FC2ブログ

E.H.カー『歴史とは何か』(11)

4月18日(木)晴れ、気温上昇

Ⅰ 歴史家と事実
 歴史は過去の事実と現在の歴史家との対話であり、相互的な関係にあると著者は論じている。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人ともやはり相互的な関係であることを論じたのち、Ⅰで述べた歴史は過去の事実と現在の歴史家の対話という考え方を、歴史家もまたそれぞれの社会に属する存在であるということから、過去の社会と現在の社会の対話であるという考えを導き出している。

 今回は、「Ⅲ 歴史と科学と道徳」に入る。歴史の中に科学的な法則性が見いだされるかとか、歴史から道徳的な教訓を引き出す、あるいは歴史的な出来事や人物を道徳的に評価するということをめぐっては、盛んに議論されてきたし、いまでもそうである。この章の前半では歴史と科学、後半では歴史と道徳の問題が論じられる。

Ⅲ 歴史と科学と道徳
歴史は科学であること
 歴史は科学かという問題は、英語圏でのみ問題にされる問題であるとカーは述べている。英語以外のヨーロッパの諸言語では、「科学」という語には歴史が含まれているからであるという。〔これはどうも気になる発言である。確かにドイツ語のWissenschaft (科学)は<知識>という意味も含んでおり、それはラテン語のscientiaが「知識」という意味と「科学」という意味の両方を併せ持っていることと関係するのだが、英語のscienceだって、ラテン語のscientiaから派生した言葉ではないかと思うのである。この疑問に答えるかのように、カーは、18世紀の終わりごろからの英語圏における人間の、あるいは社会の「科学」をめぐる論争について概観を始める。〕

 18世紀の終わりごろから、科学的な方法は、人間の社会やその歴史についても適用できるのではないかという議論が展開されてきた[もともと医師であったウィリアム・ペティ(1623‐87)が『政治算術』など社会の分析に統計的な手法を持ち込んだのは、17世紀のことであるというようなことも考え合わせると、カーが関心を持っているのは、主に歴史に科学的な方法を持ち込むという問題である〕。
 19世紀の前半には、ニュートンの影響のもとに、人間の社会もまたシステムであるという考え方が広まった。さらに、ダーウィンの行ったもう一つの科学革命から、
 社会は一つの有機体である
 そして
 進化している
とする考え方が有力になった。

歴史における法則の概念
 自然科学者たちは観察された事実からの帰納によってさまざまな法則を発見してきた。社会に関する研究の領域でも、同じことが可能だと考えられるようになった。このような試みの先頭を切ったのは経済学者であり、グレシャムの法則(「悪貨は良貨を駆逐する」と要約される金本位制のもとでの経済法則の1つで、1560年にトマス・グレシャムという人がエリザベスⅠ世女王にこの趣旨の進言をしたことにより、この名がある。ただし、天文学者として知られるニコラウス・コペルニクスが1528年に書いた書物の中に同じような考えが見られることも広く知られている)やアダム・スミスの「市場の法則」〔スミスの主張のどの部分を指して言っているのか定かではない〕などが提唱された。その後、さまざまな「法則」が提唱されたが、自然科学的な批判に耐えないだけでなく、今日では社会科学者から見ても疑問だらけであるという。

 フランスの数学者〔物理学者でもあった〕アンリ・ポアンカレ(Jules-Henri Poincaré, 1854 - 1912)は1902年に『科学と仮説』(La Science et l'hypothèse ) という書物の中で、科学者が作る一般的命題は、さらに進んだ思考を結晶させ組織するために組み立てた仮説であって、それは証明され、変更され、反駁されることを免れないものであると論じた。科学的な探求の目的は厳密な包括的法則を打ち立てることではなく、新しい研究のための道を切り開くような仮説を作り出すことだというのである。
 このようにおおぜいの人々の循環的、あるいは相互的な努力によって発展していくという性格は、自然科学だけでなく、歴史研究についても当てはまるものであるとカーは論じている。

