猟者の悪事に気付かず山賊行為を予測できなかった職務怠慢の罪で警務員たちにまで縛り首の刑を言い渡した。
 絞首台つくりの仕事を請け負わされたピエトロキョード親方は実直で、腕の立つ職人だったので、処刑者の中に自分の知人がいることに悩み苦しみながらも、今回の死刑囚よりもはるかに多い罪人を一度に処罰することの出来る絞首台を作った。そこで子爵は、罪状ごとに、それぞれ10匹の猫を同時に縛り首にすると宣告した。

 叔父が自分の領地を勝手に支配している時代であったが、語り手にとっては幸せな日々が続いていた。アイオルフォ子爵の娘でメダルドには姉にあたる母親が、密猟者と駆け落ちして、その結果生まれた子どもであり、父親も母親も死に、祖父のアイオルフォのお情けで子爵の城に引き取られてセバスティアーナに育てられた彼は、主人でもない、使用人でもない立場にあって、自由を享受していた。そして、イギリス人でキャプテン・クックの航海にも乗り組んだことがある(航海の最中は下の船室でトランプばかりしていたという話である)。テッラアルバで暮らすようになってから、彼は医者らしい仕事はあまりせずに、自分の研究に没頭していた。語り手の少年はその研究の助手として森の中を歩き回っていたのである。彼が人魂の研究をしているという話を聞いて、メダルド子爵は領主におさめるべき農作物をきちんと差し出さなかったという理由で農民10人を死刑にした。トレロニー博士はこの援助に震え上がってしまった。
 しかし、子爵の恐怖政治のもとでも、喜びがないわけではなかった。テッラアルバにはきのこ平という集落があって、ライ病にかかった人々が住んでいた。彼らは他の人々の施し物で生きていたのであるが、自分たちの畑でいちごを作っていて、そのおかげでいちご酒には1年じゅう不自由せず、ほろ酔い加減を続けていた。
 メダルド子爵は悪行を続け、あちこち放火して歩いただけでなく、乳母のセバスティアーナがライ病ではないのに、きのこ平に追いやってしまう。海岸でカニをとっていた語り手に向かい、メダルドは半分になったタコを見せながら、「もしもお前が半分になったら、…普通の完全な人間の知恵では分らないことがおまえにもわかるようになるだろう。おまえはおまえの半分を失い、世界の半分を失うが、残る半分は何千倍も大切で、何千倍も深い意味をもつようになるだろう。そしてお前はすべてのものがまっぷたつになることを望むだろう、お前の姿どおりにすべてのものがなることを。なぜなら美も、知恵も、正義もみな断片でしか存在しないからだ」(72ページ)という。語り手はこの言葉が聞こえないふりをしながら、自分の周囲の人々がみなまっぷたつの姿をしていることに気付く。「彼こそは、ぼくたちが仕える主人であり、ぼくたちがあ逃れることのできない、主(あるじ)だった。」(73ページ)

 語り手である少年と、テッラアルバの人々は、この半分だけの子爵の暴虐から逃れることができるのであろうか。

 パソコンの調子が悪く、ほとんど書きかけたこの稿の原稿が2回も消えてしまったので、本来ならば1回で済ませるはずだった紹介の論評を2回に分けることにした。起伏に富んだ物語の進行の中で、一方で幻想的な記述があるかと思うと、その一方で森や海岸の動植物についての詳しい記述もあって読んでいて飽きない。後半では、子爵がある娘に恋をして、物語の構成要素がさらに膨らんで面白くなる。 

夏目漱石『虞美人草』(4)

