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ラブレー『ガルガンチュワ物語』(13)

8月23日(金)曇り、時々雨

 ガルガンチュワはグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれ、誕生後まもなく「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と泣き喚いたためにこの名がついた。もともと巨大な体躯の持主であったが、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、ますます大きく育った。しかもなかなか聡明な子どもだったので、父親は詭弁学者を家庭教師として勉強させたが、成果が上がらなかったので、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートという教師の下で勉強するために、パリに送り出された。今度は、彼はしっかりと勉強し心身ともにたくましく、知恵も豊かな王子に成長した。
 グラングゥジェの隣国はピクロコルという王が治めていたが、その領民であるレルネの町の小麦煎餅売りたちが、グラングゥジェの領内を通る時に、葡萄畑の番をしていた羊飼いたちと騒動を起こし、けがをした。小麦煎餅売りたちは、自分たちの非は一切隠したままでピクロコル王に自分たちの被害を述べたので、ピクロコル王は激怒し、軍隊を招集、グラングゥジェの領内に侵攻し、略奪をほしいままにした。突然の侵略に驚いたグラングゥジェは、ガルガンチュワを呼び戻す一方で、使者を派遣して、ピクロコルに和平・停戦を求めたが、ピクロコルは耳を傾けなかった。さらにグラングゥジェは小麦煎餅売りたちに対する補償の金品を送ろうとしたが、ピクロコル王はそれらを取り上げて、使者を追い返したのであった。

第33章 何人かの顧問官たちの早計浅慮がピクロコル王を最悪の危難に陥れたこと(司令官たちの速断が、ピクロコルを最悪の危機に陥れる)
 渡辺が「顧問官」、宮下が「司令官」と訳している語の原文はgouverneursで、辞書によれば、「司令官」であるが、Thomas Urquhart and Pierre Le Motteu による英訳ではstatesmen(特に指導的な「政治家」)と訳されており、前後の関係から見ても、ただの司令官ではないように思われる。「最悪の危難」がどのようなものかは、物語の展開を追っていけばわかる。

 なんとか和平をもたらそうと、グラングゥジェが送ってきた小麦煎餅を奪い取ってしまうと、ピクロコル王の前にduc de Menuail (渡辺訳では弥久座公爵、宮下訳ではムニュアーユ公、上記英訳ではthe duke of Small-trash)、comte Spadassin (渡辺訳 刺客伯爵、宮下訳 スパダサン伯、英訳 the Earle of Swash-buckler)、capitaine Merdaille (渡辺訳 雲子弥郎隊長、宮下訳 メルダーユ隊長、英訳 Captain Durtailleの3人がやって来た。
 彼らはピクロコルを、マケドニヤ王アレクサンデル(アレクサンドロス、アレクサンダー)以来の大征服者とする計画を立てたという。もともと小麦煎餅を売るか売らないかといういざこざから始まった村と村との間の対立であるが、この3人はそれをきっかけに大征服戦争を企画する。ここから彼らは「壮大」な世界征服の計画を展開する。それは古代の風刺文学作品を参考にして書かれたものであるが、トマス・モアの『ユートピア』のなかにある作戦会議中のフランス国王にいくら賢明な策を進言してもむだだというヒュトロダエウスの言葉に対する回答となっているという説もある由である。さらに、当時のフランス王=フランソワⅠ世の宿敵である神聖ローマ・ドイツ皇帝カールⅤ世の世界制覇政策をかなり具体的に風刺する内容ともなっているという。ばかばかしくもおかしい大計画であるので、できるだけ丁寧に紹介していくことにする。

