中野重治『むらぎも』

7月24日(月)曇り

 7月23日、中野重治『むらぎも』(講談社文芸文庫)を読み終える。この小説はずっと昔に友人から借りた文学全集の1冊として読んだ記憶があるが、その後は、時々拾い読みする程度で終わっていた。この文庫本もいつ、私の書架に加わったのかはっきりした記憶がなく、蔵書の整理をする中で見つけたので、一度精読してみようと思いながら、机の上に置きっぱなしになっていたものである。

 『むらぎも』は中野重治(1902-79)が1954年(昭和29)に『群像』に連載し、この年に講談社から単行本として刊行された長編小説で、彼が1939(昭和14)年に発表した中編小説「歌のわかれ」の続編をなす。「歌のわかれ」の主人公である片口安吉は5年間かかって金沢の(旧制)第四高等学校を卒業し、東京帝国大学に進学してドイツ文学を専攻しようとする。その一方で金沢時代から続けていた短歌の会に参加するが、次第に短歌という表現形式に飽き足らなくなってくる。

 安吉は『むらぎも』では東京帝国大学の3年生になっている(当時の大学は3年制であったので、最上級の学年である。中野がこの小説に取り組もうと考えたのは戦後すぐの時期で、その時は『卒業』という表題が考えられていたという。高等学校で5年を過ごした安吉は、どうしても卒業したいが、さまざまな困難がある。
 「卒業」は人生における境界の一つであるが、他にも境界的な出来事に直面している。1926年(大正15)のことで、この年の12月25日に大正天皇が崩御、年号が昭和と改まる。1923年(大正12)年の関東大震災で東京は大きな被害を受け、その後の生活苦が社会不安をもたらしていた。大正から昭和への改元は新しい時代への動きを予感させた(新しいからといって、それがよいものであるとは限らないのは言うまでもない)。もう一つ付け加えておけば、1925(大正14)年に普通選挙法と抱き合わせで、治安維持法が成立している(小説の中でもこの法律について触れられている)。

 大学入学後、安吉は詩人から小説家になった斎藤鼎(室生犀星がモデル)のもとに出入りしていて、同じように彼のもとに出入りしている文学青年の深江(堀辰雄)や鶴来らと『土くれ』(実際には『驢馬』)という同人雑誌を刊行してきたが、それが10号でいったん打ち切ることになってそのための原稿として何篇のスケッチを書いている。この雑誌は「斎藤の若いときからの詩の仲間で、斎藤が小説作家になってからも詩だけ書いている、偏屈で世ばなれしたようなところのある」狭間京太郎(萩原朔太郎)、それに「師匠株の斎藤と、…特別親しくしてるらしい」(342ページ)葛飾伸太郎(芥川龍之介)らの後援を受けているが、安吉は葛飾と一度会っただけである。ところが、その葛飾からぜひ会いたいという連絡がある。深江は『土くれ』の第10号には、安吉が書き溜めていたスケッチではなく、彼がある会合で話をした啄木論の方がいいという。安吉の文学者としての個性が仲間からも、文壇に属する人々からも、少しずつ認められてきている。その一方で彼は自分自身の美意識の変化、社会意識の変化(とそれをどのように表現していくか)に悩んでいる。

 この時期、社会的な関心を抱いている東大の学生たちの間で組織されていた新人会に安吉は遅れて加わり、マルクス主義の社会理論を学ぶだけでなく、文学理論の研究では中心的な人物になる。労働運動の支援にも出かけるようになる。特に合同印刷(実際は共同印刷)という企業の争議の応援活動が彼のものの味方を大きく変えようとする。
 ドイツから救援会の組織のためにやってきたリーンハルトという人物の通訳をしたり、ドイツ語で書かれた社会主義文献を翻訳して原稿料をもらうようになるが、大学のドイツ文学の授業にはだんだんついていけなくなってきている。 

 この時代の大学で卒業のために必要とされていた科目数は、現在の大学院の修士課程で取得すべき単位と同じ程度の量であったようであるが、それでもなかなか単位をそろえることができず、友人たちの助けを借りて必死になって増やしていく。フランス語(⁉)の試験を代理受験してもらうことになったのはいいが、手違いで自分の名前で出される答案が2通ということになってしまったという場面にはユーモアを感じる。ドイツ文学科の役人風、イギリス文学科の師範学校風の空気に対して、フランス文学科は「芸術的なうえにジャーナリスチックで、その上家族的でさえもあるのらしかった」(89ページ)という文学科の主な専攻の間の空気の違いの指摘も興味深く思われた。