5月22日(月)晴れ、気温上昇

主要登場人物
(甲野家)
 外交官であった当主が任地で没し、先妻の生んだ長男の欽吾(27)、後妻、後妻の生んだ娘の藤尾(24)の3人暮らし。
欽吾 大学で哲学を勉強し、卒業後は特に職に就くこともなく思索にふけっている。財産は妹の藤尾に譲って、家を出ようと思っているが、義理の母親が本心と逆のことばかり口にしているので、悩みが深まっている。
藤尾 「紅を弥生に包む昼酣(たけなわ)なるに、春を抽(ぬき)んずる紫の濃き一点を、天地(あめつち)の眠れるなかに、鮮やかに滴(した)たらしたるが如き女である。夢の世を夢よりも艶(あでやか)に眺めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢(びん)の上には、玉虫貝を冴々(さえざえ)と菫(すみれ)に刻んで、細き金脚(きんあし)にはっしと打ち込んでいる。(以下略、23ページ)」と漱石は描写している、<紫>の着物を好む美人である。宗近家の長男である一と、父親同士では結婚の内約があったが、英語の家庭教師をしてもらっている秀才で詩人の小野に心を移している。
藤尾の母 義理の息子である欽吾に不満を持ち、外交官試験に落第した宗近一にも愛想をつかし、卒業に際して銀時計をもらった秀才の小野を将来有望と考えて、藤尾の婿に迎えようとする。しかし、外聞を気にしてその本心とは逆のことばかり言う。

(宗近家)
 甲野家とは遠縁であるが、家庭の様子はかなり違っている。母親は没した様子であるが、第一線を引退したらしい父親と、長男の一(28)、娘の糸子(22)の3人が、下女の清、あまり役に立たない書生の黒田と仲良く暮らしている。甲野家がよかれあしかれ観念的・思弁的(あるいは審美的)傾向があるのに対し、こちらは実際的・実用的な傾向が強い。
一 大学卒業後、外交官試験を受験したが、落第。2度目の受験をしたらしいが、その結果はまだわからない。藤尾からは趣味が合わないと嫌われ、藤尾の母からは馬鹿にされているが、まだ藤尾との結婚をあきらめてはいない様子である。国士的な気概と実際的な能力を持つ男性で、妹想いの兄でもある。
糸子 「丸顔に愁(うれい)少し、颯(さつ)と映る襟地(えりじ)の中から薄鶯の蘭の花が、幽(かすか)なる香を肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。」(88ページ)と漱石は描写している。裁縫が好きな家庭的・実用的な性格で、教養も才芸も豊かとはいえないことで藤尾に劣等感を抱いているが、欽吾は糸子の方が好ましいと思い、糸子も欽吾に思いを寄せている。
宗近の父親 実業家であったのか、官吏であったのかは不明。引退して、謡や盆栽、骨董など趣味三昧の生活をしている。自分の子どもや欽吾など若い世代とよく話し、尊敬を受けている。

小野清三(27) 恵まれない環境に生まれ育ったが、京都で井上孤堂先生の世話になって頭角を現し、文科大学を優等の成績で卒業して銀時計を得た。博士論文の執筆中である。孤堂先生は娘の小夜子と結婚させたい意向であるが、本人は英語の家庭教師をしている藤尾の美貌と財産とに惹かれ始めている。孤堂先生が京都の住まいを引き払い、小夜子とともに東京に移住してきたことで決断を迫られている。

井上孤堂 小野さんが若いころに世話をした。教師をしていたらしいが、今は年金暮らしである。昔気質の老人で、京都から東京に出てきて、当惑しながらも、娘と小野さんの結婚に夢をつないでいる。
小夜子(21) 孤堂先生の一人娘。東京の女学校を中退して、京都で暮らしはじめて間もなく母を失い、父と二人暮らしである。「真葛が原に女郎花が咲いた。すらすらと薄を抜けて、悔(くい)ある高き身に、秋風を品よく避けて通す心細さを、秋は時雨れて冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜に、冬は果てしなく続く中に、細い命を朝夕に頼み少なく繋なぐ。冬は五年の長きを厭わず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に貧(まずしさ)を知らぬ春の天下に紛れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴に色づくを、ひそかなる黄を、一本(ひともと)の細き末に頂て、住むまじき世に肩身狭く憚りの呼吸(いき)を吹くようである。」(133ページ)と、漱石は彼女の境遇、性格、容姿をひとまとめにして女郎花に譬えている。女郎花の花は秋に咲き、淡黄色であるから、春と紫のイメージを重ねられている藤尾と対照的に描き出されている。京都での住まいの隣の旅館から彼女を見かけた宗近君が「藤尾さんよりわるいが糸公より好いようだ」(52ページ)と遠慮のない感想を述べている。東京に戻ってきたが、小野さんとの距離が出来てしまったことに引け目を感じている。