 先ず隊長の1人に少数部隊をつけて、現在ピクロコル王の軍隊が占領しているラ・ローシュ・クレルモーの城を守備させる。それから全軍を2隊に分け、そのうち1隊をグラングゥジェの軍勢と戦わせる。攻撃を始めるや否や、グラングゥジェ軍は壊滅状態となるであろう。そして、グラングゥジェが集めてきた金銀財宝が手に入るだろうという。「かくして殿は、山と積まれたる金銀財宝を入手されまするが、何しろかの土百姓めは、現なまでざくざく持って居りまする。敢えて土百姓めと申しますしだいは、高潔なる君主は鐚(びた)一文も持たぬのが定法だからでござる。勤倹貯蓄などは土百姓のやることでござります。」(渡辺訳、158ページ) これは注目すべき発言である。念のために、宮下訳で同じ個所を引用すると:「金銀財宝が山ほど見つかりますぞ。/下人めは、現ナマをざくざっくと持っておりまするぞ。下人と申しますのも、君主は貴人にして、びた一文もたぬのが世の定め、蓄財などは、下人のなすことではござりませんか。」(宮下訳、258ページ) 
 渡辺が「土百姓」、宮下が「下人」と訳しているのは、vilainという語で、ふつう「見苦しい」とか「みっともない」とかいう形容詞として使うのだが、歴史上の用語として「(中世の農村に居住する)自由平民」という意味もあるそうである。なお、上記英訳ではClown (道化役者、ばか、古い意味として田舎者)と訳されている。
 ここで暗示されているのは、グラングゥジェが蓄財にはげんでいるのに対し、ピクロコルはそうではない、フランスの歴史の中では、蓄財によって裕福になった地方領主や商人がそれによって貴族にのし上がっていく(「法服貴族」とか「商人貴族」)現象がみられたが、そういう道を歩む地方人と、そうでない人々との対立があったということではないかと思う。

 さて、ピクロコル王の出兵のそもそもの目的はグラングゥジェの領民が自分の領民に加えた暴行に報復することであったのだから、グラングゥジェを討伐すればそれで話は済むはずであるが、3人の取り巻きたちは、勝つか負けるかわからないグラングゥジェとの戦いに勝ったつもりになって、それ以外にも、別の一隊を派遣して世界征服の戦いを始めさせようというのである。
 そのもう一方の別動隊は、フランス西南部の町村を侵略してまわる。そして海岸に出て船を徴発し、その船に乗って「海岸地方をば悉く攻略してリスボンヌに着き、征服者にふさわしき装備を更に整えるしだいと相成ります。笑止なる哉、イスパニヤの国は軍門に下ること必定でござるが、この国の奴どもは、たかが薄のろの土百姓どもにすぎませぬぞ!」(渡辺訳、158ページ)
 渡辺はなぜか「リスボンヌ」と記しているが、宮下はもちろん、「リスボン」と書いており、ポルトガルの首都である。この時期、「無敵艦隊」を擁して、世界に覇を唱えていたスペインを「たかが薄のろの土百姓」というのは、元気が良すぎる。

 そしてジブラルタル海峡を渡り、ヘラクレスの柱をしのぐような記念碑を立てることになるという。ヘラクレスの柱というのは、ギリシア・ローマ神話によれば、ジブラルタル海峡にそびえるアビラ山(アフリカ)とカルペ山(スペイン)はもともと1つの山だったのを強力の英雄ヘラクレスが2つに分けたといい、この2つの山を指す。さらにこの海峡を「ピクロコル海」と名付けることになるだろうという。ここまでくれば、当時アルジェを本拠として活躍していたオスマン・トルコの提督赤髯(Barberousse バルブルウース)太守も降参するだろうという。赤髯太守は、神聖ローマ帝国皇帝でスペイン・フランドル・オーストリア(とさらに多くの国・地方)の君主であったカールⅤ世と戦っていたが、1535年7月にカールⅤ世軍に敗れた。このあたり、この歴史的な事実を踏まえているという説もあるそうである。

 「とらぬ狸の皮算用」というのは、フランス語では何というのであろうか。(フランスにはタヌキはいない。) とにかく、戦争を始める前から、買った時の算段ばかりして妄想を膨らませていく。次回以降、さらに妄想が膨らんでいくので、行き先はどんなことになるのか、ご注目ください。 
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トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(13)