 卒業を間近にした学生たちによる新人会の会合で、それぞれが卒業後の進路について語る。労働組合や政党の事務局で働くというもの、セツルメントへ行くもの、医学部の連中は病院や研究所で働くと言い、文学をやるというものは安吉とあと1人だけだった。安吉自身も含めて、まだ方向性は混とんとしている。まだまだ社会民主主義系の政党や労働組合に勤めようとしているものが多いし、安吉がリーンハルトとともに訪れた先も総同盟をはじめ、多岐にわたっている。安吉(→中野重治)は彼がその後の時点で対立することになる辰野隆吉(青野季吉)の仕事を手伝い、田口(葉山嘉樹)の作品を高く評価している。混とんとしているが、しかしそれが未来への可能性であるとも感じられる。

 文学史、あるいは社会運動の理論と歴史に踏み込んで、もっといろいろなことを書きたいのだが、この作品を読み直して思うのは、この作品(と中野重治の思想)が多くの欠点をもちながらも、文学と社会の関係についての多くの可能性を示唆しているということである。とりあえず、そのことを書いて、私の批評をまとめておきたい。 
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『太平記』(168)

7月23日(日)曇り、時々雨

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から京都を目指して、海路から東上してきた足利尊氏、陸路を向かってきた直義兄弟の軍勢は、兵庫で合流し、彼らの攻勢をこの地で食い止めようとして陣を張っていた新田義貞と、彼を応援するために京都から派遣されてきた楠正成の軍勢と衝突した。楠正成は弟の正氏とともに足利直義の命を狙い、その心胆を寒からしめたものの、上陸してきた尊氏軍からの応援を得た直義軍の逆襲に次第に配下の兵たちを失い、まだ敵を打ち破って落ちのびることはできたが、一族郎等70名あまりで湊川で切腹して果てた。生田の森で奮戦した義貞も、衆寡敵せず退却した。義貞敗戦の知らせに、後醍醐天皇と多くの廷臣、武士たちが比叡山へ向かった。持明院統の花園法皇、光厳上皇、豊仁親王は、比叡山に赴く途中で足利方の武士に助けられた。尊氏はここで、持明院統の天子を擁立することで、朝敵という汚名から逃れることができた。(尊氏らの援助を得て、豊仁親王が即位される。光明天皇である。)

 湊川で戦死した楠正成の首は、六条河原でさらし者にされた。この年の正月に、正成は足利軍を欺く作戦として新田義貞、北畠顕家、楠正成ら宮方の有力な武将が戦死したといううわさを流し、だまされた足利方の方が戦死者の死体を探し回ったけれどもそれらしい首が見つからなかったので、少しでも似ている首を2つ選んで、獄門の木にかけ、新田義貞、楠正成の首と書きつけたという出来事があった(15巻)。それ以前にも正成は自分が死んだように見せかけて敵を欺くことがあった。これまでそんなことが続いていたので、今回もまた偽の首ではないだろうか。あの恐ろしい正成が、そう簡単に討たれてたまるものかと人々は噂しあった。その噂を受けて或る人が狂歌を読んで、落書きを残した。
 うたがひは人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が頸(くび)
(第3分冊、103ページ、今度討たれた首は本物らしいが、正成ゆえに疑いが残る。疑いに討つ、正成に正しげ(本当らしい)を掛けている。)

 そののち、「正成の未亡人や遺児たちが、今一度死んだ正成の顔を見たいと思っているだろう」といって、子どもの正行のもとに首を送り届けた。まれにみる情け深い行為である。
 『太平記』の本文は「情けの程こそ有難けれ」(第三分冊、同上)と書いているが、森茂暁は『足利尊氏』(角川選書)の中で、正成は建武新政権のもとで尊氏の執事である高師直とともに武者所で働いており、師直を通じて尊氏とも相識であったのではないかと推測している。そして豊田武が掘り起こした文書をもとに、尊氏が湊川で戦死した正成のために供養を行ったこと、正成の「いさぎよさ」に内心敬服していたのではないかと思われるとの所説をも紹介している。(実際問題として、この時期の武士たちは、できるだけ戦闘に参加せず、勝敗の決着がつき始めたころに強いほうに味方したり、逃げたり、適当に降参したりと、自分が生き延びることにだけ必死になっている例が大部分であった。だからこそ、正成の生き方が『太平記』の作者によって賞賛されることにもなったのである。誉めるくらいならば、自分も同じように戦死すればいいという意見も出るかもしれない…) とにかく、尊氏は新田義貞や北畠顕家に示したような敵意を正成には抱いていないらしいと森さんは論じている。