これまでのあらすじ
 京都に旅行に出かけた宗近君と甲野さんは、旅館の隣に住む娘(小夜子)を嵐山への花見でも見かけ、さらに東京に帰る汽車にも乗り合わせているのに気づく。2人の留守中に藤尾と小野さんの関係は深まっているのだが、そんなことを知らない孤堂先生は小夜子を連れて東京に出てきたのである。上野で開かれている博覧会に出かけた宗近君、甲野さんは、小野さんが孤堂先生と小夜子を案内してやってきているのを見かけ、彼らの関係に薄々と気づく。2人に同行していた藤尾と糸子も3人の姿を見て、それぞれの感想をもつ。翌日、小夜子は小野さんと買い物に出かけようとするが、小野さんは他に用があるのでと同行を断り、買い物を引き受ける。小野さんの訪問を受けた藤尾は、小野さんからしばらく顔を見せなかった事情を聞き出し、いよいよ小野さんの決断を迫る。

13
 散歩に出かけた甲野さんは宗近君の家に立ち寄るが、宗近君もその父親も不在で、使用人も取次に出ないので、家にいた糸子が相手をする。糸子は前日の博覧会で、兄が噂をしていた京都の女性を見かけたことを話題にする。小野さんが「美しい方を連れていらしったでしょう」(227ページ)と言い、兄と甲野さんが何度も彼女と出会っているという話を面白がるが、甲野さんは宗近の家の庭の片隅に咲いている鷺草(さぎそう)とも菫(すみれ)とも判断できない花に、糸子の注意を向けさせて、小夜子をこの花に譬える。小さいので、その美しさに気付く人がいない哀れな花だと言い、自分の美しさを利己心の満足のために利用する(そんなことははっきりとは言わない)藤尾のような女は、小夜子のような女を5人殺すとまで言う。そして糸子には、今のままでいる方がいい、結婚すると女は変わると言い残す。
 「可愛らしい二重瞼がつづけ様に二、三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと雨竜(あまりょう)の影が渡る。鷺草とも菫とも片浮かぬ花は依然として春を乏しく咲いている。」(232ページ)
 糸子は、当惑している様子である。偶然というか、行きがかり上そうなってしまったということではあるが、甲野さんの言っていることはあまり適切な発言とは思えない。遠まわしすぎて、通じにくいが、甲野さんの言葉をつないでいけば、糸子が好きだけれども結婚してうまくやっていく自信がないということであろう。それを糸子がどの程度理解したか、あるいはそういう「空気」だけを感じたのか、というのは今後の物語の展開の一つの要素となる。(漱石の描き出した小夜子の像と、甲野さんのとらえている小夜子の像がどのように違っているかというのも興味ある問題である。)
 物語の展開とは関係がないが、この時代には「鷺草」というのは普通に見かけられた草花であったようだ。今では九品仏浄真寺など限られた場所でしか見ることのできない植物になってしまった。