道具としての仮説
 「歴史家が自分の研究の過程で用いる仮説の地位も、科学者が用いる仮説の地位に驚くほど似ている」(85ページ)とカーは考えている。つまり、仮説は研究を発展させていくための「道具」であるというのである。そしてその例として、マックス・ヴェーバーを取り上げ、「プロテスタンティズムと資本主義との関係についてのマックス・ヴェーバーの有名な診断を取り上げてみましょう。以前なら、これを法則だと大騒ぎしたことでしょうが、今日では誰もこれを法則だと呼びません。これは一つの仮説であって、それに刺激されて研究が進むうちにいくらか変更はされましたものの、それがこの二つの運動に対する私たちの理解を広めてくれた点は疑いを入れません。」(85ページ) 〔ヴェーバーはピューリタニズムの役割を重視しているのだが、英国の経済史学者のR.H.トーニーはイングランド国教会の側から、『宗教と資本主義の興隆』という本を書き、イタリアの経済史学者でその後6回も首相になったアミントーレ・ファンファーニは『資本主義の歴史的発展におけるカトリック信仰とプロテスタンティズム』という本を書いている(この本は日本語にも翻訳されているはずであるが、すぐに検索できなかった)。それどころか、キリスト教国ではない、日本における資本主義の発展のエートスを探るべく、アメリカの社会学者ベラーは『徳川時代の宗教』という本を書いて、日本の明治以後の資本主義の発展に果たした、勤労・勤勉・禁欲といった儒教的な倫理の民衆レベルへの浸透の意義を評価している。このようにヴェーバーの影響の大きさには計り知れないものがあるといってよい。〕

 歴史における時代区分も仮説の一種であり、時代区分をめぐる議論も歴史を考えていくうえでの道具をめぐる議論として理解できるとカーは言う。〔ヨーロッパの「古代」の終わりは、西ローマ帝国の最後の皇帝が位を奪われた476年というのが一般的な知識であるが、『中世の都市』を書いたアンリ・ピレンヌのようにもっと後の時代に、転換点を求める研究者もいる。〕 時代区分の妥当性は歴史的な事実の解釈の有効性とかかわっているという。
 歴史における地域区分も同様に仮説の一種である。ロシアをヨーロッパの一部と考えるか、それを否定するかは、その人のもっている仮説によって左右されている。

 科学者が仮説とその実証、証明、変更、反駁の繰り返しを続けていく研究法と、歴史家の研究法の間に本質的な違いはないというのがカーの見解である。

 しかし、歴史は科学であるという考えには根強い反対もある。次回は、その反論と、反論に対するカーの再反論についてみていくことにしよう。
スポンサーサイト

「春暁」――たわむれに訳す

4月17日(水)曇り

 春眠不覚暁
 処処聞啼鳥
 夜来風雨声
 花落知多少

 春眠暁を覚えず
 処処啼鳥を聞く
 夜来風雨の声
 花落つること知る多少

 ついつい寝過ごす 春の朝
 枕元にも 鳥の声
 昨夜の夜は 荒れ模様
 花はどれだけ 散ったやら

 本日は病院で診察を受けた。これまで見てもらっていた医師が転勤になり、他の医師に引き継がれることになっていたのだが、その先生が出張中で、若い医師が代理で診てくれたのだが、これがひどく丁寧で時間がかかった。その後、採血をした。栄養相談は込み合っているとのことで、今回はなしで済ませた。

 東京に出たついでに、神保町シアターで映画(「恋する女優 芦川いづみ デビュー65周年記念スペシャル」)を見た。14:15からの『真白き富士の嶺』(太宰治の「葉桜と魔笛」を原作として、芦川いづみと吉永小百合が姉妹を演じた作品である)を見たかったのだが、開映時間に間に合いそうもなかったので、その後の『白い夏』を見た。(『真白き富士の嶺』のチケットは完売だったそうだ。誰の考えることも同じらしい。) 『白い夏』上映に先立って、芦川いづみさんからのメッセージが放送された。『白い夏』は平凡な映画だが、昭和30年代初めの房総半島の漁村の風物が描き出されていること、主人公を取り巻く2人の女性を演じている芦川いづみと中原早苗がともに、若くて、魅力的だったのが印象に残る。