8月22日(木)曇りのち晴れたり曇ったり

 世界一周の航海をしてヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の航海士が、マルタ騎士団の団員の質問に答えて、航海中に訪問した「太陽の都」の様子を語る。
 それはある島の中心部に広がる草原のまんなかにある丘を同心円状の城壁で7重に囲んだ都市で、人々は私有財産というものを持たず、市民が一つの家族として暮らしている。
 最高指導者は「太陽」と呼ばれる形而上学者で、軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖・教育・医療を司る「愛」という3人の高官によって補佐されている。かれら4人を含まて、この都市の役人たちは、教育を通じてその仕事に一番適していると思われる人々が選ばれている。
 生殖はすぐれた子どもを生み出すのにふさわしいと考えられる男女同士の計画的な結合によってなされ、子どもは離乳すると教師に預けられて教育を受ける。城壁の周囲に描かれたさまざまな事物の画や、展示された標本は子どもの教育を助ける。
 かれらは全員がそれぞれの能力・適性に応じて働き、必要なものを受け取る。住居は割り当て制であり、衣料は定期的に配給され、食事は共同で行われている。
 「太陽の都」を取り巻く4つの国は、この都市の裕福さをねたんでしばしば戦争を仕掛けてくる。そのため「太陽の都」は十分な武器を装備し、また市民たちは子どものころから男女の別なく軍事教練を受けている。戦争に勝利した後は、敗者である敵に公正な態度をとり、善政を施すのをむねとしている。

 マルタ騎士団の団員は、「太陽の都」の制度が「祖国を破滅に導くような政党派閥の発生を防ぎ、ローマやアテネにおけるごとき暴君出現のもととなる内乱を遠ざけるすべは見あげたものだ」(坂本訳、44ページ)と賞賛する〔戦争について質問していたのに、ジェノヴァ人の回答に対して、このように対応するというのも奇妙で、議論がかみ合っていない。坂本さんが「暴君」と訳している後は、英訳ではtyrantとなっており、「僭主」とするほうが適切かもしれない。この時代、イタリア、特に北イタリアでは都市国家が分立し、武力や民衆の「支持」を背景に独裁政治を行うものが少なくなく、古代の地中海世界を思わせる状態であったことも視野に入れておく必要があるだろう。〕

 そして次に、かれらの仕事(「太陽の都」における様々な産業)について質問する。
 ジェノヴァ人は、すべての市民が軍務、農耕、牧畜に従事する共同の義務を持っているか、それだけでなくそれらの仕事がもっとも貴いものとされ、仕事がよくできる人こそもっとも高貴な人であると考えられていること、各人が各人に最も適した仕事に配置されるようになっていることは、すでに述べたとおりであるという。骨が折れ、しかも有益な仕事、例えば鍛冶屋や石工などはもっとも人々の賞賛を受ける仕事であるという。
 仕事は適性に応じて決められるが、その際、健康に対しても十分な配慮が払われ、健康を害するような仕事には誰もつくことはない。骨の折れない仕事は女子に割り当てられる。

 すべての人々が思索的な仕事をするが、そのなかでもっともすぐれたものは講師になるという。講師は手仕事にたずさわる者より尊敬され神官になる。〔この個所は、坂本訳にはあるが、プロジェクト・グーテンベルクにおさめられた英訳にはない。頭脳労働が肉体労働頼も敬意を払われているという点に注目する必要がある。〕
 すべての人々が泳げるようになることを求められており、都市の壕の外にはいくつものプールが、都市の内部には泉水が作られているという。〔この部分は、英訳でも省略されていない。なお、モアの『ユートピア』でも軍事上の理由から国民の総てが泳げることが求められていた。〕