 正成の未亡人と、正行は首を見て、今回の戦を前にして、正成が兵庫に向かう際に、言い残したことが数多くあったが、その中に「今度の合戦には、必ず討死すべし。正行をば、同じ道にもと思へども、後栄(こうえい=子孫の栄え)のために」(第3分冊、103-104ページ)といってあとに残していったことが思い出され、出陣したのを最後の別れと、覚悟してはいたけれども、そのとおりになってしまい、首を見ると、生前の面影は残っているが、目は閉じ顔色は変わって、変わり果てた姿になっているので、悲しみが胸に迫って、その場に泣き崩れるのであった。

 今年11歳になった正行は、父の首の有様、母の嘆きを見るも聞くも、やり場のない思いに、耐えられぬ気持ちで、涙を抑えつつ、持仏堂の方に向かったのを、母は気がかりに思って急いで後をつけてみると、父親が兵庫に向かおうとするときに形見に残していった菊水作りの刀を抜き、袴の腰を押し広げて、自害しようとしているところであった。
 菊水というのは楠氏の紋である。余談になるが、昔、神戸の湊川と、大阪の十三と、京都の新京極に菊水映画劇場、略して菊映という映画館があった。菊水の門の短刀について、岩波文庫版の脚注は、後鳥羽上皇がつくらせて臣下に与えたという「菊御作」の刀かと注記している。

 自害を企てた正行であったが、母親が泣きながら、父正成が正行を同行せずに故郷に帰らせたのは、自分の戦死した後に再起を図り、ふたたび朝敵と戦うべく備えさせるためであったはずだと説得したので、思いとどまったのであった。母親のあたえた教訓によって、正行はまた父の遺言を思い出し、武芸智謀を磨いて父の遺訓を実現する機会に備えるのであった。

 ここで16巻は終わる。林屋辰三郎は楠木正成・足利尊氏・佐々木道誉・細川頼之が『太平記』がたどった4つの時代をそれぞれ代表する人物であると論じている(林屋辰三郎『佐々木道誉』、178ページ)が、その1人が姿を消したことで、『太平記』はいよいよ次の時代への動きが急になってくる場面を描き出すことになる。楠正成(くすのき)、名和長年(伯耆→ほうき)、結城親光(ゆうき)、千種忠顕(ちくさ)という後醍醐天皇のお気に入りの(成り上がりの)人々を<三木一草>というのは、すでに紹介したが、楠は既に16巻で姿を消し、17巻では残る3人が姿を消すことになる。

日記抄(7月16日~22日)

7月22日(土)晴れ、暑し

 7月16日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
7月16日
 神保町シアターで「神保町シアター総選挙」の第2弾:「特集「恋する女優 芦川いづみ」より」『あじさいの歌』(1960、日活、滝沢英輔監督)と『誘惑』(1957、日活、中平康監督)を見る。芦川のほかに、轟夕起子と中原早苗が両方の作品に出演している。

 『あじさいの歌』は石坂洋次郎の同名小説の映画化。中学時代であったか、高校時代であったか忘れたが、同級生の中に石坂作品の愛読者がいて、『あじさいの歌』はいいから是非読めと勧められた記憶がある。
 散歩中に足を痛めた老人(東野英治郎)を助けた青年デザイナー(石原裕次郎)は、その老人が大事に育てている一人娘(芦川いづみ)に惹かれて、近づこうとするが、彼女には生い立ちの秘密があった。いつまでも彼女を手元には置けないと思った老人は、彼女の家庭教師たちと相談して、彼女に外の社会への手ほどきをする同年輩の女性を探す。やってきた女子学生(中原早苗)は、青年デザイナーの友人でもあった・・・。轟夕起子が芦川いづみの母親役であろうというのは、クレジット・タイトルを見ていて何となく想像がつく。映画の中で、裕次郎がどこか似ているとつぶやく場面があるが、確かに似ている。轟夕起子が太る前は、もっと似ていたのではないかと思う。