 疲れて、考え事をしたくないので、ノートをひっくり返して、孟浩然の「春暁」の訳詩を見つけたので、投稿することにした。ほかにも多くの人が、この詩の翻訳を試みているが、この訳では作者が一向に寝床から出ようとしていない様子であるのが、どこか私の性格を反映しているのではないかと思う。 

『太平記』(258)

4月16日(火)晴れ

 暦応5年(この年4月に貞和と改元、南朝興国3年、1342)4月、吉野の朝廷は伊予の国からの要請で、新田義貞の弟である脇屋義助を大将として派遣することになった。義助が四国へ下る途中を守ったのは、備前の佐々木(飽浦)信胤だった。足利方だった信胤は、将軍尊氏の執事として権勢を誇っていた高師直の従兄弟である高師秋の女を奪ったことで、足利方から離反し、南朝方についたのだった。
 義助は、吉野から伊予に下る途中、高野山に参詣した。伊予では、守護の大館氏明、国司の四条有資以下の宮方が、義助の下向によって勢いを得た。

 その頃、伊予の国では世にもまれなふしぎな出来事が起きた。この国に、大森彦七盛長という武士が住んでいた。大胆不敵な性格に加えて、並外れた怪力の持ち主であった。
 建武3年(1336)5月に足利尊氏が九州から攻め上り、新田義貞は播磨(兵庫県西部)から退却して、両者が兵庫の湊川で合戦したときに、大森一族は楠木正成の軍と激しく戦い、正成らを切腹に追いやるという戦功を立てた。このため、他に抜きんでた戦功を立てたことを賞されて、数か所を恩賞として与えられたのである。
 大森彦七盛長は、清和源氏の源満仲の次男で、摂津源氏の祖である頼光の弟、河内源氏の祖である頼信の兄にあたり、大和源氏の祖となった頼親の9世孫、宇野七郎と称した源親治の5世孫を称した。楠正成敗死の次第は『太平記』16巻10に語られているが、あらためてその箇所を読みなおしてみると、大森の名が出てこないのは奇妙である。
 恩賞として伊予の国に所領を与えられたことを喜んで、一族のものが集まって、猿楽(能・狂言のもとになった物まね芸や舞踊)をして楽しもうということで、近くのお堂の庭に桟敷をこしらえ、舞台を組み立てて、飾り立てた。これを聞いて、近隣の老若男女が群れを成して集まってきた。
 どうも気になるのは、湊川の合戦から6年もたっているのに、その恩賞を与えられた祝賀行事をするというのはつじつまが合わないということである。

 彦七もこの猿楽に出演することになっていたので、さまざまの衣装を下人たちに持たせ、楽屋に入ろうとすると、その途中で年の頃17,8歳ばかりの若い女を見かけた。その若い女は赤い袴に柳裏の五絹(表は白、裏は青の襲(かさね)の、五枚重ねの衣(女房の正装)を着て、耳脇の髪を削ぎ揃えていた。月の光を浴びて、なぜか一人でたたずんでいた。彦七は、思いがけず、このような田舎に、なぜこれほどの美人がいるのか、どこから来たのかと、目もまぶしいような思いをしながら、誰の桟敷に入るのだろうかとみていたのだが、この女房は、彦七に向かって、どこへ行けばいいのかを、誰に聞けばいいのかわかりませんと、心細そうに尋ねる。
 彦七は、すでに成人した女が、子どものように何も知らない様子を見せるのはどうもおかしいなと思いながら、それでもその言いようもなく美しい姿に夢中にさせられ、「こちらの方が道ですよ。どこの桟敷に入ろうかなどと考えないで、どこでもいいから空いているところに、お入りなさい」と言って、彼女のあとについて歩む。

 女の様子がいかにも頼りなげで、痛々しく思われたので、これは日ごろあまり出歩くことのない深窓の人であろうと思った彦七は、女に声をかけ、見物席まで背負って入って差し上げましょうと申し出る。女はそんなご迷惑はおかけできませんと一応は辞退したが、やがて彦七の背に負われる。『伊勢物語』6段の芥川の話を思わせる様子である(と、『太平記』の作者は書いているが、冷静に見ると、かなり状況は違っている)。