 次に、ジェノヴァ人はなぜか商業について語りはじめる:
「商業は都の人たちには余り役立ちませんが、貨幣の価値は認識されており、外交使節が、自分で運べない食料品をお金で買えるように貨幣が鋳造されています。また、世界各地から商人を招き、余分の品物を処分しますが、貨幣は受け取らずに自分たちがもっていない品物と取引します。」(坂本訳、45ページ)
 「太陽の都」は一種の計画経済をとっているから、市場は限られた範囲でしか開かれない。しかも自分たちで貨幣を鋳造しておきながら、海外からやって来た商人たちとは物々交換で取引するという。私は経済学には素人だが、その素人目に見ても、この辺りのやり方はおかしい。一方で、金や宝石を徹底的に軽蔑した取り扱いをしながら、その一方で外国との取引の際には活用するというモアの『ユートピア』のやり方の方が現実的である。

 いずれにしても、外交官や外国の商人たちとの交流はきわめて限定的である。それだけでなく、奴隷や外国人のために都市が悪い習慣に染まるのを恐れて、戦争で捕虜になったものは売り渡したり、市民と接触する機会の少ない作業に従事させることになる。「都の外では常に四隊の兵士が四つの城門から出て領土とそこで働く人々を見張っています。」(坂本訳、45ページ、市民が常に監視のもとに置かれているということである。) 
 その一方で、「外国人は大歓迎され、三日間、食事を供されたり、足を洗ってもらったり、都とその組織について説明を受けたり、大会議場や食堂に通されたりします。外国人を保護する役目の人々もおり、もし外国人が都の市民になることを希望すると、1か月は田舎で、もう1か月は都のなかで試験され、この結果市民に迎えられることが決まると、儀式と宣誓により市民として受け入れられます。」(坂本訳、45‐46ページ、上記英訳には「足を洗ってもらった後で、都とその組織について…」という風に記されている。この方がわかりやすい。)
 「太陽の都」は、この後で取り上げるつもりであるベーコンの「ニュー・アトランティス」と同様に、半鎖国状態を保っているように思われる。当時の国際社会において、このような半鎖国政策はそれほど珍しいものではなかったことも留意する必要があるだろう。
 次に、農業について語られることになるが、それはまた次回に。

 このブログを開始して以来、これが2500件目の記事ということになるようです。約7年にわたるご愛読ありがとうございます。これからも一日、一日、頑張っていきたいと思っておりますので、よろしくご支援ください。
 

蘇舜欽「暑中閑詠」戯訳

8月21日(水)曇り

暑中閑詠(蘇舜欽)

嘉果浮沈酒半醺
牀頭書冊乱紛紛
北軒涼吹開疎竹
臥看青天行白雲

水に浸した果物は なかなか冷えず浮き沈み
酒を飲むにもまだ日は高い
昼寝に敷いた床まわり 本を読みかけ読み散らし
結局辺りは 本だらけ
幸い北から涼しい風が 吹き抜けてくる 吹き抜ける
何本もない竹の間を
ああ、寝っ転がって空を見よう 青い空
白い雲見て 時過ごす

 蘇舜欽(1008‐1048)は北宋の詩人。官に就いたが公金を使用して宴会を開いたと訴えるものがいて、蘇州に退き、4万銭で古い別荘を購入して、亭を建て、滄浪亭と名づけた。「滄浪」という語は、戦国時代の楚の詩人屈原の「漁夫の辞」に基づく。この建物と庭園は現存していて、江蘇州蘇州市の名所になっている。

 夏の暑い日をどのように過ごすか、この詩の描いている作者の姿は何となく私に似ているようにも思えるが、インターネットでその画像を見ることができる滄浪亭と、わが陋屋とでは隔たりがありすぎる!
 私の尊敬する詩人のひとりである加島祥造が中国の隠者というのは、日本の隠者に比べてずっと肉食系でたくましいというようなことを書いていたが、確かにそうかもしれない。美しい顔で楊貴妃豚を食い――という川柳もある。もっとも、現今では(私を含め)日本人も豚を平気で食べるようになってはいるのだが…。

 今日は少し、しのぎやすいようですが、まだまだ残暑厳しい折、御自愛ください。

『太平記』(276)