 『誘惑』は、伊藤整の原作による恋愛喜劇。銀座で用品店を営む初老の男(千田是也)は2年前に妻が死んで娘(左幸子)と2人暮らしである。彼には画家を志して挫折し、恋人(芦川いづみ)とも別れたという過去があった。妻が死んだことで、昔のことを主出した彼は、自分の店の2階を改装して画廊にすることを思いつく。娘は前衛生け花を手掛けていて、仲間と一緒に父親の画廊で個展を開こうとするが、予算が足りないので、知り合いの無名画家のグループに協力を呼び掛ける。そのグループのリーダー(葉山良二)が、父親の昔の恋人の息子であるとは知らずに…。
 左幸子と芦川いづみが2人とも、母親と娘の一人二役を演じるほか、洋品店の店員を演じる渡辺美佐子と小沢昭一、洋品店主に保険を勧めようとしているのか、言い寄ろうとしているのかわからない未亡人役の轟夕起子の演技など見どころ満載で、テンポよく物語が進行する。この作品を見るのは2回目だが、以前見た時よりも楽しく見ることができた。

7月17日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の「文化コーナー」ではパリの地下鉄の歴史が話題として取り上げられた(一部、放送されていない)。
Méme si le projet existe dés les années 1860, le métro parisien n'est pas aussi ancien que ceux de Londres ou de Budapest.
(1860年代から計画はあったのですが、パリの地下鉄はロンドンとブダペストほど古いわけではありません。)
Sa première ligne est inaugurée en 1900, pendant l'exposition universelle qui se tient à Paris.
(1900年、パリ万国博覧会の会期中に、地下鉄の最初の路線が開通しました。)
 ブダペストの地下鉄が、ヨーロッパで最も古い歴史をもつものの1つであるというのは初耳である。

7月18日
 NHKラジオ「英会話タイムトライアル」は簡単な英語を使って、自分の意図を伝えるのにはどうしたらいいかという点で、参考になる内容が少なくないが、本日の放送分では、
「この大根おろしをこの天つゆに入れる」は Put this in this
「この味噌をこのキュウリにつけます」は Put this on this (もちろん、Put this miso on this cucumberでもいい)
この青のりをこのお好み焼きに振りかけます Sprinkle this on this
と(動作を交えながら)やればいいなど、いざというときに役立つようないい方が紹介されていた。

7月19日
 『朝日』の朝刊に『台湾歌壇』の代表で、司馬遼太郎「街道をゆく 台湾紀行」に案内役の「老台北」として登場した蔡焜燦(さい・こんさん)さんが90歳で亡くなられたという訃報が出ていた。日本の植民地時代に台湾で日本語を学んだ世代に属する方であるが、そうしたことがどんどん昔の話になっていることがわかるニュースでもあった。日本の植民地であった地域はもちろんのこと、植民地ではなかった東アジアの諸地域を含めて、日本語と日本の文学の近代化の影響力が広い範囲で及んだことはしばしば指摘されている。

 NHK『ラジオ英会話』の”U R the ★ !(You are the star!)"のコーナーに
I slipped on a banana peel. (バナナの皮を踏んで滑りました。)
という文が出てきたと思ったら、同じく『実践ビジネス英語』の”Word Watch"のコーナーでもbabnana peel (バナナの皮)が取り上げられた。「banana skinともいう。slip on a banana peel [skin]は「バナナの皮を踏んで滑る」ということで、コメディーなどによく出てくる。「失敗する」「政治的につまずく」という意味で使うこともある」そうである。

 同じく『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
The greatest object in educating is to give a right habit of study.
---- Maria Mitchell (U.S. astronomer, 1818 -89)
(教育の最大の目的は、正しい学習習慣を身につけさせることである。)
学習習慣以前に生活習慣が来るのではないかと思う。規則正しい生活をしている学生・生徒は一般的に成績もいいからである。