 思いがけず美女と同行することになった彦七は、心うきうきと足元もおぼつかない様子であったが、半町(1町は、約109メートル)ばかりあるいていくと、あれほどに美しい女房が突然、身長8尺(2.4メートル)ばかりの鬼に姿を変えた。その両眼は、血を溶かして鏡の表にまき散らしたように赤く、上下の歯は食い違って、その口は耳の根元まで広く裂け、眉は漆を何度も刷毛で塗ったようであり、左右に振り分けた髪の中から、5寸(15センチ)ほどの子牛の角に鱗がついて生え出てきた。
 彦七は驚いて、振りほどいて捨てようとしたところに、この怪物は、熊のような手で、彦七の髻(もとどり=髷を束ねた部分)をつかみ、空に飛び上がろうとする。彦七は、剛勇の武士であるので、これに組み付いて、泥深い田の中に転がり込んで、「盛長は怪物と組み合っている。者ども、助けにやって来い」と叫ぶ。既に楽屋に入っていた下人たちが、太刀やなぎなたの鞘をはずし、走り寄ってみると、怪物はかき消すように姿を消し、彦七は田んぼの中に突っ伏している。しばらく様子を見て、引き起こしたが、まだ呆然として落ち着いた様子でもないので、これは尋常のことではないと、その夜の猿楽の上演を中止したのである。

 このような異変が起きたからと言って、せっかくこれまで稽古を重ねてきた猿楽を、上演せずにおくのは惜しいと、4月15日の夜を迎えようというときに、以前に猿楽を上演しようとしたお堂の前に舞台を設営し、桟敷を並べたので、見物人が大勢集まってきた。猿楽の上演が半分ほど済んだ時に、はるかな海上に、猿楽の装束に使う唐笠(広さ8尺程度)ほどもある光物が2・300ほども出現した。夜の漁をする漁師たちの漁火かと思ってみていたところ、そうではなくて、一帯に黒雲が立ち込め、その中から、おそろしい鬼たちが、前後左右に並んで、玉の輿をかついであらわれた。その後に、いろいろな姿で武装した武士たちが100騎ばかり、よい馬を従えて、(輿に乗った人物を)警護している。近づいてきても、輿の上の人物の顔は見えない。黒雲の中でときどき稲妻が光り、猿楽を上演している舞台の近くの森の梢に止まった。

 さて、この黒雲の中から誰があらわれるか…というのは次回のお楽しみということにしよう(見当がついているという方は多いと思うが…)。大森彦七と鬼の対決は、これからしばらく続く。彦七の先祖の頼親の兄・頼光の家臣であったという渡辺綱にまつわって同じような話があるが、それよりも、こちらの方が手が込んでいるので、ご期待ください。すでに何度か指摘しておいたが、この話はどうもつじつまの合わない箇所が見られる。しかし、大森盛長という武士が伊予にいて、足利幕府のために戦ったというのは歴史的な事実である。
 それにしても、怪物が出てくるような事件が起きたにもかかわらず、猿楽の興行をやめないという大森一族のこだわりはなかなかすごい。猿楽という芸能・文化が地方にも確実に根を下ろしているというのは、もう一つの注目点となるだろう。吉川英治の『私本太平記』はその最後のところで、佐々木導誉の生き方は褒めたものではないかもしれないが、彼が愛好した芸能は後世まで残るだろうと登場人物に言わせている。そんなことを思い出すのである(記憶が正確ではないかもしれないが…)。 

日記抄(4月9日~15日)

4月15日(月)晴れたり曇ったり

 4月9日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正等:

4月5日
 この日放送されたNHKラジオ『世界へ発信 ニュースで英語術』は「日本の”幸福度”58位に後退」というニュースを流していた。英語の表題が”Nordic Countries World's Happiest" (北欧諸国が世界で一番幸福)であるから、英語と日本語とで焦点の当て方が違っていることがわかる。
 番組の終わりに講師の高松珠子さんが、日本はどうすれば幸福度で上位になれるでしょうかと問いかけていたが、本文中に北欧諸国の人々が、彼らが自分たちの生活を幸福だと感じている理由として、”because of high-quality social welfare and education" (質の高い社会福祉と教育)と述べていることから答えは明らかである。もっと福祉と教育に国の予算を使ってほしいものですねえなどとコメントできない状況がわれわれを取り巻いているとすれば、困ったことである。