8月20日(火)晴れ、暑し。その後、雲が多くなって、一時雨。

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月、光厳上皇の皇子興仁(おきひと)王が践祚された(崇光帝)。このとき、院の御所に幼児の首をくわえた犬が現れるという怪異があった。その頃、仁和寺の本堂で雨宿りをしていた僧が、天狗道に落ちた尊雲法親王(護良親王)以下の宮方の怨霊たちが、集まっているのを目撃した。

 天狗道に落ちた怨霊たちが集まってしばらくすると、房官(ぼうかん≂門跡寺院に仕える妻帯僧)と思しき一人が現れ、銀の銚子に金の盃を添えて、護良親王に飲み物を勧めた。親王は、盃を取り上げられて、左右のものを見わたし、3度に分けて盃のなかのものを飲まれて盃をおかれ、続いて峯僧正(春雅)以下の人々が、順々に飲んでいったが、酔いが回って浮かれ出すというような様子にも見えない(この人々は僧侶であるから、本来酒は飲まないはずである)。
 それからまたしばらくして、怨霊たちはいっせいにわめくような声をあげて、手足をばたばたさせ、首から黒い煙を立ち昇らせて苦しみ転げまわること約1時間余り、みな、火のまわりに集まった夏の虫がその日に焼かれて死んでしまったように、倒れ伏して動かなくなった。

 この様子を目撃していた僧は、あぁ恐ろしいことだ、天狗道に落ちると、焼けた鉄の塊を火に3度呑むことになるといわれているのはこのことであったのかと思っていると、約4時間ほどして、焼けた鉄を飲んで倒れていた怨霊たちがまた、息を吹き返しはじめた。そのなかで峯僧正春雅が、苦しそうな息遣いをしながら、「さても、この世の中を、どのようにしてまた大騒ぎさせたらよいものか」と他の者たちに問いかけた。
 すると、忠円僧正が末座から進み出て、「それは簡単なことです。あの直義は、他犯戒(たぼんかい=姦通などの邪淫の戒め)をしっかり守っていて、僧侶ではない俗人としては自分ほどこのような禁戒を犯さない者はないと深く慢心しております。われわれとしてはこの慢心に付け入って、大塔宮におかれては、直義の北の方の胎内に男子となってお生まれになってくださいませ。そうするならば、直義は、天下を自分のものとして、自分の子どもに譲り渡したいという欲心を起こすに違いありません。(こうして、いままでは結束が固かった、尊氏と直義の兄弟の仲を引き裂くことができるでしょう。)

 また、夢窓疎石の弟弟子で、妙吉侍者というものがおります。学道のほども修行のほども不足しているにもかかわらず、ご本人は自分ほどの学識のある者はいないと慢心しています。この慢心ぶりは、我々に付け入る隙を与えるものなので、峯の僧正様はその心の中に入りこんで、直義による政治を補佐し、邪法を大いに説き広めるようにしてください。
 智教上人様は、直義の側近である上杉重能、畠山直宗の心に取りついて、高師直、師泰兄弟を取り除こうとさせてください。
 この忠円は、高師直の心の中に入りこんで、上杉、畠山を滅ぼそうと策動します。
 こうすれば、尊氏と直義の兄弟の仲が悪くなり、師直が主従の礼に背くようになって、天下にまた大きな争乱が起きることになり、しばらくのうちは、我々は退屈することはないでしょう」と提案した。
 すると、大塔宮を始め、高慢な心、よこしまでおごった心の持主である天狗たちは、大天狗だけでなく小天狗まで大いに賛同し、「見事な企てですなぁ」とその計略の巧妙さに感心して喜んだ様子を見せるうちに、その姿は消えていった。