7月20日
 NHK『ラジオ英会話』の”U R the ★!” のコーナーで次のような会話例を練習した:
This is a cute figurine. (これはキュートな置物ね)
It's called maneki-neko. It means a beckoning cat. (招き猫と呼ばれています。歓迎する猫という意味です。)
It welcomes guests? (お客を歓迎するの?)
It brings the owner good luck. (持ち主に幸運をもたらします。)
 同じく『まいにちイタリア語』の17日放送分に
Il maneki-neko si usa come portafortuna. (招き猫は縁起物として使われる。)
18日放送分に
Secondo me il maneki-neko si può usare anche come sprammobile. (招き猫は置物としても使えると思うよ。)
という例文が出てきたのを思い出した。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"より:
I prefer liberty with danger to peace with slavery.
---- Jean-Jacques Rousseau (French philosopher, 1712- 78)
(私は、隷属をともなう平和よりも、危険を伴う自由の方がいい。)
そう思わない人もかなりいるような気がする。以前、学生と話していて、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉をその学生が、「寄らば大樹の陰」と混同していることに気付いたことがある。隷属をともなう平和≒寄らば大樹、危険を伴う自由≒鶏口と考えてよかろう。

7月21日
 『実践ビジネス英語』の”Quote ...Unquote"より:
By failing to prepare, you are preparing to fail.
          ---- Benjamin Franklin (U.S. statesman, diplomat, inventor and scientist, 1706- 90)
(準備しそびれることで、あなたは失敗する準備をしている。)
何事にも、取り組んでみないとわからないことがあるから、できるだけ早くから準備に取り掛かるほうがいいのである。

7月22日
 永田和宏『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理』(講談社ブルーバックス)を読み終える。この本を買ったのが6月23日であるから、約1か月かけて読み終えたことになる。専門的で難しい本だが、鉄作りを歴史的に概観する中で、製鉄には、溶鉱炉で塊鉄鉱石から溶鉄を作り、転炉で脱炭する間接製鉄法と、鉄鉱石粉を天然ガスで還元して還元鉄を作り、それを電気炉で溶解する直接製鉄法、そのどちらでもない第3の製鉄法があり、日本で古くからおこなわれてきたたたら製鉄法はこの第3の製鉄法に属するという。
 国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が採択した、化石燃料による炭酸ガス排出の枠組みを2050年には1990年の半分にまで削減するという行動方針が実現すると、「エネルギー源を100%石炭に依存している溶鉱炉は生き残れない」(234ページ)という。アメリカがパリ協定を離脱した背景がこのことで理解できるが、そういう事情だからこそ、著者は第3の製鉄法に期待をつないでいるようである。このほか、法隆寺の釘の話を含む「和鉄はなぜ錆びないか」など、話題豊富である。

久野収 鶴見俊輔『現代日本の思想――その五つの渦――』(2)

7月21日(金)晴れ、暑し

 1956年(昭和31)に刊行されたこの書物は、自身すぐれた思想家であった久野と鶴見の共同作業の産物として、昭和戦前から戦後の20年代にかけて社会的に影響力を持った国産の思想について概観し、分析を加えたものである。特定の哲学流派や権力の政策的な動きには限定されず、「文学、政治、教育、叛乱、世相など、生活のさまざまな分野から」(ⅰページ)さまざまな考え方の流れを選び出しているところに特徴がある。

 冒頭の章で、「日本の観念論」として「白樺派」を取り上げているのは、著者たちのこのような姿勢をよく示している。前回にも書いたのだが、白樺派の影響力の大きさというのは、誰も否定できないほど大きなものである一方で、それを日本独自の展開を遂げた「観念論」の代表例として取り上げるのは、思い切った評価の仕方といえよう。「観念論」に相当する英語の"idealism"には「理想主義」という訳し方もあり、白樺派の思想的・文学的な受容の歴史からいえば、「理想主義」の方がしっくりくるように思うのだが、著者たちはあえて「観念論」を選んでいる。