4月9日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie" (フランコフォニーへようこそ)のコーナーでは、フランス語がどのようにヨーロッパ以外の世界に広がっていったかが説明されていた。
A partir des grandes découvertes, l'expansion de la France à l’étranger a démarré et sa langue s'est r épandue à travers le monde. (大航海時代以降にフランスは海外進出を開始し、これに伴ってフランス語は世界中へ普及しました。)
 日本では「大航海時代」というが、les grandes découvertesは「大発見」である。フランスが植民地帝国を築く過程で、フランス語も世界各地へと広がっていったということである。

4月10日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
I have never met a man so ignorant that I couldn't learn something from him.
    ---- Galileo Galilei (Italian physicist and astronomer, 1564 - 1642)
わたしはこれまで、学べるものが何1つないような無学な人間に、会ったことがない。
 ガリレイの言葉として、一番有名なのは”E pur si muove. (Yet it does move.=でも、それは動いている。) 彼が裁判にかけられて、地動説を撤回することを公言させられた後、つぶやいたとされる言葉である。

4月11日
 司馬光『資治通鑑』(ちくま学芸文庫)を読み終える。
 吉川幸次郎がその師である狩野直喜から「漏れ承った」話として、昭和天皇の弟の秩父宮が結婚されたときに、西園寺公望が「お読みにはなるまいが…」と言って、結婚祝いとして『資治通鑑』全巻を贈ったと書きとめている。

4月12日
 『日経』朝刊の文化欄に、民俗学研究家の水野道子さんが米沢藩士であった先祖が書き残した『孝子百ものかたり』という怪異譚集を現代語訳して出版したいきさつが記されている。この書物の中には、キツネの話が多く、それはキツネが身近に見かけられる動物であったからであろうと推測している。あるお寺の住職が、頭目株の狐が旅行に出かけるというので、巻物を預かり、帰って来てからそのお礼として、茶釜をもらったり、釈尊が説法している様子を見せてもらったりしたという話があるというが、他の地方で同様の話は、タヌキの御礼であることの方が多いのではないか。山形県になると、キツネは出るが、タヌキは出ないのであろう。早川孝太郎の『狐・鹿・狸』など、読み返してみたくなった。

 『朝日』の朝刊に大学の入学式が「黒一色」つまり、学生が皆、黒いスーツで出席することをめぐって、もっと個性を主張することが必要ではないかという議論が取り上げられていた。しかし、私が大学に入学したのは、もう55年ほど前だが、ほとんどみな、詰襟の学生服を着て入学式に参列していたから、やはり黒一色であったのではないかと思う。黒一色であるから、個性が押し殺されているという議論には無理があるのではないか、個性というのはもっと別の場面で発揮するものではないかと思わないでもない。

 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の金曜日の放送は日本文学の古典を取り上げているが、今回は『枕草子』の2回目である。関根麻里さんが『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』が三大随筆といわれることについて触れていたが、岩波文庫の『千載和歌集』を読んでいたら、清少納言の歌に出会ったので、清少納言、鴨長明、兼好の3人の歌が、勅撰集にどのくらいとられているのかを調べてみた。清少納言は15首、鴨長明は25首、兼好が18首ということである。清少納言の歌が一番少ないけれども、彼l女の歌は『百人一首』にとられていることを忘れてはならない。(もっとも兼好は百人一首の成立よりも後の時代の人である。)

 『実践ビジネス英語』のLesson 1: The Benefits of Being Bilingual (6)では”Talk the talk with Heather Howard"として、講師の杉田敏さんとパートナーのヘザー・ハワードさんが対談している。ヘザーさんは娘さんをバイリンガルに育てようとしているのだが、6歳になる娘さんをバイリンガルに育てるための方法として、ヘザーさんは彼女と英語で話す、夫はおよそ70パーセントを日本語で話すというやり方をとっているという。特に気を付けていることとして、
I make a point of not correcting her.
(娘の間違いを訂正しないように心がけています。)
とのことである。いや、すぐに訂正すべきだという意見もあると思うので、その成り行きが注目される。