14
 外出中の宗近君は小野さんが紙屑籠とランプの台をもって歩いているのを見かけて、呼びとめる。小野さんは小夜子から聞いた買い物をして、孤堂先生の家に向かう途中なのである。藤尾を宗近君から奪うという意識がある小野さんは何となく落ち着かないが、宗近君は博覧会で見かけた小野さんの連れについて質問する。宗近君と別れた小野さんは、孤堂先生の家に急ぐ。
 一人で留守番をしていた孤堂先生は体調が悪く臥せっていたが、起きてきて、小野さんの相手をする。小夜子との結婚についてはっきりさせることを急ぐ先生に対し、小野さんは2・3日の猶予を申し出る。先生の家を出た小野さんは落ち着かない気分で、歩きながら道の向こう側を歩いて帰ってくる小夜子と下女の二人連れをやり過ごす(この時代の道は狭いけれども暗かったので、こういうことがありえたのであろうか)。

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 甲野邸を訪問した小野さんは欽吾が使っている(もとは彼の父親のものであった)書斎を羨ましく思い、この書斎が自分が使えたらと空想にふける。その書斎では甲野さんがイタリアの厭世的な詩人であるジャコモ・レオパルディ(1798-1837)の『随想録』を読みながら抜き書きをしている。
 その間、藤尾とその母は小野さんを夫として選ぶという藤尾の決心を欽吾に話したか、この決心が宗近の方に伝わっているかについて話している。母親は話が伝わっているはずだというが、藤尾はもっとはっきり言うべきだと主張する。母親は藤尾と小野さんが大森へ行くという約束を思い出す。当時大森は行楽地として知られていて、2人で出かけるということは既成事実を作ってしまおうということであった。
 甲野さんの部屋に出かけた母親は藤尾の面倒を見てほしいというが、甲野さんは藤尾の方で世話になるつもりはないだろうという。藤尾の縁談を話題に持ち出すのに先立って母親は甲野さんに結婚する意志があるのかどうかを質問する。甲野さんは藤尾の方を先にした方がいいだろうという。家も財産も藤尾にやると甲野さんはいうが、母親はそれでは世間に対して面目が立たないという。そして藤尾と小野を結婚させたいというが、甲野さんは宗近の方がいいのではないかという。母親に呼ばれてやってきた藤尾は宗近君ではなく、小野さんを選ぶという。「趣味を介した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値(ねうち)は分りません。決して分りません。一さんをほめる人に小野さんの価値が分る訳がありません。…‥」(298ページ)

 自分の優柔不断を悩んでいる小野さんを「温厚の君子」というのは藤尾の買い被りである。もっと問題になるのは、有名な『日記』を残したスイスのアンリ・フレデリック・アミエルや、もっと有名なところを引き合いに出せばフリードリッヒ・ニーチェに見られるように詩と哲学とは対立するものではないということである。甲野さんが日記にレオパルディの語句を書き記すのは暗示的である。藤尾は自分は兄と違って詩を理解していると思っているが、実は甲野さんの方が詩を理解していると漱石は仄めかしているように思われる。

『太平記』(159)

5月21日(日)晴れ、気温上昇

 建武3年(1336)4月末、都を追われて九州で再起を図っていた足利尊氏・直義兄弟は播磨の赤松円心の勧めで、大宰府を発った。途中、安芸の厳島明神に参篭、その結願の日に、都からかねて待ち望んでいた光厳院の院宣がもたらされた(これは歴史的な事実ではなく、院宣を得たのはもっと早い時期であったとされている)。備後鞆の浦(現在の広島県福山市)で軍勢の手分けを行った足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は摂津兵庫まで退却した。ここで尊氏・直義の軍が合流するのを待ち受けて、一戦交えようという腹積もりである。
 この知らせを受けた後醍醐天皇は楠正成に兵庫に向かって義貞を助けるように命じた。正成は足利方の大軍を防ぎとめることは難しいので、再び天皇が比叡山に行幸されて、都を足利方に明け渡し、正成と義貞がゲリラ戦で足利方を苦しめ、形勢を逆転することを進言するが、この提案は退けられた。正成は死を覚悟して兵庫に向かうのであった。