 天狗たちの謀議から、尊氏・直義兄弟の反目=観応の擾乱が始まるというのはもちろん『太平記』の作者の創作ではあるが、一定の歴史的な真実を反映していると考えるべきであろう。
 それはさておき、すでに見てきたように、中先代の乱のどさくさに紛れて護良親王を殺害させたのは直義であって(第12巻、これは直義を必要以上に悪役として描く、『太平記』の作者の創作であるという説もある)、その殺された護良が、今度は直義の子どもとして生まれ変わるというのは、なかなかの怪談噺である。優柔不断な兄尊氏を叱咤激励して、天下統一へと進ませる直義は、また禁欲的な性格の人物として描かれている。今回紹介した箇所で忠円が云うように、正妻以外に妻を持たないその当時としては珍しい人物であった。この時点まで直義には子どもがおらず、兄・尊氏が身分の低い女性に産ませた子どもである直冬を養子にしていた(そのことは、『太平記』ではまだ触れられていない)。直冬は、尊氏の嫡子である義詮よりも少し年長であったと考えられる。
 一方、尊氏には直冬は別として、正妻である赤橋登子との間に義詮(1330年生まれ)、基氏(1340年生まれ)という2人の子どもがいた(他にも男子がいたらしいが、出家している)。すでに義詮が、尊氏の後継として着々と成長して来ていたことも視野に入れておく必要があるだろう。
 さて、物語はどのように展開していくか、それはまた次回に。

 昨日も書いたように、今夜はみなさまのブログへの訪問ができませんが、これはシネマヴェーラ渋谷に映画を見に行くために時間がとれないということなので、特にご心配は無用です。明日からは、きちんと訪問するつもりです。

日記抄(8月13日~19日)

8月19日(月)晴(とはいうものの、雲がかなり多い)、依然として暑い。

 8月13日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正等:
 8月12日から18日までは、ラジオの語学番組は再放送で、NHK高校講座はなかったので、その分、時間の自由ができたはずだが、あまり生かすことはできなかった。

8月13日
 シネマヴェーラ渋谷で「名脚本家から名監督へ ビリー・ワイルダー ジョセフ・レオ・マンキーウィッツ プレストン・スタージェス」の特集上映のうち、『イヴの総て』(All about Eve, 1950, FOX、ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督)と『熱砂の秘密』(Five Graves to Cairo, 1943,パラマウント、ビリー・ワイルダー監督)を見る。
 『イヴの総て』は、イヴ・ハリンドン(アン・バクスター)という若い女性が、ブロードウェーの人気女優マーゴ・チャニング(ベティ・デイヴィスの付き人になり、マーゴと起居を共にする中でその演技術を学び、また演劇界にコネをつくって、次第にマーゴを踏み台にして新進女優としてのし上がっていく姿を描く。この作品でアカデミー助演男優賞をとったジョージ・サンダースを始め、ゲイリー・メリル、セレステ・ホルム、セルマ・リッターという脇役陣の演技も見ものである。さらに売り出し中の新進女優という役どころで、当時の新進女優だったマリリン・モンローが姿を見せているが、今度は、イヴの大ファンだといって、その付き人になろうとする若い女(バーバラ・ベーツ1925‐69)が登場する幕切れも印象に残る。その若い女が、自分はイーラスマス・ホール・ハイ・スクールの卒業生で、この学校はバーバラ・スタンウィックやスーザン・ヘイワードが卒業した学校ですという。この高校はブルックリンに実在した学校で、この2人のほかにも、クララ・ボウ、メイ・ウェスト、(時代は下がるが)バーブラ・ストライサンドが学んでおり、映画関係以外では作家のミッキー・スピレーンとバーナード・マラマッド、変ったところでチェスの名人だったボビー・フィッシャーも卒業生らしい。なお、バーバラ・ベーツはこの学校の卒業生ではないが、マーゴ役はもともとクローデット・コルベールが演じる予定だったのが、けがのために出演できなくなり、代役としてバーバラ・スタンウィック、マレーネ・ディートリッヒ、スーザン・ヘイワードらの名が挙がっていたというから、わざとこの学校の名を出したのであろう。バーバラ・ページという女優さんはこの『イヴの総て』のラスト・シーンの演技が印象的で、将来を嘱望されたのだが、その後は伸び悩み、結局この『イヴの総て』が代表作ということになってしまった。人生、いろいろである。