4月13日
 東海林さだお『シウマイの丸かじり』(文春文庫)を読み終える。『週刊朝日』2014年10月24日号~2015年7月10日号に連載された「あれも食いたいこれも食いたい」を1冊にまとめて、2016年11月に朝日新聞出版から単行本として刊行されたものの文庫化。
 表題のもとになっているのは、新宿の京王デパートの例年の行事である「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」に出かけた次第を描く「牛肉弁当、シウマイ弁当と化す」で、著者独特の屈折したユーモアがもはや名人芸の域に達していることを感じさせる。このほか、「『秋刀魚の歌』のさんまは」、「いつか『大豆感謝の日』を」、「改造版「カリフォルニア巻」」、「複雑な家庭、鱈一家」(鱈とたらこを親子として描いているが、たらこは鱈の一種であるスケトウダラの卵巣なので、厳密にいうとこの設定はおかしい)など、新しい料理や料理法、食材に挑戦する好奇心に加え、食をめぐる人間模様の観察、心理の洞察、擬人化を用いた食物の描写など、東海林さんの食とのかかわりの多様な側面をうかがい知ることができる。

4月14日
 『日経』の朝刊に「若手・技術者 賃上げ厚く」という見出しの記事が出ていた。技術者を目指す若者にとっては明るい希望をもたせる記事であろうが、世の中にはいくら頑張っても技術者にはなれない人も存在するのであって、無理してでも技術者になれというような風潮が沸き上がったら、困ったことになるのではないかと思う。採用条件がいいことと、自分自身のその職業への向き・不向きの両方をしっかり考えて、将来の就職は選ぶべきである。

4月15日
 浅川晃広『知っておきたい入管法 増える外国人と共生できるか』(平凡社新書)を読み終える。日本は世界第4位の移民大国だという事実を踏まえて、入管法改正以後の日本社会についての展望を見通している。「強制退去令書」の書式が示されたりしていて、日本に出入国し、また日本で暮らしている外国人をめぐるいろいろな疑問と、彼らをめぐる法律的な問題にわかりやすく答えようとしている。
 

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(2)

4月14日(日)午前中は晴れていたが、午後になって雲が多くなってきた。

 18世紀から19世紀へと移り変わる頃の話。イングランド南東部のサセックス州ノーランド邸の当主ヘンリー・ダッシュウッドは2度目の結婚により、エリナー、マリアン、マーガレットという3人の娘があった。彼には先妻との間にジョンという息子がいて、彼の死後、ダッシュウッド家の財産はジョンに継承されることになった。後妻と3人の娘の行く末を心配したヘンリーは、その死に臨んで、後妻であるダッシュウッド夫人と、ジョンの義理の妹である3人の娘たちの面倒をよく見るように言い遺したが、利己的なジョンは、彼に輪をかけて利己的な妻ファニーの意見に従い、ダッシュウッド夫人と3人の義妹たちの面倒を見ようとしなかった。
 ファニーの実弟であるエドワードは、性格のいい青年で、エリナーと惹かれあう。だが、2人の間にはいろいろな障害がありそうである。妹で情熱的なマリアンは、姉よりもすばらしい恋への期待に胸をときめかせている。
 ダッシュウッド夫人の従兄弟であるイングランド南東部のデヴォン州の地主、サー・ジョン・ミドルトンが自分のもっているバートン・コテッジという家に住むことを勧めるので、ダッシュウッド夫人はエリナー、マリアン、マーガレットの3人の娘を連れて、デヴォン州に引っ越すことにする。