 白樺派に属する人々として、小説家の志賀直哉、武者小路実篤、里見弴、有島武郎、詩人の千家元麿、高村光太郎、歌人の木下利玄、劇作家の郡虎彦、倉田百三、画家の岸田劉生、九里四郎、有島生馬、中川一政、美術史家の児島喜久雄、民衆芸術研究者・運動家の柳宗悦の名が列挙されているほか、グループの近縁にいた人物として小説家の長与善郎、政治家の有馬頼寧の名も挙げられている。彼らが雑誌『白樺』を中心に活動したのは、1910年(明治43)から1923年(大正12)で大正の思想史に属することであるが、彼らはその後、昭和に入ってからも集団としてのまとまりを維持しながら活動を継続し、『不二』(1924-26)、『大調和』(1927-28)、『心』(1948-)などの雑誌を通じて社会的な影響力を及ぼしているという。『心』という雑誌は私が高校生の頃、よく書店で見かけたものである。

 「明治の末に出発し、今日まで、ほとんど50年、影響力をもちつづけてきた思想運動として、その業績は、観念論という思想流派のなしとげうるかぎりでの最もよいものをふくんでいる。昭和時代におよぶ最も実りある観念論の運動であると思う。『心』その他の主軸として、この思想は戦後の保守主義の思想家たちのささえとなっている以上、白樺派の仕事を公平に評価することは、今後の前進のために私たちにぜひ必要なことと思われる」(2ページ)と著者たちは書いている。「今後の前進」の意味するところが今ひとつ不明確であるが、思想史研究の前進というふうに受け取っておこう。
 白樺派に対する著者たちの高い評価をめぐり、とりあえず2つのことを指摘しておく必要がある。第一は、白樺派の影響が著者たちが指摘するよりも広く、保守主義の思想家たちを越えて広がっているということである。鎌倉で志賀直哉や里見弴と親しく付き合った人物の1人が映画監督の小津安二郎であり(このために、小津は淀川長治から嫌われるのであるが)、志賀直哉に師事した人々として、一方で阿川弘之が、もう一方で小林多喜二がいたことを忘れてはなるまい(中野重治の「歌のわかれ」には、中川一政の絵画作品から受けた印象のことが記されている)、武者小路実篤に師事した人の中には有楽町の駅前でガリ版刷りの詩集を売り歩いた城米彦造がいたというふうに、白樺派の影響はひとくくりにはできない性格をもっている。特に信州白樺派に代表される、現場の学校教師たちに与えた影響や、そうした教師たちに教えられた子どもたちのその後のことまでを視野に入れると、事態はより混とんとしてくるはずである。
 第二は、保守主義の思想家たちに与えた影響の様相を詳しく見ていく必要があるということである。文教行政などで影響力をもった保守的な科学者や数学者の中には、「情緒」の重要性を強調したり、俳句を作ることを勧めたりする人がいて、そういう人たちに対する白樺派の影響は比較的読み取りやすいと思うが、政治家や実業人の中で影響を受けたという人がどの程度いるかは調べてみないとわからない。『日本経済新聞』に連載されている「私の履歴書」を詳しく読んで分析するような人が出てくると、きわめてありがたい。今の副首相兼財務相である麻生太郎さんは白樺派の人々の多くの母校である学習院の卒業生であるが、その言動を見ているとあまり白樺派の影響は感じられない。学習院を卒業した作家というと、三島由紀夫、藤島泰輔、塩野七生、森村桂、大倉崇裕といったところが思い浮かぶ(記憶違いがあるかもしれない)が、森村桂以外はあまり白樺派の影響を感じさせない。それから現代の政治家や政治思想家になると、新自由主義だの、新保守主義だのという外来のイデオロギーに影響されている人も多くなってきて、白樺派の影響からはまったく脱却している人も少なくないと思われる。

 どうも話が先に進まないが、思想史研究というのはそういうもので、今後ともに気長に付き合っていただきたい。有馬頼寧の名が出たので、思い出すことがある。大学で教えた学生の一人に競馬好きがいて、卒業研究の課題を選ぶときに、「おまえは競馬が好きだから、有馬記念で有馬頼寧の研究をしたらどうか」と言ったら、「先生、冗談はよしてください」といわれてしまった。こっちは結構本気だったのだが、相手にされなかったのを未だに残念に思っている。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(24-1)

7月20日(木)晴れ、暑し

 ベアトリーチェに導かれて地上から天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪れ、土星天から至高天まで伸びている階段を登って恒星天に達する。恒星天は人間の目の届く限界であるとともに、人間的な世界と神の世界の境界となっている。恒星天で彼はキリストとマリアの天国への凱旋の様子を見た。