 『熱砂の秘密』は、第二次世界大戦中に作られた一種の戦意高揚映画で、北アフリカ戦線でドイツ軍に敗れて逃げ回っている戦車隊の下士官(フランチョット・トーン)が、あるホテルに迷いこみ、追走してきたドイツ軍を欺くために死んだウェイターに成りすますが、この死んだウェイターが実はドイツ軍のスパイで…というスパイ・サスペンスで、戦後に作られた同種の作品に比べると速成感が否定できないが、なんといっても、エリッヒ・フォン・シュトロハイムがロンメル将軍を演じているというところが見もので(考えてみると、この映画の製作当時、ロンメルはまだ生きていた)、ホテルの主人をエーキム・タミロフ、メードをアン・バクスター、ドイツ軍の将校をペーター・ヴァン・アイクが演じているという配役も、考えてみればなかなかのものである。それにもう1人、イタリア軍の将軍の役を演じているフォーチュニオ・ボナノヴァは『市民ケーン』でケーンの2度目の奥さんに歌を教える先生を演じていた俳優である。

8月14日
 サマー・ジャンボの抽選日。もし10万円(以上)の賞金が当たったら、月末に京都で開かれる大学(院)時代に縁のあった先生のお別れ会に出席しようと思ったのだが、6等しか当たらなかったので、出かけられそうもない。

 サッカーの天皇杯の3回戦、ニッパツ三ツ沢球技場で開かれる横浜FC対横浜F・マリノスの試合は、入場券が買えなかったので、そのことも含めて、絶対に勝ってほしかったのだが、1‐2で敗れた。
 この3回戦の結果を占う、1112回のミニtoto-Aが当たったが、賞金額が少ないので、当たらないのと同じようなものである。

8月15日
 小泉武夫『幻の料亭 百川物語』(新潮文庫)を読み終える。この著者の書いたものは、自分の体験に基づくものの方が、このように調べて書いたものに比べて面白い。

8月16日
 『朝日』の朝刊にアフリカの食糧不足を解決するために、コメの栽培を進めようという記事が出ていた。アジア米とアフリカ米のいいとこどりをしたネリカ(New Rice for Africa)という新種の陸稲の開発によって、米食を普及させようというのである。この記事を読んでいて、昔、ロンドンのカムデン・タウンの屋台で食べた西アフリカ料理、肉や豆を焚きこんだ米料理を思い出した。

8月17日
 『朝日』の朝刊の「天声人語」欄に、新たな『学習指導要領』で高校の国語の内容が、実用文本位に大きく変化することになること(これまで主流だった文学教育の傍流化)を危惧する意見が記されていた。確かに、さまざまな文書をめぐる実際的な能力に関わる教育も必要ではあるが、それを国語の枠内で、文学教育を犠牲にして実施すべきかという問題と考えるべきであろう。つまり、社会科の公民分野の問題として公私の文書の書き方、読み方、あるいは保存・整理の問題などを教えるというのも一つの考えである。勘ぐってみれば、社会科のなかでこのような問題を批判的に取り上げるよりも、国語科のなかで規範的に取り上げるほうがいいという判断があるのかもしれない…などとも思う。
 「天声人語」が<文学派>の主張だけを取り上げて、<実用派>の意見を取り上げないのも不公平であるかもしれない。新井紀子さんなどは、高校の国語教育が鷗外の『舞姫』、漱石の『こころ』、敦の『山月記』という「エリート男性の挫折」を描いた作品を好んで取り上げることを問題にしているが、そのような紋切り型の読解力もまた問題ではないかと思う。
 〔『NHK高校講座 現代文』で、まさにこの『山月記』を取り上げていて、この作品を丁寧に読むとこんな面白さがあるのかと思って聴いているところである。根岸線の石川町駅の近くに、横浜学園の付属幼稚園があって、ここは昔の(中島敦・岩田一男・渡辺はま子が教え、原節子が学んだ)横浜女学校の跡地であり、そのことを記念する掲示もあるので、興味のある方はお探しください。
 中島敦という人は、自分自身の経験を作品化することが苦手で、本で読んだことを作品化する方向に活路を見出した作家であるが、そういうところは、芥川龍之介によく似ていて、彼が芥川賞の候補になりながら、受賞できなかったのは、日米開戦直後という世相や空気もあっただろうが、審査員の文学観の問題として追及を受けていい問題である。〕 
 中島敦の女学校時代の経験に取材したらしい小説を読むと、そこで想像されるよりも、現在残っている跡地の狭さが気になるのだが、あるいは移転する際に敷地の相当部分を売却したということかもしれない。