 正成はこれが自分の最後だと思っていたので、長男である正行が11歳になって、父親のお供をしようとついて来たのを、桜井の宿(大阪府三島郡島本町桜井)で自分の本拠地である河内の金剛山に送り返すことにした。そして泣きながら、庭訓(父が子に与える教訓)を言い渡す。「獅子は、子どもを産んで3日経つと、はるかに高い岩のがけから、母親が子どもを投げる。投げられた獅子の子に獅子としての資質があれば、途中で身を翻して飛び上がって、死なないという。(今、自分は獅子の親が子どもを崖の下に投げるように、子どもの器量を試すべき時に来ている。獅子の場合は、生まれてから3日目であるが)おまえは既に10歳を超えている。いろいろなことがわかる年頃だと思うので、私のいうことをしっかり覚えていて、それを間違えず実行してほしい。
 今回の兵庫での戦いは天下分け目の合戦だと思うので、この世でお前の顔を見るのもこれが最後だと思う。正成がすでに戦死したという情報が広がれば、天下は必ず将軍(足利尊氏)のものとなるだろう。そうなったとしても、当座の命を助かるために、楠一族の長年の忠節を捨てて、武家方に降参するという不義のふるまいをするということがあってはならない。一族郎党のものが1人でも生き残っているうちは、楠一族の本拠地である金剛山に立て籠もり、敵が押し寄せてくれば、命を経偉人にさらして、名を後世に残すべきである。それこそがおまえの親孝行と思うべきである」と涙をぬぐいながら言い含め、父親は兵庫の戦場へ、息子は河内の金剛山へと別れていったのである。その様子を見守っていた人たちは、心猛々しい武士であっても、父子の心中を推し量って、鎧の袖を濡らさないものはなかった。
 この逸話は昔の教科書などに記されて、大きな影響力を持った。もう60年ほど前に死んだ私の伯母が、動物園でライオンの親子を見て、「獅子は万仞の石壁より、母これを投ぐれば」というけれども、実際にライオンを見ると、母親が子どもをとてもかわいがっていると言っていたのを思い出す。とはいっても、ネコ科の動物は高いところから落ちても、体勢を立て直してけがをせずに済ませることができるというから、この話もまったく嘘ではない。なお、正成・正行父子の桜井の宿での別れを歌った「青葉繫れる桜井の」という歌は、小津安二郎の映画『彼岸花』に出てくるので、私の耳に残っている。

 『太平記』の作者はこの後、秦の丞相であった百里奚が息子である孟明視が出陣する際に、自分は老齢であるので息子が帰還するころにはもう会えないだろうと言って泣いたという話を引き合いに出して、正成・正行親子の父子二代にわたる忠義を称賛する言葉を記しているのだが、自分の知識をひけらかしているだけで、却って、感動を薄めているのではないかという気がしないでもない。

 このような次第で、楠正成は兵庫に到着する。新田義貞はすぐに正成と対面して、後醍醐天皇のご意向がどのようなものかを訪ねた。正成は、自分の考えと、天皇のお言いつけの内容を詳しく語った。義貞は、(正成の都をいったん去って足利方に明け渡したうえで、ゲリラ戦で苦しめて、その士気をそいでいくという正成の戦術について理解を示しながら)、「このたびの戦で不利な立場に立った少数の軍勢で、勢いに乗った敵の大軍と戦おうとするのは、無理が多いというのは承知しているが、昨年、箱根・竹下の合戦で敗北し、そのまま都に落ち延びて、途中で敵を防ぎとめることができなかったことで、世の人々の嘲りを避けることができなかった。それだけでなく、このたび西国に派遣されて、敵の数か所の城の一か所も陥落させることができないうちに、敵の大軍の襲来を聞いて、一戦も交えず、京都までの長い道のりを逃げてしまったのでは、あまりにふがいないと思われるので、勝敗を度外視して、この一戦で忠義のほどを示そうと考えるばかりだ」という。