 第24歌の冒頭で、ベアトリーチェが、天国の住人たちは神の「子羊」イエス・キリストのあたえる精神の糧により満ち足りていると述べ、彼らと同じ精神の糧の一部だけでも味わわせてほしいと魂たちに頼む。
「・・・
この者の果てしない望みに注意を傾けて
雫を与え、飢えを癒したまえ。あなた方は
この者が思考し、知ろうとしているものが出る泉で喉を潤しているのですから」。
(358ページ) 「思考し、知ろうとしているもの」は「神智」のことである。

 魂たちは輝きながら、輪を作って
・・・それぞれ
異なって速く遅く踊り、
彼らの富を私に推し量らせた。
(359ページ) 「彼らの富」は神の「恩寵の豊かさ」のことである。そのような輪舞の中から、「その明るさを越えるものはそこには一つもない」(360ページ)魂が出てきて、ベアトリーチェの周囲を3度回った。それは十二使徒の1人であり、初代教皇であったペテロの
魂であった。ペテロの魂が神学の象徴であるベアトリーチェの周りを3度回ったことは、教会が神学に対して払うべき敬意を象徴していると考える人もいるそうである。

 ベアトリーチェは、ペテロの魂に向かって次のように語りかける:
・・・「おお、偉大なる傑物の永遠の光よ、
この奇蹟の喜びに至るための二つの鍵を
我らの主が地上にお運びになり委ねられた方よ、

あなたの心のままに、信仰についての
易問であれ難問であれ、この者に試問されよ。
あなたは信仰のために海の上を歩いたのですから。
・・・」
(361ページ) ダンテが天国にふさわしい人間かどうかはペテロの目には明らかなはずである。しかし、それでもダンテに「信仰について話をする機会」(362ページ)を与えてほしいという。ベアトリーチェがペテロに話しかけている間に、ダンテは
バカラリスが
結論を出すためではなく、弁証するために
師が論題を提示するまで頭の中で備え、話さずにいるように、
(362ページ) ダンテは試問に対して答える準備をしていた。バカラリスは中世の大学における教養諸学の教授資格であるマギステル学位を取得しようとする候補者のことである。彼らには論証を上手に表現する能力が求められた。当時すでにボローニャをはじめとしてイタリア各地に大学が設置されており、ダンテ自身は大学で勉強したわけではないが、大学での勉学については十分な知識をもっていたと思われる。

 「信仰とは何か」(363ページ)というペテロの問いに対して、ダンテは
「・・・
信仰とは希望される事柄の礎にして
目に見えぬことに対する証です。
そしてこれこそが私にはその本質に思えます」。
(364ページ)と答える。ペテロはこの回答を受け入れる。ダンテの答えは『新約聖書』の聖パオロによる「ヘブライ人への手紙」(11.1)そのままでああったのだが、さらに、そのように定義した理由についてペテロは問いかける。

 これに対してダンテは、地上からの視線は神に届かないので、知性によって神を直接認識することは不可能であり、そのため侵攻により神の存在が知られ、その礎の上に人類は天国を望むからというものであった。
・・・「ここにおいて
ありがたくも私に姿を現したまう深遠なる諸事物は、
下界にある目には隠されているため、
その存在は、そこではただ信じることの中にあり、
その上に崇高な希望が打ち立てられるのみです。
ゆえに信仰は礎の意味を持ちます。

この信じることから、私達はさらなる確証を見ることなしに、
論理的に演繹しなければなりません。
ゆえに信仰は証の意味を負います」。
(364-365ページ) そして堅い信仰をもち、神の記した聖書がその信仰をもたらしたと述べた。

 恒星天まで達したダンテは、さらに先へ進むために3つの対神徳(信仰、希望、愛)についての試問を受けることになる。今回はまず信仰についての試問であるが、その根拠が人知を超えたものであるというのがダンテの考えであった。それでもなお、神を信じようとするのはなぜか、そこには一種の飛躍があり、その飛躍こそ、多くの思想家たちが格闘した問題であった。飛躍を可能にするのは、『新約聖書』にまとめられたイエスの言葉、(聖霊の宿った)使徒たちの言葉を神の言葉として信じることである。ダンテはキリスト教の根幹にかかわる問題と取り組んでいる。 
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