 横浜FCはアウェーでFC琉球に3‐1で勝利した。3得点を斎藤功佑、中山、松尾という若い選手の活躍で得たというところに期待が寄せられる勝利であった。

8月18日
 『日経』の日曜・朝刊の美術特集記事「ルネサンスの朝(4) 目覚めゆく独学と経験の天才」というレオナルド・ダ・ヴィンチの記事が興味深かった。というよりも、そこで紹介されている初期の未完の作品「東方三博士の礼拝」と彼の師であるアンドレア・デル・ヴェロッキオの作品を手伝った「キリストの洗礼」の図版がよかった。レオナルドにはヴェロッキオという師匠がいるのだから、彼を「独学」の天才と考えるのは認識不足と言わざるを得ない。たしかに、彼はいわゆる学歴はほとんどないが、この時代、大抵の人間がいわゆる学歴は持たず、むしろ、徒弟制度のなかで教育を受けていたのである。

 アメリカの俳優であるピーター・フォンダさんが16日に、肺がんによる呼吸不全のためロサンジェルスの自宅で死去されていたと報じられた。79歳。出演作では『ワイルド・ンジェル』(1966)、『世にも怪奇な物語』(1968)、『イージー・ライダー』(1969)、『さすらいのカウボーイ』(1971)、『ふたり』(1973)、『怒りの山河』(1976)、『アウトローブルース』(1977)を見ている。ということは、若い時代の作品しか見ていないということであるが、父親のヘンリー・フォンダ、姉のジェーン・フォンダとは別の意味で印象に残る役者さんであった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

8月19日
 『日経』朝刊に総合研究大学院大学学長の長谷川真理子さんが、「高進学率時代の大学教育」についての一文を寄稿していて、教える側と学ぶ側とが「双方向型」で交流し合う学習形態への転換が必要だとするもので、大いに示唆に富む内容である。
 わたしが受験生の頃は、まだまだ大学受験が困難な時代であったから、同期の連中と酒を飲んだりすると、その後の日本の大学の大衆化とその結果の変化などということは考えずに、日本でもアメリカの大学のように入るのはやさしく、出るのが難しいシステムにすべきだなどと絡まれることがある。しかし、(アメリカの大学が入るのはやさしく、出るのが難しいというのは一種の神話だというのは以前にも書いたことであるが)日本の大学は「入るのが難しく、出るのがやさしい」システムをとっくの昔に脱皮して、「入るのも、出るのもやさしい」システムになっている。まあ、それはそれでいいのである。だからこそ、大学教育の中身を充実しなければならない、という長谷川さんの議論には大いに賛成である(入試改革ではなく、大学教育の中身の改革こそが必要であるというのは、このブログで繰り返してきた主張である)。「双方向型」への転換というのも大いに賛成なのだが、それを実現する大学の財政的な基盤というのが心もとないのが気になるところではある。

 本日も、体調が十分ではないので、皆様のブログへの訪問を休ませていただきます。たぶん、明日もお休みということになります。失礼の段お許しのほどを。残暑厳しい折、御自愛ください。  
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