 正成は、「愚かな大勢のものが言い立てる意見は、一人の賢人の言葉に劣る」という言葉もありますから、兵法を知らない人々のそしりを必ずしも気に掛ける必要はありません。ただ戦うべきところを知って進み、退くべきところを見て退くのをよい大将というわけですから、「暴虎馮河して、死すとも悔いなからん者には与せじ(虎に素手で向かったり大河を徒歩で渡ったりして、死んでも後悔しないような無謀な者とは、行動をともにすべきではない/論語・述而)と孔子もその弟子である子路を戒めたものです。義貞様にあっては、元弘の初めに北条高時を鎌倉で滅ぼし、今年の春は、尊氏卿を九州に敗走させたこと、天皇の聖運とは言いながら、やはり貴殿の武士としての徳によるものではないかと思われませんか。合戦のやり方については誰も非難しません。さらにこのたび西国から京都に退却されていること、その戦術、いちいち合戦の道理にかなっていると思われます」と語る。
 この言葉を聞いて、義貞は顔色が明るくなり、二人で夜を徹して語り合ったのであった。「貴殿の言われることを聞いていると、義貞の武勲も、一概に軽くは見られていないのは、私にとって励みになることだ」と言い、その夜は数杯の酒を飲み交わしたのであった(本来ならば、もっと飲みたいところだったのだろうが、明日は合戦と思うと控えなければならない・・・というのが、両者の気持ちが酒飲みには余計によくわかる箇所である)。
 武士の面目を気にする義貞と、現実主義者の正成という性格の違いがある一方で、義貞は戦いで敗れた後のことを気にしているのに対し、正成はこの一戦に死を覚悟しているというまったく逆の内心の動きも知られる箇所である。治承・寿永の源平の争乱の際にも重要な戦場となった兵庫で、一戦交えるというのは義貞らしい決断ではあるが、勝機を見出すのはかなり難しい。狭い地形の中では軍勢の多寡よりも、士気や指揮官の戦術が物をいう可能性が高いが、そうはいっても、彼我の軍勢の差が大きすぎるのである。 

日記抄(5月14日~20日)

5月20日(土)晴れ、気温上昇

 5月14日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
5月14日
 前日(13日)のJ2第13節水戸ホーリーホック対横浜FCの対戦は0⁻0で引き分けに終わった。横浜FCはこれで2位に後退。水戸はおそらくこれまで最も多く対戦しているチームだと思うが、それだけのことはあってそう簡単には勝たせてくれない。

 『朝日』の朝刊で木村草太さんが道徳教育について考える際に手掛かりになりそうな書物を3冊あげていた中に、当ブログでも取り上げたパオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』(ちくまプリマー新書)が含まれていた。この書物がもっとも重要なことだと論じているのは、「自分とは違う人間が世の中に存在することを認める努力」(174ページ)であるが、これは木村さんが取り上げている残り2冊のうちの1冊、辻田真佐憲『文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年』(文春新書)で文部省(→文科省)が追求してきたと言われていることとどのような関係になるのか、それが考えてみる際の出発点の1つとなるだろう。

5月15日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」でイタリアから日本にやってきた青年が、彼を迎えた日本の友人に
Perché hai deciso di studiare l'italiano? (何でイタリア語の勉強をすることにしたの?)
と質問している。こう聞かれても、それほどはっきりした理由があるわけではない場合が少なくない。日本語の勉強にしても同じことかもしれない。イタリア人パートナーのフィオーレさんは日本語を勉強するようになった理由として、ヨーロッパのものではない言語を勉強したかった、その中で日本の文化や歴史に魅力を感じていたからと言い、アンドレアさんは外国の言語や文学が好きだったので、日本語と日本文学を選んだのだ、初めはそれほど夢中ではなかったのが、やっているうちにのめりこんだと話した。選ぶきっかけは偶然に近いものであっても、やっているうちにのめりこむということはありそうだ。もちろん、やっているうちに向いていないと気づいてやめることもあるはずである。