 豊かな牧草地に囲まれたバートン・コテッジは、ノーランド邸に比べると貧弱な住まいであるが、4人の家族(と3人の召使)が住むには十分な大きさで、ダッシュウッド夫人はおおむね満足した。
 翌日、一家が引越しの直後の荷物の整理に追われていると、家主であるサー・ジョン・ミドルトンが姿をあらわし、その日のディナーに招待する。社交的な彼の親切は、時として度を超すきらいがあるが、一家にとってはそれほどいやな気になるものではない。さらに翌日には、ミドルトン夫人があいさつに訪れた。彼女は美人で上品な女性であるが、夫ほどの率直さを持ち合わせず、退屈なところがあると思われた。しかし、長男を同行させていたので、一家とも打ち解けて話すことができた。

 サー・ジョン・ミドルトンの邸のディナーに招待された4人は、ミドルトン夫妻のほかに、サー・ジョンの親友だというブランドン大佐と、ミドルトン夫人の母親であるジェニングズ夫人に紹介される。ブランドン大佐は若くもなく、陽気でもないが、落ち着いた感じの人物であり、ジェニングズ夫人は「とても陽気で賑やかな、でっぷりと太った年配の婦人で、おしゃべりが大好きで、とても幸せそうで、少々品がなかった。」(49ページ)  この2人は、物語の展開の中で重要な役割を演じることになる。
 ジェニングズ夫人は裕福な商人の未亡人で、2人の娘(ミドルトン夫人と、この後で登場するパーマー夫人)はすでに結婚しているので、未婚の男女を結婚させることに情熱のはけ口を見出している(善意だがお節介である)。彼女はエリナーとマリアン、特にエリナーがサセックスに恋人を遺してきたのではないかなどと、冗談半分にからかい、それがエリナーには苦痛であったが、マリアンがエリナーを気づかうような視線をその都度向けてくることが、それ以上に苦痛であった。

 ディナーの後、マリアンが歌とピアノが上手だとわかり、みんなからの要望に応えて演奏することになる。彼女の歌とピアノは大喝采を受けたのだが、実際に音楽が好きで、心から楽しむことができるのはブランドン大佐だけらしいと、マリアンは思った。
 目ざといジェニングズ夫人は、ブランドン大佐の様子から、彼がマリアンに恋心をいだいているのではないかと思いはじめる。35歳で独身のブランドン大佐のことを、彼女は一方で心配し、他方でからかう喜びも感じている。
 マリアンは、ブランドン大佐が彼女を好きらしいという話を聞いても、年の差がありすぎると思うだけである(エリナーは19歳、マリアンは16歳か17歳という設定である)。それよりも、姉のエリナーのところに、エドワード・フェラ―ズが訪れてこないことの方が心配な様子である。それにエリナーとエドワードのつきあい方に、一向に情熱的なところが見かけられないのも不満に思っている。

 ダッシュウッド一家はしだいにバートン・コテッジでの生活に慣れ、日常生活のリズムを取り戻していく。ミドルトン一家の、夫は狩猟、妻は育児、そして夫婦での社交以外には、ほとんど無為というのとは対照的な生活ぶりである。
 この2つの家族の住んでいるバートン谷から分かれたアレナム谷の、バートン・コテッジから2.5キロほど離れたところに、立派な屋敷があって、ダッシュウッド一家が昔住んでいたノーランド邸を思い出させるのだが、その女主人は病弱で、世間とあまり付き合おうとしないということで、一家の方から訪問することはできないが、気になる存在であった。

 悪天候が続いた後に、晴れた空が見えたので、マリアンとマーガレットは散歩に出かけた。天気がいいのに気をよくして遠くまで歩いたが、突然、雨が降り出した。雨宿りをしようにもそんな場所がないので、家まで走って帰ろうとしたが、途中でマリアンが転んでしまった。下り坂を走っていたので、マーガレットは止まって彼女を助けることができず、丘のふもとまでたどり着いてしまった。
 マリアンが転んだ時、ちょうど猟から帰ってきた一人の若い紳士が彼女を助けに駆け寄り、彼女が足をくじいて立ち上がれないことを知ると、彼女を抱き上げて丘を下り、家まで彼女を運び込んだ。