5月16日
 『朝日』の朝刊に大学の授業の1コマがふつう90分であったのが、100分に延びる傾向にあるという記事が出ていた。私が大学に入った時は110分であった。90分が一般的になったのは1970年ごろからであろう。110分といっても、先生が遅れてきたり、早くやめたりで融通が利いた。英語の授業などでは、自治委員がクラス討論をしたいので早めにやめてくださいと掛け合ったりした。授業時間があまり短いとそういうことがしにくくなる。よしあしである。

5月17日
 研究会と重なったので見に行けなかったのだが、ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第14節横浜FC対カマタマーレ讃岐の対戦があり、横浜が2-1で勝利して、首位を奪回した。比較的下位にいるチームではあるが、これまでの対戦成績から見ると分がよくない相手である。まあ、勝ったことで良しとしよう。

5月18日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「インタビューで広がるフランス語の世界」の第11課で、フランス人講師のヴァンサン・ブランクールさんは次のように述べた:
  Je crois qu'un des intérêrets de la francophonie, c'est de nous amener, nous Français, à réfléchir sur notre passé colonial. Aujourd'hui, à travers la langue française qui nous est commune, nous pouvons nous pencher sur ce passé douloureux qui nous est aussi ommun.
(フランス語圏を知る意義の一つは、われわれフランス人に植民地時代の過去について考えさせることだと思います。現在ではフランス語という共通言語を通して、われわれが共有したいたましい過去について検討することができます。)
痛みは両方にあるというときの、痛みがどのようなものかを語り合うべきだというのであろう。 

NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」の第11回は、ミケランジェロのミカンに終わった最後の作品である<ロンダニーニのピエタ>を取り上げていたが、作品を解説するイタリア語の文はミケランジェロの遺した詩行から始められていた。
 Giunto è già 'l corso della vita mia
con tempestoso mar, per fragil barca...
(Michlangelo Buonarroti, Rime, N.285)
 わが人生の航路ももはや終わらん。
 壊れかけた小舟で、荒れ狂う海を行くがごとき航路を
 (ミケランジェロの「詩集」から、池上英洋訳)
 ミケランジェロは彫刻家、画家、建築家であるとともに詩人でもあったことがわかる。

5月19日
 イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(岩波文庫)を読み終える。面白かった。この小説については、また機会を見つけて取り上げるつもりである。

 さらに高橋呉郎『週刊誌風雲録』(ちくま文庫)を読み終える。さまざまな週刊誌の興亡を著者自身の経験を踏まえて内側から語っている。週刊誌というメディアについて一応のことを知るためには便利な本である。この本でもところどころで触れられているが、海外の週刊誌(あるいはそれに類した雑誌)と日本の週刊誌はどこが違うのかということがもっと掘り下げられていたら、もっと面白かったのであろうが、そこまでを望むのは無理かもしれない。
 そういえば、『朝日』の朝刊に雑誌の図書館である大宅文庫が財政難に陥っているので、運営費の募金活動をしているという記事が出ていた。大宅が雑誌を情報源として活用していたのは有名な話だが、現在活躍中の池上彰さんなどもやはり雑誌を活用している様子である。誰か、雑誌活用術の本を書いたら、側面からの援助になるかもしれない。

5月20日
 少し間隔があいてしまったのだが、医師の診察を受けに出かけ、その後、薬局で薬をもらう。22日には、別の病院で別の病気の診察を受けることになる。なかなか大変である。

 明日(21日)は13時から小机で横浜FCシーガルズの試合があるので、どこかで弁当を買って見に出かけるつもりである。22日には病院の帰りに映画を見ようと考えている。さらに27日には18時から横浜FCと名古屋グランパスの対戦があり、これも見逃せない。病気だ病気だと言いながら、あちこち遊びまわっている。この調子ではろくなことが起こりそうもない。 
 
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