 ダッシュウッド夫人は突然、若く、美男で気品にあふれた紳士が娘を連れて家までやって来たことに驚き、また感謝した。紳士は、ウィロビーという名で、アレナム谷に滞在していると名乗り、まだ降り続いている雨の中を去っていった。
 その日、雨が止むと、サー・ジョンがやって来て、マリアンがウィロビーに助けられた一部始終を聞き、ウィロビーがアレナム谷に滞在していると聞いて(マリアンと彼の間にロマンスが芽生えることを予想して)喜んだ。ウィロビーは狩猟と乗馬の名手であるという(マリアンにとってはそれはどうでもいいことである)。ウィロビーはアレナム谷に住む老婦人の親戚で、いずれはその財産を相続することになるらしい。彼自身はソマーセット州(イングランド南西部の州で、バートン谷のあるデヴォン州の北、ブリストルからだと南にある)に自分の小さな家屋敷をもっているという。さらに、かれがミドルトン家で開かれた舞踏会で夜通し踊り続け、翌朝には狩りに出かけたという話を聞いて、マリアンは目を輝かせる。「若い男性はそうでなくちゃ。何をするにも精力的で、節度なんかわきまえずに、疲れなんか知らないってふうでないと」(64ページ)。

 翌朝、ウィロビーはバートン・コテッジを訪問し、ダッシュウッド一家の歓迎を受ける。マリアンを助けただけでなく、ウィロビーが立派な青年だとわかったからである。ウィロビーの方でも、「このお見舞いの訪問中に、この一家の良識、上品さ、家族同士の愛情の深さ、家庭的な暖かさなどをしかと確信することになった。三姉妹の容姿の美しさはあらためて見るまでもなく、きのうひと目見てわかっていた。」(66ページ)

 マリアンとウィロビーは音楽とダンスが好きだという点で趣味が一致することがわかり、二人だけで話に熱中することになった。マリアンはウィロビーの性格と趣味とに魅力を感じたし、ウィロビーの方もマリアンとダッシュウッド一家に魅力を感じていることは明らかであった。二人はお互いに夢=中になるあまり、ほかの人たちへの礼儀を忘れるようになった。特にウィロビーが世間一般の礼儀を無視しがちなことに、エリナーは慎重さの欠如を感じて、心配になるが、マリアンは気にしなかった。

 ブランドン大佐は、ウィロビーと全く反対の性格であったが、やはりマリアンに恋心をいだいていることにエリナーは気づいた。サー・ジョンやジェニングズ夫人はマリアンとウィロビーの方に注意を移していたのだが、彼の気持ちが真剣なものであることにエリナーだけが気づいたのである。彼が立派な人物であることがわかっているので、彼女は大佐が自分の恋をあきらめてくれることを願わずにはいられなかった。大佐が以前に酷い失恋をしたことがあると、エリナーはサー・ジョンから聞いていたので、大佐に尊敬と同情の気持ちを向けたのである。そして、マリアンとウィロビーが大佐を軽んじるような発言をするのが気に入らなかった。

 物語の進行につれて、理性的な姉=エリナーと、情熱的な妹=マリアンの性格の対比が明らかになる。この物語をまだお読みでない方は、これからの展開を予想して見るのも楽しいだろうと思う。蛇足までに書いておくと、翻訳者である中野康司によれば、この物語は、姉妹の各々がそれぞれの三角関係を経験していく展開となるという。マリアンをめぐる三角関係は明らかであるが、エリナーの経験する三角関係はまだ描かれていない。
 映画化作品である『いつか晴れた日に』を見ていると、この姉妹は既に20代に達しているように思うのだが、実は、両者ともにまだ10代である。この時代の英国は小ピットのように24歳で首相になった人が出たくらいだから、いまよりもずっと、大人になるのが早かったということらしい。
 サー・ジョン・ミドルトンは従男爵(baronet, 最下級の世襲位階で、男爵baronの下、ナイトknightの上)ということらしい。ブランドン大佐は退役した軍人であるが、軍人の場合、その階級が退役後も称号として用いられる。ジェニングズ夫人は商人の妻なので、ミドル・クラスに属するが、娘2人は地主(上流階級)に嫁いでいるので、その交際範囲は上流階級(といっても下のほう)が主な対象である。彼女の娘のミドルトン夫人は母親が自分の昔の友人(ミドル・クラス)と付き合うのを嫌がっているという記述もある。 
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR